本HTMLは、ジョージ・バークリー『人知原理論』(A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge、初版1710年)の翻訳です。序論と第一部を訳しています。第二部以降は公刊されておらず、1734年版も第一部までです。
1710年版と1734年版:本書の底本は、著者自身が改訂した1734年版(第2版)です。1710年版(初版)と比べると、次の点が異なります。まず、1710年版にあった序文は、1734年版で省かれたため、本書にも含まれません。献辞も収めていません。次に、第25節では、1710年版の「われわれの観念、感覚、概念、あるいは知覚する物は」から「概念」が除かれ、「われわれの観念、感覚、あるいは知覚する物は」となっています。さらに、第89節と第142節には、1734年版で文が加えられました。第89節では、われわれは自分自身の心、精神、能動的な存在について、何らかの知識あるいは概念をもつと言えること、そして「観念」という語を、知るものすべてに広げてはならないことが述べられます。第142節では、能動的な存在や作用の観念をもつとは厳密には言えないが、世間が望むなら、観念と概念を互換的に使ってよいことが述べられます。これらは、観念と概念の区別を明確にする方向の改訂です。1710年版との異同は、ここに挙げたものに尽きません。
底本:George Berkeley, A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge, wherein the chief causes of error and difficulty in the sciences, with the grounds of scepticism, atheism, and irreligion, are inquired into. First printed in the year 1710. To which are added Three Dialogues between Hylas and Philonous. London: Printed for Jacob Tonson, 1734.
翻訳方針:直訳併記は行わず、現代語訳のみを掲載しています。主要な術語は、観念(Idea)・概念(Notion)・心(Mind)・精神(Spirit)・魂(Soul)・感覚(Sense)・感覚的な(sensible)・知覚する(Perceive)・実体(Substance)・物質(Matter)・抽象(Abstract)・思考をもたない(Unthinking)・存在(Existence)・物体(Body)・人知(Humane Knowledge)・知性(Understanding)に統一しています。人間や動物のからだを指す Body は「身体」と訳しています。長い文は、意味を変えない範囲で二、三の文に分けています。原文の丸括弧は、参照指示を除き、文のなかに溶かして訳しています。ラテン語の句や書名は、訳したうえで、必要に応じて原語を添えています。節番号は底本のローマ数字をアラビア数字に改めて示し、本文中の「第◯節」という参照も同じ数字で記しています。
原注:底本には著者自身の注が一つあります(第82節)。本文中の「†1」から飛べる形で、段落の直後に常時表示しています。
操作方法:画面の「i」ボタンで操作バーを開閉できます。操作バーでは、明暗の切り替えのほか、「なぞり線」ボタンで本文に線を引くこと(閉じると消えます)、「底本頁」ボタンで底本のページ番号を表示すること、「強調」ボタンで、底本でイタリックにより強調された語句を、訳文でも字間を空けて表示すること、「解説」ボタンで概説・用語集・各部の位置づけと概要を表示することができます。目次の各項目から本文へジャンプできます。序論の第1頁(p.3)と第一部の第1頁(p.35)は、底本に頁番号が印字されていないため、頁番号を薄く表示しています。
解説について:概説、用語集、各部の冒頭の「位置づけ」と「概要」は、読者の便宜のために訳者が付したもので、バークリーの文章ではありません。
知の地図シリーズ / 古典書房
感覚に現れる世界の背後に、より真実な実在を置く考え方は、古代ギリシャ以来、西洋哲学の主流にあった。プラトンは、感覚される個物の背後に変わらないイデアを置いた。アリストテレスは、個物を形相と質料からなる実体として捉え、実体が性質(偶有性)を担うという枠組みを築いた。中世のスコラ学は、この枠組みを神学と結びつけて精緻に展開した。バークリーが本書で繰り返し批判する、性質を支える「物質的実体」という考えは、この系譜に連なる。
近世になると、デカルトは『省察』(1641年)で、思考を本質とする精神と、延長を本質とする物体とを、別々の実体として区別した。ガリレオやボイル、ニュートンらの新しい自然学は、形・大きさ・運動といった数量的に扱える性質を物体そのものに属するものとし、色・味・音などは感覚する側に生じるものとして区別した。ロックは『人間知性論』(1690年)で、この区別を第一性質と第二性質として整理した。ロックによれば、われわれが直接に知るのは観念であり、第一性質の観念は心の外の物体に似ている。ロックはまた、性質を支える「実体一般」を「何だかわからないもの」と認め、一般観念は心が個別の観念から共通部分を取り出す抽象によって作られると説いた。
この枠組みは、懐疑論に道を開くものでもあった。われわれが直接に知るのが観念だけであるなら、観念が心の外の物に似ているかどうかを確かめる手段はない。マルブランシュは、心と物体のあいだの因果的な結びつきを認めず、神がそれぞれの機会に働くとする機会原因論を唱えた。ベールは『歴史批評辞典』(1697年)で、感覚的な性質をめぐる懐疑的な論点を示した。バークリーが本書で応じようとしたのは、こうした懐疑論と、物質を根拠とする無神論・不信仰である。
バークリー(1685〜1753)はアイルランド出身で、本書を刊行した1710年には、ダブリンのトリニティ・カレッジのフェローであった。本書は第一部のみが刊行された。続く部で扱うと予告された内容は公刊されておらず、原稿は旅行中に失われたと伝えられている。
本書の核心は、「存在するとは知覚されることである」という主張にある(第3節)。感覚の対象は観念にほかならず、観念は、それを知覚する心のうちにしか存在しない。心の外に、観念に似た物質的な実体があるという想定は、抽象観念の説に由来するとバークリーは見る。序論では、ロックらの抽象観念の説が批判され、一般観念とは、個別の観念が同種の他の個別の観念を代表することによって一般になるものにすぎないことが示される。第一部では、この批判が物質の観念にも向けられる。知覚されずに存在する物体を思い描こうとしても、思い描いたとたんに、それは思い描く者の心のうちの観念になってしまうからである(第23節)。第一性質と第二性質の区別も、どちらも観念であるから成り立たない(第9〜15節)。
物質を取り除いても、物の実在は失われない。実在する物と空想の違いは、観念が強く、秩序があり、一貫しているかどうかにあるからである(第29〜33節)。観念は受動的で、何ものの原因にもなりえず、働くことができるのは精神だけである(第25、26節)。それゆえ、われわれの意志によらずに感覚に刻み込まれる観念の原因は、より力ある別の精神、すなわち神である。自然の法則とは、神が観念を規則的に刻み込む方法であり、自然の事物は、互いの原因ではなく、互いの記号として結びついている(第30、65節)。精神は観念のようには知られないが、その働きを通して、概念をもつことができる(第27、140節)。こうしてバークリーは、物質の想定が懐疑論・無神論・偶像崇拝の支えであったことを示し、これらを断とうとする。
本書は、刊行当初あまり理解されなかった。バークリーは、1713年に『ヒュラスとフィロナスの三つの対話』を出して、同じ教説をより平易に説いた。1734年版は、この『三対話』を併せて収めている。同じ1734年には、微積分学の基礎を批判した『解析者』も出版された。第一部に含まれる無限分割可能性の批判(第123〜132節)は、数学の基礎についてのバークリーの関心を示している。
ヒュームは『人間本性論』(1739〜40年)で、バークリーの抽象観念の批判を、学問の世界における近年の最も価値ある発見の一つと評して受け継いだ。そのうえでヒュームは、バークリーが残した精神という実体も、知覚の束にすぎないと進んだ。カントは『純粋理性批判』(1781年、第二版1787年)で、バークリーの説を、空間とそのなかの物を単なる想像と見なす「独断的観念論」として退け、第二版に「観念論論駁」を加えた。
十九世紀のJ・S・ミルは、物質を「感覚の恒久的な可能性」と定義して、バークリーに近い現象主義の立場を示した。マッハは『感覚の分析』(1886年)で、物を感覚要素の複合と見る立場を示した。ニュートンの絶対空間・絶対運動の批判(第110〜117節)は、のちにマッハらによる力学の批判の先駆とされる。二十世紀には、ムーアが「観念論論駁」(1903年)で、「存在するとは知覚されることである」を批判の標的とし、ラッセルは『哲学入門』(1912年)で、バークリーの議論を取り上げて検討した。バークリーの議論は、知覚の哲学、観念論と実在論の争い、科学理論の解釈をめぐる議論のなかで、今日も論じられ続けている。
以下、()内は原則として英語の原語。本書の記述にもとづく参考情報であり、解説ボタンで表示される。
底本の節には見出しがなく、番号のみが付されている。下の数字は、各節の番号である。
序論(第1〜25節)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25
人知の諸原理について 第一部(第1〜156節)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156
位置づけ:本書全体への序論であり、第一部の本論に先立つ。
概要:哲学が懐疑と矛盾に陥る原因を、能力の欠陥ではなく、誤った原理と言葉の濫用に求める、という本書の計画を示す(第1〜5節)。そのうえで、抽象観念の説、とくにロックの説を批判し、一般観念とは、個別の観念が同種のほかの個別の観念を代表することによって一般的になるものにすぎないと論じる(第6〜20節)。言語の目的は観念の伝達だけではなく、情念を起こすことや、行為を促すことにもあると述べる。結びに、言葉の覆いを取り払い、自分の観念そのものを見つめるよう、読者に求める(第21〜25節)。
1.哲学とは知恵と真理の探究にほかならないのだから、哲学に最も多くの時間と労力を費やした人々は、他の人々よりも大きな心の静けさと穏やかさを享受し、知識のより大きな明晰さと明証性をもち、疑いや困難に悩まされることも少ないはずだと、理にかなって期待されてよい。ところが実際には、平明な常識の大道を歩み、自然の命ずるところに従っている無学な大多数の人々は、たいてい安らかで、乱されることがない。彼らには、見慣れたものは何一つ説明がつかないようにも、理解しがたいようにも見えない。彼らは自分の感覚に証拠が欠けているとは少しも訴えず、懐疑論者になる危険からはまったく遠いところにいる。しかし、感覚と本能から離れ、より高次の原理の光に従って、理性によって考え、思索し、事物の本性について反省しはじめるやいなや、それまで十分に理解していると思えていた事物について、千もの疑念が心に湧き起こる。感覚の偏見と誤りが、あらゆる方面から目の前に現れてくる。これらを理性によって正そうとすると、われわれは知らず知らずのうちに、奇妙な逆説、困難、不整合へと引き込まれ、それらは思索を進めるにつれて増え、膨れ上がってゆく。ついには、多くの入り組んだ迷路をさまよったあげく、元いた場所にちょうど戻っているか、さらに悪いことに、見捨てられた懐疑論のなかに座り込んでしまう。
2.この原因は、事物の曖昧さ、あるいはわれわれの知性の生まれながらの弱さと不完全さにあると考えられている。われわれのもつ能力は数少なく、しかもそれらは、生命を支え安楽にするために自然によって設計されたものであって、事物の内的な本質と構造を見通すためのものではないと言われる。そのうえ、人間の心は有限であるから、無限にかかわる事物を扱うときに、不合理や矛盾に陥っても不思議ではない。無限なものは有限なものによっては把握されえない本性のものなので、心はそこから自力で抜け出すことが決してできないのである。
3.だが、われわれは自分に甘すぎて、過ちの源をもともと能力のうちに置き、能力の誤った使い方のうちには置いていないのかもしれない。真なる原理からの正しい演繹が、維持することも整合させることもできない帰結に行き着くなどと想定するのは難しい。神は人の子らに対して、手の届かないところにまったく置いてしまった知識への強い欲求を与えるよりも、はるかに豊かに恵んでくださったと、われわれは信じるべきである。そのようなことは、摂理のいつものやさしいやり方にはそぐわない。摂理は、被造物にどのような欲求を植えつけたにせよ、正しく用いられるならそれを満たすことに失敗しないような手段を、通常は与えるものである。全体として私は、これまで哲学者たちを惑わせ、知識への道をふさいできた困難の、すべてとは言わないまでもはるかに大部分は、もっぱらわれわれ自身に原因があると考えたい。われわれはまず塵を巻き上げておいて、それから見えないと嘆いているのである。
4.したがって私の目的は、哲学のさまざまな学派に、あらゆる疑わしさと不確実さ、不合理と矛盾をもたらした原理がどのようなものであるかを、発見できるかどうか試みることである。その結果、最も賢明な人々でさえ、われわれの無知は癒しがたいと考え、それをわれわれの能力の生まれながらの鈍さと限界から生じるものと思い込んできた。そして、人知の第一原理について厳密な探究を行い、それをあらゆる面からふるいにかけて吟味することは、骨折りに値する仕事であることは確かである。とりわけ、真理の探究において心を引き止めて悩ませる障害や困難は、対象のうちにある暗さや入り組みや、知性の生まれながらの欠陥から生じるのではなく、むしろ、強く主張されてきたが避けられたはずの誤った原理から生じているのだと、疑う根拠がいくらかあるからである。
5.最も広い視野が必ずしも最も明晰とは限らず、近視の者は対象を近くに引き寄せなければならず、その結果、綿密で狭い観察によって、はるかにすぐれた目が見逃したものを見分けることもあるだろうと考えるので、この試みがどれほど困難で気を挫くものに見えようとも、また、私より前に同じ企てを抱いた偉大で非凡な人々がどれほど多くいたかを考えても、私はいくらかの希望をもっている。
6.読者の心が、以下の内容をより容易に思い描けるよう準備するために、序論として、言語の本性とその濫用について、あらかじめ何か述べておくのが適切である。しかし、この問題を解きほぐすには、思索を入り組んだ混乱したものにするうえで中心的な役割を果たし、知識のほとんどあらゆる部分に数えきれない誤りと困難を引き起こしたと思われるものに、注意を向けねばならない。そのため、ある程度まで私の企図を先取りすることになる。それは、心が事物の抽象観念、すなわち概念を作り出す力をもつという意見である。哲学者たちの著作と論争に多少とも通じている人なら、それらのかなりの部分が抽象観念をめぐって費やされていることを、認めなければならない。抽象観念は、とりわけ、論理学や形而上学と呼ばれる学問の対象であり、最も抽象された崇高な学問という概念のもとで通っているすべてのものの対象であるとされる。そのどれにおいても、ほとんどすべての問題は、抽象観念が心のうちに存在すること、そして心がそれによく通じていることを前提して扱われている。
7.あらゆる人が認めるように、事物の性質や様態は、それぞれがほかのすべてから離れ切り離されて、それだけで実際に存在することは決してなく、同じ対象のうちに、いわば混ざり合い溶け合って、いくつも存在している。しかし、次のように言われる。心は、各々の性質を単独で、あるいは結びついているほかの性質から抽象して考察することができ、それによって抽象観念を作り出す。たとえば、視覚によって、延長をもち、色をもち、動いている対象が知覚される。この混合した、すなわち複合した観念を、心はその単純な構成部分に分解し、それぞれを残りのものを除いてそれだけで眺めることによって、延長、色、運動の抽象観念を作り出す。色や運動が延長なしに存在することが可能だというのではない。ただ、心は抽象によって、延長を除いた色の観念や、色と延長の両方を除いた運動の観念を、自分のために作り出すことができるということである。
8.また、心は、感覚によって知覚される個々の延長のうちに、すべてに共通で似ているものと、あれこれの形や大きさのようにそれぞれを互いに区別する固有のものとがあることに気づき、共通するものを取り出して単独で考察する。そしてそこから、線でも面でも立体でもなく、いかなる形や大きさももたない、これらすべてから完全に切り離された、最も抽象的な延長の観念を作る。同じように、心は、感覚によって知覚される個々の色のうち、互いを区別するものを取り除き、すべてに共通するものだけを保持して、赤でも青でも白でも、そのほかの特定の色でもない、抽象における色の観念を作る。同様の仕方で、運動を、動かされる物体からだけでなく、それが描く形や、すべての個別の方向や速度からも切り離して考察することで、抽象的な運動の観念が作られる。この観念は、感覚によって知覚されうるあらゆる個別の運動に等しく対応する。
9.そして、心は性質や様態の抽象観念を作るのと同じように、同じ精密さ、すなわち心のなかでの分離によって、いくつもの共存する性質を含む、より複合的な存在の抽象観念にも達する。たとえば、心は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが、形やほかの性質の一定の共通点において互いに似ていることに気づくと、ペテロ、ヤコブ、そのほか任意の個別の人間について自分がもつ複雑な、すなわち複合した観念から、それぞれに固有のものを除き、すべてに共通するものだけを保持する。こうして、すべての個別がひとしく与る抽象観念を作り、個別の存在へと規定しうるあらゆる事情と相違を、完全に捨象して切り落とす。そして、このやり方で、人間の、あるいは言いたければ人間性、すなわち人間の本性の抽象観念が得られると言われる。なるほど、どの人間も何らかの色をもつので、そこには色が含まれる。しかし、すべての人間に共通する特定の色はないので、それは白でも黒でもなく、いかなる特定の色でもありえない。同様に、身長も含まれるが、それは高い身長でも低い身長でも中背でもなく、これらすべてから抽象された何かである。ほかの点も同様である。さらに、人間の複合観念の一部を共有するが全部は共有しない、ほかの多くの種類の生き物がいるので、心は人間に固有の部分を除き、あらゆる生き物に共通するものだけを保持して、動物の観念を作り出す。この観念は、すべての個別の人間だけでなく、すべての鳥、獣、魚、昆虫からも抽象される。動物の抽象観念の構成部分は、身体、生命、感覚、自発的運動である。身体とは、特定の形や姿をもたない身体を意味する。毛、羽、鱗、裸であることは、個別の動物を区別する性質であり、そのため抽象観念から除かれているので、すべての動物に共通する形や姿はなく、毛や羽や鱗などで覆われているのでも、裸なのでもない。同じ理由で、自発的運動は、歩くことでも飛ぶことでも這うことでもないものでなければならない。それでも運動ではあるが、その運動がどのようなものか、思い描くのは容易でない。
10.他の人々がこの観念を抽象するという驚くべき能力をもつかどうかは、彼ら自身が最もよく言えることである。私自身について言えば、たしかに私は、自分が知覚した個別の事物の観念を想像し、すなわち自分に表象し、それらをさまざまに組み合わせたり分割したりする能力をもつと感じる。私は、二つの頭をもつ人間や、人間の上半身を馬の体につないだものを想像できる。手、目、鼻を、それぞれ体のほかの部分から抽象し、切り離して考察することもできる。しかし、そのとき私が想像する手や目は、いずれも何らかの個別の形と色をもたなければならない。同様に、私が自分のために作る人間の観念も、白い人間か黒い人間か、褐色の人間か、背筋の伸びた人間か曲がった人間か、背の高い人間か低い人間か中背の人間かの、どれかでなければならない。私は、どれだけ思考を努力しても、上に述べた抽象観念を思い描くことができない。また、動かされる物体から区別された運動の観念で、速くも遅くもなく、曲線的でも直線的でもないものを形づくることも、同じく不可能である。ほかのあらゆる抽象的な一般観念についても、同じことが言える。率直に言えば、私は、ある意味では自分が抽象できることを認める。たとえば、ある対象のうちで他のものと結びついてはいるが、そのものなしに実際に存在することが可能な個別の部分や性質を、ほかのものから切り離して考察する場合である。しかし、そのように切り離されて存在することが不可能な性質について、一方を他方から抽象したり、別々に思い描いたりできることは、私は否定する。また、前に述べたやり方で個別のものから抽象して、一般概念を作れることも否定する。この最後の二つこそ、抽象の本来の意味である。そして、ほとんどの人が自分も私と同じ立場にあると認めるだろうと考える理由がある。単純で無学な大多数の人々は、抽象概念を作ると称することは決してない。それらは難しく、労苦と研究なしには得られないと言われている。それゆえ、もしそのようなものがあるとしても、それは学識ある人々にだけ限られると結論するのが理にかなっている。
11.私は、抽象の学説を擁護するために何が申し立てられうるかを調べ、思索する人々を、常識からこれほどかけ離れて見える意見を受け入れる方向へ傾かせているものが何であるかを、発見できるか試みる。最近、当然ながら高く評価されている一人の哲学者がいる。彼は、抽象的な一般観念をもつことこそ、人間と獣のあいだに知性の点で最も広い隔たりをもたらすものだと考えているように見え、そのことで、この学説に大きな支持を与えたことは疑いない。「一般観念をもつことは、と彼は言う、人間と獣とを完全に区別するものであり、獣の能力がけっして到達しえない優れた点である。というのも、獣には、普遍的観念のために一般的な記号を使う形跡が少しも見られないことが明らかだからである。ここから、獣は言葉もほかのいかなる一般的記号も使わないのだから、抽象する、すなわち一般観念を作る能力をもたないと考える理由がある。その少し後で彼は言う。それゆえ、獣の種が人間から区別されるのはこの点においてであり、これこそ両者が完全に分離される固有の相違であって、それがついにはこうも大きな隔たりへと広がる、と考えてよいと私は思う。というのも、獣がもし観念を少しでももち、ある人々の言うような単なる機械でないなら、獣にはいくらかの理性があると認めねばならないからである。獣のうちのあるものが、ある場合には推論を行うことは、獣が感覚をもつことと同じくらい私には明白に思われる。ただしそれは、感覚から受け取ったままの個別の観念についてだけである。獣は、そのなかで最良のものでさえ、この狭い限界のうちに縛られており、いかなる種類の抽象によってもそれを広げる能力を、私の考えではもっていない。」『人間知性論』第2巻第11章第10節および第11節。私は、獣の能力が抽象にけっして到達しえないという点で、この学識ある著者に喜んで同意する。しかし、これがその種の動物を区別する特性とされるならば、人間として通っている人々の非常に多くが、獣の数に入れられねばならなくなるのではないかと私は恐れる。獣が抽象的な一般観念をもつと考える根拠がないとされる理由は、獣には言葉もほかの一般的記号の使用も見られないことである。これは、言葉を使うことが一般観念をもつことを含意するという仮定の上に立っている。そこから、言語を用いる人間は、自分の観念を抽象し一般化することができるということが帰結する。これが著者の意味であり論じ方であることは、彼が別の箇所で自らに立てた問いへの答えからさらに明らかになる。「存在するものはすべて個別のものにすぎないのに、われわれはどのようにして一般的な語を得るのか。彼の答えはこうである。言葉は、一般観念の記号とされることによって一般的になる。」『人間知性論』第3巻第3章第6節。ところが、言葉が一般的になるのは、抽象的な一般観念の記号とされることによってではなく、いくつもの個別の観念の記号とされることによってであると思われる。言葉は、その個別の観念のどれをも無差別に心に思い起こさせる。たとえば、運動の変化は加えられた力に比例すると言われ、あるいは延長をもつものはすべて可分であると言われるとき、これらの命題は運動と延長について一般的に理解されねばならない。それでも、これらの命題が、動かされる物体や特定の方向と速度をもたない運動の観念を私の思考に思い起こさせるとか、線でも面でも立体でもなく、大きくも小さくもなく、黒でも白でも赤でも、そのほかの特定の色でもない延長の抽象的な一般観念を、私が思い描かねばならないとかいうことは帰結しない。含意されるのはただ、私がどのような運動を考えるとしても、それが速いか遅いか、垂直か水平か斜めか、どのような対象のうちにあるかにかかわらず、それに関する公理はひとしく真であるということだけである。もう一方の公理が、線か面か立体か、あれこれの大きさや形かを問わず、個別のあらゆる延長についてひとしく真であるのと同じである。
12.観念がどのようにして一般的になるかを観察すれば、言葉がどのようにして一般的になるかをよりよく判断できる。ここで留意すべきは、私は一般観念があることを絶対的に否定するのではなく、ただ抽象的な一般観念があることを否定するということである。というのも、上に引用した箇所で一般観念に言及しているところでは、それが第8節および第9節に示した仕方で抽象によって形づくられることが、つねに前提されているからである。さて、もしわれわれが自分の言葉に意味を付し、思い描けることだけを語るならば、それ自体では個別である観念は、同種のほかのすべての個別の観念を代表する、すなわち代わりに立つものとされることによって、一般的になると認めるだろうと私は信じる。これを例で明らかにしよう。ある幾何学者が、線を二つの等しい部分に切る方法を証明しているとする。彼は、たとえば長さ一インチの黒い線を引く。それ自体では個別の線であるこの線は、それでも、意味に関しては一般的である。この線は、そこで用いられるとき、個別のあらゆる線を代表するので、それについて証明されたことは、すべての線について、言い換えれば線一般について証明されたことになる。そして、あの個別の線が記号とされることによって一般的になるのと同じように、線という名も、それ自体としては個別であるが、記号であることによって一般的にされる。前者の一般性が、抽象的な、あるいは一般的な線の記号であることではなく、存在しうるあらゆる個別の直線の記号であることに由来するのと同じように、後者もその一般性を同じ原因、すなわち無差別に指し示すさまざまな個別の線に由来すると考えねばならない。
13.抽象観念の本性と、それが必要とされると考えられている用途を、読者にさらにはっきり見てもらうために、『人間知性論』からもう一つの箇所を加える。それは次のとおりである。「抽象観念は、子供やまだ訓練されていない心にとって、個別の観念ほど明白でも容易でもない。大人にそう見えるとしても、それは絶え間ない慣れた使用によってそうなっているにすぎない。というのも、それらを入念に反省すると、一般観念は心の虚構であり作り物であって、困難を伴い、われわれが思いがちなほど容易には現れないことがわかるからである。たとえば、三角形の一般観念は最も抽象的で包括的で難しいものには入らないとしても、それを形づくるには、いくらかの労苦と技量がいらないだろうか。それは斜角でも直角でもなく、等辺でも二等辺でも不等辺でもなく、そのすべてでありそのどれでもないものでなければならないからである。実のところ、それは存在しえない不完全なもの、異なる両立しないいくつもの観念の部分が寄せ集められた観念である。たしかに、心はこの不完全な状態にあって、そのような観念を必要とし、伝達の便宜と知識の拡大のために、できるだけ急いでそれに向かう。心は生まれつきその両方に強く傾いているからである。しかし、そのような観念がわれわれの不完全さの印であると疑う理由はある。少なくとも、最も抽象的で一般的な観念が、心が最初に最も容易に知るようになるものではなく、心の最初期の知識がかかわるものでもないことを示すには、これで十分である。第4巻第7章第9節。」もしだれかが、ここに述べられたような三角形の観念を心のうちに形づくる能力をもっているなら、その人を説き伏せてそれを捨てさせようとしても無駄であり、私もそうするつもりはない。私が望むのはただ、読者が、自分がそのような観念をもつかどうかを完全に確実に自分で確かめてほしいということである。そして、これはだれにとっても難しい仕事ではないはずだと私は思う。自分の思考を少しのぞきこんで、ここに挙げられた三角形の一般観念の記述、すなわち、斜角でも直角でも等辺でも二等辺でも不等辺でもなく、そのすべてでありそのどれでもないものに対応する観念を、自分がもっているか、あるいはもつに至りうるかを試すことほど、容易なことがあろうか。
14.抽象観念に伴う困難と、それを形づくるのに必要な労苦と技量について、ここでは多くが語られている。また、われわれの思考を個別の対象から解き放ち、抽象観念を扱う崇高な思索にまで高めるには、心の大きな骨折りと労苦が必要であることは、あらゆる人が認めている。このすべてから、自然な帰結として、抽象観念を形づくるというこれほど困難なことは、あらゆる種類の人にとってこれほど容易で慣れ親しんだ伝達のために必要ではなかった、ということになりそうである。しかし、それらが大人に明白で容易に見えるとしても、それは絶え間ない慣れた使用によってそうなっているにすぎないと言われる。そこで私は、人々がその困難を克服し、談話に必要な助けを身につける作業にいそしむのは、いったいいつなのかを知りたい。大人になると、そのような骨折りを自覚していないように見えるので、それは大人になってからではありえない。したがって、それは子供時代の仕事であることになる。そして、抽象概念を形づくるという大きく積み重なった労苦は、この幼い年齢にとってきっと難しい仕事だと思われるだろう。二人の子供が、砂糖菓子やがらがらや、そのほかの小さな持ち物についておしゃべりするのに、まず数えきれない不整合をつなぎ合わせ、心のなかに抽象的な一般観念を形づくって、自分たちが使うあらゆる普通名に結びつけておかなければならない、などと想像するのは、難しいことではないか。
15.また私は、抽象観念が伝達のために必要でないのと同様に、知識の拡大のためにも必要だとは、少しも思わない。すべての知識と論証が普遍的な概念にかかわるということは、強く主張されている点であることを私は知っており、それには全面的に同意する。しかし、それらの概念が、前に述べたような仕方で抽象によって形づくられるとは、私には思われない。普遍性は、私に理解できるかぎり、何かの絶対的で積極的な本性や概念にあるのではなく、それが、それによって意味され表象される個別のものに対してもつ関係にある。この関係のおかげで、本性上は個別的である事物や名前や概念が、普遍的なものにされるのである。したがって、三角形についてどの命題を証明するときも、私は三角形の普遍的観念を念頭に置いていると想定される。しかしこれは、等辺でも不等辺でも二等辺でもない三角形の観念を、私が形づくれるということだと理解されてはならない。そうではなく、私が考察する個別の三角形は、あれこれの種類のものであるかを問わず、あらゆる直線三角形をひとしく代表し、その意味で普遍的であるということにすぎない。このすべては非常に平明であり、何の困難も含んでいないように思われる。
16.だが、ここで次のように問われるだろう。すべての個別の三角形にひとしく当てはまる三角形の抽象観念について、あらかじめ証明されたのを見ていないとしたら、どうして、ある命題がすべての個別の三角形について真であると知ることができるのか。というのも、ある性質があるひとつの個別の三角形に当てはまると証明されても、あらゆる点でそれと同じではない別の三角形にも、その性質が等しく属するということは、そこから帰結しないからである。たとえば、直角二等辺三角形の三つの角が二直角に等しいと証明しても、直角も二つの等しい辺ももたない他の三角形にも、この性質が当てはまると結論することはできない。そうだとすれば、この命題が普遍的に真であると確実に知るためには、個別のあらゆる三角形についてそれぞれ個別の証明を行うか、すべての個別が無差別に与り、すべてがひとしく表象される三角形の抽象観念についてただ一度に証明するかの、どちらかでなければならないように思われる。前者は不可能である。これに対して私は答える。たとえ証明を行うあいだ私が念頭に置いている観念が、たとえば辺が一定の長さをもつ直角二等辺三角形のものであるとしても、それがどのような種類や大きさであれ、他のすべての直線三角形に及ぶことを、私は確実に知りうる。なぜなら、直角も、辺の等しさも、辺の一定の長さも、この証明にはまったく関与していないからである。たしかに、私が思い描いている図は、これらの個別的な特徴をすべて含んでいる。しかし、命題の証明のなかでは、それらへの言及はまったくなされない。三つの角が二直角に等しいと言われるのは、その一つが直角だからではなく、あるいはそれを挟む辺が同じ長さだからでもない。このことは、直角が斜角であってもよく、辺が等しくなくてもよく、それでもなお証明が成り立ちうることを、十分に示している。そして、この理由によって、私は、ある個別の直角二等辺三角形について証明したことを、任意の斜角三角形や不等辺三角形についても真だと結論するのであり、三角形の抽象観念について命題を証明したからではない。ここで認めねばならないのは、人は、角の個別の性質や辺の関係に注意を向けず、ある図形をただ三角形であるものとして考察できるということである。その範囲でなら、人は抽象できる。しかしこのことは、人が三角形の、抽象的で一般的な、両立しえないものを含む観念を形づくりうることを、けっして証明しない。同じように、知覚されたすべてのものが考察されているわけではないので、われわれはペテロを、人間であるかぎりにおいて、あるいは動物であるかぎりにおいて考察できるが、そのとき、前述の人間または動物の抽象観念を形づくっているのではない。
17.抽象の偉大な達人であるスコラ学者たちが、抽象的な本性と概念についての彼らの学説によって導かれたと思われる、あらゆる入り組んだ解きがたい誤りと論争の迷路をたどることは、無益であるとともに、きりのない仕事でもあろう。これらの事柄をめぐって、どれほどの口論と論争が起こされ、どれほど学問的な塵が巻き上げられたか、またそこから人類にどれほど大きな利益がもたらされたかは、今日では明白に知られており、くどくど述べるまでもない。そして、この学説の悪い影響が、それを最も公然と奉じる人々だけに限られていたなら、よかったであろう。人々が、これほど多くの時代にわたって、諸学の耕作と進歩のために注がれてきた大きな労苦と勤勉と才能を考え、そして、それにもかかわらず、諸学のはるかに大部分が暗さと不確実さと、終わる見込みのない論争に満ちたままであること、最も明晰で強力な論証に支えられていると考えられているものでさえ、人間の知性にはまったく調和させえない逆説を含んでいること、すべてをあわせても、その小さな部分しか、無害な気晴らしや慰みである以外に、人類に何らかの実質的な利益を与えていないことを考えるとき、これらすべての考察は、人々を落胆させ、あらゆる研究を完全に軽蔑するに至らせがちである。しかしこれは、世に行われてきた誤った原理を見渡せば、おそらく止むだろう。そのなかで、思索する人々の思考に対して、抽象的な一般観念というこの原理ほど広い影響を及ぼすものはない、と私は思う。
18.次に、この広く行き渡った概念の源を考察する。それは言語であると私には思われる。そして、理性そのものと少なくとも同じ広がりをもつものだけが、これほど普遍的に受け入れられている意見の源となりえたはずである。この真理は、ほかの理由からも明らかだが、抽象観念の最も有能な擁護者たち自身の率直な告白からも明らかである。彼らは、抽象観念が命名のために作られると認めている。そこから、もし言葉や普遍的な記号というものがなかったなら、抽象を考えつくことは決してなかったであろうことが明らかに帰結する。『人間知性論』第3巻第6章第39節、およびほかの箇所を見よ。そこで、言葉がこの誤りの起源にどのように寄与したかを調べよう。まず、あらゆる名はただ一つの厳密で確定した意味をもつ、あるいはもつべきだと考えられている。これが、各々の一般名の真の唯一の直接の意味を構成する抽象的で確定した観念があると、人々に思わせる傾向がある。そして、一般名があらゆる個別のものを意味するようになるのは、これらの抽象観念を媒介にしてであると考えられている。ところが、実際には、どの一般名にも、厳密で確定したただ一つの意味が結びついているということはなく、それらはみな、多数の個別の観念を無差別に意味している。このすべては、すでに述べたことから明白に帰結し、少し反省すればだれにとっても明らかになるだろう。これに対しては、定義をもつ名はみな、それによって一定の意味に制限されている、と反論されるだろう。たとえば、三角形は三本の直線で囲まれた平面と定義される。これによって、その名は一定の観念を指すことに限られ、他の観念を指すことはない、というのである。これに私は答える。この定義のなかでは、その面が大きいか小さいか、黒いか白いかも、辺が長いか短いか、等しいか等しくないかも、辺が互いにどのような角で傾いているかも、言われていない。そのすべてにおいて大きな多様がありうるので、三角形という語の意味を限定するような、一つの確定した観念は存在しない。名を、つねに同じ定義にとどめておくことと、どこでも同じ観念を表すようにすることとは別のことである。前者は必要であるが、後者は無益であり実行不可能である。
19.だが、言葉が抽象観念の学説をどのように生み出すに至ったかを、さらに説明するために、次のことに注意しなければならない。言語は自分の観念を伝達する以外の目的をもたず、意味をもつ名はすべて一つの観念を表すというのが、通説である。そうだとして、しかも、まったく無意味とは考えられていない名が、思い描ける個別の観念を常に指し示すわけではないことが確実なので、それらは抽象概念を表すのだと、ただちに結論される。思索する人々のあいだで使われる多くの名が、他の人々に確定した個別の観念を常には思い起こさせないということは、だれもが認めるところである。そして、少し注意すれば、最も厳密な推論においてさえ、観念を表す意味ある名が、使われるたびに、それが表すものとされた観念を知性のうちに呼び起こす必要はないことがわかるだろう。読むときも談話するときも、名はたいてい、代数における文字のように用いられる。代数では、各文字によって個別の量が表されるが、正しく進めるために、各段階で各文字が、それが表すものと定められた個別の量を思考に思い起こさせる必要はない。
20.そのうえ、言葉で表された観念を伝達することは、通常考えられているように、言語の主要な、唯一の目的ではない。ほかにも、何らかの情念を起こすこと、行為へと促したりそれから遠ざけたりすること、心をある特定の状態に置くことなどの目的がある。これらに対して、前者は多くの場合、単に従属するにすぎず、これらが前者なしに達成できるときには、完全に省かれることさえある。私の考えでは、言語の日常的な使用において、そうしたことはよくある。私は読者に、自分自身で反省して、談話を聞くときや読むときに、恐れ、愛、憎しみ、驚嘆、軽蔑などの情念が、ある言葉を知覚するやいなや、間に観念が入ることなく、直ちに心に生じることがしばしば生じていないかどうか、見てほしいと願う。たしかに最初は、その言葉がこれらの感情を生み出すのにふさわしい観念を引き起こしていたかもしれない。しかし、私の思い違いでなければ、言語がいったん慣れ親しまれると、音を聞いたり文字を見たりすることに、直ちにこれらの情念が伴うことが多く、それはもともと観念の介在によって生み出されるのがつねであったが、いまやその観念はまったく省かれていることが、わかるだろう。たとえば、それが何であるかについての観念をもたなくても、善いものの約束に心を動かされることがありうるのではないか。あるいは、危険が迫っていると脅かされることは、自分に降りかかりそうな個別の害悪を何も思わず、抽象における危険の観念を自分で形づくりもしなくても、恐怖を呼び起こすのに十分ではないか。以上述べたことに、自分自身の反省をほんの少しでも加えるなら、一般名は、言語の適切な使用において、話し手がそれを自分の心にある観念の印とし、聞き手の心にそれを呼び起こさせようと意図することなしに、しばしば使われるということが、その人に明らかになると私は信じる。固有名でさえ、それによって示されるとされる個々の存在者の観念を、われわれの目の前に持ち出そうという意図をもって語られるとは、いつも思われない。たとえば、スコラ学者が私にアリストテレスがそう言ったと告げるとき、彼がそれによって意味しているのは、その名に習慣が結びつけている敬意と服従をもって、彼の意見を受け入れるよう私に仕向けることだけだと、私は理解する。そしてこの効果は、その哲学者の権威に自分の判断を委ねることに慣れている人々の心には、即座に生み出されうるので、彼の人物や著作や名声についての観念が先に立つことは不可能なほどである。この種の例は数えきれないほど挙げられるが、あらゆる人の経験が、疑いなく豊富に示してくれるであろうことを、なぜ私が強調する必要があろうか。
21.われわれは、抽象観念の不可能であることを示したと思う。その最も有能な擁護者たちがそれのために述べたことを検討し、それが必要だと考えられている目的に役立たないことを示そうと努めた。最後に、それが流れ出ると思われる源、すなわち言語にまでさかのぼった。あらゆる時代と国民の探究心ある人々が共同の労苦によって購ってきた知識の全蓄えを、言葉によって、ひとりの人の目の前に引き出し、その所有物とすることができるので、言葉には優れた効用がある。しかし同時に、知識のほとんどの部分が、言葉の濫用と、それによって伝えられる一般的な話し方によって、奇妙なまでに混乱し暗くされていることも、認めなければならない。したがって、言葉はこれほど知性を欺きがちなのだから、私はどのような観念を考察するときも、それらを裸の、むき出しの姿で目の前にとらえ、長く絶え間ない使用によってそれらと固く結びついた名を、できるかぎり思考から締め出すよう努める。そこから、次のような利点を引き出せると期待してよい。
22.まず、純粋に言葉だけの論争からは、確実に抜け出すことができる。ほとんどあらゆる学問において、この種の雑草が生えてきたことは、真実で健全な知識の成長にとって主要な妨げであった。次に、これは、人々の心をあれほど哀れなまでに混乱させ絡め取ってきた、抽象観念という精緻で巧妙な網から自分を解き出す、確かな道だと思われる。しかもこの網には、人の才知が精妙で凝ったものであればあるほど、それだけ深く絡め取られ、いっそう固くとらえられがちだという、独特の事情がある。さらに、私が自分の思考を、言葉を取り去った自分自身の観念にとどめているかぎり、私が容易に誤りうるとは思えない。私の考察する対象は、明晰かつ十全に知られる。私は、もっていない観念をもっていると思って欺かれることはありえない。自分の観念のどれかが似ている、あるいは似ていないと想像して、実際にはそうでないということも、私には起こりえない。自分の観念のあいだにある一致や不一致を見分け、どの観念がある複合観念に含まれ、どれが含まれないかを見るために必要なのは、自分自身の知性のうちに起こっていることへの、注意深い知覚以外にはない。
23.ところが、これらの利点をすべて得るには、言葉による欺瞞から完全に解放されることが前提となる。言葉と観念とのあいだにあるような、これほど早く始まり、これほど長い習慣によって固められた結びつきを解きほぐすのは、それほどに難しいので、それを自分に約束する勇気は、私にはほとんどない。この困難は、抽象の学説によって大いに増したように思われる。というのも、人々が抽象観念は自分の言葉に結びついていると考えているかぎり、観念のかわりに言葉を使うことは不思議でないからである。言葉を脇に置き、それ自体がまったく思い描きえない抽象観念を心のうちに保つことが、実行不可能だとわかるのである。これこそ、思索においてあらゆる言葉の使用を脇に置き、裸の観念を観想するよう他の人々に強く勧めてきた人々が、自分ではそれを果たせずにきた主な原因だと、私には思われる。近ごろ、多くの人々が、言葉の濫用から生じる不合理な意見や無意味な論争に、非常に敏感になっている。そして、これらの害悪を治すために、表される観念に注意を向け、それを表す言葉から注意をそらすようにと、適切に勧めている。しかし、この勧めがどれほどよいものでも、言葉の唯一の直接の用途は観念を表すことだと考え、あらゆる一般名の直接の意味は確定した抽象観念だと考えているかぎり、彼ら自身がそれに適切な注意を払えなかったことは明らかである。
24.しかし、これらが誤りだとわかれば、人は言葉に欺かれることを、より容易に防げる。個別の観念しかもたないと知っている人は、ある名に結びつけられた抽象観念を見つけ出して思い描こうと、むなしく自分を悩ませはしない。また、名がつねに観念を表すとは限らないと知っている人は、観念が得られないところに観念を探す労苦を省くことができる。したがって、すべての人が、自分が考察しようとする観念をはっきりと見るために全力を尽くし、判断を曇らせ注意を分かつことに大いに寄与する言葉という飾りと邪魔物を、それらからすべて取り除くことが望まれる。われわれが天に視線を向けて地の内臓をのぞきこむことも、学識ある人々の著作にあたって古代のおぼろげな足跡をたどることも、むなしい。言葉の幕を引きさえすれば、最も美しい知識の木を見ることができるのであり、その果実は優れており、手の届くところにある。
25.知識の第一原理を、言葉の混乱と迷妄から清める配慮をしないかぎり、われわれは、それについて無限の推論を重ねても何の役にも立たず、帰結から帰結を引き出しても、少しも賢くならない。進めば進むほど、われわれはいっそう取り返しがつかないほど自分を見失い、困難と誤りにいっそう深く絡め取られるだけである。したがって、以下の頁を読もうとする人には、私の言葉を、その人自身の思考の機会としてほしいと願う。読むときに、私が書いたときと同じ思考の流れに達するよう努めてほしい。そうすれば、私の言うことの真偽を、容易に見いだせる。私の言葉によって欺かれる危険はまったくなく、自分自身の裸の、偽りのない観念を考察することで誤りに導かれることがあるとは、私には思えない。
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人知原理論
発行責任者(訳者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)
参照原典:George Berkeley, A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge(London: Jacob Tonson, 1734、序論と第一部)
初版発行日:2026年10月14日
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