大論理学 第一巻 有論

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル 著

この本について

本HTMLは、ヘーゲル『論理の学』(Wissenschaft der Logik)第一巻「客観的論理学」第一分冊「有論(Die Lehre vom Seyn)」の翻訳です。序文(第一版・第二版)、序論、本論のすべてを訳しています。

底本:G. W. F. Hegel, Wissenschaft der Logik, Erster Theil: Die objective Logik, Erster Band: Die Lehre vom Seyn(Werke 第3巻、ベルリン、1833年版)。原典(ドイツ語本文)は別ファイルで保管しています。

翻訳方針:直訳併記は行わず、現代語訳のみを掲載しています。主要な術語は、有(Seyn)・無(Nichts)・成(Werden)・定有(Daseyn)・規定性(Bestimmtheit)・直接性(Unmittelbarkeit)・媒介(Vermittlung)・概念(Begriff)に統一し、aufheben は「止揚」と訳しています。長い文は、意味を変えない範囲で二、三の文に分けています。

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知の地図シリーズ / 古典書房

概説

『論理の学』以前の哲学

ヘーゲルが『論理の学』で向き合った伝統は、おおまかに三つに分けられる。第一は、アリストテレスに始まる形式論理学である。アリストテレスは論理学の諸著作(のちに『オルガノン』と呼ばれる)で、概念・判断・推理(三段論法)の形式を整理し、思考の正しさの規則を示した。この論理学は中世のスコラ学を経て、近代の教科書に至るまで、ほぼ同じ形で受け継がれた。ヘーゲルが序論で批判するのは、思考の形式を、思考されるものの内容から切り離して扱う、この種の論理学である。

第二は、有と無をめぐる、古代以来の存在論である。パルメニデスは、有るものだけがあり、無はないと説いた。これに対してヘラクレイトスは、万物は流転すると説き、生成を根本に置いた。プラトンは『パルメニデス』で、一と多、有と非有の関係を、対話のなかで追い詰めた。アリストテレスは『形而上学』で、「有るものとして有るもの」を学の対象とした。近世になると、クリスティアン・ヴォルフの学派が、これを一般存在論として体系化した。スピノザは『エチカ』で、あらゆる規定は否定であるという命題を掲げ、唯一の実体からすべてを捉えようとした。

第三は、カントの『純粋理性批判』(1781年、第二版1787年)である。カントは、理性の能力そのものを吟味する超越論的論理学を提示し、悟性の形式(カテゴリー)は経験の可能性の条件であって、物自体には適用できないとした。これによって従来の形而上学は、独断的な学としては成り立たなくなった。その後、フィヒテは『全知識学の基礎』(1794年)で物自体を退けて自我から体系を構想し、シェリングは自然と精神の同一性から哲学を構想した。ヘーゲルは『精神の現象学』(1807年)で、意識が対象との対立を克服して純粋な知に至る道を示した。『論理の学』は、この純粋な知を前提として、そこから始まる。第一巻の有論は、1812年に初版が出され、本書の底本である第二版は、ヘーゲルの生前最後の年にあたる1831年に改訂が終わり、翌1832年に刊行された。

『論理の学』の哲学の革新

ヘーゲルの革新の第一は、論理学の対象を改めたことにある。従来の論理学は、すでにできあがった思考の形式を、外から並べて規則とした。ヘーゲルは、論理学が扱うのは純粋な思考の規定そのものであり、それらは外から整理されるのではなく、自分自身の否定的な側面によって、必然的に次の規定へ移っていくと考えた。論理学は、思考の規則の集まりではなく、思考規定が自分で展開する体系となる。これによって、カント以後には成り立たないとされた形而上学(存在論)と論理学は、客観的論理学として、一つに結びつけられた。

第二は、前提のない始まりである。論理学は、純粋な有から始まる。有は、いかなる規定ももたないがゆえに、純粋な無と区別できない。この同一性が、有から無へ、無から有へという運動、すなわち成を生む。こうして、最初の規定のなかに、すでに運動と媒介が含まれていることが示される。

第三は、規定の捉え方である。ヘーゲルは、スピノザの「規定は否定である」という命題を受け継ぎながら、否定を、行き止まりではなく、展開の原動力と見る。止揚(aufheben)は、否定すると同時に保存し、より高い規定へ引き上げる運動である。矛盾は、排除すべき欠陥ではなく、規定が自分を越えて進むための原動力となる。この考え方は、有限と無限の議論に典型的に現れる。有限なものと無限なものを互いに切り離すかぎり、無限進行(悪無限)に陥るが、有限なものが自分の内へ帰ることが真の無限である、とされる。

第四は、量と質の関係である。量の部門では、数、外延量と内包量、そして微分・積分の基礎をめぐる長い注解が置かれ、ニュートン、ライプニッツ、ラグランジュらの方法が批判的に検討される。さらに度量の部門では、量的な変化が、ある点で質的な転換に転じるという、結節線の考えが示される。有論は、最後に、無差別の矛盾を通して、有が本質へ移行するところで終わる。

『論理の学』以後の哲学

ヘーゲル自身は、有論に続いて本質論(1813年)と概念論(1816年)を刊行して『論理の学』を完成させ、さらにその要約を『エンツュクロペディー』(初版1817年、第三版1830年)の第一部「論理学」に示した。ヘーゲルの死後、その学派は、宗教や政治の評価をめぐって右派と左派に分かれた。左派からは、フォイエルバッハやマルクスが出て、ヘーゲルの弁証法を、唯物論の側から作り替えた。エンゲルスは『反デューリング論』(1878年)や『自然弁証法』で、量から質への転化を、弁証法の基本的な法則の一つとして定式化した。これは、本書の度量の部門に直接さかのぼる議論である。一方、キルケゴールは『非学問的後書』(1846年)で、体系と媒介に対して、個人の実存を対置した。

十九世紀後半から二十世紀初頭には、イギリスで、T・H・グリーン、F・H・ブラッドリー(『現象と実在』1893年)、マクタガート(『ヘーゲル弁証法の研究』1896年)らが、ヘーゲルに連なる観念論を展開した。これに対し、ムーアやラッセルは、この観念論を批判して分析哲学の道を開いた。数学の側では、十九世紀に、コーシーやワイエルシュトラスが極限の概念によって解析学の基礎を立て直し、後にカントールが無限を数学的に扱った。ヘーゲルが量的無限の項で検討した無限小の問題は、数学の内部では、こうした別の形で扱われていった。

二十世紀には、ハイデガーが『存在と時間』(1927年)で、存在(有)への問いを哲学の中心に呼び戻し、サルトルの『存在と無』(1943年)は、その題名にヘーゲルの有と無の響きを残している。日本では、西田幾多郎が、有と無を超える「絶対無」の立場からヘーゲルの論理学と向き合い、田辺元が『ヘーゲル哲学と弁証法』(1932年)を著した。近年は、ヘーゲルの論理学を、カント以後の存在論を新しく書き直した試みとして読み直す研究が盛んである。ロバート・ピピンの『Hegel's Idealism』(1989年)や『Hegel's Realm of Shadows』(2019年)などが、その例である。

本書における重要な用語

以下、()内は原則としてドイツ語原語。本書の記述にもとづく参考情報であり、解説ボタンで表示される。

概念Begriff
ヘーゲルでは、頭に思い浮かべる一般的な観念(表象)ではなく、自分自身を規定し、自分で展開してゆく思考の運動そのものを指す。有論の諸規定は、まだ展開していない概念(「即自的な概念」)として扱われ、概念は有論・本質論の後に「概念論」で本格的に展開される。
主な箇所:第二版序文、論理学の一般的区分、第三部門 度量
論議Raisonnement
根拠や理由を並べて、事柄の外からあれこれ議論する悟性の議論のしかた。ヘーゲルは、事柄そのものの内在的な展開に従う思考と対比して、否定的な含みで用いる。
主な箇所:第一版序文、論理学の一般概念、1. 有と無の統一
悟性・理性Verstand・Vernunft
悟性は規定を固定して区別する思考であり、有限なものを扱う。理性は、固定された規定の対立を動かしてその統一を捉える思考である。無限についても、悟性の無限(悪無限)と理性の無限(真無限)が区別される。
主な箇所:第一版序文、論理学の一般概念、b. 有限なものと無限なものの交互規定
反省Reflexion
対象を自分の外から比較し、分析する思考のふるまいを、本書では多く「外的反省」と呼ぶ。これに対し、規定が自己自身に折り返して関わること(自己関係)も反省と呼ばれ、これは本質論で本格的に展開される。なお、原語が一般的な意味(あれこれ考えをめぐらすこと)で使われている箇所は「考察」と訳した。
主な箇所:論理学の一般概念、1. 有と無の統一、a. 定有一般
抽象的・具体的abstrakt・konkret
抽象的とは、ある一面だけを切り取って、他の規定から切り離した規定のことである。具体的とは、区別された多くの規定を、一つの統一のうちにもつことである。ヘーゲルでは、具体的とは単に目の前の感性的なものではなく、区別を含んだ統一をいう。
主な箇所:第一版序文、学の始まりは何をもってなされねばならないか
直接性・媒介Unmittelbarkeit・Vermittlung
直接性とは、他のものによって媒介されずに、そのままにあることである。媒介とは、他のもの(否定)を通じて自己と結びつくことである。始まりは直接的なものでありながら、実は媒介された結果でもある、というのが本書の根本的な論点の一つである。
主な箇所:学の始まりは何をもってなされねばならないか、c. 或るもの
止揚aufheben
「否定する」「保存する」「高める」という三つの意味を同時にもつ語。矛盾する規定が互いを否定しながら、より高い統一の契機として保たれることをいう。本書の展開は、止揚によって進む。
主な箇所:論理学の一般的区分、2. 成の契機、c. 或るもの
即自的・定立されたan sich・gesetzt
即自(an sich)とは、まだ展開されず、潜在的にそれ自体としてあるあり方をいう。定立された(gesetzt)とは、その内容が明示的に示され、現実のものとなっていることをいう。たとえば有と無の統一は、成において定立される。
主な箇所:a. 或るものと他のもの、c. 反発と牽引の関係
有Seyn
いっさいの規定を欠いた、最も抽象的で直接的な存在。「ある」と言うだけで、何も述べていない。本書の始まりであり、純粋な思考の最初の規定である。
主な箇所:学の始まりは何をもってなされねばならないか
無Nichts
いっさいの規定を欠いた、空虚なもの。それを思考のなかで「無」として思うかぎり、有と同じ規定のなさを思っているのであり、純粋な有と純粋な無は区別されない。
主な箇所:1. 有と無の統一
成Werden
有が無へ、無が有へと、互いに移行する運動。生成(無から有へ)と消滅(有から無へ)の二つの契機をもち、成が静止した結果として、次の定有が現れる。
主な箇所:1. 有と無の統一、2. 成の契機、3. 成の止揚
有・無・成と東洋思想の対比(参考)Seyn・Nichts・Werden
有と無が、どちらも規定がなく、同一であり、成へ移行するという展開は、般若心経の「色即是空 空即是色」や、太極図の陰と陽の関係を連想させる。思考の助けとして役に立つ類比だが、同じものではない。ヘーゲルの有と無は、論理的に規定を欠いた最初の概念であり、それが成を経て定有、すなわち規定された有へ展開してゆく。仏教の空は、実体の否定と縁起の洞察であり、太極図は、宇宙の生成と循環の図式であって、いずれも別の文脈で成立した思想である。ヘーゲル自身も、仏教の「無」に言及している(下記の箇所)。
主な箇所:1. 有と無の統一、第三部門 度量
定有Daseyn
「そこにある有」。成が静止した結果、規定性をもつようになった有。質をもつ或るものとして現にある。
主な箇所:第一部門 規定性(質)、第二章 定有、a. 定有一般
規定性Bestimmtheit
或るものを、それであらしめ、他のものから区別する性格。有論の第一部門「規定性(質)」の中心概念である。
主な箇所:第一部門 規定性(質)、1. 有と無の統一、b. 外延的な大きさと内包的な大きさの同一性
質Qualität
有と同一であるような規定性。それを失えば或るものが或るものでなくなる、本質的な規定をいう。量が、有に無関心な規定であるのと対をなす。
主な箇所:b. 質
実在性・否定Realität・Negation
実在性とは、規定のうちの肯定的な側面。否定とは、その規定が他のものではないという否定的な側面である。ヘーゲルでは、規定は肯定と否定の両面をもつ。
主な箇所:b. 質
或るもの・他のものEtwas・Anderes
或るものとは、規定性をもって定有するものである。他のものもまた或るものであり、どちらを「或るもの」と呼び、どちらを「他のもの」と呼ぶかは、見る立場による。
主な箇所:c. 或るもの、a. 或るものと他のもの、b. 規定、性状、限界
他在Andersseyn
他であること。或るものが、自分のうちにもつ他との区別、すなわち否定的な側面をいう。
主な箇所:a. 或るものと他のもの、β. 制限と当為
即自有・対他有Ansichseyn・Seyn-für-Anderes
即自有とは、他との関係から離れて、それ自体としてあること。対他有とは、他のものに対してあること。或るものは、この二つの面をもつ。
主な箇所:a. 或るものと他のもの、b. 規定、性状、限界
規定・性状Bestimmung・Beschaffenheit
規定とは、或るものの即自的な定めであり、「使命」のような含みもある。性状とは、或るものが外から受ける、あり方の面。両者は互いに移行し、その境が限界となる。
主な箇所:b. 規定、性状、限界
限界・制限Grenze・Schranke
限界とは、或るものと他のものを分ける境であり、同時に或るものの存在の一部である。制限とは、或るものの規定に照らして、越えられるべき限界をいう。
主な箇所:b. 規定、性状、限界、β. 制限と当為
当為Sollen
「あるべきこと」。制限を越え出ようとする要求だが、制限があるかぎり実現されず、永遠に「あるべき」ままにとどまる。ヘーゲルは、カント、フィヒテの当為(憧れ、努力)が、有限性の内にとどまることを批判する。
主な箇所:b. 規定、性状、限界、β. 制限と当為、γ. 有限なものから無限なものへの移行
有限性Endlichkeit
自分のうちに自らの終わりをもつこと。有限なものは、自己の本性に従って自らを越え出て、無限へ移行する。
主な箇所:α. 有限性の直接性、移行
悪無限・真無限das Schlecht-Unendliche・das wahrhafte Unendliche
悪無限とは、有限なものの彼方に無限なものを置き、両者が対立したまま、果てしなく続く無限。真無限とは、自己へ還帰する無限であり、有限なものを自らの契機として含む。
主な箇所:C. 無限性、b. 有限なものと無限なものの交互規定、c. 肯定的無限性
無限進行・無限への進行unendlicher Progreß・Progreß ins Unendliche
悪無限に属する、果てしなく続く進行。unendlicher Progreß は進行そのものが終わらないこと、Progreß ins Unendliche は無限に向かって進むことを言い表すが、ヘーゲルは両者を区別せず、同じ過程を指して併用する。本書では原語に従い訳し分けた。
主な箇所:β. 制限と当為、b. 有限なものと無限なものの交互規定、b. 量的な無限進行
交互規定Wechselbestimmung
有限なものと無限なものが、互いに相手を規定し合う関係。どちらも相手を前提としており、自立していない。
主な箇所:b. 有限なものと無限なものの交互規定
観念性Idealität
有限なものが、無限なものの契機として止揚され、保たれているあり方。「観念的」とは、頭の中で思い描かれたものという意味ではなく、自立性を失って契機になっていることをいう。
主な箇所:c. 肯定的無限性、b. 一者に対する有
対自有Fürsichseyn
他との関係から自己へ還帰し、自分に向かい、自分に関わってあること。他のものに対する対他有に対して、自己関係としてのあり方をいう。
主な箇所:第一部門 規定性(質)、A. 対自有そのもの、C. 度量における対自有
対一有Seyn-für-Eines
「一者に対する有」。他のものに対してではなく、一つの自己に対してあること。
主な箇所:b. 一者に対する有
一・多・空虚Eins・Vieles・Leere
一とは、対自有の単純な形であり、他を排除する自己関係。多とは、多くの一。空虚とは、一のかたわらにある否定。
主な箇所:c. 一、B. 一と多、b. 一と空虚
反発・牽引Repulsion・Attraktion
反発とは、一が自らを多くの一として押し出し、他を排除すること。牽引とは、多くの一が一つになろうとすること。物理的な力ではなく、有の論理的な規定として扱われる。カントの物質論(反発力と牽引力による構成)への批判もある。
主な箇所:b. 唯一の一の牽引、c. 反発と牽引の関係
モナドMonade
ライプニッツの、それ以上分けられない単純な実体。ヘーゲルは、それを対自有する「一」の例として論じる。
主な箇所:b. 一者に対する有、c. 多くの一 反発
量Quantität
規定性が有に対して無関心で、外的なものとなった有。質が、有と同一であるのに対して対をなす。本書では Quantität を「量」、Größe を「大きさ」、Quantum を「定量」と訳す。
主な箇所:第二部門 大きさ(量)、A. 純粋な量
連続性・分離性Kontinuität・Diskretion
連続性とは、同じものが途切れずにつながっていること。分離性とは、区別された多くのものに分かれていること。量はこの二つの契機の統一である。
主な箇所:A. 純粋な量
連続量・分離量kontinuirliche・diskrete Größe
連続量とは、連続性の側面を強調した大きさ(線、時間など)。分離量とは、分離性の側面を強調した大きさ(個数など)。
主な箇所:B. 連続的な大きさと離散的な大きさ
二律背反・背理法的証明・四名辞の誤謬Antinomie・apogogischer Beweis・quaternio terminorum
二律背反とは、カントが示した、理性が互いに矛盾する二つの命題(定立と反定立)をともに証明できてしまう事態。背理法的とは、ある命題の反対を仮定して矛盾を導くことで証明する方法。四名辞の誤謬とは、推論で中名辞が二つの異なる意味で使われる誤り(p0427では、カントが連続性と合成を取り違えていると指摘される)。
主な箇所:A. 純粋な量、b. 量的な無限進行
定量Quantum
限界をもつ量。大きさをもって現にある量をいう。
主な箇所:第二部門 大きさ(量)、第二章 定量
数・個数・統一Zahl・Anzahl・Einheit
数は、定量が完全に規定された形。個数とは、同じ単位がいくつあるかという側面、統一とは、数えられる単位の側面で、数はこの二つの契機からなる。
主な箇所:A. 数
外延量・内包量・度extensive Größe・intensive Größe・Grad
外延量とは、多くの部分からなる大きさ(空間の広がりなど)。内包量とは、部分に分かれない単純な大きさ(温度など)で、度と呼ばれる。ヘーゲルは、両者が同じ定量の二つの形式であることを示す。
主な箇所:a. 両者の区別、b. 外延的な大きさと内包的な大きさの同一性
量的無限性quantitative Unendlichkeit
定量が、自らを越えて他の定量へ果てしなく進むこと。無限進行の形で現れ、のちに定量の無限性として、真の無限へと展開する。
主な箇所:a. その概念、c. 定量の無限性
無限大・無限小unendlich-groß・unendlich-klein
定量を、どこまでも大きくしたり小さくしたりしても到達できない、限りない大きさ・小ささ。ヘーゲルはこれを、数学でも悪無限の一種とみなす。
主な箇所:A. 数、b. 量的な無限進行、c. 定量の無限性
数学的無限・無限級数das mathematische Unendliche・unendliche Reihe
数学で用いられる無限。無限級数の無限は、式が展開され続けることにすぎず、真の無限とは異なる。これに対し、微分・積分の無限は、真の無限の概念に対応するとされる。
主な箇所:c. 定量の無限性
変量・微分・比の限界veränderliche Größe・Differential・Grenze des Verhältnisses
変量とは、変化する量。微分とは、微分計算に現れる、比の契機としての「無限小」の差。ヘーゲルは、これを単に小さい量とは見ず、累乗関数とその展開関数との比という、質的な規定の契機として捉える。比の限界とは、その比が到達する限りの規定をいう。
主な箇所:c. 定量の無限性
累乗関係Potenzenverhältniß
二乗、三乗のように、同じ数を自分で掛ける関係。量が自分自身を規定し、他の定量へ自己を越え出ることを、質的に表す関係として、ヘーゲルが重視する。
主な箇所:c. 定量の無限性、C. 冪の関係
不可分者Untheilbare
カヴァリエリの幾何学で、面を作る線、立体を作る面のように、それ以上は分けずに比較の単位とされる対象。「者」は人ではなく、「〜であるもの」の意味で、分割できないという性質ではなく、その性質をもつ対象そのものを指す。
主な箇所:c. 定量の無限性
量的比・直接比・逆比・指数quantitatives Verhältniß・direktes Verhältniß・umgekehrtes Verhältniß・Exponent
量的比とは、二つの定量が互いに関係すること。直接比は、一方が増えれば他方も増える関係、逆比は、一方が増えれば他方が減る関係。指数とは、比を規定する単一の定量(商など)。
主な箇所:第三章 量的関係、A. 正比例の関係、B. 逆比の関係
度量Maaß
質と量の統一。質をもつ定量。或るものは、その大きさが一定の限度のなかにあるときにのみ、その質を保つ。
主な箇所:有の一般的区分、第三部門 度量、C. 度量における対自有
種別的な量specifische Quantität
量が単なる外的な大きさではなく、質を規定する大きさとなったもの。度量の最初の形態である。
主な箇所:第一章 特殊的な量、A. 特殊的な定量、b. 特殊化する度量
結節線・飛躍・漸次性Knotenlinie・Sprung・Allmähligkeit
結節線とは、量的な変化が続くなかで、ある点で質的な変化が起こる、度量関係の系列。飛躍とは、その質的な転換。漸次性とは、量的な変化だけが徐々に進むこと。ヘーゲルは、変化を漸次性によって理解しようとすることが、質的転換の理解を妨げると指摘する。
主な箇所:A. 特殊的な定量、B. 度量関係の結節線
選択的親和性・中和・飽和Wahlverwandtschaft・Neutralisation・Sättigung
化学で、ある物質が、複数の他の物質のうち特定のものと優先的に結合すること。中和とは、酸とアルカリなどが結合して、それぞれの性質が互いに打ち消されること。飽和とは、結合に必要な量に達すること。度量関係の例として論じられる。
主な箇所:c. 選択的親和性、B. 度量関係の結節線
粒子哲学・力動的哲学Korpuskularphilosophie・dynamische Philosophie
粒子哲学とは、物質を、空虚な空間のなかに並ぶ微小な粒子(原子)の集まりと考える立場。力動的哲学とは、物質を、引力と斥力という力が空間を満たしたものと考える立場。ヘーゲルは、両者を外延量と内包量の対立として読み直す。
主な箇所:c. 選択的親和性
度量なきものdas Maaßlose
度量を越えて、度量が失われること。量が変化して限度を越えると、或るものは没落し、新しい度量関係に移る。
主な箇所:第三部門 度量、C. 度量なきもの
無差別・基体Indifferenz・Substrat
無差別とは、有のあらゆる規定が消え去って、一つの統一にまとまったあり方。絶対的無差別は、有論の最後の規定である。基体とは、その変化の根底にとどまり続けるもの。
主な箇所:A. 絶対的無差別、B. 無差別、その因子の逆比の関係として
様相・様態Modalität・Modus
様相とは、カントの範疇で、可能性・現実性・必然性など、対象の思考への関係を表す規定。様態とは、スピノザで、実体の変状(他のもののうちにあり、他のものによって把握されるもの)。ヘーゲルは、度量が様態の真理であると論じる。
主な箇所:第三部門 度量
本質Wesen
有論の後に続く、本質論の主題。直接的な有の背後にあって、有を自己へ還帰させた媒介の運動。有論は、度量から無差別を経て、本質へ移行して終わる。
主な箇所:第三部門 度量、C. 本質への移行
外面性・無関心Aeußerlichkeit・Gleichgültigkeit
外面性とは、規定が自分のうちではなく、他のもののうちにあること。無関心とは、規定の変化に対して、或るものが影響を受けないこと。量は、この外面性と無関心を特徴とする。
主な箇所:β. 制限と当為、a. 両者の区別、第三部門 度量、C. 本質への移行

目次

第一版序文

位置づけ:『論理の学』第一巻の第一版(1812年)に付された序文であり、本論に先立って、この書が世に出る時代の事情と、論理学を新たに構想し直す必要を述べる。
概要:ここ二十五年ほどのあいだに哲学的な思考のあり方が根本的に変わり、かつて形而上学と呼ばれたものは諸学の列から姿を消した、と述べる。カント哲学の通俗的な教説が、悟性は経験を飛び越えてはならないと説いたことが、その没落を後押ししたとされる。論理学は形而上学ほどひどい目にはあわなかったが、内容も形式も長く改められないまま教科書に残ってきたという。最後に、精神の現象学と論理学との関係が示される。

ここ二十五年ほどのあいだに、哲学的な思考のあり方は、われわれのもとで根本的に変わった。精神の自己意識が、この時代に、自分自身について到達したより高い立場がある。ところが、そうした変化も立場も、これまでのところ、論理学の姿にはほとんど影響を与えてこなかった。

かつて形而上学と呼ばれていたものは、いわば根こそぎにされて、諸学の列から姿を消した。かつての存在論や合理的心理学、宇宙論、さらにはかつての自然神学の声が、いまなお聞かれてよい場所、あるいは聞かれうる場所が、どこにあるだろうか。たとえば魂の非物質性についての探究や、機械的原因と目的原因についての探究は、どこでなお関心を見いだすというのか。神の存在についての他の諸証明も、歴史的に引き合いに出されるか、さもなければ教化や心の高揚のために引かれるにすぎない。かつての形而上学について、その内容への関心か、形式への関心か、あるいはその両方への関心かが失われているというのは、事実である。ある民族にとって、その国法の学問や、心情、人倫上の習慣、徳が役に立たなくなったとすれば、それは注目すべきことである。しかし、民族がその形而上学を失い、自分の純粋な本質にかかわる精神が、その民族のうちにもはや現実の存在を持たないとすれば、それも少なくとも同じほど注目すべきことである。

カント哲学の通俗向けの教説、――悟性は経験を飛び越えてはならず、さもなければ認識能力は、自分だけでは妄想しか産み出さない理論的理性となる、という教説は、思弁的な思考を放棄することを、学問の側から正当化した。この通俗的な教説に、現代の教育学の叫びと、時代の窮乏とが応じた。時代の窮乏は、目を直接の必要へと向けさせる。そして教育学は、認識にとっては経験が第一であるように、公的生活や私的生活での腕前にとっては、理論的な洞察はむしろ有害であり、訓練と実践的な教養こそが本質的で、唯一有益なものである、と叫んだ。――こうして学問と常識とが手を携えて形而上学の没落をもたらしたので、形而上学のない教養ある民族という奇妙な光景が、現れようとしているように見えた。――それは、ほかの点ではさまざまに飾られていながら、至聖所のない神殿のようなものである。――神学は、以前の時代には思弁的な秘儀の守り手であり、従属的ではあったが形而上学の守り手でもあったが、この学問を、感情や、実践的で通俗的なものや、学識としての歴史的なものと引き換えに、手放してしまった。この変化に対応して、よそでは、永遠なものの観想と、それだけに仕える生活とが存在するように、有用性のためではなく祝福のために、自分の民族によって犠牲にされ、世界から切り離されていたあの孤独な人々が、――消えていった。この消滅は、別の連関においては、いま述べたことと本質的には同じ現象とみなすことができる。――こうして、このような暗闇、すなわち自己の内へ向かった精神が自分自身とだけ交わる色のない営みが追い払われたあと、存在は、明るい花の世界へと姿を変えたかのように見えた。周知のとおり、その花の中には黒い花はない。

論理学は、形而上学ほどひどい目にはあわなかった。論理学によって思考を学ぶ、というのは、かつては論理学の効用であり、したがってその目的だとされていたが、これは、解剖学や生理学を学んで初めて消化や運動を学ぶ、というようなものである。この偏見は、とうの昔に失われた。実践の精神は、論理学に、その姉妹である形而上学よりよい運命を与えようとは思わなかったであろう。それにもかかわらず、おそらくいくらかの形式上の効用のために、論理学には諸学のなかの地位がなお残され、公の教育の対象としてさえ保たれた。しかし、このよりよい運命は、外側の運命にかかわるだけである。というのも、論理学の形態と内容は、長い伝統によって受け継がれてきたままであり、しかもその伝承のなかで、ますます薄められ、痩せ細ってきたからである。学問にも現実にも同じように開けてきた新しい精神は、論理学のうちではまだ感じ取られていない。精神の実体的な形式が姿を変えたのに、以前の教養の形式を保とうとするのは、いつでもむなしい。それらは枯れ葉であり、その根もとにすでに生まれている新しい芽によって、押し出されるのである。

全般的な変化を無視することは、学問の領域でも、しだいに通用しなくなってきている。気づかないうちに、敵対者たちにさえ、他の考え方が身近なものとなり、自分のものとなった。彼らは、その考え方の源泉や原理に対しては相変わらずよそよそしくふるまい、それに矛盾する態度をとっているが、そのかわりに帰結のほうは受け入れてしまい、その影響から身を守ることができなかった。彼らの否定的な態度は、ますます重みを失っていくが、それに肯定的な重要性と内容を与えるには、新しい表象の仕方に口を合わせる以外に、方法を知らないのである。

他方で、新しい創造が始まるときの発酵の時期は、すでに過ぎ去ったように見える。そうした創造は、その最初の現れにおいて、前の原理が繰り広げた体系化に対して、熱狂的な敵意をもって臨むのが常である。一つには、個別的なものを広げるうちに自分を見失うことを恐れる。もう一つには、学問的に形を整えるのに必要な労苦を避けて、そのような必要が生じたときには、まず空虚な形式主義に手を出す。だが、素材を加工し、形成することへの要求は、いまやそれだけ切実になっている。時代の形成にも、個人の形成にも、原理をまだ展開されていない強度のままで獲得し、主張することが、何よりも問題となる時期がある。しかし、より高い要求は、それが学問となることに向かう。

学問の内容と形式について、他の面ではこれまですでに何がなされてきたにせよ、論理学、すなわち本来の形而上学あるいは純粋な思弁哲学を構成する学問は、これまで非常に顧みられないままになってきた。私がこの学問とその立場をどのようなものと考えているかは、序論のなかで、さしあたり述べておいた。この学問を、もう一度最初から始め直さなければならないという必然性、対象そのものの本性、そして、企てた改造に利用できたであろう先行研究の欠如、これらは、公平な批評者のもとでは考慮されてよいであろう。長年の仕事が、この試みにより大きな完成度を与えることができなかったとしても、である。――本質的な観点は、およそ、学問的な取り扱いの新しい概念が問題だということである。哲学は、学問であろうとする以上、私が別の箇所で注意した†1ように、そのための方法を、数学のような下位の学問から借りることはできない。内的直観についての断定的な保証で済ませることも、外的反省の根拠づけによる論議を用いることもできない。そうではなく、学問的な認識のなかで動くことができるのは、内容の本性だけである。しかも、それと同時に、内容の規定そのものを初めて定立し産み出すのは、内容がみずから行う反省にほかならない。

†1 『精神の現象学』第一版序文を参照。――本来の叙述とは方法の認識であり、その場所は論理学そのもののうちにある。

悟性は規定し、規定を固定する。理性は否定的であり、弁証法的である。理性は悟性の規定を無へと解消するからである。同時に理性は肯定的でもある。普遍的なものを産み出し、個別的なものをそのなかでとらえるからである。悟性が理性一般から切り離されたものとして扱われるのと同じように、弁証法的な理性も、肯定的な理性から切り離されたものとして扱われるのが常である。しかし、その真理においては、理性は精神であり、精神は、その両者よりも高い、悟性的な理性、あるいは理性的な悟性である。精神は否定的なもの、すなわち、弁証法的理性と悟性との両方の質をなすものである。――精神は単純なものを否定し、そうして悟性の規定された区別を定立する。そして精神は、その区別を同じく解消し、そうして弁証法的である。しかし精神は、この結果の無にとどまるのではなく、そのなかで同様に肯定的であり、こうして最初の単純なものを回復する。ただしそれは、それ自身のなかで具体的な普遍としてである。この普遍のもとに、与えられた特殊なものが包摂されるのではない。むしろ、あの規定作用と、その解消のなかで、特殊なものはすでにともに規定されているのである。この精神的な運動は、その単純性のなかで自分に自分の規定性を与え、その規定性のなかで自分自身との等しさを与える。したがってそれは概念の内在的な展開であり、認識の絶対的な方法であり、同時に内容そのものの内在的な魂である。――私は主張する。哲学が、客観的で論証された学問でありうるのは、このように自分自身を構成していく道によってだけである。――私は、意識を、精神の現象学において、この仕方で叙述しようと試みた。意識とは、具体的な知としての精神であり、しかも外面性にとらわれた知としての精神である。しかし、この対象の形式の運動は、あらゆる自然的・精神的生命の展開と同じように、論理学の内容をなす純粋な諸本質態の本性にのみ基づいている。意識は、現れる精神として、その道のなかで、自分の直接性と外的な具体性から解放され、純粋な知となる。この純粋な知は、あの純粋な諸本質態そのものを、それらが即かつ対自的にあるがままの姿で、自分の対象とする。それらは純粋な思想であり、自分の本質を思考する精神である。それらの自己運動がその精神的な生命であり、それによって学が構成され、その叙述が学なのである。

以上によって、私が精神の現象学と呼ぶ学の、論理学に対する関係が示された。――外面的な関係についていえば、現象学を含む学の体系†2の第一部には、第二部が続くことが予定されていた。第二部は、論理学と、哲学の二つの実在的な学である自然哲学と精神哲学とを含むはずで、学の体系を完結させるものであった。しかし、論理学がそれだけで必然的にとらざるをえなかった広がりのために、私は論理学を別個に世に出すことにした。したがって論理学は、拡張された計画において、精神の現象学に続く第一の続編をなす。のちに私は、いま述べた二つの実在的な学の仕事をそのあとに続けるであろう。――ところで、論理学のこの第一巻は、第一書として有論を含む。第二書本質論は、第一巻の第二部として含まれる。第二巻は、主観的論理学、すなわち概念論を含むことになる。

†2 (バンベルクおよびヴュルツブルク、ゲープハルト書店、1807年。)この書名は、次の復活祭に出る予定の第二版†3には、もはや付されないであろう。――以下で述べられている、他のすべての哲学的諸学を含むはずだった第二部という計画に代えて、私はその後、『哲学的諸学のエンツュクロペディー』を、昨年第三版として世に出した(第二版への注)。

†3 本書は、ヘーゲル著作集のこの版の第二巻に収められている。編者。

第二版序文

位置づけ:第二版(1832年刊)の改訂にあたって付された序文であり、第一版序文のあとを受け、論理学が扱う対象と、それを考察する立場をあらためて確認する。
概要:思考の諸形式はまず人間の言語のなかに取り出され蓄えられているが、よく知られているということが、かえってそれを認識することの妨げになっている、と指摘する。思考規定を使用のための手段としてのみ取る立場の不完全さが論じられ、論理学は学の始まりとして、それ自体で高い価値をもつ真理の領域とされる。最後に、プラトンの叙述に言及しつつ、現代に哲学的学問の建物を新たに築こうとする者の課題に触れる。

論理学の学の、この新しい改訂版は、その第一巻をここに世に出すものである。この改訂に私が取りかかったのは、対象そのものの難しさ、またその叙述の難しさ、そして第一版における対象の取り扱いが負っている不完全さを、十分に意識したうえでのことであった。その後も長年この学に取り組み、この不完全さを正すべく努めはしたが、それでもなお、読者の寛容を求める理由が十分にあると感じている。この寛容を求める資格は、まず次の事情に基づけてよいであろう。すなわち、従来の形而上学と論理学には、内容に関してはおもに外面的な素材しか見いだされなかったということである。形而上学と論理学、とりわけ後者は、現代に至るまで広く盛んに営まれてきたが、その取り扱いは思弁的な側面にほとんど及ばなかった。むしろ全体としては、同じ素材が繰り返されてきた。あるときは平凡な表面的なものにまで薄められ、あるときは古い荷物がより大きな規模でまたもち出され、引きずられてきた。そのため、こうした、しばしばまったく機械的な営みからは、哲学的な内実にとって何の収穫も生まれなかった。思想の国を哲学的に、すなわちそれ自身の内在的な活動において、言い換えればその必然的な展開において叙述することは、それゆえ新しい企てでなければならず、最初から始めなければならなかった。ただし、すでに獲得された素材、すなわちよく知られた思考の諸形式は、きわめて重要な前提であり、必要な条件でさえあり、感謝して認めるべき前提と見なさなければならない。たとえその素材が、ところどころに枯れた糸か、骸骨の生命のない骨を、しかも互いに乱雑に投げ散らしたかたちで差し出すにすぎないとしてもである。

思考の諸形式は、まず人間の言語のなかに取り出され、蓄えられている。人間を動物から区別するものは思考であるということは、現代においては、いくら思い出させても足りない。人間が自分の内面のものとし、表象一般とし、自分のものとするすべてのものに、言語が入り込んでいる。そして人間が言語にし、言語のなかで表すものは、包み込まれた形で、混ざった形で、あるいは際立たせられた形で、一つの範疇を含んでいる。それほどまでに、論理的なものは人間にとって自然なものである。というより、論理的なものは人間に固有の自然そのものである。しかし、自然一般を物理的なものとして精神的なものに対置するなら、むしろ論理的なものこそ超自然的なものだ、と言わねばならない。それは、人間の自然的なふるまいのすべて、すなわち感覚、直観、欲求、必要、衝動の中にも入り込み、それによってそれらを、たとえ形式上だけであれ、人間的なもの、表象と目的にする。ある言語が、思考規定そのものに対して、固有の、切り離された論理的な表現を豊富に持っていれば、それはその言語の利点である。前置詞や冠詞のうち、すでに多くは、思考に基づく関係に属している。中国語は、その発達のなかで、そこまで至っていないか、貧弱にしか至っていないとされる。しかしこれらの小辞は、ごくわずかに、語の増音や屈折の記号などより切り離されているにすぎず、まったく従属的なものとして現れる。もっと重要なのは、ある言語で思考規定が名詞と動詞として取り出され、こうして対象的な形式を刻印されていることである。ドイツ語は、この点で他の近代語より多くの長所を持っている。それどころかドイツ語の語のいくつかは、異なる意味だけでなく、対立する意味を併せ持つという、さらなる特性を備えている。そこには、言語の思弁的な精神を見誤りようがない。このような語に出会うことは、思考に喜びを与えうる。思弁の結果として悟性には不条理に見える対立したものの統一が、素朴なかたちで、すでに辞書的に、対立した意味をもつ一つの語として見いだされるからである。したがって、哲学はおよそ特別な術語を必要としない。外国語からいくつかの語を取り入れることはあってよいが、それらはすでに使用によって哲学のなかで市民権を得ているものである。気取った純粋主義は、事柄がもっとも決定的に問題となるところでは、もっとも場違いであろう。――教養一般の進歩、とりわけ学問の進歩は、経験的で感覚的な学問でさえも、一般にはもっとも普通の範疇、たとえば全体と部分、物とその性質などのなかで動いているが、それによってしだいに、より高い思考関係をも明るみに出す。あるいは少なくとも、それらをより大きな一般性へと、したがってより近い注目へと押し上げる。たとえば物理学で、思考規定としての力が支配的になったとすれば、近年では極性という範疇が、もっとも重要な役割を演じている。もっとも極性は、無分別にあらゆるもの、光にまで持ち込まれすぎているが。――これは、区別されたものが切り離せないものとして結びついている区別の規定である。――このようにして、抽象の形式、すなわち、たとえば力としての規定性がそれによって自立性を得る同一性から先へ進み、規定の形式、すなわち同時に同一性のなかに切り離せないものとしてとどまる区別が、取り出されて通用する表象となったことは、無限の重要性をもつ。自然の考察は、その対象が固持される実在性によって、次のような強制を伴う。すなわち、自然の考察のなかでもはや無視されえない範疇を、たとえ他の、同じく通用させられている範疇との間に最大の不整合があっても、固定させ、精神的なものにおいてよりたやすく起こるように、対立からの抽象や一般性へと移ることを許さないという強制である。

しかし、論理的な対象も、その表現も、教養のなかではよく知られているが、私が別の箇所で述べたように、知られているということは、そのゆえに認識されていることではない。すでに知られているものにさらに取り組まねばならないということは、いらだちさえ呼ぶ。そして、われわれがいたるところで使い、口にするどの文でも口から出てくる思考規定ほど、よく知られたものがあるだろうか。この序文は、この既知のものから出発する認識の歩みと、学問的な思考の、この自然的な思考に対する関係について、一般的な契機を述べるためのものである。以前の序論に含まれていることとあわせて、それで十分であろう。学問そのものである学問の前に、あらかじめ、学問についてこのような一般的な表象をもつことが求められるが、論理的な認識の意味について、その一般的な表象を与えるには、それで足りるであろう。

まず、思考の諸形式は、自己意識的な直観や表象、またわれわれの欲求や意志のなかに、あるいはむしろ表象を伴う欲求や意志のなかに沈み込んでいる。表象を伴わない人間の欲求や意志はないからである。そうした素材から思考の諸形式が解放され、これらの一般的なものがそれだけで取り出され、プラトン、さらに主としてアリストテレスがしたように、それだけで考察の対象とされたことは、無限の進歩とみなされねばならない。これが、それらの認識の始まりを与える。アリストテレスは言う。「生活に必要なもの、ほとんどすべてと、安楽や交際に属するものとがすでに備わってから、はじめて人々は、哲学的な認識を求めて努力しはじめた。」彼は、その前にこう述べていた。「エジプトでは、数学的な学問が早くから発達した。そこでは祭司階級が、早くから暇をもつことのできる状況に置かれたからである。」――実際、純粋な思想に取り組むという欲求は、人間の精神がくぐり抜けてきたはずの長い道のりを前提とする。いわば、すでに満たされた欲求の欲求、無欲求であることの必然性への欲求であり、人間の精神はそこに到達していなければならなかった。それは、直観や想像などの素材、すなわち欲求、衝動、意志といった具体的な関心の素材からの抽象である。その素材のなかに、思考規定は包まれて潜んでいる。自分自身に到達して、ただ自分のなかにだけあるような思考の静かな空間では、諸民族と諸個人の生活を動かす関心は沈黙している。アリストテレスは、同じ箇所でこう言う。「人間の本性は、多くの面で依存している。しかし、この学問は、使用のために求められるものではなく、それ自体で自由な唯一のものである。それゆえ、人間の所有物ではないように思われる。」――哲学一般は、神、自然、精神といった具体的な対象を、その思想のなかで扱う。だが論理学は、これらの思想だけを、完全な抽象においてそれだけで扱う。この論理学は、それゆえまず青年の学習に委ねられるのが常である。青年はまだ具体的な生活の関心のなかに入っておらず、それに関して暇のなかに生き、主観的な目的のために、その関心の対象のなかで活動するための手段と可能性を獲得し、それらの対象そのものにも、なお理論的に取り組まねばならないだけだからである。いま引いたアリストテレスの表象とは逆に、論理学という学は、これらの手段のなかに数えられる。それに取り組むことは予備的な仕事であり、その場所は学校である。そのあとに、生活の真剣さと、真の目的のための活動とが来るべきだとされる。生活では範疇の使用へと向かう。範疇は、それ自体で考察されるという栄誉から降ろされ、生きた内容をもつ精神の営みのなかで、それに関する表象を作り出し、取り替えるために仕えるようになる。――一つには、その一般性による略称として仕える。――というのも、戦い、戦争、民族、あるいは海、動物などの表象は、外的な存在と活動の、どれほど無限の数の個別的なものを含んでいることか。――神、あるいは愛などの表象では、こうした表象の単純さのなかに、どれほど無限の数の表象、活動、状態などが要約されていることか。――またもう一つには、対象的な関係をより詳しく規定し、見いだすために、である。しかしこの場合、混ざり込んでくる思考の内実と目的、正しさと真理は、すべて、目の前にあるものそのものに依存させられ、思考規定そのものには、内容を規定する作用は認められない。範疇のこのような使用は、先に自然的な論理と呼ばれたものであり、無意識的である。そして、学問的な考察のなかで、範疇に、手段として仕えるという関係が精神のなかで割り当てられるなら、思考は一般に、他の精神的な規定に従属するものにされてしまう。われわれの感情、衝動、関心については、われわれに仕えるとは言わない。むしろそれらは、独立した力、威力と見なされる。つまり、われわれ自身が、そのように感じ、これを欲し、意志し、この関心に自分を注ぎ込むのである。だが、われわれが自分の感情、衝動、情熱、関心、さらに習慣に仕えているということは、われわれがそれらを所有しているということよりも、むしろ意識されうる。ましてや、それらがわれわれと密接に一つであるのに、われわれの手段として仕えているなどとは言えない。こうした心情と精神の規定は、われわれには、やがて個別的なものとして、われわれが意識し、その中に自由をもつ一般性に対立するものとして現れる。そして、われわれはむしろ、これらの個別性にとらわれ、それに支配されていると考える。したがって、われわれのあらゆる表象を貫いて走る思考の諸形式、つまり表象が単に理論的であるか、感覚、衝動、意志に属する素材を含んでいるかを問わず貫いている思考の諸形式が、われわれに仕えている、われわれがそれらを所有しており、むしろそれらがわれわれを所有しているのではない、とは、ずっと言いにくい。それらに対してわれわれに何が残されているのか。それら自身が一般的なもの一般であるのに、どうしてわれわれ、私が、より一般的なものとして、それらを超えて立つというのか。感覚、目的、関心のなかに身を置き、その中で制限され、不自由であると感じるとき、そこから引き出されて自由に帰ることのできる場所は、この自己確実性の場所、純粋な抽象の場所、思考の場所である。あるいは同じことだが、物について語ろうとするとき、われわれは物の自然あるいは本質を、その概念と呼ぶ。そしてこの概念は、思考にとってのみある。ところが物の概念については、われわれがそれを支配しているとか、それらの複合体である思考規定がわれわれに仕えているとか、なおさら言えない。むしろ反対に、われわれの思考は、それらに従って制限されなければならず、われわれの恣意あるいは自由は、それらを自分に合わせようとしてはならない。したがって、主観的な思考がわれわれのもっとも固有で、もっとも内的な行いであり、物の客観的な概念が事柄そのものをなしているかぎり、われわれはその行いから外に出ることも、その上に立つこともできないし、同様に、物の本性を超え出ることもできない。もっとも、後者の規定は、考えに入れなくてもよい。それは次の点で前者と一致するからである。後者の規定は、われわれの思想の事柄に対する関係を与えはするが、その関係はただ空虚なものにすぎないだろう。それによって事柄が、われわれの概念の規則として立てられることになるが、事柄はわれわれにとって、まさにそれについてのわれわれの概念以外のものではありえないからである。批判哲学が、これら三つの項の関係を、われわれが思想をわれわれと事柄のあいだに媒介として置く、という意味に解し、しかもその媒介が、われわれを事柄と結びつけるのではなく、むしろわれわれを事柄から隔てる、というのであれば、この見方には、次の単純な指摘を対置せねばならない。すなわち、われわれの彼岸、われわれがそれに関係する思想の彼岸に、もう一方の極として立つはずのまさにこの事柄自体が、思想物であり、まったく無規定なものとして、ただ一つの思想物、すなわちいわゆる物自体であり、空虚な抽象そのものである、ということである。

しかし、思考規定が使用のためのもの、手段としてのみ取られる、という関係が消える立場としては、これで足りよう。もっと重要なのは、これと関連するさらなる点、すなわち、思考規定が外的な形式として捉えられるのが常だという点である。――われわれのあらゆる表象、目的、関心、行為を貫いて織りなされる思考の活動は、すでに述べたように、無意識に働いており、これが自然的論理である。われわれの意識が目の前にもっているのは内容、すなわち表象の対象、関心が満たされているものである。この関係のもとで、思考規定は形式と見なされ、それは内容にあるだけで、内容そのものではない、とされる。しかし、先に述べたこと、またほかのところで一般に認められていることが事実であるなら、すなわち、現れの多様性と偶然性、過ぎ去る外化のなかにある自然、固有の本質、真に持続するもの、実体的なものとは、事柄の概念、事柄そのもののうちにある一般的なものであって、それはちょうど、どの人間個人も無限に固有のものでありながら、自分の固有性のすべてのうちに、人間であるという先在性を持ち、どの個々の動物も、動物であるという先在性を持つのと同様であるとすれば、いくら多くのほかの述語を備えたものから、この基礎が、これも他の述語と同様に述語と呼びうるにしても、取り去られたとき、そうした個体がなお何であるべきか、言うことができないであろう。欠くことのできない基礎である概念、一般的なもの、すなわち、思想という語から表象を捨象できる限りでの思想そのものは、ただ内容にくっついている無関係な形式とみなすことはできない。だが、すべての自然的・精神的な物のこれらの思想、実体的な内容そのものも、なお多様な規定性を含み、なお魂と身体の区別、概念と相対的な実在との区別をそれ自身のうちにもっている。より深い基礎は、魂そのもの、純粋な概念であり、それが対象の最内奥、対象の単純な生の脈動であり、対象についての主観的な思考のそれでもある。精神を魂として生かし、精神のなかで駆り立て、働くこの論理的な本性を、意識にもたらすこと、これが課題である。本能的な行いが知的で自由な行いと異なるのは、一般に、後者が意識をもって行われる点である。衝き動かすものの内容が、主観との直接的な統一から出て、対象性としてそれに対して現れるにいたったとき、精神の自由が始まる。精神は、思考の本能的な働きにとらわれ、その範疇の束縛のなかで、無限に多様な素材のなかに散らばっている。この網のなかに、ところどころ、より固い結び目が結ばれる。それは精神の生命と意識の拠り所、方向の点であり、その固さと力を、意識にもたらされた、精神の本質態の、即かつ対自的にある概念であることに負っている。精神の本性にとってもっとも重要な点は、精神がそれ自体であるものの、現実にあるものに対する関係だけではない。精神が自分をどのようなものと知っているかである。精神は本質的に意識であるから、この自己知こそ、精神の現実性の基本規定である。これらの範疇は、本能的に衝動として働くだけで、まず個々ばらばらに、したがって変わりやすく混乱したかたちで精神の意識にもたらされ、精神に個別的で不確かな現実性を与えている。それらを浄化し、そうして精神をそれらのうちで自由と真理へと高めること、これがより高い論理的な仕事である。

われわれが学の始まりとして述べたこと、すなわち、先に、それ自体の高い価値として、同時に真の認識の条件として認められたこと、つまり概念と概念の契機一般、思考規定を、まず素材とは別のもので素材にあるだけの形式として扱うことは、論理学の対象かつ目的として挙げられる真理にとって不適切なふるまいであることを、ただちにそれ自体で示す。というのも、そのように、内容とは別の単なる形式として、それらはある規定の中に立つものと受け取られ、その規定がそれらを有限なものに刻印し、それ自体で無限である真理を捉えることができないものにするからである。真なるものは、ほかの点では、どんな観点であれ、限界や有限性と結びついているかもしれないが、それは真なるものの否定、その非真理性、非現実性の側面、まさにその終わりの側面であって、真なるものとしての肯定の側面ではない。単に形式的な範疇の裸のあり方に対して、健全な理性の本能は、ついに強く感じるようになって、その知識を、軽蔑をこめて、学校論理学と学校形而上学の領域に任せている。同時に、これらの糸の意識そのものがもつ価値を軽んじ、自然的論理の本能的な行いのなかで、さらに思考規定そのものの知識と認識を反省的に退けることで、浄化されていない、したがって不自由な思考の奉仕に囚われていることに、気づかずにいる。このような形式の集積の単純な基本規定、すなわち共通の形式規定は同一性であり、これが、この集積の論理学のなかで、法則として、A=Aとして、矛盾律として主張される。健全な理性は、このような真理の法則を所有し、今なおそのまま受け継いでいる学校への敬意をすっかり失い、そのためこれを笑い、こうした法則にしたがって真に語ることを知っている人間、たとえば、植物は――植物である、学問は――学問である、そして以下無限に続くなどと言う人間を、耐えがたいと考える。推論の規則を示す公式、実際には悟性のおもな使用である推論についても、それらが認識のなかに自分の領域をもち、そこで通用せねばならないこと、またそれらが理性の思考にとって本質的な素材であることを、見誤るのは不当であるが、これと同様に正当な意識が確立している。すなわち、それらは、少なくとも誤謬や詭弁の手段であるのと同じ程度に無関心な手段であり、真理をほかにどのように規定するにせよ、より高い真理、たとえば宗教的な真理には使えない。――それらはおよそ認識の正しさにかかわるだけで、真理にかかわらない、という意識である。

思考をこのように見る仕方の不完全さは、真理を脇に置いてしまうものだが、これを補うには、外的な形式に数えられるのが常であるものだけでなく、内容をも思考的な考察に引き入れるほかはない。もっとも身近でもっとも通常の考察のなかで内容として形式から切り離されているものが、実際には、それ自体では形式を欠いたもの、規定を欠いたものではありえないことが、まもなく自然に示される。そうだとすれば、それは空虚なもの、せいぜい物自体という抽象にすぎないであろう。――むしろ内容は、それ自身のうちに形式をもっており、ただ形式によってのみ魂と内実をもっている。形式そのものが、ただ内容の仮象に、また同時にこの仮象に外的なものの仮象に、転じるにすぎない。こうして内容が論理的な考察に導入されるとき、対象となるのは物ではなく、事柄、物の概念である。

ここで、概念も事柄も多数あるということが思い出されるかもしれない。この多数が限定される仕方については、一つは先に述べた。概念は思想一般として、一般的なものとして、物の個別性に対する測り知れない略称であり、この個別性は、その多数性において、無規定な直観と表象の前に漂っている。もう一つは、一つの概念は、まず第一に、それ自身におけるその概念であり、これはただ一つであり、実体的な基礎である、ということである。第二に、概念は、規定された概念でもあり、その規定性が内容として現れるものである。しかし概念の規定性は、この実体的な統一の形式規定であり、全体性としての形式の一契機、規定された概念の基礎である概念そのものの契機である。この概念は、感覚的に直観されたり表象されたりしない。それはただ思考の対象、産物、内容であり、即かつ対自的にある事柄、ロゴス、あるものの理性、物の名を担うものの真理である。論理学の外に置かれるべきでないものがあるとすれば、それはなによりもロゴスである。ゆえに、これを学問に引き入れるか、外に置くかは、気まぐれであってはならない。外的な形式にすぎない思考規定が、本当にそれ自体で考察されるなら、そこから現れ出ることができるのは、その有限性と、それが自立してあろうとする主張の非真理性、そしてその真理としての、概念だけである。したがって論理学は、一般にわれわれの精神を本能的に、無意識に貫いている思考規定を扱う。それらは言語に入り込んでも、対象化されず、注目されないままである。その際、論理学は、反省によって取り出され、反省によって、素材と内実に外的な主観的形式として固定された思考規定の、再構成でもあることになる。

思考の展開をその必然性において叙述することほど、それ自体として、まったく厳密に内在的に造形的でありうる叙述はない。他のどんな対象も、この要求をこれほど強くは伴わない。この点で、その学は数学をも凌がねばならないであろう。他のどの対象も、それ自身のうちに、このような自由と独立性をもたないからである。このような叙述は、数学的な帰結の歩みにそれなりに見られるように、展開のどの段階にも、その段階で直接に生じ、先行する段階からその段階に移ってきたのではないような思考規定や考察が現れないことを要求するであろう。しかしこのような抽象的な叙述の完全さは、一般には断念せざるをえない。学は、純粋に単純なもの、したがってもっとも一般的でもっとも空虚なものから始めねばならないのだから、叙述は、この単純なもののまったく単純な表現そのものだけを許すことになり、それに言葉を一つでも付け加えることは許さないであろう。――事柄からいえば、行われうるのは、表象や無秩序な思考が混ぜ込みうるものを、遠ざけ、取り除こうとする否定的な考察であろう。しかし、展開の単純な内在的な歩みへのこのような割り込みは、それ自体で偶然であり、これを防ごうとする努力もまた、この偶然性を帯びる。そもそも、あらゆるそのような思いつきに、それが事柄の外にあるからこそ、立ち向かおうとするのは無駄である。体系的な満足のためにここで求められるのは、せいぜい不完全さであろう。しかし、われわれの現代の意識に固有の落ち着きのなさと気の散りやすさは、近くにある考察や思いつきにも、多かれ少なかれ配慮することを許さずにおかない。造形的な叙述は、造形的な受け取りと理解の感覚をも要求する。しかし、そうした造形的な青年や成人、自分で考えることを示そうとして気がはやる自分自身の考察や思いつきを、これほど静かに捨て去って、ただ事柄にだけ従う聴き手は、プラトンが創作したようには、現代の対話篇の中には登場させることができないだろう。ましてや、そうした読者をあてにすることはできない。それどころか私には、あまりにもしばしば、あまりにも激しく、次のような反対者が現れた。彼らは、自分たちの思いつきや異論が範疇を含んでおり、その範疇は前提であって、使用される前にまず批判を要する、という単純な考察をしようとしなかった。この点での無意識は、信じがたいほど甚だしい。それは、根本的な誤解、悪い、すなわち教養のない態度を生む。つまり、ある範疇が考察されているのに、その範疇そのものではなく、何か別のものを考えてしまうのである。この無意識は、なおさら正当化されえない。なぜなら、そうした別のものとは別の思考規定と概念であり、論理学の体系の中では、ほかならぬこれらの別の範疇も、同様にその場所を見いだしているはずであり、そこでそれ自体として考察されることになるはずだからである。このことがもっとも目立つのは、論理学の最初の概念あるいは命題、すなわち有と無と成に向けられた異論や攻撃の圧倒的な多さである。成は、それ自身単純な規定でありながら、その二つの規定を契機として含んでいる。もっとも単純な分析が示すように、このことには異論の余地がない。徹底性は、すべてがその上に築かれる基礎である始まりを、何よりもまず吟味すること、そしてそれが確固たるものと証明されるまでは先へ進まないこと、むしろそうでないなら、その後に続くものすべてを退けることを、要求するように見える。この徹底性は、同時に、思考の仕事にとって最大の容易さを与えるという利点がある。それは、展開全体をこの萌芽に閉じ込めて目の前に置き、これを片づければすべてを片づけたと考える。これは片づけるのにいちばんたやすい。もっとも単純なもの、単純なもの自体だからである。この自己満足的な徹底性が本質的に推奨されるのは、必要とされる労力の小ささのゆえである。単純なものへのこの限定は、それ自身では単純なままでいようとせず、それについての自分の考察を持ち出そうとする思考の恣意に、自由な余地を与える。この徹底性は、まず原理だけに取り組む権利があり、それによってそれ以上のことには立ち入らない、という正当な権利をもちながら、その仕事そのものにおいては、その反対のこと、むしろそれ以上のこと、すなわち原理にすぎないものとは別の範疇、別の前提や先入見を持ち込むことをする。無限性は有限性とは別である、内容は形式とは別のものである、内なるものは外なるものとは別である、媒介はまた直接性ではない、というような前提が、まるでそれを知らない者がいるかのように、教える態度で同時に持ち出され、証明されるというより語られ、断言される。このように教える態度には、そうとしか呼べないが、愚かさがある。事柄の面からいえば、一つには、このようなことをただ前提とし、そのまま受け取ることの不当さがある。もう一つには、それ以上に、論理的な思考の必要と仕事とは、ほかならぬこのこと、すなわち、無限性のない有限なものは何か真なるものなのか、そうした抽象的な無限性についても、また形式のない内容、内容のない形式、外化をもたない内なるもの、内面性のない外面性、等々についても、――何か真なるものであるのか、同様に何か現実的なものであるのか、を吟味することだという、無知がある。――しかし、思考のこのような教養と訓練、それによって思考の造形的なふるまいがもたらされ、浮かんでくる考察のいらだちが克服されるのは、先へ進むこと、つまり展開全体を学び、産み出すことによってのみ得られる。

プラトン的な叙述に言及したので、現代において哲学的学問の自立した建物を新たに築こうと努める者は、プラトンが国家についての書物を七回書き直したという話を思い出すかもしれない。この話を思い出し、それが比較を含むかのように見える限りで比較することは、ただ、次のような願いをいっそう強めるにちがいない。つまり、近代世界に属するものとして、より深い原理、より重い対象、より広範な素材を加工せねばならない著作に、それを七十七回でも練り直せる自由な暇が与えられていたなら、という願いである。ところが著者は、課題の大きさを前にこれを眺めながら、外的な必然のもとで、すなわち、時代の関心の大きさと多面性による避けがたい気散じのもとで、さらには、日々の大きな騒ぎと、それに限られて満足する想像の麻痺させるようなおしゃべりが、思考するだけの認識の情熱のない静けさへの関与にまだ余地を残しているかどうか、という疑いのもとで、この著作がなりえたもので満足せざるをえなかった。

序論

位置づけ:第二版序文のあと、本論(第一書 有論)に入る前に置かれた序論であり、論理学の概念と、論理学全体の区分とを、あらかじめ示す。
概要:「論理学の一般概念」で、論理学を純粋な知の学として規定し直す。続く「論理学の一般的区分」で、論理学全体を客観的論理学と主観的論理学に分け、有論・本質論・概念論という三つの部分の配置を示す。
身近な例で言えば:地図を広げる前に、まず地図の凡例と全体の区画を確かめるのに似ている。序論は、論理学がどのような学であり、どのような区画に分かれるのかを先に示す。

論理学の一般概念

位置づけ:序論の前半であり、通常の論理学の概念を批判し、本書が論理学をどのような学として扱うのかを定める。
概要:従来の論理学は、思考の形式と規則を、思考されるものの内容から切り離して扱う学とされてきた。この内容と形式、認識の対象と思考のあいだの対立は、意識の通常の立場に属すると指摘される。古い形而上学は思考について、より高い概念をもっていたとされ、カントの批判哲学が、悟性の形式は物自体に適用できないとしたことの意義と限界が論じられる。そのうえで、意識の対立から解放された純粋な知を原理とする純粋学として、論理学が規定される。さらに、従来の論理学を作り直す必要、本書が従う方法と弁証法的なもの、個人の教養にとっての論理学の意味が述べられる。
身近な例で言えば:文法の教科書は、言葉の中身とは切り離して、文の形の規則だけを教える。ヘーゲルは、論理学をそのような形だけの規則集ではなく、思考そのものの中身を扱う学として立て直そうとする。

論理学ほど、先行する考察なしに、事柄そのものから始めたいという欲求を強く感じる学問はない。他のどの学問でも、それが扱う対象と、学問的な方法とは区別されている。内容も、絶対的な始まりをなすのではなく、他の概念に依存し、まわりの他の素材とつながっている。それゆえこれらの学問には、自分の地盤とその連関について、また方法についても、ただ補助命題のような仕方で述べることが認められている。定義などの、既知のものとして受け入れられ前提された諸形式を、そのまま適用し、自分の一般的な概念や基本規定を確定するために、通常の論議の仕方を用いることが認められている。

これに対して論理学は、こうした考察の形式も、思考の規則や法則も、前提することができない。そうした形式や規則・法則は論理学自身の内容の一部をなし、論理学の内部で初めて基礎づけられなければならないからである。しかも、学問的な方法についての説明だけでなく、学問一般の概念そのものも、論理学の内容に属し、その最後の結果をなす。したがって論理学は、自分が何であるかをあらかじめ言うことができない。論理学の全体の論述が、自分自身についてのこの知を、最後のものとして、その完成として、はじめて産み出すのである。同じように、論理学の対象である思考、あるいはより詳しくは概念的に把握する思考も、論理学の内部で本質的に論じられる。その概念は、論理学の経過のなかで生み出されるので、あらかじめ示すことはできない。したがって、この序論でこれから述べることは、論理学の概念を基礎づけたり、論理学の内容と方法をあらかじめ学問的に正当化したりすることを目的としない。いくつかの説明と考察によって、論議的、歴史的な意味で、この学問を考察すべき観点を、表象に近づけることが目的である。

論理学が、思考一般についての学問とされるとき、そこで理解されているのは次のことである。そこでいう思考は、認識の単なる形式をなすにすぎない。論理学は、すべての内容を捨象する。認識に属するとされる第二の構成要素である質料は、どこか別のところから与えられなければならない。したがって、この質料からまったく独立している論理学は、真理の本質的なもの、すなわち内容が論理学の外にあるので、真の認識の形式的条件を示すことしかできず、実在的な真理そのものを含むことはできず、実在的な真理への道であることさえできない。

だが第一に、論理学がすべての内容を捨象し、思考の規則を教えるだけで、思考されたものには立ち入らず、その性質を考慮することもできない、と言うのは、すでにまずい言い方である。というのも、思考と思考の規則が論理学の対象であるはずなら、論理学は、まさにそこに自分に固有の内容をただちに持っているからである。論理学はそこに、認識のあの第二の構成要素である質料、すなわちその性質に取り組むべき質料をも持っている。

しかし第二に、論理学の概念がこれまで基づいてきた表象は、一つにはすでに崩れ去っており、もう一つには完全に消え去るべき時が来ている。この学問の立場がより高く捉えられ、論理学がまったく変わった姿を得るべき時が来ているのである。

これまでの論理学の概念は、通常の意識において動かないものとして前提されている、認識の内容と形式との分離、あるいは真理と確信との分離に基づいている。第一に、認識の素材は、出来上がった世界として思考の外に、それ自体でそれだけで存在していることが前提されている。そして、思考はそれだけでは空虚であり、形式として外からその質料に付け加わり、それによって自らを満たし、そこで初めて内容を得て、そうして実在的な認識となる、ということも前提されている。

次に、これら二つの構成要素は、次のような序列で互いに対している。ここで構成要素と言うのは、両者が構成要素の関係をもつべきものとされ、認識はそれらから機械的な、せいぜい化学的な仕方で組み立てられるからである。その序列とは、客体はそれだけで完成された、出来上がったものであり、思考がなくても自らの現実性に少しも欠けるところがないのに対して、思考は何か欠けたものであり、素材に即して初めて自らを完全にし、しかも柔らかく無規定な形式として、自らをその質料に適合させなければならない、というものである。真理とは、思考と対象との一致である。この一致はそれ自体でそれだけで存在するのではないので、それを生み出すためには、思考が対象に従い、順応しなければならないとされる。

第三に、質料と形式、対象と思考との相違が、あのぼんやりした無規定のなかに放置されず、より厳密にとらえられるなら、両者のそれぞれは、他方から区別された領域をなす。そうすると思考は、素材を受け取り形づくる中でも、自分の外に出ることがない。素材を受け取り、それに従うことは、思考自身の変様にとどまり、それによって思考が自分の他者になるわけではない。しかも自己意識的な規定作用は、いずれにせよ思考だけのものである。したがって、思考は対象への関係においても、自分から外に出て対象に達することがなく、対象は物自体として、思考のまったくの彼岸にとどまる。

主観と客観が互いにもつこの関係についての見方は、われわれの通常の、現れとしての意識の本性をなす規定を表している。しかしこれらの偏見が理性に持ち込まれ、理性にもあたかも同じ関係があるかのように、この関係がそれ自体でそれだけで真理をもつかのように扱われるなら、それは誤りである。精神的および自然的な宇宙のあらゆる部分を貫く、その誤りの論駁こそが哲学である。あるいはむしろ、それは哲学への入り口をふさぐので、哲学に入る前に脱ぎ捨てておかなければならない誤りである。

古い形而上学は、この点で、近年通用するようになったよりも高い思考の概念をもっていた。すなわちそれは、思考を通じて物について、物において認識されるものだけが、物において真に真なるものである、ということを基礎に置いた。したがって物は、その直接性においてではなく、思考の形式に高められて初めて、思考されたものとして、真なのである。この形而上学は、こうして、思考と思考の規定は対象にとって異質なものではなく、むしろ対象の本質である、あるいは、われわれの言語もその親近性を表現しているように、物とそれについての思考とはそれ自体でそれだけで一致している、思考の内在的な規定と物の真の本性とは、一つの同じ内容である、と考えた。

しかし反省する悟性が哲学を支配した。この表現は、別の場面ではしばしばスローガンとして使われるが、それが何を言おうとしているのかを正確に知る必要がある。それはおよそ、抽象し、したがって分離する悟性、分離にとどまる悟性を意味する。理性に背を向けると、それは常識としてふるまい、真理は感覚的な実在に基づく、思想はただの思想にすぎない、すなわち感覚的な知覚が初めて思想に内容と実在を与える、理性はそれ自体にとどまるかぎり妄想しか産み出さない、という自分の見方を通用させる。理性がこのように自分を捨てるとき、真理の概念は失われる。真理は、主観的な真理、現れだけを認識することに限られ、事柄そのものの本性には対応しないものだけを認識することに限られる。知は臆見に逆戻りしたのである。

しかし、認識がとるこの転回は、損失であり後退のように見えるが、より深い理由をもっている。近代哲学のより高い精神への理性の高まりも、この理由に基づいている。すなわち、この一般化した表象の理由は、悟性の諸規定が自分自身と必然的に対立することについての洞察のうちに求められなければならない。――すでに挙げた反省とは、具体的な直接的なものを越え出て、それを規定し、分離することである。しかし反省は、同様に、自分のこれらの分離する規定をも越え出て、まずそれらを関係づけなければならない。この関係づけの立場では、それらの対立が現れる。反省のこの関係づけは、それ自体では理性に属する。あの規定を越えて、その対立の洞察に至る高まりは、理性の真の概念への大きな否定的な一歩である。しかし、貫かれなかった洞察は、理性こそが自己矛盾に陥るのだという誤解に落ちる。それは、矛盾こそが、理性が悟性の制限を越えて高まること、そしてその制限を解消することだとは気づかない。ここから最後の一歩を上に踏み出すかわりに、認識は、悟性規定の満足のゆかなさから、感覚的な存在へと逃げ帰り、そこに固いもの、一なるものがあると思い込んでしまった。他方でこの認識は、自分を、ただ現れるものだけの認識であると知っているので、その満足のゆかなさは認められる。しかし同時に、物自体はそうではないが、現象の領域の内部では正しく認識される、という前提も置かれる。あたかも、そこでは対象の種類が違うだけで、一方の種類、すなわち物自体は認識に入らないが、もう一方の種類、すなわち現象は認識に入る、というかのようである。それは、ある人に正しい洞察力があると言いながら、ただしその人は何も真なるものを見て取れず、偽なるものだけを見て取れる、と付け加えるようなものである。この後者がばかげているのと同じように、対象をそれが自体であるように認識しない真の認識というものも、ばかげている。

悟性の諸形式の批判は、先に挙げた結果、すなわちこれらの形式は物自体に適用できないという結果をもたらした。――これは、これらの形式がそれ自体で何か真でないものである、という意味以外ではありえない。ところが、これらの形式が主観的理性と経験にとっては通用するものとして放置されたので、批判は形式自体には何の変更ももたらさず、以前は客観に対して通用していたのと同じ姿のまま、主観のためにそれらを残している。しかしそれらが物自体に対して不十分であるなら、それらが属するとされる悟性は、なおさらそれらで満足し、それで済ませようとはしないはずである。それらが物自体の規定でありえないなら、少なくとも物自体の威厳を認められるべき悟性の規定でも、なおさらありえない。有限と無限の規定は、時間と空間、世界に適用されようと、精神の内部の規定であろうと、同じ対立のうちにある。黒と白が、壁の上で混ぜられようと、パレットの上で混ぜられようと、灰色を与えるのと同じである。われわれの世界表象が、無限と有限の規定をそれに移したときに解体するのなら、その両方を自分の中に含む精神そのものは、いっそう、自己矛盾するもの、自分を解消するものである。――違いを生みうるのは、それらが適用される素材や対象、あるいはそれらがその中にある素材や対象の性質ではない。対象は、ほかならぬこれらの規定によって、これらの規定に従ってのみ、自分のうちに矛盾をもつからである。

あの批判は、こうして、客観的思考の諸形式を物から遠ざけただけで、それらを主観のうちに、見出したままの形で残した。その際それは、これらの形式をそれ自体でそれだけで、その固有の内容に従って考察したのではなく、主観的論理学からそのまま、補助命題のように取り入れた。したがって、形式自体の導出や、主観的論理的形式としての導出は問題にならず、ましてや、それらの弁証法的な考察は問題にならなかった。

より首尾一貫して遂行された超越論的観念論は、批判哲学がなお残した物自体という幽霊、すべての内容から切り離されたこの抽象的な影の無価値さを認識し、それを完全に破壊することを目的とした。この哲学はまた、理性に自分自身からその規定を叙述させる端緒をつくった。しかしこの試みの主観的な態度が、それを完成に至らせなかった。さらにその後、この態度は、それとともにあの端緒や純粋学の形成も、放棄された。

ところが、一般に論理学と理解されているものは、形而上学的な意味をまったく顧みずに考察される。この学問は、現在の状態では、通常の意識で実在や真の事柄として通用するような種類の内容を、たしかにもたない。しかしそれだからといって、形式的な、内実ある真理を欠いた学問なのではない。論理学に欠けているとされ、その満足のゆかなさがそのせいにされるのが常であるあの素材の中には、そもそも真理の領域を求めるべきではない。むしろ、論理的形式の内実のなさは、それらを考察し扱う仕方にだけある。それらが固定した規定としてばらばらに分かれ、有機的な統一のなかにまとめられていないとき、それらは死んだ形式であり、それらの生きた具体的な統一である精神を、自分のうちに宿していない。そのため、それらは確かな内容、――それ自身が内実であるような質料を欠いている。論理的形式に欠けているとされる内容とは、これらの抽象的な規定の確固たる基礎と具体化にほかならず、そのような実体的な本質は、論理的形式の外に求められるのが常である。しかし論理的理性そのものが、あらゆる抽象的規定を自分のうちにまとめる実体的な、すなわち実在的なものであり、それらの確かな、絶対に具体的な統一である。したがって、質料と呼ばれるのが常であるものを、遠くに求める必要はなかった。論理学が内実を欠いているとされるなら、それは論理学の対象の落ち度ではなく、対象のとらえ方の落ち度なのである。

この考察は、論理学を考察すべき立場を、より詳しく示すことへと進む。その際には、この立場がこの学問のこれまでの取り扱い方とどの点で異なるかも示される。この立場は、論理学が今後永遠に立てられるべき、唯一真の立場である。

私は精神の現象学のなかで、意識が、自分と対象との最初の直接的な対立から絶対知へと進む運動を叙述した。この道は、意識の客観に対する関係のあらゆる形式を通り抜け、学の概念をその結果としている。したがってこの概念は、論理学そのものの内部で生じることはさておき、ここでは正当化を必要としない。そこですでにそれを得ているからである。この概念は、意識がそれを産み出すこと、すなわち意識自身のすべての形態がこの概念のなかに真理として解消していくこと以外の正当化には堪えない。――学の概念を論議的に基礎づけたり説明したりすることは、せいぜいそれを表象の前に置き、歴史的な知識を与えることにとどまる。しかし、学の、より詳しくは論理学の定義が証明をもつのは、その成立の必然性においてのみである。ある学問が絶対的な始まりとして立てる定義は、その学問の対象と目的について、認められた、周知のこととして思い描かれているものの、規定された、規則にかなった表現以外のものを含むことができない。まさにこのように思い描かれているということは、歴史的な断言であり、それについては、あれこれの承認されたものを持ち出すことができるだけで、実際には、あれこれを承認されたものとして認めてほしいと、頼み込むかたちで述べることができるだけである。こちらから一人が、あちらから別の人が、あれこれの表現にはなお何かそれ以上の別のものが理解されるべきであり、したがってその定義にはなお詳しい、あるいはより一般的な規定が取り入れられ、それに従って学問も整えられるべきだ、という事例や反証を持ち出すことは、やむことがない。――さらに、何がどこまでの限界と範囲で取り込まれ、排除されねばならないかは、論議にかかっている。論議そのものには、きわめて多様で種類の異なる見解が開かれており、それについては最後には恣意だけが確かな規定を下すことができる。学問をその定義から始めるこのやり方では、その学問の対象、したがって学問自身の必然性が示されるべきだという要求は、まったく問題にならない。

純粋学の概念とその演繹は、したがって、現在の論述では、前提される。精神の現象学は、その演繹以外の何ものでもないからである。絶対知は、意識のあらゆる様式の真理である。というのも、意識のあの歩みがそれを産み出したように、絶対知においてのみ、対象と自分自身の確信との分離が完全に解消し、真理がこの確信に、この確信が真理に、等しくなったからである。

純粋学は、こうして、意識の対立からの解放を前提する。純粋学は思想を含む。ただし、その思想が同様に事柄そのものであるかぎりで、あるいは事柄そのものが同様に純粋な思想であるかぎりでの思想である。学としての真理は、純粋な、みずから展開する自己意識であり、自己の形態をもつ。その形態は、即かつ対自的にあるものが知られた概念であり、概念そのものは即かつ対自的にあるものであるというものである。この客観的な思考が、純粋学の内容である。それゆえ純粋学は、現実的で真の認識のために質料を欠いているという意味で形式的であるどころではない。むしろその内容こそが、絶対に真なるものであり、あるいは、なお質料という語を使うなら、真の質料である。――ただし、形式がそれに外的でないような質料である。この質料はむしろ純粋な思想、したがって絶対的な形式そのものだからである。論理学は、したがって、純粋理性の体系として、純粋な思想の国として捉えられるべきである。この国は、覆いなしに、それ自体でそれだけである真理そのものである。だから、この内容は、神の叙述であり、自然と有限な精神が創造される前の、永遠の本質における神の叙述である、と言い表すことができる。

アナクサゴラスは、ヌース、すなわち思想こそが世界の原理であり、世界の本質は思想として規定されるべきである、という考えを最初に語った人として称えられる。彼はそれによって、宇宙の知性的な見方の基礎を据えた。その純粋な形態は論理学でなければならない。論理学で問題になるのは、思考の外にそれだけで基礎として横たわっている何かについての思考ではなく、真理のただのしるしを与えるはずの形式でもない。思考の必然的な形式と固有の規定こそが、内容であり、最高の真理そのものである。

これを、少なくとも表象に取り入れるには、真理はなにか手でつかめるものでなければならない、という思い込みを脇に置かねばならない。このような手でつかめることは、たとえば、神の思考のうちにあるプラトンのイデアにさえ、持ち込まれている。あたかもイデアが、いわば実在する物であるかのように、ただし別の世界や領域にあるとされ、その外に現実の世界があって、それがイデアとは異なる、その異なりによって初めて実在的である実体性をもつ、とされるのである。プラトンのイデアは、一般的なもの、より詳しくは対象の概念にほかならない。何かが現実性をもつのは、その概念においてのみである。それが概念と異なるかぎり、それは現実的であることをやめ、空しいものとなる。手でつかめるという面や、感覚的な自己外存在という面は、この空しい面に属する。――他方、通常の論理学自身の表象に訴えることもできる。たとえば定義は、認識する主観にだけかかわる規定を含むのではなく、対象の規定、すなわち対象のもっとも本質的な固有の本性をなす規定を含む、と想定されている。あるいは、与えられた規定から別の規定が推論されるときも、推論されたものは対象に外的で異質なものではなく、むしろ対象自身に属し、この思考に有が対応する、と想定されている。――概念、判断、推論、定義、区分などの形式の使用には、そもそもそれらが自己意識的な思考の形式であるだけでなく、対象的な悟性の形式でもある、ということが基礎にある。――思考とは、そこに含まれる規定を、もっぱら意識に帰する表現である。しかし悟性、理性が対象的な世界のうちにあること、精神と自然が、その生命と変化がそれに従って生じる一般的な法則をもつことが語られるかぎり、思考規定が同じように客観的な価値と存在をもつことが認められているのである。

批判哲学は、たしかにすでに形而上学を論理学にした。しかし、先に述べたように、批判哲学は、のちの観念論と同様、客観への恐れから、論理的規定に本質的に主観的な意味を与えた。そのため、論理的規定は、逃れようとした客観を同時に抱え込んだままであり、物自体、すなわち無限の衝撃が、彼岸として、そこに残った。だが、学問が前提できなければならない意識の対立からの解放は、思考規定を、この恐れを抱いた未完成の立場の上に高め、それらがそのような制限や顧慮なしに、それ自体でそれだけである姿、すなわち論理的なもの、純粋に理性的なものとして考察されることを要求する。

カントは別の箇所で、論理学、すなわち通常の意味で論理学と呼ばれる規定と命題の集合について、他の学問に先んじて、これほど早い完成を得たのは幸いだと称賛する。アリストテレス以来、論理学は後退もしなかったが、前進もしなかった。後者は、どう見ても閉じられて完成されているように見えるからだ、というのである。――論理学がアリストテレス以来変わっていないとすれば、そして実際、新しい論理学の概説書を見ると、変化はしばしば削除にすぎないのだが、そこから推論されるのは、むしろ論理学が全面的な作り直しをそれだけ必要としているということである。二千年にわたる精神の営みは、精神に、自分の思考と、自分自身のうちにある純粋な本質態についての、より高い意識を与えているはずだからである。実践的・宗教的な世界の精神、そしてあらゆる種類の実在的・観念的な意識における学問の精神が高まった姿と、論理学、すなわち精神が自分の純粋な本質について持つ意識がある姿とを比べると、その違いはあまりにも大きく、このあとの意識が前の高まりにまったくふさわしくなく、それに値しないことは、もっとも表面的な考察にもすぐに目につくはずである。

実際、論理学を作り直す必要は、とうの昔から感じられていた。教科書に現れている形式と内容において、論理学は、軽蔑されるようになったと言ってよい。論理学は、なお引きずられているが、それは、論理学というものはそもそも必要だという感じと、論理学の重要性についての伝統への習慣が続いているからであって、あの通常の内容と、あの空虚な形式への取り組みに価値と効用があるという確信からではない。

しばらくの間、心理学的、教育学的、さらには生理学的な素材によって論理学に加えられた拡張は、のちにはかなり一般に、歪曲として認められた。これらの心理学的、教育学的、生理学的な観察、法則、規則の大部分は、論理学のなかにあろうと、どこにあろうと、それ自体としてきわめて味気なく、ありふれたものに見えざるをえない。とりわけ、たとえば、本で読んだり口で聞いたりしたことは、考え抜き、吟味すべきである、目がよく見えないなら眼鏡で助けなければならない、といった規則、――教科書がいわゆる応用論理学で、しかも真理に到達するためにと、まじめに節に分けて挙げていた規則は、――誰にとっても余計なものに見えるはずである。――ただ、ほかには内容が短すぎ、死んでいる論理学の内容を、何かで引き伸ばそうと困っている著者や教師だけは、そうではない。

このような内容については、それがなぜこれほど精神を欠いているかの理由は、すでに上で述べた。その規定は、固定した姿で動かずに通用し、ただ外的な関係に置かれるにすぎない。判断と推論において、操作が主として規定の量的なものに還元され、そこに基づけられるので、すべては外的な区別と単なる比較に基づき、完全に分析的なやり方、概念のない計算になる。いわゆる規則と法則、とりわけ推論の導出は、長さの違う小さな棒を指でいじって、大きさに従って選り分け、組み合わせるのと大差なく、さまざまに切り分けられた絵から、合う断片を探して組み合わせる子供の遊びと変わらない。――したがって、この思考を計算と同一視し、計算をまたこの思考と同一視するのは、理由のないことではない。算術では、数は概念を欠いたものとして扱われ、等しいか等しくないか、つまりまったく外的な関係を別にすれば、何の意味もなく、数自身も、数の関係も、思想ではない。四分の三に三分の二を掛けると二分の一になると機械的に計算するとき、この操作には、ある図形でこれこれの種類の推論が成り立ちうるかを計算するのと、ほぼ同じだけの、そして同じだけわずかな、思想しか含まれていない。

論理学のこの死んだ骸骨が、精神によって内実と内容を与えられて生きたものとなるには、論理学の方法が、論理学が純粋な学でありうる唯一の方法でなければならない。論理学が今ある状態では、学問的な方法のかすかな予感さえ認められない。論理学は、おおよそ経験科学の形をとっている。経験科学は、あるべき姿に応じて、素材を定義し分類するという固有の方法を、できるかぎり見いだしている。純粋数学にも、その抽象的な対象と、それだけを考察する量的な規定に適した方法がある。この方法について、そして数学に見出されうる学問性の従属的な性格について、私は『精神の現象学』の序文で本質的なことを述べた。しかしそれは、論理学そのものの内部でもあらためて考察されることになる。スピノザやヴォルフらは、これを哲学にも適用するように誘われ、概念のない量の外的な歩みを概念の歩みにしようとした。これはそれ自体で矛盾している。これまで哲学は、自分の方法をまだ見いだしていなかった。哲学は、数学の体系的な建築をうらやましく眺め、述べたように、そこから方法を借りた。あるいは、与えられた素材と経験の命題と思想の混ぜ合わせにすぎない諸学の方法で間に合わせた。――あるいはまた、あらゆる方法を粗雑に投げ捨てて済ませた。哲学的な学の唯一の真の方法でありうるものの説明は、論理学の論述そのものの中にある。方法とは、論理学の内容の内的な自己運動の形式についての意識だからである。私は精神の現象学のなかで、この方法の一例を、より具体的な対象である意識について示した。†4そこにあるのは意識の諸形態であり、そのそれぞれは、実現されるとき同時に自分を解消し、自分自身の否定をその結果としており、――そのことによって、より高い形態に移っている。学問的な進行を得るために、そのまったく単純な洞察を得ようと本質的に努めるべき唯一のことは、――論理的命題の認識である。すなわち、否定的なものは同様に肯定的であり、自己矛盾するものは、ゼロ、抽象的な無へと解消するのではなく、本質的にはただ、その特殊な内容の否定へと解消するのであり、あるいは、このような否定はあらゆる否定ではなく、解消する規定された事柄の否定であり、したがって規定された否定である。ゆえに結果のなかには、結果がそこから生じてくるものが、本質的に含まれている。――これは本来はトートロジーである。そうでなければ、それは直接的なものであって、結果ではないであろう。結果としてのこの否定が規定された否定であるから、それは内容をもつ。それは新しい概念であるが、先行する概念よりも高く、豊かな概念である。それは、先行する概念の否定、すなわちその対立物の分だけ豊かになっているからである。したがってそれは先行する概念を含み、しかもそれ以上のものを含み、先行する概念とその対立物との統一である。――この道において、概念の体系は一般に形づくられなければならず、――そして、とどまることのない、純粋な、外からなにも取り入れない歩みにおいて、完成されなければならない。

†4 のちに、哲学の他の具体的な対象と、それぞれの部門において。

私が、この論理学の体系で従っている方法、あるいはむしろ、この体系がそれ自身で従っている方法が、なお多くの完成と、個々の点での多くの仕上げを必要としないなどと、どうして考えられようか。しかし同時に、それが唯一の真の方法であることを、私は知っている。このことは、それが対象や内容と別のものではないことから、それ自体で明らかである。――内容を前へと動かすのは、内容そのものであり、内容が自分自身にもっている弁証法だからである。この方法の歩みをたどらず、その単純なリズムに適合しない叙述は、学問的とは認められないことは明らかである。それは事柄そのものの歩みだからである。

この方法に従って、私は次のことを注意しておく。この著作の中で示されている書、部門、章の区分と見出し、またそれに付けられた説明は、予備的な概観のために作られたものであり、実際には歴史的な価値しかもたない。それらは学問の内容や本体に属さず、外的な反省によるまとめである。この反省は、すでに叙述の全体を走り抜けており、それゆえ、諸契機の連なりを事柄そのものによってもたらされるより先に、あらかじめ知っていて、示しているのである。

他の学問でも、このような前もっての規定と区分は、それ自体としては、やはり外的な指示にほかならない。しかも、学問の内部でも、その性格を超えることはない。論理学でさえ、たとえばこう言われる。「論理学には二つの主要部分、要素論と方法論がある」。そして要素論のもとに、そのまま、たとえば見出しとして、思考の法則、とある。――そのあとに、第一章、概念について。第一部門、概念の明晰さについて、等々。――何の演繹も正当化もなしに作られたこれらの規定と区分が、そのような学問の体系的な骨組みと全体の連関をなしている。こうした論理学は、概念と真理は原理から導出されなければならないと語ることを、自分の任務と考えている。しかし、方法と呼ぶものについては、導出ということは遠くにすら考えられていない。秩序は、たとえば同種のものをまとめること、単純なものを複合的なものの前に置くことなどの、外的な配慮にある。内的で必然的な連関に関しては、区分規定の一覧にとどまり、移行は、ただ、いまや次のように言われることで行われる。第二章。――あるいは、われわれはいま判断に至る、など。

この体系に現れる見出しと区分も、それ自体では内容の案内以外の意味をもたないはずである。そのほかに、連関の必然性と区別の内在的な生成は、事柄そのものの論述のなかに見いだされなければならない。それは概念自身の自己規定の進展に属するからである。

概念が自分自身をさらに導くものは、先に述べた否定的なもの、概念が自分自身のうちにもっているものである。これが真に弁証法的なものをなす。弁証法は、論理学の切り離された一部分と見なされ、その目的と立場の点で、言ってよければ、すっかり見誤られてきたが、それによってまったく違う位置を得る。――プラトンの弁証法も、『パルメニデス』にも、またほかの箇所ではなおいっそう直接的に、一つには、限られた主張をそれ自身で解消し論駁することだけを意図し、もう一つには、およそ無を結果とする。弁証法は通常、事柄自体に属さない外的で否定的な営みと見なされ、固いもの、真なるものを揺るがし、解消してしまおうとする主観的な渇望という、単なる虚栄にその根拠をもつか、あるいは少なくとも、弁証法的に扱われた対象の虚しさ以外には何も生まない、とされる。

カントは弁証法をより高い位置に置いた。この面は彼のもっとも大きな功績に数えられる。――彼は、弁証法が通常の表象においてもっているように見える恣意の外見を取り去り、それを理性の必然的な営みとして示した。弁証法が、まやかしを見せ、幻想を生み出す技術としてしか通用しなかった間は、それはいんちきな遊びをしており、その全力は欺瞞を隠すことにだけ基づき、その結果はただ騙し取られたもので、主観的な仮象にすぎない、とあらかじめ決めつけられていた。カントの弁証法的叙述は、純粋理性のアンチノミーにおいて、この著作の展開の中でより詳しく論じられるように、よく考察すれば、大きな称賛には値しない。しかし彼が土台に置き、通用させた一般的な理念は、思考規定の本性に属する、仮象の客観性と矛盾の必然性である。それは、まず、これらの規定が理性によって物自体に適用されるかぎりでのことであるが、それらが理性において、またそれ自体であるものに関してあるところのものが、まさにそれらの本性である。この結果をその肯定的な面でとらえるなら、それは思考規定の内的な否定性、思考規定の自己運動する魂、あらゆる自然的・精神的な生命力一般の原理にほかならない。しかし弁証法的なものの抽象的・否定的な面だけにとどまるなら、結果は、理性は無限なものを認識する能力がない、という周知のものにすぎない。――無限なものは理性的なものであるのに、理性は理性的なものを認識する能力がない、というのは、奇妙な結果である。

ここで捉えられているような弁証法的なものにおいて、したがって対立したものをその統一において、あるいは肯定的なものを否定的なもののなかにとらえることにおいて、思弁的なものは成り立つ。それはもっとも重要な面であるが、まだ訓練されておらず自由でない思考力には、もっとも難しい面である。思考力が、感覚的・具体的な表象と、論議から自らを引き離そうとしている途上にあるなら、まず抽象的な思考のなかで訓練し、概念をその規定性のなかで固持し、それらから認識することを学ばねばならない。この目的のための論理学の叙述は、方法においては上述の区分に従い、より詳しい内容においては個々の概念に与えられる規定に従い、弁証法的なものには立ち入らない、ということになるであろう。それは外形において、この学問の通常の叙述に似たものになり、そのほかの内容においては、それとは異なるものにもなり、そしてなお、思弁的ではないにせよ抽象的な思考を訓練するのに役立つであろう。心理学的・人間学的な付け足しによって通俗化した論理学は、この目的さえ果たすことができない。そうした叙述は、精神に、方法的に秩序づけられた全体の像を与えるであろう。ただし、建物の魂である方法、弁証法的なもののなかに生きている方法は、そこには現れない。

最後に、個人の教養と論理学との関係に関して、一言付け加えておく。この学問は、文法と同じように、二つの異なる見方、異なる価値で現れる。論理学は、論理学や諸学にこれから近づく者にとっては一つのものであり、諸学からそこに戻ってくる者にとっては別のものである。文法を学び始める者は、その形式と法則のなかに、乾いた抽象、偶然的な規則、およそ孤立した規定の寄せ集めを見いだす。それらは、その直接的な意味にあるものの価値と意味しか示さず、認識はそこにまず、それら自身以外の何も認識しない。これに対し、ある言語を使いこなし、同時にそれと比べて他の言語も知っている者には、その言語の文法のなかに、民族の精神と教養が感じ取られる。同じ規則と形式が、いまや満たされた、生きた価値をもつ。その人は、文法を通して、精神一般の表現、すなわち論理を認識することができる。同じように、学問に近づく者は、論理学のうちに、まず孤立した抽象の体系を見いだす。それは自分自身に限られ、他の知識や学問に及ばない。むしろ、世界表象の豊かさ、他の学問の実在的に見える内容に対して、また、この豊かさの本質、精神と世界の内的な本性、真理を明らかにするという絶対的な学の約束と比べると、この学問は、その抽象的な姿、純粋な規定の色のない、冷たい単純さのなかで、その約束以外のことなら何でもできそうに見え、豊かさに対して内実を欠いて立っているように見える。論理学との最初の出会いは、その意味を論理学自身に限ってしまう。論理学の内容は、思考規定との孤立した取り組みとしてしか通用せず、それと並んで、他の学問的取り組みは、それぞれ固有の素材と内実をもっている。論理的なものは、それらに形式的な影響を及ぼすかもしれないが、それはむしろ自然に生じるものであり、そのために学問的な形態や、その学習を、必要とあれば省くこともできる。他の学問は、定義、公理、定理とその証明などの連なりであるという規則的な方法を、全体としては捨ててしまっている。いわゆる自然的論理がそれらの中でおのずと通用し、思考そのものに向けられた特別な認識なしに、先へ進んでいる。さらに、これらの学問の素材と内容は、論理的なものからまったく独立しており、感覚、感情、表象、あらゆる種類の実践的な関心にも、より訴えかける。

こうして、論理学は、たしかにまず学ばれなければならない。よく理解し、洞察できるが、その広がり、深さ、さらなる意味は、最初は欠けているもの、として。他の学問のより深い認識から、はじめて主観的精神にとって、論理的なものが、ただ抽象的に一般的なものではなく、特殊なものの豊かさを自分のうちに含む一般的なものとして、立ち上がってくる。――ちょうど同じ格言が、それを完全に正しく理解する青年の口にあっても、人生経験を積んだ人の精神にある場合のような意味と広がりをもたないのと同じである。後者にとっては、そこに含まれる内実のすべての力が、それによって表現されるのである。論理的なものも、諸学の経験の結果となって初めて、その価値の評価を得る。それは、そこから、一般的な真理として、他の素材や実在と並ぶ特殊な知識としてではなく、そのほかのこの内容すべての本質として、精神に現れる。

論理的なものが、学習の初めには、このように意識された力としては精神にないとしても、それでも精神は、それによって、あらゆる真理へと導く力を、それだけ少なく自分の中に受け取るわけではない。論理学の体系は、影の国であり、あらゆる感覚的な具体化から解放された、単純な本質態の世界である。この学問を学び、この影の国に滞在し、そこで働くことは、意識の絶対的な教養と訓練である。そこで行われるのは、感覚的な直観や目的、感情、単に思われているだけの表象の世界から遠い営みである。否定的な面から見れば、この営みは、論議する思考の偶然性や、これこれの、あるいは反対の根拠を思いつき、通用させる恣意を、遠ざけておくことにある。

しかし何よりも、思想はそれによって自立性と独立性を得る。思想は抽象的なもののなかで、また感覚的な基礎のない概念を通じて進むなかで、住み慣れ、諸学と知識の他の多様性を理性的な形式に受け入れ、その本質的なものにおいて把握し固持し、外的なものを脱ぎ捨て、こうしてそこから論理的なものを引き出す無意識の力となる。――あるいは同じことだが、それ以前に学習によって獲得した論理的なものの抽象的な基礎を、あらゆる真理の内実で満たし、それに、もはや他の特殊なものと並ぶ一つの特殊なものとしてではなく、これらすべてを包み込み、その本質である絶対的に真なるものとしての、一般的なものの価値を与える。

論理学の一般的区分

位置づけ:序論の後半であり、前節で定めた論理学の概念にもとづき、論理学全体の区分を予告する。この区分は、以降の本論の構成を示す見取り図となる。
概要:区分は、外から取った基準によるものではなく、概念自身の規定性を展開して表現するもの、つまり概念の判断でなければならない、と述べる。ここから、有、媒介の領域としての本質、概念という三つの領域が導かれ、本質論は有論と概念論のあいだに立つとされる。カントの超越論的論理学との関係に触れたうえで、論理学は一般に客観的論理学と主観的論理学に分かれ、より詳しくは三つの部分をもつ、と述べる。
身近な例で言えば:木が根・幹・枝葉に分かれるのは、外から線を引いたからではなく、木そのものが育ってそう分かれたからである。論理学の区分も、外から決めた区画ではなく、概念そのものが自らを分けていくものとして示される。

この学問の概念について、またその正当化がどこに属するかについて述べられたことから、ここでの一般的な区分は暫定的なものにしかなりえないことが出てくる。つまり、著者がすでにこの学問を知っているかぎりで示されるものであり、したがって、概念がその展開のなかでどのような主要な区別に自らを規定していくかを、ここであらかじめ歴史的に挙げることができる、というかぎりでのものである。

とはいえ、区分することに必要なことを、あらかじめ一般的に理解してもらうよう試みることはできる。ただしそのときも、方法についての手続きを持ち出さざるをえず、それは学問の内部でしか十分な理解と正当化を得られない。――まず注意しておくと、ここでは、区分は概念と結びついていなければならない、あるいはむしろ概念自身のうちにあるのでなければならない、と前提されている。概念は無規定ではなく、それ自身において規定されている。区分は、この概念の規定性を展開して表現するものであり、概念の判断である。それは、外から取られた何らかの対象についての判断ではなく、判断すること、すなわち概念をそれ自身において規定することである。三角形を区分する規定である直角、鋭角など、あるいは等辺などは、三角形そのものの規定性、つまり三角形の概念と通常呼ばれているものの中にはない。動物一般の概念、あるいは哺乳類、鳥類などの概念の中にも、動物を哺乳類、鳥類などに、またこれらの綱をさらに細かい類に区分する規定はない。こうした規定は、よそから、経験的な直観から取られ、いわゆる概念に外から付け加わる。哲学的な区分の扱いでは、概念自身が、区分の起源を自分のうちに含んでいることを示さなければならない。

論理学の概念そのものは、序論で、彼岸にある学問の結果として、したがってここでも前提として示された。論理学は、それによれば、純粋な思考の学問として規定された。この学問は、その原理として純粋な知をもつ。この知は、抽象的な統一ではなく、次の点で具体的な生きた統一である。すなわち、その統一においては、意識の、主観的なそれだけで存在するものと、第二のそのような存在するもの、すなわち客観的なものとの対立が克服されたものとして、有が純粋な概念としてそれ自体で、純粋な概念が真の有として、知られている。これが、論理的なもののうちに含まれる二つの契機である。しかしこれらは、いまや切り離せないものとして知られている。意識の場合のように、それぞれがまたそれだけで存在するものとして知られているのではない。それらが同時に、それだけで存在するのではないにせよ区別されたものとして知られることによってのみ、それらの統一は抽象的でも、死んでいても、動かないものでもなく、具体的なものとなる。

この統一は、論理的な原理を同時にエレメントとしてなす。したがって、その統一にすでにある区別の展開は、このエレメントの内部でのみ進行する。区分は、述べたように、概念の判断、すなわち概念にすでに内在している規定、したがってその区別を定立することであるから、この定立を、あの具体的な統一をそれらの規定へ、それらが独立して存在するとされるような仕方で、ふたたび解消することと捉えてはならない。そうしたら、それは以前の立場、すなわち意識の対立への空虚な逆戻りになってしまう。この対立はむしろ消えている。あの統一はエレメントにとどまり、区分の、また展開一般の、あの区別立ては、もはやそこから出てこない。こうして、以前は真理への道においてそれだけで存在していた規定、すなわち主観的なものと客観的なもの、あるいは思考と有、あるいは概念と実在は、いずれの観点から規定されていたにせよ、いまその真理において、すなわちその統一において、形式に格下げされる。したがってそれらは、その区別においても、それ自体で全体の概念にとどまり、この概念は、区分においては、ただ自分自身の規定のもとに置かれるだけである。

そこで、全体の概念が、あるときは有する概念として、別のときは概念として考察されなければならない。前者では、それは実在、つまり有の概念にすぎずそれ自体である。後者では、それは概念そのもの、それだけで存在する概念である。具体的な形態を挙げれば、それは思考する人間のうちにあり、また、すでに、意識された概念としてでも、まして知られた概念としてでもないが、感覚する動物や、一般に有機的な個体性のうちにもある。それ自体の概念であるのは、無機的な自然においてだけである。――したがって論理学は、まず有としての概念の論理学と、概念としての概念の論理学とに、あるいは、従来通用しているが、もっとも無規定で、それゆえ多義的な表現を用いれば、客観的論理学と主観的論理学とに区分されることになる。

しかし、基礎にある概念自身の統一というエレメントと、したがって概念の規定の切り離せなさによって、これらの規定は、区別されたものとして、すなわち概念がその区別において定立されるものとして、さらに、少なくとも互いに関係のうちに立たなければならない。ここから、媒介の領域が生じる。すなわち、概念が反省規定の体系となる。これは、概念の内への有へと移行する有であり、そのため、まだそのようなものとして自立して定立されておらず、直接的な有を、自分にも外的なものとして同時に抱え込んでいる。これが本質論であり、有論と概念論の中間に立つ。――本質論は、この論理学の著作の一般的区分では、なお客観的論理学のもとに置かれている。それは、本質がすでに内的なものであるとしても、主観という性格は、明示的に概念にとっておくべきだからである。

カント†5は近年、通常論理学と呼ばれてきたものに対して、さらにもう一つの論理学、すなわち超越論的論理学を対置した。ここで客観的論理学と呼ばれたものは、部分的には、彼の超越論的論理学に対応するであろう。彼はそれを、一般論理学と呼ぶものから、次のように区別する。α) それはアプリオリに対象に関係する概念を考察し、したがって客観的認識の内容のすべてを捨象せず、あるいは対象を純粋に思考する規則を含む。β) 同時に、認識の起源に向かう。ただし、その起源が対象に帰せられえないかぎりで。――カントの哲学的関心がもっぱら向けられているのは、この第二の面である。彼の主要な思想は、範疇を、自己意識に、主観的な自我に、帰属させることである。この規定によって、この見方は意識とその対立の内部にとどまり、感情や直観という経験的なもののほかに、なお、思考する自己意識によって定立され規定されていない何か、物自体、思考にとって異質で外的なものが、残る。物自体のような抽象物が、それ自身、思考の、しかも抽象するだけの思考の産物にすぎないことは、容易に洞察されるのであるが。――他のカント派の人々が、自我による対象の規定について、自我の対象化を意識の根源的で必然的な営みとみなすべきだ、と述べている。この根源的な営みのなかには、まだ自我自身の表象はない。というのも、自我の表象は、あの意識についての意識、あの意識の対象化にすぎないからである。そうだとすれば、意識の対立から解放されたこの対象化する営みは、より詳しくは、思考そのものと一般に受け取りうるものである。†6しかしこの営みは、もはや意識とは呼ばれるべきではない。意識は、自我とその対象との対立を含んでおり、それはあの根源的な営みにはないからである。意識という名称は、思考という表現より、それに主観性という外見をいっそう投げかける。もっとも、この表現はここでは、一般に絶対的な意味で、すなわち無限な、意識の有限性を帯びない思考、要するに思考そのものとして取られなければならない。

カント哲学の関心は、思考規定のいわゆる超越論的なものに向けられていたので、思考規定そのものの論述は空手に終わった。思考規定がそれ自体であるところのもの、すなわち、すべてに共通する自我への抽象的な関係を除いた、それらの相互に対する規定性と関係は、考察の対象にされなかった。それゆえ、この哲学によって、思考規定の本性の認識は、少しも進められなかった。これに関連して唯一興味深いものは、理念の批判のなかにある。しかし、哲学の現実の進歩のためには、思考の関心が形式的な面、すなわち自我、意識そのもの、つまり主観的な知の客観への抽象的な関係の考察に引かれ、無限な形式、すなわち概念の認識が、このようにして導入される必要があった。ただし、この認識に到達するためには、形式が自我、意識であるあの有限な規定性が、なお取り去られなければならなかった。こうして形式がその純粋さにまで考え抜かれると、形式は自分自身のうちに、自分を規定すること、すなわち自分に内容を与えることを、しかもその内容をその必然性において与えることを、含んでいる。――思考規定の体系として。

†5 私が、この著作で、カント哲学に頻繁に言及するのは(余計に見える人もあろうが)、その詳細な規定性や叙述の個々の部分を、ほかの場所でもこの著作でも、どう見ようとも、それが近代ドイツ哲学の基礎であり出発点をなしていること、そしてこの功績は、これに対して非難されるかもしれないことによって、少しも損なわれないことによる、と注意しておく。客観的論理学でも、しばしばカントに言及しなければならないのは、カント哲学が論理的なものの重要なより規定された面に立ち入っているのに対し、その後の哲学の叙述は、それをほとんど顧みず、一部ではしばしば粗野な――ただし報いを受けないわけではない――軽蔑を示してきたからでもある。われわれのもとでもっとも広まっている哲学することは、理性は真の内実を認識できず、絶対的な真理に関しては信仰に委ねるべきだ、というカントの結果から出ていない。しかしカントの結果であるものを、この哲学することでは直接に始まりとし、それによって、その結果が生じるもとになった先行する論述、すなわち哲学的認識である論述を、切り捨ててしまっている。カント哲学は、こうして、思考の怠惰のための枕として役立つ。思考の怠惰は、すでにすべてが証明され終わったと思って安心している。認識のために、またこのような実りのない乾いた安心の中には見いだされない思考の規定された内容のためには、したがってあの先行する論述に向かうほかない。

†6 自我の対象化する営みという表現が、精神の他の産出、たとえば想像力の産出を思い出させるかもしれないが、ここで問題になっているのは、対象の内容契機が感情と直観には属さないかぎりでの、対象の規定である、と注意しておく。そのような対象は思想であり、それを規定するとは、一つにはそれを初めて産出すること、もう一つには、それが前提されたものであるかぎりで、それについてさらなる思想をもち、思考しつつさらに展開することである。

客観的論理学は、こうして、むしろ以前の形而上学、すなわち世界についての学問的な建築物で、ただ思想によってのみ築かれるべきものであった形而上学に、取って代わる。――この学問の最後の形成の姿を考慮すれば、まず第一に、直接に存在論がある。客観的論理学がその位置を占めるのは、この存在論である。――存在論は、あの形而上学のうち、ens(存在者)一般の本性を探究すべきだった部分である。――ensは、有と本質を両方ともうちに含み、この区別のために、われわれの言語は幸いにも異なる表現を残している。――さらに、客観的論理学は、残りの形而上学をも、次のかぎりで含んでいる。すなわち、あの形而上学は、純粋な思考形式とともに、まず表象から取られた個別的な基体、魂、世界、神を捉えようとし、思考の規定が考察の仕方の本質をなしていたかぎりで。しかし論理学は、これらの形式を、あの基体、すなわち表象の主語から自由に、その本性と価値をそれ自体でそれだけで考察する。あの形而上学はこれを怠り、そのため、それらを批判なしに用いたという正当な非難を受けた。すなわち、それらが、カントの言い方では物自体の規定、――あるいはむしろ理性的なものの規定でありうるかどうか、またどのようにしてありうるかを、前もって吟味することなしに用いたからである。――客観的論理学は、それゆえ、それらの真の批判である。――それは、アプリオリ性をアポステリオリなものに対する抽象的な形式の面から考察する批判ではなく、それら自身をその特殊な内容において考察する批判である。

主観的論理学は、概念の論理学である。――それは、有あるいはその仮象への関係を止揚した本質であり、その規定において、もはや外的ではなく、自由で自立した、自己のうちで自分を規定する主観的なもの、あるいはむしろ主観そのものである。――主観的なものは、偶然的なものや恣意的なものという誤解を、またおよそ意識の形式に属する規定という誤解を、伴うので、論理学そのものの内部でのちにより詳しく展開される主観的なものと客観的なものとの区別には、ここでは特別な重みを置かなくてよい。

したがって論理学は、一般には客観的論理学と主観的論理学とに分かれる。ただし、より詳しくは、三つの部分をもつ。

I. 有の論理学、
II. 本質の論理学、
III. 概念の論理学

― 試し読みはここまでです ―

大論理学 第一巻 有論

発行責任者(訳者):飯島健二

発行:古典書房

制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)

参照原典:ドイツ語原典『Wissenschaft der Logik』第一巻(Werke 第3巻、Berlin, 1833年)

初版発行日:2026年10月13日

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