大論理学 第二巻 概念論

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル 著

この本について

本HTMLは、ヘーゲル『論理の学』(Wissenschaft der Logik)第二巻「主観的論理学、あるいは概念論(Die subjective Logik, oder: Die Lehre vom Begriff)」の翻訳です。前書きと本論のすべてを訳しています。

底本:G. W. F. Hegel, Wissenschaft der Logik, Zweiter Theil: Die subjective Logik, oder: Die Lehre vom Begriff(Werke 第5巻、ベルリン、1841年刊の第2版〔無変更再版〕)。原典(ドイツ語本文)は別ファイルで保管しています。

翻訳方針:直訳併記は行わず、現代語訳のみを掲載しています。主要な術語は、概念(Begriff)・判断(Urtheil)・推論(Schluß)・普遍性/特殊性/個別性(Allgemeinheit/Besonderheit/Einzelnheit)・主観性(Subjectivität)・客観性(Objectivität)・機械論(Mechanismus)・化学論(Chemismus)・目的論(Teleologie)・理念(Idee)に統一し、その他の術語は第一巻「有論」「本質論」の翻訳と統一しています。長い文は、意味を変えない範囲で二、三の文に分けています。

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知の地図シリーズ / 古典書房

概説

『概念論』以前の哲学

概念・判断・推論を扱う論理学は、アリストテレスにはじまる。アリストテレスは『オルガノン』と総称される著作群のなかで、述語の種類(カテゴリー)、命題の肯定と否定、そして大前提・小前提・結論から成る三段論法とその格を論じた。ストア派は、「もし〜ならば」「〜か〜か」といった命題どうしの結合を扱う論理学を発展させた。中世のスコラ学は、三段論法の正しい式を覚えるための記憶語を工夫し、普遍が実在するのか名前にすぎないのかをめぐる普遍論争を重ねた。

近世には、『ポール・ロワイヤル論理学』(1662年)が概念の内包と外延とを区別し、ライプニッツは、あらゆる概念を記号で表し計算によって推論する普遍的記号法を構想した。ヴォルフ学派は、こうした論理学を学校で教える体系として整え、それはカントの時代の標準的な論理学となった。

カントは『純粋理性批判』(1781年、第二版1787年)で、判断の形式を量・質・関係・様相の四項目に分けた判断表を掲げ、そこからカテゴリーを導いた。また、あらゆる認識の根底に「我思う」という統覚の統一を置いた。さらに『判断力批判』(1790年)では、生きた有機体に見られる内的な合目的性を論じた。他方でカントは、魂の実体性を証明しようとする合理的心理学を誤謬推理として退け、理念は経験において到達されない目標であるとした。シェリングは、主観と客観との絶対的な同一性を説いた。

『概念論』の哲学の革新

第一は、概念の捉え方である。概念は、多くの物から共通の性質を抜き出したたんなる一般観念ではない。概念は、有と本質との真理として生じた自由なものであり、普遍性・特殊性・個別性という三つの契機を自らのうちに含み、自分を区別しながら自分にとどまる、生きたはたらきである。ヘーゲルは、カントの統覚の統一を高く評価しつつ、それを概念そのものの本性として捉え直した。

第二は、判断と推論の扱いである。従来の論理学では、判断と推論の種類はただ並べて分類されるだけであった。ヘーゲルはこれを、定有の判断から概念の判断へ、定有の推論から必然性の推論へと、概念が自らを深めていく必然的な展開として叙述した。判断は概念の「根源的な分割」であり、推論はその統一の回復であって、「あらゆる理性的なものは推論である」とされる。

第三は、客観性の位置づけである。概念は主観の頭のなかにとどまるものではなく、自らを客観性へと実現する。ヘーゲルはこの移行を、神の概念から神の存在を導く存在論的証明の真の意味として読み直した。客観性は機械論・化学論・目的論として展開し、目的関係は機械論の真理であるとされる。理性の狡知という有名な言葉も、この目的論の節に現れる。

第四は、理念と方法である。理念は、カントのように到達されない彼岸ではなく、概念と実在性との統一としての真理そのものである。理念は生命、認識、絶対的理念として展開し、最後に論理学の内容は「方法」として、すなわち始まりから否定を通して自分自身へと帰る弁証法的な運動として示される。論理学は円環として閉じ、理念は自らを自由に自然として解き放つ。

『概念論』以後の哲学

ヘーゲルは、『論理の学』の要約を『エンツュクロペディー』(初版1817年、第三版1830年)の第一部「論理学」に示し、論理学を自然哲学・精神哲学へと続く体系の基礎とした。ヘーゲルの死後、トレンデレンブルクは『論理学研究』(1840年)で、純粋な思考から運動を導くことはできないとしてヘーゲルの弁証法を批判した。マルクスとエンゲルスは、ヘーゲルの弁証法を唯物論の立場から受け継ぎ、レーニンは第一次世界大戦中に『論理の学』を詳しく読んで、その抜き書きと覚え書きを残した。

他方、フレーゲの『概念記法』(1879年)以後、論理学は記号と計算による形式的な学として大きく発展し、ヘーゲルが批判した推論計算の方向がむしろ主流となった。イギリスでは、ブラッドリーの『論理学原理』(1883年)やボザンケの『論理学』(1888年)が、判断と推論をヘーゲル的な観点から論じた。二十世紀後半以降、ヘーゲルの概念論は、概念の意味を推論のなかでの役割から理解しようとする哲学や、自己意識と自由をめぐる議論のなかで、あらためて読み直されている。

本書における重要な用語

以下、()内は原則としてドイツ語原語。本書の記述にもとづく参考情報であり、解説ボタンで表示される。

概念Begriff
本書の主題。有と本質との真理として、実体の関係から生じた自由なもの。普遍性・特殊性・個別性という三つの契機を含み、自己を区別しながら自己にとどまる。自我の統一と同じ構造をもつ。
主な箇所:概念一般について、概念一般について、A. 普遍的概念
普遍性・普遍的なものAllgemeinheit・das Allgemeine
概念の第一の契機。多くのものに共通する性質の寄せ集めではなく、規定のうちでも自己と等しくとどまり、自らを特殊化する創造的な力。具体的なものの魂とされる。
主な箇所:A. 普遍的概念
特殊性・特殊的なものBesonderheit・das Besondere
概念の第二の契機。普遍が自らを区別したものであり、限界ではなく普遍に内在する契機。類と種の関係として現れる。
主な箇所:B. 特殊的概念、B. 特殊的概念
個別性・個別的なものEinzelnheit・das Einzelne
概念の第三の契機。普遍と特殊とが自己のうちへ帰った、規定された規定性。概念の自己への帰還であると同時に、現実性のうちへ歩み出ることでもあり、概念を判断へと分割する。
主な箇所:C. 個別的なもの、C. 個別的なもの
統覚Apperception
カントのいう「我思う」の統一。ヘーゲルはこれを、概念の本質をなす統一を見抜いた最も深い洞察の一つとして評価する。
主な箇所:概念一般について
判断Urtheil
概念がその契機を主語と述語として自立させる段階。ドイツ語の判断(Urtheil)を「根源的な分割(ursprüngliche Theilung)」と結びつけ、概念の自己分割とする。
主な箇所:第二章 判断、第二章 判断
主語・述語Subject・Prädicat
判断の両極。まずは名前にすぎず、判断の展開を通じて規定を得る。主語は個別的なもの、述語は普遍的なものとしてまず現れる。
主な箇所:第二章 判断、第二章 判断
繋辞Copula
判断の主語と述語を結ぶ「である」。判断の展開とともに、抽象的な有から、根拠によって満たされた統一へと深まり、推論の中項となる。
主な箇所:第二章 判断、第二章 判断、c. 必当然判断
内属・包摂Inhärenz・Subsumtion
述語が主語に属するという関わり合いが内属、述語が主語をそのもとに含むという関わり合いが包摂。定有の判断は内属の判断、反省の判断は包摂の判断とされる。
主な箇所:第二章 判断、B. 反省の判断
定有の判断Urtheil des Daseyns
直接的な性質を述語とする判断。肯定判断・否定判断・無限判断と進む。
主な箇所:A. 定有の判断、c. 無限判断
反省の判断Urtheil der Reflexion
関係のなかで現れる本質的な性質を述語とする判断。単称・特称・全称判断と進む。
主な箇所:B. 反省の判断、c. 全称判断
必然性の判断Urtheil der Nothwendigkeit
類と種の関係に基づく判断。定言・仮言・選言判断と進む。
主な箇所:C. 必然性の判断、a. 定言判断、b. 仮言判断、c. 選言判断
概念の判断Urtheil des Begriffs
事柄をその概念という当為に照らして判定する判断。実然・蓋然・必当然判断と進む。
主な箇所:D. 概念の判断、a. 実然判断、b. 蓋然判断、c. 必当然判断
当為Sollen
そうあるべきこと。概念の判断の基準となる。善の理念が当為にとどまるかぎり、実現は無限進行に陥る。
主な箇所:D. 概念の判断、B. 善の理念
推論Schluß
判断において分かれた概念の統一を中項によって回復するもの。理性的なものであり、「あらゆる理性的なものは推論である」とされる。定有・反省・必然性の推論と進む。
主な箇所:第三章 推論、第三章 推論
中項・中名辞Mitte・Medius Terminus
推論において両極を結び合わせる項。中項が一つの性質にとどまるかぎり推論は偶然的であり、中項が概念の全体性となるとき推論は止揚される。
主な箇所:第三章 推論、A. 定有の推論、c. 選言推論
格Figur
推論の名辞の配置の型。個―特―普、特―個―普、個―普―特、普―普―普の四つが論じられ、それぞれの規定が順に中項の位置を通り抜ける。
主な箇所:b. 第二格 特―個―普、d. 第四格 普―普―普、あるいは数学的推論
帰納・類比Induction・Analogie
反省の推論の第二・第三の形。帰納は個別的な事例を数え上げて類の性質を推論し、類比は個別的なものの普遍的な本性によって推論する。
主な箇所:b. 帰納の推論、b. 帰納の推論
主観性・客観性Subjectivität・Objectivität
概念論の第一部門と第二部門。主観性は概念・判断・推論として展開し、客観性は概念が事柄として実現された姿であり、機械論・化学論・目的論として展開する。
主な箇所:区分、区分、第二部門 客観性
客観・対象Object・Gegenstand
客観性の段階において、それ自体で全体であるもの。対象は、主体にとって向かい合うものとしての一般的な語。
主な箇所:第二部門 客観性、A. 機械的客観
機械論Mechanismus
客観どうしが互いに外的にのみ関係する段階。合成・混合・堆積などの関係にとどまり、精神にも機械的な記憶や習慣として現れる。
主な箇所:第一章 機械論、b. 法則
化学論Chemismus
客観がその本性によって他の客観を求め、中和し、分解する段階。性の関わり合いや愛・友情にも形式的に見られる。
主な箇所:第二章 化学論、C. 化学論の移行
目的・目的論Zweck・Teleologie
目的は、客観性において自己へと至った自由な概念。目的関係は機械論の真理とされ、カントの内的合目的性の区別が高く評価される。
主な箇所:第三章 目的論、第三章 目的論、A. 主観的目的
手段Mittel
目的が客観性と結び合わされる推論の中項。道具は直接的な享受よりも尊いとされる。
主な箇所:B. 手段、C. 実現された目的
理性の狡知List der Vernunft
目的が自ら客観にぶつからず、別の客観を手段として間に差し挟み、自らはその背後で保たれること。
主な箇所:C. 実現された目的
理念Idee
十全な概念、すなわち概念と実在性との統一としての真理そのもの。生命・認識・絶対的理念として展開する。
主な箇所:第三部門 理念、第三部門 理念、第三部門 理念
生命Leben
直接的な理念。生きている個体・生命過程・類として展開し、その肢体は全体のうちでのみ本性をもつ有機体をなす。
主な箇所:第三部門 理念、第一章 生命
類Gattung
種に分かれる普遍であり、生命においては個体を通して自らを実現する普遍。類の過程における個体の死から精神が現れる。
主な箇所:a. 定言判断、C. 類、C. 類
認識Erkennen
自らを対象とする理念。真なるものの理念(理論的認識)と善の理念(実践的理念)とに分かれる。
主な箇所:第二章 認識の理念、A. 真なるものの理念
分析的認識・総合的認識analytisches・synthetisches Erkennen
分析的認識は与えられた対象から概念規定を取り出し、総合的認識は異なる規定をその統一において把握しようとする。
主な箇所:a. 分析的認識、b. 総合的認識
定義・区分・定理Definition・Eintheilung・Lehrsatz
総合的認識の三つの段階。定義は最も近い類と種差による規定、区分は普遍から特殊への前進、定理は規定どうしの必然的な関係で証明を必要とする。
主な箇所:1. 定義、2. 区分、3. 定理
善das Gute
実践的理念の内容。自らを現実的なものと確信し、世界を変えようとする。真なるものの理念と合一されて絶対的理念となる。
主な箇所:B. 善の理念、B. 善の理念
絶対的理念absolute Idee
理論的理念と実践的理念との同一性であり、哲学の唯一の対象。その内容は方法である。
主な箇所:第三章 絶対的理念、第三章 絶対的理念
方法Methode
絶対的理念の内容の普遍的な形式。認識の外から持ち込まれる道具ではなく、概念そのものの運動であり、始まり・前進・帰還の円環をなす。
主な箇所:第三章 絶対的理念、第三章 絶対的理念、第三章 絶対的理念
弁証法Dialektik
最初の普遍的なものが自らを他のものとして規定する契機。その結果は空虚な無ではなく、最初のものを保存した否定である。
主な箇所:第三章 絶対的理念、第三章 絶対的理念
否定の否定Negation der Negation
方法の転回点。矛盾の止揚であり、生命と精神のあらゆる自己運動の源。これによって主体・人格・自由なものが成り立つ。
主な箇所:b. 否定判断、第三章 絶対的理念
運命Schicksal
主体がそれを自らの本性として認識していない、客観的な普遍性としての威力。行為を犯した自己意識だけが本来の運命をもつ。
主な箇所:b. 実在的な機械的過程

目次

主観的論理学、あるいは概念論

位置づけ:『論理の学』第二巻「主観的論理学」の全体の表題である。第一巻「客観的論理学」(有論・本質論)に続き、論理学全体を締めくくる。
概要:有と本質とを通り抜けてきた論理の運動が、ここで自分自身を知る「概念」の段階に入る。概念論は主観性・客観性・理念の三部門から成る。
身近な例で言えば:旅の記録をあとから読み返すと、出来事の一つひとつが一本の筋として見えてくる。概念論は、それまでの歩み全体を自分自身の筋として捉え直す段階にあたる。


前書き

位置づけ:概念論の初版(1816年)に付された著者自身の前書きである。
概要:この部分が「主観的論理学の体系」という書名でも別に刊行される理由を述べる。概念の論理学には、すでに出来上がって骨化した材料が大量にあり、課題はそれを流動させ、死んだ素材のうちに生きた概念をふたたび燃え立たせることだとされる。さらに、真理という対象の大きさと、職務上の事情による散漫な仕事とを、不完全な仕上がりの弁明として挙げる。
身近な例で言えば:使い込まれた道具箱をいったん全部ひっくり返し、必要なものだけを選んで並べ直すのは、新しく道具をそろえるより骨が折れることがある。前書きは、伝統的な論理学の素材を生き返らせる仕事の難しさを語っている。

論理学のこの部分は、概念論を含み、全体の第三部をなすものであるが、主観的論理学の体系という特別な書名のもとでも刊行される。それは、この学の友人たちのうちで、ここで扱われる、通常いわゆる論理学の範囲に含まれる素材に対して、最初の二つの部分で扱われたさらなる論理的な対象よりも大きな関心をもつことに慣れている人々の便宜のためである。――これまでの部分については、私に足がかりや材料や進行の糸口を与えてくれたはずの先行する仕事がわずかしかなかったことを理由に、公正な批評家の寛容を求めることができた。今回の部分については、私はむしろ反対の理由から、この寛容を求めてよいであろう。というのも、概念の論理学については、まったく出来上がって固まった、いわば骨化した材料が見いだされ、課題は、それを流動させ、このような死んだ素材のうちに生きた概念をふたたび燃え立たせることにあるからである。荒れた土地に新しい町を建てることにはそれなりの困難がある。しかし、古くからしっかりと建てられ、絶えず所有され住まわれてきた町に新しい区画を与えることが問題であるときには、材料はたしかに十分にあるが、それだけ別の種類の障害が多い。その一つとして、ほかでは価値あるとされてきた蓄えの多くを、まったく使わないと決心しなければならない。――

しかし何よりも、対象そのものの大きさが、不完全な仕上がりの弁明として挙げられてよい。というのも、認識にとって、真理そのものより崇高な対象があるだろうか。――しかし、まさにこの対象こそが弁明を必要とするのではないか、という疑いも、ピラトゥスが「真理とは何か」という問いを発したときの意味を思い起こすならば、的外れではない。――詩人によれば、ピラトゥスはそれを、

――――宮廷人の顔つきで発した。

その顔つきは、近視眼的に、しかし微笑みながら、真剣な事柄を断罪する。そうであれば、あの問いは、礼儀の一契機とみなしうる意味を含み、また次のことの想起を含んでいるのではないか。すなわち、真理を認識するという目標は、周知のとおり放棄されたもの、とうに片づけられたものであり、真理に到達できないことは、職業としての哲学者や論理学者のあいだでも認められている、ということである。――しかし、事物や洞察や行為の価値についての宗教の問いは、内容上は同じ意味をもつ。その問いが現代においてふたたびその権利をより多く取り戻しつつあるのだとすれば、哲学は、次のことを望んでしかるべきであろう。すなわち、哲学がふたたび、まずはそれ自身の直接の領域においてその真の目標を主張し、ほかの諸学の流儀と、真理を要求しない控えめさのうちへと落ち込んだあとで、ふたたびその目標へと高まろうと努めることも、もはやそれほど奇異には思われないであろう、ということである。この試みそのものについて弁明をすることは、本来許されないであろう。しかし、その仕上げについては、弁明としてなお次のことを述べてよいであろう。すなわち、私の職務上の事情とその他の個人的な事情は、散漫でない、分割されない努力を必要とし、またそれに値する学において、私に散漫な仕事しか許さなかった、ということである。

概念一般について

位置づけ:概念論全体への序論にあたる節である。
概要:概念は、有と本質との真理として、実体の関係から生じたものであることが示される。概念は自由なもの、自我と同じ構造をもつものとされ、カントの統覚の統一との関係、悟性と理性、概念と直観・表象との違いが論じられる。最後に、概念は真理そのものであり、論理学は概念の自己展開を叙述する、と述べられる。
身近な例で言えば:「わたし」は、さまざまな経験をしながらも、それらをすべて「わたしの経験」としてまとめている。概念とは、このように多様なものを自分自身として抱えこむ統一のはたらきである。

概念の本性が何であるかは、何か他の対象の概念が直接に立てられえないのと同じく、直接に述べることはできない。対象の概念を述べるためには論理的なものが前提されており、したがって論理的なものは、それ自身また何か他のものを前提としてもつことも、導き出されたものであることもできない、と見えるかもしれない。それはちょうど、幾何学において、大きさに適用されて現れ、この学で用いられるような論理的命題が、公理、すなわち導き出されず導き出すこともできない認識規定という形式で前置きされるのと同様である。さて、概念はたしかに、たんに主観的な前提としてではなく、絶対的な基礎とみなされるべきである。しかし、概念がそのようなものでありうるのは、自らを基礎としたかぎりにおいてのみである。抽象的に直接的なものは、たしかに最初のものである。しかし、この抽象的なものとしては、それはむしろ媒介されたものであり、したがって、その真理においてとらえられるべきであるならば、その基礎はこれからはじめて探されなければならない。それゆえ、この基礎はたしかに直接的なものでなければならないが、媒介の止揚から自らを直接的なものとしたものでなければならない。

言い換え:概念が何であるかを、外から定義して示すことはできない。概念は、自分で自分を基礎づけることによってのみ、学問全体の基礎となりうる。

この側面から見れば、概念は、まず、およそ有と本質とに対する、直接的なものと反省とに対する第三のものとみなされるべきである。そのかぎりで、有と本質とは概念の成の契機である。しかし概念は、有と本質とがそのうちで没落し、かつ含まれている同一性として、両者の基礎であり真理である。有と本質とは、概念がその結果であるから、概念のうちに含まれている。しかし、もはや有としても本質としても含まれているのではない。両者がこの規定をもつのは、まだ自らのこの統一へと帰っていないかぎりにおいてのみである。

言い換え:有と本質は、概念が生まれてくる途中の段階である。しかし生まれた概念から見れば、有と本質は概念のうちに含まれ、そこで止揚されている。

それゆえ、有と本質とを考察する客観的論理学は、本来、概念の発生的な叙述をなしている。より詳しく言えば、実体はすでに実在的な本質である。すなわち、有と合一され、現実性のうちへ歩み入ったかぎりでの本質である。それゆえ、概念は実体を自らの直接的な前提としてもつ。実体は、概念が顕示されたものとしてそうであるものの、即自である。それゆえ、因果性と相互作用とを通り抜ける実体の弁証法的運動は、概念の直接的な発生であり、それによって概念の成が叙述される。しかし、概念の成は、およそ成がいたるところでそうであるように、移行するものが自らの根拠へと反省することであり、前者がそこへと移行した、さしあたり見かけ上の他のものが、前者の真理をなす、という意味をもつ。そのようにして、概念は実体の真理である。そして、実体の規定された関係の仕方は必然性であるから、自由が必然性の真理として、また概念の関係の仕方として示される。

実体に固有の必然的なさらなる規定は、即自かつ対自的にあるものを定立することである。さて、概念とは、有と反省とのこの絶対的統一である。すなわち、即自かつ対自有は、それが同じく反省あるいは定立されてあることであることによってはじめてあり、そして定立されてあることが即自かつ対自有である、という統一である。――この抽象的な結果は、その具体的な発生の叙述によって明らかになる。この叙述は概念の本性を含んでいるが、概念を論じることに先立っていなければならない。それゆえ、この叙述(客観的論理学の第二書で詳しく論じられた)の主要な契機を、ここで手短にまとめておかなければならない。

実体とは絶対者であり、即自かつ対自的に存在する現実的なものである。――即自的には、可能性と現実性との単純な同一性として、すべての現実性と可能性とを自らのうちに含む絶対的な本質であり、対自的には、絶対的な威力としての、あるいは端的に自己に関係する否定性としてのこの同一性である。――これらの契機によって定立される実体性の運動は、次のことに存する。

1. 実体は、絶対的な威力として、あるいは自己に関係する否定性として、自らを区別して一つの関係とする。そこでは、あの契機は、まずただ単純な契機として、実体として、また根源的な前提としてある。――それらの規定された関係は、一方は受動的な実体の関係である。――それは単純な即自有の根源性であり、この即自有は、威力をもたず、自己自身を定立せず、ただ根源的な定立されてあることにすぎない。――他方は、自己に関係する否定性の能動的な実体の関係である。この否定性は、そのようなものとして自らを他のものとして定立し、この他のものに関係する。この他のものこそ受動的な実体であり、能動的な実体はその威力の根源性のうちで、それを条件として前提したのである。――この前提することは、次のようにとらえられるべきである。すなわち、実体の運動そのものは、まずその概念の一方の契機、すなわち即自有の形式のもとにあり、関係のうちにある実体の一方の規定性が、この関係そのものの規定性でもある、ということである。

2. もう一方の契機は対自有である。すなわち、威力が自らを自己自身に関係する否定性として定立し、それによって前提されたものをふたたび止揚する、ということである。――能動的な実体は原因である。原因は作用する。すなわち、原因はさきに前提することであったように、いまや定立することであり、a)威力には威力の仮象も、定立されてあることには定立されてあることの仮象も与えられる。前提のうちで根源的なものであったものは、因果性のうちで、他のものへの関係によって、それが即自的にそうであるものとなる。原因は結果を、しかも他の実体において産出する。原因はいまや、他のものへの関係における威力である。そのかぎりで、原因は原因として現象するが、この現象することによってはじめて原因である。――受動的な実体には結果が到来し、それによって受動的な実体はいまや定立されてあることとしても現象するが、そこにおいてはじめて受動的な実体である。

3. しかし、ここには、たんにこの現象だけでなく、さらに多くのものが現にある。すなわち、a)原因は受動的な実体に作用し、その規定を変化させる。しかし、その規定は定立されてあることであり、受動的な実体においてはほかに変化させるべきものは何もない。そして、受動的な実体が受け取るもう一つの規定は原因性である。したがって、受動的な実体は原因となり、威力となり、活動となる。b)原因によって受動的な実体において結果が定立される。しかし、原因によって定立されたものは、作用のうちで自己と同一な原因そのものである。受動的な実体の位置に自らを置くのは、この原因である。――同様に、能動的な実体に関しては、a)作用とは、原因が結果へと、すなわち自らの他のもの、定立されてあることへと移し置かれることである。そして、b)結果のうちで原因は、それがそうであるものとして示される。結果は原因と同一であり、他のものではない。したがって、原因は作用のうちで、定立されてあることを、自らが本質的にそうであるものとして示す。――こうして、他方を自らに関係させる同一的な関係と否定的な関係という両側面に従って、どちらも自己自身の反対となる。しかし、どちらもこの反対になるのは、他方が、したがってどちらもが、自己自身と同一であり続けるという仕方においてである。――だが、同一的な関係と否定的な関係とは、一つの同じものである。実体はただその反対のうちでのみ自己自身と同一であり、このことが、二つとして定立された実体の絶対的同一性をなしている。能動的な実体は、作用によって、すなわち自らを自己自身の反対として定立し、それが同時に自らの前提された他在、すなわち受動的な実体の止揚であることによって、原因として、あるいは根源的な実体性として顕示される。逆に、作用を及ぼすことによって、定立されてあることが定立されてあることとして、否定的なものが否定的なものとして、したがって受動的な実体が自己に関係する否定性として顕示される。そして原因は、自己自身のこの他のもののうちで、端的にただ自己と合致する。したがって、この定立によって、前提された、あるいは即自的に存在する根源性は対自的となる。しかし、この即自かつ対自有は、この定立が同じく前提されたものの止揚であることによってのみある。あるいは、絶対的実体は、ただその定立されてあることから、またそのうちで自己自身へと帰ってきたのであり、それによって絶対的である。したがって、この相互作用は、ふたたび自らを止揚する現象である。それは因果性の仮象の啓示であり、そこでは原因は、それが仮象であるということとして原因である。即自かつ対自有は、それが定立されてあることであることによってはじめてある、という、自己自身へのこの無限な反省が、実体の完成である。しかし、この完成はもはや実体そのものではなく、より高いもの、すなわち概念、主体である。実体性の関係の移行は、それ自身の内在的な必然性によって起こるのであり、概念が実体の真理であり、自由が必然性の真理である、という必然性自身の顕示にほかならない。

すでに以前、客観的論理学の第二書、194頁以下の注解において、実体の立場に立ち、そこにとどまる哲学はスピノザの体系である、ということに注意しておいた。そこでは同時に、この体系の欠陥が、形式の上でも素材の上でも示された。しかし、その体系の反駁は別のことである。ある哲学体系の反駁に関しては、同じく別の箇所で、次のような一般的な注意をしておいた。すなわち、その体系がまったく誤りとして示されるべきであるかのように、また真の体系はそれに対して誤った体系にただ対立しているだけであるかのように考える、ゆがんだ表象を、そこから追い払わなければならない、ということである。ここでスピノザの体系が現れる連関から、その体系の真の立場と、それが真か偽かという問いの真の立場とは、おのずから明らかになる。実体性の関係は本質の本性によって生み出された。それゆえ、この関係も、また一つの全体へと拡張された体系におけるその叙述も、絶対者がそこに身を置く必然的な立場である。したがって、そのような立場は、意見、すなわち個人の主観的で恣意的な表象の仕方や思考の仕方として、また思弁の迷いとして見られるべきではない。むしろ思弁は、自らの道において必然的にそこへと移されるのであり、そのかぎりでこの体系は完全に真である。――しかし、それは最高の立場ではない。ただ、そのかぎりにおいて、この体系は誤りとして、反駁を必要とし、また反駁されうるものとしてみなされることはできない。そうではなく、それが最高の立場であるということだけが、その体系について誤ったものとみなされるべきである。それゆえ、真の体系も、その体系に対して、ただそれに対立しているという関係をもつことはできない。というのも、そうであれば、この対立したものそれ自身が一面的なものとなるであろうからである。むしろ、より高いものとして、真の体系は従属するものを自らのうちに含まなければならない。

さらに、反駁は外から来てはならない。すなわち、あの体系の外にあり、その体系が対応しない想定から出発してはならない。その体系は、ただそれらの想定を承認しなければよいのである。その欠陥は、それらの想定にもとづく要求や要請から出発する人にとってのみ欠陥である。そのかぎりで、自己意識をもつ主体の自由と自立性とを、それだけで決定済みのこととして前提しない人にとっては、スピノザ主義のいかなる反駁も成り立たない、と言われてきた。いずれにせよ、実体性の関係のような、きわめて高く、それ自身のうちですでにきわめて豊かな立場は、あの想定を無視するのではなく、それをも含んでいる。スピノザの実体の属性の一つは思考である。むしろ、この立場は、あの想定がそれと矛盾するときの規定を解消し、自らのうちに引き入れることを心得ている。そのため、それらの想定はその立場のうちに、ただしその立場にふさわしい変容において現れる。そうなると、外的な反駁の要は、もっぱら、あの想定の対立した形式、たとえば、思考する個人の絶対的な自立存在を、絶対的実体のうちで延長と同一なものとして定立されている思考の形式に対して、自分の側でかたくなに固持することにのみ存する。真の反駁は、相手の力のうちに入り込み、その強さの圏内に身を置かなければならない。相手を相手自身の外で攻撃し、相手のいないところで正しさを保っても、事柄は少しも進まない。それゆえ、スピノザ主義の唯一の反駁は、まずその立場が本質的で必然的なものとして承認され、次にこの立場が自己自身からより高い立場へと高められる、ということにのみ存しうる。実体性の関係は、まったくただ即自かつ対自的にそれ自身として考察されるならば、自らをその反対、すなわち概念へと移行させる。それゆえ、概念へと導く、前の書に含まれた実体の叙述こそが、スピノザ主義の唯一の真の反駁である。それは実体の覆いを取ることであり、それが概念の発生であって、その主要な契機は上にまとめておいた。――実体の統一は、実体の必然性の関係である。しかし、そのようにしては、それはただ内的な必然性にすぎない。実体の統一は、絶対的否定性の契機によって自らを定立することによって、顕示された、あるいは定立された同一性となり、それによって自由となる。自由は概念の同一性である。概念は、相互作用から結果する全体性であり、相互作用の二つの実体の統一である。ただしそれは、二つの実体がいまや自由に属するという仕方においてである。すなわち、二つの実体は、もはや自らの同一性を盲目的なもの、すなわち内的なものとしてもつのではなく、本質的に仮象あるいは反省の契機であるという規定をもつ。それによって、それぞれは自らの他のもの、あるいは自らの定立されてあることと同じく直接に合致しており、それぞれが自らの定立されてあることを自己自身のうちに含み、したがって自らの他のもののうちで端的にただ自己と同一なものとして定立されている。

言い換え:ある哲学体系を反駁するには、その体系の外から別の前提を持ち込むのでは足りない。その体系自身の立場に入りこみ、その立場を内側から越え出なければならない。

それゆえ、概念において自由の国が開かれた。概念が自由なものであるのは、実体の必然性をなしていた即自かつ対自的に存在する同一性が、同時に止揚されたものとして、あるいは定立されてあることとしてあり、そしてこの定立されてあることが、自己自身に関係するものとして、まさにあの同一性だからである。因果関係のうちにある実体が互いに対してもっていた暗さは消え去った。というのも、それらの自立存在の根源性は定立されてあることへと移行し、それによって自己自身にとって透明な明るさとなったからである。根源的な事柄は、ただ自己自身の原因であることによって、そのようなものである。そしてこれが、概念へと解放された実体である。

このことから、ただちに概念について次のようなより詳しい規定が明らかになる。即自かつ対自有は直接に定立されてあることとしてあるのだから、概念は、自己自身への単純な関係のうちで、絶対的な規定性である。しかしこの規定性は、同じくただ自己に関係するものとして、直接に単純な同一性である。だが、規定性の自己自身への関係は、規定性の自己との合致として、同じく規定性の否定でもある。そして、概念は、自己自身とのこの同等性として普遍的なものである。しかし、この同一性は同じく否定性という規定をもつ。それは自己に関係する否定あるいは規定性である。そのようにして、概念は個別的なものである。どちらも全体性であり、どちらも他方の規定を自らのうちに含んでいる。それゆえ、これらの全体性は、端的にただ一つのものであるが、同じく、この統一は、この二つであることという自由な仮象へと自己自身を分裂させることである。――この二つであることは、個別的なものと普遍的なものとの区別において、完全な対立として現れる。しかし、この対立はまったくの仮象であるので、一方が把握され言い表されるとき、そこにおいて他方も直接に把握され言い表されている。

言い換え:概念は、自分自身にだけ関係する規定性である。自己と等しいという面から見れば普遍であり、自己に関係する否定という面から見れば個別である。どちらの面も、他方を含んでいる。

いま述べたことは、概念の概念とみなされるべきである。それが、ふつう概念と理解されているものから外れているように見えうるとすれば、ここで概念として明らかになったものと同じものが、ほかの表象や説明のうちにどのように含まれているかを示すよう、求められるかもしれない。しかし、一方では、ふつうの理解の権威にもとづく確認が問題でありうるわけではない。概念の学においては、概念の内容と規定とは、ただ内在的な演繹によってのみ証明されうる。この演繹は概念の発生を含んでおり、それはすでに私たちの背後にある。他方では、ふつう概念の概念として示されるもののうちにも、即自的には、ここで演繹された概念が認められるはずである。しかし、ほかの人々が概念の本性について述べたことを見つけ出すのは、それほど容易ではない。というのも、たいていの人はこのような探求にまったくかかわらず、概念について語れば誰でもおのずから分かるものと前提しているからである。近ごろは、概念にかかわる苦労をなおさら免れていると思うことができた。というのも、一時期は想像力について、次には記憶について、ありとあらゆる悪口を言うのが流行であったように、哲学においては、かなり前から、概念にあらゆる悪評を浴びせ、思考の最高のものである概念を軽蔑し、その代わりに、学問的にも道徳的にも最高の頂点として、把握できないものと把握しないことをみなすことが習慣となり、いまもなお一部ではそうだからである。

ここでは、展開される概念をとらえるのに役立ち、それになじむのを容易にするかもしれない一つの注意に限っておく。概念は、それ自身自由であるような実存にまで至ったかぎりでは、自我、あるいは純粋な自己意識にほかならない。私はたしかに概念を、すなわち規定された概念をもつ。しかし、自我は純粋な概念そのものであり、それは概念として定有に達したものである。それゆえ、自我の本性をなす根本規定を思い起こすとき、よく知られたもの、すなわち表象になじみのものを思い起こすのだと前提してよい。さて、自我は、まず、この純粋な、自己に関係する統一である。しかもそれは直接にそうなのではなく、あらゆる規定性と内容とを捨象し、制限のない自己との同等性の自由のうちへ帰ることによってそうなのである。そのようにして、自我は普遍性である。すなわち、捨象として現れるあの否定的なふるまいによってのみ自己との統一である統一であり、それによってあらゆる規定されてあることを自らのうちに解消して含んでいる。次に、自我は同じく直接に、自己自身に関係する否定性として、個別性、絶対的な規定されてあることである。それは他のものに向かい合って立ち、他のものを排除する。すなわち、個人的な人格性である。同じく直接に絶対的な個別化であるあの絶対的な普遍性、そして、端的に定立されてあることであり、定立されてあることとの統一によってのみこの即自かつ対自有であるような即自かつ対自有、これが、自我の本性をなすと同時に、概念の本性をなしている。この二つの契機が、その抽象においてと同時にその完全な統一においてとらえられないならば、自我についても概念についても何も把握できない。

ふつうの仕方で、自我がもつ悟性について語られるとき、それは一つの能力あるいは性質と理解されている。それは、物の性質が物そのものに対する関係のように、自我に対する関係のうちにあるとされる。――物とは、その性質の真の根拠でも規定するものでもない、無規定な基体である。この表象に従えば、自我は、上着や色やその他の外的な性質をもつのと同じように、諸概念や概念をもつことになる。――カントは、概念の能力としての悟性と、概念そのものとの、自我に対するこの外的な関係を越え出た。概念の本質をなす統一が、統覚の根源的に総合的な統一として、すなわち「我思う」の統一、あるいは自己意識の統一として認識されていることは、『理性批判』に見いだされる最も深く最も正しい洞察の一つである。――この命題がいわゆるカテゴリーの超越論的演繹をなしている。しかし、この演繹は昔から、カント哲学のもっとも難しい部分の一つとみなされてきた。――それは、自我と悟性あるいは概念が、物とその性質や偶有に対してもつような関係のたんなる表象を越えて、思想へと進むことを要求するから、というほかに理由はないであろう。カントは『純粋理性批判』第2版137頁で、客観とは、与えられた直観の多様なものがその概念のうちで合一されているものである、と言う。しかし、表象のあらゆる合一は、その総合における意識の統一を必要とする。したがって、この意識の統一こそが、表象の対象への関係、したがって表象の客観的妥当性をなす唯一のものであり、悟性の可能性そのものもそれにもとづく。カントは、これから主観的な統一を区別する。それは表象の統一であり、私が多様なものを同時に意識しているか継起的に意識しているかであって、経験的な条件に依存する、という。これに対して、表象の客観的な規定の原理は、もっぱら統覚の超越論的統一の原則から導き出されなければならない、という。客観的な規定であるカテゴリーによって、与えられた表象の多様なものは、意識の統一へともたらされるように規定される、という。――この叙述に従えば、概念の統一とは、何かがたんなる感情の規定、直観、あるいはたんなる表象ではなく、客観であることをなすものであり、この客観的な統一は、自我の自己自身との統一である。――対象を把握することは、実際には、自我が対象を自分のものとし、それに浸透し、それを自我自身の形式へと、すなわち直接に規定性である普遍性、あるいは直接に普遍性である規定性へともたらす、ということにほかならない。直観においても表象においても、対象はなお外的なもの、疎遠なものである。把握することによって、対象が直観し表象することのうちでもっている即自かつ対自有は、定立されてあることへと変えられる。自我は対象に思考しつつ浸透する。しかし、対象は、思考のうちにあるときにはじめて即自かつ対自的にある。直観あるいは表象のうちにあるときには、対象は現象である。思考は、対象がまず私たちの前に現れるときの直接性を止揚し、そのようにして対象から定立されてあることを作り出す。しかし、対象のこの定立されてあることこそが対象の即自かつ対自有、すなわちその客観性である。したがって、対象はこの客観性を概念のうちにもつ。そして概念とは、対象がそこへと取り入れられた自己意識の統一である。それゆえ、対象の客観性、あるいは概念それ自身は、自己意識の本性にほかならない。それは自我そのもの以外の契機も規定ももたない。

言い換え:自我は、概念を道具のように「もっている」のではない。カントが統覚の統一として見抜いたように、自我の統一そのものが概念のはたらきである。

これに従えば、概念が何であるかを認識するために、自我の本性を思い起こすことは、カント哲学の一つの主要命題によって正当化される。しかし逆に、そのためには、さきに述べたように、自我の概念をとらえていることが必要である。私たちのふつうの意識に浮かんでいるような、自我のたんなる表象にとどまるならば、自我はただの単純な物にすぎない。それは魂とも呼ばれ、概念はそれに所有物あるいは性質として内属する。自我も概念も把握しようとしないこの表象は、概念を把握することを容易にしたり、近づけたりするのに役立つことはできない。

上に挙げたカントの叙述は、概念にかかわる二つの側面をなお含んでおり、いくつかのさらなる注意を必要とする。まず、悟性の段階には、感情と直観の段階が先立てられている。そして、概念は直観なしには空虚であり、ただ直観によって与えられた多様なものの関係としてのみ妥当性をもつ、ということが、カントの超越論的哲学の本質的な命題である。次に、概念は認識の客観的なものとして、したがって真理として述べられた。しかし他方では、概念はたんに主観的なものとして受け取られ、そこからは実在性をほじくり出すことはできないとされる。ここで実在性とは、主観性に対置されるのだから、客観性と理解されるべきである。そして、およそ概念と論理的なものとは、内容を捨象するがゆえに真理を含まない、ただ形式的なものと説明される。

さて、まず、悟性あるいは概念が、それに前提されている段階に対してもつあの関係についていえば、あの段階の形式を規定するためには、論じられる学が何であるかが問題となる。私たちの学、すなわち純粋な論理学においては、この段階は有と本質である。心理学においては、悟性に先立てられるのは感情と直観、次いで表象一般である。意識の理論としての精神の現象学においては、感覚的意識の段階、次いで知覚の段階を経て悟性へと昇った。カントは悟性に、ただ感情と直観とを先立てるだけである。この段階の梯子がまずどれほど不完全であるかは、カント自身が、超越論的論理学あるいは悟性論の付録として、さらに反省概念についての論述を付け加えていることによって、すでに示している。――これは、直観と悟性とのあいだ、あるいは有と概念とのあいだにある圏域である。事柄そのものについては、まず、直観、表象などのあの形態は自己意識的な精神に属し、精神はそれとしては論理学において考察されない、ということに注意しなければならない。有、本質、概念の純粋な規定は、たしかに精神の諸形式の基礎であり、その内的な単純な骨組みでもある。直観するものとしての、同じく感覚的意識としての精神は、直接的な有の規定性のうちにある。表象するものとしての、また知覚する意識としての精神は、有から本質あるいは反省の段階へと高まっている。しかし、これらの具体的な形態は、論理学にかかわらない。それは、論理的な規定が自然のうちでとる具体的な形式、すなわち空間と時間、次いで自らを満たす空間と時間としての無機的自然、そして有機的自然であろうものが、論理学にかかわらないのと同様である。同じく、ここでも概念は、自己意識をもつ悟性の作用として、すなわち主観的な悟性として考察されるべきではなく、即自かつ対自的な概念として考察されるべきである。それは、自然の段階をも精神の段階をもなしている。生命あるいは有機的自然は、概念が現れ出る自然の段階である。しかし、それは盲目の、自己自身をとらえない、すなわち思考しない概念としてである。思考する概念としては、概念はただ精神にのみ帰属する。しかし、概念の論理的な形式は、あの精神を欠いた形態からも、この精神的な形態からも独立している。これについては、すでに序論で必要な予備的な注意をしておいた。これは、論理学の内部ではじめて正当化されるべき意味ではなく、論理学に先立ってはっきりさせておかなければならない意味である。

さて、概念に先立つ形式がどのように形づくられていようとも、次に問題となるのは、概念がそれらとどのような関係において考えられるかである。この関係は、ふつうの心理学的な表象においても、カントの超越論的哲学においても、次のように想定されている。すなわち、経験的な素材、すなわち直観と表象の多様なものが、まずそれだけで現にあり、次に悟性がそこへ加わり、それに統一をもたらし、それを抽象によって普遍性の形式へと高める、というのである。悟性は、このようにしてそれ自身では空虚な形式であり、一方ではあの与えられた内容によってのみ実在性を得、他方ではその内容を捨象し、すなわちそれを、何かではあるが概念にとってだけは役に立たないものとして捨て去る。概念は、そのどちらの行為においても、先行するあの素材にとって独立なもの、本質的で真なるものではない。むしろ素材こそが即自かつ対自的な実在性であり、それは概念からはほじくり出すことができないとされる。

たしかに、それとしての概念はまだ完全ではなく、理念へと高まらなければならない、ということは認めなければならない。理念がはじめて概念と実在性との統一である。そのことは、以下の展開において、概念の本性そのものによって明らかにならなければならない。というのも、概念が自らに与える実在性は、外的なものとして取り入れられてはならず、学の要求に従って概念自身から導き出されなければならないからである。しかし、概念に対して実在的なものとして主張されてよいのは、真に、直観と表象によって与えられたあの素材ではない。「それはただの概念にすぎない」と人はよく言う。そのとき、理念だけでなく、感覚的な、空間的・時間的な、手でつかめる定有を、概念よりもすぐれたものとして対置している。そして、抽象的なものは具体的なものよりも劣ったものとみなされる。というのも、抽象的なものからは、そのような素材が多く捨て去られているからだ、というのである。この意見においては、抽象するということは、具体的なものから、ただ私たちの主観的な都合のために、一つのあるいは別の徴表を取り出すことであり、対象のほかの多くの性質や性状を捨て去っても、それらの価値や品位は何ら損なわれず、それらは実在的なものとして、ただ向こう側に、なおまったく妥当するものとして残されている、という意味をもつ。そのため、そのような豊かさを受け入れず、貧しい抽象に満足せざるをえないのは、悟性の無能にすぎない、というのである。さて、直観に与えられた素材と表象の多様なものとが、思考されたものや概念に対して実在的なものとして受け取られるならば、それは、それを捨て去っていることが哲学することの条件であるばかりでなく、すでに宗教によって前提されている見解である。感覚的なものや個別的なもののはかない表面的な現象がなお真なるものとみなされているならば、宗教の要求や意味がどうして可能であろうか。しかし、哲学は、感覚的な有の実在性がどのような事情にあるのかについての把握された洞察を与える。そして哲学は、感情と直観、感覚的意識などのあの段階を、それらが悟性の成においてその条件であるかぎりで、悟性に先立てる。しかしそれは、概念がそれらの弁証法と空しさから、それらの根拠として現れ出るという仕方においてであって、概念がそれらの実在性によって条件づけられているという仕方においてではない。それゆえ、抽象する思考は、感覚的な素材をただ脇に置くことであって、それによって素材はその実在性に何の損害もこうむらない、とみなされるべきではない。むしろそれは、たんなる現象としての素材を止揚し、それを本質的なものへと還元することである。そして本質的なものは、ただ概念のうちでのみ顕示される。もちろん、具体的な現象から概念へと取り入れられるべきものが、ただ徴表あるいは記号として役立つべきものにすぎないならば、それは、何らかの外的な関心のためにほかのものから選び出された、対象の何らかのたんに感覚的な個別的規定であってもよく、ほかのものと同じ種類、同じ本性のものであってもよい。

ここで支配している主要な誤解は、自然的な発展において、あるいは自らを形成する個人の歴史において出発点とされる自然的な原理、すなわち始まりが、真なるものであり、概念において最初のものであるかのように考えることである。直観あるいは有は、たしかに自然の順序では最初のもの、あるいは概念の条件である。しかし、それゆえに即自かつ対自的に無条件的なものなのではない。むしろ概念のうちで、それらの実在性は止揚され、それとともに、それらが条件づける実在的なものとしてもっていた仮象も止揚される。真理ではなく、ただ表象することや現象する思考のうちで物事がどう運ぶかという物語だけが問題であるならば、たしかに、次のような話にとどまっていてもよい。すなわち、私たちは感情と直観から始め、悟性はその多様なものから普遍性あるいは抽象的なものを引き出し、そのためにはもちろんあの基礎を必要とし、その基礎は、この抽象においても、最初に示されたときの完全な実在性のまま表象に残っている、という話である。しかし、哲学は起こることの物語であるべきではなく、そこにおいて真であるものの認識であるべきである。そしてさらに、哲学は、真なるものから、物語のうちではたんに起こることとして現れるものを把握すべきである。

言い換え:感覚や直観は、時間の順序では最初に来る。しかし、だからといって真理の基礎であるわけではない。真理の順序では、概念のほうが感覚や直観を支えている。

概念が何であるかについての表面的な表象において、あらゆる多様性が概念の外にあり、概念にはただ抽象的な普遍性、あるいは空虚な反省の同一性という形式だけが帰属するとすれば、まず次のことを思い起こすことができる。すなわち、ふつうでも、概念を述べること、すなわち定義のためには、それ自身すでに本来は純粋に抽象的な普遍性ではない類に加えて、種差としての規定性もはっきりと求められる、ということである。これが何を意味するのかについて、少しでも思考しながら反省するならば、それによって区別することが、概念の同じく本質的な契機とみなされていることが明らかになるであろう。カントは、ア・プリオリな(a priori)総合判断があるという、きわめて重要な思想によって、この考察を始めた。統覚のこの根源的な総合は、思弁的な展開にとって最も深い原理の一つである。それは概念の本性を真にとらえることへの始まりを含んでおり、自らのうちに総合をもたない、あの空虚な同一性あるいは抽象的な普遍性に、完全に対立している。――しかし、この始まりに、その後の展開はほとんど対応していない。すでに総合という表現が、ふたたびたやすく、即自かつ対自的に分離されたものどうしの外的な統一、たんなる結合という表象へと導く。さらに、カント哲学は、ただ概念の心理学的な反映のもとにとどまり、ふたたび、概念が直観の多様なものによって持続的に条件づけられているという主張へと逆戻りした。カント哲学が悟性の認識と経験とを現象する内容と言い表したのは、カテゴリーそれ自身がただ有限なものにすぎないからではなく、カテゴリーは自己意識に由来する規定にすぎないから、という心理学的観念論の理由によってであった。また、概念は、ア・プリオリな(a priori)総合であるにもかかわらず、直観の多様なものなしには内容がなく、空虚であるべきだとされることも、ここに属する。概念はそのような総合であるのだから、規定性と区別とを自らのうちにもっているのである。この規定性が概念の規定性であり、したがって絶対的な規定性、すなわち個別性であることによって、概念はあらゆる有限な規定性と多様性との根拠であり源泉である。

概念が悟性としてもっている形式的な位置は、カントが理性とは何であるかを叙述するところで完成される。思考の最高段階である理性においては、概念は、悟性の段階でなおそのうちに現れていた条件づけられた状態を失い、完成された真理に到達するであろう、と期待されるはずである。しかし、この期待は裏切られる。カントは、カテゴリーに対する理性のふるまいをただ弁証法的なものとして規定し、しかもこの弁証法の結果を端的にただ無限な無としてとらえる。それによって、理性の無限な統一は、総合をも、したがって思弁的な、真に無限な概念のあの始まりをも失う。理性の統一は、体系的な悟性使用の、よく知られたまったく形式的な、たんに統整的な統一となる。ただ判定の規準であるべき論理学が、客観的な洞察を生み出すためのオルガノンとみなされるのは、誤用だと説明される。より高い力とより深い内容とを予感せずにはいられなかった理性概念は、カテゴリーがなおもっているような構成的なものを、もはや何ももたない。それはたんなる理念である。それを使用することはまったく許されているとされる。しかし、あらゆる真理がまったくそこで開かれるはずであったこの叡知的な存在者によって、仮説以上のものは何も意味されるべきではないとされる。それに即自かつ対自的な真理を帰するのは、まったくの恣意であり無謀であろう、というのである。というのも、それは――いかなる経験のうちにも現れえないからである。――哲学が、叡知的な存在者には感性の空間的・時間的な素材が欠けているという理由で、それに真理を認めないなどということを、かつて考えることができたであろうか。

これと直接に連関しているのが、概念と論理学の規定一般を考察すべき観点であり、カント哲学においてもそれは世間一般と同じ仕方で受け取られている。すなわち、概念とその学とが真理そのものに対してもつ関係である。さきにカントのカテゴリーの演繹から引いたように、それによれば、客観は、直観の多様なものがそのうちで合一されているものとして、ただ自己意識の統一によるこの統一にすぎない。したがって、ここでは思考の客観性がはっきりと言い表されており、それは概念と物との同一性であり、真理である。同じく、世間一般でも次のことは認められている。すなわち、思考が与えられた対象を自分のものとすることによって、対象は変化をこうむり、感覚的なものから思考されたものとされる。しかし、この変化は対象の本質性を少しも変えないだけでなく、むしろ対象はその概念のうちではじめてその真理のうちにあり、与えられているときの直接性のうちではただ現象と偶然性にすぎない。対象を把握する認識は、対象を即自かつ対自的にあるとおりに認識することであり、概念は対象の客観性そのものである、ということである。しかし他方では、同じくまた次のように主張される。私たちは物を、それが即自かつ対自的にあるとおりに認識することはできない、真理は認識する理性にとって近づきえない、客観と概念との統一に存するあの真理も、やはり現象にすぎない。しかも今度もまた、内容はただ直観の多様なものにすぎない、という理由からである。これについては、すでに次のことを思い起こした。すなわち、まさに概念のうちでは、むしろこの多様性は、概念に対立して直観に属するかぎりで止揚され、対象は概念によってその偶然的でない本質性へと連れ戻されている、ということである。この本質性は現象のうちへと歩み入る。だからこそ、現象はたんに本質を欠いたものではなく、本質の顕示である。しかし、本質のまったく自由となった顕示が概念である。――ここで思い起こされるこれらの命題は、独断的な主張ではない。というのも、それらは本質の展開全体からおのずから出てきた結果だからである。この展開が導いた現在の立場は、有と本質よりも高い絶対者の形式が概念である、ということである。概念は、この側面からすれば、有と本質とを自らに従わせ、自らがそれらの無条件的な根拠であることを証明した。ほかの出発点からすれば、感情や直観や表象もこの有と本質とに属し、それらは概念に先立つ条件として現れたのである。そこで、なお第二の側面が残っている。論理学のこの第三の書はその論述にあてられている。すなわち、概念が、自らのうちで消え去った実在性を、どのようにして自らのうちで、また自らから形づくるのかという叙述である。それゆえ、たしかに、純粋にそれとしての概念のもとにとどまる認識は、なお不完全であり、まだようやく抽象的な真理に到達したにすぎない、ということは認められた。しかし、その不完全さは、感情や直観のうちに与えられているとされるあの思い込まれた実在性が欠けている点にあるのではない。そうではなく、概念が、自分自身から生み出した固有の実在性を、まだ自らに与えていない点にある。経験的な素材に対して、またその素材において、より詳しくはその素材のカテゴリーと反省規定において証明された概念の絶対性は、次の点に存する。すなわち、経験的な素材は、それが概念の外に、また概念に先立って現れるとおりのものとしては真理をもたず、ただその観念性において、すなわち概念との同一性においてのみ真理をもつ、という点である。概念から実在的なものを導出することは、それを導出と呼びたければ、まず本質的に次のことに存する。すなわち、概念はその形式的な抽象のうちで未完成であることを示し、自分自身のうちに根拠をもつ弁証法によって、実在性を自らから生み出すという仕方で実在性へと移行するのであって、自分に向かい合って見いだされた出来合いの実在性へとふたたび逆戻りするのではない。また、あたりを見回してよりよいものを探したが見つからなかったからといって、現象の非本質的なものとして示されたものに逃げ込むのでもない。――カント哲学については、いつも驚くべきこととして特記されるであろう。カント哲学は、自らがとどまった思考の感覚的な定有に対する関係を、たんなる現象の相対的な関係にすぎないと認め、両者のより高い統一を理念一般において、たとえば直観する悟性の理念において十分によく認め言い表しながら、あの相対的な関係と、概念は実在性から端的に分離されており分離されたままである、という主張のもとにとどまった。――したがって、有限な認識として言い表したものを真理として主張し、真理として認識し、その規定された概念を立てたものを、法外なもの、許されないもの、思考物であると説明したのである。

ここでまず問題になっているのは、学一般ではなく論理学が真理に対してもつ関係である。それゆえ、さらに次のことも認めなければならない。すなわち、論理学は形式的な学として、哲学のさらなる部分、すなわち自然と精神の学の内容である実在性を含むこともできないし、含むべきでもない、ということである。これらの具体的な学は、たしかに論理学よりも実在的な理念の形式へと歩み出る。しかし同時に、それは、その現象を越えて学へと高められた意識が捨て去ったあの実在性へとふたたび向き直るという仕方においてではなく、また、論理学においてその有限性と非真理とが示されたカテゴリーや反省規定のような形式の使用へとふたたび立ち帰るという仕方においてでもない。むしろ論理学は、理念がそこから自然の創造者となり、具体的な直接性の形式へと移り越えてゆく段階への、理念の高まりを示す。しかし、その概念は、具体的な精神として自己自身になるために、この形態をもふたたび打ち砕く。これらの具体的な学は、論理的なもの、すなわち概念を、それを前もって形づくるものとしてもっていたように、内的に形づくるものとしてもち、またもち続ける。これらの学に対しては、論理学そのものはたしかに形式的な学である。しかし、それは絶対的形式の学であり、この形式はそれ自身において全体性であり、真理の純粋な理念そのものを含んでいる。この絶対的形式は、それ自身においてその内容あるいは実在性をもつ。概念は、つまらない空虚な同一性ではないのだから、その否定性、すなわち絶対的な規定作用の契機のうちに、区別された規定をもつ。内容とは、およそ絶対的形式のそのような規定にほかならない。すなわち、絶対的形式自身によって定立された、したがってそれにふさわしい内容である。――それゆえ、この形式はまた、ふつう論理的形式と受け取られているものとはまったく別の本性をもつ。それはすでにそれだけで真理である。というのも、この内容はその形式に、あるいはこの実在性はその概念にふさわしいからである。そしてそれは純粋な真理である。というのも、その規定はまだ絶対的な他在、あるいは絶対的な直接性という形式をもっていないからである。――カントは、『純粋理性批判』83頁で、論理学との関係において、真理とは何かという古くて有名な問いについて語るに至り、まず、真理とは認識とその対象との一致である、という名目的説明を、つまらないものとして前提として認めている。――しかし、これは大きな、いや最高の価値をもつ定義である。この定義を、理性認識は物自体をとらえることができず、実在性は端的に概念の外にある、という超越論的観念論の根本主張と照らし合わせれば、ただちに次のことが明らかになる。すなわち、自らの対象である物自体と一致することができないそのような理性と、理性概念と一致しない物自体、実在性と一致しない概念、概念と一致しない実在性とは、真でない表象である、ということである。もしカントが直観する悟性の理念をあの真理の定義に照らしていたならば、求められている一致を表すこの理念を、思考物としてではなく、むしろ真理として扱ったであろう。

カントはさらに次のように述べる。「人が知りたいと望むものは、あらゆる認識の真理の普遍的で確実な規準である、という。そのような規準は、認識の対象の区別なく、あらゆる認識に妥当するものであろう。しかし、そこでは認識のあらゆる内容(その客観への関係)が捨象されており、真理はまさにこの内容にかかわるのだから、認識のこの内容の真理の徴表を問うことは、まったく不可能でばかげたことであろう。」――ここでは、論理学の形式的な機能についてのふつうの表象が、きわめてはっきりと言い表されており、引用した論議はきわめて明白であるように見える。しかし、まず注意しなければならないのは、このような形式的な論議には、話しているうちに、自らが基礎とし、それについて語っている事柄を忘れてしまう、ということがよく起こる、ということである。認識の内容の真理の規準を問うのはばかげているであろう、と言われる。――しかし、定義によれば、真理をなすのは内容ではなく、内容と概念との一致である。ここで語られているような、概念をもたない内容は、概念を欠いたもの、したがって本質を欠いたものである。そのようなものの真理の規準は、もちろん問うことができない。しかし、それは反対の理由からである。すなわち、そのような内容は、概念を欠いているために、求められている一致ではなく、真理を欠いた意見に属するもの以上ではありえない、という理由からである。――ここで混乱を引き起こしている内容への言及は脇に置こう。形式主義は、説明に立ち入るたびにいつもこの混乱に陥り、そのために自分が主張しようとしていることの反対を言ってしまうのであるが。そして、論理的なものはただ形式的であり、むしろあらゆる内容を捨象する、という抽象的な見解にとどまることにしよう。――そうすれば、私たちは、いかなる対象も含むべきではない一面的な認識、空虚な、規定を欠いた形式をもつことになる。一致には本質的に二つのものが属するのだから、それは一致ではなく、――同じく真理でもない。――概念のア・プリオリな(a priori)総合において、カントは、二つであることが統一のうちにあり、したがって真理に求められるものが認識されえたような、より高い原理をもっていた。しかし、感覚的な素材、すなわち直観の多様なものが、カントにとってはあまりにも強力であったため、そこから離れて、即自かつ対自的な概念とカテゴリーの考察へと、思弁的な哲学することへと至ることができなかった。

論理学は絶対的形式の学であるのだから、この形式的なものは、それが真なるものであるためには、それ自身においてその形式にかなった内容をもたなければならない。論理的な形式的なものは純粋な形式、したがって論理的に真なるもの、すなわち純粋な真理そのものでなければならないのだから、なおさらそうである。それゆえ、この形式的なものは、ふつう受け取られているよりも、自らのうちではるかに豊かな規定と内容をもち、また具体的なものに対して無限に大きな作用をもつものとして考えられなければならない。論理的な法則そのものは、もともと異質なもの、すなわち応用論理学やその他の心理学的・人間学的な材料を除けば、ふつう、矛盾律のほかに、判断の換位と推論の形式にかかわるいくつかの乏しい命題に限られている。そこに現れる形式やそのさらなる規定でさえ、いわば歴史的に取り入れられるだけで、それが即自かつ対自的に真なるものであるかどうかの批判にはかけられない。たとえば、肯定判断の形式は、それ自体としてまったく正しいものとみなされ、そのような判断が真であるかどうかは、もっぱら内容にかかっているとされる。この形式が即自かつ対自的に真理の形式であるかどうか、それが言い表す命題、すなわち「個別的なものは普遍的なものである」が、自らのうちで弁証法的ではないかどうか、という探求は考えられもしない。この判断がそれだけで真理を含むことができ、あらゆる肯定判断が言い表すあの命題が真なる命題である、とそのままみなされている。しかし、この命題には、真理の定義が求めるもの、すなわち概念とその対象との一致が欠けていることは、直接に明らかである。ここで普遍的なものである述語を概念とし、個別的なものである主語を対象とすれば、一方は他方と一致しない。しかし、述語である抽象的な普遍的なものがまだ概念をなしておらず、概念にはもちろんそれ以上のものが属するのだが、――またそのような主語もまだ文法上の主語とたいして変わらないとすれば、判断の概念と対象とが一致せず、あるいは判断に概念が、またおそらく対象も、まったく欠けているのに、どうして判断が真理を含むことができようか。――それゆえ、むしろ、肯定判断や判断一般のような形式のうちで真理をとらえようとすることこそが、不可能なことであり、ばかげたことなのである。カント哲学は、カテゴリーを即自かつ対自的に考察せず、それが自己意識の主観的な形式であるというゆがんだ理由だけから、真なるものを含むことのできない有限な規定であると説明した。それと同じく、カント哲学は、ふつうの論理学の内容である概念の諸形式を、なおさら批判にかけなかった。むしろカント哲学は、その一部、すなわち判断の機能を、カテゴリーの規定のために取り入れ、それを妥当する前提として通用させた。論理的形式のうちに思考の形式的な機能以上のものを何も見ないとしても、それだけでも、それがそれだけでどこまで真理に対応するかという探求に値するであろう。これを果たさない論理学は、せいぜい、見いだされるままの思考の現象についての博物学的な記述という価値を要求できるにすぎない。この記述をはじめて企てたことはアリストテレスの無限の功績であり、この精神の強さに対する最高の賛嘆で私たちを満たさずにはおかない。しかし、さらに進んで、一方では体系的な連関を、他方では形式の価値を認識することが必要である。

区分

位置づけ:概念論の三部門への区分を示す節である。
概要:概念は、まず主観的な概念(概念・判断・推論)として、次に事柄そのものとしての客観性として、最後に主観と客観との統一としての理念として展開する、という区分が示される。
身近な例で言えば:計画は、まず頭のなかの設計図(主観性)として、次に建てられた建物(客観性)として、最後に設計どおりに生きて使われる家(理念)として現れる。

概念は、表面的に考察すれば、有と本質との統一として示される。本質は有の最初の否定であり、それによって有は仮象となった。概念は第二の否定、すなわちこの否定の否定である。したがって、再建された有であるが、有の自己自身のうちでの無限な媒介と否定性としての有である。――それゆえ、有と本質とは、概念のうちでは、有と本質としてあるときの規定をもはやもたない。また、それぞれが他方のうちで映現するという統一のうちにあるだけでもない。それゆえ、概念はこれらの規定へと自らを区別するのではない。概念は実体的関係の真理であり、そこで有と本質とは、互いによって、その満たされた自立性と規定とに到達する。真理および実体性として示されたのは実体的な同一性であり、それは同じくまたただ定立されてあることとしてのみある。定立されてあることは、定有であり区別することである。それゆえ、即自かつ対自有は、概念のうちで、自らにふさわしい真の定有に到達した。というのも、あの定立されてあることは、即自かつ対自有そのものだからである。この定立されてあることが、概念のそれ自身のうちでの区別をなしている。その区別は、直接に即自かつ対自有であるから、それ自身概念全体であり、その規定性のうちで普遍的であり、自らの否定と同一である。

言い換え:本質が有の最初の否定であったとすれば、概念はその否定をさらに否定したものである。そこで有は、媒介を経て自分に帰ってきた有として再建される。

さて、これが概念そのものの概念である。しかし、それはまだようやく概念の概念にすぎない。――あるいは、概念そのものもまたただ概念にすぎない。概念は、定立されてあることであるかぎりでの即自かつ対自有であり、あるいは、区別された実体の必然性を同一性として啓示するかぎりでの絶対的実体である。それゆえ、この同一性は、自らがそうであるものを自ら定立しなければならない。それによって概念が成った実体性の関係の運動の契機と、それによって叙述された実在性とは、まだようやく概念への移行のうちにある。それはまだ、概念から出てきた概念自身の規定としてあるのではない。それは必然性の領域に属していた。概念自身の実在性は、ただ概念の自由な規定、すなわち、概念がそのうちで自己と同一であり、その契機が概念であり、概念自身によって定立されたものであるような定有でしかありえない。

したがって、まず、概念はただ即自的に真理であるにすぎない。概念は、ただ内的なものにすぎないのだから、同じくただ外的なものにすぎない。概念は、まずおよそ直接的なものであり、この形態においては、その契機は直接的な、固定した規定という形式をもつ。概念は規定された概念として、たんなる悟性の領域として現れる。――この直接性の形式は、まだ概念の本性にふさわしくない定有である。というのも、概念はただ自己自身に関係する自由なものだからである。それゆえ、この形式は外的な形式であり、そこでは概念は、即自かつ対自的に存在するものとしてではなく、ただ定立されたもの、あるいは主観的なものとして通用しうるにすぎない。――直接的な概念の形態は、概念が主観的な思考、事柄にとって外的な反省である、という立場をなしている。それゆえ、この段階が主観性、あるいは形式的な概念をなしている。その外面性は、その規定の固定した有のうちに現れる。それによって、それぞれの規定は、ただ自らの他のものへの外的な関係のうちにのみある孤立したもの、質的なものとして、それだけで現れる。しかし、まさに規定の内的なあるいは主観的な本質である概念の同一性が、規定を弁証法的運動のうちへと置く。それによって、規定の個別化と、それとともに概念の事柄からの分離とは止揚され、その真理として全体性が現れ出る。これが客観的な概念である。

言い換え:概念はまず、外から規定されたような直接的な形で、つまり主観的な悟性の概念として現れる。しかし、その規定が自ら動きだすことで、概念は客観性へと進んでいく。

次に。その客観性のうちにある概念は、即自かつ対自的に存在する事柄そのものである。形式的な概念は、その必然的なさらなる規定によって、自己自身を事柄とし、それによって事柄に対する主観性と外面性との関係を失う。あるいは逆に、客観性とは、その内面性から歩み出て定有へと移行した実在的な概念である。――したがって、事柄とのこの同一性のうちで、概念は固有の、自由な定有をもつ。しかし、これはまだ直接的な、まだ否定的ではない自由である。概念は事柄と一つであり、その中に沈められている。その区別は客観的な実存であり、概念自身はそこでふたたび内的なものである。客観的な定有の魂として、概念は、形式的な概念として直接にもっていた主観性の形式を、自らに与えなければならない。そのようにして、概念は、客観性のうちではまだもっていなかった自由なものの形式において、客観性に向かい合って現れる。そして、そこにおいて、客観的な概念として即自かつ対自的に客観性ともっている同一性を、定立された同一性ともする。

客観性のうちで同じく自由の形式をもつこの完成のうちで、適合した概念は理念である。理念の領域である理性は、自己自身を覆いを取って現した真理であり、そこで概念は端的に自らにふさわしい実現をもつ。そして、概念がこの自らの客観的な世界を自らの主観性のうちで、また主観性をその客観的な世界のうちで認識するかぎり、概念は自由である。

― 試し読みはここまでです ―

大論理学 第二巻 概念論

発行責任者(訳者):飯島健二

発行:古典書房

制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)

参照原典:ドイツ語原典『Wissenschaft der Logik』第二巻(Werke 第5巻、Berlin, 1841年)

初版発行日:2026年10月13日

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