本HTMLは、ヘーゲル『論理の学』(Wissenschaft der Logik)第一巻「客観的論理学」第二分冊「本質論(Die Lehre vom Wesen)」の翻訳です。編者序文と本論のすべてを訳しています。
底本:G. W. F. Hegel, Wissenschaft der Logik, Erster Theil: Die objective Logik, Zweite Abtheilung: Die Lehre vom Wesen(Werke 第4巻、ベルリン、1841年刊の第2版。本文は1834年の初版と同一)。原典(ドイツ語本文)は別ファイルで保管しています。
翻訳方針:直訳併記は行わず、現代語訳のみを掲載しています。主要な術語は、本質(Wesen)・仮象(Schein)・反省(Reflexion)・定立されてあること(Gesetztseyn)・根拠(Grund)・実存(Existenz)・現象(Erscheinung)・現実性(Wirklichkeit)に統一し、その他の術語は第一巻「有論」の翻訳と統一しています。長い文は、意味を変えない範囲で二、三の文に分けています。
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知の地図シリーズ / 古典書房
本質と現象、実体と偶有、原因と結果といった対概念は、哲学の歴史のなかで長く用いられてきた。プラトンは、感覚に現れる移ろいゆくものの背後に、変わらないイデアを置いた。アリストテレスは『形而上学』で、或るものが「何であるか」を問い、本質と実体(ウーシア)、実体とそれに付帯する偶有とを区別し、原因を四つに分けて論じた。中世のスコラ学は、本質(エッセンティア)と存在(エクシステンティア)との区別をめぐって議論を重ねた。
近世になると、スピノザは『エチカ』で、唯一の実体とその属性・様態によって世界全体を捉え、すべての規定は否定であるとした。ライプニッツは、矛盾律と並んで十分な根拠の原理を掲げ、互いに完全に等しい二つの物は存在しないという原理を説き、世界を自己のうちから表象を展開するモナドの体系として描いた。ヴォルフ学派は、これらを同一律・矛盾律・根拠律にもとづく一般存在論として整えた。
カントの『純粋理性批判』(1781年、第二版1787年)は、こうした形而上学に転機をもたらした。カントは、われわれが認識できるのは現象だけであり、物自体は認識できないとした。また、実体と偶有、原因と結果、相互作用という関係のカテゴリー、可能性・現実性・必然性という様相のカテゴリーを、経験を可能にする悟性の形式として位置づけた。神の存在の存在論的証明も、存在は実在的な述語ではないとして退けられた。カント以後、ヤコービは神についての知を直接的な知、信仰に求め、フィヒテは自我から、シェリングは主観と客観との無差別としての絶対者から、哲学を構想し直した。ヘーゲルは『精神の現象学』(1807年)を経て、『論理の学』でこれらの思考規定そのものを体系的に吟味した。本質論は、有論(1812年)に続いて1813年に刊行された。ヘーゲルは晩年に有論を改訂したが、本質論の改訂には至らず、本書の底本である全集版も、初版の本文をそのまま受け継いでいる。
第一は、本質の捉え方である。本質は、現象の背後に隠れた別の世界にあるのではない。有が自らのうちへ入り込み、内へと想起する運動そのものが本質である。本質に向かい合う仮象も、本質の外にあるのではなく、本質自身が自己のうちで映現したものにほかならない。この自己関係の運動が反省であり、定立することと前提することとが一つであるという反省の構造は、本質論全体を貫いている。
第二は、思考法則の扱いである。同一性、区別、矛盾は、それまで同一律・矛盾律・排中律といった、それだけで真であるとされる思考法則として扱われてきた。ヘーゲルは、これらを互いに移行しあう反省規定として展開し、同一性はそれ自身のうちに区別を含み、区別は対立を経て矛盾に至ることを示した。矛盾は思考の誤りとして排除されるべきものではなく、「あらゆる運動と生命性の根」であるとされる。矛盾は自らを解消して没落し(zu Grunde gehen)、根拠(Grund)へと帰ってゆく。
第三は、現象の再評価である。根拠から出てきた実存は、物とその性質として現れ、物の解消を通じて現象となる。現象はたんなる見かけではなく、直接的な実存よりも高い真理であり、そのうちでとどまるものが法則である。現象する世界に対しては、即自かつ対自的に存在する「転倒した世界」が立てられるが、両世界の区別も消え去り、全体と部分、力と発現、内的なものと外的なものという本質的関係へと進む。カントの物自体と現象との区別は、ここで本質そのものの運動のうちに取り込まれる。
第四は、現実性と必然性の捉え方である。可能性・現実性・必然性という様相の規定は、偶然性と相対的必然性を経て絶対的必然性へと展開される。さらに、実体と偶有、原因と結果、相互作用という関係の規定は、スピノザの実体を出発点としつつ、その実体が自らを開陳し、因果性を経て相互作用へと進む運動として示される。最後に、必然性はその内的な同一性が顕示されることによって自由となり、実体は概念、すなわち主観性と自由の国へと移行する。実体を同時に主体として捉えるというヘーゲルの構想は、ここで論理学として果たされる。
ヘーゲルは、本質論に続いて概念論(1816年)を刊行して『論理の学』を完成させ、その要約を『エンツュクロペディー』(初版1817年、第三版1830年)の第一部「論理学」に示した。ヘーゲルの死後、マルクスは『資本論』(第一巻1867年)において、商品や貨幣の現象形態と、その背後にある本質的な関係との区別を分析の方法として用いた。エンゲルスは、矛盾を自然と歴史の運動の原理とする弁証法を定式化し、レーニンは第一次世界大戦中に『論理の学』を精読し、その抜き書きと覚え書きは『哲学ノート』として知られている。
イギリスでは、F・H・ブラッドリーが『現象と実在』(1893年)で、現象と実在の関係を問い直した。これに対し、ラッセルやムーアは、関係を項の本性に内在させる考え方を批判して、分析哲学の道を開いた。二十世紀には、ハイデガーが『同一性と差異』(1957年)で、同一性の問題をヘーゲルとの対決のなかで取り上げ、アドルノは『否定弁証法』(1966年)で、同一性の思考そのものを批判した。ドイツでは、ディーター・ヘンリッヒが論文「ヘーゲルの反省の論理」で本質論冒頭の反省の章を精密に分析し、その後の研究に大きな影響を与えた。近年は、本質論を、様相や因果、法則をめぐる現代の形而上学と結びつけて読む研究も現れている。
以下、()内は原則としてドイツ語原語。本書の記述にもとづく参考情報であり、解説ボタンで表示される。
位置づけ:全集版に収められた本書(本質論を含む『論理の学』第一巻)の刊行にあたって、編者が付した序文である。
概要:著者が新版の改訂を第一巻の有論までしか完成できずに世を去ったこと、そのため他の二巻は初版(1813年・1816年)に従って再び印刷されていることを述べる。あわせて、編者の作業は、見つかった誤植と書き誤りの訂正に限られたことが記される。
論理の学の著者には、熱意をもって着手したこの著作の新たな改訂を完成させることが許されなかった。著者が新版第一巻の序文の最後の言葉を書き終えるか終えないうちに、病が彼をとらえた。その痛ましい結末によって、彼がかくも力強く推し進めてきた学のための以後の活動は、思いがけず終わりを迎えることになったのである。この論理学の第一巻の旧版と新版とを比べれば、現在1813年と1816年に刊行された初版に従ってふたたび印刷されている他の二巻もまた、著者の手にかかっていれば、弁証法的な展開の厳密さ、表現の明確さ、外からの近づきやすさの点で、どれほどなお得るところがあったであろうかが見てとれる。それでも、われわれにとって少なからぬ慰めであるのは、次のように言えることである。すなわち、長年にわたる準備を経て、最も円熟した壮年期にこの仕事に取りかかった今は亡き偉大な師は、すでにその最初の仕上げにおいて一つの著作を打ち立てることに成功した。そしてこの著作には、いまもそうであるように、将来の世代からますます、確かな基礎の上に立ち、あらゆる主要部分が名人の手で仕上げられた、思考する認識のオルガノンであるという名誉が認められてゆくであろう。――ところで、ここで成し遂げられたものを全面的に認めることを差し控えねばならないと考え、およそ完成した真理の体系などについては何も知りたくないという真理の友もいる。そうした体系に対しては、自分たちにも後継者たちにも、なすべきことが何も残らなくなるであろう、というのが彼らの考えである。その際、彼らはレッシングのよく知られた言葉を引き合いに出すのが常である。こうした人々は、この著作の新たな改訂が始められていたことから、学がこのように危ぶまれる意味で完成しているということがどういう事情にあるのか、そしてそれによって新たな仕事や成果が決して排除されはしないことを、安心のために十分に読みとることができるであろう。――わが亡き友が、この著作の第二部と第三部の内容をなす本質論と概念論について、どのような範囲で新たな改訂を行い、それらがどのような新たな展開と規定を得たであろうかは、1830年に第三版として刊行された彼の『哲学的諸学のエンチクロペディー』の該当する部分と比べてみれば、おおよそ見てとることができる。そのような比較から明らかになるのは、次のことである。著者は、自らの著作の偉大な根本思想を厳格に堅持し、しかも彼自身の謙虚な言い方によれば、それは哲学的認識の領域における先人たちの共同の成果とみなされるべきものであった。また彼は、正当にも唯一真なるものと認めた方法を首尾一貫して追求した。そのうえで著者は、学を生き生きと形成し続けるのに必要な精神の新鮮さと柔軟さを、自らのうちに保ち続けるすべを心得ていたのである。われわれの学をさらに育ててゆく使命を負う人々が、この使命において、敬愛する師の自己放棄と、理性の勇気と、休むことなく前へと進む熱意とを、つねに自らの模範とするならば、学の硬直について、またその前進的な発展の停滞について、根拠のある不満が語られることはありえないであろう。
この著作を再び印刷するにあたっての編者の仕事は、事柄の性質上、見つかった誤植と書き誤りを注意深く訂正すること以外ではありえなかった。そして書き誤りについては、疑わしい箇所では、編者は、もし著者の同意を求めることが許されていたならば同意を得られたであろうと完全に確信できるような変更しか、自らに許さなかった。
ベルリン、1834年5月3日
位置づけ:『論理の学』第一巻「客観的論理学」の第二書であり、有論に続き、概念論に先立つ。本質論全体への序論にあたる。
概要:「有の真理は本質である」という命題から始まる。有の背後に本質を求める知の歩みは、じつは有そのものが自らを内へと想起する運動であることが示される。本質は有と概念とのあいだに立ち、有から概念への移行をなすとされる。最後に、本質はまず自己自身のうちで映現し(反省)、次に現象し、最後に自らを啓示する、という本質論の三部門の区分が示される。
身近な例で言えば:人を知るとき、まず見える顔つきや話しぶりを手がかりに、その奥にある人柄へ進もうとする。ヘーゲルは、この奥へ進む動きを、知る側の都合ではなく、人柄そのものが表に現れては深まっていく動きとして捉え直す。
有の真理は本質である。
有は直接的なものである。知は、有が即自かつ対自的に何であるかという真なるものを認識しようとする。そのとき知は、直接的なものとその諸規定のもとにとどまらず、それを突き抜けて進む。その際、知は、この有の背後には有そのものとは別の何かがあり、この背景が有の真理をなしている、ということを前提している。この認識は媒介された知である。というのも、この認識は直接に本質のもとに、また本質のうちにあるのではなく、他のもの、すなわち有から始まり、ある予備的な道を進まなければならないからである。それは、有を越え出てゆく道、あるいはむしろ有のうちへ入ってゆく道である。知は、直接的な有から自らを内へと想起することによってはじめて、この媒介を通じて本質を見いだす。――言語は、「有る(Seyn)」という動詞において、本質(Wesen)を過去形「あった(gewesen)」のうちに保持している。というのも、本質とは過ぎ去った有、しかも時間を超えて過ぎ去った有だからである。
この運動を知の道として表象すると、有からのこの始まりと、有を止揚して媒介されたものとしての本質に到達する進行とは、認識の活動であるように見える。すなわち、有にとって外的であり、有自身の本性にはかかわりのない活動であるように見える。
しかし、この歩みは有そのものの運動である。有について示されたのは、有がその本性によって自らを内へと想起し、このように自らのうちへ入ってゆくことによって本質となる、ということであった。
言い換え:有が本質へと進むのは、私たちが勝手に奥を探るからではない。有そのものが、自分の内へと入り込んでいくことによって本質になるのである。
したがって、絶対者が最初に有として規定されていたとすれば、いまや絶対者は本質として規定されている。認識は、そもそも多様な定有のもとにとどまることはできないが、また有、すなわち純粋な有のもとにとどまることもできない。ただちに次のような反省が迫ってくる。この純粋な有、すなわちあらゆる有限なものの否定は、ある想起と運動を前提しており、それが直接的な定有を純粋な有にまで純化したのだ、という反省である。これに従って、有は本質として規定される。すなわち、そこにおいてあらゆる規定されたものと有限なものが否定されているような有として規定される。そうであれば、本質は規定を欠いた単純な統一であり、そこから規定されたものが外的な仕方で取り除かれたのである。この統一にとって、規定されたもの自身は外的なものであったし、取り除かれたあとも、なおこの統一に向かい合って立ち続けている。というのも、規定されたものは即自的にではなく、相対的に、すなわちこの統一との関係においてのみ止揚されたにすぎないからである。――すでに上で注意しておいたように、純粋な本質があらゆる実在性の総体として規定されるならば、これらの実在性もまた規定性の本性と、抽象する反省とに服しており、この総体は空虚な単純性に帰着する。このように見れば、本質はたんなる産物、作られたものにすぎない。抽象である外的な否定は、有の諸規定性を、本質として残るものから取り除くにすぎない。この否定は、諸規定性をいわばつねに別の場所へ移すだけであり、それらを以前と同じく存在するものとして残しておく。しかし本質は、このようにしては即自的にあるのでも、対自的にあるのでもない。本質は他のもの、すなわち外的な、抽象する反省によってあり、また他のものに対して、すなわち抽象に対して、そしておよそ本質に向かい合って立ち続ける存在するものに対してある。それゆえ、その規定においては、本質は自らのうちで死んだ、空虚な無規定性である。
しかし、ここで成ってきたような本質は、自らに疎遠な否定性によってではなく、自分自身の否定性、すなわち有の無限な運動によって、それがあるところのものである。本質は即自かつ対自有である。本質が絶対的な即自有であるのは、有のあらゆる規定性に対して無関心であり、他在と他のものへの関係とが端的に止揚されているからである。しかし本質は、この即自有であるだけではない。たんなる即自有としてであれば、本質は純粋な本質の抽象にすぎないであろう。そうではなく、本質は同じく本質的に対自有である。本質そのものがこの否定性であり、他在と規定性とを自ら止揚することである。
言い換え:本質は、外から否定されてできたものではなく、有が自分で自分を否定して深まった結果である。だから本質は、ただ静かにそれ自体としてあるだけでなく、自分で自分を動かすものでもある。
有が完全に自らのうちへ帰還したものとしての本質は、こうしてまずは無規定な本質である。有の諸規定性は本質のうちで止揚されている。本質はそれらを即自的に含んでいるが、それらが本質において定立されているようには含んでいない。自己とのこの単純性における絶対的本質は、定有をもたない。しかし、本質は定有へ移行しなければならない。というのも、本質は即自かつ対自有であり、すなわち、自らが即自的に含んでいる諸規定を区別するからである。本質は、自己を自己から突き放すこと、あるいは自己に対する無関心であり、自己への否定的な関係である。そのため本質は自己を自己自身に対立させて定立し、自己からのこの区別のうちで自己との統一であるかぎりにおいてのみ、無限な対自有である。――したがって、この規定することは、有の領域における規定することとは別の本性をもち、本質の諸規定は有の諸規定性とは別の性格をもつ。本質は即自かつ対自有の絶対的統一である。それゆえ、本質の規定することはこの統一の内部にとどまり、成でも移行でもない。同様に、諸規定そのものも、他のものとしての他のものでもなければ、他のものへの関係でもない。それらは自立的なものであるが、まさにそれによって、互いの統一のうちにあるものとしてのみ自立的なのである。――本質は最初は単純な否定性であるから、いまや、自らが即自的に含むにすぎない規定性を自らの領域において定立し、そうして自らに定有を与え、ついで自らの対自有を与えなければならない。
本質は全体として見れば、有の領域において量であったものにあたる。すなわち、限界に対する絶対的な無関心である。しかし、量はこの無関心を直接的な規定においてもつものであり、量における限界は直接に外的な規定性である。量は定量へと移行する。外的な限界は量にとって必然的であり、量において存在している。これに対して、本質においては、規定性は存在していない。規定性は、本質自身によってのみ定立されている。それは自由にあるのではなく、本質の統一への関係のうちにのみある。――本質の否定性は反省であり、諸規定は反省されたものである。すなわち、本質自身によって定立され、本質のうちに止揚されたものとしてとどまる規定である。
本質は有と概念とのあいだに立ち、両者の中間をなす。そして本質の運動は、有から概念への移行をなす。本質は即自かつ対自有であるが、それは即自有という規定におけるものである。というのも、本質の一般的な規定は、有から由来すること、あるいは有の最初の否定であることだからである。本質の運動は、否定あるいは規定を自らにおいて定立し、それによって自らに定有を与え、自らが即自的にそうであるものに、無限な対自有として成ることにある。こうして本質は、自らの即自有に等しい定有を自らに与え、概念となる。というのも、概念とは、自らの定有において絶対的である、すなわち即自かつ対自的であるような絶対者だからである。しかし、本質が自らに与える定有は、まだ即自かつ対自的にあるような定有ではなく、本質がそれを自らに与えるような定有、あるいは定立されるような定有である。それゆえ、それはなお概念の定有から区別されている。
本質は、まず自己自身のうちで映現する。すなわち反省である。次に本質は現象する。最後に本質は自らを啓示する。本質は、その運動のうちで、自らを次のような諸規定において定立する。
I. 単純な、即自的に存在する本質として、自らの内部の諸規定において。
II. 定有へと歩み出るものとして、すなわち実存と現象に即して。
III. 自らの現象と一つである本質として、現実性として。
位置づけ:本質論の第一部門であり、本質が自己自身のうちで映現する反省として考察される。第二部門「現象」、第三部門「現実性」に先立つ。
概要:本質は有の運動の結果であり、本質に向かい合うものは仮象にすぎないとされる。本質はまず反省として、次に反省規定(本質性)として、最後に根拠として考察され、根拠を通じて実存と現象へ移行する、という区分が示される。
身近な例で言えば:鏡に映る姿は自分とは別のものに見えるが、映しているのも映っているのも自分自身である。本質が自分のうちで自分を映すという第一部門の主題は、このような自己関係にたとえられる。
本質は有から由来する。そのかぎりで、本質は直接に即自かつ対自的にあるのではなく、あの運動の結果である。あるいは、本質をまず直接的なものとして受け取るならば、それは一つの規定された定有であり、それに他の定有が向かい合っている。それは非本質的な定有に対する本質的な定有にすぎない。しかし本質は、即自かつ対自的に止揚された有である。本質に向かい合っているものは仮象にすぎない。だが、仮象とは、本質自身が定立することなのである。
言い換え:本質を「本質的なもの」という一つのものとして扱うと、それは他のものと並ぶただの一つになる。本質に向かい合うものは仮象にすぎず、その仮象も本質自身が生み出したものである。
本質は、まず反省である。反省は自らを規定する。反省の諸規定は、同時に自己内反省であるような、定立されてあることである。次に、これらの反省規定、すなわち本質性を考察しなければならない。
最後に本質は、規定することの自己自身のうちへの反省として、自らを根拠とし、実存と現象へと移行する。
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大論理学 第一巻 本質論
発行責任者(訳者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)
参照原典:ドイツ語原典『Wissenschaft der Logik』第一巻第二分冊(Werke 第4巻、Berlin, 1841年)
初版発行日:2026年10月13日
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