人間本性論 第1巻 知性について

デイヴィッド・ヒューム 著

この本について

本HTMLは、デイヴィッド・ヒューム『人間本性論(人性論)』(A Treatise of Human Nature、1739〜40年)のうち、第1巻「知性について」(Of the Understanding)の翻訳です。第1巻・第2巻への告知、序論、第1巻の本文(第1部から第4部)、付録を訳しています。第2巻・第3巻は含みません。

底本:David Hume, A Treatise of Human Nature, being an attempt to introduce the experimental method of reasoning into moral subjects, edited by L. A. Selby-Bigge, Oxford: Clarendon Press, 1888。1739〜40年の初版の本文と綴りを再現した版です。

訳した範囲と省いたもの:ヒューム自身が付けた目次(底本の頁XIIIからXVI)は訳していません。この本の目次がその役目を果たします。欄外の見出しと、各頁上部の柱(頁見出し)も、原典HTMLと同じく省いています。底本の編者(Selby-Bigge)が付けた角括弧の注(SBN 149頁と256頁)は、訳文でも残しています。

底本頁:「底本頁」ボタンで、底本の頁番号を表示できます。この頁番号は、ヒューム研究で広く使われる引用方式(SBN)の頁と同じです(第1巻は頁1から274、付録は頁623から639、告知と序論はローマ数字)。頁番号が印字されていない頁には、前後から数えた番号を表示しています。付録のなかの頁指示(「第1巻の85頁」など)は、ヒューム自身が初版の頁を指したものであり、底本の頁番号とは一致しません。

翻訳方針:直訳併記は行わず、現代語訳のみを掲載しています。文体は常体(だ・である調)です。主要な術語は、印象(Impression)・観念(Idea)・知覚(Perception)・知性(Understanding)・想像力(Imagination)・因果性(Causation)・必然的結合(Necessary Connexion)・信念(Belief)・習慣(Custom, Habit)・情念(Passion)・懐疑論(Scepticism)などに統一しました。ラテン語などの外国語句は、本文中で訳しています。

強調:底本でイタリックにより強調された語句は、「強調」ボタンで、訳文でも字間を空けて表示できます。

原注:底本にはヒューム自身の脚注があります。本文中の「†1」などから飛べる形で、該当する段落の直後に常時表示しています。番号は節ごとに振り直しています。

操作方法:画面の「i」ボタンで操作バーを開閉できます。操作バーでは、明暗の切り替えのほか、「なぞり線」ボタンで本文に線を引くこと(閉じると消えます)、「底本頁」ボタンで底本の頁番号を表示すること、「強調」ボタンで底本のイタリック強調を字間を空けて表示すること、「解説」ボタンで訳者の解説を表示することができます。目次から各項目へジャンプでき、各項目の末尾の「↑ 目次」で目次へ戻れます。

解説について:概説、用語集、各部・各節の冒頭の「位置づけ」と「概要」は、読者の便宜のために訳者が付したもので、ヒュームの文章ではありません。「解説」ボタンで表示します。

知の地図シリーズ / 古典書房

概説

『人間本性論』以前の哲学

近世の哲学は、数学的な自然学が世界を説明していく動きのなかで、それを認識する人間の心の働きをどう捉えるかを問題にしてきた。デカルトは『省察』(1641年)で、疑いえない思考する自己から出発し、精神と物体を別々の実体として区別した。ロックは『人間知性論』(1689年)で、生得観念を退け、心が思考の対象とするものはすべて観念であり、その源は感覚と反省にあるとした。

ニュートンの自然学は、観察と実験にもとづいて、現象を最少の原理で説明する方法の成功例とされた。ヒュームの副題「道徳的主題に実験的な推論の方法を導入する試み」と、序論で語られる「人間の学」の構想は、この方法を人間の心の研究に移そうとするものである。序論は、この方向の先行者として、ロック、シャフツベリ、マンデヴィル、ハチスン、バトラーを脚注に挙げている。

観念の説には、なお残された問題があった。バークリーは『人知原理論』(1710年)で、一般観念とは、個別の観念が同種の他の観念を代表することで一般的になるものにすぎないと論じ、抽象観念の説を批判した。ヒュームはこれを、学問の世界で近年なされた最も大きく価値ある発見の一つと呼び、第1部第7節で受け継ぐ。因果については、原因と結果の結びつきを必然的なものとして理性や神の働きに求める見方が有力で、マルブランシュらデカルト派は、物体どうしの因果を神による機会原因として説明した。

『人間本性論』の哲学の革新

ヒューム(1711〜1776)はエディンバラの出身で、本書の第1巻と第2巻を1739年に、第3巻を1740年に刊行した。第1巻は、人間の心のすべての知覚を、印象と観念に分ける。印象は力と生気が強く、観念はその薄れた像である。単純な観念はすべて、対応する単純な印象から写されるとして、観念の起源が経験にあることを示す(第1部)。観念を結びつける原理は、類似、近接、因果性の三つとされる。

第2部は、空間と時間の観念を分析し、無限分割可能性を退ける。第3部は、知識を、観念だけに依存する関係に限る。事実にかかわる推論は因果性に頼るとして、その分析に進む。必然的結合の観念の起源を探すと、それは対象のうちには見つからず、恒常的連接を経験した心が、習慣によって一方から他方へ移ることから生じると結論される(第3部第14節)。信念は、現前する印象に関係づけられた、生き生きとした観念と定義される(第3部第7節)。

第4部は、この説明を、理性と感官に関する懐疑論に当てはめる。物体が継続して存在するという信念は、想像力の働きから生じるとされる。魂の非物質性をめぐる問いは意味を失い、自己とは絶えず移り変わる知覚の束にほかならないと論じられる。付録でヒュームは、人格の同一性についての自分の説明には、解決できない困難があると告白する。

『人間本性論』以後の哲学

本書は、刊行当初は注目されなかったと、ヒュームは後に述べている。彼は1748年の『人間知性研究』で、因果と信念を扱った第1巻の議論を、簡潔な形に書き直した。以後、『人間本性論』は、この書き直された書物と並んで、ヒュームの哲学を知る主要な典拠となった。

カントは、ヒュームの警告が自分を独断のまどろみから目覚めさせたと、『プロレゴメナ』(1783年)に記した。因果性の概念の根拠を問う問題は、『純粋理性批判』(1781年)の中心的な主題の一つとなった。他方、トマス・リードは『人間精神の探究』(1764年)で、観念の説がヒュームの懐疑論に行き着くと批判し、常識にもとづく哲学を立てた。

十九世紀のJ・S・ミルは、因果を現象の恒常的な継起に求める点で、ヒュームの流れをくんだ。二十世紀の論理実証主義は、ヒュームの区別、すなわち観念の関係と事実の問題の区別を継承した。事実から未経験のことへの推論を何が正当化するかという問いは、帰納の問題として、現代の科学哲学でも論じ続けられている。自己を知覚の束と見る議論も、人格の同一性をめぐる現代の議論で、繰り返し参照されている。

本書における重要な用語

以下、英語の原語を併記する。本書の記述にもとづく参考情報であり、解説ボタンで表示される。

印象・観念Impression・Idea
人間の心のすべての知覚を二つに分けたもの。感覚、情念、情動が心に最初に現れるときの、力と生気の強い知覚が印象で、思考と推論における、その薄れた像が観念である。ヒュームはこれらの語を、通常とは異なる意味で用いると断っている。単純な観念はすべて、対応する単純な印象から写される。
主な箇所:第1部第1節、第1部第2節
知覚Perception
心に現れるもの全般。印象と観念の両方を含む総称である。心は、知覚から離れて、別の何かを捉えることはできないとされる。
主な箇所:第1部第1節、第4部第6節
生気Vivacity
知覚が心を打つときの力と生き生きとした度合い。印象と観念を分ける基準であり、信念の本性も、観念の生気の増した状態として説明される。「力と生気」の形で用いられることが多い。
主な箇所:第1部第1節、第3部第7節
単純・複合Simple・Complex
知覚の区分。単純な知覚は、区別も分離もできないもの。複合的な知覚は、部分に区別できるものである。りんごの色、味、匂いが、一つのりんごに結びついている例が挙げられる。
主な箇所:第1部第1節
記憶・想像力Memory・Imagination
観念を現す二つの能力。記憶の観念は、想像力の観念より生気と力が強く、原物の順序と形式をほとんど保つ。想像力は観念を自由に分離し、結合することができる。
主な箇所:第1部第3節、第3部第5節
連合Association
観念が想像力のなかで互いに導きあう働き。類似、近接、因果性の三つの原理が、これを生じさせる。ヒュームは、この働きを、引力に似た作用と呼んでいる。
主な箇所:第1部第4節
哲学的関係・自然的関係Philosophical Relation・Natural Relation
関係には二つの意味がある。自然的関係は、観念が想像力のなかで結びつく、その性質のこと。哲学的関係は、観念を比較する根拠となる、あらゆる事情のことである。哲学的関係は、類似、同一性、時間と場所の関係、量と数の比例、性質の度合い、反対、因果性の七つに整理される。
主な箇所:第1部第5節、第3部第1節
様態・実体Mode・Substance
実体の観念は、性質の集まりの観念にほかならず、それらを結びつけるものとして想定された何かではないとされる。様態の観念も、同様に、特定の性質の集まりである。
主な箇所:第1部第6節
抽象観念Abstract Idea
個別の対象から、特定の性質を切り離して作ると、一般に言われる観念。ヒュームは、バークリーの議論を受けて、一般観念とは、個別の観念が同種の他の観念を代表することで一般的になるものにすぎず、観念そのものは、すべて個別的だとする。
主な箇所:第1部第7節
知識・蓋然性Knowledge・Probability
知識は、観念だけに依存する関係、すなわち類似、反対、性質の度合い、量と数の比例にもとづく確実性をいう。それ以外の、因果性にもとづく推論の確からしさは、蓋然性と呼ばれる。
主な箇所:第3部第1節、第3部第2節、第3部第11節
因果性(原因と結果)Causation (Cause and Effect)
感官に現前するものを超えて、存在の事実をわれわれに知らせる唯一の関係。ヒュームは、原因と結果の関係の本質を、近接、時間上の先行、必然的結合の三つに見いだす。
主な箇所:第3部第2節、第3部第14節
必然的結合Necessary Connexion
原因が結果を必然的に生じるという、その結びつき。ヒュームは、この観念の起源を、対象のうちではなく、同じ種類の対象の恒常的連接を経験した心が、習慣によって一方から他方へ移る決定のうちに見いだす。
主な箇所:第3部第14節
恒常的連接Constant Conjunction
同じ種類の対象が、くり返し、近接して継起することの経験。原因と結果の推論は、この経験にもとづくとされる。
主な箇所:第3部第6節、第3部第14節
習慣Custom・Habit
同じ作用のくり返しから生じる、心の傾向。印象から観念へ移る推理は、理性によらず、この習慣によって生じるとされる。ヒュームは、custom と habit をほぼ同じ意味で用いる。
主な箇所:第3部第6節、第3部第8節
信念Belief
現前する印象に関係づけられた、生き生きとした観念。新しい観念が付け加わるのではなく、観念の生気と力の度合いが増した状態である。信念の原因は、現前する印象と習慣にあるとされる。
主な箇所:第3部第7節、第3部第8節、付録
虚構Fiction
想像力が、知覚の恒常性と整合性にうながされて作り出す想定。物体の継続的存在も、人格の同一性も、想像力による虚構として説明される。
主な箇所:第4部第2節、第4部第6節
人格の同一性Personal Identity
自己が、時間を通じて同一であるという観念。ヒュームは、自己とは、絶えず移り変わる知覚の束にほかならないとして、この観念を、想像力が与える同一性の虚構として説明する。付録で、この説明に困難があると述べる。
主な箇所:第4部第6節、付録
懐疑論Scepticism
理性や感官の判断への疑い。ヒュームは、理性に関する懐疑論と感官に関する懐疑論を検討し、それが根本的には癒されないとしながら、自然が、われわれを判断へ向かわせると述べる。
主な箇所:第4部第1節、第4部第2節、第4部第7節

原典構造一覧

底本の見出しを原語のまま、全階層について掲げる。

目次

序論

位置づけ:第1巻以降の議論全体の目的と方法を示す序論である。人間の学を諸学の基礎に据える構想と、その学が拠るべき方法を述べて、本論に入る前の足場を作る。
概要:まず、既存の諸学が論争に満ちた不完全な状態にあることを述べ、形而上学的推論への世間の偏見を取り上げる。次に、あらゆる学問が人間本性に関係していることを、数学、自然哲学、自然宗教、さらに論理学、道徳、批評、政治について示す。そのうえで、諸学の首都である人間本性そのものを攻略するという構想を提示し、人間の学こそ諸学の唯一の堅固な基礎だと論じる。この学の基礎は経験と観察に置かれ、人間本性の究極の根源的な性質を発見すると称する仮説は退けられる。最後に、道徳哲学では実験を意図的に作り出せないため、人間の生活の観察から集めなければならないと述べる。

哲学や諸学において、世に新しい何かを発見したと称する人々にとって、先行するすべての体系を非難することで自分の体系をそれとなく称賛する、ということほどありふれた、自然なことはない。実際、人間の理性の法廷に持ち出されうる最も重要な問題について、いまなおわれわれを覆っている無知を嘆くだけなら、諸学に通じた人のほとんどは、彼らにすぐ同意するだろう。最も高い信用を得てきた体系でさえ、その基礎が弱いことは、判断力と学識のある人なら容易に見抜く。そうした体系は、精密で深い推論を標榜して最も高い主張を掲げてきたのである。原理は無批判に受け入れられ、帰結はそこから拙く導かれ、部分には整合性が、全体には明証性が欠けている。これらは最も著名な哲学者たちの体系のいたるところに見られ、哲学そのものに不名誉をもたらしてきたように思われる。

諸学の現在の不完全な状態を見抜くために、深い知識が必要なわけでもない。戸口の外にいる野次馬でさえ、聞こえてくる騒ぎや怒号から、中ではすべてがうまくいっていないと判断できる。あらゆることが論争の的となり、どの点についても、学識のある人々の意見は対立している。最も些細な問いでさえわれわれの論争を免れず、最も重大な問いについては、確かな決着を与えることができない。あらゆることが不確かであるかのように論争が増え、あらゆることが確かであるかのように、その論争は最大の熱意をもって行われる。この騒ぎのなかで賞を勝ち取るのは理性ではなく雄弁である。どれほど突飛な仮説であっても、それをもっともらしい色合いで描ける技量さえあれば、信奉者を得る望みを捨てる必要はない。勝利を収めるのは、槍や剣を操る兵士たちではない。軍隊のラッパ手や太鼓手や楽士たちである。

私の見るところ、あらゆる種類の形而上学的推論に対する世間の偏見は、ここから生じている。この偏見は、自分を学者と称し、文学のほかのあらゆる部分に正当な敬意を払っている人々の間にさえある。彼らが形而上学的推論というのは、学問の特定の部門についての推論のことではない。いくらかでも難解で、理解するのに注意を要する議論の全般を指している。われわれはこうした研究でたびたび労力を無駄にしてきたので、たいていは躊躇なくそれらを退けてしまう。そして、どうせ永久に誤りと迷妄の餌食でいなければならないのなら、せめてそれが自然で楽しいものであってほしい、と心に決める。実際、この形而上学嫌いを正当化できるのは、徹底した懐疑論に大いなる怠惰を加えたものだけである。というのも、真理が人間の能力の届くところにあるのなら、それはきわめて深く難解なところにあるに違いない。最大の天才たちが最大の労苦を払っても到達できなかったものに、労せずして到達できると期待するのは、まぎれもなく空しく、思い上がったことと見なされなければならない。私がこれから展開する哲学では、そのような利点を主張しない。それがあまりに易しく明白であれば、その哲学に不利な強い推定が成り立つと考えるだろう。

あらゆる学問が、程度の差はあれ、人間本性に関係していることは明らかである。人間本性からどれほど遠く離れていくように見える学問でも、何らかの道を通って必ずそこへ戻ってくる。数学、自然哲学、自然宗教でさえ、人間の認識の領分にあり、人間の力能と能力によって判定されるので、ある程度まで人間の学に依存している。人間の知性の範囲と力を十分に知り、われわれが用いる観念の本性と、推論において行う作用の本性とを説明できたなら、これらの学問にどのような変化と進歩をもたらせるか、見当もつかない。自然宗教は、より高次の力の本性をわれわれに教えることに満足せず、その力がわれわれに向ける意向と、われわれがその力に対して負う義務にまで視野を広げるので、とくにこの進歩が期待される。したがってわれわれ自身は、推論する存在であるだけでなく、われわれが推論する対象の一つでもある。

それゆえ、数学、自然哲学、自然宗教が人間についての知識にこれほど依存しているなら、人間本性とのつながりがさらに緊密で親密なほかの学問には、何が期待できるだろうか。論理学の唯一の目的は、われわれの推論能力の原理と作用、および観念の本性を説明することである。道徳と批評は、われわれの趣味と感情にかかわる。政治は、人間を社会において結びつき、互いに依存しあうものとして考察する。論理学、道徳、批評、政治というこの四つの学問には、われわれが知ることがなんらかの意味で重要となるほとんどすべてのこと、あるいは人間の心の向上や装飾に資するほとんどすべてのことが含まれている。

そうだとすれば、哲学的探究で成功を望める唯一の方策は、これまでわれわれがたどってきた退屈でのろい方法をやめ、辺境の砦や村をときおり奪うかわりに、これらの学問の首都あるいは中心である人間本性そのものへ、まっすぐ進軍することである。いったんそこを制圧すれば、ほかのどこでも容易な勝利を望める。この拠点から、人間の生活にいっそう密接にかかわる学問のすべてに、征服の範囲を広げることができ、その後で時間をかけて、純粋な好奇心の対象である学問をより詳しく解明していくことができる。重要な問題の決着は、すべて人間の学に含まれている。そして、この学を知るまでは、確実に決着できる問題は一つもない。したがって、人間本性の原理を説明しようと試みることで、われわれは実質的に、まったく新しいといってよい基礎の上に築かれた、諸学の完全な体系を提案している。しかも、その基礎こそ、諸学が確実に立つことのできる唯一のものである。

人間の学がほかの諸学の唯一の堅固な基礎であるように、この学そのものに与えられる唯一の堅固な基礎は、経験と観察のうえに置かれなければならない。道徳的な主題に実験的哲学を適用することが、自然的な主題への適用に一世紀以上も遅れて現れたことは、少しも驚くべき事柄ではない。事実、これらの学問の起源の間にも、ほぼ同じだけの隔たりがあったことが分かる。タレスからソクラテスまでの時間の隔たりは、ベーコン卿†1と、人間の学を新しい土台に載せようとしはじめ、世間の注意を引き、好奇心をかき立ててきたイングランドの近年の哲学者たちとの隔たりと、ほぼ等しい。まことに、他の国々が詩においてわれわれに匹敵し、ほかの快い技芸でわれわれに勝ることがあっても、理性と哲学の進歩は、寛容と自由の国のおかげでしか生まれえないのである。

†1 ロック氏、シャフツベリ卿、マンデヴィル博士、ハチスン氏、バトラー博士ら。

また、人間の学におけるこの後者の進歩は、自然哲学における前者の進歩に比べて、われわれの祖国にもたらす名誉が小さいなどと考えてはならない。むしろ、この学の重要性が大きいこと、そしてそれがこのような改革をいっそう必要としていたことから、より大きな栄光とみなすべきである。というのも、心の本質が外的な物体の本質と同じくわれわれに知られていない以上、心の力能と性質について何かの概念を形づくることは、注意深く正確な実験と、心のさまざまな状況や境遇から生じる個別の結果の観察によらなければ、同じく不可能であると、私には明らかに思われるからである。われわれは、自分の実験をできるかぎり遠くまでたどり、すべての結果を最も単純で最も少数の原因から説明することで、すべての原理をできるかぎり普遍的なものにするよう努めなければならない。それでもなお、われわれが経験を超えられないことは確かである。そして、人間本性の究極の根源的な性質を発見すると称する仮説は、最初から、僭越で妄想的なものとして退けられるべきである。

魂の究極の原理の説明に、それほど熱心に取り組む哲学者は、自分が説明すると称する人間本性のまさにその学において、大家であることを示しているとは思えない。また、人間の心にとって自然に満足を与えるものが何であるかを、よく知っているとも思えない。というのも、絶望は享受とほとんど同じ効果をわれわれにもたらし、どんな欲望も満たせないと知ったとたんに、その欲望そのものが消えてしまうことほど、確かなことはないからである。人間の理性が到達しうる最大の範囲に達したと分かれば、われわれは、自分が主要な点で無知であることを完全に認め、最も一般的で最も洗練された原理について、それが実在するという経験のほかには理由を与えられないと悟っていても、満足して腰を下ろす。この理由は単なる俗人の理由であり、最も個別的で最も異常な現象について、最初から発見するのに研究を要しなかった理由である。この、これ以上進めないという不可能が読者を満足させるのに十分であるように、書き手にも、自分の無知を率直に告白すること、そして、自分の推測や仮説を最も確実な原理として世間に押しつけるという多くの人々が陥った誤りを、慎重に避けることから、いっそう繊細な満足が得られる。師と弟子の間でこのような相互の充足と満足が得られるなら、われわれの哲学にこれ以上何を求められるのか、私には分からない。

しかし、究極の原理を説明できないことが、人間の学の欠陥とみなされるなら、それは、われわれが取り組みうるすべての学問とすべての技芸に共通の欠陥だと、あえて断言しておく。哲学者たちの諸学派で修められるものであれ、最も卑しい職人の仕事場で営まれるものであれ、同様である。どの学問も経験を超えることはできず、この権威に基づく原理しか立てることができない。たしかに道徳哲学には、自然哲学にはない特有の不利がある。道徳哲学は実験を集める際に、あらかじめ考えをめぐらせ、意図的に、しかも生じうる個々の困難のすべてについて自分で納得がいくような仕方で、それらを作り出すことができない。ある状況で一つの物体が他の物体に及ぼす結果を知らないなら、私はそれらをその状況に置いて、そこから何が生じるかを観察しさえすればよい。しかし、道徳哲学の疑問を同じやり方で解明しようとして、自分を、考察する対象と同じ立場に置いたとしよう。このとき、この反省と事前の考慮が、私の自然な原理の働きを乱し、現象から正しい結論を導くことを不可能にしてしまうことは明らかである。したがって、この学の実験は、人間の生活を注意深く観察して拾い集めなければならない。それらは、世間の通常の成り行きのなかで、人々が交際で、仕事で、楽しみで見せる振る舞いに現れるとおりに受け取らなければならない。この種の実験が慎重に集められ、比較されるとき、われわれはそのうえに一つの学を築けると期待できる。それは、確実さにおいて劣らず、有用さにおいて、人間の理解の及ぶほかのどの学問よりもはるかに勝るだろう。


第1巻 知性について

位置づけ:序論で示した人間の学の構想のうち、知性を主題とする最初の巻である。情念を扱う第2巻の前提となる巻として置かれている。
概要:第1巻は知性を主題とし、四つの部からなる。第1部は観念、その起源、構成、結合、抽象などを扱う。第2部は空間と時間の観念を扱う。第3部は知識と蓋然性を扱う。第4部は懐疑論的な、その他の哲学体系を扱う。

第1部 観念、その起源、構成、結合、抽象などについて

位置づけ:第1巻の最初の部であり、以後の部で用いる観念の起源と構成と結合についての基本的な区別と原理を与える。
概要:第1部は七つの節からなる。第1節は知覚を印象と観念に分け、観念の起源を印象に求める。第2節は、観念を印象より先に扱う理由を述べて主題の区分を示す。第3節は記憶の観念と想像力の観念の違いを論じる。第4節は観念の間の結合あるいは連合の原理を論じる。第5節は関係、第6節は様態と実体を扱う。第7節は抽象的な観念を扱い、一般的な観念が本性においては個別的であることを論じる。

第1節 観念の起源について

位置づけ:第1部の最初の節であり、人間本性の学で最初に確立される原理を提示する。以後の節で観念を扱うための出発点となる。
概要:心の知覚を、力と生き生きとしている度合いの違いによって印象と観念に分け、さらに単純な知覚と複合的な知覚に分ける。印象と観念は力と生気の度合いを除けばよく似ており、複合的なものには例外があるが、単純なものについては例外なく対応するとされる。両者の存在の関係を調べて、単純な観念はすべて対応する単純な印象から導かれるという命題を立てる。その根拠として、類似する知覚の恒常的連接と、印象が先に現れる順序、さらに生まれつき感官を欠く場合を挙げる。青の欠けた濃淡の事例は唯一の例外として扱われる。最後に、この原理が生得観念をめぐる問いと同じ問いに答えるものだと述べる。

人間の心のすべての知覚は、私が印象と観念と呼ぶ二つの異なる種類に分けられる。両者の違いは、知覚が心を打ち、われわれの思考や意識に入り込むときの、力と生き生きとしている度合いにある。最も力強く激しく入ってくる知覚を、われわれは印象と呼んでよい。この名のもとに私は、心に最初に現れるときの、感覚、情念、情動のすべてを含める。観念とは、思考と推論における、それらのぼんやりした像のことである。たとえば、いまのこの議論によって引き起こされる知覚はすべて観念である。ただし、視覚と触覚から生じるものと、この議論が引き起こしうる直接の快や不快は除く。この区別を説明するのに、多くの言葉を費やす必要はあまりないと思う。各人は自分で、感じることと考えることの違いをすぐに知覚するだろう。これらの通常の度合いは容易に区別される。ただし、個々の場合には、両者がほとんど接近することもありうる。たとえば眠りのなか、熱病のなか、狂気のなか、あるいは魂のきわめて激しい情動のなかでは、われわれの観念が印象に近づくことがある。他方で、われわれの印象がきわめて弱く低いために、観念と見分けがつかないこともときどき起こる。しかし、少数の場合にはこのように近い類似があっても、両者は一般にあまりにも異なっているので、だれもためらうことなく、両者を別々の類に分け、違いを示すためにそれぞれに固有の名を与えることができる†1。

†1 私はここで、印象と観念という二つの語を、通常とは異なる意味で用いる。この自由を認めてもらえるよう願う。むしろ私は、観念という語を、ロック氏がすべての知覚を表すものとして曲げてしまった本来の意味に、戻しているのかもしれない。印象という語で、われわれの生き生きとした知覚が魂のなかで生み出される仕方を言い表そうとしているのではない。知覚そのものを言い表そうとしているにすぎない。私の知るかぎり、英語にも他のどの言語にも、これを指す固有の名はない。

われわれの知覚には、観察しておくと便利なもう一つの区分がある。この区分は、われわれの印象にも観念にも及ぶ。それは単純と複合への区分である。単純な知覚、すなわち単純な印象と観念とは、区別も分離も許さないものである。複合的な知覚は、これと反対のものであり、部分に区別できる。この林檎には、特定の色、味、匂いという性質が、すべて結びついている。それでも、これらが同じものではなく、少なくとも互いに区別できることは、容易に知覚できる。

これらの区分によって対象に秩序と配列を与えたので、今度はその性質と関係をより正確に考察することにしよう。最初に私の目に留まる事情は、力と生気の度合いを除けば、われわれの印象と観念があらゆる点で非常によく似ていることである。一方は他方の映しのように見え、そのため心の知覚はすべて二重になっていて、印象としても観念としても現れる。目を閉じて自分の部屋を思い浮かべるとき、私が形づくる観念は、私が感じた印象の正確な表象であり、一方にある事情で他方に見出されないものは一つもない。ほかの知覚を順に見渡しても、やはり同じ類似と表象が見出される。観念と印象は、つねに互いに対応しているように見える。この事情は私には注目に値すると思われ、しばらく私の注意をとらえる。

もう少し正確に調べてみると、私は最初の外見に流されすぎていたこと、そしてわれわれの観念と印象はすべて類似しているというこの一般的な決定を限定するために、知覚を単純と複合に分ける区別を用いなければならないことに気づく。私が観察するところ、複合的な観念の多くには、それに対応する印象がかつてなく、複合的な印象の多くは、観念にそのまま正確に写されることがない。私は、舗道が黄金で城壁がルビーでできた新しいエルサレムのような都市を、そのようなものを見たことがなくても、想像することができる。私はパリを見たことがある。だが、あの都市のすべての通りと家々を、その実際の正しい比率のまま完全に表すような観念を、私は形づくれると断言できるだろうか。

それゆえ私は、われわれの複合的な印象と観念の間には一般に大きな類似があるものの、両者が互いに正確な写しであるという規則は普遍的に真ではないと知る。次に、われわれの単純な知覚についてはどうなっているかを考察してよい。私にできるかぎり最も正確に調べたうえで、あえて断言する。ここでは規則は例外なく成り立ち、すべての単純な観念には、それに類似する単純な印象があり、すべての単純な印象には、対応する観念がある。暗闇のなかで形づくる赤の観念と、日光のなかで目を打つ赤の印象は、度合いにおいてのみ異なり、本性においては異ならない。すべての単純な印象と観念について事情が同じであることを、それらを一つずつ数え上げて立証することは不可能である。各人はこの点を、好きなだけ多くのものを見渡すことで、自分で納得できる。しかし、もしだれかがこの普遍的な類似を否定するなら、私が彼を納得させる方法は、対応する観念をもたない単純な印象、あるいは対応する印象をもたない単純な観念を示すよう求めることのほかには知らない。彼がこの挑戦に答えないなら、そして答えられないのは確かなのだが、われわれは彼の沈黙と自分自身の観察から、結論を確立してよい。

このように、すべての単純な観念と印象は互いに類似していることが分かる。複合的なものはそれらから形成されるのだから、この二種類の知覚は正確に対応していると一般に断言できる。これ以上の検討を要しないこの関係を発見したので、私はそれらの別の性質を知りたくなる。それらの存在に関して両者がどのような関係にあり、印象と観念のうちどれが原因でどれが結果なのかを考察しよう。

この問いの完全な検討は、本論考の主題である。したがってここでは、一つの一般命題を確立することで満足しよう。われわれの単純な観念はすべて、最初に現れるとき、それに対応し、それが正確に表す単純な印象から導かれる。

この命題を立証する現象を探すと、見つかるのは二種類だけである。しかしどちらの種類でも、現象は明白で、数多く、決定的である。まず私は、すでに主張した、すべての単純な印象には対応する観念が伴い、すべての単純な観念には対応する印象が伴うということを、新たに見直すことで確かめる。類似する知覚のこの恒常的連接から、私はただちに、対応する印象と観念の間には大きな結合があり、一方の存在が他方の存在にかなりの影響を及ぼしていると結論する。これほど無数の事例にわたる恒常的連接は、偶然から生じることは決してなく、印象が観念に依存するか、観念が印象に依存するかのどちらかであることを、明らかに立証する。この依存がどちら側にあるかを知るために、私は両者の最初の現れの順序を考察する。そして恒常的な経験によって、単純な印象はつねに対応する観念に先立ち、逆の順序で現れることは決してないと分かる。子供に緋色やオレンジ色、甘さや苦さの観念を与えるには、私はその対象を示す、言い換えれば、これらの印象を伝える。観念を呼び起こすことで印象を生み出そうとするほど、不条理なことはしない。観念は、現れたからといって対応する印象を生み出さず、われわれは、ただそれらを考えるだけでは、どんな色も知覚せず、どんな感覚も感じない。他方、心の印象であれ身体の印象であれ、どの印象にも、それに類似し、力と生き生きとしている度合いだけが異なる観念が、つねに続くことが分かる。類似する知覚の恒常的連接は、一方が他方の原因であることの説得力のある立証であり、印象のこの先行性は、印象が観念の原因であって、観念が印象の原因ではないことの同等の立証である。

これを確認するために、私はもう一つの明白で説得力のある現象を考察する。それは、たとえば生まれつき目が見えない、あるいは耳が聞こえないときのように、何らかの偶然によって、ある印象を生じさせる能力がその働きを妨げられているところではどこでも、印象が失われるだけでなく、それに対応する観念も失われ、そのどちらの痕跡も心に少しも現れない、ということである。しかもこれは、感覚の器官が完全に破壊されている場合にだけ当てはまるのではなく、特定の印象を生むために器官が一度も働かされたことがない場合にも当てはまる。パイナップルの味の正しい観念は、実際に味わったことがなければ、自分のなかに形づくれない。

しかし、観念が対応する印象に先行することも絶対に不可能ではないと立証しうる、一つの反対の現象がある。目から入る色の別個の観念や、聴覚によって伝えられる音の観念は、類似してはいても、互いに実際に異なっていることは、すぐ認められると思う。さて、これが異なる色について真であるなら、同じ色の異なる濃淡についても、それぞれが他から独立した別個の観念を生むということが、同じく真でなければならない。というのも、これが否定されるなら、濃淡を連続的に段階づけることで、一つの色を、それから最も離れたものへと、気づかないうちに変えていくことが可能になり、途中のものが異なると認めないなら、両端が同じだと否定することは不条理なしにはできないからである。そこで、ある人が三十年間視力を享受し、あらゆる種類の色に完全に親しんでいるが、たとえば青の特定の一つの濃淡だけには出会う機会がなかった、と想定しよう。その色の異なる濃淡を、その一つを除いて、最も濃いものから最も薄いものへと順に彼の前に並べるとする。彼はその濃淡が欠けている場所に空白を知覚し、その場所では隣り合う色の間の隔たりが、ほかのどこよりも大きいと感じることは明らかである。そこで私は問う。その濃淡が感官によって彼に伝えられたことが一度もなくても、彼は自分の想像力によってこの欠落を補い、その特定の濃淡の観念を自分のなかに呼び起こすことができるだろうか。ほとんどだれもが、できるという意見になるだろうと思う。これは、単純な観念が必ずしも対応する印象から導かれるわけではないことの立証になるかもしれない。ただし、この事例はあまりに特殊で特異であるため、注目に値するほどのことはなく、それだけのためにわれわれの一般的な格率を変更する価値もない。

しかしこの例外のほかに、この点について、印象が観念に先立つという原理は、もう一つの制限をつけて理解されなければならないと述べておくのがよいだろう。すなわち、観念が印象の像であるように、われわれは一次的な観念の像である二次的な観念を形づくることができる。これらの観念についてのまさにこの推論から、そのことは明らかである。これは、厳密にいえば規則の例外というより、その説明である。観念は、新しい観念のなかに自分自身の像を生み出す。しかし最初の観念は印象から導かれると想定されているのだから、われわれの単純な観念はすべて、媒介されてであれ直接であれ、対応する印象から生じるということは、依然として真である。

したがって、これが人間本性の学において私が確立する最初の原理である。その外見が単純だからといって軽んじてはならない。というのも、注目すべきことに、印象と観念のどちらが先行するかというこの問いは、生得観念があるかどうか、あるいはすべての観念が感覚と反省から導かれるかどうかが争われたときに、別の言い方であれほど大きな騒ぎを引き起こした問いと同じものだからである。延長と色の観念が生得ではないことを立証するために、哲学者たちは、それらが感官によって伝えられることを示すことしかしていない。情念と欲望の観念が生得ではないことを立証するために、彼らは、われわれが自分自身のうちにこれらの情動の先立つ経験をもつことを指摘する。さて、これらの論拠を注意深く調べるなら、それらが立証しているのは、観念には、より生き生きとした別の知覚が先立ち、観念はそこから導かれ、それを表すということだけだと分かる。問いをこのように明確に述べることで、これをめぐるあらゆる論争が取り除かれ、この原理が、これまで役立ってきたように見えるよりも、われわれの推論においていっそう役立つものになると期待する。

― 試し読みはここまでです ―

人間本性論 第1巻 知性について

発行責任者(訳者):飯島健二

発行:古典書房

制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)

参照原典:David Hume, A Treatise of Human Nature, Book I: Of the Understanding(初版:London: John Noon, 1739、付録は1740年。底本は L. A. Selby-Bigge 編、Oxford: Clarendon Press, 1888)

初版発行日:2026年10月15日

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