イデーン 第一巻
純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想

エドムント・フッサール 著

この本について

本HTMLは、エトムント・フッサール『純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』第一巻(Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch、1913年)の翻訳です。序論と、第一巻の全四篇(底本1〜323頁)を、すべて訳しています。原注は114あり、すべて収めています。底本の詳細目次(III〜IX頁)と、巻末の索引は収めていません。

底本:Edmund Husserl, Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch: Allgemeine Einführung in die reine Phänomenologie, Zweiter unveränderter Abdruck, Halle a. d. S.: Max Niemeyer, 1922(Sonderdruck aus „Jahrbuch für Philosophie und phänomenologische Forschung“, Bd. I)。初版は1913年に同誌第1巻に掲載されたもので、この第2刷は初版と同じ組版の無変更再版です。1913年の初版そのものとの対照は行っていません。底本のドイツ語は、姉妹編の原典HTML(husserl-ideen-1-genten.html)に収めており、本書の「底本頁」は、その頁と対応しています。

翻訳方針:直訳併記は行わず、現代語訳のみを掲載しています。文体は常体(である調)に統一し、語順を入れ替えたり、記号を足したりせず、原文にあるものを落とさず、ないものを加えないことを守っています。長い文は、意味を変えない範囲で二、三の文に分けています。原文の丸括弧とダッシュは、出典・頁・§番号の参照や数式を除き、文のなかに溶かして訳しています。ドイツ語の引用符» «は「 」に、その内側の引用は『 』に置き換えています。ギリシア語とラテン語の句は、原語のまま強調の形で示しています。人称は、wir を「われわれ」、ich を「私」と訳し、man は「人は」とするか、主語を立てていません。

主要な術語は、次のように統一しています。Bewußtsein は意識、Erlebnis は体験、Erfahrung は経験、Wahrnehmung は知覚、Anschauung は直観、Evidenz は明証、Einstellung は態度、Ausschaltung は遮断、Einklammerung は括弧入れ、Reduktion は還元、Wesen は本質、eidetisch は形相的、Noesis はノエシス、Noema はノエマ、Hyle はヒュレー、Intentionalität は志向性、Gegenstand は対象、immanent は内在的、transzendent は超越的、transzendental は超越論的、Konstitution は構成、Abschattung は射映、Sinn は意味、Bedeutung は意義、Wirklichkeit は現実、Realität は実在、reines Ich は純粋自我です。ほかの術語は、用語集に挙げています。

強調:底本で字間を空けて強調された語句(Sperrdruck)は、訳文でも対応する語句に付けています。初期の表示では目立たせず、画面の「強調」ボタンを押すと、字間を広げて表示します。太字は、原文どおり太字で示しています。

原注:底本の原注は、頁ごとに1から数え直されています。本書では、序論から巻末まで1〜114の通し番号を付け、本文中の「†1」などから飛べる形で、該当する段落の直後に常時表示しています。書名は、日本語の題が広く知られたものには日本語の題を付け、そのほかは原題のままにしています。

見出し:底本の見出しと§の番号は、そのまま残しています。見出しの下に見える§の一覧は、原典構造一覧から飛べます。

底本の不備:底本には、綴りや句読点、引用符の誤植がわずかにあります。意味に影響しない句読点や引用符の脱落は、訳文に反映していません。意味に関わる次の箇所は、文脈から次のように推定して訳しました(刊本での確認はしていません)。230頁付近の「durchaus neutralisierte, durchaus doxische Setzungen」は、「ドクサ的でない」の誤りの可能性がありますが、原文のとおりに訳しました。281頁付近の「ob er wirklicher ist oder nicht」は、比較級ではなく wirklich の誤りと見て訳しました。283頁付近の「Farten」は Farben(色)の、202頁付近の「dieienige」は diejenige の誤植と見て訳しました。原注48の「ge meinen Pack」は gemeinen の誤植と見ています。

操作方法:画面の「i」ボタンで操作バーを開閉できます。操作バーでは、明暗の切り替えのほか、「なぞり線」ボタンで本文に線を引くこと(閉じると消えます)、「底本頁」ボタンで底本のページ番号を表示すること、「強調」ボタンで字間を空けた強調を表示すること、「解説」ボタンで概説・用語集・各章の位置づけと概要を表示することができます。目次の各項目から本文へジャンプできます。第一巻の第1頁(p.7)は、底本に頁番号が印字されていないため、頁番号を薄く表示しています。

解説について:概説、用語集、原典構造一覧、各章の冒頭の「位置づけ」と「概要」は、読者の便宜のために訳者が付したもので、フッサールの文章ではありません。

知の地図シリーズ / 古典書房

概説

『イデーン』以前の哲学

近代哲学は、デカルトが確実な出発点を求めて一切を疑い、疑いえない「われ思う」に行き着いたところから、意識の側に基礎を探す方向をとった。カントは、経験の可能性の条件を主観の側に問う超越論的な哲学を示した。フッサールは、この二つの伝統を、本書の第二篇でたびたび引き合いに出す。デカルトの普遍的な懐疑の試みは、現象学的還元の手がかりとして、その試みの動機とともに論じられる。

十九世紀の末、論理学や数学の根拠を心理的な事実に求める心理学主義が広がっていた。フッサール(1859〜1938)は、数学の哲学から出発し、『論理学研究』(1900〜01年)の第一巻で、この心理学主義を徹底して批判した。純粋論理学の法則は、心理的な事実から生じる経験的な法則ではなく、観念的な妥当性をもつ、というのである。第二巻では、認識の諸作用を、そのつど体験されるとおりに記述する方法を示した。この方法は、ブレンターノの志向的体験の理論を受けつぎ、作り直したものである。フッサールはウィーンでブレンターノに学んでいる。本書でも、ブレンターノやシュトゥンプの名が、注のなかで挙げられる。

その後フッサールは、ハレからゲッティンゲンに移り(1901年)、そこで多くの若い哲学者を集めた。1911年には、論文「厳密な学としての哲学」(『ロゴス』誌)で、自然主義と歴史主義を退け、哲学を厳密な学として基礎づけることを求めた。『論理学研究』の段階では記述的な現象学を標榜していたが、その後の数年で、認識の主観の側を、世界の構成の場として見る超越論的な立場へ進んだ。本書は、この転回を、はじめて公に示した著作である。

『イデーン』の哲学の革新

本書は、1913年、フッサールらが編集した『哲学および現象学的研究年報』の第1巻に掲載された。題が示すとおり、純粋現象学を、哲学の基礎学として構想する書である。序論は、現象学がほかの学問とどう違うかを述べ、自然的な態度にとどまる思考から、現象学的な態度へ移ることが、最初の、そして容易でない課題だと告げる。

第一篇は、事実と本質を区別する。事実の学である経験科学に対し、本質の学があり、本質は、本質直観という独自の直観で、事実の経験とは別に把握されるとする。第二篇は、本書の中心となる考察で、自然的態度が世界の存在を一般定立として前提していることを示す。この定立を、現象学的エポケーによって遮断し、括弧に入れる。そのとき残るものは、世界を失った残りではなく、純粋意識という、固有の存在領域である。内在的な知覚は、射映を通して与えられる超越的な物の知覚と違い、十全的に与えられる。そこで、意識は絶対的な存在であり、世界は、意識に相関する意味として構成されることになる。この意識と世界の関係の見方が、超越論的現象学の核心である。

第三篇は、純粋現象学の方法と問題系を扱う。純粋意識の内側では、反省によって体験の流れが主題となり、どの体験も志向性をもつ。体験には、ヒュレー的な素材と、それに意味を与えるノエシス的な作用があり、その相関者として、ノエマが立てられる。第四篇は、理性と現実を扱う。意識に現れる対象は、同一の意味の核とそれをとりまく性格によって規定され、現実と理性は、明証による充実化の関係として、現象学的に解き明かされる。巻の末尾では、構成の問題の全面的な解決は、理性の完全な現象学と、ひいては現象学一般と合致するだろうと述べられる。残りの課題は、予告された後続の巻に託される。

『イデーン』以後の哲学

本書は、現象学の運動を、新しい方向に進ませた。ゲッティンゲンやミュンヘンで学んだ初期の現象学者たちの多くは、事象そのものへの立ち返りには共鳴したが、世界を意識に相関させる超越論的な立場には従わなかった。フッサール自身は、のちの『デカルト的省察』(1931年)や『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1936年)で、超越論的な立場を、他我の問題や生活世界の問題とともに、さらに展開した。

本書の第二巻と第三巻は、フッサールの生前には公刊されず、1952年に、遺稿全集(フッサリアーナ)の巻として世に出た。ハイデガーは、『存在と時間』(1927年)をフッサールに献じたが、その存在の問いは、現象学を、意識の哲学から離れて展開するものであった。サルトルは『自我の超越』(1936〜37年)で、本書の超越論的自我の理論を批判した。メルロ=ポンティは『知覚の現象学』(1945年)で、身体と世界の問題へ、現象学を進めた。リクールは、本書をフランス語に訳し(1950年)、長い訳注と序文を付した。

現象学は、その後も、解釈学、実存哲学、心の哲学、認知科学の分野でたびたび参照されている。本書の定義した用語、すなわち、エポケー、志向性、ノエシスとノエマ、構成などは、こうした議論の共通の語彙の一部となっている。

本書における重要な用語

以下、()内は原則としてドイツ語の原語。本書の記述にもとづく参考情報であり、解説ボタンで表示される。

事実・本質Tatsache / Wesen
事実は、偶然的で個別的なものであり、経験によって与えられる。本質は、個体的な存在がそのつどもつ「何であるか」であり、事実を成り立たせる必然的な形式である。両者は不可分だが、本質は事実の経験から独立に把握できる。
主な箇所:§2 p.9、§3 p.12、§4 p.13
本質直観Wesensschau / Wesenserschauung
本質を直接に捉える直観。個体的な直観とは区別されるが、それに基づいて可能になる。想像のなかで自由に変えてみることによって、その本質が際立つ。事実の存在を措定しない。
主な箇所:§3 p.10、§3 p.11、§3 p.12
形相的還元eidetische Reduktion
心理学的な現象から純粋な「本質」へ、また判断的思考においては、事実的な一般性から本質の一般性へと移行させる還元。超越論的還元とは区別される。
主な箇所:序論 p.4、§59 p.112、§60 p.114
領域・範疇Region / Kategorie
領域は、個体の最高の類を本質的に統一した全体であり、範疇は、その領域に属する対象に、本質上あてはまる形式的な諸概念をいう。領域に対しては領域的形相論が対応する。
主な箇所:§9 p.19、§10 p.21、§16 p.31
自然的態度natürliche Einstellung
世界をそこにあるものとして見いだし、その存在を疑わずに受け入れて生きる、日常的かつ学問的な態度。現象学は、この態度の定立を遮断することから始まる。
主な箇所:§27 p.48、§30 p.52、§30 p.52
一般定立Generalthesis
自然的態度が、自分の環境世界の存在に対して、つねにすでに行っている根本的な措定。自然的態度を生きるかぎり、これを意識してはいない。
主な箇所:§30 p.52、§31 p.53、§32 p.56
遮断・括弧入れAusschaltung / Einklammerung
自然的態度の一般定立を、使わないままにとどめること。その定立を否定したり疑ったりするのではなく、効力を働かせないで、括弧に入れる。これを行うことで、世界は「現象」として残る。
主な箇所:§31 p.56、§56 p.108、§56 p.108
エポケーEpoché(ἐποχή)
判断を控えること。現象学的エポケーは、自然的態度の定立の全体を括弧に入れ、世界に関する一切の判断を控える徹底した態度変更をいう。
主な箇所:§31 p.55、§32 p.56、§33 p.57
現象学的還元phänomenologische Reduktion
エポケーによって世界の措定を遮断し、純粋意識とその相関者へ視線を向け変えること。遮断の範囲を詰め、遮断すべきものを体系的に定める。
主な箇所:§33 p.59、§57 p.109、§61 p.115
純粋意識(超越論的意識)reines / transzendentales Bewußtsein
現象学的な還元のあとに残る残余としての、意識。世界の無化を考えても残る絶対的な存在であり、現象学の場である。それ自身の存在をもち、実在によっては規定されない。
主な箇所:§50 p.94、§51 p.95
体験Erlebnis
意識の流れのうちで、そのつど生きられる個々の意識作用や内容。体験は反省によって知覚され、内在的な存在として、絶対的に与えられる。
主な箇所:§35 p.61、§38 p.69、§45 p.83
志向性Intentionalität
意識が、何かについての意識であるという、体験の根本的な性格。現象学の主要な主題であり、体験のさまざまな種類が、この性格によって区別される。
主な箇所:§36 p.65、§84 p.167、§84 p.171
コギトcogito
「われ思う」という作用を遂行している意識。純粋自我が、体験のなかで、対象へ向かっていることとして現れる。現勢性と潜勢性の変様が、ここで区別される。
主な箇所:§28 p.50、§28 p.51、§37 p.65
純粋自我reines Ich
体験の流れのなかで、体験とともに変わらず、すべてのコギトの主体として、体験に向かい合う自我。世界とともに遮断されるのではなく、残余に属する。
主な箇所:§57 p.109、§57 p.109、§80 p.161
反省Reflexion
体験そのものに視線を向け変えること。現象学的な研究は、反省において行われる。反省にも、自己観察のような困難があるが、これは現象学の方法の前提である。
主な箇所:§78 p.148、§78 p.150、§79 p.155
内在・超越Immanenz / Transzendenz
内在的な知覚は、体験そのものを捉え、体験のうちに含まれる。超越的な知覚は、体験の外にある物を、射映を通して捉える。内在的なものは疑いえず、超越的なものは疑わしい。
主な箇所:§38 p.69、§42 p.76、§44 p.81
射映Abschattung
物が、知覚のなかで、ある側面から、ある向きのもとに、与えられるときの、与えられ方の多様。物は一面ずつ与えられる一方で、体験は十全的に与えられる。
主な箇所:§41 p.75、§42 p.77、§44 p.83
構成Konstitution
対象が、意識の働きのなかで、意味をもつものとして成り立つこと。物の超越論的な構成は、一定の層をなし、現象学の中心問題となる。
主な箇所:§41 p.75、§149 p.309、§151 p.317
ヒュレーHyle(ὕλη)
体験のうち、志向的な形式によって生気を与えられる、感覚的な素材。感覚与件などが属する。それ自体には志向性がない。
主な箇所:§85 p.173、§85 p.175、§97 p.203
ノエシス・ノエマNoesis / Noema
ノエシスは、体験の実的な構成要素のうち、意味を与える志向的な契機。ノエマは、体験に現れるものを、そこで思念されるとおりに、意味として取り出したもので、体験の実的な部分ではない。
主な箇所:§97 p.204、§98 p.206、§98 p.207
ノエマ的意味noematischer Sinn
ノエマの核にある、規定可能なXに規定を与える内実。現実の対象でも、内在的な対象でもなく、思念されたものそのものの意味である。
主な箇所:§90 p.187
実的・非実的reell / irreell
体験の実的な構成要素とは、体験そのものを実際に構成している部分を言う。ヒュレー的契機やノエシス的契機がそれにあたる。ノエマ的契機は、実的ではなく非実的である。実在的(real)とは別の語である。
主な箇所:§41 p.73、§97 p.201、§97 p.204
措定・定立Setzung / Thesis
措定は、あるものを存在するものとして立てること(Setzung、Position)。定立は、そのような作用の性格をなす、広い意味でのThesis。信念の措定を中心に、様相化や中立化を受ける。
主な箇所:§113 p.228、§113 p.230、§113 p.231
ドクサ・信念Doxa / Glaube
ドクサ的な作用は、信念の措定を担う作用。原信念は、あらゆる様相的な変様の元になる。疑いや問いなど、ほかの様相は、そこからの変様として扱われる。
主な箇所:§103 p.214、§104 p.216、§104 p.216
中立性変様Neutralitätsmodifikation
あらゆる措定を、「単に考える」だけの、非措定的な仕方に変えること。想像とは別であり、反復できない。
主な箇所:§109 p.222、§111 p.224、§111 p.225
現勢性・潜勢性Aktualität / Inaktualität, Potentialität
体験が、いま現に遂行されている状態が現勢性、背景に退いたまま、いつでも注意の対象となりうる状態が潜勢性。コギトは現勢的であり、体験は潜勢的な暈に取り巻かれている。
主な箇所:§35 p.63、§113 p.230、§113 p.230
想像Phantasie
現実を措定せず、自由に描き出す意識。本質直観の方法では、想像によって自由に変様させることが重視される。中立性変様と密接に関わるが、同一ではない。
主な箇所:§70 p.131、§111 p.225、§112 p.227
明証Evidenz
対象がそれ自体として、原的に与えられること。理性意識の根本形式として、洞察と結びついている。原的明証と純粋明証、実然的明証と必当然的明証などが区別される。
主な箇所:§136 p.284、§137 p.285、§137 p.285
十全的・必当然的adäquat / apodiktisch
十全的な明証は、対象が、その全体において、与えられている明証。必当然的な明証は、その非存在が考えられない、絶対的な確実性をもつ明証。内在的な体験は、十全的に与えられうるが、物は、不十全的にしか与えられない。
主な箇所:§137 p.285、§137 p.285、§138 p.286
洞察Einsicht
理性が、事態を、原的な明証において把握すること。洞察のない措定とは、権利の度合いが異なる。
主な箇所:§136 p.282、§137 p.285、§137 p.285
理性・現実Vernunft / Wirklichkeit
理性意識は、原的に与える作用に基づいて、措定に権利を与える。現実とは、原的に与える意識の連関によって、確証されるものの存在である。
主な箇所:§142 p.295、§142 p.296、§145 p.302
充実化Erfüllung
空虚な志向が、直観によって、満たされること。ノエマの核は、充実の様態における意味として論じられる。
主な箇所:§132 p.273、§136 p.283、§136 p.284
体験の流れErlebnisstrom
一つの純粋自我に属する、体験の統一的な連続。無限の時間地平をもち、理念として把握される。
主な箇所:§81 p.161、§81 p.163、§83 p.166
自然主義Naturalismus
哲学の問題を、自然科学の方法で扱い、本質認識を、経験の事実に還元しようとする立場。本書の第一篇第二章で批判される。
主な箇所:§18 p.34、§19 p.34、§19 p.35
超越論的transzendental
世界の意味と存在が、意識の働きから成り立つことを問う態度や研究を指す。この意味で「超越論的に浄化された」意識が、現象学の領域となる。
主な箇所:序論 p.4、§51 p.95、§55 p.107

原典構造一覧

底本の見出しの階層を、すべて挙げる。§の番号は底本のとおりである。番号のない見出しには「(無番号)」と添えた。

序論

第一巻 純粋現象学への一般的導入

第一篇 本質と本質認識

第一章 事実と本質

§1 §2 §3 §4 §5 §6 §7 §8 §9 §10 §11 §12 §13 §14 §15 §16 §17

第二章 自然主義的な誤解

§18 §19 §20 §21 §22 §23 §24 §25 §26

第二篇 現象学的根本考察

第一章 自然的態度の定立とその遮断

§27 §28 §29 §30 §31 §32

第二章 意識と自然的現実

§33 §34 §35 §36 §37 §38 §39 §40 §41 §42 §43 §44 §45 §46

第三章 純粋意識の領域

§47 §48 §49 §50 §51 注記(無番号) §52 §53 §54 §55

第四章 現象学的還元

§56 §57 §58 §59 §60 §61 §62 注記(無番号)

第三篇 純粋現象学の方法論と問題系

第一章 方法に関する予備的考察

§63 §64 §65 §66 §67 §68 §69 §70 §71 §72 §73 §74 §75

第二章 純粋意識の一般的構造

§76 §77 §78 §79 §80 §81 §82 §83 §84 用語について(無番号) §85 §86 注記(無番号)

第三章 ノエシスとノエマ

§87 §88 §89 §90 §91 §92 §93 §94 §95 §96

第四章 ノエシス的・ノエマ的構造の問題性

§97 §98 §99 §100 §101 §102 §103 §104 §105 §106 §107 §108 §109 §110 §111 §112 §113 §114 §115 §116 §117 §118 §119 §120 §121 §122 §123 §124 §125 §126 §127

第四篇 理性と現実

第一章 ノエマ的意味と対象への関係

§128 §129 §130 §131 §132 §133 §134 §135

第二章 理性の現象学

§136 §137 §138 §139 理論的真理、価値論的真理、実践的真理(無番号) §140 措定的洞察と中立的洞察の等価性(無番号) §141 間接的な明証(無番号) §142 §143 §144 §145

第三章 理性論的な問題系の一般性の諸段階

§146 §147 §148 §149 §150 §151 §152 §153

目次

『純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』
エドムント・フッサール(ゲッティンゲン)

序論

位置づけ:本書全体への序論であり、第一巻の本論に先立つ。
概要:純粋現象学は、自然的な思考から遠いところにある、本質的に新しい学問だと述べる。ドイツの哲学と心理学では、現象学が経験的心理学の一部門とみなされてきたが、これは誤りだと指摘する。心理学は事実と実在の学問であるのに対し、純粋ないし超越論的現象学は、事実ではなく本質を扱う学問であり、その現象は非実在的なものとして特徴づけられる。そこから、形相的還元と超越論的還元という、二つの還元の見通しが示される。続いて、全三巻の計画、すなわち、第一巻は一般的な導入、第二巻は重要な問題群の叙述、第三巻は哲学の理念であることが告げられる。最後に、まず本質と本質学についての基礎的な考察から始めることが宣言される。

ここでわれわれが道を探している純粋現象学は、他のあらゆる学問に対するその唯一無二の位置をわれわれが特徴づけ、哲学の基礎学として示そうとするものであり、本質的に新しい学問である。その原理的な特性のために自然的思考から遠く、それゆえ今日になってはじめて発展を迫られている。現象学は自らを「現象」の学問と称する。現象を対象とする学問は、ほかにも、とうに知られたものがある。たとえば人は、心理学を心的な「現出」ないし現象の学問、自然科学を物理的な「現出」ないし現象の学問と呼ぶのを耳にする。同様に、歴史学では歴史的な現象が、文化学では文化現象が語られることがあり、実在についてのあらゆる学問で似たことが言われる。このような語り方で現象という語の意味がどれほど異なり、さらにどのような意義をもちうるにせよ、現象学がこれらすべての「現象」に、あらゆる意義に即して関わることは確かである。ただし、それは全く別の態度においてであり、この態度によって、古くから親しまれた学問でわれわれに出会う現象のあらゆる意味が、一定の仕方で変様される。そのように変様されたものとしてのみ、現象は現象学的圏域に入る。この変様を理解すること、より正確に言えば、現象学的な態度を遂行し、その固有の性格と自然的態度の性格とを反省的に学問的意識へと高めること。これが第一の、決して容易ではない課題である。現象学の地盤を得て、その固有の本質を学問的に確かめようとするなら、われわれはこの課題を完全に果たさなければならない。

ここ十年のあいだ、ドイツの哲学と心理学では、現象学がしきりに話題になっている。人々は、『論理学研究』†1と一致しているつもりで、現象学を経験的心理学の下位段階とみなし、心的体験を「内在的」に記述する圏域とみなしている。しかもこの内在を、厳密に内的経験の枠内にとどまるものと理解している。この理解に対する私の異議†2は、どうやらほとんど効果がなかった。付した論述は、少なくとも違いの主要な点をいくつか鋭く描き出していたのに、理解されなかったか、顧みられずに脇へ押しやられた。心理学的方法に対する私の批判への反論も、そのために全く無効なものになっている。それらは私の叙述の素朴な意味を取り違えているからである。この批判は、近代心理学の価値を決して否定せず、傑出した人々が成し遂げた実験的研究を決して貶めなかった。むしろ、この方法に字義どおり根本的な欠陥があることを明るみに出したのであり、その除去にこそ、心理学がより高い学問の段階へ上昇することと、その研究領域が格段に拡大することとが、私の考えでは懸かっているにちがいない。私の「攻撃」とされるものに対する心理学の不必要な弁護については、いずれ数語で触れる機会があるだろう。ここでこの論争に触れるのは、支配的で極めて重大な結果をもたらす誤解を前にして、あらかじめ鋭く強調しておくためである。すなわち、純粋現象学は、われわれが以下でその入口に道を開こうとするものであり、『論理学研究』で最初の突破に達したのと同じものであって、その意味は、この十年の研究の継続のなかで私にますます深く豊かに開かれてきたが、心理学ではない。また、偶然的な領域の区分や術語ではなく、原理的な理由が、現象学を心理学に数え入れることを不可能にしている。現象学が心理学にとって方法上どれほど大きな意義を要求せざるをえないとしても、またどれほど本質的な「基礎」を心理学に提供するとしても、現象学は(すでに理念の学問であるという点で)、幾何学が自然科学ではないのと同様に、それ自体は心理学ではない。いや、両者の違いは、この比較の場合よりもいっそう根本的なものとして現れてくる。現象学が「意識」を、あらゆる体験の種類、作用、作用の相関者を扱うという事実は、これを少しも変えない。もっとも、支配的な思考習慣のもとでこれを洞察するには、並々でない労苦が要る。これまでの思考習慣をすべて遮断し、それらがわれわれの思考の地平を取り囲んでいる精神の制約を認識して取り壊し、そのうえで完全な思考の自由のなかで、真正な、全く新しく立てねばならない哲学的問題を把握すること。そうした問題には、あらゆる側面から制約を取り払われた地平がはじめてわれわれを近づける。これは厳しい要求である。だが、これに劣るものでは足りない。実際、現象学の本質を自分のものにし、その問題設定に固有の意味と、他のあらゆる学問(とりわけ心理学)に対するその関係を理解することが非常に困難なのは、これらすべてに加えて、自然的な経験や思考の態度とは全く異なる態度の取り方が必要だからである。この態度のなかで、古い態度に決して後戻りすることなく自由に動き、目の前に立つものを見て、区別し、記述できるようになるには、さらに独自の骨の折れる研究が要る。

†1 E. フッサール『論理学研究』全2巻、1900年および1901年。

†2 論文「厳密な学としての哲学」、『ロゴス』第I巻、316–18頁(とくに経験の概念についての叙述、316頁に注意されたい)。現象学と記述的心理学との関係については、すでに私の「1895–99年のドイツ語の論理学文献に関する報告」、Archiv f. system. Philosophie、第X巻(1903年)、397–400頁に詳しい論述を充てた。これも参照されたい。私は今日でも、一語として言い換えることはできない。

この第一巻の最も重要な課題は、この新しい世界に分け入る際の過大な困難を、いわば少しずつ克服できる道を探すことである。われわれは自然的立場から出発する。世界はわれわれに向かい合うものとして、意識は心理学的経験で示されるものとして取り上げ、それらに本質的な前提をあらわにする。次に「現象学的還元」の方法を作り上げる。この方法によって、あらゆる自然的な研究様式の本質に属する認識の制約を取り除き、その研究様式に固有の一面的な視線の向きをそらすことができる。こうして最後に、「超越論的」に純化された現象の自由な地平を得て、それとともに、われわれ固有の意味での現象学の領域を得る。

予示する線をもう少し明確に引こう。そして、時代の先入見が求めるとおり、また事象そのものの内的な共通性も求めるとおり、心理学に結びつけよう。

心理学は経験科学である。経験という語の通常の意味では、このことに二重のことが含まれている。

1. 心理学は事実の学問であり、D. ヒュームの意味での matters of fact の学問である。

2. それは実在の学問である。心理学的「現象学」として扱う「現象」は、実在的な出来事であり、そうした出来事は、現実の定在をもつかぎり、それが属する実在的な主観とともに、実在の総体であるただ一つの空間的・時間的な世界に組み入れられる。

これに対して、純粋ないし超越論的現象学は、事実学ではなく本質学として(「形相的」学問として)基礎づけられることになる。この学問は「本質認識」だけを確立しようとするのであって、「事実」はまったく扱わない。これに対応する還元は、心理学的現象から純粋な「本質」へ、また判断的思考においては事実的(「経験的」)一般性から「本質」の一般性へと移行させるものであり、形相的還元である。

第二に、超越論的現象学の現象は非実在的なものとして特徴づけられることになる。ほかの還元、すなわち特殊に超越論的な還元は、心理学的現象から、その現象に実在性を与え、それゆえ実在的な「世界」への組み入れを与えるものを「浄化」する。われわれの現象学は、実在的な現象の本質論ではなく、超越論的に還元された現象の本質論でなければならない。

これらすべてが詳しくは何を意味するのかは、以下で初めて明らかになる。さしあたりこれは、入門的な一連の研究の図式的な枠組みを示すものである。ここにぜひ付け加えておきたい注意が一つだけある。読者は気づくだろうが、上の二つの標示した点では、学問を実在学と観念学(あるいは経験的学問とアプリオリな学問)に分けるという、一般に通用している唯一の区分ではなく、むしろ二つの区分が用いられている。この二つの区分は、二組の対立、すなわち事実と本質、実在的なものと非実在的なものに対応する。この二重の対立を、実在と観念という対立に代えて区別することについては、のちの研究の過程で(第二巻において)立ち入った正当化を行う。実在の概念には根本的な限定が必要であり、その限定によって、実在的存在と個体的存在(すなわち端的に時間的な存在)とのあいだに区別を立てねばならないことが示される。純粋本質への移行は、一方では実在的なものの本質認識をもたらし、他方では、残された圏域に関して、非実在的なものの本質認識をもたらす。さらに、超越論的に浄化されたすべての「体験」は非実在であり、「現実の世界」へのいかなる組み入れからも外れて措定されていることが示される。現象学が探究するのは、まさにこれらの非実在であるが、それを単称的な個別としてではなく、「本質」において探究する。ただし、超越論的現象が単称的な事実としてどこまで研究の対象となりうるのか、またそのような事実研究が形而上学の理念とどのような関係にありうるのかは、最後の一連の研究で初めて考察できる。

第一巻では、超越論的に浄化された意識とその本質相関者をわれわれに見えるものにし、接近可能にする現象学的還元について、一般論を扱うだけではない。この純粋意識の最も一般的な構造について、またそれを介して、この新しい学問に属する最も一般的な問題群・研究方向・方法について、確定した表象を得ることも試みる。

第二巻では、とくに重要な問題群をいくつか詳しく扱う。これらの問題群を体系的に定式化し、典型的に解決することは、現象学が物理的な自然科学・心理学・精神科学に対してもつ難しい関係と、さらにアプリオリな諸学問すべてに対してもつ関係を、本当に明晰にするための前提条件である。ここで描く現象学的な素描は、同時にありがたい手段ともなる。第一巻で得た現象学の理解を大いに深め、現象学の巨大な問題圏について、比較にならないほど内容豊かな知識を得るための手段である。

第三の最終巻は、哲学の理念にあてる。この巻は、次の洞察を呼び起こすことになる。真の哲学の理念は、絶対的認識の理念を実現することにある。この哲学は純粋現象学に根ざしており、しかもその意味は重い。あらゆる哲学のうち第一のものであるこの哲学を、体系的に厳密に基礎づけ遂行することが、「学問として登場しうる」あらゆる形而上学とその他の哲学にとって、欠くことのできない前提条件だということである。

ここで現象学を本質学として、すなわち「アプリオリ」な、われわれの言い方では形相的な学問として基礎づけようとするのだから、現象学そのものに向けるあらゆる努力に先立って、本質と本質学についての一連の基礎的な考察を置き、自然主義に対して本質認識が根源的に固有の権利をもつことを擁護しておくのが有益である。――

われわれはこの序の言葉を、ささやかな術語上の考察で閉じる。すでに『論理学研究』でそうしたように、私はアプリオリとアポステリオリという表現を、できるかぎり避ける。一般的な用法でこれらの表現にまとわりつく、紛らわしい不明確さと多義性があるからであり、また、過去の悪しき遺産としてこれらの表現に絡みついている、いかがわしい哲学説があるからでもある。これらを用いるのは、一義性を与える文脈の中だけであり、しかもわれわれが明晰で一義的な意義を与えた別の術語に、同じ意味のものとして添える場合だけとする。とくに、歴史上の並行を響かせたい場合がそうである。

理念と理想という表現は、紛らわしい多義性の点では、おそらくそれほどひどい状態にはない。しかし全体としては十分にひどく、そのことは、私の『論理学研究』がしばしば誤解されたことで痛いほど思い知らされた。術語を改めることにしたのは、カントの理念概念というきわめて重要な概念を、(形式的ないし質料的な)本質という一般概念からきれいに分けておきたいという要求にもよる。そこで私は、術語としてまだ使い古されていないエイドスを外来語として用い、ドイツ語としては「本質」を用いる。この語には、害のない、ただし時に厄介な多義性がつきまとっている。

できることなら、ひどく負荷のかかった実在的という語も除きたかった。ただし、それにふさわしい代わりの語が見つかればの話である。

さらに一般的に述べておく。歴史的な哲学の言語からまったくはみ出すような術語を選ぶことはできない。とりわけ、哲学の根本概念は、直接に接近できる直観にもとづいていつでも同定できる確固たる概念によって、定義的に固定できるものではない。むしろ、その最終的な解明と規定には、一般に長い研究が先立たなければならない。そのため、しばしば組み合わせた言い回しが欠かせない。それは、一般の言葉でほぼ同じ意味で用いられる複数の表現を、そのうちの個々のものに術語としての際立ちを与えながら、並べ合わせるものである。哲学では、数学のように定義することはできない。数学の手続きをまねることは、この点で実りがないだけでなく、倒錯しており、きわめて有害な結果を招く。なお、上に挙げた術語的な表現は、以後の詳細な考察のなかで、それ自体において明証的な特定の指示によって、確固たる意味を得るべきである。これに対して、この点でも、また一般にも、哲学の伝統との煩雑な批判的比較は、この著作の分量のためだけでも、断念しなければならない。

第一巻
純粋現象学への一般的導入

位置づけ:第一巻の総題である。以下の四つの篇の全体をまとめる。
概要:純粋現象学への一般的な導入を行う巻である。本質認識の権利を確保し(第一篇)、現象学的還元によって純粋意識の領域に至り(第二篇)、その領域の方法と一般的な構造を見渡し(第三篇)、最後に理性と現実の問題を論じる(第四篇)。

第一篇
本質と本質認識

位置づけ:第一巻の第一篇。現象学そのものに入る前の、本質と本質認識についての予備的な考察を行う。
概要:事実の学問と本質の学問を区別し、本質を直接に捉える本質直観の権利を示す。そのうえで、領域と範疇、類と種といった形式的な概念を整える。さらに、本質認識を経験にすり替える自然主義的な見方を批判する。第二篇以降の現象学的な考察が、アプリオリな学問としての性格をもつことの土台となる。

第一章
事実と本質

位置づけ:第一篇の第一章。本質の学問を基礎づけるために必要な、基本概念の整理にあたる。
概要:自然的な認識は経験から始まるとして、事実と本質が不可分であることを示す。事実は偶然的であり、本質はその必然的な形式として、本質直観によって把握される。本質直観は想像にも支えられ、事実の経験から独立している。そのうえで、事実学と本質学、領域と領域的形相論、範疇、類と種、一般化と形式化、基体と具体者といった区別を順に導入する。形式的な領域を調べる分析的な学問と、質料的な領域を調べる学問との違いも説明される。

§1 自然的認識と経験

自然的認識は経験から始まり、経験のうちにとどまる。したがって、われわれが「自然的」と呼ぶ理論的態度において、可能な研究の全地平はひとつの語で言い表される。それは世界である。この根源的†3な態度の諸学問は、それゆえ総じて世界についての学問であり、この態度が排他的に支配しているかぎり、「真正の存在」「現実の存在」、すなわち実在的存在という概念と、実在的なものはすべて世界の統一へと結びつくのだから、「世界の中の存在」という概念とが一致する。

†3 ここでは物語を語っているのではない。根源性というこの言い方で、心理学的・因果的な発生も、発達史的な発生も、考える必要はなく、考えるべきでもない。ほかにどのような意味が思念されているのかは、のちに反省的かつ学問的な明晰さに達して初めて明らかになる。しかし、経験的で具体的な事実認識が、ほかのあらゆる認識、たとえば数学的で観念的な認識に先立つということが、客観的な時間的意味をもつはずはない。このことは、最初から誰もが感じ取っている。

どの学問にも、その研究の領野として、ひとつの対象領域が対応する。またその学問のあらゆる認識、すなわちここでは正しい言明には、正当に証示する基礎づけの根源的な源泉として、ある種の直観が対応する。その直観において、この領域の対象は自体所与性に達し、少なくとも部分的には原的な所与性に達する。第一の「自然的」な認識圏域と、そのすべての学問の与える直観は自然的経験であり、原的に与える経験は知覚である。ここで知覚とは、この語を通常の意味で理解したものである。実在的なものを原的に与えられていることと、それを端的に直観しつつ「気づく」こと、「知覚する」ことは、同じことである。物理的な物の原的な経験を、われわれは「外的知覚」においてもつが、想起や先を見やる期待においてはもはやもたない。自分自身と自分の意識状態の原的な経験は、いわゆる内的知覚ないし自己知覚においてもつが、他者とその体験の原的な経験は、「感情移入」においてはもたない。われわれは、他者の身体的な表出の知覚にもとづいて、他者の体験を「見てとる」。感情移入のこの見てとりは、直観的で与える作用ではあるが、もはや原的に与える作用ではない。他者とその心の生は、「自身がそこに」あるものとして、また身体と一体にそこにあるものとして意識されてはいるが、身体のように原的に与えられたものとして意識されてはいない。

世界とは、可能な経験と経験認識の対象の総体であり、現勢的な経験にもとづいて正しい理論的思考により認識できる対象の総体である。経験科学の方法が詳しくはどのようなものか、直接の経験所与性という狭い枠を越え出る権利をどのように基礎づけるのか、それをここで論じる場ではない。世界についての学問、すなわち自然的態度の学問とは、広義・狭義のいわゆる自然科学、つまり物質的自然の学問のすべてであり、さらに、動物的存在者をその心理物理的自然とともに扱う学問、すなわち生理学や心理学なども含む。同じくここには、いわゆる精神科学のすべて、すなわち歴史、文化学、あらゆる種類の社会学的諸学科が属する。その際、これらを自然科学と同列に置くべきか対置すべきか、それら自身を自然科学とみなすべきか、本質的に新しい型の学問とみなすべきかは、さしあたり未決のままにしておいてよい。

§2 事実 事実と本質の不可分性

経験科学は「事実」学である。経験することという基づける認識作用は、実在的なものを個体的に措定する。それを、時空的に定在するものとして、すなわちこの時間位置にあり、この持続をもち、その本質からすれば他のどの時間位置にあってもよかったような実在性内容をもつものとして措定する。さらにそれを、この場所に、この物理的形態であるもの、ないしこの形態の身体的なものと一体で与えられているものとして措定する。ところが、同じ実在的なものは、それ自身の本質から見れば、任意のどの場所に、任意のどの形態であっても同じようにありえたはずであり、事実上は変化していないときに変化しえたはずであり、事実上変化しているのとは別の仕方で変化しえたはずである。あらゆる種類の個体的存在は、ごく一般的に言えば、「偶然的」である。それはこうあるが、その本質からすれば別様でもありえた。たしかに、これこれの実在的な状況が事実上あるなら、これこれの特定の結果が事実上なければならない、という自然法則は成り立つかもしれない。しかしそうした法則も、事実上の規則づけを表現するにすぎない。その規則づけ自体はまったく別様に定められてもよかったのであり、しかも、可能な経験の対象の本質にはじめから属するものとして、次のことをすでに前提している。すなわち、法則によって規則づけられるこの種の対象は、それ自体において見れば偶然的だということである。

しかし、事実性と呼ばれるこの偶然性の意味は、それが必然性に相関的に関係するところで限定される。この必然性は、空間的・時間的な事実を結びつける妥当な規則が単に事実として成り立っていることを言うのではなく、本質必然性という性格をもち、したがって本質的一般性への関係をもつ。どの事実も「それ自身の本質からして」別様でありうるとわれわれが述べたとき、すでに次のことを表明していた。すなわち、あらゆる偶然的なものの意味には、まさに一つの本質を、したがって純粋に把握されるべき一つのエイドスをもつことが属している。そしてこのエイドスは、一般性の段階を異にするさまざまな本質真理のもとにある。個体的な対象は、単に個体であり、このものであり、一回限りのものであるだけではない。それは「それ自身において」しかじかの性状をもつものとして、固有の特質と本質的な派生的述語の総体をもつ。他の副次的で相対的な規定がその対象に属しうるためには、これらの述語が(「それ自身においてあるとおりの存在者」としての)その対象に属さなければならない。たとえばどの音も、それ自体で一つの本質をもち、その最上位に一般的な本質「音一般」、というよりむしろ音響的なもの一般をもつ。これは、個々の音から、単独で、あるいは他の音との比較によって「共通なもの」として見て取られるべき契機として、純粋に理解されたものである。同様にどの物質的な物も、固有の本質的な種別をもち、その最上位に一般的な種別「物質的な物一般」をもつ。そこには時間規定一般、持続一般、形態一般、物質性一般が含まれる。個体の本質に属するものはすべて、別の個体ももちうる。そして、いまわれわれが例で示したような種の最上位の本質的一般性は、「領域」あるいは「範疇」を、しかも個体のそれを画定する。

§3 本質直観と個体的直観

さしあたり「本質」が指していたのは、一個体に固有の存在のうちにその何であるかとして見いだされるものだった。しかし、そうした何であるかはどれも「理念において措定」されうる。経験する直観、すなわち個体的直観は、本質直観(イデーション)へと転換されうる。この可能性そのものは、経験的な可能性としてではなく、本質可能性として理解すべきである。そのとき直観されるのは、対応する純粋な本質ないしエイドスであり、それは最上位の範疇であれ、その特殊化であれ、完全な具体化に至るまでのいずれでもありうる。

この本質を与える、場合によっては原的に与える直観は、十全的でありうる。たとえば音の本質については、われわれはそうした直観を容易に得られる。しかしこの直観は、多かれ少なかれ不完全な「不十全的」なものでもありうる。しかもそれは、明晰さや判明さの大小という点にとどまらない。ある種の本質範疇には、それに属する本質が「一面的に」、継起のなかで「多面的に」、それでも決して「全面的に」は与えられえないという固有の性格がある。これに相関して、それらに対応する個体的な個別化は、不十全的で「一面的」な経験的直観においてのみ、経験され表象されうる。これは物的なものにかかわるすべての本質について、しかも延長ないし物質性のあらゆる本質成分について当てはまる。さらに、より詳しく見れば(後続の分析がそれを明証的にするだろう)、これはあらゆる実在一般についても当てはまる。もっとも、そのとき、一面性と多面性というあいまいな表現は確定した意義をとり、不十全性にはさまざまな種類が区別されるようになる。

さしあたり、次のことを指摘すれば足りる。物理的な物の空間形態は、原理的に、単なる一面的な射映においてしか与えられない。また、連続的な直観が任意に進行しても、得るものがあるにもかかわらず、この不十全性は絶えず残り続ける。この点を措いても、物理的な特性はどれも、われわれを経験の無限性へと引き込む。どれほど広範な経験の多様も、物のさらに詳細で新しい規定を開いたままにする。こうして際限なく続いていく。

個体的直観がどのような種類のものであれ、十全的であろうとなかろうと、それは本質直観への転換をとりうる。そして後者も、対応する仕方で十全的であろうとなかろうと、与える作用という性格をもつ。ここには次のことが含まれる。

本質(エイドス)は新種の対象である。個体的直観ないし経験する直観に与えられるものが個体的対象であるように、本質直観に与えられるものは純粋な本質である。

ここにあるのは単に外面的な類比ではなく、根本的な共通性である。本質直観もまさに直観であり、それは形相的対象がまさに対象であるのと同じである。相関的に結びついた概念「直観」と「対象」を普遍化することは、恣意的な思いつきではなく、事象の本性によって強く要請される。†4経験的直観、とりわけ経験は、個体的対象についての意識であり、直観するものとして「それを所与性にもたらす」。知覚としては、原的な所与性に、すなわち対象を「原的に」、その「有体的」な自体性において把握するという意識にもたらす。まったく同様に、本質直観も何ものかについての意識であり、「対象」についての、すなわち視線が向けられ、そのなかで「それ自体与えられる」あるものについての意識である。その何ものかは、さらに他の作用において「表象」され、漠然とあるいは明瞭に思考され、真または偽の述定の主語とされうる。これはまさに、形式論理学の必然的に広い意味での「対象」のすべてがそうであるとおりである。論理的に言えば「可能な真なる述定の主語」であるような可能なあらゆる対象は、あらゆる述定的思考に先立って、表象し直観し、場合によってはその「有体的な自体性」において対象に行き当たり、対象を「把握する」視線のうちに入る、それ固有の仕方をもつ。したがって本質直観は直観である。それが厳密な意味で見て取る作用であり、単なる、おそらくは漠然とした現前化ではないなら、それは原的に与える直観であり、本質をその「有体的」な自体性において把握する。†5他方でそれは、原理的に固有で新しい種類の直観でもある。すなわち、他の範疇の対象性に相関して属するさまざまな直観の種類に対して、とりわけ通常の狭い意味での直観、すなわち個体的直観に対して、そうである。

†4 現代の心理学研究者にとって、この単純でまったく基本的な洞察を自分のものにすることがどれほど難しいかは、O. キュルペの、ちょうど私のもとに届いた著作『Die Realisierung』I(1912)127頁にある、範疇的直観についての私の学説に向けた奇異な論難が、模範的に示している。私はこの卓越した学者に誤解されたことを遺憾に思う。しかし、誤解があまりに完全で、私自身の確認の意味がもはや何も残っていないときには、批判的な応答は不可能になる。

†5 『論理学研究』では、私は原的に与える本質直観に対して、しかもたいていは十全的なものに対してさえ、イデーションという語を用いるのが常だった。しかし明らかに、より自由な概念が必要である。それは、本質に単純かつ直接に向けられ、これを把握し措定するあらゆる意識を包括する概念であり、「暗い」意識、つまりもはや直観的でない意識もすべてそこに含まれる。

確かに、本質直観の固有性には、個体的直観の主要な一部、すなわち個体的なものの現出、その見えていることが、その基底に横たわるという点がある。ただしその把握も、現実としての措定も、そこにはまったくない。また確かなのは、そのために、「対応する」個体的なものへ視線を転じ、例示的な意識を形成する自由な可能性なしには、いかなる本質直観も可能でないことである。逆に、イデーションを遂行し、その中で個体的に見えているものにおいて例示される、対応する本質へ視線を向ける自由な可能性なしには、いかなる個体的直観も可能でない。しかしこのことは、二種類の直観が原理的に区別されることを何ら変えない。われわれがいま述べたような命題に現れるのは、両者の本質関係だけである。直観の本質的な区別には、ここで明らかに個体的に定在するものの意味での「現存」と「本質」との間の、すなわち事実とエイドスとの間の本質関係が対応する。このような連関を追究しながら、われわれはこれらの名辞に属し、これから固定的に割り当てられる概念的本質を洞察的に把握する。こうして、エイドス、すなわち理念や、本質という概念にとりわけまとわりつく思想はすべて、また一部は神秘的な思想も、きれいに除かれたままになる。†6

†6 参照、拙稿『ロゴス』I、315頁。

§4 本質直観と想像 本質認識はあらゆる事実認識から独立している

エイドス、すなわち純粋な本質は、知覚や想起などの経験の所与において直観的に例示されうるが、単なる想像の所与においても同じく例示されうる。したがって、本質そのものを原的に把握するには、対応する経験する直観から出発してもよく、経験しない、定在を把握しない、むしろ「単に想像する」直観から出発してもよい。

自由な想像のなかで、何らかの空間形態、旋律、社会的な出来事などを作り出すとき、あるいは経験する作用、好みや嫌悪の作用、意志する作用などを虚構するとき、われわれはそこから「イデーション」によって多様な純粋な本質を原的に直観でき、場合によっては十全的にさえ直観できる。それは、空間的形態、旋律、社会的出来事などの本質を一般に直観する場合もあれば、当の特殊な類型の形態や旋律などの本質を直観する場合もある。そのようなものが現勢的な経験において与えられていたかどうかは、ここでは問題にならない。自由な虚構が、いかなる心理学的な奇跡によってであれ、原理的に新しい種類の、たとえば感性的なデータの想像へ導くとしよう。そのデータはいかなる経験にも現れたことがなく、これからも現れないとする。それでも、対応する本質の原的な所与性は何も変わらない。もっとも、想像されたデータが現実のデータであることは、決してない。

これと本質的に関連するのは、措定とさしあたりの直観的な把握は、本質に関するかぎり、個体的な定在のいかなる措定もまったく含まず、純粋な本質真理は事実についてのいかなる主張もまったく含まないということである。したがって、本質真理だけからは、ごくわずかな事実真理さえ推論できない。事実についての思考や言明はすべて、その基礎づけのために経験を必要とする。そうした思考の妥当性の本質が経験を必然的に要求するからである。同様に、純粋な本質についての思考、すなわち事実と本質を結びつけない混ざりもののない思考は、基礎づける土台として本質直観を必要とする。

§5 本質についての判断と形相的な普遍妥当性をもつ判断

ここで次のことに注意しなければならない。本質と本質事態について判断することと、形相的に判断すること一般とは、後者の概念に与えなければならない広さのもとでは、同じではない。形相的認識は、そのすべての命題において本質を「それについての対象」としているわけではない。これと密接に関連することだが、これまで捉えてきたような本質直観、すなわち、経験や定在の把握に類比される意識であり、経験において個体的なものが把握されるように、そこで本質が対象的に把握される意識は、定在の措定をいっさい排除したうえで本質をうちに含む唯一の意識ではない。本質は、直観的に意識され、ある仕方では把握されることもありうるが、それでも「それについての対象」にはならない場合がある。

判断から始めよう。より正確に言えば、問題は、本質についての判断と、個体的なものの措定と混ざらずに、未規定に一般的な仕方で、個体的なものについて、しかも純粋に本質の個別として、「一般に」という様態で判断する判断との違いである。たとえば純粋幾何学では、たいていの場合、直線、角、三角形、円錐曲線などのエイドスについて判断するのではなく、直線や角一般、あるいは「そのようなものとして」の直線や角について、個体的な三角形一般、円錐曲線一般について判断する。そのような普遍的判断は、本質の一般性という性格、つまり「純粋」な、あるいは人が言うように「厳密」な、端的に「無条件の」一般性という性格をもつ。

簡単にするため、「公理」、すなわち直接に明証的な判断を扱うと仮定しよう。他のすべての判断は、媒介的な基礎づけによってこの判断へ遡る。ここで前提したように、上述の仕方で個体的な個別について判断するのであれば、そうした判断は、ノエシス的な基礎づけ、すなわち洞察可能にするために、ある種の本質直観を必要とする。これは変様された意味では本質把握とも呼べるだろう。この直観も、対象化する本質直観と同様に、本質の個体的な個別が見えていることに基づいている。ただし、その個別を経験することに基づくのではない。この直観にも、単なる想像表象、あるいはむしろ想像における見えで足りる。見えているものはそのものとして意識され、「現出する」が、定在するものとして把握されてはいない。たとえば本質の一般性、すなわち「無条件」で「純粋」な一般性において「色一般は音一般とは異なる」と判断するとき、いま述べたことはこの判断で確かめられる。色という本質の個別の一つと、音という本質の個別の一つが、直観的に「思い浮かべられ」、しかも本質の個別として思い浮かべられる。定在の措定をともなわない想像直観と本質直観が、同時に、ある仕方でそこにある。ただし後者は、本質を対象にする直観としてではない。だが事情の本質には、対応する対象化する態度へ転じることがいつでもわれわれに許されていること、この転換がまさに本質的可能性であることが属している。態度が変われば判断も変わり、その場合は「色という本質、すなわち『類』は、音という本質、すなわち類とは別のものである」となる。どこでもそうである。

逆に、本質についてのどの判断も、これらの本質の個別についての、そのようなものとしての無条件に一般的な判断へ、等価に転換できる。このように、純粋な本質判断、すなわち純粋に形相的な判断は、どのような論理形式であっても、一つにまとまる。これらに共通するのは、個体的な存在を措定しないことである。個体的なものについて、まさに純粋な本質の一般性において判断する場合でも、そうである。

§6 いくつかの基本概念 一般性と必然性

明らかに、次の理念は相互に属し合う。形相的な判断すること、形相的な判断ないし形相的な命題、形相的な真理(あるいは真なる命題)である。この最後の理念の相関者が、端的な形相的事態、すなわち形相的真理のうちに成立しているものである。さらに、先の諸理念の相関者が、単に思念されているだけという変様された意味における形相的事態、すなわち判断されたものそのものという意味での事態であり、これは成立していることも、成立していないこともありうる。

形相的に一般的な事態のあらゆる特殊化と個別化は、それがそうであるかぎり、本質的必然性と呼ばれる。したがって、本質的一般性と本質的必然性は相関者である。ただし必然性をめぐる言い方は、相互に属し合う相関関係に従って揺れ動く。対応する判断も必然的と呼ばれるのである。しかし、これらの区別に注意することが重要であり、とりわけ、通例そうされているように、本質的一般性そのものを必然性と呼ぶことは避けねばならない。必然性の意識、より詳しくは、ある事態が形相的一般性の特殊化として意識される判断意識は、必当然的意識と呼ばれる。判断そのもの、すなわち命題は、それが関係する一般的なものの必当然的な、必当然的に「必然的」とも呼ばれる帰結である。ここで述べた一般性、必然性、必当然性の関係についての命題は、より一般的に捉えることもでき、その場合には、純粋に形相的な圏域だけでなく、任意の圏域に妥当する。だが、これらの命題が形相的な限定のもとで、際立った、特に重要な意味を得ることは明らかである。

形相的判断が個体一般について行われることと、個体の定在の措定との結びつきも、非常に重要である。本質の一般性は、定在するものとして措定された個体、あるいは、個体の未規定で一般的な圏域、すなわち定在するものとしての定立を受ける圏域に、移し替えられる。現実のものとして措定された自然の事例に幾何学的真理を「適用」することはすべて、ここに属する。そのとき、現実のものとして措定された事態は、個体的な現実事態であるかぎりで事実であり、本質の一般性の個別化であるかぎりで形相的必然性である。

自然法則の無制限な一般性を本質の一般性と混同してはならない。「すべての物体は重い」という命題は、たしかに、全自然の内部にあるいかなる特定の物的なものも、定在するものとして措定しない。それでもこの命題は、形相的に一般的な命題がもつ無条件の一般性をもたない。自然法則としてのその意味に従えば、この命題はなお定在の措定、すなわち自然そのもの、空間的・時間的現実の措定を伴っているからである。つまり、すべての物体、自然のうちにあるすべての「現実の」物体が重い、ということである。これに対して、「すべての物質的な物は延長をもつ」という命題は形相的な妥当性をもち、主語の側で行われた定在の定立が遮断されるならば、純粋に形相的な命題として理解できる。この命題が言明するのは、物質的な物の本質と延長の本質にもっぱら基づくこと、しかもわれわれが「無条件の」普遍妥当性として洞察にもたらしうることである。それは、物質的な物の本質を(たとえばそうした物の自由な虚構に基づいて)原的な所与性にもたらし、そのうえで、この与える意識のうちで、あの命題が明示的に提示した本質事態の「洞察」、すなわちその原的所与性が要求する思考の歩みを遂行することによって生じる。空間内の現実のものがこうした真理に対応することは、単なる事実ではなく、本質法則の特殊化として本質的必然性である。そこで事実であるのは、適用が行われる当の現実のものだけである。

§7 事実学と本質学

個体的対象と本質のあいだには連関が成り立つ。この連関自体も形相的であり、それによれば、あらゆる個体的対象には、その本質として一つの本質の内実が属し、逆にあらゆる本質には、その事実的な個別化となりうる可能的な個体が対応する。この連関が、事実学と本質学の相互の対応関係を根拠づける。純粋な本質学がある。純粋論理学、純粋数学、純粋な時間論、空間論、運動論などである。これらは、そのあらゆる思考の歩みにおいて、事実の措定をまったく含まない。あるいは同値のことだが、これらにおいては、経験が経験として、すなわち現実を、定在を把握し、ないし措定する意識として、基礎づけの機能を引き受けることはない。それらのうちで経験が機能している場合でも、経験は経験として機能するのではない。黒板に図形を描く幾何学者は、それによって、事実的に定在する黒板の上に、事実的に定在する線を生み出している。しかし、彼の物理的な産出が基礎づけにならないのと同様に、産出されたものを彼が経験することも、経験することとしては、彼の幾何学的な本質直観と本質思考にとって基礎づけるものではない。それゆえ、彼がそのとき幻覚を見ていようといまいと、また、実際に描く代わりに、線や作図を想像の世界のなかに思い描こうと、どちらでも同じである。自然研究者はまったく異なる。彼は観察し、実験する。すなわち経験に基づく定在を確認する。彼にとって経験することは基礎づける作用であり、単なる思い描きでは決して代わりがきかない。だからこそ、事実学と経験科学は同値の概念なのである。これに対して幾何学者は、現実ではなく「観念的な可能性」を、現実事態ではなく本質事態を探究する。彼にとっては、経験の代わりに本質直観が最終的に基礎づける作用である。

すべての形相的学問において事情は同じである。直接の洞察において把握される本質事態、ないし形相的公理に基づいて、間接的な本質事態が成り立つ。これらは間接的に洞察的な思考において、しかも完全に直接洞察的な原理に従って、所与となる。この意味で、間接的な基礎づけの歩みはどれも必当然的であり、形相的に必然的である。それゆえ、純粋に形相的な学問の本質は、もっぱら形相的に進むこと、すなわち最初から、またその後も一貫して、形相的な妥当性をもつ事態しか認識にもたらさないことにある。そうした事態は、直接に原的所与性へともたらされうるもの、つまり原的に直観された本質に直接基づくものか、このような「公理的」事態から純粋な推論によって「導出」されうるもののいずれかである。

これと関連して、厳密な形相的学問という実践的理想がある。これを実現するすべを教えたのは、本来、近代数学がはじめてである。その理想とは、あらゆる形相的学問に最高段階の合理性を与えることである。それは、間接的な思考の歩みをすべて、その時々の形相的領域の、一度かぎり体系的に編成された公理のもとへの単なる包摂に還元することによってなされる。さらに、問題が最初から「形式的」ないし「純粋」論理学そのもの(最も広い意味での普遍数学†7)にかかわるのでない場合には、この論理学の公理もすべて併せて用いる。

†7 純粋論理学の理念を普遍数学として扱った箇所については、『論理学研究』第一巻の最終章を参照。

これとまた関連して、「数学化」の理想がある。この理想は、いま特徴づけた理想と同様に、あらゆる「厳密な」形相的学科にとって認識の実践上、大きな意義をもつ。そうした学科では、たとえば幾何学のように、認識の全体が、少数の公理の一般性のうちに、純粋に演繹的な必然性をもって含まれている。これに立ち入る場所は、ここではない。†8

†8 これについては、後出の第三篇第一章§70を参照。

§8 事実学と本質学のあいだの依存関係

以上から明らかなように、形相的学問の意味は、経験的諸学問の認識成果を取り込むことを原理的に排除する。これらの学問の直接的な確認に現れる現実の定立は、あらゆる間接的な確認をも貫いているからである。事実からは、つねに事実しか帰結しない。

さて、あらゆる形相的学問が原理的にあらゆる事実学から独立しているとすれば、逆のことが事実学については成り立つ。学問として十分に展開された事実学で、形相的認識を含まずに純粋でありえ、したがって形式的であれ質料的であれ形相的学問から独立でありうるようなものは、存在しない。というのも、第一に、経験科学が判断の間接的な基礎づけを行うところではどこでも、形式論理学が扱う形式的原理に従って進まなければならないことは、自明だからである。総じて経験科学は、あらゆる学問と同様に対象へ向かっている以上、対象性一般の本質に属する法則に拘束されていなければならない。こうして経験科学は、形式的存在論的な諸学科の複合体と関係する。この複合体は、狭義の形式論理学のほかに、形式的「普遍数学」のその他の諸学科、つまり算術、純粋解析、多様体論をも包括している。これに加えて、第二に、次のことがある。あらゆる事実は質料的な本質の内実を含んでおり、そこに含まれる純粋な諸本質に属する形相的真理はいずれも、一つの法則を与えるはずである。与えられた事実的個別は、およそ可能な個別すべてと同じく、この法則に拘束される。

§9 領域と領域的形相論

経験的な具体的対象性はいずれも、その質料的本質によって、経験的対象の最高の質料的類、すなわち「領域」に組み入れられる。すると、純粋な領域的本質には領域的な形相的学問が対応する。これはわれわれの言い方では、領域的存在論でもある。その際われわれは、次のことを想定する。領域的本質のうちに、ないしそれを組み立てるさまざまな類のうちに、きわめて豊かで多方面に枝分かれした認識が基づいており、その体系的な展開に関しては、一つの学問について語る価値が、あるいは領域の個々の類的構成要素に応じた存在論的諸学科の全体的な複合体について語る価値が、およそある。この前提が実際にどれほど広範囲に満たされているかは、のちに十分に納得できるだろう。したがって、領域の範囲に組み入れられる経験的学問はいずれも、形式的存在論的諸学科にも領域的存在論的諸学科にも、本質的に関係づけられることになる。これはこうも言い表せる。あらゆる事実学、すなわち経験科学は、形相的存在論に本質的な理論的基礎をもつ。なぜなら、ここでなした想定が当たっているならば、領域のあらゆる可能な対象に、純粋で無条件に妥当する仕方で関わる認識の豊かな蓄えは、経験的事実の探究にとって無意味でありえないことが、まったく自明だからである。この認識は、一部は対象性一般の空虚な形式に属し、一部は領域のエイドスに属する。後者は、いわば領域的対象すべての必然的な質料的形式をなしている。

この意味で、たとえば自然科学のあらゆる学科には、物理的自然一般についての形相的学問、すなわち自然の存在論が対応する。事実的自然には、純粋に把握できるエイドスが、つまり自然一般という「本質」が、そこに含まれた本質事態の無限の充実とともに対応するからである。自然についての完全に合理化された経験科学の理念を形成してみよう。それは、理論化がきわめて進み、そこに組み入れられた個別がすべてもっとも一般的で原理的な根拠へ還元されているような経験科学である。そうすると、この理念の実現は、対応する形相的学問の形成に本質的に依存することは明らかである。つまり、あらゆる学問一般に同じ仕方で関係する形式的普遍数学のほかに、とりわけ質料的存在論的諸学科の形成に依存する。これらの学科は、自然の本質を、したがって自然的対象性そのものの本質上のあらゆる種別をも、合理的な純粋さにおいて、まさに形相的に解明するのである。このことは、むろん任意のどの領域についても当てはまる。

認識実践の面でも、あらかじめ次のことが期待される。経験科学が「合理的」段階、すなわち「厳密な」法則論的学問の段階に近づくほど、言い換えれば、発展した形相的学科を基礎として高度に備え、基礎づけのためにそれらから益を引き出すほど、その経験科学は、認識実践的な成果の範囲と力においても、それだけ増大するだろう。

このことは、合理的な自然科学、すなわち物理学の発展が裏づけている。その大きな時代は、近世に入って、すでに古代に、しかも本質的にはプラトン学派において、純粋な形相論として高度に発達していた幾何学が、突如として大規模に、物理学的方法にとって実り多いものとされることから、まさに始まる。人は、物質的な物の本質が res extensa であること、したがって幾何学とは、そうした物性の一つの本質契機、すなわち空間形式に関わる存在論的学科であることを、明晰にとらえる。しかし人はさらに、物の一般的な、われわれの言い方では領域的な本質が、はるかに広くおよぶことも明晰にとらえる。そのことは、この発展が同時に、一連の新しい学科、すなわち幾何学に並置されるべき学科であり、経験的なものを合理化するという同じ機能を担うべき学科を形成する方向をたどることに示される。形式的および質料的な数学的諸学問の見事な開花は、この傾向から生じた。これらの学問は、燃えるような熱意をもって、純粋に「合理的」な学問として、つまりわれわれの意味での形相的存在論として形成され、ないし新たに作り出された。しかもそれは、近世の初めから長いあいだ、それ自身のためではなく、経験的諸学問のためであった。それらは実際、広く称賛された合理的物理学の並行的発展において、期待された実りを豊かにもたらした。

§10 領域と範疇 分析的領域とその範疇

何らかの形相的学問、たとえば自然の存在論の中に身を置くと、われわれは(これはまさに通常のことである)本質を対象として向いているのではなく、本質に属する対象、この例では自然という領域に従属する本質の対象に向いている。その際、「対象」とは、さまざまな、しかし相互に属し合う形態の表題であることに気づく。たとえば「物」「特性」「関係」「事態」「集合」「秩序」などであり、これらは明らかに互いに同列ではない。それぞれが、いわば原対象性の優位をもつある種の対象性に差し戻され、この対象性に関しては、他のすべてがいわば単なる変形として現れる。この例でこの優位をもつのは、当然、物的な特性や関係などに対する物そのものである。ところで、まさにこれが、あの形式的な成り立ちの一部であり、その解明なしには、対象という語も対象領域という語も混乱にとどまるだろう。われわれは以下の考察をこの解明にあてるが、この解明からおのずと、領域の概念に関わる重要な範疇の概念も得られるだろう。

範疇とは、一方では「ある領域の範疇」という結びつきにおいて、当該の領域、たとえば物理的自然という領域を指し示す語である。他方では、そのつど特定された質料的領域を、領域一般の形式に、すなわち同じことだが対象一般という形式的本質とそれに属する「形式的範疇」に関係づける語でもある。

まず、軽んじられない注意を一つ述べておく。形式的存在論は、さしあたり質料的存在論と同列にあるように見える。対象一般の形式的本質と、各領域の本質とが、どちらも同じ役割を演じているように見えるからである。そのため、これまでのように単に領域と言うのではなく、むしろ質料的領域と言い、それに「形式的領域」を並べたくなるだろう。この言い方を採るにしても、なお若干の注意が必要である。一方の側には質料的なものがあり、これはある意味で「本来の」本質である。他方の側には、たしかに形相的なものがあるが、本質の根本において異なるものがある。それは単なる本質形式であり、本質ではあるが、まったく「空虚な」本質、すなわち空虚な形式というしかたで、可能なあらゆる本質に当てはまる本質である。この本質は、その形式的一般性のもとに、最高の質料的一般性をも含めてすべてを従え、それに属する形式的真理を通じてそれらに法則を課す。したがって、いわゆる「形式的領域」は、質料的領域(領域そのもの)と同列に置かれるものではなく、本来は領域ではなく、領域一般の空虚な形式である。それは、事象内実をもつ本質の特殊化をともなうあらゆる領域を、自らの傍らにではなく、むしろ(たとえ形式的にすぎないにせよ)自らの下にもつ。質料的なものが形式的なものに従属することは、次のことに表れる。すなわち、形式的存在論が、およそ可能なあらゆる存在論の形式を同時に、つまり「本来の」「質料的な」あらゆる存在論の形式を、自らのうちに蔵していること、そして形式的存在論が質料的存在論にそれらすべてに共通する形式的な成り立ちを課すことである。この共通の成り立ちには、われわれがいま領域と範疇の区別に関して研究すべきものも含まれている。

形式的存在論(つねに、普遍数学にまで至る完全な外延をもつ純粋論理学として)から出発するなら、われわれの知るとおり、それは対象一般についての形相的学問である。その意味では、あらゆるものが対象であり、これについて、数学のさまざまな部門に分かれる無限に多様な真理を確立できる。しかしそれらはすべて、直接的な、すなわち「根本」真理の小さな集まりに帰着し、この真理は純粋に論理的な諸部門において「公理」として機能する。そこでわれわれは、これらの公理に現れる純粋に論理的な根本概念を、論理的範疇あるいは論理的領域「対象一般」の範疇と定義する。これらの概念は、公理の全体系のなかで対象一般の論理的本質を規定するものであり、あるいは、対象そのものの、すなわち何らかのものの、それがそもそも何ものかでありうるべきである限りでの、絶対に必然的で構成的な規定を表現するものである。われわれが絶対に厳密に限定した意味での純粋に論理的なものは、哲学にとって唯一重要な(しかもまさに根本的に重要な)「分析的なもの†9」という概念を、「総合的なもの」に対して規定する。それゆえ、これらの範疇を分析的範疇とも呼ぶことがある。

†9 『論理学研究』第二巻、第三研究、§11以下を参照。

論理的範疇の例は、特性、相対的な性状、事態、関係、同一性、等しさ、集合(集まり)、個数、全体と部分、類と種などの概念である。しかし、「意義範疇」、すなわち命題(アポファンシス)の本質に属し、さまざまな種類の命題、命題の成分、命題の形式に関わる根本概念もここに属する。このことは、われわれの定義にしたがい、「対象一般」と「意義一般」とを結びつける本質真理に着目して言える。しかもこの真理は、純粋な意義真理を純粋な対象真理へと転換できるように両者を結びつけている。まさにそれゆえ、「アポファンシス的論理学」は、意義についてのみ述べる場合でも、最も包括的な意味での形式的存在論に共に属する。とはいえ、意義範疇は独自の一群として別に分け、それ以外の範疇を際立った意味での形式的対象的範疇としてそれに対置しなければならない。†10

†10 論理的範疇を意義範疇と形式存在論的範疇に区別することについては、『論理学研究』第一巻§67を参照。範疇「全体と部分」には、第二巻の第三研究全体が特に関わる。歴史的な理由から抵抗を招く存在論という表現を、当時の私はまだあえて採用せず、この研究(前掲箇所、初版222頁)を「対象そのもののアプリオリな理論」の一部と称した。これをA・フォン・マイノングは「対象論」という語に縮めた。これに対して私は今、時代状況の変化に応じて、存在論という古い表現を再び通用させるほうが正しいと考える。

ここでさらに注意しておくと、範疇のもとで、一方では意義としての概念を理解することができるが、他方では、そしてなおいっそう適切には、これらの意義のうちに表現を見いだす形式的本質そのものを理解することもできる。たとえば「範疇」としての事態や多数性などは、後者の意味では、事態一般、多数性一般などという形式的エイドスを意味する。この多義が危険なのは、ここでいたるところで区別されなければならないものを、純粋に分けることをまだ学んでいないあいだだけである。区別すべきものとは、「意義」と、意義によって「表現」を受けうるもの、そしてまた、意義と意義される対象性である。用語のうえでは、意義としての範疇的概念と範疇的本質とを明示的に区別できる。

§11 統語的対象性と最終的な基体 統語的範疇

いまや、対象性一般の領域で重要な区別が必要になる。この区別は、意義の形式論のなかでは、(「純粋文法的」な)「統語的形式」と「統語的基体」ないし「素材」との区別として映し出される。ここに、形式的存在論的範疇が統語的範疇と基体範疇に分かれることが示される。これをこれから詳しく論じる。

われわれが統語的対象性と解するのは、ほかの対象性から「統語的形式」によって導き出された対象性である。これらの形式に対応する範疇を、われわれは統語的範疇と呼ぶ。たとえば、事態、関係、性状、統一、多数性、個数、順序、順序数などの範疇がこれに属する。ここで成り立っている本質の事情は、次のように記述できる。あらゆる対象は、展開でき、ほかの対象に関係づけられ、要するに論理的に規定できるかぎり、さまざまな統語的形式をとる。規定する思考の相関者として、より高次の対象性が構成される。すなわち、性状と、性状によって規定された対象、任意の対象どうしの関係、統一の多数性、順序の項、順序数による規定の担い手としての対象などである。思考が述定的であれば、表現と、それに属する言明的な意義形成体が段階を追って生じる。これらは、統語的対象性をそのあらゆる分節と形式にわたって、ちょうど対応する意義の統語のなかに映し出す。これらすべての「範疇的対象性」†11は、対象性一般と同様に、ふたたび範疇的形成体の基体として機能しうる。この形成体もまた同様に機能し、以下同様に続く。逆に、そうした形成体はいずれも、明証的に最終的な基体、すなわち第一段ないし最下段の対象へと遡る。この対象は、もはや統語的・範疇的形成体ではない。つまり、思考機能(付与、否認、関係づけ、結合、数えることなど)の単なる相関者にすぎないあの存在論的形式を、それ自身のうちにまったく含まない。したがって、形式的領域である対象性一般は、最終的な基体と統語的対象性とに分かれる。後者を、われわれは対応する基体の統語的派生と呼ぶ。基体には、すぐ後で明らかになるように、すべての「個体」も属する。個体的特性、個体的関係などと言う場合に、これらの派生対象がそう呼ばれるのは、もちろん、それが派生してきた基体のゆえである。

†11 『論理学研究』第II巻、第六研究、第二篇、とくに §46以下を参照。

次のことも付け加えておく。最終的な、統語的に無形式の基体には、意義の形式論の側からも到達する。あらゆる命題とあらゆる可能な命題成分は、その言明的形式の基体として、いわゆる「名辞」を含んでいる。これらは、単に相対的な意味での名辞でありうる。つまり、それ自身がふたたび形式を含みうる(たとえば複数形、属性づけなど)。だがどの場合にも、必然的に最終的な名辞に、すなわち統語的な形成をもはや何も含まない最終的な基体に行き着く。†12

†12 「アプリオリな文法」の基礎部分である意義の形式論にとってきわめて重要な、「統語的形式」と「統語的素材」の理論について、詳しくは、長年にわたる純粋論理学の講義を公刊する折に述べるつもりである。「純粋」文法と、意義の形式論の一般的課題については、『論理学研究』第II巻、第四研究を参照。

§12 類と種

いまや、本質の全圏域に属する、範疇的区別の新たな一群が必要になる。あらゆる本質は、事象内実をもつ本質であれ、空虚な(したがって純粋に論理的な)本質であれ、本質の段階列に、すなわち類的一般性と特殊性の段階列に組み入れられる。この列には、決して一致することのない二つの限界が必然的に属する。下降すれば、最低の種差、われわれの別の言い方では形相的単称に至る。上昇して、種の本質と類の本質を通れば、最高類に至る。形相的単称とは、自分の上にはその類として「より一般的な」本質を必然的にもつが、自分の下には、それに関して自らが種(最近種、あるいは間接的な、より高次の類)となるような特殊化をもはやもたない本質である。同様に、最高の類とは、自分の上にもはや類をもたない類である。

この意味で、意義の純粋論理的領域では、「意義一般」が最高類であり、あらゆる特定の命題形式、あらゆる特定の命題成分形式が形相的単称である。命題一般は媒介的な類である。同様に、個数一般も最高類である。二、三などは、その最低の種差、すなわち形相的単称である。事象内実をもつ圏域では、たとえば物一般、感性的性質、空間形態、体験一般が最高類である。特定の物、特定の感性的性質、空間形態、体験としてのそれぞれに属する本質の内実は、形相的な、しかも事象内実をもつ単称である。

これらの、類と種によって示される本質関係(クラス関係、すなわち集合関係ではない)には、より一般的な本質が、特殊な本質のうちに「直接ないし間接に含まれている」ということが属する。この含まれ方は、形相的直覚においてその固有性に即して把握されるべき、ある特定の意味でのものである。まさにそれゆえ、形相的な類と種の関係、すなわち形相的特殊化への関係を、「部分」と「全体」の関係の一つとして扱う研究者もいる。このとき「全体」と「部分」は、「含むもの」と「含まれるもの」の最も広い概念をもつ。形相的な種の関係は、その特殊例である。したがって、形相的に単称的なものは、それより上にあるすべての一般性を含意する。これらの一般性は、それ自身、段階的に「たがいに入れ子になって」おり、より高いものは常により低いもののうちにある。

§13 一般化と形式化

一般化と特殊化の関係は、本質的に種類を異にする関係から、鋭く区別しなければならない。その関係とは、事象内実をもつものを純粋に論理的な形式的なものへと普遍化すること、あるいは逆に、論理的に形式的なものの事象化である。言い換えれば、一般化は、たとえば数学的解析学で非常に大きな役割を果たしている形式化とはまったく別のものであり、特殊化は、脱形式化、すなわち論理的・数学的な空虚な形式ないし形式的真理の「充填」とはまったく別のものである。

したがって、本質が純粋論理的な本質の形式的一般性のもとに属することと、本質がそれより高次の本質類のもとに属することとを、混同してはならない。たとえば三角形という本質は最高類である空間形態に従属し、赤という本質は最高類である感性的性質に従属する。他方、赤も三角形も、同質的であれ異質的であれあらゆる本質は、範疇的な称号「本質」に従属する。しかしこの称号は、それらすべてにとって本質類という性格をまったく持たない。むしろ、それらのうちどれに関しても、その性格を持たない。「本質」を事象内実をもつ本質の類とみなすのは、対象一般(空虚なあるもの)をあらゆる種類の対象にとっての類とみなし、さらにそれを当然、唯一の最高類、すなわちすべての類の類と誤解するのと同じく、誤っている。むしろ、形式的存在論的範疇はすべて形相的単称と呼ばなければならない。それらは、「形式的存在論的範疇一般」という本質に最高類をもつ。

同様に、あらゆる特定の推論、たとえば物理学に役立つ推論は、特定の純粋論理的推論形式の個別化であり、あらゆる特定の物理学的命題は命題形式の個別化であり、その他同様であることも明らかである。ただし純粋な形式は、事象内実をもつ命題や推論の類ではなく、それ自身がもっぱら最下位の種差にすぎない。すなわち、純粋論理的な類である命題と推論の種差であり、これらの類は、同様のあらゆる類と同じく、まさしく最高の類「意義一般」をもつ。論理的な空虚形式の充填(普遍数学には空虚形式以外のものはない)は、それゆえ、最後の分化に至る真正の特殊化とは、まったく異なる「操作」である。このことはどこでも確認できる。たとえば、空間から「ユークリッド多様体」への移行は、一般化ではなく、「形式的な」普遍化である。

この徹底した区別を確証するには、こうした場合のつねとして、本質直覚に立ち戻らなければならない。本質直覚はただちに次のことを教える。論理的な形式本質(たとえば範疇)は、事象内実をもつ個別化のうちに、一般的な赤が赤のさまざまな色合いのうちに「ある」ように、あるいは「色」が赤や青のうちに「ある」ようには、「ある」のではない。さらにそれらは、通常の狭い意味での部分関係と十分な共通性をもち、含まれていることを語ることを正当化するような本来の意味では、そもそもそれらのうちに「含まれて」いない。

個体的なもの、つまりおよそこのものを、本質のもとに包摂すること(この包摂は、問題となるのが最下位の種差か類かに応じて性格を異にする)を、本質がそれより高次の種や類に従属することと混同してはならない。この指摘は、詳しい論究を要しない。

同様に、普遍的判断における本質の機能にとくに関わる外延という、揺れ動く言い方が、上で論じた違いに応じて分化せざるをえないことも、ごく簡単に示唆しておくにとどめる。最下位の種差でないどの本質も、形相的外延、すなわち特殊なものの、結局は形相的単称の外延をもつ。他方、どの形式的本質も、形式的な、あるいは「数学的」外延をもつ。さらに、どの本質も一般に、個体的な個別化の外延、つまり形相的に普遍的な思考においてそれに関係づけられうる可能的なこのもの性の観念的な総体をもつ。経験的外延という言い方はそれ以上のことを意味する。すなわち、絡み合って含まれる定在の措定が純粋な一般性を廃棄するため、定在の圏域に限定するということである。これらはすべて、当然、本質から意義としての「概念」にも移される。

§14 基体範疇 基体本質とτόδε τι

われわれはさらに、「充満した」「事象内実をもつ」基体と、それに応じて「充満した」「事象内実をもつ」統語的対象性、他方で空虚な基体と、そこから形成された統語的対象性、すなわち空虚なあるものの諸変形、とのあいだの区別に注目した。後者のクラスは、決してそれ自身空虚でも貧弱でもない。というのも、それは、普遍数学としての純粋論理学の成り立ちに属する事態の全体として、さらにその事態を組み立てるあらゆる範疇的対象性の全体として規定されるからである。したがって、三段論法的ないし算術的な公理や定理が言い表すあらゆる事態、あらゆる推論形式、あらゆる数値、あらゆる数の構成体、純粋解析のあらゆる関数、そこで十分に定義されたあらゆるユークリッド的ないし非ユークリッド的多様体が、ここに属する。

事象内実をもつ対象性の類を優先すると、あらゆる統語的形成の核として、最終的な事象内実をもつ基体に行き着く。これらの核に基体範疇が属し、それは二つの互いに排他的な主要称号、「事象内実をもつ最終的本質」と「このもの!」、すなわち純粋で統語的に無形式な個体的個別、のもとに整理される。ここで思い浮かぶ名辞である個体は、次の理由で不適切である。この語が同時に表す不可分性は、どう規定するにせよ、まさにこの概念に取り入れてはならず、むしろ個体という特別で不可欠な概念のためにとっておかなければならない。そこでわれわれは、アリストテレスの表現τόδε τιを採る。この表現は、少なくとも語形のうえでは、この意味を含んでいない。

われわれは無形式な最終的本質とこのものを対置した。次にその両者のあいだに成り立つ本質連関を確定しなければならない。それは、どのこのものも自らの事象内実をもつ本質の内実をもち、それが先に挙げた意味で無形式な基体本質という性格をもつ、ということにある。

§15 自立的対象と非自立的対象 具体者と個体

われわれはさらにもう一つの基本的区別、すなわち自立的対象と非自立的対象の区別を必要とする。たとえば範疇的形式は、それが形式であるところの基体に必然的に指示を向ける限りで、非自立的である。基体と形式は互いに依存し合い、「互いなしには」考えられない本質である。したがってこのもっとも広い意味では、純粋論理的形式、たとえば範疇的形式「対象」はあらゆる対象質料に関して、範疇「本質」はあらゆる特定の本質に関して、などと、非自立的である。こうした非自立性を度外視し、非自立性ないし自立性の際立った概念を、本来の意味で「内容的」な連関に、すなわち、より本来的な意味での含まれていること、一つであること、場合によっては結合されていることの関係に関係づけることにしよう。

特にここでわれわれが関心を寄せるのは、最終的な基体、さらに狭く言えば事象内実をもつ基体本質の事情である。これらの本質については、そのような本質が別の本質と一つの本質の統一を基づけるか、そうしないかという二つの可能性がある。前者の場合には、場合により一方的ないし相互的な非自立性という、さらに記述すべき関係が生じる。そして、結びつけられた本質のもとに入る形相的な個別と個体的な個別については、一方の本質の個別は、他方の本質と少なくとも類を共有する本質によって規定されたものとしてでなければ存在しえない、という必当然的に必然的な帰結が生じる。†13たとえば、感性的性質は必然的に何らかの広がりの差異を指し示し、広がりもまた必然的に、それと一つになってそれを「覆う」何らかの性質の広がりである。範疇でいえば強度に属する「強まり」の契機は、質的な内容に内在するものとしてのみ可能であり、そうした類の内容もまた、何らかの強まりの度合いなしには考えられない。ある類的規定性をもつ体験としての現出は、「現出するものそのもの」の現出としてでなければ不可能であり、逆もまた同様である。以下も同様である。

†13 『論理学研究』II巻、第三研究の詳細な分析を参照。とくに1913年の新版における、いくらか改善された叙述を見よ。

ここから、個体、具体者、抽象者という形式的範疇的概念について、重要な規定が得られる。非自立的な本質は抽象者と呼ばれ、絶対的に自立的な本質は具体者と呼ばれる。事象内実をもつ本質が具体者であるようなこのものは、個体と呼ばれる。

一般化という「操作」を、いまや拡張された論理的な「変形」の概念のもとに捉えるなら、次のように言える。個体とは、純粋に論理的に要請される根源的対象であり、あらゆる論理的変形が指し戻される論理的な絶対者である。

具体者は当然、形相的な単称である。種と類(これらの表現は通常、最低位の差異を除外する)は原理的に非自立的だからである。したがって、形相的単称は抽象的なものと具体的なものに分かれる。

具体者のなかに互いに重ならずに含まれる形相的単称は、必然的に「異種的」である。これは形式的存在論の法則、すなわち同一の類に属する二つの形相的単称は一つの本質の統一において結合されえないという法則に照らして言えることであり、別の言い方をすれば、一つの類の最低位の差異は互いに「両立しない」。したがって、具体者に組み入れられたどの単称も、差異として見れば、種と類の別個の体系へ、それゆえ別個の最高類へも通じる。たとえば、現象的な物の統一では、特定の形態は最高類である空間形態一般へ、特定の色は視覚的性質一般へと通じる。もっとも、具体者のなかの最低位の差異は、互いに重ならない場合だけでなく、重なり合う場合もある。たとえば物理的特性は空間的規定を前提し、それを自らのうちに含んでいる。その場合には、最高類もまた重なり合う。

さらに続けて、類は特徴的かつ根本的な仕方で、自らのもとに具体者をもつ類と、自らのもとに抽象者をもつ類とに分かれる。形容詞がここで二義性を帯びるにもかかわらず、われわれは便宜上、具体的な類と抽象的な類と呼ぶ。具体的な類そのものを本来の意味での具体者とみなそうという考えは、だれにも浮かびえないからである。しかし厳密さが求められる場合には、「具体者の類」ないし「抽象者の類」という煩雑な表現を用いなければならない。具体的な類の例は、実在的な物、視覚的ファントム(感性的に充実して現れる視覚的形態)、体験などである。これに対して、空間形態や視覚的性質などは、抽象的な類の例である。

§16 事象内実をもつ圏域における領域と範疇 アプリオリな総合的認識

個体と具体者の概念によって、学問論の根本概念である領域もまた、厳密に「分析的」に定義される。領域とは、具体者に属する最高類の統一の全体にほかならない。すなわち、具体者のうちの最低位の差異に属する最高類を、本質の統一によって結びつけたものである。領域の形相的外延は、これらの類の差異が具体的に統一された複合体の観念的な総体を含み、個体的外延は、そうした具体的本質をもつ可能な個体の観念的な総体を含む。

あらゆる領域的本質は、「総合的」本質真理、すなわち、その類本質としてのこの本質に基づき、形式的存在論的真理の単なる特殊化ではないような真理を規定する。したがって、領域的概念とその領域的な種別は、これらの総合的真理のなかでは自由に変更できない。該当する特定の名辞を未規定の名辞に置き換えても、形式論理的な法則は得られない。すべての「分析的」必然性においては、そうした置き換えが特徴的に成り立つのである。領域的本質に基づく総合的真理の総体が、領域的存在論の内容をなす。そのうちの根本真理の全体、すなわち領域的公理が、領域的範疇の総体を限定し、しかもわれわれに対してそれを定義する。これらの概念は、概念一般がそうであるように純粋に論理的な範疇の特殊化を表現するだけではない。領域的公理によって、領域的本質に固有に属するものを表現する点、ないし、その領域の個体的対象に「アプリオリ」かつ「総合的」に帰属せざるをえないものを、形相的一般性において表現する点で際立っている。純粋に論理的ではないこうした概念を、与えられた個体に適用することは、必当然的かつ無条件に必然的であり、しかも領域的(総合的)公理によって規制されている。

カントの理性批判との響き合いを保とうとするなら(根本的な見解には著しい違いがあるが、それは内的な親近性を排除しない)、アプリオリな総合的認識とは領域的公理のことだと理解すべきことになり、そうした認識の還元できない類は、領域の数だけあることになる。「総合的根本概念」すなわち範疇とは、領域的根本概念(本質的に特定の領域とその総合的原則に関係する)のことであり、区別すべき領域の数だけ、区別された範疇の群があることになる。

その際、外面的には形式的存在論が、領域的存在論、すなわち本来の「質料的」「総合的」存在論と同列に並ぶ。形式的存在論の領域的概念である「対象」は、形式的公理系を規定し、それによって形式的(「分析的」)範疇の総体を規定する(上記§10を参照)。ここには実際、強調してきた本質的な相違にもかかわらず、この並置を正当化する根拠がある。

§17 論理的考察の結び

われわれの考察はすべて純粋に論理的であり、いかなる「質料的」な圏域にも、同じことだが、いかなる特定の領域にも踏み込まなかった。考察は領域と範疇について一般的に語っていたが、この一般性は、積み重ねられた定義の意味に照らして、純粋に論理的なものだった。まさに必要だったのは、純粋論理学の地盤の上で、あらゆる可能な認識、ないし認識対象性の根本構造のうち純粋論理学から出発する部分として、ある図式を描くことであり、その図式によれば、個体は「アプリオリな総合的原理」のもとで、概念と法則に従って規定可能でなければならない。あるいはこの図式によれば、すべての経験的学問は、それぞれに属する領域的存在論に基づかなければならず、あらゆる学問に共通する純粋論理学にのみ基づくのではない。

同時に、ここから一つの課題の理念が生じる。すなわち、われわれの個体的直観の範囲で具体物の最上位の類を規定し、こうして直観的な個体的存在のすべてを存在領域に従って分配することである。それぞれの領域は原理的に、しかも最も根本的な本質上の根拠から区別された形相的学問と経験的学問、ないし学問群を示している。なお、この根本的な区別は、領域どうしの絡み合いや部分的な重なりを決して排除しない。たとえば「物質的な物」と「心」は異なる存在領域だが、後者は前者に基づけられており、この基づけから、心論が身体論に基づけられることが生じる。

諸学問の根本的な「分類」の問題は、主として領域を分けるという問題であり、そのためには、ここで数本の線で進めたような種類の純粋に論理的な研究が、あらかじめ必要になる。他方で、現象学も確かに必要になるが、われわれはこれまでのところ現象学について何も知らない。

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イデーン 第一巻 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想

発行責任者(訳者):飯島健二

発行:古典書房

制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)

参照原典:Edmund Husserl, Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch(Jahrbuch für Philosophie und phänomenologische Forschung, Bd. I, Halle a. d. S.: Max Niemeyer, 1913/無変更再版 1922、序論と第一巻、1〜323頁)

初版発行日:2026年10月18日

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