本HTMLは、プラトン(Πλάτων)の対話篇『法律』(原題:Νόμοι)の現代日本語訳である。アテナイからの客人が、クレタ人クレイニアス、スパルタ人メギロスとともに、国のあり方と法律について論じ合う。全12巻からなる、プラトン最長の作品である。
底本(テキストデータ):John Burnet(ed.), Platonis Opera, Tomus V: Definitiones, Epinomis, Leges(Oxford: Clarendon Press。入手元の書誌表示は1915年)所収 Νόμοι。入手元:Perseus Digital Library / Open Greek and Latin Project(CTS URN: urn:cts:greekLit:tlg0059.tlg034.perseus-grc2)。
本書は現代語訳のみを掲載し、直訳との切替は行わない(散文の哲学書であり、直訳併記の対象ではない)。
本文中の番号(例:716c)は、底本の欄外に付された「ステファヌス番号」であり、原典と対応させながら読み進める手がかりとなる。「底本頁」ボタンで常時表示に切り替えられる。『法律』は624aから969dまでの範囲にあたる。
この対話篇には、ソクラテスは登場しない。登場人物は三人である。三人は、クレタのクノッソスから、ゼウスの洞窟へ向かう道すがら、語り合う。地の文はなく、全体が直接の対話で進む。話者は「アテ:」(アテナイからの客人)、「クレ:」(クレイニアス)、「メギ:」(メギロス)で示した。
全12巻の区分は底本のものである。目次の各巻の名は、内容を示すために付けた便宜的な呼び名で、底本の見出しではない。
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解説・概説・用語集は、一般に流通している知見にもとづく参考情報であり、逐一の出典確認・査読を経たものではない。本文の理解を助ける参考としてお使いいただきたい。
哲学原典を読む / 古典書房
古代ギリシアの人々にとって、法(ノモス)は、身近でありながら、わかりにくいものだった。法は神々や半神の立法者が授けたと語られ、クレタではミノス、スパルタではリュクルゴスがそうした立法者として仰がれた。一方、前5世紀にソフィストたちが現れると、法は人間が取り決めた約束にすぎず、自然とは別のものだという考えが広まる。強い者が弱い者を従えるのが自然で、法はそれを縛る人為にすぎない、とまで言う者もいた。法はなぜ守られるべきか、よい法とはどういうものかが、あらためて問われるようになったのである。
プラトンは、この問いに生涯向き合った。『ゴルギアス』では、技術と迎合を区別して、政治に携わる者の務めを問い、『国家』では、一人の人間の魂の秩序と、国の秩序とを重ねて、正義とは何かを論じた。さらに、シケリアのシュラクサイに招かれて、現実の国の政治に関わろうとした経験が、その思索に重なっている。『国家』は優れた支配者を主題とし、法はその陰に退いていた。法そのものを正面から主題とするのが、この『法律』である。
この作品が哲学書とされる理由は、法の条文を並べたからではなく、条文のひとつひとつの背後にある「なぜ」を問い続けているからである。法は誰のために、何を目指して定められるのか。人は罰を恐れて法に従うのか、それとも法の言い分に納得して従うのか。人を教育するとは、どういうことか。快楽と苦痛、恐れと恥、遊びと祭りは、人の徳とどう関わるのか。こうした問いが、結婚、財産、教育、裁判、刑罰といった具体の制度とともに、つぎつぎに検討される。
そのうえ、この対話は、法を作る側にも問いを向ける。立法者は、命令するだけでよいのか。それとも、人々を説得する言葉を添えるべきなのか。ここから、法の本文に先立つ「序文」という考えが生まれる。さらに、国の外から来た一人の人物が、自分の国ではないクレタの人々に向けて、まだ存在しない国の法を、言葉の上で作っていく。この設定そのものが、法とは何かを考えるための実験になっている。神、魂、宇宙の秩序といった、もっと大きな問いも、法の話の延長として取り上げられる。
伝えによると、プラトンはこの作品を書き終えないまま世を去り、弟子のオプスのピリッポスが、蝋の板に残された草稿を清書したという。アリストテレスは『政治学』第2巻で、この作品の国制を検討しており、プラトンの政治思想を考えるうえで、最も早い批評のひとつになっている。ローマのキケロは、同じく『法律について』という対話篇を書いており、題名も形式もプラトンの作品を意識している。そこで論じられる自然の法という考えは、のちのヨーロッパの法思想に長く影響を与えた。イスラーム世界でも、ファーラービーが『プラトンの法律の要約』を著している。
現代でも、この作品は、法と道徳、教育と国家、宗教と政治をめぐる議論のたびに、読み返されてきた。法とは何か、法に従うとはどういうことか、という問いは、いまも私たちの問いである。長く、細部まで書き込まれた対話だが、三人の歩みとともに、一巻ずつ読み進めていけば、古代の人々が法をどう考えていたのかが、少しずつ見えてくるだろう。
以下、()内は原則としてギリシア語原語。
ステファヌス版番号(Burnet版)。番号をクリックすると本文の該当箇所へ移動する。
底本の巻の区分(全12巻)と、伝統的に参照されるステファヌス版番号(624~969)が付されている。目次の各巻の名は、内容を示すために付けた便宜的な呼び名であり、底本の見出しではない。番号をクリックすると、本文の該当箇所へ移動する。
〔 624a~650b について 〕
位置づけ:第1巻。三人の会話が始まり、立法の目的が問われる部分。
概要:クレタとスパルタの法の由来、戦争を目標とする制度、徳の全体と部分、快楽と苦痛、酒宴の可否が取り上げられる。
アテ:客人たちよ、君たちのもとで法の制定の責めを負ったのは、神か、それとも人間の誰かか。
クレ:神だ、客人よ、神だ。正しく言うなら、私たちのもとではゼウスであり、ここにいるこの人の出身地であるスパルタ人のもとでは、アポロンだとこの人たちは言っていると私は思う。そうではないか。
メギ:そうだ。
アテ:では君は、ホメロスに従って、ミノスが九年目ごとに*1父との交わりのためにそのたびに通い、父から得た託宣に従って君たちの国々に法を定めたと言っているのか。
*1 〔 ミノスと洞窟への道について 〕底本では、アテナイからの客人が、クレタの法の作者は神なのか人なのかを尋ね、クレイニアスはゼウスだと答え、メギロスはアポロンだと答える。客人は、ホメロスの言葉として、ミノスが九年目ごとにゼウスのもとへ通い、その言葉に従って法を定めたことを引く。
クレ:実際、私たちのもとではそう語り伝えている。そして彼の兄弟ラダマンテュスについても、君たちはその名を聞いているだろうが、最も正しい人であったと語り伝えている。だから私たちクレタ人は、彼が当時裁判に関わることを分配したことによって、この称賛を正しく得たと言うだろう。
アテ:それは美しい名声であり、ゼウスの子に実にふさわしい。君もこの人も、そのような法を重んじる習慣の中で育ったのだから、今は国制と法について、道を行くあいだ、語り合い聞き合いながら時を過ごすことを、不愉快には思わないだろうと私は期待する。いずれにせよ、聞くところでは、クノッソスからゼウスの洞窟*2と神殿への道は十分に長く、今は蒸し暑いので、道中の休み場には、おそらく、高い木々の陰があり、私たちの年齢にはその中で頻繁に休むのがふさわしいだろう。そして言葉で互いを励まし合いながら、道のりのすべてをこうして楽に踏破するのがよい。
*2 〔 話者の表示について 〕底本の話者名は、ἈΘ.(アテナイからの客人)、ΚΛ.(クレイニアス)、ΜΕ.(メギロス)の略号で示されている。冒頭の人物表には、ἈΘΗΝΑΙΟΣ ΞΕΝΟΣ、ΚΛΕΙΝΙΑΣ ΚΡΗΣ、ΜΕΓΙΛΛΟΣ ΛΑΚΕΔΑΙΜΟΝΙΟΣ とある。本訳では、これに対応させて、「アテ:」「クレ:」「メギ:」と示した。
クレ:実際あるとも、客人よ、進んでいくと、林の中の糸杉は高さも美しさも驚くばかりで、牧草地もあり、私たちはそこで休みながら時を過ごせるだろう。
アテ:君の言う通りだ。
クレ:まったくそうだ。ただ、見たうえでなら、もっと確かにそう言えるだろう。さあ、幸運を祈って行こう。
アテ:そうあってほしい。ところで言ってくれ。君たちの法は、何に基づいて共同食事*3も、体育も、武具の所持も定めたのか。
*3 〔 共同食事と体育場について 〕底本では、クレイニアスが、クレタの共同食事と体育場の制度は、戦争に備えて定められていると説明する。これに対して客人は、戦争だけを目標にした法は、徳の全体ではなく、その一部にしか目を向けていない、と述べる。
クレ:客人よ、私たちのことは誰にとっても容易に理解できると私は思う。実際、クレタ全土の地勢は、見ての通り、テッサリア人の土地のような平野ではなく、起伏があり、徒歩での走りの鍛錬にいっそうふさわしい。だから彼らは馬をいっそう用い、私たちは走りを用いる。そのような土地では、武具は軽いものを持ち、重さを負わずに走る必要がある。弓と矢の軽さがふさわしいと思われる。こうしてこれらすべては戦争に向けて私たちのために整えられ、立法者もすべてを、私に見えるところでは、これを見据えて定めた。立法者は、皆が出征するときにはその事態そのものによって自分たちの警戒のためにその間共に食事をせざるをえなくなるのを見て、共同食事をも集めたのだろう。そして彼は、多くの人々が、生涯を通じて絶え間なく、すべての国がすべての国に対して戦争の状態にあることを理解していないと見て、その愚かさを断じたと私には思われる。もし戦争があるときに、警戒のために共に食事をし、統治する者と統治される者とが秩序づけられて、自分たちの守り手となる必要があるなら、それは平和のときにも行わなければならない。彼は、大多数の人々が平和と呼ぶものは名ばかりであり、実際にはすべての国がすべての国に対して、常に自然に布告なき戦争の状態にあると考えたのである。そしてこのように考察すれば、君はほぼ確実に、クレタの立法者が公私の習わしのすべてを、戦争に目を向けて私たちのために定めたことを見いだすだろう。この考えに従って、彼は、戦争で結局勝たなければ、他のものはどれも、財産であれ営みであれ、何の益もなく、敗れた者たちの善いものはすべて勝った者たちのものになるとして、このように法を守るよう伝えた。
アテ:客人よ、君はクレタの習わしを見通すのに見事に鍛えられているように私には見える。ただ、次のことをもっとはっきり言ってくれ。というのは、君が立てた、よく国制の整った国の基準は、他の国々に戦争で勝つほどに秩序づけられて暮らさねばならないということだと私には思われるからである。そうではないか。
クレ:まったくそうだ。この人もそう同意していると私は思う。
メギ:他にどう答えられるだろうか、叔父上、スパルタ人なら誰であっても。
アテ:では、国と国とのあいだではこれが正しいが、村と村とのあいだでは別なのか。
クレ:決してそうではない。
アテ:では、同じなのか。
クレ:そうだ。
アテ:ではどうか。村の中の家と家とのあいだ、また一人の男と一人の男とのあいだでも、なお同じか。
クレ:同じだ。
アテ:自分自身に対しては、敵が敵に対するように考えなければならないのか。それとも、私たちはなおどう言うのか。
クレ:アテナイの客人よ、君をアッティカの人とは呼びたくない。君は女神の呼び名で呼ばれるほうにふさわしいと私には思われるからである。君は議論を始まりへ正しく連れ戻して、いっそう明らかにしたので、先ほど私たちが、国と国とのあいだでは皆が皆に対して敵であり、個人としても一人ひとりが自分自身に対して敵であると言ったのが正しかったことを、君はいっそう容易に見いだすだろう。
アテ:何を言うのか、不思議な人よ。
クレ:ここでもまた、客人よ、自分に自分で勝つことはあらゆる勝利のうちで第一で最善であり、自分自身に自分で負けることはあらゆるもののうちで最も恥ずべきと同時に最も悪い。実際これらは、私たち一人ひとりの中に自分自身に対する戦争があることを示している。
アテ:では、議論をもう一度戻そう。私たちの一人ひとりは、自分に勝る者か、自分に劣る者かであるから、家も村も国も、これと同じものをそれぞれの内に持つと言うべきか、言わないべきか。
クレ:ある国は自分に勝り、ある国は自分に劣ると、君は言うのか。
アテ:そうだ。
クレ:その問いも正しい。そういうことは確かに大いにあり、とりわけ国々においてそうだ。優れた者たちが、多数と劣った者たちに勝つ国は、その国が自分に勝ると言うのが正しく、そのような勝利について最も正当に称賛されるだろう。反対の事情の国では反対である。
アテ:では、劣ったものが優れたものにいつかどこかで勝つことがあるのかどうかは、論じると長い話になるので措いておこう。君の言うことは今私は理解した。同じ国に生まれた血縁の市民たちが、不正な者たちが多数集まって、数の少ない正しい者たちを力ずくで奴隷にするとき、勝てばその国は自分に劣ると同時に悪いと正しく言われ、負ければ自分に勝り善いと言われる、ということだ。
クレ:君が今言ったことはまったく奇妙だ、客人よ。だがそれでも、そう認めるほかはない。
アテ:まあ待ってくれ。次のこともまた考察してみよう。一人の男と一人の母から多くの兄弟が生まれることがあるだろう。そして、実際、その大半が不正な者になり、少数が正しい者になっても、何も不思議ではない。
クレ:まったくその通りだ。
アテ:そして私にも君たちにも、悪い者たちが勝つときにはこの家と血族の全体が自分に劣ると言い、彼らが負けるときには自分に勝ると言う、そのことを追い求めるのはふさわしくないだろう。というのも、今私たちが、多くの人々の言い方に照らして調べているのは、体裁のよい言葉や悪い言葉のためではなく、法の正しさと誤りについて、それが本来どのようなものかだからである。
クレ:君の言うことは実に真実だ、客人よ。
メギ:私にもそう思われるが、少なくとも今のところ、これだけについては、見事な議論だ。
アテ:ではこれも見てみよう。今話した兄弟たちに、誰か裁判人がつくことがあるだろうか。
クレ:確かにある。
アテ:では、どちらがより優れているか。彼らのうち悪い者たちをすべて滅ぼし、より善い者たちに自分たちを治めるよう命じる者か、それとも、善い者たちが治め、劣った者たちは生かしておいて、進んで治められるようにする者か。そして、徳の点で第三の裁判人を挙げるとすれば、争っている一つの血族を引き受けながら、誰も滅ぼさず、和解させて、以後の時のために法を定めてやり、彼らが互いに見守り合って友でいられるようにできる者がいるなら、おそらくそのような者を挙げることになろう。
クレ:そのような裁判人であり立法者のほうが、はるかに優れているだろう。
アテ:しかも彼は、戦争に目を向けて法を定めるのとは反対に、彼らのために法を定めるだろう。
クレ:それは本当だ。
アテ:では国を調和させる者はどうか。国の生を、むしろ外の戦争に目を向けて秩序づけるのか、それとも国の内にそのたびに起こる戦争、つまり内乱と呼ばれるものに目を向けて秩序づけるのか。内乱は、できれば誰もが自分の国に決して起こらないでほしいと望み、起こったなら一刻も早く去ってほしいと望むものである。
クレ:明らかに、後者に目を向ける。
アテ:では、一方が滅ぼされ、どちらかが勝ったうえで内乱の平和が生じることを、人は、和解によって友愛と平和が生じ、そのうえで外の敵に心を向けざるをえないことよりも、むしろ受け入れるだろうか。
クレ:誰でも、自分の国に、あちらの仕方で起こるよりは、こちらの仕方で起こることを望むだろう。
アテ:では立法者も同じではないか。
クレ:もちろんだ。
アテ:では、誰もが最善のためにすべての習わしを定めるのではないか。
クレ:当然そうだ。
アテ:ところで最善は、戦争でも内乱でもなく、それらを必要とするに至ることは避けたいことであり、最善とは互いのあいだの平和であり同時に好意である。そして、国が自分自身に勝つことも、どうやら、最善のものではなく、必要なものに属していた。それは、病んだ身体が医術による浄化を受けたとき、その時こそ最もよい状態にあると考え、まったく浄化を必要としなかった身体にはまるで気を向けないようなものである。同様に、国の幸福についても個人の幸福についてもそのように考える者は、外の戦争にだけ、しかも第一に目を向けているかぎり、決して正しく政治家にならないだろうし、平和のために戦争に関する法を定めるのではなく、むしろ戦争に属することのために平和に関する法を定めるなら、正確な立法者にもならないだろう。
クレ:この議論は、客人よ、どこか正しく述べられているように見える。ただ、私たちの法も、さらにスパルタの法も、そのすべての熱意をこれらのために注いだのではないのかと、私は怪しんでいる。
アテ:ことによるとそうかもしれない。ただ、私たちも彼らも、まさにこのことに最も熱心なのだから、今は彼らと厳しく争うべきではなく、静かに問いただすべきだ。どうか議論について来てくれ。では少なくとも、テュルタイオス*4を先に立てよう。生まれはアテナイ人だが、この人たちの市民となった人で、このことに誰よりも熱心であり、次のように言っている。
*4 〔 テュルタイオスについて 〕底本では、客人が、テュルタイオスを、アテナイに生まれ、いまのスパルタ人の市民になった人として挙げ、戦いで最善でない者は、どれほど富んでいても数に入れない、と詠んだことを引く。続いて、シチリアのメガラの市民テオグニスの、内乱のなかで信義ある人をたたえた言葉を挙げ、そのような人は、ただ勇気のある人よりもすぐれている、と述べる。
「戦争において常に最も優れた者でないなら、人の中で最も富んでいようとも、また多くの善いものを持っていようとも、私はその男を口にせず、話の数にも入れない」と彼は言い、善いもののほとんどすべてを挙げている。
君もこれらの詩を聞いたことがあるだろう。この人は、私が思うに、飽きるほどそれに親しんでいる。
メギ:まったくその通りだ。
クレ:しかもそれは、スパルタから運ばれて私たちのところにも来ている。
アテ:さあ、この詩人に、共に次のように尋ねてみよう。「テュルタイオスよ、最も神的な詩人よ。戦争で抜きん出た者たちを格別に称えたので、君は私たちには知恵があり善い人だと思われる。そこで今、私と、この人と、ここにいるクノッソス人のクレイニアスは、私たちの見るところでは、このことで君に強く同意しているところだ。ただ、私たちが同じ人々について語っているのかどうかを、はっきり知りたい。だから言ってくれ。君も私たちと同じように、戦争には二つの型があるとはっきり考えているのか。それともどうか」。これに対しては、私が思うに、テュルタイオスよりはるかに劣った者でも真実を言うだろう。二つあると。一つは、私たち皆が内乱と呼ぶもので、先ほど私たちが言ったように、あらゆる戦争のうちで最も厄介である。もう一つは、私たち皆が、私が思うに、外の異民族の者たちに対して意見を異にするときに用いる戦争の類と定めるだろうが、それは内乱よりはるかに穏やかである。
クレ:もちろんだ。
アテ:さあ、どちらの人々を、またどちらに対する戦争を称えて、君はそれほど過度に称え、他方の人々を非難したのか。君は外の者たちに対する戦争を称えているように見える。事実、君は少なくとも詩の中で、そのような者たちを決して容認しないという態度で、次のように言っている。そのような者たちとは、
血にまみれた殺戮を見ようとせず、敵の近くに立ちながら手を伸ばそうともしない者たちである。
では、これに続けて私たちはこう言うことになる。「テュルタイオスよ、君は、見たところ、異国の外からの戦争で名をあげた者たちを、とりわけ称えている」。おそらく彼はこれを認めて、同意するのではないか。
クレ:もちろんだ。
アテ:私たちとしては、これらの者たちが善い者であるうえに、最大の戦争で際立って最善の者となる人々は、なおはるかに優れていると言う。詩人についても、私たちは証人を持っている。シケリアのメガラ人の市民、テオグニスで、彼はこう言っている。
キュルノスよ、困難な内紛のときには、信頼できる人は金にも銀にも引き換えるに値する。
この人は、より困難な戦争において、あの者よりはるかに優れた者になると私たちは言う。それは、正義と節制と思慮が一つに合わさって勇気と結びつくときの優れ方が、勇気だけのそれよりも優れているのと、ほぼ同じ程度である。実際、内乱の中で、信頼でき健全な者は、徳の全体なしには決して生じないだろう。これに対して、しっかり踏みとどまって戦い、進んで死ぬ覚悟のある者は、テュルタイオスの述べる戦争では傭兵の中にきわめて多くおり、その大半は、ごく少数を除いて、大胆で不正で不遜で、ほぼ誰よりも思慮に欠ける者になる。この議論は今、私たちをどこへ導くのか。また彼は何を明らかにしようとしてこれを語るのか。明らかに次のことである。すなわち、ここゼウスに由来する立法者も、少しでも役に立つ立法者ならすべて、他のものにではなく、もっぱら最大の徳に常に目を向けて、必ず法を定めるということである。それは、テオグニスの言うところでは、危難における信頼であり、完全な正義と呼ぶこともできるものである。他方、テュルタイオスが最も称えたもの、すなわち詩人によって美しく、時宜にかなって飾られたそれは、それでも数においても、尊ばれることの力においても第四だと言うのが、最も正しいだろう。
クレ:客人よ、私たちの立法者を、私たちは遠くの立法者たちのところへ追いやっていることになる。
アテ:リュクルゴスとミノスが、スパルタの法もここの法も、すべてもっぱら戦争に目を向けて習わしを定めたと私たちが考えるなら、それは立法者たちを追いやるのではなく、私たち自身を追いやることになる、よき人よ。
クレ:では、私たちはどのように言うべきだったのか。
アテ:私が思うに、真実と正義に従って、神的な事柄について語るなら、こう言うべきだった。彼らは徳の一部分に、しかもそのうちで最も取るに足りない部分に目を向けて法を定めたのではなく、徳の全体に目を向けて定めたのであり、彼らの法を探すにも、今日の人々が型を前に置いて探すようなやり方ではなく、徳の型に即して探すべきだ。実際、今日の人々は、各人がそのとき必要とするものを前に置いて、それを探している。ある人は割り当て地と相続娘のことを、ある人は暴行のことを、また別の人は同様の無数の別のことを探す。しかし私たちは、法についての探究は、今私たちが始めたように、よく探究する人々のものだと言う。徳から始め、立法者はこの徳のために法を定めたと言うのは正しいので、私は法についての君の説明の試みを、まったく称賛する。しかし、立法者がすべてを徳の一部分に、しかも最も小さな部分に結びつけて法を定めたと君が言った点は、もはや私には正しい言い方とは見えなかった。そして今述べたこの後の議論のすべてを、私はそのために語ったのである。では私は、君がどのように区分して語るのを自分で聞きたかったのか。君に話そうか。
クレ:もちろんだ。
アテ:君はこう言うべきだったのだ。「客人よ、クレタの法は正しく、それを用いる人々を幸福に仕上げるので、ギリシア人すべてのあいだで格別に評判が高いのも、理由のないことではない。実際、法はあらゆる善いものをもたらすのである。善いものには二種類あり、一方は人間的なもの、他方は神的なものである。このうち人間的なものは神的なものに懸かっており、国がより大きいものを受け入れるなら、より小さいものをも得るが、そうでなければ両方を失う。より小さいものとは、第一に健康があり、第二に美しさ、第三に走りにも身体のその他すべての動きにも向く強さ、第四に富であり、それは盲目ではなく鋭く見る富で、思慮に伴うかぎりのものである。他方、神的な善いもののうち、先頭に立って導く第一のものは思慮であり、第二は知性を伴う魂の節制ある状態、第三は、これらが勇気と混ぜ合わされて生じる正義、第四は勇気であろう。これら神的なものはすべて、自然のうえで人間的なものの前に置かれており、立法者もそのように置かなければならない。その後、市民たちへの他の命令は、彼らにとってこれらに目を向けるものとなるよう命じなければならない。そのうち人間的なものはすべて神的なものに、神的なものはすべて導き手である知性に目を向けるのである。結婚については互いに共同し、そのあと子供の出生と養育においては、男の子も女の子も、若いときから年長へ進み老年に至るまで、正しく尊びまた軽んじつつ配慮しなければならず、これらの人々とのあらゆる交わりにおいて、彼らの苦痛と快楽と欲望、あらゆる恋の熱意をよく観察して見守り、法そのものによって正しく非難し称賛しなければならない。また、怒りにおいても恐れにおいても、不運のゆえに魂に生じる動揺、幸運のときにそのような動揺を免れること、病や戦争や貧困、またそれらと反対のことに際して人々に降りかかる受難のすべてについて、そうした場合のすべてにおいて、各人の心の持ち方に関して教え、立派なものとそうでないものを定めなければならない。その後、立法者は、市民の財産と支出が、どのような仕方で生じるにせよ、これを監視しなければならず、またこれらすべてにおける互いの共同と解消を、意にかなったものも意に反したものも、人々が互いにそのうちのどれを行うのであれ、それに応じて調べなければならない。そして正しいことと、そうでないことが、どの場合にあり、どの場合に欠けているかを見て、法によく従う者たちには名誉を与え、従いにくい者たちには定められた罰を課し、国制のすべての終わりまで進んで、死者たちについてそれぞれにどのような埋葬が行われるべきか、どんな名誉を与えるべきかを見るまで続けなければならない。これを見終えたら、法を定めた者は、これらすべてに守り手を置く。その一部は思慮によって、他は真なる思わくによって進む者であり、知性がこれらすべてを結びつけて、富にも名誉欲にでもなく、節制と正義に従うものとして示すためである」。客人たちよ、私は君たちがこのように詳しく述べてくれることを望んだであろうし、今もなお望む。ゼウスのものと呼ばれる法にも、ピュティアのアポロンの法、ミノスとリュクルゴスが定めたものにも、これらすべてがどのようにして含まれているか、また、一定の秩序を得ているものが、法に通じた者には技術によってか、あるいはいくつかの慣習によってか、どのようにして明らかであるか、他の私たちにはまったく明らかでない、ということをである。
クレ:では、客人よ、この後はどう語るべきか。
アテ:私には、始めたとおりに、もう一度最初から、まず勇気に属する営みを詳しく述べ、そのあと、君たちが望むなら、徳のもう一つの型を、さらにもう一つの型を順に述べるべきだと思われる。最初のものをどのように詳しく述べるにせよ、それを手本として置き、他のものについてもこのように語り合って、道の慰めとするよう努めよう。そして後には、先ほど詳しく述べたことが、神が望むなら、徳の全体を目指すものであることを示そう。
メギ:いい言い方だ。まず、ゼウスを称えるこの人を、私たちのために判定してみてくれ。
アテ:議論は共通のものだから、君も自分自身も、試してみよう。さあ言ってくれ。共同食事と体育は、戦争のために立法者が見いだしたものだと、私たちは言うのか。
メギ:そうだ。
アテ:では第三のもの、あるいは第四のものは何か。他の徳に属するものについても、部分と呼ぶべきか、何か別の名で呼ぶべきかはともかく、言うところを明らかにするだけで、おそらくこのように数え上げる必要があるだろうからである。
メギ:それなら第三に、私も、スパルタ人なら誰でも言うだろうが、狩猟を見いだした。
アテ:では、第四のもの、できれば第五のものも、言ってみよう。
メギ:それなら、私はさらに第四のものも言ってみよう。苦痛に耐え抜くことに関わるもので、私たちのもとで盛んに行われている。互いに手で戦う試合において、またある種の奪い合いにおいて、そのたびに多くの打撃を受けながら行われる。さらに、クリュプテイアと呼ばれるものがある。驚くほど苦労の多い忍耐の鍛錬であって、冬の裸足、寝床のないこと、召使いなしで自分で自分の世話をすること、夜も昼も国中をさまようことである。さらに、ギュムノパイディアイと呼ばれる祭においても、暑さの猛威と戦いながら、私たちのもとで恐ろしい忍耐が行われ、ほかにも実にたくさんあって、一つ一つ挙げていけば際限がないほどである。
アテ:よく言った、スパルタの客人よ。では、勇気をどう定めよう。単純に、恐れと苦痛に対する戦いだけなのか、それとも、望みや快楽、また、気高いと思われる人々の気概をさえ蝋のように溶かしてしまう、恐るべきへつらいの甘言に対する戦いでもあるのか。
メギ:私はそう思う。そのすべてに対してだ。
アテ:少なくとも、先の議論を覚えているなら、この人は、ある国も、ある人も、自分自身に劣ることがあると言っていた。そうではないか、クノッソスの客人よ。
クレ:その通りだ。
アテ:では今、私たちは、苦痛に負ける者を悪い者と言うのか、それとも快楽に負ける者もそう言うのか。
クレ:私にはむしろ、快楽に負ける者のほうだと思われる。私たちは皆、おそらく、苦痛に支配される者より先に、快楽に支配されるこの者を、非難されるべき仕方で自分に劣る者と呼ぶ。
アテ:では、ゼウスの立法者とピュティアの立法者は、まさか勇気を、左側のものにだけ立ち向かうことができ、右側の、洗練された甘言を弄するものには立ち向かえない、足の不自由なものとして定めたのだろうか。それとも、両方に立ち向かうものとして定めたのか。
クレ:私は両方に対してだと判断する。
アテ:では、もう一度言おう。君たち二つの国には、どのような営みがあるか。苦痛を避けさせなかったのと同じように、快楽を避けさせずに味わわせ、その真ん中へ連れ出して、強制し、名誉によって説得して、それに打ち勝たせるような営みである。同じことが快楽についても、法の中のどこに定められているのか。何がそれであって、苦痛に対しても快楽に対しても同様に、同じ人々を勇気ある者に仕上げ、勝つべきものに勝たせ、自分に最も近く最も厄介な敵に決して劣らせないのか、言ってくれ。
メギ:客人よ、苦痛に対しては、立ち向かうように定められた法を多く挙げることができたが、快楽については、大きな、明らかな部分ではおそらく挙げるのに困るだろう。小さな部分でなら、おそらく挙げられるだろう。
クレ:私も、クレタの法の中では、このことを同じように明らかにすることはできない。
アテ:よき人たちよ、それは少しも不思議ではない。だが、もし私たちの誰かが、真実と最善を同時に見ようとして、各人の国の法について何か非難するなら、厳しくではなく穏やかに、互いに受け入れよう。
クレ:アテナイの客人よ、君の言う通りだ。従わなければならない。
アテ:というのも、クレイニアスよ、そのような厳しさは、これほどの年齢の人々にはふさわしくないからである。
クレ:まったくその通りだ。
アテ:ラコニアの国制とクレタの国制を、誰かが正しく非難するのか、そうでないのかは、別の議論になるだろう。ともあれ、多くの人々が言っていることなら、おそらく私のほうが君たち二人よりも語れるだろう。君たちには、法がほどよく整えられているなら、最も美しい法の一つは、若者の誰にも、法のうちどれが美しくどれが美しくないかを探ることを許さないことだろう。すべての人が一つの声、一つの口で、神々が定めたのだからすべてが美しく置かれていると声を合わせて言い、誰かが違うことを言っても、一切聞いて我慢しないのだ。老人が君たちのもとの事柄について何か思いつくことがあれば、統治者と同年輩の者に対して、若者の誰もいない前で、そのような話をするのだ。
クレ:客人よ、君の言うことは実に正しい。まるで占い師のように、定めた人のそのときの考えから離れていながら、今の君はそれをよく言い当て、実に真実を語っていると私には思われる。
アテ:では、今は私たちの前に若者はおらず、私たち自身は老年のために立法者から解放されているのだから、まさにこのことについて私たちだけで私たちだけに語り合っても、何も間違いはないのではないか。
クレ:その通りだ。その点では、私たちの法を非難するのを少しも控えないでくれ。美しくないものを知ることは決して不名誉ではなく、むしろそこから、語られることを妬みではなく好意で受け取る者に、治癒が生じるのだ。
アテ:よろしい。ただし、私は法を非難するとはまだ言わない。まず力の及ぶかぎり確かに考察してからであり、むしろ疑問を述べるつもりだ。というのも、君たちの立法者だけが、私たちが聞き及ぶギリシア人と異民族の中で、最大の快楽と遊びを控えて味わわないよう命じた。他方、苦痛と恐れについては、先ほど詳しく述べたとおりだが、もし誰かが子供のときから最後まで逃げ続けるなら、必要な労苦と恐れと苦痛に至ったとき、それらに鍛えられた者たちを避け、その者たちの奴隷になるだろうと、立法者は考えた。同じことを、私が思うに、同じ立法者は快楽についても考えるべきだった。自分自身に向かって、もし私たちのもとの市民たちが、若いときから最大の快楽を知らず、快楽の中で耐えること、また何も恥ずべきことをするよう強いられないことを訓練されないなら、快楽に対する甘い心のゆえに、恐れに負ける者たちと同じ目に遭うだろうと、言うべきだった。市民たちは、快楽の中で耐えることのできる者たち、また快楽に関わるものを所有する者たちに、すなわち時にはまったく悪い人々にさえ、別の仕方で、しかもいっそう恥ずべき仕方で奴隷として仕えることになり、魂をある面では奴隷、ある面では自由に持ち、単純に勇気ある者、自由人にふさわしい者とは呼ばれるに値しないだろう。では、今述べたことのうち何か、道理にかなった言い方だと君たちに思われるものがあるか、考えてくれ。
クレ:議論の語られ方からして、私たちには何となくそう思われる。ただ、これほど重大なことについて、すぐに容易に信じ込んでしまうのは、むしろ若い者や思慮のない者のすることではないか。
アテ:では、私たちが前に掲げたことの次を詳しく述べるなら、クレイニアスよ、そしてスパルタの客人よ、勇気のあとは節制について語ることにして、先ほど戦争について見たように、この二つの国制に、でたらめに国制を営む者たちの国制と比べて、何か異なる点を私たちは見いだすだろうか。
メギ:ほぼ容易ではないだろう。ただ、共同食事と体育は、どちらの国制のためにも見事に考案されているように思われる。
アテ:客人たちよ、おそらく、身体の場合と同じく、どんな一つの営みを命じても、それが私たちの身体のあるものには害を与え、あるものには益を与えることがないようにするのは不可能であるから、国制に関することも、実際にも言論のうえでも、異論なく同じように成り立つのは難しいと思われる。というのも、共同食事や体育は、今多くの点で国々に益を与えるが、内乱に関しては厄介であり、ミレトス人、ボイオティア人、トゥリオイ人の子らがそれを示している。それどころか、この営みは、愛欲に関する快楽について、人間のみならず獣にも通じる、古くて自然にかなった法を、損なったと思われる。そして、そのことでは、まず君たちの国々が責められるだろうし、ほかの国のうち体育に最も熱心に取り組んでいる国も責められるだろう。それを遊びとして考えるにせよ、真剣に考えるにせよ、女と男の本性が子をなす交わりに入るとき、これに関する快楽は自然にかなって与えられたと思われるが、男が男と、女が女とそうするのは自然に反し、それを最初に敢えて行った者たちの、快楽に対する無節制によるものだと、考えなければならない。私たちは皆、クレタ人がガニュメデスについて語る物語を、これらの人々が作り話をしたもの、すなわち、法はゼウスに由来すると信じられていたので、ゼウスについてこの物語を付け加え、神に従ってこの快楽をも享受しようとしたものとして非難する。物語のことはさておく。法について考察する人間にとって、考察のほとんどすべては、国々においても個人の習慣においても、快楽と苦痛に関わる。この二つの泉は自然によって流れるように放たれており、そこから、汲むべきところから汲むべきときに汲むべき量だけ汲む者は幸福であり、国も個人もあらゆる生き物も同様だが、知識なく、しかも時機を外して汲む者は、それと反対に生きるだろう。
メギ:客人よ、君の言うことは、ある意味で見事だ。ただ、これに対して何を言うべきか、私たちは言葉を失っている。それでも私には、スパルタの立法者が快楽を避けるよう命じるのは正しいと思われる。クノッソスの法については、この人が、望むなら、弁護するだろう。快楽に関する事柄は、スパルタでは人間の中で最も美しく定められていると私には思われる。人々が最も、最大の快楽と不遜とあらゆる愚かさに陥るもの、それを私たちの法は国全体から追放した。田舎でも、スパルタ人が関心を持つ町々でも、酒宴も、それに伴ってあらゆる快楽をできるかぎり掻き立てるものも見られない。酩酊*5した状態で浮かれ歩いている者に出会えば、誰でも直ちに最大の罰を科すだろう。ディオニュソスの祭を口実にしても、その者を放免することはない。私は以前、君たちのもとで荷車の上でそうしている者たちを見たし、私たちの植民者のいるタラスでも、ディオニュソスの祭のころには国中が酔っているのを見た。私たちのもとにはそのようなものは何もない。
*5 〔 酒宴と酩酊について 〕底本では、客人が、酩酊(μέθη)について、スキュタイ人やペルシア人などのように用いるのか、クレタとスパルタのように全く避けるのか、と問い、これを、立法者の見識を見分ける問題として論じる。また、酩酊のなかで、人が恥や恐れに対してどうあるかを試す、という考えが検討される。
アテ:スパルタの客人よ、そのようなことはすべて、何らかの忍耐がそこに含まれているところでは称賛に値するが、それが緩められているところでは、いっそう怠惰なものになる。私たちの側の誰かが、身を守ろうとして、君たちのもとの女たちの放縦を示せば、すぐに君を捕まえるだろう。このようなことすべてについて、タラスでも、私たちのもとでも、君たちのもとでも、答えは一つで、それによって悪くはなく正しいものとして免れるように見える。答える者は誰でも、自分たちの慣れない習わしを見て驚く客人に、「驚くな、客人よ。これは私たちの法だ。君たちには、おそらくこの同じことについて別の法があるだろう」と言うだろう。しかし今、親愛なる人たちよ、私たちの議論は他の人々についてではなく、立法者たち自身の悪徳と徳についてである。この営みは小さなものではなく、取るに足りない立法者の見分けられるものでもないので、さらに酩酊の全般についてもっと語ろう。私が言うのは、ぶどう酒を飲むかどうか全般のことではなく、酩酊そのものについてである。スキュタイ人やペルシア人、またカルタゴ人、ケルト人、イベリア人、トラキア人、これらはどれも好戦的な民族だが、彼らが用いるように用いるべきか、それとも君たちのようにすべきか。君たちは、君の言うとおり、完全に控える。ところがスキュタイ人やトラキア人は、まったく生のぶどう酒を用い、女たちも男たち自身も、衣服の上に注ぎかけて、これを美しく幸福な営みと見なしている。ペルシア人も、君たちが捨てているほかの贅沢と同様に、これを激しく用いるが、彼らのほうがそれより秩序がある。
メギ:すぐれた人よ、私たちは、手に武器を取るときには、これらの者たちを皆、追撃する。
アテ:よき人よ、そう言わないでくれ。逃走も追撃も、数多く、はっきり判断できないものが起こったし、これからも起こるだろう。だから、戦闘の勝ち負けを言うことでは、美しい営みかそうでないかについての明らかな基準を、私たちは決して示せず、それは異論の余地のあるものにとどまる。というのも、より大きな国々は、戦ってより小さな国々に勝ち、これを隷属させるからである。シュラクサイ人はロクロイ人に、あの地域で最も法がよく治まっていたと思われる人々に、アテナイ人はケオス人にそうした。同様のことは無数に見いだせるだろう。しかし、一つ一つの営みそのものについて、私たちは語って自分たちを説得するよう努めよう。勝敗は今は議論の外に置き、これは美しいがこれは美しくないと語ろう。まず、私の言うことを聞いてくれ。これらそのものについて、善いものとそうでないものをどのように見るべきかについてである。
メギ:では、何を言うのか。
アテ:私には、ある営みを言論でとらえ、言われるやいなやそれを非難するか称賛するかを掲げる人は、皆、決して正しいやり方をしていないと思われる。それは、ある人が小麦を食物として善いと称賛したとき、別の人が、その小麦の作り方も食べさせ方も、すなわちどのように、どんな人々に、誰と、どんな状態で、どのように食べさせることができるかを少しも尋ねずに、すぐに非難するのと同じことをしている。今、私たちは議論の中で、これと同じことをしていると思われる。酩酊について、これだけを聞いて、ある人々はすぐにそれを非難し、他の人々は称賛するが、それは実に奇妙なことだ。双方とも、証人と称賛者を用いて称賛するのである。一方は、多くの人を提示できるので、何か決定的なことを言っていると考え、他方は、それを用いない人々が戦って勝つのを見るので、そう考える。だが、これもまた私たちの間で異論がある。もし私たちが、一つ一つのことについて、また他の習わしについても、このように論じるなら、それは私の心にかなわない。しかし、無数の民族が君たち二つの国とこれらをめぐって異論を唱え、議論で争うだろうから、私は、別のやり方で、これは必要だと私に思われるやり方で、この酩酊そのものについて語りたい。そして、そのような事柄すべてについての正しい方法を、できるなら私たちに明らかにするよう努めたい。
メギ:もしそのような事柄について、正しい考察を私たちが得られるのなら、聞くのをためらってはならない。
アテ:では次のように考えてみよう。さあ、もし誰かが山羊の飼育を、またその動物自体が財産として美しいものであると称賛し、他方、別の誰かが、山羊飼いのいない山羊が耕作地で草を食んで害をなしているのを見て非難し、牧者のいない、または悪い牧者のもとにある家畜すべてをそのように見て責めるとしたら、私たちは、そのような人の非難が、何についてであれ健全な非難になると考えるだろうか。
メギ:どうしてそうなるだろうか。
アテ:では、船においては、航海の知識だけを持っていれば、船酔いしようとしまいと、よい指揮者だろうか。それとも私たちはどう言うべきか。
メギ:決してそうではない。技術に加えて、君の言う、船酔いしないというこの状態をも備えている場合に限る。
アテ:では軍の指揮者はどうか。戦争の知識を持っていれば、指揮するのに十分か、たとえ臆病で、恐ろしい場面で恐れという酩酊のために船酔いのように参ってしまうとしても。
メギ:どうしてそうだろうか。
アテ:では、技術を持たず、しかも臆病な場合はどうか。
メギ:君が言うのは、まったく劣った者であり、男たちの統治者などではなく、ひどく女のような者たちの統治者だ。
アテ:では、どんな共同体であれ、その称賛者や非難者はどうか。共同体にはもともと統治者がいて、統治者とともにあってこそ有益であるのに、その者は、共同体が統治者とともに正しく共同しているのを一度も見たことがなく、いつも統治者なしか、悪い統治者のもとで集まっているのを見ているとする。私たちは、こうした共同体の観察者たちが、それについて何か健全な非難や称賛をすることがあると考えるだろうか。
メギ:どうして、そのような共同体のうち正しく成り立ったものを、一度も見たことがなく、共にいたこともない人々が、何かを言えるだろうか。
アテ:さあ待ってくれ。多くの共同体のうち、共に飲む者たちと酒宴を、一つの交わりと見なしてよいか。
メギ:大いにそうだ。
アテ:では、この交わりが正しく行われているのを、これまでに誰かが見たことがあるか。君たち二人にとっては、まったくない、と答えるのは容易だ。それは君たちの国の風習でも法でもないからである。しかし私は、多くの酒宴に、多くの場所で出会い、しかもほとんどすべてについて尋ねてきた。そして、全体が正しく行われているものは、ほとんど一つも見ていないし聞いてもいない。小さな少数の部分がどこかにあるくらいで、大部分はほとんどすべて誤っている。
クレ:客人よ、それはどういうことか。もっとはっきり言ってくれ。私たちは、君の言ったとおり、そのようなことの経験がないので、出会ったとしてもすぐにはおそらく、その中で何が正しく行われ、何がそうでないかを見分けられないだろう。
アテ:君の言うのはもっともだ。だが、私が説明するから、理解するよう努めてくれ。あらゆる集まりでも、どんな行いの共同体でも、それぞれに統治者がいるのが至るところで正しいということは、理解しているか。
クレ:もちろん理解している。
アテ:実際、先ほど私たちは、戦う者たちについては、指揮者は勇気ある者でなければならないと言った。
クレ:もちろんだ。
アテ:そして勇気ある者は、臆病な者より、恐れによって動揺することが少ない。
クレ:その通りだ。
アテ:では、まったく何も恐れず動揺しない者を軍の将軍に立てる手立てがあるなら、私たちはそれをあらゆる方法で行うのではないか。
クレ:大いにそうする。
アテ:ところが今、私たちが語っているのは、敵どうしが戦争とともに交わる人々の集まりで軍を指揮する者についてではなく、友どうしが平和のうちに互いに好意を分かち合おうとする人々の集まりを指揮する者についてである。
クレ:君の言う通りだ。
アテ:ところでそのような交わりは、酩酊を伴うなら、騒がしいものだ。そうではないか。
クレ:もちろんだ。それどころか、まったく反対に、ひどく騒がしいと私は思う。
アテ:では、まずこの人たちにも、統治者が必要ではないか。
クレ:もちろんだ。他のどんな事柄にもまして。
アテ:では、そのような統治者は、できるなら、騒がない者を用意すべきか。
クレ:もちろんそうすべきだ。
アテ:しかも、どうやら、その者は、彼らの間にすでにある友愛の守り手となり、またその場の交わりによって友愛がいっそう増すように配慮する者となるのだから、交わりについて思慮のある者でなければならない。
クレ:実にその通りだ。
アテ:では、酔っている者たちの統治者には、酔わず、知恵のある者を立てるべきで、その反対の者を立ててはならない、そうではないか。酔っている者たちに、自らも酔い、若く、知恵のない統治者がつくなら、何か大きな悪を引き起こさずに済めば、非常な幸運に恵まれたことになるだろう。
クレ:実にたいへん大きな幸運だ。
アテ:では、これらの交わりが、国々で、できるかぎり正しく行われているのに、誰かがまさにそのことを責めて非難するなら、おそらく正しく非難することになるだろう。だがもし、できるかぎり誤って行われている営みを見て、それを罵るなら、第一に、それがまさに正しく行われていないことに気づいていないのは明らかであり、第二に、酔わない主人であり統治者のいない状態で行われるものは、すべてこのやり方では悪く見えるだろう。それとも君は、酔った舵取りも、何であれ何かを統治する酔った者も、船であれ戦車であれ軍であれ、その者に舵を取られているものが何であれ、すべてを転覆させることに気づいているか。
クレ:客人よ、まったく真実を言った。ではその次を言ってくれ。飲酒に関するこの習わしが正しく行われるなら、それは私たちに何か善いことをもたらすのか。先ほど言ったように、軍が正しい指揮を得れば、従う者たちに戦争の勝利が生じ、それは小さくない善であり、他のことも同様である。だが酒宴が正しく導かれたら、個人にも国にもどんな大きなものが生じるだろうか。
アテ:ではどうか。一人の少年が、あるいは一つの合唱団が、ただ一つ、適切に導かれたとして、国にどんな大きなものが生じると言えるだろうか。それともこのように問われたなら、私たちは、一人だけでは国にわずかな益しか生じないが、もし君が教育を全般にわたって、教育を受けた者たちが国にどんな大きな益を与えるかを尋ねるなら、答えるのは難しくない、よく教育を受ければ善い人間になり、そのような者になれば他のことも立派に行い、さらに戦って敵に勝ちもするだろう、と言うだろうか。教育は勝利をももたらすが、勝利は時として無教育をもたらす。多くの者が、戦争の勝利によってより不遜になり、不遜のゆえに無数の他の悪で満たされた。教育がカドモスの勝利のようなものとなったことは一度もないが、人々にはそのような勝利が数多く生じたし、これからも生じるだろう。
クレ:親愛なる人よ、君は、ぶどう酒をめぐる共同の時間の過ごし方が、正しく行われるなら、教育の大きな部分に関わると言っているように、私たちには思われる。
アテ:もちろんだ。
クレ:では君は、次に、今言ったことが真実だと言えるか。
アテ:これらがこうであると真実として力説することは、多くの人が異論を唱えるのだから、神にのみ属する。だが、私たちは今、法と国制について語り合うことに乗り出したので、私に見えるとおりに語るべきなら、少しも惜しまない。
クレ:では、まさにそのこと、今異論のあることについて君に思われることを、理解するよう努めよう。
アテ:そうしなければならない。君たちは理解しようと、私は何とかして明らかにしようと努めながら、議論に力を注ぐのだ。まず、私の次の話を聞いてくれ。ギリシア人は皆、私たちの国を、議論を好み、言葉数が多いと見なしている。他方、スパルタは言葉が少なく、クレタは言葉の多さよりもむしろ思考の多さを磨いていると見なしている。そこで私は、小さなことについて多くを語っていると君たちに思わせはしないかと案じている。酩酊という小さな事柄について、きわめて長い議論を整えようとしているからである。ところが、その自然にかなった正し方は、ムーサの技の正しさなしには、議論の中で明瞭に、また十分に捉えることが決してできず、ムーサの技もまた、教育の全体なしには決してできない。これらには非常に多くの言葉が要る。そこで、これらを今のところ措いて、法についての別の議論に移るとしたら、私たちはどうするべきか、考えてくれ。
メギ:アテナイの客人よ、君はおそらく知らないだろうが、私たちの家は君たちの国のプロクセノスなのだ。おそらくどの子供でも、自分がある国のプロクセノスだと聞くと、若いうちからすぐに、私たちプロクセノスの一人ひとりに、その国への好意が入り込む、自分の国に次ぐ第二の祖国に対するように。私にも今、これと同じことが生じている。私は子供のころからすぐに、スパルタ人がアテナイ人を非難したり称賛したりするたびに、「メギロスよ、君たちの国は私たちに対して、悪いことをした、あるいはよいことをした」と彼らが言うのを聞いて、それに対して君たちのために、君たちの国を非難へ引き込む人々といつも争ったので、あらゆる好意を抱いた。そして今は、君たちの声も私には親しく、アテナイ人のうち善い人々は格別に善いと多くの人が言うことが、最も真実だと私には思われる。彼らだけが、強いられることなく、生まれつき、神の定めによって、真に、作り物でなく善いのである。だから、私に関しては、安心して、君の望むだけ語ってよい。
クレ:客人よ、私のほうの話も聞いて、受け入れてから、安心して望むだけ語ってくれ。君はおそらく、エピメニデスが神的な人であり、私たちの身内であったと、こちらで聞いたことがあるだろう。彼はペルシア戦争の十年前に、神の託宣に従って君たちのもとに来て、神が命じたいくつかの供犠を行い、またペルシアの軍勢を恐れるアテナイ人に、十年は来ないだろう、来ても、望んだことは何も果たさず、より多くの悪を被るか行うかして去るだろうと言った。そのとき、私たちの祖先は君たちの客人となり、その時から私も、私たちの一族も、君たちに好意を持っている。
アテ:それなら君たちのことは、聞く用意がすでにあるようだ。私のことは、望んでも用意はできているが、できるとなるとあまり容易でない。それでも試みなければならない。まず議論のために、教育とは何か、どのような力を持つかを定めよう。私たちは、今私たちの前に取り上げた議論は、神に至るまで、この教育を通って進まなければならないと言う。
クレ:ぜひそうしよう、君さえ望むなら。
アテ:では、教育とは何と言うべきかを私が語るので、私が述べることが気に入るかどうか、考えてくれ。
クレ:どうぞ語ってくれ。
アテ:言おう。何であれ善い人になろうとする者は、そのことそのものを、子供のときからすぐに、その事柄に属するそれぞれのことの中で、遊びながら、また真剣に取り組みながら、習練しなければならない、と私は言う。たとえば、善い農夫または建築家になろうとする者は、建築をする者なら子供用の建物を作って遊ぶべきであり、農耕をする者もまた農耕の遊びをするべきである。そして、二人のどちらにも、本物を模した小さな道具を、それぞれを養う者が用意しなければならない。さらに、前もって学んでおくべき必要な学科を前もって学ぶ、たとえば大工なら測ることや重さを量ることを、戦士なら乗馬を、遊びながら、あるいはこれに類する他のことをしながら学ぶ。そして遊びを通して、子供たちの快楽と欲望を、彼らが最終的に行き着いたときに目的を果たさなければならない方向へ向けるよう努める。私たちは、教育の要点は正しい養育だと言う。それは、遊ぶ者の魂を、その者が大人になったときにその事柄の徳において完成した者でなければならない、そのことへの愛へと、最もよく導くものである。では、私が言ったことが、ここまでは君たちの気に入るかどうか、考えてくれ。
クレ:もちろんだ。
アテ:では、私たちが教育と言うものが、限定されないままになってはならない。今、私たちはそれぞれの人の養育を非難したり称賛したりして、私たちのうちのある者は教育された者であり、別の者は教育されていない者だと、時には、小売りや船主の仕事やそのほか同様のことに非常によく教育された人々についてさえ言う。私たちはどうやらこれらを教育とは考えないので、今の議論が扱うのは、子供のときから徳に向かう教育、すなわち、正義とともに治めることも治められることも心得た完全な市民となることを望み愛するようにする教育であるだろう。この議論は、この養育を区別した上で、私に思われるところ、今やこれだけを教育と呼ぼうとするだろう。他方、金銭に、あるいは何らかの強さに、あるいは知性と正義を欠いた他の何らかの知恵に向かうものは、手仕事のように卑しく、自由人にふさわしくなく、教育と呼ばれるにまったく値しないと言うだろう。私たちは名称のことで互いに争うのはやめ、先ほど私たちが同意した議論を保とう。すなわち、正しく教育された者は、ほぼ善い人間になる。そして、教育は最も優れた人々に備わる最も美しいものの第一のものであるから、教育を決して軽んじてはならない。もし教育が逸れることがあっても、正しく直すことができるなら、そのことを、誰もが生涯を通じて力の及ぶかぎり常に行わなければならない。
クレ:正しい。君の言うことに同意する。
アテ:しかも、私たちはかなり前に、自分を治めることのできる者は善い者であり、できない者は悪い者であると同意した。
クレ:君の言うのは実に正しい。
アテ:では、そのこと自体を、私たちが何を言っているのかを、さらに明らかにして取り上げ直そう。もし私がそのようなことを明らかにできるなら、たとえを通して受け入れてくれ。
クレ:ただ語ってくれ。
アテ:では、私たちのひとりひとりを、一人と定めてよいか。
クレ:そうだ。
アテ:しかし、その一人が、自分の内に、互いに反対で思慮のない二つの助言者を持っているとしてよいか。それは私たちが快楽と苦痛と呼ぶものである。
クレ:そうだ。
アテ:さらにこの二つに加えて、将来についての思わくがあり、その共通の名は期待であり、固有の名では、苦痛に先立つ期待が恐れ、反対のものに先立つ期待が大胆さである。そしてこれらすべての上に、それらのうちどれがより善くどれがより悪いかについての推論があり、それが国の共通の決議となったとき、法と呼ばれる。
クレ:かろうじてついて行ってはいる。それでも、ついて行っているものとして、この後を言ってくれ。
メギ:私にも、まさにこれと同じ状態がある。
アテ:これらについては、次のように考えよう。私たち生き物の一人ひとりを、神的な驚異と考えよう。それが神々の玩具として作られたのか、何か真剣な目的によって成り立っているのか、私たちは知らない。実際、このことは私たちは知らないが、これは知っている。私たちの内にあるこれらの情念は、いわば腱か、操り糸*6のように内在して、私たちを引き、互いに反対の行為へ向かって反対に引き合う。そこに、区別された徳と悪徳が位置する。議論は次のように言っている。一つの引きに、常に従い、決してそれから離れずに、他の腱に対して引き返すべきであり、この引きは推論の導きで、金色で聖なるもの、国の共通の法と呼ばれるものである。他の引きは堅く鉄でできているが、これは柔らかい。金色だからである。他の引きは、あらゆる型のものに似ている。だから、法という最も美しい引きに、常に力を貸さなければならない。推論は美しいが、穏やかで強制的でないので、その引きには手助けする者たちが必要であり、それは私たちの内で金色の類が他の類に勝つためである。こうして、私たちが驚異であるというこの物語は、徳に関して保たれるだろう。自分に勝る、自分に劣るということも、ある意味で、それが何を意味するのかがいっそう明らかになり、さらに、個人は、これらの引きについての真実の議論を自分の内に得て、それに従って生きなければならず、国は、神々のうちの誰かから、あるいはこれを知った人からその議論を受け取り、それを法として定めて、自分自身とも他の国々とも交わらなければならないということも、明らかになるだろう。このように、悪徳と徳も、私たちにとっていっそう明瞭に区別されるだろう。それが明らかになれば、教育もほかの営みも、おそらくいっそうはっきりするだろう。ぶどう酒をめぐる時間の過ごし方のことも同様で、それは取るに足りないことについて余計な長い議論を述べたと思われるかもしれないが、おそらくその長さに値すると見えてくるだろう。
*6 〔 操り人形のたとえについて 〕底本では、客人が、人間を、神々の作った操り人形(παίγνιον)になぞらえる。人の中には、快楽や苦痛などの糸(νεῦρα、σμήρινθοι)があり、互いに引き合っている。そのうち、理知の黄金の糸だけが、神聖なものとして、導きの役を果たす。客人は、この導きを、国の共通の法(πόλεως κοινὸς νόμος)と呼ぶ。
クレ:よく言った。今の時間の過ごし方に値するものになるなら、何であれ、最後まで進めよう。
アテ:では言ってくれ。この驚異に酩酊を加えると、私たちはそれをどのようなものに仕上げるのか。
クレ:何を見据えて、それを重ねて尋ねるのか。
アテ:まだ何を見据えているわけでもなく、これがそれと全体として交わったときにどのようなものになるのかを問うだけだ。私が望むことを、さらにはっきり言うよう努めよう。私が尋ねるのは次のことだ。ぶどう酒を飲むことは、快楽も苦痛も気概も愛欲も、より激しくするか。
クレ:大いにそうなる。
アテ:ではまた、感覚、記憶、思わく、思慮はどうか。同じようにより激しくなるのか。それとも、酩酊に浸りきったなら、これらは完全にその人を離れるのか。
クレ:そうだ、完全に離れる。
アテ:では、魂の状態は、若い子供だったときの状態と同じところに行き着くのではないか。
クレ:もちろんだ。
アテ:そのとき、その人が自分自身を制御できるのは、最も少ないだろう。
クレ:最も少ない。
アテ:では、そのような者を、最も悪い者と私たちは言うか。
クレ:大いにそうだ。
アテ:つまり、どうやら、老人が二度目の子供になるだけでなく、酔った者もそうなるのだ。
クレ:君は最もよく言った、客人よ。
アテ:では、この営みについて、味わうべきであって、できるかぎり全力で避けるべきではないと私たちを説得しようと試みる議論が、あるだろうか。
クレ:あるようだ。少なくとも君はあると言い、先ほど語る用意もあった。
アテ:君は本当のことを覚えている。君たち二人が熱心に聞こうとすると言った以上、今も用意はできている。
クレ:もちろん聞く。他に何の理由がなくとも、人が時に進んで自分をあらゆる劣悪さへ投げ込まなければならないのかという、驚くべき奇妙なことのためだけでも、聞く。
アテ:君が言うのは魂のことだ。そうではないか。
クレ:そうだ。
アテ:ではどうか。身体の場合、友よ、悪い状態、すなわち痩せ衰え、醜さ、無力へと、誰かが自ら進んで至るなら、私たちは驚くだろうか。
クレ:もちろん驚く。
アテ:では、どうか。薬を飲むために自分から診療所に通う者たちは、少し後に、何日にもわたって、もしずっとそうであるなら生きるのを受け入れないような状態の身体になることを、知らないと私たちは思うか。それとも、体育や労苦に向かう者たちが、直後には弱くなることを、私たちは知っているのではないか。
クレ:それらはみな知っている。
アテ:また、その後に得られる益のために、人々が自ら進んで出かけて行くことも知っているか。
クレ:実によく知っている。
アテ:それなら、ほかの営みについても、同じ仕方で考えなければならないのではないか。
クレ:まったくそうだ。
アテ:これらの事柄について正しく考えることがそもそもできるなら、したがって、ぶどう酒をめぐる時間の過ごし方についても、同じように考えなければならない。
クレ:どうしてそうしないことがあるだろうか。
アテ:では、この営みが身体にかかわる営みに少しも劣らない益を私たちにもたらすと明らかになるなら、少なくとも初めの点で身体鍛錬に勝つことになる。一方は苦痛を伴い、他方は伴わないという違いがあるからである。
クレ:君の言うとおりだ。ただ、この営みの中にそのような益を見出すことができるとしたら、私は驚くだろう。
アテ:まさにそのことを、どうやら今、私たちは説明してみなければならない。では言ってくれ。ほとんど反対の二種類の恐れを、私たちは見分けることができるだろうか。
クレ:どんなものか。
アテ:次のようなものだ。私たちは、悪いことが起こると予期して、たしかにそれを恐れる。
クレ:そうだ。
アテ:また私たちは、立派でないことを行ったり言ったりして、悪い人間と思われると考え、評判を恐れることもしばしばある。この恐れを、私たちは、いや、すべての人もそうだと思うが、恥と呼んでいる。
クレ:呼ばないことがあるだろうか。
アテ:私が二つの恐れと言ったのは、この二つのことだ。その一方は、苦痛や他の恐れに反するもので、他方は、最も多く最も大きな快楽に反するものである。
クレ:実に正しい。
アテ:では、立法者も、少しでも役に立つ人ならみな、この恐れを最大の敬意をもって尊び、これを羞恥心と呼び、これに反する大胆さを無恥と名づけて、私的にも公的にもすべての人にとって最大の悪と見なしているのではないか。
クレ:君の言うとおりだ。
アテ:そして、この恐れは、ほかの多くの大きなことで私たちを救うだけでなく、戦争における勝利と安全については、一対一で比べるなら、これほど強く私たちのためにそれを成し遂げるものはないのではないか。実際、勝利をもたらすものは二つあり、敵に対する大胆さと、味方に対して抱く、悪い恥をめぐる恐れである。
クレ:そのとおりだ。
アテ:だから、私たちはそれぞれ、恐れを知らない者にも、恐れを抱く者にもならなければならない。それぞれが何のためかは、すでに区別した。
クレ:まったくそうだ。
アテ:さらに、人を恐れを知らない者にしようと望むとき、私たちは、多くの恐れの中へ法に従って導き入れることで、そのような者に仕上げる。
クレ:そのようだ。
アテ:では、人を正しい仕方で恐れを抱く者にしようと試みるときはどうか。無恥と取り組ませ、それに向けて鍛えて、自分の快楽と戦い抜かせて勝たせなければならないのではないか。それとも、自分の内にある臆病と戦い、これに勝って初めて、人は勇気に向かって完成するのであり、そのような戦いに不慣れで鍛えられていない者は、誰であれ徳に関して自分の半分にもなれないのではないか。それなのに、多くの快楽や欲望が無恥や不正へと促すとき、言葉と行いと技術によって、遊びにおいても真剣な営みにおいても、それらと戦い抜いて勝つことをせず、そのようなことをまったく経験しないままで、人は完全に節制ある者になるだろうか。
クレ:それでは、少なくとも理にかなった説明にはならないだろう。
アテ:では、どうか。神が人間に与えた恐れの薬で、飲もうとする量が多いほど、一杯ごとに自分がますます不幸になると思い、現在のことも将来のこともすべて恐れ、ついには人間の中で最も勇敢な者でさえあらゆる恐怖に陥り、しかし眠り通して飲み物から解放されると、そのたびに元の同じ人に戻る、というようなものがあるだろうか。
クレ:客人よ、そのようなどんな飲み物が人間の間に生じたと、私たちは言えるだろうか。
アテ:そのようなものはない。しかし、もしそれがどこかで生じていたなら、立法者にとって、勇気のために何か役に立つものだっただろうか。例えば、それについて、私たちは彼に次のように話しかけることができるだろう。「さあ、立法者よ、クレタ人のために法を定めるにせよ、他の誰のために定めるにせよ、まず市民について、勇気と臆病に関する吟味を行えるようになることを、君は望むだろうか」
クレ:誰もが、きっとそうだと言うだろう。
アテ:では、どうか。安全に、大きな危険を冒さずに行うのか、それともその反対の仕方でか。
クレ:この点でも、誰もが安全に行うことに同意するだろう。
アテ:君は、人々をこれらの恐れの中へ導き、受ける感情の中で吟味して、恐れを知らない者になるよう強いるために、励まし、諭し、従う者には敬意を払い、すべての場面で君が定めるとおりの者になるという君の命令に従わない者を辱めながら、この飲み物を用いるだろうか。そして、よく勇敢に鍛えた者は罰を課さずに放免し、悪く鍛えた者には罰を課すだろうか。それとも、この飲み物を他の点で何も咎めないとしても、まったく用いないだろうか。
クレ:客人よ、どうして用いないことがあるだろうか。
アテ:それなら、親愛なる人よ、この鍛錬は、今のやり方に比べて、一人ずつでも、少人数でも、人がいつでも望むだけの人数とともにでも行えるのだから、驚くほど容易なものになるだろう。そして、ある人が、恥を前面に置き、自分が十分によい状態になる前に人に見られるべきではないと考えて、ただ一人人気のない所で、このようにして恐れに対して自分を鍛えるなら、無数の面倒の代わりにただ飲み物だけを用意することで、正しいことを行っているだろう。また、ある人が、生まれつきと訓練によって自分が立派に備えができていると信じて、多くの酒宴の仲間とともに鍛錬しながら、飲み物がもたらす避けがたい変化の中で、その変化を超え、打ち勝つ自分の力を示すことをためらわず、見苦しさのために大きなつまずきを一つも犯さず、徳のゆえに変わってしまうこともなく、飲み物にはどんな人間でも負けるということを恐れて、最後の一杯に至る前に席を立つなら、この人もまた同じである。
クレ:そうだ。客人よ、そのように行う者もまた、実際、節制ある者だろう。
アテ:では、もう一度立法者に次のように話しかけよう。「さて、立法者よ、恐れを除く薬については、魔術師を宴席の話に入れないことにすれば、神がこのような薬を人間に与えたことも、私たち自身が工夫したこともほとんどない。しかし、恐れを知らない状態や、してはならないことについて時宜をわきまえず過度に大胆になる状態については、飲み物があるのか、それとも私たちはどう言うのか」
クレ:きっと彼は、ぶどう酒を指して、あると言うだろう。
アテ:では、これは今言ったことの反対の働きをするのではないか。人間が飲むと、まず直ちに以前よりも自分に対して穏やかになり、それを味わう量が多いほど、善い希望と、名声を得る力とでいっそう満たされるのではないか。そして最後には、このような人は、自分が知恵ある者であるかのように、あらゆる率直な言論と自由と、あらゆる恐れのなさで満たされ、何であれためらわず言い、同じように行うまでになるのではないか。誰もが、このことを私たちに認めるだろうと、私は思う。
クレ:もちろんそうだ。
アテ:では、次のことを思い出そう。私たちは、魂の中で世話をしなければならないものが二つあると言った。一つは、できるだけ大胆になるようにするもの、もう一つは反対に、できるだけ恐れるようにするものだ。
クレ:それは君が羞恥心について言ったことだと、私たちは思う。
アテ:君たちはよく覚えている。ところで、勇気と恐れのなさは恐れの中で十分に訓練しなければならない以上、その反対のものは反対のものの中で世話をしなければならないのかどうか、考えなければならない。
クレ:それが道理にかなっている。
アテ:では、それを経験すると私たちが格別に大胆で向こう見ずになる性質のものについては、できるだけ無恥にも、向こう見ずさに満ちた者にもならないよう訓練し、何であれ恥ずべきことをあえて言い、受け、あるいは行おうとするたびに恐れを抱く者になるよう訓練することが、どうやら必要だろう。
クレ:そのようだ。
アテ:では、こうしたものはみな、それによって私たちがそのような者になるものではないか。気概、恋、傲慢、無知、利得欲、臆病、さらに次のようなもの、富、美しさ、強さ、そして快楽を通して酔わせ、分別を失わせるものすべてである。これらについて、まず試しを受けるための、次に訓練するための、より安価で害の少ない方法として、ぶどう酒による吟味と遊びを除けば、たとえ多少なりとも用心を伴って行われるとしても、それより節度あるどんな快楽を、私たちは挙げることができるだろうか。実際、考えてみよう。気難しく粗野な魂は、そこから数えきれない不正が生じるのだが、その魂を試すのに、契約の取引に入り、その取引をめぐって危険を冒して試しを得るのと、ディオニュソスの見物に加わるのとでは、どちらがより危険だろうか。それとも、性愛の快楽に負けている魂を吟味するのに、自分の娘も息子も妻も委ね、このようにして最も愛する者たちの間で危険を冒して、魂の性格を見極めるのだろうか。ほかにも数えきれないほどの例を挙げても、遊びを伴い、損害となる代価を払わずに観察することが、そうでない場合とどれほど違うかを、誰も言い尽くすことはできないだろう。そして実際、これらの点について、この吟味がお互いを知る適切な試みであること、安価さと安全さと速さの点でほかの吟味と違うことを、クレタ人も他のどんな人間も争わないと、私たちは思う。
クレ:それは本当だ。
アテ:では、魂の本性と状態を知ることは、それらを世話することを務めとするあの技術にとって、最も有益なことの一つだろう。その技術は、私たちが言うように、また私の考えでは、政治の技術である。そうではないか。
クレ:まったくそうだ。
〔 652a~674c について 〕
位置づけ:第2巻。酒宴の議論を受けて、教育と合唱舞踊が論じられる部分。
概要:教育とは何か、歌と踊りがなぜ重要か、よい作品の判定者、酒宴を正しく運営する人が取り上げられる。
アテ:では、その次に、どうやら、それらについてこの点を考えなければならない。ぶどう酒の席での交わりを正しく用いるとき、そこにあるのは、私たちが人の本性をどう備えているかを見抜くという、ただそれだけの善いものなのか、それとも、大きな熱意に値するほどの大きさの益もそこにあるのか。それなら、私たちは何と言うか。そこにあると、議論は示そうとしているようだ。議論にどこかで足をすくわれないように、どこに、どのようにあるのかを、知性を向けて聞こう。
クレ:では話してくれ。
アテ:では、私はもう一度、私たちが何を正しい教育と言っているのかを思い出したい。実は、今私が推測するところでは、このぶどう酒の営みが立派に正しく行われるなら、教育の救いはそこにあるのだ。
クレ:大きなことを言う。
アテ:では言おう。子どもの最初の感覚は、子どもらしい快楽と苦痛であり、徳と悪徳が魂に初めて生じるのも、これらの中においてである。思慮と、確かで真実な思わくは、それが老年に至ってなお身につくなら、その人は幸運である。そして、これらと、それらの中にあるすべての善いものとを備えた人が、完全な人間である。私が教育と呼ぶのは、子どもたちに最初に生じる徳である。快楽と親愛と苦痛と憎しみが、まだ言葉を捉えられない魂の中に正しく生じ、魂が言葉を捉えたとき、ふさわしい習慣によって正しく習慣づけられてきたとして言葉と一致するなら、この一致は全体として徳である。そのうち、快楽と苦痛について正しく育てられた部分、すなわち、憎むべきものを初めから終わりまで憎み、愛すべきものを愛するようになった部分を、言葉によって切り分けて教育と呼ぶなら、少なくとも私の考えでは、正しく呼ぶことになる。
クレ:客人よ、実際、君が教育について前に言ったことも、今言ったことも、私たちには正しいと思われる。
アテ:よい。ところで、これらの正しく育てられた快楽と苦痛が教育であるのに、人間においては、それは人生の多くの場面で緩み、損なわれてしまう。神々は、生まれつき労苦の多い人間の類をあわれんで、その労苦の休息として、神々への祭りの交代を定め、人間が祭りの中で神々とともに養育を立て直せるように、ムーサたちと、ムーサたちの導き手であるアポロンと、ディオニュソスを、祭りの仲間として与えた。では、見るべきものを見て、いま私たちの間で歌われているこの説が、本性に即して真実であるのか、それとも違うのかを確かめなければならない。この説によれば、若いものはみな、ほとんど例外なく、身体も声も静かにしていることができず、常に動き、声を出そうとする。あるものは跳ね、躍り、喜びとともにいわば踊り、戯れ、あるものはあらゆる声を発する。ほかの動物は、動きの中の秩序も無秩序も感じ取らない。その秩序には、リズムとハルモニアという名がある。だが、私たちには、先に言った神々が合唱の仲間として与えられ、その同じ神々が、快楽とともにリズムとハルモニアを感じ取る力を与えた者でもあり、その力によって私たちを動かし、私たちの合唱を導き、歌と踊りで私たちを互いに結びつける。合唱団という名も、喜びに生まれつきそなわる名にちなんで、彼らがつけたのである。では、まずこのことを受け入れようか。教育はまずムーサたちとアポロンを通して行われると定めるか、それとも違うか。
クレ:そのとおりだ。
アテ:それなら、教育を受けていない者は私たちにとって合唱舞踊*7をしない者であり、十分に教育を受けた者は合唱舞踊を十分に行った者と見なさなければならないだろうか。
*7 〔 合唱舞踊と教育について 〕底本では、客人が、神々は人間に、リズムと和音を感じ取る力を与え、ムーサたち、ムーサの導き手であるアポロン、ディオニュソスを、合唱舞踊の仲間として与えた、と述べる。また、合唱(χορός)という語は、喜び(χαρά)に由来すると述べる。
クレ:もちろんだ。
アテ:ところで、合唱舞踊とは、総じて踊りと歌である。
クレ:必然だ。
アテ:だから、立派に教育を受けた者は、立派に歌い、立派に踊ることができる者だろう。
クレ:そのようだ。
アテ:では、いま言われたことがいったい何であるのか、見てみよう。
クレ:どのことか。
アテ:「立派に歌う」「立派に踊る」と私たちは言う。それなら、「立派なものを歌い、立派なものを踊るなら」と付け加えようか、それとも付け加えないか。
クレ:付け加えよう。
アテ:では、立派なものを立派、恥ずべきものを恥ずべきものと考えて、そのように歌と踊りを扱う人はどうか。そのような教育を受けた人は、合唱舞踊とムーサの技に関して、立派だと思い描いたことをそのつど身体と声で十分に表現できても、立派なものを喜ばず、立派でないものを憎まない人よりも優れているだろうか。それとも、声と身体で正しく行うことも、思い描くこともあまりできないが、快楽と苦痛においては正しく、立派なものはすべて歓迎し、立派でないものはすべて嫌う人のほうが優れているのか。
クレ:客人よ、君の言う教育の違いは大きい。
アテ:では、歌と踊りについて何が立派かを、私たち三人が知っているなら、教育を受けた者と受けていない者を正しく知ることもできる。だが、これを知らないなら、教育の守りとなるものがあるかどうか、そしてそれがどこにあるかを、いつか見分けることもできないだろう。そうではないか。
クレ:まったくそうだ。
アテ:それなら、その次に、私たちは今度は猟犬が足跡をたどるように、これらを探し出さなければならない。美しい姿態と旋律と歌と踊りである。これらが私たちから逃れ去ってしまうなら、その後の正しい教育についての議論は、ギリシア風のものであれ異国風のものであれ、むなしいものになるだろう。
クレ:そうだ。
アテ:よろしい。では、立派な姿態や旋律とは、いったい何だと言わなければならないのか。さあ、勇敢な魂が苦難にとらえられている場合と、臆病な魂が同じ、等しい苦難にとらえられている場合とで、姿態も声も、同じようになるだろうか。
クレ:顔色さえ同じではないのに、どうして同じになろうか。
アテ:よく言った、友よ。ただ、ムーサの技には姿態も旋律もある。ムーサの技とはリズムとハルモニアにかかわるものだから、リズムがよく、ハルモニアがよいとは言えても、旋律や姿態について、合唱教師たちが似せて言うように、色がよいと言うことは、正しくはできない。一方、臆病な者と勇敢な者の姿態や旋律は存在し、勇敢な者のものは立派、臆病な者のものは恥ずべきものと、正しく呼ぶことができる。また、これらすべてについて長い話にならないように、簡単に次のように定めよう。魂であれ身体であれ、徳にかかわる姿態と旋律は、徳そのものであれ徳の何らかの似姿であれ、すべて立派であり、悪徳にかかわるものは、まったく反対である。
クレ:君の提案は正しい。この点は今、そのとおりだと答えたことにしておく。
アテ:さらにこの点だ。私たちはすべての人が、すべての合唱舞踊を同じように喜ぶのか、それともそれにはほど遠いのか。
クレ:まったくほど遠い。
アテ:では、私たちを迷わせているものは何だと言えばよいのか。立派なものは私たちすべてにとって同じではないのか、それとも同じものであるのに、同じだと思われていないのか。悪徳の舞踊のほうが徳の舞踊よりも立派だと言う人は、まずいないだろうし、自分は劣悪さの姿態を喜ぶが、他の人々はそれと反対の、別のムーサを喜ぶのだと言う人も、いないだろう。もっとも、大多数の人は、ムーサの技の正しさとは、魂に快楽をもたらす力であると言う。しかし、これを口にすることは、とうてい耐えられず、敬虔でもない。むしろ次のことが私たちを迷わせるというほうが、ありそうだ。
クレ:どのことか。
アテ:合唱舞踊は性格の模倣であり、あらゆる種類の行為と出来事の中で、それぞれの人が性格と模倣を通して演じていくものである。そのため、語られたもの、旋律に乗せられたもの、あるいは何らかの形で舞踊として演じられたものが、自然にしたがって、あるいは習慣にしたがって、あるいはその両方にしたがって、性格に合う人々は、これらを喜び、称賛し、立派だと呼ぶほかない。しかし、自然に反するか、性格に反するか、何らかの習慣に反する人々は、喜ぶことも称賛することもできず、恥ずべきものと呼ぶ。また、自然に属することは正しいのに習慣に属することは反対である人々や、習慣に属することは正しいのに自然に属することは反対である人々は、快楽に反対の称賛を与える。つまり、これらのそれぞれは快いが劣悪だと言い、思慮があると思う他の人々の前では、そのようなことを身体で演じるのを恥じ、真剣にこれらを立派だと表明するかのように歌うことを恥じるが、自分たちだけで喜んでいる。
クレ:君は実に正しいことを言う。
アテ:それなら、劣悪さを姿態や旋律の中で喜ぶ者には、何か害がもたらされ、反対のものに快楽を認める者には、何か益がもたらされるのではないか。
クレ:ありそうなことだ。
アテ:ありそうなだけか、それとも必然でもあるのか。それは、ある人が悪人たちの劣悪な性格と交わりながら、憎まず、喜んで受け入れ、遊びのようにしか非難せず、自分の劣悪さを夢のように見ているときと、同じではないか。そのとき、喜ぶものにその人が似てくることは、必然だろう。称賛することは恥じているとしても。それでは、そのようなことから、これより大きな善いことか悪いことが私たちに必然的に生じると、言えるだろうか。
クレ:何もないと思う。
アテ:では、法が立派に定められている所、あるいは今後定められる所で、ムーサの技にかかわる教育と遊びについて、詩人たちが、詩を作る自分自身をリズムや旋律や言葉の何かによって楽しませるものを、よく治められた国の子どもや若者に合唱団で教えて、徳に向かうか劣悪さに向かうかは偶然に任せて仕上げることを、許されると私たちは考えるだろうか。
クレ:確かにそれは道理に合わない。どうしてそうなろうか。
アテ:ところが今は、エジプト*8を除いて、ほとんどすべての国で、それを行うことが許されている。
*8 〔 エジプトの例について 〕底本では、客人が、エジプトを、歌と踊りの型を昔から変えずに守ってきた国の例として挙げる。
クレ:では、エジプトでは、そのようなことをどのように法で定めていると君は言うのか。
アテ:聞いても驚くことだ。実は、ずっと昔に、どうやら、彼らの間では、私たちが今述べているこの説が認められていた。国々の若者は、日々の習慣として、立派な姿態と立派な旋律に取り組まなければならないということである。彼らは、それらがどんなもので、どのような種類のものかを定めて、神殿に示した。そして、画家であれ、姿態やそのような種類のものを作る他のどんな者であれ、これらに反して新しいことを始めることも、父祖伝来のもの以外を考え出すことも許されなかった。今も許されておらず、これらにおいても、ムーサの技の全体においても同じである。調べれば、そこでは、一万年前に、といっても言葉のあやではなく本当に一万年前に、描かれ、あるいは刻まれたものが、今作られたものより美しくも醜くもなく、同じ技術で仕上げられているのがわかるだろう。
クレ:驚くべきことを言う。
アテ:いや、それは立法と国制運営の知恵として、並はずれている。もっとも、そこには別の劣った点も見つかるだろう。だが、ムーサの技に関するこの点は真実で、考えるに値する。自然に正しさをもたらす旋律を用いて、そのような事柄を確信を持って確実に法で定めることが、可能だったのだ。これは神か、神的な人のなしうることだろう。ちょうどあちらでは、この長い年月を保たれてきた旋律が、イシスの作品だと言われているように。常に新しいムーサの技を用いようとする、快楽と苦痛の追求は、古さを引き合いに出す聖別された合唱舞踊を損なう大きな力を、ほとんど持たない。少なくとも、あちらのものを損なうことは、決してできなかったようで、むしろ反対だった。だから、私の言ったとおり、人が何らかの仕方でその正しさを捉えられるなら、確信を持ってこれを法と秩序の中に取り入れなければならない。
クレ:君が今言ったことからすると、そのようであるらしい。
アテ:では、ムーサの技と遊びを合唱舞踊とともに用いることが正しいのは、次のような仕方によると、確信を持って言ってよいだろうか。私たちは、うまくいっていると思うときに喜び、喜ぶときには、またうまくいっていると思う。そうではないか。
クレ:まったくそうだ。
アテ:しかも、そのようなとき、喜びながら、私たちは静かにしていることができない。
クレ:そのとおりだ。
アテ:では、私たちのうち、若者は自ら合唱舞踊を踊る用意があり、年長の私たちは、今度は彼らを見て過ごすのがふさわしいと考え、彼らの遊びと祭りの営みを喜ぶのではないか。私たちの内にあった軽やかさが今は私たちから去っているので、私たちはそれを慕い、歓迎して、できるだけ記憶によって私たちを若さへと呼び覚ますことのできる者たちのために、このように競技を設けるのである。
クレ:まったく真実だ。
アテ:では、祭りを行う人々について今言われているこの説を、多くの人々が言うのは、まったくの的外れだと、私たちは考えているのだろうか。つまり、私たちをできるだけ楽しませ、喜ばせる者を、最も知恵ある者と見なし、勝者と判定しなければならないという説である。実際、私たちはこのような場で遊ぶことを許されているのだから、最も多くの人を最も喜ばせる者が最も尊ばれ、先ほど言ったとおり、勝利の賞を受けるのが当然だ。これは正しく言われているのではないか。もしそのようになれば、正しく行われることにならないだろうか。
クレ:おそらくそうだ。
アテ:だが、幸せな人よ、そのようなことを性急に判断せず、それを部分に分けて、次のような仕方で考えよう。もし誰かが、体育にも、ムーサの技にも、馬術にも限らず、何であれ競技をこのように単純に設けて、国にいるすべての人を集め、賞を定めたうえで、快楽だけをめぐって競いたい者は来るようにと布告し、観客を最も楽しませた者が、どんな仕方でもよいとして、何も指定されず、まさにこのことを最もよく成し遂げて、競った者の中で最も快い者と判定されれば勝つとしたら、この布告から何が起こると私たちは考えるだろうか。
クレ:何についてのことか。
アテ:おそらく、ある者はホメロスのように吟唱を披露し、別の者は竪琴の弾き語りを、ある者は悲劇を、またある者は喜劇を披露するだろう。さらに、驚異の見世物を披露して、それで最も勝つと考える者がいても、不思議ではない。このような者たちとほかの無数の競技者が来たとして、誰が正しく勝つのか、私たちは言えるだろうか。
クレ:おかしなことを尋ねる。実際、聞く前に、しかも競技者の一人一人の演技を自分で聞く前に、いつか知っているかのように、誰が君にそれを答えるだろうか。
アテ:では、どうか。私が君たち二人のために、そのおかしな答えを答えてみようか。
クレ:もちろんだ。
アテ:では、ごく小さな子どもたちが判定するなら、彼らは驚異の見世物を披露する者を選ぶだろう。そうではないか。
クレ:どうしてそうならないことがあるだろうか。
アテ:もう少し大きな子どもたちなら、喜劇を演じる者を選ぶ。悲劇を選ぶのは、教養のある女たちと若い青年たち、そしておそらく、ほとんどすべての人の大多数だろう。
クレ:おそらくそうだろう。
アテ:そして、イリアスとオデュッセイアか、ヘシオドスの作品のどれかを見事に演じる吟唱者については、おそらく、私たち老人が最も喜んで聞き、その者がはるかに勝つと言うだろう。では、誰が正しく勝ったことになるのか。これがその次の問いだ。そうではないか。
クレ:そうだ。
アテ:私たち老人の習慣は、今のすべての国々のあらゆる所にある習慣のうちで、はるかに最善だと思われるので、明らかに、私にも君たちにも、私たちの同年配の者によって判定された者が正しく勝つと言うほかない。
クレ:もちろんだ。
アテ:では、この程度のことは私も多くの人々に同意する。ムーサの技は快楽によって判定されなければならない。ただし、行き当たりばったりの人々の快楽によってではない。最も美しいムーサとは、最もすぐれた、十分に教育された人々を楽しませるものであり、とりわけ徳と教育において抜きん出た一人の人を楽しませるものである。これらを裁く者たちは、他の思慮にも、とりわけ勇気にもあずかっていなければならない。そのために、裁き手には徳が必要だと私たちは言う。実際、真の裁き手は、観客から学びながら裁いてはならない。多くの人々の騒ぎと自分の無教育に動揺してもならない。また、事柄を知りながら、男らしさの欠如と臆病のために、裁く前に神々を呼んだその同じ口で、偽りを述べて、その判定を軽々しく表明してもならない。正しくは、裁き手は生徒としてではなく、観客の教師として座り、快楽をふさわしくなく正しくなく与える観客に対抗するのである。古くからのギリシアの法ではそれが許されていた。今のシケリアやイタリアの法は、これと違って、観客の大衆に判定を任せ、挙手で勝者を決めるので、詩人たち自身を堕落させた。詩人は劣悪な判定者たちの快楽に向けて作るので、観客自身が詩人たちを教育しているのである。さらに、観客席そのものの快楽をも堕落させた。観客は、自分たちの性格よりも優れたものをいつも聞いて、より優れた快楽を持つべきなのに、今は、自分たちのしていることのせいで、まったく反対のことが起こっている。では、いま議論の中でまた語り終えられたことは、私たちに何を示そうとしているのか。次のことかどうか、考えてみてくれ。
クレ:どのことか。
アテ:私には、議論が三度か四度、同じところへ巡り戻ってきたように思える。すなわち、教育とは、法によって正しいと語られ、最もすぐれた最年長の人々にも経験によって本当に正しいと認められている言論へ向けて、子どもたちを引き寄せ導くことである。そこで、子どもの魂が、法や、法によって説得されたことに反するものに喜び苦しむことを習慣づけられず、これらと同じ事柄に、老人が喜び苦しむのと同じように喜び苦しんで、ついて行くようにするために、私たちが歌と呼ぶものが、実際には今、魂への呪文となっており、私たちの言う、そのような一致に向けて真剣に作られたのだが、若者の魂は真剣さに耐えられないので、遊びや歌と呼ばれ、そう行われている。それは、病んで身体が弱っている人々に、それに心を配る人々が、よい養いを何か快い食物と飲み物に混ぜて与えようとし、劣悪な養いは不快なものに混ぜて、前者を歓迎し、後者を正しく憎むよう習慣づけようとするのと同じである。同じように、正しい立法者は、詩人を、立派で称賛すべき言葉の中で説得し、説得できなければ強制して、節制ある者、勇敢な者、あらゆる点で善い人々の姿態をリズムの中に、旋律をハルモニアの中に、正しく作らせるのである。
クレ:ゼウスにかけて、客人よ、今はほかの国々でも、そのように行われていると君には思えるのか。実際、私が気づく限り、私たちのところかスパルタ人のところを除いて、君が今言うことが行われているとは知らない。むしろ、舞踊についてもほかのムーサの技の全体についても、いつも何か新しいものが生まれていて、それは法によってではなく、何らかの無秩序な快楽によって変えられており、君がエジプトについて説明するように、同じものであり同じ仕方であるどころではなく、決して同じものではない。
アテ:実に結構だ、クレイニアスよ。もし私が、君の言うようなことを、今行われていることとして述べているように君に思われたのなら、考えていることをはっきり言わなかったために、そうなったのだとしても、私は驚かない。ただ、私がムーサの技について起こってほしいと望むことを、おそらくそのように述べたので、私がそう言っていると君には思われたのだろう。実際、治しようのない、過ちの先まで進んでしまった事柄を非難することは、決して楽しくはない。それでも、ときには必要である。ところで、君もこのことに同意するのだから、さあ、そのようなことは、ほかのギリシア人のところよりも、君たちのところとここにいる人たちのところで、より多く行われていると君は言うのか。
クレ:もちろんだ。
アテ:では、もしほかの国々でも同じように行われたなら、どうか。私たちは、それがそのようであるほうが、今のようであるよりも美しいと言うだろうか。
クレ:そのようなことが、ここの人々や私たちのところと同じように、そしてさらに、君がいま、あるべきだと言ったとおりに行われるなら、違いは大きいだろう。
アテ:さあ、今、同意しておこう。君たちのところでは、あらゆる教育とムーサの技において、語られていることは次のとおりではないか。君たちは詩人たちに、こう語るよう強制している。善い人は、節制があり正しいなら、体が大きく強くても、小さく弱くても、富んでいても富んでいなくても、幸福であり祝福されている。だが、キニュラスやミダスよりも富んでいても、不正であるなら、みじめであり、苦しい生を送る。そして、君たちの詩人は、もし正しく言っているのなら、こう言う。「私は思い出しもしないし、話に数えもしない」、語られている立派なことをすべて正義とともに行い、手に入れるのでない人を。「敵に近く立ってこれに手を伸ばす」のは、そのような人であり、不正な者は「血に染まる殺戮を見る」ことをあえてせず、「トラキアの北風」に走って勝つこともなく、語られている善いもののほかのどれも、決して彼に生じない。多くの人々が善いと言うものは、正しく言われていない。つまり、最善は健康、第二は美しさ、第三は富だと言われ、ほかにも無数のものが善いと言われている。鋭く見、聞き、感覚にかかわるすべてをよく感じること、さらに僭主となって欲するままに行うこと、そして、あらゆる幸福の頂点は、これらすべてを備えて、できるだけ早く不死になることだと言われる。しかし、君たちと私は、これらがすべて、正しく敬虔な人々にとっては最善の財産であるが、不正な人々にとってはすべて最悪のものだと言う。健康をはじめとして、すべてそうなのである。さらに、見ることも聞くことも感じることも、そして生きることそのものも、正義とあらゆる徳を除いて、語られている善いものをすべて備え、全時間にわたって不死であるなら、最大の悪であり、そのような者が生きながらえる時間がごく短いなら、それより小さい悪である。君たちのところの詩人たちに、私が言うのと同じことを言わせ、さらにそれに従うリズムとハルモニアを与えて、このように私たちの若者たちを教育させるよう、君たちは説得し、強制するだろうと私は思う。そうではないか。よく見てくれ。私ははっきり言う。悪いと言われるものは、不正な者には善く、正しい者には悪い。善いものは、善い者には本当に善いが、悪い者には悪い。そこで、私が尋ねたとおり、私と君たちは一致しているのか、それともどうか。
クレ:一部は一致していると私たちには思われるが、一部はまったく一致していない。
アテ:では、健康と富と僭主独裁を終わりまで持ち続け、さらに、私は君たちに、並はずれた強さと、不死を伴う勇気とをも付け加えるが、語られている悪いもののほかのどれも彼に生じることはなく、ただ不正と傲慢だけを自分の内に持っているとして、そのように生きる者が、幸福ではなく明らかにみじめになるということを、私は君たちを、ひょっとして説得できていないのだろうか。
クレ:君の言うことはまったく真実だ。
アテ:よろしい。それでは、その次に私たちは何を言うべきか。勇敢で強く美しく富んでおり、生涯を通して欲するままに行う人が、もし不正で傲慢であるなら、必然的に恥ずべき生を送ることになると、君たちには思われないか。それとも、少なくとも恥ずべきという点は、おそらく君たちも認めるだろうか。
クレ:まったくそうだ。
アテ:では、どうか。悪い生でもあるということは。
クレ:それはもう、同じようには認めまい。
アテ:では、どうか。不快で、自分に益にならない生でもあるということは。
クレ:どうして、これらをさらに認められようか。
アテ:どうしてかって。友よ、神が私たちに調和を与えてくれるなら、よいのだが。今のところ、私たちは互いにほとんど調子はずれだ。私には、これらのことが、友クレイニアスよ、クレタ島が島であることさえこれほどはっきりしていないほど、必然的だと思われる。もし私がここで立法者なら、詩人たちをもこの線で語るよう強制し、国にいるすべての人々にもそうさせようと試みるだろう。そして、国土で誰かが、悪人でありながら快く生きている人々がいると言い、あるいは、益になり利得になるものと、より正しいものとは別だなどと言うなら、ほとんど最大の罰を課すだろう。ほかにも、今クレタ人とスパルタ人、そしておそらく他の人々も語っていることとは違う多くのことを、市民に語らせるよう説得するだろう。ゼウスとアポロンにかけて、さあ、よき人々よ、君たちの国の立法者であるこの神々そのものに、こう尋ねたとしたらどうか。「最も正しい生は最も快いのか、それとも二つの生があって、その一方は最も快く、他方は最も正しいのか」と。もし二つあると彼らが言うなら、もし私たちが正しく重ねて尋ねるなら、おそらくさらにこう尋ねるだろう。「では、最も正しい生を生き抜く人々と、最も快い生を生き抜く人々と、どちらをより幸福と言うべきか」と。もし最も快い生の人々だと言うなら、その言葉は不合理なものになるだろう。だが、このようなことは神々についてではなく、むしろ父親や立法者について言われることを私は望む。そこで、先ほどの問いを父親であり立法者である人に尋ねたとし、彼は、最も快い生を生きる者が最も祝福されていると答えたとしよう。それから、その後で私はこう言うだろう。「父よ、父は私ができるだけ幸福に生きることを望んでいたのではなかったのか。しかし、いつも私にできるだけ正しく生きるよう励まし続け、やめることはなかった」と。この仕方で定める者は、立法者であれ父親であれ、私の考えでは、自分自身と一致して語ることができず、不合理で窮した者と見えるだろう。他方、もし最も正しい生を最も幸福な生と示すなら、それを聞く人は誰でも、法がその生の中にあって称賛する、快楽より優れた善くて美しいものとはいったい何かと、探し求めるだろうと私は思う。実際、快楽から切り離されて、正しい人にとって何が善いものになるだろうか。さあ、人々と神々からの名声と称賛は、善くて美しいが不快であり、悪名はその反対なのだろうか。決してそうではないと、親愛なる立法者よ、私たちは言うだろう。では、誰にも不正をせず、誰からも不正を受けないことは、不快だが善くて美しく、その反対のことは快いが恥ずべきで悪いのだろうか。
クレ:どうして、そうだろうか。
アテ:では、快いものと正しいものと善いものと美しいものを切り離さない説は、他に何もなくとも、人が敬虔で正しい生を進んで生きようとするよう、説得力がある。だから、立法者にとって、そうではないと言う説は、あらゆる説の中で最も恥ずべきもので、最も敵対するものである。実際、喜びが苦しみより多く伴うのでなければ、誰も進んでそれを行うよう説得されることを望まないだろう。立法者が、闇を取り除いてこれと反対の思わくを立てず、習慣と称賛と言葉によって、何とかして、正しいものと不正なものは陰影画のように描かれたものであり、不正なものは正しいものと反対に見えて、不正で悪い自分自身の側から見れば快く、正しいものは最も不快に見えるが、正しい人の側から見れば、両方についてすべてが反対に見えるのだと説得しないかぎり、遠くから見えるものは、ほとんどすべての人に、また子どもたちにも、めまいを起こさせる。
クレ:そのようだ。
アテ:では、判定の真実性は、どちらのほうがより権威があると言うべきか。より劣った魂の判定か、より優れた魂の判定か。
クレ:より優れた魂の判定であることは、必然だ。
アテ:だから、不正な生は、正しく敬虔な生に比べて、ただ恥ずべきでより劣悪であるだけでなく、真実にはより不快でもあることは、必然である。
クレ:親愛なる人々よ、今の議論からすれば、そうなりそうだ。
アテ:しかし、少しでも役に立つ立法者であれば、たとえこのことが、今この議論が主張したとおりではなかったとしても、善のために若者に偽りを言うことを何かでもあえてするなら、この偽りよりも益になり、暴力によらず、すべての人が進んですべての正しいことを行うようにする力がより大きい偽りを、いつか言ったことがあるだろうか。
クレ:客人よ、真実は美しく、持続するものだ。だが、人を説得するのは、どうやら容易ではないらしい。
アテ:よろしい。それでは、シドン人の神話は、あれほど信じがたいのに、人々を説得するのが容易だったし、ほかにも無数に同様のものがあるではないか。
クレ:どんなものか。
アテ:かつて歯を蒔くと、そこから重装歩兵が生えたという話だ。しかも、これは立法者にとって、若者の魂を説得しようと試みるものは何であれ説得できるという、大きな手本である。だから、立法者は、他のことは何も考えず、何を説得すれば国に最大の善をもたらせるかを見いだし、これについて、このような共同体全体が、歌でも物語でも言論でも、生涯を通して、これらの事柄についてできるだけ一つの同じことをいつも言うようになる方法を、あらゆる手立てを尽くして見いだすべきである。もしこれとは別のやり方がよいと思われるなら、それに言論で異議を唱えることに、誰も反対しない。
クレ:いや、これらに関しては、私たちのどちらも反論できないと私には思える。
アテ:では、その次は私が語る番だ。実際、私は、三つの合唱団がみな、まだ若く柔らかい子どもたちの魂に向かって、呪文を唱えなければならないと言う。そのとき、私たちがすでに述べたことも、これから述べるかもしれないことも、すべての立派なことを語りながら、その要点は次のとおりとする。神々によって、最も快い生と最も善い生は同じだと言われていると主張して、私たちは最も真実なことを語ることになると同時に、説得すべき人々を、何かほかの仕方で語る場合よりも、よりよく説得することになるだろう。
クレ:君の言うことは認めなければならない。
アテ:では、まず、ムーサたちの子どもの合唱団が、このようなことを歌うために、あらゆる熱意をもって国全体の中央へ、最初に進み出るのが最も正しいだろう。第二には三十歳までの合唱団であり、パイアンを、語られていることの真実の証人として呼び、若者たちに説得を伴って穏やかであるようにと祈る。そして第三に、三十歳を超えて六十歳までの人々も歌わなければならない。それより後の人々は、もはや歌に耐えられないので、同じ性格について、神的な言い伝えを通して語る語り手として残される。
クレ:客人よ、この第三の合唱団とは、どの人々のことを言っているのか。それらについて何を言おうとしているのか、私たちにはまったくはっきりとはわからない。
アテ:実は、これらの人々こそ、これまでの議論の大部分が語られた、ほぼその目的の人々なのだ。
クレ:まだわからない。もっとはっきり説明してみてくれ。
アテ:私たちは、覚えているなら、議論の初めに言った。若者はみな、その本性が燃えるように熱く、身体についても声についても静かにしていることができず、いつも無秩序に声を出し、跳ね回る。この二つにおける秩序の感覚は、他の動物のどれも持たず、人間の本性だけがこれを持つ。動きの秩序にはリズムという名があり、声の秩序、すなわち高い音と低い音が混ぜ合わされたものには、ハルモニアという名がつき、この両方を合わせたものが合唱舞踊と呼ばれる。そして神々が、私たちをあわれんで、合唱の仲間と導き手として、アポロンとムーサたちを私たちに与えたと私たちは言った。さらに、覚えているなら、第三にディオニュソスを挙げた。
クレ:どうして覚えていないことがあるだろうか。
アテ:では、アポロンとムーサたちの合唱団についてはすでに述べられた。そこで、第三の、残りの合唱団は、ディオニュソスのものと言わなければならない。
クレ:どういうことか。言ってくれ。ディオニュソスの老人の合唱団というのは、突然聞いた者にはまったくおかしなものになるだろう。三十歳を超え、五十歳から六十歳までの人々が、彼のために合唱舞踊を踊るというのなら。
アテ:君の言うことは実に真実だ。これについては、説明が必要だと私は思う。どのようにすれば、このようになることがもっともなこととして成り立つのか、という説明である。
クレ:もちろんだ。
アテ:では、少なくとも前に述べたことについて、私たちは同意しているか。
クレ:何についてか。
アテ:すべての男も子どもも、自由人も奴隷も、女も男も、そして国全体が、全体として自分自身に向かって呪文を唱えながら、私たちが述べてきたこれらのことを決してやめず、何らかの仕方で常に変化させ、あらゆる点で変化を与えて、歌う人々にとって、賛歌への飽くことのなさと快さが生まれるようにしなければならない、ということだ。
クレ:これがそのように行われなければならないことに、どうして同意しないことがあるだろうか。
アテ:では、国の中で最も優れたこの人々、年齢においても思慮においても国の中で最も説得力のある人々は、最も美しいものを歌うとき、どこで最も大きな善を生み出すだろうか。それとも、最も美しく最も有益な歌の中で最も権威あるこの歌を、私たちはこのように愚かにも手放してしまうのか。
クレ:いや、手放すことは不可能だ。今言われたことからすれば。
アテ:では、どうすればこれはふさわしいものになるだろうか。次のようであるかどうか、考えてくれ。
クレ:どのようにか。
アテ:年をとると誰でも、歌に対するためらいに満ち、そうするのを喜ぶ度合いも低く、強制されればなおさら恥ずかしがるだろう。年をとり、節制ある者になるほど、いっそうそうなる。そうではないか。
クレ:まったくそうだ。
アテ:では、劇場で、あらゆる種類の人々の前に、まっすぐに立ったまま歌うなら、いっそう恥ずかしがるだろう。しかも、勝利をめぐって競う合唱団員のように、声を鍛え、痩せ、食を断った状態で、このような人々が歌うよう強制されるなら、まったく不快に、恥ずかしそうに歌い、しぶしぶそれを行うのではないか。
クレ:まったくそのとおりだ。
アテ:では、どのようにして、彼らが歌に熱心になるよう励ますのか。まず、子どもたちは十八歳までぶどう酒をまったく味わってはならないと、法で定めるのではないか。その際、火に火を注ぐように身体にも魂にも注いではならず、労苦に取りかかる前に若者の狂気に陥りやすい状態に用心しなければならないと教える。次に、節度あるぶどう酒は三十歳まで味わってよいが、若者は酩酊と多量の飲酒をまったく慎むと定め、さらに、四十歳に入った者は、共同食事で宴を楽しんだうえで、他の神々とともにとりわけディオニュソスを、年長者の儀式であり同時に遊びである場へ招くと定めるのではないか。ディオニュソスは、老年の厳しさの助けとして、ぶどう酒という薬を人間に贈った。それによって私たちは若返り、憂鬱を忘れて、魂の性格は硬いものから柔らかいものになる。火に入れられた鉄のようになって、より形を整えやすくなるのである。では、まずこのように整えられた者は誰でも、恥ずかしさが少ないので、多くの人々の前ではなく節度ある人数の前で、他人の中ではなく身内の中で、より熱心に、歌い、私たちがしばしば言った呪文を唱えようとするのではないか。
クレ:大いにそうだ。
アテ:では、彼らを導いて私たちとともに歌に加わらせるには、この方法はまったく見苦しいものにはならないだろう。
クレ:決してならない。
アテ:では、その男たちはどのような声で歌うのか。あるいは、どのようなムーサを歌うのか。明らかに、自分たちにふさわしいものが、何かなければならない。
クレ:どうしてそうでないことがあるだろうか。
アテ:では、神的な人々にふさわしいものは何だろうか。合唱団のものだろうか。
クレ:客人よ、少なくとも私たちとここの二人は、合唱団で習い、それに慣れて歌うようになった歌のほかは、歌えないだろう。
アテ:もっともだ。君たちは実際、最も美しい歌を身につけていないのである。君たちの国制は、町に住む人々のものではなく、軍営のものであって、まるで群れの中で草を食む若駒の集団のように、若者を飼っている。君たちの誰も、自分の子を取って、仲間の群れから引き離し、ひどく荒れて腹を立てているその子に、個人の馬丁をつけて教育し、毛をすき、手なずけ、養育にふさわしいことをすべて与えるということをしない。そうすれば、その子は善い兵士になるだけでなく、国と町を治めることもできる人になるだろうのに。それは、初めに私たちが、テュルタイオスの歌う戦士たちよりも戦いに優れた人と言った人で、勇気を徳の四番目と見て、一番目とは見ず、私人にとっても国全体にとっても、いつも至る所で尊ぶ人である。
クレ:客人よ、君がまたしても私たちの立法者たちを、どの点で軽んじているのか、私にはわからない。
アテ:いや、善き人よ、そのつもりで心を向けて、これを行っているのではない。そう見えたとしても。議論の向かう方へ、君たちが望むなら、進もう。実際、もし私たちが、合唱団のものよりも、また公共の劇場のものよりも美しいムーサを持っているなら、それを、前者を恥じて、最も美しいムーサにあずかろうと求める人々に、与えてみよう。
クレ:まったくそうだ。
アテ:では、まず、次のことが、快い魅力が付き従うあらゆるものについてなければならないのではないか。すなわち、この魅力そのものだけがそのものの最も重要な点であるか、あるいは何らかの正しさか、第三に益か。例えば、私が言うのは、食べ物や飲み物やあらゆる養いには、魅力が付き従い、それを私たちは快楽と呼ぶだろうが、正しさと益、つまり摂取するもののそれぞれについて私たちが健康によいと言うもの、まさにこれがそれらの中にあり、最も正しいものだということである。
クレ:まったくそうだ。
アテ:さらに、学びにも、魅力、つまり快楽が付き従い、正しさと益と、よさと美しさを成し遂げるのは真実である。
クレ:そのとおりだ。
アテ:では、似像を作るあらゆる技術における、似たものの制作はどうか。それらがこれを成し遂げるなら、その中に付き従って生じる快楽は、もし生じるなら、これを魅力と呼ぶのがまったく正しいのではないか。
クレ:そうだ。
アテ:一方、そのようなものの正しさは、おそらく、一般的に言って、量においても質においても、まず等しさが成し遂げるのであり、快楽ではない。
クレ:見事だ。
アテ:それなら、快楽によって正しく判定されるのは、ただ次のものだけではないか。益も真実も類似も何ももたらさず、しかも害もなく、ただ他のものに付き従う魅力、つまりこの一つのことだけのために生じるもの。その魅力は、これらのどれも伴わないとき、最もよく快楽と呼ばれるだろう。
クレ:君は害のない快楽だけを言っているのだ。
アテ:そうだ。そして私は、これと同じものが、害もなく、真剣に扱うに値する益も言葉に値するものもないときに、遊びであると言う。
クレ:君の言うことはまったく真実だ。
アテ:では、今言われたことからすれば、あらゆる模倣は、快楽や真ならざる思わくによってではなく、何よりも真実によって、他の何ものによってでもなく判定されるべきだと、私たちは言うのではないか。あらゆる等しさについても同じである。誰かにそう思われたり、誰かがそれを喜んだりするからといって、等しいものが等しくなるのでも、均整のとれたものがまったく均整のとれたものになるのでもない。
クレ:まったくそうだ。
アテ:では、音楽はすべて、似せて作るものであり、また模倣するものであると、私たちは言うのではないか。
クレ:もちろんだ。
アテ:それなら、音楽は快楽によって判定されると言う人がいても、その説は決して受け入れてはならないし、そのような音楽は、もしどこかに本当に生じるとしても、重んじるべきものとして探し求めてはならない。探し求めるべきは、美しいものの模倣と似ているという性質をもつ音楽である。
クレ:まったくその通りだ。
アテ:私たちが言うように、模倣の正しさとは、模倣されたものがもとの大きさと性質のとおりに仕上げられることだったから、もっとも美しい歌とムーサの技を探し求める人々も、どうやら、快いものではなく正しいものを探し求めなければならないようだ。
クレ:そうでないはずがない。
アテ:しかも、音楽について次のことは、誰もが認めるだろう。音楽に関わる作品はすべて模倣であり、似せて作ることだということだ。この点は、詩人も聴衆も演じ手も、すべての人が認めるのではないか。
クレ:まったくそうだ。
アテ:それでは、どうやら、その作品で誤らないつもりの者は、作品の一つ一つについて、それが何であるかを知っていなければならない。というのは、その本質を知らず、作品が何を望んでいるのか、実際に何の似姿なのかを知らない者は、その意図が正しいかそれとも誤っているかを見分けることなど、まずできないからである。
クレ:まずできないだろう。そうでないはずがない。
アテ:では、正しいあり方を知らない者が、よくできているか悪くできているかを見分ける力を、いつか持つことがあるだろうか。私の言い方はあまり明瞭ではないが、次のように言えば、おそらくもっと明瞭になる。
クレ:どういうことか。
アテ:視覚に関して、私たちには言うまでもなく無数の似姿がある。
クレ:そうだ。
アテ:それなら、こうした似姿についても、模倣されたものの身体の一つ一つが何であるかを知らない者がいるとしたら、どうだろうか。その者は、それらが正しく作られているかどうかを、いつか見分けることがあるだろうか。私が言うのは、たとえば身体の部分の数と、一つ一つの部分の配置が、整っているかどうかである。すなわち、それらがいくつあり、どれがどれの隣に置かれて、ふさわしい秩序を得ているか、さらに色と形もそうであるか、それとも、これらがすべて乱雑に作られているかということだ。模倣されたものが何の生き物かをまったく知らないのに、これらを見分ける人がいると思うだろうか。
クレ:どうして見分けられるだろうか。
アテ:では、描かれたものや形作られたものが人間であり、技術によってその部分のすべてと色と形を備えていることを、私たちが知っているとしたら、どうだろうか。これらを知った者は、もはや必然的に、それが美しいのか、それとも美に欠けるところがどこかにあるのかも、たやすく知るのではないか。
クレ:客人よ、たしかに、言ってみれば私たちは皆、生き物の美しいものを見分けているはずだ。
アテ:君の言う通りだ。それなら、絵画でも音楽でも、あらゆる場合に、似姿の一つ一つについて、思慮ある判定者になろうとする者は、次の三つを備えていなければならないのではないか。第一に、それが何であるかを知ること、次に、それがどれほど正しく、第三に、どれほどよく、言葉と旋律とリズムによる似姿のどれもが作られているかを知ることだ。
クレ:少なくともそのようだ。
アテ:それなら、音楽に関して何が難しいかを語ることを、あきらめないでおこう。音楽は他のどんな似姿よりも際立ってもてはやされるのだから、あらゆる似姿のなかでもっとも用心を必要とする。実際、誤る者は、悪い性格を好ましく思い込むことによって、非常に大きな害を受けるだろうし、しかも気づくことが極めて難しい。詩人たちはムーサたち自身よりも劣った詩人だからである。ムーサたちなら、男たちの言葉を作っておきながら女たちの色合いや旋律を添えるほど誤ることは決してないだろうし、自由人の旋律と姿を組み合わせておきながら奴隷や卑しい者のリズムを合わせることも、自由人のリズムと姿を土台に置きながら、そのリズムに反する旋律や言葉を与えることもないだろう。さらに、獣の声と人間の声と楽器の音と、あらゆる物音を、一つのものを模倣するかのように一つにまとめることも、決してしないだろう。ところが人間の詩人たちは、こうしたものを激しく絡み合わせ、道理なく混ぜ合わせて、喜びの盛りを得たとオルペウスが言う人々すべての笑いものになるだろう。実際、彼らはこうしたものがすべて混ぜ合わされているのを見る。そのうえ詩人たちは、リズムと姿を旋律から切り離し、裸の言葉を韻律に置き、また旋律とリズムを言葉なしに、裸の竪琴と笛だけで用いて、引き裂いている。そうした場合、言葉なしに生じるリズムと調べについて、それが何を意図し、重んじるに値する模倣のどれに似ているかを知るのは、非常に難しい。むしろ、次のように受け取らざるをえない。そのようなものはすべて大いに粗野に満ちており、速さと失敗のなさと獣のような声をひどく好むあまり、笛や竪琴を、舞踊と歌に伴う場合を除いて用いるのであり、どちらも裸のまま用いるなら、その用い方はすべてムーサの技を欠いた、曲芸のようなものになるだろう。以上のことは、この通りである。私たちが考えているのは、すでに三十歳になった者や五十歳を過ぎた者が私たちのムーサたちを用いてはならないということではなく、用いなければならないということだ。そこで、これらのことから、私たちの議論はすでに次のことを示していると思う。合唱の技については、歌うのにふさわしい五十歳の者たちは、よりよく教育されていなければならない。彼らはリズムと調べについて、鋭敏な感覚を持ち、それを知っていなければならないからである。さもなければ、ある旋律がドーリア調にふさわしいか否か、詩人がそれに付けたリズムが正しいか否かについて、旋律の正しさをどうして知ることができるだろうか。
クレ:明らかに、まったく知ることはできない。
アテ:実際、歌に合わせて唱和し、リズムに合わせて歩むよう強いられてきた大衆の多くは、調べのよさとリズムのよさ、またそうでないものを十分に知っていると思い込んでいて滑稽だが、自分たちがそれらの一つ一つを知らないままそうしていることに、思い至らない。ところで、どんな旋律も、ふさわしいものを備えていれば正しく、ふさわしくないものを備えていれば誤っているのだ。
クレ:そうなるほかない。
アテ:では、それが何を備えているかさえ知らない者はどうか。私たちが言ったように、それが正しいあり方をしているかどうかを、どんな場合にでも知るだろうか。
クレ:どんな手立てがあるというのか。
アテ:こうして、どうやら、私たちは今度もこのことを見いだしている。私たちが今呼び集め、ある意味で自ら進んで歌うよう強いている歌い手たちは、リズムの歩みにも旋律の弦にも一人一人が付いていけるようになるまでは、ほとんど必然的に教育を受けていなければならない。それは、調べとリズムを見渡して、このような年齢のこのような人々が歌うのにふさわしいものを選び取ることができ、そのように歌い、歌いながら自分たちも差し当たり害のない快楽を味わい、若い者たちには、善い性格をふさわしく受け入れることへの導き手となるためである。この程度まで教育を受けた者は、大衆に向かう教育や、詩人たち自身の教育よりも、より厳密な教育を受けたことになるだろう。というのは、第三の点、すなわち模倣が美しいか美しくないかを知ることは、詩人にはまったく必要ではないが、調べとリズムについてはほとんど必要だからである。一方、歌い手たちには、最も美しいものと次に美しいものを選ぶために、この三つすべてが必要であり、さもなければ若者たちを徳へ導く十分な呪文の歌い手には決してなれない。そして、議論が初めに示そうとしたこと、すなわちディオニュソスの合唱団を助ける議論が立派に語られていることは、力の及ぶ限り述べた。そこで、実際にそうなったかどうかを考察しよう。そのような集まりは、飲酒が進むにつれていつもいっそう騒がしくなるのが必然で、これは、今語っているこれらのことについて、必ず起こると初めに私たちが仮定したことである。
クレ:必然だ。
アテ:ところで、誰もがそのような場では自分自身よりも軽やかに持ち上げられ、喜び、自由な物言いに満ち、周りの人の言葉を聞こうとしなくなる。そして自分を、自分自身と他の人々を十分に治められる者になったと考える。
クレ:もちろんだ。
アテ:それなら、そうしたことが起こるとき、飲む人々の魂は、鉄のように熱せられて、より柔らかく、より若くなり、若かったときと同じように、教育し形づくる力と知識のある人に、導かれやすくなると私たちは言い、またその形づくる者はあのときと同じ人、すなわち善き立法者であって、その者の法は酒宴の法でなければならないと、言ったのではないか。この法は、楽観して大胆になり、必要以上に恥知らずになって、沈黙と言論と飲酒とムーサの技の秩序や部分ごとの区切りに耐えようとせず、これらに反することをすべて行おうとする者に対し、美しくない大胆さが入り込むとき、それと争うもっとも美しい恐れを、正しさをもって送り込める法である。その恐れを、私たちは羞恥心と恥、すなわち神的な恐れと名づけたではないか。
クレ:その通りだ。
アテ:そして、これらの法の守護者であり、法とともに働く者は、騒がず酔っていない者たち、すなわち酔っている者たちの将軍であるべきだ。彼らなしに酩酊と戦うことは、騒がない統治者たちなしに敵と戦うよりも恐ろしい。また、これらの者とディオニュソスの指導者たち、すなわち六十歳を超えた者たちに従おうとしない者は、アレスの統治者たちに従わない者と同等か、それ以上の恥を負うべきだ。
クレ:正しい。
アテ:それなら、もしそのような酩酊とそのような遊びがあり、法に従ってすべての交わりを共にして、酔っていない者たちが酔っている者たちを導くたびにそれに従うなら、そのような酒宴の仲間は、利益を得て、以前よりいっそう友となって互いに別れ、今のように敵として別れることはないのではないか。
クレ:正しい。もし本当に、君が今言うようなものであればの話だ。
アテ:それなら、ディオニュソスの贈り物について、それは悪いもので国に受け入れるに値しないと、一概に非難することは、もはや控えよう。実際、さらに多くを述べることもできる。というのは、この神が贈る最大の善いものは、語られると人々がそれを誤って受け取り理解するため、多くの人々に語ることがためらわれるからである。
クレ:それはどんなものか。
アテ:ある言い伝えと噂がどこからともなく流れていて、この神は継母ヘラによって魂の判断力を引き裂かれたという。それで復讐のために、バッコスの狂乱とあらゆる狂った合唱舞踊を送り込む。ぶどう酒もまさにそのために贈ったのだという。私は、神々についてこのようなことを語るのが安全だと考える人々には、語るにまかせておく。だが次のことは知っている。どんな生き物も、成熟したときに持つべき知性を、そのとおりの程度には、生まれたときにまったく持っていない。まだ自分にふさわしい思慮を得ていないその時期には、生き物はすべて、狂ったようになり、秩序なく叫び、できるだけ早く立ち上がると、今度は秩序なく跳ねる。私たちが、これらが音楽と体育の始まりだと言ったことを思い出そう。
クレ:覚えている。覚えていないはずがない。
アテ:それなら、リズムと調べの感覚を私たち人間に与えたのもこの始まりだと、またそれについてアポロンとムーサたちとディオニュソスが神々のなかの原因になったと、私たちは言ったのではないか。
クレ:そう言ったに決まっている。
アテ:さらにぶどう酒について、どうやら、他の人々の説は、私たちが狂うようにと、人間への罰として与えられたと言う。しかし今私たちが語る説は、これは薬であって、反対に、魂に羞恥心を得させるため、また身体に健康と強さを与えるために与えられたと言う。
クレ:客人よ、君はその議論を実に見事に思い出して述べた。
アテ:では、合唱舞踊のうち半分は終えたことにしよう。残りの半分は、なお適当と思われるなら終えるか、あるいはそのままにしておこう。
クレ:君が言うのはどの部分か、そして双方をどのように分けるのか。
アテ:合唱舞踊の全体は、私たちには教育の全体だった。そのうち一方は、思うに、声に関わるリズムと調べだった。
クレ:そうだ。
アテ:もう一方の、身体の動きに関わる部分は、リズムは声の動きと共通に持っていたが、姿は独自のものであった。これに対して声の側では、声の動きが旋律である。
クレ:まったく本当だ。
アテ:声に関わる部分のうち、魂を徳へ向けて教育するところまで及ぶものを、私たちはどういう仕方でか分からないが、音楽と名づけた。
クレ:まったく正しい。
アテ:一方、身体に関わる部分、すなわち遊ぶ者たちの舞踊と私たちが呼んだものについて、もしそのような動きが身体の徳に至るまで及ぶなら、身体をそのような方向へ技術によって導くことを、体育と呼ぼう。
クレ:まったく正しい。
アテ:さて、音楽の部分は、先ほど私たちが、合唱舞踊のほぼ半分を論じ終えて仕上げたと言ったものだが、今もそのように言っておこう。残りの半分を語ろうか。それとも、どのように、どちらへ進めるべきか。
クレ:よき人よ、クレタ人とスパルタ人に語りかけているのだから、音楽については私たちが論じ終えたが、体育については論じ残している現在、この問いに対して、私たちのどちらが何と答えると、君は思うのか。
アテ:君がこのことをはっきり尋ねたことで、もう答えたも同然だと、私は言いたい。そして分かる、この問いは今、私が言ったとおり答えであり、さらに体育に関わることを論じ終えよという指示でもある。
クレ:見事に受け取ってくれた。ではそのようにしてほしい。
アテ:そうしなければならない。君たち二人にはよく知られたことなので、言うのはそれほど難しくもない。というのも、君たちはこの技術について、あちらの技術よりもはるかに多くの経験にあずかっているからである。
クレ:君の言うことはほぼ本当だ。
アテ:それなら、今度はこの遊びの始まりは、あらゆる生き物が自然に跳ねるのを習いとすることであり、人間という生き物は、私たちが言ったように、リズムの感覚を得て舞踊を生み出し、旋律がリズムを思い出させて呼び覚ますので、両者は互いに結びついて、合唱舞踊と遊びを産んだ。
クレ:まったく本当だ。
アテ:そして私たちは、その一方はすでに論じ終えたと言うので、他方を続けて論じてみよう。
クレ:ぜひそうしよう。
アテ:それでは、酩酊の用い方について、君たち二人にも同意できるなら、まず仕上げの言葉を加えよう。
クレ:どのような、何のことを言っているのか。
アテ:もし、ある国が、今述べた営みを真剣に価値あるものとして、法と秩序をもって用い、節制のための訓練として用い、またほかの快楽からも、同じように同じ考え方で遠ざからず、それらに打ち克つために工夫するなら、この仕方でこれらすべてを用いるべきである。しかしそれを遊びとして、望む者は、望むときに、望む相手と、他のどんな営みを伴ってでも飲んでよいとするなら、この国もこの人もいつか酩酊を用いるべきだという票を、私は投じないだろう。むしろ、クレタ人とスパルタ人の慣行に、さらにカルタゴ人の法を付け加えたい。すなわち、軍営では誰もこの飲み物を決して味わってはならず、その期間ずっと水を飲む者たちとともに過ごすべきであり、国のなかでは、女奴隷も男奴隷も決して味わってはならず、統治者たちも統治するその一年は味わってはならず、さらに舵取りも、職務に就いている裁判人も、ぶどう酒をまったく味わってはならず、評議のために、論ずるに値する評議会に集まる者も同じで、昼には、身体の鍛錬や病気のためでなければ誰一人まったく飲んではならず、また夜にも、男であれ女であれ、子をもうけようと考えているときには飲んではならない。そのほか、知性と正しい法をもつ人々が、ぶどう酒を飲んではならない場合は、ほかにも数多く挙げられるだろう。したがって、この議論によれば、どの国であれ、多くのぶどう畑は必要でなく、その他の農作物もその生活全体も秩序づけられたものとなり、ぶどう酒に関わるものは、あらゆるもののなかで最も節度あるもの、最も少ないものとなるだろう。客人たちよ、君たちが同意するなら、これを、ぶどう酒について述べた議論の仕上げとして述べておくことにしよう。
クレ:よろしい、同意する。
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法律
発行責任者(訳者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)
参照原典:ギリシア語原典『Νόμοι』(John Burnet版, Platonis Opera, Tomus V, Oxford: Clarendon Press。入手元の書誌表示は1915年)
初版発行日:2026年10月31日
試し読み版
本書の現代語訳・解説・用語集その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。
注記:本サンプルは正本の冒頭(624a〜674c、第1・2巻)のみを収録したものである。全文は正本でお読みいただける。