パルメニデス

プラトン 著

この本について

このHTMLは、プラトン『パルメニデス』(Παρμενίδης、紀元前370年頃成立とされる)の現代語訳です。

底本:John Burnet(ed.), Platonis Opera, Tomus II: Tetralogias III–IV continens(Oxford: Clarendon Press)所収 Παρμενίδης。テキストデータの入手元:Perseus Digital Library / Open Greek and Latin Project。

翻訳方針:本作は散文の対話篇であるため、直訳併記は行わず、現代語訳のみを収録しています。常体(〜だ・〜である)で統一し、対話であっても敬語は用いません。本作は全体が、語り手ケパロスによる回想の語りとして書かれており、本文冒頭の「ケパロス」は、底本に印刷されている語り手の名です。前半の語りの部分では、発話を「」で示しています。後半のパルメニデスとアリストテレスとの一問一答(137c以降)では、底本の組み方にならい、発話の切れ目を「――」で示し、論の区切りでのみ段落を改めています。底本には話者名が印刷されていないため、訳文でも話者名は補っていません。問いを発しているのはパルメニデス、答えているのはアリストテレスです。字間を空けて表示している語句(例:一があるなら)は、底本で字間を空けて組まれている語句で、主に検討の対象となる仮定の定式が言及されている箇所です。

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知の地図シリーズ / 古典書房

概説

1.パルメニデス以前の哲学

本書の表題となっているパルメニデス(前515年頃〜前5世紀中頃)は、イタリア南部のエレアの哲学者である。彼は詩『自然について』で、「ある」ものだけがあり、「あらぬ」ものはあらぬ、という原理から出発し、あるものは一つであり、生じることも滅びることも、動くことも分かれることもない、と説いた。感覚が示す、多くのものが生成し変化する世界は、思わくにすぎないとされた。その弟子ゼノンは、多があるとか、運動があるとかいう常識の側に立つと、かえって不合理な帰結が生じることを示す議論によって、師の説を擁護した。

プラトンは、『パイドン』や『国家』などの中期の対話篇で、感覚される変化する事物とは別に、美そのもの、正義そのもの、等しさそのもののような、永遠に同一の形相(イデア)があり、感覚される事物はそれを分有することによってそれぞれの名で呼ばれる、という考えを示していた。この形相の考えは、パルメニデスが求めた「変わることなく、ある」ものを、多くの形相として捉え直したものと見ることもできる。

2.パルメニデスの哲学の革新

本書でプラトンは、この形相の考えを、若いソクラテスに語らせたうえで、老いたパルメニデスに厳しく吟味させる。どのようなものに形相があるのか。事物が形相を分有するとは、形相の全体を分け持つことなのか、部分を分け持つことなのか。形相とそれを分有する事物とを並べて見ると、さらに別の形相が現れて、限りなく増えていくのではないか。形相が私たちから離れてそれ自体としてあるなら、私たちには知られえないのではないか。プラトンは、自らの中心的な考えに向けられうる反論を、自らの手で、きわめて鋭い形で書き記したのである。

しかしパルメニデスは、形相を捨てよとは言わない。形相を認めなければ、問答する力そのものが失われるからである。彼が勧めるのは、形相を区別する前に、ある仮定を立てたときと、その反対の仮定を立てたときに、何が帰結するかを残らずたどる訓練である。後半では、パルメニデス自身が「一」について、一があるなら、一があらぬなら、一にとって、また他のものにとって何が帰結するかを、一問一答によって徹底的にたどってみせる。その結論は、一も他のものも、あらゆる仕方で、あり、またあらず、現れ、また現れない、という逆説的なものである。一とあること、同じと異なる、全体と部分、限界と無限、時間と「瞬間」といった、もっとも基本的な概念どうしの関係が、ここで初めて体系的に問われている。

3.パルメニデス以後の哲学

本書の前半で示された形相論への反論、とりわけ形相が限りなく増えていく議論は、アリストテレスが「第三の人間」と呼んでプラトン批判に用いたことで知られ、現代の研究者のあいだでも、プラトンが自らの形相論をどこまで修正したのかをめぐって、議論が続いている。プラトン自身は、後期の『ソピステス』で、あることとあらぬこと、同じと異なることなど、最大の類どうしの結びつきを論じ、本書の問いを引き継いでいる。

後半の一をめぐる考察は、古代末期の新プラトン主義において特別な位置を与えられた。プロティノスは、あらゆるものを超えた「一者」を万物の根源とする哲学を展開し、本書の最初の仮定(一は何ものでもなく、名づけられも知られもしない)を、その一者の姿を示すものとして読んだ。プロクロスは本書に浩瀚な註解を書き、この読み方は、ルネサンス期のフィチーノらを通じて後世に伝えられた。

近代以降、ヘーゲルは本書を、対立する規定が互いに移り行くことを示した、古代の弁証法の最高の作品として高く評価した。20世紀には、分析哲学の研究者たちが、本書の議論を論理的に再構成する試みを重ねてきた。二千年以上にわたり、本書はプラトンの対話篇のなかでもっとも難解な作品の一つとして、読む者の力を試し続けている。

登場人物について

語り手はクラゾメナイのケパロスである。ケパロスは、プラトンの異父弟にあたるアンティポンから、かつての会見の話を聞く。アンティポンはそれを、会見の場に居合わせたピュトドロスから聞いていた。会見の中心となるのは、老いたパルメニデス、その弟子ゼノン、ごく若いソクラテスの三人である。後半でパルメニデスの問いに答える若いアリストテレスは、哲学者アリストテレスとは別人で、後にアテナイの三十人政権の一員となった人物である。

本書における重要な用語

以下、原語はすべてギリシア語。カタカナ表記と原語を併記する。

一ヘン/ἕν
後半の考察の主題。一つであること、また一つであるものそのもの。本書では、一があるとすれば、一があらぬとすれば、という二つの仮定から、一と他のものにとって何が帰結するかが考察される。
多ポラ/πολλά
多くのもの。一と対になる語。ゼノンの書物は、多があるとすれば不合理が帰結することを示すものとして紹介される。
ある・あることエイナイ/εἶναι、オン/ὄν
「ある」という動詞と、その分詞「あるもの」。「あらぬ」「あらぬもの」はその否定。後半では、一と、一があることとが別のものであることが、議論の大きな転回点となる。
存在ウーシアー/οὐσία
「ある」という動詞から作られた名詞。本書では、何かがあるということ、あることそのものを指し、一は存在を分有することによってある、と語られる。アリストテレスの術語としての「実体」とは区別して、「存在」と訳している。
形相エイドス/εἶδος
美そのもの、正義そのもの、類似性そのもののように、感覚される事物から離れてそれ自体としてあるとされるもの。感覚される事物は、形相を分有することによってその名で呼ばれる。本シリーズでは、アリストテレス『形而上学』と同じく「形相」と訳している。
イデアイデアー/ἰδέα
形相とほぼ同じ意味で用いられる語。本書では、形相(エイドス)と並んで、同じものを指して用いられている。原語の違いを示すため、訳し分けている。
分有するメテケイン/μετέχειν
何かに与ること、分け前をもつこと。事物が形相を分有することによって、その形相の名で呼ばれる、という関係を表す。同じ意味で用いられる μεταλαμβάνειν(メタランバネイン)は「分け持つ」と訳し分けている。
仮定ヒュポテシス/ὑπόθεσις
議論の出発点として立てられる前提。後半では、「一があるなら」「一があらぬなら」という仮定のそれぞれから、何が帰結するかがたどられる。
他のものタ・アラ/τἆλλα
一以外のもの。後半の考察では、一にとって何が帰結するかと並んで、他のものにとって何が帰結するかが考察される。
瞬間エクサイプネース/τὸ ἐξαίφνης
「突然に」を意味する副詞を名詞化した語。運動から静止へ、静止から運動へと変化が起こる、どんな時間のうちにもない境目を指す。
思わくドクサ/δόξα
確かな知識と対比される、思いなし。『ティマイオス』と同じく、日常語の「思惑」がもつ打算の含みを避けて、「思わく」と表記している。

目次

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ケパロス

〔 対話の枠(126a〜127d)について 〕対話篇全体の枠にあたる部分である。クラゾメナイから来たケパロスが、アテナイでアンティポンを訪ね、かつてソクラテスとゼノンとパルメニデスが交わした議論を聞かせてもらう。その議論は、ピュトドロスがその場で聞き、アンティポンがピュトドロスから何度も聞いて覚えたものである。読者は、ケパロスの語りのなかで、アンティポンが語る、ピュトドロスの話を読むことになる。この三重の伝聞という構えは、以下の本文全体にかかっている。

私たちがクラゾメナイの故郷からアテナイに着いたとき、アゴラでアデイマントスとグラウコン*1に出会った。アデイマントスは私の手を取って言った。「ようこそ、ケパロスよ*2。この地のことで、私たちにできることが何か必要なら、言ってほしい。」

*1 アデイマントスとグラウコン:プラトンの兄たち。『国家』でソクラテスの主な対話相手となる二人である。二人の母は、夫の死後ピュリランペスと再婚し、アンティポンを生んだ。したがってアンティポンは、プラトンの異父弟にあたる。

*2 ケパロス:本対話篇の語り手。イオニア地方の都市クラゾメナイ(哲学者アナクサゴラスの故郷)の人で、『国家』に登場するペイライエウスの老人ケパロスとは別人である。

私は言った。「実は、まさにそのためにここへ来たのだ。君たちに頼みごとがある。」

「その頼みごとを言ってくれ」と彼は言った。

そこで私は言った。「母を同じくする君たちの兄弟は、何という名だったか。思い出せないのだ。以前、私がクラゾメナイからこちらへ滞在しに来たとき、彼はまだ子どもだった。あれからもう長い時が経っている。父親の名は、たしかピュリランペスだったと思うが。」

「その通りだ」と彼は言った。

「では、その兄弟自身の名は何というのか。」

「アンティポンだ。だが、いったいなぜそんなことを尋ねるのか。」

私は言った。「ここにいる人たちは私と同じ町の者で、たいへん哲学を好む人々だ。彼らの聞いたところでは、このアンティポンは、ゼノンの仲間であるピュトドロス*3という人とたびたび会っていた。そして、かつてソクラテスとゼノンとパルメニデス*4が交わした議論を、ピュトドロスから何度も聞いたので、それをそらんじているという。」

*3 ピュトドロス:ゼノンの仲間(弟子)として伝えられるアテナイの人。パルメニデスとゼノンがアテナイに来たとき、自宅に二人を泊めていた。本対話篇の議論は、その場に居合わせた彼の記憶を出所とする、という設定になっている。

*4 ソクラテスとゼノンとパルメニデス:パルメニデスはイタリア南部エレアの哲学者で、詩『自然について』で、あるものは一であり、生成も消滅もしない、と説いた。ゼノンはその弟子で、多や運動を認める立場から不合理な帰結を導く議論(アキレウスと亀の議論などで知られる)によって、師の説を擁護した。ソクラテスは、ここではごく若い青年として描かれている。三人のこの会見については、プラトンの著作以外に裏づけとなる資料がなく、歴史的な事実かどうかについては議論がある。

「君の言う通りだ」と彼は言った。

「では、私たちはその議論を初めから終わりまで聞かせてもらいたいのだ」と私は言った。

彼は言った。「それは難しいことではない。彼はまだ若者だったころに、その議論をしっかりと練習して覚えたからだ。もっとも今は、同じ名の祖父にならって、たいていは馬術に時間を費やしているのだが。だが、そうする必要があるなら、彼のところへ行こう。彼はついさっき、ここから家に帰ったところだ。家はすぐ近くのメリテにある。」

こう話し合ってから、私たちは歩いて行き、家にいたアンティポンをつかまえた。彼はちょうど、ある轡を手直しさせるために鍛冶屋に渡しているところだった。鍛冶屋との用が済むと、兄弟たちが彼に、私たちの来た用件を話した。彼は以前の滞在のときの私を思い出して、親しく挨拶してくれた。私たちが議論を話してほしいと頼むと、彼は初めはためらった。大仕事だと彼は言ったのである。しかし、やがて話してくれた。アンティポンの話では、ピュトドロスはこう語ったという。かつて大パナテナイア祭*5に、ゼノンとパルメニデスがやって来たことがあった。パルメニデスはすでにかなりの老人で、髪はすっかり白かったが、見た目の立派な人で、年はおよそ六十五歳だった。ゼノンはそのころ四十歳近くで、背が高く、見るからに品のある人だった。彼は若いころパルメニデスの寵愛を受けていたと言われていた。二人は、城壁の外のケラメイコスにあるピュトドロスの家に泊まっていた。そこへソクラテスがやって来た。ほかにも大勢の人々が一緒だった。彼らはゼノンの書物を聞きたいと望んでいたのである。その書物は、そのとき初めて二人によって持ち込まれたのだ。ソクラテスはそのころ、まだごく若かった。そこでゼノン自身が彼らに書物を読んで聞かせた。パルメニデスはたまたま外出していた。朗読される議論がもう残りわずかになったとき、ピュトドロス自身が外から入って来た、とアンティポンは言った。パルメニデスも、後に三十人の一人となったアリストテレス*6も一緒だった。彼らは書物の残りをほんの少しだけ聞いた。もっともピュトドロス自身はそうではなく、以前にもゼノンから聞いたことがあったという。

*5 大パナテナイア祭:アテナイの守護女神アテナを祝う祭りで、四年に一度、とりわけ盛大に催されたものを大パナテナイア祭と呼んだ。

*6 後に三十人の一人となったアリストテレス:哲学者アリストテレス(前384〜前322年)とは別人である。前404年、ペロポネソス戦争に敗れたアテナイで、スパルタの後ろ盾のもとに恐怖政治を行った寡頭派の三十人政権の一員となった人物。本対話篇の後半で、パルメニデスの問いに答える役を務める。

〔 ゼノンの書物とソクラテスの形相(127d〜130a)について 〕ゼノンの書物の朗読を聞き終えたソクラテスが、ゼノンの議論を要約し、それに対して、似ていることそのもの、似ていないことそのもののような形相を立てれば、感覚される事物が似ていると同時に似ていないことは少しも驚くに当たらない、と応じる。ソクラテスは、驚くべきなのは、形相そのものが互いに混じり合ったり分かれたりすることが示される場合だ、と述べる。この部分は、いわゆるイデア論(形相論)が、若いソクラテスの口から提示される場面である。

そこでソクラテスは、それを聞き終えると、最初の議論の最初の仮定をもう一度読むように求めた。それが読まれると、ソクラテスはこう言ったという。「ゼノンよ、これはどういう意味なのか。もしあるものが多であるなら、それらは似ていると同時に似ていないのでなければならない。しかしそれは不可能だ。似ていないものが似ていることも、似ているものが似ていないこともありえないからだ。君はそう言っているのではないか。」

「そうだ」とゼノンは言った。

「それでは、似ていないものが似ていることも、似ているものが似ていないことも不可能であるなら、多であることもまた不可能なのではないか。もし多であるとすれば、それらは不可能なことを被ることになるからだ。君の議論が目指しているのは、まさにこのこと、つまり、世に語られているすべてのことに逆らって、多はないと論じ抜くこと以外の何ものでもないのではないか。そして君は、書いた議論の一つ一つが、まさにこのことの証拠になると考えているのではないか。したがって君は、書いた議論と同じだけの数の証拠を、多はないということについて差し出していると思っているのではないか。君はそう言っているのか。それとも私の理解が正しくないのか。」

「いや、そうではない。書物全体が目指していることを、君はよく理解している」とゼノンは言った。

ソクラテスは言った。「パルメニデスよ、分かった。ここにいるゼノンは、ほかの点でのあなたとの親しさによってだけでなく、書物によってもあなたと身内になろうとしているのだ。彼は、ある意味では、あなたと同じことを書いている。ただ言い方を変えることで、何か別のことを言っているかのように私たちを欺こうとしているのだ。あなたは詩のなかで、万有は一であると言い、そのことの証拠を見事に、申し分なく差し出している。一方、彼のほうは、多はないと言い、自分でもたいへん多くの、たいへん大きな証拠を差し出している。こうして、一方は一であると言い、他方は多はないと言う。そしてそれぞれが、ほとんど同じことを語りながら、同じことを何ひとつ語っていないように見えるように語っている。あなたがた二人の語ったことは、私たちほかの者の理解を超えて語られているように見える。」

ゼノンは言った。「その通りだ、ソクラテスよ。しかし君は、この書物の真実を、あらゆる点で見抜いたわけではない。とはいえ君は、ラコニアの子犬*1のように、語られたことをよく追いかけ、よく跡をたどっている。しかしまず、君は次のことに気づいていない。この書物は、君が言うような意図で書かれたうえで、何か大きなことを成し遂げているかのように人々に対してそれを隠している、というほど尊大なものでは決してない。君が言ったのは、たまたま付随したことの一つにすぎない。真実を言えば、この書物は、パルメニデスの説を嘲笑しようとする人々に対する、パルメニデスの説への一種の援護なのだ。その人々は、もし一があるなら、その説には多くのおかしな、自己矛盾した帰結が生じると言う。そこでこの書物は、多を主張する人々に反論し、同じものを、いやそれ以上のものを、彼らに言い返す。そうしてこの書物は、十分に吟味すれば、多があるという彼らの仮定のほうが、一があるという仮定よりも、いっそうおかしな帰結を被るだろうということを、明らかにしようとしているのだ。私がこれを書いたのは、まだ若かったころに、このような論争心からだった。そして書かれたものを誰かが盗み出したので、それを公表すべきかどうかを考える余地さえなかった。だからソクラテスよ、君が気づいていないのはこの点だ。君は、この書物が若者の論争心によってではなく、年長者の名誉心によって書かれたと思っている。もっとも、私が言ったように、君の見立ては悪くはないのだが。」

*1 ラコニアの子犬:ラコニア(スパルタの地方)の猟犬は、鋭い嗅覚で獲物の跡をたどることで知られていた。

ソクラテスは言った。「いや、あなたの言うことは受け入れる。事情はあなたの言う通りだと思う。だが、次のことを私に言ってほしい。あなたは、類似性のある形相が、それ自体としてあると考えないだろうか。そして、そのようなものとは反対の何か別のもの、すなわち似ていないものそのものがあると考えないだろうか。そして、この二つがあるとき、私もあなたも、また私たちが多と呼んでいる他のものも、それらを分け持つのではないか。類似性を分け持つものは、分け持つかぎりにおいて、その点で、またそれだけの程度において似たものとなり、非類似性を分け持つものは似ていないものとなり、両方を分け持つものは両方になるのではないか。そして、もしすべてのものが、互いに反対であるこの両方を分け持ち、両方を分有することによって、それ自身に対して似ていると同時に似ていないとしても、何の不思議があるだろうか。もし誰かが、似ているものそのものが似ていないものとなり、似ていないものそのものが似ているものとなることを示すとすれば、それは奇怪なことだと私は思う。しかし、もし誰かが、これら両方を分有するものが両方の性格を帯びていることを示すなら、ゼノンよ、それは私にはまったく奇妙には思われない。また、誰かが、すべてのものは一を分有することによって一であり、同じそのものが、今度は多数性を分有することによって多であることを示すとしても、少しも奇妙ではない。だが、もし誰かが、一であるそのもの自体が多であり、また多であるそのもの自体が一であることを論証するなら、そのときこそ私は驚くだろう。ほかのすべてのものについても同様だ。もし誰かが、類や形相そのものが、それ自身のうちに、これら反対の性格を帯びていることを示すなら、それは驚くに値する。しかし、もし誰かが、私が一であり、また多であることを論証するとしても、何の驚くことがあろうか。その人は、多であることを示したいときには、私の右側にあるものと左側にあるものとは異なり、前にあるものと後ろにあるものとは異なり、上と下も同様だ、と言うだろう。私は多数性を分有していると思うからだ。一であることを示したいときには、ここに私たち七人がいるなかで、私は一人の人間であり、一をも分有している、と言うだろう。こうしてその人は、両方が真であることを示すのだ。そこで、もし誰かがこのようなもの、つまり石や木材やその類のものを、同じものが多でありかつ一であることとして示そうとするなら、私たちはその人が、あるものが多でありかつ一であることを論証しているのであって、一が多であることや、多が一であることを論証しているのではない、と言うだろう。その人は何も驚くべきことを言っているのではなく、私たちの誰もが同意するようなことを言っているのだ。しかし、もし誰かが、私がたった今言っていたもの、たとえば類似性と非類似性、多数性と一、静止と運動、またすべてその類のものについて、まずその形相を、それ自体として別々に区別し、次に、それらが互いのあいだで混じり合ったり分かれたりしうることを示すなら、ゼノンよ、私はそれに驚嘆するだろう。あなたはこうしたことに、たいへん勇敢に取り組んだと私は思う。しかし、私の言うとおり、もし誰かが、この同じ難問が形相そのもののうちでさまざまに絡み合っていることを、あなたがたが目に見えるものについてたどったのと同じように、推論によって捉えられるものについても示すことができるなら、私はそれにもっとはるかに感嘆するだろう。」

〔 形相への問い(130a〜135c)について 〕パルメニデスが、ソクラテスの立てた形相について問いただす。どのようなものに形相があるのか(正義や美にはあるとしても、人間や火や水、さらに髪の毛や泥にもあるのか)。形相を分有するとは、形相の全体を分け持つことか、部分を分け持つことか。大きさの形相とそれを分有する大きなものとを並べて見ると、さらに別の大きさの形相が現れ、形相の数が限りなく増えていくのではないか(この議論は、後にアリストテレスが「第三の人間」と呼んだ議論の原型として知られる)。形相を思考とみなしたり、手本と似像の関係とみなしたりしても、難問は解けない。そして最大の難問として、形相が私たちから離れてそれ自体としてあるなら、形相は私たちには知られえず、神も私たちの事柄を知りえないことになる、と論じられる。

ピュトドロスはこう言ったという。ソクラテスがこう語っているあいだ、自分としては、パルメニデスもゼノンも、その一言ごとに不快になるだろうと思っていた。ところが二人はソクラテスによく注意を向け、しばしば互いに顔を見合わせて、ソクラテスに感心しているかのようにほほえんでいた。そしてソクラテスが話し終えると、パルメニデスはまさにそのことを口にした。パルメニデスは言った。「ソクラテスよ、議論へと向かう君の意気込みは、なんと感嘆に値することか。では私に言ってほしい。君自身は、君の言うように区別しているのか。一方には形相それ自体を別にし、他方にはそれを分有するものを別にして。そして君には、私たちがもっている類似性とは別に、類似性そのものがあると思われるのか。一と多についても、さっきゼノンから聞いたすべてのことについても、そうなのか。」

「私にはそう思われる」とソクラテスは言った。

パルメニデスは言った。「では、次のようなものについてもそうなのか。たとえば、正しいものの、それ自体としての形相、また美しいものの形相、善いものの形相、さらにその類のすべてのものの形相があるのか。」

「ある」とソクラテスは言った。

「では、どうだろう。人間の形相は、私たちから、また私たちのようなすべての人間から離れて別にあるのか。人間そのものの形相、あるいは火や水そのものの形相はあるのか。」

ソクラテスは言った。「パルメニデスよ、それらについては、先のものと同じように言うべきか、それとも別様に言うべきか、何度も困惑したことがある。」

「では、ソクラテスよ、次のようなものについても困惑するのか。それは、ばかげていると思われるかもしれないものだ。たとえば、髪の毛や泥や垢、あるいはほかに何であれ、きわめて取るに足らない、つまらないものだ。これらの一つ一つについても、私たちが手に取って扱うものとは別の形相が、離れてあると言うべきか、それともそうではないのか、と君は困惑するのか。」

ソクラテスは言った。「決してそうではない。これらは、まさに私たちが目にしているもの、それがそのままあるのだと思う。これらに何か形相があると考えるのは、あまりにも奇妙なことになりはしないか。とはいえ、すべてのものについて同じことが言えるのではないか、と思って心を乱されたことも、すでにあった。しかしその考えに踏みとどまると、何かたわごとの淵に落ちて身を滅ぼすのではないかと恐れて、逃げ去ってしまう。そこで、私たちがたった今、形相をもつと言っていたもののところまで来て、それらを相手に取り組んで時を過ごしているのだ。」

パルメニデスは言った。「ソクラテスよ、それは君がまだ若いからだ。哲学はまだ君をしっかりとつかんではいない。だが私の考えでは、いずれ哲学は君をつかむだろう。そのときには、君はこれらのどれひとつとして軽んじることはなくなるだろう。今のところ君は、その年齢のゆえに、まだ人々の思わくを気にかけているのだ。さて、では次のことを私に言ってほしい。君には、君の言うように、ある形相があって、ここにある他のものは、それを分け持つことによって、その形相の名を受けると思われるのか。たとえば、類似性を分け持ったものは似たものとなり、大きさを分け持ったものは大きなものとなり、美しさと正義を分け持ったものは、正しいもの、美しいものとなる、というように。」

「まったくその通りだ」とソクラテスは言った。

「それでは、分け持つものはそれぞれ、形相の全体を分け持つか、それとも部分を分け持つか、どちらかではないか。それとも、これらとは別の分け持ち方がありうるだろうか。」

「どうしてありえよう」とソクラテスは言った。

「では、君には、形相の全体が、一つのものでありながら、多くのものの一つ一つのうちにあると思われるのか。それとも、どうなのか。」

「パルメニデスよ、何がそれを妨げるだろうか」とソクラテスは言った。

「そうすると、一つの同じものでありながら、多くの別々にあるもののうちに、同時に全体としてあることになるだろう。そしてそのようにして、それ自身がそれ自身から離れてあることになるだろう。」

ソクラテスは言った。「いや、形相の一つ一つが、たとえば昼のようなものであれば、そうはならないだろう。昼は一つの同じものでありながら、同時に多くの場所にあり、しかもそれ自身から離れてあるわけでは少しもない。形相の一つ一つもまた、そのように一つの同じものとして、すべてのもののうちに同時にあるとすれば、そうはならないのだ。」

パルメニデスは言った。「ソクラテスよ、君はなんとも手際よく、一つの同じものを同時に多くの場所に置くものだ。それはちょうど、帆布で大勢の人々を覆っておいて、一つのものが全体として多くの人々の上にあると言うようなものだ。それとも、君はそのようなことを言っているとは思わないのか。」

「そうかもしれない」とソクラテスは言った。

「では、帆布は全体としてそれぞれの人の上にあるのだろうか。それとも、帆布のある部分がある人の上に、別の部分が別の人の上にあるのだろうか。」

「部分だ。」

パルメニデスは言った。「そうすると、ソクラテスよ、形相そのものは分割できるものであり、形相を分有するものは、その部分を分有することになるだろう。そして、もはや形相の全体がそれぞれのもののうちにあるのではなく、形相の部分がそれぞれのもののうちにあることになるだろう。」

「そのように見える。」

パルメニデスは言った。「では、ソクラテスよ、君は、一つの形相が本当に分割されても、なお一つであると主張するつもりなのか。」

「決してそうではない」とソクラテスは言った。

パルメニデスは言った。「では、考えてみたまえ。もし君が大きさそのものを分割し、多くの大きなものの一つ一つが、大きさそのものよりも小さい大きさの部分によって大きいことになるとすれば、それは不合理なことに見えないだろうか。」

「まったくその通りだ」とソクラテスは言った。

「ではどうか。一つ一つのものが、等しさの小さな部分を受け取ることになるなら、その部分は等しさそのものよりも小さいのに、それをもつものが、その部分によって何かと等しくなるのだろうか。」

「それは不可能だ。」

「では、私たちの誰かが小ささの部分をもつとしよう。すると小ささそのものは、その部分よりも大きいことになる。部分は小ささそのものの部分だからだ。こうして、小ささそのものが大きいことになるだろう。さらに、取り去られたその部分が何かに付け加えられると、それを受け取ったものは、前より大きくなるのではなく、前より小さくなるだろう。」

「そんなことは決して起こりえないだろう」とソクラテスは言った。

パルメニデスは言った。「では、ソクラテスよ、他のものは、部分によっても全体によっても分け持つことができないとすれば、どのような仕方で、君の言う形相を分け持つのだろうか。」

ソクラテスは言った。「ゼウスに誓って、そのようなことをはっきりと定めるのは、私にはまったく容易なことだとは思われない。」

「では、どうだろう。次のことについて君はどう考えるか。」

「どのようなことか。」

「思うに、君は次のような理由から、形相の一つ一つが一つであると考えているのだろう。多くのものが大きいと君に思われるとき、それらすべてを見渡すと、おそらく何か一つの同じイデアがあるように思われる。そこから君は、大きいということは一つであると考えるのだ。」

「あなたの言う通りだ」とソクラテスは言った。

「では、大きいということそのものと、他の大きなものとを、同じように魂によって見渡すなら、今度はまた何か一つの大きいものが現れて、それによってこれらすべてが大きく見えるのではないだろうか。」

「そのようだ。」

「そうすると、大きさそのものと、それを分有するものとのほかに、大きさの別の形相が生じて現れることになる。そしてさらに、それらすべての上に別の形相が現れ、それによってこれらすべてが大きいことになるだろう。こうして、形相の一つ一つは、君にとってもはや一つではなく、数において限りのないものになるだろう。」

ソクラテスは言った。「いや、パルメニデスよ、形相の一つ一つは、これらについての思考であって、魂のうち以外のどこにも生じることがふさわしくない、ということではないだろうか。そうであれば、形相の一つ一つは一つであり、たった今語られたようなことを、もはや被ることはないだろう。」

パルメニデスは言った。「ではどうか。思考の一つ一つは一つであるが、何ものについての思考でもない、ということがあるだろうか。」

「それは不可能だ」とソクラテスは言った。

「では、何かについての思考なのだね。」

「そうだ。」

「あるものについての思考か、それともあらぬものについての思考か。」

「あるものについての思考だ。」

「それは、その思考がすべてのものの上にあると考える、何か一つのもの、すなわち一つのイデアについての思考ではないか。」

「そうだ。」

「そうすると、すべてのものの上に常に同じものとしてある、一つのものと考えられるこのものが、形相なのではないか。」

「今度もまた、そうでなければならないように見える。」

パルメニデスは言った。「ではどうか。君が他のものは形相を分有すると言うのなら、君には、それぞれのものが思考から成っていて、すべてのものが思考しているか、それとも思考でありながら思考していないか、そのどちらかでなければならないと思われるのではないか。」

ソクラテスは言った。「いや、それも筋が通らない。むしろパルメニデスよ、私にはっきりと見えてくるのは、次のような事情だ。これらの形相は、いわば手本として、自然のうちに立っている。他のものはそれらに似ており、その似像である。そして、他のものが形相を分有するというこの分有は、形相に似せられること以外の何ものでもない。」

パルメニデスは言った。「では、もし何かが形相に似ているとすれば、それが形相に似せられたかぎりにおいて、その形相が、それに似せられたものに似ていないということがありうるだろうか。それとも、似ているものが、それに似ているものに似ていないという手立てが何かあるだろうか。」

「ありはしない。」

「そして、似ているものは、それに似ているものと、一つの同じものを分有するのでなければならない、という大きな必然があるのではないか。」

「そうでなければならない。」

「そして、似ているものがそれを分有することによって似ているものとなる、そのものこそ、形相そのものではないか。」

「まったくその通りだ。」

「そうすると、何かが形相に似ていることも、形相が他のものに似ていることもありえない。そうでなければ、その形相のほかに、常に別の形相が現れるだろう。そしてもしその形相が何かに似ているなら、さらに別の形相が現れるだろう。形相が、それを分有するものに似たものとなるかぎり、常に新しい形相が生じることは決してやむことがないだろう。」

「あなたの言うことはまったく正しい。」

「したがって、他のものは類似によって形相を分け持つのではない。それらが分け持つ別の仕方を探さなければならない。」

「そのようだ。」

パルメニデスは言った。「では、ソクラテスよ、形相をそれ自体としてあるものとして区別するなら、その難問がどれほどのものか、君には分かるだろうか。」

「よく分かる。」

パルメニデスは言った。「しかし、よく知っておくがいい。あるものの一つ一つについて、常に何かを区別して一つの形相を立てるなら、君はまだ、言ってみればその難問の大きさに触れてさえいないのだ。」

「それはいったいどういうことか」とソクラテスは言った。

パルメニデスは言った。「ほかにも多くあるが、最大の難問は次のことだ。もし誰かが、形相が私たちの言うようなものでなければならないとすれば、それらは知られることさえふさわしくない、と主張したとしよう。そう主張する人に対して、誰もその人が誤っていることを示すことはできないだろう。ただし、反論する人が多くの経験を積んでいて、素質にも恵まれており、しかも示そうとする人が遠くから多くの議論を重ねていくのに、辛抱強くついて行こうとする場合は別だ。そうでなければ、形相は知られえないものでなければならないと強いる人のほうが、説得されないままでいるだろう。」

「パルメニデスよ、それはどうしてか」とソクラテスは言った。

「ソクラテスよ、思うに、君も、ほかの誰であれ、それぞれのものについて、それ自体としての何らかの存在があると立てる人なら、まず、それらのどれひとつとして私たちのうちにはない、ということに同意するだろうからだ。」

「私たちのうちにあるなら、どうしてなおそれ自体としてあることができようか」とソクラテスは言った。

「君の言う通りだ」とパルメニデスは言った。

「それでは、イデアのうちで互いに関係し合ってそれであるものは、互いに関係し合うことによってその存在をもつのであって、私たちのもとにあるものに関係してその存在をもつのではない。私たちのもとにあるものとは、似像であれ、ほかにどのように立てるのであれ、私たちがそれを分有することによって、それぞれの名で呼ばれるものだ。また、私たちのもとにあるこれらのものは、イデアと同じ名をもってはいるが、今度はそれら自身互いに関係し合ってあるのであって、形相に関係してあるのではない。そして、そのように名づけられるものはすべて、それら自身に属するのであって、イデアに属するのではない。」

「それはどういう意味か」とソクラテスは言った。

パルメニデスは言った。「たとえば、私たちのうちの誰かが誰かの主人または奴隷であるとしよう。その人は、主人であるところの主人そのものの奴隷なのではないし、主人である人は、奴隷であるところの奴隷そのものの主人なのでもない。人間である者が人間の主人であり、奴隷であって、この両方ともそうなのだ。他方、主人であることそのものは、奴隷であることそのものに対してあるものであり、同じように奴隷であることそのものは、主人であることそのものに対してあるものだ。私たちのうちにあるものは、イデアに対してその働きをもつのではなく、イデアも私たちに対してその働きをもつのではない。私の言うように、イデアはイデア自身に属し、イデア同士の関係においてあり、私たちのもとにあるものも同様に、それら同士の関係においてあるのだ。それとも、私の言っていることが分からないか。」

「よく分かる」とソクラテスは言った。

パルメニデスは言った。「それでは、知識もまた、知識であるところの知識そのものは、真理であるところの真理そのものについての知識ではないだろうか。」

「まったくその通りだ。」

「そして、それぞれの知識であるところの知識そのものは、それぞれのあるものであるところのものそのものについての知識であることになるだろう。そうではないか。」

「そうだ。」

「他方、私たちのもとにある知識は、私たちのもとにある真理についての知識ではないだろうか。そしてさらに、私たちのもとにある知識のそれぞれは、私たちのもとにあるあるもののそれぞれについての知識である、ということになるのではないか。」

「そうでなければならない。」

「ところが、形相そのものは、君も同意するように、私たちがもっているものではないし、私たちのもとにあることもありえない。」

「たしかにそうだ。」

「そして、それぞれがそれであるところの類そのものは、知識の形相そのものによって知られるのではないか。」

「そうだ。」

「その知識の形相を、私たちはもっていない。」

「もっていない。」

「そうすると、形相のどれひとつとして、私たちによって知られることはない。私たちは知識そのものを分有していないからだ。」

「そうではないようだ。」

「そうすると、美であるところの美そのものも、善そのものも、そして私たちがイデアとしてそれ自体としてあると想定しているすべてのものも、私たちにとっては知られえないものだ。」

「どうもそうらしい。」

「では、これよりもさらに恐ろしい、次のことを考えてみたまえ。」

「どのようなことか。」

「君はきっと、もし知識そのものの類というものがあるなら、それは私たちのもとにある知識よりもはるかに厳密なものだと言うだろう。美も、ほかのすべてのものも同様だと。」

「そうだ。」

「それでは、もし何かほかのものが知識そのものを分有するとすれば、もっとも厳密な知識をもつのは、神をおいてほかにないと君は言うのではないか。」

「そうでなければならない。」

「では、神は知識そのものをもっているのに、今度は私たちのもとにあるものを知ることができるだろうか。」

「どうしてできないことがあろうか。」

パルメニデスは言った。「ソクラテスよ、それは、私たちのあいだで次のことが同意されているからだ。あの形相は、私たちのもとにあるものに対して、それがもっている働きをもつのではないし、私たちのもとにあるものも、あの形相に対して働きをもつのではなく、それぞれが自分たち同士に対して働きをもつのだ、と。」

「それはたしかに同意されている。」

「それでは、もし神のもとに、このもっとも厳密な主人であることと、このもっとも厳密な知識とがあるとすれば、神々のもとにある主人であることが私たちを支配することは決してないだろうし、神々のもとにある知識が私たちを知ることも、私たちのもとにあるほかの何かを知ることもないだろう。同じように、私たちも、私たちのもとにある支配によって神々を支配することはないし、私たちの知識によって神的なものを何ひとつ知ることもない。そして神々もまた、同じ理屈によって、神々である以上、私たちの主人でもなければ、人間の事柄を知ることもないのだ。」

ソクラテスは言った。「しかし、神から知ることを奪うことになるなら、その議論はあまりにも驚くべきものになりはしないか。」

パルメニデスは言った。「とはいえソクラテスよ、もしあるもののイデアというものがあり、誰かがそれぞれの形相をそれ自体として区別するなら、形相は、これらのことを、さらにこれらに加えてほかにも非常に多くのことを、どうしても抱え込むことになるのだ。そのため、それを聞く人は困惑し、次のように異を唱える。そのようなものはないし、たとえどれほどあるとしても、人間の本性にとっては知られえないものでなければならない、と。そしてそう語る人は、何か意味のあることを言っているように見え、たった今私たちが言っていたように、驚くほど説得しがたいのだ。それぞれのものに何らかの類があり、それ自体としての存在があることを学び取ることができるのは、非常に素質に恵まれた人でなければならない。さらに、それを見出し、これらすべてを十分に吟味し分けたうえで、他人に教えることができる人は、いっそう驚くべき人でなければならない。」

ソクラテスは言った。「パルメニデスよ、あなたに同意する。あなたの言うことは、まったく私の考えにかなっている。」

パルメニデスは言った。「しかしソクラテスよ、もし逆に、誰かが今しがた述べたことやほかのそのような難点のすべてに目を向けて、あるものの形相があることを認めず、それぞれのものについて何ひとつ形相を区別しないとすれば、その人は思考をどこへ向ければよいかさえ分からなくなるだろう。あるもののそれぞれについて、常に同じものであるイデアがあることを認めないのだから。そしてそのようにして、その人は問答する力をまったく損なってしまうだろう。もっとも、そのようなことには、君もよく気づいていたように私には思われる。」

「あなたの言う通りだ」とソクラテスは言った。

〔 訓練の必要とその方法(135c〜137c)について 〕それでもパルメニデスは、形相を認めなければ問答する力そのものが失われると述べ、ソクラテスに、形相を区別する前にまず訓練を積むよう勧める。その訓練とは、あるものがあると仮定した場合と、ないと仮定した場合のそれぞれについて、そのもの自身にとって、また他のものにとって何が帰結するかを、残らず考察することである。ソクラテスとゼノンに促され、パルメニデスは、一そのものについて、一があるとすれば、一がないとすれば何が帰結するかを、実際にやってみせることを引き受ける。答え手には、いちばん若いアリストテレスが選ばれる。

「では、哲学についてはどうするつもりか。これらのことが知られないままなら、君はどこへ向かうのか。」

「少なくとも今のところは、まったく見通せていないように思う。」

パルメニデスは言った。「ソクラテスよ、君は訓練を積む前に、あまりに早くから、美や正義や善といったもの、そしてそれぞれの形相を一つ一つ区別しようと試みているのだ。先日も、君がここにいるアリストテレスと問答しているのを聞いて、そのことに気づいた。よく知っておくがいい。君が議論へと向かうその意気込みは、美しく神的なものだ。しかし、まだ若いうちに、自分を引き締め、世間では役に立たないと思われ、多くの人から無駄話と呼ばれているもので、もっと訓練を積みたまえ。そうでなければ、真理は君から逃れ去るだろう。」

ソクラテスは言った。「では、パルメニデスよ、その訓練の仕方とはどのようなものか。」

パルメニデスは言った。「それは、君がゼノンから聞いた、まさにあのやり方だ。ただ、君がゼノンに向かって言った次のことには、私も感心した。君は、目に見えるもののうちで、またそれらについての、さまよいを考察することを良しとせず、むしろ、とりわけ言論によって捉えられ、形相であると考えられるものについて考察することを求めたのだ。」

ソクラテスは言った。「そうだ。目に見えるものについてなら、あるものが似ていることも、似ていないことも、ほかのどんなことを被っていることも、示すのは少しも難しくないと私には思われるからだ。」

パルメニデスは言った。「君の言う通りだ。しかし、君がもっと訓練を積みたいのなら、これに加えて、さらに次のこともしなければならない。それぞれのものについて、それがあると仮定して、その仮定から帰結することを考察するだけでなく、同じそのものがないと仮定してもみなければならない。」

「それはどういう意味か」とソクラテスは言った。

パルメニデスは言った。「たとえば、よければ、ゼノンが立てたこの仮定について言えば、もし多があるとすれば、多そのものにとって、それ自身に対して、また一に対して何が帰結しなければならないか、そして一にとって、それ自身に対して、また多に対して何が帰結しなければならないかを考察する。さらに、もし多がないとすれば、一にとっても多にとっても、それ自身に対して、また互いに対して何が帰結するかを、もう一度考察する。さらにまた、もし類似性があると仮定するか、ないと仮定するなら、どちらの仮定にもとづいても、仮定されたものそのものにとって、また他のものにとって、それ自身に対して、また互いに対して何が帰結するかを考察する。似ていないということについても、運動についても、静止についても、生成と消滅についても、あることそのものとあらぬことについても、同じ議論が成り立つ。一言で言えば、何であれ君が、あるものとして、あらぬものとして、あるいはほかのどんな様態を被っているものとして仮定するなら、そのつど、それ自身に対して帰結すること、また、他のもののうち君が選ぶ一つ一つのものに対して、さらに複数のものに対して、そしてすべてのものに対して、同じように帰結することを考察しなければならない。さらに、他のものについても、それ自身に対して、また君がそのつど選ぶ別のものに対して帰結することを考察しなければならない。完全に訓練を積んで、真理を確かに見通そうとするのなら、君が仮定したものを、あるものとして仮定しようと、あらぬものとして仮定しようと、そうしなければならないのだ。」

ソクラテスは言った。「パルメニデスよ、あなたの言うのは、途方もない仕事だ。それに、私にはあまりよく分からない。どうしてあなた自身が何かを仮定して、それを一通りやってみせてくれないのか。そうすれば、私ももっとよく理解できるだろうに。」

パルメニデスは言った。「ソクラテスよ、この年の者に、君は大仕事を命じるものだ。」

ソクラテスは言った。「では、ゼノンよ、どうしてあなたが私たちのために一通りやってみせてくれないのか。」

ピュトドロスの話では、ゼノンは笑ってこう言ったという。「ソクラテスよ、パルメニデスご本人に頼もうではないか。彼の言っていることは、生やさしいことではないだろうからだ。それとも君には、君がどれほどの仕事を命じているのか見えないのか。もし私たちがもっと大勢いたなら、頼むのはふさわしくなかっただろう。このようなことを大勢の前で語るのは、とりわけこの年の人にとっては、ふさわしくないからだ。多くの人々は、このようにすべてを通り抜けて、さまよい歩くことなしには、真理に出会って知性を得ることは不可能だということを知らないのだ。そこでパルメニデスよ、私もソクラテスと一緒にお願いする。私自身も、久しぶりにあなたの話を聞かせてもらいたいのだ。」

アンティポンの話では、ピュトドロスはこう語ったという。ゼノンがこう言うと、ピュトドロス自身も、アリストテレスも、ほかの人々も、パルメニデスに、言っていることを断らずに示してほしい、と頼んだ。そこでパルメニデスは言った。「言うことを聞かないわけにはいかない。とはいえ私は、イビュコスの馬*1と同じ目に遭っているように思う。イビュコスは、年老いた競走馬が、戦車につながれて競走に出ようとし、経験があるだけに先のことに震えているのに、自分をなぞらえている。そして、自分もこのように年老いているのに、心ならずも恋へと向かうことを強いられていると言っている。私もまた、思い出すにつけても、この年で、これほどの、これほど大きな言論の海をどうやって泳ぎ渡らなければならないのかと、たいへん恐ろしく思う。それでも、やはり望みをかなえてやらなければならない。ゼノンの言うように、ここには私たちだけしかいないのだから。では、どこから始め、まず何を仮定しようか。それとも、手間のかかる遊戯をすることに決まったのだから、一そのものについて、一があるとすれば、あるいは一がないとすれば、何が帰結しなければならないかを仮定して、私自身から、私自身の仮定から始めることにしようか。」

*1 イビュコスの馬:イビュコスは前6世紀のギリシアの抒情詩人。老いて恋に捕らわれた自分を、戦車競走に引き出される老いた競走馬にたとえた詩の一節が伝わっている。パルメニデスは、老いて難しい議論に乗り出す自分を、この馬にたとえている。

「ぜひそうしてほしい」とゼノンは言った。

パルメニデスは言った。「では、誰が私に答えてくれるだろうか。いちばん若い人がよいか。彼ならいちばん余計なことをせず、思った通りのことを答えるだろう。それに、彼が答えるあいだは、私にとってひと休みにもなるだろう。」

アリストテレスは言った。「パルメニデスよ、そのためなら私が用意できている。いちばん若い人と言ったのは、私のことだからだ。さあ、答える者として尋ねてほしい。」

― 試し読みはここまでです ―

パルメニデス

発行責任者(訳者):飯島健二

発行:古典書房

制作協力:Claude(claude-opus-5-5)

参照原典:ギリシア語原典『Παρμενίδης』(John Burnet校訂、Platonis Opera, Tomus II, Oxford: Clarendon Press)

初版発行日:2026年09月25日

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