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ソピステス

プラトン 著

この本について

本HTMLは、プラトン(Πλάτων)の対話篇『ソピステス』(原題:Σοφιστής)の現代日本語訳である。ソフィストとは何かという問いをめぐる、エレアからの客人と若いテアイテトスの問答を収める。

底本(テキストデータ):John Burnet(ed.), Platonis Opera, Tomus I: Tetralogias I-II continens(Oxford: Clarendon Press。入手元の書誌表示は1905年)所収 Σοφιστής。入手元:Perseus Digital Library / Open Greek and Latin Project(CTS URN: urn:cts:greekLit:tlg0059.tlg007.perseus-grc2)。

本書は現代語訳のみを掲載し、直訳との切替は行わない(散文の哲学書であり、直訳併記の対象ではない)。

本文中の番号(例:253d)は、底本の欄外に付された「ステファヌス番号」であり、原典と対応させながら読み進める手がかりとなる。「底本頁」ボタンで常時表示に切り替えられる。『ソピステス』は216aから268dまでの範囲にあたる。

この対話篇は、『テアイテトス』の翌日の対話という設定で、テオドロスが、エレアからの客人を連れてソクラテスを訪ねる場面から始まる。客人の名は語られない。ソクラテスとテオドロスが客人を迎える短いやりとりのあと、問答は、おもに客人とテアイテトスのあいだで進む。このため、発言者は、底本の略号(ΘΕΟ.=テオドロス、ΣΩ.=ソクラテス、ΞΕ.=エレアからの客人、ΘΕΑΙ.=テアイテトス)に対応させて、「テオ:」「ソク:」「客人:」「テア:」と示した。パルメニデスの詩句を挟む二か所(237a、244e)では、詩句の直後に続く同じ話者の発言に、話者の表示を付けていない。発言そのものは「 」で括らず、発言の中で引用される言葉や、仮に語られる言葉を「 」で示した。パルメニデスの詩句(237a、244e、258d)は、底本と同じく別の行に分け、「 」は用いていない。

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解説・概説・用語集は、一般に流通している知見にもとづく参考情報であり、逐一の出典確認・査読を経たものではない。本文の理解を助ける参考としてお使いいただきたい。

哲学原典を読む / 古典書房

概説

1. 『ソピステス』以前の哲学

前5世紀のギリシアで、「ある」とは何かという問いに、最も鋭い形を与えたのは、南イタリアのエレアのパルメニデスである。パルメニデスは、あるものはあり、あらぬものはありえない、と説いた。この主張に従うなら、あらぬものについては、語ることも考えることもできない。仲間のゼノンは、この説を擁護するために、多や運動を認める見方がもつ矛盾を示したと伝えられる。
同じころ、アテナイをはじめ各地の都市を巡って、報酬を取って弁論や徳を教える人々が現れた。ソフィストと呼ばれる人々である。そのひとりゴルギアスには、『あらぬものについて、あるいは自然について』と題する書があり、何もあらず、あるとしても知りえず、知りえても他人に伝えることはできない、と論じたことが、後世の著作家セクストス・エンペイリコスの報告によって伝わる。あるとあらぬをめぐる議論は、こうして、言葉で人を説得する技術の問題とも結びついていった。
プラトンは、初期から中期の対話篇で、ソフィストを、ソクラテスの問答の相手として繰り返し描いた。『プロタゴラス』は、ソフィストを、魂の糧となるものを売る商人にたとえて、その危うさを語る(313c以下)。『国家』は、知識はあるものに、無知はあらぬものにかかわり、思わくはその中間にある、と論じた(477a以下)。『パルメニデス』では、若いソクラテスの相の考えを、すでに年老いたパルメニデスが吟味する。『ソピステス』は、知識とは何かを問うた『テアイテトス』の翌日の対話として、これらの流れを受けつつ、今度はソフィストとは何かを問う。パルメニデスやゼノンの仲間である客人が、ソクラテスに代わって議論を導く。

2. 『ソピステス』の哲学の革新

この対話篇が哲学書とされる理由は、ソフィストとは何かという問いに答えようとして、「あらぬものを語る」ことは可能か、という存在についての根本の問題を、正面から引き受けたところにある。ソフィストは、知らないことを知っているように見せ、本当でないことを本当らしく語る者として、捉えられていく。ところが、本当でないことを語るには、あらぬものを語らなければならず、それはパルメニデスが禁じたことであった。客人は、自分が「父殺し」になるかもしれないと断りながら、この禁止そのものを吟味する。師の説を継ぎながら、その核心を問い直すという、哲学の営みの姿がここにある。
問題の扱い方にも特色がある。客人は、あらぬものだけでなく、あるものについても、先人の説を一つずつ取り上げて調べ、物体だけがあるとする人々と、物体をもたない種だけがあるとする人々の争いを、巨人たちの戦いにたとえる。さらに、どの類が互いに交わり、どの類が交わらないのかを問い、あるもの、静止、運動、同、異という最も大きな類を取り出して、その結びつきを考える。種の考え方を、ただ教えとして述べるのではなく、その結びつき方そのものを問題にしている点は、プラトン自身のそれまでの立場を見直す試みとして読む人もいる。ソフィストを追う議論は、途中で、哲学者とはどういう者かを浮かび上がらせもする。
もう一つの特色は、方法そのものを実演して見せるところである。釣り人の技という小さな範例から始めて、技術を二つに分けていく手順を示し、その手順をソフィストに当てはめるたびに、別の姿が現れる。ソフィストは一通りの定義に収まらない、ということ自体が、この対話篇の大きな主題である。後半では、言論が名と動詞の結びつきから成ることを確かめ、偽りがどのように言論と思わくに生じうるのかを調べる。この部分は、後の言語の哲学や論理学の問題を先取りするものとして、よく取り上げられる。ソクラテスの発言が冒頭にとどまり、客人がテアイテトスを相手に議論を導く、という対話の形も、この作品の際立った点である。

3. 『ソピステス』以後の哲学

プラトン自身は、この対話篇の続きとして『政治家』を書き、同じ客人に、政治家とは何かを論じさせた。217aでは、ソフィスト、政治家、哲学者の三つが挙げられるが、哲学者を主題とする対話篇は、プラトンの作品としては伝わっていない。
アリストテレスは、『形而上学』E巻2章(1026b14)で、プラトンがソフィスト術をあらぬものにかかわるものとして位置づけたのは、ある意味で悪くなかった、と述べる。また、同書Γ巻7章(1011b25)で、あるものをあらぬと言い、あらぬものをあると言うのが偽であり、あるものをあると言い、あらぬものをあらぬと言うのが真である、と述べる。この定め方は、本作の偽の文の説明(263b)と近いとされる。プロティノスは、『エンネアデス』VI巻2(43番)で、あるもの、静止、運動、同、異の五つの類を、知性的な世界の区分として取り上げた。
20世紀には、本作があらためて注目された。ハイデガーは、1924/25年冬学期のマールブルク大学での講義で『ソピステス』を取り上げ(全集第19巻)、『存在と時間』(1927年)の巻頭には、本作244aの一節を掲げた。そこでは、「あるもの」と口にするとき何を意味しているのか、かつては分かっていると思っていたが、いまは行き詰まっている、と語られる。また、クワインは、1948年の論文「何があるのかについて」で、あらぬものも何らかの意味ではあるのでなければ、ないものについて語れなくなる、という古い謎を、「プラトンの髭」と呼んだ。本作でいう「ある」を、存在、同一、述定のいずれの意味で読むべきかをめぐっては、今日も議論が続いている。
あらぬものを語ること、偽りを語ること、否定を語ること。これらは、日常の言葉づかいにも、論理や言語の哲学にも、そのまま通じる問題である。『ソピステス』は、その問題に、早くから本格的な考察を加えた作品の一つとして、今も読み継がれている。

本書における重要な用語

以下、()内は原則としてギリシア語原語。

ソフィストσοφιστής
この対話篇の主題となる人物。報酬を取って徳や学びを教えると称する者で、本作ではその正体が、技術の分割によって繰り返し探られる(221c以下、231d–e、268c–d)。
技術τέχνη
素人の営みとは区別される、事柄に通じた仕事の仕方。釣り人も、ソフィストも、まず技術をもつ者として立てられる(219a、221c–d)。
範例παράδειγμα
小さくよく知られたものを手本として取り上げ、より大きな対象を探る前に、方法を試すこと。ここでは釣り人の技がそれにあたる(218d–221c)。
分割διαίρεσις
一つの類を二つの部分に分け、さらに分けていく手順。技術の定義に用いられ(219a以下)、のちには類の結びつきを考える知識として語られる(253d)。
似像εἴδωλον
模倣によって作られたものの総称。似姿と幻影の二つの種に分けられる(235d–236c)。
似姿εἰκών
範例の均整に従い、長さ、幅、深さと色を与えて作った模倣物(235d–236a)。
幻影φάντασμα
適切な位置からの眺めではないために似て見えるだけで、十分に見る人には似ていないもの(236a–c)。
あるものτὸ ὄν
「ある」と言われるもの。何を「あるもの」と呼ぶのかが、先人の説を調べる中で問われ(243d以下)、のちに最も大きな類の一つとして取り上げられる(254d以下)。
あらぬものτὸ μὴ ὄν
「あらぬ」と言われるもの。語ることも考えることもできるのかが問われ(237a以下)、のちに異の本性との関わりで考察される(256d以下)。
行き詰まりἀπορία
進むべき道が見つからない状態。あらぬものをめぐって(237c以下)、またあるものをめぐって(249d以下)、繰り返し現れる。
偽りψεῦδος
事実に反することを語ったり、思いなしたりすること。それがありうるのかが問われる(236e–237a、260b以下)。
言論λόγος
語られたこと、言葉、議論。後半では、名と動詞を編み合わせた「文」を指し、真にも偽にもなるものとされる(262c–263b)。
思わくδόξα
物事についての、そうだという思い。真にも偽にもなる。思考の完結として説明される(264a–b)。
現れφαντασία
物事が、感覚を通して、そう見えること。感覚と思わくの混合として説明される(264a–b)。
種εἶδος
類を分けて得られる一つ一つの部分。また、知性で捉えられる、物体をもたないものを指しても用いられる(246b–c、248a)。
相ἰδέα
多くのものを貫いて、一つにまとまっている姿。弁証術が見分ける対象として語られる(253d–e)。
類γένος
あるものをまとめる区分。本作では、いくつかの類が互いに交わるかどうかが問われる(251d以下)。
最も大きな類μέγιστα γένη
あるもの、静止、運動、同、異の五つ。多くの類の中から、最も大きいと言われるものとして選ばれる(254c–255e)。
交わりκοινωνία
類や種が互いに結びつくこと。「交わる」「あずかる」「混じり合う」とも言われる(251d以下)。
運動と静止κίνησις/στάσις
動くことと、とどまること。互いに最も反対のものとされ、あるものとの関わりが問われる(249b–250d、254d)。
同と異ταὐτόν/θάτερον
同じであることと、異なること。静止と運動、あるものに加えて、最も大きな類として数えられる(254e–255e)。
弁証術διαλεκτική
類に従って分割し、同じ種を異なるものと、異なる種を同じものと考えない知識。純粋に、また正しく哲学する者に属するとされる(253d–e)。
名と動詞ὄνομα/ῥῆμα
声によって示すものの二つの類。行為にかかわる示しが動詞、その行為を行う者に対して置かれる声の記号が名である(262a)。この二つを編み合わせたものが文になる(262c–d)。
思考διάνοια
魂が自分自身と交わす、声を伴わない対話(263e)。
無知ἀμαθία
何かを知らないのに、知っていると思うこと。「知らないこと」(ἄγνοια)のうち、これにだけこの名が与えられる(229c)。
力δύναμις
他のものに作用する、または他のものから作用を受ける能力。あるものの規定として提案される(247d–e)。

目次

ステファヌス版番号(Burnet版)。番号をクリックすると本文の該当箇所へ移動する。

原典構造一覧(ステファヌス版番号)

底本には章・節の見出しはなく、伝統的に参照されるステファヌス版番号(216~268)が付されているのみである。目次の6部構成は、内容にもとづいて便宜的に設けた区分である。

〔 216a~221c について 〕
位置づけ:客人を迎える前置きと、方法を示す範例にあたる部分。
概要:テオドロスが、エレアからの客人を連れて、約束どおりソクラテスのもとを訪れる。ソクラテスの問いに応じて、客人は、ソフィスト、政治家、哲学者について語ることを引き受け、ソクラテスが勧めるテアイテトスを、対話の相手に選ぶ。まず釣り人の技を範例として取り上げ、技術を順に二つに分けていく方法が示される。

テオ:昨日の約束に従って、ソクラテス*1よ、私たちは自分たちもきちんと来たし、この客人も一人連れてきた。生まれはエレア*2で、パルメニデスやゼノンの仲間であり、実に哲学者らしい人だ。

*1 〔 話者の表示について 〕底本の話者名は、ΘΕΟ.(テオドロス)、ΣΩ.(ソクラテス)、ΞΕ.(エレアからの客人)、ΘΕΑΙ.(テアイテトス)の略号で示されている。本訳では、これに対応させて、「テオ:」「ソク:」「客人:」「テア:」と示した。冒頭の216aから217dまでは、テオドロス、ソクラテス、客人の三人が言葉を交わす。テオドロスの発言は217bまでの6回、ソクラテスの発言は217dまでの6回で、以後は客人とテアイテトスの対話が続く。パルメニデスの詩句を挟む237aと244eでは、詩句の直後に続く同じ話者の発言に、話者の表示を付けていない。

*2 〔 エレアからの客人について 〕テオドロスは、客人を、エレア生まれで、パルメニデスとゼノンの仲間であり、実に哲学者らしい人だと紹介する(216a)。エレアは南イタリアの都市で、パルメニデスとゼノンの出身地として知られる。客人の名は、この対話篇でも、続く『政治家』でも語られない。底本の語は ξένος で、「客人」と訳した。

ソク:では、テオドロスよ、君は客人ではなく、ホメロスの言葉*3にいう何かの神を連れてきて、それに気づかずにいるのではないか。ホメロスは、正しい畏れの心にあずかる他の神々も、とりわけ客を守る神も、人々に付き添いながら、人々の不遜と善き秩序とを見下ろしていると言っている。だから、君にもこの人は、議論において取るに足りない私たちを見届け吟味するために、吟味を事とする神として、より優れた者の一人として付き添っているのかもしれない。

*3 〔 ホメロスの言葉について 〕216a–bで、ソクラテスは、客人を神かもしれないと言い、ホメロスの言葉を引く。それによれば、神々は、さまざまな姿で人々のもとを訪れ、とりわけ客を守る神は、人々の不遜と善き秩序を見下ろしながら付き添う。該当する句は『オデュッセイア』17巻485–487行にあたる(9巻271行を挙げる注もある)。ソクラテスは続けて、この客人は「吟味を事とする神」かもしれないと冗談めかして言い、テオドロスは、この人は論争に熱中する人々よりも穏やかだと答える(216b–c)。

テオ:この客人の流儀はそうではない、ソクラテスよ。論争に熱中する人々よりも穏やかだ。私はすべての哲学者をそう呼ぶので、この人は決して神ではないが、神的な人だと思う。

ソク:それは見事な言い方だ、親愛なる人よ。ただ、この類は、神の類を見分けるのに比べて、いわばそれほど容易ではないかもしれない。こうした人々は、他の人々が知らないために実にさまざまな姿に現れて、国々を巡り歩くからである。偽りなく真に哲学者である人々は、高みから下にいる者たちの生を見下ろし、ある人々には無価値と思われ、ある人々にはすべてに値すると思われる。そして、ときには政治家として現れ、ときにはソフィストとして現れ、ときにはまったく狂っている者という評判を、ある人々に与えることもある。ところで、もし客人に差し支えなければ、あちらの地方の人々がこれらをどう考え、何と呼んでいたのかを、ぜひ尋ねたい。

テオ:それは何のことか。

ソク:ソフィスト、政治家、哲学者のことだ。

テオ:それらについて、特にどんなことで、どのような点で行き詰まって、尋ねようと思ったのか。

ソク:こういうことだ。彼らはそれらを一つのものと考えていたのか、二つと考えていたのか。それとも、名が三つあるように、類も三つに分けて、一つ一つに一つの名を当てていたのか。

テオ:いや、私の思うところ、この人にはそれらを説明するのを惜しむ理由は何もない。それとも客人よ、どう言えばよいか。

客人:そのとおりだ、テオドロスよ。惜しむ理由は何もないし、彼らが三つと考えていたと言うことも難しくない。だが、一つ一つについて、それがいったい何であるかを明確に規定することは、小さくも容易でもない仕事だ。

テオ:それにしても、ソクラテスよ、君は偶然にも、私たちがここへ来る前にこの人に尋ねていた議論とよく似たものに行き当たった。この人は十分に聞いて覚えていると言っているのだが、そのときも私たちに対して、今君に言うのと同じことを口実にしていた。

ソク:では客人よ、私たちが初めて願うこの頼みを、断る人にはならないでほしい。ただ、次のことだけ教えてほしい。君は、人に示そうと思うことを、自分一人で長い論をもって述べていくのと、問答によるのと、どちらをより好むのか。問答というのは、かつて私が若かったころ、そのときすでにたいへん年老いていたパルメニデス*4が用いて、実に見事な議論を述べていった場に、居合わせたことがあるようなものだ。

*4 〔 パルメニデスとの出会いについて 〕217cで、ソクラテスは、自分が若かったころ、すでにたいへん年老いていたパルメニデスが、問答を用いて見事な議論を述べていった場に居合わせたことがある、と語る。これは、プラトンの対話篇『パルメニデス』の冒頭の場面(127a–c)に対応する。そこでは、パルメニデスは65歳ほど、ゼノンは40歳ほどで、ソクラテスはごく若い、とされる。

客人:苦もなく素直に応じて対話してくれる相手がいる場合には、そのほうが、つまり他の人を相手にするほうが、ソクラテスよ、容易だ。そうでなければ、自分一人でするのがよい。

ソク:それなら、ここにいる人々のうち、君の望む人を選んでよい。みな穏やかに君に応じるだろう。ただ、私を助言者とするなら、若者の一人を、このテアイテトスを選ぶだろうが、他の人でも、君の気に入る者がいればそれでもよい。

客人:ソクラテスよ、君たちと今初めて交わるのに、短い言葉に短い言葉を返すようにして交際を進めるのではなく、話を引き延ばして、自分一人で、あるいは他の人に向かってでも、いわば披露のようにして長々と論を述べることには、ある恥ずかしさを覚える。本当のところ、今出された問題は、こうして問われた形から人が期待するほど小さなものではなく、実に長大な論を要するものなのだ。他方、君にも、ここにいる人々にも好意を示さないのは、とりわけ君があのように言った以上、客をもてなさぬ粗野なことに思われる。そこで、テアイテトスを対話の相手とすることは、私自身がこれまでに交わした対話からも、今君が私に促すことからも、全面的に受け入れる。

テア:ならば、客人よ、そのようにするがよい。ソクラテスの言ったとおりにすれば、皆を喜ばせることになるだろう。

客人:これらについては、もう何も言うべきことはなさそうだ、テアイテトスよ。これからは、どうやら君に向けて議論が進むことになる。もし万一、長さに苦しんで疲れるようなことがあれば、それを私のせいにせず、君のここにいる仲間たちのせいにしてほしい。

テア:いや、今のところ、そのように音を上げることはないと思う。もし万一そのようなことが起こるなら、このソクラテスも加えよう。ソクラテスと同じ名で、私と同年で、一緒に体を鍛えた仲間であり、私とともに多くのことを苦労して行うのに慣れている人だ。

客人:よく言った。それらのことは、議論が進んでから君が自分で考えるだろう。ただし共同では、私とともに君が、私に思われるところでは、まず最初にソフィストから始めて、それがいったい何であるかを探り、言論によって明らかにしながら、考察していかなければならない。今のところ、君も私も、これについては名だけを共有しているのであって、その名で呼ぶ働きについては、おそらくそれぞれが自分のうちに別々に持っているだろう。ところが、いつでもどんなものについても、名だけを言論なしに同意するよりも、事柄そのものを言論によって同意しておかねばならない。いま探ろうと考えているこの種族、すなわちソフィストが何であるかを捉えることは、決してすべてのうちで最も容易なことではない。大きな事柄のうち見事に仕上げるべきものについては、以前から皆が、まず最大のものそのものに取りかかる前に、小さくて容易なもので練習すべきだと決めている。そこで、テアイテトスよ、もし君が、どこかからもっと手軽な別の道を言えるのでなければ、私は私たち二人にも、ソフィストの類は厄介で狩りにくいと考えたうえで、先にその方法を、他のもっと容易なもので予行練習するよう勧める。

テア:いや、言えない。

客人:では、何か取るに足りないものを追い、それをより大きなものの範例として立ててみたいと思うか。

テア:そうしたい。

客人:では、よく知られていて小さく、それでいてより大きなどんなものにも劣らぬ論をもつものとして、何を先に置こうか。たとえば釣り人だ*5。これは誰にもよく知られ、さほどの熱意に値するものでもないのではないか。

*5 〔 釣り人の範例について 〕218e–219aで、客人は、ソフィストのような大きな対象を探る前に、小さく、よく知られたものを範例として取り上げ、方法を試すことを提案し、その例に釣り人を選ぶ。この例では、技術を獲得術と制作術に分け、獲得術をさらに二つに分け、と順に分けていく手順が示される(219a–221c)。同じ手順が、221c以下でソフィストに当てはめられる。集めることと分けることを方法とする考えは、『パイドロス』265d–266cにも述べられている。

テア:そのとおりだ。

客人:ところで、これは私たちの望むことに適した方法と論を備えていると、私は期待する。

テア:それはよいだろう。

客人:では、ここから始めよう。教えてくれ。これを技術をもつ者として立てるか、それとも技術をもたず、何か別の力をもつ者として立てるか。

テア:技術のない者とは、決して立てない。

客人:しかし、あらゆる技術には、ほぼ二つの種がある。

テア:どういうことか。

客人:農業と、死すべきもの一般の身体にかかわるあらゆる世話、また複合され形作られたもの、すなわち私たちがすでに道具と呼んだものにかかわるもの、さらに模倣術、これらすべては、一つの名で呼ぶのが最も正しいだろう。

テア:どのように、そしてどの名でか。

客人:以前にはなかったものを、後になって、ある人が存在へと導くとき、導く者は「作る」、導かれるものは「作られる」と、私たちは言うだろう。

テア:正しい。

客人:ところで、いま私たちが一通り述べたものはすべて、その力をこの点にもっていた。

テア:実際そうだった。

客人:ならば、それらをまとめて、制作術と呼ぼう。

テア:そうしよう。

客人:次に、学習にかかわる種全体と、認識にかかわる種、さらに金儲けの術、競争術、狩猟術がある。これらはどれも何も制作せず、すでにあるものや生じたもののうち、あるものを言論と行為によって手中に収め、あるものを、手中に収めようとする者たちに譲らないので、これらすべての部分は、何か獲得術と呼ばれるなら、おそらく最もよくその名に適うだろう。

テア:ふさわしいだろうから、そうだ。

客人:では、すべての技術が獲得術と制作術とであるとして、テアイテトスよ、釣り人の技はそのどちらに置こうか。

テア:獲得術の中に置くのは明らかだろう。

客人:獲得術には二つの種があるのではないか。一つは、贈与と賃貸と購入とによって、双方が望んで相手に移し替えるもの、もう一つは、残りの、行為によってであれ言論によってであれ手中に収めるものすべてであって、これは力による獲得術になるのではないか。

テア:少なくとも、述べたことからはそう見える。

客人:では、力による獲得術は二つに分けるべきではないか。

テア:どのようにか。

客人:公然たるものは全体を競争術と置き、ひそかなものはすべて狩猟術と置くことによってだ。

テア:そうだ。

客人:そして狩猟術も二つに分けるのが道理だ。

テア:どのようにか、言ってくれ。

客人:生命をもたない類と、生命をもつ類とに分けることによってだ。

テア:その両方があるのなら、もちろんそうしよう。

客人:どちらもあるではないか。私たちは、生命をもたないものの狩猟については、潜水術のある部分やそれに類する少数のものを除いて名がないので、これは放っておき、もう一方、生命をもつ生きものの狩猟であるものを、生きもの狩猟術と呼ばなければならない。

テア:そうしよう。

客人:生きもの狩猟術には、二つの種があると言うのが正しいのではないか。一つは歩くものの類にかかわり、多くの種と名に分けられている陸の狩猟術であり、もう一つは泳ぐ生きもの全体にかかわる水棲のものの狩猟術だ。

テア:まったくそうだ。

客人:泳ぐものには、翼のある族と、水中にすむ族とがあると、私たちは見ているのではないか。

テア:もちろん見ている。

客人:また翼のある類の狩猟は、全体が、何か鳥の狩猟術と呼ばれているだろう。

テア:実際そう呼ばれている。

客人:水中にすむ類の狩猟は、ほぼ全体が漁撈術だ。

テア:そうだ。

客人:では、この狩猟も、最も大きな二つの部分に分けることができるのではないか。

テア:どのような点でか。

客人:一方は囲いによってその場で狩猟を行い、他方は打つことによって行う、という点でだ。

テア:どういうことか。それぞれをどのように分けているのか。

客人:一方については、妨げるために何かを取り囲んで閉じ込めるものは、何であれ囲いと名づけるのが道理だ、ということだ。

テア:まったくそうだ。

客人:では、筌、網、輪縄、袋網、そのようなものを、囲い以外の何かと呼ぶべきだろうか。

テア:囲い以外にはない。

客人:それなら、狩猟のこの部分は、囲い狩猟術、あるいはそれに似た何かだと言おう。

テア:そうだ。

客人:一方、釣り針や三つ叉の槍で打つことによって行われるものは、先のものとは異なるが、いまは一つの言葉で、何か打つ狩猟術と呼ばなければならない。それとも、テアイテトスよ、もっとよい呼び方を言える人がいるだろうか。

テア:これでも十分なので、名は気にしないでおこう。

客人:ところで、打つ狩猟術のうち、夜に火の光のもとで行われるものは、狩猟に携わる人々自身が、火の狩猟術と呼ぶことになったと思う。

テア:まったくそうだ。

客人:昼に行われるものは、三つ叉の槍にもその先に釣り針がついているので、全体を釣り針術と呼ぶ。

テア:確かにそう呼ぶ。

客人:それなら、打つ狩猟術に属する釣り針術のうち、上から下に向かって行われるものは、三つ叉の槍を主にそのように用いることから、三つ叉漁と呼んでいると思う。

テア:少なくとも、そう言う人たちがいる。

客人:残るのは、いわば、あと一つの種だけだ。

テア:それはどんなものか。

客人:これと反対の打ち方をするものだ。釣り針で行われ、魚の体のたまたま当たる所を、三つ叉の槍の場合のように打つのではなく、そのつど捕らえられるものの頭と口のあたりを打ち、下から反対の上へ、竿や葦で引き上げるものだ。これについて、テアイテトスよ、どんな名で呼ぶべきだと私たちは言おうか。

テア:さきほど見いだすべきだと私たちが課題としたまさにそのことを、いま私たちは成し遂げたと思う。

客人:では今、釣り人の技について、君と私は名について同意しただけでなく、その事柄そのものについての論も十分に得た。というのも、技術全体の半分は獲得術であり、獲得術の中の力による獲得術、その中の狩猟術、狩猟術の中の生きもの狩猟術、その中の水棲のものの狩猟術、水棲のものの狩猟術のうち下の部分全体は漁撈術、漁撈術の中の打つ狩猟術、その中の釣り針術であった。そしてこの釣り針術のうち、下から上へ打って引き上げることにかかわる部分は、その行為そのものになぞらえた名がつけられて、いま探求された釣り人の技という呼び名になったからである。

テア:まったくそのとおりだ。この点は十分に明らかになった。

〔 221c~236c について 〕
位置づけ:ソフィストを、技術の分割によって定義しようとする試みを重ねる部分。
概要:釣り人の範例にならって、ソフィストが何であるかを、狩猟術、商業術、競争術、浄化術へと、技術を分けながら探る。そのたびに別の姿が現れるため、客人はそれを数え直し、さらに、あらゆることを知っているように見せる者という面から、模倣術と似像づくりの術へと考察を進める。

客人:さあ、この範例にならって、ソフィストについても、それがいったい何であるかを見いだすよう試みよう。

テア:ぜひそうしよう。

客人:ところで、最初の問いは、釣り人を、素人と立てるべきか、何か技術をもつ者と立てるべきか、ということだった。

テア:そうだ。

客人:では今、この人を、テアイテトスよ、素人として立てようか、それとも全くまことのソフィストとして立てようか。

テア:君の言うことはわかるので、素人とは決して立てない。この名を持つ者は、素人からはほど遠い。

客人:いや、この人は何か技術をもつ者として立てなければならないようだ。

テア:ではいったい、それはどんな技術か。

客人:神々にかけて、私たちは、一方の人が他方の人と同族であることを、知らずにいたのだろうか。

テア:どの人が、誰とか。

客人:釣り人が、ソフィストとだ。

テア:どの点でか。

客人:どちらも、私には、何かの狩人であるように見える。

テア:もう一方は、何の狩りの狩人か。一方についてはすでに述べたからである。

客人:さきほど私たちは、狩猟の全体を、一方は泳ぐものの部分、他方は歩くものの部分として切り分け、二つに分けたと思う。

テア:そうだ。

客人:そして、泳ぐ水棲のものにかかわる部分は一通り述べたが、歩くものの部分は、種が多いと言って、分けずに残した。

テア:まったくそうだ。

客人:ではここまでは、ソフィストと釣り人は、ともに獲得術から出発して進んでいる。

テア:少なくともそのように見える。

客人:だが、生きもの狩猟術からは別れる。一方は、おそらく海や川や湖へ向かい、そこにいる生きものを狩ろうとする。

テア:もちろんそうだ。

客人:他方は、陸へ、そしてまた別の川、すなわち富と若さのいわば豊かな草原のようなものへ向かい、そこにいる育てられたものを手中に収めようとする。

テア:どういうことか。

客人:歩くものの狩猟には、最も大きな二つの部分がある。

テア:それぞれはどのようなものか。

客人:一方は飼いならされたものの狩猟、他方は野生のものの狩猟だ。

テア:では、飼いならされたものの狩猟というものがあるのか。

客人:人間が飼いならされた生きものであるならば、あるだろう。君の好きなように定めてよい。飼いならされたものは何もないとするのでもよいし、他のものには飼いならされたものがあるが人間は野生だとするのでもよい。あるいはまた、人間は飼いならされたと言いながら、人間の狩猟は何もないと考えるのでもよい。これらのうち、君が言って好ましいと思うほうを、私たちのために決めてくれ。

テア:客人よ、私たちは飼いならされた生きものだと思うし、人間の狩猟があるとも言う。

客人:ならば、飼いならされたものの狩猟術も二つあると言おう。

テア:どの点からそう言うのか。

客人:強盗術、人さらいの術、僭主術、そして戦争術の全体を、一つにまとめて、暴力による狩猟と定義することによってだ。

テア:それでよい。

客人:他方、法廷弁論術、民会弁論術、交際術は、これもまとめて一つにして、説得術という一つの技術と呼ぶことによってだ。

テア:正しい。

客人:その説得術にも、二つの類があると言おう。

テア:どのようなものか。

客人:一方は私的に行われ、他方は公的に行われるものだ。

テア:確かに、それぞれが一つの種になる。

客人:では、私的な狩猟術はさらに、報酬を取るものと、贈り物を持ってくるものとに分かれるのではないか。

テア:わからない。

客人:君は、恋する者たちの狩猟に、まだ注意を向けていないようだ。

テア:何のことか。

客人:彼らは、狩りの対象となった者たちに、さらに贈り物を与えるということだ。

テア:君の言うことは全く本当だ。

客人:ではこれは、恋の術の一つの種としよう。

テア:まったくそうだ。

客人:報酬を取るもののうち、好意によって交わり、まったく快さによって餌をつくり、報酬としては自分の食べ物だけを得るものを、私の思うところ、皆が追従術か、あるいは何か楽しませる術だと言うだろう。

テア:もちろんそう言うだろう。

客人:一方、徳のために交わりを持つと公言しながら、報酬として貨幣を取るものは、この類を別の名で呼ぶのがふさわしいのではないか。

テア:もちろんそうだ。

客人:ではそれは何という名か。言ってみてくれ。

テア:明らかだ。私たちはソフィストを見いだしたように思う。だから、この名を言うなら、彼に適した名で呼ぶことになると思う。

客人:テアイテトスよ、ここまでの議論に従えば、どうやら、自分のものにする技術に属し、力による獲得術に属し、狩猟術に属し、生きもの狩猟に属し、陸の狩猟に属し、人間の狩猟に属し、説得による狩猟に属し、私的な狩猟に属し、貨幣と引き換えに売り、思わくを教え、富裕で名高い若者たちを対象として行われる狩猟は、いまの議論が私たちに導くところでは、ソフィスト術と呼ばなければならない。

テア:まったくそうだ。

客人:さらにこの点からも見ておこう。いま探求されているものは、決して取るに足りない技術にあずかるのではなく、実に多彩な技術にあずかるものだからである。実際、先に述べたことの中でも、それは、いま私たちが言うまさにそのものではなく、何か別の類であるかのような幻影を示している。

テア:どの点でか。

客人:獲得術の種は、たしか二つあった。一方は狩猟の部分をもち、他方は交換にかかわる部分をもつ。

テア:実際そうだった。

客人:ではその交換術について、一方は贈与にかかわるもの、他方は購買にかかわるものという二つの種を、言うことにしようか。

テア:そう言おう。

客人:そしてさらに、購買術は二つに分かれると言おう。

テア:どのようにか。

客人:自分で作る者たちの自売術と、他人の作品を取り替える転売術とに分けるのだ。

テア:まったくそうだ。

客人:では、転売術のうち、都市の内部での交換は、その半分ほどにあたるが、小売術と呼ばれるのではないか。

テア:そうだ。

客人:そして、一つの都市から別の都市へ、購入と販売によって交換するものは、商業術ではないか。

テア:もちろんそうだ。

客人:商業術のうち、一方は身体が養い用いるものを、他方は魂が養い用いるもの*6を売って、貨幣を通じて交換することに、私たちは気づいているのではないか。

*6 〔 魂の商業について 〕223e–224dで、ソフィストは、魂が養い用いるものを売り歩く商人として捉えられる。音楽、絵画、手品などの売買が、食べ物や飲み物の売買と並べられ、学ぶべきことを買い集めて都市から都市へ巡る者にも、同じ商人の名が当てられる(224a–b)。ソフィストを、魂の糧となるものを売る商人になぞらえる言い方は、『プロタゴラス』313c–314bにも見える。

テア:どういうことか。

客人:もう一方なら私たちは理解しているだろうから、魂にかかわるほうを、おそらく私たちは知らないのだ。

テア:そうだ。

客人:では、こう言おう。音楽の全体は、そのつど都市から都市へ、ある所で買われ、別の所へ運ばれるものであり、また絵画や手品や、魂にかかわるその他の多くのものも、あるものは慰みのために、あるものは真剣な目的のために運ばれ売られるものだ。それらを運び売る者は、食べ物や飲み物の販売に劣らず、正しく商人と呼ばれる者になるだろう。

テア:君の言うことは全く本当だ。

客人:では、学ぶべきことを買い集め、都市から都市へ貨幣と引き換えに巡る者にも、同じ名で呼ぶだろうか。

テア:まったくそうだ。

客人:では、この魂の商業のうち、一方は披露術と、最も正しく呼べるだろうが、他方は、前の名に劣らず滑稽な名であっても、それが学ぶべきことの販売である以上、その行いに通じる名で呼ばなければならないのではないか。

テア:まったくそうだ。

客人:ではこの学問販売術のうち、他の技術の学ぶべきことにかかわるものはある名で、徳の学ぶべきことにかかわるものは別の名で呼ばなければならない。

テア:もちろんそうだ。

客人:他のことにかかわるものには、技術販売術という名がふさわしいだろう。徳にかかわるものの名は、君が進んで言ってみてくれ。

テア:いま探している当のもの、すなわちソフィスト術の類だと言う以外に、ほかのどんな名を言えば適切でありうるだろうか。

客人:ほかにはない。さあ、いまそれをまとめて、次のように言おう。獲得術に属し、転売術に属し、購買術に属し、商業術に属し、魂の商業に属し、言論と徳の学ぶべきこととにかかわって売るものが、第二のソフィスト術として現れた、と。

テア:まったくそうだ。

客人:三番目に、もし誰かが、都市に腰を据え、これらと同じ領域の学ぶべきことを、あるものは買い入れ、あるものは自分でも組み立てて売り、それで生計を立てているなら、君はその人をも、さきほどと同じ名で呼ぶだろうと私は思う。

テア:もちろんそう呼ぶ。

客人:そうすると、獲得術に属し、転売術に属し、購買術に属し、小売の仕方であれ自売の仕方であれ、そのどちらでも、こうしたことにかかわる学問販売の類であればどんなものでも、君は、そう見えるとおり、いつでもソフィスト術と呼ぶことになる。

テア:議論に従わなければならないので、そうせざるをえない。

客人:なお、いま追っている類が、次のようなものに似ていないかどうか、見てみよう。

― 試し読みはここまでです ―

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ソピステス

発行責任者(訳者):飯島健二

発行:古典書房

制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)

参照原典:ギリシア語原典『Σοφιστής』(John Burnet版, Platonis Opera, Tomus I, Oxford: Clarendon Press。入手元の書誌表示は1905年)

初版発行日:2026年10月31日

試し読み版

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注記:本サンプルは正本の冒頭(216a〜224e)のみを収録したものである。全文は正本でお読みいただける。