本HTMLは、プラトン(Πλάτων)の対話篇『テアイテトス』(原題:Θεαίτητος)の現代日本語訳である。知識とは何かという問いをめぐる、ソクラテスと数学者テオドロス、若いテアイテトスの問答を収める。
底本(テキストデータ):John Burnet(ed.), Platonis Opera, Tomus I: Tetralogias I-II continens(Oxford: Clarendon Press。入手元の書誌表示は1905年)所収 Θεαίτητος。入手元:Perseus Digital Library / Open Greek and Latin Project(CTS URN: urn:cts:greekLit:tlg0059.tlg006.perseus-grc2)。同じ版のギリシア語Wikisource本文と全文を照合し、入手元の誤りを訂正した(語形の誤植2か所〔144a付近・164c付近〕、迷入した記号1か所〔161d〕、話者の表示の脱落1か所〔210b〕、頁の境で重複していた話者の表示2か所〔199b、208c〕)。
本書は現代語訳のみを掲載し、直訳との切替は行わない(散文の哲学書であり、直訳併記の対象ではない)。
本文中の番号(例:184b)は、底本の欄外に付された「ステファヌス番号」であり、原典と対応させながら読み進める手がかりとなる。「底本頁」ボタンで常時表示に切り替えられる。『テアイテトス』は142aから210dまでの範囲にあたる。
この対話篇は、メガラのエウクレイデスとテルプシオンの会話から始まる。エウクレイデスは、ソクラテスから聞いた問答を「と彼は言った」といった地の文を省いて書き留めており、本編はその書物を読み上げる形をとる。このため、発言者は、底本の略号(ΕΥ.=エウクレイデス、ΤΕΡ.=テルプシオン、ΣΩ.=ソクラテス、ΘΕΟ.=テオドロス、ΘΕΑΙ.=テアイテトス)に対応させて、「エウ:」「テル:」「ソク:」「テオ:」「テア:」と示した。同じ話者の発言が段落をまたいで続く箇所と、詩句の引用を挟む箇所には、話者の表示を付けていない。発言そのものは「 」で括らず、発言の中で引用される言葉や、仮に語られる言葉を「 」で示した。ホメロスとパルメニデスの詩句は、底本と同じく別の行に分け、「 」は用いていない。
画面右下の「i」ボタンを押すと、明るさ調整・なぞり線・底本頁・解説の各切り替えをまとめて行える操作パネルが開く。閉じるには「✕」を押す。
解説・概説・用語集は、一般に流通している知見にもとづく参考情報であり、逐一の出典確認・査読を経たものではない。本文の理解を助ける参考としてお使いいただきたい。
哲学原典を読む / 古典書房
前5世紀のギリシアでは、世界の成り立ちをめぐって、対立する見方が出そろっていた。ヘラクレイトスは、万物は絶えず変化して流れると考え、パルメニデスは、あるものは生成も消滅もせず、変わらないと説いた。また、ソフィストのプロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」と述べたと伝えられる。何がどうあるかは、それを経験する人によって決まる、という相対主義の主張である。
これらの主張は、自然学の問題にとどまらない。感覚に現れるものを、そのまま信じてよいのか。人によって違って見えるとき、どちらかが正しいといえるのか。そもそも知識とは何なのか。こうした問いが、哲学の中心に置かれつつあった。
ソクラテスは何も書き残さず、人々に問いかけて、その人が知っていると思い込んでいることを吟味した。プラトンの初期の対話篇は、その問答を描き、「敬虔とは何か」「勇気とは何か」といった問いが、はっきりした答えに至らないまま終わることも多い。中期の『国家』は、知識と思わくを別の能力として区別し、『メノン』は、真なる思わくが、原因を考えることで縛られて知識になる、と語った。『テアイテトス』は、これらを前提にしつつ、知識とは何かという問いそのものを、正面から主題にした。この対話篇には、幾何学の教師テオドロスと、その弟子の少年が登場する。当時の数学が、知識の模範とみなされていたことも、背景にある。
この対話篇が哲学書とされる理由は、「知識とは何か」という問いを、一つ一つの答えを試す形で、最後まで追い詰めていくところにある。ソクラテスは、若者に自分の答えを出させ、それを吟味する。その過程で、感覚、思わく、説明といった、認識を支える働きが、順に取り上げられる。知識を、感覚、思わく、説明という別々の側面から考える筋道を、ここまで明確に区切って示した作品は、それ以前にない。
もう一つの特徴は、ソクラテスの産婆術という自己紹介である。ソクラテスは、自分は何も産むことができないが、相手の魂が抱えている考えを産ませ、それが本当の子か、風卵にすぎないかを見分ける、と語る。問答というやり方そのものを、哲学の方法として説明している点が、この対話篇の読みどころである。
議論の途中では、プロタゴラスの説を、作者がいわば本人に代わって弁護し、それを検討する場面がある。相手の立場を、できるかぎり強い形で取り上げてから吟味する態度は、のちの哲学の議論の手本となった。さらに、蠟の型や鳩小屋といった比喩を用いて、誤りがどうして生じうるのかを考える部分は、記憶と思考のはたらきを考える最初期の試みの一つとして、今も読まれる。
プラトン自身は、この対話篇の問いを、のちの作品に引き継いだ。『ソフィスト』『政治家』は、この対話の翌日に続くという設定で書かれ、あるとあらぬという問題が、『テアイテトス』より進んだ形で論じられる。アリストテレスは、『形而上学』で、プロタゴラスの相対主義を、矛盾の原理にもとづいて批判した。古代には、この対話篇への注解も書かれ、紀元後2世紀ごろのパピルス写本が残る匿名の注解がある。
近代以降、感覚と知性の関係をめぐる認識論の議論に、この対話篇の問いが繰り返し立ち返った。20世紀には、ウィトゲンシュタインが、『哲学探究』で、この対話篇の「要素」と「名」をめぐる議論に触れている。また、知識を、正しい理由づけを伴う真なる信念とみなす定義は、この対話篇を源流として引かれることが多く、1963年のゲティアの短い論文以後、その当否が活発に論じられた。
知識とは何か、という問いは、今日もなお、哲学の根本的な問いである。人が何かを知っているとはどういうことか、誤りはどこから生じるのか、という問いは、学問や教育のあり方を考えるうえでも、そのまま通じるものである。
以下、()内は原則としてギリシア語原語。
ステファヌス版番号(Burnet版)。番号をクリックすると本文の該当箇所へ移動する。
底本には章・節の見出しはなく、伝統的に参照されるステファヌス版番号(142~210)が付されているのみである。目次の4部構成は、内容にもとづいて便宜的に設けた区分である。
〔 142a~151d について 〕
位置づけ:前置きと、ソクラテスの方法の説明にあたる部分。
概要:メガラのエウクレイデスが、テルプシオンに、ソクラテスから聞いた問答を書き留めた書物を、奴隷に読ませる。対話の中でソクラテスは、数学の才のある少年テアイテトスに、知識とは何かと問い、自分の産婆術を説明する。
エウ:テルプシオン*1よ、田舎から着いたのは今か、それとも前からか。
*1 〔 話者の表示について 〕底本の話者名は、ΕΥ.(エウクレイデス)、ΤΕΡ.(テルプシオン)、ΣΩ.(ソクラテス)、ΘΕΟ.(テオドロス)、ΘΕΑΙ.(テアイテトス)の略号で示されている。本訳では、これに対応させて、「エウ:」「テル:」「ソク:」「テオ:」「テア:」と示した。冒頭のエウクレイデスとテルプシオンの会話のあと、142a–143cで、エウクレイデスが書き留めたというソクラテスたちの対話が、読み上げられる。この部分には、「と彼は言った」のような地の文はなく、段落はおおむね一人の発言である。同じ話者の発言が段落をまたいで続く箇所と、詩句の引用を挟む箇所には、話者の表示を付けていない。
テル:かなり前からだ。広場で君を探していたのだが、見つけることができず、不思議に思っていた。
エウ:私は町の中にいなかったのだ。
テル:では、いったいどこにいたのか。
エウ:港へ下りていく途中で、コリントスの陣営からアテナイへ運ばれていくテアイテトス*2に出会ったのだ。
*2 〔 テアイテトスについて 〕アテナイの数学者で、前417年ごろに生まれ、前369年ごろに没したとされる。無理量の理論や、正多面体の研究で知られる。この対話篇の冒頭では、コリントスの近くの戦いで傷つき、病を得て運ばれてくる姿が語られる(142a–b)。対話そのものは、ソクラテスが裁判にかけられる直前、前399年ごろの設定である。
テル:生きていたのか、それとも死んでいたのか。
エウ:生きてはいるが、ほとんど辛うじてだ。いくつかの傷でも苦しんでいるが、それ以上に、陣営で起きた病気が彼を捕らえている。
テル:まさか赤痢ではないか。
エウ:そうだ。
テル:何という人が危険の中にいると、君は言うのか。
エウ:立派で善い人だ、テルプシオンよ。実際、ついさっきも、戦闘でのことを大いにほめている人たちの話を聞いたところだ。
テル:それは少しも奇妙ではない。むしろ、もしそのような人でなかったなら、はるかに不思議だっただろう。ところで、どうして彼はここメガラで宿を取らなかったのか。
エウ:彼は家へ急いでいた。私は引き止めて勧めたのだが、聞き入れようとしなかった。それで見送ってから、帰る途中で思い出し、ソクラテスが他のことと並んでこの人についても、どれほど予言者のように語ったかに驚いた。というのも、彼は亡くなる少し前に、まだ少年だったこの人に出会い、交わって語り合い、その素質に深く感心したと思われるのだ。そして私がアテナイに来たとき、彼がこの人と交わした議論を、聞くに値するものばかりだが、私に語り聞かせ、また、この人がもし年齢に達するならば、必ず名のある人になるはずだと言った。
テル:本当のことを言ったようだ。ところで、その議論とはどんなものだったのか。君は語れるだろうか。
エウ:ゼウスにかけて、違う。少なくとも、このように口からすぐには語れない。ただ、あのとき家に帰るとすぐ覚え書きを書き留め、のちにゆとりのあるときに思い出しながら書き、アテナイに行くたびに、思い出せなかったことをソクラテスに尋ね、こちらに来てから訂正した。そのため、議論のほとんど全体が私の手で書かれている。
テル:そのとおりだ。前にも君から聞いたのだが、いつも見せてほしいと頼もうと思いながら、今まで延ばしてきた。しかし今、私たちが読み通すのに何の差し支えがあるだろうか。それに私は、田舎から来たので、どうしても休息したい。
エウ:いや実際、私自身もエリノスまでテアイテトスを見送ったのだから、休んでも不快ではないだろう。さあ行こう。休んでいる私たちのために、少年が読んでくれる。
テル:君の言うことは正しい。
エウ:テルプシオンよ、その書物がこれだ。私はこの議論を次のように書いた。ソクラテスが私に語り聞かせたとおりに語る形ではなく、彼が議論を交わしたと言った相手と、直接語り合う形にしたのだ。その相手は、幾何学者のテオドロス*3とテアイテトスだと彼は言った。そこで、書くときに、議論の合間に入る叙述が、ソクラテスが自分について語る場合の、たとえば「そして私は言った」や「そして私は述べた」、また答える人について「同意した」や「同意しなかった」といった言い方で、面倒を生まないようにするために、彼がその人たちと直接語り合うように書き、そのような言い方を取り除いた。
*3 〔 テオドロスについて 〕キュレネ出身の数学者で、プロタゴラスと親しかったとされる。この対話篇では、ソクラテスより年長で、テアイテトスの師として登場する(143d、164e)。
テル:少しも不適切ではない、エウクレイデス*4よ。
*4 〔 エウクレイデスについて 〕メガラの人で、ソクラテスの弟子の一人。のちにメガラ派と呼ばれる系統の祖とされる。この対話篇では、ソクラテスから聞いた問答を、後で書き留めた人として登場する(142c–143a)。
エウ:さあ、子よ、書物を取って読んでくれ。
ソク:テオドロスよ、もし私がキュレネの人々のことをより気にかけていたなら、あちらのことと、あちらの若者たちのことを君に尋ねていただろう。あちらに、幾何学かほかの何らかの哲学に熱心に取り組んでいる若者がいるかどうかをだ。だが今は、私はあの人々をこちらの人々ほど愛していないので、私たちの若者のうち誰が優れた人になりそうかを、いっそう知りたいと思う。このことを、私自身もできるかぎり調べ、また若者たちが交わりたがるのを見る人々にも尋ねている。君のもとには、少なからぬ者が近づいてくる。君は他の点でも、幾何学のゆえにも、それに値する人なので、それも当然だ。だから、もし君が話に値する者に誰か出会ったなら、喜んで聞きたい。
テオ:実際、ソクラテスよ、君たちの市民の中で私が出会った少年は、私が話すにも君が聞くにも十分に値する人物だ。もし彼が美しかったなら、誰かに、彼を恋い慕っていると思われはしないかと恐れて、話すのをひどくためらっただろう。だが今は、気を悪くしないでほしいが、彼は美しくない。鼻が低く、目が突き出ている点で君に似ている。ただ、君よりはその度合いが弱い。だから、安心して話す。よく知っておいてほしい。私がこれまでに出会った人のうち、実に多くの人と交わってきたが、これほど驚くほど素質に恵まれた者に気づいたことはなかった。物わかりがよいことは他の者には難しいのに、そのうえ格別に穏やかで、さらにそれに加えて誰よりも勇敢である、ということは、私は起こりうるとは思わなかったし、起こっているのも見ていない。他の者は、この少年のように鋭く、頭の回転が速く、たいてい記憶がよい人でも、気性が激しく動きやすく、底荷のない船のように飛び跳ねて運ばれ、勇敢というより狂気に近い者に育つ。逆に、どっしりと重い人は、学ぶことに対してなぜか鈍く、忘却に満ちている。ところが彼は、学ぶことにも探究にも、滑らかに、つまずかず、成果をあげながら、大いなる穏やかさをもって進んでいく。それは音もなく流れる油の流れのようで、あの年でこれらを成し遂げているのかと、驚くほどである。
ソク:よい知らせだ。ところで、その少年は市民のうちの誰の子なのか。
テオ:名前は聞いたが、覚えていない。だが、ともかく、あそこに近づいてくる人々の真ん中にいる者だ。さきほど外側の走路で体に油を塗っていたのは、彼の仲間たちと彼自身で、今は油を塗り終えて、こちらへ来るところだと思われる。さあ、見て、君が彼を知っているかどうか確かめてくれ。
ソク:知っている。スニオン区のエウフロニオスの子だ。親愛なる人よ、まさに君が今この少年について語ったような人物で、ほかの点でも評判のよい人であり、また実に多くの財産を残した。だが少年の名前は知らない。
テオ:ソクラテスよ、名前はテアイテトスだ。ただ、財産は、後見人たちが食いつぶしたと私には思われる。それでも、金銭に対する気前のよさにおいても、ソクラテスよ、彼は見事な少年だ。
ソク:君は気高い人物のことを言っている。ではその子に、こちらの私のそばに座るよう言ってくれ。
テオ:そうしよう。テアイテトスよ、こちらへ、ソクラテスのそばに来なさい。
ソク:ぜひそうしてくれ、テアイテトスよ。私も自分の顔がどのようなものかをよく眺めたいのだ。テオドロスは、私が君に似ていると言っている。ところで、もし私たち二人がそれぞれ竪琴を持っていて、彼がそれらは同じように調律されていると言ったなら、私たちはすぐに信じるだろうか、それとも彼が音楽家であって言っているのかどうかを調べるだろうか。
テア:私たちは調べるだろう。
ソク:では、彼が音楽家だとわかれば信じ、音楽家でないとわかれば信じないのではないか。
テア:そのとおりだ。
ソク:では今も、私たちが顔の似ていることに何か関心があるのなら、彼が絵の心得のある人として語っているのかどうかを調べるべきだと思う。
テア:私にもそう思われる。
ソク:ではテオドロスは画家なのか。
テア:違う、私の知るかぎりでは。
ソク:では幾何学者でもないのか。
テア:もちろん、幾何学者であるはずだ、ソクラテスよ。
ソク:天文学にも計算にも音楽にも、教養に属するすべてのことにも通じているのか。
テア:私にはそう思われる。
ソク:それならば、もし彼が私たちの身体の何かが似ていると、ほめるにせよ非難するにせよ言うのなら、彼に注意を向ける価値はあまりないことになる。
テア:おそらく、向ける価値はないだろう。
ソク:では、彼が二人のどちらかの魂について、徳と知恵に関してほめるならどうか。聞いた者はほめられた者をよく調べようと熱心になり、ほめられた者は熱心に自分を示すのが、ふさわしいのではないか。
テア:まったくそうだ、ソクラテスよ。
ソク:それならば、親愛なるテアイテトスよ、君は示すべき時であり、私は調べるべき時だ。よく知っておいてほしい。テオドロスは外国人にも市民にも、私に向かって多くの人をほめてきたが、先ほどの君ほどにほめた者はこれまで一人もいない。
テア:それならば結構だろう、ソクラテスよ。だが、彼が冗談で言ったのではないか、よく見てほしい。
ソク:テオドロスのやり方はそうではない。合意されたことから、この人は冗談で言ったのだと口実を設けて身を引いてはならない。この人が証言を強いられることにならないためにも、いずれにせよ誰も彼を訴えはしないのだから、安心して合意にとどまるのだ。
テア:君がよいと思うのなら、そうしなければならない。
ソク:では言ってくれ。君はテオドロスのもとで、幾何学の何かを学んでいるのだろう。
テア:学んでいる。
ソク:では、天文学や、音階や、計算に関することはどうか。
テア:それも熱心に学んでいる。
ソク:実は私もそうなのだ、子よ。この人からも、これらのことに通じていると思うほかの人々からも学んでいる。それでも、そのほかの点ではそれらについて人並みに心得ているのだが、一つだけ小さな行き詰まりがあって、それを君やここにいる人々とともに考えなければならない。そこで私に答えてくれ。学ぶとは、人が学ぶ事柄についてより知恵のある者になることではないか。
テア:もちろんそうだ。
ソク:そして、知恵のある人々は、思うに、知恵によって知恵のある者である。
テア:そうだ。
ソク:では、これは知識と何か違うのだろうか。
テア:何がか。
ソク:知恵のことだ。それとも、人が知識を持つ事柄については、その人は知恵もあるのではないか。
テア:もちろんそうだ。
ソク:では、知識と知恵は同じものなのか。
テア:そうだ。
ソク:まさにこのことが、私が行き詰まっていて、自分のうちで十分につかむことができないのだ。つまり、知識とはいったい何であるかということである。さて、私たちはそれを言うことができるだろうか。君たちはどう言うか。私たちのうちで誰が最初に言うだろうか。間違えた者、そして間違え続ける者は、球遊びをする子どもたちが言うとおり、ロバとして座っていなければならない。一方、一度も間違えずに勝ち残った者は、私たちの王となり、望むことを何でも答えるように命じるだろう。なぜ黙っているのか。テオドロスよ、私は議論を好むあまり無作法になっているのではないか。私たちに語り合わせ、互いに親しく言葉を交わす間柄にしたいと熱心に願っているだけなのだが。
テオ:ソクラテスよ、そのようなことは決して無作法ではあるまい。私はこの種の問答に慣れておらず、今から慣れるだけの年齢でもないので、この若者たちの誰かに答えるよう命じてほしい。この若者たちにはこれがふさわしく、またずっと多くのことを身につけるだろう。実際、青春はあらゆる点で進歩する力を持っている。さあ、君が始めたとおり、テアイテトスを放さずに問いたまえ。
ソク:テアイテトスよ、テオドロスの言うことを聞いているだろう。私の思うところ、君はこの人に逆らおうとはしないだろうし、知恵のある人がこのような事柄について命じるときに、年少の者が逆らうのは許されることでもない。さあ、気持ちよく堂々と言いなさい。君には知識とは何であると思われるか。
テア:ソクラテスよ、君たちが命じるのだから、そうしなければならない。いずれにせよ、たとえ私が何か間違えても、君たちが正してくれるだろう。
ソク:もちろんだ、私たちにそれができるならば。
テア:では、私には、人がテオドロスから学び得ること、つまり幾何学や、いま君が挙げた学問も、さらに靴作りの技術やほかの職人たちの技術も、そのすべてと一つ一つが、知識にほかならないと思われる。
ソク:実に気前よく、惜しみなく、親愛なる人よ、君は一つのものを求められたのに、単純なものの代わりに、多くの種々のものを与えてくれる。
テア:ソクラテスよ、それはどういう意味か。
ソク:おそらく何でもない。しかし、私の思うところを言おう。君が靴作りの技術と言うとき、それは履物をつくる仕事についての知識のほかに何か別のことを指しているだろうか。
テア:何も別のことは指していない。
ソク:では、大工の技術と言うときはどうか。木製の道具をつくる仕事についての知識のほかに何かを指しているだろうか。
テア:これもほかには何も指していない。
ソク:それなら、君はその二つのそれぞれにおいて、それぞれの知識が何についてのものかを限定しているのではないか。
テア:そうだ。
ソク:しかし、テアイテトスよ、尋ねられたのは、知識が何についてのものかということでも、知識がいくつあるかということでもなかった。私たちが尋ねたのは、それらを数えようと望んだからではなく、知識そのものがいったい何であるかを認識しようと望んだからである。それとも、私の言うことは的外れだろうか。
テア:いや、まったくそのとおりだ。
ソク:では、次のことも考えてみよ。もし誰かが、取るに足りない手近な事柄について私たちに尋ね、たとえば泥とは何であるかと問うたとして、私たちが陶工の泥、かまど作りの泥、煉瓦作りの泥と答えたなら、私たちは笑いものにならないだろうか。
テア:おそらくそうなる。
ソク:第一に、私たちは、泥と言うときに、人形作りの泥だとか、ほかのどんな職人の泥だとか付け加えさえすれば、問う人が私たちの答えから理解すると思っているのだろう。それとも、君は、ある名が何であるかを知らない人が、その名を理解することがあると思うか。
テア:決してそうは思わない。
ソク:そうすると、知識を知らない人は、履物の知識も理解しない。
テア:理解しない。
ソク:したがって、知識を知らない人は、靴作りの技術を理解せず、ほかのどんな技術も理解しない。
テア:そのとおりだ。
ソク:知識とは何かと尋ねられた人が、ある技術の名を答えるとき、その人は、尋ねられてもいない何かについての知識を答えている。したがって、その答えは笑うべきものだ。
テア:そのようだ。
ソク:次に、取るに足りない短い答えができるのに、果てしない道を回り道することにもなる。たとえば泥の問いでも、土が水で捏ねられたものが泥である、と言えば簡単で単純なのに、それが誰の泥かということは放っておけばよい。
テア:ソクラテスよ、そう言われると、いまは容易に思われる。しかし、君が尋ねているのは、少し前に私たち自身にも思い浮かんだ問いに似ているようだ。それは、君と同じ名のここにいるソクラテスと私が語り合っていたときのことである。
ソク:テアイテトスよ、それはどんな問いなのか。
テア:ここにいるテオドロスが、べきについて私たちに図を描いていた。三平方*5フィートと五平方フィートの正方形については、その辺が長さで一フィートの辺と通約できないと述べ、こうして一つ一つ選び出して十七平方フィートまで進んだ。ところが、そこで何かにつかえて止まった。そこで私たちには次のような考えが浮かんだ。べきは数が無限に多いと思われたので、それらをすべて一つにまとめて、これらすべてのべきをそれによって呼ぶことのできるものを見つけてみようと試みたのである。
*5 〔 数学の話題について 〕147d–148bで、テオドロスは、面積が3、5、…、17平方フィートの正方形の辺が、1フィートの辺と通約できないことを、図を描いて示した。テアイテトスは、これを受けて、平方数でない数に対応する辺をひとまとめにして「べき」と呼び、それらを一つの名で捉えようと試みる。これは、「知識とは何か」という問いに、一般的な答え方の手本を与える場面である。
ソク:そして、そのようなものを見つけたのか。
テア:見つけたと私には思われる。君も考えてみてほしい。
ソク:言ってくれ。
テア:私たちは、数をすべて二つに分けた。同じ数を同じ回数かけて得られる数は、その形を正方形になぞらえて、正方形の数、等辺の数と呼んだ。
ソク:それは見事だ。
テア:次に、その中間にある数、すなわち三も五も、同じ数を同じ回数かけても得られず、より大きな数をより小さな回数か、より小さな数をより大きな回数かをかけて得られ、いつもより大きな辺とより小さな辺がそれを囲むような数は、長方形の形になぞらえて、長方形の数と呼んだ。
ソク:実に見事だ。それでは、その次はどうなるのか。
テア:平方すると等辺で平面的な数になる線を、私たちは長さと定め、縦横の異なる数になる線を、べきと定めた。後者の線は、長さの点ではそれらの線と通約できないが、それらが平方してつくる平面の点では通約できるものとしてである。立体についても、これと同様の定めがある。
ソク:実にすばらしい答えだ、子らよ。だから、テオドロスは偽証の罪に問われることにはならないと私は思う。
テア:しかし、ソクラテスよ、君が尋ねている知識についての問いには、長さやべきについての問いのようには、私は答えることができないだろう。それでいて、君はそれと同じような何かを求めていると私には思われる。だから、またしてもテオドロスは偽りを言った人だと思われる。
ソク:どうか。もしテオドロスが走ることについて君を褒め、若者のうちでこれほど足の速い者に出会ったことはないと言い、そのうえで君が、盛りの年にある最も足の速い者と走り比べて負けたとしても、この人の称賛の真実さが少しでも減ると君は思うだろうか。
テア:私はそうは思わない。
ソク:では、先ほど私が言ったとおり、知識を見いだすことは小さなことで、あらゆる点で最高のものには属さないと、君は思うのか。
テア:ゼウスにかけて、小さなこととは思わない。実に最高のものの一つだと思う。
ソク:ならば、自分について自信をもつがよい。そして、テオドロスの言うことには意味があると考え、ほかのことについても、とりわけ知識について、それが結局何であるのかを言い表すよう、あらゆる手段で力を尽くしなさい。
テア:熱意の点では、ソクラテスよ、それは明らかになるだろう。
ソク:さあ、それでは、先ほど君は見事に道を示したのだから、べきについての答えを手本にして、これらの多くのべきを一つの形で包み込んだように、多くの知識も一つの言葉で呼ぶよう試みなさい。
テア:しかし、ソクラテスよ、よく知っておいてほしい。君から伝わってくる問いを聞いて、私はこれを考えてみようと何度も試みた。ところが、自分でも十分に何かを言えているのだと自分を納得させることができず、君が命じるような形で他の人が言うのを聞くこともできない。かといって、気にかけることから離れることもできないのだ。
ソク:というのも、親愛なるテアイテトスよ、君は空ではなく身ごもっているので、産みの苦しみを味わっているのだ。
テア:ソクラテスよ、私には分からない。ただ、自分の身に起きていることを言っているのだ。
ソク:それでは、滑稽な人よ、私がきわめてりっぱで気丈な産婆、ファイナレテ*6の息子であることを、君は聞いたことがないのか。
*6 〔 産婆術について 〕ソクラテスの母ファイナレテは産婆であった(149a)。ソクラテスは、自分の仕事を母の仕事になぞらえ、自分は魂の産婆であると語る(149a–151d)。産婆術の説明は、問答の方法を、プラトンが自分で解き明かした箇所として、よく引かれる。
テア:そのことなら、すでに聞いた。
ソク:では、私が同じ技術を営んでいることも聞いたか。
テア:まったく聞いていない。
ソク:ならば、知っておきなさい。ただし、私のことを他の人に告げ口してはならない。友よ、私がこの技術をもっていることは、気づかれていないのだ。人々は、それを知らないので、このことは私について言わず、私がきわめて風変わりで、人々を行き詰まらせると言う。これも君は聞いたか。
テア:聞いた。
ソク:では、その原因を君に言おうか。
テア:ぜひそうしてほしい。
ソク:産婆というものすべてがどのようになっているか、考えてみなさい。そうすれば、私の望むことをもっと容易に学べるだろう。君はおそらく知っているだろうが、彼女たちのうち、自分がまだ身ごもり産んでいる間に他の女たちの出産を助ける者は一人もおらず、すでに産むことのできなくなった者がそうするのである。
テア:まったく知っている。
ソク:このことの原因はアルテミスにあると人々は言う。アルテミスは、自分は出産しない身でありながら、出産をつかさどっているのである。そこで、不妊の女には、人間の本性が経験のない事柄の技術を身につけるには弱すぎるので、産婆の務めを許さなかった。年齢のために子を産まない女たちには、自分に似た者を尊んで、それを命じたのである。
テア:もっともなことだ。
ソク:では、身ごもっている女もそうでない女も、産婆たちのほうが他の人々よりもよく見分けるということも、もっともであり、必然ではないか。
テア:まったくそのとおりだ。
ソク:さらに、産婆たちは、ちょっとした薬を与え、呪文を唱えることで、陣痛を起こすことも、望むならそれを和らげることもでき、難産の女に産ませることもでき、胎児がまだ幼いうちに流すのがよいと思われれば、流すのではないか。
テア:そのとおりだ。
ソク:では、彼女たちについて、さらに次のことにも気づいたか。彼女たちは、どんな女がどんな男と一緒になれば最もすぐれた子を産むかを見分けることについてあらゆる知恵があるので、きわめて有能な縁結びでもあるということだ。
テア:いや、それはあまり知らない。
ソク:しかし、知っておきなさい。彼女たちは、へその緒を切ることよりも、このことのほうを誇りにしている。考えてみなさい。地から実る果実の世話と収穫、またどんな土地にどんな植物と種を植えるべきかを見分けること、この二つは同じ技術のものか、別の技術のものか、君はどう思うか。
テア:別の技術ではなく、同じ技術のものだと思う。
ソク:では、女に対しては、親愛なる人よ、そのような見分けは一つの技術に、収穫は別の技術に属すると、君は思うか。
テア:そうとは考えにくい。
ソク:そのとおり、別ではない。しかし、男と女を不正に、技術もなく引き合わせることには、あっせんという名があり、産婆たちは威厳ある者であるから、縁結びのせいでその非難に陥ることを恐れて、縁結びまで避けるのである。本当の産婆にだけ、正しく縁を結ぶこともおそらくふさわしいのだが。
テア:そう思われる。
ソク:産婆のことはこれだけにするが、それは私の仕事よりも小さい。というのも、女たちの出産には、ときに幻影が生まれ、ときにまことのものが生まれ、しかもそれを見分けるのが容易でない、という事情は伴わないのだ。もし伴うなら、真なるものとそうでないものを判定することが、産婆たちの最も大きく最も立派な仕事となるだろう。それとも君は、そうは思わないか。
テア:私はそう思う。
ソク:ところで、私の産婆術の技術には、あの女たちにそなわる他の点はすべてそなわっているが、男を助産し女を助産しない点、また彼らの魂が産もうとするのを見守り、身体を見守らない点で違いがある。そして、この点が私たちの技術における最大のもので、若者の思考が産み落とすのは幻影と偽りか、それとも実を結ぶ真なるものかを、あらゆる手段で試すことができる。実際、産婆たちにそなわっているのと同じことが、私にもある。私は知恵を産む力がない。そして、多くの人がすでに私に浴びせた非難、つまり、私は他の人には問うが、自分は知恵あるものを何ももたないので、何についても何も明らかにしないという非難は、真実を言っている。その原因はこうだ。神は私に助産することを強い、産むことは禁じた。だから、私自身はそれほど知恵のある者ではなく、私の魂が産んだ子といえるような発見も、私にはない。しかし、私と交わる者たちは、はじめは、まったく無知に見える者もいるが、交わりが進むにつれ、神が許す者はみな、本人にも他の人にもそう思われるほど、驚くほど進歩する。そして、彼らが私から何かを学んだことは一度もなく、自分自身のうちから多くの立派なものを見つけ出し、産んだのだということは明らかである。しかし、助産については、神と私とがともに原因である。そのことは次のとおり明らかである。多くの者がすでにこのことを知らず、自分自身のせいにし、私を軽んじて、自分で、あるいは他の人に説得されて、必要より早く去った。去ってからは、悪い交わりのために残っていたものを流産させ、私が助産したものも悪く養って失い、偽りと幻影を真なるものよりも重んじた末に、ついには自分にも他の人にも無知だと思われた。その一人がリュシマコスの子アリステイデスであり、ほかにもきわめて多くの者がいる。彼らが再び私との交わりを求めて来て、驚くようなことまでするとき、私に生じる神霊が、ある者には交わることを妨げ、ある者には許す。そして、許された者たちは、再び進歩する。私と交わる者たちは、産む女たちとまったく同じことも経験する。彼らは産みの苦しみを味わい、あの女たちよりもはるかに、夜も昼も行き詰まりに満たされるのだ。この産みの苦しみを呼び起こすことも静めることも、私の技術はできる。この人たちの場合は、このとおりである。しかし、テアイテトスよ、身ごもっているとは私に思われない者たちについては、私を必要としないと知って、実に好意をもって縁結びをし、神の助けをもって言えば、彼らが交われば利益を得る相手を、実に十分に言い当てる。そうした者たちのうち、多くをプロディコスに託し、多くを他の知恵ある神がかりの人々に託した。よき人よ、君が、自分でも思っているとおり、内に何かを宿して産みの苦しみを味わっているのではないかと私は疑っている。そのためにこれらのことを長く述べたのだ。だから私に向かって、産婆の子であり自らも産婆術を行う者に対するように、接しなさい。そして、私が尋ねることには、できるかぎりそのように答えるよう力を尽くしなさい。もし私が、君の言うことを調べて、その何かが幻影で真ではないと考え、そこで取り除いて捨てるとしても、初産の女が子供のことで荒れるように、荒れてはならない。不思議な人よ、多くの者がすでに私に対してこうなり、彼らのたわごとを私が取り除くと、文字どおり噛みつかんばかりになった。彼らは、私が好意からそうしているとは思わず、どの神も人間に悪意をもたず、私も悪意からそのようなことは何もしないということを知るには、ほど遠い。私にはただ、偽りに同意することも、真なるものを消し去ることも、決して許されないのである。では、テアイテトスよ、もう一度初めから、知識とは結局何であるかを言うよう試みなさい。できないとは決して言ってはならない。神が望み、君が男らしく奮い立つなら、できるようになるだろう。
〔 151e~186e について 〕
位置づけ:「知識とは感覚である」という答えを検討する部分。
概要:テアイテトスの最初の答えを、ソクラテスは、プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という言葉や、万物は流れるという説と結びつけて検討する。感覚によって何が捉えられ、何が捉えられないのかが問われる。
― 試し読みはここまでです ―
全文のご案内は、本棚のこの作品のページにあります。
テアイテトス
発行責任者(訳者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)
参照原典:ギリシア語原典『Θεαίτητος』(John Burnet版, Platonis Opera, Tomus I, Oxford: Clarendon Press。入手元の書誌表示は1905年)
初版発行日:2026年10月31日
試し読み版
本書の現代語訳・解説・用語集その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。
注記:本サンプルは正本の冒頭(142a〜151d)のみを収録したものである。全文は正本でお読みいただける。