本HTMLは、アラン・M・チューリング(Alan M. Turing)の論文「計算機械と知能」(原題:Computing Machinery and Intelligence、1950年)の現代日本語訳である。『マインド』(Mind)誌第59巻第236号(1950年10月)の433頁から460頁に掲載された。「機械は考えることができるか」という問いを、「模倣ゲーム」と呼ぶ遊びの問いに置き換えることから始め、デジタル計算機の説明、予想される九つの反論への応答、学習する機械の構想へと進む。
底本(テキストデータ):A. M. Turing, “Computing Machinery and Intelligence”, Mind, Vol. LIX, No. 236 (October 1950), pp. 433–460(Oxford University Press)。入手元:Oxford University Pressの公式サイト(academic.oup.com/mind/article/LIX/236/433/986238)のPDF(2026年10月24日に取得)。このPDFは文字データであり、印刷頁の画像ではない。
本書は現代語訳のみを掲載し、直訳との切替は行わない(論文であり、直訳併記の対象ではない)。
本文中の番号(433~460)は、底本『マインド』誌の頁である。「底本頁」ボタンで常時表示に切り替えられる。
原文の‘ ’と“ ”は、いずれも「 」で示し、そのなかの引用は『 』で示した。原文の括弧書きの補足は、文中に組み込んだ。ただし、会話や問答のラベル、番号、数式、出典や頁の表示にある括弧は、原文のとおりに保った。
原文の脚注は、著者自身によるもので、本文の一部である。本文中に†1~†4で示し、各段落の直後に常時表示する。解説ボタンで表示される解説は、訳者が付けた参考情報であり、番号(*1など)で示す。
画面右下の「i」ボタンを押すと、明るさ調整・なぞり線・底本頁・解説の各切り替えをまとめて行える操作パネルが開く。閉じるには「✕」を押す。
解説・概説・用語集は、一般に流通している知見にもとづく参考情報であり、逐一の出典確認・査読を経たものではない。本文の理解を助ける参考としてお使いいただきたい。
哲学原典を読む / 古典書房
機械が考えられるかという問いには、近代の初めから先行する議論があった。デカルトは『方法序説』(1637年)の第5部で、機械は人間のように言葉を組み合わせて、問いにふさわしい答えを返すことができないから、機械と人間は見分けられると論じた。ライプニッツは、思考を計算に置き換える普遍的な記号法を構想した。19世紀には、バベッジが解析機関を計画し、エイダ・ラブレスがその機械について、私たちが命じ方を知っていることしかできないと述べた。この言明は、本書の第6節(6)で取り上げられる。
20世紀前半には、論理学が「計算する」ことそのものを精密にした。ゲーデルの不完全性定理(1931年)、チャーチやクリーネらによる計算可能性の理論、そしてチューリング自身の論文「計算可能数について」(1936年)が、それである。チューリングの論文は、あらゆる計算を行える一つの機械という考えを示した。本書の第5節にいう「万能機械」は、この考えにつながる。他方、心について、哲学と心理学の側には、意識を内側から捉える立場も、行動によって捉える立場もあった。この論文は、その両方が向き合う場所に置かれている。
この論文の中心は、「機械は考えることができるか」という問いを、定義によってではなく、手続きによって扱うことにある。チューリングは、「考える」という語の通常の使い方を調べても答えは出ないと述べて、問いを模倣ゲームに置き換える(第1節)。質問者が、姿の見えない相手との文字のやりとりだけで、相手が人間か機械かを見分けられるかどうか、という問いである。身体の外見や声など、知的な能力と関係のない要素は、この設定で除かれる(第2節)。
次に、問題になる機械を、デジタル計算機に限る(第3節)。そのうえで、デジタル計算機が、人間の計算者の行為を模倣する機械であり(第4節)、あらゆる離散状態機械を模倣できる万能機械であること(第5節)を述べる。この万能性があるので、どのデジタル計算機についても、十分な記憶容量と速度とプログラムを与えれば、模倣ゲームで良い成績を収められるかどうかを問えば足りる。
第6節は、反対の見解を九つに分けて答える。神学的反論、数学的反論、意識からの論証、さまざまな能力欠如からの論証、ラブレス伯爵夫人の反論などである。なかでも意識からの論証への答えは、他人が考えているかどうかを私たちは外から見える振る舞いによって判断しており、それを礼儀正しい約束事としている、という点に関わる。第7節は、成人の心を模擬するのではなく、子どもの心を模擬する機械を作り、教育によって育てるという構想を示す。
この論文は、のちに人工知能と呼ばれる研究の出発点の一つとして読まれてきた。「人工知能」という名は、1955年にマッカーシーらが会議の提案書で用い、1956年のダートマス会議のころから広まった。論文中の模倣ゲームは、後に「チューリング・テスト」と呼ばれるようになった。ただし、この呼び名は、論文自身にはない。
論文への応答は、哲学のなかで長く続いた。数学的反論は、ルーカス「心・機械・ゲーデル」(1961年)などで、ゲーデルの定理を用いて展開された。ペンローズ『皇帝の新しい心』(1989年)も、この系統にある。意識からの論証に近い立場からは、サール「心・脳・プログラム」(1980年)が、記号を適切に操作して答えを返すことと、理解することとは別だと論じた(「中国語の部屋」)。ローブナー賞は1990年に創設され、1991年から、模倣ゲームを実際の競技として開いてきた。近年、対話する言語モデルが現れたことで、模倣ゲームの意義と限界が、あらためて論じられている。
以下、()内は原則として英語原語。
(試し読み版では、第1節から第4節の途中までを公開しています)
〔 1 模倣ゲーム 〕
位置づけ:論文全体の出発点にあたり、論じる問いを定める。
概要:「機械は考えることができるか」を、定義から始めず、模倣ゲームという遊びの問いに置き換える。模倣ゲームは、男(A)が女になりすまして質問者を惑わせ、女(B)が質問者を助け、質問者が男女を当てる遊びである。Aの役を機械が受けたとき、質問者の誤りが変わるかを問う(段落1~7)。
私は、「機械は考えることができるか」という問いを考察することを提案する。この問いは、「機械」と「考える」という語の意味の定義から始めるべきだろう。定義は、できるかぎり語の通常の使い方を反映するように組み立てることもできようが、そうした態度は危険である。「機械」と「考える」という語の意味を、それらが一般にどう使われているかを調べて見いだすのであれば、「機械は考えることができるか」という問いの意味と答えは、ギャラップ調査のような統計調査に求めるべきだという結論を避けるのは難しい。しかし、これは不合理である。そのような定義を試みる代わりに、私はこの問いを別の問いに置き換える。その問いは、もとの問いと密接に関連しており、比較的あいまいでない言葉で表されている。
この問題の新しい形は、私たちが「模倣ゲーム」と呼ぶ遊びを用いて述べることができる。このゲームは三人で行う。男(A)、女(B)、そして男女どちらでもよい質問者(C)である。質問者は、ほかの二人から離れた部屋にいる。質問者がこのゲームで目指すのは、ほかの二人のうちどちらが男でどちらが女かを見分けることである。質問者は二人をXとYという札で知っており、ゲームの終わりに、「XはAでYはBである」か、「XはBでYはAである」のどちらかを述べる。質問者は、AとBに次のように問いを出すことが許されている。
C:Xは、自分の髪の長さを、どうか私に教えてくれないだろうか。
では、XがじつはAだとする。その場合、Aが答えなければならない。このゲームでのAの目的は、Cに誤った識別をさせようとすることである。したがって、Aの答えは次のようになるかもしれない。
「私の髪は断髪で、いちばん長い毛でも九インチほどだ。」
声の調子が質問者の助けにならないように、答えは書かれたものにすべきであり、さらによいのはタイプされたものである。理想的な配置は、二つの部屋のあいだをテレプリンターで結ぶことである。そうでなければ、問いと答えを仲介者が復唱してもよい。このゲームで第三の参加者(B)の目的は、質問者を助けることである。彼女にとっての最善の策は、おそらく真実の答えを返すことである。彼女は答えに「私が女です、彼の言うことを聞かないで」といった言葉を付け加えることもできるが、男も同様の言葉を言えるので、何の役にも立たない。
ここで、「このゲームでAの役を機械が引き受けると、何が起こるか」という問いを立てる。このようにゲームを行うとき、質問者は、男と女のあいだでゲームを行うときと同じくらいの頻度で、誤った判断を下すだろうか。これらの問いが、もとの「機械は考えることができるか」に取って代わる。
〔 2 新しい問題への批判 〕
位置づけ:前節で置き換えた問いが、調べるに値するものかを、先に吟味する。
概要:新しい問いは、人間の肉体的な能力と知的な能力を分ける利点をもつ。例示の問答と、機械に不利ではないかという批判、最善の策が模倣でない可能性への応答が続く。
「この新しい形の問いへの答えは何か」と問うだけでなく、「この新しい問いは、調べるに値するものか」と問うこともできる。この後者の問いを、私はこれ以上ためらわずに調べ、それによって無限後退を断ち切る。
この新しい問題には、人間の肉体的な能力と知的な能力とのあいだに、かなりはっきりした線を引けるという利点がある。人間の皮膚と見分けのつかない素材を作れると主張する技術者も化学者もいない。いつかそれができる可能性はあるが、たとえその発明が手に入ったと仮定しても、「考える機械」をそのような人工の肉で飾って、より人間らしくしようとすることには、ほとんど意味がないと私たちは感じるだろう。問題の設定の仕方は、この事実を、質問者がほかの競技者を見たり触れたり、その声を聞いたりすることを妨げる条件に反映させている。ほかにも、提案した基準の利点は、たとえば次のような見本の問答によって明らかになるかもしれない。
Q:フォース橋を主題にしたソネットを書いてください。
A:これは辞退する。私はどうしても詩が書けなかった。
Q:34957に70764を足してください。
A:(約30秒間休止し、それから答えとして)105621*1。
Q:チェスをしますか。
A:はい。
Q:私はK1にKを持ち*2、ほかに駒はない。あなたはK6にKを、R1にRを持つだけである。あなたの手番だ。何を指すか。
A:(15秒の間を置いてから)R-R8、詰み。
問答の方法は、私たちが含めたいと思う人間の営みのほとんどどの分野でも、導入するのに適しているように思われる。私たちは、機械が美人コンテストで輝けないことを理由に罰したくはないし、人間が飛行機との競走に負けることを理由に罰したくもない。私たちのゲームの条件は、こうした無能力を問題にならなくする。「証人」たちは、そうするほうがよいと考えるなら、自分の魅力や力や英雄的行為についていくらでも自慢してよいが、質問者は実地の実演を求めることはできない。
このゲームは、機械に不利なように勝ち目が偏りすぎているという理由で、批判されるかもしれない。もし男が機械のふりをしようとすれば、明らかにきわめて貧弱な出来になるだろう。算術の遅さと不正確さで、すぐに見破られてしまう。機械は、思考と呼ばれるべき何かを行っていながら、それが人間のすることとはまったく違う、ということはないだろうか。この反論はきわめて強力であるが、それでも模倣ゲームを満足に行うように機械を作れるのであれば、この反論に悩まされる必要はない、とは少なくとも言える。
「模倣ゲーム」を行うとき、機械にとっての最善の策は、人間の行動の模倣とは別の何かであるかもしれない、と主張されるかもしれない。そうかもしれないが、この種の大きな影響があるとは考えにくい。いずれにせよ、ここでこのゲームの理論を調べるつもりはなく、最善の策は人間が自然に返すような答えを出そうとすることだと仮定する。
*1 原文は、34957と70764の和を「105621」としている。正しい和は105721である。訳文は原文のままとした。
*2 チェスの駒の位置は、記述式記法で書かれている。Kはキング、Rはルークである。
〔 3 ゲームに関わる機械 〕
位置づけ:ゲームに参加する「機械」の範囲を限る。
概要:あらゆる技術を認める定義は難しいので、デジタル計算機に限る。この制限が過激でないことは次節以降で示すと述べ、すぐに実験しない理由を断る。
第1節で立てた問いは、「機械」という語で何を意味するかを明確にするまでは、十分に確定したものにならない。私たちが機械にあらゆる種類の工学的技術を用いることを許したいと望むのは、当然である。また、技術者または技術者の一団が、動作はするものの、大部分が実験的な方法を用いたために、その動作の仕方を製作者たち自身が満足に説明できない機械を作る可能性を、認めたい。最後に、通常の仕方で生まれた人間を、機械から除外したい。これら三つの条件を満たすように定義を組み立てるのは難しい。たとえば、技術者の一団がすべて同じ性の者でなければならないと主張することもできようが、それは本当には満足のいくものではない。人間の、たとえば皮膚の一つの細胞から、完全な個体を育てることは、おそらく可能だからである。そうすることは、最高の賞賛に値する生物学的技術の偉業であろうが、私たちはそれを「考える機械を作ること」の一例とみなす気にはならないだろう。これは、あらゆる種類の技術を許すという要件を放棄するよう、私たちを促す。そうすることには、いっそう乗り気になれる。「考える機械」への現在の関心が、通常「電子計算機」または「デジタル計算機」と呼ばれる特定の種類の機械によって呼び起こされたからである。この示唆に従い、私たちはデジタル計算機だけがゲームに参加することを許す。
この制限は、一見したところ、きわめて過激なものに思われる。実際にはそうでないことを示してみよう。そのためには、これらの計算機の性質と特性について、短い説明が必要である。
また、機械とデジタル計算機をこのように同一視することが不満足なものになるのは、「考える」ことの基準の場合と同様に、私の信念に反して、デジタル計算機がこのゲームでうまく振る舞えないと判明した場合だけだ、と言うこともできる。
すでに作動しているデジタル計算機はいくつもあり、次のように問われるかもしれない。「なぜすぐに実験を試みないのか。ゲームの条件を満たすのは容易だろう。多数の質問者を用い、正しい識別がなされた頻度を示す統計を集めればよい。」簡潔な答えは、私たちが問うているのは、すべてのデジタル計算機がゲームで良い成績を収めるかどうか、あるいは現在利用できる計算機が良い成績を収めるかどうかではなく、良い成績を収める想像可能な計算機があるかどうかだ、ということである。しかし、これは簡潔な答えにすぎない。この問いを別の光のもとで見ることになるのは、のちのことである。
〔 4 デジタル計算機 〕
位置づけ:デジタル計算機とは何かを説明する。
概要:人間の計算者との対応、三つの部分、命令の例、プログラミング、ランダムな要素、無限の記憶装置、バベッジの解析機関、電気の使用が本質でないことを順に述べる。
デジタル計算機の背後にある考え方は、これらの機械が、人間の計算者にできるあらゆる演算を実行するよう意図されている、と言うことで説明できる。人間の計算者は、固定された規則に従っているものとされ、それらから細部において逸脱する権限をもたない。これらの規則は一冊の本に記されて与えられ、その本は、彼が新しい仕事に就かされるたびに書き換えられると考えてよい。彼はまた、計算を行うための紙を無制限に持っている。乗算や加算を「卓上計算機」で行ってもよいが、これは重要ではない。
上の説明を定義として用いれば、論証が循環する危険がある。これを避けるため、望まれる効果がそれによって達成される手段の概略を示す。デジタル計算機は、通常、三つの部分からなると考えられる。
(i)記憶装置。
(ii)実行部。
(iii)制御部。
記憶装置は情報を蓄える装置であり、人間の計算者が計算を行う紙であれ、規則の本が印刷された紙であれ、その紙に相当する。人間の計算者が頭のなかで計算を行う場合には、記憶装置の一部が、彼の記憶に相当する。
実行部は、計算に含まれるさまざまな個々の演算を実行する部分である。これらの個々の演算が何であるかは、機械によって異なる。通常は、「3540675445に7076345687を掛けよ」のような、かなり長い演算を行えるが、機械によっては、「0を書け」のようなごく単純な演算しかできないものもある。
計算機に与えられる「規則の本」は、機械では記憶装置の一部に置き換えられる、と述べた。そのとき、それは「命令表」と呼ばれる。これらの命令が正しく、正しい順序で守られるよう見届けるのは、制御部の務めである。制御部は、そうなることが必然であるように作られている。
記憶装置内の情報は、通常、適度に小さなかたまりに分けられている。たとえば、ある機械では、一つのかたまりが十桁の十進数からなることがある。さまざまな情報のかたまりが蓄えられている記憶装置の各部分には、何らかの体系的な仕方で番号が割り当てられている。典型的な命令は、たとえば次のように言うかもしれない。
「位置6809に蓄えられた数を位置4302の数に加え、その結果を後者の記憶位置に戻せ。」
― 試し読みはここまでです ―
全文のご案内は、本棚のこの作品のページにあります。
計算機械と知能
発行責任者(訳者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)
参照原典:英語原典『Computing Machinery and Intelligence』(Mind, Vol. LIX, No. 236, October 1950, pp. 433–460, Oxford University Press)
初版発行日:2026年10月24日
試し読み版
本書の現代語訳・解説・用語集その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。
注記:本サンプルは正本の冒頭(第1節から第4節の途中まで)のみを収録したものである。全文は正本でお読みいただける。