本HTMLは、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead, 1861-1947)が1927-28年のギフォード講義をもとに著した Process and Reality(1929年、マクミラン社刊)の日本語訳である。ホワイトヘッドは数学者・論理学者としてバートランド・ラッセルと『プリンキピア・マテマティカ』を著したのち、後年に独自の形而上学体系「有機体の哲学」を構築した。本書はその中心的著作である。
底本には、1929年マクミラン社刊の初版(Internet Archive識別子:processrealityes0000unse)を用いた。
本書は散文形式の長編哲学書であるため、直訳併記は行わず、現代語訳のみを収める。原文の段落構造・章節構成は底本に従う。訳語の選定にあたっては、山本誠作氏らによる先行訳(『過程と実在』松籟社、著作集第10・11巻)をはじめとする日本語圏でのホワイトヘッド研究の蓄積を参照しつつ、辞書的な裏付けと文脈上の整合性を個別に確認して定めた。
目次の各項目から本文へジャンプできる。目次へ戻るときは「↑ 目次」またはブラウザの戻るを使ってほしい。「底本頁」ボタンで底本のページ番号を表示できる。「解説」ボタンで、概説・用語集・章冒頭の要約・本文中の語注を一括して表示・非表示にできる。
概説・用語集・索引・本文中の解説は、ホワイトヘッド研究における一般的な知見にもとづく参考情報であり、逐一の出典確認・査読を経たものではない。本文の理解を助ける参考としてご利用いただきたい。
知の地図シリーズ / 古典書房
近代哲学は、デカルトに始まり、事物を「実体(substance)」――それ自身だけで存在し、他のものを必要としない基体――として捉える枠組みを共有してきた。デカルトは思惟する実体(精神)と延長する実体(物体)という二種の実体を立て、この心身二元論は以後の哲学に長く影響を与えた。ロック・バークリー・ヒュームら経験論者は、この実体観を出発点としながら、知識の起源を感覚的観念に求め、因果関係や実体的自己の存在そのものを疑問に付すに至った(ヒュームの懐疑論)。カントはこれに応答し、経験を可能にする主観の認識形式(時間・空間・カテゴリー)を分析することで、実体の問題を認識論の問題へと組み替えた。
この伝統に共通するのは、①世界を、それ自体で完結した静的な実体(あるいは主観)の集まりとして捉える発想、②主語・述語という文法形式を、事実の最終的なあり方の直接の反映とみなす発想、③知覚を、外界の対象が意識に与える感覚与件として捉える、いわゆる感覚論的知覚理論、④「空虚な現実性」――他のものとの関係を欠いた、ただそこにあるだけの現実存在――を暗黙のうちに前提する発想である。ホワイトヘッドは、この四点をはじめとする「西洋哲学に広く浸透した思考習慣」を名指しし、それらを退けるところから議論を起こす。
ホワイトヘッドは、静的な実体に代えて、生成しては消滅する出来事――〈現実的存在〉(現実的機会)――を世界の窮極の構成要素とする。あらゆる現実的存在は、他の現実的存在を〈抱握〉することによって、それらを自己の構成要素として取り込みながら生成する〈癒合〉の過程を経て、一つの統一的な〈満足〉に至り、そして消滅する。だが消滅した現実的存在は、無に帰すのではなく、〈客体の不滅性〉によって後続の現実的存在の構成要素として存続し続ける。こうして世界は、孤立した実体の集合ではなく、たがいに抱握し合う現実的存在の網の目、すなわち〈結合体〉として捉え直される。
この体系にはまた、非時間的な可能性としての〈永遠的客体〉、それが現実的存在のうちに実現される〈進入〉、そして万物を貫く窮極の原理である〈創造性〉が組み込まれる。神もまた、この創造性の非時間的な一つの現れ(原初的本性)として位置づけられ、同時に、消滅した現実的存在の客体の不滅性を保存する(結果的本性)という、独自の役割を担う。ホワイトヘッド自身、プラトン・アリストテレス、そしてとりわけロック(『人間知性論』後半部)とスピノザからの影響を明言しており、「思弁哲学」の名のもとに、経験のあらゆる要素を一貫した体系のもとに解釈しようとする、体系構築の哲学を再興する試みでもある。
ホワイトヘッドの哲学は、ハーツホーン(Charles Hartshorne)らによって「プロセス神学」として展開され、神を世界から超越した不動の存在としてではなく、世界の生成に応答しつつ自らも生成する存在として捉え直す潮流を生んだ。コブ(John B. Cobb Jr.)らはこれをさらに環境倫理・生態学的思考と結びつけ、今日の「プロセス哲学」の主要な系譜となっている。
20世紀後半以降は、ドゥルーズが『襞――ライプニッツとバロック』のなかでホワイトヘッドの〈現実的存在〉〈永遠的客体〉〈結合体〉等の概念を参照しながら、ライプニッツのモナド論との異同を論じたことにより、大陸哲学の側からも改めて注目を集めた。近年では、シャヴィロ(Steven Shaviro)やスタンジェール(Isabelle Stengers)、ハーマン(Graham Harman)らの思弁的実在論・オブジェクト指向存在論の潮流のなかで、実体中心主義を離れた関係論的存在論の先駆として、ホワイトヘッド哲学への関心が国際的に再燃している。なお、本シリーズのライプニッツ『モナドロジー』の概説でも触れた通り、単純実体(モナド)どうしが「窓を持たない」まま予定調和のうちに秩序づけられるライプニッツの体系と、現実的存在が抱握によって直接たがいに関わり合うホワイトヘッドの体系とは、しばしば対比の対象とされる。
以下、()内は原則として英語原語。
原典構造をそのまま示した固定の一覧であり、リンクは設けない。
(試し読み版では緒言のみを公開しています)
本講義は、デカルトに始まりヒュームに終わる哲学思想の潮流への回帰にもとづいている。これらの講義が説明しようと努める哲学的体系は、〈有機体の哲学〉と呼ばれる。ここで提示されるいかなる教説も、この思想家群のいずれか一人、あるいは西洋思想全体の二人の創始者であるプラトンとアリストテレスのいずれかの、明示的な言明をその弁護として引くことができないものはない。しかし有機体の哲学は、これらの巨匠たちの著作のうち、まさに後継の体系家たちが脇に置いてきた要素を強調する傾向がある。有機体の哲学の主要な立場を最も十全に先取りしていた著述家は、ジョン・ロックである。とりわけその『人間知性論』後半の巻において1、そうである。
ロックの『人間知性論』は、前半(第一巻・第二巻)では単純観念・複合観念といった、比較的整理された認識論が展開されるが、後半(第三巻・第四巻)に進むにつれて、ロック自身も自分の理論の限界に突き当たり、体系からはみ出すような、整理しきれない洞察を残している。ホワイトヘッドが「後半の巻において、とりわけそうである」と付け加えているのは、ロック自身が体系化しきれなかった部分にこそ、有機体の哲学の先取りがある、と示唆するためである。後の本文(第一部第二章)では、実際にロックのこうした一節が繰り返し引用され、有機体の哲学の典拠として使われていく。
1 参照:『人間知性論』第四巻第六章第11節。
これらの講義は五部に分かれる。第一部では、方法を説明し、宇宙論を組み立てるための観念の体系を要約的に述べる。
第二部では、この体系が、文明社会の思考の複雑な織り目を形づくる観念や問題の解釈にとって適合的であることを示す試みを行う。そうした検討がなければ、第一部の要約的な記述は、実質的に理解不可能である。したがって第二部は、その体系の言葉による表現に、議論のなかでの用法を通じて意味を与えると同時に、われわれの経験のさまざまな要素をたがいに一貫した関係へと収める、その体系の力を示す。自然に生じてくる哲学的諸問題との関連において考察された人間経験について、合理的に十分な説明を得るために、十七世紀・十八世紀に属する哲学者・科学者の一群――とりわけデカルト、ニュートン、ロック、ヒューム、カント――を検討の対象としてきた。これらの著述家は、いずれも経験の基盤の提示において一面的であるが、全体としては、後続する哲学の展開を支配する一般的な提示を与えている。私はこの探究を、この一群の各成員からの相違点の解明に費やされることを予期して始めた。しかし彼らの正確な言明を注意深く検討したところ、有機体の哲学は、その主要な点において、カント以前の思考様式への回帰であることが明らかになった。これらの哲学者たちは、彼らが受け継いだ表現様式の根底にある、一貫しない諸前提によって当惑させられていた。彼らあるいはその後継者たちは、厳密に体系的であろうと努めたばかりに、有機体の哲学がまさにその基盤とする思想の要素を、放棄しがちであった。私は、この一致点と不一致点を正確に指摘するよう努めた。
第二部では、近代思想の議論をしているが、物理学と生物学の最も一般的な観念に限定し、細部にはあえて立ち入らないようにした。完全な宇宙論は、自然科学に由来する世界の諸概念と、美的・道徳的・宗教的関心とを関係づける観念の体系を構築することを、動機の一つとしなければならない。
第三部・第四部では、宇宙論的体系を、それ自身の範疇的観念によって展開し、他の思想体系へはあまり顧慮を払わない。たとえば第二部に「延長的連続体」と題する一章を設け、そこでは主にデカルトとニュートンの観念を、有機体の哲学がこの世界の特徴をどのように解釈しなければならないかと比較しつつ論じた。だが第四部では、有機体の哲学により延長的連続体の理論を打ち立てるため、その詳細な方法を展開するという観点から論ずる。
これらの講義の主題が、ある伝統的な思想体系のもとで切迫性を帯びるにいたった、さまざまな伝統的哲学的諸問題の個別的な考察ではないことは、十分に理解されなければならない。これらの講義が意図するのは、宇宙論的観念の凝縮された体系を記述し、経験のさまざまな主題との対決によってその意味を展開し、そして最終的に、あらゆる個別の主題がそこにおいて相互連関を見出すような、適合的な宇宙論を練り上げることである。宇宙論は、個々の主題を逐次的にというのではなく、意味と関連性における体系の漸進的な展開のうちに、一貫して取り扱う。たとえば、時間・空間・知覚・因果性の教説には、宇宙論が展開するにつれて、繰り返し立ち返る。そのつど立ち返るたびに、これらの主題は体系に新たな光を投げかけるか、あるいは新たな解明を受け取る。最終的に、この企てが成功した限りにおいては、時空の問題も、認識論の問題も、因果性の問題も、論じ残されるべきものは何もないはずである。この体系は、事物のあらゆる可能な相互連関を表現するに適合的な、あらゆる類的観念を展開しているはずである。
同時代の学派のなかでは、英米のリアリストたちへの私の負うところは明らかである。この関連で、とりわけロンドン大学のT・P・ナン教授に言及したい。『アリストテレス協会紀要』における彼の、最近のリアリズムのいくつかの教説の先取りは、十分に知られているとは思われない。
私はまた、ベルクソン、ウィリアム・ジェイムズ、ジョン・デューイに大いに負うところがある。私の関心の一つは、彼らの思考類型を、それに――正当にであれ不当にであれ――結びつけられてきた反知性主義という非難から救い出すことにあった。最後に、本書の主要な部分を通じて私はブラッドリーと鋭く意見を異にするものの、最終的な帰結は結局のところそれほど大きく異なるものではない。私はとりわけ、彼の『真理と実在をめぐる試論』に収められた、経験の本性についての章に負うところがある。
彼の「感受」への固執は、私自身の結論と非常によく調和している。この形而上学的な立場全体は、「空虚な現実性」という教説の暗黙の否認である。
ここでホワイトヘッドは、自身の思想的な系譜を簡潔に述べている。「英米のリアリスト」は、20世紀初頭に観念論へ対抗し、精神から独立した実在を認めようとした哲学運動。T・P・ナンはロンドン大学の研究者で、当時のリアリズムの先駆けとなる論文を書きながら、あまり広く知られていなかった人物である。ベルクソン・ジェイムズ・デューイは、いずれも静的な論理体系よりも生きた経験の流れや実践を重視した哲学者で、しばしば「反知性主義」と非難されてきた。ホワイトヘッドは、その発想を、きちんとした論理体系のなかに位置づけ直そうとしている。ブラッドリーはイギリス絶対的観念論の代表的哲学者で、ホワイトヘッドは彼の結論の多くに反対しつつも、経験の本性、とりわけ「感受」(feeling)への着目を高く評価する。「感受」は、後の章で〈抱握〉として本書の中核をなす概念へとつながる。最後の一文にある「空虚な現実性」(vacuous actuality)とは、現実的存在が他との関係を欠いたまま孤立して存在しうる、とする教説を指す(緒言の後段で否認すべき九つの思考習慣の一つとして名指しされる)。「感受」への着目は、この孤立した実体観を暗黙のうちに退けており、ホワイトヘッド自身の「あらゆる現実的存在は他の現実的存在を抱握することによってのみ存在する」という立場の先駆けを、ここに挙げた哲学者たちのうちに見出している。
第五部は、宇宙論的問題が考えられるべき窮極の仕方についての、最終的な解釈にかかわる。それは「その全体は結局何に行き着くのか」という問いに答える。この部では、ブラッドリーへの接近が明らかである。実際、この宇宙論が成功したものと見なされるならば、ここに至って、そこに含まれる思考類型が、絶対的観念論のいくつかの主要な教説を、リアリズムの基盤のうえに変換したものではないか、と問うのは自然なことになる。
これらの講義は、哲学に対するそれらの影響という点で否認される、次に挙げる広く行き渡った思考習慣の一覧に注意すれば、最もよく理解できるだろう。
(一)思弁哲学への不信。
(二)命題の適合的な表現としての言語への信頼。
(三)能力心理学を含意し、また能力心理学によって含意される、哲学的思考の様式。
(四)主語・述語という表現形式。
(五)知覚についての感覚論的教説。
(六)空虚な現実性という教説。
(七)純粋に主観的な経験からの理論的構築物としての客観的世界という、カント的教説。
(八)背理法による議論における恣意的な演繹。
(九)論理的な不整合が、何らかの先行する誤り以外の何かを示しうるという信念。
(一)思弁哲学への不信――カント以降の形而上学への懐疑、経験論・実証主義の伝統、論理実証主義の隆盛により、20世紀初頭の哲学界には、包括的な体系構築そのものへの不信が広く浸透していた。この不信への応答こそ、続く第一章第I・II節の主題そのものである。
(二)言語への信頼――命題は、言おうとする内容を過不足なく表現できる、という素朴な前提。言語は日常生活の実際的必要から発達したものであり、形而上学の窮極的観念を表現するようにはできていない、というのがホワイトヘッドの立場。第一部第一章第V節「言語の欠陥」で本格的に扱われる。
(三)能力心理学――原語はfaculty-psychology。心を、理性・意志・記憶・感覚といった、たがいに独立した「能力」の集まりとして捉える、ロック以来の伝統的立場(ウィリアム・ジェイムズらのfunctional psychology「機能主義心理学」とは別物)。(四)主語・述語形式と根を同じくし、経験の統一的な働き(抱握)を、あらかじめ切り分けられた能力へと人為的に分割してしまう。
(四)主語・述語形式――「AはBである」という文法形式が、実体(主語)に性質(述語)が付随する、性質優位・関係性劣位のアリストテレス的存在論を、そのまま思考に刷り込んでしまう。抱握(関係性)を性質より根源的とみるホワイトヘッドの立場とは正反対の順序である。
(五)感覚論的知覚説――知覚を、外界の対象からの単純な感覚与件の、受動的な受容とみる、ロック以来の経験論的理論。抱握の能動性、および「因果的効力性における知覚」と呼ばれる、より生々しく全体的な経験のあり方を見落とす。
(六)空虚な現実性――経験・感受をまったく欠いた、ただの物質としての現実的存在、という考え方。あらゆる現実的存在が抱握を通じて成り立つとするホワイトヘッドの体系と根本的に矛盾する。緒言後半、ブラッドリーの「感受」への評価の一節と呼応している。
(七)カント的教説――客観的世界を、主観の認識枠組みによる理論的構築物とみなす、カントの構図。ホワイトヘッドはこれを逆転させ、世界(客観)への抱握を通じて、主体がいわば事後的に構成される、と考える(のちに「改訂された主観主義の原理」と呼ばれる)。
(八)背理法における恣意的な演繹――矛盾が生じたとき、その原因となりうる複数の前提の候補から一つを恣意的に選び出し、あたかもそれが積極的な結論であるかのように扱ってしまう論証上の飛躍。
(九)論理的不整合についての信念――論理的矛盾が示しうるのは「先行する誤りがどこかにある」ということだけであり、それ以上の積極的な真理(実在そのものの逆説性など)を示すものではない、とする原則。(八)は、この原則がしばしば破られる、その典型的な破り方を名指ししている。
これら九つの神話と誤った手続きの一部、あるいは全部を安易に受け入れることによって、十九世紀の哲学の多くは、日常の頑固な事実との関連性から、みずからを締め出している。
「頑固な事実」(stubborn fact)は、緒言だけでなく、本書のなかで繰り返し現れる言い回しである。一度生成し終えた出来事は、もはや変更も撤回もできない、動かしがたい所与として、後続のあらゆる現実的存在の前に立ちはだかる。これは、既にお訳しした〈客体の不滅性〉と同じ事態を、生活実感に近い言葉で言い換えたものである。哲学が九つの神話に頼るとき、まさにこの、日々の生活が突きつけてくる動かしがたい重みから、自らを遠ざけてしまう、という指摘である。
これらの講義の積極的教説がかかわるのは、〈現実的存在〉の生成・有・関係性である。〈現実的存在〉とは、その語のデカルト的意味における res vera(真なる物)である2。それは、デカルト的な「実体」であって、アリストテレス的な「第一実体」ではない。しかしデカルトは、その形而上学説において、「関係性」に対する「性質」というカテゴリーのアリストテレス的優位を保持していた。これらの講義においては、「性質」に対して「関係性」が優位に立つ。あらゆる関係性は、諸々の現実態の関係性にその基礎をもつ。そしてそうした関係性は、死せるものが生けるものによって専有されることに――すなわち、〈客体の不滅性〉に、全面的にかかわっている。客体の不滅性とは、それ自身の生き生きとした直接性を剥奪されたものが、生成しつつある他の生き生きとした直接性のうちで、実在的な構成要素となることをいう。これは、世界の創造的前進とは、頑固な事実を共同で構成するそれらのものの、生成であり、消滅であり、客体の不滅性である、という教説である。
デカルトの「実体」(res vera=真なる物)は、自分自身以外の何ものにも依存せず、それ自体として自立して真に実在するもの。〈現実的存在〉はこの性格を受け継ぐ。一方アリストテレスの「第一実体」(「この人」「この馬」等の個物)は、あらゆる述語づけの究極の主語であり、性質が変化しても同一のまま時間を通じて持続する主体である。〈現実的存在〉はこの性格を退ける――生成し、満足に達し、消滅するだけの一回限りの出来事であり、決して変化しない(第一部第二章の摘要にある「現実的存在は決して変化しない」を参照)。常識的に「一つの物が時間のなかで変化する」ように見える現象は、性格を共有する現実的存在が時間的に連なる〈結合体〉(とりわけ〈持続的対象〉)にすぎない、というのがホワイトヘッドの立場である。続く一文は、デカルト自身もなお、性質を関係性より優位に置くアリストテレス的な発想を引きずっていた、という批判につながる。
2 私は、デカルトの思想のこの要素についての理解を、ソルボンヌのジルソン教授から得た。この要素の重要性を最初に指摘したのは、彼だと思われる。もちろん、これらの講義においてこの観念がどのように用いられているかについて、彼に責任はない。
哲学の歴史は、異なる時代にヨーロッパの思想を支配してきた二つの宇宙論を明らかにする。すなわちプラトンの『ティマイオス』3と、ガリレオ、デカルト、ニュートン、ロックを主な著者とする十七世紀の宇宙論である。同種の企てを試みるにあたっては、真の解決は、この二つの先行する体系の融合のうちに、自己無矛盾性と知識の進歩とが要求する修正を加えたかたちで見出せるだろう、という手がかりに従うのが賢明である。これらの講義では、哲学的伝統の積極的な価値を信頼し、それにもとづいて宇宙論を組み立てた。成功の一つの試金石は、一つの観念の体系の限界のうちで、経験の多様性を包摂することの適合性である。この条件を満たそうとする試みは、第二部第三章・第七章・第十章――それぞれ「自然の秩序」「主観主義の原理」「プロセス」と題される――を、第三部第五章「経験の高次の諸相」、第四部第五章「測定」、そして第五部第二章「神と世界」と比較することで、例証できる。これらの章は、第一部第二章で述べた一つの観念の体系の、正当な帰結として認めることができるはずである。
『ティマイオス』の宇宙は、デミウルゴス(制作者・工匠神)が永遠不変の形相を範型として素材に秩序を与え、数学的な比率と幾何学にもとづいて作り上げた、一つの生きた有機体として描かれる――目的・数学的秩序・生命の三つを併せ持つ宇宙観である。対して十七世紀の宇宙論は、物質を目的も価値も持たない不活性な実体とみなし、宇宙全体を数学的法則に従って動く機械仕掛けとして描く、機械論的宇宙観である(緒言(六)「空虚な現実性」の教説を生んだ母体)。ホワイトヘッドは、目的と生命に満ちるが近代科学の厳密さを欠く前者と、数学的に厳密だが目的も生命も欠く後者との、いわば良いとこ取りの統合を目指す。〈現実的存在〉が〈主体の目的〉に向けて自己形成する目的論的性格を持ちながら、同時に〈範疇的図式〉のもとで厳密に規定されているのは、まさにこの統合の産物と見ることができる。
3 A・E・テイラー教授の『プラトン「ティマイオス」註解』が、本書の印刷準備が整ったのちにようやく刊行されたことを遺憾に思う。したがって、一箇所のわずかな言及を除いて、これを利用することができなかった。テイラー教授の他の著作には大いに負うところがある。
これらの講義において、私は長年の省察から得られた素材を凝縮しようと努めてきた。この成果を世に出すにあたって、四つの強い印象が私の心を支配している。第一に、この二世紀ほどのあいだ全体として支配的であった、個別的な諸問題についての歴史的・哲学的批判の運動は、その仕事を終えており、より持続的な構成的思考の努力によって補われる必要がある、という印象。第二に、哲学的構築の真の方法とは、できるかぎり最善の観念の体系を組み立て、その体系の言葉によって経験の解釈をひるむことなく探求することである、という印象。第三に、科学的関心のさまざまな特殊な主題についてのあらゆる構成的思考は、明示していないが、想像力を導くうえで劣らず影響力のある体系によって支配されている、という印象。哲学の重要性は、そのような体系を明示的なものにし、それによって批判と改善が可能なものにする、持続的な努力のうちにある。
最後に残るのは、事物の本性の深みを測ろうとする試みが、いかに浅く、ちっぽけで、不完全であるかという省察である。哲学的議論において、言明の最終性についての独断的な確信のわずかな気配でさえも、愚かさの表れである。
これらの講義を本書の規模にまで拡張するにあたって、私はハーバードの授業の受講者たちが示してくれた批判的な難点に、大いに負うところがあった。また本書は、私が妻に負う不断の励ましと助言なしには、決して書かれることがなかったであろう。
A・N・W
ハーバード大学
一九二九年一月
― 試し読みはここまでです ―
さらに詳しく知りたい方へ
購入 → 翻訳HTML『過程と実在』を購入する
思考の流れをつかむには → 知るための本(無料)
トピックス → 関連記事
物の定義史から『過程と実在』を知る → タイムライン
過程と実在
発行責任者(訳者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-sonnet-5)
参照原典:英語原典『Process and Reality』(初版, Macmillan, 1929年)
初版発行日:2026年8月21日
改訂版発行日:2026年9月13日
試し読み版
本書の現代語訳・解説・用語集その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。
注記:本HTMLは、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド『過程と実在』(Process and Reality)の日本語全訳(正本)から、緒言のみを抜粋した試し読み版である。第一部から第五部までの本文、索引、正誤表は正本でご覧いただける。訳文の確定にあたっては、1929年マクミラン社刊の初版を底本とし、山本誠作氏らによる先行訳をはじめとする日本語圏でのホワイトヘッド研究の蓄積を参照した。概説・用語集・本文中の解説は、著者による参考情報であり、逐一の出典確認・査読を経たものではない。