このHTMLは、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(Logisch-Philosophische Abhandlung、ラテン語題 Tractatus Logico-Philosophicus、1918年完成、1921年初出)の、ドイツ語原典からの現代語訳です。
底本:Ludwig Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus(London: Kegan Paul, Trench, Trubner & Co., 1922)所収のドイツ語本文。底本はドイツ語本文と英訳とを見開きで対照させた版で、ドイツ語本文は偶数頁に印刷されています。本書は、そのドイツ語本文のみを訳したもので、底本に付されている英訳と、バートランド・ラッセルによる序論は収録していません。
翻訳方針:直訳併記は行わず、現代語訳のみを収録しています。常体(〜だ・〜である)で統一しています。本書は、1から7までの番号を付された七つの命題と、それらに小数の番号で付された注釈の命題とからなります。命題番号は底本のとおりに付しています。番号の意味については、命題1に付された著者自身の注(†)を参照してください。本文中の()は、すべて底本にある括弧です。「」は底本の引用符を、字間を空けて表示している語句(例:すべての)は、底本で字間を空けて強調されている語句を示します。論理式・記号は、底本の表記のまま示しています。5.101の真理関数の一覧では、記号式に添えられた言葉による説明を訳しています。底本の明らかな誤植は、訂正した読みにもとづいて訳しています。
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知の地図シリーズ / 古典書房
19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、論理学は二千年来の姿を大きく変えた。ドイツのフレーゲは『概念記法』(1879年)で、命題の論理的な構造を正確に書き表す記号体系を考案し、現代の論理学の基礎を築いた。フレーゲは、算術の真理が論理だけから導き出せることを示そうとし、その過程で、語の意味と指示対象との区別など、言語と論理についての新しい考え方を示した。イギリスのラッセルは、フレーゲの体系に矛盾が含まれることを指摘したうえで、ホワイトヘッドとともに『プリンキピア・マテマティカ』(1910〜1913年)を著し、数学全体を論理から導き出す試みを大規模に進めた。ラッセルはまた、文の見かけ上の文法的な形式と、その本当の論理形式とは異なりうることを示し、世界を最も単純な事実へと分析しようとする哲学を構想していた。
ウィーンの裕福な家に生まれたウィトゲンシュタイン(1889〜1951)は、工学を学ぶなかで数学の基礎の問題に関心を抱き、1911年、フレーゲの助言も受けて、ケンブリッジ大学のラッセルのもとへ赴いた。論理とは何か、命題はどのようにして世界について何かを語ることができるのか、という問いが、彼の出発点となった。その背景には、物理学者ヘルツが示した、私たちは対象の像をつくるという考え方や、ショーペンハウアーの哲学、そして、理性の限界を理性自身によって画定しようとしたカントの批判哲学の伝統があったと考えられている。
本書は、第一次世界大戦にオーストリア=ハンガリー軍の兵士として従軍するなかで書き継がれ、1918年に完成した。本書の第一の革新は、命題が世界を語ることができる仕組みを、像の関係として説明したことにある。世界は物の集まりではなく事実の総体であり、事実は対象どうしの結合からなる。命題は、その要素である名どうしの関係によって、対象どうしの関係を描写する、事実の論理像である。命題は、現実と一致すれば真、一致しなければ偽となる。複雑な命題はすべて、それ以上分析できない要素命題の真理関数として捉えられ、その真理の条件は表の形で機械的に示すことができる。
第二の革新は、語られうることと、示されることとの区別である。論理学の命題はトートロジーであり、世界について何も語らない。命題と世界とが共有する論理形式そのものは、命題によって語ることができず、命題のうちに示されるだけである。この区別から、本書は、哲学は学説ではなく、思考を明晰にする活動である、と主張する。そして、私の言語の限界は私の世界の限界を意味する、と述べ、倫理や生の意味、神秘的なものは、語りうることの外にあるとした。本書自身の命題も、読者がそれを乗り越えるための、最後には投げ捨てられるべきはしごとされる。序文にあるように、本書は、考えることに、正確には思考の表現に、内側から限界を引こうとする書物である。
本書は1921年にドイツの雑誌『自然哲学年報』に掲載され、翌1922年、ドイツ語と英語の対訳版として刊行された。本書の底本は、この対訳版である。ウィトゲンシュタインは、哲学の問題は本質的に解決されたと考えて哲学を離れ、オーストリアの農村で小学校の教師を務めた。
1920年代のウィーンでは、シュリックやカルナップらのウィーン学団が本書を読み込み、論理と経験によって検証できない命題を無意味とする論理実証主義の運動を展開した。ただし、語りえないものの側に深い意義を認める本書の立場は、学団の多くの人々の関心とは異なっていた。イギリスでは、ラムジーが本書を鋭く読み、批判した。
ウィトゲンシュタインは1929年にケンブリッジに戻って哲学を再開し、本書で学位を得た。その後の思索のなかで、彼は本書の考え方、とりわけ要素命題が互いに独立であるという考えや、言語の本質を一つの論理形式に求める考えを、自ら批判するようになった。死後に刊行された『哲学探究』(1953年)では、言語の意味をその使用に求める、まったく異なる言語観が示されている。本書の真理関数の理論と、真理の条件を表で示す方法は、現代の論理学の基本的な道具となった。また、本書の最後の命題群、とりわけ自らの命題をナンセンスと呼ぶ結末をどう読むかをめぐっては、現在も研究者のあいだで議論が続いている。
本書の命題には、1、1.1、1.11のような小数の番号が付されている。著者自身の注によれば、n.1、n.2、n.3は命題nへの注釈であり、n.m1、n.m2は命題n.mへの注釈である。つまり、番号の桁が一つ増えるごとに、一段下の注釈となる。たとえば2.01は命題2への注釈、2.011は命題2.01への注釈である。このため、本書は1から7までの七つの主命題を幹とする、木のような構造をなしている。本書では、原典構造一覧で、この構造を段差によって示している。ただし、番号は本文の順序どおりに並んでいるため、たとえば2.0121の次に2.0122、2.0123と続いたあと、2.013に戻る、というように、枝の先へ進んでは幹に戻る形で読むことになる。
以下、原語はすべてドイツ語。
原典構造をそのまま示した一覧である。全526命題を、番号の桁による注釈の関係(命題1の著者注を参照)にしたがって段差で示す。主命題の行を開くと、その注釈の命題が表示される。
論理哲学論考
わが友デイヴィッド・H・ピンセント*1の思い出に捧げる
*1 デイヴィッド・ヒューム・ピンセント(1891〜1918)は、ケンブリッジ大学でウィトゲンシュタインと知り合ったイギリスの友人である。二人は1912年にアイスランド、1913年にノルウェーを共に旅した。ピンセントは第一次世界大戦中の1918年に、飛行機の試験飛行中の事故で亡くなった。
モットー:……そして、人が知っていることで、ただざわめきやどよめきとして聞いただけではないものは、すべて三語で言い表すことができる。
キュルンベルガー*2
*2 フェルディナント・キュルンベルガー(1821〜1879)は、オーストリアの作家・評論家である。
この本は、ここに表現されている思考を、あるいは少なくともそれに似た思考を、すでに自分で一度は考えたことのある人にしか、おそらく理解されないだろう。したがって、これは教科書ではない。理解しながら読む一人の人に楽しみを与えることができたなら、この本の目的は果たされたことになるだろう。
この本は哲学の諸問題を扱い、それらの問題の立て方が私たちの言語の論理の誤解にもとづいていることを示す。私はそう信じている。この本の意味の全体は、おおよそ次の言葉にまとめることができるだろう。およそ語られうることは、明晰に語られうる。そして、話すことのできないことについては、沈黙しなければならない。
したがって、この本は、考えることに限界を引こうとする。いや、むしろ、考えることにではなく、思考の表現に限界を引こうとするのである。というのも、考えることに限界を引くためには、私たちはその限界の両側を考えることができなければならないだろうからである(つまり、考えることのできないことを考えることができなければならないことになるだろう)。
それゆえ、限界は言語のうちでのみ引かれうるだろう。そして、限界の向こう側にあるものは、端的にナンセンスとなるだろう。
私の努力が他の哲学者たちの努力とどこまで重なるかについて、私は判定しようとは思わない。それどころか、私がここに書いたことは、個々の点では新しさをまったく主張しない。だから私は典拠も挙げない。私が考えたことを、私より前にすでに誰か他の人が考えていたかどうかは、私にはどうでもよいことだからである。
ただ一つだけ言っておきたい。私の思考への刺激の大部分を、私はフレーゲ*3の偉大な著作と、私の友人バートランド・ラッセル*4氏の仕事とに負っている。
*3 ゴットロープ・フレーゲ(1848〜1925)は、ドイツの論理学者・数学者である。『概念記法』(1879年)で現代の論理学の基礎を築き、『算術の基本法則』などで、算術を論理から導き出すことを試みた。本書では、その意味と指示対象の区別や、命題の捉え方が、しばしば検討の対象となる。
*4 バートランド・ラッセル(1872〜1970)は、イギリスの哲学者・論理学者である。ホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ』などで、数学を論理から導き出すことを試みた。ウィトゲンシュタインは1911年からケンブリッジ大学でラッセルのもとで学んだ。底本には、ラッセルによる序論が付されているが、本書には収録していない。
この仕事に価値があるとすれば、その価値は二つの点にある。第一に、この仕事のうちに思考が表現されているという点である。この価値は、思考がよく表現されていればいるほど、大きなものとなるだろう。的を射ていればいるほど、そうなる。この点について、私は、可能であったことにはるかに及ばなかったと自覚している。それは単に、この課題をやりとげるには私の力があまりに小さいからである。他の人々が現れて、もっとうまくやってくれることを願う。
これに対して、ここに伝えられた思考の真理は、侵しがたく、決定的なものであると私には思われる。したがって私は、問題を本質的な点で最終的に解決したと考えている。そして、この点で私が誤っていないとすれば、この仕事の価値の第二の点は、これらの問題が解決されたところで、それによってなされたことがいかに少ないかを示している点にある。
L・W
ウィーン、1918年
〔 世界(1〜1.21)について 〕
位置づけ:本書の出発点である。以下のすべての命題は、ここで示される世界の捉え方の上に立っている。
概要:世界は、成り立っていることのすべてであり、物の総体ではなく事実の総体である、と述べられる。世界は事実によって、しかもそれがすべての事実であることによって規定される。論理空間のうちにある事実が世界であり、世界は事実へと分かれる。一つの事実は、他のすべての事実が変わらないままで、成り立つことも成り立たないこともありうる。
世界は、成り立っていることのすべてである。
† 個々の命題の番号として付した小数は、それらの命題の論理的な重み、すなわち、私の叙述においてそれらの命題に置かれている力点を指し示している。命題 n.1、n.2、n.3 等は、命題 n への注釈であり、命題 n.m1、n.m2 等は、命題 n.m への注釈である。以下同様である。
世界は事実の総体であって、物の総体ではない。
世界は、事実によって規定されている。そして、それがすべての事実であることによって規定されている。
というのも、事実の総体は、何が成り立っているかを規定し、さらに、何が成り立っていないかをもすべて規定するからである。
論理空間のうちにある事実が、世界である。
世界は事実へと分かれる。
あることが成り立っていることも、成り立っていないこともありうる。そして、そのとき他のことはすべて変わらないままでありうる。
〔 事実と像(2〜2.225)について 〕
位置づけ:命題1で示された「事実」を分析し、次に、その事実を私たちがどのように捉えるかという問いへ進む部分である。後半の像の理論は、命題3以降の思考と命題の理論の土台となる。
概要:前半では、事実は事態の存立であり、事態は対象の結合である、と述べられる。対象は単純であり、世界の実体をなす。対象の配列が事態をつくり、事態がどのように結合しているかがその構造、構造の可能性が形式である。後半では、私たちは事実の像をつくる、と述べられる。像は、その要素が互いに一定の仕方で関係していることによって、物どうしが同じ仕方で関係していることを描写する。像と写像されるものとは写像形式を共有し、どの像も少なくとも論理的な形式を共有する論理像である。像は、それが描写する状況をその意味とし、現実と一致するかどうかによって真または偽となる。ア・プリオリに真である像は存在しない。
成り立っていること、すなわち事実とは、事態が存立していることである。
事態とは、対象(もの、物)の結合である。
事態の構成要素でありうることは、物にとって本質的である。
論理においては、何ひとつ偶然ではない。物が事態のうちに現れうるのであれば、その事態の可能性は、すでに物のうちにあらかじめ定められていなければならない。
それ自体だけで存立しうる物に、あとから状況がうまく合うのだとしたら、それはいわば偶然のように見えるだろう。
物が事態のうちに現れうるのであれば、そのことはすでに物のうちになければならない。
(論理的なものは、単に可能であるだけ、ということはありえない。論理はあらゆる可能性を扱い、すべての可能性が論理の事実である。)
空間的な対象を空間の外に、時間的な対象を時間の外に考えることがまったくできないように、私たちは、どの対象も、他の対象と結合する可能性の外に考えることはできない。
私が対象を事態の結びつきのうちで考えることができるなら、私はその対象を、この結びつきの可能性の外で考えることはできない。
物は、あらゆる可能な状況のうちに現れうるかぎりで、自立している。しかし、この自立性の形式は、事態との連関の形式であり、非自立性の形式である。(語が、単独で現れる場合と命題のうちに現れる場合との、二つの異なる仕方で現れることは不可能である。)
私が対象を知っているなら、私はまた、その対象が事態のうちに現れるあらゆる可能性をも知っている。
(そうした可能性はどれも、対象の本性のうちになければならない。)
あとから新しい可能性が見つかることはありえない。
対象を知るために、私はその対象の外的な性質を知る必要はない。しかし、その内的な性質はすべて知らなければならない。
すべての対象が与えられているなら、それによって、すべての可能な事態もまた与えられている。
どの物も、いわば、可能な事態の空間のうちにある。この空間を空っぽのものとして考えることはできる。しかし、空間なしに物を考えることはできない。
空間的な対象は、無限の空間のうちになければならない。(空間の点は、項の位置である。)
視野のなかの染みは、赤である必要はない。しかし、何かの色をもっていなければならない。染みは、いわば色の空間を自分のまわりにもっているのである。音は何らかの高さを、触覚の対象は何らかの硬さを、もたなければならない。以下同様である。
対象は、あらゆる状況の可能性を含んでいる。
事態のうちに現れる可能性が、対象の形式である。
対象は単純である。
複合体についての言明はどれも、その構成要素についての言明と、その複合体を完全に記述する命題とに分解することができる。
対象は世界の実体をなす。それゆえ、対象は合成されたものではありえない。
世界に実体がないとしたら、ある命題が意味をもつかどうかは、別の命題が真であるかどうかに依存することになるだろう。
そうなれば、世界の像を(真であれ偽であれ)描くことは、不可能になるだろう。
現実の世界とどれほど異なるものとして考えられた世界であっても、何かを、すなわち一つの形式を、現実の世界と共有していなければならない。このことは明らかである。
この固定した形式は、まさに対象からなっている。
世界の実体は、形式だけを規定できるのであって、物質的な性質を規定することはできない。というのも、物質的な性質は、命題によってはじめて描写されるものであり、対象の配列によってはじめて形づくられるものだからである。
ついでに言えば、対象には色がない。
同じ論理形式をもつ二つの対象は、その外的な性質を別にすれば、互いに異なるということによってのみ区別される。
次のどちらかである。一つは、ある物が、他のどの物ももたない性質をもっている場合である。その場合には、その物を記述によって他の物からたやすく際立たせ、それを指し示すことができる。もう一つは、すべての性質を共有する複数の物がある場合である。その場合には、そのうちの一つを指し示すことは、まったく不可能である。
というのも、物が何によっても際立たせられていないなら、私はそれを際立たせることができないからである。際立たせることができるなら、その物はまさにすでに際立たせられていることになる。
実体とは、成り立っていることから独立に存立するものである。
実体は、形式であり、内容である。
空間、時間、色(色をもつということ)は、対象の形式である。
対象があるときにのみ、世界の固定した形式がありうる。
固定したもの、存立するもの、そして対象は、一つのものである。
対象は固定したもの、存立するものであり、配列は移り変わるもの、不安定なものである。
対象の配列が、事態を形づくる。
事態のうちで、対象は、鎖の環のように互いにつながり合っている。
事態のうちで、対象は、特定の仕方で互いに関係し合っている。
事態のうちで対象がつながり合う仕方が、事態の構造である。
形式とは、構造の可能性である。
事実の構造は、事態の構造からなる。
存立している事態の総体が、世界である。
存立している事態の総体は、どの事態が存立していないかをも規定する。
事態の存立と非存立が、現実である。
(事態の存立を肯定的な事実、非存立を否定的な事実とも、私たちは呼ぶ。)
事態は、互いに独立である。
ある事態の存立または非存立から、別の事態の存立または非存立を推論することはできない。
現実の全体が、世界である。
私たちは、事実の像をつくる。
像は、論理空間のうちの状況を、すなわち事態の存立と非存立を表す。
像は、現実の模型である。
像のうちでは、像の要素が対象に対応している。
像の要素は、像のうちで対象の代わりをつとめる。
像とは、その要素が特定の仕方で互いに関係し合っている、ということである。
像は、一つの事実である。
像の要素が特定の仕方で互いに関係し合っていることは、ものが同じように互いに関係し合っていることを表す。
像の要素のこのつながりを、像の構造と呼び、その構造の可能性を、像の写像形式と呼ぶことにしよう。
写像形式とは、物が、像の要素と同じように互いに関係し合っている、という可能性である。
像は、このようにして現実と結びついている。像は、現実にまで届いている。
像は、物差しのように現実にあてがわれている。
目盛りの線のいちばん端の点だけが、測られる対象に触れる。
したがって、この考え方によれば、像を像たらしめる写像関係もまた、像に属している。
写像関係は、像の要素とものとの対応づけからなる。
これらの対応づけは、いわば像の要素の触角であり、像はこれによって現実に触れる。
事実が像であるためには、その事実は、写像されるものと何かを共有していなければならない。
一方がそもそも他方の像でありうるためには、像と写像されるもののうちに、何か同一のものがなければならない。
像が現実を、その像なりの仕方で、正しくであれ誤ってであれ写像することができるために、現実と共有していなければならないもの、それが像の写像形式である。
像は、自分がその形式をもっているような現実であれば、どんな現実でも写像することができる。
空間的な像は空間的なものすべてを、色のある像は色のあるものすべてを写像することができる。以下同様である。
しかし、自分の写像形式を、像は写像することができない。像はそれを提示するのである。
像は、その客体を外側から描写する(像の立脚点は、像の描写形式である)。それゆえ、像はその客体を正しく、あるいは誤って描写する。
しかし、像は、自分の描写形式の外側に立つことはできない。
どのような形式の像であれ、およそ現実を正しくであれ誤ってであれ写像することができるために、どの像も現実と共有していなければならないもの、それが論理形式であり、すなわち現実の形式である。
写像形式が論理形式であるとき、その像は論理像と呼ばれる。
どの像もまた論理像である。(これに対して、たとえば、どの像も空間的な像であるわけではない。)
論理像は、世界を写像することができる。
像は、写像されるものと、写像の論理形式を共有している。
像は、事態の存立と非存立の一つの可能性を描写することによって、現実を写像する。
像は、論理空間のうちの一つの可能な状況を描写する。
像は、自分が描写する状況の可能性を含んでいる。
像は、現実と一致するか、しないかである。像は正しいか正しくないか、真か偽かである。
像は、自分が描写するものを、それが真であるか偽であるかにかかわりなく、写像形式によって描写する。
像が描写するものが、像の意味である。
像の意味が現実と一致するか一致しないかに、像の真または偽がある。
像が真であるか偽であるかを知るためには、私たちは像を現実と比べなければならない。
像だけからは、それが真であるか偽であるかはわからない。
ア・プリオリ*1に真である像は存在しない。
*1 ラテン語で「より先なるものから」の意。経験に先立って、経験にもとづかずに知られる、ということを表す。カント以来、哲学で広く用いられる語である。
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論理哲学論考
発行責任者(訳者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-opus-5-5)
参照原典:ドイツ語原典『Logisch-Philosophische Abhandlung』(Tractatus Logico-Philosophicus, London: Kegan Paul, Trench, Trubner & Co., 1922)
初版発行日:2026年09月27日
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