トマス・アクィナス。1225年頃から1274年。現在のイタリア南部にあたるロッカセッカに生まれる。幼少期にモンテ・カッシーノ修道院、ついでナポリ大学で学んだのち、1244年頃、ドミニコ会に入会する。その後、パリおよびケルンでアルベルトゥス・マグヌスに師事し、パリ大学の神学教授を2度にわたって務めたほか、ローマ・ナポリ・オルヴィエートなどでも教鞭を執った。1274年、リヨン公会議へ向かう途上、フォッサノーヴァ修道院で没する。
原典言語:ラテン語。原典名:『存在するものと本質について』(De ente et essentia)。
本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。第Ⅰ部は、原典全体を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ4割程度である。
さらに詳しく知りたい方へ
トピックス → 関連記事
物の定義史から『存在するものと本質について』を知る → タイムライン
本一覧は、本書が参照する原典において実際に用いられている構造単位を、そのまま示す。
緒言 始まりにおけるわずかな誤りは、終わりには大きな誤りとなる。哲学者が『天体論』第一巻で述べる通りである。存在するものと本質、この二つこそ、知性がまず最初に捉えるものであることは、アヴィセンナが『形而上学』で述べる通りである。それゆえ、この二つについての無知が誤りを生まぬよう、まずこの難点を解かねばならない。本質および存在するものという名が何を意味するか、これらの名がさまざまなもののうちにどのように見いだされるか、そして類・種・種差という論理的な捉え方とどう関わるかを、まず論じる必要がある。複合的なものから単純なものの認識に至り、後にあるものから先にあるものへ進むことが、学びの順序として適切である。それゆえ、まず存在するものの意味から出発し、次に本質の意味へと進む。
第一章 哲学者が『形而上学』第五巻で示す通り、存在するものはそれ自体、二つの仕方で言われる。一つは、十の類へと分けられるものとしての存在するものである。もう一つは、命題の真理を意味するものとしての存在するものであり、この仕方では、事物のうちに何も定立しないもの、たとえば欠如や否定もまた存在するものと言われうる。盲目が目のうちにある、と言われるのがその例である。事物のうちに何かを定立するものだけが、第一の仕方で存在するものと言われる。本質という名は、この第一の仕方で言われる存在するものからのみ取られる。第二の仕方で言われる存在するものは、本質を持たないものにも及ぶからである。
注解者が同じ箇所で述べる通り、第一の仕方で言われる存在するものとは、事物の実体を意味するものである。存在するものはこの仕方で十の類へ分けられるのだから、本質は、さまざまな存在するものがそれぞれの類のうちに位置づけられるもとになる、自然本性に共通するものを意味しなければならない。人間性が人間の本質であるのと同様である。事物をそれ固有の類・種のうちに成り立たせるもの、それを定義は意味する。それゆえ本質という名は、何性という名へと置き換えられる。哲学者が『形而上学』第七巻で「何であったところのもの」と呼ぶのもこれである。
本質はまた形相とも呼ばれる。形相によって、事物の完全性ないし確定性が意味されるからである。アヴィセンナが述べる通りである。本質はまた自然本性とも呼ばれる。ボエティウスが『両性論』で挙げる四つの意味のうち、知性によって捉えられうるものという意味における自然本性である。事物が知性によって把握されるのは、その定義と本質によってのみだからである。哲学者もまた、あらゆる実体は自然本性である、と述べている。このように受け取られた自然本性という名は、事物の本質を、それが固有のはたらきへの秩序を持つという点で意味する。これに対して何性という名は定義によって意味されるという点から、本質という名は、それによって・それのうちで事物が存在を持つという点から、それぞれ取られる。
第二章 存在するものは端的かつ第一次的には実体について言われ、付帯性についてはそれより後に、ある限定づきで言われる。それゆえ本質は実体のうちに本来的かつ真の意味で在り、付帯性のうちには限定づきで在るにすぎない。実体には単純なものと複合的なものとがある。単純な実体、とりわけ第一にして単純な実体である神の本質は、より真実で高貴な仕方であるが、私たちにとってより隠されている。それゆえ、より容易な複合実体の本質から始めるべきである。
複合実体においては形相と質料が知られている。人間における魂と身体がそれである。しかし、そのいずれか一方だけを本質と言うことはできない。質料だけが本質でないのは明らかである。事物はその本質によって認識され、種・類のうちに位置づけられるが、質料は認識の原理ではなく、質料に即して事物が種・類へ規定されるのでもないからである。
複合実体の本質を形相だけと言うこともできない。すでに述べた通り、本質とは事物の定義によって意味されるものだが、自然的実体の定義は、形相だけでなく質料も含む。そうでなければ自然学の定義と数学の定義とが異ならないことになる。また、質料が本質への付加物、あるいは自然本性の外にある存在するものとして置かれる、と言うこともできない。この在り方は本質を完全には持たない付帯性に固有のものであり、付帯性は自らの定義のうちに、自分の類の外にある実体ないし基体を受け入れねばならないからである。したがって本質は質料と形相の両方を包含する。
本質が、質料と形相のあいだの関係、あるいはそれらに付け加えられた何かを意味する、と言うこともできない。もしそうなら、それは事物の外にある付帯性となり、それによって事物が認識されることもなくなる。質料の現実態である形相によって、質料は現実に存在するものとなり、この一定のものとなる。だから、後から付け加わるものは、質料に端的な現実の存在を与えるのではなく、付帯性がそうするように、ある限定づきの現実の存在を与えるにすぎない。白さが現実に白いものを成り立たせるのと同様である。それゆえ、そのような形相の獲得は、端的な生成ではなく限定づきの生成と言われる。
したがって、複合実体において本質という名は、質料と形相から成る複合体を意味する。ボエティウスが『範疇論注解』で述べる通り、ギリシア人のもとでのウーシアは、私たちのもとでの本質と同じものである。アヴィセンナもまた、複合実体の何性とは形相と質料の複合そのものである、と述べている。注解者も、生成消滅する事物の種が持つ自然本性とは、質料と形相からの複合物である、と述べている。複合実体の存在は形相だけのものでも質料だけのものでもなく、複合体そのものの存在であり、本質とはそれに即して事物が存在すると言われるところのものだから、本質は質料と形相の両方でなければならない。もっとも、形相だけがある仕方でその原因である、という点は残る。これは、熱の作用から甘みが生じても、物体が熱いものと湿ったものを包み込む味によって甘いと呼ばれるのと同じである。
ところで、個体化の原理は質料である。このことから、形相をも自らのうちに包み込む本質は個別的なものにすぎず、普遍的なものではない、という帰結が出てくるように見えるかもしれない。もしそうなら、普遍的なものは定義を持たない、という帰結になってしまう。それゆえ次のことを知らねばならない。個体化の原理であるのは、無限定に捉えられた質料ではなく、指定された質料――一定の量的な広がりのもとで考えられる質料――だけである。この質料は、人間であるかぎりでの人間の定義のうちには置かれない。
第三章 人間の本質とソクラテスの本質は、指定されたものと指定されないものという点でのみ異なる。注解者が述べる通り、ソクラテスとは動物性と理性性にほかならず、これがソクラテスの何性である。類の本質と種の本質もまた、指定されたものと指定されないものという点で異なるが、指定の仕方は異なる。種に対する個体の指定は量的な質料によってなされ、類に対する種の指定は形相から生じる種差によってなされる。しかし種のうちにあるものは、規定されない仕方でではあるが、類のうちにもある。もし動物が人間の部分にすぎないなら、動物は人間について述語づけられないことになる。身体が動物の部分として置かれる場合と類として置かれる場合との違いがこれを示す。身体が動物の類であるかぎり、動物という形相は暗黙のうちに身体の本質のうちに含まれている。
類は種のうちにある全体を、規定されない仕方で意味する。質料だけを意味するのではない。同様に種差もまた種のうちにある全体を、形相だけでなく意味する。類は事物の質料的な側面を、固有の形相による規定なしに全体として意味するから、質料から取られるが質料そのものではない。「身体」と言われるのは、三つの次元が指定されうる完全性を持つものである。これに対して種差は、規定された形相から取られたある種の規定であり、あらかじめ規定された質料をその概念のうちに第一次的には含まない。「魂を持つもの」がその例であり、それが身体か他の何かかは規定されないままである。それゆえアヴィセンナは、類は本質の一部としてではなく、種差の何性の外にある存在するものとしてのみ、種差のうちにある、と述べている。基体が固有の属性の概念に属するのと同じ仕方である。しかし定義、すなわち種は、類という名が指し示す規定された質料と、種差という名が指し示す規定された形相の、その両方を包含する。
それゆえ人間は、魂と身体とから成ると言うのとは違って、動物と理性的なものとから成るとは言わない。人間は理性的動物である、と言う。身体と魂とから人間があると言われるのは、二つの事物からそのいずれでもない第三の事物が構成される、という仕方によってである。しかし人間が動物的なものと理性的なものとから成ると言われるのは、二つの概念内容から第三の概念内容が成る、という仕方によってである。動物的なものという概念内容は、特殊な形相の規定を欠いたまま自然本性を表現するもので、究極の完全性に対して質料的な位置にある。理性的というこの種差の概念内容は、特殊な形相の規定のうちに成り立っている。類が種の本質全体を意味するとしても、同じ類に属する異なる種が、数的に一つの自然本性を持たねばならない、ということにはならない。類の統一性は、その不確定性ないし無差別性から生じるのであり、類はある形相を意味するが、種差が規定して言い表す規定された仕方によってではない。種差が付け加わり類の不確定性が除かれると、種は本質において多様なものとして残る。
種の本質は「人間」という名によって、個体に対して不確定な仕方で全体として意味される。それゆえ「人間」はソクラテスについて述語づけられる。しかし種の自然本性が、個体化の原理である指定された質料を排除して意味されるなら、それは部分という仕方でのあり方を持つ。「人間性」という名がこの仕方で意味する。人間性は、それによって人間が人間であるところのものを意味するが、指定された質料はそれによって人間が人間であるところのものではないから、指定された質料は人間性の意味から排除される。部分は全体について述語づけられないから、人間性は人間についてもソクラテスについても述語づけられない。それゆえアヴィセンナは、複合体の何性は、その何性であるところの複合体そのものではない、と述べている。人間性は複合的なものであるが、人間ではない。それどころか人間性は、指定された質料であるところの何かのうちに受け取られなければならない。類の自然本性がそこから取られるところのものを意味する名は全体の質料的な部分を意味し、「身体」がそうであるように、種の自然本性がそこから取られるところのものを意味する名は形相的な部分を意味する。それゆえ人間性はある種の形相として、しかも全体の形相として意味される。もっとも、これは家の形相がその構成部分に付加されるのとは違い、質料と形相という本質的な部分に付加された形相としてではなく、形相と質料の両方を包み込む全体の形相としてである。それゆえ「本質」という名は、あるときは事物について述語づけられ、あるときは否定される。「ソクラテスはある本質である」と言われる一方で、「ソクラテスの本質はソクラテスではない」とも言われる。
第四章 類・種・種差という捉え方は、指定された個物について述語づけられるのだから、部分という仕方で意味される本質、たとえば人間性や動物性には属しえない。それゆえアヴィセンナは、理性性は種差ではなく種差の原理である、と述べている。同じ理由で人間性は種ではなく、動物性は類ではない。同様に、類・種という捉え方が、個物の外に存在する事物としての存在に属する、と言うこともできない。プラトン主義者が立てたようにである。もしそうなら、類と種はこの個体について述語づけられないことになる。したがって類・種という捉え方は、全体という仕方で本質に属する。「人間」「動物」という名がそうであり、これらは個体のうちにあるすべてを暗黙のうちに含んでいる。
このように受け取られた自然本性ないし本質は、二通りに考察されうる。一つは、それ固有の自然本性とあり方に即した考察であり、絶対的な考察と呼ばれる。この仕方では、それ自身にそのようなものとして属することがら以外、何を述べても真ではない。人間であるかぎりでの人間には、理性的であること、動物であることが属するが、白いこと・黒いことは属さない。それゆえ、この自然本性が一なるものか多なるものかと問われるなら、そのいずれも認めるべきではない。もし多性がその概念に属するなら、それは決して一なるものではありえないが、実際にはソクラテスに属する場合には一である。もし一性がその概念に属するなら、ソクラテスとプラトンの自然本性は一つの同じものとなり、複数のもののうちで多数化されることもできなくなる。
もう一つの仕方は、この個物あるいはあの個物のうちに存在を持つという点に即した考察である。この自然本性は二重の存在を持つ。個物のうちにある存在と、魂のうちにある存在とである。そのいずれに即しても付帯性がこの自然本性について続いて生じる。しかし絶対的な考察に即して言えば、そうした存在のいずれもこの自然本性に帰属しない。人間であるかぎりでの人間に、この個物のうちにあるということが属するなら、それはこの個物の外には決してないことになってしまう。したがって、絶対的に考察された人間の自然本性は、いかなる存在からも捨象されているが、そのどれかが排除されているわけでもない。そして、このように考察された自然本性こそが、すべての個体について述語づけられるものである。しかし普遍という捉え方が、このまま人間の自然本性に属する、と言うことはできない。普遍という捉え方には一性と共通性とが属するが、絶対的な考察に即する限り、人間の自然本性にはそのいずれも属さないからである。したがって種という捉え方は、人間の自然本性に、それが知性のうちに持つ存在に即して付帯する。この自然本性は知性のうちでは、あらゆる個体化する要因から抽象された存在を持ち、魂の外にあるすべての個体に対して一様なあり方を持つからである。それゆえ注解者は、事物のうちに普遍性を作り出すのは知性である、と述べている。
知性によって把握された自然本性は、魂の外にある事物と比較される限りでは普遍という捉え方を持つが、この知性ないしあの知性のうちに存在を持つ限りでは、ある個別的な、知性によって把握された種にすぎない。それゆえ注解者が、知性によって把握された形相の普遍性から知性の単一性を結論づけようとしたことの誤りが明らかになる。かの形相の普遍性は、それが知性のうちに持つ存在に即してあるのではなく、事物の似姿として事物に関係づけられるという点に即してあるからである。多くの人間を表す一つの彫像があれば、その像は、質料のうちにあるという点では個別的な存在を持つが、複数のものを共通に表しているという点で共通性という捉え方を持つのと同じである。
人間の自然本性には、その絶対的な考察に即して、ソクラテスについて述語づけられるということが属するが、種という捉え方は、それが知性のうちに持つある存在に即して続いて生じる付帯性に属することがらである。それゆえ種という名はソクラテスについて述語づけられず、「ソクラテスは種である」とは言われない。述語づけられるということは、それ自体として類に属する。述語づけとは、結合し分割する知性のはたらきによって完成されることでありながら、なお事物のうちに基盤を持つ。したがって、本質ないし自然本性が種という捉え方に対してどう関わるかが明らかになる。種という捉え方は、本質にその絶対的な考察に即して属するのでも、本質が魂の外に持つ存在に即して続いて生じる付帯性のうちにあるのでもなく、本質が知性のうちに持つ存在に即して続いて生じる付帯性のうちにある。類ないし種差という捉え方も、この同じ仕方で本質に属する。
第五章 離存実体、すなわち魂・知性体・第一原因において本質がどうあるかを見なければならない。第一原因の単純性はすべての哲学者が認めるが、知性体や魂における質料と形相の複合を立てる者もいる。しかしこれは哲学者たちの言葉と相反する。哲学者たちは、これらの実体を質料から分離されたものと呼び、いかなる質料もなしに存在することを論証している。その論証のうち最も有力なのは、これらの実体が持つ知解する能力によるものである。形相は、質料とその諸条件から分離される場合にのみ、現実に知解可能なものとなる。したがって知解するあらゆる実体においては、質料からのあらゆる意味での自由がなければならない。ある物体的な質料だけが知解可能性を妨げる、と言うこともできない。物体的な形相自身も、質料から抽象されれば、他の形相と同様に現実に知解可能だからである。したがって、知性的な魂や知性体においては、物体的実体の場合と同じ意味での質料と形相の複合は存在しない。そこにあるのは形相と存在との複合である。『原因論』第九命題の注解に言われる通りである。
互いに、一方が他方の存在の原因であるという関係にあるものについては、原因というあり方を持つ方は他方なしに存在を持てるが、逆は成り立たない。質料と形相のあいだにもこの関係が見いだされる。形相が質料に存在を与えるのだから、いかなる質料も形相なしに存在することは不可能だが、ある形相が質料なしに存在することは不可能ではない。質料のうちにしか存在しえない形相が見いだされるとすれば、これは、それらが第一原理から離れているという点に起因する付帯的なことがらにすぎない。したがって第一原理にもっとも近い形相は、それ自体として質料なしに存立する形相である。この種の形相が知性体である。それゆえ、これらの実体の本質ないし何性は、その形相そのもの以外の何ものでもない。
複合実体の本質と単純実体の本質は、次の点で異なる。複合実体の本質は形相だけでも質料だけでもなく両方を包含するのに対し、単純実体の本質は形相だけである。ここから二つの違いが生じる。第一に、複合実体の本質は全体としても部分としても意味されうる。人間がその何性である、とは言えないのはそのためである。しかし単純な事物の本質、すなわちその形相は、全体としてしか意味されない。それゆえアヴィセンナは、単純実体の何性はその単純なもの自体である、と述べている。第二に、複合的な事物の本質は指定された質料のうちに受け取られ、質料の分割に応じて多数化されるが、単純なものの本質は質料のうちに受け取られていないので、このような多数化はありえない。それゆえ、これらの実体においては個体があるのと同じ数だけ種がある。
しかし、これらの実体は、質料を伴わない形相ではあっても、あらゆる意味での単純性を持つわけではなく、純粋な現実態でもなく、可能態との混合を持つ。本質ないし何性の概念内容に属さないものは何であれ、外から付け加わるものであり、本質と複合をなすものである。あらゆる本質ないし何性は、その存在について何かが実際に知解されることなしに知解されうる。私は人間とは何か、あるいはフェニックスとは何かを知解することができるが、それでも、それらが自然界のうちに存在を持つかどうかについては知らないままでありうる。したがって存在は本質ないし何性とは別のものである。ただし、その何性がまさにその存在そのものであるような事物があるとすれば別であり、そのような事物は唯一かつ第一のものでしかありえない。
何かが多数化される仕方は三つしかない。ある種差が付け加わることによる場合、形相が異なる質料のうちに受け取られることによる場合、そして一方が抽象されたものであり他方が何かのうちに受け取られたものであることによる場合である。しかし、もし存在だけであるような、その存在自体が自立して存立しているような事物が立てられるとすれば、この存在は種差の付加を受け入れない。もし受け入れるなら、それはもはや存在だけではなく、存在と、それに加えてある形相ということになってしまう。質料の付加を受け入れることはなおさらありえない。したがって、自らの存在そのものであるような事物は唯一でしかありえない。それゆえ、これ以外のあらゆる事物においては、その存在は、その何性ないし自然本性ないし形相とは別のものでなければならない。したがって知性体においては形相のほかに存在がなければならない。それゆえ知性体は形相であり存在である、と言われる。
存在そのものが事物の形相ないし何性そのものによって、作出因として引き起こされる、ということはありえない。もしそうなら、ある事物が自分自身の原因になってしまう。したがって、その存在が自らの自然本性とは異なるようなあらゆる事物は、他のものから存在を得なければならない。他のものによってあるものはすべて、それ自体によってあるもの、すなわち第一原因に行き着くのだから、あらゆる事物にとって存在の原因であるような何らかの事物がなければならない。そのものは、まさに存在そのものだからである。したがって知性体は形相であり存在であること、そしてその存在を第一の存在から、すなわち存在だけであるところのものから得ていることが明らかである。そしてこれが第一原因、すなわち神である。
他から何かを受け取るものはすべて、それに対して可能態にあり、受け取られたものはその現実態である。したがって、知性体であるところの形相ないし何性そのものは、神から受け取る存在に対して可能態になければならない。こうして知性体のうちには現実態と可能態が見いだされる。もっとも、形相と質料は多義的にでなければ見いだされない。知性体のうちに可能態と現実態が置かれているのだから、知性体の多数性を見いだすことは難しくない。第一のものにより近い、より上位の知性体は、より多くの現実態とより少ない可能態を持つ。これは人間の魂において完結する。人間の魂は知性的実体のうちで最後の段階を占めており、その可能知性は、知解可能な形相に対して、あたかも第一質料が感覚的な形相に対してあるのと同じ関係にある。それゆえ哲学者は人間の魂を、何も描かれていない書板にたとえている。人間の魂は他の知性的実体のうちでより多くの可能態を持つがゆえに、物質的な事物にきわめて近いものとなり、物質的な事物がその存在に参与するまでに至る。魂と身体とから一つの複合体における一つの存在が生じる。もっとも、魂そのものとしてのその存在は身体に依存するものではない。魂であるこの形相の後には、さらに多くの可能態を持ち質料にいっそう近い、他の形相が見いだされ、諸元素の第一の形相に至るまでの順序と段階がある。
第六章 本質がさまざまなもののうちにどのように見いだされるかが明らかになった。実体において本質を持つ仕方には三つの様態が見いだされる。神のように、その本質がまさにその存在そのものであるようなものがある。それゆえ、神は本質を持たない、なぜなら神の本質はその存在にほかならないからだ、と言う哲学者たちもいる。そしてこのことから、神は類のうちにはない、という帰結が出る。類のうちにあるものはすべて、その存在とは別に何性を持たねばならないからである。神は存在だけである、と私たちが言うとしても、それによって、あらゆる事物が形相的にそれによって在るところの、あの万物に遍在する存在である、と述べた者たちの誤りに陥る必要はない。神であるところのこの存在は、いかなる付加もなされえないものであり、その純粋性そのものによってあらゆる存在から区別されている。これに対して共通的な存在は、その概念内容のうちに付加も、付加の排除も含まない。
神が存在だけであるとしても、それ以外の完全性が神に欠けている必要はない。それどころか神は、あらゆる類のうちにあるあらゆる完全性を、あらゆる事物にもまして優れた仕方で持っている。神においてはそれらすべてが一つだからである。これは、それらの完全性が、神の単純な存在の大きさに応じて、神に属しているからである。
第二の様態では、本質は被造の知性的実体のうちに見いだされる。これらの実体においては、存在は本質とは別のものであるが、本質は質料を伴わない。それゆえ、これらの実体の存在は絶対的なものではなく、受け取られたものであり、受け取る自然本性の受容能力に応じて限定され有限である。しかし、これらの実体の自然本性ないし何性は絶対的であり、いかなる質料のうちにも受け取られていない。それゆえ『原因論』では、知性体は下に向かっては無限であり、上に向かっては有限である、と言われる。このような実体においては、一つの種のうちに複数の個体が見いだされることはない。ただし人間の魂は例外であり、それが結びつく身体のゆえにそうなる。人間の魂の個体化は、その端緒に関しては身体に機縁的に依存するが、身体が滅んでも個体化が消滅する必要はない。人間の魂は、個体化された存在をそこから獲得した絶対的な存在を持ち、この身体の形相となったという事実によって、その存在は常に個体化されたままにとどまるからである。
これらの実体においては、何性は存在と同一ではないので、範疇のうちに位置づけられうる。それゆえ類・種・種差が見いだされるが、それらに固有の種差は私たちにとって隠されたままである。感覚的な事物においてさえ、本質的な種差そのものは私たちに知られておらず、そこから生じる付帯的な種差によって意味されるにすぎないからである。「二足である」ことが人間の種差として置かれるのがその例である。しかし非質料的な実体に固有の付帯性は、私たちには知られていない。それゆえ、これらの実体の種差は、それ自体としても付帯的な種差によっても、私たちに意味されることができない。しかし、これらの実体と感覚的な実体とでは、類と種差が同じ仕方で取られるのではない。感覚的な実体においては、類は事物のうちにある質料的なものから、種差はその形相的なものから取られるが、霊的な実体は、ある種の単純な何性であるから、これらにおいては、種差を何性の一部から取ることはできず、何性の全体から取らねばならない。同様に、類もまた何性の全体から取られる。もっとも、取り方は種差の場合とは異なる。一つの離存実体は、非質料性という点では別の離存実体と一致するが、可能態から離れ純粋な現実態に近づく完全性の程度において、互いに異なるからである。それゆえ、これらの実体が非質料的であることに伴うことがらから類が取られ、これらの実体における完全性の程度に伴うことがらから種差が取られるが、私たちにはそれが何であるかは知られないままである。
第三の様態では、本質は質料と形相から成る実体のうちに見いだされる。これらの実体においては、存在は受け取られたものであり有限である。これらの実体の自然本性ないし何性は指定された質料のうちに受け取られており、指定された質料の分割ゆえに、一つの種のうちで個体が多数化されることが可能である。
第七章 本質が付帯性のうちにどのようにあるかを見なければならない。本質は定義によって意味されるのだから、事物は定義を持つのと同じ仕方で本質を持たねばならない。しかし付帯性は不完全な定義しか持たない。付帯性は、その定義のうちに基体を置くのでなければ定義されえないからである。これは付帯性が、基体から独立した絶対的な存在を持たないからである。形相と質料が複合するとき実体的な存在が生じるのと同様に、付帯性が基体に付け加わるとき付帯的な存在が生じる。それゆえ実体的形相も質料も、完全な本質を持たない。実体的形相の定義のうちには、それがその形相であるところの当のものが置かれるからである。しかし実体的形相と付帯的形相のあいだには大きな違いがある。実体的形相が、それが付け加わる当のものなしには絶対的な存在を持たないのと同様に、質料もまた単独では絶対的な存在を持たない。両者の結合から、事物がそれ自体として存立するところの存在が生じ、両者からある一つの本質が生じる。したがって形相は、それ自体としては完全な本質のあり方を持たないとしても、完全な本質の一部ではある。しかし付帯性が付け加わる当のものは、それ自体として完全な存在するものであり、自らの存在において存立している。付け加わる付帯性は、事物がそれ自体として存立するところのあの存在を引き起こすのではなく、それなしでも存立する事物が存在すると知解されうるような、ある第二の存在を引き起こすにすぎない。したがって付帯性と基体からは、それ自体として一つのものにはならない。それゆえ付帯性は完全な本質のあり方を持たないだけでなく、完全な本質の一部でもない。しかし付帯性がある限定づきで存在するものであるのと同様に、ある限定づきで本質を持ってはいる。
いかなる類においても、その類のうちでもっとも多く、もっとも真の意味でそう言われるものは、その類のうちで後にあるものの原因である。それゆえ、存在するものという類における原理である実体は、もっとも多く、もっとも真の意味で本質を持つのだから、二次的に、限定づきで存在するもののあり方に与る付帯性の原因でなければならない。実体の部分は質料と形相であるから、ある付帯性は主に形相から、ある付帯性は質料から続いて生じる。その存在が質料に依存しない形相――知性的な魂――も見いだされる。それゆえ形相から続いて生じる付帯性のうちには、質料とのかかわりを持たないものがある。知解することがそれであり、これは身体的な器官によってなされるのではない。しかし形相から続いて生じるもののうちにも、質料とのかかわりを持つものがある。感覚することがそれである。しかし形相とのかかわりなしに質料から続いて生じる付帯性は一つもない。
質料から続いて生じる付帯性のうちにも、ある種の多様性が見いだされる。ある付帯性は、質料が特殊な形相に対して持つ秩序に応じて質料から続いて生じる。動物における雄と雌がそれにあたり、その違いは質料に帰着する。したがって動物の形相が取り除かれると、これらの付帯性は多義的にでなければ残らない。他方、ある付帯性は、質料が一般的な形相に対して持つ秩序に応じて質料から続いて生じる。それゆえ特殊な形相が取り除かれても、これらはなお質料のうちに残る。エチオピア人における皮膚の黒さが、魂のあり方からではなく元素の混合から生じているようなものであり、死後もその黒さは残る。あらゆる事物は質料によって個体化され、自らの形相によって類ないし種のうちに位置づけられるのだから、質料から続いて生じる付帯性は個体の付帯性であり、形相から続いて生じる付帯性は類ないし種に固有の属性である。たとえば笑いうるということが人間において形相から続いて生じるのは、笑いが人間の魂のある種の把握から生じるからである。
付帯性が本質的な諸原理から引き起こされる場合、あるときは完全な現実態に即して引き起こされる。火における熱さがそれであり、火は常に現実に熱い。しかしあるときは素質としてのみ引き起こされ、付帯性は外部の作用因からその完成を受け取る。空気における透明性がそれであり、外部の輝く物体によって完成される。付帯性においては、類・種差・種が実体の場合とは異なる仕方で取られる。実体においては、質料と実体的形相とから、それ自体として一つのものが成り立ち、両者の結合からある一つの自然本性が生じ、それが実体という範疇のうちに本来的に位置づけられるのだから、複合体を意味する具体的な名前、人間や動物のような類・種が、本来的に類のうちにあると言われる。しかし形相や質料は、この仕方で範疇のうちにあるのではなく、還元によってのみそうである。しかし付帯性と基体からは、それ自体として一つのものは成り立たない。したがって、両者の結合から、類ないし種という捉え方が帰属させられうるような自然本性が生じることはない。それゆえ、具体的に言われる付帯性の名前は、還元によってのみ種や類として範疇のうちに置かれる。「白いもの」「音楽的なもの」がそうであり、付帯性が範疇のうちに置かれるのは、もっぱら「白さ」「音楽性」のように抽象的に意味される場合においてである。付帯性は質料と形相から複合しているのではないから、複合実体の場合のように、類を質料から、種差を形相から取ることはできない。第一の類は存在の仕方そのものから取られなければならない。量は実体の尺度であることから量と言われ、質は実体のあり方であることに即して質と言われる。これに対して付帯性における種差は、それらを引き起こす諸原理の多様性から取られる。固有の属性は基体固有の諸原理から引き起こされるのだから、それらが抽象的に定義される場合には、基体が種差の代わりにその定義のうちに置かれる。「獅子鼻であることとは、鼻の曲がりである」と言われるのがそれにあたる。しかし具体的に言われるあり方に即して定義が取られるなら、逆になる。基体はそれらの定義のうちに類として置かれることになる。「獅子鼻とは、曲がった鼻である」と私たちが言うのがそれにあたる。
本質が実体と付帯性のうちにどのようにあるか、そして複合実体と単純実体のうちにどのようにあるか、また普遍的な論理的捉え方がそれらのうちにどのように見いだされるかが、これで明らかになった。ただし、無限の単純性を持つ第一原理だけは例外である。これには類ないし種という捉え方はふさわしくなく、その単純性のゆえに定義もふさわしくない。
本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。
『存在するもの』
十の類へと分けられるものとして言われる場合と、命題の真理を意味するものとして言われる場合の二通りがある。本質という名が取られるのは、事物のうちに何かを定立する、前者の意味における存在するものからのみである。
『本質』
それによって・それのうちで事物が存在を持つところのもの。事物を固有の類・種のうちに成り立たせ、定義によって意味される。複合実体においては質料と形相の複合、単純実体においては形相そのものを意味する。
『自然本性』
本質の異称の一つ。事物が固有のはたらきへの秩序を持つという点で、本質を意味する呼び名である。
『何性』
本質の異称の一つ。定義によって意味されるという点から取られた呼び名であり、「それが何であったところのもの」を指す。
『実体』
存在するものが端的かつ第一次的に言われるもの。本質は実体のうちに本来的かつ真の意味で在る。
『付帯性』
存在するものがそれより後に、ある限定づきで言われるもの。基体から独立した絶対的な存在を持たず、自らの定義のうちに、自分の類の外にある基体を受け入れなければ定義されえない。それゆえ完全な本質を持たない。
『形相』
質料の現実態であり、質料に働きかけて事物を現実にこの一定のものたらしめる原理。単純実体においては、形相そのものが本質のすべてである。
『質料』
それ自体では認識の原理たりえない、可能態としての原理。形相によってのみ現実の存在を与えられる。指定された質料は個体化の原理である。
『離存実体』
魂・知性体・第一原因のように、質料から離れてそれ自体として存立する実体。知性体においては本質は質料を伴わないが存在とは別であり、第一原因(神)においてのみ本質と存在は同一である。
『存在』
本質ないし何性とは実在的に別のもの。何性が知解されても、それが現実に存在するかどうかはそこから知解されない。本質がそのままその存在であるものは唯一・第一の事物(神)でしかありえず、それ以外のあらゆる事物は、他のものからその存在を受け取る。
第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。
『物とは、それによって・それのうちで存在を持つところの本質によって、十の類のいずれかのうちにしかじかのものとして成り立ちながら、みずからその存在を引き起こすことができず、その本質とは別に、神から一方的かつ継続的に受け取る存在によってのみ、現実にあるものである。ただし、本質がそのままその存在である神だけは、この限りではない。』
この定義文は、置かれるとほとんど同時に、自らの外に一つの場所を空けている。「ただし」以下の一文がなければ、この定義は成り立たない。
物とは、知性体や魂のような単純なものにおいてはそのもの自身の形相であり、石や人間のような複合的なものにおいては質料と形相の複合である、そうした中身によってしかじかのものとして成り立つものである。単純なものには、それを受け取る何かが形相のほかにないが、複合的なものには、形相を受け取る質料がなければ、この一定のものは成り立たないからである。この、物をそれとして成り立たせる中身を、『本質』と呼ぶ。
物とは、この本質によって、実体としてか、量としてか、質としてか、十の類のいずれかのうちに位置づけられるものである。この、物が最終的に落ち着くところの区分を、『十の類』と呼ぶ。
物とは、その本質が何であるかを知解されても、それが現実にあるかどうかは、なお分からないままでありうるものである。人間とは何かを知解することと、人間が現実にあるかどうかは、別のことがらである。したがって物は、みずからの本質によって、みずからを現実にあらしめることができない。もしそうであれば、物は自分自身の原因になってしまう。この、物を現実にあらしめるものを、『存在』と呼ぶ。存在は本質とは別のものであり、本質のほかに、物に付け加わらなければならない。
物は、その存在を、他のものから受け取らなければならない。他のものによってあるものは、それ自体によってあるものへと行き着くのだから、あらゆる物にとって存在の原因であるような何かがなければならない。これを、『神』と呼ぶ。もっとも、物はこの存在を、一度だけ受け取ってそれきりになるのではない。他から何かを受け取るものは、それに対してつねに可能態にあるのだから、物は、現実にあり続けるかぎり、そのつど、みずからは何も返すことのできないまま、神から存在を受け取り続ける。物はこうして、神から一方的かつ継続的に存在を受け取ることによって、現実にある。
物が本質によって成り立ち、存在によって現実にあることは、以上の通りである。
作品名:トマス・アクィナス『存在するものと本質について』を知るための本
発行責任者(著者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-sonnet-5)
参照原典:ラテン語原典『存在するものと本質について(De ente et essentia)』(パルマ版、Sancti Thomae Aquinatis Doctoris Angelici Ordinis Praedicatorum Opera Omnia, t. 16, Parmae: Typis Petri Fiaccadori, 1864年)
初版発行日:2026年7月12日
本書の本文・解説その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。
注記:本書が参照する原典は、トマス・アクィナス『存在するものと本質について(De ente et essentia)』のラテン語原典である。本書の制作において直接参照した版はパルマ版(Sancti Thomae Aquinatis Doctoris Angelici Ordinis Praedicatorum Opera Omnia, t. 16, Parmae: Typis Petri Fiaccadori, 1864年刊行)に準拠したものである。現代のトマス研究における標準版はレオニナ版(1976年刊行)であるが、パルマ版は公有に帰した校訂版として、本シリーズの翻訳HTMLと同一の底本を用いている。
本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTMLが存在する場合は、術語および論証骨格の照合基準として当該翻訳HTMLを参照して制作している。
本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。