アリストテレス(Ἀριστοτέλης)は、紀元前384年、ギリシア北部カルキディケ半島の町スタゲイラに生まれた。父ニコマコスは、マケドニア王アミュンタス3世に仕えた医師であった。紀元前367年頃、17歳でアテナイに出てプラトンの学園アカデメイアに入り、紀元前347年にプラトンが没するまで、およそ20年にわたってそこで学び、研究した。その後、小アジアのアッソスやレスボス島に滞在し、紀元前343年頃、マケドニア王フィリッポス2世の招きにより、王子アレクサンドロスの教育にあたった。紀元前335年頃、アテナイに戻り、リュケイオンに学園を開いた。紀元前322年、エウボイア島のカルキスで没した。
原典言語は古典ギリシア語。原典名は Τὰ μετὰ τὰ φυσικά(形而上学)であり、全十四巻から成る。本書が参照する底本は、W. D. Ross編、Aristotle's Metaphysics(Oxford: Clarendon Press、1924年、Oxford Classical Texts)である。
本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。第Ⅰ部は、原典全体を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。
本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ2割程度である。
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第一巻(Α)
第一章 人間は誰しも、生まれつき知ることを欲する。その証拠は感覚への愛着であり、感覚は役に立つかどうかとは別に、それ自体のために愛される。とりわけ視覚がそうであり、我々は何も行おうとしていないときでも視覚を選ぶ。視覚が他のどの感覚よりも多くの違いを明らかにし、物を知らせるからである。
動物は感覚を備えて生じるが、感覚から記憶が生じる動物とそうでない動物とがあり、記憶をもつ動物は思慮に富み、聴覚をも備えれば学習することができる。人間以外の動物は表象と記憶によって生き、経験に与ることはわずかであるが、人間は技術と推論によっても生きる。人間においては、同じ事柄についての多くの記憶が一つの経験をつくり、経験から技術と知識が生じる。カリアスにこの治療が効き、ソクラテスにも効いたと知っているのは経験であり、このような人々すべてに、たとえば粘液質の者が高熱に苦しむときに効くと判断するのは技術である。
実践だけを見れば、経験は技術に劣らず、むしろ理屈だけをもつ者よりもうまくいく。治療されるのは人間一般ではなく、カリアスやソクラテスという個々の者だからである。それでもなお我々は、技術をもつ者を経験をもつ者よりも知恵ある者とみなす。経験をもつ者はそうであるという事実を知るが、技術をもつ者はなぜそうであるか、すなわち原因を知っているからである。棟梁が職人よりも知恵ある者とされるのも、原因を知っているからである。原因を知る者は教えることができる。感覚は個々のことについてもっとも確かな知識であるが、なぜ火が熱いかは語らず、ただ火が熱いことを語るにすぎない。
やがて生活の必要のための技術に続いて、余暇のための技術が見出され、最後に、快楽のためでも必要のためでもない知識が、人々が最初に余暇を得た土地で見出された。数学がエジプトの祭司たちのもとで確立されたのはそのためである。こうして、感覚をもつ者より経験をもつ者が、経験をもつ者より技術をもつ者が、制作的な知識より観想的な知識が、知恵あるものとみなされる。知恵とは、ある種の原理と原因とに関わる知識である。
第二章 では、いかなる原因といかなる原理についての知識が知恵であるか。我々が知恵ある人について抱いている考えを取り上げる。知恵ある人とは、できる限りすべてを知っている人であり、人間には容易に知りえない困難な事柄を知る人であり、より厳密で、より原因を教えることのできる人である。また、知ることそれ自体のために選ばれる知識、そして他の知識に仕える知識よりも統率的な知識が、いっそう知恵にふさわしい。
これらの想定はすべて、同じ一つの学に帰着する。すべてを知るのは、もっとも普遍的な知識をもつ者であり、もっとも普遍的なものは感覚からもっとも遠いゆえにもっとも認識しがたい。第一の諸原因についての学はもっとも厳密であり、もっとも教える力に富む。もっとも知りうるものは第一のもの、すなわち原因であり、他のものはこれによって知られる。そしてもっとも統率的な学は、それぞれのものが何のために為されるべきか、すなわち善を知る学である。善も「そのために」ということも原因の一つである以上、探し求めている学は、第一の諸原理と諸原因を考察する学でなければならない。
この学が制作的なものでないことは、最初に哲学した人々を見れば分かる。人間は驚異によって哲学しはじめた。はじめは身近な不可解な事柄に、しだいに月や太陽や星々の現象に、そして万物の生成に驚いた。驚く者は自分が無知だと思っている。無知から逃れるために哲学したのであれば、人は知ることそれ自体のために知を求めたのであり、何かの役に立てるためではなかった。生活の必需品がほぼ整ってはじめてこの思慮が求められたことが、それを証言している。自分自身のために存在する人を自由な人と呼ぶように、この学だけが自由な学である。
それゆえこの学の獲得は人間のものではないとも考えられる。シモニデスは「この特権を持つのは神のみである」と言う。しかし神が妬むことはありえず、「詩人は多くの偽りを語る」。この学は、神がもっともよくもつであろう学であり、また神的な事柄を対象とする学でもあるから、もっとも神的でもっとも尊い。他の学はこれよりも必要であろうが、これより優れた学はない。
ただし、この知恵の獲得は、探求の出発点とは正反対の状態に落ち着かなければならない。誰もが、自動人形や太陽の回帰や、対角線が辺と通約不可能であることに驚くところから出発する。しかし幾何学者にとっては、対角線が計測可能になることほど驚くべきことはない。以上により、探求している学の本性と、探求が到達すべき目標とが語られた。
第三章 ある事柄について第一の原因を知ったと考えるとき、我々はそれを知っていると言う。原因は四つの意味で語られる。第一に実体、すなわち本質、第二に質料、すなわち基体、第三に運動がそこから始まる源、第四にそれと対立する原因、すなわち「そのために」ということ、つまり善である。これらは自然学の書物ですでに検討したが、我々より前に存在するものの探求に取り組んだ人々を取り上げよう。そうすることで、別の種類の原因を見出すか、いま述べた原因への確信を深めるかのいずれかになるからである。
最初に哲学した人々の多くは、質料の形をとる原理だけをあらゆるものの原理と考えた。あらゆるものがそこから成り、そこへと消滅していき、様態が変化しても実体は存続しつづけるもの、それを彼らは元素と呼んだ。ソクラテスが音楽的になっても、基体としてのソクラテスが存続する以上、無条件にソクラテスが生成したとは言わないように、彼らはいかなるものについても生成と消滅はないと考えた。その原理について、タレスは水と言い、大地は水の上に浮かぶと述べた。養分や種子が湿っていることを見てとったからであろう。アナクシメネスとディオゲネスは空気を、ヒッパソスとヘラクレイトスは火を原理とし、エンペドクレスはこれに土を加えて四つの元素を立て、アナクサゴラスは原理が数において無限であると言った。
しかし探求が進むにつれて、事柄そのものが彼らにさらなる探求を強いた。生成と消滅が何か一つあるいは複数のものから生じるとしても、なぜそうなるのかが問われねばならない。木材がみずから寝台になるのでも、青銅がみずから彫像になるのでもない。変化には別の原因が働いている。それを探求することは、運動がそこから始まる源を探求することにほかならない。一なるものを主張する人々のある者は、この探求に打ち負かされたかのように、一なるものは不動であると言うに至った。
さらに、存在するものが善くあり美しく生成することについて、火や土がその原因であるとも、これを自然発生や偶然にゆだねるのがよいとも思われなかった。そこで、動物のうちにあるように自然のうちにも秩序全体の原因として知性があると語った者は、でたらめを語る人々のなかでただ一人素面の者のように見えた。それはアナクサゴラスであった。この人々は、善さの原因を原理として立てると同時に、運動の源としての原理をも立てたのである。
第四章 この種の原因を最初に探求したのは、「もろもろの神々のうちで、真っ先にエロースを案出した」と語るパルメニデスや、カオスの後にエロースを歌うヘシオドスであったとも考えられる。事物を動かし結合させる原因がなければならないと考えたのである。さらに自然のうちには、秩序や美しさだけでなく無秩序や醜さもあり、悪しきものが善きものより多いとも見えたので、エンペドクレスは「愛」と「争い」とを持ち込み、それぞれを善きものと悪しきものの原因とした。彼はある意味で、悪と善を原理として語った最初の者である。
これらの人々は、質料の原因と運動の源としての原因とに触れているが、それは訓練を積んでいない者が試合で時に見事な一撃を打つようなもので、知識に基づくものではない。アナクサゴラスは知性をいわば機械仕掛けのように用い、行き詰まったときにだけ引っ張り出す。エンペドクレスのもとでは、しばしば「争い」が結合させ、「愛」が分離させることになっている。それでも彼は、運動の原理を対立する二つとして立て、元素を四つと語った最初の者であった。
レウキッポスとデモクリトスは、充実したものと空虚なものとを元素とし、前者を存在するもの、後者を存在しないものと呼び、両者を質料の形をとる原因とした。そして差異こそが他のものの原因であり、その差異は形と配列と位置の三つであると言った。AはNと形において、ANはNAと配列において、ZはHと位置において異なる。しかし運動がどこから存在するものに備わるのかを、彼らもまた手つかずのまま残した。
第五章 ピュタゴラス派は数学に最初に取り組み、その原理をあらゆる存在するものの原理と考えた。数のうちに、火や土や水におけるよりも多く、存在するものとの類似を見て取ったからである。数のかくかくの様態が正義であり、しかじかの様態が魂や知性であり、音階の比も数のうちに見出される。そこで彼らは数の元素をあらゆるものの元素とし、天全体を音階であり数であるとした。十が完全な数であるとして、見える天体が九つしかないのに十番目の「対地球」を作り出しもした。
彼らは数を、存在するものの質料としても様態や状態としても原理とし、数の元素として偶数と奇数を立て、一方を限定されたもの、他方を無限定なものとした。別の者たちは、限定と無限、奇と偶、一と多、右と左、男と女、静と動、直と曲、明と暗、善と悪、正方形と長方形という十の対を原理として並べた。アルクマイオンも、たまたま思いついた対立項を挙げている。ここから、対立するものが存在するものの原理であることは把握できるが、それらが四つの原因のもとにどう集約されるかは明晰に語られておらず、原理を質料の形をとる元素として立てているように見える。
万物を一つの本性とする人々は、一なるものを不動とするので、原因についての今の考察には適合しない。ただ、パルメニデスは定義式のうえでの一を、メリッソスは質料のうえでの一を捉えているように見え、クセノパネスは何も明晰にしなかった。パルメニデスは、存在するものの傍らに非存在は何もないとして、存在するものはただ一つと考えたが、感覚される現象に従わざるをえず、熱と冷の二つの原理を立てた。
以上から我々が受け取ったのは、最初期の人々からは質料としての物体的な原理を、別の人々からはそれに加えて運動の源を、という見解である。ピュタゴラス派は、無限定なものそれ自体と一なるものそれ自体とが、それらが述語づけられるものの実体であると考え、数を万物の実体とした。彼らは「それが何であるか」についても語り定義を試みたが、あまりに単純であった。「二倍」の規定が最初に当てはまるのが二であるから、二倍と二とは同じだと考えるようなものである。
第六章 これらの後にプラトンの哲学が登場した。プラトンは若い頃、感覚されるものはすべて流転し、それについての知識は成り立たないというヘラクレイトスの説に親しんだ。他方ソクラテスは倫理的な事柄のうちに普遍的なものを探求し、定義に思考を集中させた最初の人物であった。プラトンはこれを受け継ぎ、絶えず変化する感覚されるものについては共通の定義は成り立たないと考え、定義を別の種類のものに適用した。この存在するものを彼は「イデア」と呼び、感覚されるものは形相への分有によって存在し、形相と同じ名をもつとした。分有とは、ピュタゴラス派の言う数の模倣を、名を変えて言ったにすぎず、両者とも分有や模倣が何であるかを探求することを怠った。
さらにプラトンは、感覚されるものと形相との中間に、永遠であり不動でありながら多くの類似したものが存在する数学的な対象を置いた。そして形相の元素を存在するもの全体の元素とし、質料としては大と小を、実体としては一を立てた。大と小から、一への分有によって数が成り立つ。無限定なものを一つとせず、大と小から成る二とした点、数を感覚されるものとは別に立てた点が、ピュタゴラス派と異なる。しかし、一つの質料からは一つの机しか生じないが、形相を与える者は一人で多くの机を作るように、実際の事態はこの考え方とは逆である。こうしてプラトンは、「それが何であるか」の原因と質料としての原因の二つだけを用い、善くあることと悪くあることの原因を二つの元素に割り当てた。
第七章 以上を簡潔に辿ってきたが、原理と原因を語った人々のうち、自然学の書物で区別した四つの原因の外に出た者は誰もいなかった。ある者は原理を質料として語る。プラトンの大と小、ピュタゴラス派の無限定なもの、エンペドクレスの火と土と水と空気、アナクサゴラスの同質部分体がそれである。別の者は、愛と争い、知性、エロースのように、運動の源としての原因に触れた。しかし本質と実体を明晰に説明した者は誰もいない。もっとも近づいたのは形相を立てた人々である。また目的としての原因についても、知性や愛を善きものとして立てる人々は、それらから運動が生じるとは言うが、何かがそれらのために存在し生成するとは言わない。彼らは善を、端的にではなく付帯的な仕方で語っているにすぎない。これらの人々がほかの原因に触れえなかったことが、我々の原因の区別の正しさを証言している。
第八章 宇宙全体を一つとし、物体的な単一の本性を質料として立てる人々は、多くの点で誤っている。非物体的なものの元素を立てず、運動の原因を取り去り、実体を原因として立てず、単純な物体が互いからどう生成するかを考察しない。結合によって最初に他のものを生む、もっとも微細なものを元素とするなら火がもっとも適うが、生成において後なるものが本性において先なるものであるとすれば、逆に土が水より、水が空気より先であることになる。四つの元素を語るエンペドクレスにも、火や土が互いから生成するのを我々が見て取る以上、同じ難点が生じ、熱いものが冷たいものになる質的変化そのものも成り立たなくなる。
アナクサゴラスが、万物が混合していたと言うのは不合理であるが、丁寧に辿れば新しい何かを言おうとしている。何も分離されていなかったとき、それは白くも黒くもなく、味も、いかなる性質も分量ももたなかったはずである。すると彼の原理は、知性という単純で混合されないものと、何らかの形相に与る以前の無限定なものとであることになり、後の論者たちの説に近い。
これらの人々は生成と消滅と運動についてのみ論じるが、存在するもの全体を考察し、感覚されるものと感覚されないものとを立てる人々は、いっそう検討に値する。ピュタゴラス派は原理を感覚されるものから得ていないのに、議論はすべて自然についてであり、天を生成させ、その現象の説明に原理を用い尽くす。しかし限定と無限定、奇数と偶数だけから、運動がどう生じ、物体のあるものがなぜ重く、あるものがなぜ軽いのかを語らない。また天にある数と、臆見や好機や不正がそれであるとされる数とは、同じ数なのか別の数なのか。プラトンはこれを別のものであるとし、原因となる数は思惟されるものだと言う。
第九章 イデアを原因として立てる人々は、存在するものの原因を捉えようとして、これと数において等しい別のものを持ち込んだ。少ない数では数えられないと考え、数を増やしてから数えようとする者のようである。形相の存在を論証するどの仕方によっても、それは論証されない。学知に基づく論拠によれば学知が成り立つすべてのものに、多くのものの上の一という論拠によれば否定辞にさえ、消滅したものを思念しうるという論拠によれば消滅するものにさえ形相が成り立ってしまう。より厳密な論拠は関係的なものにまでイデアを立て、あるいは「第三の人間」を招く。これらの議論は、イデアの存在以上に我々が望む原理そのものを覆してしまう。
形相が分有されうるものである以上、イデアは実体についてのみ存在することになる。では、イデアとそれに分有するものとが同じ形相を共有するなら、両者に共通する何かがあることになり、共有しないなら両者は同名異義であり、カリアスと材木とを、何の共通性も見出さないまま「人間」と呼ぶようなものである。何より、形相は感覚されるものにとって運動の原因にも変化の原因にもならず、それらの内に内在しない以上、それらの学知にも存在にも役立たない。形相が原型であり他のものがこれに分有すると言うのは空虚な言葉であり、詩的な比喩である。イデアを見つめながら制作するものとは何なのか。ソクラテスが存在していようといまいと、ソクラテスのような人物は生じうる。また人間については、動物と二足と自体人間とが同時に原型となり、類は種の原型となって、同じものが原型であると同時に似姿となる。
実体と、その実体であるものとが離れて存在することは不可能であると思われる。パイドンでは形相が存在と生成の原因とされるが、動かすものがなければ分有するものは生成せず、形相があるとは言わない家や指輪も生成する。また形相が数であるなら、それはどのようにして原因となるのか。事物が数の比であるなら、その比が成り立つ何かが基体としてあることになり、イデアは数ではなく数の比であることになる。単位は同種なのか、同種でないのか。線を長さと短さから、平面を広さと狭さから、立体を深さと浅さから成るとすれば、平面が線をもち立体が平面をもつことはどう成り立つのか。
総じて、知恵は明らかな事物の原因を探求するものであるのに、この人々は変化の源としての原因について何も語らず、かの実体がどうしてこれらの事物の実体であるのかを空虚に語り、あらゆる知性と自然がそのために働く原因には少しも触れない。今日の人々には数学が哲学そのものになっている。さらに、「存在する」が多くの意味で語られるのを区別しないまま存在するもの全体の元素を探求しても、見出すことはできない。あらゆる学びはあらかじめ知られている事柄を通じて成り立つのに、万物についての学知を学ぶ者は何も知らずに臨むことになり、それが生まれつき備わっているなら、もっとも優れた学知に気づかずにいることになるからである。
第十章 以上から、すべての人が、自然学の書物で語った四つの原因を探求しており、これ以外の原因は挙げられないことが明らかである。ただしそれはぼんやりとした仕方によるもので、最初期の哲学は、いまだ若く、あらゆる事柄について口ごもりながら語っているように見える。エンペドクレスは骨が比によって成り立つと言うが、これはその事物の本質、すなわち実体にほかならない。肉も他のものも同様に比であるはずであり、それらが成り立つのはこの比によるのであって、火や土や水や空気によるのではない。しかし彼自身はこれを明晰には語らなかった。これらの事柄について生じうる困難には、後に立ち返ることにする。
第二巻(α)
第一章 真理の観想は、ある意味で困難であり、ある意味で容易である。誰一人これに十全に触れることはできないが、誰もが手ぶらに終わるわけでもなく、すべての人の成果が集められればかなりの厚みが生じる。全体としては何かを捉えていながら一部一部を捉えられないことが、その困難さを示している。この困難の原因は事柄にではなく我々のうちにある。こうもりの目が昼の光に対するように、我々の知性は、自然においてもっとも明白なものに対してそのようにあるからである。
皮相な仕方で語った人々にも感謝すべきである。彼らは我々の思考の習性を先立って鍛えた。プリュニスがいなければティモテオスも生まれなかったように、ある人々から我々は見解を受け継ぎ、別の人々はその見解が生まれる原因となった。哲学が真理の知識と呼ばれるのは正しい。観想的な知識の目的は真理だからである。我々は原因を知らずには真理を知らない。他のものが熱をもつ原因である火がもっとも熱いように、後にくるものが真であることの原因となるものがもっとも真である。それゆえ常に存在するものの原理は、常にもっとも真でなければならず、それぞれのものの存在のあり方に応じて、その真であるあり方も定まる。
第二章 存在するものの原因は、一直線に並ぶ意味でも種類の点でも、無限ではない。肉は土から、土は空気から、空気は火からというように、質料の由来が止まらないことはありえない。人間が空気に、空気が太陽に動かされるという運動の源の系列にも、歩行が健康のため、健康が幸福のためという目的の系列にも、本質にも限界がある。中間項をもつ系列では、最初の項が原因である。最後の項は何ものの原因でもなく、中間の項はただ一つのものの原因にすぎない。最初の項がなければ、原因はまったく存在しないことになる。
下向きにも無限に進むことはない。あるものが他のものから生じるのは、少年から成人が生じるように生成しつつあるものから生成し終えたものが生じる意味か、空気から水が生じるように一方の消滅によって他方が生じる意味かであり、前者には終わりがあり、後者は互いに逆方向へ戻るからである。さらに目的は、他のすべてがそれのためにある終極である。無限を持ち出す人々は、善の本性を取り除き、知性をも取り除く。知性をもつ者は常に何かのために行為し、その何かが限界だからである。また無限に遡ると考える人々は、知ることそのものを取り除く。それ以上分割できないものに至るまで知ることはできず、無限にあるものを把握することはできない。原因の種類が無限であっても、知ることは成り立たない。
第三章 講義がどう受け取られるかは、聞き手の習慣によって左右される。慣れ親しんだものが知られやすく、法律では神話的で子供じみた要素が習慣のゆえに強い力をもつ。ある人々は数学的な語り方を、ある人々は例を、ある人々は詩人の証言を求め、ある人々は厳密さを求め、ある人々は厳密さに苦痛を覚える。それゆえ、それぞれの事柄をどう受け入れるべきかについて、あらかじめ教養を積んでおく必要がある。知識と知識を得る仕方とを同時に追い求めるのは理にかなわないからである。数学的な厳密さは質料をもたないものについてのみ求めるべきであり、自然学にはふさわしくない。自然はおそらくすべて質料をもつからである。したがってまず、自然とは何であるかを考察しなければならない。
第三巻(Β)
第一章 探求している知識に向かうためには、まず困難を検討しておくべき事柄に立ち向かわねばならない。後に得られる行き詰まりの解消とは、以前の困難の解決にほかならず、結び目を知らずしてこれを解くことはできない。思考が困難に陥っているとき、思考は縛られている者のように、どちらへも進めない。困難を吟味せずに探求する者は、どこへ向かうべきかを知らない者に似ており、探求しているものを見出したかどうかさえ知ることができない。訴訟の両当事者のように対立するあらゆる議論に耳を傾けた者のほうが、よりよく判定することができる。
困難とは次のものである。諸原因を考察するのは一つの学か複数の学か。この学は実体の第一の原理だけを考察するのか、同一のものについて同時に肯定と否定を述べることが可能かといった、論証がそこから行われる原理をも考察するのか。実体についての学はすべての実体について一つか。感覚される実体だけが存在するのか、形相や数学的対象のように別の実体も存在するのか。この学は実体にそれ自体として属する付帯性や、同一と他、類似と非類似、先と後をも考察するのか。原理とは類なのか、内在してそれへと分割される要素なのか、類であるなら最下位の類か最上位の類か。質料とは別に、それ自体としての原因が存在するのか、それは分離可能か。複合体とは別に何かが存在するのか。原理は数において限定されているのか種において限定されているのか。消滅するものと消滅しないものの原理は同一か。一なるものと存在とは存在するものの実体そのものなのか、別の何かを基体とするのか。原理は普遍的なものか個々のもののようなものか、可能態においてあるのか現実態においてあるのか。数や長さや図形や点は実体なのか、そうであるなら感覚されるものから分離しているのか。これらについて真理を見出すことも、困難としてよく提示することも容易ではない。
第二章 まず、あらゆる種類の原因を考察することは一つの学に属するか。諸原理は互いに対立するものではないのに、どうしてそれらを知ることが一つの学に属しうるのか。また不動のものには運動の原理も善の本性も備わらない。それゆえ数学では目的によって何かが論証されることはなく、アリスティッポスは、大工術や皮革術がよいか劣るかを語るのに、数学は善と悪について何の考慮も払わないとして数学を軽んじた。他方、学が複数あるなら、どれが探求している学なのか。家の場合、運動の源は建築術、目的は建物の働き、質料は土と石、形相は定義式であり、一つのものにすべての原因が備わりうる。最も統率的であるという点では目的と善を扱う学が、最初の原因と最もよく知られうるものを扱うという点では実体を扱う学が知恵であることになる。我々はある事物をそれが「何であるか」によって知る者を、最もよく知る者と言うからである。
論証の原理についても困難がある。あらゆるものについて肯定か否定かのどちらかが成り立つこと、同時にあることとないこととが成り立たないこと、これらを扱う学は実体を扱う学と同一か。これらを理解することが幾何学やその他の学に固有に属するとは言えない。また、これらについて論証的な学が成り立つなら、その基体となる類があることになり、あらゆることについて論証が成り立つことになってしまう。しかし、最も普遍的であらゆるものの原理であるこれらについて真偽を考察するのが哲学者でないなら、誰に属するのか。
実体を扱う学がすべての実体について一つなら、すべての付帯性についても一つの論証的な学が成り立ってしまう。また、この学は実体の付帯性をも考察するのか。立体や線や平面が実体であるなら、それらを知る学と、数学がその付帯性を論証する学とは同一か。同一なら、実体を扱う学も論証的な学になるが、「何であるか」について論証は成り立たないと考えられる。
さらに、感覚される実体のほかに実体は存在するのか。形相を立てる人々は、天にあるものとは別の本性を立てながら、それを感覚されるものと同一とし、ただ永遠か消滅するかで区別する。人間それ自体、馬それ自体、健康それ自体と言うのは、神々を人間の姿をしたものとする人々に似ており、永遠なる感覚的事物を作り出しているにすぎない。形相と感覚されるものとの中間に数学的対象を立てれば、感覚される天とは別の天や太陽や月が存在することになり、医術とその対象とのあいだにも中間の学があることになってしまう。しかし天文学も感覚される天を対象とするのではない。感覚されるもののうちには厳密にまっすぐなものも円いものもなく、プロタゴラスが言うように、円は定規と一点で接するのではない。中間的なものが感覚されるもののうちに存在すると言う人々には、二つの立体が同じ場所にあることになり、それが不動でありえないという、いっそう不可能な帰結が生じる。
第三章 原理については、類を元素・原理と見なすべきか、それぞれのものがそこから成り立つ内在する第一の要素を見なすべきか。音声の字母は音声一般ではなく音声を組み立てる要素であり、エンペドクレスは火や水を類としてではなく内在する要素として語り、寝台の本性はその部分と組み合わせを知ることで知られる。この議論によれば原理は類ではない。しかし、我々がそれぞれのものを定義によって知り、類が定義の原理であるとすれば、類が原理である。両方の意味で同時に語ることはできない。実体の定義式は一つであるはずだからである。
類が原理だとしても、最上位の類か最下位の類か。より普遍的なものがより原理であるなら、最上位の類、すなわち存在と一なるものが原理であり実体であることになる。しかし存在も一なるものも類であることはできない。類には種差があり、種差もまた存在し一であるが、類をそれ自身の種差について述語づけることはできないからである。他方、一なるものが不可分なものであり、種における不可分のほうが先であるなら、最下位で述語づけられるもののほうがいっそう一であり原理であることになる。また先と後があるものについては、数の種とは別に数があることはなく、図形の種とは別に図形があることはない。しかし原理は、それが原理である事物とは別に、分離して存在しうるものでなければならない。個々のものとは別にそのようなものを想定する理由は、それが普遍的に述語づけられるということ以外にはなく、そうであれば再び最上位の類が原理であることになる。
第四章 最も厄介で、考察が最も必要な困難がこれに続く。個々のものとは別に何も存在せず、個々のものが無限に多いなら、どうして学知が得られるのか。我々が知るのは、そこに一つの同一のもの、普遍的なものが備わる限りにおいてである。しかし個々のものとは別に何かが存在しなければならないなら、類が個々のものとは別に存在することになるが、これは不可能であった。また個々のものとは別に何も存在しないなら、思考の対象はなく、すべては感覚されるものとなり、何ものも永遠でも不動でもない。すると生成も成り立たない。生成するものと、それがそこから生成するものとがあり、系列の終点は不生成のものでなければならないからである。質料が不生成であるなら、質料がそれになる実体、すなわち形姿と形相にあたるものも、複合体とは別に存在しなければならない。しかし、それをどのようなものについて立てるのか。個々の家とは別に家を立てはしない。人間のすべての実体は一つなのか。原理が種において一つなら、数において一つのものは何もなく、原理が数において一つなら、元素とは別に何ものも存在しないことになる。
見過ごされてきた重大な困難は、消滅するものと消滅しないものの原理は同一か、ということである。同一なら、あるものが消滅し、あるものが消滅しないのはなぜか。ヘシオドスら神統論を語る者は、ネクタルとアンブロシアを味わわなかったものが死すべきものとなったと言うが、快楽のために触れるならそれは存在の原因ではなく、存在のためなら、食物を必要とする者がどうして永遠でありうるのか。神話的に知恵を語る者は真剣に考察するに値しない。エンペドクレスは「争い」を消滅の原因としながら、「争い」から樹々や人間や獣や神々が生じたと語り、最も幸福な神が「争い」をもたないゆえに「争い」を認識できず、他の者より思慮に劣るという帰結に陥る。変化の原因についても「そうなるのが本性である」としか語らない。他方、原理が異なるなら、消滅する原理はさらに先なる原理から成り、消滅しない原理からなぜ消滅するものが生じるのかが問われる。
最も困難で、真理を知るために最も必要なのは、存在と一なるものとが存在するものの実体そのものなのか、別の本性が基体としてあるのか、という問題である。プラトンとピュタゴラス派は、一であることそのもの、存在することそのものがそれらの実体であると考える。自然について語る人々は、エンペドクレスが「愛」と言い、ある者が火、ある者が空気と言うように、より知られやすいものへと還元する。一なるものと存在が実体でないなら、最も普遍的なものが実体でない以上、他の普遍的なものも実体でなく、数も分離した本性としては存在しない。しかし一それ自体と存在それ自体が存在するなら、パルメニデスの議論に従って、存在と異なるものは存在せず、すべては一であることになる。さらに一それ自体が不可分であれば、付け加えても大きくしないものは存在しないというゼノンの公理によって、それは何ものでもないことになる。不可分なものから、どうして大きさが生じるのか。
第五章 数や物体や平面や点は実体か。様態や運動や関係や状態は、何らかの基体について語られ、「これ」ではない。最も実体を意味すると思われるのは水や土や火や空気であり、熱さや冷たさではなく、それらを被っている物体が持続する。しかし物体は表面より、表面は線より、線は単位や点より実体性が劣るように見える。物体はこれらによって限定され、これらは物体なしに存在しうると考えられるからである。以前の人々は物体を存在するものとし、より賢明と思われる後の人々は数を原理とした。これらが実体でないなら、いかなる実体も存在しないことになる。
しかし、これらはすべて物体の分割にほかならず、石のうちにヘルメス神像がないように、立方体の半分も立方体のうちに限定されて存在するわけではない。また実体は、以前になかったものが存在するようになるとき生成と消滅をともなうが、点や線や平面は、物体が接触すれば一つになって消え、分割されれば二つになって現れ、生成も消滅もなしに、あるときは存在し、あるときは存在しない。時間における「今」も同様である。これらはみな限界であるか分割であるかのいずれかである。
第六章 感覚されるものと中間のものとのほかに、なぜ形相を探求しなければならないのか。数学的対象は同種のものが多数存在し、その原理は数において限定されていない。文字の原理が種において限定されていても数において限定されていないのと同様である。そうであれば実体は数においてではなく種において一つであることになる。それゆえ形相を立てる人々は、うまく説明できていなくとも、それぞれの形相が付帯的にではなく実体であると語らねばならないのである。
また、元素は可能態において存在するのか、別の仕方で存在するのか。別の仕方でなら、可能態が原理より先であることになり、可能態においてなら、存在するものが何も存在しないこともありうる。さらに、原理は普遍的なものか個々のものか。普遍的なものであれば実体ではない。共通なものは「これ」ではなく「このようなもの」を意味し、そうでなければソクラテスは、ソクラテス自身と人間と動物という複数の動物であることになる。他方、個々のものであれば知られうるものではない。あらゆる学知は普遍的なものについて成り立つからである。
第四巻(Γ)
第一章 存在するものを、存在するものであるかぎりにおいて考察し、これにそれ自体として属するものを考察する学がある。この学は部分的な学のいずれとも同一ではない。数学の諸学のように、他の学は存在するもののある一部分を切り取って、その付帯性を考察するからである。我々が探求しているのは原理と最高次の原因であり、それはそれ自体としての何らかの本性に属するものでなければならない。存在するものの元素を探求してきた人々も同じ原理を探求していたのだとすれば、その元素は付帯的にではなく、存在するものであるかぎりにおいての存在するものの元素でなければならない。それゆえ我々も、存在するものであるかぎりにおいての存在するものの第一の原因を把握しなければならない。
第二章 存在するものは多くの意味で語られるが、同名異義的にではなく、一つの本性との関わりにおいて語られる。「健康的である」というものが、健康を保つこと、健康をもたらすこと、健康のしるしであること、健康を受け入れうることによって、すべて健康との関わりで語られ、「医術的である」ものが医術との関わりで語られるのと同様である。あるものは実体であるがゆえに、あるものは実体の様態であるがゆえに、あるものは実体への道、消滅、欠如、質であり、実体を作り出し生み出すものであるがゆえに、存在するものと呼ばれる。それゆえ存在しないものについても、「存在しないもの」として存在すると言う。一つの本性との関わりにおいて語られるものを考察することも一つの学に属するから、存在するものであるかぎりにおいての存在するものを考察するのは一つの学である。学とは本来、他のものがそれに依存しそれによって語られる第一のものについての学である。この第一のものが実体であるなら、哲学者は実体の原理と原因とを把握していなければならない。
存在と一なるものとは、一つの定義式によって示されるという意味においてではないが、同一の単一の本性である。「一人の人間」も「存在する人間」も「人間」と同じことを示し、それぞれのものの実体はそれ自体として一つであり存在するものである。したがって一なるものの種と同じ数だけ存在するものの種があり、同一や類似などが何であるかを考察することも同じ学に属する。哲学の部門は実体の数と同じだけあり、数学に第一の学と第二の学があるように、第一の部門とそれに続く部門とがある。
一なるものに多が対立し、否定と欠如も一つの学によって考察される。否定はかのものの不在にすぎないが、欠如には、それが述べられる基体となる本性がある。したがって他・非類似・不等、そして差異であり他性である対立性を知ることも、この学に属する。多くの意味で語られるものも、第一のものとの関わりにおいて帰着するかぎり、一つの学に属する。ソクラテスと座っているソクラテスとが同一かどうか、一つのものに一つのものが対立するか、対立とは何かを考察するのが哲学者でないなら、誰に属するのか。数であるかぎりの数に奇数性や偶数性という固有の様態があるように、存在するものであるかぎりの存在するものにも固有の様態があり、それについて真理を考察するのが哲学者である。弁証家とソフィストは哲学者と同じ姿をまとい、同じ領域を巡る。しかし弁証術は能力のあり方において、ソフィスト術は生き方の選択において哲学と異なる。弁証術は哲学が真に知ろうとするものを試みに探るものであり、ソフィスト術はそう見えるだけのものである。
さらに、あらゆる論者は原理を対立するものとして語る。奇数と偶数、熱と冷、限定と無限、愛と争いである。そしてあらゆるものは一と多へと還元される。この点からも、存在するものを存在するものであるかぎりにおいて考察し、それに属する先と後、類と種、全体と部分などをも考察することが、一つの学に属することは明らかである。これらを考察することは幾何学者の仕事ではない。
第三章 数学で「公理」と呼ばれる事柄を考察することも、哲学者の学に属する。公理は特定の類にではなく存在するものすべてに属し、あらゆる者がそれを用いるが、それぞれの者は自分の論証する類の範囲でのみ用いる。幾何学者も算術家もその真偽について何も語らないが、自然学者のある者は、自然全体について考察していると考えてこれを試みた。しかし自然は存在するものの一つの類にすぎず、自然学は知恵ではあっても第一の知恵ではない。したがって、あらゆる実体を考察する哲学者にこそ、推論の原理を考察することが属する。
各々の類について最もよく知っている者が、その事柄の最も確実な原理を語ることができる。あらゆる原理のうちで最も確実な原理とは、それについて欺かれることが不可能な原理であり、最もよく知られ、いかなる仮定にも基づかないものである。何であれ何かを理解している者が必然的にもっていなければならないものは、仮定ではないからである。その原理とは、同一のものが、同一のものに、同一の観点において、同時に属しかつ属さないということは不可能である、というものである。誰であれ、同一のものが存在すると同時に存在しないと考えることは不可能である。ある人々はヘラクレイトスがそう語ったと考えるが、人が語ることを必ずそう考えているとは限らない。矛盾する見解は対立する見解であるから、同一の者が同時にそう考えるなら、同時に対立する見解をもつことになる。それゆえ論証を行う者はみな、最終的にこの見解へと還元する。これは本性上、他のあらゆる公理の原理でもある。
第四章 同一のものが存在しかつ存在しないことが可能であると語る人々がいる。ある人々は教養の欠如のゆえに、この原理についてさえ論証を求める。しかし、あらゆることについて論証が成り立つなら無限に進むことになる。この原理についても、異論を唱える者が何かを語りさえすれば、論駁的に論証することはできる。何も語らない者に説明を求めるのは滑稽であり、そのような者は植物と変わらない。出発点は、相手にあるものが存在するとかしないとか語らせることではなく、自分にも他人にも何かを意味するよう求めることである。それを認めた者は、すでに何か限定されたものを認めている。
名前は何かを、しかも一つのことを意味する。「人間」が「二足の動物」という一つのことを意味するなら、何かが人間であるとき、それが人間であることである。複数のことを意味するとしても限定された数にとどまるなら、それぞれに別の名前が付けられる。無限に多くのことを意味するなら、何も意味しないことになり、互いに語り合うことも自分自身と語り合うことも失われる。一つのことを考えることなしに何かを考えることはできない。したがって「人間であること」が「人間でないこと」を意味することはありえない。「人間」と言うことが真であるなら、それは必然的に二足の動物であり、必然的であるとは、そうでないことが不可能であるということである。
このように語る人々は、実体と本質とを取り去ってしまう。あらゆるものが付帯的であり、「まさしく人間であること」は存在しないと語らざるをえなくなるからである。人間は白いが、まさしく白さそのものではない。この点で実体と付帯性とは区別される。あらゆるものが付帯的に語られるなら、それについて語られる第一の基体は存在せず、無限に遡ることになるが、付帯性は別の付帯性に、両者が同一のものに付帯する場合にしか付帯しない。したがって実体を意味する何かがあり、矛盾するものが同時に述語づけられることは不可能である。
また、同一のものについてあらゆる矛盾が同時に真であるなら、プロタゴラスの説を唱える人々に必然的であるように、同一のものが軍船であり壁であり人間であることになり、アナクサゴラスの言う「万物は一緒にある」が生じる。彼らは存在するものについて語っているつもりで、可能態において存在し現実態においては存在しない、無限定なものを語っている。さらに、そのような者は何一つ語っていない。そうであるとも、そうでないとも語らず、そうでありかつそうでないと語り、さらにその両方を否定するからである。
そのように語る者が、なぜメガラへ歩いていくべきだと考えてじっとしていないのか。なぜ朝、井戸や崖があれば避けるのか。そこに落ちることが善いことと善くないこととを、同様には考えていないからである。彼は水を飲むことや人間を見ることのほうがよいと考えて求め、あらゆることを等しいものとして考えているわけではない。たとえ知識によってでなく臆見によるとしても、病がちな者が健康に気を配らねばならないように、いっそう真理に気を配らねばならない。さらに、四を五と考える者と千と考える者とが同様に欺かれているとは考えない。一方がよりいっそう真を語っているなら、それに近づくことがよりいっそう真であるような真なるものがあり、我々は、思考によって何かを限定することを妨げるあの無節制な説から解放される。
第五章 思われることや現れることのすべてが真であるとするプロタゴラスの説も、同じ見解に由来する。多くの人々が互いに反対のことを考えている以上、あらゆるものが同時に真でありかつ偽であることになる。困惑した末にそう考えるようになった者の無知は治療しやすく、思考そのものに向かえばよいが、議論のために語る者は、その言葉を論駁しなければならない。困惑した人々にこの見解が生じたのは、感覚されるものからである。反対のものが同一のものから生じるのを見て、存在しないものから生じることはありえない以上、両方があらかじめ存在していたと考えた。アナクサゴラスやデモクリトスもそう語る。しかし存在するものは二通りに語られる。可能態においては反対のものが同時に同一のものでありうるが、現実態においては不可能である。
また、同一のものが、味わう者によって甘くも苦くも思われ、動物にも我々とは反対のことが現れ、各人自身にさえ常に同じことが思われるわけではない。そこでデモクリトスは、真であるものは何もないか、我々には不明であると言う。彼らは感覚を思慮そのものと考え、感覚を質的変化と考えるので、感覚に現れることは真であると語る。エンペドクレスもパルメニデスも、人間の状態に応じて思考が変わると語った。真理を最も探求し愛した人々がこう語るなら、真理の探求は飛び去るものを追いかけるに等しくなってしまう。
彼らがこう考えたのは、存在するものを感覚されるものだけと考えたからであり、それには無限定なものの本性が多く含まれている。さらに自然全体が運動しているのを見て、変化するものについては真を語りえないと考え、ついにクラテュロスは何も語るべきでないとして指を動かすだけになり、同じ川に一度たりとも入ることはできないと考えた。しかし、失いつつあるものは失われつつあるものの何かをなお保持しており、生成しつつあるものには、すでに何かが存在している。また量において変化しても、我々は形相においてあらゆるものを認識している。しかも絶えず生成と消滅のうちにあるのは我々の周囲の領域だけであり、それは全体のほんの一部分にすぎない。
現れるものすべてが真であるわけではない。表象は感覚と同一ではない。大きさや色は遠くから見えるとおりか近くから見えるとおりか、眠っている者に思われることか目覚めている者に思われることかと問うのは驚くべきことである。リビュアにいながら夜にアテナイにいると思い込む者は、誰一人音楽堂へ歩いていったりはしない。健康になるかどうかについて、医者の見解と知らない者の見解とが同様に権威をもつこともない。色については視覚が、味については味覚が権威をもち、同じぶどう酒がときに甘くときに甘くないと思われても、甘さそのものは変化しない。これらの説は、実体と同時に必然的なものをも取り去ってしまう。感覚されるものだけが存在するなら、生命あるものがなければ何も存在しないことになるが、感覚を生じさせる基体は、感覚がなくとも存在する。動かすものは動かされるものよりも本性上先である。
第六章 彼らは、誰が健康な者を判定するのか、誰が正しく判定するのかと問う。これは、我々がいま眠っているのか目覚めているのかを問う困惑と同じであり、あらゆることについて説明を求めるものである。しかし論証の原理は論証ではない。現れるものすべてが真であると語る者は、存在するものすべてを相関的なものにしてしまう。存在するのは、現れるものそのものではなく、それが現れる者にとって、現れる時に、現れる観点と仕方において現れるものである。指を交差させれば触覚は二つと告げ、視覚は一つと告げるが、それは同一の感覚によって、同一の時にそう現れているのではない。あらゆるものを臆見との関わりにおいて相関的なものとすれば、誰かが臆見をもたなければ何ものも生じなかったことになる。
したがって、対立する言明が同時に真であることはないということが、あらゆる見解のうちで最も確実な見解である。そして矛盾するものが同時に真でありえない以上、反対のものも同一のものに同時に属することはありえない。反対のものの一方は、実体の欠如だからである。
第七章 さらに、矛盾するものの中間には何も存在せず、いかなるものについても、そのいずれか一方を必然的に肯定するか否定するかしなければならない。存在するものを存在しないと語り、存在しないものを存在すると語ることは偽であり、存在するものを存在すると語り、存在しないものを存在しないと語ることは真である。中間のものがあるなら、白くないものからではない白いものへの生成があることになるが、そのようなことは見られない。思考は、思考されうるものすべてを肯定するか否定するかする。中間があるなら、奇数でも非奇数でもない数があることになり、無限に遡ることにもなる。この見解は、争論的な議論を解決できずに屈した人々や、あらゆることについて説明を求める人々に生じた。すべての人々に対する出発点は、何かを意味することから生じる定義である。ヘラクレイトスの説はあらゆるものを真にし、アナクサゴラスの説はあらゆるものを偽にするように思われる。
第八章 したがって、いかなるものも真ではないという説も、あらゆるものが真であるという説も、成り立たない。矛盾するものの一方は必然的に真であり、両方が偽であることもない。しかもこれらの説は自らを取り除く。あらゆるものが真であると語る者は、自説に反対の説をも真にし、あらゆるものが偽であると語る者は、自説をも偽にするからである。また、あらゆるものが静止していると語る者も、運動していると語る者も真を語っていない。静止しているなら同じことが常に真であるはずだが、語る当人もかつては存在せず、また存在しなくなる。運動しているなら何一つ真であるものはない。さらに、あらゆるものがあるときは静止し、あるときは運動しているというのでもない。運動するものを常に動かしている何かがあり、この第一の動かすものは不動でなければならないからである。
第五巻(Δ)
第一章 原理(アルケー) 原理と呼ばれるのは、長さや道においてそこから運動を始める出発点であり、学習で最も容易に学べるところのように、そこから始めれば最も見事に成し遂げられる出発点である。また、船の竜骨や家の土台のように、あるものがそこから第一に生じる内在するものであり、子にとっての父と母、争いにとっての罵り合いのように、内在せずに運動や変化がそこから始まるものである。さらに、都市の政庁や王政、統括的な技術のように、その決定によって運動するものが運動するもの、論証にとっての前提のように、そこから第一に知られるものも原理と呼ばれる。原因もこれと同じだけの意味で語られる。あらゆる原理に共通するのは、そこからあるものが存在し、生成し、知られる第一のものであるという点である。それゆえ自然も元素も思考も決定も実体も目的も原理である。
第二章 原因(アイティオン) 原因と呼ばれるのは、彫像にとっての青銅のように、そこから生じる内在するもの、オクターブにとっての二対一の比のように、形相と原型、すなわち本質の定義式、父が子の原因であるように、変化や静止の第一の起点、そして、なぜ歩くのかと問われて健康のためと答えるように、目的としての原因である。目的にいたる中間の痩身法や薬や器具も原因である。同じ彫像にとって、彫刻術と青銅とは、運動の起点と質料として、ともに原因である。鍛錬は体調の良さの原因であり、体調の良さは鍛錬の原因であるが、一方は運動の起点として、他方は目的としてである。操舵手の存在が船の安全の原因であるように、その不在は難破の原因とされる。これらの原因は四つの様式に帰着する。さらに原因には、ポリュクレイトスが彫像の原因であるような付帯的な原因と、彫刻家という固有の原因とがあり、個別のものか類か、単純か結び合わされたものか、可能態にあるものか現実態にあるものかの区別がある。いま治療している医者と治療されつつある患者のように、現実態にあるものは、それが原因であるものと同時に存在し同時に存在しなくなるが、可能態によるものはそうではない。
第三章 元素(ストイケイオン) 元素とは、あるものがそこから第一に組み立てられている内在するもので、種において別の種へと分割されないものである。音声にとっての字母は、それ以上種において異なる音声へと分割されず、分割されても部分は同種にとどまる。物体の元素、幾何学図形や論証の元素も同様である。ここから転じて、小さく単純で多くのことに役立つものが元素と呼ばれ、最も普遍的なものが元素であるという考えが生じ、類を元素とする人々も現れた。共通するのは、元素とはそれぞれのものに第一に内在するものであるという点である。
第四章 自然(ピュシス) 自然と呼ばれるのは、生育するものの生成であり、生育するものがそこから生育する内在するものであり、自然によって存在するものにそれ自体として属する第一の運動の起点である。また、彫像にとっての青銅のように、自然によって存在するものがそこから成る第一の質料も自然と呼ばれ、火や土や空気や水を自然と語る人々もいる。さらに、自然によって存在するものの実体も自然と呼ばれる。エンペドクレスは、あるのは混合したものの混合と分離のみであり、人間たちがこれに自然という名を与えていると言う。それゆえ、そこから生成するものがすでにあっても、形相と形とを備えていないかぎり、それが自然を備えているとは語らない。第一の、本来の意味での自然とは、それ自身のうちに、それ自身であるかぎりにおいて、運動の原理をもつものの実体である。質料はこれを受け入れうることによって、生成はこれに由来する運動であることによって、自然と呼ばれる。
第五章 必然(アナンカイオン) 必然的と呼ばれるのは、呼吸や栄養のように、それなしには生きることができない共働原因であり、病にかからないために薬を飲むように、それなしには善が成り立たないものである。また、衝動や決定に反して妨げる強制も必然と呼ばれ、それゆえ苦痛を伴う。さらに、別様であることが不可能なものを、それが必然的にそうあると語り、他の意味もこれに応じて語られる。論証も必然的なもののうちに数えられる。第一の本来の意味での必然的なものは単純なものであり、複数の仕方であることができない。それゆえ永遠で不動なものがあるなら、それには強制されたものも本性に反するものも何一つない。
第六章 一(ヘン) 一と呼ばれるものには、コリスコスと音楽的なものが一つであるように付帯的な意味でのものと、それ自体としての意味でのものとがある。それ自体としての一には、紐で束ねた束や膠で付けた木片のように連続によるもの、ぶどう酒や水のように基体が種において区別されないことによるもの、馬と人間と犬が動物であるように類が一つであることによるもの、本質を語る定義式が一つであることによるものがある。本質を捉える思考が時間においても場所においても定義式においても分割されないものが最も一つであり、とりわけ実体がそうである。靴の部分が連続しているだけでは一つとは語らず、それが靴として一つの形相をもつとき一つと語る。一であることとは数の原理であることであり、第一の尺度が原理である。一なるものは量か形相において分割されないものであり、位置をもたないものが単位、位置をもつものが点である。また、数において一、形相において一、類において一、類比において一という区別があり、後のものは前のものに伴う。多はこれらに対立する仕方で語られる。
第七章 存在するもの(オン) 存在するものと呼ばれるものには、正しい者が音楽的であると語るような付帯的な意味でのものと、それ自体としての意味でのものとがある。それ自体として存在すると語られるものは、述語づけの諸範疇と同じだけある。「それが何であるか」「どのようであるか」「どれほどであるか」「何かとの関わり」「働きかけること」「こうむること」「どこに」「いつ」のそれぞれについて、「存在する」はそれと同じことを意味する。「人間は歩いている状態にある」と「人間は歩く」とに違いはない。さらに「存在する」は真であることを意味し、「存在しない」は偽であることを意味する。また、可能態において見るものも現実態において見るものも見るものと語るように、「存在する」は可能態においてと現実態においての両方を意味する。石のうちにヘルメス像が存在すると語り、まだ実らない穀物が存在すると語るのもそのためである。
第八章 実体(ウーシア) 実体と呼ばれるのは、土や火や水などの単純な物体、そしてこれらから成る動物やその部分である。これらは基体について語られず、他のものがこれらについて語られるからである。また、魂が動物にとってそうであるように、それらに内在してその存在の原因であるもの、ある人々が平面や線や数について語るように、それを限定し「これ」を示し、それが取り去られれば全体が取り去られる内在する部分、そして定義式が定義であるところの本質も実体と呼ばれる。したがって実体は二通りに語られる。他の何かについて語られることのない最終的な基体としての意味と、「これ」であり分離しうるものとしての意味とであり、後者はそれぞれのものの形と形相である。
第九章 同一・他・差異・類似 同一と呼ばれるものには、白いものと音楽的なものが同一のものに付帯するゆえに同一であるような付帯的な意味でのものと、質料が一つであるもの、実体が一つであるもののような、それ自体としての意味でのものとがある。同一性とは複数のものの存在の単一性であり、あるものを自身と同一と語るときも、それを二つのものとして扱っている。他とは形相か質料か実体の定義式が複数のものであり、同一に対立する。差異あるものとは、何か同一のものでありながら、形相や類や類比において他であるものである。類似したものとは、同一のことをこうむっているもの、その質が一つであるものである。
第十章 対立するもの(アンティケイメナ) 対立するものとは、矛盾するもの、反対のもの、相関するもの、欠如と所有、そして生成と消滅の両端である。反対のものとは、類において異なるもののうち同一のものに同時に属しえないもの、同一の類や同一の受容体に属するもののうち最も差異が大きいものである。一なるものと存在するものとが多くの意味で語られる以上、同一・他・反対も範疇ごとに異なる。種において他であるものとは、同一の類に属しながら互いに上下の関係になく、種差や反対性をもつものである。
第十一章 先・後(プロテロン・ヒュステロン) 先立つものと後れるものは、それぞれの類における第一のもの、原理に近いことによって語られる。場所においては中心や端に近いもの、時間においてはトロイア戦争がメディア戦争に先立つように、あるいはネメア祭がピュティア祭に先立つように、いまを原理として、運動においては第一の動かすものに近いもの、能力においてはその決定に他が従うもの、序列においては合唱隊長や中央の弦からの隔たりによって語られる。また認識において、定義式によれば普遍的なものが、感覚によれば個別的なものが先立つ。さらに、他のものなしに存在しうるが他のものはそれなしには存在しえないものが、自然本性や実体において先立つ。これはプラトンが用いた区別である。「存在する」が多くの意味で語られる以上、まず基体が、それゆえ実体が先立つ。可能態においては部分が全体に、質料が実体に先立つが、現実態においてはこれらは後れる。
第十二章 可能態(デュナミス) 可能態あるいは能力と呼ばれるのは、まず、他のもののうちに、あるいはそのものが他のものであるかぎりにおいて存在する運動や変化の原理である。建築術は建てられるもののうちにはないが、医術は治療される者のうちにあることもありうる。ただし治療される者であるかぎりにおいてではない。また、他のものによってこうむる能力、それを見事に成し遂げる能力、より悪いものへと容易には動かされない状態も能力と呼ばれる。折れたり砕けたりするのは、能力があることによってではなく、欠いていることによるからである。可能なものもこれに応じて語られ、不可能性とはこうした能力の欠如である。別の意味では、不可能とはその反対が必然的に真であるものであり、対角線が通約可能であることがそれである。人間が座っていることは、座っていないことが必然的に偽ではないから可能である。幾何学の累乗も転義によってこの語で語られる。能力に応じて語られるものはすべて第一の意味との関わりにおいて語られ、その本来の定義は、他のもののうちに、あるいはそのものが他のものであるかぎりにおいて存在する、変化させる原理である。
第十三章 量(ポソン) 量とは、内在する構成要素へと分割可能なもので、その要素が本性上一つの「これ」であるものである。数えられるなら多としての量、測られるなら大きさとしての量である。一方向に連続するのが長さ、二方向が幅、三方向が深さであり、限定された多が数、長さが線、幅が面、深さが立体である。線のようにそれ自体として量であるものと、音楽的であることのように付帯的に量であるものとがあり、多いと少ない、大きいと小さいなどは量の様態である。運動と時間も、通過した距離が量であることによって量である。
第十四章 質(ポイオン) 質とは、一つの意味では実体の種差である。人間は二足であることによって、円は角をもたないことによって、何らかの質をもつ。数についても、平面や立体がその似姿であるような合成数の性質が質と呼ばれる。また、熱さと冷たさ、白さと黒さのように、運動する実体の様態も質と呼ばれ、これに応じて物体は質的に変化すると言われる。徳と悪徳、善と悪も質である。第一の、最も本来的な質は実体の種差であり、もう一つは運動するものの、それが運動するかぎりにおける様態である。善と悪とは、生命あるもの、とりわけ決定の能力をもつものについて、最も質を意味する。
第十五章 相関するもの(プロス・ティ) 相関するものと呼ばれるのは、二倍が半分に対するように数にもとづくもの、熱しうるものが熱せられうるものに対するように働きかけとこうむりにもとづくもの、測られうるものが尺度に、認識されうるものが認識に対するようなものである。等しいもの、類似したもの、同一のものも、一なるものにもとづいて相関するものである。父が子の父と呼ばれるのは、一方がある働きをなし、他方がこうむったからである。数と能力にもとづくものは、それ自体が何であるかが他のものとの関わりにおいて語られることによって相関的であるが、思考されうるものは、それについての思考があるという意味で、他のものがそれとの関わりにおいて語られることによって相関的である。医術は、その類である学が相関的であるがゆえに相関的であり、人間はたまたま二倍のものであることによって、付帯的に相関的である。
第十六章 完全なもの(テレイオン) 完全なものとは、その外部にいかなる部分も見出せないもの、完全な医者や完全な笛吹きのように、その類においてこれ以上優れたものをもたないものである。転じて完全な泥棒とも言う。徳とは一種の完成である。また優れた目的が属しているものも完全である。目的は最終的なものであるから、完全に滅び去ったとも語り、終焉も「終わり」と呼ばれる。
第十七章 限界(ペラス) 限界とは、それぞれのものの最終的な端であり、その外部には何もなく、内部にすべてが含まれる第一のものである。大きさの形相、運動や行為が向かう目的、そしてそれぞれのものの実体と本質も限界である。本質は認識の限界であり、それゆえ事物の限界でもある。原理は一種の限界であるが、限界のすべてが原理であるわけではない。
第十八章 それに即して(カト・ホ) 「それに即して」とは、それに即して善いものが善いと言われる善そのもののように、それぞれのものの形相と実体であり、また、色が面のうちに生じるように、第一次的な基体である。総じて原因と同じだけの意味で語られ、位置についても語られる。「それ自体に即して」も多くの意味で語られる。カリアスがそれ自体に即してカリアスであるように本質を、動物であるように定義式に含まれるものを、面が白いように第一次的に受け入れているものを、他の原因をもたないものを意味する。
第十九章 配置(ディアテシス) 配置とは、部分をもつものの、場所や能力や種にもとづく秩序である。名前そのものが位置のあることを示している。
第二十章 状態(ヘクシス) 状態あるいは所持とは、衣服を所持する者と所持される衣服とのあいだの所持のように、所持するものと所持されるものとの一種の現実的な働きである。その所持をさらに所持することはなく、そうなれば無限に遡る。また、健康のように、配置されたものがよく、あるいは悪く配置される配置も状態であり、部分の徳も一種の状態である。
第二十一章 情態(パトス) 情態とは、白と黒、甘さと苦さのように、それにもとづいて質的変化がありうる質であり、その質の現実的な発現や、生じつつある質的変化である。とりわけ苦痛をともなう害悪、大きな不幸や苦痛も苦難と呼ばれる。
第二十二章 欠如(ステレーシス) 欠如とは、植物が目を欠くように、本性上所持されうるものを所持していないこと、モグラや目の見えない人間のように、その類かそれ自体が本性上所持すべきものを所持していないこと、本性上所持すべき時に、その部位や仕方において所持していないことである。強制的に奪い去ることも欠如であり、「不等」「不可視」「無足」のような否定形と同じだけの意味で語られる。片方の目が見えない者は盲目とは呼ばれない。それゆえ善いか悪いかのいずれかでない、その中間もある。
第二十三章 もつこと(エケイン) もつこととは、熱病が人間をもち、僭主が国々をもつように、自らの本性や衝動にもとづいて導くことである。また、青銅が彫像の形相をもつように、受け入れるものがもつこと、容器が液体をもつように、包むものがもつこと、柱が重量をもち、アトラースが天をもち支えるように、衝動にもとづいて動くのを妨げることである。
第二十四章 何かから成ること(エク・ティノス) 何かから成るとは、溶けるものが水から、彫像が青銅から成るように質料から成ること、争いが罵り合いから起こるように最初に動かした原理から成ること、詩句がイリアスから成るように複合体から成ること、人間が二足であることから成るように、形相がその部分から成ることである。また、子が父と母から成るように何らかの部分から成ること、夜が昼から、航海が春分から始まるように時間的に後に続くことも、そう語られる。
第二十五章 部分(メロス) 部分とは、量が分割される先のもの、あるいは量を余すところなく測り尽くすものである。三のうちの二は、前者の意味では部分であるが、後者の意味ではそうではない。また、種が類の部分と語られるように形相の部分、青銅の球における青銅のように全体がそこから合成されるもの、そして定義式に含まれるものも部分であり、この意味では類が種の部分である。
第二十六章 全体(ホロン) 全体とは、いかなる部分も欠けていないもの、包まれるものを包んで一つのものにするものである。人間や馬や神が動物という一つのものであるように普遍的に包む仕方と、連続し限定されたものが、構成要素を内在させて一つとなる仕方とがあり、技術によるものより自然本性によるもののほうがいっそう全体である。始まりと中間と終わりをもつ量のうち、位置が差異を生じないものは「すべて」、生じるものは「全体」と語られる。水や数は「すべて」とは語られるが、「全体」とは転義によってしか語られない。
第二十七章 欠損したもの(コロボン) 欠損したものとは、部分に分けられる全体であり、実体が存続するものでなければならない。二は一方を取り去られても欠損しない。欠損した杯はなお杯でなければならないが、数は同一の数ではなくなるからである。水や火のように位置が差異を生じないもの、調和のように連続しないものは欠損しない。杯に穴があいても欠損とは言わず、取っ手が失われれば欠損と言う。人間も、切り取られて再び生じることのない端の部分を失ったときに欠損したと言われ、それゆえ禿げた人々は欠損しているとは言われない。
第二十八章 類(ゲノス) 類あるいは種族とは、「人類が存在するかぎり」と言うように同一の形相をもつものの連続した生成であり、ヘレーンに由来するギリシア人のように最初に動かした者に由来するものである。また、平面が平面図形の類であるように種差の基体であり、定義式のうちに第一次的に内在して「それが何であるか」を語る部分である。類において他であるものとは、第一次的な基体が異なり、互いにも一つのものへも分解されないもので、形相と質料、そして異なる範疇に属するものがそれである。
第二十九章 偽なるもの(プセウドス) 偽なるものとは、対角線が通約可能であることや、あなたが座っていることのように、組み立てられていないか組み立てられえない事柄であり、陰影画法や夢のように、存在してはいても、そうであるとおりにではなく現れるものである。偽なる説明とは存在しないものについての説明であり、円についての説明は三角形については偽である。アンティステネスは一つのものには一つの説明しかないと考え、反論も偽りを語ることもほとんど成り立たないことになった。しかし八を二倍のものとして語るように、他のものの説明によっても語りうる。偽りを語る人間とは、そのような説明をそれ自体のために進んで語る者である。ヒッピアスの議論は、偽りを語ることができる者を偽りを語る者と見なし、同一の人間が偽りであり真実でもあるとして人を惑わす。
第三十章 付帯性(シュンベベーコス) 付帯性とは、あるものに属し、そう語ることが真ではあるが、必然的にでも大抵の場合にでもないものである。植物を植えるために穴を掘っていて宝物を見つけることがそれである。付帯的なものには限定された原因はなく、たまたま生じた原因があるにすぎない。嵐に吹き流されてアイギナに行き着いた者は、そこへ行くために着いたのではない。また別の意味では、三角形が二直角に等しい角をもつことのように、それ自体として属するが実体のうちには属さないものも付帯性と呼ばれ、これは永遠でありうる。
第六巻(Ε)
第一章 探求されるのは、存在するものの原理と原因であり、それが存在するものであるかぎりにおいてのそれである。健康にも数学的な対象にも原因はあるが、それらの学は何らかの類を限定して扱い、無条件の意味での存在するものを扱わず、その類が何であるか、存在するかどうかについても語らない。自然学も、運動と静止の原理をそれ自身のうちにもつ実体という一つの類についての学である。制作されるものの原理は制作する者のうちに、実践されるものの原理は実践する者の決定のうちにあるから、自然学は実践的でも制作的でもなく、観想的な学である。ただしそれは運動しうるものについての学であり、分離できないものとしての実体についての学である。
定義されるもののうち、あるものは「獅子鼻」のように質料とともに把握され、あるものは「凹み」のように感覚される質料なしに把握される。鼻、目、肉、骨、動物、葉、根、植物は獅子鼻のように語られ、その定義式は運動なしには成り立たず、常に質料を含む。数学も観想的な学であるが、そのある部分は不動で、おそらく分離可能ではなく質料のうちにあるものを考察する。もし永遠で不動で分離可能なものが存在するなら、それを認識するのは、自然学でも数学でもなく、両者に先立つ学である。したがって観想的な哲学は、数学・自然学・神学の三つである。神的なものがどこかにあるなら、このような本性のうちにあるからである。最も尊い学は最も尊い類についての学であり、観想的な学は他の学よりも、神学は観想的な学のうちでも最も選ばれるべきものである。第一哲学は普遍的な学か、一つの本性についての学かという困難に対しては、こう答える。自然によって成り立つ実体のほかに実体がないなら自然学が第一の学であるが、不動の実体が存在するなら、それについての学がより先であり第一哲学である。そして第一である以上、この仕方で普遍的でもあり、存在するものを存在するものであるかぎりにおいて考察するのも、この学に属する。
第二章 存在するものは、付帯的な意味、真としての意味、範疇の諸型、可能態と現実態という多くの意味で語られる。まず、付帯的な意味での存在するものについては、いかなる考察も成り立たない。家を建てる者は、その家がある人々にとって快適で、ある人々にとって有害であることまで作りはせず、幾何学者も、三角形と二直角に等しい角をもつ三角形とが別のものかどうかを考察しない。付帯性はいわば単なる名前にすぎない。それゆえプラトンがソフィスト術を「存在しないもの」にかかわるものとしたのは誤りではなかった。
それでも付帯性の本性と原因とを語らなければならない。存在するもののうちには、常に必然的にそうであるものと、大抵の場合そうであるものとがあり、そのいずれでもないものを付帯的と語る。犬の星が昇る頃に嵐と寒さが生じるのは付帯的であり、蒸し暑さはそうでない。建築家が病を治すのも、その建築家がたまたま医者でもあったからである。付帯的なものについては、いかなる限定された技術も能力もなく、その原因もまた付帯的である。大抵の場合とは別様でもありうる質料こそが、付帯性の原因である。あらゆる学は常にそうであるか大抵の場合そうであるものについてのものであり、蜂蜜水が熱病患者に大抵の場合有益であると教えることはできるが、付帯的なものについて学は成り立たない。
第三章 生成し消滅することなしに、生成しうるものであり消滅しうるものである原理や原因が存在する。そうでなければすべてが必然的であることになる。この人が外に出れば暴力によって死ぬ。それは喉が渇けばであり、それは辛いものを食べればである。こうして時間が差し引かれていけば、いま現に属していることに到達し、彼は必然的に死ぬか必然的に死なないかのいずれかになってしまう。それゆえこの遡行は、もはやそれ以上遡らない何らかの原理に到達し、これがたまたまそうであることの原理である。それが質料としての原因か、目的か、動かしたものかは、とりわけ考察されなければならない。
第四章 真としての存在するものと偽としての存在しないものとは、結合と分離とにかかわる。真は結合されているものについては肯定を、分離されているものについては否定をもち、偽はその逆をもつ。偽と真とは事物のうちにではなく思考のうちにあり、単純なものや「それが何であるか」については思考のうちにさえ真偽はない。付帯的な意味での存在するものの原因は限定されず、真としての存在するものの原因は思考の何らかの様態であって、いずれも存在するものの外に別の本性を示すものではない。それゆえこれらは措いておき、存在するものそれ自体の原因と原理とを、それが存在するものであるかぎりにおいて考察しなければならない。
第七巻(Ζ)
第一章 存在するものは多くの意味で語られる。あるものは「それが何であるか」と「これ」であるものを、あるものは質や量やその他の述語を意味する。これらのうちで第一の存在するものは「それが何であるか」であり、これは実体を意味する。これがどのようなものかを語るとき我々は善いとか悪いとか言い、それが何であるかを語るとき、白いとか三ペーキュスであるとかではなく、人間であるとか神であるとか言う。それ以外のものが存在すると語られるのは、それがこの意味での存在するものの量であり質であり様態であることによる。歩くこと、健康であること、座っていることは、それ自体で存在するものでも実体から分離されうるものでもなく、むしろ歩いているもの、座っているものが存在するものに数えられる。それらのうちには限定された基体があり、これが実体であり個々のものである。
「第一のもの」は多くの意味で語られるが、実体は定義式においても、認識においても、時間においても第一である。他の述語はどれも分離不可能であるが、実体だけは分離可能であり、それぞれのものの定義式のうちには実体の定義式が内在していなければならず、我々は人間や火が何であるかを知るときにこそ、それを最もよく知っていると考えるからである。古来から、いまも、そして常に探求され、常に困難とされてきたこと、すなわち存在するものとは何であるかということは、実体とは何であるかということなのである。それゆえ我々も、何よりもまず、いわばそれだけについて、この意味での存在するものが何であるかを考察しなければならない。
第二章 実体は何よりも明白に物体に属すると考えられる。動物や植物とその部分、火や水や土などの自然物体、天と星々と月と太陽を、我々は実体と語る。しかし、これらだけが実体なのか、別のものも実体なのか。ある人々には、面や線や点や単位のような物体の限界のほうが、物体よりもいっそう実体であると考えられ、感覚されるもののほかに永遠で、いっそう存在するものがあると考える人々もいる。プラトンは形相と数学的対象と感覚される物体の実体とを立て、スペウシッポスは一から出発して、数や大きさや魂のそれぞれに固有の原理を立てて実体の種類を拡張した。そこで、実体とは何であるかをまず大まかに描いたうえで、感覚されるもののほかに分離可能な実体が存在するのかどうかを考察しなければならない。
第三章 実体は主に四つの意味で語られる。本質、普遍、類、そして基体である。基体とは、他のものがそれについて語られ、それ自体はもはや他の何ものについても語られないものであり、第一次的な基体こそが最も実体であると考えられる。基体としては、青銅のような質料、その姿の形のような形態、そして両者から成る彫像全体が語られる。形相が質料より先でありより多く存在するなら、同じ理由で両者から成るものよりも先である。
しかし実体を、基体について語られず他のものがそれについて語られるものと規定するだけでは十分ではない。これだけでは、質料が実体であることになってしまう。物体から様態や作用や能力を取り去り、量である長さと幅と深さを取り去ると、それらによって限定されている何かのほかには何も残らない。こう考察する者には質料だけが実体であるように思われる。質料とは、それ自体としては、それが何であるかも、量であることも、その他存在するものを限定するいかなるものであることも語られないものであり、他のものは実体について、実体は質料について述語づけられる。しかしこれは不可能である。分離可能であることと「これ」であるものであることとは、何よりも実体に属すると考えられるからである。それゆえ形相と両者から成るもののほうが、質料よりもいっそう実体である。両者から成る実体は後のものであり明白であるから措いておき、最も困難な第三のもの、すなわち形相について考察しなければならない。そのためには、実体であると一致して認められている感覚されるもののうちで探求するのがよい。実践においてそれぞれの人にとっての善いものから出発して無条件に善いものをその人にとって善いものにするように、学習においても、それぞれの人にとってより知られやすいものから、本性上知られやすいものへと移っていかなければならない。
第四章 実体の意味の一つは本質であったから、これについてまず論理的な仕方で語ろう。それぞれのものの本質とは、それ自体として語られるものである。あなたにとっての存在は音楽的なものにとっての存在ではない。あなたはそれ自体として音楽的であるのではないからである。しかし、面において白いことのようにそれ自体としてあるものも本質ではない。それ自体を語りながら、それ自体が内在しない定義式こそが、それぞれのものの本質の定義式である。では、白い人間を「外衣」と名づけるなら、外衣の本質はあるのか。本質とは、まさにあるものそれ自体であるところのものであるが、あるものが他のものについて語られるとき、それはまさに「これ」であるものではない。したがって本質は、その定義式が定義であるものにのみ属する。名前が定義式と同じことを意味するだけでは定義ではない。そうであればイリアスでさえ一つの定義になってしまう。定義とは、何か第一次的なもの、すなわち他のものについて語られるのではない仕方で語られるものについてのものであり、本質は類の種にのみ属する。
あるいは、「それが何であるか」が、無条件には実体に、ある意味では量や質にも属するように、定義と本質も多くの意味で語られる。「医術的な」身体も作用も道具も、同名異義的にでも単一の意味でもなく、一つのものとの関わりにおいて語られるように、第一次的で無条件の定義と本質とは実体に属し、他のものには第一次的にではなく属する。
第五章 付加による定義式を定義でないとするなら、単純でなく結びつけられたものに定義は成り立つのか。獅子鼻性とは鼻における凹みであり、雌であることが動物に属するように、それ自体として属する様態であって、その属するものなしには明示できない。すると「獅子鼻の鼻」と語ることは、「鼻、凹んだ鼻」というように同じことを二度語ることになり、そうでなければ無限に遡る。したがって定義は実体だけに属する。他の範疇にも定義があるなら、奇数が数なしには語られないように、付加によるものである。ある意味では実体以外のものに定義も本質もないが、別の意味ではある。定義とは本質の定義式であり、本質は実体に、何よりも第一次的に無条件に属する。
第六章 本質とそれぞれのものそれ自体とは同一か。それぞれのものはそれ自身の実体と別のものではないと考えられ、本質はそれぞれのものの実体であると語られる。付帯的に語られるもの、たとえば白い人間とその本質とは別のものであるように思われる。では、それ自体として語られるものはどうか。善そのものと善であるものにとっての存在とが別のものであるなら、それらのほかに別の実体があり、それがより先の実体となり、切り離されているなら、一方については学が成り立たず、他方は存在するものではないことになる。それぞれのものについての学は、我々がその本質を知るときに成り立つからである。したがって、それ自体として第一次的に語られるものは、それ自身とその本質とが、付帯的にではなく一つであり同一である。それぞれのものを知ることは、まさにその本質を知ることである。そうでなければ、馬の本質に対してさらに別の本質がというように、無限に遡ることになる。付帯的に語られるものについては、白いということが付帯する当のものと付帯することとの両方があるため、ある意味では同一であり、ある意味では同一でない。ソクラテスとソクラテスにとっての存在とが同一かというソフィスト的な問いも、同じ解決によって解かれる。
第七章 生成するもののうち、あるものは自然によって、あるものは技術によって、あるものは自発的に生成する。生成するものはすべて、何かによって、何かから、何かとして生成する。そこから生成するものが質料であり、それによって生成するものは自然によって存在するものであり、それとして生成するものは人間や植物であって、これらが最も多く実体と語られる。生成するものはすべて質料をもつ。それぞれが存在することも存在しないことも可能だからである。自然による生成では、形相にもとづいて語られる同種の自然本性によって生成する。人間が人間を生むのである。
これ以外の生成は制作と呼ばれ、技術によって生成するのは、その形相が魂のうちにあるものである。形相とは、それぞれのものの本質と第一次的な実体のことである。反対のものについても、ある意味で形相は同一であり、病の実体は健康である。病とは健康の不在だからである。健康とは魂のうちにある定義式であり知識である。医者は、健康であるべきなら均整が必要であり、均整のためには熱さが必要だというように、自らの力で最終的に行いうることへと至るまで思考し、そこから制作が始まる。原理と形相から始まる運動が思考であり、思考の最終段階から始まる運動が制作である。こうして、ある意味では健康は健康から、家は家から、すなわち質料をもたないものから質料をもつものが生成する。医術と建築術とは健康と家の形相であり、質料をもたない実体とは本質のことだからである。
もし何も予め存在していなければ生成は不可能であり、質料は生成するものの部分として内在する。我々は青銅の円を、質料については青銅であると、形相についてはしかじかの形であると語る。生成したものは、彫像が石ではなく石製のものと語られるように、そこから生じたものとしては語られない。健康になった人も病人とは呼ばれない。欠如と基体との両方から生成するが、むしろ欠如から生成すると語られるからである。
第八章 生成するものは何かによって、何かから、何かとして生成する。作る者は基体である青銅を作り出さないのと同様、球そのものも作り出さず、青銅の球を作り出す。青銅を丸くすることは、この形相を別のもののうちに作り出すことである。球性そのものをも作り出すなら、それもまた何かから何かを作ることになり、生成は無限に遡る。それゆえ形相、あるいは感覚されるもののうちにあるその姿は生成せず、本質もまた生成しない。生成するのは、形相にもとづいて語られる複合体であり、生まれるものすべてには質料が内在し、一方は質料、他方は形相である。
では、個々の球のほかに球そのものが、煉瓦のほかに家そのものが存在するのか。それが「これ」であるものとして存在するなら、生成することは決してなかったであろう。むしろそれは「しかじかのもの」を意味し、作る者はこのものからしかじかのものを作り、それが生み出されたとき、この、しかじかのものとして存在する。カリアスやソクラテスは、この個々の青銅の球のようなものであり、人間や動物は青銅の球一般のようなものである。したがって形相を個々のもののほかに立てる人々の言う原因は、生成と実体に関しては何ら役立たない。人間が人間を生むように、生むものは生まれるものと数においてではなく形相において一つである。範型としての形相を立てる必要はまったくない。生むものが作り出す者であり、質料のうちにおける形相の原因であることで十分である。これらの肉と骨とにおける、しかじかの形相としての全体こそがカリアスでありソクラテスであり、質料によって別のものであるが、形相においては同一である。形相は不可分だからである。
第九章 なぜ健康は技術によっても自発的にも生成するのに、家はそうでないのか。質料のうちには、それ自体によって、しかるべき仕方で動かされうるものと、石材のように他のものによってでなければそうできないものとがあるからである。ある意味では、あらゆるものは、自然によるものと同様に、同名のものから、あるいは部分的に同名のものから生成する。家は、知性によって生成するかぎりにおいて家から生成する。技術とは形相だからである。それゆえ推論が「何であるか」から出発するように、生成もまた実体から出発し、あらゆるものの原理は実体である。種も可能態において形相を有し、技術の場合と同様に作り出す。この議論は、実体についてだけでなく、量や質などの第一次的なものについても、形相が生成しないことを示す。生成するのは青銅の球であって球そのものではなく、しかじかの質をもつ木材であって質そのものではない。ただ実体に固有のこととして、動物が生成するには、それを作り出す、現実態において存在する別の実体が予め存在していなければならない。
第十章 定義は定義式であり、定義式は部分をもつから、部分の定義式は全体の定義式のうちに内在しなければならないのか。円の定義式はその切片の定義式を含まないが、音節の定義式は字母の定義式を含む。また部分が全体より先であれば、鋭角は直角より、指は人間より先であることになるが、実際には全体のほうが先であると思われる。部分は定義式において全体から語られ、全体は部分なしに存在しうるからである。
「部分」は多くの意味で語られる。質料と形相と両者から成るものとがあるなら、ある意味では質料も部分であるが、別の意味では、形相の定義式がそこから成るものだけが部分である。肉は凹みの部分ではなく獅子鼻の部分であり、青銅は複合体としての彫像の部分であって、形相として語られる彫像の部分ではない。字母は形相の部分であるから音節の定義式に含まれ、切片は円がその上に生じる質料であるから円の定義式に含まれない。線分が半分に分割されて消滅し、人間が骨や腱や肉に分割されて消滅するとしても、それらは質料としての部分にすぎない。複合体はこれらの構成要素へと消滅するが、定義式が形相のみのものはこのようには消滅しない。
鋭角は「直角よりも小さいもの」として直角によって定義され、指は「人間のしかじかの部分」として身体によって定義される。質料として分割される部分は後であり、定義式の部分はすべてか、いくつかが先である。動物の魂は、定義式にもとづく実体であり、しかじかの身体の形相であり本質である。部分は、その働きなしには定義されず、働きは感覚なしには存在しない。いかなる状態にある指でも動物の指であるわけではなく、死んだものの指は同名異義的なものにすぎない。人間や馬のように普遍的に語られるものは実体ではなく、この定義式とこの質料とから成る普遍的な複合体であり、ソクラテスはすでに究極の質料から成るものである。定義式は普遍的なものについてのものであり、この個々の円のような個々のものには定義はなく、思惟や感覚を伴って認識される。質料それ自体は認識不可能であり、青銅や木材のような感覚される質料と、数学的対象のような思惟される質料とがある。
第十一章 どのような部分が形相の部分であり、どのような部分が結合体の部分であるのか。これが明らかでなければ定義はできない。青銅や石や木材の円については、青銅も石も円の実体には属さないことが、それらから切り離されることで明らかである。しかし人間の形相は常に肉や骨のうちに現れるので、それを思考によって取り除くことは困難である。そのため、ある人々は円や三角形さえ線分によって定義するのはふさわしくないとして、あらゆるものを数へと還元し、線分の定義式は二の定義式であると主張する。しかしこうして質料を取り除くのは余計なことである。あるものは、これこれのものが、これこれのもののうちに、しかじかの仕方で存するものだからである。若きソクラテスの動物の比喩は、青銅なしに円が存在しうるように、人間が身体の部分なしに存在しうると想定させるが、これは似ていない。動物は感覚されるものであり、運動なしには、それゆえしかじかの状態にある部分なしには定義できない。その働きを果たすことのできる、生命をもつ手だけが人間の部分である。
魂は第一次的な実体であり、身体は質料であり、人間や動物とは普遍的なものとしての両者から成るものである。複合体については、質料を伴っては定義式は存在しない。質料は無規定だからである。しかし第一次的な実体にもとづけば、人間にとっての魂の定義式のように、定義式が存在する。実体とは、そのうちに内在する形相であり、この形相と質料とから複合的な実体が語られる。そして本質とそれぞれのものとは、第一次的な実体については同一である。定義式の部分がどのような意味で部分であり、なぜ定義が一つの定義式なのかは、後に考察しなければならない。感覚される実体についての考察は、自然学と第二哲学の仕事でもある。
第十二章 分析論で語られなかったことについて語ろう。人間の定義式が「二足の動物」であるなら、なぜそれは動物と二足という多くのものではなく一つのものなのか。白い人間は、基体である人間が影響を受けて一つとなるが、類は種差に与らないと思われる。与るなら同一のものが反対のものに同時に与ることになる。定義は一つの、しかも実体についての定義式であり、実体は何か一つのもの、「これ」であるものを意味するのだから、定義のうちにあるものはすべて一つでなければならない。
区分による定義には、最初に語られる類と種差のほかには何もない。類が、その種とは別に無条件には存在せず、音声が字母の質料であるように質料として存在するなら、定義とは種差から成る定義式である。区分は種差の種差によってなされなければならない。足を有する動物を有翼と無翼に分けるのではなく、裂足と非裂足に分けなければならない。こうしてそれ以上種差をもたないものに達するなら、最後の種差こそが事物の実体であり定義である。「足を有する二足の動物」と言えば、「足を有する」は余計である。付帯的な区分によれば、区分の数だけ実体があることになる。実体のうちには順序というものはない。
第十三章 基体、本質、これらから成るもの、そして普遍的なものが実体であると語られる。基体と本質についてはすでに述べたが、ある人々には普遍的なものこそが最大の原因であり原理であると思われている。しかし普遍的なものが実体であることは不可能であるように思われる。まず、それぞれのものの実体はそれぞれのものに固有であるが、普遍的なものは複数のものに属することを本性とする。それはすべてのものの実体であることはできず、一つのものの実体であれば、他のものもそれと一つになる。また実体は基体について語られないが、普遍的なものは常に何らかの基体について語られる。動物が人間のうちに内在するように本質のうちに内在するとしても、それは何かの実体となり、同じことが生じる。さらに「これ」である実体が、実体でない質から成ることは不可能である。そうであれば様態が実体より先であることになる。ソクラテスのうちに実体が実体として内在することにもなる。
したがって、普遍的に属するもののいずれも実体ではなく、共通に述語づけられるものは「これ」ではなく「このようなもの」を意味する。そうでなければ「第三の人間」の不合理が生じる。また実体が、現実態において内在する実体から成ることは不可能である。現実態において二つであるものは、決して現実態において一つにはならない。デモクリトスが、二つのものから一つのものが生じることも、一つから二つが生じることも不可能であると語るとおりである。しかしそうなると、あらゆる実体は非複合的であり、実体についてさえ定義式は存在しないという難問が生じる。定義は何よりも実体について存在すると思われてきたのである。これはある意味では存在し、ある意味では存在しないのであり、後の議論からいっそう明らかになる。
第十四章 同じことから、イデアを分離した実体としながら、種を類と種差とから作り出す人々にも、同様の帰結が生じる。人間のうちの動物と馬のうちの動物とが、数において一つで同一なら、存在するもののうちにある一つのものがどうして分離して一つでありうるのか。それが二足性と多足性とに与るなら、一つのものに反対のものが同時に属することになる。別のものであるなら、その実体が動物であるものは無限に多くなり、動物そのものも多くのものになる。したがって、ある人々が主張するような仕方でイデアが存在するのではない。
第十五章 実体には、質料と結合した定義式としての複合体と、無条件の定義式とがある。前者には生成も消滅もあるが、後者にはない。生成するのは家であることではなく、この個々の家である。それゆえ、個々の感覚される実体には定義も論証もない。それらは、存在することも存在しないこともできる質料をもち、消滅しうるからである。論証は必然的なものについてのものであり、別様でもありうるものについてあるのは臆見である。消滅するものは、感覚から離れれば、学知をもつ者にも不明瞭になる。
したがって、いかなるイデアも定義できない。イデアは個々のものであり、分離しているからである。定義式は名前から成らなければならず、すでにある名前はすべてのものに共通である。あなたを定義しようとすれば、他のものにも属する何かの動物と語ることになる。まして太陽や月のように、ただ一つしかないものは定義できない。大地の周りを運行することや夜には隠れることを付け加えても、それが静止すればもはや太陽ではないことになり、別のものが同じようになればそれも太陽であることになる。しかし太陽は、クレオンやソクラテスと同様に、個々のもののうちの一つであった。
第十六章 実体であると思われているものの多くは可能態にすぎない。動物の部分は分離して存在せず、分離されれば質料となり、土や火や空気も、練り合わされて一つのものが生じるまでは山積みのようなものである。また「一」も「存在するもの」も、「元素であること」や「原理であること」と同様に、事物の実体ではありえない。実体はそれ自体と、それがその実体である当のもの以外には属さないが、共通のものは同時に多くの場所に属する。したがって普遍的なもののいずれも、個々のもののほかに分離して存在するのではない。イデアを主張する人々は、実体を分離して語る点では正しいが、多くのものについて一つの形相を語る点で正しくない。彼らは、個々の感覚される実体のほかの消滅しない実体がどのようなものかを示すことができず、感覚されるものに「そのもの」という語を付け加えて、人間そのもの、馬そのものを作り出す。しかし、たとえ我々が星を見たことがなかったとしても、我々が知っているものとは別に永遠の実体が存在したであろう。いまもまた、それがどのようなものかを知らなくとも、何らかのものが存在することはおそらく必然である。
第十七章 実体とは何であるかを、別の出発点から語ろう。実体は一種の原理であり原因であるから、ここから出発する。探求されるのは常に「なぜ」、すなわち、なぜあるものが他の何かに属するのかである。なぜ人間が人間であるのかを探求することは、何も探求しないことに等しい。なぜ雷が鳴るのか、それはなぜ雲のうちに音が生じるのかということであり、なぜこれらの煉瓦や石が家であるのか、というように、あるものについての別のあるものが探求される。探求されているのは原因であり、それは論理的に言えば本質である。あるものについては、家や寝台のように「何のために」であり、あるものについては「何が最初に動かしたか」である。
探求されているのは、質料がなぜしかじかのものであるのか、ということである。なぜこれらのものが家であるのか。家の本質であったものが属しているからである。なぜこの身体は人間なのか。この身体がしかじかのものを有しているからである。それによって質料がしかじかのものであるところの原因が形相であり、これこそが実体である。
山積みのようにではなく、音節のように全体が一つであるものについて言えば、「バ」はβとαと同一ではなく、肉は火と土そのものではない。分解されれば肉や音節はもはや存在しないが、字母や火や土は存在するからである。音節は字母だけでなく、それ以外の何かでもある。この何かが元素であるなら、肉はこれと火と土とさらに別の何かから成ることになり、無限に遡る。元素から成るなら、同じ議論が繰り返される。したがってこれは元素ではなく、これこれのものが肉であり、これこれのものが音節であることの原因である。それぞれのものの実体とはまさにこれであり、存在することの第一次的な原因である。実体であるものはすべて自然本性によって成り立っており、この自然本性こそが実体である。それは元素ではなく原理である。元素とは、音節におけるαとβのように、質料として内在しつつ、そこへと分割されるものである。
第八巻(Η)
第一章 すでに述べたことから結論を導き、要点をまとめよう。探求すべきは実体の原因と原理と元素であった。実体には、すべての人が同意するものとして、火や土や水や空気などの単純な物体、植物と動物とその部分、天とその部分があり、一部の人々が独自に語るものとして、イデアと数学的対象とがある。議論からは本質と基体とが実体として生じ、類や普遍的なものも実体と思われたが、普遍的なものも類も実体ではない。イデアと数学的対象については後で考察し、いまは同意されている実体、すなわち感覚される実体について考察しよう。
感覚される実体はすべて質料をもつ。基体は実体であり、ある意味では質料が、別の意味では定義式と形態が、第三にこれらから成るものが実体である。質料とは、現実態において「これ」であるものではないが、可能態において「これ」であるものである。定義式と形態とは「これ」であるものであり、定義式において分離しうる。これらから成るものについてのみ生成と消滅があり、それは無条件に分離している。質料が実体であることも明らかである。場所に関して、いまはここにあり、再び別のところにあるもの、増大に関して、いまはこの大きさで、再びより小さいか大きいもの、質的変化に関して、いまは健康で、再び病んでいるもののように、あらゆる対立する変化には変化の基体となる何かがあるからである。実体に関しても、いまは生成の過程にあり、再び消滅の過程にあるものがある。
第二章 基体としての質料としての実体は、可能態における実体として同意されているから、残るは、感覚されるものの現実態としての実体とは何であるかを語ることである。デモクリトスは、形と位置と秩序の三つの差異を考えたが、実際には多くの差異がある。蜂蜜水のように混合によるもの、束のように結び付けによるもの、書物のように接着によるもの、箱のように留め具によるもの、敷居と鴨居のように位置によるもの、夕食と朝食のように時によるもの、風のように場所によるもの、硬さと柔らかさ、乾と湿のように様態によるものがある。したがって「である」もこれだけの仕方で語られる。敷居であるとは、しかじかに置かれていることであり、氷であるとは、そのように凝固していることである。
これらはいずれも実体ではないが、それぞれのもののうちには実体に類比的なものがある。実体において質料について述語づけられるものが現実態そのものであるように、敷居を定義するなら、しかじかに置かれた木材や石であると語り、家なら、しかじかに置かれた煉瓦や木材であると語り、氷なら、しかじかに凝固した水であると語る。現実態と定義式とは、質料が異なるにつれて異なる。家を石や煉瓦や木材であると語る人々は可能態における家を語り、財産や身体を保護する容器であると語る人々は現実態を語り、両方を組み合わせる人々は第三の、これらから成る実体を語っている。アルキュタスの定義もこれと同様である。無風とは多量の空気における静止であり、空気が質料で、静止が現実態であり実体である。凪とは海の平静さである。こうして感覚される実体とは、質料としての実体、形態と現実態としての実体、そしてこれらから成る実体であることが明らかである。
第三章 名前が複合的な実体を意味するのか、現実態と形態を意味するのかは見過ごされやすい。「家」は、しかじかに置かれた煉瓦と石材から成る覆いか、覆いそのものか。「動物」は身体における魂か、魂そのものか。魂と魂であることとは同一であるが、人間と人間であることとは同一ではない。音節は字母と合成とから成るのではなく、家も煉瓦と合成そのものではない。合成や混合は、それの合成や混合である当のものではないからである。人間も動物と二足性そのものではなく、それらとは別の何か、元素でも元素から成るものでもない実体がなければならない。いかなる者も形相を作り出したり生み出したりせず、作り出され生成するのは、これらから成るものである。消滅するもののうちにある実体としては、自然本性のみを立てることになるであろう。
アンティステネス派の人々が、「それが何であるか」は定義できず、銀が錫のようなものであるように、それがどのようなものかを教示できるだけだと言うのにも一定の意味がある。複合的な実体には定義や定義式があるが、それがそこから成る第一次的な構成要素にはない。定義はある種の数である。分割不可能なものへと分割され、何かが取り除かれるか付け加えられれば、もはや同じ数でなくなるように、定義や本質も同じものではなくなる。数が何によって一つであるのかを語れないように、定義についても語れない人々がいる。実体は、単位や点のような意味においてではなく、それぞれがある種の完成態であり自然本性であるという意味で一つである。形相にもとづく実体は、数と同様に、より多くとより少なくをもたない。
第四章 あらゆるものが同一の第一次的なものから生じるとしても、それぞれのものには固有の質料がある。粘液には甘いものや脂っこいものが、胆汁には苦いものが固有の質料である。同一の木材から箱も寝台も生じるように、運動を引き起こす原因によって別のものが生じることもあるが、鋸は羊毛や木材からは作れない。原因は多くの意味で語られるから、可能なあらゆる原因を語らなければならない。人間の質料としての原因は月経による分泌物であり、動かすものとしての原因は種であり、形相としての原因は本質であり、目的としての原因は終極である。形相と目的とはおそらく同一であろう。ただし、火や土ではなく、最も近い固有の質料を語らなければならない。自然的で永遠なる実体については別の議論が必要である。場所に関してのみ動きうる質料をもつものもあるからである。月食のように、自然によるものではあるが実体ではないものには質料はなく、作用を受ける月が基体である。光を消滅させる原因は大地であり、月食とは、大地が中間に生じることによる光の欠如であるというのが、原因を伴った定義式である。
第五章 点や形相のように、生成と消滅なしに存在したり存在しなかったりするものがある。生成するのは白そのものではなく白い木材だからである。質料が存在するのは、生成と互いへの変化とが存在するものだけである。では、身体が可能態において健康的であるなら、病に対しても可能態にあるのか。水は可能態においてぶどう酒であり酢でもあるのか。一方については状態と形相にもとづく質料であり、他方については欠如と自然に反する消滅にもとづく質料である。酢はぶどう酒から、死者は生きているものから、昼から夜が生じるように生じるのであり、このように変化するものは、まず質料へと立ち返らなければならない。死者から動物が生じるなら、まず質料へと立ち返り、それから動物になる。
第六章 定義と数について、一であることの原因は何か。部分をもち、全体が単なる山積みではないものには、何らかの原因がある。定義は、イリアスのように接続詞によってではなく、一つのものについてのものであることによって一つの定義式である。では、なぜ人間は動物と二足という多くのものではなく、一つのものなのか。動物そのものと二足そのものとがあるなら、人間は二つのものに与ることになってしまう。慣れ親しんだ仕方で定義しながら探求するなら、この難問は解決できない。しかし、一方が質料であり他方が形態であり、一方が可能態にあり他方が現実態にあるとすれば、もはや難問とは思われない。「丸い青銅」が上着の定義であっても、丸さと青銅とが一つであることの原因を問うことになるが、可能態における球が現実態において球であることには、作り出すものを別にすれば、別の原因は存在しない。それが両者それぞれにとっての本質だったからである。
分有を語る人々は分有の原因を問題にし、リュコプロンは知識とは知ることと魂との共存であると語り、ある人々は生きるとは魂と身体との結合であると語る。しかしそうであれば、健康であることは魂と健康との結合であり、青銅が三角形であることは青銅と三角形との合成であることになる。彼らは可能態と完成態とを一つにする定義式を探求しているのである。しかし究極の質料と形態とは同一で一つのものであり、一方は可能態において、他方は現実態においてそうである。したがって、可能態から現実態へと動かしたもの以外に、一であることの別の原因は存在しない。質料をもたないものはすべて、無条件に、まさに一つの何かである。
第九巻(Θ)
第一章 第一次的に存在するもの、すなわち他の範疇がそれに関係づけられる実体については述べた。量や質も、実体の定義式にもとづいて語られるからである。しかし存在するものは、「何か」や質や量として語られるほか、可能態と完成態にもとづき、働きにもとづいても語られるから、これらについても規定しよう。まず最も本来的な意味での可能態について語る。ただし可能態と現実態とは、運動に関して語られるよりも広い範囲に及ぶ。
幾何学で可能とか不可能とか語るような、類似性によって同名異義的に語られる可能態は措いておく。同一の種に関わる可能態はすべて、第一の一つのもの、すなわち他のもののうちにある、あるいは他のものであるかぎりにおいての、変化の原理との関わりにおいて語られる。受動の可能態は、作用を受けるもの自体のうちにある受動的な変化の原理であり、悪い方向へ変化させられないことも可能態である。能動と受動の可能態とは、ある意味では一つであり、ある意味では異なる。脂っこいものは燃やされうるものであり、しかじかに屈するものは砕かれうるものであって、受動の原理は作用を受けるもののうちにあるが、熱さや建築術は熱を与えるものや建築する者のうちにある。それゆえ自然本性的に結合しているものは、それ自体によっては作用を受けない。無能力と不可能とは、このような可能態に反対の欠如である。
第二章 これらの原理のあるものは生命のないもののうちに、あるものは魂の理性を有する部分のうちにあるから、可能態にも理性を伴わないものと理性を伴うものとがある。あらゆる技術と製作的な知識は可能態である。理性を伴う可能態は反対のもの双方についてのものであるが、理性を伴わない可能態は一つのものについての一つのものである。熱さは熱することについてのみの可能態であるが、医術は病と健康の両方についての可能態である。知識は定義式であり、同一の定義式が、事物とその欠如とを、ただし同じ仕方によってではなく、明らかにするからである。健康的なものは健康のみを、熱を与えるものは熱さのみを作り出すが、知識を有する者は、運動の原理を有する魂のうちにある一つの原理によって、両方を作り出す。善く行う可能態には単に行う可能態が伴うが、逆は常にではない。
第三章 メガラ派の人々は、現実に活動しているときにのみ可能であり、建築している者だけが建築することができると語る。しかしそうであれば、建築していない者は建築家でさえなく、建築をやめるたびに技術を失い、再び建築するときにはどのようにしてそれを習得するのか。生命のないものについても、感覚する者がいなければ冷たいものも熱いものもないことになり、プロタゴラスの説を語ることになる。現に見ていなければ視覚さえ有さないなら、同じ人が一日に何度も盲目になり聾になる。さらに、生じていないものは生じることが不可能であることになり、立っているものは常に立ち、座っているものは常に座り続け、運動も生成も取り除かれてしまう。したがって可能態と現実態とは別のものである。存在することが可能でありながら存在しないことも、歩くことが可能でありながら歩かないこともある。可能であるとは、それが可能態を有するとされる現実態が属したとしても、何ら不可能なことが生じないものである。「現実態」という語は完成態と結びつけて用いられ、何よりも運動から他のものへと及んできた。それゆえ人々は、存在しないものを思考されうるもの、欲求されうるものとは語るが、動かされるものとは語らない。
第四章 可能であるとはこのようなものであるから、これこれのものは可能ではあるが、決して存在しないであろうと語ることは真ではありえない。対角線は測られることが可能であるが測られることはないであろうと語るなら、それが存在すると想定しても不可能なことが生じないはずであるが、実際には不可能なことが生じる。偽であることと不可能であることとは同一ではない。あなたがいま立っていることは、偽ではあるが不可能ではない。また、Aが存在するときBが存在することが必然であるなら、Aが可能であるときBも可能でなければならない。
第五章 可能態のうち、感覚能力のように生まれつきのもの、笛を吹く能力のように習慣によるもの、技術のように学習によるものがあり、後二者はあらかじめ活動していなければ有することができない。理性を伴わない可能態では、能動的なものと受動的なものとが近づけば一方が作用し他方が作用を受けることが必然であるが、理性を伴う可能態は反対のもの双方についてのものであるから、それらを同時に作り出すことになってしまう。それゆえ、これを支配する何か別のもの、すなわち欲求ないし決定がなければならない。理性にもとづいて可能であるものは、それが可能態を有するものを、有するとおりの仕方で欲求し、受動的なものが現に存するとき、必然的にそれを行う。外部からの妨げがないという条件は、規定のうちの付け加えられた条件によって除外される。二つのことや反対のことを同時に望んでも、それを行うことはない。
第六章 では現実態とは何であり、どのようなものか。現実態とは、事柄が、可能態にもとづいて語るのとは違った仕方で現に存することである。木材のうちにヘルメス像があり、全体のうちに半分があり、いま観照していない者にも知識があると、我々は可能態にもとづいて語る。あらゆるものについて定義を求める必要はなく、類比によって共に見て取らなければならない。現に建築している者が建築の可能態を有する者に対するように、目覚めている者が眠っている者に、現に見ている者が目を閉じてはいるが視覚を有する者に、質料から切り出されたものが質料に、仕上げられたものが未加工のものに対するように、一方の側に現実態が、他方の側に可能態が規定される。あるものは運動が可能態に対するように、あるものは実体が質料に対するように語られる。無限なものは、分割がとどまることなく続くという意味で可能態においてあり、分離されたものとして現実態においてあることはない。
限界をもつ行為のうち、痩身のように、目的がまだ現に存しないものは完全な行為ではない。これに対し、見ることと同時にすでに見てしまっており、思考することと同時にすでに思考してしまっており、善く生きていることと同時にすでに善く生きてしまっているような、目的が内在する行為こそが行為である。学んでいることと同時にすでに学んでしまっているのではなく、歩いていることとすでに歩いてしまったこととも、建築していることとすでに建築してしまったこととも同時ではない。後者のようなものは不完全であり運動と呼ばれ、前者のようなものは現実態と呼ばれる。
第七章 それぞれのものは、いつ可能態にもとづいて存するのか。土は可能態において人間ではなく、種子になったときでさえ、おそらくまだそうではない。思考によって生じるものは、行為者が欲したとき、外部からの妨げがなければ生じるときに、家は、その質料のうちに家になることを妨げるものが何もなく、付け加えたり取り去ったりする必要がないときに、可能態において家である。生成の原理を自身のうちにもつものは、外部からの妨げがなければ自身によってそうなるときに、可能態においてそうである。種子は、他のもののうちに落ちて変化しなければならないうちは、まだそうではない。
我々は、箱を木材ではなく木製のものと、木材を土ではなく土製のものと語る。こうして「あれのもの」と語られるものは、可能態において、無条件には後のものである。もはや他のものにもとづいて「あれのもの」と語られない第一のものがあれば、それが第一質料である。様態の基体は人間や身体であり、音楽的なものが内在すると、それは音楽ではなく音楽的なものと語られる。このようなものについては最終的な基体が実体であるが、述語づけられるものが形相であり「これ」であるものについては、最終的な基体は質料である。質料も様態も無規定であるから、両方に「あれのもの」という語り方が用いられる。
第八章 現実態は可能態よりも先である。ここで言う可能態には、自身のうちにある動かす原理としての自然本性も含まれる。現実態は定義式においても実体においても先であり、時間においては、ある意味では先であり、ある意味ではそうではない。定義式において先であるのは、建築することができるものを「建築の可能態を有するもの」と呼ぶように、第一次的に可能であるものは、現実に働くことが可能であることによって可能であり、現実態の定義式と知識とが可能態のそれらに先立つからである。時間においては、この人間や穀物に対して、質料や種子のほうが先であるが、それらに対して、それらがそこから生成した、現実態において存する別のものが先である。人間は人間から生じ、音楽的な人間は音楽的な人間によって生じ、常に第一の動かすものがある。それゆえ何も建築したことのない者が建築家であることは不可能であり、竪琴を学ぶ者は竪琴を弾きながら学ぶ。
実体においても現実態は先である。成人男性が子供より、人間が種子より先であるように、生成において後なるものが種と実体において先であるからである。あらゆる生成するものは、原理であり目的であるものへと向かい、現実態が目的であり、そのために可能態が獲得される。動物は視覚を有するために見るのではなく、見るために視覚を有する。教師が生徒に現に働いているところを示して目的を果たしたと考えるように、自然本性についても同様である。働きこそが目的であり、現実態とは働きのことである。それゆえ「現実態」という語は「働き」にもとづいて語られ、「完成態」へと向かう。見ることのように使用が究極であるものでは現実態は当のもの自身のうちにあり、建築のように別のものが生じるものでは、現実態は作られつつあるもののうちにある。生は魂のうちにあり、幸福も一種の生である。したがって実体と形相とは現実態である。
さらに本来的な意味でも現実態は先である。永遠なるものは消滅するものより実体において先であるが、可能態において永遠なるものは何もない。あらゆる可能態は矛盾対立するもの双方についてのものであり、存在することが可能であるものは存在しないこともありうるから、消滅するものである。したがって無条件に消滅しないものは、すべて現実態においてある。それゆえ太陽や星々や天全体は常に現実に働いており、それらがいつか止まってしまうのではないかという懸念は無用である。それらは疲れることもない。その運動は、消滅するものにとってのように矛盾対立するもの双方についての可能態にかかわるものではないからである。土や火も、消滅しないものを模倣して常に現実に働いている。イデアを論じる者たちの言うような実体があるなら、知識そのものよりもはるかに知識あるもの、運動そのものよりもはるかに動かされているものがあることになるであろう。
第九章 現実態は優れた可能態よりもいっそう善く尊い。健康であることができるものは病気であることもでき、建てることと取り壊すこととは同一の可能態にもとづく。反対のもの双方の可能態は同時に成り立つが、それらの現実態が同時に成り立つことは不可能であり、そのうちの一方が善である。したがって現実態のほうがより善い。悪しきものは自然本性上可能態より後であり、事物とは別に存するのではない。それゆえ始原にあるものや永遠なるもののうちには、悪しきものも過誤も損なわれたものも存しない。幾何学の図形も現実態にもとづいて見出される。三角形の内角の和はなぜ二直角なのか。辺に平行な線が引かれていれば、見る者には直ちに明らかである。可能態においてあるものは、現実態へと導かれることによって見出される。思惟が現実態だからである。それゆえ人々は作ることによって知る。
第十章 存在するものと存在しないものは、範疇の型にもとづき、可能態や現実態にもとづき、そして真であるか偽であるかにもとづいて語られる。後者は、事物について結合しているか分離しているかにもとづき、分離しているものを分離していると考え、結合しているものを結合していると考える者が真を語る。我々があなたが白いと正しく考えるからあなたが白いのではなく、あなたが白いから、そう語る我々が真を語る。反対のことがありうるものについては、同一の言明があるときは真であり、あるときは偽であるが、別のあり方をすることが不可能なものについては、常に同一のものが真である。
では、複合していないものについて、真とは何を意味するのか。触れて、そうであると語ることが真であり、触れないことが知らないことである。「それが何であるか」については、付帯的にでなければ欺かれることはない。複合していない実体はすべて現実態において存するから、それを思惟するか思惟しないかのいずれかであって、それについて欺かれることはなく、あるのは無知だけである。それは盲目のように思惟する能力をまったく欠くことではない。また三角形が変化しないと考える者は、あるときは内角の和が二直角であり、あるときはそうでないとは考えない。不動のものを不動のものと捉えるなら、時に関して欺かれることはない。
第十巻(Ι)
第一章 一は多くの意味で語られるが、付帯的にではなく第一次的に、それ自体として一であると語られるものは四つの仕方にまとめられる。自然本性によって連続しているもの、全体であり形相をもつもの、個々のもの、そして普遍的なものである。前二者は運動が、後二者は思惟や定義式が、分割されないことによって一である。自然本性によって連続し、その原因を自身のうちにもつもののうちでは、移動における円運動のように、運動が最も単純で分割されがたいものが第一の意味で一である。
しかし、どのようなものが一と語られるかと、一であることが何であるかとは同じではない。火は事物としては元素であるが、「元素」という名前が意味するのは、何かがそれから第一次的に成っているということである。一であるとは分割されないものであることであるが、最も本来的には、それぞれの類にとっての第一の尺度であることであり、それは何よりも量において言われる。量は一によって、あるいは数によって認識され、あらゆる数は一によって認識されるから、一は数であるかぎりでの数の原理である。ここから、長さや幅や深さや重さや速さにおいても、それぞれのものが第一次的にそれによって認識されるものが尺度と呼ばれる。人々は、それ以上気づかれずに取り去ったり付け加えたりできない第一のものを尺度とし、天文学では一様で最も速い天の運動を、音楽では微分音程を、音声では字母を尺度とする。単位はあらゆる点で分割されないが、一フィートは感覚に対して分割されないものとして立てられる。尺度は測られるものと同じ種類のものである。
我々は知識や感覚をも事物の尺度と語るが、実際にはそれらは事物を測るよりも、むしろ事物によって測られる。別のものがペーキュスの尺を我々に当てはめることで、我々が自分の大きさを知るようなものである。プロタゴラスが人間はあらゆるものの尺度であると語るのは、知識や感覚を有する者について語っているかのようであり、何ら特別なことを語っていないのに特別なことを語っているように見える。一であるとは、最も本来的には量の尺度であり、次いで質の尺度であることである。
第二章 実体と自然本性という観点からは、ピュタゴラス派やプラトンのように一そのものが実体として存するのか、自然について論じる者たちが愛や空気や無限なものと語ったように、何らかの自然本性が基体として存するのか。普遍的なものが実体でありえず、存在するものも多くのものとは別の一つのものとしては実体でありえないなら、一も実体でも類でもない。「存在するもの」と「一」とは同じだけ多くの意味で語られるから、存在するものが何であるかと同様に、それぞれの類において一が何であるかを探求しなければならない。色のうちでは一なる色は白であり、黒は白の欠如である。存在するものが色であれば、それは色の数であり、一は白であることになる。旋律なら微分音程の数、音声なら字母の数、直線図形なら三角形であることになる。したがって、あらゆる類において一は何らかの自然本性であり、一そのものがいかなるものの自然本性であるわけでもない。実体においても一なる実体が探求されなければならない。一と存在するものとは、同じだけの範疇に随伴し、いかなる範疇のうちにも限定されず、「一なる人間」が「人間」と別のことを述語づけないように、ある意味で同一のことを意味する。
第三章 一と多とは、分割されないものと分割されるものとして対立し、一方が欠如にもとづいて語られるから、反対のものとして対立する。多数で分割可能なもののほうが感覚されやすいので、定義式においても多数のほうが先になる。一に属するのは同一・類似・等しいことであり、多に属するのは他・非類似・等しくないことである。同一は、定義式においても数においても一つであるもの、第一の実体の定義式が一つであるものについて語られる。類似とは、無条件に同一でなくとも種において同一であるものであり、より大きな正方形はより小さな正方形に類似している。錫は白いという点で銀に類似している。
あらゆるものは、あらゆるものに対して、同一であるか他であるかのいずれかである。「同一でない」は存在しないものについても語られるが、「他」は存在するものについてだけ語られる。差異は他性とは別である。他であることは、何か特定のものとの関係での他である必要はないが、差異あるものは、何かある点で差異があるのであり、その点は同一の類か種である。類において差異があるものは、共通の質料をもたず相互に生成しないもの、範疇の異なるものであり、種において差異があるものは、同一の類に属するものである。反対性は何らかの差異である。
第四章 差異には多い少ないがあるから、最大の差異があり、これを反対性と呼ぶ。類において差異があるものは互いに至る道をもたず比較不可能であるが、種において差異があるものは、両極端としての反対のものから生成し、両極端の隔たりが最大である。最大であるとはそれを超えるものがないことであり、完全であるとは、終極をもち、それを超えて何かを取ることができないことである。反対性とは完全な差異である。したがって一つのものに複数のものが反対であることは不可能である。一つの隔たりに両極端は二つしかないからである。同一の類のうちで、同一の受容体のうちで、同一の可能態のもとで最も大きく差異があるものが反対のものである。
第一次的な反対性は状態と欠如である。ただし完全な欠如である。対立するものには矛盾対立と欠如と反対性と相関するものとがあり、矛盾対立が第一であって、その間には中間項がないが、反対のものの間には中間項がありうる。欠如は、限定された、受容体と結びつけられた無能力という、一種の矛盾対立である。あらゆるものは等しいか等しくないかのいずれかであるが、等しさを受容しうるものにおいてのみそう言われる。あらゆる反対性は一方に欠如を含み、不等性は等性の、悪徳は徳の欠如である。善き人間でも悪しき人間でもない者はありうるが、数は奇数か偶数かのいずれかでなければならない。反対のものの第一のもの、類は一と多であり、他のものはこれらへと還元される。
第五章 一つのものは一つのものに反対であるなら、等しいものは大きいものと小さいものとにどう対立するのか。我々は「どちらであるか」を、白いか黒いかのように、常に対立するものについて問う。より大きいか、より小さいか、等しいかと問うとき、等しいものは一方だけに反対でも両方に反対でもない。等しくないものを二とする者たちを支持することにもなりかねない。また等しいものは中間にあるように見えるが、反対性は中間にはない。したがって等しいものは、両方についての欠如的な否定として対立する。ただし必然的な欠如ではなく、等しいものとは、大きくも小さくもないが、大きいか小さいかであることが本性上ありうるものである。白くも黒くもないものも、灰色や黄褐色のように何らかの仕方で限定されている。靴でも手でもないものが靴と手の中間にあることにはならない。この種の否定が成り立つのは、本性上隔たりが存しうる対立するものについてのみである。
第六章 多が一に無条件に対立するなら、一は少ないものであることになり、二倍が多数倍であるように二が多であるなら、一は少ないものであり、少ないものも何らかの多数性であることになる。しかし多いものは二通りに語られる。一つは超過を有する多数性であり、少ないものは不足を有する多数性である。もう一つは数としての多であり、これのみが一に対立する。一と諸々の一、測られたものと尺度として語られるのである。この意味で二は多であるが、超過を有する多数性ではなく、むしろ不足を有する第一の多数性であるから、無条件には少ないものである。それゆえアナクサゴラスが、事物は多数性においても小ささにおいても無限であったと語ったのは正しくない。「少なさにおいても」と語るべきであった。一と数のうちの多とは、尺度と被測定物として、相関するものとして対立する。知識が尺度であり知られうるものが被測定物であるように思われるが、あらゆる知識は知られうるものであっても、知られうるものすべてが知識であるわけではない。
第七章 反対のものの間には中間項がありうるから、中間項は反対のものから成り、それらと同一の類に属する。中間項とは、変化するものが両極端に至る前に先に至らねばならないものである。最低音から最高音へ移るとき中間の音に、白から黒へ至るとき紅色や灰色に、まず至る。色から形へのように類から類へ変化することは、付帯的にでなければありえない。中間項は対立するものの間にしかなく、矛盾対立の間にはなく、知識と知られうるもののように反対でない相関するものの間にもない。白と黒とが、分散させる色と凝集させる色であるなら、分散させることと凝集させることという差異が、より先の反対のものである。中間の色は、色という類と何らかの差異とから成り、この差異は第一次的な反対のものではない。反対のものは互いから成らず、複合していないものであり、それゆえ原理である。中間項はすべて、一方についてはより多く、他方についてはより少なくあるもの、すなわち反対のものから複合したものである。
第八章 種において異なるものは、何かある特定のものにおいて異なり、それは両方に属していなければならない。両方とも動物でなければならず、しかも一方は馬、他方は人間であるように、この動物であることそのものがそれぞれにとって異なっていなければならない。したがって種において異なるものは同一の類に属し、その差異は類の他性であり、反対性である。種において異なるとは、同一の類に属し、個としてのものでありながら反対性をもつことであり、種において同一であるとは、反対性をもたないことである。類の種は、類に対しては種において同一でも異なってもいない。類は、それが類であるものにとっての質料だからである。
第九章 なぜ女性は男性と種において異ならないのか。雌と雄とは反対のものであり、それ自体として動物に属する差異であるのに。これは、なぜ陸生であることと有翼であることは種の差異を作り出すが、白さと黒さはそうでないのか、という困難と同じである。定義式のうちにある反対性は種の差異を作り出すが、質料と結びついたもののうちにある反対性は作り出さない。白い人間と黒い人間とは種において異ならない。人間は質料としてそうであり、質料は差異を作り出さないからである。カリアスとは質料を伴った定義式である。青銅製の円と木製の円とは種において異ならないが、青銅製の三角形と木製の円とは、質料のゆえにではなく定義式のうちの反対性のゆえに種において異なる。雄であることと雌であることとは動物に固有な様態ではあるが、実体に即してではなく、質料と身体においてそうである。それゆえ同一の種子が、何らかの作用を受けることによって、雌にも雄にもなる。
第十章 反対のものは種において異なり、消滅するものと消滅しないものとは反対のものである。白と黒とは、同一のものに、普遍的には同時に、個々には時を異にして、付帯的に属しうる。しかし、いかなるものも付帯的に消滅するものではない。付帯性は属さないこともありうるが、消滅することは、それが属するものに必然的に属する。そうでなければ、同一のものが消滅するものであり、かつ消滅しないものであることになってしまう。したがって消滅することは、消滅するものの実体であるか、実体のうちに属し、消滅しないことも同様である。それゆえ、消滅するものと消滅しないものとは類において異なる。したがって、ある人々が語るような形相が存することはありえない。そうであれば、人間について、あるものは消滅し、あるものは消滅しないことになるが、形相は個々のものと種において同一であると語られているからである。類において異なるものは、種において異なるものよりもいっそう隔たっている。
第十一巻(Κ)
第一章 知恵が原理についての知識であることは、他の人々が原理について語ったことを論じた最初の箇所で明らかである。しかし、知恵は一つの知識か多くの知識か。一つの知識は反対のものについてのものであるが、原理は反対のものではない。論証の原理を考察するのは一つの知識か複数の知識か。それはあらゆる実体についての知識か。実体のみについてか、付帯性についてもか。論証的であるかぎり知恵は付帯性についての知識となり、第一次的なものについてであるかぎり実体についての知識となる。探求されている知識は目的因についての知識でもない。善は行為されうるものと運動のうちにあるものに属するが、第一に動かしたものは不動なるもののうちには存在しないからである。
探求されている知識は感覚されうる実体についてのものか、別のものについてのものか。形相が存在しないことは明らかであるが、形相を立てるとしても、数学的対象のように形相と感覚されうるものとの中間に第三の人間や第三の馬を置かないのはなぜか。しかし彼らの語るような仕方でそれが存在しないなら、数学者は何について研究するのか。この知識は、分離されえない数学的対象についても、消滅する感覚されうる実体についてもない。数学的対象の質料について問うのは、自然学にも論証を考察する知識にも属さず、この哲学に属する。また、あらゆる定義式と知識は普遍的なものについてのものであるから、この知識は最も第一次的な類、すなわち存在と一についてのものであるように思われる。しかし種差は類にあずからないから、これらを類としても原理としても立てるべきではないとも思われ、不可分な種のほうが類より原理であるとも、他のものを共に消滅させる類のほうが原理に似ているとも思われる。
第二章 探求されている知識は無限である個々のものについてのものか。個々のもののかたわらにあるのは類や種であるが、そうではないことはすでに語った。感覚されうる実体のかたわらに、分離され、いかなる感覚されうるものにも属さない何かが存在するかどうかを見きわめることが、我々の当面の課題である。存在するとしても、感覚されうる消滅する実体と同数の永遠なる実体を作り出すのは不合理である。物体から分離されない原理としては、可能態においてのみ存在する質料よりも、形相と形のほうが本来的な原理であるが、これは消滅するものである。すると分離されそれ自体として存する永遠なる実体は存在しないことになるが、これは不合理である。何か永遠で分離され存続するものが存在しないなら、いかにして秩序がありうるのか。
さらに、その原理が万物にとって一つであるなら、なぜそのもとにあるもののあるものは永遠であり、あるものは永遠でないのか。存在と一とを原理とするなら、それらが実体を意味しないならどうして分離されて存するのか。実体を意味するなら、存在するものはすべて実体であることになるが、これは偽である。一と質料とから数を生成させる人々は、二やその他の複合した数がどうして一であるのかを語らない。線や面は分離された実体ではなく、面や物体の切断や限界であり、点は線の切断であって生成をもたない。また知識は普遍的なものについてのものであるが、実体は「これ」であり分離されたものである。複合体のかたわらに形相が存するとしても、家の場合のように分離されていないことが明らかなものもある。
第三章 哲学者の知識は、存在するものが存在するものであるかぎりにおいての普遍的な知識である。存在するものは多くの仕方で語られるが、医術的な議論や医術的な小刀が医術へと帰せられ、健康的なものが健康へと帰せられるように、何か一つの共通のものへと帰せられて語られるから、一つの知識のもとにある。あらゆる存在するものは、存在するものの様態や状態や配置や運動であることによって存在するものと語られ、反対性もまた存在するものの第一次的な差異や反対性へと帰せられる。存在するものと一とは置き換え可能である。正と不正のように中間があるものについては、欠如は定義式全体の欠如ではなく、法に従うことにおいて何らかの点で欠けているというように、究極的な種の欠如である。数学者は重さや硬さや熱さなど感覚されうるものを取り去り、量と連続性だけを残して考察するが、それでもこれらすべてについて幾何学という一つの知識を立てる。同様に、存在するものに、それが存在するものであるかぎりにおいて付帯することを考察するのは哲学のみである。自然学は運動にあずかるかぎりでの考察を、弁証術や詭弁術は存在するものに付帯するものを扱う。こうして、類において異なる多くのものについて一つの知識がありうるかという難問は解消される。
第四章 等しいものから等しいものが取り去られれば残りは等しいということは、あらゆる量に共通であるが、数学はその一部分を取り出して、線や角や数が連続的であるかぎりにおいて考察する。自然学は存在するものを運動するものであるかぎりにおいて考察する。これらの原理を、存在するものであるかぎりにおいて考察するのは第一哲学に属する。それゆえ自然学の知識も数学的な知識も、知恵の部分であると立てるべきである。
第五章 存在するもののうちには、欺かれることのありえない原理がある。同一のものが同一の時にあることとあらぬこととが両立することはありえない、という原理である。これについて無条件の論証はないが、しかじかの人に対する論証はある。議論を共有しようとする者たちは何かを互いに了解していなければならず、名前はそれぞれ知られた一つのことを明示するものでなければならない。これがあり、かつあらぬと語る者は、名前が意味しているところのものをそれが意味していないと主張していることになる。また肯定が否定よりいっそう真であるのでないなら、人間を馬であると主張する者も真を語ることになる。このように問いを発すれば、ヘラクレイトス自身にも速やかに認めさせることができたであろう。彼は自分が何を語っているのかを理解していなかった。彼の語ることが真であるなら、まさにそのこと自体も真ではないことになる。
第六章 人間があらゆる事物の尺度であるというプロタゴラスの説は、各人に思われることがそのまま存在するということを意味し、同一のものがあり、かつあらぬことになる。この見解は、何ものもあらぬものからは生じないという自然学者たちの教説と、同一のものがある人々には快く、他の人々には反対に思われることとから生じた。しかし生成するものがいかにしてあらぬものから生じるかは自然学ですでに語った。また感覚器官が損なわれていないかぎり、同一のものがある人々には甘く、他の人々には反対に思われることはない。目の下に指を差し入れて一つのものが二つに見えるからといって、それが二つであるとするようなものである。
この世のものが変化しているように見えることから真理を判定するのは不合理であり、真理は、常に同一の状態を保つ宇宙のようなものから追求されなければならない。量において流動しているとしても、実体は質に即したもので限定された自然本性に属する。医師がこれこれの食物を摂るように指示すれば人々はそれを摂るが、それはそれがパンであると真に考えているからである。したがって、対立する肯定・否定が、同一のものについて同時に真であることはなく、中間のものもまた述語づけられえない。アナクサゴラスのように、あらゆるもののうちにあらゆるものが現実態において内在すると語るなら、甘いことも苦いことも等しく真になってしまう。またあらゆるものが偽であるなら、そう主張しても真ではなく、あらゆるものが真であるなら、あらゆるものは偽であると語っても偽ではない。
第七章 医術や体育術のような知識はそれぞれ何らかの類を限定し、その「何であるか」を前提として取って他のことを示すが、それが存在するものであるかぎりにおいて扱うのではない。自然学は、制作されるもののように運動の原理が制作するものにあるのでも、実践されるもののように実践する者にあるのでもなく、自身のうちに運動の原理をもつものについてのものであるから、観照的な知識である。自然学者は、獅子鼻のように質料とともに定義式を与えなければならない。自然学は運動の原理をもつものを、数学はとどまってはいるが分離されてはいないものを扱う。分離され不動である実体が存在するなら、それについての知識は両者とは別であり、そこにこそ神的なものがあり、第一の最も本来的な原理がある。観照的な知識には自然学的・数学的・神学的の三つの類があり、最後のものが最も尊いものについてのものとして最善である。自然的な実体が第一次的なものなら自然学が第一の知識であるが、分離され不動である実体があるなら、その知識は自然学より先であり、先であるがゆえに普遍的である。
第八章 付帯的に存在するものについては、伝承されたいかなる知識も研究しない。建築術は家に住む人々が快適に暮らすかどうかを考察しない。これを探求するのは詭弁術のみであり、それゆえプラトンが詭弁家はあらぬものについて時を過ごす者であると語ったのは的外れではない。あるものは常にかつ必然的に、あるものは多くの場合に存し、付帯性とは、そのいずれでもなく、犬星のもとで寒さが生じるように、たまたま生じるものである。あらゆる知識は常に、あるいは多くの場合に存在するものについてのものであるから、付帯性についての知識はない。付帯的なものに、それ自体としてのものと同種の原因があるなら、明日の日食がいま現に存するものから必然的に生じるように、あらゆるものが必然的に生じることになる。
真としての存在は思考における結合のうちにある様態であり、付帯的なものとしての存在は無限定であって、その原因は無秩序で無限である。自然本性や思考にもとづいて何かのために生じることのうちで、何かが付帯的に生じるとき、それが偶然である。偶然は決定にもとづいて何かのために生じることにおける付帯的な原因であり、それゆえ人間の推論には不明である。善い結果をもたらせば幸運、悪い結果をもたらせば不運と呼ばれる。付帯的なものはそれ自体としてのものより先ではないから、偶然や自発が天の原因であるとしても、知性と自然本性とがそれより先なる原因である。
第九章 運動は事物のかたわらにあるのではなく、実体、質、量、場所という存在するものの範疇に即して変化するものであり、それぞれの類には、形とその欠如、白と黒、完全と不完全、上と下というように二通りがある。可能態にあるものの、それがそのようなものであるかぎりでの現実態を運動と呼ぶ。建てられうるものが、建てられうるものであるかぎりにおいて現実態にあるとき、それは建てられつつあり、これが建築という営みである。青銅は可能態において彫像であるが、青銅の完成態は、それが青銅であるかぎりでは運動ではない。健康でありうることと病気でありうることとが同一ではないように、青銅であることと何かについて可能態にあることとは同一ではないからである。家があるときには、もはや建てられうるものではない。
運動を他性や不等性やあらぬものとする人々がいるのは、運動が無限定なものに思われるからである。運動は、可能態のうちにも現実態のうちにも置くことができず、何らかの現実態ではあるが不完全な現実態である。それの現実態である可能なものが不完全だからである。運動は運動しうるもののうちにあり、運動させうるものによるこのものの完成態である。一から二への隔たりと二から一への隔たり、上りの坂と下りの坂とが同一でありながらあり方が一つでないように、動かすものと動かされるものとのはたらきは一つである。
第十章 無限なものとは、声が見えないように通り抜けられる本性をもたないもの、通過が終わりのないもの、本性上限界をもつはずでありながらもたないものである。無限なものがそれ自体として分離された実体であれば、不可分なものであり、無限ではないことになる。無限は数や大きさの様態であり、付帯的に属するものであって、存在するものの元素でも原理でもない。現実態において存在する無限なものは不可能である。物体の定義式が面によって限定されたものである以上、無限な物体は感覚されうるものとしても思惟されうるものとしても存在しえない。元素が限定されているなら複合した無限な物体はなく、一方が無限であれば他方を消滅させてしまう。ヘラクレイトスが万物はあるとき火になると語るような、単純で無限な物体もない。あらゆる感覚されうる物体は場所のうちにあり、上や下は限界であるから、無限な場所も無限な物体も不可能である。運動は大きさに即して、時間は運動のゆえに、無限であると語られる。
第十一章 変化するものには、音楽的な人が歩くように付帯的に変化するもの、目が健康になることで身体が健康になるように部分に即して変化するもの、それ自体として第一次的に変化するものがあり、動かすものについても同様である。運動が向かう形相や様態や場所は不動であり、熱さそのものではなく加熱が運動である。変化は、基体から基体へ、基体から非基体へ、非基体から基体へのいずれかである。非基体から基体への変化が生成、基体から非基体への変化が消滅であり、これらは矛盾対立に即したものであって運動ではない。あらぬものは運動することがなく、場所のうちにもないからである。したがって、反対のものや中間のものという基体から基体への変化のみが運動である。
第十二章 実体には反対のものがないから実体に即した運動はなく、関係に即した運動もなく、能動と受動に即した運動もない。運動の運動、生成の生成はないからである。もしあれば無限に進み、第一のものがなく、いかなるものも生成することも運動することもできなくなる。学習の学習がないように、生成の生成もない。したがって運動は質・量・場所に即した三つである。ここで言う質とは、種差ではなく、受動しうると語られる被動的な質である。静止とは、運動を受け入れうるものが、本性上運動すべき時と場所と仕方において運動していないという欠如である。
さらに、同時にあるもの、離れているもの、接触するもの、中間、反対、継起するもの、隣接するもの、連続するものが規定される。継起するとは、原理の後にあり、それとのあいだに同じ類のものが中間にないことであり、隣接するとは継起しつつ接触すること、連続するとは、接触し結合されているものの限界が同一で一つのものとなることである。継起は連続や隣接よりも第一次的である。点には接触が属するが、単位には継起だけが属する。点と点とのあいだには何か中間のものがあるが、単位と単位とのあいだにはない。したがって点は単位と同一ではない。
第十二巻(Λ)
第一章 この考察は実体についてのものである。探求されているのは実体の原理と原因だからである。万有が全体のようなものであれば実体はその第一の部分であり、継起によって成り立つとしても実体が第一であり、次に質、次に量である。質や量は無条件の意味では存在するものでさえなく、分離されうるものでもない。昔の人々も実体の原理と元素と原因とを探求していた。今の人々は論理的に探求するので普遍的な類をいっそう実体とするが、昔の人々は火や土のような個々のものを実体とした。
実体は三つある。一つは感覚されうる実体で、そのうち天体のように永遠なものと、植物や動物のように消滅するものとがある。もう一つは不動の実体であり、ある人々はこれを分離されうるものとし、形相と数学的対象とに分け、あるいは一つの本性とし、あるいは数学的対象のみを立てる。感覚されうる実体は運動をともなうから自然学に属し、不動の実体は、それらに共通の原理がなければ別の知識に属する。感覚されうる実体は変化しうるものであり、変化は反対のものから生じるから、変化して反対性へと至る何かが基体としてあることが必然である。反対のものそれ自体が変化するのではないからである。
第二章 基体は存続するが反対のものは存続しないから、反対のもののかたわらに第三のもの、すなわち質料がある。変化には「これ」に即した生成と消滅、量に即した増大と減少、様態に即した質的変化、場所に即した移動の四つがあり、それぞれは反対性へと向かう。存在するものは二通りであるから、あらゆるものは、可能態において白いものから現実態において白いものへというように、可能態において存在するものから現実態において存在するものへと変化する。したがって、あらゆるものは存在するものから生成するが、それは可能態において存在し、現実態においては存在しないものからである。アナクサゴラスの一なるものも、エンペドクレスやアナクシマンドロスの混合物も、デモクリトスの語るところもこれであり、「万物は可能態において一緒にあったが、現実態においてはそうではなかった」と言うのがよい。彼らは質料に触れていたのである。永遠なもののうち移動によって動かされうるものも、どこからどこへという移動のための質料をもつ。万物が一緒にあったと言うだけでは足りない。なぜ無限に多くのものが生成したのかが語られないからである。したがって原因も原理も三つであり、二つは反対性、すなわち定義式であり形相であるものと欠如とであり、第三のものが質料である。
第三章 最終的な質料も形相も生成しない。変化するものは、第一に動かすものによって、質料が、形相へと変化するからである。青銅が丸くなるだけでなく丸さや青銅もまた生成するなら、無限に進むことになり、どこかで止まらねばならない。またそれぞれの実体は、同名同義的なものから生成する。事物は技術によって、自然によって、偶然によって、自発によって生成する。技術は他のもののうちにある原理であり、自然はそのもの自身のうちにある原理である。人間が人間を生む。他の原因はこれらの欠如である。実体は三つである。接触によって一つであるにすぎない、見かけのうえで「これ」である質料、変化がそれへと向かう状態であり「これ」である自然本性、そしてこれらから成る、ソクラテスやカリアスのような個々のものである。家の形相のように、複合した実体のかたわらに「これ」が存在しないものもある。存在するとすれば自然による事物においてであり、それゆえプラトンが、自然による事物と同じだけの数の形相があると言ったのは悪い言い方ではなかった。動かす原因は先に生成したものとして原因であるが、定義式としての原因は事物と同時に存在する。人間が健康であるときに健康もまた存在する。後まで存続するものがあるとすれば、魂のすべてではなく知性であろう。しかし少なくともこの理由でイデアが存在しなければならないということはない。人間が人間を生み、医術は健康の定義式だからである。
第四章 原因と原理とは、ある意味では異なるものにとって異なるが、普遍的に、類比によって語るなら、あらゆるものにとって同一である。実体と関係するものとの元素が同一であることはない。元素は元素から合成されたものと同一ではなく、ΒΑはΒやΑと同一ではないからである。感覚されうる物体については、形相としての熱いもの、欠如としての冷たいもの、可能態においてこれらであるものとしての質料が元素である。色においては白と黒と面とが、また光と闇と空気とが、昼と夜との元素である。類比によって元素は三つであるが、外部の動かすものも原因であるから、原因と原理とは四つである。健康と病気と身体とに対して、動かすものは医術であり、形相と無秩序と煉瓦とに対して、動かすものは建築術である。自然による事物では人間にとって人間が、思考から生じる事物では形相が動かすものであるから、ある仕方では原因は三つである。医術はある意味で健康であり、建築術は家の形相だからである。さらにこれらのかたわらに、あらゆるものの第一のものとして、あらゆるものを動かすものがある。
第五章 実体は分離されうるものであり、実体なしには様態も運動も存在しないから、あらゆるものの原因は同一である。また類比によって、現実態と可能態とが原理として同一である。ぶどう酒や肉や人間は、あるときは現実態において、あるときは可能態においてある。形相や両者から成るものや欠如は現実態において存在し、質料は両方のものになりうるものとして可能態において存在する。人間の原因は、質料としての火と土、固有の形相、外部にある父親、さらに太陽と斜めの円である。普遍的な原理は存在しない。個々のものの原理は個々のものであり、普遍的な人間はどこにも存在せず、ペレウスがアキレウスの原理であり、君の父親が君の原理である。君の質料と形相と動かしたものとは私のそれらとは別のものであるが、普遍的な定義式においては同一である。質料・形相・欠如・動かすものという類比によって、実体の原因があらゆるものの原因であるという仕方で、完成態において第一のものという仕方で、あらゆるものの原理は同一である。
第六章 実体は三つであり、二つは自然的な実体、一つは不動の実体であったから、永遠な不動の実体が存在することが必然であることを語らなければならない。実体は存在するもののうち第一のものであり、実体がすべて消滅するものであれば、あらゆるものが消滅するものである。しかし運動は常に存在していたから、生成も消滅もしない。時間もそうである。時間が存在しなければ、より先とより後とが存在しえないからである。時間は運動と同一か運動の様態であるから、運動も連続的であり、連続的な運動は場所に即した運動、それも円運動である。
しかし動かしうるものがあっても、現実に活動していなければ運動は存在しない。能力をもつものは活動しないこともありうるからである。したがって、形相を立てる人々のように永遠な実体を作り出しても、変化を引き起こす原理が内在していなければ何の益もない。活動するとしても、その実体が可能態であれば永遠な運動は存在しない。したがって、その実体が現実態であるような原理がなければならず、それらは質料をもたないものでなければならない。可能態が先であると思われるかもしれないが、そうであれば、存在することが可能であってもまだ存在していないことがありうるから、何も存在しないことになる。夜から万物を生み出す神学者たちや、万物は一緒にあったと主張する自然学者たちにも同じ不可能が生じる。質料が自分自身を動かすのではなく、大工の技術が、月経の血や土ではなく種子が動かすのである。それゆえレウキッポスやプラトンは常に現実態があるとするが、なぜ、どのような運動が存在するのかを語らない。アナクサゴラスの知性も、エンペドクレスの友愛と争いも、現実態が先であることを証言している。したがって無限の時間にわたって混沌や夜が存在していたのではなく、同一のものが周期によって常に存在していたのである。同一のものが常に存在するなら、常に同じ仕方で活動しつつとどまるものがなければならず、生成と消滅とがあるなら、異なる仕方で活動する別のものがなければならない。常に同じ仕方であることの原因は第一のものであり、異なる仕方であることの原因は別のものであり、常に異なる仕方であることの原因は両者である。
第七章 止むことのない円運動によって常に動かされている何かがあることは、議論によってだけでなく事実によって明らかであり、第一の天は永遠である。動かされかつ動かすものは中間のものであるから、動かされることなく動かす何かがあり、それは永遠であり、実体であり、現実態である。欲求されるものと思惟されるものとは、このように動かされることなく動かす。我々は美しく思われるがゆえに欲求するのであって、欲求するがゆえに美しく思われるのではない。思惟が原理だからである。知性は思惟されるものによって動かされ、思惟されうるものの系列では、実体が第一であり、実体のうちでは単純で現実態に即して存在する実体が第一である。目的には、あるもののための目的と、あるものを目指すという意味での目的とがあり、後者は不動のもののうちにありうる。それは愛されるものとして動かし、他のものは動かされることによって動かす。
動かされることなく現実態において存在しつつ動かすものは、いかなる仕方においても別の仕方でありえない。移動は変化のうちで第一であり、移動のうちでは円運動が第一であり、これを動かすのがこのものだからである。したがってそれは必然によって存在し、必然によって存在するかぎり善い仕方で存在し、このようにして原理である。天と自然とは、このような原理に依存している。そのものの過ごし方は、我々にとってはわずかな時間だけの最善の過ごし方のようなものであり、あのものは常にその状態にある。その現実態は快楽でもある。それゆえ目覚めていること、感覚すること、思惟することは最も快い。知性は思惟されるものにあずかることによって自分自身を思惟する。思惟されるものに触れ、思惟することによって、思惟されるものとなるからである。したがって知性と思惟されるものとは同一である。観想は最も快く最善である。我々がときおりそうである善い状態に神が常にあるとすれば、それは驚くべきことであり、それ以上の状態にあるなら、なおいっそう驚くべきことであるが、神は実際にそのような状態にある。神には生命もまた属する。知性の現実態は生命であり、神はその現実態だからである。我々は、神が永遠で最善の生きものであると語る。
ピュタゴラス派やスペウシッポスのように、美しく完全なものは原理から生じるもののうちにあるとして、最善のものは原理のうちにないと考える人々は正しくない。種子は、それより先の完全なものから生じるからである。永遠で不動であり、感覚されうるものから分離された実体は、無限の時間にわたって動かすから、有限な能力をもつ大きさをもたず、部分をもたず、分割されえず、受動せず、質的に変化しない。
第八章 このような実体は一つか複数か、いくつか。イデアを語る人々は、数について、あるときは無限、あるときは十までと語るだけで、論証的に語ることがない。第一の、永遠で一つの運動を動かすものはそれ自体として不動である。永遠な運動は永遠なものによって、一つの運動は一つのものによって動かされる。我々は万有の単純な移動のかたわらに、惑星の移動という別の永遠な移動を見る。これらの移動のそれぞれも、それ自体として不動で永遠な実体によって動かされなければならない。したがって、星の移動と同じだけの数の、永遠で不動で大きさをもたない実体が存在する。その数については、数学的な知識のうちで哲学に最も親近な天文学にもとづいて考察しなければならない。
エウドクソスは太陽と月のそれぞれに三つの天球を、惑星のそれぞれに四つの天球を立てた。カリッポスは太陽と月とにさらに二つずつ、残りの惑星に一つずつを付け加えた。現象を説明するには、下の天体の第一の天球を元の位置へ戻す逆向きに回転する天球が必要であり、運ぶ天球とこれとの総数は五十五、月と太陽とに付け加えなければ四十七となる。したがって不動の実体と原理もこれだけの数であると考えるのが理にかなっている。必然的であると語ることは、より力のある人々に委ねる。あらゆる移動は、運ばれる星のためにあり、無限に進むことはできないから、移動の目的は天において運ばれる神的な物体のうちの何かである。天は一つである。数において多数であるものは質料をもつが、第一の本質は完成態であって質料をもたず、第一に動かすものは定義式においても数においても一つだからである。昔の人々から神話のかたちで伝えられてきたのは、天体が神々であり、神的なものが自然全体を包括しているということであり、神々を人間のかたちとして語ることなどは、多くの人々を説得し法と公益に役立てるために付け加えられた。第一の実体を神々と考えたという点だけを取り出せば、それは神的な仕方で語られたことであり、技術と哲学とがしばしば発見されては滅びるなかで、遺物として保存されてきたと考えられるであろう。
第九章 知性は現れるもののうちで最も神的であると思われるが、どのようなあり方をしていればそうでありうるのかには困難がある。何も思惟しないなら、眠っている者のようなものであり、何の尊厳があろうか。思惟するとしても、その思惟を支配するものが別のものであれば、その実体は可能態であり、最善の実体ではない。では何を思惟するのか。自分自身か別のものか、同じものか異なるものか。知性は最も神的で最も尊いものを思惟し、変化しない。変化はより悪いものへの変化だからである。知性が可能態であれば、思惟の連続は骨の折れるものとなり、知性より尊い思惟されるものがあることになる。見るよりも見ないほうがよいものもあるように、最も悪いものを思惟することは避けるべきである。したがって知性は、最も優れたものである以上、自分自身を思惟するのであり、その思惟は思惟の思惟である。知識や感覚や思考は常に別のものについてのものであるが、観想にかかわる知識では、定義式と思惟とが事物である。質料をもたないものについては、思惟されるものと知性とは異ならず、思惟は思惟されるものと一つである。思惟されるものが複合したものであれば知性は部分のあいだで変化することになるが、質料をもたないものはすべて分割されえない。人間の知性が、ある時間の全体のうちに、自らとは別のものである最善のものをもつように、思惟それ自体は、自身についての思惟として、永遠の全体にわたってそのようなあり方をしている。
第十章 万有の本性は、善と最善のものとを、分離されそれ自体としてあるものとしてもっているのか、秩序としてもっているのか。軍隊のように両方の仕方でもっている。軍隊の善さは秩序のうちにもあり、将軍でもあり、いっそう将軍のほうがそうである。将軍が秩序のゆえにあるのではなく、秩序が将軍のゆえにあるからである。泳ぐものも飛ぶものも植物も、一つのものへと向かって秩序づけられている。家において、自由人には任意のことをする余地が最も少なく、奴隷や家畜には多いように、それぞれの本性がこのような原理である。
他の人々は、あらゆるものを反対のものから生じさせるが、反対のものは互いに作用を受けない。我々には第三のものがあることで解決される。反対のものの一方を質料とする人々は、一を除くあらゆるものを悪にあずからせることになる。善を原理とする人々も、それが目的としてか、動かすものとしてか、形相としてかを語らない。エンペドクレスの友愛は、動かすものとしても質料としても原理であることになり、争いが消滅しないのも不合理である。アナクサゴラスの知性は何かのために動かすが、その何かは知性とは別のものである。なぜあるものは消滅し、あるものは消滅しないのか、なぜ生成が常にあるのかを誰も語らない。形相を立てる人々には、なぜ個々のものが形相にあずかるのかを語る、より支配的な原理が必要である。第一のものには反対のものは何もない。反対のものは質料をもち、可能態においてあるからである。感覚されうるもののかたわらに別のものが存在しなければ、原理も秩序も生成も天界のものもなく、常に原理の原理が存在することになる。数学的な数を第一のものとし、次々と別の実体と別の原理とを語る人々は、万有の実体を挿話の寄せ集めのようなものにしてしまう。しかし存在するものは悪い仕方で治められることを望まない。「多くの者が支配するのは善くない。支配者は一人であれ。」
第十三巻(Μ)
第一章 感覚されうるものの実体については、自然学の研究で質料について、その後、現実態に即した実体について語った。いまの考察は、感覚されうる実体のかたわらに不動で永遠な実体が存在するのか、存在するならそれは何か、というものであるから、まず他の人々の語ることを考察しなければならない。彼らが誤っているなら同じ誤りに陥らないために、共通の見解があるなら自分たちだけに不満を抱かないためにである。ある点ではよりよく語り、ある点ではより悪く語らなければそれで満足すべきである。ある人々は数や線などの数学的対象が実体であると主張し、ある人々はイデアが実体であると主張する。これらを二つの類とする人々、一つの本性とする人々、数学的な実体のみを立てる人々がいる。そこでまず数学的対象を、イデアであるかどうかを付け加えずに考察し、次にイデアそのものを考察し、第三に存在するものの実体と原理とが数でありイデアであるかを考察する。数学的対象が存在するなら、感覚されうるもののうちに存在するか、分離されて存在するか、別の仕方で存在するかのいずれかであり、論争はそれが存在することについてではなく、存在する仕方についてのものである。
第二章 数学的対象が感覚されうるもののうちに存在することは不可能である。二つの立体が同時に同じところに存在することになり、また点が分割されえないなら線も物体も分割されえなくなる。分離されて存在することも不可能である。感覚されうる立体のかたわらに分離された立体があるなら、面や線や点にも分離されたものがあり、さらにそれらより先の面や線や点があることになって、面は三種類、線は四種類、点は五種類存在するという不合理な積み重ねになる。数学的な知識はそのどれを対象とするのか。また天文学や光学や和声学の対象も感覚されうるもののかたわらに存在し、声や視覚も、したがって動物も存在することになる。
さらにそれらを分離されたものとして立てれば、真実とは反対のことが帰結する。それらは感覚されうる大きさより先なるものとなるが、真実に即しては後なるものである。不完全な大きさは、無生物が生物に対してそうであるように、生成においては先であるが実体においては後である。生成は長さから幅へ、深さへと進んで終わりに達し、物体は面や線よりもいっそう完全であり、生命をもつものとなる。しかし線や面がいかにして生命をもちうるのか。線は形相としても質料としても実体ではない。数学的対象は定義式においては先であっても、実体においては先ではない。白いものは白い人間よりも定義式においては先であるが、分離されて存在することはできないからである。したがって数学的対象は、物体よりもいっそう実体であるのでも、存在において感覚されうるものより先であるのでもなく、無条件的には存在しないが、何らかの仕方で存在する。
第三章 数学の普遍的な命題が大きさや数についてのものでありながら、それらが大きさをもつかぎりにおいてのものではないように、感覚されうる大きさについても、感覚されうるものであるかぎりにおいてではなく、物体であるかぎり、面であるかぎり、長さであるかぎりにおいて、定義式や知識がありうる。動物には雌であるかぎり、雄であるかぎりの固有の様態があるが、動物から分離された雌や雄があるわけではない。定義式においてより先なるもの、より単純なものについての知識ほど厳密であり、運動をともなわない知識が最も厳密である。人が地面に図を描いて、一フィートの長さでないものを一フィートと言っても偽りを語ることにならないように、分離されていないものを分離して立てれば、それぞれのものは最もよく考察される。算術家は人間を分割されえない一つのものとして、幾何学者は立体として考察する。存在するものは、完成態において存在するものと質料的な仕方で存在するものとの二通りであり、幾何学者たちは存在するものについて論じているのである。数学的な知識が美や善について何も語らないと主張する人々は偽りを語っている。美の最大の種は秩序と均整と限定されたものであり、これこそ数学的な知識が最も多く示すものだからである。
第四章 イデアについては、数の本性と結びつけずに、最初の人々が考えたとおりに考察する。形相の見解が生じたのは、感覚されうるものは常に流れているというヘラクレイトス派の議論に説得され、知識や思慮が存在するなら、とどまっている別の本性がなければならないと考えたからである。ソクラテスは倫理的な徳について普遍的に定義することを初めて探求した。推論の原理は「何であるか」であり、ソクラテスには帰納的な議論と普遍的に定義することとを正当に帰することができる。しかしソクラテスは普遍的なものも定義も分離されたものとはしなかった。他の人々がこれらを分離し、イデアと呼んだ。それは、ものが少ないと数えられないと考え、ものを多くしてから数えるようなものである。
形相が存在することを示すいかなる仕方によっても、それは明らかにならない。知識にもとづく議論によれば知識が存在するあらゆるものに、多くのものについての一つのものにもとづく議論によれば否定にも、消滅したものを思惟することにもとづく議論によれば消滅するものにも形相があることになる。最も厳密な議論は関係するもののイデアを作り出し、あるいは第三の人間を語る。形相が分有されうるものなら、実体のイデアだけが存在することになる。イデアとそれを分有するものとの形相が同一なら共通のものがあることになり、同一でなければ、カリアスと木材とを人間と呼ぶように同名異義的となる。
第五章 形相は、感覚されうるもののうちの永遠なものにも生成し消滅するものにも、運動や変化の原因とならず、それらの実体でないから知識の助けにもならず、内在しないから存在の助けにもならない。白いものが混合されるように内在するというアナクサゴラスやエウドクソスの議論は、容易に覆される。形相が範型であり、他のものがそれを分有すると語ることは、空虚な言葉であり詩的な比喩である。イデアに目を向けて作り出すものとは何か。ソクラテスが存在しようと存在しまいと、ソクラテスのような人は生じうる。人間については動物と二本足のものと人間そのものとが範型となり、類は種の範型となって、同一のものが範型であり似像であることになる。実体と、それを実体とするものとが分離されて存在することは不可能である。パイドンでは形相が存在と生成の原因であるとされるが、動かすものがなければものは生成せず、形相があるとされない家や指輪も生成する。
第六章 次に、数が分離された実体であり、存在するものの第一の原因であると語る人々にとって帰結することを考察する。数が本性であるなら、単位のすべてが互いに比較されえないか、数学的な数のようにすべてが比較されうるか、同じ数のうちの単位は比較されうるが、二そのもののうちの単位と三そのもののうちの単位とは比較されえないかのいずれかである。また数は事物から分離されて存在するか、感覚されうるものがそれから成るものとして内在するか、あるものは分離されあるものはそうでないかである。ある人々は、より先とより後とをもつイデアの数と数学的な数との両方が分離されて存在すると主張し、ある人々は数学的な数だけを主張する。ピュタゴラス派は一つの数学的な数を主張するが、分離せず、単位が大きさをもつと考えて天全体を数から組み立てる。語られうる仕方はこれらだけであるが、これらはすべて不可能であり、あるものは他のものよりいっそう不可能である。
第七章 すべての単位が比較されうるものであれば、数学的な数だけが生じ、イデアが数であることはありえない。この三が他の三よりもいっそう人間そのものであることはないからである。いかなる単位もいかなる単位と比較されえないなら、数学的な数でも形相の数でもありえず、第一の二のうちの単位のうち一方が先であれば、それらから成る二より先であることになり、二のうちに三が存在する前に第三の単位があることになる。数は付加によって数えられなければならないが、そうであれば、一と不定の二とから数を生み出すことはできない。四は第一の二と不定の二とから生じた二つの二であるとされるからである。同じ数のうちの単位だけが差異のないものであるとしても、十そのもののうちにある二つの五はどうして他の五と異なるのか。
総じて単位を何らかの仕方で異なるものとすることは、仮説に合わせて無理に押し曲げられたこしらえものである。我々は単位が量においても質においても異なるのを見ないし、等しく差異のないものを数においては同一のものと考える。一と一とは、善と悪、人間と馬のように、等しくても等しくなくても二であると考える。単位が異なるものであると要求する人々は、イデアが存在すべきであるという仮説に対しては正しく語っているが、総じては多くのものを取り除いてしまう。我々は付け加えることによっても部分ごとにも数えるのであり、これを大きな実体の差異にまで遡らせるのは滑稽である。
第八章 単位の差異は量においてか質においてかであるが、どちらも単位には属しえない。したがってイデアが数であるなら、すべての単位が比較されうるものであることも、互いに比較されえないものであることもありえない。数学的な数だけを立て、一を原理とする人々も、一のうちには第一の一があるのに二のうちには第一の二がないというのは不合理である。形相の数と数学的な数とが同一であるとする第三の仕方は最も悪く、二つの誤りが重なる。ピュタゴラス派は数を分離しない点で困難が少ないが、物体が数学的な数から合成されるとすることは不可能である。単位は大きさをもたず、分割されえないものから大きさは合成されえないからである。
数は無限か有限かである。無限な数は奇数でも偶数でもないからありえない。有限であるとして、ある人々の言うように十までであれば、形相はすぐに足りなくなる。三が人間そのものなら、馬そのものはどの数か。動物の種はこの数を超えるであろう。十のイデアはあるが十一のイデアはないというのも不合理である。また一は、数が合成されたものであるかぎりでは先であるが、形相であるかぎりでは数が先である。直角は限定されており定義式において鋭角より先であるが、鋭角は直角が分割される部分として先である。彼らは一を、形相であり実体である原理としても、部分であり質料である原理としても立てるが、これは不可能である。誤りの原因は、数学からと普遍的な議論からとを同時に追求したことにある。
第九章 数に続く線や面や物体についても、長さを長いものと短いものとから、面を広いものと狭いものとから、塊を深いものと浅いものとから作り出す人々には同様の困難が帰結する。これらの原理が互いに随伴しなければ互いに切り離され、随伴すれば面は線となり立体は面となる。これらは大きさの様態であって、大きさがこれらから成るのではない。長さがまっすぐなものと曲がったものとから成るのではないように。数についての仕方が互いに食い違っていることは、事柄そのものが真でないことのしるしである。数学的対象だけを立てる人々は、形相の困難を見て形相の数から離れ、形相と数とを同時に立てようとする人々は、形相の数と数学的な数とを同一のものとして実際には数学的な数を取り除いてしまった。エピカルモスが言うように、よくない状態のものから、よく語ることは困難である。
イデアを語る人々は、イデアを普遍的なものとして立てると同時に、分離されたもの、個々のものとして立てる。彼らは、感覚されうるもののうちの個々のものは流れており、何もとどまらないと考え、普遍的なものはこれらのかたわらにある別のものであると考えた。ソクラテスは定義によってこれを動かしたが、個々のものから分離しはしなかった。普遍的なものなしに知識を得ることはできないが、分離することがイデアの困難の原因である。彼らは、流れている実体のかたわらに実体があるなら分離されていなければならないと考え、別の実体をもたなかったので、普遍的に語られるこれらの実体を立てたのである。
第十章 実体を分離されたもの、個々のものとして立てなければ、我々の語る意味での実体を取り除いてしまう。しかし分離されたものとして立てるなら、その元素と原理とをどう立てるのか。それらが個々のものであって普遍的なものでないなら、音節ΒΑがただ一つであるように、字母Αもただ一つとなり、字母のほかに何も存在せず、字母は知られうるものでもない。知識は普遍的なものを対象とするからである。あらゆる三角形が二直角をもつのでなければ、この三角形が二直角をもつという推論は生じない。他方、原理が普遍的なものなら、それらから成る実体も普遍的なものであるか、実体でないものが実体より先であることになる。
これは語られたことのうちで最も難問を含んでいるが、ある意味では真であり、ある意味では真ではない。知識は、知っていることと同様に二通りであり、可能態においてあるものと現実態においてあるものとがある。可能態は、質料として普遍的で限定されていないものであるから、普遍的で限定されていないものを対象とするが、現実態は限定されたものであり、「これ」であるものとして「これ」であるものを対象とする。視覚はこの色を見ることによって付帯的に普遍的な色を見、文法家はこのΑを考察することによってΑを考察する。知識は、ある意味では普遍的なものであるが、ある意味ではそうではない。
第十四巻(Ν)
第一章 すべての人々は、自然にかんすることと同様に、不動の実体についても原理を反対のものとする。しかし万物の原理より先なるものがありえないなら、原理が何か別のものでありながら原理であることは不可能である。あらゆるものは反対のものから、何らかの基体にもとづいて生成するから、反対のものは常に基体について語られ、いかなるものも分離されていない。いかなるものも実体に反対ではないように、反対のもののいずれも本来の意味で万物の原理ではない。ある人々は一に対して等しくないもの、すなわち大と小とから成る二を質料とし、ある人々は多を質料とし、ある人々は超えるものと超えられるものとを語る。一を多に対立させる人々が最も何らかの見解を保持しているが、それでは一は少であることになる。一は尺度を意味する。音階では四分音が、大きさでは指の幅や一フィートが、韻律では脚や音節が基体として存在し、尺度は分割されえない。一は何らかの多の尺度であることを意味し、数は測られた多であることを意味するから、一は数ではない。人間と馬と神であれば、尺度はおそらく動物である。
等しくないものを一つのものとし、大と小とから成る不定の二を立てる人々は、通念からも可能なことからも遠く離れている。多と少は数の、大と小は大きさの様態であり付帯性であって、基体ではない。しかもそれらは関係するものであるが、関係するものはあらゆるもののうちで最も実体でないものである。そのしるしに、関係するものにだけは生成も消滅も運動もなく、他方のものが量に即して動かされることで、自らは動かされずに、より大きくより小さく等しくなる。実体でないものを実体の元素とし、実体より先とすることは不合理であり、不可能である。
第二章 永遠なものが元素から合成されていることは可能か。そうであれば質料をもつことになる。あらゆるものは、それに可能態においてあるものから生成し、可能なものは活動しないこともありうるから、数がどれほど常に存在するとしても、存在しないこともありうることになり、永遠ではない。したがって、いかなる永遠な実体にも、それがそれから成る元素はない。
これらの原因へ逸れていったのは、古風な仕方で困難に陥ったからである。「あらぬものがあるということは、決して屈服させられることはないであろう」というパルメニデスの議論を解決しなければ、存在するものはすべて一つになってしまうと思われ、あらぬものが存在することを示さなければならないと思われた。しかし存在するものは、実体、質、量などの多くの仕方で語られ、あらぬものも、人間でない、まっすぐでない、三ペーキュスでないというように多くの仕方で語られる。彼は偽をあらぬものと言おうとし、幾何学者が一フィートでないものを一フィートであると仮定するように偽なるものを仮定しなければならないとも語られたが、幾何学者は何ら偽なるものを仮定しない。生成は、人間でないが可能態において人間であるものから人間が生じるように、可能態に即したあらぬものから生じる。また彼らは、実体がいかにして多であるかを探求しながら、質や量がいかにして多であるかを探求しない。関係するものは存在するものの否定ではなく、存在するものの一つの本性であり、それがいかにして多であるのかも探求すべきであった。さらに、数学的な数だけを立てる人にとって、そのような数が存在するという確信はどこから得られ、それは他のものに何の役に立つのか。算術家の定理はすべて感覚されうるものについても成り立つであろう。
第三章 ピュタゴラス派は、数の多くの様態が音階や天などの感覚されうる物体に属しているのを見て、存在するものを数から成るものとしたが、分離しなかった。しかし重さも軽さももたないものから重さと軽さをもつものを作り出す点で、彼らは別の天と別の物体について語っているように思われる。数学的対象を分離されたものとする人々は、公理が感覚されうるものについては成り立たないと考えるが、ならば、なぜその様態は感覚されうるもののうちに属しているのか。点や線や面が限界であることから、このような本性が存在すると考える人々もいるが、歩行にも運動にも限界がある以上、限界は「これ」でも実体でもない。数学的対象だけを立てる人々にとっては、数が存在しなくても大きさは存在し、大きさが存在しなくても魂と物体は存在することになる。しかし現象から見るかぎり、自然は出来の悪い悲劇のように挿話の寄せ集めであるようには思われない。形相の数と数学的な数との二つを作り出した人々は、数学的な数が何から成るのかを語ることができない。これらのうちにはシモニデスの長話があり、元素である大と小とさえ、引きずり回されているかのように叫んでいるように見える。永遠なものに生成を作り出すことも不合理であり、ピュタゴラス派は、一が構成されたとき無限なものの最も近い部分が引き寄せられて限界によって限定されたと語るが、それは自然学的な議論であって、不動のもののうちにある原理を探求する現在の研究からは除外される。
第四章 ある人々は、等しくないもの、すなわち大と小が等しくされることによって第一の偶数を組み立てるが、常にあるものより先なるものは何もないから、彼らが数の生成を作り出すのは考察のためではない。元素と原理とは善と美とにどう関係するのか。原理のうちに善そのものがあるのか、存在するものの本性が進展して善と美とが後から現れるのか。古の詩人たちは、夜や天や混沌や大洋ではなく、ゼウスが支配すると語り、ペレキュデスやマゴスたちは最初に生み出したものを最善のものとし、エンペドクレスは友愛を元素とし、アナクサゴラスは知性を原理とした。第一のものであり、永遠であり、最も自足的であるものに、善が第一に属していないとすれば驚くべきことである。それが消滅せず自足的であるのは、善い状態にあるからにほかならない。
しかしこの原理を一とし、しかも数の元素とすることは不可能である。そうすれば、すべての単位が何らかの善となり、善の大いなる豊富さが生じ、形相が数であれば形相はすべて善であることになる。反対の元素である多や等しくないものは悪そのものであることになり、一そのもの以外の存在するものはすべて悪を分有し、善が自らを消滅させるものを分有し欲求することになり、悪は可能態における善そのものであることになる。これらの不合理は、あらゆる原理を元素とし、反対のものを原理とし、一を原理とし、数を第一の実体であり分離されたものであり形相であるとすることから帰結する。
第五章 したがって、原理も第一の実体も正しく説明されていない。動物や植物にならって、限定されていない不完全なものから完全なものが生じるとして、一そのものは存在するものでさえないとする人も正しくない。この世においても、人間が人間を生むのであり、種子が第一のものではない。場所を数学的な立体と同時に作り出すことも不合理である。場所は個々のものに固有であるが、数学的対象はどこかにあるものではない。数が原理から成るとして、それは混合によってか、音節のような合成によってか、種子から生じるような仕方でか、存続しない反対のものから生じるような仕方でか。反対のものから成るものは消滅するのに、なぜ数は消滅しないのか。また数は限界として実体の原因であるのか。エウリュトスは小石によって植物の形をかたどり、この数は人間の、この数は馬の数であると定めた。しかし比が実体であり、数は質料である。肉や骨の実体は、火が三つで土が二つであるというような混合の比であり、それはもはや数ではない。したがって数は、作り出すものとしても、質料としても、定義式や形相としても、目的としても原因ではない。
第六章 混合が計算しやすい数や奇数のうちにあることから、何の善が生じるのか。蜂蜜水は三の三倍の割合で混ぜられても少しも健康によくならず、比のうちになくても水で薄められているほうが有益であろう。太陽や月の移動にも、動物の生涯にも数があるが、同じ数が付帯すれば、太陽と月とが同じものであったことになる。母音は七つであり、音階は七つの弦であり、プレイアデスは七つであり、テーバイに攻め寄せた者たちは七人である。しかしそれはこの数の本性のゆえではなく、あの人々は門のゆえにそうなったのであり、プレイアデスは我々がそう数えるにすぎない。ΞとΨとΖとが協和音であり三つであると主張する人々は、小さな類似は見るが大きな類似は見過ごす、昔のホメロス解釈者たちに似ている。
ただし、ある意味では、彼らは善が属していること、そして奇数やまっすぐなものや数の冪が美の系列に属することを明らかにしている。しかしそれらは偶然の一致に似ている。付帯的なものではあるが互いに固有のものであり、類比によって一つである。長さにおいてまっすぐなもの、幅において平らなもの、数において奇数、色において白いものが類比的である。形相のうちにある数は協和音の原因ではない。彼らが数の生成に多くの苦労をし、いかなる仕方でもつなぎ合わせることができないことは、数学的対象が感覚されうるものから分離されたものではなく、それらが原理ではないことの証拠であるように思われる。
本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。
『知恵(ソフィア)』
第一の原因と原理とについての知識。第一巻第一章・第二章で、感覚・記憶・経験・技術という段階をたどったうえで、それ自体のために求められ、最も普遍的で厳密であり、他の知識を統率する知識として、この階梯の頂点に置かれる。第十一巻では、この知恵が一つの知識か多くの知識かがあらためて問われる。
『経験(エンペイリア)』
同じ事柄についての多くの記憶から生じる、個々の事例についての知識。カリアスにもソクラテスにもこの治療が効いたと知っている状態であり、そうであるという事実は知っているが、なぜそうであるかは知らない。実践においては、理屈だけをもつ者よりもうまくいくことが多いとされる。
『技術(テクネー)』
経験によって得られた多くの着想から、類似の事柄についての一つの普遍的な判断が生じたもの。なぜそうであるか、すなわち原因を知っている点で経験と区別され、それゆえ教えることができる。第七巻では、技術によって生成するものは、その形相が魂のうちにあるものとされ、技術は形相であると語られる。
『知識・学問(エピステーメー)』
原因にまで遡って対象を把握する認識。あらゆる知識は、常にそうであるものか大抵の場合そうであるものについてのものであり、付帯的なものについての知識は成り立たないとされる。また知識は普遍的なものについてのものであるが、第十三巻第十章では、可能態においてある知識は普遍的なものを、現実態においてある知識は「これ」であるものを対象とすると語られる。
『原因(アイティア)』
あることがそうであることの理由。第一巻第三章で、実体すなわち本質、質料すなわち基体、運動がそこから始まる源、そして「そのために」すなわち善、の四つの意味で語られる。第一巻全体は、先行する人々がこの四つの原因の外に出ることがなかったことを確かめる検討に充てられ、第五巻第二章では語の意味が一つずつ示される。
『原理(アルケー)』
そこからあるものが存在し、生成し、知られる第一のもの。第五巻第一章で、道の出発点、船の竜骨や家の土台、子にとっての父と母、論証にとっての前提などとして語られる。あらゆる原因は原理であるとされ、第三巻の困難は、この原理が類か内在する要素か、普遍的なものか個々のものかをめぐって立てられる。
『実体(ウーシア)』
それ自体として存立し、他の何ものかについて語られることのないもの。第七巻第一章で、存在するものとは何かという古来の問いは、実体とは何かという問いであるとされる。本質・普遍・類・基体の四つの意味が検討され、第七巻第十七章で、質料がしかじかのものであることの原因である形相こそが実体であるとされる。第十二巻では、永遠で不動の実体が論証される。
『質料(ヒュレー)』
あるものがそこから生成する、それ自体は存続する基体。青銅が彫像の質料であるように語られる。それ自体としては、それが何であるかも量であることも語られないものであり、可能態において「これ」であるものとされる。感覚される質料と、数学的対象のうちにある思惟される質料とが区別される。
『形相(エイドス)』
それによって質料がしかじかのものであるところの原因であり、それぞれのものの本質と第一次的な実体。形相そのものは生成せず、生成するのは形相と質料とから成る複合体であるとされる。プラトンの文脈でも同じ語が用いられ、形相を個々のものから分離して立てる説は、第一巻第九章と第十三巻で批判される。
『現実態(エネルゲイア)』
事柄が、可能態にもとづいて語られるのとは違った仕方で現に存すること。第九巻で、現に建築している者が建築の可能態をもつ者に対するように、類比によって示される。現実態は定義式においても実体においても可能態より先であり、「現実態」という語は「働き」にもとづいて語られ、「完成態」へと向かうとされる。
『可能態(デュナミス)』
他のもののうちに、あるいは他のものであるかぎりにおいてある、変化の原理。能力とも語られる。理性を伴う可能態は反対のもの双方についてのものであり、可能態にあるものは、存在することも存在しないこともありうる。それゆえ、永遠なるもののうちには、可能態においてあるものは何もないとされる。
『本質(ト・ティ・エーン・エイナイ)』
それぞれのものが、それ自体として語られるところのもの。その定義式が定義である。第七巻第四章から第六章で、本質は第一次的には実体に属し、それ自体として第一次的に語られるものについては、それぞれのものとその本質とは同一であるとされる。
『付帯性(シュンベベーコス)』
あるものに属し、そう語ることが真ではあるが、必然的にでも大抵の場合にでもないもの。植物を植えようと穴を掘って宝物を見つけることがその例として語られる。付帯的なものには限定された原因がなく、それについての知識も成り立たないとされる。
『イデア』
プラトンが、感覚されるものとは別に、それ自体として存在するとしたもの。感覚されるものは、これへの分有によって同じ名をもつとされる。第一巻第九章、第七巻、第十三巻で、原因を捉えようとして数の等しい別のものを持ち込むこと、運動の原因にならないこと、「第三の人間」を招くことなどが難点として挙げられる。
『通約可能・通約不可能』
二つの量が共通の尺度によって測り切れるかどうか。第一巻第二章で、対角線が辺と通約不可能であることに人々は驚くが、幾何学者にとっては、対角線が計測可能になることほど驚くべきことはないとして、知恵の獲得が探求の出発点とは正反対の状態に落ち着くことを示す例として語られる。
『困難(アポリア)』
思考が、縛られている者のように、どちらへも進むことのできない状態。第三巻第一章で、後に得られる解消とは以前の困難の解決にほかならず、結び目を知らずしてこれを解くことはできないとして、探求に先立って困難をあらかじめ吟味すべきことが語られる。第三巻は、以後の巻で扱われる困難を列挙し検討することに充てられる。
『最も確実な原理(無矛盾律)』
同一のものが、同一のものに、同一の観点において、同時に属し、かつ属さないということは不可能である、とする原理。第四巻第三章で、あらゆる原理のうちで最も確実な原理として示され、第四章以下で、これを否定する者に対する論駁が展開される。第十一巻第五章でも再論される。
『矛盾するものの中間には何も存在しないこと(排中律)』
矛盾するものの中間には何も存在せず、いかなるものについても、その一方を必然的に肯定するか否定するかしなければならない、とする原理。第四巻第七章で、真と偽とが何であるかを規定することから論じられる。
第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
アリストテレスにおいて、物とは何かという問いは、別のかたちで立てられている。古来、いまも、そして常に探求され、常に困難とされてきたのは、存在するものとは何か、すなわち実体とは何かという問いであった。物の定義は、この実体の探求のうちに求められる。
以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。
『物とは、質料と形相とから成る実体であり、可能態において「これ」であるにすぎない質料が、形相によって、現実態において「これ」であるものとして成り立ったものである。』
物は常に何かから生成する。青銅から彫像が、木材から寝台が生じる。場所であれ量であれ質であれ、変化するものには、変化を通じて存続する何かがなければならない。それ自体としては、それが何であるとも、どれほどであるとも語られず、そこからものが生成し、そこへと消滅していくもの、これを『質料』と呼ぶ。
しかし青銅そのものは彫像ではなく、煉瓦や石そのものは家ではない。煉瓦や石が家であるのは、それらがしかじかに置かれているからである。音節は、分解されればもはや存在しないが、字母は存在する。音節は字母だけでなく、それ以外の何かでもある。質料がしかじかのものであることの原因、これが『形相』である。形相そのものは生成しない。作る者が作るのは青銅の球であって、球そのものではない。
質も量も、何かについて語られるのであって、それ自体で分離して存在するのではない。歩くことではなく歩いているものが、白さではなく白い人間が存在する。他のものがそれについて語られ、それ自体は分離しうるもの、これが『実体』である。そして、この肉と骨とにおける、しかじかの形相としての全体が、カリアスでありソクラテスである。物とは、質料と形相との両者から成る実体である。
質料だけを取り出すなら、それはまだ何ものでもない。木材は箱になりうるが、まだ箱ではない。土は種子になり、種子は人間になりうるが、そのときにもまだ人間ではない。質料は、現に何かであることによってではなく、何かになりうることによってある。これが『可能態』においてあるということである。それゆえ質料は、『「これ」』でありうるが、まだ「これ」ではない。「これ」であり、分離しうることは、何よりも実体に属するからである。
家を石や煉瓦や木材であると語る者は、可能態における家を語っている。財産や身体を保護する覆いであると語る者は、家がそれであるところのものを語っている。可能態における球が現に球であることには、それを動かしたもののほかに、別の原因は存在しない。それこそが、両者それぞれにとっての本質だったからである。究極の質料と形相とは同一で一つのものであり、一方は可能態において、他方は『現実態』においてそうなのである。それゆえ物は、質料と形相との寄せ集めではなく、一つのものである。
作品名:アリストテレス『形而上学』を知るための本
発行責任者(著者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-opus-5-5)
参照原典:ギリシア語原典『Τὰ μετὰ τὰ φυσικά(形而上学)』(W. D. Ross編、Oxford: Clarendon Press、1924年、Oxford Classical Texts)
初版発行日:2026年9月25日
本書の本文・解説その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。
注記:本書が参照する原典は、アリストテレス『形而上学』(Τὰ μετὰ τὰ φυσικά)のギリシア語原典である。本書の制作において直接参照した版は、W. D. Ross編のOxford Classical Texts版(Clarendon Press、1924年刊行)である。本文の位置は、ベッカー版アリストテレス全集(1831年刊行)の頁・欄による通し番号で示すのが、現代のアリストテレス研究における慣例である。
本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTMLが存在する場合は、術語および論証骨格の照合基準として当該翻訳HTMLを参照して制作している。
本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。