アンリ・ベルクソン(Henri Bergson)。1859年、フランスのパリに生まれ、1941年、パリで没した。高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)で学び、リセの教師を務めたのち、1900年からコレージュ・ド・フランスで教えた。1889年に意識に直接与えられたものについての試論、1896年に物質と記憶、1907年に創造的進化を刊行した。1927年にノーベル文学賞を受けた。
原典言語:フランス語
原典名:創造的進化(L’Évolution créatrice)
初版は1907年に、パリで刊行された。本書が対象とするのは、序論と第一章から第四章までである。底本は、Félix Alcan 版(Paris, 1908)の第4版であり、扉に「Quatrième édition」とあるものである。
本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。第Ⅰ部は、原典のうち序論と第一章から第四章までを対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。原注は収録していない。
本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ5割程度である。
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序論 生命の進化の歴史は、知性が脊椎動物の系列を通って人間に至る一本の線に沿い、とぎれのない進歩によって形づくられたことを垣間見させる。それは、理解する能力が行動する能力の付属物だということ、すなわち生きものの意識が生存の条件にいっそう精密に適応してゆくことを示す。そこから、われわれの知性は、身体を環境にはめ込み、事物が互いに結ぶ関係を表象するために、要するに物質を思考するために定められている、という帰結が生じる。知性は固体のあいだでくつろぐ。固体においてわれわれの行動は支点を見いだし、工作は道具を見いだし、概念は固体の像に似せて形づくられ、論理はなによりも固体の論理である。それゆえ知性は、論理的思考と生命のない物質との類縁が現れる幾何学で勝利を収める。
しかし、そこからは逆のことも帰結する。純粋に論理的な形式におけるわれわれの思考は、生命の真の本性、進化の運動の深い意味を表象できない。定められた事物に働きかけるために生命がつくった思考が、自らがその一つの相でしかない生命を包みこめるはずがない。それは、浜に残された小石が、それを運んできた波の形を描くと言い張るようなものである。統一、多様性、機械的因果性、知的な目的性といった範疇は生命の事物に正確には当てはまらず、どの枠に入れようとしても、生きているものに対して枠は硬すぎて壊れる。生命がどのように事を運ぶかを経験がついに示したとき、その仕方はたいてい思いつきもしなかったものである。
それでも進化論の哲学は、生の物質に成功した説明の手続きを生命の事物へ広げる。この哲学は、知性を、行動のために開かれた狭い通路を照らす偶然の微光として示すことから始めながら、突然、地下道の奥で操られるこの角灯を、世界を照らす太陽にしてしまう。やがて論理の矛盾にぶつかると、再構成するのは実在そのものではなく象徴的な像だと言い、不可知なものの前で立ち止まろうと言う。だが、あれほど高慢だったあとでは、これは謙遜が過ぎる。知性的な形が物体と環境との作用と反作用に型を取って形成されたのなら、物体の本質について何かを与えないはずがなく、成し遂げられる行動に向かって張りつめた知性は、絶対者の何ものかに触れている。困難や矛盾が生じるのは、われわれの枠がそのためにつくられていない生命に、思考の習慣的な形式を当てはめるからである。
生命の本性を掘り下げることを断念し、悟性が与える機械論的な表象にとどまるべきなのか。この表象は、生命の全体的な活動を、その部分的で局所的な現れにすぎない人間の活動の形に縮める点で、人工的で象徴的である。生命が潜在力のすべてを、幾何学者を準備することに使い尽くしたのなら、そうするほかない。だが、人間に至る線だけが唯一の線ではなく、ほかの分かれた道の上で、ほかの形の意識が発達した。それらを互いに近づけ、さらに知性と融合させれば、生命と同じ広がりをもつ意識が得られ、背後に感じる生命の推進へ急に身を転じて、その全体的な視像を得られるのではないか。
それでも、見るのはやはり知性によってではないかと言われるであろう。しかし、われわれの概念的で論理的な思考のまわりには、知性という光る核がそれを犠牲にして形成された、漠とした星雲状のものが残っており、そこに悟性を補う能力が宿っている。それらが自然の進化のなかで働く自分自身を認めるとき、明るく照らされ、生命の向きそのものに広がるための努力を学ぶであろう。
認識の理論と生命の理論は、互いに切り離せない。認識の批判を伴わない生命の理論は、悟性の概念と枠をそのまま決定的と見なし、得られるのは便利な象徴体系であって、対象の直接の視像ではない。知性を生命の進化のなかに置き直さない認識の理論は、枠がどう形づくられ、どう超えられるかを教えない。二つは出会い、循環する過程で互いを押し進めなければならず、成功すれば、知性の形成と物質の発生に立ち会い、スペンサーの偽の進化論に代えて真の進化論を置くことになる。偽の進化論は、進化した現在の実在を小さな断片に切り分けて組み立て直し、説明すべきもののすべてを前もって与えてしまう。真の進化論は、実在をその発生と成長において追う。
この哲学は、多くの思想家と観察者の集合的で漸進的な努力によってしか成らず、本書は、方法を定め、その適用の可能性をかいま見させるにとどまる。第一章では、悟性が自由に使える二着の既製服、機械論と目的性を進化にあててみて、どちらも合わないことを示す。ただし、そのうち一方は、裁ち直し縫い直せば、新しい形でなら、他方よりはましに合うかもしれない。第二章では、人間に至る線のほかに生命の大きな進化の線を再構成し、知性を、それを生んだ原因のなかに置き直す。第三章では、その原因をそれ自体において捉え、運動のなかで追うことを、ごく不完全ながら試みる。第四の最後の部では、悟性が規律に従うことで自らを超える哲学をどう準備しうるかを示すため、諸体系の歴史を一瞥し、思弁が陥る二つの大きな錯覚を分析する。
第一章 生命の進化について 機械論と目的性 われわれが最も確信し、最もよく知っているのは、われわれ自身の存在である。それでは、この特権的な場合に、「存在する」という語は正確には何を意味するのか。以前の著作の結論を手短に思い出しておこう。私は、自分が状態から状態へ移ってゆくことを確かめる。暑かったり寒かったり、陽気だったり悲しかったり、働いていたり何もしていなかったりする。感覚、感情、意志作用、表象が、私の存在に代わるがわる色を付ける。私は絶えず変化している。だが、変化は思われているよりはるかに根本的である。
私は自分の状態の一つ一つを、まるで一つの塊であるかのように語り、変化はある状態から次の状態へ移るところにあると考える。しかし、少し注意すれば、絶えず変様しない情動も、表象も、意志作用もないことが分かる。最も安定した、動かない外的対象の視覚的知覚でさえ、同じ側から同じ光のもとで眺めても、いま持ったばかりの視覚とは異なる。一瞬だけ古くなっており、記憶がこの過去を現在に押し込んでいるからである。私の心の状態は、時間の道を進みながら拾い集める持続によってふくれあがる。いわば自分で雪だるまをつくる。感覚、情動、欲望のように外的対象に対応しない状態では、なおさらそうである。ただ、この絶え間ない変化は、身体に新しい態度、注意に新しい向きを刻むほど大きくなってからはじめて気づかれる。真実は、われわれは絶えず変わっており、状態そのものがすでに変化だということである。
それゆえ、ある状態から別の状態へ移ることと、同じ状態にとどまり続けることとのあいだに、本質的な違いはない。移行は連続している。心理的生命が不連続に見えるのは、注意が不連続な作用でそれに固着するからであり、ゆるやかな傾斜に、注意の作用が描く折れ線をたどって階段の段を認めているにすぎない。千の出来事が、先行するものから切り離されて起こるように見えても、その不連続は連続した背景の上に浮かび、間隔そのものもその背景に負っている。交響曲のところどころで鳴り響くティンパニーの打音のようなものである。一つ一つは、われわれが感じ、考え、欲するすべてを含む動く帯域の、最もよく照らされた点にすぎず、状態を構成するのはこの帯域の全体であって、区別された要素ではない。
注意はこれらを人為的に切り離したので、人為的な絆で結ばざるをえず、形のない不変の自我を想像する。その上を、独立した実体に格上げされた心理的状態が行列をなして通るというのである。互いに侵しあう陰影の流れに、注意は固体の色を認めて首飾りの真珠のように並べ、それをつなぐ固体の糸を想定する。だが、この無色の基体は、覆うものによって絶えず色づけられるのだから、それ自体は存在しないに等しい。変わらない自我も、次の状態に取って代わられるまで同一のままの状態も、持続しない。固体に固体を並べても、流れる持続は決して生まれない。得られるのは、論理と言語の要求によく応じる、内的生命の静的な模倣であり、まさに実在の時間を取り除いたものである。心理的生命そのものを、象徴の下で展開するとおりに見れば、時間がその生地そのものであることが分かる。
この生地より強靭で実質のあるものはない。持続は一瞬に取って代わる一瞬ではなく、そうであれば、いつも現在しかなく、進化も具体的な持続もないからである。持続とは、未来を蝕み、進むにつれてふくらむ、過去の連続的な進行である。過去は絶えず増大するので、際限なく保存される。記憶は、思い出を引き出しに分類し台帳に記入する能力ではなく、台帳も引き出しもない。過去はひとりでに自動的に保存され、全体があらゆる瞬間にわれわれについてくる。幼年期以来われわれが感じ、考え、欲したものは、これから加わる現在の上にかがみこみ、意識の扉に押し寄せている。脳の機構は、そのほとんど全部を無意識に押し戻し、現在の状況を照らし、準備されつつある行動を助ける有用なものだけを意識に導き入れる。せいぜい、贅沢な思い出が、半ば開いた扉から密輸入されるように入ってくる。われわれの性格とは、誕生以前から生きてきた歴史の凝縮にほかならない。過去のごく小さな部分でしか考えないとしても、欲し、意志し、行動するのは、原初の心の傾きを含めた過去の全体による。過去は全体が傾向の形で現れ、そのごくわずかな部分だけが表象となる。
この過去の存続から、意識は同じ状態を二度通ることができないと分かる。状況が同じでも、それが働きかける人格は、歴史の新しい時点でとらえられた別の人格だからである。それゆえ持続は不可逆であり、そのうちの一片も生き直せない。そのためには、それ以後のすべての記憶を消さなければならない。
人格は絶えず成長し成熟し、各瞬間は、以前にあったものに付け加わる新しいもの、しかも予見できないものである。現在の状態は、先ほど私のうちにあったものによって説明される。だが、人間を超えた知性でさえ、これらの抽象的な要素に具体的な組織を与える、単純で不可分な形を予見できない。予見とは、過去に知覚したものを未来に投影し、すでに知覚された要素の新しい組み合わせを表象することだが、一度も知覚されたことのない単純なものは、予見できないからである。完成した肖像は、モデルの顔つき、芸術家の本性、パレットの絵具で説明される。しかし、それらを知っていても、芸術家自身さえ、肖像がどうなるかを予見できない。予言することは、生み出される前に生み出すことだからである。われわれの人生の各瞬間も、それぞれが一種の創造であり、状態の一つ一つは、われわれから生まれると同時に、人格を変える。われわれが行うことはわれわれのあり方に依存するが、われわれは、ある程度まで自分が行うことそのものであり、絶えず自分自身を創造している。幾何学では前提は一度限り非人格的に与えられるが、ここでは同じ理由が、異なる人格に、あるいは同じ人格に異なる時点で、深く異なる行為を命じうる。それは全く同じ理由ではないからである。こうして、意識をもつ存在にとって、存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは際限なく自分自身を創造することだ、と分かる。では、存在一般についても同じことが言えるのか。
任意の物質的対象は、逆の性格を示す。それはあるがままにとどまるか、変化するときには、それ自体は変化しない部分の移動として表象される。部分が変化するなら、それをさらに細分し、断片から分子へ、原子へ、微粒子へ、渦巻きによって形成されるとされる「不可秤量なもの」まで降りてゆき、不変のものの前でしか止まらない。複合した対象は部分の移動によって変化する以上、動いた部分が元の位置へ戻ることを妨げるものはなく、集まりの一つの状態は何度でも繰り返され、集まりは老いず、歴史をもたない。そこでは何も創造されない。集まりがこれからどうなるかは、現にあるもののなかにすでに現前している。人間を超えた知性ならば、どの瞬間にも系のどの点の位置も計算でき、将来の形は、現在の配置のなかに、理論上は見えている。
対象についてのわれわれのあらゆる信念も、科学が孤立させる系に対するあらゆる操作も、時間がそれらに食い込まないという考えに基づいている。科学が物質的対象や孤立した系に帰する抽象的な時間tは、一定数の同時性、もっと一般的に言えば対応からなるにすぎず、対応同士を隔てる間隔がどのような性質でも、この数は同じままである。常識は切り離された対象しか扱わず、科学は孤立した系しか考えず、どちらも間隔の両端に立ち、間隔そのものに沿っては立たない。それゆえ、時間の流れが無限の速さを取り、物質的対象の過去、現在、未来のすべてが一挙に空間に広げられたと想定しても、学者の公式も常識の言葉も変える必要がない。
それでも、継起は物質界においてさえ否定できない。砂糖水を一杯つくろうとすれば、砂糖が溶けるのを待たなければならない。この小さな事実は教えに満ちている。私が待たなければならない時間は、物質界の全歴史が一挙に広げられても同じように当てはまるはずの数学的時間ではなく、私の焦燥と一致する、意のままに延ばしたり縮めたりできない私自身の持続の一部分である。それは思考されたものではなく生きられたものであり、関係ではなく絶対的なものである。つまり、コップの水も砂糖も溶解の過程も抽象であり、それらを私の感覚と悟性が切り出した元の全体が、意識のように進行しているのである。
科学が系を孤立させ閉じる操作は、全く人為的なものではない。物質は、幾何学的に扱える孤立可能な系を構成する傾向をもち、われわれが物質を定義するのはまさにこの傾向による。しかしそれは傾向にすぎず、孤立は決して完全ではない。科学は、孤立した系がなお外的な影響を受けることを暗に認め、それを無視してよいほど弱いと見るか、あとで考慮に入れることを留保する。それらの影響は、その系をより広い系に、さらにそれを包む第三の系に結ぶ糸であり、太陽系の全体に至る。ここでも孤立は絶対でなく、太陽は最も遠い惑星の向こうまで熱と光を放射し、宇宙の残りに結ぶ糸は非常に細くても、その糸に沿って、宇宙の全体に内在する持続が伝わる。
宇宙は持続する。持続とは発明であり、形の創造であり、絶対に新しいものの連続的な練り上げである。科学が区切る系が持続するのは、宇宙の残りと切り離せないからにすぎない。宇宙のなかには、のちに述べるように、反対の二つの運動、「下降」と「上昇」を区別しなければならない。前者は、用意された巻物を繰り広げるにすぎず、ゆるめられるばねのようにほとんど瞬間的に成し遂げられうる。後者は成熟または創造という内的な仕事に対応し、本質的に持続し、それと切り離せない前者に自らのリズムを課す。
それゆえ、科学が孤立させる系に、持続を、したがってわれわれのものに似た存在の形を帰することを妨げるものはない。ただし全体のなかに再び組み入れるならばである。知覚が区切る対象については、なおさらそうである。対象に個体性を与える明確な輪郭は、われわれが空間のある点で及ぼしうる影響の素描にすぎない。事物の面と稜を認めるとき、鏡のように目に送り返されるのは、われわれの起こりうる行動の設計図である。この行動を取り除けば、物体の個体性は、おそらく実在そのものである普遍的な相互作用のなかに溶け込む。
生の物体は、知覚の鋏によって自然の布から切り出され、その鋏は行動が通る線の点線をたどる。では、この行動を行う物体、現実の行動に先立って、可能的な行動の図を物質の上に投影し、感覚器官を実在の流れに向けて、ほかのすべての物体を確定した形に結晶させる物体、すなわち生きている物体は、ほかの物体と同じ一つの物体なのか。それもまた延長の一部分であり、物質を支配する物理的・化学的法則に従う。しかし、孤立した物体への細分は知覚に相対的で、閉じた系の構成は科学に相対的であるのに対し、生きている物体は自然そのものによって孤立させられ、閉じられている。互いを補い合う異質な部分からなり、互いを含意し合う多様な機能を果たす個体である。結晶にはこれがない。
何が個体で何が個体でないかを決めるのは、有機的な世界でも難しい。個体性は無限の段階をもち、人間においてさえ十全には実現されていない。だが、それは個体性に生命の特徴的な性質を見る妨げにならない。幾何学者のように進む生物学者は、個体性の正確な定義を与える無力に勝ち誇るが、完全な定義が当てはまるのは、でき上がった実在だけである。生命の性質は、つねに実現の途上にあり、状態というより傾向であり、傾向は、ほかの傾向に妨げられない場合にしか、めざすものを得ない。個体化する傾向は有機的な世界のあらゆる場所で、繁殖する傾向に妨げられている。個体性が完全であるためには、切り離された部分が別個には生きられないのでなければならないが、そうなれば繁殖は不可能になる。繁殖とは、古い有機体から切り離された断片で新しい有機体を再構成することだからである。個体性は自分のうちに敵を住まわせ、時間のなかで自らを永続させようとするまさにその欲求が、空間のなかで決して完全ではありえないよう、運命づける。
生命の事物についても、あまりにしばしば生の物質の様態で推論される。ミミズの断片がそれぞれ頭を再生し、ヒドラの断片が新たなヒドラになり、ウニの卵の断片が完全な胚を発生させるのを示され、卵やヒドラの個体性はどこにあったのかと言われる。だが、いま複数の個体性があるからといって、先ほど単一の個体性がなかったことにはならない。家具から幾つもの引き出しが落ちれば、その家具が一体だったとは言えないが、それは、家具の現在は過去より多くのものを含まず、結果に見いだされるものは原因にすでにあったからである。無機の物体、すなわちわれわれが行動するために必要とし、われわれの考え方がそれにならって形づくられた物体は、この法則に支配される。有機的な物体は、絶えず成長し変化することを特徴とし、最初は一つで、のちに複数になることに驚くべきことはない。単細胞の生物の繁殖は、生きものが二つの半分に分かれ、それぞれが完全な個体になるのである。有機体が生存可能な断片に分かれえなくてもよく、断片化の前に部分のある体系化を示し、切り離された断片のなかで同じ体系化が再現される傾向をもてば足りる。個体性は決して完全ではないが、生命は個体性を追求し、自然に孤立し閉じた系を構成する傾向をもつ。
したがって、生きものを対象になぞらえるのは誤りであり、無機のなかに比較の項を求めるなら、生きている有機体を同化すべきは、物質的宇宙の全体である。宇宙全体や意識をもつ存在と同じく、生きている有機体は持続する。その過去はそのまま現在に延び、現在のものとして働いている。そうでなければ、有機体が整えられた段階を通り、年齢を重ね、歴史をもつことを理解できない。私の身体は、私の意識と同じく、幼年期から老年期へ少しずつ成熟し、老いる。生きものの階梯を人間の多細胞の有機体から滴虫類の単細胞の有機体へと下っても、同じ老化の過程が見いだされる。滴虫類は、一定数の分裂ののちに消耗し、環境を変えて接合による若返りの時期を遅らせても、際限なく先延ばしにはできない。ただ、どんな生きものにもそのまま当てはまる普遍的な生物学的法則はなく、あるのは、生命が種一般を投げ入れる方向だけである。それぞれの特殊な種は、自らを構成するまさにその作用のなかで独立を主張し、ときには斜面を逆にたどる。木が老いないことは示しやすい。末端の枝はつねに若く、挿し木で新しい木を生み出す。しかし木は個体というより一つの社会であり、葉と幹の内部では何かが老い、細胞のそれぞれは定まった仕方で進化する。何かが生きているところには、どこかに開かれた台帳があり、そこに時間が記される。
それは比喩にすぎないと言われるであろう。時間に有効な作用と固有の実在を帰する表現をすべて比喩と見なすのは、機械論の本質に属する。意識的存在の根底が、過去の現在への延長、働く不可逆の持続であると直接の観察がいくら示し、推論がいくら示しても、精神の機械論的な本能のほうが強い。われわれが無意識のうちに自分のなかにもつ形而上学者は、できあがった説明と還元できない主張をもち、それらはすべて具体的な持続の否定に帰着する。変化は部分の配置換えに還元されなければならず、時間の不可逆性はわれわれの無知に相対的な見かけだというのである。そうなれば、老化は、ある種の物質を徐々に獲得し、あるいは失うことにしかならず、時間が生きものにもつ実在は、砂時計にもつ実在と同じ程度になる。砂時計は、上の容器が空になるあいだに下の容器が満ち、ひっくり返せば事物を元に戻せる。
誕生から死までに何が得られ何が失われるかについては、意見が一致していない。原形質の容積の増大に注目する人々もいれば、「内部環境」の栄養物質の減少と、排出されずに体を「覆いつくす」残滓物質の増加を言う理論もある。この問題を決める資格はわれわれにない。だが、二つの理論が、ある種の物質の絶えざる蓄積または喪失を主張する点で一致していることは、説明の枠組みが経験に先立って与えられたことを示している。時間を考えるとき、砂時計の像から逃れるのは容易ではない。
老化の原因は、もっと深いところにある。胚の進化と完全な有機体の進化のあいだには途切れない連続があり、生きものを成長させ老いさせる力は、胚の生命の諸段階を通らせたのと同じ力である。老いてゆく有機体を相手にしているのか、進化を続ける胚を相手にしているのかを言えない例が、昆虫や甲殻類の幼生のようにある。われわれの思春期や閉経のような危機も、幼生期の変化と比べうるが、ある年齢に達したから外から唐突に起こるのではなく、誕生以前から、あらゆる瞬間に準備されている。老化のうち厳密に生命的なものは、形の変化の、感知できない、無限に分けられた継続である。有機的な破壊の現象がそれに伴い、機械論的な説明が取りつくのはそれらだが、目に見える結果の下には内的な原因が隠れている。生きものの進化は、胚の進化と同様、持続の絶え間ない記録、過去の現在への存続、少なくとも有機的な記憶の外観を含む。
生の物体の現在の状態は、直前の瞬間に起こっていたことにのみ依存する。無機の物質を支配する法則は、原理上、微分方程式で表現でき、時間は独立変数の役割を果たす。生命の法則もそうなのか。生きている物体を、あらかじめ、化学者や物理学者や天文学者が操作する人工的な系と同一視するなら、そうなる。しかし、天文学や物理学や化学でこの命題が意味するのは、科学にとって重要な現在の幾つかの面が、直前の過去の関数として計算できるということである。生命の領域にはこれに類するものがない。計算が及ぶのは有機的な破壊のある種の現象だけであり、有機的な創造、すなわち厳密に生命を構成する進化的現象を数学的な扱いに従わせる見当さえつかない。その無力は無知に由来すると言われるが、それは、生きている物体の現在が直前の瞬間に存在理由を見いださず、有機体の過去全体、遺伝、非常に長い歴史の総体を加えなければならないことを表してもよい。生物科学の現状はこちらを表している。人間を超えた計算者が生きている物体を太陽系と同じに扱えるという考えは、ガリレオ以来、精密な形をとった形而上学から生まれたが、それはつねに人間精神の自然な形而上学であった。その見かけの明晰さと、それがわれわれの思考に及ぼす誘惑は、むしろ用心へ向かわせるはずである。生まれつきの知性的傾向は、生命が進化の過程で創造せざるをえなかったもので、生命の説明を与えるためとは全く別のことのためにつくられている。
この傾向への反対にこそ、死んだものと生きたものを区別しようとするやいなや、ぶつかる。人工的な系の状態が直前の瞬間にのみ依存すると言うとき、あなたは時間を介入させ、系を持続のなかに置いているのではないか、また、生きものの過去を直前の瞬間に収縮させているのではないか、と言われよう。しかし、直前の瞬間というものはない。数学的な点に隣接する点がないのと同じである。直前の瞬間とは、現在の瞬間と間隔dtで結ばれる瞬間にすぎず、われわれが言うのは、系の現在の状態が、加速度のような微分係数を含む方程式で定義されるということ、傾向とともに取られた現在だけが問題だということである。科学が操作する系は絶えず更新される瞬間的な現在のなかにあり、過去が現在と一体をなす具体的な持続のなかにはない。数学者が時間tののちの系の状態を計算するとき、そのあいだ物質的宇宙が消え去って突然再び現れると想定してもかまわない。重要なのはt番目の瞬間だけであり、そのあいだに流れる実在の時間は計算に入らない。数学者が操作する世界は、瞬間ごとに死んでは再び生まれる世界であり、デカルトが連続創造について語ったときに考えていた世界にほかならない。このように考えられた時間のなかで、現在による過去の現実の継続、つなぎの線である持続を含む進化を、どう表象できようか。生きもの、すなわち自然な系の認識は持続の間隔そのものにかかわるのに対し、人工的な系、すなわち数学的な系の認識は、その端にしかかかわらない。
変化の連続、現在における過去の保存、真の持続。生きものはこれらの属性を意識と分かち合っているように見える。さらに進んで、生命は意識的な活動と同様に発明であり、絶え間ない創造だと言えるだろうか。
そのために変移説の証拠を列挙するつもりはない。ただ、これを、知られている事実の十分に正確な翻訳として受け入れる理由を手短に述べる。変移説の考えは、組織された生物の自然分類のなかに、すでに萌芽としてある。博物学者は、似ている有機体を近づけて群をつくり、群を亜群に分け、その性格を、それぞれの亜群が自分の変奏を奏でる一般的な主題のように見いだす。生むものと生まれるものとの関係もこれと同じで、祖先が子孫に伝える下絵の上に、それぞれが自分の刺繍を施す。同じ生きた物質が魚、爬虫類、鳥の形を順にまとうだけの可塑性をもつのかという問いに、観察は答える。発生のある時期まで鳥の胚は爬虫類の胚とほとんど区別されず、個体は胚の生命のうちに、ある種から別の種へ移るのに比べうる一連の変容を展開する。毎日われわれの目の前で、生命の最も高い形が最も初歩的な形から生まれる。それゆえ、より複雑なものがより単純なものから進化によって生じえたことを、経験は立証する。古生物学が示す種の継起の順序は、比較発生学と比較解剖学が想定させたものと一致し、新しい発見のたびに確証が加わる。ド・フリースの実験は、重要な変異が突然に生じて規則正しく伝わりうることを示し、最大の困難の幾つかをなくした。変移説は厳密には証明されえないが、それを極限として際限なく増大する蓋然性がある。
仮に変移説が誤りで、種が今日われわれの知らない不連続な過程によって生まれたと立証されたとしよう。それでも、分類も、胚学の知見も、比較発生学と比較解剖学の対応も存続する。生物学は同じ類縁を生きた形のあいだに確立し続けることができるが、それは理念上の類縁であって物質的な系譜ではない。しかし古生物学の知見も存続するので、理念上の類縁にある形が同時にではなく順に現れたと認めざるをえない。進化論が哲学者にとって重要なのは、形のあいだに論理的な系譜の関係があるところには、それらが物質化する種のあいだにも年代的な継起の関係がある、と主張する点にある。この二重の主張が存続するなら、やはりどこかに進化を想定しなければならない。種の観念が互いを生み出した創造的な思考のなかに、あるいは自然に内在する生命的組織の計画のなかに、あるいは結果をあたかも一方が他方を生むように展開する生命の未知の原因のなかに。進化は見えるものから見えないものへ移し替えられるにすぎず、変移説の述べることのほとんどは別の仕方で解釈されながら保たれる。それならば、ほとんどすべての学者が唱える変移説の文字どおりのところにとどまるほうがよい。変移説の言語は、いまや哲学にも課されるとわれわれは考える。
そうなれば、生命一般を、すべての生きものを記入する見出しのように語ることはできない。ある時、空間のある点で、目に見える流れが生まれた。この生命の流れは、自らが次々に組織した物体を通り、世代から世代へ移り、種に分かれ、個体に散らばりながら、力を失わず、進むにつれて強まった。ヴァイスマンの「生殖質の連続」説は、極端な形では異論の余地があった。生殖腺が受精卵の分割の時点から素描されるのは例外的だからである。しかし、生殖要素を生む細胞は、まだ特殊な機能的分化を受けていない胚の原形質を犠牲にして形成されるので、生殖質の連続はなくとも、発生的エネルギーの連続はある。このエネルギーは、胚の生命に衝動を与えるのに必要な束の間だけ消費され、できるだけ早く新しい生殖要素のなかで取り戻される。生命は、発達した有機体を介して、胚から胚へ向かう流れとして現れる。有機体そのものは、新しい胚のなかに自らを続けようとする古い胚が突き出させる、こぶ、芽にすぎないかのようである。本質的なのは、目に見えない進歩の際限のない連続であり、目に見えるそれぞれの有機体は、生きることを許された短い時間のあいだ、その上にまたがっている。
生命のこの連続に注意を固定するほど、有機的な進化は意識の進化に近づく。意識では、過去が現在に押し寄せ、先行するものと通約できない新しい形をほとばしらせる。種の出現が正確な原因によることは争えないが、それは、事後にこれらの原因を知れば形を説明できても、予見はできないということである。形が生じる条件は、その形と一体をなし、そのとき生命が歴史のどの時点にあるかを特徴づけるからである。唯一で、まだ生じておらず、二度と生じない状況を、前もって知られていると想定することはできない。未来について予見されるのは、過去に似ているもの、あるいは過去のものに似た要素から再構成できるものだけである。天文学、物理学、化学の事実は、不変の要素が並べられ、位置の変化しか生じず、事物を元に戻すことに理論上の不合理がない系に属する。変異は、あらゆる瞬間に、感知されずに、あらゆる生きものに生じており、今日語られる突然の変異さえ、変わらないように見えた世代を通じて成熟の働きが成し遂げられた場合にしか可能でない。この意味で、生命についても、意識についてと同様に、あらゆる瞬間に何かを創造していると言える。
だが、形の絶対的な独創性と予見不可能性というこの考えに、われわれの知性は反発する。知性は、行為を照らし、与えられた状況に続く出来事を予見することを本質的な機能とするので、状況のなかから、すでに知られたものに似ているものを本能的に孤立させ、「同じものは同じものを生む」という原理を適用しようとする。科学はこの操作を可能な最高の精密さまで高めるが、事物から反復の面しか保持しない。全体が独創的なら、科学はそれをほぼ過去の再現である要素に分析する。歴史の相次ぐ瞬間にある、還元できないもの、元に戻らないものは、科学の手を逃れる。この還元不可能と不可逆を思い描くには、思考の基本的要求に応える科学の習慣を断ち、精神に無理を強いて、知性の自然な傾きをさかのぼらなければならない。そこに哲学の役割がある。
それでも、形も予見不可能性も連続も純粋な見かけで、無知の反映にすぎないという考えは残る。独創的な状態という印象を与えるものも、分析すれば既知の事実の反復である要素に分解され、予見不可能な形とは古い要素の新しい配置にすぎない。要素的な原因を知れば生きた形を前もって描けたはずで、生物学的な面を物理化学的な因子に、さらに塊から分子、原子、微粒子へ分解して、一種の太陽系のように扱えるものに行き着くべきだ、と言われる。われわれは、生の物質と有機化された物質の根本的な同一性を争わない。問題は、生きものと呼ぶ自然な系を、科学が切り出す人工的な系に同化すべきか、宇宙の全体という自然な系になぞらえるべきか、である。実在の全体が不可分の連続であれば、われわれが切り出す系は部分ではなく、全体について取られた部分的な見方であり、それをいくつつなぎ合わせても全体の再構成は始まらない。対象の写真を千の異なる面から何枚増やしても、その物質性を再現できないのと同じである。分析が有機的創造の過程に物理化学的現象を見いだしても、化学と物理学が生命の鍵を与えるとは出てこない。
曲線のごく小さな要素はほとんど直線で、極限では直線の一部とも曲線の一部とも言え、曲線はどの点でも接線と一致する。同様に生命力はどの点でも物理的・化学的な力に接するが、これらの点は、曲線を生む運動に停止を想像する精神の見方にすぎない。曲線が直線から成らないのと同じく、生命は物理化学的な要素からできていない。
科学の最も根本的な進歩は、得られた結果を新しい全体に入れ、それらをその全体の運動の連続についての瞬間的な見方とすることにある。近代の幾何学と古代の幾何学の関係がそうである。後者は描かれた図形について操作したが、前者は図形を描く運動の連続、関数の変動を研究する。生物学が対象に迫るのが近代の数学と同じほど近ければ、有機体の物理化学に対する生物学は、古代の幾何学に対する近代の数学の位置を占める。物理学と化学が研究する質量や分子の移動は、並進ではなく変容である生命的運動に対し、空間における動体の運動に対する動体の静止の関係と同じになる。ある生命的作用の定義から、それが含む物理化学的事実へ移る手続きは、関数からその導関数へ、曲線の方程式から接線の方程式へ行く操作に似ているかもしれない。そうなれば、われわれの並進の力学はその特殊な場合となり、変容の力学が成り立つ。同じ微分をもつ関数が定数だけ異なって無限にあるように、物理化学的要素を積分しても作用は部分的にしか決定されず、一部は不確定に残る。これは夢想にすぎないが、われわれの主張が純粋な機械論にどの点で近づき、どう区別されるかを示している。
生きたものを無機のものによって模倣することは、かなり遠くまで進められる。化学は有機物を合成し、細胞の間接分裂や原形質流動の外的な図柄を人工的に再現するまでに至っている。砂糖または食塩を粉末にして非常に古い油を加え、その一滴を顕微鏡で見ると、蜂の巣状の泡が見え、そのなかで原形質流動を思わせる運動が起こり、小房から空気を抜くと、中心体の周囲にできるものに似た引力の円錐が描かれる。アメーバの移動は、戸や窓を開けた部屋のなかでのちりの行き来に比べられ、周囲の水との絶え間ない交換は、多孔質の仕切りで隔てられた容器のあいだの交換に似ているという。偽足は、アメーバが送り出すのではなく、周囲の吸引によって外に引き出される。この説明は、繊毛による滴虫類の運動にまで広げられる。
だが、学者の意見は一致していない。有機物についても、科学が再構成したのは生命活動の廃物であり、活動的で可塑的な物質は合成に抵抗している。ある博物学者は、生きた組織における上昇代謝と下降代謝を区別した。上昇代謝は低いエネルギーを自らの水準にまで高めて組織を築き、生命の機能そのものは同化、成長、繁殖を除いて下降代謝に属し、物理化学が取りつくのはこの死んだものの側だけだという。原形質の外観の模倣に理論上の重要性を認めるべきかは、その物理的構成がまだ確定していないので疑わしい。アメーバや滴虫類のふるまいを間近に観察した人々は、そこに有効な心理的活動の跡を認める。組織学者ウィルソンの結論は、細胞の研究が、生命の最も低い形でさえ無機の世界から隔てる巨大な隔たりを、狭めるどころか広げたというものである。
生きものの機能的活動だけを扱う人々は、レトルトのなかのように生きもののなかで絶えず反復する現象を相手にするので、物理学と化学が鍵を与えると信じがちである。生理学の機械論的な傾向はそこから説明される。これに対して、生きた組織の微細な構造、発生と進化に注意を集中する組織学者、発生学者、博物学者は、レトルトの中身ではなくレトルトそのものを前にしており、それが真の歴史を構成する唯一の一連の作用に沿って自らの形を創り出すと見いだす。彼らは、生命的作用の物理化学的な性格を、生理学者ほど安易に信じない。
基礎的な有機体を化学的に産出できるかについて、肯定も否定も経験の権威を引き合いに出せない。科学はまだ生きた物質の合成に一歩も進んでおらず、ある事実の不可能を実験で証明する手段もないからである。しかし、自然に閉じられた系である生きものを、科学が孤立させる系に同化させることを妨げる理論上の理由は、すでに述べた。アメーバのように進化しない初歩的な有機体では、この理由は弱い。だが、変容の周期をなす複雑な有機体ほど、持続が刻印を残し、持続が浸透せず滑るだけの純然たる機構とは明らかに区別される。証明が最大の力を得るのは、生命の最も慎ましい起源から現在の最も高い形に至る全体的な進化にかかわるときで、この進化は、それを支える生気を与えられた物質の統一と連続によって、ただ一つの不可分の歴史をなす。それゆえ、進化論の仮説が機械論的な考え方と近縁とされることを、われわれは理解できない。持続の考察から引き出すわれわれの反駁は、唯一可能な反駁であり、進化論の仮説に率直に立つほど、厳密で説得力をもつ。
機械論的な説明は、われわれの思考が全体から人為的に切り離す系には妥当するが、全体そのもの、またその像に似て自然に構成される系が機械的に説明可能であると、経験に先立って認めることはできない。そうなれば時間は用がなくなり、存在しないことになるからである。機械的な説明の本質は、未来も過去も現在の関数として計算できるとみなし、すべては与えられていると言い張るところにある。この仮説では、過去、現在、未来は、人間を超えた知性には一挙に見える。ラプラスは、ある瞬間の自然のあらゆる力と存在の位置を知り、それを解析に付すほど広大な知性にとって、最大の物体の運動も最も軽い原子の運動も同じ式に包まれ、未来も過去と同じくその目の前にあると定式化した。デュ・ボワ=レーモンは世界の普遍的過程が連立微分方程式の巨大な体系で表される地点を想像し、ハクスリーは、宇宙の原初の星雲状態の分子の性質を知れば、1868年のグレートブリテンの動物相も、寒い日の呼気の蒸気がどうなるかを言うのと同じ確実さで予言できたと言った。このような学説では、時間はなお語られても、有効な働きがなく、何もしない以上、何ものでもない。徹底した機械論は、実在の全体が永遠のなかに一塊として置かれ、事物の見かけの持続は、すべてを同時に知れない精神の弱さを表すにすぎない、という形而上学を含む。だが持続は、われわれの経験の最も議論の余地のないものであり、さかのぼれない流れとして知覚される、われわれの存在の根底であり、われわれが交わる事物の実質そのものである。体系の要求のために経験を犠牲にはできない。それゆえ、われわれは徹底した機械論を退ける。
徹底した目的論も、同じ理由で受け入れがたい。極端な形では、たとえばライプニッツのように、事物や存在がいったん描かれた計画を実現するにすぎないことを含む。予期しないことが何もなく、宇宙に発明も創造もないなら、時間はここでも無用になり、機械論と同様にすべては与えられていると想定される。こう解された目的論は逆向きの機械論にすぎず、同じ公準に着想を得て、ただ、われわれの有限な知性が事物の見かけの継起に沿って進む行程を導くと称する光を、後ろではなく前に置くだけである。過去の衝動の代わりに未来の引力を置く。ライプニッツでは、時間は混乱した知覚に還元され、事物の中心に置かれた精神にとっては、降りる霧のように消え去る。
とはいえ、目的論は機械論のように輪郭の定まった学説ではない。機械論的哲学は、受け入れるか捨てるかであり、最も小さなちりの粒が力学の予見した軌道から逸れてわずかな自発性を示せば、捨てなければならない。目的因の学説は、一つの形が排除されれば別の形をとり、きわめて伸縮性に富むため、純粋な機械論を退けるやいなやその何ほどかを受け入れることになる。本書の主張も、ある程度までは目的論に与る。だから、そこから何を取り何を捨てるかを、正確に示さなければならない。
ライプニッツ的な目的論を無限に細分して和らげるのは、道を誤っている。宇宙が全体として一つの計画の実現であることは経験的に示せず、組織化された世界にとどまっても、事実は逆のことも語る。自然は生きものを互いに争わせ、秩序の傍らに無秩序を、進歩の傍らに退行を示す。そこで目的論は、取り出された個々の有機体に引き下がった。そこには見事な分業、部分の連帯、無限の複雑さのなかの完全な秩序があり、生きものは自らの実質に内在する計画を実現していないか、というのである。草は牛のために、子羊は狼のためにつくられたという外的な目的性は嘲笑されるが、内的な目的性はあるとされる。生きものはそれぞれ自分自身のためにつくられ、すべての部分は全体の最大の善に協力する。目的論は、一度に一つの生きものしか包まないほどに縮んだ。
だがそれは、むしろ打撃にさらされた。目的性は外的であるか、そうでなければ何ものでもない。最も調和した有機体の要素は、それ自体が一つの有機体でありうる。小さな有機体の存在を大きな有機体の生命に従属させるとき、われわれは外的な目的性の原理を受け入れている。有機体の組織はそれぞれ自分のために生き、組織をつくる細胞にも一定の独立がある。自らを養う有機体を攻撃するほど独立する食細胞や、体細胞の傍らに固有の生命をもつ生殖細胞、そして再生の事実がそれを示す。再生では、平常時は小さな場所で特殊な機能を果たすだけの要素の群が、全体に等しいものと自らを見なしさえする。
そこに生気論のつまずきの石がある。「生命原理」はたいしたことを説明しないが、少なくとも無知の上に立てられた立て札として、それを思い出させてくれる利点があり、機械論はそれを忘れさせる。ただ、生気論が難しくなるのは、自然のなかに、純粋に内的な目的性も、絶対にはっきり区切られた個体性もないからである。個体の構成要素は、それ自体が個体性をもち、それぞれが自分の生命原理を要求するであろう。個体そのものも、固有の生命原理を認められるほど、残りから孤立していない。最も個体化された高等脊椎動物でさえ、母の身体の一部であった卵子と父の身体に属した精子の発達にすぎず、二人の親の結合した身体の上に生えた芽である。個体の生命原理はどこで始まりどこで終わるのか。さかのぼれば、最も遠い祖先、生命の系統樹の根にある原形質のゼリーの小さな塊に至り、分かれた子孫の道によってそこから離れたすべてのものとも連帯する。見えない絆によって、生きものの全体とつながったままである。それゆえ、目的性を生きものの個体性に狭めるのはむなしい。生命の世界に目的性があるとすれば、それは生命全体を一つの分けられない抱擁で包むものである。目的性の端的な否定か、各々の生きものをほかのすべてのものの全体に調整する仮説か、選ばなければならない。生命に内在する目的性の仮説は、全面的に退けるか、全く別の意味で修正しなければならない。
徹底した目的論の誤りは、徹底した機械論と同様に、われわれの知性に自然な概念の適用を遠くまで広げすぎることである。われわれは行動するためにしか考えず、知性は行動の鋳型に流し込まれた。行動するために、まず目的を立て、計画をつくり、それを実現する機構の細部に移る。そのためには自然から類似を取り出し、因果律を適用しなければならず、作用因の観念がはっきりするほど、機械的因果性の形をとり、数学的になる。しかしこの自然の数学は、同じ原因を同じ結果に結びつけるわれわれの意識的な習慣の無意識の支えにすぎず、その習慣は、一つの模型の実行をめざして運動を指揮することを目的とする。われわれは幾何学者として生まれるように職人として生まれ、職人であるからこそ幾何学者なのである。自然を数学的法則に支配された巨大な機械と思い描くにせよ、一つの計画の実現と見るにせよ、同じ生命的必然に起源をもつ精神の二つの傾向を、最後まで追っているにすぎない。
それゆえ徹底した目的論は、徹底した機械論のすぐ近くにある。どちらも、生命の発達に予見不可能な形の創造を見ることを嫌う。機械論は実在から類似と反復の面しか考えず、幾何学が現れるほど、形だけでも何かが創造されることを認めがたくなる。芸術家であるかぎりは予見不可能なものを受け入れうる。芸術は創造に生き、自然の自発性への隠れた信仰を含むからである。しかし利害を離れた芸術は純粋な思弁と同様に贅沢であり、われわれは芸術家になるはるか前に職人である。あらゆる製作は、再生産しようと意図する模型の上で働き、発明するときにも既知の要素の新しい配置によって進む。その原理は「同じものを得るには同じものが必要である」ということである。目的性の原理の厳密な適用は、機械的因果性の厳密な適用と同じく、すべては与えられているという結論に導く。二つの原理は同じ欲求に応え、二つの言語で同じことを言う。
二つはまた、時間を白紙に戻すことでも一致する。実在の持続とは、事物に食い込み、そこに自分の歯形を残すものである。すべてが時間の中にあるなら、すべては内から変わり、同じ具体的な実在が繰り返されることはない。反復が成り立つのは、感覚、とりわけ知性が実在から切り取った面についての抽象の中だけである。われわれの行動は反復のあいだでしか動けず、知性はそこに集中して、同じものを同じものに溶接することだけに心を砕き、時間の視像から目をそらす。流れるものを嫌い、触れるものすべてを固体にする。われわれは実在の時間を思考しないが、生きる。生命は知性を超えてあふれている。純粋な持続のなかでのわれわれの進化と、あらゆるものの進化についてのわれわれの感じは、厳密な意味での知性的な表象のまわりに、夜のなかに消えてゆく不明確な縁を描く。機械論と目的論は、中心で輝く光る核だけを考慮に入れ、この核が凝縮によって残りを犠牲にして形成されたこと、生命の内的な運動を捉え直すには、凝縮したものと同じ程度に、あるいはそれ以上に、流動するものを用いなければならないことを忘れている。
縁が存在するなら、たとえ不明瞭でも、哲学者にとっては光る核よりも重要である。その存在が、核は核であること、純粋な知性はより広大な力が凝縮によって狭まったものであることを、主張させるからである。そしてこのぼんやりした直観は、実在の表面に局在する事物への行動を導くのに役立たないので、表面ではなく深いところで働くと推定できる。
機械論と徹底した目的論がわれわれの思考を閉じ込める枠から出れば、実在は新しいものの途切れない噴出として現れる。その一つ一つは、現在をなすために現れるやいなや過去へ退き、その目が永遠に後ろへ向けられている知性の視線の下に落ちる。われわれの内的生活がすでにそうである。どの行為にも、機械的な合力のような先行条件を見いだせ、意図の成就だとも言える。しかし、行為がわれわれの人格の全体にかかわるかぎり、成し遂げられたあとで先行条件がそれを説明しても、予見されえなかった。意図を実現しながら、現在の新しい実在である行為は、過去のやり直しまたは並べ替えでしかありえなかった意図とは異なる。機械論と目的論は、行為についての外的な見方にすぎず、行為はその二つのあいだをすり抜ける。これは自由な行為が気まぐれだという意味ではない。気まぐれに行動するとは、できあがった二つ以上の方針のあいだを機械的に揺れ動いて、その一つに定まることであり、意志に知性の機構を模倣させたことである。真にわれわれのものである行為は、進化しながら、徐々の成熟によって、知性が際限なく理解可能な要素に分解できるが完全にはそこに至らない行為に行き着く。自由な行為は観念と通約できず、その合理性は、この通約不可能性によって定義される。これがわれわれの内的進化の性格であり、おそらく生命の進化の性格でもある。
われわれの理性は思い上がっている。真理の認識の本質的な要素のすべてを、生まれながらの権利によってか征服の権利によってか、すでに所有していると思い込み、提示された対象を知らないと認める場合でも、無知はただ、どの古い範疇が新しい対象にふさわしいかという問題にかかわるだけだと信じている。どの引き出しに入れようか、すでに裁断された衣服のどれを着せようか。そして新しい対象のために、全く新しい概念、おそらく新しい思考の方法をすっかり創らなければならないかもしれないという考えを、深く嫌がる。だが哲学の歴史は、体系の永遠の争いと、できあいの概念という既製服のなかに実在を決定的に入れることの不可能、あつらえで仕事をする必要を示している。この極端に至るくらいなら、理性は誇り高い謙遜をもって、自分が知るのは相対的なものだけで絶対者は手に負えないと告げ、絶対者には触れないという口実の下に、習慣的な思考の方法であらゆるものについて絶対的に断じる。実在を知るとはそのイデアを見いだすこと、すなわち、すでに手元にあるはずの既存の枠のなかに入れることだと、理論として打ち立てたのはプラトンが最初である。ある意味で、われわれはみなプラトン主義者として生まれる。
この方法の無力は、生命の理論ほどはっきり現れる場所はない。生命が、脊椎動物、とりわけ人間と知性の方向に進化することで、この組織化の様式と両立しない多くの要素を道中で捨て、別の発達の線に託したのなら、生命的活動の本性を捉え直すには、それらの要素の全体を探し求め、知性と融合させなければならない。明晰な知性的表象を取り巻く、混乱した表象の縁もわれわれを助ける。この無用な縁は、われわれの組織化の特殊な形に狭まらず、密輸入されて通った進化する原理の一部でなくて何であろうか。思考の知性的な形を広げる指示を求めに行くべきは、そこであり、われわれが自分自身を超えて身を高めるのに必要な躍動を汲み取るのも、そこである。部分が全体に、生命的作用の残りかすが作用そのものに等しくなれないように、生命の全体の表象は、生命が進化の過程でわれわれのうちに置いた単純な観念を組み合わせてもできない。それなのに、進化を「同質から異質への移行」のような、知性の断片から得た概念で定義するとき、われわれは進化の到達点の一つに立ち、その部分の部分を、全体を超えて溢れる進化の運動の代表だと宣言している。知性の全体を取っても足りず、進化のほかの各到達点に見いだすものを知性に近づけ、それらを互いに補い合う多様な抽出物として考えて、はじめて進化の運動の本性を予感するにとどまる。われわれは結果である進化したものを相手にしており、結果が得られる作用を相手にしていないからである。
われわれが向かう生命の哲学は、機械論と目的論をともに超えようとするが、最初に述べたとおり、第一の学説より第二の学説に近い。目的論と似た点と異なる点を示しておく。徹底した目的論と同じく、組織化された世界を調和した全体として表象するが、この調和は言われてきたほど完全でない。種も個体も、生命の全体的な衝動のうち一定の躍動しか保持せず、このエネルギーを自分の利益のために使うので、衝突が起こりうる。適応はそこにある。調和は事実としてではなく権利として存在する。原初の躍動は共通のもので、さかのぼるほど傾向は互いに補い合うものとして現れる。交差点に吹き込む風が分岐する気流に分かれても、そのすべてが一つの同じ息であるのと同じである。調和、むしろ相補性は、状態よりも傾向において現れ、目的論が最も重大に誤ったのは、調和が前方にあると見たことで、それは後方にある。共通の志向ではなく、衝動の同一性に由来する。生命に人間的な意味での目的を割り当てることは、あとは実現されるだけの先在する模型を思い、すべては与えられ未来は現在のなかに読めると想定することであり、生命が知性と同じように進むと信じることである。知性は生命についての動かない断片的な見方で、つねに自然に時間の外に身を置く。生命は進み、持続する。すでに歩まれた道に一瞥を投げて、あたかも目的の追求があったかのように語ることはできる。しかし、これから歩まれる道は、それを歩む作用につれて創られるのであり、その作用そのものの方向にすぎない。目的論的な解釈は、未来の先取りではなく、現在の光に照らして過去を見る見方である。古典的な目的論は、広すぎ、狭すぎる。生命を知性によって説明することで生命の意味を狭める。知性は、より広大なものから切り出された、起伏と深さをもつ実在の平面的な投影にすぎない。真の目的論が再構成すべきは、この、より包括的な実在である。しかし、同じものを同じものに結びつけ反復を認める知性を超えてあふれるので、この実在は創造的であり、その結果はあらかじめ与えられていたのではなく、目的とされることもない。実現されたあとは、模型を実現した製作物のように、合理的な解釈を含む。未来は現在を広げるものとして現れ、表象された目的の形で現在に含まれていたのではない。
それなら、機械論の不十分さを事実によって証明する手段は、目的性の古典的な考え方にとどまることでも、それを狭め和らげることでもなく、反対にそれよりも先へ進むことである。
証明の原理を示す。生命は、起源から、分岐する進化の線のあいだに分かれた、一つの同じ躍動の継続である。何かが成長し、一連の付加によって発達し、その付加はどれも創造であった。ある点を超えれば両立しなくなる傾向を分かれさせたのは、この発達そのものである。ただ一つの個体、あるいは一列に継起する個体のうちに、進化が成し遂げられたと想像することもできるが、そうなら進化はただ一つの次元しかもたなかったはずである。実際は、進化は分岐する線の上で、何百万もの個体を介して成し遂げられ、線のそれぞれが交差点に行き着き、そこから新しい道が放射した。これらの道に沿って働く本質的な原因が心理的な本性のものなら、結果は分岐していても何か共通のものを保つ。長く離れていた仲間が、同じ幼年期の思い出を保つのと同じである。部分の運動が続くのは全体の原初の躍動によるのだから、全体の何かが部分に存続し、非常に異なる有機体における同一の器官の存在となって見えるかもしれない。機械論が真理だと仮定すれば、進化は互いに付け加わる一連の偶然によって成し遂げられ、新しい偶然は、現在の形が表すそれ以前の有利な偶然の総和にとって有利であれば、選択によって保存される。まったく異なる二つの偶然の系列が加算されて、似た結果に行き着く見込みはどれほどあるか。二つの進化の線が分岐するほど、その上で同一の装置が構築された蓋然性は低くなる。これに対し、われわれの仮説では、最後の小さな流れに至るまで、水源で受けた衝動の何かが見いだされるはずである。それゆえ、生命が分岐する進化の線の上で、異なる手段によって同一の装置をつくることを確立できれば、純粋な機械論は反駁でき、目的性は、われわれが解する特別な意味で、ある面から証明できる。証明の力は、選ばれた線の隔たりと、類似した構造の複雑さに比例する。
構造の類似は、生命が進化した一般的条件の同一性によると言われよう。これらの外的条件が、偶然の変異の多様さにもかかわらず、装置を構築する力に同じ方向を刻んだというのである。適応の概念は現代の科学で大きな役割を果たす。アイマーのように、外的条件が生きた実質に物理化学的な変化を決定して、変異を一定の方向に直接引き起こすとする者もあれば、ダーウィン主義の精神に忠実に、条件は間接にしか働かず、生存競争で環境により適応した者に有利に働くとする者もある。前者は外的条件に積極的な影響を、後者は消極的な作用を帰す。細部に移る前に、適応から引き出される説明がなぜ不十分かを、おおまかに示す。
二つの仮説のうち、あいまいさを許さないのは第二のものだけである。不適応のものの自動的な除去による適応というダーウィンの考えは、単純で明晰だが、進化を導く外的原因に消極的な影響しか帰さないため、複雑な装置の進歩的で直線的な発達を説明するだけで苦労する。分岐する線の上で、きわめて複雑な器官の構造が同一であることを説明しようとすれば、どうなるか。偶然の変異は、どれほど微小でも無数の小さな物理的・化学的原因の作用を含み、複雑な構造を生み出すのに必要な蓄積は、無限の微小な原因の共働を要する。これらの偶然の原因が、空間と時間の異なる点で、同じものとして同じ順序で再び現れることがあろうか。同一の結果は異なる原因から出ることがある、一つの道だけが同じ場所に通じるのではない、とダーウィニストは言うであろう。しかし、たどり着く場所は、そこに着くためにとった道の形を描かない。これに対して有機的な構造は、そこに至るまでに進化がたどった小さな違いの積み重ねそのものである。保存されたものを見ているにすぎない以上、生存競争と自然選択はこの部分の解決の助けにならない。偶然の原因が偶然の順序で現れて、何度も同じ結果に行き着いたとは、想定できない。
第二の仮説では、適応は、有機体を条件自身の形に合わせて型どる外的条件の積極的な影響によるとされ、原因の類似で結果の類似が説明される。純粋な機械論のなかにいるように見えるが、よく見れば、解決の仕掛けは、適応という語を同時に全く異なる二つの意味で取ることにある。
同じコップに水とぶどう酒を注げば、二つの液体は同じ形をとり、形の類似は内容の容器への適応の同一性による。この適応は機械的な挿入を意味し、物質が適応する形はすでにできあがってそこにある。しかし、有機体が生きなければならない条件への適応を語るとき、物質を待つ先在する形はどこにあるのか。条件は、生命がそこに入り込んで形を受け取る鋳型ではない。形はまだなく、生命が与えられた条件にふさわしい形を自ら創ることが仕事となる。生命は条件を利用し、不都合を中和し、利点を活用し、条件と全く似ていない機械の構築によって外的な作用に応えなければならない。ここで適応するとは、繰り返すことではなく応答することである。だがそのとき、問題の解の場合のように、知的な活動か、少なくとも同じように振る舞う原因を介入させなければならず、再導入されるのは、あまりに擬人的な目的性である。問題の適応が受動的で、条件が凹みで与えるものを凸で繰り返すだけなら、何も築かない。能動的で、条件が立てる問題に計算された解で答えるなら、われわれが示した方向よりも先へ行きすぎている。実際は、この二つの意味の一方から他方へこっそり移り、第二の意味で目的論の現行犯になりそうなたびに、第一の意味へ逃げ込む。科学の実践に役立つのは第二の意味だが、科学にその哲学を与えるのは第一の意味である。個々の場合には、有機体が外的条件から最良の利益を引き出す機械を築こうとする努力であるかのように語り、適応一般については、無関心な物質が受動的に受けた状況の刻印であるかのように語る。
例に移る。植物と動物の性の方向に成し遂げられた並行的な進歩に、打たれずにいられようか。それでも植物と動物は独立した線の上で、異なる状況に恵まれ異なる障害に妨げられて進化し、幾千幾万もの無限に複雑な原因が、同じ一つの結果に総計された。有性生殖の有用性そのものが明らかでなく、すぐれた精神が植物の性に自然が省けたはずの贅沢を見るときに、これを適応と言い、外的状況の圧力に訴えることはできまい。そこで、より単純な例として、感覚器官の驚くべき構造を取る。目的性の学説は、いつの時代も、これによって自然の仕事を知的な職人の仕事に同化させてきた。他方、これらの器官は下等な動物では初歩的な状態にあり、自然は、最も単純な有機体の色素斑から脊椎動物の無限に複雑な眼に至る中間をすべて示すので、増大する完全性を決定する自然選択の働きを持ち出せる。適応を援用する権利があると思われる場合があるとすれば、この場合である。眼と光の関係は明白だからである。それゆえ、この特権的な場合に双方の原理の不十分さを示せれば、われわれの証明は高い一般性に達する。
目的性の擁護者がつねに強調してきた、人間の眼の構造を考える。彼らは、この複雑きわまる装置のなかで、すべての要素が驚くほど調整されていることを示した。強膜は表面の一点で透明でなければならず、角膜は眼窩の開口に対応する位置になければならず、その背後に収束する媒質が、暗室の端に網膜が、網膜に垂直に無数の透明な円錐がなければならない。これに対し、進化論の仮説に立つよう求めて答えられた。機能は、その起源の滴虫類のように、ほとんど純粋に化学的な、色素斑の光に対する単純な感受性に還元されたところで取り上げるべきである。当初は偶然の事実にすぎなかったこの機能が、未知の機構によって、それが生きものにもたらす利点と自然選択に与える取っかかりだけの結果として、器官のわずかな複雑化をもたらし、それが機能の完全化を伴う。機能と器官のあいだの作用と反作用の系列によって、機械的なものを超えた原因を介入させずに、われわれの眼のようによく組み合わされた眼の形成が説明される、というのである。
だが、問題を、目的性の学説も機械論自身もそうしたように、いきなり機能と器官のあいだに立てるなら、決しがたい。器官と機能は互いに異質な二つの項で、互いを条件づけ合うので、機械論が望むように器官から始めるのがよいのか、目的性が求めるように機能から始めるのがよいのかを、経験に先立って言えない。同じ性質の二つの項、器官と器官を、まず互いに比較するなら、議論は全く違う展開をとるとわれわれは考える。そのとき進化論の仮説により断固として立つほど、行き着く見込みも大きい。
脊椎動物の眼と並んで、ホタテガイのような軟体動物の眼がある。どちらにも同じ本質的な部分があり、類似した要素からなる。ホタテガイの眼には、網膜、角膜、そしてわれわれと同じ細胞構造の水晶体があり、無脊椎動物の網膜では普通見られない、網膜要素の特殊な反転さえある。軟体動物の起源については議論があっても、軟体動物と脊椎動物が、ホタテガイの眼ほど複雑な眼が現れるずっと前に共通の幹から分かれたことは、認められる。構造の類似はどこから来るのか。
進化論的説明の対立する二つの体系、純粋に偶然の変異の仮説と、外的条件の影響で定まった方向に向けられた変異の仮説に、順に問うてみよう。
第一のものは、今日二つの形をとる。ダーウィンは、自然選択によって互いに加算されるきわめて微小な変異を語った。突然の変異はスポーツと呼ばれる奇形しか生まず、自らを永続させないと考え、種の発生を感知できない変異の蓄積で説明した。今はこれに代わって、新しい種は古い性質とかなり異なる新しい性質が同時に現れて一挙に構成される、という考えが広がりつつある。種は安定の時期と変容の時期を交互に通り、「突然変異性」の時期には、きわめて多くの方向に思いがけない形を産出するという。この二つの仮説のあいだで立場を取る気はなく、どちらも真理の一部を含むかもしれない。ただ、引き合いに出される変異が、小さなものであれ大きなものであれ、偶然であるなら、先に指摘した構造の類似を説明できないことを示したい。
ダーウィンの感知できない変異を受け入れよう。有機体のすべての部分は互いに調整されている。争えない点は、器官は機能するときにのみ役に立ち、選択に取っかかりを与えるということである。網膜の微細な構造が複雑になっても、視覚中枢や視覚器官のさまざまな部分が同時に発達しなければ、この進歩は視覚を助けるどころか、おそらく妨げる。変異が偶然なら、それらが示し合わせて、器官がその機能を果たし続けるように同時に生じることはない。ダーウィンはこれをよく理解しており、感知できない変異を想定するのもそのためである。視覚装置の一点に生じた違いはごくわずかなので、器官の働きを妨げず、補完的な変異が加わるまで待てる。しかし、働きを妨げないとしても、補完的な変異が生じるまでは助けにもならない。ならばどうして選択で保存されるのか。それは、あたかも小さな変異が、有機体がのちの建築のために取っておく待ち石であるかのように推論することになる。ダーウィンの原理にあまり合わないこの仮説は、一本の線の上で発達した器官でさえ避けがたく、脊椎動物と軟体動物の眼の類似に気づけば、絶対に不可避である。純粋に偶然の同じ数えきれない小さな変異が、独立した二つの線の上で同じ順序で生じ、それぞれが単独では役に立たないのに、双方で同じものが選択によって保存され蓄積されたとは、想定できない。
急な変異の仮説は、ある点では困難を和らげる。軟体動物の眼が比較的少数の急な跳躍で現在の形に達したのなら、二つの器官の類似は、無数の微小な類似が順次獲得されたとするより理解しやすい。加算すべき類似の数が減り、要素的な変異が選択の働きに応じるほど大きいからである。しかし、もう一つの恐るべき問題が立つ。視覚装置のすべての部分が突然変化しながら、眼が機能を果たし続けるほど、互いによく調整されたままでいるのはなぜか。一つの部分だけの変異は、もはや無限小でないので、視覚を不可能にする。今度はすべてが同時に変わり、各部分が他の部分に相談しなければならない。調整されない変異をもつ個体を自然選択が除き、視覚を保ち改善しうる組み合わせだけが生き残ったとしても、その組み合わせが生じなければならず、偶然が一度恩恵を与えたとして、種の歴史の過程で繰り返し、そのたびに先立つ複雑化の延長線上にある新しい複雑化を突然引き起こすとは認めがたい。まして、独立した二つの進化の線で、同じものが同じ順序で生じ、そのたびにますます数多く複雑な要素の完全な一致を含んだとは、想定できない。
相関の法則が持ち出されよう。青い目の白い猫は一般に耳が聞こえず、毛のない犬は歯並びが不完全である。だが、連帯した変化の集まりと、補完的な変化の体系、すなわち複雑な条件のなかで器官の働きを維持し、さらに完全にするように互いに調整された変化とは別のものである。毛の異常が歯の異常を伴うのは、毛と歯が類似した形成物で、毛の形成を妨げる胚の同じ化学的変質が歯の形成も妨げるからであり、これらは付加ではなく何かの減少や消失という損傷である。しかし、眼の各部分に突然生じる相関的な変化を語るとき、問題になるのは、起源を共有するだけでなく、器官が同じ機能を果たし続け、いっそうよく果たすように調整された変化である。網膜の形成に影響する胚の変化が同時に角膜、虹彩、水晶体、視覚中枢の形成に作用することは認めてもよい。しかし、これらの同時的な変異がすべて視覚の完全化の方向になされることは、機能の利益を見張る神秘的な原理を介入させない限り、認められない。それは偶然の変異という考えを捨てることである。「相関」という語の二つの意味は、「適応」の意味と同じく、生物学者の精神のなかでしばしば干渉し合う。
要するに、進化を決定する偶然の変異が感知できないものであれば、それを保存し加算するために、将来の種の善き守護霊に訴えなければならない。選択がそれを担うのではないからである。偶然の変異が急激であれば、古い機能が働き続け、あるいは新しい機能がそれに取って代わるのは、一緒に生じたすべての変化が同じ作用の成就をめざして補い合う場合だけで、同時的な変化の収束を得るために、やはり善き守護霊に頼る。独立した進化の線の上での、同一の複雑な構造の並行した発達は、偶然の変異の単なる蓄積には帰せられない。そこで第二の仮説に移り、変異が偶然の内的な原因ではなく外的条件の直接の影響によると仮定して、眼の類似がどう説明されるかを見よう。
軟体動物と脊椎動物が別々に進化したとしても、双方とも光の影響にさらされていた。光は一定の結果を生む物理的原因であり、連続して働くことで一定の方向への連続的な変異を生みえた。光が選択の道具として介入し、有用な変異だけを残すとしても、偶然の働きが二つの場合に同じ仕方で調整された要素の同じ並置に行き着く見込みはない。しかし、光が組織化された物質に直接作用して構造を変え、いわば自分自身の形に適応させるなら、二つの結果の類似は原因の同一性で単純に説明される。ますます複雑になる眼は、それを受け取る独自の適性をもつ物質の上の、ますます深くなる光の刻印のようなものである。
しかし、有機的な構造は刻印に比べられるだろうか。適応という語のあいまいさは先に指摘した。外的条件の鋳型にますますよく収まる形の漸進的な複雑化と、条件からますます有利な利益を引き出す道具の複雑な構造とは別のものである。前者では物質は刻印を受けるにとどまり、後者では物質は能動的に反応して問題を解く。眼が光の影響に適応したと言うとき、用いているのは明らかに第二の意味だが、純粋に機械論的な生物学は、受動的な適応と能動的な適応を一致させようと努める。自然自身が、のちに能動的に反応する機構を築かなければならないところで、受動的な適応から始めるので、この混同を誘うようにも見える。眼の最初の原型は下等な有機体の色素斑にあり、光の作用そのもので物理的に生み出されたことが十分ありえ、色素斑と複雑な眼とのあいだに多くの中間が観察される。しかし、ある物から別の物へ段階を追って移るからといって、二つが同じ性質だとは言えない。弁士がまず聴衆の情念を採り入れ、それから支配するに至るからといって、従うことと導くことが同じだとは結論できない。生命は忍び込むことで進む。色素斑と眼のあいだには、写真と写真機のあいだと同じ隔たりがある。写真は少しずつ写真機の方向に曲がっていったが、物理的な力である光だけが、この曲がりを引き起こし、光が残した印象を、それを利用できる機械に変えられたのか。
眼は見るためにつくられたのではなく、眼をもっているから見るのだ、効用は構造の機能的結果を指す語にすぎない、と言われるかもしれない。しかし、眼が光を利用すると言うとき、意味しているのは、この器官と運動装置のあいだにある正確な関係である。脊椎動物の網膜は視神経に延び、運動機構に結ばれた脳の中枢へ続く。眼が光を利用するとは、有利と見えるものを反応の運動で利用し、有害と見えるものを避けられる、ということである。光が色素斑を物理的に生み出したなら、ある種の有機体の運動をも物理的に決定しうることは示せる。繊毛をもつ滴虫類は光に反応する。しかし、光の影響が神経系、筋系、骨系の形成を物理的に引き起こしたと主張する者はいない。これらは脊椎動物では視覚装置と連続している。眼の漸進的な形成を語るときにすでに、まして眼をそれと切り離せないものに結ぶときには、光の直接の作用とは全く別のものを介入させており、組織化された物質に、自らが影響を受ける単純な刺激を利用するためにきわめて複雑な機械を組み立てる、神秘的な独自の力を暗黙に帰している。
人が省略したがるのは、まさにそのことである。物理学と化学がすべての鍵を与えると考えたがるのである。アイマーは、変容が偶然の変異ではなく定まった方向に成し遂げられることを示そうと努め、その出発点はあるトカゲの皮膚の色の変異の研究であった。外的な作用因は変容の原因のように振る舞うが、因果性という語は全く異なる三つの意味で混同されている。原因は、衝撃によって、引き金によって、あるいは展開によって作用しうる。他の玉にぶつけるビリヤードの玉は衝撃により、火薬の爆発を引き起こす火花は引き金により、蓄音機を回すばねのゆるみは円筒に記された旋律を展開する。第一の場合、結果の量と質は原因の量と質に応じて変わり、第二の場合、結果は原因の質と量に応じて変わらず、第三の場合、結果の量は原因の量に依存するが、聞かれる旋律の質は原因に依存しない。原因が結果を説明するのは、第一の場合だけである。他の二つでは、結果は多かれ少なかれ前もって与えられており、先行条件は原因というより機会である。水の塩分や温度の度合いを原因と言うとき、第一の意味でないのは明らかで、展開と引き金の中間にある。アイマー自身も、変異の万華鏡的な性格、無機物質が結晶するように定まった方向に成し遂げられる変異を語っている。皮膚の色の変化なら純粋に物理化学的な過程と認められるが、この説明を脊椎動物の眼の漸進的な形成に広げるなら、有機体の物理化学が、光の影響によって、極度に複雑でありながらすべて見ることができ、ますますよく見える一連の視覚装置を築かせる、と想定しなければならない。これは目的性の学説の最も断固たる支持者の言葉と変わらない。さらに、軟体動物の卵が脊椎動物の卵と同じ化学的組成をもちえず、それでも光の影響のもとでどちらにも同じ器官が築かれたと指摘されれば、機械論的哲学の立場はいっそう困難になる。
膨大な数の小さな原因の二つの異なる蓄積によって同じ結果が生じることが、機械論の持ち出す原理にどれほど反するかは、考えるほど見えてくる。個体発生も、同じく説得力のある事実を提供する。自然は、ときに近縁の種において、全く異なる胚発生の過程で同一の結果に行き着き、「異芽性」の観察は、胚葉の特異性というほとんど古典的な理論を捨てさせた。脊椎動物の網膜は、若い胚の脳の原基が出す拡張によって生み出される真の神経中枢であるのに対し、軟体動物では網膜は外胚葉から直接に由来する。人間とホタテガイで同じ網膜の発達に至るのは、異なる進化の過程である。ここには、原因の異なる組み合わせによって得られた同一の結果がある。
この結果の収束を得るには、好むと好まざるとにかかわらず、内的な方向づけの原理に頼らなければならない。そうした収束の見込みは、偶然の微小な変異というダーウィン主義にも、新ダーウィン主義にも、偶然の急な変異の仮説にも、外的な力と内的な力を機械的に合成して器官の進化に向きを与える理論にさえ、見当たらない。残る進化論の現行の形は、新ラマルク主義である。
ラマルクは、生きものに、器官の使用または不使用の結果として変異する能力と、そうして獲得された変異を子孫に伝える能力を帰した。今日の一定数の生物学者が与するのは、これと同種の学説である。新しい種を生み出す変異は、胚に内在する偶然の変異でも、効用への配慮と無関係に定まった方向に性質を発達させる独自の決定論によるのでもなく、生きものが生きなければならない条件に適応しようとする努力から生まれるという。この努力は、外的状況の圧力で機械的に引き起こされた器官の働きにすぎないこともありうるが、意識と意志を含むこともあり、アメリカの博物学者コープはこの後者の意味で解しているように見える。新ラマルク主義は、現行のすべての進化論のうち、発達の内的で心理的な原理を認めうる唯一のものであり、独立した発達の線の上で複雑な同一の器官が形成されることを説明すると思われる唯一のものでもある。同じ状況を利用しようとする同じ努力は、とくに外的状況が立てる問題がただ一つの解しか認めないなら、同じ結果に行き着きうるからである。残る問いは、努力という語を、どの新ラマルク主義者も想定するより深い、いっそう心理的な意味で取るべきではないか、ということである。
単なる大きさの変異と形の変化は別である。器官が使用によって強まり成長することは争えないが、そこから軟体動物や脊椎動物の眼のような眼の漸進的な発達までは、隔たりが大きい。これを受動的に受けた光の影響の延長に帰するなら、先に批判した主張に逆戻りする。内的な活動を持ち出すなら、ふつう努力と呼ぶものとは全く別のものが問題になる。努力が器官をわずかに複雑にすることすら、われわれの目の前では起きたことがないのに、滴虫類の色素斑から脊椎動物の眼までには、見事に調整された複雑化が膨大な数、必要だったからである。植物の世界でも、形の変異は機能の変化を含み伴うとはかぎらず、原因が心理的な次元なら、言葉の意味を著しく広げない限り、努力とは呼べない。努力そのものの下を掘り、より深い原因を探さなければならない。
規則的に遺伝する変異の原因に至ろうとするなら、そうしなければならない。獲得形質の伝達可能性の論争の細部に立ち入る能力はないが、無関心ではいられない。もしスペンサーがこの問いを立てることから始めていれば、彼の進化論は全く別の形をとったであろう。個体が身につけた習慣が、ごく例外的にしか子孫に伝わらないなら、スペンサーの心理学は作り直され、その哲学の大部分は崩れる。
獲得形質の伝達可能性は、教条として主張されたのち、ヴァイスマンの生殖質の連続の仮説から、生殖細胞が体細胞からほぼ独立しているという理由で、経験に先立って教条的に否定された。しかし、もし経験が獲得形質は伝達可能だと示せば、それは生殖質が言われるほど体細胞の環境から独立していない証明であり、伝達可能性はそのこと自体によって考えられるものとなる。考えられるか否かは無関係で、問題は経験に属する。困難はここから始まる。獲得形質は多くの場合習慣であり、身につけた習慣の根底に自然の素質がないことはまれなので、伝達されたのが個体の体によって獲得された習慣か、習慣に先立つ、生殖質に内在し続けた自然の素質かを、つねに問える。モグラが地中に生きる習慣をもったために盲目になったという証拠はなく、眼が萎縮しつつあったからこそ地中の生活に身を置かざるをえなかったのかもしれない。その場合、視力を失う傾向は生殖質から生殖質へ伝わったのであり、体が獲得したものも失ったものもない。剣術師範の息子が父よりずっと早く優れた剣士になっても、親の習慣が子に伝わったとは結論できない。増大しつつある自然の素質が、原初の躍動の作用で道中で大きくなったのかもしれない。動物の家畜化の例も、伝わったのが習慣か、その種を家畜化のために選ばせた自然の傾向かは分からない。複数の解釈に委ねうる場合を除くと、絶対に争えない例はブラウン=セカールの実験くらいである。彼はモルモットの脊髄や坐骨神経の切断でてんかん状態を引き起こし、それが子孫に伝わった。しかし、体が生殖質に真に影響したことは証明されていない。てんかんの発作の後には痙攣性の障害を引き起こす有毒物質が排出されるというヴォワザンらの実験や、妊娠中のモルモットの肝臓や腎臓の損傷が胎児の相同器官に作用する細胞毒を生むというシャランらの実験から、神経損傷に続く栄養障害が毒素を形成し、それが精子や卵子から胚の発達に全体的な障害を生じさせた可能性がある。獲得された特性の遺伝は、胚の中毒で説明できるかもしれず、アルコールによる障害と同じ過程で伝わるのではないか。
獲得形質の伝達可能性を主張する者も否定する者も、アルコールのような影響が、生きものとそれが保持する生殖質とに同時に作用しうることでは一致する。この場合、すべては親の体が生殖質に作用したかのように起こるが、実際は体も生殖質も同じ一つの原因の作用を受けただけである。体が生殖質に影響しうると認めても、最も自然な仮説は、その直接の結果が生殖質の全般的な変質であり、子孫の変様が親と同じになるのは例外的で偶然によることだと想定することである。アルコールによる欠陥の遺伝のように、父から子へ伝わっても、子ごとに異なる形をとり、父にあったものに似ないことがありうる。結果が原因を正確に再現するのは、形成途上の新しい有機体のほかの部分が、生殖質の変化に関して一種の免疫をもつ場合だけで、そのときでさえ、その部分は親の対応する部分の変様とは全く別の方向に変様しうる。
そこで、逸脱の遺伝と形質の遺伝を区別することを提案する。新しい形質を獲得する個体は、保持する胚が発達しながら再現したであろう形から逸れる。この変様が、生殖質を変える物質の産出や、生殖質から要素を奪う栄養の全般的な変質をもたらさなければ、子孫には影響がなく、たいていの場合はおそらくこうである。影響があるなら、生殖質に決定した化学的変化を介してで、それは例外的に、原初の変様を胚が発達させる有機体に再び生じさせうるが、それ以外のことをする見込みのほうが同じかそれ以上にある。そのとき、生まれた有機体は正常な型から同じだけ逸れるが、異なって逸れ、形質ではなく逸脱を受け継いだことになる。個体が身につけた習慣は、おそらく子孫に何の反響ももたず、反響があっても、子孫の変様は原初の変様と目に見える類似が全くないこともある。反証や決定的な実験があるまでは、観察の現在の結果にとどまるべきで、獲得形質の伝達可能性の主張に最も有利に見積もっても、遺伝的伝達は例外であって規則ではない。その伝達に眼のような器官を発達させることを期待できようか。滴虫類の色素斑から眼に至るまでに、同じ方向に積み重なった変異の膨大な数を考えるとき、個々の努力がその一つ一つを個別に生み出しえたと仮定しても、われわれが観察するとおりの遺伝が、この違いの堆積を決定しえたのか疑問である。新ラマルク主義も、進化論のほかの形と同様、問題を解決しうるとは思われない。
進化論の現行のさまざまな形を共通の試練にかけて、それらを等しく退けるつもりはない。そのそれぞれは膨大な数の事実に支えられ、進化の過程についてのある観点に対応しているから、それぞれの仕方で真である。理論が科学にとどまり、個別の研究に正確な方向を与えるには、特定の観点に専ら立ち続けることがおそらく必要である。しかし、これらの理論が部分的な見方を取る実在は、それらすべてを超えている。この実在こそ哲学に固有の対象であり、哲学は、いかなる応用も目指さない以上、科学の精密さに縛られない。三つの大きな形が、それぞれ何を積極的にもたらし、何を脇に置いているか、より包括的な観念を得るために、この三重の努力をどの点に収束させるべきかを示す。
新ダーウィン主義者が、変異の本質的な原因は個体が担う胚に内在する差異であって、個体がその経歴の過程でとる行動ではないと説くとき、おそらく正しい。従いがたいのは、胚に内在する差異を純粋に偶然的で個体的なものと見なすときである。それらは、個体を通して胚から胚へ渡る衝動の発達であり、純粋な偶然ではなく、同じ種のすべての代表に、あるいは少なくとも一定数に、同時に同じ形で現れてもおかしくない。突然変異の理論は、この点でダーウィン主義を深く修正している。長い期間が過ぎたある時、種の全体が変化する傾向にとらえられるというのだから、変化する傾向は偶然ではない。偶然的であるのは変化そのものだろう。ド・フリースは、突然変異が種の異なる代表において異なる方向に働くと言うが、まず他の多くの植物の種でも確証されるか見る必要があり、植物では機能が形に密接に依存しないので、植物の変異に動物より偶然の占める割合が大きいことはありうる。新ダーウィン主義者は、突然変異の時期が決定されていることを認めつつあり、突然変異の方向も、少なくとも動物においては、決定されうる。
こうしてアイマーの仮説に行き着く。さまざまな形質の変異は、世代から世代へ定まった方向に続く。有機的世界の進化は、全体として前もって決定されてはおらず、形に続く形の絶え間ない創造によって生命の自発性が現れるが、この不確定は完全ではありえず、決定に一定の部分を残す。眼のような器官は、まさに定まった方向への連続的な変異によって構成されたのであり、歴史を全く共有しない種で眼の構造が類似することを、ほかにどう説明するのか分からない。アイマーと袂を分かつのは、彼が物理的・化学的原因の組み合わせで足りるとするときで、われわれは眼の例で、定向進化があるなら心理的原因が介入することを確立しようとした。
一部の新ラマルク主義者が頼るのは、まさに心理的次元の原因であり、そこにこの主義の最も堅固な点の一つがある。ただ、その原因が個体の意識的な努力にすぎないなら、働けるのはかなり限られた場合だけで、せいぜい動物に介入するのみで植物の世界には介入せず、動物でも意志の影響に直接間接に服する点にしか作用しない。複雑性の増大のような深い変化がどう得られるかも分からない。遺伝的で、定まった方向をもち、蓄積し、それ自身と合成してますます複雑な機械を築く変化は、ある種の努力に関係づけられなければならないが、それは個体の努力よりはるかに深く、状況からはるかに独立し、同じ種の大半の代表に共通で、彼らの実質だけでなく彼らが担う胚に内在し、それゆえ子孫に伝わることが保証された努力である。
長い迂回を経て、出発した考えに戻る。生命の原初の躍動である。それは胚の一世代から次の世代へ、胚をつなぐ発達した有機体を介して渡ってゆく。この躍動は、分かれる進化の線の上に保たれ、規則的に伝わり、加算され、新しい種を創り出す変異の深い原因である。種が共通の幹から分岐し始めたとき、進化が進むにつれてその分岐を強めるが、定まった点では、共通の躍動の仮説を受け入れるなら同一に進化しうるし、進化さえしなければならない。軟体動物と脊椎動物における眼の形成でそれをより正確に示し、原初の躍動の観念をいっそう明らかにする。
眼のような器官では、構造の複雑さと働きの単純さが等しく際立つ。眼は強膜、角膜、網膜、水晶体などの部分からなり、それぞれの細部は無限に進む。網膜だけでも、多極細胞、双極細胞、視細胞という神経要素の重なった三つの層を含み、それぞれが固有の個体性をもつ。しかもこれは微細な構造の単純化された図式にすぎない。眼という機械は無数の機械でできており、そのどれもが極度に複雑なのに、視覚は単純な事実である。眼が開くやいなや、視覚が行われる。働きが単純であるがゆえに、無限に複雑な機械を築く際に、自然が少しでも気を散らしていたら、視覚は成り立たなかっただろう。精神を戸惑わせるのは、器官の複雑さと機能の統一という、この対照である。
機械論的な理論は、外的状況の影響のもとで機械が漸進的に築かれる様子を見せるもので、その影響は、組織への直接の作用か、最も適応したものの選択を通じた間接の作用として入り込む。しかし、この主張がどの形をとっても、部分の細部には何らかの価値があるとしても、部分間の相関にはまったく光を当てない。
そこへ目的性の学説が現れ、部分は目的をめざして、あらかじめ構想された計画に従って組み立てられたと言う。自然の仕事を、観念の実現や模型の模倣をめざして部分を組み立てる職人の仕事に同化させる。機械論はこの擬人的な性格を正当に非難するが、自らもこの方法に従って進み、ただそれを切り詰めているにすぎない。追求される目的や理想の模型は白紙に戻しても、自然が人間の職人のように部分を組み立てて働いたと考えるからである。胚の発達を一瞥すれば、生命がまったく別の仕方で事を運ぶことが、機械論に示されたはずである。生命は、要素の連合と加算によってではなく、分離と二分によって進む。
それゆえ、機械論の観点と目的論の観点をともに超えなければならない。二つは根本において、人間の精神が人間の仕事の光景によって導かれた観点にすぎない。器官の構造は分析すれば無限に複雑だが、全体の働きは単純である。この対比こそ、われわれの目を開くはずのものである。
同じ対象が、一方では単純に、他方では無限に複合して現れるとき、二つの面は同じ程度の実在性をもつにはほど遠い。単純さは対象そのものに属し、複雑さの無限は、われわれが対象のまわりを回りながら取る見方、感覚や知性が対象を表象する並置された象徴、対象を人為的に模倣しようとする異なる次元の要素に属する。天才的な芸術家が画布に一つの人物を描いた。われわれはその絵を、色とりどりのモザイクのタイルで模倣できる。タイルが小さく数が多く色調が多様なほど、曲線や陰影をよく再現できるが、芸術家が単純なものとして構想し一挙に画布に移した人物の正確な等価物を得るには、無限に小さな要素が無限に必要である。われわれの目が巨匠の作品にモザイクの効果を見ずにいられず、あるいは知性が人物の出現をモザイクの作業以外で説明できないなら、小さなタイルの組み立てを語って機械論の仮説のなかにいることになり、モザイク職人が従った計画を付け加えれば目的論者として語ることになる。しかし、どちらも実在の過程には達しない。組み立てられたタイルはなかったからである。画布に投じられた単純な行為である絵は、われわれの知覚に入るというだけで、無数の小さなタイルへと自分から分解したのである。眼も、その驚くべき複雑さをもって、視覚という単純な行為が、われわれにとって細胞のモザイクに分かれたものにすぎないかもしれず、全体を組み立てとして表象したとたん、その秩序が驚くべきものに見える。
私が手をAからBへ上げるとき、この運動は同時に二つの面で現れる。内から感じれば単純で不可分な行為であり、外から眺めれば曲線ABの走査である。この線のなかに望むだけの位置を区別でき、線をこれらの位置の調整として定義できる。しかし、無限の数の位置と、それらを結ぶ秩序は、私の手の不可分な行為から自動的に生まれた。機械論は位置だけを見、目的論は秩序を考慮に入れるが、どちらも実在そのものである運動の傍らを通り過ぎる。運動は、その不可分の単純さにおいて与えられれば、継起する位置の無限と秩序が同時に与えられ、そのうえ可動性が与えられるので、位置とその秩序より多い。しかし別の意味では少ない。点をある秩序に配置するには、まず秩序を表象し、次にそれを点で実現する組み立ての仕事と知性が必要だが、手の単純な運動はそのいずれも含まず、要素からなっていないからである。眼と視覚も同様で、視覚には、眼を構成する細胞とその調整より多いものがある。この意味で機械論も目的論も必要なだけ遠くまで行かず、別の意味では行きすぎる。無限に複雑な無限の要素を視覚という単純な行為にまで高めたと考えて、自然に、ヘラクレスの最も恐るべき仕事を負わせるからである。自然が眼をつくるのに苦労したのは、私が手を上げるのに苦労する以上ではなく、その単純な行為が、同じ一つの観念に調整された無限の要素へ自動的に分かれたのである。私の手の運動が、同じ一つの方程式を満たす無限の点を自らの外に落としたのと同じである。
しかし、これは理解しにくい。組織化を製作として表象せずにはいられないからである。製作することと組織することは別のものである。製作は人間に固有で、互いにはめ込めるように削った物質の部分を、すでに理念上の中心となっている作用のまわりに組み立てる。周辺から中心へ、多から一へ進む。組織の仕事は中心から周辺へ進む。ほとんど数学的な点から始まり、そのまわりに、ますます広がる同心の波となって広がる。製作は、より多くの物質を自由にできるほど効果的で、集中と圧縮によって進むが、組織の行為には爆発的なところがあり、はじめはできるだけ小さな場所と最小の物質しか必要とせず、組織する力がしぶしぶ空間に入るかのようである。胚の生命の進化的過程を動かす精子は、有機体のなかで最も小さい細胞の一つで、しかもそのごく小さな部分だけが作用に加わる。
だが、これは表面的な違いにすぎず、その下により深い違いがある。製作された作品は製作の仕事の形を描く。機械をつくるなら部品を一つずつ削り出して組み立て、できあがった機械は部品も組み立ても見せる。結果の全体が仕事の全体を表し、仕事の各部分に結果の一部分が対応する。
実証科学が、組織化を同じ種類の仕事であるかのように扱って進めることは認める。科学の目的は事物の根底を明かすことではなく、事物に働きかける最良の手段を与えることだからである。生きた物質がわれわれの作用に身を委ねるのは、物理学と化学の手続きで扱える限りにおいてであり、有機体はまず機械に同化されなければならない。細胞は機械の部品となり、有機体はその組み立てとなる。これが科学の観点であり、哲学の観点はまったく別である。
組織された機械の全体は、強いて言えば、組織する仕事の全体を表すが、近似的にしか真ではない。機械の部分は仕事の部分に対応しない。この機械の物質性は、用いられた手段の集合ではなく、回避された障害の集合を表すからである。それは積極的な実在というより否定である。視覚は、権利上、われわれの視線の届かない無限の事物に達しうる力だが、そのような視覚は行動に延びず、生きた存在ではなく幻にふさわしい。生きた存在の視覚は有効な視覚で、その存在が働きかけうる対象に限られる。それは水路づけられた視覚であり、視覚装置は水路づけの仕事を象徴するにすぎない。視覚装置の創造は、解剖学的要素の組み立てでは説明されない。運河の開削が、その岸をなした土の運び込みで説明されないのと同じである。機械論は土が荷車一台ずつ運ばれたと言い、目的論は荷車引きが計画に従ったと付け加えるが、どちらも誤る。運河は別の仕方でできたからである。
私の手が、進むにつれて圧縮され抵抗する鉄の粉のなかを通り抜けなければならないとしよう。ある時点で手は努力を使い果たし、そのとき鉄粉の粒は並置され、止まった手と腕の一部の形そのものに調整されている。手と腕が見えないままなら、観客は粒の配列の理由を粒そのものと堆積の内部の力のなかに探し、ある者は各粒の位置を隣の粒の作用に帰して機械論者となり、ある者は要素的な作用を統べる全体の計画を主張して目的論者となる。だが真実は、鉄粉を通り抜ける手の、ただ一つの不可分な行為があっただけである。粒の運動の細部も最終的な配列の秩序も、この分かれない運動をいわば否定的に表現する。それは要素的な積極的作用の総合ではなく、抵抗の全体的な形だからである。配列を結果、手の運動を原因と呼べば、結果の全体は原因の全体によって説明されるが、原因の部分に結果の部分が対応することはない。ここでは機械論も目的論も場所を得ず、独自の説明様式に訴えなければならない。われわれの仮説では、視覚と視覚装置の関係は、手と、その運動を描き水路づけ限定する鉄粉との関係とほぼ同じである。
手の努力が大きいほど、手は鉄粉の遠くまで進む。しかし、どの点で止まっても、粒は即座に自動的に釣り合い、互いに調整される。視覚をなす不可分の行為がどこまで進むかに応じて、器官の物質性は、多かれ少なかれ大きな数の、互いに調整された要素からなるが、秩序は必ず完全で完璧である。その秩序を生む実在の過程に部分がないからである。眼のような道具の驚くべき構造に驚くとき、われわれの驚きの底には、この秩序の一部だけが実現されることもありえたのであり、完全な実現は一種の恩寵だ、という考えがある。この恩寵を、目的論者は目的因によって一度に授けられ、機械論者は自然選択によって少しずつ得たと主張する。どちらも秩序に積極的な何かを見、原因のなかに分割できる何かを見ている。実際は、原因は強さの程度をもつが、結果をまとまりとして完成した仕方でしか生み出せない。原因が視覚の方向にどこまで進むかに応じて、下等な生物の単なる色素の集まり、カンザシゴカイの初歩的な眼、すでに分化したアルキオペの眼、鳥の驚くほど完成した眼を与えるが、複雑さが不均等なこれらの器官のすべてが等しい調整を示す。それゆえ、二つの動物種がどれほど遠く隔たっていても、双方で視覚への歩みが同じ程度まで進めば、同じ視覚器官ができる。器官の形は、機能の行使がどの程度まで得られたかを表すにすぎない。
だが、視覚への歩みを語ることは、目的性の古い考え方に戻ることではないか。この歩みが、達成すべき目的の意識的あるいは無意識的な表象を要するなら、そうである。しかし、この歩みは生命の原初の躍動によって行われ、運動そのものに含まれており、だから独立した進化の線の上に見いだされる。なぜそこに含まれるのか。生命とは、何よりもまず、粗大な物質に働きかける傾向である。この作用の向きはあらかじめ決まっておらず、進化する生命が道に播く諸形態の予見できない多様性はそこから来る。しかしこの作用は、つねに多かれ少なかれ偶然性という性格を示し、少なくとも選択の萌芽を含む。選択は、可能な複数の行為が先に表象されていることを前提とするから、行為に先立って、行為の可能性が生きものに描かれていなければならない。視覚的知覚はこれ以外のものではない。物体の見える輪郭は、その物体に対してわれわれが起こしうる行為の素描だからである。視覚は、最も多様な動物のうちにさまざまな程度で見いだされ、同じ強度に達したところではどこでも、同じ構造の複雑さをもって現れる。
構造の類似一般、とくに眼の例について力を込めて述べたのは、一方で機械論に、他方で目的論に対する態度を定めなければならなかったからである。今度は、この態度そのものをもっと正確に描くため、進化の分岐した結果を、類似ではなく互いに補い合う面において考察する。
第二章 生命進化の分岐する方向 麻痺、知性、本能 生命が、大砲から撃ち出された中実の弾丸のように単一の軌道を描くなら、進化の運動は単純だったであろう。だが問題になるのは、ただちに破片に砕け、その破片がそれぞれまた一種の砲弾として砕け、こうして長いあいだ続いた砲弾である。われわれが知覚するのは、最も近い破片の散らばった運動だけで、そこから段階を追って原初の運動までさかのぼらなければならない。砲弾の特有の砕け方は、内に込められた火薬の爆発力と金属の抵抗の両方で説明される。生命が個体と種に砕けることも、生命が粗大な物質から受ける抵抗と、生命が自らのうちに担う爆発力、すなわち諸傾向の不安定な均衡の、二つの系列の原因による。
粗大な物質の抵抗は、まず回避しなければならなかった障害であり、生命はへりくだることで成功したように見える。ごく小さく入り込みやすくなり、物理的・化学的な力をかわし、道の一部をともにさえした。鉄道の転轍機が、離れようとするレールの方向をしばらく取るのに似ている。最も初歩的な形態の現象は、なお物理的・化学的なのか、すでに生命的なのか言えない。最初に現れた生きた形態はきわめて単純で、ほとんど分化していない原形質の小さな塊、外から見れば今日のアメーバに似たものであったが、それらを高等な形態へ押し上げる内なる推力をもっていた。ところが組織された物質の拡張は限界にすぐ達し、ある点を超えると物質は成長するより二つに分かれる。生命はこの障害を、二つに分かれようとする要素の増えていく数を、分業によって解けない絆で結びつけたままにすることで回避した。複雑でほとんど不連続な有機体が、単に大きくなっただけの連続した生きた塊と同じように働く。
しかし、分裂の真の深い原因は、生命が自らのうちに担うものにあった。生命は傾向であり、傾向の本質は、束の形に展開し成長するというそれだけの事実によって、互いに分かれる方向を生み、そのあいだに躍動を分け与えることである。われわれの性格と呼ぶ傾向の進化がそうである。子供のころの人格は、不可分でありながらさまざまな人格を自らに集め、生まれつつある状態なので溶け合っていた。この見込みに満ちた不決定は、子供時代の魅力でさえある。しかし成長するにつれて両立できなくなり、一つの生しか生きないわれわれは選択をせざるをえず、同時に多くのものを捨て続ける。時間のなかでたどる道は、なりかけていたすべて、なりえたすべての残骸で覆われている。数え切れない生を意のままにする自然は、そのような犠牲を強いられず、成長しながら分かれた傾向を保存し、それらをもとに別々に進化する種の系列をつくる。
これらの系列は重要さにおいて不均等でありうる。小説を書き始める作者は主人公に多くを込めるが、進むにつれて諦めざるをえなくなる。のちに別の書物でそれらから新しい人物をつくっても、その人物はもとの人物の補完として現れ、ほとんどいつも、どこか狭苦しい。生命の進化も同じで、分岐は多かったが、二つか三つの大きな道のかたわらに行き止まりが数多くあり、脊椎動物に沿って人間まで上る道だけが、生命の大きな息吹を自由に通せるほど広かった。ミツバチやアリの社会は、見事に規律づけられ結束しているが固定している。人間の社会はあらゆる進歩に開かれているが分裂し、絶えず自分自身と争っている。理想は、常に進みながら常に均衡している社会であろうが、互いを補おうとする二つの性格は、胚の状態では補い合っても、際立つにつれて両立しなくなる。比喩によらずに言えば、社会生活への衝動の大部分は人間に至る線に沿って進み、残りは膜翅類に至る道で受け止められた。だが社会生活に特有の衝動があったのではなく、あるのは、分かれた線の上で絶えず新しい形態をつくる生命の一般的な運動だけである。二つの線の上に社会が現れるなら、その社会は、道の分岐と同時に躍動の共通性を示し、二つの系列の性格を発展させて漠然と補い合う。
進化の運動を研究するとは、分かれた一定数の方向を解きほぐし、それぞれで起こったことの重要さを評価し、切り離された諸傾向の本性を定め、配合を見積もることである。これらの傾向を互いに組み合わせれば、躍動が由来した不可分の原動原理の、近似あるいは模倣が得られる。進化のうちに、機械論が主張する環境への適応の系列とも、目的性の学説が望む全体計画の実現とも、まったく別のものを見ることになる。
進化の必要条件が環境への適応であることは否定しない。種は課された存在条件に従わなければ消滅する。しかし、外的な状況が考慮すべき力であることと、それが進化を導く原因であるとの主張とは別である。後者は機械論のもので、生命をますます複雑な形態を通してより高い運命へ運ぶ内なる推力、原初の躍動の仮説を排除する。だが躍動は目に見える。生命は、はるかに楽な原初の形態に固まる道を選んで、進化せずにすませることもできた。ある有孔虫類はシルル紀から変わっておらず、数え切れない革命が地球を揺るがすのを見てきたシャミセンガイは、古生代の最も遠い時代の姿を今日も保っている。
適応が説明するのは進化の運動の蛇行であって、運動の一般的な方向でも、運動そのものでもない。町へ通じる道は地形の起伏に適応して坂を上り下りするが、起伏は道の原因ではなく、道にその方向を刻みつけてもいない。起伏は道に、道が置かれる地面を与えるが、道の全体を考えれば、妨げか遅れの原因としてしか現れない。道は単に町をめざし、できれば一直線でありたかった。生命の進化も同じだが、進化は単一の道を描くのではなく、目的をめざさないままにいくつもの方向へ進み、適応においてさえ創意に富む。
しかし、進化が偶然の状況への適応の系列でないなら、計画の実現でもない。計画は前もって与えられ、実現の細部に先立って表象できる。進化が絶えず新たにされる創造であるなら、進むにつれて、生命の形態だけでなく、知性がそれを理解するための観念も、表現する言葉もつくり出す。進化の未来は現在をあふれ、現在のなかに観念として描かれることができない。ここに目的論の第一の誤りがあり、それはさらに重大な別の誤りを引き起こす。
生命が計画を実現しているなら、遠くへ進むほど、石が積まれるにつれて家が建築家の観念をますますよく描き出すように、より高い調和を示すはずである。だが生命の統一が、生命を時間の道へ押し出す躍動にすべてあるなら、調和は前ではなく後ろにある。統一は背後からの押しに由来し、始まりに衝動として与えられており、終わりに引力として置かれてはいない。躍動は伝わるにつれて分かれ、共通の起源のおかげである面では互いに補い合っても、互いに敵対し両立しなくなり、種のあいだの不調和は強まる。止まる種もあり、道を引き返す種もあり、生命は生み出した形態に魅入られて自分自身からしばしば気をそらされるので、足踏みや逸脱や後退が観察され、無秩序が増す。進歩は、最初の衝動が定めた方向への連続した歩みと解するなら、たしかにある。だがそれが果たされるのは、ますます複雑で高い形態が描かれる二つか三つの大きな線の上だけで、そのあいだの多数の副次的な道では、逸脱と停止と後退が増える。哲学者は、細部のすべてが全体の計画に結びつくという原理から始めたので、事実の検討で失望から失望へ進み、偶然の分け前を認めなかったために、今度はすべてが偶然だと信じるに至る。まず偶然に大きな分け前を与え、自然のすべてが筋の通ったものではないことを認めるべきである。そうすれば非一貫性が結晶する中心を定められ、その結晶が残りを明らかにして、生命が原初の衝動を展開する大きな方向が現れる。ここにあるのは、実現される計画より多く、優れたものである。計画とは、仕事に割り当てられた終点であり、その形を描き出す未来を閉ざす。ここでは未来の扉が開いたままである。生命の進化を前にするとき、未来の扉は大きく開かれたまま、最初の運動によって終わりなく続く創造がある。この運動が組織された世界の統一をなし、それは豊かな統一で、どんな知性が夢見うるものよりも優れている。知性はその一つの面あるいは産物にすぎないからである。
方法を定義するのは適用するより容易である。進化の運動の完全な解釈は、組織された世界の歴史ができあがっているときにしか可能でなく、提案される系統はたいてい問題を含む。だがさまざまな解答を比べれば、論争は大きな線よりも細部に関わるので、大きな線をできるだけ近くたどれば道に迷わない。われわれは種の継起の順序を見いだそうとするのではなく、進化の主要な方向を定義しようとしているにすぎない。とくに取り上げるのは人間に至る道であり、人間と動物界全体との関係、動物界が組織された世界全体のなかで占める位置を定めることが問題だと、見失わない。
植物と動物を区別する明確な性格は何もない。二つの界を厳密に定義する試みは失敗してきた。植物的な生命の性質のうち、ある種の動物に見いだされないものはなく、動物の特徴のうち、ある種のものにあるいは特定の時期に、植物界で観察されないものもない。ここで定義が、定義される対象がもち他の対象がもたない静的な属性によるべきなら、二つの界の区別を人為的とする生物学者は正しい。だが生命の科学にふさわしい定義はまったく異なる。生命の現れのうち、他の現れの本質的な性格を初歩的な状態、隠れた状態、潜在的な状態で含まないものはほとんどなく、違いは比率にある。その比率の違いが偶然でなく、集団が進化するにつれてこれらの性格を際立たせる方向へ向かっていたなら、集団を定義するのに足りる。集団は、ある性格をもつことによってではなく、それらを際立たせる傾向によって定義される。状態よりも傾向を重んじるなら、植物と動物は、生命の二つの分かれた展開として明確に区別できる。
分岐はまず栄養摂取の様式に現れる。植物は、生命の維持に必要な炭素と窒素を、空気と水と土から無機物の形で直接借りる。動物は、植物によって、あるいは植物に負う動物によって、すでに有機物質に固定されたものしか手に入れられない。結局は植物が動物を養っている。例外は多い。モウセンゴケ、ハエトリソウ、ムシトリスミレのような食虫植物は植物に分類され、菌類は、植物界で大きな位置を占めながら、すでにできている有機物質から動物のように栄養を摂る。静的な定義はここから引き出せないが、この違いは、二つの界が飛躍した分かれた方向を示す動的な定義の出発点を与える。菌類が進化できなかったのは注目すべき事実で、有機的には、高等植物の胚嚢のなかに形成される、胚の発達に先立つ組織より上には進まず、植物界の未熟児と言える。その多くの種は、通常の栄養摂取の様式を捨てたことで、植物進化の大きな道の上で止まった行き止まりである。食虫植物は他の植物と同じく根から栄養を摂り、緑の部分で炭素も固定し、昆虫を捕らえ消化する能力は、土壌が貧しい例外的な場合にのちに現れたに違いない。性格の存在よりもそれが発達する傾向に注目するなら、植物が動物と区別されるのは、大気と土と水から直接取り出す無機的な要素を元手に有機物をつくり出す力による。しかしこの違いには、すでにいっそう深い別の違いが結びついている。
動物は、炭素と窒素を直接には固定できないので、それをすでに固定した植物か、植物から借りた動物を探さなければならない。だから動物は必然的に動くものである。偽足を手当たり次第に伸ばすアメーバから、感覚器官、運動器官、神経系をそなえた高等動物に至るまで、動物の生命は空間における可動性によって特徴づけられる。植物の細胞はセルロースの膜に囲まれ、動かないことを運命づけられている。植物は、置かれた大気と水と土のなかに、取り込むべき無機的な要素を見いだすからである。たしかに、植物にも運動はある。ダーウィンはつる植物の運動を研究し、食虫植物が獲物を捕らえる動きも研究した。逆に、寄生する動物には植物に似た固着が見られる。だから、固着と可動性で植物と動物を一見して決めようとすれば誤る。しかし、動物の固着は種が陥った麻痺として現れ、植物の運動は頻度も多様さも乏しく、有機体の一部にしか及ばない。可動性と固着は両方の界に共存するが、天秤は一方では固着に、他方では可動性に傾いている。ただし、固着と可動性もまた、さらに深い傾向の表面的な徴にすぎない。
可動性と意識のあいだには明らかな関係がある。高等な有機体の意識は脳と結びついているように見えるが、可動性も選択も意識も、必要条件として神経系を要するのではない。神経系は、組織された物質に散らばった初歩的で漠然とした活動を、一定の向きに水路づけ、高めたにすぎない。脳がないから動物に意識を認めないのは、胃がないから栄養を摂れないと断じるのと同じくらい不合理である。神経系は分業から生まれたのであって、機能をつくるのではなく、機能に反射と随意という二重の形を与えるだけである。その二つがそこから生まれる何か、不決定な反応が、最も低い段階の有機体にもある。つまり、有機体は自由に動く限りにおいて意識的である。意識は運動の原因でもあり、結果でもある。移動を導くのは意識であるが、意識を保つのは運動の活動であり、それが消えれば意識は眠る。固着と寄生のフクロムシ類では、神経系が退化して消えている。
では、土に固着して栄養を見いだす植物は、意識的な活動の方向に発達しえただろうか。セルロースの膜は、植物を動かなくすると同時に、動物が眠り込むのを妨げる外的な刺激から有機体を遠ざける。だから植物は一般に無意識である。ただし、無意識と意識は、植物と動物に機械的に貼れる二枚のラベルではない。動かない寄生者に退化した動物では意識が眠り、動きの自由を取り戻した植物では意識は目覚める。それでも、動物では意識の最良の標本を見いだすために系列を上らなければならず、植物では藻類の遊走子のように階梯を下らなければならない。この範囲で、われわれは動物を感性と目覚めた意識によって、植物を眠った意識と無感覚によって定義する。
植物は無機物質から有機物質を直接つくるので、動く必要がなく、感じる必要もない。動物は栄養を探しに行かなければならないので、ますます広く判明な意識の方向に進化した。
動物の細胞と植物の細胞が共通の幹から出たことは、われわれには疑いないと思われる。二つの傾向は今日も両方の界に共存し、違うのは比率だけである。動物界の進化は、植物的な生命への傾向によって絶えず遅らされ、数え切れない衰えが寄生の習慣と結びついて生じた。この初歩的な形で互いを含み合っていた傾向が、成長につれて切り離された。この二分を説明するのに神秘的な力は要らない。生きた存在は自然に最も楽なほうへ傾き、植物と動物は炭素と窒素を手に入れる仕方で、二つの異なる楽さを選んだ。植物は環境から絶えず機械的に引き出し、動物は不連続な意識的行為によって、すでに固定した有機体のなかへ探しに行く。したがって、植物に神経要素が見いだされることは疑わしい。植物において動物の感性に対応するのは葉緑素の光に対する感受性であり、植物の本当の「神経系」は、その感受性とデンプンの生産を仲介する化学機構だとわれわれには思われる。動物を神経と神経中枢に押しやった同じ躍動が、植物では葉緑素の機能に行き着いたに違いない。
前章でほのめかしたように、生命の根底に、物理的な力の必然性に不決定を接ぎ木しようとする努力があるとしよう。この努力はエネルギーをつくり出せない。だから、すべては、自由にできる既存のエネルギーを最大限に利用しようとするかのように進む。その手段は、物質から位置エネルギーの蓄積を得て、引き金を引くだけで行動に必要な仕事を得ることである。努力自身がもつのは引き金を引く力だけである。地球上のエネルギーの源は太陽であるから、問題は、太陽に支出を部分的に、一時的に停止させ、エネルギーを貯蔵庫に蓄えさせることであった。動物が栄養とする物質は、まさにその貯蔵庫、一種の爆薬である。生命ははじめ、爆薬の製造とそれを利用する爆発とを、一挙に得ようとしていた可能性が高い。葉緑素をもつ滴虫類のミドリムシは、この原初の傾向を今日もなお象徴しているのかもしれない。植物は主に第一の向きに、動物は第二の向きに傾いた。しかし、はじめから製造が爆発を目的としていたのなら、生命の根本的な方向を示すのは、植物の進化よりも動物の進化である。二つの界の調和は、はじめ一つに溶け合っていた二つの傾向を展開することから来る。植物のほうにも、同様の二分が起こった。大気中の窒素を固定する微生物は、植物一般が動物に果たすのと同じ種類の奉仕を、植物界全体に果たした。土壌の微生物、植物、動物は、生命がはじめ含んでいたすべてを、物質が行った分析として示している。これを「分業」と呼ぶべきではない。分業には連合と努力の収束があるが、われわれの語る進化は、分離の向きに、発散の向きにしか果たされない。調和が完全なのは出発点においてであり、束の形に開く進化が、補い合っていた項を互いに引き離していく。
一つの傾向が分離してできる要素は、すべて同じ進化の力をもつわけではない。三つの界のうち、微生物は初歩的な状態にとどまったが、動物と植物は大きな運命に向かって飛躍した。本当に要素的な傾向には、そのしるしがある。傾向の要素は、並置される対象よりも心理的な状態に比べられ、それぞれが自分自身でありながら他に与る。ある進化の線の上に、他の線に沿って展開するものの記憶を見いだすなら、同じ一つの原初の傾向の、切り離された要素を相手にしている。植物では運動と意識が、目覚めうる記憶のように眠っている。次の法則を述べることができる。ある傾向が発達しつつ分析されるとき、そこに生じる特殊な傾向はそれぞれ、原初の傾向のうち、自分が特殊化した仕事と両立しないもの以外をすべて保ち、発達させようとする。独立した進化の線の上に同一の複雑な機構が形成されること、植物と動物のあいだの深い類似、植物の有性生殖も、これによって説明されるであろう。われわれにとりわけ関心のある動物の進化に移ろう。
動物性を構成するのは、引き金のある機構を利用して、蓄積された位置エネルギーを「爆発的な」行為に変える能力である。はじめ、爆発は方向を選べずに起こる。アメーバが偽足をあらゆる向きに伸ばすのはそのためである。動物の系列を上るにつれて、エネルギーのたどる方向が、神経要素の鎖によって印される。植物の細胞は保存の仕事にすっかり没頭するが、動物ではすべてが行動に収束する。神経系と感覚器官と運動装置があるところでは、体のほかの部分は、それらに伝えるべき力を用意することを、本質的な機能とするかのように進む。
高等動物における食物の役割はきわめて複雑である。食物は組織を修復し、熱を与え、神経系の上に成り立つ有機体を支える。しかし、有機体が神経要素と筋肉にエネルギーを渡さないなら、神経要素は存在する理由をもたない。これこそ食物の究極の目的だと推測できる。国家が巨額を支出して税を集めるとき、徴税費用を引いた残りがわずかでも、その額が税の存在理由であるのと同じである。
この推測を支える事実は多い。食物の物質は二つの範疇に分かれ、アルブミン様の四元素のものは主に組織を作り直し、炭水化物と脂肪の三元素のものは機械にエネルギーを供給する。前者に特権的な場所がないのは自然であるが、後者の分布は不均等であり、教えられるところが大きい。炭水化物は血液によってグルコースの形で運ばれ、細胞のなかにグリコーゲンの形で蓄えられる。有機体の努力のすべてが、筋組織と神経組織に位置エネルギーを供給するために使われているかのように進む。筋肉には、あらかじめ膨大な蓄えが確保される。神経組織では蓄えは少なく、消費されるまさにその時に血液によって補充される。筋組織と神経組織は、一方は大きな蓄えを供給される点で、他方は必要な瞬間に必要な分だけ供給される点で、特権的な二つの組織である。
グリコーゲンの、すなわち位置エネルギーの要求が来るのは、感覚運動系からである。有機体の残りは、神経系と、それが動かす筋肉とに、力を渡すためにあるかのようである。神経系が、体が仕える主人であるのかどうかを問うことができる。感覚運動系が他と同じ地位にあるなら、神経と筋肉がグリコーゲンを消費する量を調整するのは、グリコーゲンの生産であろう。逆に、感覚運動系が支配的なら、その作用の持続と広がりは、有機体の蓄えから独立し、他の組織はエネルギーを届けるためにやりくりしなければならない。事態はまさにそのように進む。モラとデュフールの実験が示すとおり、肝臓のグリコーゲン生成は、移動の筋肉を動かす神経の作用に従属する。したがって、すべては感覚運動系から出発し、そこに収束しており、有機体の残りはその奉仕にある、と比喩なしに言える。飢えて死んだ動物でも、他の器官が重さを失うのに、脳はほとんど無傷で見いだされる。
脳脊髄神経系に、感覚装置と移動の筋肉を加えたものを「感覚運動系」と呼ぶなら、高等な有機体は、消化、呼吸、循環、分泌などの装置の上に据えられた感覚運動系によって構成される。これらの装置の役割は、感覚運動系を修復し、保護し、そして何よりも、移動の運動に変えるための位置エネルギーを渡すことである。神経の活動が現れるにつれて、それを支える活動が際限なく呼び寄せられ、機能の複雑さは無限に至る。すべてがすべてにとって手段となる円環には、それでも中心がある。感覚器官と移動装置のあいだに張られた神経要素の系である。
神経系の進歩は、運動のより正確な適応と、運動のなかから選ぶより大きな余地の向きに、同時に果たされた。この二つは対立するが、神経の鎖は最も初歩的な形でも二つを調停する。それは、周辺の一点と別の一点のあいだに定まった線を描き、しかも、それぞれが交差点で終わる要素の不連続によって、道を選ぶ余地を残す。生命の役割は、物質のなかに不決定を挿入することである。ニューロンが端から端へ並べられ、それぞれの端に多くの道が開く神経系は、本当に不決定の貯蔵庫である。
組織された世界を貫いて進化する力は有限で、自分を超えようとしながら、つくろうとする作品に対していつも足りない。この点を見誤ったところから、徹底した目的論の誤りと幼稚さが生じた。目的論は、生きた世界の全体を、われわれの構築物に類似した一つの構築物として思い描いた。各々の種は存在理由と機能をもち、見かけの不協和音は根本的な調和を際立たせるのに役立つことになる。
生命の進化には、これに似たものは何もない。そこでは仕事と結果の不釣り合いが目立つ。つねに一つの大きな努力があるが、たいていは途中で挫折する。反対の力に麻痺させられ、あるいは取りつつある形態に没頭して、鏡に向かうようにそれに魅入られる。これはわれわれの誰もが自分のなかで経験できる。われわれの自由は、自らを肯定する運動のなかで習慣をつくり、絶えざる努力で自らを新たにしなければ、その習慣に窒息させられる。最も生き生きした思考も、それを表現する定式のなかで凍りつく。言葉は観念に背き、文字は精神を殺す。
これらの不協和音の深い原因は、取り返しのつかないリズムの差にある。生命一般は可動性そのものであり、個々の現れは、それを不承不承にしか受け入れず、絶えずそれに遅れる。進化一般は、できる限り直線に進むが、個々の進化は円環の過程である。通り過ぎる風が巻き上げる塵の渦のように、生きものは自分のまわりを回り、生命の大きな息吹に吊るされている。だから、われわれは生きものを進歩としてよりも物として扱う。しかし、ときに、その息吹がわれわれの目に物質化する。母性愛の形を前にして、われわれはこの突然の啓示をもつ。それは、生きた存在が通過の場所であり、生命の本質が生命を伝える運動にあることを、かいま見させる。
この対照は、どこでも同じ性格を示す。生命はできるだけ多く行動しようとするが、各々の種は、できるだけ小さい努力しか与えまいとする。種は、最も労力を要しないものへ向かい、取ろうとする形態に没頭して半ば眠った状態に入る。こうして、新しい形態の創造に向かう行為と、その形態が描かれる行為とは、二つの異なる、しばしば対立する運動である。それは、障害を跳び越えるために、そこから目をそらして自分自身を見ざるをえなくなる跳躍者に起こることに似ている。
生きた形態は、定義上、生存可能な形態である。この意味で、継起した種のそれぞれは、生命が収めた成功であった。しかし、各々の種を、それを道に残していった運動と比べると、失敗がふつうで成功は例外であり、しかもいつも不完全に見える。通過の場所にすぎないはずのものが、終点になった。動物の生命が踏み込んだ四つの大きな方向のうち、二つは行き止まりに行き着き、他の二つでも、努力は結果に不釣り合いであった。
歴史の細部を再構成する資料はないが、大きな線は解きほぐせる。動物と植物は共通の幹から比較的早く分かれた。動物界の努力は、まだ単純だが、ある可動性を備え、形が不決定な有機体を、つくり出すに至った可能性が高い。今日の虫は、棘皮動物、軟体動物、節足動物、脊椎動物の共通の幹だった形態の、空になって固まった標本にすぎない。
危険がそれらをうかがっていた。古生代の動物相には、動物が硬い覆いに閉じ込められているという特徴がある。軟体動物は殻を、節足動物は甲殻を、最古の魚類は硬い骨の覆いをもっていた。柔らかい有機体が互いに食べられまいとして身を守ろうとした、とわれわれは考える。各々の種は最も楽なほうへ向かう。動物が植物から借りて動物性に向かったように、動物の種のなかでも、多くが他の動物を犠牲にして生きるようになった。種が動くほど、種は貪欲になり、互いに危険になった。しかし、鎧は動物の運動を妨げ、ときに動かなくした。植物がセルロースの膜に身を包んで意識を捨てたように、甲冑に閉じこもった動物は自らを半ば眠った状態に運命づける。棘皮動物や軟体動物は今日もなおこの麻痺のなかで生きている。節足動物と脊椎動物はそれを免れ、そのおかげで生命の最も高い形態が今日開花している。
運動へ向かう生命の推力は、二つの方向で優位を取り戻した。魚類は硬鱗の鎧を鱗に取り替え、昆虫は祖先の鎧から解放されて現れた。どちらも、保護の不十分さを、攻勢に出られる敏捷さで補った。人間の武装の進化も同じである。第一の動きは避難所を探すことであり、第二の、より優れた動きは、できるだけしなやかになることである。重装歩兵は軍団兵に、騎士は歩兵に席を譲った。生命全体の進化でも、人間社会でも、個人の運命でも、最も大きな成功は最も大きな危険を引き受けた者のものであった。
動物の正しく理解された利益は、より動くようになることであった。種の変容は、各々の種の特殊な利益で説明できるが、それは多くの場合、最も表面的な原因にすぎない。深い原因は、生命を世界に投げ込み、植物と動物に分かれさせ、眠り込むおそれのあった動物界に目覚めと前進をかちとった、衝動である。
脊椎動物と節足動物が別々に進化した二つの道では、発達は、寄生などに結びつく後退を除けば、何よりも感覚運動神経系の進歩にあった。可動性と運動の多様さが求められ、はじめは塊と粗暴な力の誇張に陥りもした。節足動物では、体は並置された環の系列からなり、運動の活動は数の多い付属肢に配分される。脊椎動物では、活動は二対の肢だけに集中し、独立は人間で完全になって、人間の手はどんな仕事でも行える。
見えるものの背後には、いま推し量られるものがある。生命に内在し、最初は混ざり合っていたのが、成長につれて分かれたに違いない二つの力である。これらを定義するには、節足動物の進化と脊椎動物の進化の、それぞれの頂点を示す種を考察しなければならない。ある種が同じ線の上で別の種より進んでいることを見分ける、単一で単純なしるしは存在しない。多くの性格を互いに比べ、個々の場合に量らなければならない。
成功は優越の最も一般的な基準である。生きた存在について成功とは、最も多様な環境で、できるだけ多様な障害を越えて、できるだけ広大な土地を覆う能力のことである。地球全体を領域とする種は、支配的な種であり、優れた種である。脊椎動物では人類がそうであり、有節動物では昆虫、とくにある種の膜翅類がそうである。他方、遅れて現れた種は、特別な退行の原因がない限り、由来する種より優れているはずである。人間は脊椎動物の最後の新参者であり、昆虫では膜翅類より後に来るのは、顕花植物の寄生者である鱗翅類だけである。こうして、節足動物の進化は昆虫、とくに膜翅類で、脊椎動物の進化は人間で頂点に達する。本能が昆虫の世界ほど、とりわけ膜翅類ほど発達しているところはない。したがって、動物界の進化の全体は、植物的な生への後退を除けば、二つの分かれた道の上で果たされ、その一つは本能へ、他は知性へ向かった。
植物的な麻痺、本能、知性は、植物と動物に共通の生命の衝動のなかで一致していた要素であり、成長するというそれだけの事実によって切り離された。アリストテレス以来受け継がれ、自然哲学の多くを損なってきた根本の誤りは、植物的な生、本能的な生、理性的な生に、同じ一つの傾向が発達していく三つの段階を見ることである。実際には、これらは、成長しながら分かれた活動の三つの分かれた方向であり、その違いは強度の違いでも程度の違いでもなく、本性の違いである。
植物的な生と動物的な生がどのように補い合い、対立するかを見た。今度は、知性と本能もまた対立し、補い合うことを示さなければならない。両者は同じ序列のものではなく、一方が他方に続いて生じたのでもなく、順位を割り当てることもできない。それでもそう見たくなるのは、知性と本能が互いに浸透し合うことから始まり、共通の起源の何かを保っているからである。どちらも純粋な状態では見いだされない。本能の痕跡が見いだされない知性はなく、知性の縁に囲まれていない本能はない。この縁が多くの誤解の原因となり、両者のあいだには複雑さや完成度の違いしかなく、一方が他方の言葉で表現できる、と結論された。実際には、両者が伴うのは補い合うからにすぎず、補い合うのは異なるからにすぎない。本能のうちの本能的なものは、知性のうちの知的なものと反対の向きだからである。われわれはこの点を最も重要だと考えている。
これから行う区別は、あまりにはっきりしすぎることになる。具体的な本能はすべて知性が混ざり、現実の知性はすべて本能に浸されている。それらは傾向であり、できあがったものではない。この章で、われわれは両者を、それらを進路に置いていく生命から出たところで考察する。有機体に現れる生命は、粗大な物質から一定のものを得ようとする努力である。だから、心的活動のこの二つの形態に、何よりもまず、不活性な物質に働きかける二つの異なる方法を見る。この考察は、両者を区別する客観的な手段を与える代わりに、これから述べることを略図にする。形をぼかし、略図のこわばりを生命のしなやかさに置き換えることは、あとでいつでも容易である。
人間が地上に現れたのは、最初の武器、最初の道具がつくられた時代である。ブーシェ・ド・ペルトがムーラン・キニョンで行った発見をめぐって、本物の斧か、偶然に砕けた火打石かという論争が起こった。しかし、それが斧であるなら、知性を前にしていることは誰も疑わなかった。動物の知性についての逸話集を開くと、われわれがためらわず知的だと言う行為のうち、まず挙げられるのは製作の思考を示すものである。サルとゾウは人工の道具を使い、キツネは罠が罠であることを知っている。推論は、過去の経験を現在の経験の向きに曲げることにあり、すでに発明の始まりである。発明は、製作された道具に物質化されるとき、完全になる。人間の知性は、機械的な発明をはじめから本質的な歩みとし、今日も社会生活は人工の道具の製作と利用のまわりを回っている。それに気づきにくいのは、人類の変化が道具の変容に遅れるからである。蒸気機関の革命は人間どうしの関係を覆し、数千年ののち、われわれの戦争や革命がほとんど重要でなくなっても、蒸気機関は青銅や打製石器と同じように一つの時代を定義するだろう。あらゆる自負を脱ぎ捨てるなら、われわれはホモ・サピエンスとは言わず、ホモ・ファーベルと言うだろう。知性を、その最初の歩みと見えるところで捉えるなら、それは人工物、とりわけ道具をつくる道具を製作し、その製作を際限なく変える能力である。
知性のない動物は、道具や機械ももたないのか。もつ。しかし、ここでは道具はそれを使う体の一部をなし、それを使うことを知る本能がある。すべての本能がそうであるわけではないが、この定義は、数多い形態が向かう理想的な限界を定める。大部分の本能は組織化の仕事そのものの延長である。幼虫から成虫への変態には、本能と生きた物質の組織する仕事のあいだに、はっきりした境界線がない。社会生活が仕事を分けるところでは、アリやミツバチの多形性のように、異なる本能に対応する構造の違いが見られる。完成した本能は、組織された道具を利用し、さらにはつくる能力であり、完成した知性は、組織されていない道具を製作し、使う能力である。
この二つの活動様式の利点と欠点は明らかである。本能は手の届くところに適切な道具を見いだし、望む時にただちに、しばしば見事な完璧さで、なすべきことを果たす。その代わり、道具の構造はほとんど不変で、本能は必然的に専門化している。知性によって製作された道具は不完全で、努力を払ってしか得られず、扱いにくい。しかし、組織されていない物質でできているので、どんな形も取れ、生きた存在をあらゆる新しい困難から引き出す。知性は、製作した存在の本性に作用を及ぼし、満たすそれぞれの欲求のために新しい欲求をつくり出して、活動に無限の領野を開く。この利点が現れるのは、知性がすでに製作する機械を製作するようになった遅い時期である。はじめは両者の利点と欠点が釣り合い、どちらが大きな支配を保証するのか言うのは難しい。
両者は互いに含み合うことから始まり、原初の心的活動は、その両方に与っていたと推測できる。生命に内在する力が無制限なら、本能と知性を同じ有機体のなかで際限なく発達させたかもしれない。しかし、この力は有限であり、選ばなければならない。粗大な物質への作用を、自らのために組織された道具をつくって直接に与えるか、道具を自分で製作する有機体のなかで間接に与えるかである。そこから、発達するにつれて分かれるが、まったく切り離されることのない、知性と本能が生じる。最も完璧な本能も知性のいくつかの光を伴い、ミツバチは野外で巣をつくるとき、本当に知的な工夫を発明する。知性は、本能が知性を必要とする以上に本能を必要とする。粗大な物質を形づくるには、動物に高い程度の組織がすでに前提されているからである。それゆえ、節足動物は本能の向きに率直に進化し、脊椎動物には、知性の開花というより、その探求を見ることになる。知性が完全に自分自身を手にするのは人間においてだけである。最大の成功は、最大の危険のあった側で収められた。本能と知性は、一つの同じ問題の、等しく優雅な、二つの分かれた解決を表す。
本能と知性は、根本的に異なる二種類の認識を含意する。その前に、意識一般についての説明が必要である。本能は、ある場合には多かれ少なかれ意識的で、他の場合には無意識的である。ここで、二種類の無意識を区別しなければならない。意識が零であることにある無意識と、意識が打ち消されたことに由来する無意識である。落ちる石の無意識は零の意識である。習慣的な行為を機械的に行うとき、夢遊病者が夢を自動的に演じるとき、無意識は絶対的でありうるが、そこでは行為の表象が行為の実行そのものにふさがれている。実行が表象にぴったりとはまるので、意識があふれ出ることができない。行為が障害によって妨げられるなら、意識が現れる。意識はそこにあったが、行為によって中和されていた。行為の表象への不適合こそ、ここでわれわれが意識と呼ぶものである。
意識とは、生きた存在が実際に果たす行為を取り巻く、可能な行為の領域、潜在的な活動の領域に内在する光であることがわかる。意識はためらい、あるいは選択を意味する。同じく可能な多くの行為が描かれるところでは意識は強く、実際の行為が唯一の可能な行為であるところ、たとえば夢遊病的な自動的活動では、意識は零になる。生きた存在の意識は、潜在的な活動と実際の活動のあいだの算術的な差として定義できる。意識は表象と行為のあいだの隔たりを測る。
したがって、知性はむしろ意識に向かい、本能は無意識に向かうと推定できる。道具も適用の点も得るべき結果も自然によって与えられているところでは、選択に残される分け前は小さく、表象に内在する意識は、同一の行為の遂行によって相殺される。意識が現れるところでも、それが照らすのは、本能が受ける妨げである。意識になるのは本能の不足であり、意識は偶発事にすぎない。これに対して、不足は知性の正常な状態である。知性は、組織されていない道具を製作するので、無数の困難を抜けて場所と時、形と材料を選ばなければならず、新しい満足はすべて新しい欲求をつくるので、完全には満足できない。認識は、本能の場合にはむしろ演じられて無意識的であり、知性の場合にはむしろ思考されて意識的である。しかし、これは程度の違いであり、意識にだけ執着するかぎり、決定的な違いに目を閉じることになる。
本質的な違いに達するには、二つの形態を照らす光に立ち止まらず、互いに深く異なる二つの対象、すなわちそれらの適用の点へ、まっすぐ進まなければならない。
ウマバエが馬の脚や肩に卵を産みつけるとき、それは、幼虫が馬の胃のなかで発達しなければならないこと、馬が舐めることで幼虫を消化管に運ぶことを知っているかのように行動する。麻酔をかける膜翅類が神経中枢の正確な点を刺しに行くとき、それは昆虫学者を兼ねた外科医のように進む。シタリスは、アントフォラの坑道の入口に卵を産み、孵った幼虫は、坑道から出る雄にしがみつき、婚姻飛行のあいだに雌に乗り移り、雌が卵を産むのを待って、蜜のなかの卵に飛びつき、それを食い尽くして変態し、蜜を消費して成虫になる。すべては、幼虫が孵化した時からこれらを知っているかのように、またシタリス自身が、幼虫がこれらを知ることを知っているかのように進む。認識は、もしあるとしても暗黙のものであり、意識として内に向かわず、正確な行動として外に現れる。それでも、昆虫の行動が、空間と時間の正確な点にある定まった事物の表象を描いており、昆虫がそれを学ぶことなく知っているのは、まぎれもない。
知性もまた、学ぶことなく知っているものがあるが、それは、はるかに異なる序列の認識である。幼い子供は、動物が決して理解しない事物をただちに理解する。この意味で、知性は本能と同じく遺伝的であり、生得的である。しかし、生得的な知性は、個々のいかなる対象も認識しない。新生児が乳房を探すのは、定まった対象の生得的な認識であり、本能である。知性が生得的にもつのは、事物ではなく関係である。生まれたばかりの子供は、名詞に形容詞が付けられる日に、それが何を意味するかをただちに理解し、属性と主語の関係を自然につかんでいる。動詞が表現する関係についても同じである。知性は、あらゆる文が含意する、等価から等価への、内容から容器への、原因から結果への関係を、自然に用いる。したがって、本能と知性が含む生得的な認識は、前者では事物に、後者では関係に関わる。
哲学者は認識の質料と形式を区別する。質料のない形式も認識の対象になりうるが、それは所有された物というより身についた習慣であり、状態というより方向に似ている。分数の書き取りだと知っている小学生は、分子と分母が何になるかを知る前に、まず線を引く。その子は、どちらの項も知らないまま、両者の一般的な関係を精神に思い浮かべている。したがって、知性は、その生得的なものにおいて、形式の認識であり、本能は質料の認識を含意する。
認識の観点から見ても、生命一般に内在する力は、はじめには、認識する二つの異なる仕方が共存し、浸透し合っている一つの限られた原理として現れる。第一の仕方は、定まった対象に、その物質性そのもののなかで直接に達し、「ここに、あるものがある」と言う。第二の仕方は、どの個々の対象にも達せず、一つの対象を別の対象に、一つの部分を別の部分に関係づけ、前提をもつときに結論を引き出す。それは、条件がこうであれば、条件づけられるものはこうなる、と言うだけである。第一の認識は本能的であり、定言命題に定式化される。第二は知性的であり、常に仮言的に表される。第一は、特殊な一つの対象の限られた部分にしか当てはまらないが、その内的で充実した認識をもつ。第二は、外的で空虚な認識しかもたないが、無限の対象が次々と場所を見いだせる枠組みをもたらす。二種類の限定のうち、一方は認識の外延に、他方は内包に関わる。はじめは互いに含み合っていた二つの傾向は、大きくなるために切り離され、それぞれが世界のなかに運を探しに行って、本能と知性に行き着いた。認識と行為は、ここでは同じ一つの能力の二つの面にすぎない。
本能が、組織された自然の道具を利用する能力であるなら、本能は、道具と適用される対象の両方について、潜在的な、あるいは無意識的な、生得的な認識を包む。つまり事物の生得的な認識である。知性は、組織されていない人工の道具を製作する能力であり、自然は、生きた存在が状況に応じて製作を変えられるように、役立つ道具を授けることを諦めた。知性の機能は、どんな状況でも窮地から抜け出す手段を見いだすことであり、知性が生得的にもつのは、関係を確立する傾向、きわめて一般的な関係の自然な認識である。この形式的な認識は、本能の物質的な認識に対して、計り知れない利点をもつ。形式は空虚であるからこそ、不定の数の事物によって、役に立たないものによってさえ、次々と満たされうる。知的な存在は、自分自身を超えるものを、自らのうちに担っている。
しかし、その度合いは、望むほどではない。知性の形式的な性格は、思弁にとって最も強い関心のある対象に降り立つ重りを、知性から奪う。本能は物質性をもつが、その対象をそこまで遠くへ探しに行けず、思弁しない。われわれの分析がそこへ導き出そうとしていた違いは、こう定式化できる。探せるのは知性だけだが、知性自身では見つけられない事物がある。それらを見つけられるのは本能だけだが、本能はそれを探すことがない。
ここで知性の機構を、暫定的に詳しく見る。知性の機能は関係を確立することだと述べた。知性を純粋な思弁に向けられた能力とみなすかぎり、悟性の枠組みは、天から降ってきた、説明できない絶対的なものになる。知性は統一化だと言われても、それは漠然とした語であり、結びつける以上に分けるのではないかとも問える。知性が何にも吊るされなくなると、認識は精神のある要求に相対的になる。悟性を高く置きすぎるために、悟性のもたらす認識を低く見ることになる。これに対し、われわれは、人間の知性は行為の必要に相対的だと考える。行為を置けば、知性の形はそこから導かれ、認識は知性の産物であることをやめ、ある意味で、実在の不可欠な部分となる。
哲学者たちは、行為は秩序づけられた世界のなかで果たされ、秩序はすでに思考であるから、これは論点先取だと答えるだろう。この章の観点が最終的なものなら、そのとおりである。スペンサーは、物質の性格がわれわれのうちに残した刻印に知性を帰着させたが、物質に内在する秩序が知性そのものではないかのように考えた。知性と物質の真の発生を試みることが可能かどうかは、次の章に取っておく。今のところの問いは心理学的である。われわれの知性が特別に適応している物質世界の部分は何か。これには常識の観点で十分である。
行為から出発し、知性がまず製作をめざすことを原理として立てよう。製作は粗大な物質にだけ行使される。組織された材料も、それに形を与えた生命を気にかけず、不活性な物体として扱う。粗大な物質からも、知性が取り上げるのはほとんど固体だけで、流動的なものはすり抜ける。したがって、実在のうち流動するものは知性を部分的に、生命的なものは完全に逃れると予想できる。われわれの知性は、自然の手を離れたままの姿では、組織されていない固体を主たる対象とする。
知性は、粗大な物質、とくに固体に働きかけるときだけ、自分の家にいる。物質は広がりをもち、他の対象の外にある対象を示す。われわれの行為のためには、相手にしている対象や要素を、暫定的に最終的なものとみなし、同じ数の単位として扱う必要がある。物質を好きなだけ分解できる可能性を、われわれは連続性と呼ぶが、それは、不連続の様式を選ぶ能力に帰着する。いったん選ばれた不連続の様式が、実在するものとして現れ、行為はそれに従って調整される。連続の知的な表象はむしろ否定的で、どんな分解の系も唯一可能なものとみなすことを、精神が拒むことにすぎない。知性が明晰に表象するのは、不連続なものだけである。
われわれの行為が行使される対象は動くものであるが、重要なのは、それがどこへ行くのか、道のりの任意の瞬間にどこにあるのかである。われわれは位置に執着し、ある位置から別の位置へ移る運動そのものには執着しない。行為において精神が固定するのは、動かない実行の計画である。知性は、可動性そのものから目をそらす。純粋な理論に向けられていたなら、運動はおそらく実在そのものであり、不動は見かけか相対的なものにすぎないので、運動のなかに身を置くだろう。しかし、知性は常に不動から出発し、運動は並置した不動のものによって再構成する。この操作は、思弁の領域では行き詰まりに導き、解けない哲学的問題をつくり出すが、行為の用途からは正当化される。誤るのは、行為のためにつくられた思考の方法を、思弁の領域に持ち込む哲学者たちである。知性が明晰に表象するのは、不動だけである。
製作とは、物質のなかに対象の形を切り出すことである。そのために、あらゆる種類の物質に、思い描いた形を与えてみなければならない。製作をめざす知性は、事物の現在の形を最終的とみなさず、どんな物質も意のままに切り出せるものとみなす。プラトンは、よい弁証家を、自然が描く関節に沿って獣を切り分ける料理人にたとえた。行為は逆に、事物の現在の形を人為的で暫定的とみなし、組織され生きていたものからも内部の構造を外に印す線を消すことを求める。物質の全体は、そこから望むものを切り出し、好きなように縫い直せる、巨大な布地として現れる。われわれが空間があると言うとき、肯定しているのはこの力である。空間は、均質で空虚で、無限に分割できる媒質であり、決して知覚されず、考えられるだけである。可能な分解と再構成を、実在の広がりの背後に投影した形であり、事物に対するわれわれの可能な行為の図式である。それは人間の知性の製作傾向を象徴する表象である。知性は、どんな法則に従っても分解し、どんな系にも再構成する、際限のない力によって特徴づけられる。
われわれは個人を孤立した状態で取り、社会生活を考慮しなかった。人間は社会のなかで生きる存在であり、知性は他の知性と結びつく。構成員が記号によって意思を通じない社会は想像しにくい。昆虫の社会にもおそらく言語があるが、それは本能に基づき、器官の形に結びついているから、記号は数が定まり、ある対象やある操作に不変に結びついたままである。記号は意味されるものに粘着している。人間の社会では、製作も行為も形が変わりうるうえ、各個人は構造によって役割が定められていないので、知っていることから知らないことへ移れる言語が必要である。無限の数ではありえない記号が、無限の事物に拡張できなければならない。記号が一つの対象から別の対象へ移る傾向は、人間の言語の特徴であり、幼い子供が話し始める日から観察される。何でも何でもを指しうる、これが幼児の言語の隠れた原理である。この傾向を一般化の能力と混同するのは誤りである。動物も一般化し、本能的な記号もつねに多かれ少なかれ類を表す。人間の言語の記号を特徴づけるのは一般性より可動性である。本能的な記号は粘着する記号であり、知的な記号は動く記号である。
言葉の可動性は、事物から観念へ広がることを可能にした。言語は、完全に外に出てしまった知性に反省する能力を与えはしなかっただろう。反省する知性とは、実際に有用な努力の外に費やすべき余剰の力をもっていた知性であり、すでに潜在的に自分自身を取り戻した意識である。言語がなければ、知性は物質的な対象に釘づけにされ、夢遊の状態で自分の仕事に魅入られていただろう。言葉は、知覚された事物から想起へ、逃げやすい像から、それを表象する行為の表象、すなわち観念へも広がる。こうして外を見ていた知性の目に、自分自身の作用の光景である内的な世界が開かれ、知性は言葉が一つの事物であることを利用して、自分の仕事の内部へ入り込む。知性が、表象一般の能力として自分を認めた日から、実際的な行為と関係がなくても、観念をもとうとしない対象はない。知性だけが探せる事物がある、と述べた理由はここにある。知性の理論は、粗大な物質だけでなく、生命と思考をも包もうとする。
言語は事物を指すようにつくられているので、言葉を事物ではない対象に適用するとき、言葉はその対象を覆って、ふたたび事物に変える。こうして知性は、もはや粗大な物質に働きかけないときでも、組織されていない物質の形を適用する習慣に従う。この種の仕事だけが知性を満足させ、知性はそれを判明さと明晰さと呼ぶ。
知性は、自分自身を明晰に判明に考えるために、不連続の形で自分を認めなければならない。概念は空間のなかの対象のように互いに外にあり、同じ安定性をもつ。概念は集まって可知的世界をなし、固体の世界に似るが、事物の像より軽く透明である。概念は像ではなく、知性が事物に自らを固定する行為の表象、象徴である。われわれの論理学は、象徴の操作の規則の集合であり、固体の一般的な関係を訳すにすぎないので、固体性を対象とする幾何学で勝利する。論理学と幾何学は互いに相手を生み出す。両者は物質に厳密に適用でき、そこでは自分たちだけで歩める。しかしこの領域の外では、純粋な推論は良識の監視を必要とする。
知性の要素的な力はすべて、物質を行為の道具、語源的な意味での器官に変える方向に働く。生命は、有機体をつくるだけでは足りず、無機の物質そのものまで、生きものの技術で巨大な器官に変え、有機体の付属物として与えようとする。知性とは、外を見て、自分自身に対して外に出る生命である。生きたものに向かい、組織化を前にしたときの知性の驚きは、そこから来る。知性は、組織されたものを組織されていないものに解消する。自然な向きをひっくり返し、自分にねじれ返らなければ、真の連続、実在の可動性、相互浸透、つまり生命であるこの創造的進化を考えられないからである。
生命の側面のうち、知性と感覚に接近できるのは、行為が取りつける側面である。対象を変更するには、それが分割可能で不連続だと見えなければならない。組織を細胞に分解した日に、比類のない進歩が実現したが、科学が進むほど、並置される異質な要素の数が増える。そのとき、生きたもののうち本来生命的なものは、むしろ後退していくのではないか。有機体の実質を連続したものとみなす傾向が優勢になっても、行き着くのは別の分析様式、新たな不連続でしかない。連続性は、要素の多様性とすべてによるすべての相互浸透を同時に含意し、われわれの技術が行使される場ではほとんど両立しない。
空間で分けるのと同様に、われわれは時間の中で固定する。知性は、進化を、つまり純粋な可動性である変化の連続を考えるようにはできていない。知性は、生成を状態の系列として表象する。その各々は、それ自身と同質であり、変化しない。一つの状態の内的な変化に注意が呼ばれても、われわれはそれを別の状態の列に分解し、際限なく続く。考えるとは再構成することであり、与えられた安定した要素で再構成する。足し算を進めることで生成の可動性を模倣できても、生成そのものは、指のあいだをすり抜ける。
知性は与えられたもので再構成しようとするので、歴史のどの瞬間にもある新しいものを取り逃がす。知性は予見できないものを認めず、あらゆる創造を拒む。定まった先行項が定まった後続項をもたらすこと、定まった目的が定まった手段を呼び起こすことは、知性を満足させる。どちらも、既知のものと組み合わさる既知のもの、繰り返される古いものを相手にしている。しかし、各瞬間が付け加えであり、新しいものが絶えず湧き出て、形が生まれたあとで、結果の一部をなす原因によって決定されたと言われても、予見は不可能であったとき、それは純粋な悟性の言葉では表現できない。悟性が至るところで見いだす因果性は、同じ要素で同じ全体を組み直す、われわれの技術の機構そのものである。技術の出発点である本来の発明を、知性はその湧出においても、天才性においてもつかめず、既知の要素の異なる配置に解消する。知性は完全な新しさを、根本的な生成と同じく認めず、生命の本質的な一つの面を取り逃がす。
不活性なものを扱うのにこれほど巧みな知性が、生きたものに触れるやいなや、不器用さをさらけ出す。体の生命を扱うにせよ精神の生命を扱うにせよ、知性は、このような用途には向けられていなかった道具の、厳密さとこわばりと粗暴さで進む。衛生学と教育学の歴史がそれを語る。体を保ち魂を育てることへの切迫した関心があり、実践の欠陥が損害となって現れるのに、誤りの粗雑さと持続は呆然とさせる。起源は、生きたものを不活性なものとして扱い、あらゆる実在を最終的に止まった固体の形で考える、われわれの頑固さにある。われわれが心地よくいられるのは、不連続なもの、不動のもの、死んだもののなかだけである。知性は、生命に対する自然な無理解によって特徴づけられる。
これに対して、本能は生命の形そのものにかたどられている。知性がすべての事物を機械的に扱うのに対して、本能は有機的に進む。本能のうちで眠っている意識が目覚め、本能が認識として内に向かい、われわれが問いかけることを知れば、本能は生命の最も内奥の秘密を明かすだろう。本能は生命が物質を組織する仕事を続けるにすぎず、組織化がどこで終わり本能がどこで始まるか、われわれは言えない。ひよこがくちばしで殻を割るのは、胚の生命を通じて自分を運んできた運動に従うだけである。逆に、胚が幼虫の形で自由に生きるときには、本能に帰すべき行動が果たされる。一次的な本能のうち最も本質的なものは、実際に生命の過程である。それに伴う潜在的な意識が広く開花し、深まれば、生命の生み出す力と一致するだろう。
生きた体のなかで、数千の細胞が共通の目的のために働き、仕事を分け合い、他の細胞のために生きると同時に自分のために生き、危険に防御的反応で答えるとき、それらを同じ数の本能と考えずにいられようか。逆に、巣箱のミツバチが、どの個体も一定の時間を超えて孤立して生きられないほど緊密に組織されるのを見るとき、巣箱は比喩ではなく一つの有機体であり、ミツバチのそれぞれは、目に見えない絆で他と結ばれた細胞である。ミツバチを動かす本能は、細胞が動かされている力と一致するか、その力を延長するにすぎない。このような極端な場合には、本能は組織化の仕事と一致する。同じ本能にも完成の多くの程度があるが、それは同じ主題の上に実行された変奏であり、主題の不変性は明らかである。
動物の本能にも細胞の生命的な性質にも、同じ知識と同じ無知が現れる。細胞は他の細胞について自分に関心のあることだけを、動物は他の動物について自分が利用できることだけを知り、残りは影にとどまる。これは意識一般、記憶と同じ進み方である。われわれは過去の全体を後ろに引きずっているが、記憶が現在に注ぎ込むのは、現在の状況を補う二、三の想起だけである。一つの種が別の種についてもつ本能的な認識は、生命の統一に根をもつ。生命は自分自身に共感する一つの全体だからである。異常な状況のなかで生まれた本能は、切迫した欲求の圧力で突然湧き出す想起に近い。
多くの二次的な本能は科学的な説明を許す。それでも、科学が本能を完全に分析するかは疑わしい。本能と知性が、同じ一つの原理の二つの分かれた発達であり、この原理は、一方では自分自身の内にとどまり、他方では外に出て粗大な物質の利用に没頭するからである。この分岐は、根本的な両立不可能を示している。本能のうち本質的なものは、知的な言葉では表現できず、分析できない。
生まれつき目の見えない人は、あいだにある対象の知覚を経ずに離れた対象を知覚することが可能だとは認めないだろう。それでも視覚はこの奇跡を行う。科学は視覚を触覚の言葉に訳す。知覚の哲学的な説明は別の性質のものでなければならない。本能もまた遠隔の認識であり、知性に対して、視覚が触覚に対するのと同じ関係にある。科学は本能を知性の言葉に訳すほかなく、そうして本能の模倣をつくるのであって、本能そのものに入り込むのではない。
進化論的生物学の理論は二つの型に帰着する。一つは、新ダーウィン主義の原理に従い、本能を、選択によって保存された偶然の差異の総和とする。もう一つは、本能を堕落した知性とし、有益と判断された行為が習慣を生み、遺伝的に伝えられて本能になったとする。第一のものは、遺伝的な伝達に重大な異論を生まないが、昆虫の高度な本能を説明できない。本能の進化は、古い部品に偶然に新しい部品がかみ合う付加によってしか行えないが、新しい部品はそれぞれ、全体の完全な再編を要求したからである。偶然にその再編を期待できるか。生存可能な複雑化が生じるのは、新しい要素の付加が、古い要素のすべての相関的な変化をもたらす場合だけである。偶然がその奇跡を果たしうるとは誰も主張しないだろう。何らかの形で知性に訴え、身についた習慣が規則的に遺伝すると認めることになるが、それは疑わしい。この説明は、努力が知的でない植物の世界にも広がらない。つる植物が巻きひげを確実に正確に用いる様子や、ランが昆虫に受精させてもらうために行う作戦を見るとき、同じ数の本能を考えずにいられようか。
新ダーウィン主義も新ラマルク主義も、すっかり捨てなければならないのではない。前者は、進化が個体から個体へではなく胚から胚へ行われると主張するときには正しく、後者は、本能の起源に努力があると言うときには正しい。ただし、その努力は知的な努力とはまったく別のものである。前者は本能の進化を偶然の進化とするときに誤り、後者は努力のなかに個体の努力を見るときに誤る。種が自らの本能を変える努力は、はるかに深く、個体の主導にだけ依存するのでも、純粋に偶然のものでもない。
膜翅類のさまざまな種における同じ本能の形態を比べると、われわれが受ける印象は、要素が付け加えられて得られる複雑さの梯子ではなく、むしろ円周である。そのさまざまな点から、変種が出発し、すべてが同じ中心を見つめ、それぞれ自らの手段の及ぶ限りでしか近づかない。本能は至るところで完全であるが、さまざまに単純化されている。規則的な段階が観察されるところでも、そのように並べられた種が互いに血縁関係をもつとは限らない。ミツバチとハリナシミツバチ類のあいだに系統関係はありえない。われわれは、ある音楽の主題を前にしており、それが一定数の調に移され、さまざまな変奏が演奏されたのである。原初の主題は至るところにあり、どこにもなく、起源においては考えられたものというより感じられたものだった。麻痺させる膜翅類も同じである。ツチバチはハナムグリの幼虫の運動神経節が集中する一点だけを刺し、キバネアナバチはコオロギの三つの神経中枢を知っているかのようにふるまい、ケブカジガバチはイモムシの九つの神経中枢に九回針を刺す。一般的な主題は殺さずに麻痺させる必要であり、変奏は手術する対象の構造に従う。本能が誤りうることから、本能が知的な手探りによって獲得されたことにはならない。これほど正確な認識の特殊な要素が、遺伝によって規則的に一つずつ伝わったと、どうして想定できようか。獲得形質の遺伝の議論の余地のない例は、現在の経験のなかに一つもない。
困難のすべては、膜翅類の知識を知性の言葉に訳そうとすることから来る。そのとき、ジガバチを昆虫学者に同化し、外からイモムシの神経中枢の位置を一つずつ学ばせることになる。しかし、ジガバチと獲物のあいだに、内側から傷つきやすさを教える、語源的な意味での共感があると仮定すれば、そうではなくなる。この感じは、二つの有機体としてではなく、二つの活動として向き合わされたことだけから生じる。科学はこの種の考察に訴えられないが、哲学は科学の役割が終わるところで始まる。
科学は、本能を、複合反射とするにせよ、習慣が自動性になったものとするにせよ、偶然の利点の総和とするにせよ、知的な行動か、知性が組み合わせるような機構かに解消しようとする。科学は、対象の現実の分析の代わりに、知性の言葉への翻訳を与える。しかし、生物学の最も明らかな成果は、進化が分かれた線に沿って行われたことであり、知性と本能がほぼ純粋な形で見いだされるのは、主要な二つの線の端においてである。ならば、なぜ本能が知的な要素に解消されなければならないのか。それはアリストテレスの自然理論に戻ることである。ただし、本能を底知れぬ神秘として立ち止まるよりはましだろう。本能は知性の領域に属さなくても、精神の限界の外にあるのではない。感情の現象、思慮のない共感と反感のうちに、われわれは、本能によって行動する昆虫の意識のなかで起こっているに違いないことの、何かを経験する。知性は、何よりも、空間の一点を別の点に、物質的な対象を物質的な対象に関係づける能力であり、あらゆる事物に適用されるが、それらの外にとどまる。イモムシの神経系の発生に表れる力を、われわれは、目と知性によっては、神経と神経中枢の並置としてしか捉えない。ジガバチは、ちょうど自分に関心のあることしかつかまないが、少なくとも内側から、表象されたというよりむしろ生きられた直観によってつかむ。それは、ものごとを見通す共感と呼ばれるものに似ている。
本能の科学的な理論は、本能を堕落した知性に同化することと、純粋な機構に還元することのあいだを行き来する。前者は、本能が純粋な反射ではありえないことを示すときに、後者は、本能が知性とは別のものだと言うときに、勝利する。これは、二つが、ある面では受け入れられ、別の面ではその対象に不適合な、二つの象徴体系であることを言う。具体的な説明は、科学的ではなく形而上学的なものであり、知性の方向ではなく共感の方向に探さなければならない。
本能は共感である。この共感が、その対象を広げ、自分自身に反省できるなら、生命的な作用の鍵をわれわれに与える。それは、発達し矯正された知性がわれわれを物質に導き入れるのと同じである。知性と本能は反対の二つの向きを向いている。前者は不活性な物質に、後者は生命に向かう。知性は生命について不活性の言葉への翻訳しかもたらさず、そのまわりを回って、外からできるだけ多くの見方を取る。生命の内部そのものにわれわれを導くのは、直観、すなわち、無私になり、自分自身を意識し、その対象に反省して、それを際限なく広げられるようになった本能である。
この種の努力が不可能でないことは、人間において、正常な知覚のかたわらに美的な能力が存在することが示している。われわれの目は、生きた存在の特徴を互いに並置されたものとして捉えるが、生命の意図、線を貫いて走り、線に意味を与える単純な運動は、目を逃れる。芸術家が再びつかもうとするのは、この意図であり、一種の共感によって対象の内部に身を置き直し、直観の努力によって、空間が自分とモデルのあいだに置く障壁を低くする。この美的な直観は個別的なものにしか達しないが、芸術と同じ向きに向けられ、生命一般を対象とする探求を考えることはできる。この哲学は、科学が対象についてもつのに匹敵する認識を得ないだろう。知性は光る核にとどまり、直観は漠然とした星雲しか形づくらない。それでも、直観は、知性の機構そのものを用いて、知性の枠組みがここではもはや正確に適用されないことを示し、枠組みの代わりに置かなければならないものの漠然とした感じを示唆する。生命が多の範疇にも一の範疇にも入らず、機械的因果性も目的性も生命的過程の十分な翻訳を与えないことを、直観は知性に認めさせる。直観は、われわれを生命に固有の領域、相互の浸透、際限なく続けられる創造へと導き入れる。しかし、直観を今の高さまで押し上げた衝撃は、知性から来たはずである。知性がなければ、直観は本能の形にとどまり、特殊な対象に釘づけにされていた。
認識論が知性と直観という二つの能力をどう考慮すべきかは、少し先で示す。認識の問題と形而上学の問題は一つになり、どちらも経験に属する。知性が物質に、直観が生命に合わせられているなら、形而上学は認識論に吊るされる。意識が直観と知性に分かれたのが、物質に適用される必要と生命の流れに従う必要のためなら、認識論は形而上学に吊るされる。二つの探求は円環をなし、その中心になりうるのは、進化の経験的な研究だけである。これが次章の対象である。
動物界の全体にわたって、意識は、生きた存在が自由にできる選択の力に比例して現れる。意識を行為の単なる補助、実際の行為が可能な行為とこすれ合って湧く火花とみなすこともできる。しかし、意識が結果ではなく原因であったとしても、事態は同じに進む。最も初歩的な動物でも、意識は権利上巨大な領野をおおっているが、事実上は万力に圧縮されていると想定できる。神経中枢が進歩するたびに、有機体はより多くの行為から選べるようになり、万力がゆるんで意識がいっそう自由に通るのだろう。行為は意識の道具だと言うほうが、いっそう真である。行為が行為と取っ組み合うことが、閉じ込められた意識が自らを解放する唯一の手段だからである。第一の仮説なら、意識は各瞬間に脳の状態を正確に描き、平行論が厳密になる。第二の仮説では、脳と意識のあいだに連帯はあるが、平行論はない。脳が複雑になるほど、意識はその物理的な随伴物をあふれ出さなければならない。同じ光景の記憶は、犬の脳も人間の脳も同じように変様させるだろうが、犬では記憶は知覚に囚われ、現在の知覚の演じられた再認として現れる。人間は、現在の知覚から独立に、記憶を呼び起こし、過去の生を表象し、夢見る。違いは二つの脳を全体として取った違いにあり、より複雑なほうが、意識を機構の締めつけから抜け出させ、独立に達させたのだろう。以前の著作で、再認と失語症の研究によって、二つの仮説のうち第二のものを選ぶべきことを示した。
生命の進化は、意識の大きな流れが物質に入り込んだかのように進む。その流れは、互いに浸透し合う莫大な数の潜在性を担っていたが、物質を組織化へと引き込んだ運動は、限りなく遅くなり、限りなく分けられた。一方で、意識は殻のなかで眠らなければならず、他方で、意識の傾向は有機体の分かれた系列に配分され、表象としてよりも運動として外に出された。ある者はますます深く眠り込み、他の者はますます完全に目覚めた。目覚めは、直観の向きか、知性の向きかの二つで行われた。直観は、生命と意識が内的にとどまるので、一見知性より好ましく見える。しかし、意識は直観を本能に狭めなければならず、自分に関心のある生命のごく小さな部分しか、影のなかで触れて抱けなかった。この側では地平がたちまち閉ざされた。意識が知性に決定され、物質に集中するとき、意識は自分に対して外に出るが、対象のあいだを巡り、障壁を回って、領域を際限なく広げる。いったん解放されれば、内部に折れ曲がり、自らのうちに眠る直観の潜在性を目覚めさせることもできる。
意識は進化の原動原理として現れるだけでなく、意識をもつ存在のなかで人間が特権的な位置を占める。動物と人間のあいだには、程度の違いではなく、本性の違いがある。
発明の帰結は、発明に対して並外れて不釣り合いである。知性は製作するために製作するのか、無意識に、まったく別のものを追求しているのか。製作とは物質の主人となることであり、人類の利益となるのは、発明の物質的な結果よりも、この支配のほうである。直接の利益は、発明が生じさせる新しい観念、新しい感情に比べればわずかである。発明の本質的な効果は、われわれを自分自身の上に高め、地平を広げることにあるかのようである。結果と原因の不釣り合いがあまりに大きいので、原因は結果を産出するというより、結果を引き金のように始める。すべては、知性が物質をつかむ主な目的が、物質が止めている何かを通すことにあるかのように進む。
人間の脳と動物の脳の違いは、体積と複雑さの違いにすぎないように見える。しかし、働きから判断すれば、それとはまったく別の何かがある。動物では、脳が組み立てる運動機構は、その習慣に描かれた運動を果たすほかに目的も効果もない。人間では、運動の習慣が、他の運動の習慣を阻止でき、自動性を従えて意識を自由にできる。言語は人間の脳で広大な領域を占め、言葉に対応する機構は、事物に対応する機構と取っ組み合わせられうる。そのあいだに、行為の遂行に溺れていたはずの意識は、自分を取り戻して解放される。違いは、注意を吸い取る機構と、気をそらしていられる機構とのあいだに見いだされる。ニューコメンの原初の蒸気機関は、栓の操作だけを担当する人を要求したが、退屈した一人の子供が栓のクランクを紐で機関のてこに結び、機関はひとりで動いた。二つの機関を比べる観察者は、複雑さのわずかな違いしか見いださないが、子供たちを見れば、一方は見張りに没頭し、他方は好きなように遊べる。第一の機関は注意を捕らえて離さず、第二の機関は注意に暇を与える。動物の脳と人間の脳の違いは、同じ種類の違いである。
目的性の言葉で言うなら、意識は、自分を解放するために、組織化を植物と動物という補い合う二つに分けざるをえず、本能と知性の二方向に出口を探した。本能では見つからず、知性の側でも、動物から人間への突然の跳躍によってしか得られなかった。したがって、突き詰めれば、人間こそが、この惑星の生命の組織全体の存在理由となる。しかし、これは一つの言い方にすぎない。実際にあるのは、存在のある流れと、それに逆らう流れだけである。生命の進化の全体は、そこから来る。次に、この二つの流れの対立を近くから見て、それらの共通の源を見いだすだろう。それによって、われわれは形而上学の最も暗い領域にも入るが、二つの方向が、一方は知性に、他方は本能と直観に印されているので、道に迷う心配はない。生命の進化の光景は、互いに含み合う、ある認識の構想と、ある形而上学を示唆する。それらは、ひとたび引き出されれば、進化の全体に光を投げかけるだろう。
第三章 生命の意味について 自然の秩序と知性の形式 第一章では、無機的なものと組織されたものとのあいだに境界線を引いたが、物質を無機的な物体に切り分けることは、われわれの感覚と知性に相対的であり、物質は、分かれない全体として考えれば、物よりもむしろ流れでなければならないことを示した。第二章では、同じ対立が知性と本能のあいだにもあることを述べた。本能は生命のある規定に適合し、知性は粗大な物質の形にかたどられている。しかし、どちらも一つの同じ背景から切り離される。その背景は、意識一般と呼べるだろうし、普遍的な生命と外延を等しくするはずである。
したがって、知性の発生を物体の発生と同時に試みる時が来た。われわれの知性の大きな線が、物質に対するわれわれの行為の一般的な形を描き、物質の細部が行為の要求に調整されるなら、知性的なものと物質的なものは、細部においては、相互の適応によって構成されたのだろう。その両方が、より広く、より高い存在の形から派生するだろう。
この試みは、形而上学者の最も大胆な思弁を超えるように見える。心理学も宇宙論も形而上学も、知性を本質的なところで与えられたものとして出発するが、ここで問うのは、知性をその形式と質料の両面から生み出すことだからである。企ては実際にははるかにつつましい。しかしまず、他の企てとどこで区別されるかを述べよう。
心理学が動物の系列を通して知性の漸進的な発達をたどるとき、知性を生み出すのではない。動物の知性は、物質の世界のなかに、われわれが見分けるのと同じ一般的な方向を見分け、同じ関係で結ばれた同じ対象に拠っている。そのため、本来の概念をつくらなくても、すでに概念的な雰囲気のなかで動いている。表象を思考するというよりも演じているが、この演技はすでに人間の知性の図式をおおよそ描いている。人間の知性を動物の知性によって説明するとは、人間性の胚を発達させることにほかならず、方向を立てた以上、知性はすでに与えられている。
スペンサーのような宇宙生成論でも、知性は与えられている。物質が法則に従い、対象と事実が不変の関係で結ばれ、意識がその刻印を受けて知性として決定される、と見えるが、対象と事実を立てるやいなや、知性を想定している。経験に先立って、物体の物質性は、われわれが触れる点で止まらない。引力は太陽にも宇宙全体にも及び、物理学が進むほど、物体や微粒子の個体性を消し去っていく。われわれの知覚は、事物そのものの素描よりも、事物に対するわれわれの可能な行為の素描を与える。対象に見いだす輪郭は、われわれが到達でき、変更できるものを印し、物質を貫いて引かれているのを見る線は、われわれがそこを行き来するよう促されている線である。軟体動物や昆虫が同じ関節に沿って物質を切り分けているかは疑わしい。本能に従うには、対象を知覚する必要はなく、性質を見分ければ足りる。知性は、最も謙虚な形でも、物質が物質に作用するようにすることをめざし、分けることに携わるほど、物質を空間のなかに展開する。物質は空間性へ向かうが、その部分はなお、含み合い、浸透し合う状態にある。精神を、自らを別個の概念として決定するように向かわせる同じ運動が、物質を、互いに外にある対象に細分させる。意識が知性化するほど、物質は空間化する。進化論の哲学は、行為がたどる線に沿って切り分けられた物質を空間に表象するとき、生み出すと主張した知性を、すでに自らに与えている。
形而上学は、思考の範疇を経験に先立って演繹するとき、同じ種類の、より精妙な仕事を行う。知性を絞り、空虚だと思えるほど単純な原理に収め、そこから、そこに潜在的に入れたものを引き出す。それによって知性が自分自身と矛盾しないことは言えるが、知性の発生は描かれない。フィヒテの企ては、事物の真の秩序をより尊重する点でスペンサーより哲学的であるが、ほとんど遠くへ導かない。フィヒテは思考を凝縮した状態で取り、実在へと広げ、スペンサーは外的な実在から出発し、知性へ再び凝縮する。どちらの場合にも、知性を、まず自らに与えなければならない。
哲学者の大半が一致するのは、自然の統一を認め、それを抽象的で幾何学的な形で思い描くからである。組織されたものとされていないものとのあいだの断絶を、彼らは認めようとしない。ある者は無機的なものから生きたものを再構成し、別の者は生命から出発して、デクレッシェンドによって粗大な物質へ進むが、どちらにとっても、自然には程度の違いしかない。この原理が認められると、事物のうち幾何学的なものが人間の知性に完全に接近できる以上、残りのすべても同じく知解可能になる。これが大部分の体系の公準である。
これらの思弁の底には、互いに補い合う二つの確信がある。自然は一つで、知性の機能はそれを全体として抱くことにある。認識する能力は経験の全体と同じ広がりをもつとされるので、その発生は問題にならない。ある者には、知性が抱くのは実在そのものであり、別の者には幻影にすぎないが、つかむものは、つかみうるものの全体だと想定されている。ここから、哲学が個々の精神の力に対して抱く過大な信頼が説明される。哲学は一人の哲学者の作品であり、全体についての唯一の包括的な眺めである。それは、受け入れるか、退けるかである。
われわれの求める哲学は、もっと慎ましく、自らを補い完成させていける唯一の哲学である。われわれの考える人間の知性は、プラトンが洞窟の比喩で描いた知性とはまるで違う。知性の役目は、影が通るのを眺めることでも、振り返って星を観照することでもない。畑を耕す牛のように、われわれは筋肉と関節の動き、鋤の重み、土の抵抗を感じる。行動し、行動していると知ること、実在に触れてそれを生きること。ただしそれは、なされる仕事と掘られる畝に関わる範囲に限られる。これが人間の知性の機能である。それでも、恵みを与える流体がわれわれを浸しており、そこからわれわれは、働き生きる力そのものを汲み上げている。われわれの存在、あるいはそれを導く知性は、この生命の海に、一種の局所的な固化によって形づくられた。哲学は、全体のなかに再び溶け込もうとする努力でしかありえない。知性は、自らの原理のなかに吸収されることで、自分自身の発生を逆向きに生き直すだろう。この企ては、一挙には果たされず、集団的で漸進的になる。印象の交換が互いに訂正し合い重ね合わされて、ついには、われわれのうちの人間性を広げ、人間性が自らを超えるようにさせる。
しかし、この方法には、精神の最も根深い習慣が反対する。知性より先へ進もうとしても、知性そのものによらずに、どうやってそうするのか。意識のなかの明るいものはすべて知性であり、知性の発生をつくるにも、知性によってする、と言われる。
この異論は、どんな新しい習慣も身につけることの不可能を、同じように証明してしまう。推論はわれわれを与えられたものの円環に閉じ込めるが、行為は円環を破る。泳ぐのを見たことがないなら、泳ぐのは不可能だと言う人がいる。泳ぎを学ぶには、まず水の上に浮かばなければならないからである。しかし、恐れずに水に飛び込めば、私は水と格闘しながら浮かび、少しずつ泳ぎを学ぶ。理論上は、知性によらずに認識しようとすることには不条理があるが、危険を率直に受け入れるなら、行為は、推論が結び、解くことのできない結び目を断ち切るだろう。
われわれの観点を採るほど、危険は小さく見える。知性は、より広い実在から切り離されたが、両者のあいだに明確な断絶はなく、概念的思考のまわりには、起源を思い出させる不明瞭な縁が残っている。知性は、凝縮によって形成された固い核であり、それを包む流体と根本的には異ならない。核が流体に吸収されるのは、同じ実質でできているからである。固い地面の抵抗しか知らずに水に飛び込む者は、水がなお示す固さにしがみつかざるをえず、そうしてのみ、流体のあやふやなところにも順応する。跳躍を決意したときのわれわれの思考も同じである。
しかし、思考は跳ばなければならない。すなわち、自分の環境から出なければならない。理性が自らの力について推論しても、その力を広げるに至ることはない。歩行という主題の上に千も万も変奏を行っても、泳ぎの規則は引き出せない。水に入って泳げるようになれば、泳ぎの機構が歩行の機構とつながっていることが分かる。泳ぎは歩行の延長だが、歩行があなたを泳ぎへ導き入れることはなかっただろう。知性の機構について知的に思弁しても、より複雑なものは得られるが、より高いものも、異なるものも得られない。意志の行為によって、知性を自分の家から押し出さなければならない。悪循環は見かけにすぎない。これに対して、他のあらゆる哲学の仕方では、悪循環は実際にある。
一見すると、事実の考察を実証科学に委ねるのは慎重に見える。物理学と化学が粗大な物質を、生物学と心理学が生命の現れを扱い、哲学者は学者の手から事実と法則を受け取って、認識する能力の批判と、場合によっては形而上学を重ねる。しかし、この分業は、すべてを混同することに帰着する。哲学者が自分のために留保する形而上学や批判は、哲学者が学者に任せた記述と分析のなかに、すでに含まれている。事実の問題に介入しなかったために、哲学者は、科学が実在に対して取る態度が描く、無意識の、一貫性のない形而上学と批判を、より正確な言葉で言い直すことに還元される。ここは法廷の領域ではない。法廷では事実の記述と判断は別のものだが、ここでは法則は事実に内在し、対象の外観を記述することは、その内的な本性と組織について予断することなしにはできない。原理の問題を哲学に留保して、哲学を諸科学の上に置こうとした者は、哲学を単なる登記所にするに至る。
実証科学は純粋な知性の作品であり、知性は組織されていない物質を前にして心地よく感じ、物質をより機械的に考えるほど、機械的な発明は容易になる。知性は、自然な論理学の形で、隠れた幾何学主義を担っている。知性が生命の研究に取りかかるとき、生きたものを不活性なものとして扱い、同じ習慣を持ち込む。そうするのは正しい。この条件でのみ、生きたものは、不活性な物質と同じく、行為の手がかりをわれわれに与える。しかし、こうして行き着く真理は、行為するわれわれの能力に相対的になり、象徴的な真理でしかない。したがって、哲学の義務は、ここで積極的に介入し、実際的な利用の下心なしに、固有の知的な形式と習慣から自らを解き放って、生きたものを検討することである。哲学の対象は、思弁すること、すなわち見ることである。生物学的な事実と心理学的な事実を実証科学だけに委ねるなら、哲学は、物質的な必要から生まれた自然全体についての機械論的な構想と、認識の統一、自然の抽象的な統一の学説を、経験に先立って受け入れるだろう。
そうなれば、哲学者に残る選択は、形而上学的な独断論と懐疑論のあいだだけである。哲学者は、自然の統一を、何もしないので無に等しい無力な神にも、事物の性質と法則が流れ出す永遠の物質にも、純粋な形式にも実体化しうる。これらの哲学はすべて、科学が生きたものを不活性なものとして扱うのは正しく、結果のあいだに価値の違いも、行うべき区別もないと言うだろう。
それでも、枠が軋むのが感じられる。不活性なものと生きたものの区別から始めなかったために、一方は枠にあらかじめ合っているのに、他方は本質的なものを除くという取り決めによってしか、枠に収まらない。そのため、枠が含むすべてのものに等しい疑いをかけざるをえない。科学の人為的な統一を絶対に高めた独断論の後には、一部の結果の人為的な性格を、科学のすべての結果に広げる、懐疑論あるいは相対主義が続く。哲学は、絶対的実在を不可知とみなす学説と、科学が言ったこと以上を何も言わない学説とのあいだを、揺れ動くだろう。見かけの悪循環を避けようとして、実際の悪循環のなかを回ることになる。
これに対して、不活性なものと生きたもののあいだに境界線を引くことから始めよう。前者は自然に知性の枠にはまるが、後者は人為的にしかそこに向かない。後者に対しては、実証科学の目とは違う目で検討しなければならない。こうして哲学は経験の領域に入り、科学、認識の理論、形而上学は同じ地盤に置かれる。はじめ三者とも何かを失ったと思うが、この出会いから利益を得る。
科学的認識は、その主張が経験の全領域で一様な価値をもつとされることを誇りにできたが、すべてが同じ列に置かれていたために、同じ相対性に染まった。悟性は、不活性な物質の領域で自分の家にいる。人間の行為は本質的にそこに行使され、行為は非実在のなかを動けない。したがって、物理学の一般的な形式だけを考えるなら、物理学は絶対に触れている。これに対して、科学が生きたものに対して取りつきを得るのは、偶然による。科学が生命の深みに入り込むほど、その認識はますます象徴的になり、行為の偶然性に相対的になる。哲学は、この新しい地盤では科学に従い、科学的真理の上に、形而上学と呼べる別種の認識を積まなければならない。そのとき、われわれの認識のすべては持ち上がる。絶対のなかに、われわれはいて、動き、生きている。それについてもつ認識は、不完全ではあるが、外的でも相対的でもない。科学と哲学の結合した発達によって、われわれは深みにおける存在そのものに達する。
悟性が外から課す人為的な統一を捨てることで、われわれは内的で生きた、真の統一を見いだし直すだろう。純粋悟性を超える努力は、われわれを、より広い何かに導き入れる。そのなかに悟性は切り出され、そこから切り離されたに違いない。物質が知性に調整されているのだから、一方を生み出すには、他方の発生をつくらなければならない。同一の過程が、物質と知性を同時に、その両方を含んでいた布地から切り出したに違いない。
そこで、外から最も切り離され、知性的なものに最も浸されていないものへ、精神を集めよう。自分の最も深いところに、自分の生にとって最も内的だと感じられる点を探そう。そのとき再び浸るのは、純粋な持続である。そこでは、進みつづける過去が、まったく新しい現在によってたえずふくらんでいる。同時に、意志のばねが極限まで張られるのを感じる。人格が自分自身へ激しく収縮し、逃げ去る過去を拾い集め、密に分かれないまま現在のなかへ押し込まなければならない。その現在は、過去が入り込むことで創造される。この程度まで自分自身を取り戻す瞬間は、きわめてまれであり、われわれの真に自由な行為と一つである。持続の感情、自我の自分自身との一致には、程度がある。一致が完全なほど、そこで置き直される生は、知性的なものを超えながら取り込んでいる。知性の本質的な機能は同じものを同じものに結びつけることで、知性の枠にぴったり合うのは、繰り返される事実だけだからである。知性は、実在の持続の瞬間に、後から取りつきを見いだす。新しい状態を、外から取られた既知のものに似た見方の系列で再構成するのである。しかし、状態は不可分で新しいので、知性的なものと通約できないままである。
次に、緩もう。過去のできるだけ大きな部分を現在に押し込む努力を中断しよう。弛緩が完全なら、もはや記憶も意志もない。われわれは絶対的な受動性に陥ることがないが、極限において、絶えず再び始まる現在からなる存在をかいま見る。そこに実在の持続はなく、あるのは、果てしなく死んでは生まれ変わる瞬間だけである。これは物質の存在か。完全にそうだというわけではない。分析は物質を要素的な振動に解消するが、その最も短いものも、零ではない持続をもつ。それでも、物理的な存在はこの第二の向きに傾き、心的な存在は第一の向きに傾くと、推定できる。
したがって、一方の精神性の底と、他方の物質性と知性的なものの底には、反対向きの二つの過程がある。第一から第二へは、逆転によって、おそらく単なる中断によって移るのだろう。この推定は、事物を広がりの観点からも考えるなら、確かめられる。
純粋な持続のなかでの自分の進みを意識するほど、われわれは存在の部分が互いに入り込み、人格の全体が一つの先端に集中し、その先端が未来のなかに差し込まれて、未来を絶えず削っていくのを感じる。自由な生と行為はこれにある。反対に、身を任せて、行為する代わりに夢見ると、自我は散らばる。自分自身に集まっていた過去は、互いに対して外に出る千もの想起に分解し、固まるほど互いに浸透し合うことをやめる。こうして人格は空間の方向に降りていく。すべての感覚はある程度に延長的であり、広がりをもたない感覚という観念は、無意識の形而上学が示唆する、精神の見方にすぎない。
身を任せるときでも、広がりの方向に進むのは最初の数歩にすぎない。しかし、物質がこの運動をさらに押し進めたものからなり、物理的なものが単に逆転した心的なものだと仮定しよう。そうすれば、精神が空間のなかをこれほど自然に動き回ることが理解される。この空間の表象を、精神は、自分の弛緩の可能性、延長の可能性について取る感情のなかに、暗黙のうちにもっていた。物質は、まず精神を助けて自らの坂を降りさせ、衝動を与えた。精神が純粋な空間について形づくる表象は、この運動が行き着く終点の図式にすぎない。空間の形式を手にしたとき、精神はそれを網のように物質に投げかけ、行為の必要が求めるとおりに物質を分割する。こうして、幾何学の空間と事物の空間性は、同じ本質をもちながら反対向きに進む二つの項であり、作用と反作用によって互いを生み出す。空間は、われわれが思い描くほど本性に無縁ではなく、物質も、知性や感覚が表象するほど完全には空間のなかに広がっていない。
完全な空間性とは、部分どうしが互いに対して完全に外にある、完全な相互独立である。ところが、他のどんな物質的な点にも作用しない物質的な点はない。ファラデーのように、すべての原子が互いに浸透し、各々が世界を満たすと言うなら、原子は精神の見方になる。それでも、科学が宇宙を、互いに相対的に独立な系に切り分け、目立った誤りを犯さないことは否定できない。これは、物質が空間のなかに広がるが、絶対的には広がっていないこと、孤立した系に分解できるとみなし、変質せずに動くはっきり別個の要素を物質に帰すとき、物質がその方向を描くだけの運動の終点に、われわれ自身を移していることを意味する。
カントの超越論的感性論が決定的に確立したと思われるのは、広がりが他の物質的属性に比べられる属性ではないということである。重さや熱の様態を知るには経験と再び接触しなければならないが、空間の観念については、精神が自らの力だけでそこに経験に先立って図形を切り出し、その性質を決定し、精神が接触を保たなかった経験が、それでも推論に従う。これが事実である。カントはそれを明るみに出した。しかし、この事実の説明は、カントが踏み込んだのとはまったく別の道に探さなければならない、とわれわれは考える。
カントが表象して見せる知性は、空間性の雰囲気に浸っており、生きた体が呼吸する空気と結びついているように、その雰囲気と不可分である。われわれの知覚は、その雰囲気のなかであらかじめ幾何学を染み込まされており、思考する能力は、知覚する能力があらかじめ物質に置いた数学的な性質を、見いだし直すにすぎない。しかし、この物質は、知解可能な限りでは、われわれの作品である。それ自体における実在について、われわれは何も知らないことになる。空間の観念性は、認識の分析によって直接に、反対の主張が導く二律背反によって間接に証明される。これがカント的批判の指導的な観念であり、われわれの考えでは、経験論的理論を論駁するところで決定的である。しかし、それが肯定するところで、問題の解決をもたらすだろうか。
批判は、空間を、知覚する能力のできあがった形式として自らに与える。それは機械仕掛けの神であって、なぜそうなのかが見えない。批判は物自体を自らに与えながら、何も認識できないと主張する。ならば、いかなる権利でその存在を主張するのか。不可知な実在が、感性的な多様をわれわれの知覚する能力に投影するなら、実在はすでに部分的に知られている。カントが空間をできあがったものとして自らに与えざるをえなかったのは、空間性に程度を区別しなかったからである。同じ理由で、物質が互いに絶対的に外にある部分へと完全に展開されていると信じ、そこから二律背反が生じた。純粋な空間について真であることを物質にまで広げるのをやめるやいなや、二律背反は消える。そこから、認識の理論のために選ぶべき選択肢は、精神が事物に従うか、事物が精神に従うか、両者のあいだに神秘的な一致を想定するかの三つだけだという結論が出る。
しかし、第四の選択肢がある。カントは、精神が知性をあふれ出ることを考えず、持続に絶対的な存在を認めず、時間を経験に先立って空間と同じ線上に置いたので、それを考えなかった。この解決は、知性を、本質的に不活性な物質に向けられた、精神の特殊な機能とみなすことにある。物質が知性の形式を決めるのでも、知性が物質に形式を課すのでも、予定調和があるのでもなく、知性と物質が少しずつ適応し合って共通の形式に落ち着いたと言うことにある。この適応は、ごく自然に果たされたであろう。同じ運動の同じ逆転が、精神の知性的なものと事物の物質性とを、同時に生むからである。
この観点から、物質についてわれわれの知覚と科学が与える認識は、近似的であるが、相対的ではない。知覚は、行為を照らす役割をもち、物質の切り分けを常にあまりに明確に行い、常に見直されなければならない。科学は、数学的な形を取ろうとするので、物質の空間性を必要以上に際立たせる。われわれは問題を一つずつ、暫定的な言葉で立てざるをえないので、科学は全体として、問題が次々と立てられた順序に相対的である。この意味で、科学は規約的であるが、それは事実上のものであり、権利上のものではない。原理上、実証科学は、不活性な物質から出ない限り、実在そのものに関わる。
科学的認識はこのように持ち上がる。その代わり、認識の理論は、純粋な知性の力を超える企てになる。思考の範疇を定めるだけでなく、それらを生み出すことが問題になる。空間については、精神の努力によって、空間外のものが空間性へと劣化していく後退をたどらなければならない。自分の意識のできるだけ高いところから少しずつ降りていくと、自我が、分かれない行為的な意欲の中に張られていたのが、外に並ぶ不活性な想起へと広がっていく感じがする。しかし、意識はそこまで遠くへは行かない。他方、物質を考えると、並置されていると言った部分が互いに入り込み、その各々が全体の作用を受ける。物質は空間の向きに展開しても、そこに完全には行き着かない。物質は、意識が生まれつつある状態で素描しえた運動を、はるかに先まで続けているにすぎない。われわれは鎖の両端を手にしている。物理学は、物質を空間性の向きに押し進めるとき、自分の役割を心得ている。形而上学に固有の課題は、逆に、物理学が降りる坂を上って物質を起源に連れ戻し、逆向きの心理学であるような宇宙論を少しずつ築くことではないか。物理学者や幾何学者に積極的と見えるものは、この観点では、真の積極性が中断され、転倒したものになる。真の積極性は、心理学的な言葉で定義されなければならない。
数学の見事な秩序を考えるなら、これほど積極的に見える性質のなかに、真の実在の不在を見ることにはためらいが生じるだろう。しかし、この秩序を賛嘆する知性は、対象の物質性と空間性に行き着く運動の向きそのものに向けられている。対象に複雑さを入れるほど、見いだす秩序も複雑になり、この秩序と複雑さは知性と同じ向きなので、知性には積極的な実在に見える。
詩人が自分の詩を読んで聞かせるとき、私は彼の思考に入り込み、彼が文と言葉に散らした単純な状態を生き直せる。私は彼の霊感に共感し、連続した運動でそれに従う。その運動は、霊感と同じく分かれない行為である。いま私が注意を緩めると、意味のなかに溺れていた音が、一つひとつ、その物質性において現れる。付け加えるべきものは何もなく、差し引くだけで足りる。身を任せるほど、音は個別化し、言葉は音節に刻まれ、さらに進めば、文字が互いに区別され、想像上の紙の上に絡み合って流れる。私は、行列の見事な秩序、文字が音節に、音節が言葉に正確にはまり込むさまに驚嘆するだろう。弛緩の向きに進むほど、延長と複雑さを多くつくったことになり、要素のあいだの秩序もいっそう見事に見える。しかし、この複雑さと延長は、積極的なものを何も表さず、意欲の欠如を表す。秩序が複雑さとともに増すのは当然である。秩序は複雑さの一つの面にすぎず、分かれない全体の部分が多いほど、部分が互いにもつ関係の数も増すからである。この比較は、積極的な実在の消去、原初の運動の逆転が、空間の延長と数学的な秩序を、同時に創造しうることを理解させる。言葉と文字は人類の努力によって発明されたが、空間は、引き算の残りが生じるように自動的に生じる、という違いがある。
知性の作用はすべて、完成を見いだす終点として、幾何学に向かう。しかし幾何学は、これらの作用に先立つ。これらの作用は空間を再構築するに至らず、空間を自らに与えるほかないからである。知性を動かしているのは、空間の表象に内在する、隠れた幾何学である。それは、知性の二つの本質的な機能、演繹する能力と帰納する能力を考えれば納得される。
演繹から始めよう。空間のなかに図形を描く運動が、その性質を生み出す。性質は、この運動のなかに、見えて触れられる。定義とその帰結、前提と結論の関係を、私は空間の中で感じ、生きる。経験が観念を示唆する他の概念は、経験に先立って部分的にしか再構成できず、その演繹も不完全さを共有する。しかし、砂の上に三角形の底辺を描き、二つの角が等しければ辺も等しくなることを、私は幾何学を学ぶずっと前から知っている。学問的な幾何学に先立って自然な幾何学があり、その明晰さは他の演繹を超える。他の演繹は質に関わり、おそらく前者をモデルにして形成され、質の下に量が透けて見えることから力を借りている。位置と大きさの問題は、行為に外化された知性が、反省する知性より前に解く問題であり、未開人は、距離を見積もり、通ってきた道の図式を描き直すことに長けている。動物が明示的に演繹せず、概念をつくらないなら、均質な空間も表象しない。空間を自らに与えるには、自ずと論理学へ劣化していく潜在的な幾何学を導入しなければならない。精神性が、前提と通約できない結論への前進、新しい創造への前進を意味するなら、前提が結論をあらかじめ含む必然的な決定の関係のなかを動く表象は、逆の向き、物質性の向きをたどる。知性の観点から努力と見えるものは、それ自体においては放棄である。空間が精神の弛緩運動の終点であるなら、論理学と幾何学を立てずに空間を自らに与えることはできない。
心理学と道徳の諸科学において、演繹の射程は弱い。検証された命題から検証可能な帰結を引き出せるのは、ある程度までで、すぐに常識、すなわち実在の連続した経験に訴えて、帰結を生命の蛇行に沿って折り曲げなければならない。演繹が道徳的な事柄で成功するのは、道徳的なものが空間的な象徴に訳せる限りにおいてであり、比喩は遠くまで行かない。これは精神の純粋な作用であるのに、精神の領域でこそ演繹はたちまち力を使い果たす。これに対して、幾何学、天文学、物理学では、演繹は全能である。演繹は、物質の歩みに調整され、物質の可動的な関節をかたどり、物質を下から支える空間とともに暗黙に与えられた作用である。演繹が空間のなかを転がるかぎり、それは身を任せるだけでよい。車輪に棒を突っ込むのは持続である。
帰納についても同じことが言える。動物の意識も、生きた体そのものも、継起した状況から自分に関心のある類似を抽出し、刺激に適切な反応で応えるようにつくられている。しかし、そこから知的な操作である本来の帰納までは遠い。帰納は、同じ原因に同じ結果が続くという信念に基づく。それは、実在が、実用上は独立しているとみなしうる集団に分解できることを含意する。こんろの上の鍋で水を沸かす操作は、実際には太陽系の全体と連帯しているが、水・鍋・火のついたこんろの集団が独立した小宇宙であるかのように、ことが進むと認める。この小宇宙は常に同じに振る舞うと言うとき、系の一定数の要素を与えれば、系が自動的に完成すると認めている。この信念は、小宇宙が量だけを含むときには絶対的な確実性を帯びる。三角形の二辺とその間の角を与えれば、第三の辺はおのずから現れる。この限界の場合が、他のすべてを通して透けて見え、透明さの程度に応じて、幾何学的必然性の色合いを与えるのではないか。今日の系を昨日の系に想像力で移すのは、重ね合わせた二つの三角形の第三の辺が一致するのと同じ理由による。しかし、そうできるのは、二つの本質的な点に目を閉じているからである。今日の系が昨日の系に重ね合わせられるには、時間が止まり、すべてが同時になっていなければならない。これは幾何学でだけ起こる。帰納はまた、質が量のように重ね合わせられることを含意する。しかし、二つの質の一致とは何か。物理学者は後に、質の違いを大きさの違いに還元することでこの操作を正当化するが、あらゆる科学に先立って、私は質を量に同化する傾向があり、質の背後に幾何学的な機構が透けて見える。この透明さが完全であるほど、同じ条件での同じ事実の反復は必然的に見える。幾何学は、演繹の理想的な限界であるのと同じく、帰納の理想的な限界でもある。空間性を終点とする運動は、その行程に沿って、演繹する能力と帰納する能力を、知性的なものの全体を置いていく。
それは、それらを精神のなかにつくるが、事物のなかにも、帰納が演繹の助けを借りて見いだす秩序をつくる。この秩序に、われわれの行為は背をもたせかけ、知性は自らを認める。同じ原因が常に同じ全体的な結果を生むだけでなく、科学は、分析を押し進めるほど、無限の微小な変化が正確にはまり込むのを発見し、物質は幾何学そのものになるように見える。しかし、実在の全体を、継起する創造への、分かれない前進として考えるなら、物質的要素の複雑さと数学的な秩序は、全体の内部に部分的な中断あるいは逆転が生じるやいなや、自動的に現れる。知性は精神のなかで同種の過程によって切り出されるので、この秩序と複雑さに自らを認めて感嘆する。しかし、それ自体において驚くべきものは、分かれない実在の全体が前進しながら果たす、絶えず新たにされる創造である。数学的な秩序は、世界に新しさの原子一つも導入しない。創造の力は、自由に行為するとき自分のうちで意識されるが、自分自身から気をそらすだけで弛み、弛むことで広がり、区別された要素の配置を統べる数学的な秩序と、それらを結ぶ決定論が、創造の行為の中断を示す。それらは、この中断そのものと一つである。
物理的世界の個別の法則が表現するのは、この否定的な傾向である。法則のどれも、単独に取れば客観的な実在をもたず、事物をある角度から考え、ある変数を孤立させ、規約的な測定単位を適用した学者の作品である。それでも、物質に内在する、近似的に数学的な客観的な秩序があり、科学はそれに近づく。物質が、非延長から延長へ、自由から必然への弛緩であるなら、純粋で均質な空間と一致しないにせよ、そこへ至る運動によって構成されており、幾何学の道の上にある。数学的な形の法則が物質に完全に当てはまることはない。そのためには物質が持続から出ていなければならない。
物理的法則の数学的な形には、人為的なものが多い。測定単位は規約的であり、熱のあらゆる様態を水銀の膨張に関係づけたのは、自然の意図ではない。測ることは、二つの対象を一定の回数、重ね合わせることを含意する人間的な操作であり、自然は測らず、数えない。それでも物理学が、数え、測り、法則を得て成功するのは、物質性を構成する運動が、われわれがその終点、均質な空間まで延長した同じ運動だからである。この延長を果たすために、知性は自分自身を延長するだけでよい。知性的なものと物質性は同じ本性をもち、同じ仕方で生み出されるからである。
数学的な秩序が積極的なものであり、物質に内在する法則があるなら、科学の成功は奇跡に近いだろう。自然が選んだ変数を正確に孤立させる見込みはどれほどあるか。また、物質がわれわれの枠にはまるのに必要なものをもっていなければ、成功は理解できない。したがって、数学的な秩序は何ら積極的なものではなく、ある中断がおのずから向かう形であり、物質性がこの種の中断にあるという仮説だけが残る。そう考えれば、科学が偶然的で、選んだ変数と問題を立てた順序に相対的であるのに、成功することが理解される。足に鉛のついたコルクの人形は、どんな姿勢に置いても自動的に立ち上がる。物質も、どの端から取り、どう扱っても、われわれの数学的な枠のどれかに落ち着く。物質が幾何学で重りをつけられているからである。
しかし、哲学者は、このような考察の上に認識の理論を築くことを拒むだろう。数学的な秩序は、秩序である以上、何か積極的なものを含むように見えるからである。この秩序が、逆の秩序の中断によって自動的に生じると言っても、秩序がまったくなかったかもしれないという観念は残る。事物の数学的な秩序は、無秩序に対する勝利として、積極的な実在をもつと思われる。認識の理論に関する問題で、無秩序の観念は決定的な役割を果たすが、明示的には現れず、注意されてこなかった。実在論者は、客観的な法則が自然の可能な無秩序に課す規制を語り、観念論者は、悟性の組織する影響のもとで調整される感性的多様を想定する。秩序の不在という意味に解された無秩序の観念こそ、まず分析しなければならない。哲学はこの観念を日常の生活から借りている。われわれは、無秩序を語るとき、何を考えているのか。
否定的な観念の内容を定めることがいかに難しいかは、次章で見る。困難と錯覚は、本質的に暫定的な表現の仕方を最終的なものとして受け入れること、実践のためにつくられた手続きを思弁の領域に持ち込むことに由来する。私が書棚から無作為に一冊を取り、ざっと目を通して、「これは韻文ではない」と言いながら棚に戻すとしよう。私が目にしたのは韻文の不在ではなく、散文である。しかし、私は詩を望んでいるので、探しているものの関数として、見いだしたものを表現する。逆に、散文を読みたくなって韻文の本に出会えば、「これは散文ではない」と叫ぶだろう。ジュルダン氏が私の言うことを聞いていたら、散文と詩は、散文でも韻文でもない粗い言語の上に重なった二つの形式だと、推論するだろう。彼はそれを考えていると思うだろうが、それは擬似表象にすぎない。擬似表象は擬似問題を生む。ジュルダン氏が哲学の先生に、二つの形式がそのどちらももたないものの上にどのように付け加わったのかを尋ねるなら、その不条理は、散文と詩の共通の基体として、両者の同時の否定を実体化したことから来る。一方の否定が他方の措定にあることを忘れているのである。
二種類の秩序があり、無秩序の観念が、一方を探して他方に出会うたびに精神に現れると仮定しよう。そのとき、無秩序の観念は、日常の実践では、自分が必要とする秩序とは別の、いまは用がない秩序を前にした精神の失望を、客観化する。しかし、それは理論的な用途を許さない。それは別の秩序のために一つの秩序の不在を記していたが、二つの秩序のあいだを往復するので、われわれはそれを、二つのラケットのあいだの羽根のように受け止め、両方の不在を併せて表すかのように扱ってしまう。それは知覚も構想もされない、単なる言葉の実体である。こうして、秩序がどのように無秩序に課されるのかという問題が生まれる。この観念を分析すれば、何も表していないことがわかり、問題も消える。
そのためには、通常混同されている二種類の秩序を、まず区別し、対立させなければならない。実在は、われわれの思考を満足させる程度に秩序づけられている。秩序とは、主観と客観のあいだのある一致、事物のなかに自分を見いだす精神である。しかし、精神は二つの反対の向きに進みうる。あるときは自らの自然な方向をたどる。それは緊張の形での進歩、連続した創造、自由な活動である。あるときはそれを逆転し、延長へ、互いに外に出た要素の必然的な相互決定へ、幾何学的な機構へと導く。どちらの場合にも、精神が自分を見いだすので、われわれは秩序があると言い、両者の混同は自然である。第二の類の秩序は、その究極の限界である幾何学によって定義でき、原因と結果のあいだの必然的な決定の関係であり、慣性、受動性、自動性の観念を呼び起こす。第一の類の秩序は、目的性のまわりを揺れるが、目的性によって定義できない。自由な行為や芸術作品が完全な秩序を示すのは、観念の言葉で表現できるのが後からであり、近似的にでしかないからである。創造的進化として考えた生命全体も、目的性を、あらかじめ構想された観念の実現と解するなら、それを超える。したがって、目的性の枠は、生命をその全体において収めるには狭すぎ、個々の現れに対してはしばしば広すぎる。第一の秩序は生命的なもの、意志されたものの秩序であり、第二の、不活性なもの、自動的なものの秩序と対立する。
第一の類の秩序がこれほどはっきりした形を取るのは例外的である。日常の経験で出会うのは、ほぼすでに知られた形態と事実を繰り返す、特殊な生命の現れである。無機的な類は生きた類をモデルにしているように見える。生命的な秩序は、物理的な秩序と同じく、われわれの経験を繰り返させ、精神が一般化することを許す。しかし、この性格は、二つの場合でまったく異なる起源をもち、反対の意味さえもつ。物理的な秩序では、同じ成分が同一の合成力を与える幾何学的な必然である。生命的な秩序では、要素的な原因が無限に複雑でも、同じ結果を得るように、何かが仕組む介入を含意する。生きた存在の発生に協力する無限の微小な要素を考えるとき、精神は、この小さな職人の軍隊を、賢い職工長、「生命原理」に監督させようとする。しかしそれは翻訳にすぎず、職人がいないので職工長はありえない。物理化学的な分析が発見する原因と要素は、有機的破壊の事実にとっては実在の原因であるが、有機的創造の事実は、分析すると無限への進歩の見通しを開く。多数の原因と要素は、自然の作用に近づく模倣を試みる精神の見方にすぎず、模倣される作用は不可分な行為である。同じ種の個体間の類似は、同じ原因の同じ合成による結果間の類似とは、まったく別の起源をもつ。ただ、どちらにも類似があり、一般化が可能で、実践で関心があるのはそれだけである。そこから、生命と物質の上に同時に漂う自然の一般的な秩序という観念が生まれ、不活性な物質の法則と、生命の類を、同じ語で指し、同じ仕方で表象する習慣が生まれた。
この混同が、古代人にも近代人にも、認識の問題が引き起こす困難の大部分の起源にある。法則の一般性と類の一般性が同じ観念に包摂されたので、幾何学的な秩序と生命的な秩序が混同された。立つ観点に応じて、法則の一般性は類の一般性で説明され、あるいは類の一般性は法則の一般性で説明された。前者は古代の思想の特徴、後者は近代哲学に属する。どちらでも、一般性の観念は曖昧であり、事物に対する行為に与える容易さによってのみ似ている二種類の秩序を、同じ概念のもとにまとめている。
古代人は、自然がなぜ法則に従うのかではなく、なぜ類に従って秩序づけられるのかを問うた。類の観念は、生命の領域で客観的な実在に対応し、遺伝を表している。組織された存在が物質の全体から切り出されるのは自然によってであるのに対し、不活性な物質を物体に細分するのは、行為の利害に導かれたわれわれの知覚である。それでも古代人は、すべての類を同じ列に置き、同じ絶対的な存在を与えた。実在が類の体系になると、法則の一般性は、生命的な秩序を表す一般性に帰着されねばならなかった。アリストテレスの物体の落下の理論では、石が落ちる法則は、石がすべての石の自然の場所、地に戻ることを表す。石はその場所にないかぎり完全には石でなく、そこに落ちるとき、成長する生きた存在のように自らを完成し、類の本質を実現する。物理的法則はここでは精神が確立した関係ではなく、物質を物体に細分することもわれわれの知覚に相対的でなく、すべての物体が生きた物体と同じ個体性をもつ。そこからどのような物理学が生まれたか、そして絶対と一致する単一で最終的な科学の可能性を信じたために、古代人が物理的なものを生命的なものへ粗く翻訳するにとどまったことは、知られている。
近代人にも同じ混同があるが、関係は逆転し、類が法則に帰着され、科学は全体が相対的になる。近代哲学で類の問題は影を潜め、認識の理論は法則の問題をめぐって回る。近代の天文学的・物理学的発見が出発点であり、ケプラーとガリレイの法則が、あらゆる認識の理想的で唯一の型にとどまったからである。法則は事物のあいだの関係であり、数学的な形の法則は、ある量が他の変数の関数であることを表す。変数の選択はすでに偶然的で規約的であり、関係は本質的に比較にあって、同時に複数の項を表象する知性にとってしか客観的な実在をもたない。したがって、人間の悟性にすっかり相対的な科学と経験という観念は、法則からなる単一で完全な科学という構想に暗黙に含まれ、カントはそれを引き出したにすぎない。しかし、この構想は、法則の一般性と類の一般性との恣意的な混同から生じる。経験が独立した項も示し、生きた類が法則の体系とはまったく別のものであるなら、認識の少なくとも半分は、物自体、実在そのものに関わる。もう半分も、逆の秩序の実在に関わることを確立できるなら、言われるほど決定的に相対的ではなくなる。その実在が数学的な法則で表現される仕事に向くのは、空間性、幾何学で重りをつけられているからにすぎない。近代人の相対主義の背後にあるのは二種類の秩序の混同であり、古代人の独断論の下にもすでにあった。
この混同は、本質的に創造である生命的な秩序が、その本質においてよりも、物理的で幾何学的な秩序を模倣するいくつかの偶発事において現れることに由来する。生命は全体として絶え間ない変容であるが、生きものを介してしか進歩できず、新しさが熟すには、互いにほぼ似た何千何万の生きものが空間と時間のなかで互いを繰り返さなければならない。それは、何千部もの刷を経て改訂へと進む書物のようであるが、継起する刷が同一なのに対し、同じ種の代表は完全には似ていない。遺伝は性格を伝えるだけでなく、性格が変わる原因となる躍動も伝え、この躍動が生命力である。だから、一般化の基礎となる反復は、物理的な秩序では本質的で、生命的な秩序では偶発的である。前者は自動的な秩序であり、後者は意志された秩序に類似する。
意志された秩序と自動的な秩序の区別を表象すれば、無秩序の観念が拠って立つ曖昧さは消え、認識の問題の主な困難の一つも消える。認識の理論の重要な問題は、科学がどのように可能か、すなわちなぜ事物に無秩序ではなく秩序があるのかを知ることである。秩序は事実だが、無秩序は権利上あるはずのものに思え、秩序の存在は解明すべき神秘になる。秩序が何かに対する勝利として現れなければ、古代の実在論が、イデアが付け加わる質料を語ることも、近代の観念論が、悟性が組織する感性的多様を措定することもなかった。すべての秩序は偶然的だが、何に対して偶然的なのか。
一つの秩序は、逆の秩序に対して偶然的に見える。韻文が散文に対して、散文が韻文に対して偶然的であるのと同じである。散文でないすべての話し方は韻文として考えられるように、二つの秩序の一方でないすべての在り方は、他方として考えられる。ただ、われわれは、精神に現前している観念を、情動的な状態の霞を通してしか認めないことがある。私が部屋に入り、それを散らかっていると判断するとき、各々の物の位置は、部屋で寝る人の自動的な動きによって説明され、第二の意味での秩序は完全である。しかし、私が待っているのは、きちんとした人が意識的に与える、意志された秩序である。私はその不在を無秩序と呼ぶ。二つの秩序の一方の不在のなかで、実在的で、知覚され、考えられているすべては、他方の現前である。精神が偶然の定義を、作用因と目的因のあいだで揺れるのは、偶然が、二種類の秩序の一方を待っていて他方に出会った人の心の状態を客観化するにすぎないからである。偶然と無秩序は相対的なものとして考えられ、絶対的なものとして表象しようとすれば、われわれは杼のように二つの秩序のあいだを行き来する。無秩序を秩序の基体として与えることはできない。それは二種類の秩序を含意し、その組み合わせでできているからである。
われわれの知性は先へ進み、かく命ずによって、秩序の不在であるような無秩序を措定する。語の下に観念を置こうとすれば、無秩序は一つの秩序の否定でありうるが、この否定は、反対の秩序の現前の暗黙の確認である。実際に現前する観念を分析すれば、自分に関心のない秩序を前にした失望か、二つの秩序のあいだの精神の揺れか、否定の接頭辞を付けてつくった空虚な語の表象にすぎない。この分析を省くのは、互いに還元できない二種類の秩序を区別しようと考えないからである。
二種類の秩序があるなら、秩序の偶然性は説明される。一方の形式は他方に対して偶然的であり、幾何学的なものを見いだすところに生命的なものがありえた。しかし、秩序がどこでも同じ種類で、程度だけが違うと仮定すれば、秩序は秩序それ自身の不在に対して偶然的だと信じ、その事物の状態を考えていると信じるだろう。階層の頂点に生命的な秩序を置き、その減少として幾何学的な秩序を置き、最も下に非一貫性を置くことになる。しかし、定まった秩序の偶然性が含意するのは、単に反対の秩序の現前である。二つの秩序のあいだに中間の程度は想像できず、非一貫的なものは、意味のない空虚な語であるか、二つの秩序の両方の下ではなく中間に置かれるときにだけ意味をもつ。幾何学的なものと生命的なものがあり、その両者のあいだの精神の揺れによって、非一貫的なものの観念がある。秩序が付け加わる調整されない多様について語ることは、論点先取である。
この長い分析は、実在が逆転によって、緊張から延長へ、自由から機械的な必然へ移りうることを示すために必要であった。この二つの項のあいだの関係が、意識と感性的経験によって示唆されることを確立するだけでは足りず、幾何学的な秩序が、逆の秩序の単なる廃棄であるために説明を要しないことを証明する必要があった。廃棄が常に置換であり、必然的にそのようなものとして考えられることを確立することが不可欠であった。いま、その逆転をさらに近くから検討しなければならない。弛むだけで広がる原理、原因の中断が結果の逆転に等しい原理とは何か。
よりよい語がないので、われわれはそれを意識と呼んだ。ただし、これはわれわれ一人ひとりの内で働く小さな意識のことではない。われわれ自身の意識は、空間の一点に置かれた生きものの意識であり、原理と同じ向きに進みながら、たえず逆向きに引かれ、前に進みつつ後ろを見ずにいられない。この回顧的な視覚は、知性の、したがって判明な意識の自然な機能である。意識がその原理の何かと一致するためには、できあがったものから離れ、できつつあるものに結びつかなければならない。見る能力が、意欲する行為と一つにならなければならない。それは苦しい努力であり、自然に無理を強いて急にやってのけることはできても、数瞬を超えて保てはしない。自由な行為で、全存在を縮めて前へ投げ出すとき、動機や動因、それらが行為へまとまっていく生成についても、多少は明晰な意識をもつ。しかし、純粋な意欲、すなわち物質に生命を伝えながら貫く流れは、通りがかりにかすめるだけである。すべての生命、すべての物質性の原理に達するには、さらに先まで行かなければならない。それは不可能ではなく、哲学の歴史がそれを証している。直観によって生気を与えられていない部分を持たない、長続きする体系はない。弁証法は、直観を試練にかけ、概念に屈折して他の人々に伝えるために必要であるが、しばしば、自分を超える直観の結果を展開するにすぎない。観念を観念に結びつける努力そのものが、観念が蓄えようとしていた直観を消してしまう。哲学者は、直観から衝動を受けたら、直観を捨てて概念を押し進めるが、すぐに足場を失ったと感じ、新たな接触が必要になって、作ったものの大部分を解体しなければならない。弁証法は、思考が自分自身と一致することを保証するが、多くの異なる一致が可能であり、真理は一つしかない。弁証法は直観の弛緩にほかならない。直観を数瞬より長く延ばせるなら、哲学者どうしの一致も保証されるだろう。どの体系でも、体系より価値があり体系より長く残るのは、逃げやすく不完全な直観である。この直観が保たれ、一般化され、迷わないための外的な目印を確保できれば、哲学の目的は達せられる。そのためには、自然と精神のあいだの絶え間ない往復が必要である。
存在をわれわれの意欲のなかに、意欲そのものを、それが延ばす衝動のなかに置き直すとき、実在が絶えざる成長であり、終わりなく続く創造であることを、理解し、感じる。発明の一部分を含むあらゆる人間の作品、自由の一部分を含むあらゆる意志的な行為、自発性を示す有機体のあらゆる運動は、世界に何か新しいものをもたらす。これらは形の創造にすぎない。われわれは生命の流れそのものではなく、流れが道のりに沿って運ぶ、実質の凍りついた部分、物質を、すでに積んだ流れである。偉大な芸術家が描いた独創的な線も、それ自体がすでに運動の凍結ではないか。しかし、形を生み出す行為の単なる停止が物質を構成しうるなら、物質の創造は理解できないことではない。形の創造は、内側からつかみ、あらゆる瞬間に生きているからである。
宇宙の存在に広がる神秘は、その発生が一挙に行われたと、あるいはすべての物質が永遠であると、われわれが望むことから来る。創造を語るにせよ、創造されない物質を措定するにせよ、問題にしているのは宇宙の全体である。唯物論者もその敵対者も、実際に作用する持続はなく、絶対は、具体的な時間のなかに場を占めえないという先入見を共有する。そこから、すべてが一度に与えられているという観念が生じる。この先入見が根こそぎにされれば、創造の観念は増大の観念と一つになる。しかし、そのとき、語るべきなのはもはや宇宙の全体ではない。
なぜ宇宙の全体を語るのか。宇宙は太陽系の集まりであり、それらがわれわれの太陽系に類似すると考える十分な理由がある。これらの系は互いに絶対的に独立ではないが、結びつきは、同じ世界の部分どうしを結ぶ連帯に比べれば限りなく緩い。われわれが太陽系を孤立させるのは、自然そのものが孤立させるよう促しているからである。われわれの物理学の法則は、孤立して取った各々の世界に広げられるかもしれないが、それが宇宙全体に当てはまると言えるものは何もない。宇宙はできあがったものではなく、絶えずできつつあり、おそらく新しい世界の付加によって際限なく増大する。
科学の最も一般的な二つの法則、エネルギー保存の原理と劣化の原理を、太陽系の全体に広げよう。まず、二つの原理は同じ形而上学的な射程をもたない。第一の原理は量的な法則であり、部分的に測定の手続きに相対的である。世界に運動エネルギーしかなければ、測定の技巧だけでは法則を人為的にするのに足りないが、実際には性質の異なるエネルギーがあり、それぞれの測定は、この原理を正当化するように選ばれた。この原理に内在する規約の分け前は大きい。それでも、同じ系を構成するさまざまなエネルギーの変化のあいだに連帯があり、適切な測定によって原理を広げることを可能にした。この法則は、あるものの一定の量の客観的な恒存を表すのではなく、生じるすべての変化が、どこかで、反対の向きの変化によって相殺されなければならない必然を表す。全体の本性についてよりも、この世界の一つの断片と別の断片との関係について教える。
熱力学の第二の原理はそうではない。エネルギー劣化の法則は、本質的に量に関わるものではない。カルノーの熱機関の効率の考察に始まり、クラウジウスがエントロピーの概念に行き着いたのは、応用に必要であるが、この法則は、エネルギーの概念をつくらなくても、漠然とは定式化できただろう。この法則は、すべての物理的変化が熱に劣化する傾向をもち、熱そのものが物体のあいだに一様に配分される傾向をもつことを表す。この精密でない形では、法則はあらゆる規約から独立であり、物理学の法則のなかで最も形而上学的である。象徴を介さず、世界が進む方向を指で示してくれるからである。この法則が言うのは、目に見える異質な変化がしだいに見えない同質な変化へ薄まり、変化の豊かさと多様さに負う不安定が、果てしなく繰り返される要素的振動の相対的な安定に席を譲る、ということである。それは、力を保っていながらそれを行為にますます使わなくなり、ついには肺と心臓を動かすことに全部使い果たす人に似ている。
この観点から、太陽系のような世界は、自らが含む可変性の何かを、あらゆる瞬間に使い果たしている。はじめには、エネルギーの利用の可能な最大があった。それはどこから来たのか。空間の別のどこかから来たと想定すると、困難は後ろに退くだけである。宇宙に含まれる可変性の総和は無限だと付け加えることもできるが、無限の宇宙を語ることは、物質と抽象的な空間の完全な一致を、物質のすべての部分が互いに絶対的に外にあることを認めることであり、先に見たとおり、部分どうしの相互の影響の観念と両立しにくい。可変性が増大していく時期があり、増大と減少が終わりなく交替すると想定することもできるが、ボルツマンの計算によれば、それは実際には絶対的な不可能に等しい。物理学の地盤にとどまる限り、問題は解けない。物理学者はエネルギーを広がりをもつ粒子に結びつけざるをえず、空間のなかにとどまるからである。起源を探さなければならないのは、空間外の過程である。
抽象的に広がり一般を考えるなら、延長は、中断する緊張としてのみ現れる。広がりを満たす具体的な実在に目を向けるなら、そこに支配する自然の法則の秩序は、逆の秩序が廃棄されたときにおのずから生まれる秩序であり、意欲の弛緩がこの廃棄を生む。実在が進む向きは、解けていくものの観念を示唆する。そこに物質性の本質的な特徴の一つがある。この物ができていく過程は、物理的な過程と反対の向きに向けられており、定義そのものによって非物質的である。物質世界の視覚は、落ちる重りの視覚であり、本来の物質から引き出されたどんな像も、上がる重りの観念を与えない。この結論は、物質の内部にある生きた体を考えるなら、いっそう強くなる。
われわれの分析はすべて、物質が下る坂を登ろうとする努力を生命のうちに見せている。物質性とは逆の過程、その中断だけで物質を創造する過程が、ありうること、必然であることを、うかがわせる。われわれの惑星の表面で進化する生命は物質に結びついている。生命が純粋な意識、まして超意識であれば、純粋に創造する活動となるだろう。実際には、生命は有機体に縛られ、有機体は生命を不活性な物質の一般法則に従わせる。しかし、すべては、生命がこれらの法則から自らを解き放とうとするかのように運ぶ。生命にはカルノーの原理が定める物理的変化の向きを逆転させる力はないが、物質的変化の歩みを止められなくても、遅らせることには成功する。生命の進化は、最初の衝動、すなわち植物では葉緑素の機能を、動物では感覚運動系を発達させた衝動を続けており、ますます強力な爆発物の製造と使用によって、生命を効果的な行為へと導く。これらの爆発物は太陽エネルギーを蓄えたものであり、有機体がそこにあって散逸を止め、それを保持していなかったなら、もっと早く費やされていた。分裂以前の最初の衝動においては、生命は、それがなければ流れ去っていたはずのものを貯蔵庫に蓄え、動物が行うような瞬間的で効果的な消費に備える傾向であった。生命は、落ちる重りを持ち上げようとする努力に似ており、落下を遅らせることにしか成功しないが、重りの上昇がどのようなものであったかを、うかがわせる。
高い張力の蒸気で満たされた容器の壁のあちこちに裂け目があり、蒸気が噴流となって逃げるとしよう。放たれた蒸気は、ほとんどが小さな水滴に凝結して落ちる。この凝結と落下は、何かの喪失、中断、欠損を表す。しかし、噴流のごく一部は、凝結せずにしばらくとどまり、落ちてくる滴を持ち上げようと努力して、せいぜいその落下を遅らせるところまで行き着く。同じように、生命の巨大な貯蔵庫からは絶えず噴流が噴き出し、それぞれが、落ちてくると、一つの世界である。この世界の内での生きた種の進化は、原初の噴流の最初の方向のうち、物質性とは逆向きに続く衝動の、残っているものにあたる。だが、この比較は、実在について弱められた像しか与えない。裂け目、噴流、小滴の上昇は必然的に決定されているが、世界の創造は自由な行為であり、物質世界の内部の生命はこの自由にあずかっているからである。むしろ、腕を上げる身ぶりを考えよう。その腕が放り出されて落ちながらも、腕の中には、上げようとして動かしていた意欲が何か残っていると想定しよう。この解けていく創造的な身ぶりの像によって、われわれは物質のより正確な表象をもつ。そして、生命の活動のなかに、逆転した運動のなかに残る直接の運動の残り、解けていくものを貫いてできていく実在を、見ることになる。
物が創造され、一つの物が創造するのだと考えるなら、創造の観念はすべて暗い。悟性はそう考えずにいられない。この錯覚の起源は、次の章で示す。知性は本質的に実践の機能で、変化や行為よりも物や状態を表象するようにできている。しかし物や状態は、精神が生成に対してとった見方にすぎない。物はなく、あるのは行為だけである。われわれの生きる世界の、自動的で厳密に決定された進化は、解けていく行為であり、生命がそこに切り取る予見できない形は、できていく行為を表している。こう定義された神は、できあがったものを何も持たない。神は絶え間ない生命であり、行為であり、自由である。こう考えられた創造は神秘ではなく、われわれは自由に行為するとき、それをわが身のうちで経験する。存在する物に新しい物が付け加わりうるというのは不条理であり、物は悟性が行う固体化の結果である。物が自らを創造すると語ることは、悟性が自分の与えるより多くを自分に与えると言うに等しい。しかし、行為が進みながら大きくなり、進展につれて創造することは、われわれ一人ひとりが、自分が行為する姿を見るときに確かめる。物は、悟性が流れのなかに入れる瞬間的な切断によって構成される。だが、生命は一つの運動、物質性は逆の運動であり、それぞれは単純である。世界をなす物質は分けられない流れであり、それを貫いて生きものを切り出す生命も分けられない。後者は前者を妨げ、前者も後者から何かを得る。両者のあいだに暫定的な折り合いが生じ、それが組織である。この組織は、感覚と知性にとって、互いに全く外にある部分の形をとる。個体のそれぞれも、分子の集合、事実の集合として現れる。知性は物質に外から働きかけるようにでき、流れに瞬間的な切断を行うことでしか成功しない。部分の外にある部分しか見ない悟性ではなく、精神で見るように試みよう。精神とは、行為する能力に内在し、意欲が自分にねじれ返るところから湧く、見る能力である。すべてが再び動き出し、すべてが運動に解消され、悟性が無限に精巧な秩序を示していたところに、同じ種類の解けていく行為を貫いて、できていく行為という単純な過程を見抜くだろう。それは、花火の最後のロケットが、消えたロケットから落ちてくる破片のあいだに切り開く道のようなものである。
この観点から、生命の進化についての考察は明らかになり、何が偶発的で何が本質的かが、より明確に取り出される。われわれが語る生命の躍動は、創造の要求にある。それは絶対的には創造できない。目の前に物質、すなわち自分とは逆の運動に出会うからである。しかし、躍動は、必然そのものであるこの物質をつかみ、できるかぎり多くの不確定と自由を導き入れようとする。
系列の上位にある動物は、消化系、呼吸系、循環系などの上に置かれた感覚運動神経系で表せる。これらの系の役割は、動物を外的な状況からできるだけ独立させ、何よりも運動に費やすエネルギーを供給することである。有機体の複雑さが増すのは、理論上は、神経系を複雑にする必要による。神経系の進歩は、自動的な活動と意志的な活動が同時に発達することにある。前者は後者に適した道具を供給し、運動機構が脊髄と延髄に組み立てられ、合図を待つだけで行為を解き放つ。意志は、機構そのものを組み立て、あるいは、どの機構を作動させるかを選ぶ。選べる機構の数が多いほど、運動経路が交わる交差点が複雑なほど、脳の発達が大きいほど、意志は効果的になる。有機体は、新しい行為のたびに全体を組み直す行為の機械のようにふるまう。神経系が現れる前、アメーバの未分化の塊のなかに、動物的生命のこの本質的な性質はすでに現れ、アメーバは変わる向きに自らを変形させる。したがって、動物的生命はつねに、エネルギーの蓄えを得ること、次に、できるだけしなやかな物質を介して、それを変わる予見できない方向に費やすことにある。
エネルギーは摂取した食物から来る。食物は一種の爆発物であり、火花を待つだけである。それをつくるのは結局は植物であり、太陽エネルギーを真に集めるのは植物だけで、動物はそれを借りるにすぎない。植物は主に葉緑素の機能による、われわれがその鍵を持たない独自の化学作用によって、太陽エネルギーを使って炭酸ガスの炭素を固定し、エネルギーを蓄える。それは、水汲みの力を、高い所に置いた貯水槽を満たすのに使って蓄えるようなものだ。固定された炭素の原子は、炭酸ガスのなかで炭素を酸素に結んでいた弾性の糸の張りを表し、引き金の作動によって炭素が酸素に再び結びつくことが許される日に、蓄えられたエネルギーは見出される。
動物にせよ植物にせよ、生命は全体として、本質的には、エネルギーを蓄え、のちにそれを柔軟で変形できる水路に放つ努力として現れる。その水路の先端で、エネルギーは無限に多様な仕事を果たす。物質を貫く生命の躍動が一挙に得ようとしているのは、この水路の先での仕事である。躍動の力が無限であるか、外から助けが来るなら成功するだろうが、躍動は有限であり、一度きり与えられた。躍動の刻む運動は、逸らされ、分けられ、いつも妨げられる。組織された世界の進化は、この闘いの展開にほかならない。最初の大きな分裂は植物界と動物界の分かれであり、両者は補い合うものとなったが、調和が成立したわけではない。植物がエネルギーを蓄えるのは自分の消費のためで、その消費は、自由な行為に向けられていた最初の躍動が求めたほど断続的でなく、成果も乏しい。同じ有機体が、少しずつ蓄えることと急に使うこととの二役を、同じ強さで担うことはできなかった。原初の躍動に含まれる傾向の二重性と、物質が対立させる抵抗の作用だけによって、ある有機体は第一の方向に、ほかの有機体は第二の方向に傾いた。この分かれのあとに、ほかの多くの分かれが続き、進化の分岐する線が生まれる。そこには、後退、停止、あらゆる種類の偶発を考慮に入れなければならない。それぞれの種は、生命の一般的な運動が自分を貫いて通っていくのではなく、自分のところで止まるかのようにふるまい、自分のためにしか生きない。そこから、自然が舞台となる数限りない闘いと、目につき、衝撃を与える不調和が生じるが、その責めを生命の原理そのものに負わせてはならない。
進化における偶然性の部分は大きい。採用された形は、たいていの場合、偶然的である。根源的な傾向が補い合う傾向に分かれ、進化の分岐する線をつくることも、出会った障害に関わるので偶然的であり、停止も後退も、適応の大部分も偶然的である。必然的なものは二つだけである。エネルギーの徐々の蓄積と、そのエネルギーを、変わりやすく決定できない方向へ弾力的に導くこと。その先に自由な行為がある。
この二重の結果は、われわれの惑星ではある仕方で得られたが、まったく別の手段でも得られえた。生命が主として炭酸ガスの炭素に狙いを定める必要はなく、本質的なのは太陽エネルギーを蓄えることだった。有機体のエネルギー的な物質の特徴的な元素が炭素以外であったなら、可塑的な物質の特徴的な元素も窒素以外だっただろう。そうなれば、生きた物体の化学は根本的に異なり、解剖学も生理学も別のものになり、保たれたのは感覚運動の機能だけである。生命は、ほかの惑星で、ほかの太陽系でも、われわれにはまったく見当のつかない形で、物理的条件のもとで展開していると考えるのが妥当である。エネルギーがカルノーの法則の示す坂を下り、逆向きの原因が下降を遅らせうるところなら、どこでも生命は可能である。生命が、本来の有機体のなかに、定まった物体のなかに、明確な形をとる必要さえない。まだ固まっていない物質を貫いて走る、変わる線の上に、エネルギーが蓄えられ、費やされることは、ほとんど想像はできないが、考えることはできる。この漠然とした生命力と、定まった生命力のあいだの違いは、心理的な生活の、夢の状態と覚醒の状態のあいだの違いを、ほとんど超えないだろう。
化学的な基体と物理的条件が違えば、衝動は同じでも、途中でまったく別の仕方で分かれ、全体としてまったく別の道が歩まれただろう。では、系列があり項があることは必然だったのか。単一の躍動が単一の物体に刻まれ、その物体が果てしなく進化することは、なぜできなかったのか。
この問いは、生命を躍動にたとえるときに立つ。しかし、これは像にすぎない。生命は実のところ心理的な次元に属し、心的なものの本質は、互いに浸透し合う項の混然とした複数性を含むことにある。区別された多様性が可能なのは空間のなかだけであり、純粋で空虚な統一もまた空間のなかにしかない。統一と多様性は、空間の規定か、悟性の範疇である。私の人格は、ある瞬間に一つなのか、多なのか。一つだと言えば、感覚、感情、表象の声が抗議し、区別された多だとすれば、意識が、私の状態の一つひとつが他のすべてを含んでいると主張する。私は、多くを含む一であり、一である多である。統一と多様性は、悟性が私の人格について取った見方にすぎず、私はその一にも、多にも、両方に同時にも入らない。これが私の内的な生命であり、生命一般もそうである。物質に触れたとき、生命は衝動や躍動になぞらえられるが、それ自体で見れば潜在性の広がりであり、無数の傾向が食い込み合っている。それが何千何万になるのは、空間化されたときだけである。物質は、潜在的にしか多でなかったものを、現実に分ける。個体化は、一部は物質のしわざであり、一部は生命が自らのうちに担うものの結果である。詩的な感情が、別々の詩節、詩行、語へと明らかにされるなら、感情は個体化された要素の多を含んでいたと言えるが、その多をつくるのは言語の物質性である。
語や詩行や詩節を貫いて、詩の全体である単純な霊感が走っている。同じように、分離した個体のあいだにも、生命はなお流れている。個体化しようとする傾向は、結びつこうとする傾向によって、妨げられると同時に完成される。部分は、切り離されるやいなや、全体に、せめて最も近いものに再び結びつこうとする。個体は並んで社会をなすが、社会はできるやいなや、個体を新しい有機体に溶かし込み、自らが個体となる。高等な有機体の発生についての群体説は、極端な形では強い異論を招いたが、高等な有機体はみな、仕事を分担する細胞の結合から生まれたかのように事は運ぶ。おそらく、結合して個体をつくったのは細胞ではなく、個体が分離して細胞をつくったのである。これは、個体の発生には社会的な形への執着があることを示す。ラッパムシを核の一部を含む二つの半分に切ると、それぞれが独立したラッパムシを再生するが、二つの半分のあいだに原形質の連絡を残すと、それぞれが完全に協働する運動を行う。糸が残るか切れるかだけで、生命は社会的な形か個体的な形かをとる。単一の細胞からなる有機体にも、全体の見かけの個体性が、定まっていない数の潜在的な個体性の複合であることが、見てとれる。統一と多様性は不活性な物質の範疇であり、生命の躍動は純粋な統一でも純粋な多様性でもない。物質が二つのどちらかを選ぶよう迫っても、躍動の選択は最終的ではなく、一方から他方へ際限なく跳ぶ。生命の進化が個体性と結合という二重の方向で進むことは、生命の本質そのものによる。
反省へ向かう歩みもまた本質的である。生命の起源にあるのは意識、むしろ超意識であり、燃え尽きた破片が物質となって落ちてくる、あのロケットにあたる。意識はまた、ロケットそのものに残るものでもあり、破片を貫き、それらを有機体として照らす。しかしこの意識は創造の要求で、創造できるところでしか姿を現さない。生命は自動性に定められているあいだは眠り、選択の可能性が再び生じるとたちまち目覚める。神経系をもたない有機体では、意識は移動と変形の能力に応じて変わり、神経系をもつ動物では、感覚の経路と運動の経路が交わる交差点の複雑さ、すなわち脳の複雑さに比例する。
意識が、ある種のニューロンから燐光のように発するという理論は、分析の細部については便利な言い方である。実際には、生きものは行為の中心であり、世界に入ってくる偶然性のある量、可能な行為のある量を表す。動物の神経系は、その動物の行為が走る柔軟な線を描き、神経中枢は、多少とも数が多く複雑な行為のあいだで、行える選択の広さを示す。意識の目覚めは、選択の余地が大きいほど完全になる。意識のどの状態も、運動的活動に向けられた問いであり、皮質の機構が働き出すことを含まない心理的事実はない。そのため、意識が脳から湧き出すかのように見える。しかし、意識は脳から湧き出さない。脳と意識が対応するのは、生きものの手にある選択の量を、一方は構造の複雑さで、他方は目覚めの強さで、同じように測っているからである。脳の状態は、対応する心理的状態の生まれつつある行為を表すにすぎないから、心理的状態は脳の状態より多くを語る。生きものの意識は、尖った小刀が刃先と連帯しているという意味で脳と連帯する。脳は、意識が出来事の緻密な織物に分け入る鋭い切っ先であるが、意識と同じ広がりをもたない。二つの脳がよく似ているからといって、対応する意識が同じ尺度で測れるとは結論できない。
二つの脳は、思われているほどには似ていないかもしれない。人間はどんな練習でも学べ、どんな運動の習慣でも身につけられるが、サルでさえ、新しい運動を組み合わせる能力は厳密に限られている。人間の脳も、他の脳と同様に運動機構を組み立て、どの瞬間にも引き金の働きでその一つを選ばせるが、違うのは、組み立てられる機構の数、選択を与える引き金の数に限りがないことである。限りあるものと限りないものとの隔たりは、閉じたものと開いたものとの隔たりである。これは程度の差ではなく、本性の差である。
最も知的な動物の意識と人間の意識のあいだの違いもまた根本的である。意識は、現実の行為を取り巻く可能な行為の縁と同じ広がりをもち、発明と自由の同義語である。動物では、発明は習慣という主題の変奏以外のものではない。個体の自発性は自動性から逃れるのが一瞬だけで、新しい自動性をつくる間でしかない。牢獄の扉は、開いたとたんに閉まる。人間では、意識が鎖を断ち切る。生命のそれまでの歴史は全体として、意識が物質を持ち上げようとする努力の歴史であり、その意識に落ちかかる物質に押しつぶされた歴史であった。この企ては逆説的であった。必然そのものである物質から自由の道具をつくり、自然の決定論を用いて、決定論自身の張った網をくぐり抜けることであった。人間以外のどこでも、意識は、自分が組み立てた機構の虜になった。行為のために蓄えたエネルギーのほとんどが、物質を導いた不安定な均衡の維持に費やされるからである。しかし、人間は自分の機械を維持するだけでなく、好きなように使う。それは、無制限の数の運動機構を組み立て、古い習慣に新しい習慣を絶えず対立させ、自動性を自分自身に対して分けて支配する脳のおかげである。また、意識に非物質的な身体を与え、物質的な身体の流れに引きずられ、のみ込まれることを防ぐ言語のおかげである。また、言語が思考を蓄えるように、努力を蓄えて保存し、凡庸な者が眠り込むのを防ぎ、優れた者をより高く登らせる社会生活のおかげである。しかし、脳も、社会も、言語も、同じ一つの内的な優越の、外に現れた徴候にすぎない。これらは、人間を他の動物性から隔てる、程度だけでなく本性の違いを表している。生命が躍動をつけた広い助走路の端で、ほかのものはみな、張られた綱が高すぎると見て降りたが、人間だけが障害を跳び越えた。
人間が進化の終点であり目的だというのは、このまったく特別な意味においてである。生命は、ほかの範疇と同じく目的性を超えており、本質的に、物質を貫いて放たれ、そこから引き出せるものを引き出す流れである。厳密には、計画も設計もなかった。自然のほかの部分が人間に向けられていたわけでないのは明らかであり、われわれはほかの種に対して闘ってきた。進化が別の偶発にぶつかっていたなら、われわれは身体の面でも精神の面でも、現在とかなり違っていただろう。人類を、進化の運動のなかにあらかじめ形づくられていたとみなすのは誤りであり、進化全体の帰結だとさえ言えない。進化は、いくつもの分岐する線に沿って成し遂げられ、人類はその一つの端にあるにすぎないからである。
生命は全体として、一つの中心から広がる巨大な波のように現れる。その波は円周のほぼ全域で止まり、その場の振動に変わる。ただ一点でのみ障害が破られ、衝動は自由に通り抜けた。その自由を刻んでいるのが人間の形である。人間以外のどこでも、意識は袋小路に追い詰められた。人間でのみ、意識は道を進み続けた。人間は生命の運動を際限なく続けているが、生命が内に抱えていたものを全部連れていくわけではない。ほかの進化の線では、生命が含んでいた別の傾向が進んでいた。すべては、人間とも超人とも呼べる、あいまいで形の定まらない一つの存在が、自らを実現しようとして、途中で一部を捨てることでようやくそこに至ったかのように運ぶ。この捨てられたものは、動物性の残りによって、さらには植物界によって表されている。
この観点に立つと、自然が見せる不調和は大きく和らぐ。組織された世界の全体は、人間、あるいは道徳的に人間に似た存在がそこから生えるはずだった腐植土のようになる。動物は、われわれの種からどれほど遠く敵対していても、役に立つ旅の道連れであった。意識は、動物に、引きずっていた邪魔なものを預け、人間とともに、限りない地平が再び開ける高みへ登った。
意識は途中で、貴重な財産をも放棄しなければならなかった。人間では、意識はとりわけ知性である。意識は直観であってもよかったし、そうであるべきだったとさえ思える。直観は生命そのものの向きに進み、知性は逆向きに進んで、おのずと物質の運動に合わせられる。完全な人類とは、意識的活動のこの二つの形が十分に発達する人類であろう。この人類とわれわれの人類のあいだには、考えうるあらゆる程度の知性と直観に応じた、多くの中間がありうる。そこに、われわれの種の精神構造の偶然的な部分がある。われわれの属する人類では、直観はほとんど知性に犠牲にされている。物質を征服し、物質に対して自分を取り戻すために、意識は力の最良の部分を使い果たし、物質の習慣に適応して、とりわけ知性として自らを定めなければならなかった。それでも直観はある。ただし、漠然として、ほとんど消えかけたランプのように、ときおり、ほんの一瞬だけ息を吹き返す。生命にかかわる利害が懸かっているところでは、息を吹き返す。人格について、自由について、自然全体での位置について、起源と運命について、直観は揺らぐ弱い光を投げ、知性がわれわれを置き去りにする夜の闇を貫く。
消えゆくこれらの直観を、哲学はつかまなければならない。まずそれを支え、次にそれを広げて互いにつなぐためである。探求が進むにつれ、直観こそ精神そのものであり、ある意味で生命そのものだと気づかされる。知性は、物質を生んだ過程を模倣する過程によって、直観の中から切り出される。こうして心的な生命の統一が現れる。この統一が認められるのは、直観に身を置いてそこから知性へ向かうときだけである。知性から直観へは決して移れない。
こうして哲学は、われわれを精神的な生命に導き入れる。同時に、精神の生命と身体の生命の関係を示す。唯心論の諸学説の大きな誤りは、精神的な生命を他のすべてから切り離し、地上からできるだけ高く吊るせば、あらゆる攻撃から守れると信じたことにあった。これらの学説は、意識が人間の自由を肯定するとき、それに耳を傾けるのは正しいが、そこに知性がいて、原因は結果を決定し、すべては与えられていると言う。人格の絶対的な実在と、物質に対するその独立を信じるのは正しいが、そこに科学がいて、意識的な生命と脳の活動の連帯を示す。人間に特権的な場所を認めるのは正しいが、そこに生命の歴史がいて、人間を動物性のなかに戻すように見える。独立した生をもちうる魂があるなら、それはいつ、どのように、なぜ、この身体に入るのか。直観の哲学が、身体の生命を、精神の生命に通じる道の上に見ることを決意しなければ、これらの問いは答えのないままとなる。そのとき哲学が相手にするのは、もはや特定の生きものではなく、生命の全体である。生命の全体は、世界に投げ入れた最初の衝動以来、物質の下降する運動に妨げられながら昇る一つの流れとして現れる。この流れの表面の大半では、高さはさまざまだが、物質が流れをその場の渦に変えている。ただ一点でのみ、流れは自由に通り、障害を連れていく。この点に人類があり、そこにわれわれの特権的な位置がある。この昇る流れが意識であり、どの意識もそうであるように、互いに浸透し合う無数の潜在性を含む。それゆえ、統一の範疇も多様性の範疇も当てはまらない。流れが一緒に運ぶ物質だけが、流れを区別された個体性に分けることができる。魂は、こうしてたえず創造される。それでも、ある意味で魂は以前からあった。魂は、人類の身体を貫いて流れる生命の大河から分かれた、小さな流れにほかならない。意識は、生気を与える有機体とは別のものだが、その浮き沈みのいくつかは受ける。意識の状態が輪郭を含んでいる可能な行為は、神経中枢で実行の始まりを受け、脳は意識の状態の運動上の分節を強調する。しかし、意識と脳の相互依存はそこまでである。意識の運命は、脳の物質の運命に結ばれない。意識は本質的に自由であるが、物質に適応せずには物質を貫けない。この適応が知性的なものである。知性は、自由な意識のほうを向くと、物質が収まる枠のなかに自然に意識を入れ、つねに自由を必然の形で見る。自由な行為に内在する新しさや創造の部分は見落とし、古いものと古いものを組み合わせた、人為的で近似的な模倣を置く。知性を直観に再び吸収しようと努める哲学の目には、多くの困難が消えるか、和らぐ。しかも、この学説は、行為し生きるための力も与える。われわれはもはや人類のなかで孤立していると感じず、人類もまた自然のなかで孤立しているとは見えなくなる。最も小さな塵の粒も、太陽系の全体と連帯して、物質性そのものである分かれない下降の運動に引きずられている。同じように、組織されたすべての存在は、最も低いものから最も高いものまで、生命の最初の起源から現在まで、あらゆる場所とあらゆる時において、物質の運動とは逆の、分けられない、ただ一つの衝動を目に見えるようにしているにすぎない。動物は植物の上に足場を取り、人間は動物性にまたがる。人類全体は、空間と時間の中の一つの巨大な軍勢であり、われわれ一人ひとりのそばを、前を、後ろを駆けていく。その突撃は人を巻き込み、あらゆる抵抗を押し倒し、多くの障害を越えられる。おそらくは死さえも。
第四章 思考の映画的な機構と機械論の錯覚 諸体系の歴史への一瞥 実在の生成と偽りの進化論 残るのは、これまで道の途上で絶えず出会ってきた二つの理論上の錯覚を、それ自体として検討することである。これまでは原理よりも帰結を考えてきた。この検討は、いくつかの異論を退け、誤解を解く機会となり、持続のうちに実在の素材そのものを見る哲学を、ほかの哲学と対比して、より明確に定義する機会となる。
物質でも精神でも、実在はわれわれに絶え間ない生成として現れた。実在はできていくか解けていくかのどちらかで、すでにできあがったものであることはない。これは、意識と自分とのあいだを隔てる覆いを取り除いたときに精神について得る直観であり、知性と感覚が私心のない表象を得られるなら、物質についても示すはずのものである。しかし知性は感覚と同じく行為の必要に縛られており、物質の生成については、間をおいた瞬間的で動かない見方をとるにとどまる。意識も、知性に従って、内的な生命のすでにできたものを眺め、それができていくのをぼんやりとしか感じない。こうして、持続から、われわれに関心のある瞬間が切り離される。行為だけが問題であるかぎり、そうするのは正しい。しかし、実在の本性を思索するときにも同じ見方を続けるなら、真の進化、根本的な生成を見られなくなり、生成のうちに状態しか、持続のうちに瞬間しか見ない。これが二つの錯覚のうち、より顕著なものである。それは、不安定なものを安定したものを介して、動くものを動かないものを介して、考えられると信じることにある。
もう一つの錯覚は、最初のものと近い親類であり、実践のためにできた手続きを思索に持ち込むことから生じる。どの行為も、欠けていると感じる対象を手に入れること、まだないものをつくることをめざしている。この特殊な意味で、行為は空虚から充実へ、不在から現前へ、非実在から実在へ進む。ここでの非実在性は、注意の向かう方向に応じて決まる相対的なものである。われわれは実在に浸っていて、そこから出ることがないからである。現にある実在が求めていたものと違うとき、前者の現前を確かめているその場所で、後者の不在を口にする。行為の領域では、これほど正当なことはない。しかし、事物の本性を思索するときにも、われわれはこの話し方と考え方を保つ。こうして第二の錯覚が生まれる。この錯覚も、知性が事物への行為を準備するときに身につける静的な習慣によっており、動くものへ行くために動かないものを通るように、充実を考えるために空虚を用いる。
この錯覚には、認識の根本問題に取り組んだときに、すでに出会った。問題は、なぜ無秩序でなく秩序があるのかだ、と先に述べた。この問いが意味をもつのは、秩序の不在としての無秩序が、可能で思考しうると仮定する場合に限られる。ところが、実在するのは秩序だけである。秩序は二つの形をとりうる。一方の現前は他方の不在にある。探していなかった側の秩序の前に立つたびに、われわれは無秩序を語る。したがって、無秩序の観念は完全に実践的である。それは、ある期待のある失望に対応し、現在の関心を引かない秩序の現前を指すにすぎない。秩序を絶対的に否定しようとすれば、一種の秩序から別の秩序へと際限なく跳んでいることに気づく。さらに先へ進み、精神のこの運動に目を閉ざすなら、もはや観念を相手にしておらず、語だけが残る。認識の問題は、秩序が空虚を満たし、実際の現前が潜在的な不在に重ねられているという観念によって、複雑になり、解けなくなる。この誤りに最終的に勝てるのは、否定、空虚、無について、それが含む根本的に誤った考えを、まっすぐに見るときである。
哲学者たちは、無の観念をほとんど取り上げなかった。それでも、この観念は、哲学的思考の隠れたばねであり、反省が最初に目覚めたときから、意識の視線の前に、じっと見つめると眩暈に襲われる問いを押し出す。私は哲学し始めるやいなや、なぜ自分が存在するのかを問い、自分を宇宙のほかの部分に結ぶ連帯に気づいたときには、なぜ宇宙が存在するのかを知りたくなる。宇宙をそれを支え、あるいは創造する原理に結びつけても、思考がそのなかで休まるのは束の間であり、同じ問題が全体の広がりをもって立つ。何かが存在するのは、どう理解すべきなのか。この論述のなかでも、物質が下降によって、その下降が上昇の中断によって、上昇が成長によって定義され、創造の原理が事物の根底に置かれたときに、同じ問いが現れる。この原理は、なぜ何もないよりも存在するのか。
これらの問いの背後に、存在は、私には、無に対する征服として現れる。何もないこともありえたし、むしろ何もないはずだったと考えて、何かがあることに驚く。あるいは、あらゆる実在を、敷物のように無の上に広げられたものと思い描く。無が先にあり、存在は後から来た。何かがつねに存在したのなら、無はつねにそれの基体か容れ物として、永遠にそれに先立つはずである。コップはつねに満たされていてもよいが、それを満たす液体は、やはり空虚を満たしている。充実は空虚の画布に施された刺繍であり、存在が無に重ねられ、何もないの表象には、何かあるの表象より少ないものしかない、という考えから逃れられない。ここから神秘のすべてが生じる。
この神秘は、事物の根底に持続と自由な選択を置くなら、明らかにされなければならない。形而上学が、持続するあらゆる実在を軽んじるのは、存在に至るのに無を通らなければならず、持続する存在は、非存在に打ち勝って自らを立てるには十分に強くないと見えるからである。そのため形而上学は、真の存在に、心理的あるいは物理的ではなく論理的な存在を与える方向に傾く。論理的な存在は、それだけで足り、真理に内在する力のはたらきだけで自らを立てるように見える。なぜ何もないのではなく物体や精神が存在するのかと自問しても、答えは見つからないが、A = A のような論理的原理が、永遠のなかで無に打ち勝つことは自然に思える。黒板に描かれた円が現れるのは説明を要するが、円の定義は永遠のものに思える。それには場所も日付もない。すべてのものの原理に、円の定義の存在、公理 A = A の存在と同じ性質の存在を想定すれば、存在の神秘は消える。ただし、事物自体は、公理の適用や定義の帰結のように原理から出てこなければならず、自由な選択の意味に解された作用因としての因果性の場所は、もはやない。これはスピノザやライプニッツのような学説の結論であり、その発生もそうであった。
存在の観念に対置される意味での無の観念が擬似観念だと示せれば、そこから生じる問題は擬似問題になる。自由に行為し、とりわけて持続する絶対者という仮説は、もう衝撃的ではなくなり、直観にいっそう近く、常識にこれ以上の犠牲を求めない哲学への道が開ける。
そこで、無を語るとき何を考えているのかを見よう。無を思い描くことは、それを想像するか、考えるかである。まず像から始める。
目を閉じ、耳をふさいで、外から届く感覚を一つずつ消していこう。知覚がすべて消え、物質の宇宙は静けさと夜に沈む。それでも私は残り、そこにいる。それでも、身体の表面と内部から届く器官感覚があり、過去の知覚が残した記憶があり、自分の周りにつくった空虚についての充実した実感さえある。記憶を退け、現在の身体の状態の意識を終わらせてみよう。感覚は消える寸前になり、消える。だが、私の意識が消えるまさにその瞬間に、別の意識が灯る。むしろ、その灯は、すでに点っていた。最初の意識が消えるのを見届けるべく、その直前に現れていたのである。最初の意識は、別の意識に対してしか消えられないからである。私が自分を無に帰したと見えるのは、すでに積極的な行為で自分を甦らせたときだけである。内側を廃しても、その廃止自体が、消えゆく自我を外の対象のように眺める想像上の自我の対象になる。想像力は、外的知覚の無や内的知覚の無をかわるがわる想像できるが、両方を同時には想像できない。一方の不在は、他方だけが現前することにあるからである。二つの相対的な無がかわるがわる想像できることから、二つが一緒に想像できると結論されるが、その不条理は明らかである。無を想像するとき、少なくとも漠然と、行為し、考えていること、したがって何かが残っていることに、気づかずにはいられない。
したがって、すべての廃止という本来の像は、思考によって形づくられない。この像をつくろうとしても、外的な実在の視覚と内的な実在の視覚のあいだで揺れ動くだけである。この往復には、両者から等しく隔たった一点があり、そこでは一方をもう知覚せず他方をまだ知覚しないように思える。無の像が形づくられるのはそこである。実際は、二つの項が接する地点にいるのだから、両方を知覚している。こうして得た無の像は、物で満ちた像であり、主体の像と客体の像を併せ持ち、一方から他方へたえず跳ぶことと、どちらにも最終的に腰を据えないことを含んでいる。存在の前や下に置けるのは、この無ではない。それはすでに存在一般を含んでいる。
無の表象が、観念として入り込むのだ、と言われるだろう。すべての廃止は想像できなくても考えられる、デカルトの千の辺をもつ多角形が想像では見えなくても理解されるように、と。われわれの経験の対象のうち、廃止されたと想定できないものはなく、この廃止を最初の対象から二番目へ、三番目へと広げた極限が、全体の廃止としての無だ、と。この主張を考えてみるだけで、そこに潜む不条理に気づく。
観念は、部品が共存できるときにのみ観念である。組み立てるそばから要素が互いに追い出し合うなら、観念は単なる語に帰着する。円を定義したあとでは、黒い円も白い円も鉄の円も難なく思い描けるが、四角い円は思い描けない。円を生み出す法則が、その図形を直線で区切る可能性を退けるからである。同様に、私の精神は存在するどんなものも廃止されたと思い描けるが、その廃止が全体の一部にだけ行われ全体には行われない操作なら、それを全体に及ぼすのは自己矛盾となりうる。すべての廃止という観念は、四角い円の観念と同じ性格を示すかもしれない。そこで、この操作の機構を詳しく見よう。
取り除かれる対象は、外的か内的かのどちらかである。まず外的な対象を、思考によって廃止する。それがあった場所には、もう何もない。しかし、別の対象がその場所を占めた。自然のなかに絶対的な空虚はない。絶対的な空虚が可能だと認めても、対象が廃止されると場所が空くと言うとき、私が考えているのはこの空虚ではない。問題になっているのは場所であり、正確な輪郭によって限られた空虚、つまり一種の物だからである。私が語る空虚は、ある定まった対象の不在にすぎず、その対象は、もとの場所にはもういないかぎりで、自分自身の空虚をそこに残す。記憶も予見も備えていない存在は、空虚や無という語を決して口にしないだろう。知覚されるものは、あれやこれの物の現前であり、何かの不在であることは決してない。不在は、思い出し、待つことのできる存在にとってしか、ない。その存在は、別の対象を見つけて、期待の失望を、もう何も見つからない、無にぶつかると言って表現する。無や空虚といった語で否定的に表されるものは、思考というより情動、思考の情動的な彩りである。廃止や部分的な無の観念は、ある物が別の物に置き換わる過程のなかで、新しい物の場所に古い物を保つことを望む精神によって、形づくられる。観念は、主観の側には選好を、客観の側には置き換えを含み、この二つの干渉にほかならない。
精神が自分自身の内部で無をどう思い描くかも同じである。私が自分のうちに確かめるのは、生じている現象であり、それらは現在にほかならず、この種の事実が私に現在しない瞬間はない。内的な生命の流れを中断し、夢も見ずに眠っている、あるいは存在をやめたと想定しても、そのまさにその瞬間に、私は自分が眠りを見守っている、あるいは自分の消滅を生き延びていると考える。内側から自分を知覚するのをやめるのは、自分自身の外的な知覚に避難するためである。ここでも充実はつねに充実に続く。ただ知性であるだけの知性、後悔も欲望もなく、自分の運動を対象の運動に合わせる知性は、不在や空虚を考えさえしない。空虚の概念が生まれるのは、意識が自分自身に遅れ、別の状態がすでに現在しているのに、古い状態の記憶に結びついたままでいるときである。それは、あるものとありえたものとの、充実と充実との比較にすぎない。空虚の表象は、いつも充実した表象であり、分析すると二つの積極的な要素に分かれる。一つは、明瞭であれ漠然とであれ置き換えの観念、もう一つは、経験され、または想像された欲望か後悔の感情である。
この二重の分析から、すべての廃止という意味での絶対的な無の観念は、自分自身を破壊する観念、擬似観念、単なる語であることが導かれる。物を取り除くことが別のもので置き換えることにあり、物の不在を考えるのが、別のものの現前を多少なりとも明示的に表象することによってしかできないなら、すべての廃止の観念は、四角い円の観念と同じく不条理である。不条理が目に飛び込まないのは、廃止されたと想定できない個別の対象はないからである。物を次々に取り除くことは、取り除くそばから別のもので置き換えることにあり、絶対にすべてを取り除くことは、語そのもののなかに矛盾を含む。この操作は、自らの実行を可能にする条件そのものを破壊するからである。
しかし、錯覚は根強い。物はつねに別の物で置き換えられ、精神も消滅を、別の対象がそれに代わることを、漠然とした形でも表象せずには考えられないことは認められる。しかし、消滅の表象は、空間や時間のなかで起こる現象の像を呼び起こす。問題は、想像力から解放されて純粋な悟性に訴えることだ、と言われる。そこで、消滅とは言わず、対象Aを存在しないと考える、と言おう。対象を廃止することは、それに働きかけ、ある対象を他のすべてに結ぶ連帯を受け入れることである。しかし、抽象の努力によって対象Aだけを呼び起こし、存在するものとみなしたのち、知的なペンの一筆でその条項を消せば足りる。そのとき対象は、われわれの命令によって、存在しないものになる。
条項を単純に消してみよう。ただし、その一筆が、離れたつもりでいたものすべてを、好むと好まざるとにかかわらず、一緒に連れ戻すことがわかる。対象Aが実在すると想定された観念は、対象Aの単純な表象にほかならない。対象を表象するとき、それにある実在性を与えずにはいられない。対象を考えることと、存在するものとして考えることのあいだに違いはなく、カントは存在論的証明の批判でこの点を明らかにした。対象Aを存在しないものとして考えることは、対象の観念から存在という属性を取り去ることではありえない。したがって、対象の観念に何かを付け加えることにしかなりえない。加わるのは、現にある実在一般がこの個別の対象を排除するという観念である。対象Aが存在しないと考えるのは、まずAを存在するものと考え、次にそれと両立しない別の実在がAに取って代わると考えることである。その実在が何であるかを気にする必要はなく、関心があるのは対象Aだけである。そのためわれわれは、追い出す原因よりも追い出されることを考えるが、この原因は暗黙の状態で精神に現在している。対象を非実在だと宣言する行為は、実在一般の存在を定めている。非実在として表象することは、あらゆる種類の存在を奪うことではなく、対象に結びついた存在が、観念的な存在、単なる可能の存在だと宣言することにすぎない。存在しないと考えられた対象の観念には、存在すると考えられた同じ対象の観念より、多くのものがあり、少なくはない。存在しない対象の観念は、必然的に存在する対象の観念であり、それに加えて、現にある実在が丸ごと、この対象を排除するという表象があるからである。
しかし、この非存在の表象は十分に否定的でない、と主張されるだろう。ある対象の表象を呼び起こし、存在するものと想定したのち、自分の肯定に否をただ付け加えれば、対象を存在しないと考えるのに足りる。これは精神の外で起こることから独立した知的な操作で、何でもよいから考え、次に思考の余白に、その内容の拒否を命じる否を置く。こうして、廃止を宣言するだけで、すべてのものを観念上廃止する、というのである。ここでの困難と誤りは、否定に内在するとされる力から来る。否定は肯定と対称的なものとして表象され、肯定と同じく観念をつくる力をもち、ただ否定的な観念だとされる。一つの物を肯定し、次に別の物を肯定して「すべて」の観念をつくるように、一つの物を否定し、ほかの物を否定して「すべて」を否定すれば、何もないの観念に至る、というのである。しかし、この同一視が恣意的である。肯定が精神の完全な行為であるのに対して、否定は知的な行為の半分にすぎず、残りの半分は暗黙のうちに不定の未来に先送りされている。また、肯定が純粋な知性の行為であるのに対し、否定には知性の外の要素が入り、否定が固有の性格をもつのは、異質な要素の侵入による。
第二の点から始める。否定とは、つねに可能な肯定を退けることである。この机は黒いと言うとき、私は机が黒いのを見たのであり、判断は見たことを表している。しかし、この机は白くないと言うとき、私が表すのは、知覚した何かではない。私が見たのは黒であり、白の不在ではない。私は机を判断しているのではなく、机を白いと宣言するはずの判断について判断している。この命題は、あなたがそれを白いと思いうること、そう思っていたことを含み、その判断は別の判断に置き換えるべきだと告げる。その別の判断は不定のままにしておく。肯定は事物に直接関わるのに対し、否定は事物に、間に挟まれた肯定を通してしか関わらない。否定は、第二段階の肯定、ある対象について何かを肯定する肯定について、何かを肯定する肯定である。
否定は、純粋な精神のしわざではない。否定するやいなや、人は他人を教え諭すか、自分自身を諭している。現実のあるいは可能な、誤っている対話者を相手にし、別のことを肯定しなければならないと告げる。ただし、最初の肯定に代えるべき肯定が何かは明示しない。もはや人と対象が向き合っているのではなく、対象の前に、人に語りかける人がおり、社会の始まりがある。否定が向かう先は何かであるだけでなく誰かである。否定は本質的に教育的で社会的であり、注意を促される人は、一種の二重化によって、語っている本人であってもよい。
第一の点に移る。否定は、残りの半分が不定のままにされた知的な行為の半分にすぎない。この机は白くないという命題は、あなたの判断に別の判断を置き換えなければならないという忠告であり、何を置き換えるべきかは言わない。机の色を知らないからかもしれないが、白だけがいまの関心を引く色だからということのほうが多く、注意は最初の判断の内容にしか向けられない。このように、私は否定するたびに、二つの行為を行っている。同じ人間の一人が肯定していること、あるいは言おうとしていたことに関心を向け、次に、内容を明示しない第二の肯定が、目の前にある肯定に置き換えられなければならないと告げる。どちらにも肯定以外のものは見出されない。否定の独自の性格は、前者が後者に重なることから生じる。否定が、肯定がつくる観念と対称的で逆向きの観念をつくる力をもつと考えてもむだである。否定は、自らが判断する肯定的判断の内容以外の内容をもたない。
存在の判断を考えよう。対象Aは存在しないと言うとき、私はまず、対象Aが存在すると信じられうることを意味している。対象Aと言うだけで、私はそれに、単なる可能の存在であっても、一種の存在を与えている。したがって、この判断には、対象Aはあった、あるだろう、少なくとも単なる可能として存在する、という肯定がある。次に存在しないという語を付け加えるとき、私が語る可能は、現にある実在とは両立しないものとして排除されていると意味するほかない。物の非存在を定める判断は、考えられる可能と確かめられる現実という二種類の存在の対比を述べる判断であり、ある可能が実現していると誤って信じていた人に向けて述べられる。否定的判断はこの対比を意図して不完全な形で表す。それが向けられる人は、示された可能にだけ関心があり、それがどんな実在に置き換えられたかを気にしないからである。第二の項が第一の項に置き換わったと肯定する代わりに、注意を第一の項にとどめて、第一の項はないと言うことで、第二の項がそれに代わることを暗黙のうちに肯定する。物を判断する代わりに、判断を判断し、積極的な情報をもたらす代わりに、起こりうる誤りを警告する。この意図を取り去り、物にしか関心がなく人には関心のない精神に、実在がおのずから刻み込まれると想定しよう。そのとき、あれこれの物がある、とは肯定されるが、物がない、とは決して肯定されない。
なぜ肯定と否定を同列に置き、等しい客観性を与えようとこだわるのか。どちらも命題で表され、命題はみな概念を象徴する語でできているから、社会生活と人間の知性に相対的だからである。地面は湿っていると言うにせよ、湿っていないと言うにせよ、地面と湿ったという項は、経験の連続のなかから自由な発意によって抜き出した概念であり、同じ慣習的な語で表される。形式論理学の観点では、肯定と否定は対称的な二つの行為で、前者は主語と述語のあいだに合致の関係を、後者は不一致の関係を打ち立てる。しかし、この対称は外的で、類似は表面的である。言語が廃止され、社会が解体され、自分を二重化して判断する能力も衰えたと想定しても、地面の湿り気は感覚におのずと刻み込まれ、知性は暗黙の形でなお肯定するだろう。この受動的な知性は、実在の流れより進みも遅れもせず、否定しようとする気持ちをもたず、否定の刻印を受けることはできない。存在するものは記録されうるが、存在しないものの非存在は記録されない。そのような知性が否定に至るには、麻痺から目覚め、期待の失望を表し、誤りを正し、他人や自分自身に教え諭そうとしなければならない。
湿り気がおのずと記録されうるなら、湿り気のなさも同じだ、と言われるだろう。乾いたものも感性に印象を与えるからである。しかし、否定命題、地面は湿っていないと、肯定命題、地面は乾いているとは、内容がまったく違う。後者は、乾いたものを知り、固有の感覚を経験していることを含む。前者は、そのようなことを何も必要とせず、湿ったものしか知覚したことのない知性ある魚でも言えるだろう。この命題は、地面が湿っていると信じられうること、湿り気が、事実としては、ある性質xに置き換えられていることを意味し、この性質は不定のままにされる。否定するとは、つねに二つの肯定の体系を切り詰めた形で示すことである。一方は、ある可能についての定まった肯定、他方は、それに取って代わる未知の、またはどうでもよい実在についての不定の肯定である。否定が主観的になるのは、置き換えを確認する際に置き換えられたものだけを考慮し、置き換えるものを気にしないからである。置き換えられたものは、精神の概念としてしか存在しない。それを見続けるには、過去から現在へ、後ろから前へ流れる実在に背を向けなければならない。否定するとき、人はそうしている。
経験の糸を単純にたどるだけの精神にとっては、空虚も、無も、相対的あるいは部分的な無さえも、否定も可能ではない。そのような精神は、事実に事実が、状態に状態が続くのを見て、各瞬間に、存在する物、現れる状態、生じる事実を書き留める。現在に生き、判断できるとしても、現在の存在しか肯定しない。
この精神に、記憶と、過去に立ち止まろうとする欲求を与え、分け、区別する能力を与えよう。そうなれば、精神は、移り行きを変化として、あったものとあるものとの対比として表象し、思い出される過去と想像される過去のあいだには本質的な違いがないので、すぐに可能一般の表象にまで高まる。
こうして精神は、否定への道に導かれ、消滅を表象する寸前にある。物が消えたと表象するには、過去と現在の対比に気づくだけでは足りない。さらに、現在に背を向け、過去にとどまり、その対比を過去だけの言葉で考えなければならない。したがって、廃止の観念は純粋な観念ではない。それは、過去を惜しみ、そこにとどまる何らかの理由があることを含んでいる。置き換えの現象が、その前半にしか関心がない精神によって二つに断ち切られるときに、廃止の観念は生まれる。あらゆる関心、あらゆる情動を取り去れば、流れる実在と、それが現在の状態についてわれわれのうちに刻む、絶えず新たにされる認識だけが残る。
廃止から、より一般的な操作である否定までは、あと一歩である。あるものを、あったものとだけでなく、ありえたすべてのものとも対比して表象し、この対比を、可能だけを見ながら現実の存在を肯定する形で言い表せば足りる。こうして得られる定式は、誤りを正すか防ぐためにつくられ、その誤りは他人の誤りと想定される。この意味で、否定は教育的で社会的な性格をもつ。
否定がいったん言い表されると、肯定と対称的な様相を呈し、否定も同じく客観的な非実在を肯定するはずだとわれわれには思える。この点で、われわれは誤っていると同時に正しい。否定がその否定的な部分で客観化されることはありえない。しかし、物の否定が、別の物がそれに取って代わるという隠れた肯定を含むのは、正しい。否定の否定的な形は、その根底にある肯定の恩恵を受け、この幽霊は、つながれている積極的な実在の体にまたがって客観化される。こうして空虚あるいは部分的な無の観念が生まれる。この操作は、どんな物についても行われるので、われわれはそれが物ごとに次々に行われ、ついにすべての物に行われたと想定し、絶対的な無の観念を得る。この何もないの観念を分析すれば、それは根本において「すべて」の観念に、一つの物から別の物へ際限なく跳び、現在の位置を離れたばかりの位置との関係でしか決めない精神の運動を加えたものである。それは「すべて」の観念と同じく充実した包括的な表象であり、これと最も近い親類である。
「何もない」を「すべて」に対立させるのは、充実を充実に対立させることであり、なぜ何かが存在するのかという問いは、擬似観念の周りに立てられた擬似問題である。それでも、物の下に無がある、という確信は残る。その理由は、否定に固有の形を与える、情動的で社会的で実践的な要素に見出される。最も大きな哲学上の困難は、人間の行為の形式が自らの領域の外へ踏み出すことから生まれる。われわれは、考えるのと同じくらい、あるいはそれ以上に、行為するようにできており、自分の本性の動きに従うとき、考えるのは行為するためである。したがって、行為の習慣が表象の習慣に染み出す。人間のあらゆる行為は、不満足から、不在の感情から出発し、物を求めるのは、その欠如を感じるからである。われわれの行為は「何もない」から「何か」へと進み、その本質は、「何もない」の画布に「何か」を刺繍することにある。しかし、ここでいう何もないは、物の不在というより効用の不在である。人間の労働は効用をつくることにあり、われわれの生活は、欲望と後悔という知性の外の影響のもとで、空虚を満たすことに費やされる。思索も、同じことをせずにはいられず、相対的な意味から絶対的な意味に移る。思索は、物そのものに働き、効用に働くのではないからである。こうして、実在が空虚を満たすという考え、すべての不在と考えられた無が、権利上は、あらゆる物に先立つという考えが、根づく。われわれが払いのけようとしたのは、この錯覚である。何もないの観念は、すべての物の廃止の観念を見ようとするなら自らを破壊する観念であり、逆に、本当に観念であるなら、すべての観念と同じだけの内容がある。
この長い分析が必要だったのは、自足した実在が、持続と無縁の実在とは限らないと示すためだった。無の観念を経て存在の観念に至るなら、行き着く存在は論理的または数学的な本質で、時間のないものである。そうなれば、実在についての静的な考え方が避けられず、すべてが永遠のなかで一挙に与えられているように見える。しかし、存在を、存在とわれわれのあいだに挟まる無の幽霊に向かうことなく、直接に考える習慣をつけなければならない。行為のために見るのでなく、見るために見る努力をしなければならない。そのとき絶対者は、われわれの間近に、ある程度はわれわれの内に現れる。それは心理的な本質のものであって、数学的でも論理的でもない。絶対者はわれわれとともに生き、われわれと同じく、ただしある面では限りなく凝縮され、自らのうちに集められて、持続する。
しかし、われわれは真の持続を考えたことがあるだろうか。持続には回り道では到達できず、最初から持続のなかに身を置かなければならない。動くものを動かないものを介して考えることに慣れた知性は、これを行うことをたいてい拒む。
知性の役割は、行為を取り仕切ることである。行為で関心を引くのは結果であり、目的が達せられるなら手段はさほど重要でない。そのため、活動が休止する終点だけが精神にはっきり表象され、行為そのものをなす運動は意識から漏れるか、かすかにしか届かない。腕を上げるという単純な行為に含まれる要素的な収縮と緊張のすべてを、あらかじめ想像しなければならないとしたら、どうなるだろうか。精神はすぐに目的へ、行為が成し遂げられたと想定した図式的な像へ移る。この表象の効果を打ち消す対抗的な表象がなければ、適切な運動がおのずと図式の隙間の空虚に吸い込まれる。知性が活動に表象するのは、達成すべき目的、休止点だけである。われわれの活動は、休止から休止へ、一連の跳躍によって移り、そのあいだ意識は、行われつつある運動から目を背け、成し遂げられた運動の先取りされた像だけを見る。
知性が、なされつつある行為の結果を動かないものと表象するには、その結果の収まる環境も動かないものと知覚しなければならない。物質が絶え間ない流れとして現れるなら、どの行為も、なされるそばから溶けるのを感じ、いつも逃げていく未来を先取りすることはないだろう。活動が行為から行為へ跳ぶには、物質も状態から状態へ移らなければならない。行為が結果をはめ込んで成就するのは、物質界のある状態の中でだけだからである。
経験に先立って、われわれの知覚は、物質をこの角度から取るように整えられている。感覚器官と運動器官は互いに協調しており、前者は知覚する能力を、後者は行為する能力を象徴し、有機体は知覚と行為の完全な一致を示している。活動がつねに結果をめざすなら、知覚は、各瞬間に、物質世界のうち、一時的に自らを置く状態しか保たない。
世界に最初の一瞥を投げるやいなや、そこに物体を区切る前から、われわれは性質を区別している。色に色が、音に音が、抵抗に抵抗が続く。これらの性質のそれぞれは、別の性質に置き換えられるのを待つあいだ、そのまま動かずに続くように見える状態である。しかし、性質は分析すれば、おびただしい数の要素的な運動に分解され、あらゆる性質は変化である。変化の下に変わるものを探してもむだで、運動を動くものに結びつけるのは、想像力を満足させるためにすぎない。知覚できる最も小さい一秒の断片のなかに、何兆もの振動が繰り返されていることがある。感覚的な性質が恒常的なのは、この運動が繰り返されるからであり、生命が続くのが拍動の連なりであるのと同じである。知覚の第一の機能は、凝縮によって、要素的な変化の連なりを性質、つまり単純な状態として捉えることである。種に与えられた行為の力が大きいほど、知覚が一つの瞬間に集める要素的変化の数も多い。エーテルの振動とほとんど一致して振動する存在は運動しか感じず、振動の何兆もを不動にする存在は性質を知覚して反応する。人は、より多くの出来事を一目で包める度合いに応じて、それだけ行動の人である。物質の性質は、その不安定さについてわれわれが取る、安定した見方にほかならない。
感覚的な性質の連続のなかに、われわれは物体を区切る。これらの物体は、実際には、あらゆる瞬間に変わっている。すぐれた意味での物体は、相対的に閉じた系をなす生きた体であり、他の物体を全体から切り出すのは、この体のためである。ところで、生命は進化である。この進化の一時期を、形と呼ぶ安定した見方に集め、変化が知覚の惰性に勝つほど大きくなったとき、体が形を変えたと言う。しかし、体はあらゆる瞬間に形を変えている。正確には形というものはない。形は動かないもので、実在は運動だからである。実在するのは、形の絶え間ない変化である。形は、移行のなかで撮った瞬間写真にすぎない。相次ぐ像が互いに大きく違わないときは、それらを一つの平均的な像の増加と減少とみなし、物の本質、あるいは物そのものを語るとき、われわれが考えているのはこの平均である。
物は、いったん構成されると、全体の内部で行われる深い変化を、位置の変化によって表面に現す。そのときわれわれは、物が互いに作用すると言う。この作用は運動の形で現れるが、われわれは運動の可動性から視線を背け、関心を引くのは運動の動かない素描である。単純な運動なら、それがどこへ行くのかを問い、複雑な運動なら、何が起こるのか、すなわち得られる結果か、それを取り仕切る意図を知ろうとする。進行中の行為を語るとき、精神の光の真ん中にあるのは、成し遂げられたと想定される行為の動かない素描であり、変化の観念は薄暗がりに隠れている。食べる、飲む、戦う、といった行為に含まれる運動を想像するのは厄介で、これらがすべて運動であることを不定の形で知っていれば足りる。表象するのは、全体の計画、それを支える動かない素描である。質的な運動であれ、進化的な運動であれ、延長的な運動であれ、精神は不安定なものについて安定した見方をとり、性質、形相あるいは本質、行為という三種の表象に行き着く。
この三つの見方に、三つの範疇の語が対応する。形容詞、名詞、動詞であり、言語の根本の要素である。形容詞と名詞は状態を象徴し、動詞も、それが呼び起こす表象の明るい部分にとどまるなら、ほとんど同じものしか表さない。
生成は限りなく多様である。黄色から緑へ行く生成は、緑から青へ行く生成に似ていない。花から実へ、幼虫からさなぎへ行く生成も異なり、食べる行為は戦う行為に似ていない。知覚の工夫は、知性や言語の工夫と同じく、こうした多様な生成から、生成一般というただ一つの表象、不定の生成を取り出すことにある。それは単なる抽象であり、考えられることもまれである。この、つねに同じで、曖昧あるいは無意識の観念に、個々の場合ごとに、状態を表す明瞭な像を添え、あらゆる生成を互いに区別する。さまざまに色づけられた無限の多様な生成が目の前を通り過ぎるとき、われわれは色の違い、状態の違いを見るよう整えている。その下を、どこでも同じ、無色の一つの生成が、暗闇のなかで流れているだろう。
スクリーン上に連隊の行進を再現するのに、兵士を表す関節のある図形を切り抜き、それぞれに行進の運動を与えると、途方もない労力を要し、生命のしなやかさと多様さは再現できない。はるかに容易で効果的なのは、通り過ぎる連隊の瞬間写真を一連に撮り、ごく速く互いに入れ替わるようにすることである。シネマトグラフはそうしている。写真だけをいくら眺めても、動き出すのは見えない。不動のものは、いくら並べても、運動をつくらない。運動は装置のなかにあり、フィルムが巻かれて、場面の各登場人物が自分の可動性を取り戻す。その手続きは、図形ごとの運動から、非人格的で抽象的で単純な運動、運動一般を取り出して装置に入れ、この匿名の運動に個別の姿勢を組み合わせて、個々の運動の個別性を再構成するものだった。認識の工夫もそうである。事物の内的な生成に即する代わりに、事物の外に身を置いて、生成を人為的に組み立て直す。通り過ぎる実在について瞬間的な見方をとり、認識の装置の奥にある抽象的で一様な目に見えない生成にそれらを通せば、生成の特徴を模倣できる。知覚、知的理解、言語は、このように進み、われわれは一種の内的なシネマトグラフを動かしている。われわれの通常の認識の機構は、映画的な性質のものである。
この操作はまったく実践的な性格のものである。われわれの行為は、それぞれ、意志を実在に挿入することをめざし、身体とほかの物体のあいだの配置は、万華鏡のガラスの破片の配置に似ている。活動は一つの配置から次の配置へ進み、万華鏡に新たな揺れを与えるが、揺れそのものには関心がなく、できた新しい図形だけを見る。活動が自然の働きについてもつ認識は、自分の働きへの関心と正確に対称でなければならない。事物の認識が映画的な性格をもつのは、事物への適応が万華鏡的な性格をもつからである。
映画的な方法だけが実践的である。それは、認識の全体的な歩調を行為の歩調に合わせ、各行為の細部が認識の細部に合わせられるのを待つ。行為がつねに照らされているためには、知性がつねにそこに現在していなければならず、活動の歩みに付き添うには、まずその律動を採用しなければならない。行為は、すべての生命の鼓動と同じく不連続であり、認識も不連続になる。本質的に実践的なこの機構は、そのままで思索に役立つのか。それを使って、実在を、その曲がりくねりに沿って追ってみよう。
生成の連続のなかで、私は一連の見方をとり、それらを生成一般によって互いに結びつけた。しかし、そこにとどまれない。定められないものは表象できず、生成一般について、私は言葉の上の認識しかもたない。文字xが何であれある未知数を指すように、つねに同じ私の生成一般は、私が瞬間写真を撮った移行を象徴するが、移行そのものについては何も教えない。そこで二つの瞬間写真のあいだで何が起こるかを探しても、同じ方法を適用するので、三つ目の見方がほかの二つのあいだに挿入されるだけである。映画的な方法の適用は、絶え間ないやり直しに至り、精神は自分の不安定さによって実在の運動を模倣していると思い込むが、終点からつねに同じだけ遠くに残る。動く実在と歩みを共にするには、その実在の中に身を置き直さなければならない。変化の中に身を置けば、変化そのものと、どの瞬間にも固まりうる相次ぐ状態とを、いっしょに捉える。しかし、外から実際の不動として見た状態から、運動を再構成することはできない。状態を性質、形相、位置、意図と呼び、その数を増やし、二つの状態を際限なく近づけても、両手を近づけて煙をつぶそうとする子どもの失望を味わう。運動は間隙をすり抜ける。状態によって変化を再構成する試みは、運動は不動でできているという不条理な命題を含むからである。
哲学は、目を開くやいなや、このことに気づいた。エレアのゼノンの議論は、別の意図で定式化されたとはいえ、同じことを言っている。飛ぶ矢は、どの瞬間にも静止している。矢が動くには少なくとも二つの相次ぐ位置を占める時間が要り、ある瞬間には、矢はある点で静止している。軌道のどの点でも静止しているのだから、矢は動いている間じゅう静止していることになる。そのとおりである。矢が軌道のある点にいることがありうると仮定するなら。しかし、矢は軌道のどの点にも決していない。せいぜい、そこを通り過ぎ、そこで止まることもできる、と言えるだけである。矢が点Aから出て点Bに落ちるなら、その運動ABは、矢を放つ弓の張りと同じく単純で、分解できない。通った間隔のなかに点Cを定めて、ある瞬間に矢はCにいたと言うなら、矢はそこで止まったはずで、一つの行程ではなく、AからCへとCからBへの二つの行程が、休止の間隔を挟むことになる。錯覚は、運動が済んだあとにその軌跡に沿って動かない軌道が残り、その上に不動の点をいくらでも数えられることから生じる。そこから、運動がなされつつあるときにも、各瞬間に運動が重なった位置を残していたと結論してしまう。できあがった軌道は好きに分けられても、その創造は分けられない。創造は進行する行為であり、物ではない。動くものが軌道の点にいると想定することは、その点に鋏を入れて軌道を二つに切り、仮定上は一つしかないところに、二つの行為を区別することである。
ゼノンのほかの議論も、運動を通った線に沿って当てはめ、線について真であることは運動についても真だと想定することにある。線は好きな数の部分に分けられるから、運動も好きなように分節されていると想定する権利があるとされ、一連の不条理が得られる。しかし、運動を通った線に当てはめて分けることができるのは、運動の外に立ち、各瞬間の停止の可能性を考えて、そうした可能な不動から現実の運動を組み立てようとする観察者にとってだけである。腕を上げたり一歩進んだりするときに意識している連続のなかでは、二つの停止のあいだに通った線が、分けられないただ一筆で描かれること、運動のなかに、線の恣意的な区分に一つひとつ対応する区分を設けようとしてもむだであることを、はっきり感じる。動くものが通った線は内的な組織をもたないが、あらゆる運動は内的に分節されている。それは、分けられない一つの跳躍か、分けられない跳躍が連なったものである。アキレスが亀を追うとき、その一歩ずつは分けられないものと扱わねばならず、亀の一歩ずつも同様であって、ある歩数のあとにアキレスは亀を追い越す。二つの行程の自然な分節を尊重するかぎり、困難は生じない。ゼノンの工夫は、アキレスの運動を、亀がいた点に着き、次に亀が移った点に着き、という恣意的に選んだ法則に従って再構成することにある。運動を通った間隔のように好きに分解し再構成できるものとして扱えるという最初の不条理に同意すれば、ほかのすべてが続く。
ゼノンの議論を、質的な生成や進化的な生成に広げることは容易である。子どもが青年になり、壮年になり、老人になることは、生命の進化が実在そのものだと考えれば理解できる。幼年、青年、壮年、老年は、進歩の連続に沿って外から想像された潜在的な停止にすぎない。逆に、それらを進化の不可欠の部分として与えるなら、それらは実際の停止となり、進化がどうして可能なのかわからなくなる。並べられた休止は、運動に決して等しくならない。子どもが大人になると言うとき、主語、子どもを立てたとき、述語、大人はまだ当てはまらず、述語を述べたとき、もう主語には当てはまらない。幼年から壮年への移行である実在は、指のあいだをすり抜け、残るのは、想像上の停止、子どもと大人だけである。実在に合わせて言語を形づくるなら、子どもが大人になるとは言わず、子どもから大人への生成がある、と言うはずである。第一の命題では、なるは意味の不定な動詞であり、状態を主語に帰して陥る不条理を覆い隠す。映画のフィルムの、装置のなかに隠れ、相次ぐ像を重ねて運動をまねる運動と同じようにふるまう。第二の命題では、生成が主語であり、実在そのものである。幼年と大人の年齢は、精神の単なる見方にすぎない。第二を採るには、思考の映画的な機構から離れなければならない。
運動の問題が引き起こす理論上の不条理を払うには、この機構を完全に離れなければならない。状態によって移行をつくろうとするなら、すべてが矛盾である。移行に沿って身を置き、思考でそこに横断面を入れて状態を区別するなら、矛盾は消える。移行には、状態の系列より多くのものがあり、運動には、位置の系列より多くのものがあるからである。第一の見方は人間の精神の手続きに合い、第二は知的な習慣の坂を登ることを要求する。ギリシア人は、自然な傾きのままにされた精神を、思考を自然に外に出す言語を信頼し、事物の流れを前にして思考と言語がとる態度を誤りとするよりも、事物の流れを誤りとするほうを選んだ。
エレア学派の哲学者たちは、生成が思考の習慣を傷つけ、言語の枠に収まりにくいので、それを非実在だと宣言した。この結論は、前提を変えずに和らげることもできた。実在は変わるが、変わるべきではない、と言うのである。経験が前に置く生成は感性的な実在であり、可知的な実在、あるべき実在はさらに実在的で、変わらない。質的な生成の下に、進化的な生成の下に、延長的な生成の下に、精神は、変化に逆らう定義できる性質、形相あるいは本質、目的を探さなければならない。これが、古典古代を通じて展開した形相の哲学、イデアの哲学の根本原理であった。
イデアと訳した語εἶδοςは、性質を、形相あるいは本質を、行われつつある行為の目的あるいは意図、成し遂げられたと想定される行為の素描を指す。この三つの観点は、形容詞、名詞、動詞のそれである。εἶδοςは、見方、契機と訳すことができ、事物の不安定さについてとられた安定した見方である。事物をイデアに還元するとは、生成をその主な契機に解くことであり、これらの契機は、仮定上、時間の法則を免れ、永遠のなかから摘み取られている。知性の映画的な機構を実在の分析に適用すると、イデアの哲学に至る。
不変のイデアを動く実在の根底に置くやいなや、物理学の全体、宇宙論の全体、神学の全体さえ続く。プラトンからアリストテレスとストア派を経てプロティノスに至る学説の大筋は、体系を求める知性が、普遍的な生成を、その流れから間をおいて切り取った見方を通して眺めるときに、自分に与える像を描いている。今日でもなお、われわれは思考の映画的な本能を信頼する程度に応じて、ギリシア人のやり方で哲学する。
運動には動くものに帰される相次ぐ位置より多くのものがあり、生成には通過する形相より多くのものがあるので、哲学は第一の種類の項から第二の種類の項を引き出せるが、逆はできない。思索が出発すべきなのは第一からである。しかし、知性はこの順序を逆にし、古代哲学も同じである。古代哲学は不変のもののなかに身を置き、イデアしか自らに与えない。それでも生成はある。不変性だけを立てて、そこから変化をどう出すのか。イデアのほかに積極的なものは存在しないので、何かを付け加えることによってではなく、減少によってである。古代哲学の根底には、動くものよりも動かないもののほうに、より多くがあるという公準がある。不変から生成へは、減少あるいは希薄化によって移る。
変化を得るためにイデアに付け加えなければならないのは、否定的なもの、せいぜいゼロである。プラトンの非存在、アリストテレスの質料は、それである。それは形而上学のゼロであり、算術のゼロが1の後ろに付くようにイデアに付いて、イデアを空間と時間の中で増やす。質料はつかみがたい無であり、イデアのあいだに入り込んで、愛し合う二人の心に忍び込む疑いのように、果てしない動揺をつくる。イデアあるいは形相は可知的な実在、真理の全体であり、集められれば存在の理論上の均衡を表す。感性的な実在は、この均衡点の両側での際限のない振動である。
そこから、持続についての、時間と永遠の関係についての考え方が生まれる。生成のなかに身を置く者には、持続は事物の生命そのもの、根本的な実在として現れ、精神が孤立させ概念のなかに蓄える形相は、持続に沿って摘み取られた契機にすぎない。これに対し、生成を映画的な方法で扱うなら、形相は変化の構成要素であり、生成のうちの積極的なものをすべて表し、永遠は実在として時間の基礎となる。形相の哲学は、永遠と時間のあいだに、金貨と小銭のあいだと同じ関係を立てる。小銭は支払いが際限なく続いて借金を払い終わらないが、金貨なら一度で完済できる。プラトンは、神が世界を永遠にできないので世界に時間を与えた、時間は永遠の動く似像だと述べている。
広がりについても同じである。生成に沿って身を置き直す精神には、形相は普遍的な生成のなかで思考が行う切断であり、延長的な生成から切り離せず、時間を占めるのと同じように空間を占める。しかし、イデアの哲学は形相から出発し、永遠のなかで形相を自らに与え、この不動の永遠の劣化が持続と生成であるとする。こうして立てられた形相は知覚に収まる形相ではなく、概念である。概念的な次元の実在は、持続をもたないのと同じく広がりも占めないので、古代哲学では、空間と時間は同じ起源と同じ価値をもつ。時間における伸展と空間における延長とで表されるのは、存在の同じ減少である。
延長と伸展は、あるものとあるべきものとの隔たりを示す。空間と時間は、不完全な実在、自分の外に迷い出た実在が、自分自身を探して走る場であり、走ることがその下に場を置いていく。理想的な振り子、数学的な点を均衡の位置から離すと、終わりのない振動が起こり、その振動に沿って点に点が並び、瞬間に瞬間が続く。こうして生まれる空間と時間は、運動と同じく積極性をもたず、振り子が自然な安定を取り戻すために欠いているものを表す。振り子を正常な位置に戻せば、空間も時間も運動も、数学的な点に縮む。感性的な形相は、いつも自らの観念性を取り戻そうとしているが、自らのうちに担う質料、内的な空虚によって妨げられている。避けがたい法則が、シシュポスの岩のように、頂に触れようとするときに落ちるよう、形相を運命づける。生成と衰退の交替、天球の際限なく繰り返される円運動は、物質性が成り立つ根本的な欠損を表すにすぎない。この欠損を満たせば、同時に空間と時間が消え、過去、現在、未来は、永遠である唯一の瞬間に縮む。
これは、物理的なものは損なわれた論理的なものだ、と言うのと同じである。この命題にイデアの哲学の全体が要約され、悟性に生まれつきそなわった哲学の隠れた原理もそこにある。不変性が生成より多いなら、論理的な体系が、偶然に次々と置かれた物理的な系列に散らばるのは、真の墜落による。詩の生みの親となる観念は、何千もの想像に展開し、物質化して文となり、語に広がる。観念から語へ降りるほど、偶然と選択の余地は大きくなる。われわれの耳が聞くのは語だけで、偶発事しか知覚しないが、精神は、語から像へ、像から原初の観念へ跳び、自らを立てるイデアの把握へ遡る。哲学者は、宇宙を前にして、このように進む。経験が通らせる現象は、時と場所の状況によって決まる偶然の順序で走るが、この物理的な秩序は、論理的な秩序の崩れである。哲学者は知覚されたものから概念へ遡り、物理的なものがもっていた積極的な実在のすべてが、論理へと凝縮するのを見る。こうして科学が得られる。科学は人間の構築物ではなく、われわれの知性に先立ち、それから独立し、真に事物の生みの親である。
形相を、精神が生成についてとった単なる見方とみなすなら、形相はそれを表象する精神に相対的となり、自体的な存在をもたない。われわれが立っているのは逆の仮説であり、イデアは自分自身で存在しなければならない。プラトンはこの結論を定式化し、アリストテレスは逃れようとしてむだだった。運動が不変のものの劣化から生まれるなら、どこかに実現された不変性がなければ、運動も感性的な世界もない。アリストテレスは、イデアに独立した存在を拒むことから始めたが、イデアを互いに押し込めて球にまとめ、物理的世界の上に、形相の形相、イデアのイデア、思惟の思惟を置いた。これがアリストテレスの神である。神はすべての概念を一つにまとめた総合にすぎないので、必然的に不変であり、世界で起こることとは無関係である。しかし、神が世界のほうへ傾くと想像すれば、その統一に含まれていたプラトンのイデアは、光線が太陽から出ていくように、神から外へ流れ出るように見える。その可能性を表すのは、おそらく能動知性、ποιητικὸς νοῦςである。それは完全な科学であり、一挙に立てられている。意識的で論証的な知性には、これを苦労して一片ずつ組み立て直す運命がある。この直観のなかで、われわれは神がイデアへと花開くのを見る。時間のなかで動く論証的な知性に対して、不動の動者が、天の運動と事物の流れに対して果たすのと同じ役割を果たす。
イデアの哲学に内在する、独自の因果性の考え方が見つかる。事物の起源へ遡るために知性の自然な運動を最後までたどるとき、われわれ一人ひとりが行き着くのがこれだからである。古代の哲学者はそれを明示的に定式化せず、帰結を引き出すにとどまった。ときには第一の動者が世界の全体に及ぼす牽引が語られ、ときには推進が語られる。アリストテレスは、宇宙の運動のなかに事物が神の完全性を求める志向を見せ、別の場所では神と第一天球の接触の結果として描く。アレクサンドリアの哲学者たちが発出と還帰を語ったのも、この二重の示唆に従ったものである。この二つの考え方は、第三の考え方に還元されなければ同一視できない。この第三の考え方だけが、事物がなぜ空間と時間のなかで動くのかだけでなく、なぜ空間と時間があり、運動があり、事物があるのかを理解させる。
われわれはこの考え方を次のように定式化する。ある実在を立てることは、それと純粋な無とのあいだにあるすべての中間の実在の度合いを、同時に立てることを含む。数10を立てれば、9、8、7……の存在、10とゼロのあいだのすべての間隔の存在が立てられる。精神は量の領域から質の領域へ自然に移り、ある完全性が与えられれば、この完全性と無とのあいだに、劣化の連続のすべてもまた与えられると思う。アリストテレスの神、思惟の思惟、円環をなす思惟を立て、他方、無が自らを立てるように見えるなら、この二つの端のあいだの間隔もまた与えられる。神の完全性から絶対の無に至るまでの存在の下降するすべての度合いは、神を立てるやいなや、自動的に実現する。
この間隔を上から下へたどってみよう。存在が空間と時間に投げ落とされるには、第一原理のごくわずかな減少で足りる。この最初の減少を表す持続と広がりは、神の無延長と永遠にできるだけ近く、自分自身の上で回る球として思い描かれる。その球は、円運動の永続によって神の思惟の円環の永遠をまね、自らの場所と持続を、したがって場所一般と持続一般を創造する。次に、完全性が衰えていき、ついには月下の世界に至る。そこでは、生成、成長、死の周期が、原初の円環を損ないながら最後にもう一度まねている。神と世界の因果関係は、下から見れば牽引、上から見れば推進や接触による作用として現れる。見る向きによって、神は作用因にも目的因にも見えるが、真の関係は等式の両辺のあいだにある。その第一の辺は単一の項で、第二の辺は不定の数の項の総和である。いわば金貨とその小銭の関係である。アリストテレスが第一の不動の動者の必然を、運動に始まりがあったにちがいないという根拠によってではなく、この運動が始まりえず、終わるはずもないと立てることによって証明したのは、そのためである。運動があるなら、つまり小銭が数えられるなら、どこかに金貨がある。可動性が続くのは、不変性の永遠に支えられているときだけであり、その永遠を、始まりも終わりもない鎖として繰り広げる。
これがギリシア哲学の最後の言葉である。ギリシア哲学には多くの起源があるが、詩、宗教、社会生活から来たもの、初歩的だった物理学と生物学から来たものを取り除き、もろい材料を捨象すれば、堅固な骨組みが残る。この骨組みは、人間の知性の自然な形而上学の大きな輪郭を描いている。知覚と思考の映画的な傾向を突き詰めれば、この種の哲学にたどり着く。進化的な変化の連続のかわりに、知覚と思考は、まず安定した形相の系列を置く。安定した形相は、変化の中に見出される定まったものを全部抜き出して得られたので、形相の置かれる不安定さを言い表すには否定的な属性しか残らない。それは不定そのものである。思考は、あらゆる変化を二つの要素に分ける。一つは個々の場合について定義できる安定した形相、もう一つは定義できずつねに同じ変化一般である。この区別を正当と考える哲学は、区別をいっそう強く客観化し、体系に還元する。実在を、一方では定まった形相あるいは不変の要素で、他方では形相の否定である可動性の原理、純粋な不定で構成する。形相に注意を向けるほど、それが感性的なものの上に昇り、あらゆる実在の総合、あらゆる完全性の完成である単一の概念にまとまるのが見え、普遍的な可動性の見えない源へ降りるほど、その源が足下から逃げ、純粋な無と呼ばれるものの中へ沈むのが感じられる。裁断したら縫わなければならない。感覚を超えたイデアと感覚の下にある非存在から、感性的な世界を再構成しなければならない。それができるのは、この全とこのゼロを向き合わせることが、二つのあいだの間隔を測るすべての実在の度合いを立てることに等しいという要請を置く場合だけである。下位の度合いはそれぞれ上位の度合いの減少にあり、そこにわれわれが感じる感性的な新しさは、可知的なものの観点からは、付け加わった否定の新しい量に解かれる。否定の最小の量は、感性的な実在の最も一般的な属性、広がりと持続によって表され、劣化が増すにつれて、ますます特殊な属性が得られる。物理的なものは論理的なものによって定義され、変化する現象の下に、互いに従属し並び合う概念の閉じた体系が透けて見える。概念の体系と解された科学は、感性的な実在よりも実在的であり、人間の知に先立ち、事物にも先立つ。科学は、一瞬だけ自分自身から気をそらせば、自らの永遠から出て、そのすべての知とすべての事物と一致する。その不変性が、普遍的な生成の原因である。
これが、変化と持続についての古代哲学の観点であった。近代哲学は、とくに初期には、これを変えようとしたが、抗いがたい魅力が知性を自然な動きに連れ戻し、近代の形而上学をギリシアの形而上学の一般的な結論に引き戻す。われわれの機械論的な哲学が、どんな目に見えない糸で古代のイデアの哲学につながっているかを見よう。
近代科学は、古代科学と同じく、映画的な方法で進む。科学の本質は、対象そのものの代わりに置く記号を操作することにあるからである。これらの記号は、言語の記号より精密で効果が高いが、実在の固定した一面を止まった形で記すという条件に縛られる。運動を考えるには精神の絶えず新たにされる努力が必要で、記号は、この努力を免れさせるために、事物の動く連続の代わりに、実践上はそれと等価で、苦もなく操作できる人為的な再構成を置く。科学の本質的な対象は、事物へのわれわれの影響力を増すことであり、科学は形式としては思弁的で、直接の目的においては無私でありうるが、最終的には、つねに実践的な効用をめざす。科学は歩みを実践の一般的な形に合わせなければならず、行為は跳躍によって進む。知ること、すなわち行為するために予見することは、一つの状況から別の状況へ、一つの配置から再配置へ進むことになる。科学は互いにますます近い再配置を考えられ、孤立させる瞬間の数は増えるが、つねに瞬間を孤立させる。間隔で何が起こるかを気にせず、関わるのは両端である。映画的な方法は、古代人の科学がそうであったように、われわれの科学にも課される。
二つの科学の違いは、古代科学は特権的な瞬間を記せば対象を十分に知ったと考えるのに対して、近代科学は対象をどんな瞬間においても考えることにある。プラトンやアリストテレスの形相あるいはイデアは、事物の歴史のなかの特権的な、際立った瞬間に対応し、おおむね言語が固定した瞬間である。それらは、生きものの幼年や老年のように、ある時期の真髄を表すと見なされ、その時期の残りは、形相から形相への移行で満たされ、それ自体では関心を引かない。落ちる物体は、下への運動、中心への傾向、大地に自分の場所を見出しに行く自然な運動として全体として特徴づけられ、最終の終点τέλοςとἀκμήが本質的な瞬間に仕立てられる。ガリレオは、本質的な瞬間も特権的な瞬間もないと考えた。落ちる物体を研究するとは、行程の任意の瞬間に物体を考えることであり、重力の真の科学は、時間の任意の瞬間について、空間における物体の位置を決める科学である。
われわれの物理学が古代人の物理学と異なるのは、時間を際限なく分解することにある。古代人にとって、時間は、自然な知覚と言語が個体性を示す相次ぐ事実として切り出す数だけの、分けられない時期を含み、事実のそれぞれは全体的な定義しか許さない。時間はつねに定まった時期に分けられ、思春期の危機に似た、実在の見かけの危機によって精神に課された。ケプラーやガリレオにとっては、時間は物質によって客観的に分けられておらず、自然な分節がない。われわれは好きなように時間を分けられ、すべての瞬間は等価であり、そのどれにも他の瞬間を代表する権利はない。変化を知るのは、その任意の瞬間に変化がどこまで来ているかを決められるときだけである。
この違いは、われわれの観点からは、本性の違いというより程度の違いである。この二つの科学の関係は、運動の位相を目で追って記すことと、瞬間写真でそれをはるかに完全に記録することとの関係に等しい。馬の疾駆から、われわれの目は主として特徴的な、図式的な姿勢を知覚し、彫刻はそれをパルテノンの帯状装飾に固定した。瞬間写真は任意の瞬間を孤立させ、すべてを同じ列に置く。
この根源的な違いから、ほかの違いが流れ出る。分けられない持続の時期をかわるがわる考える科学は、対象を組織された存在に同化し、質的な記述で満足する。時期の内部で、時間の任意の瞬間に何が起こるかを探すとき、ある瞬間から別の瞬間へ起こる変化は、現象そのものの量的な変動である。近代科学は、大きさに関わり、何よりもそれを測ることを課題とする。ケプラーは、法則、すなわち惑星運動の二つ以上の要素の量的な変動のあいだの一定の関係を求めた。アルキメデスの原理のように、古代人にも真の実験的な法則はあったが、これらは帰結にすぎず、本質的な違いは、古代人の科学は静的であり、研究する変化を丸ごと考えるか、各時期を丸ごとの塊にすることにある。これは時間を考慮に入れないと言うに等しい。近代における幾何学の最初の大きな変容は、時間と運動を図形の考察にまで導入することにあった。古代人にとって幾何学は純粋に静的で、図形はプラトンのイデアに似て完成された状態で一挙に与えられた。デカルトの幾何学の本質は、すべての平面曲線を、横軸に沿って動く可動の直線の上を点が動くことで描かれるものと考え、可動の直線の上を通った空間とそれを通るのに費やした時間を結ぶ関係、つまり曲線の方程式で曲線を定義することにある。図形の代わりに方程式を置くことは、曲線が完成した状態にある唯一の瞬間に描線を考える代わりに、任意の瞬間に描線がどこまで来ているかを見ることである。
これこそが、自然の科学と、その道具として役立った数学の双方が刷新された、主導的な観念であった。近代科学は天文学の娘であり、ガリレオの斜面に沿って天から地へ降りてきた。天文学の問題は、ある瞬間における惑星の相互の位置を知って、ほかの任意の瞬間におけるその位置を計算することであり、以後、同じ問いがすべての物質系に立てられた。物質の点はそれぞれ初歩的な惑星となり、ある瞬間の要素の位置が知られたとき、任意の瞬間における相対的な位置を決めることが理想的な問題となった。要素の位置は実際には決して知られず、計算も人間の力を超えるが、超人間的な知性なら、これらのデータを数学的な操作にかけて、任意の時点での要素の位置を決められるという確信が、自然についてのわれわれの問いと方法の根底にある。静的な形をもつ法則はすべて、完全で最終的な認識を与える唯一のものである動的な法則の、特殊な観点にすぎないと現れる。
結論すれば、近代科学が古代の科学と異なるのは、法則を求め、その法則が大きさのあいだの関係を述べるというだけでなく、ほかのすべてを関係づけたい大きさが時間だということである。近代科学は、時間を独立変数にとろうとする志向によって、とりわけ定義される。しかし、どんな時間が問題なのか。
物質の科学は通常の認識と同じように進み、同じ映画的な機構を働かせる。通常の認識が生成をその動くところにおいてたどることを諦めるなら、物質の科学もそれを諦める。科学は、考察する時間の間隔のなかに好きなだけ多くの瞬間を区別し、間隔を必要ならさらに分けるが、つねに瞬間を、潜在的な停止点を、不動を考える。流れとして、存在の可動性そのものとして考えられた実在の時間は、ここで科学的認識の手を逃れる。
実証科学が時間を語るとき、ある動くものTがその軌道上を動く運動に立ち返っている。この運動は、時間を代表するものとして選ばれ、定義上、一様である。軌道を起点T0から等しい部分に分ける点をT1、T2、T3と呼び、動くものがこれらの点に来たとき、時間の単位が1、2、3だけ経過したと言う。時間tが経ったあとの宇宙の状態を考えるとは、Tが軌道上の点Ttに来たとき宇宙がどうなっているかを調べることである。時間の流れそのもの、その意識への効果は、ここでは問題にならず、考慮に入れるのは、流れから取られた点であって流れそのものではない。考える時間は好きなだけ狭められるが、相手にするのは、つねに点だけである。Tの運動が区分の点で潜在的に停止するたびに、ほかのすべての動くものの潜在的な停止を対応させる。ある運動が時間tを占めたと言うとき、この種の対応をt個だけ記録したという意味であり、同時性を数えたのであって、一方から他方へ進む流れには関わらなかった。宇宙の流れの速さを、それから独立した意識にとって好きなように変えても、Tの運動がこの変化に加われば、方程式には何も変える必要がない。
この流れの速さが無限になり、動くものTの軌道が一挙に与えられ、物質的宇宙の過去、現在、未来の歴史が瞬間的に空間に広げられたと想像しよう。世界の歴史の瞬間と、時間の経過と呼ばれる線の区分のあいだには、同じ数学的な対応が残る。科学の目には何も変わらない。時間が空間に広がり継起が並置となっても科学の言うことが変わらないなら、それは科学が、継起に固有の性格も時間の流れる性格も、初めから勘定に入れていなかったからである。科学は、継起と持続について、意識に迫るものを言い表す記号を何ももたない。まばらに架けられた橋が、アーチの下を流れる水を追わないのと同じである。
それでも継起はある。私はそれを意識している。物理的な過程が目の前で行われるとき、それを速めたり遅らせたりすることは、私の知覚にも傾向にも依存しない。物理学者にとって重要なのは、過程が満たす持続の単位の数であり、単位そのものを気にする必要はなく、世界の相次ぐ状態が一挙に空間に広げられても、その科学は変わらない。しかし、意識をもつ存在にとって重要なのは単位である。われわれは間隔の端を数えるのではなく、間隔そのものを感じ、生きる。私はいつも砂糖水のコップに戻ってくる。砂糖が溶けるのを待たなければならない。現象の持続は、物理学者にとっては一定数の時間の単位に帰着し、単位は何でもよいという点で相対的であるが、私の意識にとっては絶対である。厳密に定まった、ある程度の焦燥と一致するからである。何が私を待たせ、課される心理的持続のある長さのあいだ待たせるのか。継起が、単なる並置と異なるものとして実際の効力をもたず、時間が一種の力でないなら、なぜ宇宙は、相次ぐ状態を、私の意識から見て絶対である速さで繰り広げるのか。未来が現在の隣に並べられず現在に続くべく定められているのは、現在の時点で未来がまだ完全には決まっていないからだと思える。この継起が占める時間が数以上のものであり、そこに身を置く意識にとって絶対の価値と実在性をもつのも、そこで予見できないもの、新しいものがたえず創造されるからだと思える。それは、砂糖水のコップのように人為的に孤立させた系の中でではなく、その系を一部とする具体的な全体の中でのことである。この持続は、物質自体のしわざではなく、その流れをさかのぼる生命のしわざかもしれないが、二つの運動は互いに結びついている。したがって、宇宙の持続は、そこに入りうる創造の余地と一つでしかありえない。
子どもがジグソーパズルのピースを組み合わせて絵を再構成して遊ぶとき、練習を重ねるほど、ますます速く成功する。再構成は瞬間的でありうる。子どもは、箱を開けたとき、絵がすでにできているのを見つけたからである。この操作は、理論上はいかなる時間も要さない。結果が与えられているからである。しかし、自分の魂の奥から絵を引き出して創造する芸術家にとっては、時間は付属物ではなく、内容を変えずに延ばしたり縮めたりできる間隔ではない。制作の持続は制作の不可欠の一部であり、それを縮めたり広げたりすることは、それを満たす心理的な進化と、終点である発明の双方を変えることである。発明の時間は発明そのものと一つであり、形をとるにつれて変わっていく思考の進展、観念の成熟のような生命の過程である。
画家の前にはカンバスがあり、パレットには絵の具があり、モデルは姿勢をとっている。画家の流儀も知っている。それでも、カンバスの上に何が現れるかを予見できるだろうか。肖像はモデルに似て、芸術家にも似るだろうが、具体的な解は、芸術作品の全体である、あの予見できない無を伴ってくる。時間がかかるのは、この無である。それは形として自らを創造し、その発芽と開花は、縮められない持続へと延びる。自然の作品についても同じである。そこに新しく現れるものは、内的な押しから出てくる。その押しは進展、すなわち継起であって、時間のなかで相互に浸透し合う連続を、空間での瞬間的な並置に還元させない。物質宇宙の今の状態から生きた形の未来を読み、その歴史を一挙に広げて見ようという考えには、不条理がある。
時間は発明であるか、さもなければ何でもない。しかし物理学は、映画的な方法に縛られているので、発明としての時間を勘定に入れられない。物理学が数えるのは、時間を構成する出来事と、動くものTの軌道上の位置との同時性にとどまる。出来事を、瞬間ごとに新しい形をとり新しさを伝える全体から切り離して、空間に広げられた時間の中で考える。物理学が保つのは、深い変形を被らせずに孤立させられる出来事あるいは系だけであり、われわれの物理学は、そのような系を孤立させられた日に始まる。近代物理学は、時間の任意の瞬間を考える点で古代物理学と異なるが、その全体は、発明としての時間の代わりに、長さとしての時間を置くことに基づく。
この物理学と並行して、第二の種類の認識が成立していたはずに思える。それは、物理学が取りこぼしたもの、持続の流れそのものをつかもうとしただろう。映画的な方法から離れ、共感の努力によって、生成の内部に身を移しただろう。動くものがどこにあるか、系がどんな配置をとるかを任意の瞬間について問うことはなく、注意の停止にすぎない時間の瞬間は廃止され、時間の流れ、実在の流れそのものをたどろうとしただろう。第一の種類の認識は、未来を予見させ、ある程度まで出来事の主人にしてくれるが、動く実在から保つのは、精神がそれについてとった見方、起こりうる不動だけで、実在を人間的なものに移し替える。もう一方の認識は、実践的には無益で、自然に対する支配を広げもしないが、成功すれば、実在そのものを決定的な抱擁で包む。それは、知性と物質についての認識を補い、実在のもう一方の半分への展望を開いただろう。持続の真の姿にもう一度出会えば、持続が創造を意味し、解けていくものが持続するのは、できていくものと連帯するからにほかならないと分かるからである。こうして、宇宙の絶え間ない増大の必然、実在の生命の必然が現れ、われわれの惑星の表面で出会う生命は、宇宙の生命と同じ向きに向けられ、物質性とは逆の生命として見える。最後に、知性に直観が加わる。形而上学についてのこの考え方は、近代科学が示唆するものである。
古代人にとって、時間は理論上無視できる。物の持続は、その本質の劣化を示すにすぎないからである。変化はある形相が自らの実現へ向かう努力にすぎないので、知る必要があるのは実現だけである。変化する対象を本質的な瞬間、つまり頂点で捉えれば、可知的な形相に触れることになる。金貨を握っているなら、変化という小銭もまた、すぐれたしかたで握っていることになる。変化は存在より少ないものであり、それを対象とする認識は、可能だと仮定しても、科学より劣る。
しかし、時間のすべての瞬間を同じ列に置き、本質的な瞬間も頂点も認めない科学にとって、変化はもはや本質の減少ではなく、持続は永遠の希釈ではない。時間の流れは実在そのものとなり、研究されるのは、流れていく事物である。流れる実在については瞬間写真をとるにとどまるので、科学的認識は、それを補う別の認識を呼ぶはずである。古代の考え方は、時間を劣化に、変化を永遠の昔から与えられている形相の減少にしたが、新しい考え方を最後までたどれば、時間には絶対者の漸進的な増大を、事物の進化には新しい形相の絶え間ない発明を見るに至っていただろう。
それは古代人の形而上学と決別することだった。古代人は、決定的に知る方法を一つしか見ていなかった。彼らの科学は散らばった断片的な形而上学にあり、形而上学は集中した体系的な科学にあった。われわれの仮説では、科学と形而上学は、対立しつつ補い合う二通りの認識になる。前者が保つのは瞬間、つまり持続しないものだけで、後者は持続そのものを扱う。新しい形而上学の考え方と伝統的な考え方のあいだで、ためらうのは自然で、古い科学で試みられたことを新しい科学で繰り返す誘惑も大きかった。自然についての科学的認識を完全に統一し、その統一に形而上学の名を与える誘惑である。物理学が時間から取るのは、一挙に空間に広げてよいものだけなので、この方向の形而上学は、時間が何も創造せず持続が効力をもたないかのように進むしかなかった。近代人の物理学と古代人の形而上学と同じく、映画的な方法に縛られて、方法に内在していた結論に至った。すべては与えられている。
形而上学が最初に二つの道のあいだでためらったことは、デカルト主義に見られる。一方で、デカルトは普遍的な機械論を主張する。この観点では、運動は相対的で、時間も運動と同程度の実在性しかもたないから、過去も現在も未来も永遠から与えられていることになる。しかし他方で、デカルトは人間の自由意志を信じ、物理現象の決定論に、人間の行為の非決定論を重ね、長さとしての時間に、発明、創造、真の継起のある持続を重ねた。この持続を、絶えず創造の行為を新たにする神に寄りかからせ、神は時間と生成に接しているので、それらに自らの絶対的な実在の何かを伝える。この第二の観点では、デカルトは運動を、空間的なものでさえ、絶対のものとして語る。
デカルトは二つの道に代わるがわる入り、どちらも最後までたどらなかった。第一の道は、人間の自由意志と神の真の意志の否定へ、あらゆる効力ある持続の廃棄へ導き、宇宙を、超人間的な知性が瞬間のうちに一挙に抱く、与えられた物と同一視することだった。第二の道をたどれば、真の持続の直観が含む帰結に行き着いた。創造は、単に続けられるものではなく連続するものとして現れ、宇宙は全体として真に進化し、未来は現在から決定できず、実現されたあとなら先行条件のなかに見出せると言えるだけだった。新しい言語の音を古い字母で書き表せるのと同じことである。機械論的な説明は、宇宙の連続から好きなだけ系を切り出して広げられる点で、なお普遍的でありえたが、その場合の機械論は学説よりも方法となった。科学は映画的なやり方で進まなければならず、その役割は、事物の流れの律動に拍子を刻むことであって、そこに身を挿入することではない。
人々が向かったのは第一のほうである。理由は、映画的な方法に従って進もうとする精神の傾向にある。この方法は知性にきわめて自然で、科学の要求にもよく合っているので、形而上学でそれを捨てるには、思索上の無力を二重に確信していなければならない。古代哲学の影響もあった。永く称賛されるべき芸術家であるギリシア人は、超感性的な真理の型をつくり、その魅力に逆らうことは難しい。形而上学を科学の体系化とみなす傾きが生じれば、人はプラトンとアリストテレスの方向へ滑っていく。
こうして、ライプニッツとスピノザの学説ができあがった。そこにある独創の宝を、われわれは軽く見てはいない。とくにスピノザには、体系をきしませる直観の突き上げがある。しかし、二つの学説から活気と生命のもとを取り去り、骨組みだけを残せば、プラトン主義とアリストテレス主義をデカルトの機械論越しに見たときの像が、そのまま得られる。新しい物理学の体系化がそこにあり、その体系化は古い形而上学を模型に組み立てられている。
物理学の統一とは何でありえたか。この科学を鼓舞した観念は、宇宙のなかで物質の点の系を孤立させ、ある瞬間の各点の位置が知られれば、あとで任意の瞬間について計算できるようにすることだった。そのように定義された系だけが新しい科学の手が届くものであり、ある系が条件を満たすかどうかを経験に先立って言えないので、つねに条件が満たされているかのように進むのが有益だった。それは方法論上の規則であった。しかし、哲学者には、この新しい科学の躍動を実体化し、方法の一般的な規則を事物の根本的な法則に変えたい誘惑が大きかった。物理学が完成し、感性的な世界の全体を抱くと想定され、宇宙は点の系となり、各瞬間の位置は直前の瞬間に対して厳密に決定され、普遍的な機械論に行き着いた。この機械論を基礎づけるには、必然を証明し、理由を与えなければならなかった。機械論の本質的な主張は、宇宙のすべての点の互いの、すべての瞬間の互いの、数学的な連帯の主張なので、その理由は、並置されたもの、継起するもののすべてが縮まる一つの原理の統一のなかに見出されなければならなかった。以後、実在の全体が一挙に与えられていると想定され、並置された外観の相互の決定は真の存在の分けられなさにより、時間のなかで継起する現象の厳密な決定論は、存在の全体が永遠のなかに与えられていることを表すとされた。
こうして新しい哲学は、古い哲学のやり直し、移し替えとなった。古い哲学は、生成が集中し、頂点が記される概念のそれぞれを取り、すべてが知られていると想定して、形相の形相、アリストテレスの神にまとめた。新しい哲学は、現象の恒常的な基体のような法則のそれぞれを取り、すべてが知られていると想定して、一つの統一にまとめた。この統一は、アリストテレスの神と同じく、不変のまま自らのうちに閉じこもらざるをえなかった。
古代哲学へのこの回帰には、大きな困難が伴った。プラトンやアリストテレスやプロティノスが、科学のすべての概念を一つにまとめるとき、概念は事物そのものを表し、事物と同じだけの積極的な内容をもつので、実在の全体を抱く。しかし、法則は、一つの関係を表すだけであり、物理法則は具体的な事物のあいだの量的な関係しか表さない。近代の哲学者が、全知と想定された物理学のすべての結論を一点に集めるなら、現象のなかの具体的なもの、知覚された性質、知覚そのものを脇に置くことになる。新しい科学の最初の成果は、実在を量と質の二つに割り、前者を物体の、後者を魂の側に置いたことだった。古代人は、質と量のあいだにも魂と身体のあいだにも、こうした壁を設けていなかった。その後、抽象的な統一をめざす形而上学は、総合に実在の半分しか含めないことに甘んじるか、二つの半分が互いに還元できないことを利用して、一方を他方の翻訳とみなすほかなかった。質と量、魂と身体のあいだのあらゆる結びつきを断ち切ったために、哲学者たちは、両者のあいだに厳密な並行関係を立てるに至った。古代人は、両者を互いの翻訳とはみなさなかった。こうして到達した総合は、神的な機構が、思惟の現象と延長の現象を、質と量を、魂と身体を、一つひとつ対応させることになった。
この並行関係は、ライプニッツにもスピノザにも見られる。スピノザでは、思惟と延長は同じ階層に置かれ、同じ原文の二つの翻訳であり、神と呼ばなければならない同じ実体の二つの属性である。ライプニッツでは、延長は翻訳だが、原文は思考であり、翻訳はわれわれのためにしか行われない。神を立てれば、神についてのあらゆる可能な見方、モナドもまた立てられる。視点は存在せず、あるのは見方だけで、そのどれもが分けられない塊として、神である実在の全体を表している。われわれは、互いに似ない見方の複数性を、互いに外にある視点の多数性に翻訳し、大きさによって見方の類縁を象徴する。空間は共存するものの秩序であり、延長の知覚は不完全な精神に相対的な混然とした知覚である。ライプニッツは、普遍的な機械論を、実在がわれわれに対してとる相と考え、スピノザは、実在が自分自身に対してとる相とする。
実在の全体を神に集中させたあとでは、神から事物へ、永遠から時間へ移るのは難しくなった。アリストテレスの神は、完成した状態を表すイデアの圧縮によって得られ、世界に超越し、事物の持続は神の永遠の弱まりであった。しかし、普遍的な機械論によって導かれた原理は、概念ではなく法則すなわち関係を凝縮する。関係は別個には存在せず、法則は変化する項を結び、それが支配するものに内在する。自然の統一を基礎づける原理は、実在に内在し、時間のなかにありながら時間の外にあるという矛盾を、同時に想定しなければならない。哲学者たちは二つの項のうちの弱いほうを犠牲にし、事物の時間的な相を純粋な錯覚とみなした。ライプニッツは、空間と同じく時間も、混然とした知覚とした。スピノザの思想ははるかに不明瞭で、永遠と持続するものとのあいだに、アリストテレスが本質と偶有性のあいだに設けたのと同じ差異を立てようとしたように見えるが、アリストテレスのὕληは、デカルトが永遠に除いてしまった。スピノザの非十全の十全との関係を掘り下げるほど、アリストテレス主義の方向に進んでいると感じ、ライプニッツのモナドも、プロティノスの可知的なものに近づく。
この新しい形而上学が古代の形而上学に似るのは、どちらも、一つの完全な科学がすでに完成しているものと想定するからである。古代はそれを感性的なものの上に、近代は感性的なもの自身の内に想定した。どちらでも、実在は真理と同様、永遠のうちに完全に与えられている。どちらも、その都度できていく実在、絶対的な持続という観念を受けつけない。
この形而上学の結論は、科学の内部にまで反響した。われわれのいわゆる経験論の全体が、なおそれに染まっている。物理学と化学が扱うのは不活性な物質だけで、生物学も、生きものを物理化学的に扱うときには、その惰性の面しか見ない。実在の全体がこの種の要素に解けると前もって決めてかかることは、ひとつの形而上学を選ぶことである。脳の状態と心理的状態の厳密な等価性を主張し、超人間的な知性が脳のなかに意識で起こることを読み取りうると思い描く心理生理学者は、経験に近いと思っているが、経験が示すのは、物理的なものと精神的なものの相互依存、心理的状態にはある脳の基体が必要であることにとどまる。ある機械にはあるナットが必要で、外せば止まるが、ナットは機械と等価だとは言われない。等価であるには、機械のどの部分にも、ナットの定まった部分が対応する必要がある。心理的状態と脳の状態のあいだの等価性という仮説は、真の不条理を含み、事実は、脳と意識の関係が、機械のナットへの関係であることを示している。二つの項の等価を語ることは、スピノザ的あるいはライプニッツ的な形而上学を、ほとんど理解できなくして切り詰めることである。延長の側ではそのまま受け入れ、思惟の側では途中で止めて、意識を自然のこれこれの部分と同じ広がりをもつものと想定する。あるときは随伴現象説に行き着き、あるときは意識を原子の数だけの小さな粒に散らす一元論に行き着く。どちらも不完全なスピノザ主義かライプニッツ主義に戻っている。
これらの学説は、カントの批判に遅れている。カントの哲学もまた、一つで完全な科学、実在の全体を抱く科学への信をはらんでいる。スピノザとライプニッツは、アリストテレスにならって、知の統一を神に実体化した。カントの批判は、この仮説の全体が、古代科学にとって必要だったように近代科学にも必要か、仮説の一部だけで足りないかを問うことにあった。古代人にとって、科学は概念、物の種類に関わり、すべての概念を一つに圧縮して存在に行き着いた。アリストテレスが神をνοήσεως νόησιςと定義したとき、強調したのはνοήσεωςだった。近代科学は法則、関係に関わり、関係は精神が立てる結びつきであって、関係づける知性の外では何でもない。現象が知性の濾過器を通るときにのみ、宇宙は法則の体系でありうる。この知性は、人間をはるかに超える存在の知性でもありうるが、そこまで行く必要はなく、人間の知性で足りる。これがカントの解決である。スピノザやライプニッツの独断論とカントの批判のあいだの隔たりは、ねばならないと、で足りるのあいだの隔たりと同じである。カントは、独断論をギリシアの形而上学へ遠くまで滑らせていた坂の上で止め、仮説を必要最小限にまで減らした。自然の統一は統一する人間の悟性から来るが、ここで働く統一の機能は非人格的であり、われわれの個々の意識に伝わるがそれを超える。それは意識が呼吸する知性的なものの雰囲気のような、形式的な神であり、カントではまだ神的でないが、フィヒテでそうなる傾きがわかった。カントの批判は、科学についての先行者たちの考え方を受け入れ、それが含んでいた形而上学を最小限に減らして、独断論を限ることに主としてあった。
ただ、認識を質料と形式に分けたカントの区別は、これとは別である。カントは、知性を何よりも関係を立てる能力とみなしながら、関係づけられる項は知性の外から来るとした。それは、認識が知性の項に尽きるとする直前の先行者たちへの反対であった。デカルトの哲学のこの本質的な要素は、デカルト主義者たちには捨てられていたが、カントはこれを、変形し、別の平面に移して、哲学に取り戻した。
それによって彼は、新しい哲学への道を開いた。その哲学は、すぐれた直観の努力で、認識の知性外の質料のただなかに立っただろう。この質料に合わせて同じ律動と運動をとり、上る努力と下る努力という反対向きの二つの努力を交互に行えば、意識は、物体と精神という実在の二つの形を、外から眺めるのでなく内側から捉えられないだろうか。この二重の努力で、できる限り絶対者を生き直せないだろうか。しかも、その操作のさなかに、知性が精神の全体から切り出されて姿を現すのが見えるだろう。知的な認識は、そのとき、限られたものとして、しかし相対的ではないものとして、ありのままに現れるだろう。蘇ったデカルト主義に対してカント主義が指し示しえた道は、これであった。しかし、この方向に、カント自身は進まなかった。
カントがその方向に進もうとしなかったのは、認識に知性外の質料を認めながら、この質料は知性と同じ広がりをもつか、知性より狭いと考えていたからである。そのため、知性をその質料のなかから切り出すことも、悟性とその範疇の発生をたどり直すことも考えられなかった。悟性の枠も悟性自体も、すでにできあがったものとして受け取るほかなかった。知性に与えられる質料と知性自身のあいだには、類縁がなかった。両者の一致は、知性が質料に自らの形式を課すことから来た。しかも質料は「物自体」ではなく、われわれの大気を通した物自体の屈折にすぎなかった。
ではカントは、なぜ認識の質料が形式を超えて広がるとは考えなかったのか。彼が自然認識に向けた批判は、科学の主張が正当だとするなら、精神と自然はどのようでなければならないかを分析するものだった。しかし、これらの主張そのものについては、批判を行わなかった。つまり、与えられたもののすべての部分を同じ力で抱き、あらゆる面で等しい堅固さを示す体系に整えられる一つの科学という観念を、議論なしに受け入れた。物理的なものから生命的なもの、心的なものへと進むにつれて科学がしだいに客観性を失い、象徴的になっていく、とは考えなかった。彼にとって経験は一つで、その全域を知性が覆っている。だから彼は、直観はすべて感性的、つまり知性の下にある、と言う。
だが逆に、科学が物理的なものから生命的なもの、心的なものへ進むほど客観性を失い象徴的になる、と仮定してみよう。何かを知覚していなければそれを象徴にはできないから、心的なもの、さらには生命的なものの直観があることになる。知性はその直観を置き換え、訳すだろうが、直観は知性を超えて残る。知性を超える直観があるなら、精神が自分自身を所有することが可能であり、外的で現象的な認識だけではなくなる。そして感性的な直観は、いくつかの中間を介して、それと連続する。赤外線が紫外線と連続するのと同じである。そのとき感性的な直観自体が高まり、捉えがたい物自体の幻影にしか達しないのではなく、絶対者のなかにまで導き入れてくれる。そのうえ、第二の直観が第一の直観の向きを反転して得られ、知性が自然に向かう先がその第二の側なら、知性とこの直観とのあいだに本質的な隔たりはない。感性の「純粋形式」と悟性の範疇を隔てる壁は低くなり、知的な認識の質料と形式は、それぞれの対象の範囲内で、たがいに適応しながら相手を生み出すものとして見えてくる。知性は物体性にかたどられ、物体性は知性にかたどられる。
だが、カントは直観がこのように二つあることを認めようとせず、認めることもできなかった。認めるには、持続に実在の素材そのものを見て、事物の実体的な持続を、空間に散らばった時間から区別しなければならなかったはずである。純粋理性批判の文面にも、おそらくその精神にも、これほど背くことはない。たしかに、ここでは認識はつねに開かれた目録として、経験は際限なく続く事実の押しとして現れる。だがカントによれば、事実は生じるそばから平面に散らばり、たがいに外にあって精神の外にもある。事実を、できあがったあとではなく湧き出る場所でつかみ、空間とその上の時間の下へ掘り下げる内側からの認識は、問題にならない。それなのに、意識がわれわれを置くのはその平面の下であり、真の持続もそこにある。
カントの直接の後継者たちは、その相対主義を逃れようとして、時間を外れた直観の側へ向かった。彼らの哲学では、生成や進歩や進化の観念が大きな位置を占めているかに見える。しかし、そこで持続は真に役割を果たしているか。実在の持続は、各々の形が先立つ形から出て、そこに何かを加え、その限りで先立つ形によって説明される、というものである。だが、形をそれが表すとされる全体的な存在から直接導き出すなら、それはスピノザ主義に戻ることであり、持続から効力ある働きを奪うことである。カント以後の哲学は、機械論にどれだけ厳しかったにせよ、あらゆる種類の実在に同じ一つの科学という観念を、機械論から受け入れている。複雑さの相次ぐ度合いを、一つのイデアの実現の度合いや、一つの意志の客観化の度合いに置き換えても、なお、存在が一つの向きにたどる階梯を語っており、機械論が自然のなかに見分けたのと同じ分節を見分けている。機械論からすべての素描を保ち、そこにほかの色をつけるだけである。しかし、やり直さなければならないのは、素描そのもの、少なくともその半分である。
そのためには、後継者たちの方法であった構成の方法を捨て、経験に訴えなければならない。浄化された経験、つまり、事物へのわれわれの行為の進歩につれて知性がつくった枠から、必要なところで解き放たれた経験である。この種の経験は、時間を外れた経験ではない。部分の絶えざる再配置しか見ていない空間化された時間のかなたに、全体がたえず根本から鋳直されている具体的な持続を探す。実在をそのあらゆる曲がりくねりにおいてたどり、壮麗な建築物の積み重ねられた階のようなますます高い一般性へ、われわれを導くことはない。しかし少なくとも、それが示唆する説明と、説明すべき対象とのあいだに、遊びを残さない。
十九世紀の思想が、恣意を免れ、個々の事実の細部にまで降りていける哲学を求めたことは疑えない。だから、進化の学説を告げる思想家が現れると、人々の目はその人に集まった。その学説は、物質が知覚されうるものになる進歩を、精神が理性に向かう歩みと重ね、外と内の対応が複雑になる過程を段階ごとにたどり、変化を事物の実体そのものにする。スペンサーの進化論が現代の思想に強い魅力を及ぼしたのは、このためである。しかし、彼はその道に入るやいなや、途中で向きを変えた。発生をたどり直すと約束していたのに、彼がしたのはまったく別のことだった。そこで問題になっていたのは、生成でも進化でもなかった。
この哲学を深く検討する必要はわれわれにはない。ただ、スペンサーの方法に通有の工夫は、進化したものの断片で進化を再構成することにある、と言っておこう。絵を厚紙に貼って細かく切れば、その小片を正しく並べ直して絵を再現できる。ジグソーパズルをして、形のない断片から彩色画を仕上げる子どもは、絵と色を自分がつくったと思い込むかもしれない。だが、絵を描き彩色する行為は、描き彩色された断片を組み合わせる行為とはまるで別である。同様に、進化のごく単純な結果どうしを組み合わせれば、最も複雑な結果に似たものはつくれようが、進化したものに進化したものを足すこの操作は、進化の運動とは似ても似つかない。これがスペンサーの錯覚である。彼は実在を現在の姿のまま取り、砕いて断片にし、風に撒く。次に、それらの断片を「統合」し、「運動を散逸させる」。モザイクの作業によって全体を模倣し、発生を成し遂げたと思い込む。
精神については、反射を反射に組み合わせて本能と理性的な意志を次々に生み出せると考える。専門化した反射も、固まった意志と同様に進化の終点であり、出発点には置けないことが、彼には見えていない。どちらも進化の運動が残した沈殿物であって、運動そのものは、片方だけでも他方だけでも言い表せない。精神と物質の対応についても同様である。スペンサーが知性をこの対応によって定義し、そこに進化の終点を見るのは正しい。しかし、現に進化したものの最小の断片を自分に与えれば、現在の進化したものの全体を立てることになり、そのとき発生をつくると主張してもむだである。
スペンサーでは、自然に相次ぐ現象が像となって人間の精神に映り、現象間の関係に表象間の関係が対称的に対応する。それはそれでよい。しかし、精神が現象間の関係を表象するには、生成の連続から切り分けられた個々の事実がすでになければならない。この特定の切り分け方を前提にすれば、今日のとおりの知性も前提にしたことになる。実在がこう分けられるのは、知性にとってだけだからである。哺乳類と昆虫が、自然の同じ面に同じ区切りを入れ、同じように全体を切り分けると思えるだろうか。生きものはそれぞれ、自分の行為がたどる線に沿って物質界を分けている。経験の網目を描くのは、行為の可能な線が交わる様子であり、網の目の一つ一つが事実である。スペンサーの根本の誤りは、すでに区画された状態の経験をそのまま受け取ることである。問うべきは、その区画がどのようにできたかなのに。そうなると、事実間の関係が思考の法則を生んだと言うかわりに、思考の形式が知覚される事実の形を決めたと言っても、同じように成り立つ。第二の言い方では進化を語ることを諦めるが、第一の言い方では、進化を語るにとどまり、それ以上に考えてはいない。真の進化論なら、どのような暫定的な折り合いが少しずつ成立して、知性が構造の設計を、物質が細分の仕方を得たのかを探すだろう。この構造とこの細分は、互いに噛み合い、互いに補い合う。両者は互いに並んで進歩したにちがいない。精神の今の構造を前提にしても、物質の今の細分を前提にしても、進化したものの内にとどまり、進化するもの、進化そのものは何も教えない。
しかし、見つけ直さなければならないのは、この進化である。物理学の領域でさえ、自らの科学を最も深く掘り下げる学者たちは、全体を部分と同じように推論することはできず、たとえば原子を成す微粒子については創造も消滅も認めうると考えがちである。そう考えることで、彼らは部分の寄せ集めでなく生成のある、具体的な持続の中に立とうとしている。だが、物質から、物質を規定するエネルギーと運動を除いたら、何が残るのか。哲学者は学者より先へ行かなければならない。想像上の象徴でしかないものを消し去れば、物質界はただの流れ、流出の連続、生成に解けていくのが見えるだろう。それによって哲学は、持続を、より見出しがいのある生命と意識の領域に見出す備えをする。粗大な物質を扱う間は、流れを無視しても大きな誤りにはならない。下っていく実在である物質が持続するのは、上るものと結びついているからにすぎない。しかし、生命と意識はこの上昇そのものである。その運動をとってそれらの本質をつかみさえすれば、実在の残りがどう派生するかが分かる。進化が現れ、その内部で物質性と知性的なものが、それぞれ少しずつ固まりながら定まっていくのが見える。そのとき人は進化の運動の中に身を置き、それを今の結果までたどる。結果を、それ自身の断片で人為的に再構成するのではない。これが哲学の固有の機能だと、われわれには思える。そう理解された哲学は、精神が自己に帰ること、人間の意識の源である生きた原理に一致すること、創造の努力に触れること、にとどまらない。それは生成一般を掘り下げることであり、真の進化論であり、ゆえに科学の真の延長である。ただし、この語で確かめられ証明された真理の集積を指すのであって、十九世紀後半に、古いスコラ学がアリストテレスの周りに育ったようにガリレオの物理学の周りに育った新しいスコラ学を指すのではない。
本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。
『持続』
過去が現在のなかに食い込み、未来を蝕み、進むにつれてふくらむ、過去の連続的な進行である。一瞬に取って代わる一瞬ではなく、発明であり、形の創造であり、絶対に新しいものの連続的な練り上げである。
『機械論』
時間に有効な作用と固有の実在を認めず、それを帰する表現をすべて比喩と見なす説明。徹底した機械論は、実在の全体が永遠のなかに一塊として置かれ、事物の見かけの持続は、すべてを同時に知れない精神の弱さを表すにすぎないという形而上学を含む。
『目的性』
生命を、先在する模型の実現として解する見方。すべては与えられ、未来は現在のなかに読めると想定することになる。こう解された目的論は逆向きの機械論にすぎず、同じ公準に着想を得ている。
『生命の躍動』
生命の原初の衝動であり、創造の要求にある。分岐する進化の線のあいだに分かれた一つの同じ躍動の継続であり、物質に出会うことで、その運動を逸らされ、分けられる。
『麻痺』
動物の固着は、種が陥った麻痺として現れる。棘皮動物や軟体動物は、今日もなおこの麻痺のなかで生きている。植物的な麻痺、本能、知性は、植物と動物に共通の生命の衝動のなかで一致していた要素であり、成長するというそれだけの事実によって切り離された。
『本能』
組織された道具を利用し、さらにはつくる能力。具体的な本能はすべて知性が混ざり、現実の知性はすべて本能に浸されている。本能の痕跡が見いだされない知性はなく、知性の縁に囲まれていない本能はない。
『知性』
組織されていない道具を製作し、使う能力。行為する能力に付属し、身体を環境にはめ込み、物質を思考するために定められている。固体のあいだでくつろぎ、幾何学で勝利を収めるが、生命の本性をそのまま捉えることはできない。
『悟性』
概念的で論理的な思考をなす能力。その概念と枠をそのまま決定的と見なす生命の理論は、便利な象徴体系を得るにとどまり、対象の直接の視像を得られない。カントにおいては、悟性とその範疇は、できあがったものとして受け入れられる。
『直観』
無私になり、自分自身を意識し、その対象に反省して、それを際限なく広げられるようになった本能。生命の内部そのものにわれわれを導き、知性の枠組みがもはや正確に適用されないところで、枠組みの代わりに置かれるべきものを示唆する。
『共感』
語源的な意味での共感であり、ジガバチと獲物のあいだに、内側から傷つきやすさを教えるものとして想定される。生命は自分自身に共感する一つの全体であるとされ、この共感がその対象を広げ、自分自身に反省できるなら、生命的な作用の鍵を与える。
『意識』
発明と自由の同義語。現実の行為を取り巻く可能な行為の縁と同じ広がりをもつ。運動の原因でもあり結果でもあり、移動を導くのは意識であるが、意識を保つのは運動の活動であり、それが消えれば意識は眠る。
『物質』
幾何学的に扱える孤立可能な系を構成する傾向をもち、われわれが物質を定義するのはこの傾向による。生命の躍動が上る流れに対し、下る実在であり、必然そのものである。
『解けていく行為とできていく行為』
物はなく、あるのは行為だけである。世界の自動的で厳密に決定された進化は、解けていく行為であり、生命がそこに切り取る予見できない形は、できていく行為を表している。物や状態は、精神が生成に対してとった見方にすぎない。
『緊張と弛緩』
精神の運動は緊張であり、その中断が延長を生む。延長は、中断する緊張としてのみ現れ、弛緩の向きに進むほど、延長と複雑さが多くつくられる。弛緩が完全なら、もはや記憶も意志もない。
『無の観念』
すべての廃止を表すとされる観念。無の観念が、存在の観念に対置されるときに取る意味で擬似観念であるなら、それが引き起こす問題は擬似問題になる。廃止や部分的な無の観念は、ある物が別の物に置き換わる過程のなかで、新しい物の場所に古い物を保つことを望む精神によって形づくられる。
『映画的な機構』
われわれの通常の認識の機構で、映画的な性質のものである。流れから瞬間の像を取り出し、それらを目に見えない一般的な生成に通して、動きを再構成する。科学も、古代以来の形而上学も、この方法に従う。
『形相』
不安定なものについて精神がとる安定した見方。精神は、性質、形相あるいは本質、行為という三種の表象に行き着く。形相を永遠のなかに置く哲学は、イデアの哲学となる。
第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
ベルクソンにおいて、物を定義することは、物がそこにあることから始めて済む作業ではない。創造的進化は、物が、『知性』が生成についてとった見方であることを明らかにする方向に進む。物は論の出発点としてではなく、その見方がつくられる過程のなかで現れる。
私は、物を思い描こうとして、まず自分の内を見つめる。そこに見いだされるのは、同じ状態を二度通ることのない流れである。過去は消えずに現在に食い込み、進むにつれてふくらむ。この『持続』は、一瞬に取って代わる一瞬ではなく、発明であり、形の創造であり、新しいものの連続的な練り上げである。砂糖が溶けるのを待つ私の時間も、数学的な時間ではなく、私自身の持続の一部分である。
それでも私は、周りに物を見る。知性は、固体のあいだでくつろぐようにできており、行為するために、『物質』を切り分け、固定し、位置と状態を数える。私の通常の認識の機構は、『映画的な機構』である。流れから瞬間の像を取り出し、それらを目に見えない一般的な生成に通して、動きを再構成する。像が一つずつ固定されて見えるのは、このためである。
固定されたものには、三つの見方がある。性質、『形相』あるいは本質、行為である。精神は、不安定なものについて安定した見方をとり、これらに行き着く。状態をいくら増やし、いくら近づけても、動きは再構成されない。両手を近づけて煙をつぶそうとする子どもの失望を味わうだけである。
では、物は何に向き合っているのか。『生命の躍動』は創造の要求であり、物質はそれが出会う下降の運動である。『緊張と弛緩』のうち、精神の運動は緊張であり、その中断が延長を生む。弛緩の向きに進むほど、要素は互いに外に出て、空間に並ぶ。物質が、幾何学的に扱える孤立可能な系をなす傾向をもつのは、このためである。
私が物と呼んだものは、ここで変わる。物質は、物の集まりではない。コップの水に入れた砂糖は、形を失って溶けていき、私はその終わりを待たなければならない。世界の自動的で厳密に決定された進化は、この砂糖のような、『解けていく行為とできていく行為』のうちの前者である。
一方、画家は、絵の具もモデルも知っていながら、カンバスに何が現れるかを前もって言い当てられない。生命がそこに切り取る予見できない形は、この絵のように、後者の、できていく行為を表している。物はなく、あるのは行為だけである。物は、『悟性』が流れのなかに入れる瞬間的な切断によって構成される。
物を物として扱うことは、役に立つ。知性は物質に外から働きかけ、事物へのわれわれの影響力を増す。だが、その見方をそのまま実在と取るなら、すべては与えられており、時間は何も創造しないことになる。私が見つけ直さなければならないのは、物ではなく、物がそこから切り出される流れである。
以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。
『物とは、分けられない生成の流れに、行為する知性が瞬間的な切断を入れてとった安定した見方であり、実在するのは物ではなく、解けていく行為とできていく行為である。』
作品名:ベルクソン『創造的進化』を知るための本
発行責任者(著者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)
参照原典:フランス語原典 Henri Bergson, L’Évolution créatrice(Paris: Félix Alcan, 1908、第4版、序論と第一章〜第四章)
初版発行日:2026年10月17日
本書の本文・解説その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。
注記:本書が参照する原典は、アンリ・ベルクソン『創造的進化』(L’Évolution créatrice)のフランス語原典のうち、序論と第一章から第四章までである。本書の制作において直接参照した版は、Félix Alcan 版(Paris, 1908)の第4版である。
本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTMLが存在する場合は、術語および論証骨格の照合基準として当該翻訳HTMLを参照して制作している。
本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。