ジョージ・バークリー。1685年、アイルランドのキルケニー州、トマスタウン近郊のダイサート城に生まれ、1753年、イングランドのオックスフォードに没した。キルケニー・カレッジで学んだのち、ダブリンのトリニティ・カレッジに進み、1704年に学士号、1707年に修士号を取得して、同年、同カレッジのフェローとなった。1710年に『人知原理論』を刊行した。1724年にデリーの首席司祭、1734年にクロインの主教となった。
原典言語:英語
原典名:人知原理論(A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge)
初版は1710年、ダブリンで刊行された。序論と第一部が刊行されており、第二部以降は公刊されていない。
本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。第Ⅰ部は、原典全体を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。
本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ5割程度である。
さらに詳しく知りたい方へ
原典 → 翻訳HTML『人知原理論』を読む
トピックス → 関連記事
物の定義史から『人知原理論』を知る → タイムライン
本一覧は、本書が参照する原典において実際に用いられている構造単位を、そのまま示す。
序論
人知の諸原理について 第一部
原典は序論と第一部からなり、それぞれに通し番号(序論§1〜§25、第一部§1〜§156)が付されている。
序論 §1哲学とは知恵と真理の探究にほかならないのだから、哲学に最も多くの時間と労力を費やした人々は、大きな心の静けさを享受し、疑いや困難に悩まされることも少ないはずだと、理にかなって期待されてよい。ところが実際には、自然の命ずるところに従っている無学な大多数の人々のほうが安らかで、懐疑論者になる危険から遠い。感覚と本能を離れ、理性によって事物の本性を反省しはじめるやいなや、千もの疑念が湧く。
§2〜3この原因は、事物の曖昧さ、あるいはわれわれの知性の生まれながらの弱さにあると言われる。だが、われわれは過ちの源を能力のうちに置いて、能力の誤った使い方のうちには置いていないのかもしれない。真なる原理からの正しい演繹が、整合しえない帰結に行き着くとは想定しがたい。われわれはまず塵を巻き上げておいて、見えないと嘆いているのである。
§4〜5したがって私の目的は、哲学の諸学派に疑わしさと不確実さ、不合理と矛盾をもたらした原理が何であるかを、発見できるかどうか試みることである。真理の探究を妨げる困難は、対象の暗さや知性の欠陥からではなく、避けられたはずの誤った原理から生じていると、疑う根拠がいくらかあるからである。
§6序論として、言語の本性とその濫用について述べておくのが適切である。そのためには、知識のほとんどあらゆる部分に誤りと困難を引き起こしたと思われるものに、注意を向けねばならない。それは、心が事物の抽象観念、すなわち概念を作り出す力をもつという意見である。
§7〜9事物の性質や様態は、ほかから離れてそれだけで存在することは決してなく、同じ対象のうちに混ざり合って存在している。しかし、心は各々の性質を、ほかの性質から抽象して単独に考察でき、それによって抽象観念を作ると言われる。視覚が、延長をもち、色をもち、動いている対象を知覚するとき、心はこの複合した観念を分解し、延長、色、運動の抽象観念を作る。さらに心は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの複合した観念から、それぞれに固有のものを除き、すべてに共通するものだけを保持して、人間の抽象観念を作る。
§10他の人々がこの観念を抽象する能力をもつかどうかは、彼ら自身が最もよく言える。私自身は、個別の事物の観念を想像し、組み合わせたり分割したりする能力をもつと感じる。しかし、そのとき私が想像する手や目は、何らかの個別の形と色をもたなければならない。私が作る人間の観念も、白か黒か褐色か、背の高い人間か低い人間か中背の人間かの、どれかでなければならない。上に述べた抽象観念は、どれだけ努力しても思い描けない。
私は、他のものなしに実際に存在しうる個別の部分や性質を、ほかのものから切り離して考察できることは認める。しかし、切り離されて存在することが不可能な性質を、別々に思い描けることは否定する。また、個別のものから抽象して一般概念を作れることも否定する。
§11最近、当然ながら高く評価されている一人の哲学者は、抽象的な一般観念をもつことこそ、人間と獣とのあいだに知性の点で最も広い隔たりをもたらすと考えているように見える。「獣には、普遍的観念のために一般的な記号を使う形跡が少しも見られないことが明らかだからである。ここから、獣は抽象する、すなわち一般観念を作る能力をもたないと考える理由がある。」『人間知性論』第2巻第11章第10・11節。私は、獣の能力が抽象にけっして到達しえないという点で、この著者に同意する。
彼が別の箇所で自らに立てた問いは、「存在するものはすべて個別のものにすぎないのに、われわれはどのようにして一般的な語を得るのか」であり、その答えは「言葉は、一般観念の記号とされることによって一般的になる」である。『人間知性論』第3巻第3章第6節。しかし、言葉が一般的になるのは、抽象的な一般観念の記号とされることによってではなく、いくつもの個別の観念の記号とされることによってであると思われる。運動の変化は加えられた力に比例する、と言われるとき、この命題は運動について一般的に理解されねばならない。それでも、動かされる物体も特定の方向も速度もない運動の観念を、私が思い描かねばならないということは帰結しない。
§12私は一般観念があることを絶対的に否定するのではない。否定するのは、抽象的な一般観念があることである。個別である観念は、同種のほかのすべての個別の観念を代表することによって、一般的になる。ある幾何学者が、線を二つの等しい部分に切る方法を証明するとき、彼は長さ一インチの黒い線を引く。この線は、それ自体では個別でありながら、個別のあらゆる線を代表するので、それについて証明されたことは、線一般について証明されたことになる。
§13『人間知性論』から別の箇所を加える。それは次のとおりである。「たとえば、三角形の一般観念を形づくるには、いくらかの労苦と技量がいらないだろうか。それは斜角でも直角でもなく、等辺でも二等辺でも不等辺でもなく、そのすべてでありそのどれでもないものでなければならない。それは存在しえない不完全なもの、異なる両立しないいくつもの観念の部分が寄せ集められた観念である。」『人間知性論』第4巻第7章第9節。私が望むのは、読者が、自分がそのような観念をもつかどうかを確実に自分で確かめてほしいということである。
§14〜15抽象観念に伴う困難と、それを形づくるのに必要な労苦と技量について、多くが語られている。そこから、これほど困難なことは、あらゆる人にとって容易で慣れ親しんだ伝達のために必要ではなかった、ということになりそうである。二人の子供が、砂糖菓子やがらがらについておしゃべりするのに、まず心のなかに抽象的な一般観念を形づくっておかなければならない、などと想像するのは難しい。
私は、抽象観念が伝達のために必要でないのと同様に、知識の拡大のためにも必要だとは、少しも思わない。すべての知識と論証が普遍的な概念にかかわることには、私も全面的に同意する。しかし、それらの概念が抽象によって形づくられるとは思わない。普遍性は、何かの絶対的で積極的な本性にあるのではなく、それが意味し表象する個別のものに対してもつ関係にある。三角形についてどの命題を証明するときも、私が考察する個別の三角形は、あらゆる直線三角形をひとしく代表し、その意味で普遍的であるにすぎない。
§16すべての三角形にひとしく当てはまる三角形の抽象観念について証明されていないのなら、ある命題がすべての三角形について真であると、どうして知れるのかと問われるだろう。これに私は答える。証明のあいだ私が念頭に置いている観念が、直角二等辺三角形のものであっても、それが他のすべての直線三角形に及ぶことを、私は確実に知りうる。直角も、辺の等しさも、この証明にはまったく関与していないからである。それゆえ私は、ある直角二等辺三角形について証明したことを、任意の斜角三角形や不等辺三角形についても真だと結論する。三角形の抽象観念について証明したからではない。
人は、角の個別の性質や辺の関係に注意を向けず、ある図形をただ三角形であるものとして考察できる。しかしこのことは、人が三角形の抽象的で一般的な観念を形づくりうることを、けっして証明しない。われわれはペテロを、人間であるかぎりにおいて考察できるが、そのとき人間の抽象観念を形づくっているのではない。
§17抽象の偉大な達人であるスコラ学者たちが、抽象的な本性と概念についての学説に導かれて陥った、入り組んだ誤りと論争の迷路をたどることは、無益であり、きりがない。諸学のはるかに大部分が暗さと不確実さと終わりのない論争に満ち、その小さな部分しか、実質的な利益を人類に与えていないとき、人々は落胆し、あらゆる研究を軽蔑するに至りがちである。しかしこれは、世に行われてきた誤った原理を見渡せば、おそらく止むだろう。そのなかで、抽象的な一般観念というこの原理ほど広い影響を及ぼすものはないと、私は思う。
§18この広く行き渡った概念の源は、言語であると私には思われる。抽象観念の最も有能な擁護者たち自身が、抽象観念は命名のために作られると認めている。『人間知性論』第3巻第6章第39節。あらゆる名はただ一つの厳密で確定した意味をもつ、あるいはもつべきだと考えられている。これが、各々の一般名の唯一の直接の意味を構成する抽象的で確定した観念があると、人々に思わせる。ところが、どの一般名にも、ただ一つの意味が結びついてはおらず、それらはみな、多数の個別の観念を無差別に意味している。
定義をもつ名は一定の意味に制限されると反論されるだろう。三角形は三本の直線で囲まれた平面と定義される。これに私は答える。この定義は、その面が大きいか小さいか、黒いか白いか、辺が長いか短いかを言っていない。そのすべてにおいて大きな多様がありうるので、三角形という語の意味を限定する確定した観念は存在しない。名を、つねに同じ定義にとどめておくことと、どこでも同じ観念を表すようにすることとは別のことである。前者は必要であるが、後者は無益であり実行不可能である。
§19〜20意味をもつ名はすべて一つの観念を表すというのが通説である。ところが、無意味とは考えられていない名が、思い描ける個別の観念を常に指し示すわけではない。そこから、それらは抽象概念を表すのだと、ただちに結論される。しかし、最も厳密な推論においてさえ、観念を表す名が、使われるたびにその観念を知性のうちに呼び起こす必要はない。名はたいてい代数における文字のように用いられる。代数では、各文字が個別の量を表すが、各段階でその量を思考に思い起こす必要はない。
また、観念を伝達することは、言語の唯一の目的ではない。私は読者に、ある言葉を知覚するやいなや、間に観念が入ることなく、情念が直ちに心に生じていないかどうか、見てほしいと願う。危険が迫っていると脅かされることは、抽象における危険の観念を形づくらなくても、恐怖を呼び起こすのに十分である。スコラ学者が私にアリストテレスがそう言ったと告げるとき、彼が意味するのは、その名に習慣が結びつけている敬意と服従をもって、彼の意見を受け入れるよう私に仕向けることだけである。
§21〜22言葉には優れた効用がある。しかし同時に、知識のほとんどの部分が、言葉の濫用によって奇妙なまでに混乱し、暗くされていることも認めなければならない。言葉はこれほど知性を欺きがちなのだから、私はどのような観念を考察するときも、それらを裸の姿で目の前にとらえ、それらと固く結びついた名を、できるかぎり思考から締め出すよう努める。
そこから得られる利点がある。まず、純粋に言葉だけの論争から、確実に抜け出すことができる。次に、これは、抽象観念という精緻で巧妙な網から自分を解き出す、確かな道だと思われる。さらに、私が自分の思考を、言葉を取り去った自分自身の観念にとどめているかぎり、私は、もっていない観念をもっていると思って欺かれることはありえない。観念のあいだの一致や不一致を見分けるために必要なのは、自分自身の知性のうちに起こっていることへの、注意深い知覚以外にはない。
§23これらの利点をすべて得るには、言葉による欺瞞から完全に解放されることが前提となる。人々が抽象観念は自分の言葉に結びついていると考えているかぎり、観念のかわりに言葉を使うことは不思議でない。これこそ、裸の観念を観想するよう他の人々に勧めてきた人々が、自分ではそれを果たせずにきた主な原因だと、私には思われる。
§24〜25しかし、これらが誤りだとわかれば、人は言葉に欺かれることを、より容易に防げる。個別の観念しかもたないと知っている人は、名に結びつけられた抽象観念を見つけ出そうと、むなしく自分を悩ませはしない。
知識の第一原理を、言葉の混乱と迷妄から清める配慮をしないかぎり、われわれは、それについて無限の推論を重ねても何の役にも立たない。以下の頁を読もうとする人には、私の言葉を、その人自身の思考の機会としてほしいと願う。読むときに、私が書いたときと同じ思考の流れに達するよう努めてほしい。そうすれば、私の言うことの真偽を容易に見いだせる。自分自身の裸の、偽りのない観念を考察することで、誤りに導かれることがあるとは、私には思えない。
人知の諸原理について 第一部 §1人知の対象を見渡すなら、それらは、感覚に現実に刻み込まれた観念であるか、心の情念と作用に注意を向けることによって知覚される観念であるか、あるいは、記憶と想像の助けによって、最初に知覚されたものを、組み合わせ、分割し、あるいはただ表象して形成された観念であるかの、いずれかである。視覚によって、私は光と色の観念をもつ。触覚によって、私は硬さと柔らかさ、熱さと冷たさを知覚する。これらのいくつかが互いに伴うことが観察されると、それらは一つの物とみなされ、リンゴという名で表される。
§2観念あるいは知識の対象のこの果てしない多様のほかに、それらを知覚し、それらについて意志する、想像する、想起するといった作用を営む何かもある。この知覚する能動的な存在を、私は心、精神、魂、あるいは私自身と呼ぶ。観念の存在は知覚されることにあるので、これらの語によって私が指すのは、自分の観念のどれか一つではなく、それらとは完全に別個の物で、そのうちに観念が存在し、あるいは同じことだが、それによって観念が知覚される物である。
§3われわれの思考も、情念も、想像によって形成された観念も、心の外には存在しない。感覚に刻み込まれた観念が、どのように混ぜ合わされ、どのような対象を構成していようと、それらを知覚する心のうち以外には存在しえない。私が書いている机は存在する、と私は言う。すなわち、私はそれを見、それに触れる。もし私が書斎の外にいたとしても、私はそれは存在したと言うだろう。その意味は、もし私が書斎にいたなら私はそれを知覚しえただろう、あるいは何かほかの精神が現にそれを知覚している、ということである。思考をもたない物の絶対的存在について、それが知覚されることとは何の関係もないものとして言われることは、私にはまったく理解できない。それらのesse(存在すること)はpercipi(知覚されること)であり、それらを知覚する心や思考する物の外で、それらが何らかの存在をもつことは不可能である。
§4家、山、川、すべての感覚的な対象が、知性によって知覚されることとは別個の存在をもっているという意見は、人々のあいだに奇妙なほど広く行き渡っている。しかし、それを疑ってみる人は、そこに明白な矛盾が含まれていることを見てとるだろう。これらの対象とは、感覚によってわれわれが知覚する物にほかならない。われわれは、自分自身の観念あるいは感覚以外の何を知覚するというのか。これらのどれかが、知覚されないまま存在するというのは、明らかに不整合ではないか。
§5もしこの信条を徹底的に調べるなら、おそらく、その根底は抽象観念の学説にかかっていることがわかるだろう。感覚的な対象の存在を、それが知覚されることから区別し、知覚されないまま存在すると思い描くことほど、精妙な抽象があるだろうか。われわれが見たり触れたりする物は、感覚における観念にほかならない。そして、これらのどれかを、思考のうえでさえ、知覚から切り離すことは可能なのか。私にとってそれは、ある物をその物自身から分けることと同じ程度に不可能である。私の想像する力は、存在や知覚の可能性を越えない。
§6天の合唱隊も地の調度も、世界の壮大な枠組みを構成するすべての物体は、心の外にはどんな存続もなく、それらの存在は知覚されること、あるいは知られることである。それらに精神から独立した存在を帰することは、まったく理解できず、抽象のあらゆる不合理を含んでいる。したがって、私によって現実に知覚されないあいだ、あるいは私の心やほかの被造物である精神の心のうちに存在しないあいだは、それらはまったく存在しないか、何らかの永遠の精神の心のうちに存続するかのどちらかでなければならない。
§7〜8精神、すなわち知覚するもの以外にはいかなる実体もない。感覚的な性質とは、色、形、運動、匂い、味など、感覚によって知覚される観念である。観念をもつことは知覚することと同じなので、観念が知覚しない物のうちに存在するのは、明白な矛盾である。それゆえ、それらの観念の、思考をもたない実体あるいは基体はありえない。
しかし、観念そのものは心の外に存在しないとしても、観念がその写しであるような物が、心の外に、思考をもたない実体のうちに存在しうるではないか、とあなたは言う。私は答える。観念は観念にしか似ることができない。さらに私は問う。観念の原物とされる外的な物は、それ自体知覚されうるのか。知覚されうるなら、それは観念であり、われわれは目的を果たしたことになる。知覚されえないなら、色が見えない何かに似ているなどと主張することが意味をなすのかどうか、私はだれにでも訴えたい。
§9第一性質と第二性質を区別する人々がいる。前者は、延長、形、運動、静止、固性、数であり、後者は、色、音、味など、ほかのすべての感覚的な性質である。彼らは、第二性質の観念は心の外にある何かの似姿ではないと認める。しかし、第一性質の観念は、心の外に、彼らが物質と呼ぶ思考をもたない実体のうちに存在する物の、原型あるいは像であると主張する。延長、形、運動は心のうちに存在する観念にすぎず、観念は別の観念にしか似ることができない。したがって、それらも、その原型も、知覚しない実体のうちに存在しえない。それゆえ、物質あるいは物体的実体と呼ばれるものの概念そのものが、矛盾を含む。
§10第一性質は心の外に存在すると主張する人々も、色、音、熱さ、冷たさなどの第二性質は心の外に存在しないと認める。もし第一性質が他の感覚的な性質と不可分に結びついていて、思考のうえでもそれらから抽象されえないなら、それらが心のうちにしか存在しないことは明白に帰結する。だれでも、物体の延長と運動を、ほかのすべての感覚的な性質なしに思い描けるかどうか、試してみてほしい。私は、延長をもち動いている物体の観念を形づくるとき、何らかの色を必ずそれに与えてしまう。ほかのすべての性質から抽象された延長、形、運動は、思い描くことができない。それゆえ、他の感覚的な性質があるところには、これらもなければならない。すなわち心のうちにあり、ほかのどこにもない。
§11大きいと小さい、速いと遅いは、感覚器官の構造や位置が変わるにつれて変わる、まったく相対的なものだから、心の外のどこにも存在しないと認められている。したがって、心の外に存在する延長は、大きくも小さくもなく、運動は速くも遅くもない。しかし、それらは一般における延長、一般における運動である、とあなたは言う。こうして、心の外に存在する延長をもち動きうる実体という信条が、抽象観念という奇妙な学説にどれほど依存しているかがわかる。延長なしには固性は思い描けない。したがって、延長が思考をもたない実体のうちに存在しないことが示された以上、固性についても同じことが真でなければならない。
§12〜13数がまったく心の被造物であることは、同じ物が、心がそれをさまざまな関係において見るのに応じて、異なる数の呼び名を受けることから明らかである。同じ延長が、心がそれをヤード、フィート、インチのどれと関連させるかに応じて、一であり、三であり、三十六である。
単一性は、ほかのすべての観念とともに心に入ってくる、単純な観念であると主張する人がいる。しかし私は、単一性という語に対応するそのような観念を、もっているとは見いだせない。もしもっているなら、見いだすはずだと思う。それは、感覚と反省のあらゆる経路によって知覚されると言われているのだから、私の知性にとって最もなじみ深いものでなければならない。それは抽象観念である。
§14〜15同じ物体が一方の手には冷たく、他方の手には温かく見えるので、熱さと冷たさは心の変様にすぎないと言われる。それなら、形と延長が物質のうちに存在する性質の似姿ではないと論じても、同じようによいのではないか。同じ目でも位置が変われば、それらはさまざまに見えるからである。心のうちの観念の継起が速くなると、外的な対象に何の変化もなくても、運動はより遅く見えることが認められているので、運動が心の外にないと言うのも、同様に理にかなっている。
§16〜17延長は物質の様態あるいは偶有性であり、物質がそれを支える基体であると言われる。私は、物質が延長を支えるとはどういう意味か、説明してほしい。物質の観念をもたないから説明できない、とあなたは言う。私は答える。積極的な観念をもたなくても、何か意味があるのなら、少なくとも物質の相対的な観念はもっているはずである。ここで「支える」が、柱が建物を支えると言うときのような、通常の、字義どおりの意味に取られえないことは明らかである。
最も厳密な哲学者たちも、物質的実体という音声に結びついた意味は、一般における存在の観念と、それが偶有性を支えるという相対的な概念以外にはないと認める。一般における存在の観念は、ほかのあらゆる観念のなかで私には、最も抽象的で、把握しがたいものに思われる。物質的実体という語の意味をなす二つの部分に、私は明確な意味が結びついていないと確信する。しかし、形や運動やほかの感覚的な性質の物質的な基体について論じるのは、それらの性質が心の外に存在することを前提していないだろうか。これは直接の不整合ではないか。
§18固く、形をもち、動きうる実体が、物体についてのわれわれの観念に対応して、心の外に存在することが可能だとしても、われわれはどうしてそれを知りうるのか。感覚が教えるのは、自分の観念だけで、知覚されるものに似た物が心の外に存在するとは教えない。しかし物質の擁護者たちさえ、物体とわれわれの観念のあいだに必然的な連関があるとは主張しない。夢や狂乱の場合のように、似た物体が外に何もなくても、われわれがすべての観念に触発されうることは、あらゆる人に認められている。外的な物体の想定は、観念を生み出すために必要ではない。
§19外的な物体を想定したほうが、観念が生み出される仕方を説明しやすいと考えられるかもしれない。しかし、唯物論者に外的な物体を与えても、観念がどう生み出されるかを知ることに少しも近づかない。彼ら自身が、物体が精神にどう作用しうるのか、理解できないと認めている。物質が存在すると主張することは、神が、まったく無用な無数の存在者を創造したと、何の理由もなしに想定することになる。
§20〜21もし外的な物体があるとしても、われわれがそれを知るに至ることは不可能である。もしなかったとしても、われわれは今もっているのとまったく同じ理由を、あると考えるために持ちうる。ある知的存在が、外的な物体の助けなしに、あなたと同じ観念の連なりに、同じ順序で同じ鮮明さをもって触発されると想定しよう。その知的存在は、物体的実体の存在を信じるために、あなたがもつ理由を、すべてもっているのではないか。この考察だけで、理性ある人はだれでも、自分の論拠がどれほど強いかを、疑うようになるはずである。
物質の存在に反対するさらなる証明が必要なら、その信条から生じた誤りと困難を挙げられる。それは哲学において数えきれない論争を引き起こし、宗教においても、はるかに重大な論争を引き起こした。
§22自分自身の思考をのぞきこんで、心の外に、あるいは知覚されないまま存在することが可能だと思い描けるかどうか、試せばよい。もしあなたが、どんな観念についても、それを知覚する心のうち以外に存在することが可能だと思い描けるなら、私は喜んで自分の主張を放棄しよう。そして、あなたが外的な物体の全体について、存在すると信じる理由を一つも挙げられず、存在すると想定した場合の用途も示せないとしても、私はその存在を認めよう。あなたの意見が真でありうるというだけの可能性が、それが真であることの論拠として通用してよい、と私は言う。
§23しかし、あなたはこう言う。公園に木々が、書斎に本が、それらを知覚する者がだれもそばにいないまま存在すると想像するほど、容易なことはない、と。私は答える。そう想像することはできる。しかし、これは、心のなかに本や木と呼ぶ観念を形づくり、同時に、それらを知覚しうる者の観念を形づくるのを怠っている以上の何であろうか。これは、あなたが心のなかで観念を形づくる力をもつことを示すだけで、思考の対象が心の外に存在しうると思い描けることを示さない。それを示すには、それらが思い描かれず、考えられないまま存在するのを思い描かなければならないが、これは明白な不整合である。
§24感覚的な対象が、心の外に絶対的に存在すると言うことで何が意味されているかを、われわれが理解できるかどうかは、自分の思考をほんの少し探ってみれば、きわめて容易に知られる。それらの語は、直接の矛盾か、そうでなければまったく何も指さないことが、私には明らかである。思考をもたない物の絶対的存在は、意味のない語であるか、矛盾を含む語である。
§25私たちの観念は、明らかに不活発であり、そこには力も作用も含まれていない。一つの観念が、別の観念を生み出したり、変化させたりすることはできない。自分の観念に注意を向ける人はだれでも、そのうちに力も活動性も知覚しないだろう。観念の存在そのものが、受動性と不活性を含意している。それゆえ、観念が何かの原因であることは不可能であり、観念は、いかなる能動的な存在者の似姿でもありえない。ここから、延長、形、運動が、われわれの感覚の原因でありえないことが明白に帰結する。
§26われわれは観念の絶え間ない継起を知覚する。したがって、これらの観念を生み出し変化させる何らかの原因がある。この原因が、いかなる性質でも、観念でも、観念の結合でもありえないことは、前節から明らかである。それゆえそれは実体でなければならない。しかし、物質的な実体がないことはすでに示された。したがって、観念の原因は、非物体的で能動的な実体、すなわち精神である。
§27精神は、単純で不可分で能動的な一つの存在である。それが観念を知覚するかぎり、知性と呼ばれ、観念を生み出すかぎり、意志と呼ばれる。したがって、魂あるいは精神の観念を形づくることはできない。あらゆる観念は受動的で不活性なものであり、意志、魂、精神という語は、いかなる観念も表さず、観念とは非常に異なる何かを表す。ただし、これらの語の意味を理解しているかぎりにおいて、われわれは魂や精神、意志する、愛する、憎むといった心の作用について、何らかの概念をもつことは認めねばならない。
§28〜29私は、自分の心のなかに観念を好きなように呼び起こすことができる。意志することだけで、この観念が私の想像のなかに生じ、同じ力によって、それが消され、別の観念に道を譲る。観念をこのように作ったり消したりすることは、心を能動的と呼ぶのにふさわしい。
しかし、感覚によって現実に知覚される観念は、私の意志にそのような依存をもたない。見るか見ないかを選ぶことも、どの対象が目の前に現れるかを決めることも、私の力のうちにない。したがって、それらを生み出す別の意志あるいは精神がある。
§30〜31感覚の観念は、想像の観念より、強く、生き生きとして、判明である。われわれが依存する心が、感覚の観念をわれわれのうちに呼び起こす、決まった規則は、自然法則と呼ばれる。
これは、われわれにある種の先見を与え、それによって生活の利益のために行為を律することができる。食物が養い、火が温めること、種まきの時期に蒔くことが収穫の時期に刈り取る道であることを知るのは、観念のあいだの必然的な連関を発見することによってではなく、確立された自然法則を観察することによってのみである。自然法則がなければ、われわれはみな不確かさと混乱のうちにあるだろう。
§32〜33それなのに、その意志が自然法則を構成している統治する精神の善良さと知恵を示す、一貫した一様な働きは、われわれの思考をその精神へ導くどころか、第二原因を求めてさまよわせる。感覚のある観念にほかの観念が絶えず続くのを知覚し、これがわれわれ自身のなすところではないとわかると、われわれはただちに、観念そのものに力と作用を帰し、一方を他方の原因とする。これほど不合理で理解しがたいことはない。
自然の作者によって感覚に刻み込まれた観念は、実在する物と呼ばれる。しかし、感覚は、どれほど鮮明で判明であっても、やはり観念であり、心自身が形づくる観念と同じくらいまことに、心のうちに存在する。感覚の観念が、心の被造物よりも強く、秩序があり、一貫していることは認められるが、それは心の外に存在することの論拠にはならない。いかなる観念も、それを知覚する心のうち以外には存在しえない。
§34〜35まず、先の原理によって、自然のうちの実在的で実質的なものがすべて世界から追放され、観念の空想的な体系が居座る、と反論されるだろう。これに私は答える。前述の原理によって、われわれは自然のうちのいかなるものも奪われない。われわれが見、触れ、聞くものはすべて、以前と同じく確実であり、同じく実在的である。実在する物とは、空想、すなわちわれわれ自身が形づくる観念に対立するものである。ただし、両者はともに心のうちに存在し、その意味ではどちらも観念である。
私が自分の目で見、自分の手で触れる物が存在し、実在することは、少しも疑わない。われわれが存在を否定する唯一のものは、哲学者たちが物質あるいは物体的実体と呼ぶものである。
§36精神的実体、すなわち心があり、これらは観念を意志し、自らのうちに思いのままに呼び起こす。しかしこれらの観念は、感覚によって知覚する他の観念に比べると、かすかで、弱く、不安定である。感覚の観念は、自然の一定の規則あるいは法則に従って心に刻み込まれ、人間の精神より力強く賢い心の結果であることを、みずから語っている。後者は前者より多くの実在性をもつと言われる。それによって意味されるのは、それらがより強く心を動かし、より秩序があり、より判明であり、知覚する心の虚構ではないということである。この意味で、私が昼に見る太陽は実在する太陽であり、夜に私が想像する太陽は、前者の観念である。
§37少なくともわれわれはあらゆる物体的実体を取り去ってしまう、と主張されるだろう。これに対する答えはこうである。実体という語が通俗の意味で、感覚的な性質の結合という意味に取られるなら、われわれがこれを取り去ると非難される筋合いはない。しかし、哲学的な意味で、心の外にある偶有性あるいは性質を支えるもの、という意味に取られるなら、想像のなかでさえかつていかなる存在ももたなかったものを取り去ると言えるのであれば、たしかにわれわれはそれを取り去ることを認める。
§38〜39われわれは観念を食べ、飲み、観念を着ていると言うのは、非常に耳障りに響く、とあなたは言う。たしかにそう響くと認める。硬さや柔らかさ、色、味、温かさ、形は、結合して食物や衣服を構成するが、それらを知覚する心のうちにのみ存在することが示された。それらを観念と呼ぶことで意味されるのはこれがすべてである。
なぜ観念という語を使い、習慣に従ってそれらを物と呼ばないのかと問われるなら、二つの理由がある。まず、物という語は、観念に対立するものとして、心の外に存在する何かを指すと一般に考えられているからである。次に、物は観念だけでなく精神すなわち思考する物をも含むからである。感覚の対象は心のうちにのみ存在し、しかも思考をもたず不活発なので、私はそれらを観念という語で表すことにした。
§40ある人は、自分は依然として自分の感覚を信じる、と答えたがるだろう。そうであるなら、感覚の明証性を好きなだけ高く主張するがよい。われわれも喜んで同じことをする。私が見、聞き、触れるものが存在すること、すなわち私によって知覚されることを、私は自分自身の存在を疑わないのと同じように疑わない。しかし、感覚によっては知覚されない何かの存在の証明として、感覚の証言をどうして持ち出せるのか、私にはわからない。われわれが立てた原理ほど、懐疑論に反するものはない。
§41〜42次に、実在する火と火の観念のあいだには、また、焼かれる夢を見ることと、実際に焼かれることのあいだには、大きな違いがある、と反論されるだろう。これに類することへの答えは、すでに述べたことから明らかである。
さらに、われわれは現実に、われわれの外に、われわれから離れたところにある物を見ており、したがってそれらは心のうちに存在しない、と反論されるだろう。これに答えて、夢のなかでわれわれは、遠く離れて存在する物をしばしば知覚するが、それでも、それらの物は心のうちにのみ存在すると認められていることを、考えてほしい。
§43〜44われわれが視覚によって距離と、距離をおいて置かれた物をどのように知覚するのかを考えてみる。われわれが外的な空間と、そのなかの、より近い物体とより遠い物体を見るということは、それらが心の外のどこにも存在しないという主張への、ある種の反対を含むように思われるからである。この困難の考察こそが、私の『視覚新論』を生んだ。そこでは、距離すなわち外在性は、視覚によって直接知覚されるのでも、線や角によって把握されるのでもなく、視覚に伴う一定の可視的な観念と感覚によって、われわれの思考に示唆されるにすぎないことが示されている。それらの観念と感覚は、それ自体の本性においては、距離とも、距離をおいて置かれた物とも、いかなる類似も関係ももたない。しかし、経験によって教えられた連関により、それらは距離や物を意味し、示唆するようになる。生まれつきの盲人が、後に見えるようにされても、最初に見たとき、自分が見る物を、自分の心の外にあるとも思わないだろう。
したがって、厳密な真理においては、視覚の観念は、現実に距離をおいて存在する物をわれわれに示すのではなく、これこれの行為の結果として、どのような触覚の観念がわれわれの心に刻み込まれるかを、われわれに知らせるだけである。可視的な観念とは、われわれが依存する統治する精神が、われわれが自分の身体にこれこれの運動を起こしたなら、どのような触覚的な観念をわれわれに刻み込もうとしているかを、われわれに知らせる言語である。
§45〜46さらに、前述の原理から、物は一瞬ごとに無に帰され、また新たに創造されることが帰結する、と反論されるだろう。したがって、庭の木々や客間の椅子は、それらを知覚する者がそばにいるあいだしか存在しない。これに答えて、私は読者に、第3、4節で述べたことを参照するよう求め、観念の現実の存在によって、それが知覚されることとは別の何かを意味しているかどうかを考えてほしい。もし読者が、自分の観念が、知覚されることなしに存在することが可能だと思い描けるなら、私は主張を放棄しよう。
まぶたを閉じると、周囲の可視的な対象がすべて無に帰すというのは、奇妙に不合理だと考えられている。しかし、光と色こそ視覚に固有の直接の対象であり、知覚されている間しか存在しない単なる感覚であると、哲学者たちがこぞって同意するとき、彼らが認めているのはまさにこのことではないか。また、スコラ学者たちは、物質の存在を認めながらも、物質は神の保存なしには存続しえないという意見をもっており、この保存を継続的な創造として説明している。
§47さらに、われわれが物質あるいは物体的実体の存在を認めるとしても、現在一般に認められている原理から、個別の物体は、知覚されていないあいだは、そのどれも存在しないことが、避けがたく帰結する。物質が無限に分割されうることは、有力な哲学者たちによって普遍的に認められている。そこから、物質の各粒子のうちには、感覚によって知覚されない無限の数の部分があることが帰結する。ある個別の物体が有限の大きさをもつように見えるのは、感覚がその部分を見分けるほど鋭くないからである。感覚がより鋭くされるのに応じて、対象はより大きく見え、その形が変わる。そしてついに、感覚が無限に鋭くなると、その物体は無限に見えるだろう。それゆえ、それ自体として考察された各物体は、無限に延びており、したがってあらゆる形状を欠いている。唯物論者たち自身が、自分の原理によって、感覚によって知覚される個別の物体も、それに似たいかなるものも、心の外には存在しないと認めなければならない。
§48第45節の反論は、われわれの原理に正当に向けられたものではない。われわれは、感覚の対象は知覚されなければ存在しえない観念にほかならないと主張する。しかし、われわれが知覚しなくても、それらを知覚する別の精神がありうるので、それらがわれわれに知覚されている間しか存在しないと、そこから結論することはできない。物体が心の外には存在しないと言うとき、私が意味するのは、これこれの特定の心ではなく、あらゆる心である。
§49延長は様態あるいは属性であり、それが存在する基体について述語づけられるのだから、延長と形が心のうちにのみ存在するなら、心が延長をもち形をもつことになる、と反論されるかもしれない。私は答える。それらの性質は、様態あるいは属性としてではなく、ただ観念として心のうちにある。色が心のうちにのみあることが認められていても、心が赤かったり青かったりしないのと同じである。サイコロは硬く延長をもち四角いという命題では、サイコロという語が、硬さ、延長、形とは区別される基体を表すと主張される。これを、私は理解できない。
§50物質と運動によって説明されてきたことは非常に多く、これらを取り去れば、粒子哲学の全体を掘り崩すことになる、とあなたは言うだろう。私は答える。その想定のもとで説明される現象はすべて、それなしでも同じく説明できる。しかし、物質がどのようにして精神に働きかけ、観念を生み出すのかは、どの哲学者も説明できると称さない。したがって、自然哲学において物質の用途はありえない。
§51〜52自然的原因を取り去り、すべてを精神の直接の作用に帰するのは、不合理に思われないかと問われるだろう。火が熱する、水が冷やすとはもはや言えず、精神が熱する、などと言わなければならないのか。私は答える。そのように話す人は、笑われるだろう。こうした事柄においては、学識ある人々のように考え、俗人のように話すべきである。コペルニクスの体系が真であることを確信している人々も、やはり太陽が昇る、太陽が沈むと言う。われわれの主張を認めても、言語の通常の使用は何ら変更も混乱も受けない。
しかし、最も厳格な哲学的推論においてさえ、私たちの話す言語の傾向と特質を完全に変えて、あら探しをする者に口実を与えないようにすることは不可能である。公正で率直な読者は、論述の趣旨、調子、連関から意味を汲み取り、慣用上避けられなくなった不正確な言い回しを大目に見るだろう。
§53物体的原因は存在しないという意見は、かつてスコラ学者の一部によっても主張された。彼らは物質の存在を認めながらも、神のみがすべての物事の直接の作用因であると主張する。しかし、彼らは、自然のなかでいかなる結果も一つとして生み出せないと自ら認める被造物を、無数に想定する。神はそれらがなくても同じようにすべてを成し遂げえたのだから、それらは何の目的のためにも作られていない。
§54〜55人類が普遍的に一致して同意していることは、物質あるいは外的な物の存在を支持する打ち破りがたい論拠だと、ある人々は考えるかもしれない。私は答える。まず、綿密に調べてみると、おそらく、想像されているほど多くの人が、物質あるいは心の外の物の存在を実際に信じているわけではないことがわかるだろう。厳密に言えば、矛盾を含むもの、あるいは意味をもたないものを信じることは不可能である。
次に、ある概念がどれほど普遍的で確固として固執されていても、それがその真理を示す論拠としては弱い。非常に多くの偏見や誤った意見が、反省しない人々、すなわち人類のはるかに大きな部分によって、最大の執着をもって抱かれているからである。
§56〜57この偏見の原因を示すことが求められる。私は答える。人々は、自分が内から呼び起こしたのでも、自分の意志の働きに依存するのでもないために、自分自身がその作者ではない多くの観念を知覚していると知っていた。そこで彼らは、それらの観念の対象が、心から独立して、心の外に存在すると主張した。しかし哲学者たちは、知覚の直接の対象が心の外に存在しないことをはっきりと見抜いたので、俗人の誤りをある程度正した。だが同時に、彼らはそれに劣らず不合理と思われる別の誤りに陥った。すなわち、知覚されることとは別の存立をもつ、心の外に実在するある種の対象がある、というのである。われわれの観念は、それらの対象によって心に刻み込まれた像あるいは類似にすぎないとされる。そして、哲学者たちのこの概念も、同じ原因、すなわち自分が自らの感覚の作者ではないという意識に由来する。
しかし、彼らが、働きうる唯一のものである精神に訴えず、感覚の観念はそれに似た物によって呼び起こされると想定したのはなぜか。まず、観念に似た物が外に存在すると想定することにも、それらに力や能動性を帰することにも、不整合があることに気づかなかったからである。さらに、その働きが規則的で一様だからである。自然の経過が奇跡によって中断されるとき、人々は上位の行為者の臨在をすぐに認める。しかし物事が通常の経過をたどるときは、何の反省も起こらない。
§58〜59われわれが主張する概念は、哲学と数学のいくつかの健全な真理と矛盾する、と反論されるだろう。たとえば、地球の運動は、いまや天文学者たちに普遍的に認められている。しかし、先の原理に立てば、そのようなものはありえない。運動は観念にすぎず、知覚されなければ存在しないが、地球の運動は感覚によって知覚されないからである。私は答える。その教説は、正しく理解されれば、われわれの原理と一致する。地球が動くかどうかという問題は、われわれがこれこれの位置と距離にあるならば、地球が惑星の一つのように動くのを知覚するだろうと、天文学者たちの観察から結論する理由がわれわれにあるかどうか、にほかならない。そして、このことは、自然の確立された規則によって、現象から合理的に推論される。
観念の継起について得た経験から、われわれは、どのような観念に触発されるかについて、確実な予測をしばしばなしうる。自然の知識はここに成り立ち、これまで述べたことと完全に両立しつつ、その有用性と確実性を保つことができる。
§60〜61植物のあの精妙な組織や、動物の諸部分における驚くべき機構は、何のために役立つのかと問われるだろう。それらの部分は観念であるから、力も作用もない。もし、あらゆる結果を意志の働きによって直接に生み出すのが精神であるなら、そこにある精巧で技巧的なものはすべて、無駄に作られたことになる。職人が時計のばねと歯車を作っても、針を導き時刻を指し示すのは、ある知的存在だと考えなければならない。その知的存在は、機構がなくてもそれをなしうるのではないか。
私は答える。まず、摂理の統治について、先の原理では解けない困難があったとしても、この反論は、最大の明証をもって先天的に証明されうる事柄に、ほとんど重みをもちえない。次に、受け入れられた原理も、同様の困難を免れない。神の意志の命令だけで成し遂げえたはずの事柄を、神がなぜ道具や機械を用いる遠回りの方法で実現するのか、なお問われうるからである。この反論は、それらの機械が心の外に存在すると主張する人々に、より強い力で投げ返される。固性、かさ、形、運動には、能動性も効力もないからである。したがって、それらが知覚されていないときにも存在すると想定する人は、明らかに何の目的もなくそうしている。
§62〜63それらの部分や器官の製作は、いかなる結果を生み出すにも絶対に必要というわけではないが、自然の法則に従い、恒常的で規則的な仕方で物事を生み出すためには必要である。現象の説明は、個々の現象が自然の一般法則に適合していることを示すことにのみ成り立つ。この規則的で恒常的な働き方に大きな用途があることは、第31節で示された。神が、創造において確立し維持している機械論の規則に従って行為しようとするなら、時計職人が機構を作り、調整するという行為が、運動の産出に先立つことが必要である。運動に乱れがあれば、それに対応する機構の乱れの知覚が伴い、それがいったん正されればすべてが再び正常になることも必要である。
場合によっては、自然の作者が、事物の通常の系列の外にある現れを生み出して、その支配的な力を示すことが必要になるかもしれない。しかしそれは、まれにしか用いられてはならない。さもなければ、効果を失う。神は、異常で驚くべき出来事によってよりも、自然の作品によって、自らの属性をわれわれの理性に納得させることを選んでいるように思われる。
§64〜65第60節の反論は、実際には次のことにほかならない。観念のあいだには、原因と結果に似た一定の秩序と連関がある。しかし、ある観念が別の観念の原因にはなりえないのだから、その連関は何のためにあるのか。神があれほどの技巧と規則性を何の目的もなく費やしたとは信じがたいではないか、と問われる。
私の答えは次のとおりである。まず、観念の連関は原因と結果の関係を意味するのではなく、記号あるいはしるしと表示されるものとの関係を意味するにすぎない。私が見る火は、近づいたときに私が被る苦痛の原因ではなく、それを前もって警告するしるしである。次に、観念が技巧的で規則的な組み合わせに形づくられる理由は、文字が組み合わされて語になる理由と同じである。少数の原初的な観念で多数の結果と行為を表示させるには、それらがさまざまに組み合わされることが必要である。その用途が永続的で普遍的であるためには、組み合わせは規則にもとづかなければならない。これによって、われわれがこれこれの行為から何を期待すべきかについて、豊富な情報が伝えられる。
§66以上から、結果の産出に協力し、あるいは共同して働く原因という概念のもとでは、まったく説明がつかず、大きな不合理にわれわれを陥れる事柄も、ただわれわれに情報を与えるしるしあるいは記号と見なせば、きわめて自然に説明でき、適切で明白な用途を割り当てられる。自然哲学者の仕事とすべきは、自然の作者によって定められたこれらの記号を探し、理解しようと努めることであり、物体的原因によって物事を説明しようと企てることではない。
§67〜68人が物質の観念から、延長、形、固性、運動を取り除き、その語によって意味するのは、心の外に、あるいは知覚されずに存在する不活発で感覚をもたない実体にすぎず、それがわれわれの観念の機会となる、と言うならば、この意味に取られた物質が存在する可能性は、なお認められるように見える、と反論されるだろう。これに答えて私は言う。まず、偶有性のない実体を想定することは、実体のない偶有性を想定することに劣らず不合理に思われる。次に、この未知の実体はどこにあると想定されうるのか。それが心のうちに存在しないことは同意されており、場所のうちに存在しないことも確実である。すべての延長は、心のうちにのみ存在するからである。したがって、それはどこにも存在しない。
この物質の記述を吟味しよう。物質は働かず、知覚せず、知覚されない。これは、下に立つ、あるいは支えるという関係的な概念を除けば、まったく否定からなる定義であり、しかもそれは何ものも支えていない。だが、それは未知の機会であり、その現前に際して神の意志によってわれわれのうちに観念が呼び起こされるのだ、とあなたは言う。
§69機会によって何が意味されるかを吟味しよう。その語は、何らかの結果を生み出す行為者か、あるいは物事の通常の経過のなかで、結果に伴い、あるいは先行するのが観察される何かのいずれかを意味する。しかし、前述のように記述された物質に適用されるとき、そのどちらの意味にも取れない。物質は受動的で不活発だと言われるので、行為者にはなりえない。また、あらゆる感覚的な性質を欠くので知覚できず、指を焼くことがそれに伴う苦痛の機会だと言われるような意味でも、機会になりえない。この語は、まったく何の意味もなく用いられているか、受け入れられた意味からきわめて隔たった意味で用いられている。
§70〜71おそらくあなたは、物質はわれわれには知覚されなくても神には知覚されており、神にとってはわれわれの心に観念を呼び起こす機会である、と言うだろう。
これに答えて、私は次のことに留意する。物質の概念がここで述べられたとおりなら、問題はもはや、精神や観念、知覚することや知覚されることとは別個の物の存在についてではない。問題は、神の心のうちに、私にはどのような種類かわからないある観念があり、それらが、恒常的で規則的な方法でわれわれの心に感覚を生み出すように神を導く、多くの印あるいは音符であるかどうか、である。しかし、この物質の概念は途方もないので、論駁に値しないように思われる。しかもそれは、感覚をもたない知覚されない実体はないというわれわれの主張に対する反論にならない。
§72理性の光に従うなら、われわれは、感覚の恒常的で一様な方法から、感覚をわれわれの心に呼び起こす精神の善と知恵を推論するであろう。無限に賢く、善く、力ある精神の存在が、自然のあらゆる現れを説明するのに十分すぎるほど十分であることは明らかである。一方、不活発で感覚をもたない物質については、私が知覚するもののうちに、それの思考へ導くものは何もない。物質が機会であるという点については、われわれに関するかぎり機会でないことを、明白に示したと思う。
§73〜74人々が物質的実体の存在を想定するに至った動機を、反省してみるのは価値がある。まず、色、形、運動、そのほかの感覚的な性質あるいは偶有性は、心の外に実在すると考えられた。それらは自分だけでは存在すると考えられないので、それらが存在する、思考をもたない基体あるいは実体を想定する必要があるように思われた。のちに、色、音、そのほかの第二性質が心の外には存在しないと人々が納得すると、彼らはこの基体からそれらの性質を取り去り、形、運動などの第一性質だけを残した。しかし、これらさえも、それを知覚する精神あるいは心のうち以外には存在しえないことが示されたのだから、物質の存在を想定する理由はもはやない。その語が、心の外で性質が存在する思考をもたない基体を表すものと取られるかぎり、そのようなものがありうることは完全に不可能である。
物質は偶有性を支えるためだけに考え出されたことは、唯物論者たち自身にも認められている。その理由がなくなったのだから、ただそれにのみ根拠をもっていたものへの信念を、心が自然に捨てることを期待できよう。それでも、偏見はわれわれの思考にあまりに深く固定されているので、物そのものが擁護できないとき、少なくとも名は保持しようとする。われわれの観念、感覚、概念のうちに、不活発で思考をもたず知覚されない機会の存在を推論させるものが、何かあるだろうか。
§75〜76物質への信念を確保するために全力を尽くし、理性がわれわれを見放したときには、物の単なる可能性に自分の意見を支えようとしても、結局のところ、神の心のうちに一定の未知の観念があるということに帰着する。これは、もはや物のためではなく、名のために争うことである。
あなたが、延長、運動、およびほかの感覚的な性質の、思考をもたない実体あるいは支えという概念に固執するなら、そのようなものがありうることは、最も明白に不可能である。それらの性質が、知覚しない実体のうちに存在し、あるいはそれに支えられることは、明らかな不整合だからである。
§77〜78あなたは言う。われわれが知覚する延長やほかの性質の、思考をもたない支えはないと認めても、おそらくなお、何かほかの性質の、不活発で知覚しない実体あるいは基体がありうる。私は答える。まず、物質という語で意味するのが、未知の性質の未知の支えにすぎないなら、そのようなものがあるかないかは問題ではない。それはわれわれにまったく関わらない。
次に、もしわれわれが新しい感覚をもったなら、それはわれわれに新しい観念あるいは感覚を与えるだけだろう。そうであれば、形、運動、色などに関してすでに提出された、それらが知覚しない実体のうちに存在することに反する理由と、同じ理由が、われわれにはあることになる。性質は、それを知覚する心のうちにのみ存在する感覚あるいは観念にほかならない。
§79あなたはなお言い張るだろう。物質が存在し、この物質が一般に実体あるいは観念の機会であると言うことは、矛盾ではない、と。私は答える。語が意味なしに用いられるとき、矛盾に陥る危険なしに、好きなように語を組み合わせることができる。二掛ける二は七に等しいと言えるのである。同じ理由で、あなたは、偶有性のない、思考をもたない実体があり、それがわれわれの観念の機会であると言うこともできる。そして、われわれは、一方の命題によっても他方の命題によっても、同じだけのことしか理解しない。
§80〜81最後に、あなたは言うだろう。物質とは、実体でも偶有性でもなく、精神でも観念でもなく、不活発で、思考をもたず、不可分で、不動で、延長をもたず、いかなる場所にも存在しない、未知の何ものかであると主張したらどうか、と。私は答える。そうしたければ、物質という語を、ほかの人々が無を用いるのと同じ意味で用いてよい。これこそがその定義の帰結として私に見えるものであり、その各部分を注意深く考えても、無という語によって呼び起こされるものと異なる効果や印象が、私の心に生じるのを見いだせないからである。
おそらくあなたは、先の定義には、それを無から十分に区別するもの、すなわち何であること、実有、あるいは存在という積極的で抽象的な観念が含まれていると答えるだろう。しかし、精神や観念、知覚することや知覚されることから抽象された実有あるいは存在の概念をもつと称することは、私の疑うところでは、まったくの不整合であり、言葉を弄ぶことである。残るのは、宗教の側からなされうる反論を考察することである。
§82〜83次のように考える人々がいる。物体の実在を、理性から引き出された論拠で論証するには至らないと認めるとしても、聖書はこの点で明確であり、物体が実在し、単なる観念以上のものであることを、あらゆる善良なキリスト教徒に納得させる、と。これに対して私は答える。そうした語を通俗の意味で、あるいは意味をもつように用いる、いかなる種類の文書も、われわれの教説によってその真理を疑われる危険にさらされない。通俗の意味で取られたそれらすべての物が実在し、物体、さらには物体的実体さえあることは、われわれの原理と一致することが示された。物と観念、実在と空想の違いも、はっきりと説明された†。哲学者たちが物質と呼ぶものも、心の外にある対象の存在も、聖書のどこにも言及されていないと私は考える。
† 第29、30、33、36節など。
外的な物があるにせよ、ないにせよ、言葉の本来の使用は、われわれの考え、あるいは物をわれわれに知られ知覚されるかぎりでのみ表示することにあると、万人が同意している。われわれが立てた教説には、言語の正しい使用と意義に反するものは何もない。
§84われわれの原理によれば、奇跡は重みと意義を大きく失う、と主張されるだろう。モーセの杖は実際に蛇に変えられたのではなく、見物人の心のなかで観念が変わっただけなのか、と。これに対して私は答える。杖は実在する蛇に、水は実在するぶどう酒に変えられたのである。このことは、第34、35節から明らかである。実在する奇跡についての疑念は、受け入れられた原理にのみ場所がある。
§85多くの難解で不明瞭な問題は、哲学からすっかり追放される。物質は無限に分割できるか。物質はどのようにして精神に働きかけるか。これらの探究は物質の存在に依存しているので、われわれの原理のもとではもはや場所がない。
§86われわれの原理から、人知は自然に二つの項目、すなわち観念の項目と精神の項目に整理される。観念に関する知識は、感覚の対象に二重の存在、すなわち心のうちにある存在と、心の外にある存在を想定することによって、大いに混乱させられてきた。人々が、実在する物は心の外に存立し、自分たちの知識は実在する物に合致するかぎりでのみ実在的であると考えるかぎり、実在的な知識を得たと確信できない。知覚される物が、知覚されない物に合致していることを、どうして知りうるだろうか。
§87〜88色、形、運動、延長などは、心のなかの感覚にすぎないものとしてのみ考察されるなら、完全に知られる。しかし、それらが心の外に存在する物あるいは原型に関係づけられる記号あるいは像と見なされるなら、われわれは懐疑論に巻き込まれる。この懐疑論はすべて、物と観念のあいだに違いがあり、前者が心の外に、あるいは知覚されずに存立すると想定することから帰結する。
思考をもたない物に、知覚されることとは別の実在的な存在を帰するかぎり、その本性を知りえないだけでなく、その存在することさえ知りえない。私は、自分が感覚によって知覚する物の存在を疑うことが、自分自身の存在を疑うことと同じくらいできない。思考をもたない存在の存在そのものは知覚されることに成り立つのだから、感覚的な対象が直接に知覚されながら、同時に自然のなかにまったく存在しないということは、明らかな矛盾である。
§89懐疑論の攻撃に耐える知識の体系を築くために、物、実在、存在によって何が意味されるのかを、判明に説明することから始めるほど重要なことはない。物あるいは存在者は、名のほかには共通するものが何もない二つの種類、すなわち精神と観念を含む。前者は能動的で不可分な実体である。後者は不活発で、移ろいやすく、依存的な存在であり、それ自身では存立せず、心すなわち精神的実体に支えられ、その中に存在する。自分自身の精神については、何らかの知識あるいは概念をもつが、厳密な意味では観念をもたない。
§90感覚に刻み込まれた観念は、実在する物である。これをわれわれは否定しない。われわれが否定するのは、それらが、それを知覚する心なしに存立しうること、あるいは心の外に存在する何らかの原型の類似であることである。感覚によって知覚される物は、それらを知覚する精神とは別の精神によって刻み込まれるので、その起源に関して外的と呼ぶことができる。
§91ここで述べられたことが、物の実在性を損なうと考えるのは誤りであろう。感覚によって知覚される対象は、それらの性質の結合にほかならないから、それ自身では存立できない。したがって、感覚によって知覚される物に、実体から独立した存在を否定しても、われわれは実在性についての受け入れられた意見から何も差し引かない。違いはただ一つ、われわれによれば、感覚によって知覚される思考をもたない存在は、知覚されることとは別の存在をもたず、したがって、それらを知覚する精神以外のいかなる実体のうちにも存在しえない。
§92物質あるいは物体的実体の教説が懐疑論の主柱であったのと同じく、同じ基礎の上に無神論と不信仰のあらゆる企てが築かれてきた。物質が無から生み出されると考えることは非常な困難と思われてきたので、古代の哲学者のうち最も名高い人々は、神の存在を主張した人々でさえ、物質は創造されておらず、神とともに永遠であると考えた。無神論者たちの体系はすべて、それに必然的に依存しており、この隅の親石がいったん取り除かれれば、全構造は地に倒れる。
§93不敬虔な人々は、自らの性向に好都合な体系に賛同する。そうした体系は、自己存在する愚かで思考をもたない実体をすべての存在の根と起源とする。
§94物質の存在、あるいは知覚されない物体の存在は、無神論者や宿命論者の主要な支えであっただけでなく、同じ原理に、あらゆる形態の偶像崇拝もまた依存している。もし人々が、太陽、月、星が、自分の心のなかの感覚にすぎず、知覚されること以外の存在をもたないと考えるなら、彼らは自分自身の観念の前にひれ伏すことはなく、むしろ、すべての物を生み出し支える、永遠で目に見えない心に敬意を捧げるだろう。
§95〜96同じ不合理な原理は、われわれの信仰箇条にまじりこむことによって、キリスト教徒にとっても困難を引き起こしてきた。たとえば復活について、ソッツィーニ派やほかの人々によって、どれほど多くの反論が出されたことか。しかし、そのうち最ももっともらしいものは、身体が同じものと呼ばれるのは、感覚によって知覚されるものに関してではなく、さまざまな形のもとで同じままである物質的実体に関してである、という想定に依存してはいないだろうか。この物質的実体を取り去り、身体という語で、あらゆる普通の人がそれによって意味するもの、すなわち感覚的な性質あるいは観念の結合にすぎないものを意味するなら、ソッツィーニ派やほかの人々の最も答えがたい反論も無に帰する。
物質がいったん自然から追放されると、それは、多くの懐疑的で不敬虔な概念を、信じがたい数の論争と問いを、ともに引きずってゆく。それゆえ、われわれが物質に反して提出した論拠が論証に匹敵するとは認められないとしても、知識、平和、宗教のすべての友が、それが論証に匹敵することを願う理由があるのは確かである。
§97知覚の対象が外的に存在するという想定のほかに、観念に関する知識について、誤りと困難のもう一つの大きな源泉は、序論で述べたとおりの抽象観念の教説である。時間、場所、運動は、個別的あるいは具体的に取れば、だれもが知っている。しかし、時が、一日を多様にする個別の行為や観念のすべてを除外して、抽象における持続として取られるなら、それを理解するのは、哲学者でさえも困らせるだろう。
§98私の心のなかの観念の継起から抽象した、時間の単純観念を形づくろうとするたびに、私は解きほぐせない困難に陥る。ただ他の人々が、それは無限に分割できると言うのを聞くだけである。その教説は、人に、無数の時代を一つの思考もなく過ごすか、さもなければ生涯の一瞬ごとに消滅するか、のどちらかを考える絶対的な必然を課す。時間は、観念の継起から抽象すれば無であるから、有限な精神の持続は、その同じ精神のなかで相次ぐ観念や行為の数によって測られなければならない。ここから、魂は常に思考しているということが、明白な帰結となる。
§99延長と運動をほかのすべての性質から抽象し、それ自体として考察しようと試みるとき、われわれはたちまちそれらを見失い、途方もない誤りに陥る。これらはすべて二重の抽象に依存している。まず、延長が、ほかのすべての感覚的な性質から抽象されうると想定される。次に、延長の実有が、知覚されることから抽象されうると想定される。しかし、反省する人はだれでも、あらゆる感覚的な性質は等しく感覚であり、等しく実在的であること、延長のあるところには色もあり、すなわち彼の心のうちにあること、それらの原型はどこか他の心のうちにのみ存在しうることを認めるであろう。
§100個別の快から切り離した幸福の抽象観念、あるいは善いものすべてから切り離した善の抽象観念を形づくることは、できると称する人はほとんどいない。これらの語が、抽象された一般的な概念を表すという意見は、道徳を困難にしたように思われる。
§101感覚から受けた観念とその関係を扱う思弁的な学問の二大領域は、自然哲学と数学である。懐疑論者たちが勝ち誇るのは、この主題においてである。彼らは、われわれは感覚にみじめに嘲弄されていると言う。しかし、これまで示されたことから、この嘆きがすべて根拠のないものであることが、明らかである。
§102われわれが物の本性について自らを無知と宣言するに至る大きな誘因の一つは、あらゆる物はそれ自身のうちにその特性の原因を含むという通説である。しかし、運動は、ほかのすべての観念と同じく、まったく不活発であることが明らかなので、精神のほかに行為者あるいは作用因はない。第25節を見よ。したがって、形、運動、大きさなどによって色や音の産出を説明しようとするのは、むだな労苦に終わる。
§103現在流行している大きな機械論的原理は、引力である。石が地面に落ちること、あるいは海が月に向かって盛り上がることは、それによって十分に説明されたと、ある人々には思われるかもしれない。しかし、これが引力によってなされると告げられて、われわれはどのように啓発されるのか。仕方や作用については何も定められておらず、それは引力と呼ぶのと同じくらい正当に、衝撃あるいは突出と呼べる。鋼の部分が堅く結合しているのも引力によって説明されるが、この場合も、結果そのもの以外の何かが意味されているとは、私には見て取れない。
§104さまざまな現象を比べてみれば、それらのあいだに類似を観察できる。石が地面に落ちること、海が月に向かって上昇すること、凝集と結晶化には、物体の相互の接近という、何か似たものがある。それゆえ、これらのどれ一つも、奇妙とも驚くべきものとも思われないだろう。奇妙と思われるのは、普通でないもの、あるいは単独のものだけだからである。思考が自然のより広い範囲を含む哲学者は、その傾向を引力という一般的な名で表す。これに還元できるものは何でも、正しく説明されたと彼は考える。こうして彼は、潮汐を地球が月に引かれることによって説明する。
§105それゆえ、自然哲学者とほかの人々のあいだにある違いは、現象を生み出す作用因についてのより正確な知識にあるのではない。その作用因は精神の意志以外にありえないからである。違いはただ、理解の範囲がより広く、それによって自然の作品に類比、調和、一致が発見され、個別の結果が説明される、すなわち一般規則に還元される、ということにある。第62節を見よ。
§106われわれは、類比にあまりに大きな重みを置き、真理を損なってまで知識を一般的な定理へ拡張しようとしがちなので、慎重に進むべきである。たとえば、重力あるいは相互引力は、多くの事例に現れるので、ある人々はただちにこれを普遍的と宣言し、およそ物体のすべてに内在する本質的な性質だと言う。しかし、恒星にはお互いに向かうそのような傾向がないように見える。しかも、植物が垂直に成長することや、空気の弾性のように、まったく反対の原理が現れているように思われる事例もある。この場合に必然的なものや本質的なものは何もなく、すべては統治する精神の意志に完全に依存している。
§107前提されたことの後では、次の結論を立てることができると私は思う。まず、哲学者たちが心あるいは精神とは別の自然的な作用因を探求するとき、むだな慰みに時を費やしていることは明らかである。次に、創造の全体が賢明で善良な行為者の作品であることを考えれば、物の目的因について思考を働かせるのはふさわしい。さらに、観察と実験を行うことをやめるべき理由は、何も引き出せない。それらがわれわれに一般的な結論を引き出すことを可能にするのは、物自体のあいだの不変の習性や関係の結果ではなく、神の人々に対する善意と親切の結果にほかならない。第30、31節を見よ。最後に、現象を観察することによって、われわれは自然の一般法則を発見し、そこからほかの現象を演繹することができる。論証できるとは言わない。この種の演繹はすべて、自然の作者が常に一様に働くという想定に依存しており、それをわれわれは明証的には知りえないからである。
§108〜109現象から一般規則を作り、その後でその規則から現象を導く人々は、原因よりもむしろ記号を考察しているように思われる。
他の書物を読むとき、賢明な人は、思考を文法的な指摘に費やすよりも、意味に固定し、それを用いることを選ぶ。それと同じく、自然という書物を読むにあたって、個別の現象の一つひとつを一般規則に還元することに、厳密さを気取るのは、心の品位にふさわしくない。われわれは、より高貴な展望を自らに示すべきである。自然的な物の美、秩序、広がり、多様性の眺めによって心を高めること。そこから、創造主の偉大さ、知恵、慈愛についての概念を広げること。そして、創造のさまざまな部分を、神の栄光と、われわれ自身および同胞である被造物の維持と慰めのために役立てることである。
§110〜111前述の類比、すなわち自然科学の最良の鍵が、ある有名な力学の論考であることは、容易に認められるであろう。その冒頭で、時間、空間、運動は、絶対的と相対的、真と見かけ、数学的と通俗的に区別される。この区別は、それらの量が心の外に存在することを前提にしている。
時間については、すでに述べたこと、第97、98節のほかに、私が付け加えることは何もない。その著者は、感覚には知覚できず、それ自体で相似で不動にとどまる絶対空間があると主張する。相対空間は、その尺度であり、感覚的な物体に関する位置によって定義される。真の運動は、物体自身に加えられた力によらなければ、けっして生じも変化もしない。また、単に相対的な円運動では遠心力がないが、真の円運動では、遠心力が運動の量に比例する。
§112〜113しかし、相対的な運動以外の運動がありうるとは、私には思われない。運動を思い描くには、少なくとも二つの物体が思い描かれなければならず、その二つが互いに距離あるいは位置を変えるのである。それゆえ、もし存在する物体が一つしかなければ、それが動かされることはおよそありえない。私がもつ運動の観念は、必然的に関係を含むからである。
しかし、あらゆる運動において一つより多くの物体を思い描くことが必要であるとしても、動かされるのはその一つだけでありうる。すなわち、距離の変化を引き起こす力が加えられたものである。私は、だれにでも尋ねたい。通りを歩きながら運動を感じるとき、足との距離が変わるからといって、踏み越える石が動くと言えるだろうか。運動が一つの物から他の物への関係を含むとしても、その関係の各項がそれによって名づけられる必要はない。
§114場所がさまざまに定義されるのに応じて、それに関係づけられる運動も変わる。船のなかの人は、船体の側面に関しては静止していて、陸地に関しては動いていると言える。しかし、哲学者たちは、地球そのものさえ動かされていることを発見する。そこで彼らは、物体的世界を有限と考え、その最外部の動かない壁あるいは殻を、真の運動を測る場所と考えているように見える。われわれが観念を形づくりうる絶対運動はすべて、根底において、このように定義された相対運動にほかならないと、私は信じる。あらゆる外的な関係を除外した絶対運動は、理解できないからである。
§115物体を動かされたと呼ぶには、まず、それがほかの物体に関して距離あるいは位置を変えることが必要であり、次に、その変化を生じさせる力あるいは作用がそれに加えられていることが必要である。このどちらかが欠けていれば、物体が運動していると言うことはできないと私は考える。なるほど、力が加えられていなくても、距離を変えるのを見る物体を、動かされていると考えることはできる。この意味では見かけの運動がありうる。しかしそれは、距離の変化を引き起こす力が、動くと考えられている物体に加えられていると、われわれが想像するからである。
§116運動についての哲学的な考察は、感覚によって知覚され物体に関係づけられる空間とは別の、絶対空間の存在を含意しない。おそらく、われわれは物体をすべて除外した純粋な空間の観念さえ形づくれないと気づくだろう。自分の身体のある部分に運動を起こすとき、それが自由で、抵抗がなければ、私は空間があると言う。しかし抵抗を見いだせば、物体があると言う。そして、抵抗が小さいか大きいかに応じて、空間はより純粋であるか、より純粋でないと言う。私自身の身体を除いて全世界が消滅したと想定し、なお純粋な空間が残ると言うとき、それによって意味されるのは、私の身体の四肢があらゆる方向に少しの抵抗もなく動かされることが可能だと私が思い描く、ということだけである。しかし、それもまた消滅したなら、運動はありえず、したがって空間もありえない。
§117ここで述べられたことの主な利点は、危険なジレンマから、われわれが解放されることである。そのジレンマとは、実在する空間が神であると考えるか、さもなければ、神のほかに、永遠で、創造されず、無限で、不可分で、不変の何かがあると考えるか、のどちらかである。どちらも、有害で不合理な概念と考えられて当然である。
§118ここまでは自然哲学を論じた。次に、数学について、いくらかの探究をしよう。数学は、論証の明晰さと確実性によって、どれほど名高くても、その原理に、数学者がほかの人類と共有する隠れた誤りが潜んでいるなら、まったく誤りを免れているとは想定できない。数学者の立てる原理が真であることを、われわれは否定しない。率直に言えば、数学者もほかの人々と同じく、抽象的な一般観念の教説と、心の外に対象が存在するという想定から生じる誤りに関わっているのではないかと、われわれは疑う。
§119算術は、数の抽象観念を対象とすると考えられてきた。抽象における数の純粋で知的な本性という意見は、哲学者たちのあいだで、数を尊ばせた。しかし、前提されたことを考えれば、おそらくこれらの高尚な飛翔と抽象に低い評価を抱き、数についての探究をすべて、実践に役立たず、生活の利益を促進しないかぎり、difficiles nugæ(厄介な戯言)にすぎないと見なすようになるだろう。
§120抽象における単一性については、すでに第13節で考察した。そこから、そのような観念はないことが明らかに帰結する。数は単位の集まりと定義されるので、抽象における単位がないなら、抽象における数の観念もない。それゆえ、算術における理論は、名称と数字からも、あらゆる用途と実践からも、数えられる個別の物からも抽象されるなら、まったく何の対象ももたないと想定されうる。
§121抽象された真理を発見するというもっともらしい見せかけに惑わされて、何の用途もない算術の定理に時間を費やす人々がいるかもしれない。当初、人々は記憶を楽にし、計算を助けるために、単純な棒や点などを用いたと考えるのが自然である。のちに彼らは、一つの記号を複数の棒や点の代わりに立てる、より簡潔な方法を見いだした。そして最後に、アラビア人あるいはインド人の記数法が用いられるようになった。こうして、記号によって計算することにより、それらと、その一つが単位と取られる物の別個の多数とのあいだに確立された連関のおかげで、数えようとする物そのものを正しく合計し、分割し、比例配分することができる。
§122したがって、算術においては、われわれは物ではなく記号を注視する。それでも、記号はそれ自身のために注視されるのではなく、物に関してどう行為するかを、記号がわれわれに指示するから注視されるのである。しかし、数に関する抽象的な真理や定理とされているものは、実のところ、個別の数えられる物とは別のいかなる対象とも関わっておらず、あるのは名称と数字だけである。これらは、それが記号であるという以外のいかなる理由でもなく、人々が計算する必要のあるどんな個別の物をも適切に表しうるという以外のいかなる理由でもなく、考察されるようになった。したがって、それらをそれ自身のために研究するのは、言語の真の用途あるいは本来の意図を無視して、人が時間を語についての的はずれな批評や、純粋に言葉だけの推論と論争に時間を費やすのと、同じだけ賢明である。
§123数から、延長について論じることに進む。延長は、相対的なものとして考察されると、幾何学の対象である。有限な延長の無限分割可能性は、全体を通じて想定されており、幾何学の原理や論証と不可分で本質的な連関をもつと考えられている。この概念は、人類の平明な常識ときわめて直接に不整合である。したがって、もしどんな有限な延長も無数の部分を含まないことを示せるなら、われわれはただちに、非常に多くの困難と矛盾から、幾何学を解放することになる。
§124われわれの思考の対象となりうる個別の有限な延長はすべて、心のうちにのみ存在する観念であり、したがってその各部分は知覚されなければならない。それゆえ、私が考察するどんな有限な延長にも無数の部分を知覚できないなら、それらはその中に含まれていないことは確実である。感覚によって知覚する、あるいは心のなかで思い描く、どんな個別の線、面、立体にも、私が無数の部分を区別できないことは明らかである。それゆえ、私はそれらがその中に含まれていないと結論する。延長、部分などの語が、何か思い描ける意味、すなわち観念を表すものと取られるなら、有限な量あるいは延長が無限の数の部分からなると言うことは、あまりに明白な矛盾であり、だれもが一見してそうであると認める。
§125知性が抽象的な一般観念の教説にあらかじめ囚われている人は、抽象における延長は無限に分割できると、説得されうる。また、感覚の対象は心の外に存在すると考える人は、わずか一インチの長さの線が無数の部分を含みうると、認めるに至るだろう。
§126幾何学における定理と論証が普遍的な観念を扱うことは、別の箇所で述べた。序論第15節。図に含まれる個別の線と図形が、大きさの異なる無数の他の線や図形を表すと想定されるのである。言い換えれば、幾何学者はそれらを大きさから抽象して考察する。これは、彼が抽象観念を形づくることを意味するのではなく、ただ、個別の大きさが大きいか小さいかを気にかけず、それを論証にとって無関係なものと見ていることを意味する。その線は普遍的なものとして見られているので、図式のなかのわずか一インチの線が、一万の部分を含むかのように語られなければならない。このようにして、表される線の性質が、記号に移され、そこから誤って、記号そのものに属すると考えられる。
§127部分の数がどれほど大きくても、それより多くを含む線がありうるので、一インチの線は、いかなる与えうる数よりも多くの部分を含むと言われる。これは真であるが、絶対的に取られた一インチについてではなく、それによって表される物についてのみである。しかし、人々はこの区別を思考のうちに保たないので、紙の上に描かれた小さな個別の線が、それ自身のうちに無数の部分を含むという信念へ滑り込む。描かれたこれらの線は、より大きな量を表す単なるしるしにすぎない。
§128述べられたことから、どんな定理も用途において普遍的になるためには、紙に描かれた線を、実際には含まない部分を含むかのように語る必要がある理由は明らかである。
§129この偽りの原理から流れ出たさまざまな不合理と矛盾は、それに対する多くの論証と見なされてよかったはずだと、人は考えるだろう。しかし、無限に関する命題に反しては、後天的な証明は認められないと主張される。あたかも、何か不合理で不整合なものが、真理と必然的な連関をもち、真理から流れ出うるかのように。
§130近ごろ、無限についての思弁は非常に高くなり、現代の幾何学者たちのあいだに大きな疑念と論争を引き起こした。有限な線が無限の数の部分に分割されうると主張するだけでは満足せず、それらの無限小のそれぞれがそれ自身、第二位の無限小に再分割でき、以下無限に続くと主張する者がいる。他方、第一位より下のすべての位の無限小は、まったく無であると主張する人々もいる。彼らは、無限に倍加されても、与えられた最小の延長に等しくなりえない、積極的な量あるいは延長の部分があると想像するのは、もっともな理由で不合理だと考える。しかし、他方で、正の実根の平方、立方、あるいはその他の冪がそれ自身まったく無であると考えることも、同じく不合理に思われる。
§131それゆえ、われわれは、それら両方が誤っており、実際には無限に小さな部分や、有限な量に含まれる無限の数の部分などというものはない、と結論する理由があるのではないか。しかし、あなたは言うだろう。この教説が採用されれば、幾何学の基礎そのものが破壊される、と。これに対しては、次のように答えられる。幾何学において有用であり、人間の生活の利益を促進するものは、すべて、われわれの原理のもとでも堅固で揺るがないままである。
§132無限小が用いられる方法によって、疑いなく真であるいくつもの定理が発見されており、もしその存在が矛盾を含むのなら、それはけっしてありえなかっただろう、と言われるなら、私は答える。どの事例においても、有限な線の無限小の部分を用い、あるいは思い描くことが必要だとは、認められないであろう。
§133前提したことから、非常に数多くの重要な誤りが、本論考の先行する部分で攻撃された偽りの原理から生じたことは明らかである。とりわけ、物質、すなわち物体的対象の絶対的存在は、あらゆる知識の最も公然とした敵たちが、常にその主要な信頼を置いてきたものであることが示された。物質の想定が、たった一つの理由にさえ基礎をおかないのであれば、そして、この物質を取り除いても、少しも悪い結果は伴わないのであれば、そして最後に、精神と観念だけを想定することによって、懐疑論者も無神論者も永遠に沈黙させられるのであれば、それは、仮説としてのみ提案されたとしても、また物質の存在が可能であると認められていたとしても、受け入れられることを期待してよいと私は思う。もっとも、物質の存在が可能でないことは、われわれが明証的に論証したと私は考える。
§134たしかに、先の原理の帰結として、学識の重要な部分と評価されているいくつかの論争と思弁が、無用なものとして退けられる。
§135観念の知識について言おうとしたことを終えたので、われわれが提案した方法は、次に精神を論じることへとわれわれを導く。精神に関しては、われわれが精神の本性を知らないと考えられる大きな理由は、それについての観念をもたないことだとされる。精神は、観念が存在しうる唯一の実体あるいは支えである。しかし、観念を支え、あるいは知覚するこの実体が、それ自身観念であり、あるいは観念に似ていると言うのは、明らかに不合理である。
§136おそらく、実体を知るのに固有の感覚が、われわれには欠けていると言われるだろう。これに対して私は答える。もしわれわれに新しい感覚が授けられたなら、われわれはそれによって、何か新しい感覚あるいは感覚の観念を受け取るにすぎないだろう。しかし、魂や実体という語で自分が意味するのは、何か特定の種類の観念や感覚にすぎないと、だれも言わないと私は信じる。それゆえ、われわれの能力が精神の観念を与えないことを欠陥と考えることは、丸い四角を理解できないことを理由にそれらを責めることと同じ程度にしか、理にかなっていない。
§137精神は観念あるいは感覚の仕方で知られるべきだという意見から、多くの不合理で異端的な教説と、魂の本性についての多くの懐疑論が生じた。不活発で、その存在が知覚されることに成り立つ観念が、それ自身で存立する行為者の像あるいは似姿であるというのは、ほかの論駁を必要としないと思われる。しかしおそらくあなたは、観念は、思考し、作用し、それ自身で存立するという点では精神に似ることができないが、ほかの点では似ることができると言うだろう。
§138私は答える。もし挙げられた点で似ていないなら、ほかのどんな点においても精神を表すことはできない。意志し、思考し、観念を知覚する力を取り除けば、観念が精神に似うる点はほかに何も残らない。精神という語で、われわれは思考し、意志し、知覚するものだけを意味するからである。それゆえ、精神の観念がありえないことは明らかである。
§139魂、精神、実体という語によって表される観念がないなら、それらは無意味であると反論されるだろう。私は答える。それらの語は、観念でも観念に似たものでもなく、観念を知覚し、それについて意志し推論するものである、実在する物を意味する。私自身であるもの、私という語で私が表すものは、魂あるいは精神的実体によって意味されるものと同じである。心の思考をもたない対象はすべて、完全に受動的であり、その存在は知覚されることにのみ成り立つ。これに対して、魂あるいは精神は能動的な存在であり、その存在は観念を知覚し思考することに成り立つ。それゆえ、精神と観念を区別する必要がある。第27節を見よ。
§140広い意味では、われわれは精神の観念、というよりむしろ概念をもつと言える。すなわち、われわれはその語の意味を理解している。さもなければ、それについて何も肯定も否定もできないはずである。われわれは、他の精神の心のなかにある観念を、自分自身の観念によって思い描く。それと同じように、われわれは他の精神を自分自身の魂によって知る。その意味で自分の魂は他の精神の像あるいは観念である。
§141魂の自然的な不死を主張する人々が、魂は創造主の無限の力によってさえ消滅しえないという意見だと想定してはならない。ただ、自然の通常の法則によって破壊されたり解体されたりする恐れがない、というだけである。しかし、物体は、どのような構造をもっていても、心のなかの単に受動的な観念にすぎないことが明らかにされた。魂は不可分で、非物体的で、延長をもたず、したがって不滅であることをわれわれは示した。自然的な物体に降りかかる運動、変化、衰え、解体が、能動的で単純な、合成されていない実体に影響を及ぼしえないことほど、明らかなことはない。すなわち、人間の魂は自然に不死である。
§142これまで述べたことの後では、われわれの魂が、感覚をもたず不活発な対象と同じ仕方で、すなわち観念によって知られるべきでないことは、明らかだと私は思う。精神と観念はまったく異なる物なので、両者には、似ているものも共通するものもない。三角形を知るように精神を知りうると期待することは、音を見ることを望むのと同じくらい不合理に思われる。能動的な存在や作用の観念をもつとは、厳密には言えないであろう。もっとも、概念をもつとは言える。
§143抽象観念の教説が、特に精神的な物を扱う学問を込み入った不明瞭なものにすることに、大いに関与したと付け加えてよいだろう。人々は、心の力と働きについての抽象的な概念を、心あるいは精神そのものからも、それぞれの対象や結果からも切り離して考察できると想像してきた。そのため、暗く曖昧な多数の用語が導入され、そこから限りない混乱と論争が生じた。
§144心の本性と働きに関して、人々を論争と誤りに巻き込むのに、感覚的な観念から借りた用語でそれらの事柄を語ることに慣れていること以上に寄与したものはないと思われる。たとえば、意志は魂の運動と呼ばれる。これは、人間の心は運動する球のようなものであり、球がラケットの一打ちで動かされるのと同じ必然性で、感覚の対象に押され決定される、という信念を吹き込む。ここから、道徳において、限りない疑念と危険な帰結をもつ誤りが生じる。
§145他の精神の存在は、その働き、すなわちそれらによってわれわれのうちに呼び起こされた観念によらなければ、知ることができないことが明らかである。私は、観念のいくつもの運動、変化、結合を知覚し、それらは、私と同じような一定の個別の行為者がその産出に協力していることを私に知らせる。したがって、他の精神について私がもつ知識は、私の観念についての知識のように直接的ではない。
§146自然の作品と呼ばれるもの、すなわちわれわれが知覚する観念あるいは感覚のはるかに大きな部分が、人間の意志によって生み出されることも、それに依存することもないことは、だれにとっても明らかである。それらがそれ自身で存立することは不整合なので、それらを引き起こす別の精神がある。第29節を見よ。創造の驚くべき壮麗さ、美しさ、完全さを注意深く考察するなら、そして唯一、永遠、無限に賢く、善く、完全という属性の意味に注意を向けるなら、それらが、すべてにおいてすべてを働かせ、それによってすべてのものが成り立つ精神に属することを、はっきりと知覚するだろう。
§147したがって、神は、われわれ自身とは別の、およそ他のいかなる心あるいは精神と同じ確実さで、同じ直接さで知られることが明らかである。さらに、自然の結果は、人間の行為者に帰せられる結果よりも、限りなく数が多く、重大なので、神の存在は、人間の存在よりもはるかに明証的に知覚されるとさえ主張できる。人間の意志の対象は、自分の身体の四肢の運動にほかならないが、その運動に別の者の心の観念が伴うことは、完全に創造主の意志に依存するからである。
§148神を見ることができない、というのが思考をもたない群衆の一般的な口実であるようだ。しかし、われわれは目を開けさえすれば、同胞である被造物のだれを見るよりも、より完全で明晰な眺めで、万物の主権者を見ることができる。私が、ある人々が主張するように、神を直接的で即時の眺めで見る、と考えているわけではない。人間の精神あるいは人格は、観念ではないので、感覚によって知覚されない。それゆえ、人の色、大きさ、形、運動を見るとき、われわれは、自分自身の心のなかに呼び起こされた一定の感覚あるいは観念を知覚するにすぎない。そして、これらが集まりとして、われわれに似た有限な精神の存在を示すのに役立つ。したがって、人によって、われわれと同じく生き、動き、知覚し、思考するものが意味されるのなら、われわれは人を見ていない。見ているのは、ただ一定の観念の集まりである。そして同じ仕方で、われわれは神を見る。違いはただ、観念の一つの有限で狭い集まりが特定の人間の心を示すのに対し、われわれがどこに眼差しを向けても、あらゆる時とあらゆる場所で、神性の明白なしるしを知覚することである。われわれが感覚によってなんらかの仕方で知覚するものはすべて、神の力の記号あるいは結果である。
§149したがって、わずかでも反省する能力のあるだれにとっても、神の存在、すなわちわれわれの心に親密に臨在し、われわれが絶対的に完全に依存している精神、われわれがそのうちに生き、動き、存在する精神の存在ほど、明証的なものはありえない。
§150しかし、自然は自然的な物の産出に何の関わりももたず、それらはすべて神の直接で唯一の働きに帰さなければならないのか、とあなたは言うだろう。私は答える。もし自然によって、一定の固定した一般法則に従ってわれわれの心に刻み込まれる、結果あるいは感覚の可視的な系列だけが意味されるのなら、この意味で取られた自然が何かを生み出すことは、まったくできない。しかし、もし自然によって、神からも、自然の法則からも、感覚によって知覚される物からも区別される何らかの存在が意味されるのなら、その語は私には、理解できる意味が何も結びつけられていない、空虚な音であると認めなければならない。しかし、異教の哲学者が自然に帰するのを常とする結果を、一貫して神の直接の手に帰する聖書を信じると公言するキリスト教徒のあいだで、それが受け入れられているのは、いっそう説明がつかない。
§151自然的な物の産出に見られるゆっくりとした漸進的な方法は、全能の行為者の直接の手を原因としているようには見えない、と反論されるであろうことを、私は疑わない。さらに、怪物、早産、荒れ地に降る雨、人間の生活につきものの不幸は、自然の構造が、無限の知恵と善の精神によって直接に動かされているわけではないことの論拠だと言われるだろう。この反論への答えは、かなりの程度、第62節から明らかである。前述の自然の方法が、最も単純で一般的な規則に従い、一貫して安定した仕方で働くために絶対に必要であり、そのことが神の知恵と善の両方を示していることが見て取れる。一般的で定まった法則に従って働くことは、生活の営みにおけるわれわれの導きのために必要であり、それなしには、人間のあらゆる賢明さと企図は、まったく何の役にも立たないであろう。第31節を見よ。
§152さらに、自然の欠点や欠陥そのものも役に立つことを考えるべきである。絵のなかの影が明るく照らされた部分を引き立てるように、創造のほかの部分の美しさを増す。動物や植物の説明しがたいほど精妙な機械が、偉大な創造主にとって、その産出において小石以上の労苦や面倒を要すると想像してはならない。全能の精神が、あらゆるものを、単なる命令すなわち意志の働きによって、等しく生み出しうることほど、明らかなことはない。したがって、自然的な物の華やかな豊かさは、行為者の弱さや浪費と解釈されるべきではなく、むしろその力の豊かさの論拠と見なされるべきである。
§153世界にある苦痛や不安の混じりは、自然の一般法則と、有限で不完全な精神の行為に従うものであり、われわれが現在置かれている状態では、われわれの幸福のために欠かせない。しかし、われわれの展望は狭すぎる。われわれは、たとえばある個別の苦痛の観念を思考に取り入れ、それを悪と見なす。だが、もし視野を広げ、物事のさまざまな目的、連関、依存を理解するなら、われわれは、それ自体として考察すれば悪と見える個別の物が、存在の体系全体に結びつけられたものとして考察されれば、善の本性をもつことを認めることになるであろう。
§154無神論やマニ教の異端の支持者が見いだされるのは、ひとえに注意と心の包括性が欠けているためであることが、考える人にはだれにでも明らかになるだろう。狭量で反省しない魂は、摂理の作品を茶化しうる。しかし、広がりのある思考をもち、反省することに慣れている人々は、知恵と善の神的な痕跡を、いくら賛嘆しても足りない。それゆえ、仕事や快楽に常に専念し、心の目を定めたり開いたりすることにほとんど慣れていない大多数の人々が、神の存在についての確信と明証をもたないとしても、驚くべきことだろうか。
§155むしろ驚くべきは、これほど明証的で重大な真理を無視するほど愚かな人々が見いだされることであって、無視した以上、確信しないことではない。それでも、キリスト教の国々に生き、才能と余暇をもつあまりに多くの人々が、ただ怠惰で恐ろしい怠慢によって、一種の無神論に沈んでいるのではないかと恐れられる。全能の精神の遍在、聖性、正義を徹底して感じ取り、それに貫かれ照らされた魂が、その法則を悔いることなく犯し続けることは、まったく不可能だからである。それゆえ、われわれはこれらの点を熱心に瞑想すべきである。そうすれば、神がわれわれの最も内奥の思考にまで臨在し、われわれが神にまったく絶対的で直接の依存をもつことを、確信するに至るだろう。これらの真理を明晰に眺めることは、必ずわれわれの心を聖なる畏怖で満たす。それは徳への最も強い誘因であり、悪徳に対する最良の防御である。
§156われわれの研究において第一の位置に値するのは、神と、われわれの義務についての考察である。読者に神の臨在についての敬虔な感覚を吹き込むことができず、また、人々が福音の救いの真理を畏れ敬い、受け入れるよう、よりよく備えさせることもできないのであれば、私はそれをまったく無益なものと見なすだろう。福音の真理を知り、実践することは、人間の本性の最高の完成である。
本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。
『観念』
感覚に刻み込まれ、あるいは心の働きによって知覚されるもの。感覚の観念、想像の観念などがある。観念は不活発で、それを知覚する心のうちにのみ存在する。観念は観念以外のものには似ることができない。
『精神』
観念を知覚し、意志し、思考する、能動的で不可分な実体。観念ではないので、観念によっては知られない。心、魂という語も、同じ対象を指して用いられる。
『物質』
哲学者たちが、延長をもち、不活発で感覚をもたない実体として、感覚的な性質を支える基体と想定したもの。心の外に、知覚されずに存在するとされる。
『知覚される』
感覚的な物の存在は、知覚されることに成り立つ。机が存在するとは、私がそれを見、触れる、あるいはほかの精神がそれを知覚するということである。
『抽象観念』
色、延長、人間、動物、存在などについて、個別のものから共通のもの、あるいは一つの性質だけを切り離して形づくられるとされる観念。序論で批判される。
『心の外』
知覚する心から離れて、知覚されずに存立するとされる、存在のあり方。物質や感覚的な性質がそこにあると想定された。ほかの心のうちに存在するという意味でも、心の外と言うことができる。
『実体』
性質を支える基体。物質的実体は、不活発で延長をもつ知覚しない実体であり、精神的実体は、観念を知覚する能動的な実体である。通俗の意味では、感覚的な性質の結合を指す。
『偶有性』
実体に支えられて存在するとされる、延長、形、色などの感覚的な性質。物質は偶有性を支えるために想定されたと言われる。
『第一性質』
延長、形、運動、静止、固性、数。心の外に存在すると主張された。
『第二性質』
色、音、味など、第一性質以外のすべての感覚的な性質。心の外に存在しないことが認められていた。
『不活発』
力も活動性も含まず、何も生み出さないこと。観念と、物質について言われる。能動的な精神と対比される。
『機会』
物質について、観念が呼び起こされる際に現前するとされたもの。その語は、結果を生み出す行為者か、物事の通常の経過のなかで結果に伴い、あるいは先行する何かを意味する。
『記号』
観念の連関は、原因と結果の関係ではなく、記号あるいはしるしと、表示されるものとの関係である。自然の事物は、互いの原因ではなく、互いの記号として結びつく。
『法則』
感覚の観念をわれわれのうちに呼び起こす、統治する精神の決まった規則。自然法則と呼ばれる。
第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
私は、木や石や人の身体といった物から、色や形や運動のそれぞれを引き離して、それだけで存在するものとして思い描こうとした。それは『抽象観念』を形づくることである。しかし、私にはそれができなかった。思い描けるのは、いつも個別の、色と形と大きさをそなえたものだけである。
そこで私は、感覚によって知覚するものを、そのまま見つめた。それは光と色、硬さと柔らかさ、熱さと冷たさ、香り、音、味であり、これらが寄り集まって、一つの物と呼ばれている。それらはみな、感覚に刻み込まれた『観念』にほかならない。そして、観念を知覚するものがある。それは観念のどれでもなく、観念とは別の、知覚し、意志し、思考するものであり、私はそれを『精神』と呼ぶ。
観念の存在とは何か。私が机について、それは存在すると言うとき、私が見、触れているということのほかに、何を意味しているのか。その存在は、私に、あるいは何かほかの精神に『知覚される』ということに成り立つ。知覚されることのほかに、思考をもたない物が存在するという言明を、私は理解できない。
それでも人は、感覚の対象が知覚から離れて『心の外』に存立すると考え、その性質を支えるものとして『物質』を想定する。私はこの想定を吟味した。色や音が心の外にないことは認められている。延長も形も運動も同じである。観念は観念にしか似ることができず、観念が知覚しない実体のうちに存在することは、明らかな矛盾である。物質によっては、私は自然の現象を何一つ説明できず、その存在を信じる理由も見いだせない。
さらに、観念のうちには、力も活動性も知覚されない。観念は『不活発』であって、何かを生み出すことも、ほかの観念の原因となることもない。しかし、観念は絶えず変化し、継起する。したがって、その原因は観念ではなく、能動的で不可分な実体、すなわち精神でなければならない。
こうして、私が物と呼ぶものは、精神と観念の二つに尽きる。
以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。
『物とは、能動的で不可分な実体である精神と、その精神に知覚されて存在する不活発な観念である。』
作品名:ジョージ・バークリー『人知原理論』を知るための本
発行責任者(著者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)
参照原典:英語原典『人知原理論(A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge)』(George Berkeley, London: Jacob Tonson, 1734年、序論と第一部)
初版発行日:2026年10月14日
本書の本文・解説その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。
注記:本書が参照する原典は、ジョージ・バークリー『人知原理論』(A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge)の英語原典である。本書の制作において直接参照した版は、1734年にロンドンでジェイコブ・トンソン(Jacob Tonson)のもとから刊行された版に準拠したものである。本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTML(berkeley-jinchigenriron-hon.html)を、術語および論証骨格の照合基準として参照して制作している。本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。