ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)。一七七〇年八月二十七日、ヴュルテンベルク公国シュトゥットガルトに生まれ、一八三一年十一月十四日、ベルリンで没した。父はヴュルテンベルク公国の財務官吏であった。シュトゥットガルトのギムナジウムを経て、一七八八年、テュービンゲン大学の神学寮(シュティフト)に入り、哲学と神学を学んだ。同じ寮にはヘルダーリンとシェリングがいた。一七九三年に神学寮を修了した後、ベルン、次いでフランクフルトで家庭教師を務めた。一八〇一年、イェーナ大学で教授資格を得て私講師となり、一八〇五年、同大学の員外教授となった。その後、バンベルクで新聞の編集に携わり、一八〇八年からニュルンベルクのギムナジウムの校長を務めた。一八一六年、ハイデルベルク大学の哲学教授となり、一八一八年、ベルリン大学の哲学教授に就任した。
原典の言語はドイツ語であり、原典名は『大論理学』(Wissenschaft der Logik)である。原典は、第一巻「客観的論理学」の第一書「有論」(一八一二年初版)と第二書「本質論」(一八一三年)、および第二巻「主観的論理学、あるいは概念論」(一八一六年)から成る。有論は、ヘーゲル自身が改訂した第二版が一八三二年に刊行された。本書が参照する底本は、ヘーゲルの没後にベルリンで刊行された著作集(Werke)の第三巻から第五巻である。有論は一八三二年の第二版の本文、本質論・概念論は初版と同じ本文による。
本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ2割程度である。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
第Ⅰ部は、原典のうち、ヘーゲル自身による序文・序論・本論の全体を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。本質論の巻頭に置かれた著作集の編者による序文は収録していない。
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第一版序文 ここ二十五年ほどのあいだに、われわれのもとで哲学的思考のあり方は根本から変わり、精神の自己意識はより高い立場に達した。しかしこの変化は、論理学の姿にはまだほとんど及んでいない。
かつて形而上学と呼ばれたものは根こそぎにされ、諸学の列から消えた。民族がその形而上学を失い、自分の純粋な本質にかかわる精神がもはや現実の存在をもたないことは、国法の学や人倫が役立たなくなることと少なくとも同じほど注目すべきことである。悟性は経験を飛び越えてはならないというカント哲学の通俗的な教説が思弁的思考の放棄を学問の側から正当化し、そこに実践的教養だけを有益とする教育学と、時代の窮乏とが応じた。こうして学問と常識とが手を携えて形而上学の没落をもたらし、形而上学のない教養ある民族という、至聖所のない神殿のような奇妙な光景が現れた。
論理学は諸学のなかの地位を保った。しかしその形態と内容は伝統のなかで薄められ痩せ細り、新しい精神はそこでまだ感じ取られていない。精神の実体的な形式が変わったのに以前の教養の形式を保とうとするのはむなしい。それらは枯れ葉であり、根もとに生まれた新しい芽に押し出される。
本来の形而上学あるいは純粋な思弁哲学である論理学は、最初から始め直されなければならない。本質的なのは、学問的な取り扱いの新しい概念である。哲学はその方法を数学のような下位の学問から借りることはできない。学問的な認識のなかで動くことができるのは内容の本性だけであり、内容の規定を定立し産み出すのは、内容がみずから行う反省である。
悟性は規定し、規定を固定する。理性は悟性の規定を無へと解消するかぎり否定的であり弁証法的であり、普遍的なものを産み出すかぎり肯定的である。その真理において理性は精神である。精神は単純なものを否定して悟性の区別を定立し、その区別をまた解消するが、この結果の無にとどまらず、最初の単純なものを具体的な普遍として回復する。この運動が、概念の内在的な展開であり、認識の絶対的な方法であり、内容そのものの内在的な魂である。
私はこの仕方で、精神の現象学において意識を叙述しようと試みた。意識はその道のなかで直接性と外的な具体性から解放されて純粋な知となり、論理学の内容をなす純粋な本質態を、それが即かつ対自的にあるままに対象とする。こうして論理学は精神の現象学に続く第一の続編をなし、その第一巻は有論と本質論を、第二巻は主観的論理学すなわち概念論を含む。
第二版序文 論理学のこの改訂に、私は対象とその叙述の難しさ、第一版の不完全さを意識して取りかかった。従来の形而上学と論理学には、内容に関してはおもに外面的な素材しかなく、同じ素材が、あるときは平凡な表面にまで薄められ、あるときは古い荷物として引きずられてきた。思想の国をその必然的な展開において叙述することは、それゆえ最初から始めなければならない新しい企てであった。ただし、よく知られた思考の諸形式という既得の素材は、骸骨の骨を乱雑に差し出すにすぎないとしても、必要な条件として認めるべきである。
思考の諸形式は、まず人間の言語のなかに蓄えられている。人間が自分のものとするすべてのものに言語が入り込み、言語にされたものは一つの範疇を含む。それほど論理的なものは人間に固有の自然である。ドイツ語のいくつかの語は対立する意味を併せもち、悟性には不条理に見える対立したものの統一が、そこでは素朴に一つの語として見いだされる。だから哲学は特別な術語を必要としない。物理学では力に代わって極性が支配的となったが、これは区別されたものが切り離せないものとして結びついている区別の規定である。抽象の形式から、同一性のなかに切り離せないものとしてとどまる区別という規定の形式へと進んだことは、無限の重要性をもつ。
しかし、知られているということは、そのゆえに認識されているということではない。われわれがどの文でも口にする思考規定ほど、よく知られたものはない。
思考の諸形式は、まず直観や表象、欲求や意志のなかに沈み込んでいる。この素材から思考の諸形式が解放され、プラトン、さらに主としてアリストテレスによってそれだけで考察の対象とされたことは、それらの認識の始まりである。純粋な思想への欲求は、すでに満たされた欲求の欲求である。アリストテレスによれば、この学問は使用のために求められるのではなく、それ自体で自由な唯一のものである。
ところが論理学は、これとは逆に手段に数えられ、青年の予備的な仕事として学校に置かれる。生活では範疇は、戦争や海、神や愛といった表象のように無限の個別的なものをまとめる略称として、また対象的な関係を規定するために仕える。このとき思考規定には内容を規定する作用が認められず、範疇のこの無意識的な使用が自然的論理である。しかし、われわれのあらゆる表象を貫いて走る思考の諸形式を、われわれが所有しているとは言いにくい。それら自身が一般的なものであるのに、私がより一般的なものとしてそれらを超えて立つことはできない。物の本性あるいは本質をわれわれは物の概念と呼ぶが、この概念は思考にとってのみあり、われわれの思考はむしろそれに従わなければならない。批判哲学は、われわれと事柄のあいだに思想を媒介として置き、その媒介がわれわれを事柄から隔てると解する。しかし思想の彼岸に立つはずのこの事柄自体が、思想物であり、まったく無規定な物自体、空虚な抽象そのものである。
もっと重要なのは、思考規定が内容にある外的な形式として捉えられる点である。しかし、現れの多様性と偶然性のなかで真に持続する実体的なものが、事柄そのもののうちにある一般的なもの、事柄の概念であり、それがちょうど、どの人間個人も人間であるという先在性をもつのと同様であるなら、この基礎を取り去れば個体がなお何であるかは言えない。概念は内容にくっついた無関係な形式ではない。より深い基礎は、対象の単純な生の脈動である純粋な概念である。精神のなかで働くこの論理的な本性を意識にもたらすこと、これが課題である。本能的に働く範疇を浄化し、精神をそれらのうちで自由と真理へと高めること、これがより高い論理的な仕事である。
思考規定を素材にあるだけの形式として扱うなら、それらは有限なものとされ、それ自体で無限である真理を捉えることができなくなる。健全な理性はこうした形式的な範疇を学校論理学に任せて軽蔑する。その基本規定は同一性であり、A=Aとして、矛盾律として主張されるが、植物は植物である、学問は学問である、と以下無限に続ける人間は耐えがたい。推論の公式も、誤謬や詭弁にも仕える無関心な手段であり、宗教的な真理のようなより高い真理には使えず、正しさにかかわるだけで真理にかかわらない。
この不完全さを補うには、内容をも思考的な考察に引き入れるほかはない。形式から切り離された内容は物自体という抽象にすぎない。内容はむしろそれ自身のうちに形式をもち、形式によってのみ魂と内実をもつ。こうして論理的な考察の対象となるのは、物ではなく、事柄、物の概念である。
概念は多数あるように思われるかもしれない。しかし一つの概念は、まずそれ自身における概念、ただ一つの実体的な基礎であり、次に規定された概念であって、その規定性はこの実体的な統一の形式規定、概念そのものの契機である。この概念は思考の対象、産物、内容であり、即かつ対自的にある事柄、ロゴスである。論理学の外に置かれるべきでないものがあるとすれば、それはなによりもロゴスである。外的な形式にすぎない思考規定がそれ自体で考察されるなら、そこから現れ出るのは、その有限性と、自立してあろうとする主張の非真理性、そしてその真理としての概念だけである。
思考の展開をその必然性において叙述することほど、内在的に造形的でありうる叙述はない。しかし学はもっとも空虚な単純なものから始めねばならないので、抽象的な叙述の完全さは断念せざるをえない。反対者たちは、自分たちの異論が範疇を含み、その範疇こそ使用の前に批判を要する前提であることを考えようとしなかった。そのもっとも目立つ例が、最初の概念である有と無と成に向けられた異論の多さである。成は単純な規定でありながら、二つの規定を契機として含む。始まりだけを吟味すればすべてを片づけたと考える徹底性は、原理だけに取り組むと称しながら、無限性は有限性とは別である、内容は形式とは別である、媒介は直接性ではない、といった前提を持ち込み、断言する。しかし論理的な思考の仕事とは、まさに、無限性のない有限なもの、内容のない形式が、何か真なるもの、何か現実的なものであるのかを吟味することである。思考の造形的なふるまいは、展開全体を学び、産み出すことによってのみ得られる。
プラトンは国家についての書物を七回書き直したという。より深い原理と広範な素材を扱う近代の著作には、七十七回でも練り直す暇が与えられてほしい。しかし著者は、時代の気散じのもとで、この著作がなりえたもので満足せざるをえなかった。
序論
論理学の一般概念 論理学ほど、先行する考察なしに事柄そのものから始めたいという欲求を強く感じる学問はない。他の学問では対象と方法とが区別され、定義などの既知の形式を前提して用いることが許される。
これに対して論理学は、考察の形式も思考の規則も前提することができない。それらは論理学自身の内容をなし、論理学の内部で初めて基礎づけられるからである。学問一般の概念も論理学の最後の結果をなす。論理学は自分が何であるかをあらかじめ言うことができず、その論述全体が自分自身についての知を完成として産み出す。この序論は、この学問を考察すべき観点を、論議的、歴史的な意味で表象に近づけるにとどまる。
論理学が思考一般の学問とされるとき、その思考は認識の単なる形式であり、論理学はすべての内容を捨象し、質料は別のところから与えられる、と理解されている。そうであれば論理学は真の認識の形式的条件を示すだけで、実在的な真理を含むことはできない。しかしまず、思考と思考の規則が論理学の対象であるなら、論理学はそこに固有の内容をすでにもっている。次に、論理学のこれまでの概念が基づいてきた表象は、すでに崩れ去っている。
その表象は、認識の内容と形式との分離、真理と確信との分離にもとづいている。まず、認識の素材は出来上がった世界として思考の外に存在し、思考はそれだけでは空虚で、形式として外から質料に付け加わって初めて内容を得る、と前提される。次に、真理は思考と対象との一致であるが、この一致を生むには、欠けたものである思考が対象に従わなければならないとされる。さらに、両者が区別された領域をなすなら、思考は自分の外に出ることがなく、対象は物自体として思考の彼岸にとどまる。主観と客観とのこの関係は、通常の現れとしての意識の本性をなす規定である。しかしこの関係がそれ自体でそれだけで真理をもつかのように理性に持ち込まれるなら、それは哲学に入る前に脱ぎ捨てておかなければならない誤りである。
古い形而上学は、この点でより高い思考の概念をもっていた。思考を通じて物において認識されるものだけが物において真に真なるものであり、物とそれについての思考とはそれ自体でそれだけで一致している、と考えたからである。しかし、分離にとどまる反省する悟性が哲学を支配した。この悟性は、真理は感覚的な実在にもとづき、理性はそれ自体にとどまるかぎり妄想しか産み出さない、という見方を通用させる。こうして真理は現れだけを認識する主観的な真理に限られ、知は臆見に逆戻りした。
しかしこの転回にはより深い理由がある。その理由は、悟性の諸規定が自分自身と必然的に対立することの洞察にある。反省は直接的なものを規定し分離するが、同様に自分の分離する規定をも越え出て、それらを関係づけなければならず、そこにそれらの対立が現れる。この高まりは理性の真の概念への大きな否定的な一歩である。しかし貫かれなかった洞察は、理性こそが自己矛盾に陥るという誤解に落ち、矛盾こそが理性が悟性の制限を越えて高まることだとは気づかない。認識は最後の一歩を踏み出すかわりに感覚的な存在へと逃げ帰り、物自体は認識されないが現象は正しく認識される、と前提する。
悟性の諸形式の批判は、それらが物自体に適用できないという結果をもたらした。これは、それらの形式がそれ自体で真でないということ以外ではありえない。ところが批判は、それらを主観のために放置し、形式自体を変えなかった。有限と無限の規定は、世界に適用されようと精神の内部にあろうと、同じ対立のうちにある。より首尾一貫した超越論的観念論は、物自体という抽象的な影を破壊し、理性に自分自身からその規定を叙述させる端緒をつくったが、その主観的な態度のために完成に至らなかった。
論理学は通常の意識が実在とみなす内容をもたないが、それだからといって内実ある真理を欠いた学問なのではない。論理的形式の内実のなさは、それらを扱う仕方にだけある。それらが固定した規定としてばらばらに分かれ、有機的な統一のなかにまとめられないとき、それらは死んだ形式であり、その生きた統一である精神を宿していない。しかし論理的理性そのものが、あらゆる抽象的規定の絶対に具体的な統一である。論理学が内実を欠いているなら、それは対象の落ち度ではなく、対象のとらえ方の落ち度である。
私は精神の現象学のなかで、意識が対象との最初の直接的な対立から絶対知へと進む運動を叙述した。この道は学の概念をその結果とするので、この概念はここでは正当化を必要としない。純粋学の概念とその演繹は、それゆえここでは前提される。精神の現象学はその演繹にほかならないからである。絶対知は意識のあらゆる様式の真理である。絶対知においてのみ、対象と自分自身の確信との分離が完全に解消し、真理が確信に、確信が真理に等しくなったからである。
純粋学は、こうして意識の対立からの解放を前提する。純粋学が含むのは、同様に事柄そのものである思想である。この客観的な思考が純粋学の内容であり、その内容が絶対に真なるもの、形式がそれに外的でない真の質料である。論理学は純粋理性の体系、純粋な思想の国として捉えられるべきである。この内容は、自然と有限な精神の創造以前の、永遠の本質における神の叙述である、と言い表すことができる。アナクサゴラスは、ヌース、すなわち思想が世界の原理であると最初に語り、宇宙の知性的な見方の基礎を据えた。その純粋な形態は論理学でなければならない。
これを表象に取り入れるには、真理は手でつかめるものでなければならない、という思い込みを脇に置かねばならない。プラトンのイデアさえ、別の世界にある実在する物であるかのように扱われる。しかしイデアは一般的なもの、対象の概念にほかならない。何かが現実性をもつのはその概念においてのみであり、概念と異なるかぎりそれは空しいものとなる。
カントは、論理学がアリストテレス以来後退も前進もせず完成されているように見えることを幸いだと称賛する。しかし論理学がアリストテレス以来変わっていないのなら、そこから推論されるのは、論理学が全面的な作り直しをそれだけ必要としているということである。二千年にわたる精神の営みは、精神に自分の純粋な本質態についてのより高い意識を与えているはずだからである。この内容が精神を欠いているのは、その規定が固定したまま外的な関係に置かれるからである。判断と推論では操作が量的なものに還元され、概念のない計算となる。
論理学のこの死んだ骸骨が精神によって生きたものとなるには、論理学の方法が、論理学が純粋な学でありうる唯一の方法でなければならない。スピノザやヴォルフらは数学の方法を哲学に適用し、概念のない量の外的な歩みを概念の歩みにしようとしたが、これはそれ自体で矛盾している。方法とは、論理学の内容の内的な自己運動の形式についての意識である。学問的な進行のために本質的に必要なのは、否定的なものは同様に肯定的であるという論理的命題の認識である。自己矛盾するものは抽象的な無へと解消するのではなく、その特殊な内容の否定へと解消する。この否定は規定された否定であり、結果のなかには、結果がそこから生じてきたものが本質的に含まれている。それゆえ結果は内容をもち、先行する概念とその対立物との統一として、先行する概念よりも高く豊かな新しい概念である。この道において、概念の体系は、外からなにも取り入れない純粋な歩みのなかで完成されなければならない。
この方法がなお多くの仕上げを必要とすることを私は認めるが、同時にそれが唯一の真の方法であることを知っている。内容を前へと動かすのは、内容が自分自身にもっている弁証法だからである。この著作の区分と見出しは予備的な概観のためのものであり、歴史的な価値しかもたない。通常の論理学では、区分は演繹なしに作られ、移行は、第二章、あるいは、われわれはいま判断に至る、と言われることで行われる。連関の必然性と区別の内在的な生成は、事柄そのものの論述のなかに、概念自身の自己規定の進展として見いだされなければならない。
概念が自分自身をさらに導くものは、概念が自分のうちにもっている否定的なものであり、これが真に弁証法的なものをなす。弁証法は通常、事柄自体に属さない外的な営みとみなされ、プラトンの弁証法もおよそ無を結果とする。カントは弁証法を理性の必然的な営みとして示し、それをより高い位置に置いた。彼が通用させた理念は、思考規定の本性に属する、仮象の客観性と矛盾の必然性である。この結果を肯定的な面でとらえるなら、それは思考規定の内的な否定性、その自己運動する魂である。しかし否定的な面だけにとどまるなら、結果は、理性は無限なものを認識する能力がない、というものにすぎない。無限なものは理性的なものであるのに、理性は理性的なものを認識できない、というのは奇妙な結果である。
対立したものをその統一においてとらえること、肯定的なものを否定的なもののなかにとらえることにおいて、思弁的なものは成り立つ。これはもっとも重要であり、訓練されていない思考力にはもっとも難しい面である。
論理学は、文法と同じように、これから近づく者と、諸学からそこに戻ってくる者とにとって異なる価値で現れる。文法を学び始める者は乾いた抽象を見いだすが、言語を使いこなす者はそのなかに民族の精神を感じ取る。同じように、学問に近づく者は、論理学のうちにまず、世界表象の豊かさに対して色のない冷たい単純さのなかにある、孤立した抽象の体系を見いだす。他の学問のより深い認識から、はじめて論理的なものは、特殊なものの豊かさを自分のうちに含む一般的なものとして立ち上がってくる。
論理学の体系は影の国であり、あらゆる感覚的な具体化から解放された単純な本質態の世界である。この影の国に滞在し働くことは、意識の絶対的な教養と訓練である。思想はそれによって自立性を得て、諸学の多様性を理性的な形式に受け入れる無意識の力となる。そして論理的なものの抽象的な基礎をあらゆる真理の内実で満たし、それに、他の特殊なものと並ぶものとしてではなく、これらすべての本質である絶対的に真なるものとしての、一般的なものの価値を与える。
論理学の一般的区分 この学問の概念について述べたことから、ここでの区分は暫定的なものにしかなりえない。それは、概念が展開のなかで自らを規定していく主要な区別を、あらかじめ歴史的に挙げるにとどまる。
区分は概念のうちになければならない。区分は概念の規定性を展開して表現する概念の判断、概念をそれ自身において規定することである。三角形を直角、鋭角、等辺などに区分する規定は三角形の概念のうちになく、動物を哺乳類、鳥類などに区分する規定も動物の概念のうちにはない。哲学的な区分では、概念自身が区分の起源を自分のうちに含んでいることを示さなければならない。
論理学は純粋な思考の学問であり、その原理は純粋な知である。この知においては意識の対立が克服され、有が純粋な概念として、純粋な概念が真の有として知られている。この二つの契機は切り離せないものとして、しかし同時に区別されたものとして知られ、それによってその統一は具体的なものとなる。区分は、この統一のエレメントの内部で、概念に内在している区別を定立することであり、意識の対立への逆戻りではない。思考と有、概念と実在は、いまその統一において形式に格下げされる。
そこで全体の概念は、まず有する概念、それ自体である概念として、次に概念そのもの、それだけで存在する概念として考察されなければならない。こうして論理学は、有としての概念の論理学と概念としての概念の論理学とに、あるいは客観的論理学と主観的論理学とに区分される。しかし概念の統一のゆえに、これらの規定は互いに関係のうちに立たなければならず、ここから媒介の領域が生じ、概念は反省規定の体系となる。これが本質論であり、有論と概念論の中間に立つ。主観という性格は概念にとっておくべきであるから、本質論はなお客観的論理学のもとに置かれる。
カントは通常の論理学に超越論的論理学を対置し、ここでの客観的論理学は部分的にはこれに対応する。しかしカントは範疇を主観的な自我に帰属させたので、その見方は意識の対立の内部にとどまり、思考にとって外的な物自体が残る。物自体のような抽象物は、抽象するだけの思考の産物にすぎない。カント哲学の関心は思考規定の超越論的なものに向けられていたので、思考規定そのものの論述は空手に終わった。形式が自我、意識であるという有限な規定性が取り去られ、純粋さにまで考え抜かれるとき、形式は自分に内容をその必然性において与えることを、思考規定の体系として含んでいる。
客観的論理学は、こうして以前の形而上学に取って代わる。まず、ens一般の本性を探究すべきであった存在論の位置を占める。ensは有と本質をともにうちに含む。次に、魂、世界、神という表象の基体を思考規定によって捉えようとした残りの形而上学をも含むが、これらの形式を基体から自由にそれ自体で考察する。あの形而上学は形式を批判なしに用いたが、客観的論理学はそれらの真の批判である。主観的論理学は概念の論理学であり、概念は、有あるいはその仮象への関係を止揚した本質、自己のうちで自分を規定する主観そのものである。こうして論理学は、有の論理学、本質の論理学、概念の論理学という三つの部分をもつ。
第一書 有論
学の始まりは何をもってなされねばならないか 哲学において始まりを見いだすことの困難は、近年になって意識された。始まりは媒介されたものか直接的なものかでなければならず、そのどちらでもありえないので、どちらの始め方も論駁される。哲学の原理も、水、一者、ヌース、イデア、実体、モナド、あるいは思考、自我などとして、あらゆる事物の客観的な始まりを表すが、そこで関心は内容の規定にだけ向けられ、始めることそのものは偶然的な仕方として顧みられない。
しかし近代の当惑は、さらなる要求から生じる。教養の進展のなかで認識のふるまいに注意が向けられると、主観的な営みも客観的真理の本質的契機として捉えられ、方法は内容と、形式は原理と結びついているべきだとされる。こうして原理は始まりでもあり、思考にとって先在するものは思考の歩みにおいても最初のものであるべきことになる。
ここで問うべきは、論理的な始まりがどのように現れるかだけである。天にあるものも自然にあるものも精神にあるものも、すべて直接性と同じく媒介を含んでおり、直接的な知か媒介された知かという対立は空しい。始まりが論理的であるのは、それが思考のエレメント、純粋な知においてなされるべきだからであり、媒介されているのは、純粋な知が意識の最後の、絶対的な真理だからである。論理学は、感覚的な意識から出発して純粋な知を結果としてもつ精神の現象学を前提とする。純粋な知とは、もはや対象に対立せず、対象を自己自身として知り、主観性を外化してその外化との統一となった確信である。始まりが内在的にとどまるためには、あらゆる考察と意見を脇に置き、現にあるものをただ受け取るほかはない。純粋な知はこの統一のうちで他者へのあらゆる関係と媒介を止揚し、区別のないものとなって知であることもやめる。そこにある単純な直接性は、その真の表現においては純粋有であり、有一般にほかならず、いかなるそれ以上の規定も充実もない。
しかし、いかなる前提もせず、始まりそのものを直接的に取るべきだとすれば、そこにあるのは思考そのものを考察しようという決断だけである。始まりは絶対的な、すなわち抽象的な始まりでなければならず、何も前提せず、媒介されず、根拠をもたず、むしろそれ自身が学全体の根拠でなければならない。それは自分のうちに規定も内容も含みえない。それらは区別であり、異なるものの相互関係、したがって媒介となるからである。それゆえ始まりは純粋有である。
絶対に真なるものは結果でなければならず、結果は最初の真なるものを前提するが、最初のものは客観的には必然的でなく、主観的には認識されていない。ここから、哲学は仮説的で蓋然的な真なるものでしか始められないという考えが生まれ、ラインホルトがこれを強く説いた。この見方の根底には、始まりの思弁的な本性への真の関心がある。前へ進むことは根拠への、根源的なものと真なるものへの帰還であり、始められたものはそこから産み出される。意識は直接性から出発して、最も内的な真理としての絶対知に連れ戻され、この根拠から、最初に直接的なものとして現れたものが生じる。絶対精神も、展開の終わりにおいて自由に自己を外化し、直接的な有という形態へと自己を解き放つ。学の全体は、最初のものが最後のものにも、最後のものが最初のものにもなる円環である。
それゆえ他方では、運動が帰っていく根拠を結果と見なすことも同様に必然的である。始まりからの進行は始まりのさらなる規定にすぎず、始まるものはすべての後続のものの根底にとどまる。こうして始まりは、直接的で抽象的であるという一面性を失って媒介されたものとなり、学問的な前進の線は円環になる。始めるものは始まりにおいてはまだ真に認識されておらず、学の全展開が初めてその真に基礎づけられた認識である。結果が初めて絶対的な根拠として現れるからこそ、この前進は仮説的なものではなく、事柄の本性によって規定されたものでなければならない。始まりは、幾何学の作図のように、あとから証明を通じて初めて、これらの線を引いたのが正しかったと分かるようなものではない。純粋有は純粋な知が帰っていく統一であり、この面では絶対に直接的なものは同様に絶対に媒介されたものでもある。しかしそれは、まさにここで始まりであるがゆえに、純粋に直接的なものとしてのみ捉えられなければならない。規定されているなら、それはすでに先へ導かれたものとなるからである。
しかし、有という規定さえ省き、始まりそのものの表象のなかに何があるかを見ることもできる。始まりは、まだ無であり、何かになるべきものである。それは純粋な無ではなく、そこから何かが出てくるべき無であり、有もすでに始まりに含まれている。始まるものはまだなく、ようやく有に向かい、しかもすでにある。したがって始まりは有と無の統一、同時に有である非有、同時に非有である有である。この分析は、区別されていることと区別されていないこととの統一、同一性と非同一性の同一性の概念を与え、これは絶対者の最初の、最も抽象的な定義と見なしうる。有が無へ移行することに不満な人々も、ここでやはり有と無の統一にいたる。
だが、この分析は始まりの表象を既知のものとして前提しており、他の学問の例にならっている。始まりが具体的なものであるなら、その内なる関係は直接的なものとして与えられるが、実際には区別されたもの同士の関係として媒介を含んでいる。したがって始まりは、分析できないもの、単純で満たされていない直接性において、すなわち有として、まったく空虚なものとして取られなければならない。事柄から始めよと言っても、事柄が何であるかは学問の経過のなかで初めて明らかになるので、この事柄はあの空虚な有にほかならない。
近年有名になった、自我から始めるという独創的な始まりにも触れておかなければならない。自我は直接的なものとして、また自己の単純な確信として、最もよく知られたものとして現れる。しかし自我は同時にもっとも具体的なもの、無限に多様な世界としての自己の意識であり、それが始まりであるには、自我が自分自身から浄化されて抽象的な自我として現れる絶対的な行為が求められる。だがこの純粋な自我は直接的なものでも、通常の意識の自我でもなく、その運動が必然性において叙述されていなければ、知的直観として、ある人には見いだせても別の人には見いだせない恣意的な立場となる。こうして既知のものという利点は失われ、いっそう強い混乱が生じる。しかも自我から出発する学の展開では、客観はつねに自我にとって他のものにとどまる。たとえ自我を知的直観として始まりとすることができるとしても、それが単純な直接性以上に言い表すものは具体的なものであり、その叙述は一つの規定から別の規定へ進む媒介する運動である。したがって始められるのは単純な直接的なものにすぎない。始まりが神をもってなされることにはもっとも異論のない権利があろうが、神の表象に純粋有以上のものが含まれているなら、それは思考する知のなかで初めて現れなければならず、知に最初に現れる規定は単純なものである。神のより豊かな表象のなかで有について言い表されるものは、始まりにおいては空虚な言葉、有にすぎない。この単純なもの、この空虚こそが哲学の始まりであり、始まりをめぐるこの予備的な論議は、あらゆる予備的なものを取り除くことを意図したのである。
有の一般的区分 有はまず、およそ他のものに対して規定され、次に自分自身の内で自分を規定し、さらに区分という予備的な手続きを捨てれば、始まりでなければならないという抽象的な無規定性と直接性である。前者の規定によれば、有は本質に対して区別される。後者によれば、有は規定性すなわち質、止揚された規定性すなわち量、質的に規定された量すなわち度量という三つの規定において自分を定立する。通常は量が質より先に挙げられるが、それには理由がない。量はすでに否定的になった質、無関心になった規定性であり、質は自分の有と一つである直接的な規定性だからである。度量は関係であるが、質と量との相互の関係として規定されたものであり、カントの関係や様相とは異なる。
第一部門 規定性(質) 有は無規定な直接的なものであるが、この無規定性そのものが有の質をなす。こうして有はまずそれ自体で規定されたものであり、次に定有へ、さらに対自有へと移行する。
第一章 有
A. 有 有、純粋有。それは無規定な直接性においてただ自分自身に等しく、そこには何も直観されず、何も思考されない。有は実際には無であり、無以上でも無以下でもない。
B. 無 無、純粋無。それは完全な空虚、規定と内容の欠如である。無は空虚な直観や思考そのものとして、純粋有と同じ規定のなさであり、純粋有と同じものである。
C. 成
1. 有と無の統一 純粋有と純粋無とは、したがって同じものである。真理は、有が無へ、無が有へ移行してしまっていることである。だが同様に、両者は絶対に区別されていながら切り離せず、それぞれが直ちに自分の反対のなかに消える。両者の真理は、一方が他方のうちに直ちに消えるこの運動、成である。
注解1 有に対立する無は、或るものに対立する規定された無ではなく、無規定な単純さにおいて取られなければならない。非有と言っても結果は変わらないが、さしあたり問題なのは関係の形式ではなく、抽象的で直接的な否定である。
純粋有という単純な思想を、エレア派、とりわけパルメニデスが最初に絶対者として言い表した。有のみがあり、無はまったくない。仏教では無、空虚が絶対的な原理である。深遠なヘラクレイトスは、この一面的な抽象に対して成というより高い全体的な概念を打ち出し、すべては流れる、すべては成である、と言った。誕生のうちに滅びの萌芽があるという東洋の言葉も有と無の合一を表すが、そこでは有と無は時間のなかで引き離され、それ自体で同じものとしては思考されていない。
無からは何も生じないという形而上学の命題では、無は無のままであり、実際には成はない。成は、無がその他者、有へ移行することを含むからである。キリスト教の形而上学はこの命題を退けて、無から有への移行を主張した。この命題をむきになって主張する人々は、エレア派の、事柄の上ではスピノザ主義の抽象的な汎神論に賛同していることに気づいていない。有はただ有であり、無はただ無であるという同一性の体系こそ、汎神論の本質である。
有と無が同じであるという結果が逆説に見えるなら、むしろその驚きのほうを驚くべきである。天にあるものも地にあるものも、すべて有と無の両方を自分のうちに含んでいる。現実的なものでは、それらは肯定的なものと否定的なものとしてさらに規定されているが、その抽象的な基礎は有と無である。この統一は最初の真理として基礎に置かれ、これ以降のすべての論理的規定がその例である。常識に対しては、或るものが限界から、神が活動から切り離されている例を探すよう勧めればよい。
通常の意識の混乱の一つの理由は、純粋な抽象に具体的な或るものの表象を持ち込むことである。有と無が同じなら、私が存在するか否か、この家が、この百ターラーが私の財産状態にあるか否かは同じことになる、という推論は、純粋な抽象から規定された有と規定された無をつくり、命題の意味を変えてしまう。規定された有は他の内容と必然的な関係に立ち、何かがあるかないかが無関心でないのは、有あるいは無のゆえではなく、それを他と結びつけるその内容のゆえである。
この考察は、カントによる神の存在の存在論的証明の批判の主要な契機と同じことを含んでいる。カントの批判は、実存すなわち有は実在的な述語ではなく、物の概念に付け加わるものではない、という点に拠る。百の現実のターラーは百の可能なターラーより少しも多くを含まず、孤立したこの内容にとって、あることとないことはどちらでもよい。ただし私の財産状態には、現実の百ターラーが総合的に付け加わる。しかしここでは、表象と財産状態という二種類の状態が前提されている。有と無の抽象は規定された内容を得ると抽象であることをやめ、百ターラーの有または非有は、財産状態にとっての変化、すなわち定有の領域のことになる。区別を有と非有に押し込めるのは、例のなかの規定された定有を省きながら、抽象的な有と無を定有に変える錯覚である。定有に初めて有と無の実在的な区別、或るものと他のものが含まれる。孤立して表象された百ターラーといういわゆる概念は、主観的な悟性が単純な自己関係という形式を貸し与えた偽りの概念である。
定有だけを思い浮かべる思考は、パルメニデスの始めた学問の始まりに差し戻されなければならない。パルメニデスは表象を純粋な思想、有そのものへと浄化し、学問のエレメントを創造した。水などの物質的な原理や、自分自身に外的な思想である数とは異なり、エレア派の有こそ思想についての知の最初のものである。個別的な有限な有から有そのものへ退くことは、実践的な要求でもある。人間は心構えにおいてこの抽象的な一般性にまで高まり、百ターラーがあろうがなかろうが、自分があろうがなかろうが、無関心になるべきである。たとえ世界が砕けて落ちかかっても廃墟は恐れぬ者を打つであろう、とあるローマ人は言った。
百の現実のターラーが可能なターラーと異なるように、神の概念も神の有と異なり、神の概念からその実存をほじくり出すことはできない、とされる。たしかに概念が有と異なるなら、神は百ターラーとさらにいっそう異なる。有限な物とは、概念と有、魂と身体が分離でき、それゆえ移ろいやすく死すべきものであり、神の抽象的な定義とは、その概念と有が分けられず切り離せないことである。理性の真の批判とは、有限なものの規定を神に適用することを認識に控えさせることである。
注解2 有と無の命題への嫌悪のもう一つの理由は、結果が「有と無とは一つであり同じである」という命題によっては不完全にしか言い表されないことである。強調は一つであり同じであることに置かれるが、命題は有と無という二つの規定を区別されたものとして含んでいる。したがって命題は自分自身と矛盾して自分を解消し、そこに本来の内容である成が生じる。しかし結果は命題のなかに表現されてはいない。判断の形式は、主語と述語の非同一性をも本質的な契機とする思弁的な真理を表現するのに適していないからである。
この欠陥は、まず反対の命題「有と無は同じではない」を付け加えることで補われるが、今度は両命題が結びつけられず、内容は二律背反として現れる。二つの規定の合一は、両立しないものの同時的な不安定、一つの運動としてのみ言い表しうる。一方の命題だけを取り出す指摘は、正しいのと同じだけ誤っている。また、統一という語は比較という外的な反省を思わせ、抽象的な同一性を表すので、不可分離と言うほうがよいが、それでは全体の関係の肯定的な面が言い表されない。
こうして得られた真の結果は成である。純粋有は直接的で単純であるがゆえに同じく純粋無であり、有と無の区別は存在するが、同じく自分を止揚して存在しない。結果は区別をも主張するが、それを単に思われたものとして主張する。
有と無の区別に固執する人々は、その区別が何にあるのかを挙げてみるがよい。両者を区別する規定性があるなら、それらは規定された有と無であり、純粋有と純粋無ではない。区別は思い込みのなかにだけあるが、思い込みは主観的なものであり、この叙述の系列に属さない。しかし有と無がその存立をもつ第三のものはここにも現れており、それが成である。成のなかでのみ有と無は区別されたものとしてあり、この存立がそれらの区別を同様に止揚する。人は有を純粋な光として、無を純粋な夜として表象するかもしれない。しかし絶対的な明るさのなかでも絶対的な暗闇のなかでも、見えるものは同じだけ少なく、両者は同じ二つの空虚である。曇った光、明るくされた暗闇のなかで初めて何かが区別され、それが定有である。
注解3 有と無が切り離せない契機である統一は、それらとは区別された第三のものであり、その最も固有の形式が成である。抽象はこの第三のものを無視し、有と無を移行から守られたものとして固持しようとするが、これに対しては、その抽象そのものも定有をもつ経験的な実存を思い出させればよい。反省のあらゆる思いつきから逃げ道を奪うのはむだな骨折りであり、それゆえ私は、成だけが有と無の真理であることへの異論を考慮することを控える。
有と無を孤立させ移行を否定するとき、何が生じるか。パルメニデスは、ただ有だけがあると言った点でもっとも一貫していた。無規定な有からはそれ以上進めず、前進は外から付け加わる第二の始まりとして現れる。パルメニデスにおいてもスピノザにおいても、有あるいは絶対的実体から有限なものへ進んではならないとされた。フィヒテの原則A=Aに続く対立も、外的な反省の前進である。前進に正当な根拠があるなら、最初のものは他のものが関係しうる規定されたものでなければならないが、有、絶対的実体は端的に無規定なものとされている。
抽象的なものから先へ進むことの不可能性をもっとも雄弁に描いたのは、カントの自己意識の先験的総合に対して論争したヤコービである。空間は一つ、時間は一つ、意識は一つであるが、そのどれかがどのように純粋に多様化するのか、自我の純粋な母音はどのようにして子音に達するのか、と彼は問う。ヤコービは抽象の弊害を明確に認識したが、そこにとどまって総合の不可能性を主張する。しかし問題の総合は、外的に存在する規定の結びつけではなく、区別されたもののそれ自体でそれだけである内在的な統一であり、成は有と無のこの内在的な総合である。どのようにしてという問いは、固定した範疇を前提する反省の悪い作法に属する。
ヤコービはまた、見たり聞いたり触れたりしたすべてを、自分をも含めて忘れ、無限で不変の空間の直観だけを残し、自分を空間に変えなければならないと描く。この抽象的な連続を空間と呼ぼうと純粋思考と呼ぼうとどうでもよい。それは、インド人が何年も鼻の先を見つめ、オーム、オーム、オームと内心で唱えるときにブラフマンと呼ぶものと同じであり、意識として捉えられた有である。ヤコービはカントの先験的総合を「ある、ある、ある」という繋辞の反復にまで希薄化するが、そこには否定も区別もないので、それは反復ですらなく単純な有であり、もはや総合とは言えない。
まず、ヤコービのいう空虚な空間や時間は、経験的に誤ったものである。限界づけられた定有と変化で満たされていない空間や時間は存在せず、意識も規定された内容なしには実存しない。意識は空虚なものを対象にできるが、より具体的な内容へと押し出される。こうしてパルメニデスは仮象と思い込みを、スピノザは属性、様態、延長、運動、悟性、意志などを扱わざるをえなくなる。しかし問題は経験的な空しさではなく、純粋有などの思想それ自体が空しいことである。それは明示的に無規定なものとして規定されているが、まさにこの無規定性こそが有の規定性をなす。無規定性は規定性に対立するので、それ自身が規定されたもの、純粋に抽象的な否定的なものだからである。この抽象的な否定こそ、有を無と等しくするときに言い表されるものである。
有をもって始める始まりでは、移行はまだ隠されており、無は有からただ直接的に現れ出る。定有をはじめ、あとに続く規定では、抽象の矛盾、したがって移行を生み出すものがすでに定立されている。すべてから抽象すれば無が残るという論議の結果、中国哲学のように無から始めるべきだとしても、手をひっくり返す前に、この無はすでに有に変わっている。すべての存在者からの抽象の結果はさしあたり有一般であり、そこからさらに抽象することもでき、そのとき無が残り、無からも抽象することができて再び有に到達する。この「できる」は抽象の外的な遊びにすぎず、そこには有と無がどちらも消え、どちらも生じることが含まれている。
プラトンがパルメニデスの対話篇で一者を扱う弁証法も、外的な反省の弁証法である。「一者は有る」という命題から一者の非有への移行は、命題の二つの規定、一者と有の比較によってなされ、前提をもつからである。
直接的に取られた有は、一つの主語に属し、言い表され、経験的な定有をもつので、制限と否定的なものという地盤に立つ。有と無の統一に逆らって直接に存在するものに訴える悟性は、まさにそこで規定された有しか見いださず、自分が退けている統一を見いだす。無も同様に、思考され、表象され、語られるので、存在するものとして現れ、有に対する関係のなかに立つ。闇は光の不在にすぎず、寒さは暖かさの不在にすぎないと言われる。しかし闇は光を色へと規定して光に初めて可視性を与え、寒さも水やわれわれの感覚にその存在を現す。しかもここで語られているのは、光や暖かさといった規定されたものの無、内容のある無である。規定性はそれ自身一つの否定であるから、それは否定的な無であり、否定的な無は肯定的なものである。否定の否定は肯定であるというこの洞察は、単純であるがゆえに取るに足りないものに見えるが、無限の広がりと普遍的な適用範囲をもつ。
有と無の互いへの移行は直接的で、まったく抽象的である。有は本質的に無であるが、有のなかにはまだ無が定立されていないからである。したがって、無は有の根拠である、原因である、何かがあるという条件のもとでのみ移行できる、などと言うことは許されない。関係の仕方がさらに規定できるのは、項がさらに規定されるときだけである。
注解4 物質の永遠性を証明しようとした、世界の始まりと消滅、成一般に反対する弁証法は、有と無の対立を固持することに基づく。何ものも始まりえない。何かが有るかぎりではそれは初めて始まるのではなく、有らぬかぎりでは始まりもしないからである。同じ理由から、何かが終わることもできない。この弁証法は有と無の統一を断定的に否認するだけであるが、有と無の分離を真理と見なしながら始まりと終わりをも認める反省的な表象よりは首尾一貫している。この前提のもとでは、始まりや成が理解できないものになるのは当然である。
悟性が高等解析の無限小量に対して用いる弁証法も同じである。これらの量は、消える前でも消えたあとでもなく、消えゆくなかにあるものとして規定されている。これに対して、量は何かであるか無であるかのいずれかであり、中間状態はない、と反論されてきた。だが有と無は実際には同じものであり、すべてのものが有と無の中間状態である。数学は、悟性が否定するこの規定を受け入れたことに、もっとも輝かしい成果を負っている。有と非有の絶対的な分離という根拠のない前提にとどまる論議は、弁証法ではなく詭弁である。われわれが弁証法と呼ぶのは、分離しているように見えるものが、それ自身によって互いのなかへ移行し、前提が自分を止揚する、より高い理性的な運動である。有と無がその統一である成を自らの真理として示すことは、有と無自身の弁証法的で内在的な本性である。
2. 成の契機 成、すなわち生成と消滅は、有と無の不可分離であり、有と無の規定された統一である。有と無はそこで消えゆくもの、止揚されたものとして契機へと降りる。成は、有へ移行する無としての生成と、無へ移行する有としての消滅という二重の規定のなかにあり、それぞれが自分自身において自分を止揚する。
3. 成の止揚 生成と消滅の均衡は、さしあたり成そのものである。しかし成は有と無の区別によってのみあるので、有と無の消滅は成の消滅でもある。成は対立するものを自分のなかで結びつけて自分に矛盾し、静かな結果へと沈み込む。結果は無ではなく、静かな単純性となった有と無の統一、全体の規定としての有であり、それが定有である。
注解 止揚されたもの、すなわち観念的なものは、哲学のもっとも重要な概念の一つである。止揚されたものは無になるのではなく、有から出てきた媒介されたものとして、そこから来た規定性をなお自分にもっている。止揚する(aufheben)は、保存するという意味と終わらせるという意味をもち、一つの語が反対の規定をもつことは思弁的な思考にとって喜ばしい。ラテン語の tollere の二重の意味は、持ち上げることまでにとどまる。止揚されたものは、反対のものとの統一のうちで契機と呼ばれる。てこにおける重さと距離が力学的な契機と呼ばれるのも、その作用が同一だからである。
有と無は、その統一においてもはや有でも無でもなく、成では生成と消滅であったように、定有では別様に規定された契機である。
第二章 定有 定有は規定された有であり、その規定性は質である。質によって或るものは他のものに対立し、有限である。それに対立する否定が無限なものであり、この対立は対自有へと解消する。
A. 定有そのもの 定有においては、まず規定性が質として、実在性と否定として区別されるが、定有はそこで自己に反省し、或るものとなる。
a. 定有一般 成から定有が生じる。定有は有と無の単純な一体であり、この単純性のゆえに直接的なものの形式をもち、さしあたり有の一面的な規定のなかにある。定有(Daseyn)は語源的にはある場所にある有であるが、空間の表象はここには属さない。非有が有に取り込まれ、具体的な全体が直接性の形式にある。これが規定性そのものをなす。
ただし全体が有の一面的な規定性にあることは、まだわれわれの反省にとってのことであり、定立されてはいない。ある概念において定立されたものだけがその展開に属する。定有は規定された有、具体的なものであり、そこにはただちにその契機のさまざまな関係が現れる。
b. 質 定有においては有と無が直接的に一つであり、規定性はまだ有から離れていない。規定性がこのように孤立し、存在する規定性となったものが質である。
しかし無も含む定有において、質は無の規定のなかにも置かれる。区別された存在するものとしての質が実在性であり、否認を帯びた質が否定であって、否定は欠如、さらに限界、制限として規定される。実在性では否定を含むことが隠されているので、それは単に肯定的なものと見なされる。
注解 すべての実在性の総体として規定された神の概念では、実在性は否定を含まない肯定的なものとして取られる。しかし否定を取り去れば実在性の規定性は止揚され、実在性は無規定なものにまで拡張されて意味を失う。神の善が正義によって和らげられるというライプニッツ流の表現では、善はもはや善でなく、正義はもはや正義でない。すべての実在性の総体としての神は、空虚な絶対者と同じ無規定なものである。逆に実在性がその規定性において取られるなら、その総体はすべての否定の総体、矛盾の総体となり、無制限の力にまで拡張されて抽象的な無になる。
規定性は肯定的なものとして定立された否定である。これがスピノザの「すべての規定は否定である」という無限に重要な命題であり、ただ一つの実体だけがあるというスピノザの実体の統一は、その必然的帰結である。思考と延長は規定された実在性としては否定であり、属性として、止揚されたものとしてのみある。個体も、他のものへの限界が同時に自分自身の限界であるので、自分の定有を自分のうちにもたない。
否定は直接には実在性に対立し、のちに反省された規定の領域では肯定的なものに対立する。質が特性となるのは、薬草の特性のように、外的な関係において自分の規定を他のもののなかで通用させる内在的な規定となるときである。ヤーコプ・ベーメの質化(Qualirung)という表現は、質がその否定的な本性、苦悩(Qual)において、他のものから自分を立て、闘いのなかでのみ自分を生み出し保つ運動を意味する。
c. 或るもの 定有における実在性と否定の区別は、定有に存在するのと同じ程度に止揚されている。実在性は否定を含み、否定も定有に属するからである。定有は区別の止揚によって再び自分に等しいもの、媒介された単純性としてあり、こうして自内有、定有するもの、或るものである。
或るものは、単純な自己関係としての、否定の否定の最初のものである。定有、生命、思考が、定有するもの、生きているもの、思考するものへと規定されることは、一般性にとどまらないためにきわめて重要である。或るものは主体の始まりにすぎず、自内有は対自有として、さらに概念において主体の具体的な強度を得る。そのさい、抽象的な否定性にすぎない最初の否定は、具体的で絶対的な否定性である否定の否定からよく区別されなければならない。
或るものは否定の否定として、自分自身との媒介でもある。或るものはさらに成であるが、その契機はもはや有と無ではなく、定有するものと、或るものの否定的なものとして規定された他のものである。成としての或るものは変化、すでに具体的になった成である。ただし或るものは、さしあたりその概念においてのみ変化し、その否定的なものを他のものとしてもつだけである。
B. 有限性 或るものと他のものは、まず互いに無関心である。しかし或るものの即自に属する規定性は規定となり、規定は性状へ移行して或るものの限界をなす。限界は或るもの自身の内在的な規定であり、したがって或るものは有限なものである。
先の部門で肯定的な規定をもった定有に、ここでは否定的な規定が展開し、否定一般は或るものの自内有の点まで否定の否定へと規定される。
a. 或るものと他のもの 或るものと他のものは、まずどちらも或るものであり、次に、どちらも同じく他のものである。どちらを先に取って或るものと呼ぶかはどうでもよい。ラテン語では、両者が一つの文に出てくるとき、どちらも aliud と言い、互いに alius alium と言う。Aに対してBが他のものと規定されるが、AもまたBの他のものである。区別を固定するのに「これ」が役立つように見えるが、「これ」は或るもの自身の外に落ちる主観的な指示にすぎず、あらゆる或るものは「これ」でもある。
こうして他在は、第三者の比較によって定有に帰せられる外的な規定として現れる。しかし、どの定有も同じく他の定有として規定されるのだから、両者は同じものであり、区別はまだない。この同一性もまた比較に落ちる。そこで他のものは、孤立して、自分自身への関係において取られなければならない。プラトンが一者に対立させた τὸ ἕτερον が、このような、それ自身における他のもの、自分自身の他のものである。その規定によってこのような他のものであるのが物理的自然であり、自然は精神の他のものであるが、それだけで取るなら、空間、時間、物質において自分の外にあることをその質とする。
自分自身の他のものは、自分のなかで不等であり、変化するものである。しかし、それが変化してなるものもまた他のものにすぎないのだから、それはただ自分と合致する。こうしてそれは、他在を止揚して自分のなかへ反省した、自分と同一の或るものとして定立される。
或るものはその非定有のなかで自分を保つ。或るものは自分の他在に関係し、他在は或るもののうちに含まれると同時にそれから分離されている。これが対他有である。同時に或るものは、他のものへの関係に対する自己関係、自分の不等に対する自分との等しさとしての有であり、これが即自有である。或るものと他のものは無関係に分かれるが、その真理は関係であり、対他有と即自有は一つの同じものの契機として定立された関係である。或るものが即自的にあるものをそれ自身にももち、対他有としてあるものを即自的にももつこと、これが即自有と対他有の同一性である。
ここで物自体の意味が明らかになる。物が即自的と呼ばれるのは、あらゆる対他有が捨象され、規定なしに、無として考えられるかぎりである。この意味で物自体が何であるかを知ることはできない。「何か」という問いは規定を挙げることを要求するのに、問われる物はまさに規定をもたないものであるべきだからである。物自体は真理を欠いた空虚な抽象である。真に即自的であるもの、或るものがその概念においてあるところのものについては、論理学がその叙述である。
即自有には定立されてあることが対置されるが、定立することは本来、本質の領域にはじめて属する。有の領域では、定有は成から生じるだけであり、概念の自己規定はまだそれ自体にすぎず、それゆえ移行と呼ばれる。対他有は或るものの自己との統一のなかでその即自と同一であり、こうして自分のなかへ反省した規定性は、再び単純で存在するもの、一つの質、すなわち規定である。
b. 規定、性状、限界 或るものがその対他有から自分のなかへ反省した即自は、もはや抽象的な即自ではなく、対他有によって媒介された、即自的に存在する規定性である。質は、即自がそれ自身にあることと統一されているかぎり、或るものの規定と呼ぶことができる。或るものは、他のものとの関わり合いから生じる規定性がその即自有に適合し、その充実となるかぎり、自分の規定を果たす。人間の規定は思考する理性である。人間は思考するものとしてそこに在る。しかしこの規定さえも、外的に対立する直接的な感性と自然に対して、再び当為としてある。
即自有の充実は、規定の外にとどまる対他有としての規定性とも区別される。或るものがそれ自身にもつものは分かれ、即自有に属さない外的な定有となる。このとき規定性は性状である。性状をもつとき、或るものは外的な影響と関係に巻き込まれているが、この外面性に身を委ねることもまた或るものの質である。或るものが変化するなら、変化は性状に属し、或るもの自身は変化のなかで自分を保つ。
しかし規定はそれ自身で性状へ、性状は規定へ移行する。規定は他のものとの関係に開かれており、他在を即自有のなかに持ち込んで性状へと引き下げられる。逆に、性状として孤立した対他有は、自分自身の他のものとして自己に関係する定有であり、すなわち規定である。性状とともに或るものは変わり、変化はいまや或るものにおいて定立された変化である。
この移行は両者の区別の止揚であり、そこから二つの或るものが生じる。否定はもはや比較に落ちる抽象的なものではなく、これらの或るものに内在する。或るものは、自分のなかに定立された他在を通じて、自分自身から他のものに関わる。或るものの自内有は他在の非有であり、或るもの自身がそこにおける他のものの終わりである。この否定は、両者を結びつけ、また切り離す一つの規定性であり、限界である。
限界はただちに矛盾をはらむ。限界は或るものと他のものの契機を観念的に含みながら、これらは定有の領域では質的に区別されたものとして定立されているからである。或るものは限界において他のものを限るが、他のものもまた或るものであるから、限界は或るもの一般の非有である。しかし限界は他のものの非有として、或るものの有でもあり、或るものは限界のなかにその質をもつ。限界は、或るものと他のものがそれによってあり、かつない媒介である。
これらの契機が直接的で質的な区別であるなら、或るものの定有と非定有は互いに外に落ち、両者は限界の向こう側に定有をもつ。このとき線は、その限界である点の外にだけ線としてあり、面は線の外に、立体は面の外にだけあるように見える。
しかし或るものは、限界の外にあるなら限られていない定有一般にすぎず、その定有を限界のなかにだけもつ。限界のなかにだけある或るものは、自分を超えてその非有を指し示し、それに移行する。点は線の限界であるだけでなく、線は点において始まる。点は線の、線は面の、面は立体の要素であり、これらの限界は、それらが限るものの原理である。一が百分の一として限界でありながら、百全体の要素でもあるのと同様である。点の運動によって線が生じるという定義では、運動は偶然的なものと見なされる。しかし点は、空間のなかの限界として、抽象的な否定と連続性との矛盾であり、それ自体で運動して線へ移行する。この内在する限界とともに自分自身の矛盾として定立され、自分を超えて駆り立てられる或るものが、有限なものである。
c. 有限性 限界としての否定が展開して、或るものがそれ自身において成にほかならなくなるとき、それが有限性である。有限な物の有の真理はその終わりであり、有限なものは、単に或るもの一般のように変化するのではなく、消滅する。誕生の時は死の時である。
α. 有限性の直接性 有限性は極限まで突き詰められた質的な否定であり、没落の運命とは別の肯定的な有を残さない。物の有限性についての思想は悲しみを伴い、悟性はこの悲しみにとどまる。非有を物の規定としながら、同時にそれを不滅かつ絶対のものとするからである。こうして有限性は永遠となる。
しかし問題は、無常がとどまるのか、それとも無常と消滅が消滅するのかである。有限なものの終わりを無と捉えるなら、われわれはとうに消えたはずの抽象的な無に戻ってしまう。有限なものは無限なものに永続的に対立し、それ自体で空しいものとしてあるとされる。有限なものの展開は、有限なものがそれ自身においてこの矛盾として崩れ落ち、消滅そのものが消えることである。
β. 制限と当為 或るものは、規定と性状、さらに限界をそれ自身にもつ自内有として展開している。規定はすでに他在を或るものの即自に属するものとして含んでいた。或るものの自己との統一は、その内在する限界を即自的に存在する規定が否定する関係である。或るものの固有の限界は、こうして否定的でありながら本質的なものとして定立され、制限である。しかし否定は両刃である。否定されたものとして定立される限界は、規定そのものの即自有の規定性でもあるからである。したがってこの即自有は、制限としての自分自身への否定的関係として、当為である。
限界が制限であるためには、或るものは同時に自分のなかでその限界を越えて出ていなければならない。限界が規定そのもののなかに制限としてあるのだから、或るものは自分自身を越えて出てゆく。あるべきものは、あり、同時にあらぬ。もしあるのなら、それは単にあるべきものではない。したがって当為は本質的に制限をもち、或るものは当為としてのみ制限をもち、当為として制限を越えて高まっている。両者は分離できない。
注解 汝は為すべきゆえに為しうる、という表現は当為の概念のうちにある。当為は制限を越えて出ていることだからである。しかし同じく、汝は為すべきゆえに為しえない。当為には制限が制限として含まれているからである。当為において無限性が始まり、それはさらなる展開において無限への進行として現れる。
思考や理性の制限を越えては行けないと主張されるのが常である。しかし、何かが制限として規定されていることのうちに、すでにそれを越え出ていることが含まれている。石や金属にとって、その限られていることは制限ではない。それでも酸になりうる塩基は、酸化し中和して、塩基としてある制限を越え出る。生命あるものはなおさらである。植物は種としてある制限を越え、花として、果実としてある制限を越える。感じるものは、飢えや渇きの制限のなかでそれを越えようとする衝動であり、痛みを感じる。自己の感情をもつ全体性としてあの規定性を越えているからこそ、それを自分の否定として感じるのである。理性は、一般的なものとして、すべての特殊性を越えているものであり、制限を越えて出ることにほかならない。
ライプニッツは、磁石が意識をもつなら北を向くことを自分の自由の規定と見なすであろう、と言う。むしろ、意識と自由をもつ磁石にとって空間はすべての方向を含む一般的なものとなり、北を向く一つの方向は自分の自由に対する制限となるであろう。
他方、当為はそれ自身ただ有限な越え出ることにすぎず、その場所と通用を有限性の領域にもつ。義務は、特殊な意志、利己的な欲望に向けられた当為である。道徳の当為を高く掲げる人々は、自分たちの有限な領域では当為が完全に認められていることを見ていない。カント哲学とフィヒテ哲学は理性の矛盾の解決の最高点として当為を挙げるが、それはむしろ有限性、したがって矛盾にとどまる立場にすぎない。
γ. 有限なものから無限なものへの移行 当為と制限は質的に対立し、有限なものは自分のなかの矛盾として消滅するが、さしあたり別の有限なものになるだけで、こうして無限に続く。しかし当為が越え出たところにあるのは制限自身であり、自分を越え出ることは自分自身と合致することである。この否定の否定は肯定的な有、有限なものの他のもの、すなわち無限なものである。
C. 無限性 無限なものは、明示的に有限なものの否定として規定されており、絶対者の新しい定義と見なすことができる。主要な点は、真の無限性を、有限なものから切り離されることで有限化される悪無限、悟性の無限なものから区別することである。
a. 無限なもの一般 無限なものは否定の否定であり、制限性から自分を回復した真の有である。自分を越え出て無限になることは、有限なものそれ自身の本性である。無限なものは有限なものの上に出来上がって立っているのでも、われわれが主観的に有限なものを越えてゆくのでもない。こうして有限なものは無限なもののなかで消え、あるのはただ無限なものだけである。
b. 有限なものと無限なものの交互規定 無限なものは存在する。この直接性において、それは同時に有限なものの否定である。他のものの非有として、無限なものは限界をもつ或るものの範疇に落ち戻り、有限なものは無限なものに実在的な定有として対立する。有限なものに対して、無限なものは無規定な空虚、有限なものの彼岸である。このように有限なものとの質的な関係において定立された無限なものが、悪無限、悟性の無限なものである。悟性はこれを最高の真理と見なすが、実際には解消されない矛盾のなかにいる。
二つの世界、無限の世界と有限の世界があることになり、無限なものは有限なものの限界にすぎず、それ自身有限な無限なものである。悟性が無限なものへ上ってゆくとき、有限な世界は此岸として残り、無限なものは到達しえない彼岸として置かれる。
しかし両者は、両者を切り離す否定によって本質的に関係している。各々は自分の限界を非有として自分から突き放し、自分の外にある他の有として定立する。有限なものはその非有を無限なものとして、無限なものはその非有を有限なものとして定立する。両者は分離できないが、その統一は質的な他在のなかに隠れた内的なものにすぎない。そのため統一は移行として現れる。有限なものを越えて無限なものへ出てゆくが、この空虚のなかに新しい限界が生じ、それもまた越え出られ、再び空虚が生じる。こうして無限に続く。
これが有限なものと無限なものの交互規定であり、それは無限への進行として現れる。思考は「こうして無限に続く」に到達すると終点に達したとされるのが常であるが、この進行は、解消されず、ただあると言い表されるだけの矛盾である。この悪無限は永続的な当為と同じであり、有限なものと無限なものの同じ退屈な交替にすぎない。そこにはすでに両者の統一が定立されており、この統一こそが無限進行の原動力であるが、表象はその外面にとどまる。
c. 肯定的無限性 有限なものと無限なものの行きつ戻りつする交互規定のなかに、両者の真理はすでに即自的にあり、そこにあるものを取り上げさえすればよい。無限なものと有限なものの統一という言い方は不適切であるが、この不適切さを取り除くことも、この概念の発現のなかに含まれている。
無限なものは有限なものの否定であり、無限なものが何であるかが言われるとき、有限なもの自身が言い表されている。有限なものも、越え出られるべきものとして、それ自身における自分の否定であり、これが無限性である。他方、両者が関係を欠いた自立したものとして取られるなら、無限なものは二つのうちの一つにすぎず、有限な無限なものである。有限なものもそれだけで立てられるとき、無限なものと同じ自立性と自己肯定をもつ。二つの考察の仕方は同一の結果を与え、各々はその他のものを固有の契機として含む。
これが悪名高い有限なものと無限なものの統一である。この統一のなかで両者は質的な本性を失う。統一のなかでも両者の質を固持し、そこに矛盾しか見ない表象はこれを見ない。また両者は区別されたものとしても取られなければならず、有限化された無限なもの、無限化された有限なものとなる。悟性はこの二重の統一を偽る。両者の関係を質的な差異として、絶対的に分離されたものとして主張するからである。
しかし両者の統一は外的な寄せ集めではない。各々がそれ自身において、自分自身の止揚としてこの統一である。有限性は自分を越え出ることとしてのみあり、自分自身の他のもの、無限性を含む。無限性も有限なものを越え出ることとしてのみあり、その他のものを含む。有限なものは外にある力によって止揚されるのではなく、自分自身を止揚することがその無限性である。有限性とはとうに非有として規定された定有であるから、ここで止揚されるのは否定だけであり、無限なものが有限なもののなかで自分を止揚することは、空虚な彼岸への逃走からの帰還である。両者にあるのは同じ否定の否定である。
このことは無限進行のなかにもすでに定立されている。有限なものがあり、それを越えて出ると彼岸である無限なものがあり、さらにこれを越えて出ると新しい限界、再び有限なものがある。これは自分自身を閉じる運動であり、有限なものは自分自身と合致し、その彼岸のなかにただ自分を見いだしたのである。無限なものも同様に、新しい限界を通り抜けて自分のもとに到達する。
こうして両者は、その否定を通じて自分に戻る運動であり、結果であって、始まりの規定においてあったものではない。悟性が両者の統一に逆らうのは、制限と有限なものを永続的なものとして前提し、無限進行のなかに事実としてある両者の否定を見落としているからである。どちらを始まりに取るかはどうでもよい。両者はともに過程の契機として共通に有限であり、この有限性の否定としての結果が真に無限なものである。真の無限なものは、自分を有限なものに対立する一つの規定に引き下げ、この区別を自己肯定へと止揚し、この媒介によって真に無限であるという過程である。
この無限なものは統一という動きのない公式では捉えられず、本質的に成として、有限なものと無限なものを成るものとしてもつ、さらに規定された成である。それは自分に帰ってきたものとして有であり、否定を含むから定有でもある。それはあり、そこに在り、現在している。彼岸であるのは悪無限だけであり、その到達不可能性は高貴さではなく欠陥である。無限への進行の像はまっすぐな線であり、無限なものはその両端の、線のない所にだけある。真の無限性の像は、自分のなかへ曲げ戻された円、始点も終点もない線である。
真の無限性は、高い意味での実在性である。実在的なものは有限なものではなく、無限なものである。真の無限なものにおいてある有限なもの、すなわち区別されているが自立して存在するのではなく契機としてある規定が、観念的なものである。有限なものを実在的なもの、無限なものを観念的なものとする対立にとどまるなら、悪無限の一面性に戻ってしまう。
移行 観念性は無限性の質と呼ぶことができるが、本質的に成の過程であり、したがって移行である。有限性と否定的な無限性との止揚として、この自分への帰還は自己自身への関係、有である。この有は否定を含むので定有であり、この否定が否定の否定、自己に関係する否定であるから、それは対自有と呼ばれる定有である。
注解1 悪無限と無限への進行は、当為と同じく矛盾の表現である。この不完全な反省は、有限なものと無限なものの対立と統一という二つの規定を目の前にしながら、二つの思想を結び合わせず、交替させるだけである。因果関係でも、原因として規定されたものは有限なものとして自ら原因をもち、結果でもある。こうして原因と結果の統一と分離が無限に交替する。
矛盾の解決は、両方の主張の同等の正しさと不正しさを認めることではない。それはとどまり続ける矛盾の別の形にすぎない。解決は両者の観念性にあり、そこで両者は相互の否定として、ただの契機である。有限なものは自分を越えて無限なものに落ちるが、それを越えて自分を再び見いだし、自分とだけ合致する。無限なものも同様である。こうして同じ否定の否定が肯定へと結果し、矛盾は解決され、和解されている。思弁的思考の本性は、対立する契機をその統一において捉えることだけにある。
哲学の本質は、しばしば、無限なものがどのようにして自分から出て有限性に至るのかという問いに置かれ、問う者はそこに克服できない護符を所有しているつもりでいる。しかし、有限なものに対立する無限なものは、その他のものをそれ自身にもつのだから、それ自身有限であり、悪無限である。答えはこうである。まず無限であり、そのあとで有限性へ出てゆく無限なものは存在しない。それはそれ自身で、すでに有限であると同じく無限である。問いは両者がそれだけで真に実在的であると仮定しているが、そのような有限なものも無限なものも真理をもたず、真ならざるものは理解できない。しかし同様に、両者は理解できる。一方のなかに他方の規定があること、その分離できなさを洞察することが両者を理解することであり、この分離できなさがその概念である。したがって問いには答えるのではなく、それが含む誤った前提を否定しなければならない。無限なものは永遠に有限性へ出て行っており、他のものをそれ自身にもたずにそれだけであることはない。
問いが、無限なものは即自的に有限なものを含むと前提するなら、困難は分離することにあり、そこでは統一と区別が切り離されているにすぎない。有限なものと無限なものの規定された統一には、両者の区別もすでにある。この区別は両者を観念的なものとして統一のうちにとどめることである。
注解2 有限なものは観念的であるという命題が観念論をなす。あらゆる哲学は本質的に観念論であり、問題はそれがどこまで貫徹されているかである。宗教もまた有限性を真の有として認めない。したがって観念論的哲学と実在論的哲学の対立には意味がない。タレスの水も、経験的な水であると同時に、他のすべての物の即自あるいは本質であり、これらの物は水から定立された観念的なものである。
精神こそが本来の観念論者である。精神においては、内容は実在的定有としてはなく、自我の単純性のなかで観念的である。しかし主観的観念論は、内容が私のものであるという表象の形式にだけかかわる形式的な観念論であり、そこでは何も失われず、何も得られない。主観と客観という形式の有限性を排除しても、内容の有限性はまったく取り除かれていない。
第三章 対自有 対自有において質的な有は完成する。定有において否定は第一の否定にすぎず、定有は差異、有限性の場であった。否定が否定の否定へ移行して単純な自己関係となったので、対自有は絶対的な被規定である。対自有は、まず一であり、次に多数の一へ移行して反発と牽引となり、最後に両者の均衡のなかで量へ移行する。
A. 対自有そのもの 或るものは、他在、他のものとの関係を止揚し突き放したかぎりで、対自的にある。意識は対象の内容を観念的に自分のうちにもつが、対象を同時に外的な定有として知る二元論として、現象するものである。自己意識は、外的な対象への関係が取り除かれた、完成され定立された対自有であり、無限性の現在の最も身近な例である。
a. 定有と対自有 対自有の否定的な本性が直接性の形式において単純な質的規定性としてあるかぎり、それは定有である。定有において対他有であった規定性は、対自有の無限な統一のなかへ曲げ戻され、対一有としてある。
b. 一者に対する有 この契機は、有限なものが無限なものとの統一のなかで、観念的なものとしてどのようにあるかを言い表す。対一有と名づけられても、それがそのためにある一者はまだない。ただ一つの対他有があり、それが一つであるために対一有にすぎない。観念的なものは必然的に一のためにあるが、他のもののためにあるのではなく、それがそのためにある一者はそれ自身にほかならない。神は、彼自身のためにあるものが彼自身であるかぎりで、対自的である。対自有と対一有は、観念性の分離できない契機である。
注解 或るものがどんな物であるかという、質を問うわれわれの言語の表現は、その起源において観念論的である。この物が他の物に対して何であるかではなく、これはどんな物かを問うのであり、そこではあるものとそれがそのためにあるものとが同じ一つである。自我は自我のためにあり、精神は精神のためにのみ、神は神のためにのみある。思想、精神、神をただの観念的なものと呼ぶことは、有限な定有を実在的なものと見なす立場を前提している。
観念論の貫徹は、対自有のかたわらに有限な定有がなお自立して存続していないかにかかっている。エレア派の有やスピノザの実体は、すべての規定性の抽象的な否定にすぎず、実体は対自有の規定にさえ至らない。マルブランシュにおいては、われわれは物の観念を神のうちでのみ見るのであり、物の本質も定有も神のうちで観念的であり、ただ一のためにある。しかしその基礎となるはずの無限性の論理的規定は、それだけでは展開されていない。
ライプニッツのモナドは本質的に観念的なものであり、表象することは対自有である。モナドは互いを限らず、作用を及ぼさず、変化はその内部で展開する。しかし多数のモナドがあることは、モナドの外に落ちる第三者の反省であり、モナドを観念的にする運動はモナドの外に落ちる。磁針の思いつきにおいて意識がその内容に無関心な形式として考えられているのと同様に、モナドにおける観念性も多数性に外的にとどまる形式であり、その調和は予定されている。
カントやフィヒテの観念論は、当為あるいは無限進行を越え出ず、定有と対自有の二元論にとどまる。無限の衝撃は自我にとってのものになるが、否定的な即自有として永続する自由な他在から出発し、対一有は彼岸への方向が消えるところまでは完成されていない。
c. 一 対自有は、自分自身と対一有との単純な統一である。その契機は無区別に沈み込み、定立された否定に基づく直接性として、一である。一の展開では、一の概念をなす契機が、直接性の形式のために、存在する規定として分かれて現れながら分離できない。したがって各規定について、その反対も同様に言われなければならない。
B. 一と多 一は直接性の形式をもち、その契機は定有するものとなる。全体性としての対自有の観念性は、もっとも固い、もっとも抽象的な、一としての実在性に転じる。一の自己との統一は関係に引き下げられ、否定的な統一として、一を他のものとして自分から排除することとなる。
a. 一それ自体 一はそれ自身において端的にあり、定有でも性状でもなく、これらの範疇を否定したものである。それゆえ一は他のものにならず、不変である。その無規定性は、自己への関係である規定性、定立された自内有である。そのなかには何もなく、一のなかにあるものとして定立されたこの無が空虚であり、空虚はその直接性における一の質である。
b. 一と空虚 一は否定の自己への抽象的な関係としての空虚であるが、空虚は一の肯定的な有から無として区別され、存在する一の外にある。対自有は、自分を一と空虚として規定することによって、再び定有を得た。
注解 定有の形式におけるこの一が、古代人の原子論的原理であり、物の本質は原子と空虚であるとされた。抽象はここでパルメニデスの有やヘラクレイトスの成よりも大きな規定性を得て、世界の多様性をこの単純な対立から認識しようとした。しかし原子と並ぶ空虚を思い浮かべるのは表象にたやすく、合成の関係も同様に通俗的である。
しかし最初の思想家たちは、空虚を運動の源泉と認識した。これは、満たされた空間には動く場所がないという意味ではなく、否定的なもののなかに成の根拠、自己運動の不安定の根拠がある、というより深い思想である。ただし空虚は、一の否定的なもの、自分自身に対する否定的な関係としてのみ運動の根拠である。原子の形や位置などのさらなる規定は恣意的で外的であり、原子の原理のもとで物理学は分子や粒子において悩み、個人の個別的意志から出発する国家学も同様に悩んでいる。
c. 多くの一 反発 一と空虚は、その最も近い定有における対自有をなし、互いに別の定有に対するように関係する。しかし一の対自有は他のものの観念性であり、自分にのみ関係する。対自有が存在するものとして固定されると、その否定的な自己関係は存在するものへの関係となり、その他のものは空虚ではなく同様に一である。こうして一は多くの一への成である。
しかしこれは本来の成ではない。一はただ一へ成るだけだからである。一は存在するものであるかぎり、自分自身を自分から突き放す。一の自己への否定的な関係が反発である。この即自的に存在する反発から、すでに存在する一の相互の遠ざけ合いという、外的な反省に浮かぶ第二の反発が区別される。
突き放されたものも同様に存在する一であり、多数の産出は直接に消える。一は互いに対して前提されたものであり、多数性は一に完全に外的な規定として現れて、一の関係は再び空虚となる。一の多数性は一自身の定立でありながら一にとって外的であり、屈託なく自分を生み出す矛盾としての無限性である。
注解 ライプニッツの観念論は、表象するモナドから出発して多数性そのものまでしか進まず、多数性を与えられたものとして受け取って、反発として理解しなかった。原子論は観念性の概念をもたないが、原子を互いのさらなる規定に入らせる点で無関心な多数性を越え出る。モナドの関係は、モナドのモナドか、考察する哲学者にだけ落ちる。
C. 反発と牽引
a. 一の排斥 多くの一の互いへの関係は非関係、外的な空虚である。しかし一自身が、存在する他のものとしての自己への否定的関係である。したがって反発は、反発されるものを直接に前に見いだし、この規定において排除となる。この反発は相互的で、一の有によって制限された相対的な反発である。
一は互いを否定して一のためにのみあるものとして定立し、同時にこの観念性を反発して存在する。こうして排除における対一有は対他有となり、多くの一の対自有は、互いの反発を媒介とした自己保存として現れる。しかしこの自己保存は、むしろその解消である。
一が区別の支えとするはずの即自有は一であることであり、すべてがそうである。自分を一として定立する相互の否定も、すべてのものの同じ規定である。それゆえ一は、ただ一つの肯定的な統一にすぎない。これはわれわれの比較であるが、一の関係そのもののなかでも同じことが定立されている。一は相互の否定を否定するかぎりでのみ存在し、他のものを否定することによってのみ自分のなかへ帰還する。反発自身が関係づけであり、一を排除する一は、自分自身を一に、すなわち自分自身に関係づける。したがって一の否定的なふるまいは、自分との合致にすぎない。多くの一が自分を一つの一に置くこの運動が牽引である。
注解 対自的な一の頂点まで押し進められた自立性は、自分を最高の真理と思いながら自分を破壊する抽象的な自立性であり、具体的には抽象的な自由、純粋な自我、さらに悪として現れる。それは自分の本質を否定的なものと見なしてふるまい、自分の有を獲得しようとしてそれを破壊する。和解とは、そのふるまいが向かう当のものを自分の本質として認め、対自有の否定性を手放すことによってのみある。
一は多であり、多は一である、という古い命題の真理は、命題の静かな統一としてではなく、成として、反発と牽引としてのみ言い表すことができる。多を比較すれば、各々は一であり、他を排除する多のうちの一であるから、それらは端的に同じものである。これが事実であり、悟性がこれに逆らうのは区別が浮かぶからにすぎない。悟性には、区別もまた再び現れてくると言って慰めてやってもよい。
b. 唯一の一の牽引 反発の否定的なふるまいは、一が互いを存在するものとして前提するので無力であり、観念性の当為にすぎない。この観念性は牽引において実現され、多くの一は一つの一へ移行する。牽引は反発を前提とし、反発は牽引に素材を提供し、多数が一点に集められれば不活発な一があるだけで、もはや牽引はない。牽引は反発から分離できない。
牽引する一の他の一に対する優位は、ここでは問題になりえない。牽引そのものが初めて、一として定立された一を定立する。この一つの一は反発を自分の規定として含むので、牽引された一を一点に飲み込まず、多として自分のなかに保ち、充実を得る。それはこうして反発と牽引一般の統一をもつ。
c. 反発と牽引の関係 一と多の区別は、反発と牽引という二つの関係の区別として規定された。両者はさしあたり各々が自立して立つが、本質的に連関している。反発をそれだけで取れば、多くの一を無規定のなかへ散らす無関係にすぎない。しかし反発は否定的ではあっても本質的に関係であり、排除するものは排除されるものとなお結びついている。関係のこの契機が牽引であり、牽引は反発自身のうちにある。
反発が牽引に前提されるだけでなく、反発もまた牽引のうちに自分の前提をもつ。両者は当為と制限として互いに規定され、牽引は反発を通じてのみ牽引であり、反発は牽引を通じてのみ反発である。しかしこの他のものによる媒介は実際にはむしろ否定され、各々は自分自身との媒介である。
相対的な反発は既存の多くの一の遠ざけ合いであるが、多くの一が存在するということが反発そのものであり、反発はただ自分自身に対してふるまう。牽引も、他の一が即自的に観念的であることを前提しており、ただちに自分を前提する。自分を前提することは、各々が他方を契機として含むことである。一は自分の外に出て多として自分を定立し、多は自分のなかに崩れ落ちて一として自分を定立する。定有する一の反発は他の一を否定する点で牽引であり、定有する一の牽引は一の定立として自分の否定的なものをもつ点で反発である。
これによって対自有の展開は完成した。一は否定の否定として無限に自己自身に関係し、自分を多として突き放し、この非有を止揚しつつ関係することで、ただ自己自身への関係である。一はただこの成であり、そこでは始まりとしての直接性も、結果としての排除する一も消えている。こうして自己との合致である成が得られ、この有は、いまや得た規定に従えば量である。
質から量への移行を見渡すなら、質的なものでは限界と規定性が或るものの有と同一であり、その変化とともに或るもの自身が消える。それゆえそれは有限なものであり、区別は他在としてその外に落ちる。この他在は対自有の無限性のなかで止揚され、対自有は自分の区別を一と多とその関係へ実現して、質的なものを、自分と一致するものとして定立された統一へ高めた。この統一は、否定の否定によって媒介された有であり、一として自分のなかへ反省した定有であり、規定性を貫いて自分を連続させる対自有である。一はこうして、有にとって無関心な、限界ではない限界として定立される。
注解 牽引と反発は通常、力と見なされる。そこでは両者は互いへ移行する契機ではなく、他方に対して固くとどまる自立的なものとされ、第三のもの、物質のなかで結びつくと表象される。
カントは物質を反発力と牽引力から構成した。この構成は新しい自然哲学に刺激を与え、なお物理学の哲学的な基礎と見なされているので、詳しく照らすに値する。感性的物質は論理学の対象ではないが、この二つの力にも一と多の純粋な規定が基礎にある。
しかしカントの手続きは構成ではなく、分析的である。彼は物質の表象を前提し、それを保つためにどのような力が必要かを問う。反発は、物質が触覚において不可入的と表象されるので物質の概念のなかで直接に考えられ、牽引は推論によって付け加えられる。これは、現象の規定を知覚し、その説明のために根本素材あるいは力を想定する、経験について反省する認識の手続きである。カントは、牽引力は物質の概念に属するがその中に含まれてはいない、とも言う。しかし概念に属する規定は、その中に含まれていなければならない。
この困難は、カントが物質の概念に一面的に不可入性だけを数えることから生じる。延長と結合も同様に知覚できるのであり、牽引力を導く証明に含まれているのは、単なる反発だけでは物質は空間的でない、ということにすぎない。物質が空間を満たすと前提されることで連続性が帰せられ、その根拠として牽引力が想定されるのである。
それでも、物質を二つの対立する規定を根本力として認識するという基本思想は高く評価されるべきである。カントは、圧力と衝撃のほかに動かす力を認めず物質を不活発なものとする、通俗の力学的な表象様式を追放し、物質の自己外存在を物質そのものの力とした。しかし彼の二つの根本力は、物質の内部で互いに外的で自立的なものにとどまっている。
カントは牽引力を、接触面を越えて直接作用する貫通する力とし、反発力を、接触面においてのみ作用する面の力とする。しかし近い部分と遠い部分を想定するなら、より遠い原子はまず中間の原子の牽引圏に入るのだから、牽引も媒介された作用となる。また、接触する部分とはすでに緻密さと連続性をもつ出来上がった物質であり、そこでは反発力の止揚されてあることが前提されている。しかし接触する部分はなお互いの外にあるかぎりで接触するのだから、反発力は牽引の領域の内部にもある。
さらにカントは、牽引力によって物質は空間を占めるだけで満たしはせず、牽引力は空虚な空間を通して作用できる、とする。しかし最初の規定に従えば、空虚な空間を通して互いに否定的に関係するのは反発である。カントは、反対の力に帰したことを無自覚に牽引力に帰しており、区別を確定しようとするなかで、一方は他方へ移行していた。反発によって物質が空間を満たすとすれば、反発は一の否定的関係を止揚し、それ自身の反対として規定される。
しかもこれらの力は、物質を初めて成立させる力ではなく、出来上がった物質を動かす力として示されている。同じ対立はさらに求心力と遠心力として規定される。しかし一方が増えれば他方が減ると想定して、惑星が中心天体の周りの軌道で見せる不均等な速度を説明しようとすれば、減少すると想定したものをつねに同様に増加すると想定しなければならず、その大きさを分けることはできない。必要なことは、のちに逆比のところで出てくる。
第二部門 大きさ(量) 質は第一の直接的な規定性であり、量は有にとって無関心になった規定性、限界ではない限界である。多くの一の反発は直接に非反発、それらの連続性である。対自的に存在するものは、その他のもののなかへ肯定的に自分を連続させ、その規定性は自分に端的に外的である。限界自身における無関心と、或るものの限界への無関心とが、量的規定性をなす。
純粋量は、まだ規定性をもたない、連続する無限の統一である。次にそれは外的な規定性へ進んで定量となり、無限進行に陥るが、無限な定量は質の回復である。さらに、質的な形式における定量が量的な比であり、比は質と量の形式的な統一として、度量へ移行する。
注解 畑は量的な限界を変えても畑であるが、質的な限界を変えれば草地や森になる。強い赤も弱い赤も赤である。大きさという表現は量ではなく定量を指している。数学は大きさを増やしも減らしもできるものと定義するが、これは定義されるべき規定そのものを用いている。それでもこの表現のうちには、定量がそれ自身の変化に無関心であるという主要な契機がある。
第一章 量
A. 純粋な量 量は止揚された対自有である。反発する一は排除された一との関係へ移行し、その規定を失った。一の絶対的な硬さは牽引の統一のなかに溶け去り、この統一は内在する反発によって自己外存在の統一として規定される。牽引はこうして量における連続性の契機である。
連続性は中断されない、自己に等しい自己への関係であるが、直接的統一ではなく、多数性の互いの外にあることを区別されないものとして含む、対自的に存在する一の統一である。連続性のうちに、大きさは直接に分離性の契機、量のなかでは契機にすぎない反発をもつ。分離性は流れ合う分離性であり、その一は空虚ではなく自分自身の連続性を関係とする。
量はこの二つの契機の統一であるが、さしあたり連続性の形式においてである。突き放されたものは一それ自身であるから、反発は自分を生み出しつつ流れ出すことであり、中断されない連続性であると同時に多数性である。
注解1 純粋量は限界によって制限されず、至るところで一の実在的な可能性であり、一も端的に連続的である。概念を欠いた表象にとって連続性は一の外的な合成になるが、連続性は一自身に属する。連続性の外面性こそ、原子論が行き詰まるところである。数学は、線を点から、面を線から成るとする形而上学を退ける。面を無限に多くの線の総和として表象しても、その分離性は一時的な表象にすぎない。
スピノザはエチカで、量を想像において把握すれば有限で分割可能なものとして、知性によって実体として把握すれば無限で唯一で分割不可能なものとして見いだされると語り、純粋量の概念を念頭に置いていた。純粋量の例は、空間と時間、物質、光、自我である。空間は中断されない絶対的な自己外存在であり、時間は今の産出が直接にその無化である絶対的な自己外出である。ライプニッツには、物質と量が実在的に同一であることはまったく有りえないことではない、という命題があり、両者の違いは、量が純粋な思考規定であり、物質がそれを外的な実存においてもつ点にしかない。自我も、全面的な反発でありながら、感覚や直観の多様な限界によって中断されない単純な連続性にとどまる。
注解2 量の本性、分離性と連続性の統一であることのうちに、空間、時間、物質などの無限分割可能性の二律背反が落ちる。分離性の一面的な主張は不可分なものを原理とし、連続性の一面的な主張は無限の分割可能性を与える。
純粋理性批判の四つの宇宙論的二律背反のうち、第二のものがこの対立にかかわる。カントの二律背反は、以前の形而上学を没落させ、有限性の範疇の空しさを内容の側から示した点で、主観的観念論の形式的な道より正しい。しかしその叙述はゆがめられており、認識が有限な範疇しかもたないことを前提している。まず、範疇表から四つに限ったのは完全性の外観にすぎず、あらゆる概念は対立する契機の統一として、それぞれ特有の二律背反を示しうる。古い懐疑論はそれを示す労を惜しまなかった。次に、カントは二律背反を具体的な宇宙論的規定において捉えたが、その本質をなすのは思考規定だけであるから、世界や物質などの素材なしに純粋に考察すべきであった。
二律背反を理性が必然的に突き当たる矛盾としたのは重要な見解である。しかし先験的観念性による解決は争いを主観的なものにするだけで、争いは未解決のままである。真の解決は、対立する二つの規定が一つの概念に必然的であるから、それぞれ単独では通用せず、概念の統一においてのみ真理をもつ、という点にある。カントの二律背反は、二つの契機の各々を孤立させて断言する主張であり、それがねじれた論議に包まれて証明の外観が作られている。
定立は、世界における各々の合成された実体は単純な部分から成る、というものである。ここでは原子に、連続体よりはるかに劣った規定である合成されたものが対置されている。合成されたものは他のものから成ることを直接の規定とし、その他のものは単純なものであるから、定立は同語反復である。インクがインクから成ると言っても答えにならないのと同じである。
定立の証明は背理法的な回り道をたどる。合成された実体が単純な部分から成らないなら、合成を思考のなかで取り除けば何も残らず、実体は与えられていなかったことになる。証明の要となる理由として括弧のなかに置かれているのは、実体にとって合成はただ偶然的な関係だ、ということである。この理由だけが要点であり、ほかはすべて余計である。合成が偶然的であるなら本質はたしかに単純なものであるが、問題となるこの偶然性は証明されず、通りすがりに自明のこととして想定される。しかも結論では、合成が物のただ外的な状態であることが帰結として挙げられる。結論として現れるべきものが括弧のなかで証明の要になっているのであり、そもそも証明はなく、前提があるだけである。
反定立は、世界には単純なものは何も実存しない、というものである。その証明はこうである。合成は外的関係として空間のなかでのみ可能であり、空間は単純な部分から成らないので、合成されたものの各部分は空間を占め、したがって単純なものも空間を占める。空間を占めるものは合成されているので、単純なものは合成されたものとなり、自己矛盾である。
この証明は誤った手続きの巣全体である。まず、実体は空間的であり空間は単純な部分から成らない、という直接的な主張が根拠とされており、背理法は根拠のない仮象である。次に、合成を外的関係とする命題から始めながら、すぐにそれを忘れる。合成が外的であるなら空間性も実体にとって外的であり、実体は空間のなかに置かれるべきではなかった。さらに、空間が単純な部分から成らないのは空間が直観だからだとされるが、空間も概念把握されなければならず、そうすれば空間も同じ二律背反に陥る。また、ここでは空間の連続性が合成と取り違えられ、推論は四名辞の誤謬に陥る。カント自身、空間の部分はただ制限に基づき、構成要素として空間に先立つのではない、と連続性を正しく述べているのである。
反定立の証明への注では、物体は現象としてのみ概念をもたれ、空間を前提する、とされる。実体のなかに見たり触ったりする物体だけが意味されているなら、証明は短くまとめられたはずである。最良の顕微鏡も最も精巧なメスも単純なものに突き当たらせてくれなかったから、理性もまた単純なものに突き当たろうとすべきではない、というのである。
こうして余計なものを取り除けば、反定立は連続性を、定立は合成の偶然性と実体を絶対的な一とすることを、断言的に想定している。二律背反全体は、量の二つの契機を切り離して直接に主張することに帰着する。しかし連続性は分割の可能性としてあるから、そのうちに原子の契機があり、分離性も、一が互いに同じであるから一の区別を止揚し、連続性を含んでいる。各々が他方を含み、他方とともにのみ思考できるのだから、どちらも単独では真理をもたず、両者の統一だけが真理をもつ。これが真の弁証法的考察であり、真の結果である。
考察したカントの二律背反よりはるかに深いのは、エレア学派の、とくに運動に関する弁証法的な例である。それらは量の概念に基づいて、あらゆる規定された有の自己解消を示し、それ自身においてヘラクレイトスの流れである。運動の矛盾を示されて黙って行ったり来たりしたディオゲネスのような反駁は、思想のもつれを思想によって解消するよりもたやすい。アリストテレスは、無限の分割可能性に対して時間と空間に及ぶ連続性を対置し、抽象的な多数性はただ可能性に従って連続性のうちに含まれているとした。ベールは、無限に分割可能な物質は現実に無限の数の部分を含むと答えてこの解決をあわれむべきものと見たが、分割可能性は可能性にすぎず、部分の実存ではない。カントの解決も、理性は感性的知覚を飛び越えてはならない、という点にのみあり、規定の各々が孤立させられれば無であり、量の統一のうちにのみ真理をもつ、という概念の本性に達していない。
B. 連続的な大きさと離散的な大きさ 量は連続性と分離性の二つの契機を含み、その両方において定立されなければならない。量はまず連続性においてのみ定立された直接的な統一であり、連続量である。しかし量はそもそも直接性の止揚されてあることであるから、それに内在する規定性、一において定立され、分離量となる。分離量は原子と空虚の再現ではなく、量であるからその分離性自身が連続的であり、一つの統一の多として定立されている。
注解 通常の表象では、連続量と分離量の各々が両方の契機をもち、区別はどちらが定立されているかにのみある、ということが見過ごされている。空間や時間は連続量であるが、一の原理をそれ自身のうちに含み、一があらゆる場所で定立されうる。それは、この石の場所に木が立つことも可能だ、という空虚な可能性ではない。両者は量の種であるが、外的な区分根拠によってではなく、量自身の契機によって区別される。
C. 量の限定 分離量は、一を原理とし、その多数性であり、本質的に連続的であるから、一つの大きさとして定立される。その一は統一における限界であり、包み込み取り囲む限界である。しかし限界づけられたものは連続性として限界を越え出るので、限界に無関心である。分離量はこうして定量であり、連続量と分離量の区別はここで無関心となって、両者は定量へ移行する。
第二章 定量 定量は、まず限界をもつ量であり、完全な規定性においては数である。次に外延的定量と内包的定量すなわち度に区別され、最後に、規定性を自分の外にもつ矛盾として量的無限性へ移行する。
A. 数 量は定量であり、限界をもつ。量は止揚された対自有として限界に無関心であるが、それゆえにこそ、限界をもつこと、定量であることにも無関心ではない。量は絶対的な被規定有である一を自分の契機として含み、この一は量の連続性における限界として定立されつつ、なお一として残るからである。この量の一が定量の原理である。それはまず連続的であり、統一である。次に分離的であり、一の多数性である。さらに単純な限界として多くの一の否定であり、自分の他在を排除する、他の定量に対する規定である。これらの規定において完全に定立された定量が数である。
数においては、限界はそれ自身のうちで多様なものとして定立されている。限界は多くの一を包み込み、他の多を排除する。包み込まれた一が個数であり、これに対する他方の契機が統一、すなわち連続性である。個数と統一が数の契機をなす。しかし限界は多くの一に無関心ではない。定有において、限界は外側の縁にあるように見えながら定有を貫いていたのと同じく、百においては百番目の一だけが多を限界づけると表象されるが、百の一はどれも等しく、どれも同じように百番目である。すべてが百という数をなす限界に属し、どれ一つ欠くことができない。個数は限界づける一に対立する多数性ではなく、それ自身が限界づけをなすのである。
限界づける一は、いまや他の数からの区別である。しかしこの区別は質的にはならず、比較する外的反省に落ちる。数は一として自分に帰り、他のものに無関心である。この無関心が数の即自的被規定有であり、同時に数自身の外面性である。しかも数は統一と個数の区別を自分のうちにもち、個数は一の多数性として、絶対的な外面性を自分自身のうちにもつ。数すなわち定量一般の、自分のうちのこの矛盾が定量の質であり、そのさらなる規定のなかでこの矛盾が展開される。
注解1 空間の大きさと数の大きさは、通常、連続性と分離性によって区別される同じ段階の二つの種と考えられる。しかし限界づけの完全性は等しくない。空間の大きさは限界づけ一般しかもたず、端的に規定された定量であるには数を必要とする。幾何学は測るのではなく比較するのであり、円は中心からの距離の等しさにのみ基づくので数を要しないが、三角形や四角形には数が必要である。点は空間の一であるが、線となるとき連続性となって一は止揚される。対自的被規定有がそこで保たれるべきであるならば、線の大きさは数として取られなければならない。
算術は数を考察するのではなく、数を用いて操作する。数は無関心で不活発な規定性であり、外から関係させられなければならない。この関係させるしかたが計算の種類であり、その体系的な編成は数自身の概念規定から導かれる。数は一を原理とするので外的に総括されたものであり、すべての計算は数の産出、足し数えることである。数の質的な違いは統一と個数であり、定量としての数に属する違いは等しさと等しくなさである。
最初の産出は、各々がただ一として定立された多を総括すること、番号をつけることである。一は互いに外的なので、指や点で数えられる。どの個数を統一として取るかの任意性が、二進法、十進法などの体系を基礎づける。番号をつけて生じた互いに等しくない数を再び番号づけるのが加算であり、その結果は暗記される。そこには内的なものが何もないからである。
カントは7+5=12を綜合命題と見なした。七と五の和の概念をどれほど分解しても十二は見いだせず、直観に与えられた五の単位を七の概念に付け加えなければならない、というのである。しかし和の概念とは、二つの数が概念を欠いたしかたで総括されるべきだという抽象的規定にすぎない。七もまた概念ではなく、越え出るべき概念はない。七から五が尽きるまで番号をつけることは綜合と呼びうるが、その綜合はまったく分析的な本性のものである。連関はまったく作られたものであり、外的に目の前にあるもの以外を含まないからである。
純粋幾何学の原則の綜合性についても同じである。カントは、直線の概念は質だけを含み、二点間の最短という大きさは直観によってのみ付け加わると言う。しかし直線はすでに直観された空間的なものであり、その規定は端的に自分のうちで単純な方向であるということにある。線は空間的なものとして量一般であり、単純なものは定量については最少、線については最短であるから、この質から最短への移行は分析的にすぎない。カントが先験的綜合判断において立てた概念、すなわち区別されたものが分離できず、同一的なものがそれ自身において分かたれない区別であるという概念は、彼の哲学の偉大で不滅なものに属する。しかしあれらの例はそれを示していない。数と数えることは、ただ外的で表面的な綜合でしかない同一性だからである。
加算に対応する減算は、同様にまったく分析的な数の分離である。次の規定は、番号をつけられる数の等しさであり、それによって統一と個数の区別が現れる。乗算は、それ自身個数である統一をある個数だけ足し合わせることであり、除算はその否定的な計算の種類である。どちらを統一とし、どちらを個数とするかは無関心である。さらに統一と個数そのものが等しくなるとき、規定の等しさへの進行が完成する。これが累乗、とりわけ平方であり、否定的には開方である。数の概念にはそれ以上の区別はない。高次の累乗は、偶数の指数では平方の形式的な繰り返しであり、奇数の指数では再び不等が現れる。それゆえ高次方程式の解法は二次式への還元にあるはずであり、それは他の幾何学的図形が、ピタゴラスの定理に示される直角三角形の被規定有に還元されるのと同じである。
この計算の種類の規定は概念の内在的展開ではない。しかし本性上自分に外的な素材では、概念の進行も外的なしかたでしか行われず、その契機も等しさと等しくなさのような外面性の形式でしかありえない。概念の形式が実存として現れる領域を区別することは、外的で偶然的なものを理念によって乱さず、理念を素材の不適合によって歪めないための本質的な要請である。数という外的な素材では、この外面性こそが適切な形式である。
注解2 ピタゴラスは理性的な関係あるいは哲学的命題を数で表した。この扱いがどこまで正しいかは、数の概念から明らかになる。数は量の絶対的な規定性であるが、その要素は無関心になった区別であり、まったく外的に定立されたものである。算術は概念把握する思考の課題を含まないだけでなく、その反対物であり、思考はそこで必然性をもちえないものを結びつける、自分自身の極端な疎外である活動のうちにある。数は外面性そのものの抽象的な思想であり、感性的なものを思想に最も近づける。数は思想自身の自己疎外の純粋な思想である。
感性的世界を越えてその本質を表現する要素を探す精神は、純粋に精神的な表現を獲得する前に、数を選ぶことに行き着きうる。これは普遍的なものを感性的なものにまとわりつかれたまま捉える不完全さの最後の段階である。カディスのモデラトスは、ピタゴラス学派が数に行き着いたのは第一原理を理性において明確に捉える力をもたなかったからであり、図形によってその思想を表象させる幾何学者を模倣したのだと言う。これらの古人は数の形式が思想規定に不十分であることを正しく見抜いていた。無限大、無限小などの数学的形式主義を思想規定の代わりに置き、あの幼年期に戻ることを深いと考える今日の人々より、彼らははるかに深く思索を進めていた。
最も生き生きとして、関係づけにおいてのみ把握される具体的な思想は、互いの外にあることという数の要素に置かれると、死んだ動かない規定になる。概念は運動によってのみ概念であるが、一は無関係なものとして反対のものへの移行を拒む。一が三であり三が一であると把握することが難しいのはそのためである。悟性は逆にこれを三位一体の教えに示された思弁的真理に向け、その規定を数えて不条理とする。こうして悟性自身が、端的に関係であるものを無関係なものにするという不条理を犯すのである。象徴では真理は感性的な要素に覆われており、真理が意識に明らかになるのは思想の形式においてのみである。意味とは思想そのものにほかならない。しかし、哲学の方法や内容を規定するために数学の範疇を持ち出すのは転倒したことである。数学の公式が思想の区別を意味するかぎり、その意味はまず哲学のなかで示され、正当化されなければならないからである。哲学は、論理的なものを数学からではなく論理学から取らなければならない。
数と計算が教育の主要な基礎とされるとき、それが何を意味するかもここから明らかである。数を扱う営みは非感性的な仕事として、精神を内的な抽象的労働へと促す。しかしその基礎にあるのは外的で思想のない区別なので、仕事は機械的になり、内容は空虚な一である。算術的操作を遂行する機械が作られえたほどに計算は外的な仕事であり、これを精神の主要な陶冶手段とすることは、精神を機械に完成させる拷問にかけることである。
B. 外延量と内包量
a. 両者の区別 定量は、その規定性を限界として個数にもつ。それは自分のうちで分離的な多であり、限界を自分の外にもたない。このように自分自身において多様な限界をもつ定量が外延量である。外延量に直接に対立するのは分離量ではなく内包量である。外延量と内包量は量的な限界そのものの規定性であり、連続量と分離量は限界を捨象した量そのものの規定だからである。
しかし数による大きさの規定性は、他の大きなものとの区別を必要としない。限界の多は多一般と同じく連続的であり、それだけで単純な統一に崩れ落ちる。多数性をなした一の外面性は、数の自己関係としての一のなかに消える。こうして限界は単純な規定性へ移行し、定量は内包量、すなわち度となる。10度、20度とは、個数十、二十の総和ではなく、ただ一つの第十度、第二十度であり、止揚された個数としての単純な規定性である。
度は自分のうちで単純であるので、外的な他在を自分の外にもち、自分の規定性としてそれに関係する。ここにおいて定量はその概念に適合した実在性をもつ。各々の度は自己関係でありながら、他の度との関係にその規定性をもつ。そのため度の上昇と下降は、中断されない連続的な変化となる。度の自己関係は同時に外的なものへの無関心でない関係であり、そこに度の質がある。
b. 外延的な大きさと内包的な大きさの同一性 度は一と多数性の同一性という関係においてのみ規定されている。それゆえ度は個数を含む。外延量としての二十が二十の一を分離的に含むように、第二十度は二十を連続性として含み、自分の外にあるこの個数を介してのみ第二十度である。内包量はまず単純な規定性として他の度を排除し、次に自分自身の個数において規定されている。その規定性が本質的に個数であるかぎり、内包量は外延量である。
外延量と内包量は、したがって定量の一つの同じ規定性であり、一方が個数を内部に、他方が外にもつ点でのみ区別される。この同一性とともに質的な或るものが現れる。この同一性は、区別の否定を通じて自己に関係する統一だからである。これまで定量や数については基体となる或るものなしに語ることができた。しかしいまや或るものは、その否定を通じて自己と媒介されて、外延的定量と内包的定量をもつ同一のものとして、それらの規定に対して無関心に定有する。
注解1 通常の表象では、外延量と内包量は大きさの種として区別され、哲学的自然科学は、密度を物質部分の個数としてではなく空間を満たす力の度として捉えようとした。しかし力とその発現の関係は全体と部分の関係より真であるとしても、発現、すなわち外延的なものは力から分離できない。あらゆる定有は、その大きさ規定を外延的定量としても内包的定量としても示す。数そのものが、個数としては外延量であり、第十、第百としては内包量である。質量は重さとしてはポンドの個数をなして外延的に大きく、一定の圧力を及ぼすものとしては内包的に大きい。熱の度は単純な感覚であるが、寒暖計の水銀の膨張として外延量として存在する。精神的なものでも、性格や才能の高い強度は広がった作用をもち、最も深い概念は最も普遍的な意味と適用をもつ。
注解2 カントは誤謬推理の批判において内包的定量の規定性を魂に適用した。魂は外延的大きさをもたないとしても実在性の度をもち、その度は無限に多くのより小さい度を通って減少し、力の漸次的な弛緩によって無へと変わりうる、というのである。合理的心理学では魂は直接に有るもの、魂物として考察されるので、カントにはこの範疇を適用する権利がある。しかし精神に属する有は、直接的な有の形式とその範疇がすべて止揚されている強度である。外延的定量の範疇だけでなく、定量一般の範疇を除去しなければならなかったのである。
c. 定量の変化 定量は単純な自己関係する規定性でありながら、自分自身の否定であり、その規定性を別の定量にもつという矛盾として定立されている。したがって定量は変わらなければならない。その限界は有る限界ではなく成る限界である。一が自分から反発したように定量も自分から反発するが、自己に等しいものではなく自分の他在を生み出す。こうして生じた限界は再び自分を止揚して次の限界へ送り出し、このようにして無限に続く。
C. 量的無限性
a. その概念 定量は変化して別の定量となる。この他のものは定量であるが、同時に定量そのものの他のもの、その限界のなさ、無限性である。定量は当為である。こうして有限性と無限性はそれぞれ二重の意味を得る。他のもののなかに自分の規定をもつという定量の有限性は、同時に無限なものの規定であり、限界に無関心な対自有という無限性の契機は、定量自身のあり方である。質的な有限と無限は抽象的に対立し、その統一は内的な関係にとどまる。これに対して量的な有限は、それ自身において自分の無限に関係する。この関係をまず表すのが量的な無限進行である。
b. 量的な無限進行 無限への進行は、定量が含む矛盾の表現であって、その解決ではない。定量のかなたは、まず定量の非有であり、定量はこのかなたに自分の無限性として関係する。次に、定量はこのかなたと連続しているので、かなたもまた定量である。かなたはこうして呼び戻され、無限が達成されるが、それは新たな限界にすぎず、この限界もまた自分を越えてかなたへ逃れる。この連続が無限大と無限小をもたらす。しかし大きなものはどれほど拡大されても無限に対して取るに足りないものへ縮み、拡大は無限への接近ではない。定量と無限性の区別は量的でない区別だからである。無限大も無限小も、定量でありながら定量でないはずのものであり、両者において矛盾は保たれたままである。
有限なもののかなたとして固定されたこの無限性は、悪しき量的無限性である。それは限界からその非有へ、そこから再び限界へと永続的に行き来し、定立し止揚し再び定立する同じものの繰り返しであって、否定的なものの無力である。両者は互いに逃れ合いつつ、その逃走において結びついている。
注解1 悪無限は、量的なものの無限進行という形式で崇高なものと見なされ、哲学でも究極のものとされてきた。しかしこの近代的崇高さは対象ではなく主観を大きくするだけである。カントは実践理性批判の結語で、星々を越えた星々、世界を越えた世界へと結びつきを広げる高まりを崇高と呼び、思想はこの測り知れないものの表象に屈し、果てしない廊下を歩く夢が転落やめまいで終わるようだと言う。この叙述は高まりの結末を述べる真実性において称賛に値する。思想を屈させるのは繰り返しの退屈であり、この無限は当為の無力の感情を与えるだけである。ハラーも、時間の上に時間を、世界の上に世界を積み重ねる永遠の描写を、この空虚な越え出ることを捨てることによってはじめて真の無限が彼の前に現前する、と結んでいる。天文学が賛嘆に値するのも、量的無限性のゆえではなく、理性がその対象に認識する度量関係と法則のゆえであり、これこそが非理性的な無限性に対する理性的な無限である。
カントはこれに、自我が見えない自分に帰り、意志の絶対的な自由によって世界のうえの世界を崩れ落ちさせ、孤独に自分を自分自身に等しいと認識する、もう一つの無限性を対置する。この自我はたしかに到達されたかなたである。しかし純粋な自我がその抽象と内容のなさのうちに固定されるとき、自然的・精神的宇宙の充実をかなたとして自分の向かいにもち、同じ矛盾が現れて、その関係は憧れにとどまる。
しかし無限進行が究極のものとされたのは、とくに道徳性においてである。自我が自分の他のものである自然に関係するとき、その関係は量的になり、道徳性はたえず大きく、感性の力はたえず小さくなるべきだと表象される。意志の道徳法則への完全な適合は、絶対に到達できないかなたとして無限の進行に移され、到達できないことこそが慰めとされる。道徳性は闘争としてあるべきだからである。ここでは純粋意志と自然は自立的で互いに無関心なものと前提されつつ、同時に一つの単純な本質である自我の契機である。その矛盾は解決されず、解決不可能なものとして主張される。有限と無限の質的対立を克服し、実体的自由を把握する力のなさが、無関心になった区別である大きさに逃げ込むのである。しかし対立の二項は質的に異なるものとして基礎にとどまるので、意志が自然にもたらす変化は、自然をそのままにとどめる量的な区別にすぎない。フィヒテの知識学でも、自我=自我に非我が対置され、両者の関係は非我が一部は自我によって規定され一部はそうでないという量的区別として想定される。そのため結果は始まりと同じ関係であり、自我と非我との最後の関係は憧れと努力である。
あらゆる対立はただ量的であるというのは、しばらく近代哲学の主要命題であった。しかし異なる素材あるいは活動が前提されるかぎり、量的な区別は、それらの外面性と無関心をむしろ完成する。量的なものは止揚された直接的規定性であるが、最初の否定にすぎず、否定の否定ではない。有と思考が絶対的実体の量的規定として表象されるなら、それらも炭素や窒素のように外的で関係のないものになり、その統一を認識するのは外的反省である。定立された無限性、対自有は質的な対立においてのみ生じ、量的規定そのものも質的なものへ移行する。
注解2 カントの四つの宇宙論的二律背反の最初のものでは、世界が時間と空間において限界づけられているか否かという量的な限界が争われる。その定立と反定立は、限界がある、そして限界を越えて進まなければならない、という二つの単純な主張に帰着する。定立は、世界は時間において始まりをもつというものであり、その証明は、始まりがなければ与えられたいかなる時点までにも無限の系列が経過したことになるが、無限の系列は継時的綜合によって完成されえない、とする。しかし与えられた時点とは時間の規定された限界にほかならず、証明は証明されるべき限界を前提している。今がただ量的な、自分を越え出る限界であるなら、無限の系列は経過したのではなく流れ続けていることになる。今が質的な限界であるなら、それは同時に未来の絶対的な始まりであり、それこそが証明されるべきことであった。真実には、時間は純粋な量であり、時点は今の自己を止揚する対自有にすぎない。
反定立は、世界は始まりをもたず空間における限界ももたないというものであり、その証明は、始まりの前の空虚な時間のなかではどんな物の発生も可能でない、とする。しかしこの証明は、世界的定有のかなたに空虚な時間を想定しながら、世界的定有をそのなかへ連続させ、定有を無限に続けている。世界的定有が常に先行する条件を要求するという想定は、反定立の主張そのものである。空間についても、世界が空虚な空間に関係をもつと直接に想定され、空間が同時に空虚であり充実しているという矛盾が証明の基礎に置かれている。定立と反定立は、限界がある、そして限界はただ止揚されたものにすぎない、という対立する主張以外の何ものも含んでいない。
これらの二律背反の解決は先験的であり、空間と時間が直観の形式として観念性をもつと主張することにある。世界はそれ自身においては矛盾せず、意識だけが自己矛盾する存在である、というのである。世界から矛盾を取り除いて精神に移し、そこに未解決のまま存続させるのは、世界に対する優しすぎる配慮である。矛盾に耐えうるほど強く、またそれを解決するすべを知るのは精神である。しかしいわゆる世界も矛盾を欠いてはいない。ただそれに耐えることができず、それゆえ生成と消滅に委ねられている。
c. 定量の無限性 無限大あるいは無限小としての無限な定量は、それ自身即自的に無限進行である。それは定量であると同時に定量の非有であり、それゆえ無限大と無限小は表象の像、空しい霧と影である。しかし無限進行ではこの矛盾が明示的にあり、それによって、内包量として実在性に達した定量の本性が、その定有において、その概念においてあるとおりに定立されている。
度としての定量は単純で自己に関係しているので、規定性は定量に外的であり、定量はその規定性を自分の外にもつ。この自己外有は、まず抽象的な非有、悪無限である。しかしこの非有もまた大きなものであり、定量は自分の非有のなかへ連続する。こうしてかなたは止揚され、それ自身定量として規定され、定量はその否定のなかで自分自身のもとにある。ところがこれこそ、定量が即自的にそれであるものである。定量はまさに外的であることによってそれ自身だからである。それゆえ無限進行のなかに定量の概念が定立されている。そこには定量の止揚と同様にそのかなたの止揚、すなわち否定とともに否定の否定があり、その真理は両者が契機としてある統一である。通例考察されるのは、どの定量も消えて越えられなければならないことだけであり、かなた、悪無限そのものもまた消えることは考察されない。
定量は止揚された質的限界として、即自的にはすでに否定の止揚である。しかしそれはただ即自的にであり、定量は定有として此岸に立ち、その否定はかなたとして固定される。こうして無限はまず最初の否定としてだけ現れる。しかし無限進行には否定の否定、無限が真にそれであるものがあり、それによって定量の概念が回復される。概念に従って規定された定量では、外面性が大きさそのものの契機として定立されている。最も近い規定は、定量が質へ帰ったことである。定量はその外面性のなかでむしろ自分自身であり、自分に関係しているからである。この自己関係は否定の否定から生じたので、それは対自有であり、定量は対自的被規定有をもはや自分の外にではなく自分自身にもつ。
無限進行で到達されないかなたにすぎなかった無限なものは、実際には質にほかならない。定量が自分を越えて無限へ出てゆくとき求めているのは質的契機であり、これはそのようにしてはただ当為にすぎない。定量は止揚された質であるが、自分を越え出てゆくことは即自的には否定された質の否定、質の回復であり、かなたとして現れた外面性が定量の固有の契機であることが定立されている。
こうして定量は自分自身から反発されたものとして二つの定量となるが、それらは止揚されて一つの統一の契機としてあり、この統一が定量の規定性である。外面性において無関心な限界として自己に関係し、それゆえ質的に定立された定量が、量的比である。比において各々の定量は他のものへの関係においてのみ通用し、定量は外面性のなかで自己に帰っている。
注解1 数学的無限の概念規定性 数学的無限は、その大きな結果によって興味深いが、数学がその使用を概念によって正当化することにまだ成功していない点でも注目に値する。正当化は他の理由から証明されている結果の正しさに基づき、操作そのものは不正確と認められている。数学は自分の道具の形而上学と批判を済ませていないので、適用の範囲を規定できない。しかし哲学的に見れば、数学的無限は実際には真の無限の概念を基礎にもち、それに異議を唱える通常の形而上学的無限よりはるかに高い。
無限の方法において、数学は自分の固有の方法そのもののうちに主要な矛盾を見いだす。無限の計算は、有限な大きさの操作では退けるべき手続きを要求し、しかも無限な大きさを有限な定量のように扱う。有限な大きさを無限小だけ増やし、後の操作でそれを一部は保ち一部は無視するのである。結果は完全に正確であるが、操作は、零ではないが取るに足りないものという表象を必要とする。ところが数学的規定性においては、より大きいか小さいかの正確さの違いはまったくない。それは哲学で確からしさの程度ではなく真理だけが問題になるのと同じである。成功による正当化があっても、その正当化を求めることは、鼻を使う権利の証明を問うほどに余計ではない。数学的認識は本質的に証明を問題とするからである。
数学的無限の通常の規定は、無限大はそれより大きなものがなく、無限小はそれより小さなものがない大きさである、というものである。ここには無限進行と同じ矛盾しかない。しかし数学では大きさは増減できるものと定義されるのだから、もはや増減できない無限大や無限小は、実際には定量ではない。この帰結は必然的であるが、通例考察されず、それが困難をなす。無限な定量は、定量ではないがその量的規定性は残るものとして考えなければならないからである。
カントは、この規定が無限の全体の理解と一致しないとする。無限の全体ではそれがどれだけ大きいかは表象されず、任意の単位に対する関係だけが考えられている、というのである。カントが非難するのは、無限が最大として、単位の完成した多量と見なされることである。そのように定量として表象された無限には、より大きな無限やより小さな無限という帰結が避けられない。しかしこの批判は、もはや有限な定量ではない真の数学的無限、無限の差には当たらない。カント自身の先験的な無限性の概念、すなわち単位の継時的綜合はけっして完成されえない、というものは、無限への進行を主観的に表象したものにすぎない。大きさの矛盾は解かれず、客観には限界づけられていることが、主観には悪無限へ出てゆくことが配分されるだけである。
これに対して、高等解析で用いられる数学的無限の規定は真の無限の概念に対応する。真の無限な定量は、有限な定量とそのかなたである悪無限とが同じように止揚されているときに成り立つ。それは外面性とその否定とを自分自身にもち、もはや有限な定量ではなく、単純であり、ただ契機としてある。それは質的形式における大きさ規定性であり、その他のものとの関係においてのみ意味をもち、この関係の外では零である。
この概念が数学的無限の基礎にあることは、定量を比の契機として表す段階をたどるとき明らかになる。分数 2⁄7 では、2 と 7 は互いに対する規定性に従ってのみ通用し、代わりに 4 と 14、6 と 21 などを無限に置くことができる。それによってそれらは質的な性格をもちはじめる。しかし 2 と 7 は比から取り出せば通常の定量であり、比のなかにあることはそれらに外的である。一般算術の a⁄b も、文字がなんらかの有限な定量を意味するかぎり同様である。
比のなかにあるものは、定量であると同時に質的な対立を自分にもつ。この二つの規定が展開されると、分数 2⁄7 は 0.285714…と、1⁄(1−a) は 1 + a + a2 + a3 …と表される。無限級数は分数を比としてではなく個数として示すので、分数が無限性を自分にもっていた面は消え、代わりに級数そのものが無限となる。この無限は進行の悪無限である。質的なものを個数として示すことは解消しない矛盾であり、級数は常に当為にとどまり、取り除けないかなたを伴うからである。
級数が無限であるのは、その項が不完全であり、本質的に属する他のものがそのかなたにあるからである。これに対して和あるいは有限な表現と呼ばれるものには欠陥がなく、かなたは逃走から呼び戻されている。無限級数では否定的なものは項の外にあるが、比では否定的なものは両辺の互いによる被規定有として内在し、否定の否定である。したがって、和と呼ばれる 2⁄7 や 1⁄(1−a) こそが真に無限な表現であり、無限級数のほうが真には和であって、欠陥のある有限な表現である。無限という語が無限級数でも何か高く尊いものだと考えられるのは悟性の迷信であり、それはむしろ欠陥の規定に帰着する。同じ転倒は、悪無限である形而上学的無限が絶対的と呼ばれ、真の無限が相対的と呼ばれることにもある。形而上学的無限の否定は、外に存続する限界との対立のなかにのみあるので、それこそ相対的であり、数学的無限は、そのかなたと合一されて有限な限界を真に自分のうちで止揚している。
この意味で、スピノザは真の無限を悪無限に対して立てる。彼は無限をある本性の実存の絶対的肯定と定義し、有限を規定性、否定と定義する。ただし無限性は、直接的な肯定ではなく、否定的なものの否定として回復された肯定であり、スピノザの実体の硬直した統一には、自己の否定的統一、主観性の概念はまだない。彼の例は、一方が他方の内側にあって接触せず同心でもない二つの不等な円の間の空間である。この空間の不等性が無限であるのは、部分の無限の多量によるのではない。その大きさは限界づけられており、より大きくも小さくもできる。そうではなく、ものの本性があらゆる規定性を越えるからである。スピノザは級数の無限を想像の無限と呼び、自己自身への関係としての無限を現実態の無限、infinitum actu と呼ぶ。それは自分のうちで完成されて現在的であるがゆえに、actu、現実に無限なのである。2⁄7 や 1⁄(1−a) も、その空間と同じく大きくも小さくもできる有限な大きさであるが、それによってより大きいまたは小さい無限という不条理は生じない。全体の定量は、その契機の比、ものの本性には関係しないからである。
スピノザの例にある通約不可能性は曲線の関数を含み、変量の関数において導入された真の数学的無限にさらに近づく。この変量は、2⁄7 の 2 と 7 や a⁄b の a と b のように、代わりに任意の数を置きうるという意味でのみ変化するのではない。関数 y²⁄x = p では、規定された商をもつのは x と y ではなく x と y² であり、その比は定量としては端的に変化する。大きさの累乗に対する比は本質的に質的な比であり、累乗関係こそが根本規定である。直線の関数 y = ax は形式的にのみ変量の関数である。問題が変量そのものではなく累乗規定であると認識されていたなら、多くの形式主義は省かれたであろう。
数学的無限がその固有性において現れるのは、いわゆる無限小の差においてである。dx、dy はもはや定量ではなく、その関係においてのみ、ただ契機としての意味をもつ。それらは有限な差ではないが、無でもなく、規定を欠いた零でもない。関係の外では純粋な零であり、微分係数 dx⁄dy の規定としてのみ取られるべきである。ここで定量は真に質的な定有へと完成され、定量一般として止揚されているが、量的規定性はその原理として残る。
微分積分の根本規定へのすべての攻撃はこの概念に向けられてきた。しかし無限の数学は、空間と数の規定をその反対のものとの同一に置き、曲線を直線に、円を多角形にするのだから、概念を避けて通ることができず、その正当化は概念のなかにのみある。有と無の間に中間状態はない、という異論については、すでに成の範疇で述べた。この中間と統一、消滅あるいは成こそが、両者の真理である。無限なものは比較できないので無限の秩序や位階はありえない、という異論は、ここで問題なのが定量だという表象に基づく。しかし比のなかにのみあるものは定量ではなく、比較、比の契機としてのみある。
ニュートンほど思想を正しく規定した者はない。彼が意味するのは不可分なものではなく消えてゆく可分なものであり、部分の和と比ではなく、和と比の限界である。消えてゆく大きさの最後の比とは、それらが消える前の比でも後の比でもなく、消えるその時の比である。これは、無限な大きさが定量の自己内反省から生じたものに対応する。大きさの比の限界とは、比が有りかつ有らぬところ、定量は消えるが比が質的な量的比として保たれるところである。ニュートンは、最後の比から最後の大きさ、不可分なものを結論してはならないと付け加える。それは関係を欠いた一への飛躍になるからである。しかし規定が純粋に比の契機の概念にまで形成されていたなら、無限への進行を表すにすぎない限界なき減少も必要なかったであろう。
連続性の法則によって消えてゆく大きさは由来した比をなお保つ、というカルノーの表現も、無限進行の連続性を意味しないかぎり、事柄の真の本性を表している。真の無限への移行では比こそが連続的であり、移行は、比の辺が関係の外でもなお定量であるという規定を消えさせることにのみある。量的比のこの純化は、経験的な定有が概念把握されるときと同じことである。
ニュートンは、増分を一定の大きさの小部分ではなく、有限な大きさの生じつつある原理あるいは始まり、モメントとして捉える。定量はここで、成ったものとしての自分と、その原理、概念における自分とに区別され、後者では無限な増分はただ契機である。しかし増分、x が dx だけ増えることなどの表象は、直接的な定量の範疇に落ちており、質的な量的契機を純粋に取り出すことへの変わらぬ障害である。
はるかに劣るのは、無限小は有限な大きさに対して、高次のものは低次のものに対して無視されるという表象である。ライプニッツではこの無視の要求が目立ち、ヴォルフはそれを、山の高さを測るあいだに風が山頂から砂粒を一つ吹き飛ばしても正確さは減らない、という感性的表象で分かりやすくしようとした。すべての幾何学者はこの表象を退けた。不正確な手続きから絶対に正確な結果は生じえないからである。しかし手続きそのものは取るに足りなさによる無視を必要とする。この不条理を取り除くことが解析学者の困難である。
オイラーは、無限の差はまったく零として考察されなければならないと言う。無限の差は定量の零であり、質的な零ではなく、比の純粋な契機である。それゆえまず、それを増分や差という算術的で外的な操作の言葉で言い表すのは不適切である。次に、それが零であり比だけが考察されると言えば、零はもはや規定性をもたないという不適切さが目立つ。悟性は、比の項が定量として零であるという否定的な面を越えて、それらを質的な契機として肯定的に捉えなければならない。オイラーは 2 : 1 = 0 : 0 によって零の比を基礎づけようとするが、2 : 1 が定量の比であることによって、それには 0 : 0 は対応しない。
こうして真の無限の概念はたしかにあるが、その規定性において捉えられていないので、操作に進むと有限な量的規定性が帰ってくる。計算は無限な大きさを一瞬有限な大きさとして扱い、その後で定量としてそれを無視することを、自ら正当化しなければならない。近代の努力は古人の証明の厳密さを求めたが、無限の解析は、その原理が有限な数学の原理より高いので、あの種の明証性を放棄しなければならなかった。ランデンの方法は、無限小を用いずに変量の異なる値を導入し、のちにそれらを等しいとおくが、それは微分計算とは別の領域に属し、導関数の元の関数に対する比という固有のものは取り出されていない。ライプニッツ、オイラーらは、無限の差の積や高次の累乗を相対的に消えるという理由で省いてよいと信じ、特性三角形の弧を接線の一部と見なした。有限な大きさにのみ通用する手続きが無限と呼ばれる契機に適用されるので、困難は残る。
ニュートンは積の微分を求めるのに、x と y を無限の差の半分だけ小さく取った積と大きく取った積との差 y dx + x dy を xy の微分とし、dxdy を自ずから消えさせた。しかし (x + dx⁄2) (y + dy⁄2) − (x − dx⁄2) (y − dy⁄2) が (x + dx) (y + dy) − x y に等しいというのは不正確であり、流率計算を基礎づける必要だけが、彼にこのような証明の欺瞞を許させえたのである。ニュートンが本質的な高次の累乗を省いて誤りに陥ったのも、ラグランジュによれば、項をその相対的な小ささのゆえに省くという形式的な原理に従ったからである。力学では展開された級数の項は速度、加速する力、抵抗に関係づけられ、和の部分ではなく概念の全体の質的契機と見なされる。ニュートンの誤りは、級数の項を和の部分として含めたことにではなく、問題となる質的規定を含む項を考慮しなかったことにある。
原理の質的意味が示され、操作がそれに依存させられていたなら、困難はすべて除かれていたであろう。x の n 乗の微分は、(x + dx) の n 乗の展開の第一項によって完全に尽くされる。他の項が考慮されないのは相対的な小ささによるのではなく、問題が和ではなく比だからである。高次の微分もこの比の繰り返しであり、級数の形式とその和を求めることは比の関心から完全に分離されなければならない。カルノーは、結果が正しくなるという事実と計算の単純化によって方法を正当化する。ラグランジュは級数の方法を再び採用したが、そこでも省かれる項は和を構成するという観点でのみ考慮され、省く理由は定量の相対性に置かれ、項が大きさにおいてではなく質において取るに足りないという観点には連れ戻されていない。
無限小の質的な性格は、比の限界の範疇に最も直接に見いだされる。dx と dy は dy⁄dx の契機としてのみ取られ、dy⁄dx 自体が唯一の分割できない記号と見なされるべきだからである。しかし限界の範疇だけでは、この規定的な意味から一歩も先へ進まず、与えられた関数の扱いにも入り込まない。y = fx として y が y + k になるとき、k⁄h = p + qh + rh² … となり、k と h が消えるとき p が比の限界とされる。ここで h は定量として 0 とされるが、k⁄h は 0⁄0 にならず比であり続けるべきだとされる。限界の表象は、p が、比が差がどんな与えられたものよりも小さくなるほどに近づきうる値だとすることで、この不整合を斥けようとする。しかし、どんな与えられたものよりも小さくなるべき量的な差は、もはや量的な差ではない。逆に p を規定された量的な比とするなら、h = 0 の前提が窮地に陥る。h = 0 なら k も 0 だからである。そこで p とは何かと問えば、元の関数から一定のしかたで導かれた第一の関数である、という乾いた答えがおのずから出てくる。ラグランジュは事実上これで満足したが、それで満足するなら、限界の理論は増加と無限の小ささ、級数の項を取り除く困難から解放され、無限の近接や連続量といった形式的範疇からも浄化されるであろう。そのとき求められるのは、p がさらにどのような連関と使用をもつかであり、これは第二の注解で扱う。
無限の差では比の辺が定量として消え、純粋に質的に規定された量的比が残る。最後の比では、横座標と縦座標の定量は消えるが、比の辺は縦座標の要素、横座標の要素としてとどまる。縦座標の要素は、ある縦座標と別の縦座標との差ではなく、横座標の要素に対して比のなかに立つ質的な大きさ規定である。ところがそれが増分として、定量と定量との差として捉えられると、限界は比の意味を失い、最後の比は等しさの比とされ、dx が x にではなく dy に対する比規定であるという質的な本性は退く。近づくことはそれだけでは何も言わない範疇である。dx はすでに近づくことを背後に置いており、無限に近いとは、近くあることと近づくことの否定である。
無限の差が比をもたない契機として捉えられたため、最後の比において横座標と縦座標、正弦と余弦などを等しいとおいてよい、という許されない表象が生じうる。弧を接線として扱うことは、弧が直線と通約不可能であるから、quadrata rotundis、四角を丸と等しいとおくことのように、なおさら不条理に見える。しかしこの扱いは本質的に区別される。弧の要素と、横座標と縦座標の要素からなる三角形には、弧の要素が接線の要素であるときと同じ比があり、本質的な比を構成する角が同じだからである。直線と曲線の違いは、直線が最短の道であるという定量の規定に基づくが、この規定は直線が無限な契機、要素として取られれば消え、直線は弧に移行する。
同じ全体の無限小の部分は等しいという想定は、異質な対象に適用されると、無限小の時間のうちには曲線の無限小の部分が等速で通過される、という高等力学の転倒した命題を生む。解析的展開の項は速度や加速する力という対象的な意味を受け取り、たとえば等加速度運動では時間に比例する速度のほかに重力による増加が加わる、とされる。近代の力学はそのような命題を計算の結果として挙げ、それに存在が対応するかどうかには頓着せず、計算によって経験を越えて存在をもたない存在の命題を見いだすことを学問の勝利と称する。
この分野では無限小の霧の助けを借りて多くのものが証明として通用させられてきた。結果があらかじめ知られていたので、証明の足場の外観を作り上げることができたのである。私はこれを証明の手品、ペテンと見なすことをためらわず、ケプラーが経験によって見いだしたことを数学的に示したとされるニュートンの証明もそこに数える。数学は、物理学の大きさ規定を、それが契機の質的な本性に基づく法則であるかぎり、証明することができない。数学は概念から出発しないので、質的なものは経験から取り入れられるほかないからである。数学的に証明できるものと他から取るほかないもの、解析的展開の項にすぎないものと物理的に存在するものとが区別されないかぎり、学問性は純粋な態度に形成されえない。
注解2 微分計算の目的、その適用からの導出 前の注解で考察した無限小の概念規定は抽象的で、それゆえ容易である。より困難で興味深いのは、いわゆる適用という具体的な面である。微分計算の方法全体は、dxⁿ = nxⁿ⁻¹dx、すなわち二項式 x + i を i の累乗に従って展開した第一項の係数という命題で済み、積分も含めて理論全体は半時間で身につけられる。長くかかるのは、級数の第一項以外を省くことが正しいと理解させる努力だけである。あの係数だけが必要なのであれば、残りの項はそもそも話題にもならない。
展開の全体が事柄に属すると想定しながらその項をただちに省く乱暴さは、あらゆる数学の原則に反しており、この手続きの起源と基礎が他のところにあることを指し示している。実際、微分計算はいわゆる接線法において、いわば技巧として始まり、のちにその手続きが抽象的な公式にされ、原理に高められようとしたのである。
量的なものの質的規定性は、まず比一般に現れたが、累乗関係こそが、数がその統一と個数を等しくおくことで自己へ帰り、対自有の契機を自分にもつものである。それゆえ明示的な質的大きさ規定性は本質的に累乗規定に関わり、質的な大きさ形式を操作する微分計算の固有の対象は累乗形式の扱いでなければならない。しかしこれはまだ一般的すぎる。開方、対数、級数、高次の方程式も累乗に基づく比を扱うからである。どの比が微分計算の本来の対象であるかは、その適用から取られなければならない。適用こそ事柄そのもの、現実の手続きであり、理論より前にある。
対象として見いだされるのは、まず、二つの大きさが一つの方程式で結ばれた不定の方程式である。そこでは一方に数値が与えられれば他方も規定され、一方が他方の関数である。変量や関数の範疇は、ここでは形式的であり、微分計算の特有のものをまだ含まない。定数もまた関数であり、二項式の展開の係数は根の関数である。次に、少なくとも一つの大きさが第一より高い累乗にある。微分計算の変量の特有の不定性は、そのような累乗関係において互いの関数であることにのみあり、それによって変化は質的に規定され、連続的である。第一の累乗は高い累乗との関係においてのみ累乗であり、直線の方程式 y = ax + b や等速運動の s = ct をそれだけで微分することには意味がない。a = dy⁄dx も ds⁄dt = c も、a = y⁄x、s⁄t = c と同じだからである。
扱いの基礎には、累乗がその内部で比規定の体系として捉えられることがある。累乗を和として取るなら根も和として捉えられ、その真の普遍性は二項式である。(a + b + c + d …)ⁿ と言うのは普遍性の外観の媚態であり、二項式の展開によって法則が見いだされ、法則こそが真の普遍性である。累乗化から生じる項の和を求める関心は級数の学説をなす。しかし微分計算が自分に課す唯一の関心は、和を捨象して、累乗を含む大きさそのものの、その累乗化の関数に対する比に向かう。方程式 yᵐ = axⁿ では、各々の大きさは他の大きさの関数として定立されており、それは増加や増分ではない。それゆえ変量に増分 dx や i を与えて展開するとき、増分は定量ではなく展開を助ける形式にすぎない。その代わりに 1 を取るのが最も巧みだっただろう。dx は量的な差という誤った表象を伴い、それを取り除く労苦をもたらす。関心は級数ではなく、展開から生じる累乗規定の、直接的な大きさに対する比にのみ向かうのだから、第一項の係数と言うより、大きさの累乗化の関数と言うほうがよい。
では、得られた比はどこで適用と使用をもつのか。累乗量の展開は次に低い累乗への引き下げを含むので、適用は累乗規定の区別が存在する対象で生じる。空間は線、面、全体としての空間という具体的な次元を含み、平面とともに質的なもの、累乗規定が現れる。ここから、面の方程式から線的な規定を導くように、高い累乗から低い累乗へ、またその逆へ移る必要が生じる。運動でも、空間と時間の比が等速、等加速度などの規定においてさまざまな累乗規定からなる方程式を与え、運動の一種を別の種類から規定するとき同じ移行が必要になる。
方程式を累乗から引き下げる操作は、もはや方程式ではなく比である結果を与え、この比が本来の微分計算の対象である。次に、元の方程式から導出されたものへの比があり、これは積分計算の対象である。二次の方程式で規定される曲線では、座標の比が累乗規定において与えられ、接線、接線影、法線などは直角三角形のなかで線形の方程式に立つ。問題は、これらの線の比と曲線の方程式との連関を見いだすことである。
最初の発見者は、これをまったく経験的なしかたでしか示せなかった。ニュートンの師バローは、接線を決定する手続きを、算術の教科書の三数法と同じ文体で外的な規則として与える。増分の累乗や積として現れる項は無に値するとして捨て、元の方程式の大きさだけの項も捨て、最後に縦座標の増分の代わりに縦座標を、横座標の増分の代わりに接線影を代入せよ、というのである。この最後の代入に、増分が縦座標と接線影に比例するという想定が素朴に裸のまま現れている。この時代の数学の熱病は、こうした規則を見いだして秘密にすることであり、ライプニッツもニュートンもこれを受け継いだ。
この方法の真の経過は次のとおりである。まず方程式の累乗規定が第一関数に引き下げられ、項の値が変わるので方程式は残らず、比だけが生じる。px = y² の代わりに p : 2y が得られ、これがのちに dy⁄dx と表される。しかしそれだけではまだ何も分からない。次に問題は、曲線上でこの比に立つ直線はどれかであるが、それが縦座標と接線影の比であることは古人がすでに幾何学的に知っていた。近代の発見者が見いだしたのは、方程式をこの比が得られるように整える経験的手続きであり、想像上の特性三角形は、古い知識から取り入れた比例を証明されたものに見せるために発明された。
ラグランジュはこの擬態を退け、二つの移行を分離して各々を証明する真に学問的な道を取った。一方は曲線の方程式から第一関数を見いだすことであり、他方は曲線上でその比に立つ線を、特性三角形なしに見いだすことである。接線は直線として方程式 p = aq をもち、その規定は係数 a にある。示すべきは、y = fx、p = Fq、y = p であるとき、f′x = F′q でもあることである。ここでも増分 i が入ってくるが、その使用は正当であり、幾何学の範囲に入る。接線とは、曲線とのあいだを同じ点を通る別の直線が通過できないものであり、接線であるか否かという質が大きさの違いに連れ戻されるからである。比較される契機の違いは i と i² の違いに帰着し、i² はそれ自体として i より小さい。この小ささは公式の本性によって質的に定立されており、無限小とは何の関係もない。
デカルトの接線法は、曲線に垂直な直線を引く課題として、縦座標、法線、法線影からなる直角三角形の方程式を基礎に置く。曲線上の点を曲線と円の交点と表象すれば、二次方程式は不等な二根をもつが、法線のときには二つの交点が一致して円は曲線に接し、根は等しくなる。等しい根をもつ二次方程式では、第一累乗の項の係数は根の二倍であり、これが求める規定を与える。この道は真に解析的な頭脳の天才的な着想であり、無限小の増分による比例の断言的な想定はこれにまったく劣る。この最終方程式は微分計算で見いだされるものと同じである。x² − ax − b = 0 を微分すれば 2x − a = 0 が得られる。しかし微分によって導かれた方程式が正しいことは自明ではない。累乗の代わりに累乗化の関数を代入すれば項の値が変わるからであり、それが正しいかどうかは、等しい根をもつことが他から知られていなければ分からない。dy⁄dx = P は P が比であることしか表さず、比例がはじめてそれに意味を与える。
定数を省くことは、ここでは定数が等しい根の規定に無関心であるという意味をもつ。これに結びついて、微分と積分の名称にも、表現が言い表すのと反対のものがある。微分することは差を立てることを意味するが、それによって方程式はむしろ低い次元に引き下げられ、根は等しいとおかれて差は止揚される。積分では定数が再び付け加えられ、止揚された根の差が回復される。
力学では、s = ct は微分にとって何の意味も与えない。落下運動の s = at² の第一項 ds⁄dt = 2at は、和の一項として慣性の力、等速の速度に属し、無限小の時間部分では運動は等速である、というふうに言語と存在に翻訳される。しかし 2at は 2s⁄t にほかならず、それが運動の一部分であるという誤った想定だけが物理的命題の外観を与える。むしろ s = at² 全体こそが重力の法則である。重力が作用しなくなれば物体は落下の終わりの速度で二倍の空間を進む、という命題にも不適切な形而上学がある。落下の終わりもなお時間部分であり、速度は時間部分のなかで通過された空間によってのみ設定できるからである。ラグランジュは自然が s = ct³ の運動を示さないと言うが、他方に s³ = at² の運動、ケプラーの法則がある。その第一の導関数 2at⁄3s² が何を意味するかを問い、この出発点から運動の法則を展開することこそ、解析が最も価値ある輝きを示す課題であるはずである。
積分計算は、もはや総和の方法と取られなくなったことで、より正しく規定された。その形式的な課題は微分計算の逆、導出された関数から元の関数を見いだすことである。しかし実在的な課題は、対象のどの規定契機が方程式に与えられているかにある。曲線の方程式には横座標と縦座標の比だけが与えられ、面積や弧の方程式は与えられていない。積分計算の対象は、元の関数と、与えられたものとされる導かれた関数との比そのものであり、課題は、見いだされるべき元の関数が対象において何を意味するか、そのために対象のどの契機を導かれた関数として想定すべきかを示すことである。
無限小の方法は事柄を安易にする。求積のためには縦座標と無限小の横座標の積である無限小の長方形を台形の代わりに取り、その和を面とし、求長のためには弧と座標の無限小から直角三角形を作る。この手続きは、縦座標の関数を導かれた関数とすれば元の関数は面積を表し、接線の規定を導かれた関数とすれば元の関数は弧を表す、という既知の発見を前提しており、この比例を認識し証明することを省く。それゆえ、積分計算は微分計算の逆の困難な問題である、とは表面的にしか言えない。その実在的な関心は、具体的な対象における元の関数と導かれた関数の比にもっぱら向かう。
ラグランジュはこの比を、それだけで証明しようとする。比は曲線と直線、線と面のような質的に異なるものを関係させるので、規定は大きいものと小さいものの中間としてしか捉えられず、ここでは算術的な意味で増分の形式が現れる。アルキメデスの原理、曲線の弧はその弦より大きく、端点の二つの接線の和より小さい、というものは直接の方程式を与えず、限界のあいだを無限に進めと要求するだけである。無限小の形式主義はただちに dz² = dx² + dy² を立てるが、ラグランジュはアルキメデスの方法を近代解析の原理に翻訳し、弧の大きさが導かれた関数の元の関数であることを証明する。アルキメデスやケプラー、カヴァリエリらに現れる無限小は、定量の否定という否定的な規定にとどまり、その背後の肯定的なもの、累乗関係における質的な大きさ規定性は認識されていなかった。近代の発明の偉大さは、元の関数と導かれた関数との比、および数学的全体においてそのような比にある部分の発見にのみ置かれるべきである。
個々の計算様式が加算、乗算、累乗、開方、対数、級数を構成する特別な比をもつように、微分積分計算もそうであり、その比には累乗関数とその累乗化の関数との比という名称が最もふさわしい。級数は項の多量において和を表そうとするが、この計算の関心は元の関数と展開の係数との比にのみ向かう。無限級数の無限、定量一般の否定の不定な表現は、この計算の無限の肯定的な規定と何の共通点もない。増分としての無限小は展開のための外的な手段にすぎず、級数は余計なものをもたらしてそれを取り除く労苦を生む。ラグランジュの方法にもその労苦はあるが、いわゆる適用において、dx、dy の形式を対象に押し込めることなく、導かれた関数の規定性が対象のどの部分に属するかを直接示すことで、真の固有性を現出させる。
注解3 質的な大きさ規定性と結びつく、さらに他の形式 微分計算の無限小は、その肯定的な意味では累乗規定性として現れる質的な大きさ規定性である。しかし質的な規定性には、いわばより弱いもう一つの形式があり、それに関連する無限小の使用とその意味をなお考察しなければならない。
累乗規定は解析的には同質な数の大きさとして現れるが、空間的対象への適用では、線から面へ、直線から曲線への移行としてその質的な規定性を現す。この適用はさらに、連続量として与えられた空間的対象を分離的に、面を線の多量として、線を点の多量として捉えることを伴う。この分解の関心は、要素を自ら規定し、そこから算術的に進むことにある。ケプラーは、円は半径と円周を直角辺とする直角三角形に等しい、というアルキメデスの命題を、円周が無限に多くの部分をもち、その各々を二等辺三角形の底辺と見なしうる、という意味に取り、連続的なものを分離的なものの形に分解した。しかし点の和は線を、線の和は面を与えない。そこで点はただちに線的なものとして、線は面的なものとして取られ、しかもまだ線や面であってはならないので、無限小と表象される。分離的なものには外的な総括しか可能でなく、点から線へ、線から面への幾何学的な移行は同時には行われないからである。
この質的な移行を保つために無限小に避難する必要こそ、困難を均すはずが自ら最大の困難となる表象の源泉である。この応急措置を不要にするには、総和と見える手続きのなかに実際は乗算が含まれていることを示せばよい。算術的乗算は幾何学的規定にとってもより高い次元への移行である。3 線フィートの 4 倍は 12 線フィートだが、3 線フィートかける 4 線フィートは 12 平方フィートである。線と線の乗算、ductus lineae in lineam は、大きさだけでなく空間性の質的規定、次元の変化であり、線の自己外出として捉えられるべきである。点の自己外出が線であり、面のそれが全体の空間である。面の自己外出は算術的には四次元の積を与えるはずだが、幾何学的規定によって三次元で止まる。3・3 は数規定としては自己を産出して 3・3・3・3 となるが、空間は線から第三次元にその真の限界をもつからである。
前の注解では質的なものは累乗規定性にあったが、ここでは質的なものは、積に対する算術的な因子として、線に対する点、面に対する線としてある。分離的なものから連続的なものへの質的な移行が、総和として成し遂げられるのである。
総和が実際には乗算を含むことは、台形の面積が二つの平行線の和と高さの半分の積に等しいことに最も簡単に現れる。高さはここで、二つの平行線のあいだの無限に多くの平行線の個数として表象される。線の和が面を与えるはずだという困難を避けるため、線は無限に薄い面として想定される。それらは等差数列の項であり、その和は両端の平行線の和と項の個数の半分との積である。この個数は、連続的なものの大きさ規定性一般、高さにほかならず、和と呼ばれるものは同時に線的なものの線的なものによる乗算、面的なものの生起である。
比例のなかでは、乗算さえ行われない。円の面積がその直径を長軸とする楕円の面積に対して長軸と短軸の比にあることは、各面を縦座標の和として取り、各縦座標が同じ比にあることから結論される。横座標の軸は両者で等しく 1 と想定されるので、比例は一つの規定契機だけに依存する。これに総和の表象や無限に小さな幅の台形を付け加えるのは、数学的規定性にとって何が問題かを見誤ることである。
これはカヴァリエリの不可分者の方法の基準でもあり、この方法もそれによって正当化され、無限小への逃避を必要としない。彼は底線を基準とし、それと平行に等しい距離で引かれた線の比を比較して、高さの等しい平行四辺形は底線の比にある、ということを証明する。線は図形を連続的なものとしてはなさないが、その内容が算術的に規定されるかぎりでの内容をなす。図形の規定性は、外的な限界であることもあれば、高さのように存在することもある。重ね合わせの証明は規定性を外的な限界として扱うが、カヴァリエリでは限界は大きさ規定性そのものであり、等しい間隔の線の対において取られる。無限な数の線を比較することになる、という異論に対して、彼は、線の個数ではなく、線が占める空間に等しい大きさ、量的規定性そのものを比較するのだと正しく区別する。ただし、連続的なものは不可分者から合成される、という彼の表現は十分ではない。連続的なものの大きさ規定性は不可分者のそれ以外ではない、と言うべきであった。それでも彼は、連続的なものは不可分者の比例に従うだけだと意識しており、つまずきの石を除くために、無限性の混入から自由な証明を第七の書で与えている。
重ね合わせの形式は感性的直観への子供じみた助けである。三角形の三つの部分が等しければ両者は重なり合う、というのは、抽象的に言えば、三つの部分で規定性が完結しており、残りの三つの部分は感性的存在、連続性の直観の余剰だということである。平行四辺形では、底線のほかの規定性として他の辺をとるか高さをとるかという曖昧さが生じ、直観には鋭角の図形のほうが大きく見えやすい。しかしカヴァリエリの平行線は等しい距離を前提するので、高さこそがもう一つの規定する契機であると帰結する。バローは、特性三角形を直線三角形と等しく置く想定でこの方法を不純にしたうえで、直円錐の表面を軸に垂直な円の周の和とし、この和を半径の個数、すなわち高さから規定すれば、アルキメデスの真理と矛盾する、というタケの異論を挙げ、規定の線としては軸ではなく円錐の三角形の辺を取るべきだと答えている。
このような異論は、点や線の無限な多量という不確定な表象にのみ源をもち、それによって本質的な大きさ規定性は影に置かれる。これらの注解の意図は、無限小の使用の背後にある肯定的な規定を、単に否定的な範疇の曖昧さから取り出すことであった。無限級数でもアルキメデスの円の測定でも、無限とは、規定の法則は知られているが算術的な有限な表現が与えられず、弧を直線に還元できない、ということ以上を意味しない。この通約不可能性が質的な違いである。分離的なものと連続的なものの違いも同様である。連続的なものが積として取られると、それは因子である要素に分解され、要素はより低い次元、より低い累乗をもつ。算術的にはこれは単に量的な違いとして現れ、a : a² や落下の法則の t : at² は 1 : a、1 : at という何も言わない比を与える。両辺は、s : at² のように異なる質的な意味によって区別されなければならない。線の大きさに線の大きさを掛けることに何の悪いこともないが、それは同時に線から面への移行という質的な変化を与え、そこに否定的な規定が現れる。この規定こそが困難を引き起こすのであり、それは事柄の単純な本性への洞察によって解決されうるのに、それを除くはずの無限の助けによって、むしろ混乱させられ、解決されないままに保たれるのである。
第三章 量的比 量の無限性は、量の否定的な彼岸でありながら量自身がもつものとして、質的なものと規定された。無限な定量は、量的規定性と質的規定性の統一として、まず比である。比において定量は、自らの彼岸である別の定量への関係のうちに自らの規定性をもち、この他在のうちで自己に還帰している。比は、被規定有の外面性を自己の内にもつ閉じた全体性である。
比はまず直接比であり、質的なものはまだそれとして現れていない。次に逆比において、一方の定量の否定が他方の変化のうちに定立される。最後に累乗関係において、定量は自己を産出し、この質的なものが定量と同一に定立されると、度量となる。
A. 直接比 直接比においては、両方の定量には一つの規定性しかなく、それが比の指数である。指数は統一と個数の区別が単純な規定性となったものである。一方の辺を統一とすれば、他方はその統一の同じ個数のままでなければならない。
したがって両辺は本来一つの定量をなすにすぎず、一方は統一の価値しか、他方は個数の価値しかもたず、その自立性は即自的に否定されている。指数も商としては、定量Bを統一Aで測れば統一の個数、Aを個数とすれば必要な統一であって、どちらとも定まらない。両辺がこの自らの否定とともに定立されると、指数が両辺の積という意味をもつ、より実在的な比が成立する。これが逆比である。
B. 逆比 逆比は止揚された直接比である。直接比では指数は一方の辺の1に対する固定した個数であったが、逆比では一方の辺の1に別の定量がとられると、他方の辺は同じ個数にとどまらない。指数は比の定量としての自己に対して否定的であり、質的に限界として定立される。変化は量的には任意でありながら比の内部に保たれ、指数によって限界づけられる。
指数は、まず有るものとしての全体、肯定的な定量である。次にこの規定性は同時に限界であり、定量は積の因子である二つの定量に区別される。さらに指数は、両者の相互限界づけの限界である。
こうして一方が大きくなる分だけ、他方は小さくなる。各々は他方に欠けているかぎりで自らの大きさをもち、他方へ否定的に連続する。指数という全体が各々の即自有であり、各々はそこに自らの最大値をもつ。しかし自らを即自有に等しくすると、各々は比の契機としての規定を失い、他方はゼロになるだけでなく消え去る。各辺はこの二つの規定の矛盾であり、この矛盾は新たな形式をとった無限性である。
両辺は指数に無限に近づくが到達しない。この無限性は悪無限であり、接近にすぎない。しかしここでは悪無限が、その真にあるところのもの、否定的契機として同時に定立されている。両辺が近づくことしかできない無限なものは、指数の単純な定量として、肯定的な此岸に現前している。
しかしこれによって、逆比は別の規定へと移行した。指数は否定の否定、自己への肯定的な態度として定立されている。両項の無限進行は各々の特殊な価値の否定であり、それは指数の自己外存在の否定である。指数はこの否定のうちで自己と合致し、自己を越え出ることを規定するものである。比はこれによって累乗関係として規定された。
C. 累乗関係 定量は、その他在において自己と同一であると自らを定立することで、対自有に到達した。逆比では個数は第三のものによって規定されていたが、累乗関係では統一によってのみ規定されている。累乗とは統一の多量であって、その統一の各々がこの多量そのものである。定量の変化が累乗への高まりであるかぎり、その他在は自己自身によって限界づけられており、指数は、他在における定量が自己と同一であるという、まったく質的な規定性である。
この関係において定量は自らの概念を実現している。直接比では自己への関係は統一の個数の固定性にすぎず、逆比では自己の否定としての自己へのかかわりであった。累乗関係では、規定性の外面性がその固有の規定、自己への関係、すなわち質として定立されている。
しかしこれによって、定量は自らの他者、質となった。質の真理が量であり、量はその真理において自己に還帰した、無関心でない外面性である。全体性が定立されるには、質が量へ移るだけでなく、量が質へ還帰する二重の移行が必要である。この二重の移行は学問的方法の全体にとって重要である。外的な規定としての定量は止揚され、質とは、あるものをそれがあるところのものにするものである。これが定量の真理、度量である。
注解 近年、累乗関係が概念規定に適用され、概念の直接性が第一累乗、その他在が第二累乗、自己への還帰が第三累乗と呼ばれている。しかし累乗は定量に属する範疇であり、アリストテレスの potentia、δύναμις とは関わらない。数で本質的な区別を示すのは、ピュタゴラスのような哲学の幼年期の予備段階であり、思想規定が見いだされたのちに数に戻るのは、自らを無力と感じる思考のすることである。数や累乗を哲学的形式として用いるなら、まずその概念規定性が示されなければならず、示されればそれらは余計な表示となる。その使用は、概念規定を捉え正当化する労を省く便利な手段にほかならない。
第三部門 度量 度量においては、抽象的に言えば、質と量が統一されている。有の直接性は止揚され、量は規定性に無関心な、自己に還帰した有となったが、この無関心は外面性にすぎない。第三のものは自己自身に関係する外面性であり、自己に自己との区別をもつ。この区別は、外面性としては量的契機、自己に取り戻されたものとしては質的契機である。
カントの範疇では、量と質のあとに関係を挟んで様相が置かれ、それは対象の思考への関係、認識能力への関係だけを表現する。カントは三重性という無限に重要な形式を範疇の種にのみ適用したので、質と量の第三のものに至れなかった。スピノザにおいても様態は実体と属性のあとの第三のものであるが、他のもののうちにある外面性にすぎず、硬直した実体性には自己への還帰が欠けている。インドの汎神論でも、一者ブラフマーはヴィシュヌ、クリシュナを通って、変化、生成と消滅の領野であるシヴァへ進むが、それは実体的統一の四散であって、自己への還帰ではない。真の三位一体では、統一は具体的な規定において精神である。スピノザ主義において様態が実体に還元されるのと同様に、シヴァもまたブラフマー自身であり、区別は保存されず、人間の最高目標は滅却であり、仏教の涅槃も同じである。
ここでは様態は、度量という規定された意味をもつ。スピノザの様態もインドの変化の原理も、度量なきものである。パルメニデスさえ、抽象的な有のあとに必然性を、すべてに定められた古い限界として導入した。すべては度量をもつというギリシャの意識は、実体およびその様態との区別を含むものよりはるかに高い概念の始まりである。より展開された度量は必然性であり、ネメシスは、度を越すものが無へと引き下げられ中庸が回復されることである。神はあらゆるものの度量であるという定義は、神は有であるという定義より無限に真実である。度量は有の具体的真理であり、それゆえ諸民族は度量において聖なるものを崇めた。
度量にはすでに本質の理念が含まれている。度量においては質的なものが量的であり、この量的であることが自己への還帰として質的であるとき、それは本質である。しかし度量はまず即自的にのみ本質であり、質と量の有る統一である。その展開において、契機の同一性が相互の関係として定立され、直接性が消え去ることで、度量は本質へと移行する。
度量は、まず質的な意味をもつ定量としてある。次に度量は自立的な度量の比であるが、その自立性は量的な違いに基づくので互いに移行し、度量は度量なきもののなかに没落する。最後に、自立的な質は自らの真に自立的な統一の契機にすぎないことが明らかになり、その統一が本質である。
度量の展開は最も難しい題材の一つである。展開された度量、すなわち法則の抽象的な無関心は、空間と時間、質量が外的な規定である力学の圏でのみ成り立つ。物理的なものや有機的なものでは、大きさ規定性は質の衝突によって乱される。天体の運動は自由で概念によってのみ規定されるが、有機的なものでは恣意的な運動に引き下げられる。精神の領域では度量の自由な展開はなおさら見られず、感情や表象の強弱について立てられる法則は空虚である。
第一章 種別的な量 質的な量は、まず直接的な種別的定量であり、次に無関心な定量を止揚する規則となり、最後に質の比として、自らのうちで度量の区別へと種別化される。
A. 種別的な定量 度量は定量の自己への単純な関係であり、こうして定量は質的である。存在するものはすべて度量をもつ。或るものはその大きさに無関心ではなく、事柄はその定量を越えて増減されると没落する。
通常の尺度は、外的な個数に対して恣意的に想定された統一である。足のような本源的な度量も、他のものの尺度としては外的であり、地球の直径や振り子の長さのどの部分を尺度とするかも恣意的である。事物の自然的な尺度について語るのは愚かである。
定有における量規定性は二重であり、一つは質が結びつけられ、もう一つは質を損なわずに往復しうる。そのため或るものの没落は定量の変化によって起こり、予期されないものとして現れる一方で、漸次性によって理解可能とされる。しかし漸次性は何も説明しない。変化は本質的に一つの質の別の質への移行だからである。
このことにはすでに古代人が気づいていた。一本の毛を抜くと禿になるか、一粒を取り去ると山でなくなるか、と問われれば否と認められるが、繰り返されると頭は禿になり、山は消え去る。取るに足りない量が合算されて質的な全体をなすことが忘れられていたのである。誤りは、量を単に無関心な限界として取る通常の意識にあり、論駁されるのは、抽象的な定量規定性への一面的な固執である。定有を、その質が働き出さないように見えるこの側面でとらえるのは、概念の狡知である。
度量はその直接性においては、規定された大きさをもつ通常の質であり、可変的で外的な側面との関係においてその無関心を止揚する種別化である。
B. 種別化する度量 種別化する度量は、まず外的な規則であり、次に外的な定量を規定する種別的な量であり、最後に両側面が一つの度量として関わるものである。
a. 規則 規則は、別の或るものにある定量を測る統一であり、その比較は外的な行為である。しかし度量は単に外的な規則ではなく、それ自身において自らの他者である定量に関わる。
b. 種別化する度量 度量をもつ或るものは、外的に加わる大きさの変化を算術的な多量のままには受け入れない。その度量はこれに反作用し、固有のしかたで受け入れて別の定量にし、この種別化によって外面性のなかで対自有として自らを示す。度量はこうして比として定有をもち、その特有なものは指数である。その指数は固定した商ではなく累乗規定であり、外的な定量が算術級数で変化するなら、度量の反作用は、数と通約不可能な比において累乗規定に従う別の級数を生み出す。
注解 温度がその例である。媒体の温度は一様に増減すると想定されるが、その中のさまざまな物体はそれを異なるしかたで受け入れ、その変化は直接比で対応せず、熱容量も温度によって変わる。しかし媒体の温度もそれ自身種別的な温度であり、この比は本来、それ自身度量である二つの質の比として取られなければならない。
c. 両側面の関係としての質の関係 定量の質的な側面は、外的に量的なものへの関係としてのみある。しかしこの区別は有の直接性のなかにあるので、両側面は互いに質的な定有であり、度量規定がその指数である。両者は度量の対自有において不可分のものとして定立され、度量は二つの質の内在的な量的態度である。
度量においては可変量という本質的規定が現れる。度量は止揚された定量であり、定量であると同時に質的なもの、累乗関係だからである。媒体の同じ温度が異なる物体の異なる温度として現れ出るように、定量はこの自己自身からの区別においてはじめて定有する度量となる。実在的な可変量の真の規定は、それが累乗関係によって規定されていることである。
この関係の両側面は、たとえば空間と時間である。度量の契機としての質は、外延的なものと内包的なものとして区別され、前者には個数、後者には統一が帰せられる。種別化する比では前者は累乗、後者は根と取るべきである。速度 s/t のような直接比は形式的な規定に引き下げられ、s = at² よりも、s³ = at³ のように両側がより高い累乗規定において関わることが、質化のより高い実現である。
注解 速度においては、空間は外的で実在的な全体、個数であり、時間は観念的なもの、統一の側である。落下の運動では時間と空間が根と平方として、自由な天体の運動では公転時間と距離が平方と立方として規定される。これらの比は空間と時間の概念の展開に基づく。両者は概念において不可分であり、その量的な比は一つの度量規定だからである。
自然の数学は本質的に度量の学でなければならない。ガリレイとケプラーの功績は不滅であり、彼らは法則を、知覚の全範囲がそれに対応することによって証明した。しかしさらに高い証明、すなわちその量規定が時間と空間という質から認識されることが要求される。ニュートンがケプラーに優るとされる功績は、証明の見せかけの足場を取り去れば、ケプラーの S³⁄T² を S²·S⁄T² に変形し、S⁄T² を重力の力と呼んだような表現の変形と、始まりにもち込まれた解析的取り扱いに限られることになるだろう。
C. 度量における対自有 種別化された度量では、両側面は累乗関係にあるが、質はなお直接的なものとして、その関係の外で自立して存立する。空間と時間は、落下運動の種別化の外では、空間一般、時間一般として、互いに独立に通用する。
質のこの直接性は量的な直接性と結びついており、種別的な度量には、外的で経験的な大きさ規定性の側面がある。物体の落下では s = at² であり、これは空間と時間の累乗関係である。他方、係数 a はすべての時点に残る統一であり、空間と時間の直接比の指数として、表象された速度に帰属する。しかしそのような速度はここには存在しない。運動の始まりは直ちに、落下の法則によって種別化された大きさだからである。第一秒に約十五足が帰されるという契機は、惑星の距離と同様に一つの直接的度量である。この経験的な係数は度量規定における対自有の即自的な契機にすぎず、種別的な度量規定性がこの対自有の展開されたものである。
こうして度量は実現されている。その両側面は直接的な度量と種別化された度量であり、度量はその統一である。度量の自己規定は、他者である直接比の指数に最後の規定性をもつので否定され、逆に直接的度量は、種別化された度量においてはじめて真に質的な規定性をもつ。この否定的統一が実在的な対自有、度量関係にある質の統一としての或るものであり、区別された自立者への反発でもある。その存立、すなわち物質性は、その度量規定性にある。
第二章 実在的な度量 度量は、自立的な或るもの、すなわち物の質をなす度量の関係に規定された。比重や化学的性質がその例である。実在的な度量は、まず他のものに関わってそれらを種別化し、度量の系列へ移行する。次に、そこで生じる比は排他的な度量、選択的親和性であるが、その違いは同時に量的でしかないので比の進行があり、それは質的な比によって中断されて結節線を形成する。最後に度量の無限性が生じ、自立者は自己自身への否定的な関係に入る。
A. 自立的な度量どうしの関係 自立的な度量の全体は、まず直接的であり、二つの度量は外的に結合される。次に物質性は量的関係によって親和性の系列の項として規定され、最後に排他的な選択的親和性として閉じる。
a. 二つの度量の結合 或るものは、重さと体積という二つの質の比、すなわち比重として規定されている。そこでは体積が統一、重さが個数となり、累乗関係に従う質的な態度は消え去っている。物質的有の自立性において、直接性が還帰したからである。この指数は他の指数との比較においてのみ規定される外的な規定性であり、或るものは可変である。比重の異なる二つの金属が結合するとき、各々の度量は自らを保つが、この自己保存そのものが度量の相互の変化である。
単に量的に見れば、結合は重さと体積の合算にすぎない。しかし合算されるのは重さだけであり、変化は指数に生じ、比のもう一方の質、観念的な側面である空間に現れ、混合後の体積は通常減少する。空間はこうして観念的なものとして定立される。度量自身も固定したものではなく、その規定性を他の度量関係のうちにもつ。
b. 度量関係の系列としての度量 自己のうちに度量関係である或るものは、同様のものと結合しながら、その量的存立によって自らを保ち、新しい度量関係の種別化する契機となる。複数のものとの結合は異なる指数を与え、自立者は、自らが統一とされて他と形成する指数の系列によって区別される。
しかしそうだとすると、別の系列をつくる二つの自立者は比較できない。比較には共通の統一が必要であり、それは指数どうしの比のうちに求められる。ところが対置されたものも自立者であり、同じく統一と取られて系列をもつ。両側面はこうして系列であり、各々の数は対置する系列に対する統一であり、その各項に対する指数であり、自らの系列の他の数に対する比較数である。
ここで度の場合と同じく、自立的な度量の本性は自己の外面性へと転倒し、その他者への態度が種別的な規定をなす。しかし二つの種別的なものが指数に対して自らを種別化するとき、両者が否定的に定立され、各々は自己を保つので、その否定もまた否定されている。その統一は排他的統一である。こうして親和性は無差別な関係ではなく、選択的親和性となる。
c. 選択的親和性 これらの表現は化学的な関係に関わる。化学の圏では、物質的なものは他者への量的な関係のうちに規定性をもち、系列の各項との親和性において同時に排他的である。音もまた、他の音や音の系列との結合においてはじめて意味をもつ。和音は排他的な選択的親和性であるが、その質的な固有性は、量的な進行という外面性にふたたび解消する。
系列の項が中和する定量によってのみ異なるかぎり、親和性も量的なものにすぎない。選択的親和性を中和に必要な多量の違いに従わせ、排除をより大きな強度と見ても、外延量が内包量へ転じるだけで定量の本性は変わらず、何らの排除も定立されていない。
しかし指数は本質的に度量規定であり、排他的である。ここで数は連続性を失い、より多いより少ないが否定的な性格を得る。他方で、中和する定量を対置する複数の契機から受け取ることは無関心であり、排他的な態度は量的な側面から損なわれる。これによって、量的な態度から質的な態度への転換と、その逆の移行とが定立されている。
注解 化学的物質は、他のものとの態度のなかにのみ規定をもつ度量の、最も固有の例である。酸と塩基は孤立した存立を止揚して結合する構成部分であり、その区別は飽和の度量にある。関係が量的でもあるので、一つの酸はすべてのアルカリと結合しうる。そのため対自有する自立性は、一方が他方に優先する選択的親和性に現れる。二つの中性溶液を混ぜても中性の化合物が生じるという法則から、諸酸が一つのアルカリを飽和する比の数の系列は、他のどのアルカリにとっても同じである。フィッシャーがリヒターの仕事からこの系列を取り出した。
ベルトレは選択的親和性の表象を化学的質量の作用によって修正した。各々の酸はその量と飽和能力から合成された比で作用し、排除が起こるのは凝集力や不溶性といった事情によるのであって、物質の質的な本性によるのではない。選択的親和性の質的契機はこうして止揚される。
ベルツェリウスはこれに、溶けた物質の原子が溶媒の原子間の空隙を分け合うという表象を添える。しかし空隙を分け合うなら、それは溶媒の外にあり、溶かされてもいないことになる。この自己矛盾する形而上学は、飽和の比とは何の関係もない。飽和の法則は単位の多量の中和に関わるにすぎないのに、彼は親和力の度を語り、自ら退ける力動的哲学の内包的大きさの形式に陥っている。比例の規定性は大きさ規定性にすぎず、外延的か内包的かには無関心である。
こうして選択的親和性は止揚され、排他的なものは外的な事情に還元されている。これは振り子の静止を重力ではなく摩擦のみに帰する手続きに似ている。しかし質的なものがその条件という形で現れても違いはなく、質的なものとともに新しい秩序が始まる。
この違いは、化学的態度を電気の中和と同一視することで、ふたたび混乱に投げ込まれる。異なるものを同一と取るのは浅薄である。電気は物体の質に外的ではかないが、化学作用は物体の質的本性の全体を変化させる。電気陰性の硫黄と酸素が、酸素と電気陽性の銅より緊密に結合することを、ベルツェリウス自身が認めている。結局、選択的親和性はより強い極性の強度に置かれるが、それは選択的親和性と同じく形式的な範疇であり、物理的根拠に至っていない。ニュートンの場合と同様、学問の一面での功績が、このような形而上学の権威となりがちなのである。
比重の指数も、比較においてのみ規定された外的な定量である。比重の系列や化学的親和性の系列を、算術的な多数性を調和的な結節の系列へと種別化する規則から認識することが課題であるが、学問がそこに至るまでには、太陽系の惑星の距離を一つの度量の体系に捉えるまでと同じだけ、なお遠い。しかし比重もまた、混合において体積が和と等しくならないように、質的な関係に入る。混合物の指数は連続的に進むが、形式的な比とは通約不可能な、種別化する法則をもつ。
B. 度量関係の結節線 度量関係の最後の規定は、それが種別的に排他的であることであった。この対自有する統一、選択的親和性は、量的な基本規定のゆえに別の中和性へも連続する。中和性は自らのうちに分離可能性をもち、そこから生じたものは、対置する系列のどれとも関係に入るからである。こうしてこの度量は自らにおいて外的であり、自己への関係において可変的である。この自己への関係は、量的側面に対して有る質的な基礎、持続する物質的な基体であり、外面性のなかでの度量の自己自身との連続性として、その種別化の原理を含まなければならないはずである。
排他的な度量は自己自身を反発し、一つの同じ基体のうちに、ただ量的に異なる比を産出する。その比は、親和性と度量を形成するものと、量的な違いにとどまるものとして交互に現れ、より多いより少ないの目盛りの上に度量の結節線を形成する。度量関係は定量の比であるから、質を変えずに定量の変化に無関心にとどまる幅をもつ。しかし量的なものの変化のうちに、質が変わる点が現れ、変化した比は新しい質、新しい或るものへと転じる。それは先行するものからではなく、まだ定有に出ていない内的な種別化する統一から、直接に現れ出たのである。
量的な側面から見れば、変化は漸次的である。しかし漸次性は変化の外的なものにのみ関わる。質的な側面から見れば、漸次性の進行は絶対的に中断され、移行は飛躍である。人は変化を漸次的移行によって理解可能にしようとする。しかしむしろ、漸次性においては二つの実在の連関が止揚されているから、理解に必要なものはそこから取り除かれている。
注解 自然数の体系では、算術的な進行のうちに倍数や累乗と根という種別的な関係が現れ、音楽的な比では、量的進行の目盛りの上に調和的な比が、驚くべき一致として突然に還帰する。化学的化合では、酸素と窒素が一定の量的比においてのみ、本質的に異なる質をもつ窒素酸化物と硝酸を与える。水は温度の変化につれて、硬さ、滴下する流体、弾性流体の状態を飛躍によって通過し、すべての誕生と死も漸次性の中断である。
自然には飛躍がないと言われ、通常の表象は生成と消滅を漸次的な出現と消失として理解したと思う。しかし有の変化は、質的なものから量的なものへの、また逆の移行であり、漸次的なものの中断である。生成の漸次性の根底には、生成するものはすでに存在しており、ただ小さいために知覚されないだけだという表象がある。これによって即自が外的な定有の小ささに変えられ、概念の区別が大きさの違いに変えられる。悟性にとっての困難は、或るものがその対立物へ移行する質的な移行にある。
道徳的なものにおいても、軽率さの度量が超えられると犯罪が現れ、法は不法に、徳は悪徳に移る。国家もまた、その大きさの度量を越えて駆り立てられると、同じ国制のもとで、その幸福と強さをなしていたものが支えを失って崩壊する。
C. 度量なきもの 排他的な度量は、その実現された対自有においても量的定有の契機を帯びている。それゆえ或るものは、自己を越えて度量なきものへと駆り立てられ、その大きさが変わるだけで没落する。結節線においては、度量なきものは同時に種別化するものとして定立され、新しい度量関係は、先行するものに対しては度量なきものでありながら、それ自身においては対自有する質である。こうして種別的な比の否定であると同時に量的進行の否定でもある、対自有する無限が生じる。この無限性は、質的なものと量的なものを互いに止揚し合うものとして定立し、両者の最初の直接的な統一である度量一般を、自己に還帰したものとして定立する。度量の交替のなかで自己自身に連続するこの統一が、真に持続する、自立的な物質、事柄である。
この事柄は、即自的に質的なものと量的なものの統一であり、質的な自立者は量的な違いのなかにのみ存立して、基体はこの区別のなかに連続する。結節の無限進行の意味は、両者の統一である基体の定立にほかならない。自立的な度量関係は、こうして一つの同じ基体の結節となり、状態に引き下げられる。変化は状態の変更にすぎず、移行するものはそのなかで同じものにとどまる。
種別化する原理はまだ自由な概念ではなく、さしあたり基体、質料にすぎない。度量規定は基体の自己との統一のなかで止揚され、その質は定量によって規定された外的な状態となる。この経過は、度量の実現であると同時に、度量が契機へ引き下げられることである。
第三章 本質の成
A. 絶対的無差別 有は抽象的な無関心であり、それだけで考えられるとき、無差別と呼ばれてきた。しかし絶対的な無差別は、質と量、そして度量という有のあらゆる規定性の否定によって、自己との単純な統一に媒介される。外的な状態としての規定性はただ消えゆくものであり、この空虚な区別立てが無差別の内在的な区別立てとなって、無差別はただ基体であること、ただ抽象的であることをやめる。
B. 無差別、その因子の逆比の関係として 無差別のこの規定が、それ自身において、対自有するものとしてどのように定立されているかを見なければならない。度量関係の還元は、それらの一つの基体を基礎づける。基体は区別のなかに全体として現にある不可分の自立者であるが、即自的に媒介であるにすぎず、規定性に関しては無差別である。
したがって区別は、まず同じ基体の二つの定量という量的で外的なものである。しかし無差別はそれ自身定量ではなく、その固定した限界によって、二つの定量は可変でありながら互いに否定的に振る舞う。こうしてそれらは逆比にある。以前の形式的な逆比と異なり、ここでは全体が実在的な基体であり、各側面はそれ自身即自的にこの全体である。区別はさらに二つの質の区別であり、各側面は二つの質をともに含み、一方の質の優勢によってのみ区別される。各側面は規定の全体として無差別を含み、同時に互いに自立的である。
有はいまやこの展開された無差別である。しかし統一は即自的にのみ保たれ、契機はまだ自ら統一へと止揚するものとして規定されていない。この不可分な自立者には欠陥がある。まず、規定性はそれに根拠なく現れ出るだけであり、その定立は直接的で、自己自身との媒介ではない。次に、契機の逆の量的比は無差別によってではなく外的にのみ規定されている。そして契機の量的規定性はその定有であるが、即自的には各側面が二つの質の統一、無差別の全体性であり、ここで規定は直接的な対立に入り、矛盾へと展開する。
すなわち二つの質は不可分であり、各々は他方への質的な関係においてのみ意味をもつ。それゆえ各々は他方が及ぶ範囲にだけ及び、両者は均衡にある。一方の質のより多くは支えを欠く規定にすぎず、そのより多くは再び他方そのものである。しかし両者が等しければ、定量の不等性に基づくはずの定有はどちらにもない。一方が他方を越え出るとき、他方は圧倒され、前者は唯一の自立者となり、ただ一つの全体だけが残る。この統一は、規定する全体性でありながら無差別として規定されているから、全面的な矛盾である。それはこの自らを止揚する矛盾として、内在的に否定的な絶対的統一を結果と真理としてもつ、対自有する自立性へと規定されなければならない。それが本質である。
注解 この比は天体の楕円運動に用いられる。単純な事実は、速度が近日点に近づくにつれて加速し、遠日点に近づくにつれて減速することであり、その量的なものは観測によって正確に規定され、法則と公式に還元されている。しかし反省する悟性は、説明のために求心力と遠心力を想定し、一方が増せば他方が減り、ある点で比が転じるとする。両者は質的に切り離せず、各々は他方に関してのみ意味をもつから、一方が優位を得れば他方は消え、物体は加速する速度で中心天体へ導かれるはずである。比の転換は外来の力によるほかなく、速度の違いは想定された因子から説明されえない。理論の帰結は運動が続くという確固たる事実によって隠され、事実と理論が平穏に並存している。同じ比は、牽引力と反発力による密度の理解や、感受性と被刺激性による生命の理解にも用いられたが、その混乱のためにまもなく放棄された。
絶対的無差別はスピノザの実体の基本規定に見えうる。両者において有のあらゆる規定、思考と延長の区別も、消えたものとして定立されている。スピノザでは属性や様態は経験的に持ち込まれ、区別立ては様態である悟性に帰属する。実体を無差別と規定することで区別への反省が加わるが、区別は外的な、量的なものとして定立されるにとどまる。量的無差別はむしろ統一の自己外存在であり、実体は自己自身を区別するもの、主体として規定されない。無差別は、両契機が直接に一つとされていた度量の解体である。
C. 本質への移行 絶対的無差別は、有が本質になる前の、有の最後の規定であるが、本質には達しない。なお無関心なものとして、区別を外的で量的なものとして自らにもっているからである。欠けているのは、区別を単に無関心な区別とするこの反省が、思考する主観的意識の外的な反省ではなく、統一の区別そのものの固有の規定として自己を止揚することである。しかしこの自己止揚はすでに生じている。無差別は、即自的にある規定と定立された規定性との矛盾として、否定的な全体性であり、単純で無限の自己への否定的関係、自己の自己からの反発である。その規定は、もはや有るものとしてではなく、ただ定立された契機としてある。統一は、前提を止揚することによって媒介された、自己との無限の合致としてのみある。有は本質へと規定された。すなわち、有の止揚によって自己とともにある単純な有としてである。
第二書 本質論 有の真理は本質である。知は、有が即自かつ対自的に何であるかを認識しようとして直接的なものを突き抜けて進み、有の背後に有の真理をなす背景があることを前提している。この認識は、有から始まり、有のうちへ入ってゆく道を進む媒介された知であり、直接的な有から自らを内へと想起することによってはじめて本質を見いだす。言語は、Seyn という動詞の過去形 gewesen のうちに Wesen を保持している。本質とは過ぎ去った有、しかも時間を超えて過ぎ去った有だからである。
この進行は有にとって外的な認識の活動であるように見える。しかしこの歩みは有そのものの運動であり、有はその本性によって自らを内へと想起し、本質となる。
したがって、絶対者は最初に有として規定されていたとすれば、いまや本質として規定されている。純粋な有は、直接的な定有を純化した想起と運動を前提している。そうであれば本質は、規定されたものが外的な仕方で取り除かれた単純な統一であり、抽象する反省によってある産物、自らのうちで死んだ空虚な無規定性である。
しかし、ここで成ってきた本質は、自らに疎遠な否定性によってではなく、自分自身の否定性、すなわち有の無限な運動によって、それがあるところのものである。本質は即自かつ対自有である。他在が端的に止揚されている絶対的な即自有であり、他在と規定性とを自ら止揚する否定性として、同じく対自有である。
こうして本質はまず無規定であり、定有をもたない。しかし本質は自己への否定的な関係として自己を自己に対立させて定立するから、定有へ移行しなければならない。その規定することは統一の内部にとどまり、成でも移行でもない。本質は有の領域における量、すなわち限界に対する無関心にあたるが、量の限界は直接に外的であるのに対し、本質において規定性は本質自身によって定立されている。本質の否定性は反省であり、諸規定は反省されたものである。
本質は有と概念とのあいだに立ち、その運動は有から概念への移行をなす。本質は自らに定有を与え、自らの即自有に等しい定有を得るとき概念となる。ただしその定有はなお定立された定有である。本質は、まず自己自身のうちで映現する反省であり、次に定有へと歩み出て実存と現象として現象し、最後に自らの現象と一つである現実性として自らを啓示する。
第一部門 自己自身のうちへの反省としての本質 本質は有から由来する運動の結果であり、本質に向かい合うものは、本質自身が定立する仮象にすぎない。本質はまず反省であり、次に本質性であり、最後に根拠として実存と現象へ移行する。
第一章 仮象 本質に向かい合う有は、まず非本質的なもの、次に仮象であり、最後にこの仮象は本質自身の映現、すなわち反省である。
A. 本質的なものと非本質的なもの 本質は止揚された有であり、有の領域の否定であるかぎりで自己との単純な同等性である。そのため有と本質とは、どちらも一つの直接性をもつ他のものとして並び立つ。
しかし同時に、有は本質に対して非本質的なものであり、本質も、他のものに関係するかぎり、本質的なものという別様に規定された定有にすぎない。この区別は本質を定有の領域へ逆戻りさせる外的な定立であり、同じ内容があるときは本質的なもの、あるときは非本質的なものと見られる。
本質がたんに本質的なものになるのは、本質が規定性であるような最初の否定として受け取られるからである。しかし本質は有の絶対的否定性であり、直接的な有としても他在をまとった否定としても自らを止揚した有である。したがって、本質から区別される直接的なものは、即自かつ対自的に空しい非本質、すなわち仮象にすぎない。
B. 仮象 有は仮象である。仮象の有は、有の空しさのうちにのみあり、この空しさを本質のうちにもつ。仮象は否定的なものとして定立された否定的なものである。仮象はなお本質から独立した直接的な側面をもつように見えるが、もはや有をもたない非本質的なものには、他在のうちの非定有という純粋な契機しか残らない。仮象はこの直接的な非定有であり、自らの否定を媒介としてのみある、反省された直接性である。
懐疑論の仮象も、観念論の現象も、このような直接性である。その内容は世界の多様な豊かさの全体であり、有から仮象へ移し替えられたにすぎず、仮象は直接に規定されたものである。ライプニッツ、カント、フィヒテの観念論もこの直接性を越え出なかった。モナドは表象を自分から展開するが、表象を生み出し結合する力ではなく、表象はモナドのうちで泡のように浮かび上がる。カントの現象は触発を前提する、知覚の与えられた内容である。フィヒテの無限な衝撃は、物自体をもたないとしても、自我にとって直接的な制限であり、自我の直接的な非有を含んでいる。
したがって仮象は、本質に対する独立の側面である直接的な前提を含んでいる。しかし有はすでにその総体において本質へ帰っており、仮象は即自的に空しい。示すべきなのは、仮象を本質から区別する諸規定が本質自身の諸規定であり、それが本質のうちで止揚されていることだけである。仮象をなすのは非有の直接性である。しかしこの非有は、本質がそれ自身においてもつ否定性にほかならず、この非有の直接性は本質自身の絶対的な即自有である。仮象の直接性は本質自身の直接性であるが、存在する直接性ではなく、反省された直接性、契機としての有である。本質のうちの仮象は他のものの仮象ではなく、本質自身の仮象である。
仮象とは、有の規定性における本質そのものである。この規定性は端的に止揚されている。本質は絶対的否定性と直接性との同一的な統一であり、その規定性そのものが、規定することとして直接に自己への帰還である絶対的否定性だからである。直接性と同一である否定性、否定性と同一である直接性、これが本質である。仮象は一つの規定性における本質であり、本質とは自己自身のうちでの自らの映現である。
有の領域では、直接的な有に直接的な非有が向かい合い、両者の真理は成であった。本質の領域では、本質に非本質的なものと仮象とが向かい合うが、この区別は、本質が最初に直接的なものとして受け取られたことにのみ存する。この規定性を止揚することは、非本質的なものがたんなる仮象であり、本質が仮象を自己自身のうちに含むことを明らかにすることである。本質の直接性を否定性として、否定性を直接性として規定するこの自己運動のうちにある本質が、反省である。
C. 反省 仮象は反省と同じものであるが、直接的なものとしての反省である。自らのうちへ入り込み、自らの直接性から疎遠になった仮象を言い表すのに、われわれは外国語の語 Reflexion をもっている。本質は反省であり、自己自身のうちにとどまる成と移行の運動である。有の成においては規定性の根底に有があったが、反省する運動においては、他のものは否定をともなった否定であり、直接的なものもこの運動そのものにほかならない。それゆえ本質の反省する運動は、無から無への、そしてそれによって自己自身へと帰る運動である。この反省は、まず定立する反省であり、次に外的反省であり、最後に規定する反省である。
1. 定立する反省 仮象は空しいもの、本質を欠いたものであるが、その有を他のもののうちにではなく、自分自身の自己同等性のうちにもつ。自己に関係するこの否定性は自己自身を否定することであり、それ自身であり、かつそれ自身でないことに、一つの統一のうちで存する。
反省は無から無への運動であり、自己自身と合致する否定である。この合致はまず自己との同等性、直接性である。しかし次に、この直接性は否定的なものの自己同等性であり、自己自身を否定する直接性である。一つのものからの帰還としてのみあるこの直接性が、定立されてあることである。さきほど反省がそこから始まるように見えた仮象の直接性は、帰還としてはじめてある。
反省は、他のものがないのだから、帰還することとしての直接性であるかぎり定立することである。しかしこの直接性は止揚された否定であり、反省は自らの定立を止揚するものとして前提することである。本質の帰還は、本質が自己を自己から突き放すことである。本質は自己を前提し、この前提を止揚することが本質そのものである。反省は一つの直接的なものを見いだすが、この見いだされたものは去られることにおいてのみ成る。
したがって反省する運動は、自己自身のうちでの絶対的な反動である。直接的なものを越え出てゆくことは、その直接的なものに到着することである。運動は前進しつつ直接に自己のうちで向きを転じ、そのようにしてのみ自己運動である。反省はそれ自身であり、かつ自らの非有である。
反省が前提する直接性は定立されてあることとしてのみあるが、同時に否定的なもの、すなわち他のものに対立するものとして規定されている。この規定性に従って前提をもち、自らの他のものとしての直接的なものから始まることによって、反省は外的反省である。
2. 外的反省 絶対的反省は自らに仮象、すなわち定立されてあることだけを前提する。しかし外的反省、あるいは実在的反省は、自らを止揚されたもの、自己の否定的なものとして前提し、前提された直接的なものとしての自己内反省と、否定的に自己に関係する反省とに二重化されている。外的反省は一つの有を前提して見いだし、それにおいて定立するものは、直接的なものにとって外的な規定である。有の領域における無限なものが、この外的反省であった。そこでは有限なものが根底にあり続けるものとみなされ、無限なものはそれに向かい合う自己内反省であった。この外的反省は推論であり、両端は直接的なものと自己内反省、中項は規定された直接的なものである。
しかし、外的反省のふるまいをより詳しく考察すれば、それは直接的なものを定立して否定的なものとし、同時に、直接的なものを前提することでこの定立を止揚する。直接的なものは、外的反省の始めることのうちではじめてあり、反省と同じであることが定立されている。反省の自己を否定する定立は、自らの否定的なもの、すなわち直接的なものとの合致であり、この合致が本質的な直接性である。したがって外的反省は直接性そのものの内在的な反省であり、こうして反省は規定する反省である。
注解 反省はふつう主観的な意味で受け取られる。カントは判断力批判の序論で、普遍的なものが与えられて特殊的なものを包摂する規定的判断力に、特殊的なものに対して普遍的なものを見いだす反省的判断力を対置した。しかし、ここで問題なのは反省一般である。カントの反省は、直接的なものに与えられたものとして関係する外的反省にすぎない。だがそこには絶対的反省の概念も含まれている。反省が進んでゆく普遍的なものは直接的なものの本質とみなされ、反省の規定することが、空しい直接的なものをはじめてその真の有に従って定立するとみなされるからである。
近代の哲学で一時期、反省一般が絶対的な考察の仕方の宿敵としてあらゆる悪口を浴びせられたときも、念頭にあったのは外的反省であった。外的反省は、内容と素材を外から受け取る形式的な営みである。さらに反省された規定は即自かつ対自有の形式をもち、互いに無関心な本質的なものとして現れて、自らの運動に頑強に抵抗する。
3. 規定する反省 規定する反省は、定立する反省と外的反省との統一である。外的反省は直接的な有から始まり、定立する反省は無から始まる。定立することは前提をもたず、それゆえ完成した規定する反省ではない。その規定はたんに定立されたもの、自己を否定する直接的なものであり、自己内反省のうちにのみあるが、この反省そのものではない。
有の領域では、定有は否定を自らにおいてもつ有であり、有がこの否定の直接的な地盤であった。本質の領域で定有に対応するのは定立されてあることであり、その地盤は純粋な否定性としての有である。定有はただ定立されてあることにすぎない。これが定有についての本質の命題である。定立されてあることは主観的なものとして定有より低いとみなされがちであるが、実際には定立されてあることの方が高い。定立されてあることとしては、定有は即自的にそうであるところのもの、すなわち否定的なものとしてあるからである。
定立されてあることはまだ反省規定ではない。しかし定立することはいまや外的反省と統一されており、外的反省はこの統一において、規定性を自分自身の規定性として定立する絶対的な前提することである。前提されたものとしての否定は自己のうちへ反省しており、こうして定立されてあることは反省規定である。
反省規定は質から区別される。質は他のものへの直接的な関係であり、有をその根拠とする。質を担う有は否定に等しくないから、質は移行するもの、他のもののうちで消えてゆく契機である。これに対して反省規定は、自己のうちへ反省されてあることを根拠とし、否定されてあることのうちでの自己同等性によって存立する、本質的な、移行しない規定性である。それゆえ反省規定は、真空のうちで引き合うことも突き放し合うこともなく漂う自由な本質性として現れる。
反省規定にはまず定立されてあること、すなわち否定としての否定という側面と、次に自己内反省という側面とがある。反省規定の定立されてあることはその止揚されてあることであり、自己のうちへ反省されてあることはその存立である。それゆえ反省規定性は、自らにおける自らの他在への関係である。質とは異なり、反省規定は他在を自らのうちへ取り戻しており、他のものへの関係を自らのうちへ曲げ戻す否定として、自己自身と自らの他のものとの統一であり、それによってのみ本質性である。反省規定は定立されてあることでありながら、同時にその止揚されてあること、すなわち自己への無限な関係である。
第二章 本質性、すなわち反省規定 反省は規定された反省であり、したがって本質は規定された本質、すなわち本質性である。反省とは本質が自己自身のうちで映現することである。本質は区別された諸契機を通り抜ける自己との絶対的な媒介であり、これらの契機のうちへ映現するから、契機自身が自己のうちへ反省した規定である。本質はまず自己への単純な関係、純粋な同一性であるが、この規定に従えば本質はむしろ無規定性である。次に本来の規定は区別であり、一方では外的な区別、すなわち差異一般、他方では対立である。最後に矛盾として、対立は自己のうちへ反省し、根拠へと帰ってゆく。
注解 反省規定はかつて、「あらゆるものは自己自身に等しい。A=A」のような命題の形式で、普遍的な思考法則とみなされてきた。だが、なぜ有の規定性は「あらゆるものは質をもつ」といった命題にされないのかは見通せない。有の規定性は対立したものへ移行するから、それを命題のうちにとらえるならば、同じ権利をもつ対立した命題も現れる。
これに対して反省規定は自己に関係する規定であり、それ自身において関係であるから、命題の形式をすでに含んでいる。ただし思考法則としては「あらゆるもの」という主語を必要とし、同一性などを或るものの質として言い表す。しかし最後に、反省規定は互いに対して規定されたものであり、その形式によって移行と矛盾から取り出されているわけではない。あらゆるものが自己と同一であるならば、それは異なっておらず、対立しておらず、根拠をもたない。これらの命題は互いに矛盾し、止揚しあうが、無思想な考察はそれらを次々に数え上げるだけである。
A. 同一性 本質は止揚された直接性としての単純な直接性であり、その絶対的否定性において自己自身に等しい。他在と他のものへの関係は純粋な自己同等性のうちへ消え去っており、本質は自己との単純な同一性である。それは自己自身のうちでの純粋な建設としての本質的な同一性であり、相対的な否定による抽象的な同一性ではない。有の単純な即自的否定性が同一性そのものであり、そのかぎりで同一性はなお本質と同じものである。
注解1 外的反省にとどまる思考は、この同一性を認識せず、抽象的な同一性の外に区別をもつ。この思考の考えでは、理性は縦糸である同一性と横糸である区別とを外的に織り合わせる織機である。しかし存在するあらゆるものの考察は、あらゆるものが自己との同等性のうちで自己に等しくなく矛盾しており、その差異と矛盾のうちで自己と同一であり、一方の規定が他方へ移行する運動であることを明らかにする。自己に関係する単純な否定性という同一性の概念は有そのものにおいて明らかになったものであり、区別の外にある同一性と同一性の外にある区別とこそ、外的反省と抽象の産物である。
この同一性はまず本質そのものであって、まだ本質の規定ではない。絶対的否定として、それは直接に自己自身を否定する否定であり、それによって何も区別されないような区別することである。したがってここに、自己自身の非有であるような非有、すなわち純粋な絶対的区別がある。同一性は自己と同一な区別としての同一性であり、区別が自己と同一であるのは、それが絶対的な非同一性であるかぎりでのことである。
したがって同一性は、それ自身において絶対的な非同一性である。しかし同一性は、自己内反省として自らを自分自身の非有として、自らの契機として定立するから、絶対的区別に対する自己との単純な同等性の規定でもある。
注解2 同一性を、第一の思考法則とされる同一律として考察しよう。A=Aは空虚な同語反復の表現にすぎず、この思考法則は内容を欠き、先へ進ませないと言われてきたのは正しい。同一性は差異とは異なっていると言う人々は、それによって同一性が異なったものであると自ら言っている。彼らは同一律が形式的で抽象的な、不完全な真理しか含まないことを認めるが、この判断のうちには、真理は同一性と差異との統一においてのみ完全であることが含まれている。
同一律の真理は、あらゆる意識が「木は木である」をただちに認めるという経験にもとづけられるとされる。しかし具体的な適用から同一律を取り出すならば、抽象は経験を変えてしまう。経験は差異と結びついた同一性を含むからである。
他方では、純粋な同一律についての経験も十分に行われている。「植物とは何か」と問われて「植物は植物である」と答えれば、その真理は認められると同時に、何も言われていないと一致して言われる。神は神であると言う者も、異なった規定を待つ期待を裏切る。「植物は」という始まりはさらなる規定を持ち出す準備であるが、同じものだけが戻ってきて、何も出てこない。したがって同一的な話は自己自身に矛盾する。同一性は絶対的な真理であるどころか、自己を越えて自己自身の解消へと出てゆくことである。
したがって命題の形式のうちには、抽象的な同一性以上のもの、すなわち他のものがたんに仮象として消失する反省の純粋な運動が含まれている。「Aは」という始まりの前には異なったものが浮かんでいるが、そこへはいたらず、差異は一つの消失にすぎない。
もう一つの表現「Aは同時にAであり、かつ非Aであることはできない」は否定の形式をもち、矛盾律と呼ばれる。この否定の形式は、同一性が反省の純粋な運動として単純な否定性であることのうちにある。非Aは消え去るためにのみ現れ、同一性はここで否定の否定として表現されている。ここから、同一律、それ以上に矛盾律は、たんに分析的な本性のものではなく、総合的な本性のものである。矛盾律は即自的な矛盾を含むからである。したがって、まず、これらの命題は、区別に対立する抽象的な同一性だけを真とするかぎり、思考法則ではなくその反対である。次に、これらの命題は、考えられている以上のもの、すなわち絶対的区別そのものを含んでいる。
B. 区別
1. 絶対的区別 区別とは反省が自らのうちにもつ否定性であり、同一的な語りによって言われる無であり、同一性そのものの本質的な契機である。この区別は即自かつ対自的な区別、本質の区別であり、自己に関係する単純な区別である。AとAでないものとが絶対的に区別されるとき、区別をなすのは単純な「でない」である。これは反省の区別であって、互いに外に離れ落ちる定有の他在ではない。
即自的な区別は、他のものからではなく自己自身からの自己の区別である。区別から区別されたものは同一性であるから、区別はそれ自身であり、かつ同一性である。区別は全体であり、かつ自らの契機であって、同一性もまた同じく全体であり、かつ自らの契機である。これが反省の本質的な本性であり、あらゆる活動と自己運動の規定された根源である。区別は、それ自身が自己内反省であるような同一性と区別という二つの契機をもつことによって、差異である。
2. 差異 同一性は、それ自身において差異へと分解する。自己のうちでの絶対的区別として自らを自己の否定的なものとして定立し、同一性自身とその否定的なものとがどちらも自己内反省だからである。区別されたものは、同一性を地盤として、互いに無関心に異なったものとして存立する。同一性と区別とはどちらもただ自己に関係するから、区別はそれらにとって外的である。
差異においては、反省が自己にとって外的となっている。そこには自己内反省と、否定としての規定性、すなわち定立されてあることという二重のものがある。即自的な反省は区別に対して無関心な同一性、すなわち差異であり、外的反省は両契機の規定された区別である。この外的な同一性が同等性であり、外的な区別が不等性である。或るものが他の或るものと等しいか否かは、どちらにもかかわりがない。同等性と不等性は、それらの外に属する第三のものの観点である。
外的反省は異なったものを比較し、同等性と不等性とを「かぎり」「側面」「観点」によって分離する。しかし、このように分離されることによって、両者は自らを止揚する。矛盾と解消を遠ざけるはずのこの引き離しこそが、それらの破壊である。両者は区別の規定であり、一方は他方がそうでないものであるという関係の外では何の意味ももたない。ところが互いに無関心であることによって、それぞれは自己自身に等しく、たんに同等性にすぎなくなる。
したがって外的な区別は自己自身を止揚する。比較するものは一方を他方のうちで消え去らせ、両者の否定的統一である。この否定的統一は、まず主観的な営みとしてあるが、実際には同等性と不等性そのものの本性である。同等性はそれ自身であり、かつ不等性であるという反省であり、不等性はそれ自身であり、かつ同等性であるという反省である。
異なったものは、同等性と不等性に対して即自的に存在する反省として規定されていた。しかし即自的に存在する反省とは、否定をともなわない自己との抽象的な同一性であり、まさに定立されてあることそのものである。したがってたんに異なったものは、区別ではない区別として自己の否定となり、否定的反省へ移行する。無関心な側面が、同じく端的に一つの否定的統一の契機にすぎないような差異、それが対立である。
注解 差異も、同一性と同じく独自の命題で表現される。「あらゆる物は異なっている、あるいは、互いに等しい二つの物は存在しない」という命題は、実際に同一律に対立している。Aは異なったものであり、したがってAでもないと言明するからである。差異はAの固有の規定であり、Aは自己からの差異を自らにおいてもつ。
あらゆる物が異なっているという命題は余計である。物の複数形のうちに多数性と無規定な差異とが含まれているからである。しかし、互いに完全に等しい二つの物は存在しないという命題は、規定された差異を表現している。ライプニッツがある宮廷でこの命題を持ち出し、貴婦人たちに木の葉のなかから二枚の等しい葉を探させたという逸話がある。宮廷で形而上学が論じられ、命題の吟味に木の葉を比べる以外の骨折りを要しなかった、形而上学にとって幸福な時代であった。差異の命題が表現するのは、物には同等性と同じだけ不等性の規定も帰属し、両者がともにはじめて規定された区別をなすということである。
この命題は証明を必要とするであろう。そこで明らかになったのは、外的な区別が実は自己のうちへ反省した区別だということであり、そこには差異の命題の解消も含まれている。二つの物は、物であり二つであるというだけですでに等しいが、想定によって等しくない。したがって同等性と不等性とは一つの同じもののうちで異なっており、差異は対立へと移行した。
二つの述語の「同時に」は「かぎりで」によって引き離され、二つの物は一つの観点では等しく、他の観点では等しくないとされる。しかしそうであれば、一つの同じ活動のうちで両側面を区別しているのは外的反省である。物に対する通常の思いやりは、物が矛盾しないことだけに気を配り、矛盾が解消されるのではなく、主観的な反省へ押しやられるにすぎないことを忘れている。
3. 対立 対立において、規定された反省、すなわち区別は完成される。対立は同一性と差異との統一であり、その契機は一つの同一性のうちで異なっており、対立したものである。同等性と不等性とは外化された反省であり、その自己同一性は自己のうちへ反省していない直接性である。
対立の契機は、自己のうちへ反省した同等性と不等性である。どちらも自らの他の契機を含むかぎりで全体であり、自らの非有に関係する自己内反省である。不等性への関係を自らのうちに含む、自己のうちへ反省した同等性が肯定的なものであり、同等性への関係を含む不等性が否定的なものである。両者はそれぞれ他方をそれ自身においてもっている。
肯定的なものと否定的なものとは、対立の自立的となった側面である。そこで、まず、両者は対立の絶対的な契機であり、互いに対して否定的である。どちらも、他のものがあるかぎりであり、これは定立されてあることである。またどちらも、他のものがないかぎりであり、これは自己内反省である。
次に、このたんなる定立されてあることは自己のうちへ反省しており、両者は自分自身の定立されてあることに対して無関心である。両側面はたんに異なったものにすぎず、肯定的と否定的という規定性は取り違えることができ、どちらの側面も肯定的とも否定的とも受け取ることができる。
しかし最後に、肯定的なものと否定的なものとは、たんに定立されたものでも無関心なものでもない。他のものへの関係はそれぞれのうちへ取り戻されており、どちらもそれ自身において肯定的であり否定的であり、即自かつ対自的な反省規定である。肯定的なものは対立していないもの、止揚された対立であるが、対立そのものの一側面としてそうである。その他のものである否定的なものは自立的な有であるから、肯定的なものはこの非有を自らから排除する。同様に否定的なものも、自己のうえに安らう対立の全体として肯定的なものを排除する。
したがって、肯定的なものと否定的なものとは、即自的にだけでなく、即自かつ対自的にそうである。即自的に肯定的あるいは否定的であるとは、対立したものであることが対立の両側面の固有の規定であり、他のものへの排除する関係がそれらの即自有をなしているということである。
注解 ここで算術に現れる肯定的なものと否定的なものの概念を取り上げなければならない。算術はこの概念をその規定された区別においてとらえないために、解きがたい紛糾を免れない。一方では、たんに異なった定有が根底にあり、どちらを肯定的とみなしても同じことである。他方では、肯定的なものはそれ自身において肯定的である。+aと−aとは、まずおよそ対立した大きさであり、aは両者の根底にある、対立に無関心な死んだ基礎である。
あの第一の側面に従えば、+y−y=0であり、−8+3においては3つの肯定的なものが8のうちでは否定的である。東へ一時間行き、同じだけ西へ戻れば、最初の道は止揚される。しかし東への道はそれ自体で肯定的なのではなく、外に属する第三の観点だけが一方を肯定的とする。負債も債務者との関係においてのみ否定的であり、債権者にとっては肯定的な財産である。
対立したものはその関係において止揚しあうが、そのうちには対立に無関心な同一的な関係もあり、縦座標yは軸のどちら側で取ろうと同じものであるかぎり、+y−y=yである。しかしさらに、対立したものは二つの無関心なものとして存立してもいる。−8+3においては11の単位があり、+y−y=2yであり、東へ西へとたどられた道は二重の骨折りの総和である。国家経済においても、資本は、資産と負債としての規定がゼロに帰着しても、まず肯定的な資本であり続け、次に貸し付けられ、さらにまた貸し付けられることによって多重化された手段となる。
しかし定量においても、即自的に肯定的なものと否定的なものとが現れる。符号をもたないaは、自己と同一な直接的なものとして肯定的なものと受け取られる。8−(−3)においては、最初のマイナスは8に対して対立したものを意味するが、第二のマイナスは、この関係の外で即自的に対立したものとみなされる。
このことは掛け算と割り算においてより詳しく現れる。因数どうしの、互いに単位と個数であるという関係は、たんに増やし減らす関係ではなく質的な関係であり、肯定的なものは本質的に対立していないものとして、否定的なものは対立したものとして受け取られなければならない。教科書の証明は、およそ対立した大きさの概念のもとにとどまるため、矛盾に巻き込まれる。+aを−a回取るべきなら、それを対立した仕方で取るから積は−a²であるとされる。だが同じ論議に従えば、−aを+a回取る場合も、−aは対立した規定において取られるべきであり、積は+a²でなければならないことになる。
実際、プラスはマイナスを変化させる力をもたない。因数は互いに質的な関係をもち、否定的なものはここで即自的に対立したものであるが、肯定的なものは無規定な、無関心なものだからである。否定としての規定は、ただ否定的なものによってのみ入ってくる。そのようにして、−a・−a=+a²でもある。否定的なaは、たんに対立した仕方でではなく、否定的に取られるべきだからである。否定の否定は肯定的なものである。
C. 矛盾 区別は二つの側面を契機として含む。差異においてそれらは無関心に離れ落ちるが、対立においては、一方は他方によってのみ規定された契機でありながら、同じくそれ自身において規定され、互いに排除しあう自立的な反省規定である。
肯定的なものと否定的なものとは、どちらも他の契機への関係を自らのうちにもつことで自立し、自らのうちに閉じた対立の全体となる。どちらも他のものによって自己と媒介され、それを含むが、同時に他のものの非有によって自己と媒介され、それを排除する。自立的な反省規定は、他方を含むことで自立的であるのと同じ観点において他方を排除し、自らの自立性のうちで自分自身の自立性を排除する。そのようにして、それは矛盾である。
区別はすでに即自的に矛盾であるが、肯定的なものと否定的なものとは定立された矛盾である。肯定的なものは、否定的なものを排除することで自己との同一性を定立するが、それによって自らを一つのものの否定的なもの、自らが排除する他のものとする。これは直接に否定的なものの矛盾でもある。肯定的なものはこの矛盾で即自的にあるにすぎず、否定的なものは定立された矛盾である。否定的なものは同一性に対して自己と同一であり、同一性を排除することで自分自身を排除する。
2. 矛盾は自らを解消する 自己自身を排除する反省において、肯定的なものと否定的なものとは、その自立性のうちで自己を止揚し、自らの反対へと移行する。対立したものがこのように休みなく消えてゆくことが、矛盾によって成立する最も手近な統一、ゼロである。
しかし矛盾は肯定的なものも含み、自己を排除する反省は同時に定立する反省である。両者の否定が止揚するのは自立性の定立されてあることであり、これこそが矛盾において真に没落するものである。排除する反省は、自らを定立されてあることとするのと同じだけ、自らの定立されてあることの止揚でもある。この止揚は自己自身との合致、自己との肯定的な統一である。自立性は、他のものの否定によってではなく自分自身の否定によって自己へと帰還する統一、すなわち本質の統一である。
3. この側面からすれば、対立はたんに没落した(zu Grunde)のではなく、自らの根拠(Grund)のうちへ帰っていったのである。排除する反省は、自立的であった肯定的なものと否定的なものとをたんなる規定へと引き下げ、自己との統一へと帰還する。それは単純な本質であるが、根拠としての本質である。根拠としての本質は成ってきたものであるが、逆に、始まりとされた対立こそが本質のたんに定立された自立性にすぎない。根拠としての本質は、自己を自己から排除し、自己を定立する。
したがって、解消された矛盾は根拠であり、肯定的なものと否定的なものとの統一としての本質である。根拠は対立において達した自立性の完成であり、対立とその矛盾は根拠のうちで止揚されていると同じだけ保持されている。自立的な対立はすでに根拠であった。付け加わったのは自己自身との統一という規定だけであり、それは、対立したもののどちらもが没落(zu Grunde gehen)しながら、そこでただ自己自身と合致することによって現れる。
注解1 肯定的なものと否定的なものとは同じものである、という表現は、比較を行う外的反省に属する。これらの規定はそれ自身において、その反省が何であるかとして考察されなければならない。どちらも本質的に、他のもののうちでの自己の映現であった。反省する思考に経験を積めば、肯定的に規定されたものが知らぬ間に否定的なものへ転じ、逆もまた起こることに気づく。肯定的なものは否定的なものとの関係のうちでのみ意味をもち、否定的なものを自らの概念のうちに含む。否定的なものも肯定的なものを自らの概念のうちに含むが、肯定的なものへの関係なしに固有の存立をもつならば、それ自身が、肯定的なものがそうであるはずのものとなる。
光はたんに肯定的、闇はたんに否定的とみなされる。しかし光は、その無限な拡がりと生気を与える作用の力において絶対的否定性の本性をもち、闇は自らを区別しない生産の母胎として肯定的なものである。光は闇によって灰色に曇らされ、色へと規定される。徳もむしろ最高の完成された闘いであり、絶対的否定性である。悪徳はたんに徳の欠如ではなく、それ自体において徳に対立する悪であり、肯定的な否定性である。無垢は両規定に無関心であるが、あらゆる本性は無垢から歩み出て他のものに関係し、それによって没落する(zu Grunde richten)。肯定的に言えば、自らの根拠(Grund)のうちへ帰ってゆく。真理も、知が客体の否定を止揚したかぎりでのみ自己同等的な肯定的なものである。反省規定の真理は相互の関係のうちにのみあり、どれもがその概念のうちに他のものを含む。この本性の洞察なしには、哲学において一歩も進むことができない。
注解2 対立の規定も、排中律という命題とされてきた。或るものはAであるかAでないかのどちらかであり、第三のものは存在しない。この命題は、あらゆるものが対立したものとして規定されていることを含み、同一性が差異へ、差異が対立へと移行することのうちにその必然性をもつ。しかし通常は、精神は甘いか甘くないか、緑か緑でないか、といった陳腐な意味に理解され、規定性から無規定性へ逆戻りする。しかし実際には、この命題そのもののうちに第三のものが存在する。+Aでも−Aでもなく、また+Aでも−Aでもあるような、A自身である。或るもの自身が、排除されるべきだった第三のものである。それはより深く受け取れば反省の統一であり、対立はそれを根拠として、そのうちへ帰ってゆく。
注解3 同一性、差異、対立が命題とされたのなら、それらの真理である矛盾こそ命題としてとらえられるべきである。あらゆる物はそれ自体において矛盾している。これまでの論理学と通常の表象は、矛盾を同一性ほど本質的でないと考える。しかし同一性は死んだ有の規定にすぎず、矛盾こそがあらゆる運動と生命性の根である。或るものは、自己自身のうちに矛盾をもつかぎりでのみ運動し、衝動と活動をもつ。
矛盾はあらゆる自己運動の原理であり、外的な感覚的運動が矛盾の直接的な定有である。或るものが運動するのは、一つの同じ今においてここにあり、かつここにないことによってのみである。古代の弁証論者たちが運動のうちに示す矛盾から帰結するのは、運動が存在しないということではなく、運動とは定有する矛盾そのものだということである。衝動、モナドの欲求や努力、エンテレケイアも同様である。或るものが生きているのは、矛盾を自らのうちに含み、それに耐える力であるかぎりにおいてのみである。それができないものは、根拠(Grund)ではなく、矛盾のうちで没落する(zu Grunde gehen)。思弁的思考とは、思考が矛盾のうちで自己自身を保持することに存する。
上と下、右と左、父と子のような関係規定においては、矛盾は直接に現れる。上は下でないものであり、下があるかぎりでのみある。父は子への関係の外ではもはや父ではなく、一人の男である。表象は至るところで矛盾を内容としながら、その意識にいたらず、本質的なものである移行を念頭に置かない。思考する理性は、異なったもののなまった区別を対立へと研ぎ澄ます。多様なものは矛盾の尖端にまで駆り立てられてはじめて生き生きとし、自己運動と生命性に内在する拍動である否定性を得る。
存在論的な神の存在証明における、あらゆる実在性の総体という規定も、実在性の区別をより詳しく受け取れば、自己自身のうちでの絶対的な矛盾となる。思弁的でない思考は、自然が真空(Vacuum)に対していだくような恐れ(Horror)を矛盾に対していだく。矛盾が無へと解消する一面にとどまり、矛盾が絶対的な活動、絶対的な根拠となる肯定的な側面を認識しないからである。
あらゆる規定、あらゆる具体的なもの、あらゆる概念は、区別された諸契機の統一であり、それらの契機は矛盾するものへ移行し、自らの否定的統一へ帰ってゆく。物、主観、概念とは、この否定的統一、解消された矛盾、自らの規定を担う根拠である。しかし有限な物は、それ自身において矛盾し、自己のうちで破れていて、自らの根拠のうちへ帰ってゆく。偶然的なものから絶対的に必然的な本質への真の推論は、倒れゆくだけの、それ自身において矛盾する有から推論することに存する。有限なものがあるから絶対者があるのではなく、有限なものがないから絶対者がある。有限なものの非有が絶対者の有である。
第三章 根拠 本質は自らを根拠として規定する。まず本質の単純な同一性は、その絶対的否定性と直接に統一されており、即自的に、あるいはわれわれにとって、有がそのうちで解消する根拠として規定されている。しかしこの規定性は本質自身によって定立されてはいない。本質の反省は、自らを否定的なものとして定立し、規定することに存する。自立的な反省規定は自らを止揚し、没落(zu Grunde gehen)した規定こそが本質の真の規定である。
したがって根拠(Grund)は反省規定の最後のものであり、止揚された規定であるという規定にすぎない。本質は自らを根拠として規定することで、自らを規定されていないものとして規定し、自らの否定性のうちで自己と同一な本質として、自らを本質として定立する。反省は純粋な媒介であり、根拠は本質の自己との実在的な媒介である。根拠は反省を止揚された反省として含み、この契機に従って、定立されたものは直接性、すなわち本質によって再建された有という規定を得る。
根拠は、まず絶対的根拠として自らを形式と質料として規定し、自らに内容を与える。次に規定された根拠となり、自己にとって外的となって、条件づける媒介へと移行する。最後に、根拠と条件とは互いを前提し、両者の統一である無条件的なもの、事柄それ自体が実存へと移行する。
注解 根拠も、あらゆるものは自らの十分な根拠をもつ、という命題で表現されてきた。これは、有そのものはその直接性において真ならざるものであり、根拠こそが真の直接的なものだということである。ライプニッツは、十分な根拠を、機械的な作用の仕方としての因果性に対置し、目的因を含む根拠と理解した。部分の規定どうしの関係、すなわち本質的統一としての全体は、概念のうちに、目的のうちにのみあるからである。しかし目的論的根拠は概念に固有のものであり、まだここには属さない。
A. 絶対的根拠
a. 形式と本質 根拠へと帰ってゆく反省規定は、定立されてあることという意味しかもたない直接的な定有であり、根拠を前提する。根拠は、止揚された規定されてあることとして、自分自身によって規定された本質であり、自らの否定性のうちで自己と同一な本質である。
それによって本質の規定性は、根拠と根拠づけられたものとの二重のものとなる。両者の単純な同一性は、それ自身は根拠ではなく、自らの媒介から区別された本質一般である。この媒介は純粋な反省と規定する反省との統一であり、その規定は存立をもちながら定立されたものである。それゆえ規定は単純な同一性から区別され、本質に対して形式をなす。
根拠としてはじめて、本質は固定した直接性をもつ基体となる。本質そのものは自らの反省と一つであり、その運動そのものであるから、本質が自己へ帰ってゆくとは本来言うことができない。この事情が反省の叙述を困難にしている。関係づけられた基体としての本質は規定された本質であり、本質的に形式をもつ。同一性、区別、対立、根拠関係など、あらゆる規定されたものは形式に属し、本質は無規定なものとしてそれらの根底にある。しかしこの基礎もまた根拠において定立されており、ふたたび形式の契機となる。これが形式と本質との絶対的な相互関係である。
したがって形式は反省の完成された全体であり、定立し規定するものである。単純な本質は無規定で活動しない基礎である。外的反省はこの区別のもとにとどまるが、区別することそのものが両者の統一である。形式は本質の自己自身のうちでの映現であるから、形式がどのようにして本質に付け加わるのかと問うことはできない。形式は自らの定立されてあることのうちで止揚されてあり、そこにおいて存立をもつ矛盾として、根拠である。規定する形式は自らを止揚されたものとして定立し、自らの同一性を他のものとして前提する。この契機に従えば、本質は形式を欠いた同一性として規定された本質であり、それが質料である。
b. 形式と質料 質料とは、形式を欠いた無規定なものとして規定された本質であり、形式の他のものである。質料は形式規定の自己内反省として、形式の本来の基礎、基体である。或るもののあらゆる形式を捨象すれば無規定な質料が残る。質料は端的に抽象的なものであり、見たり触れたりできるのは規定された質料である。しかしこの抽象は、形式を外的に取り除くことではなく、形式が自分自身によって単純な同一性へと帰着することである。
形式と質料とは互いを前提するが、外的に見いだされるのではなく、どちらも永遠なのではない。両者は互いの根拠ではなく、無関心性という共通の規定のもとで、質料は能動的な形式に対して受動的なものである。形式は自己に関係する否定的なものとして、自己から自己を突き放し規定する矛盾である。質料は止揚された否定性を含むから即自的に形式に関係し、形式を自らのうちに閉じ込めて含む絶対的な受容性である。それゆえ質料は形式を与えられなければならず、形式は自らを質料化しなければならない。
2. 形式による質料の規定は、両者の無関心性と区別されてあることとの仮象を止揚すること、両者の根源的な同一性の再建である。まず、両者が互いを前提するのは、一つの本質的統一が自己への否定的な関係として、無関心な基礎と規定する形式とに分裂するからである。この統一が、自らを規定する絶対的根拠である。
次に、形式は二重に自らを止揚する。一方では自らの自立性を止揚し、他のものすなわち質料においてあるものとなる。他方では質料への関係としての定立されてあることを止揚し、自らに存立を与える。この存立は、形式が外化して質料とした自分自身の同一性であるから、形式は質料と合致するのと同じだけ自己と合致する。この活動は同じく質料自身の運動でもある。質料の即自的な規定、すなわち当為は、その絶対的否定性であり、質料が関係する外的な形式は、質料が自らのうちに閉じ込めて含む形式である。それゆえ質料は、外的な形式によって規定されることで自らの規定に到達する。
最後に、両者の根源的な統一は再建され、定立された統一となる。形式の営みと質料の運動とは同じ否定性である。質料を前提する形式も、形式を前提する質料も有限であり、真理をもたない。両者の統一だけがその真理であり、統一は自らを両者の根拠とする。形式を与えられた質料、存立をもつ形式は、根拠の定立された統一であり、形式と質料との規定された基礎として両者に無関心である。それが内容である。
c. 形式と内容 形式は、本質に向かい合っては根拠関係、質料に向かい合っては規定する反省、内容に向かい合ってはその規定がふたたび形式そのものと質料である。かつて自己と同一なものであった根拠、存立、質料は、形式の支配のもとに入る。
内容はまず形式と質料との統一であるが、規定された統一として形式に無関心である。次に内容の同一性は、形式に無関心な同一性であると同時に根拠の同一性である。それゆえ内容は根拠関係を本質的な形式としてもち、根拠は一つの内容をもつ。こうして根拠は規定された根拠となり、その規定性は、内容に外的な形式の規定性と、根拠がもつ内容の規定性との二重のものとなる。
B. 規定された根拠
a. 形式的根拠 根拠は規定された内容をもつ。この内容は、形式の媒介に対する単純な直接的なものとしての基礎であり、根拠関係の無関心で肯定的な統一、その媒介するものである。
しかし媒介は否定的な統一でもある。定立されたものは自己を止揚して根拠へ帰り、根拠は自らを定立されたものとする。この形式的な媒介において、両側面は一方が他方へ移行し、一つの同一性、すなわち規定された内容を前提する。したがって、同じ一つの内容が根拠としても根拠づけられたものとしても考察され、内容そのものはこの形式に無関心である。どちらを最初のものとするかはどうでもよい。根拠のうちにあるものはすべて根拠づけられたもののうちにあり、逆も同様である。この同一性のゆえに根拠は十分である。根拠を問うとき、人は同じ規定を、定立されたものの形式と本質性の形式とにおいて二重に見ようとしている。根拠はまだ実在的に規定されておらず、形式的根拠として現にあるにすぎない。
注解 この形式に固執するならば、根拠を挙げることは空虚な同語反復にとどまる。物理学的な諸学はこの種の同語反復に満ちている。惑星が太陽のまわりを運動する根拠として引きつける力が挙げられるが、引力とは何かと問えば、地球を太陽のまわりで運動させる力だと答えられる。なぜこの人は町へ旅をするのかと問われて、町に彼を駆り立てる引きつける力があるからだと答えれば、日常生活ではばかげたものとみなされる。ライプニッツはニュートンの引力を隠れた性質だと非難したが、むしろあまりにもよく知られた性質だと非難すべきであった。引力は現象そのもの以外の内容をもたないからである。植物が植物を生み出す力にその根拠をもつと言っても、植物は植物であると言うのと同じく何も説明しない。
形式上も、この説明の仕方では、根拠関係の二つの方向が認識されないまま現れる。根拠は定有から推論され、現象に合わせて仕立てられているから、現象は滑らかに根拠から流れ出るが、認識は一歩も進まない。こうした諸学では、実際には導き出されたものが根拠として先に置かれ、学ぶ者は根拠のないものを基礎として認めなければならない。さらに、分子、空虚な間隙、遠心力、エーテル、電気的・磁気的な物質といった仮説的な反省の規定が、知覚のうちに現にある物のように語られる。人は、定有の規定と反省の規定、根拠と根拠づけられたもの、現象と幻影とが区別されずに駆けめぐる魔女の輪のなかにいる。力や物質の内的な本質は知られない、と言われるのも、この根拠づけが自己にとって不十分であるという告白にほかならない。
b. 実在的根拠 根拠関係は、無関心な内容の上を外的な形式として流れ去るように見える。しかし実際には、根拠の側面も根拠づけられたものの側面も、形式の規定された区別をなしながら、その規定性のうちで全体の同一性である。したがって、どちらも他方に対して異なった内容をもつ。
こうして根拠関係は形式的であることをやめ、もはや同語反復ではない。根拠は実在化されている。根拠を問うとき、人は本来、問われている内容規定とは別の内容規定を求めている。
根拠づけられたものは、根拠の内容のほかに固有の内容をもち、二重の内容の統一である。しかしこの統一は、互いに無関心な内容規定の空虚な関係、外的な結びつきとしての或るものにすぎない。一つには、根拠である内容規定は根拠と根拠づけられたものとの同一的な基礎であるが、根拠づけられたもののうちに付け加わる非本質的な多様性の根拠ではない。もう一つには、両者を結ぶ或るものの一も、たんなる外的な紐帯である。こうして根拠は二つの異なった基礎へと崩れ落ち、根拠関係は自己にとって外的となる。どれが根拠であるかを規定するのは外的な根拠であり、実在的根拠は他のものへの関係である。
注解 形式的な根拠関係の一つの内容には必然性と同語反復とがあり、実在的根拠の異なった内容には偶然性と外面性とが入り込む。家の根拠(Grund)である下部構造は、物質に内在する重さによって根拠であるが、重さは家の目的や設備に対して外的である。重さは家が立っていることの根拠であるのと同じだけ、石が落ちることの根拠でも、投射体の投げ上げの運動の根拠でもある。自然が世界の根拠とされるときも同じ関係であり、神が自然の根拠とされるときは、自然は本質と多様性とが結びつけられる第三のものであり、根拠としての神から認識されるのではない。
刑罰は報復、見せしめ、威嚇、改善であり、どれもが刑罰の根拠とみなされてきたが、どれも刑罰そのものの全体ではない。官吏の手腕、親族関係、知り合い、性格のどれもが、その職にあることの根拠でありうる。根拠と根拠づけられたものの形式を与えるのは第三のものである。それゆえ、あらゆるものについて、その反対についても根拠を挙げることができ、根拠による論議は果てしないうろつきとなる。ソクラテスとプラトンが詭弁と呼ぶものはこの論議にほかならず、プラトンはそれに、事柄をその概念において考察するイデアの考察を対置する。一つの根拠は一面的であり、どれも十分な根拠、すなわち概念ではない。
c. 完全な根拠 1. 実在的な根拠関係は、異なった内容の外的な、たんに定立された結びつきであり、むしろ止揚された根拠として、自らの根拠へと帰っていった。それは別の根拠をもつ根拠づけられたものである。この別の根拠は、まず実在的根拠と同じ内容をもち、次に、外的な結びつきがそのうちで止揚された、二つの内容規定の絶対的な関係である。こうして実在的根拠において形式的根拠が再建され、完全な根拠関係が生じる。
2. 二つの或るものは同じ全体的な内容をもち、一方では直接的な関係、他方では定立された関係として、形式上根拠と根拠づけられたものとして区別される。推論はこうである。或るもののうちで規定Bが規定Aと即自的に結びつけられているのだから、Aだけが直接に帰属する第二の或るもののうちでも、Bはそれと結びつけられている。第一の或るもののうちでのこの根源的な関係が、根拠Aの根拠である。
3. 完全な媒介は根拠の自己同一性を再建するが、実在的根拠の外面性を保持しているから、根拠関係は自らの否定によって自己と媒介される。全体としての根拠関係は前提する反省である。形式的根拠は直接的な内容規定を前提し、この内容規定は実在的根拠として形式を前提する。形式は自己から自己を突き放して直接性を前提し、そこで自己に他のものとして関係する。そのようにして、全体の根拠関係は自らを条件づける媒介として規定した。
C. 条件
a. 相対的に無条件的なもの 1. 根拠は定立する反省として自らを定立されてあることとし、前提する反省として自己に直接的なものとして関係する。この媒介は外的反省ではなく、根拠自身の営みである。根拠が自らの本質的な前提として関係する直接的なものが条件である。それゆえ、実在的根拠は本質的に条件づけられている。
条件は、まず直接的な多様な定有である。次に、他のものに関係づけられた定立されたものであるが、定有そのものは条件であることに無関心である。最後に、根拠の前提として根拠の内容をなすが、形式に無関心であるから、根拠のための材料である。条件は根拠の即自有をなし、根拠にとっての無条件的なものである。
2. 或るものはその条件によってあるのではなく、条件はその根拠ではない。それゆえ条件には根拠関係が向かい合う。根拠関係は自立的な媒介として同じく無条件的なものであり、条件の材料に対して固有の内容をもつ。
3. したがって条件と根拠とは、互いに無関心で無条件的であると同時に、媒介されている。条件は根拠の即自有であるが、この即自有はたんに定立されたものにすぎず、根拠関係もその即自有を自らの外にもつ。どちらも、無関心な直接性と本質的な媒介との矛盾である。
b. 絶対的に無条件的なもの 二つの相対的に無条件的なものは、まずそれぞれが他方のうちへと映現する。しかしどちらも、この映現の外で自立的であり、固有の内容をもっている。
条件は直接的な定有であり、その形式は二つの契機をもつ。定立されてあることに従えば、定有は根拠の材料であり契機である。即自有に従えば、定有は根拠の本質性、その単純な自己内反省をなす。形式の両側面は、止揚された根拠関係である直接的な定有にとって外的である。しかし有はおよそ本質への成にすぎず、定有はそれ自身において自らを止揚し没落する。それゆえこの形式は定有にとって外的ではなく、定有こそがこの反省そのものである。したがって条件は根拠関係の全体の形式であり、没落する(zu Grunde gehen)と同じだけ根拠(Grund)でもあるような仕方で、自己から自己を突き放す。
同様に、根拠も前提する反省として自らの即自有を自らに対置し、同じく全体そのものである。したがってただ一つの形式の全体と、ただ一つの内容の全体とがあるだけである。定有は形式を欠いた材料ではなく、形式を与えられた質料であり、根拠と同じ内容である。
したがって条件と根拠とは一つの本質的統一である。両者の相互の前提は、一つの同一性を自らの存立として前提することへと移ってゆく。この同一性が、真に無条件的なもの、すなわち事柄それ自体である。条件について新たな条件を問う無限への進行が始まるのは、条件が有限な定有だからであるが、この規定は条件の概念のうちにはない。条件が条件づけられたものであるのは、それが定立された即自有だからであり、それゆえ条件は絶対的に無条件的なもののうちで止揚されている。
絶対的に無条件的なものは、条件と根拠とを自らの契機として含む統一である。事柄は根拠として、自らを、統一を欠いた外的な多様性と、内的な単純な形式とへ突き放した否定的同一性である。両側面は同一的なものであるから、条件と根拠との関係は仮象へと引き下げられている。条件と根拠とに対する事柄の関係は自己のうちでの映現であり、事柄の自己自身との合致である。
c. 事柄が実存へと出現すること 絶対的に無条件的なものとは、自らの条件と同一な絶対的根拠であり、直接的な事柄である。事柄は根拠として自らを定立されてあることとするが、それはまず条件の側面、有の外面性のうちへと投げ出された事柄、再建された有の円環である。絶対的な事柄にとっては、有の領域そのものが条件である。有における形式統一はまず成としてあるが、有の成は本質への成、根拠への帰還である。したがって定有は他のものによって材料として用いられるのではなく、自分自身によって自らを他のものの契機とする。定有の真理は条件であることであり、成も直接性も、無条件的なものの仮象にすぎない。
もう一方の側面は、絶対的な事柄の形式としての根拠関係である。条件は事柄自身によって前提されたものであるから、事柄はそれによって自分自身の定立を止揚し、その定立は直接に成となる。ここで否定による自己への帰還としての媒介は消え去り、この規定することは、自己のうちで映現する単純な反省、根拠を欠いた絶対的な成である。事柄が条件と根拠とによって定立される運動は媒介の仮象の消失にすぎず、事柄が定立されることは、実存のうちへと歩み出ることである。
或る事柄のすべての条件が現にあるとき、事柄は実存のうちへ歩み出る。事柄の全体性が根拠を欠いた直接的なものとして定立されているとき、この散らばった多様性はそれ自身において自らを内へと想起する。条件の想起は直接的な定有の没落(zu Grunde gehen)であり、根拠(Grund)の成であるが、この根拠は定立された根拠として、根拠としては止揚されている。こうして条件も根拠も自らを止揚し、実存のうちへ歩み出ることは、媒介の消失によってのみ媒介されているほどに直接的である。
事柄は根拠から出現する。根拠がなお下にとどまるのではなく、定立とは根拠が自己自身へと出てくる運動、根拠の単純な消失である。そのようにして事柄は、無条件的なものであると同じく、根拠を欠いたものでもある。事柄が根拠から歩み出るのは、根拠が没落し(zu Grunde)、もはや根拠ではないかぎりにおいてのみである。根拠と条件によって媒介され、媒介の止揚によって自己と同一であるこの直接性が、実存である。
第二部門 現象 本質は現象しなければならない。有は絶対的否定性によって自己を止揚する有として本質であり、逆に本質は単純な自己同等性として有である。しかしこの有は本質的な有、すなわち実存であり、形式規定の仮象はここに自立的な存立の境位をもって現象へと完成される。本質性はまず実存であり物である。次に物は現象であり、現象の世界には即自的に存在する世界が向かい合う。最後に実存は本質的関係であり、関係は他在のうちへの反省と自己内反省との、まだ不完全な合一である。両者の完全な相互浸透が現実性である。
第一章 実存 根拠の命題が「あるものはすべて根拠をもつ」と表現されたように、実存の命題は「あるものはすべて実存する」となるであろう。しかし実存するものが根拠をもち条件づけられていると言われたのであれば、同じく、それは根拠をもたず無条件的であるとも言われなければならない。実存は媒介を止揚することから出てきた直接性であり、出てくることそのものを止揚するからである。
神の実存の証明に触れるならば、直接的な有と、本質から出てくる有すなわち実存とのほかに、概念から出てくる有すなわち客観性がある。存在論的証明は実存を実在性のもとに包摂する推論であり、ここではまだ考察しない。神の定有の証明が挙げる根拠は、認識にとっての根拠にすぎない。世界の偶然性から取られた根拠は、偶然的なものが自己を止揚するものであるがゆえに、世界が絶対的本質へと帰ってゆくことを含む。この媒介は真の媒介である。しかし証明する反省は、自らを主観的なものとみなし、媒介する運動が本質そのもののうちにあることを認識しない。しかしあの叙述においては、実存は、たんに媒介されたものとしてのみ現れるという歪んだ関係を得る。
他方で、実存をたんに直接的なものとして考察することもできない。直接性において受け取られて、神の実存は証明不可能とされ、それについての知は直接的な意識、信仰とされてきた。知は自らの媒介する運動を放棄し、何も知らないという結果に至るべきだとされる。しかし反省は自己の止揚で終わるからといって、無を結果とするのではない。媒介のこの没落(zu Grunde gehen)が、同時に直接的なものがそこから出てくる根拠(Grund)である。神の本質は有限な理性にとって深淵(Abgrund)であると言われる。有限な理性がそこで自らの有限性を放棄し、媒介する運動を沈めるかぎりで、実際そうである。しかしこの否定的な根拠は、同時に直接的な本質の出現の肯定的な根拠でもある。消え去った媒介だけが同時に根拠であり、この否定によってのみ直接的なものである。
したがって実存は本質の述語として受け取られるべきではない。本質は実存のうちへと移行したのであり、実存は本質の絶対的な外化であって、その彼方に本質が残っているのではない。命題は「本質は実存である」となる。実存は根拠の自己内反省、自らを自己と同一なものとして定立する媒介であり、否定的統一として、直接に自らを実存するもの、物として規定する。
A. 物とその諸性質 実存する或るものは、媒介の自己内反省によって生じた直接性として、存在する或るものから区別され、物である。実存は、物自体と外的な実存との区別を自らの媒介の契機のうちに含んでいる。
a. 物自体と実存 物自体とは、止揚された媒介によって現にある本質的な直接的なものとしての実存するものである。物の媒介の側面は、自己のうちで多様で外的な、非本質的なものとしての定有である。物自体は物の本質的な実存であり、媒介された有は非本質的な実存である。物自体は非本質的な定有の基礎にすぎない無規定な統一であり、反省は物自体の外に属する。物自体は外的反省にもたらされてはじめて多様性を得るが、それに対して無関心である。物自体は目にもたらされてはじめて色をもち、鼻にもたらされてはじめて匂いをもつ。物自体の差異は、他のものが取る観点であって、物自体の固有の規定ではない。
この他のものが外的反省である。外的反省はまず自己自身にとって外的な多様性であり、次に実存するものに、自らの絶対的な前提に対するように関係する。この二つの契機は一つの同じものである。多様性は物自体において屈折する反射としてはじめてある。外的反省は物自体への関係としてのみあり、同時に物自体から突き放すこととしてのみあるから、自己自身のうちでのよりどころのない対立である。物自体は実存の本質的な同一性であるから、この本質を欠いた反省は物自体には帰属せず、自己のうちで崩れ落ち、それ自身物自体となる。物自体は外的な実存と同一である。
物自体は、反省の否定性を自らのうちに含むかぎりで自己と同一である。そのため物自体は自己から自己を突き放し、自己に他のものとしてふるまう。こうして多くの物自体が現にあり、互いに外的反省の関係のうちにある。物自体は推論の両端であり、その外的な実存が中項である。しかしどちらも差異を他方においてしかもたないのだから、二つの物自体は区別されたものではなく、実際には一つに崩れ落ちる。外的反省のうちで自己にふるまう一つの物自体があるだけであり、他のものとしての自己へのその関係が、その規定性をなしている。物自体のこの規定性が、物の性質である。
b. 性質 質は或るものの直接的な規定性であるが、物の性質は反省の否定性であり、他のものとしての自己への関係である。物自体の規定性は性状であるが、他のものへのふるまいとしては他在へと移行せず、変化から取り出されている。
物は性質をもつ。性質はまず物の他のものへの規定された関係であり、物の定立されてあることの側面である。しかし次に、物はこの定立されてあることのうちで即自的にあり、他のものへの関係のうちで自らを保持する。物は他のもののうちにこれやあれを引き起こす性質をもち、性質は物の自己同一的な基礎である。物は性質によって原因となるが、ここではまだ多くの性質をもつ静止した物にすぎない。
したがって物自体は外的な実存の彼方の無規定な基礎ではなく、その性質のうちに条件づけられた根拠として現にある。性質そのものが、自らの外面性のうちへ移行し、真に自己のうちへ反省した根拠である。物自体は本質的に実存し、実存は外的な直接性として同時に即自有である。
注解 物自体は、あらゆる規定性からの空虚な抽象であり、それについては何も知ることができない。超越論的観念論にとって、あらゆる規定が属する外的反省は意識である。この立場によれば、私が木の葉を黒くではなく緑に、太陽を四角くではなく丸く見ること、砂糖を苦くではなく甘く味わうこと、時計の一打と次の一打とを継起するものとして規定することは、主観に属する。この叙述には自由の意識が直接に矛盾する。自由の意識において、私は自らを普遍的なもの、無規定なものとして知り、あの多様で必然的な規定を物に帰属するものとして自分から切り離す。あの哲学の不十分さは、抽象的な物自体を最後の規定として固持し、性質の規定性と多様性とを物自体に対置する点にある。実際には物自体は外的反省を自らにもち、性質を備えたものとして自らを規定する。
c. 諸物の相互作用 物自体は本質的に実存し、性質をもつ物である。多くの物は自分自身によって互いに区別され、その性質によって本質的な相互作用のうちにある。性質はこの相互関係そのものであり、物はその外では何ものでもない。性質なしに物について語るならば、その区別は量的な区別にすぎない。一冊の本は一つの物であり、そのどの頁もそうであり、頁のどの小片もそうであり、こうして無限に続く。真の即自有は定立されてあることのうちでの即自有、すなわち性質であり、物性は性質へと移行した。
それゆえ自立的な両端の関係をなすべきだった性質が自立的なものそのものであり、物は非本質的な外延にすぎない。物から性質を取り去る外的な抽象とは価値が逆転し、物が自分自身によって性質の無関心な外的形式へと自らを規定する。性質は物の存立をなす自立的な質料であり、多様にあり、物はそれらから成り立つ。
B. 物が諸質料から成り立つこと 性質が質料あるいは自立的な素材へと移行することは、化学が行うよく知られた移行である。化学は色、匂い、味などの性質を、光素、色素、臭素、酸味や苦味の素材として示そうとし、熱素や電気的・磁気的な物質をそのまま想定するだけで、それによって性質をその真理において扱っていると確信している。顔料が物であることは認められても、光素や熱素が物と呼ばれるかどうか、私は知らない。しかしそれらは少なくとも実存するものではある。
性質が真には質料であることは、性質が物の真に自立的なものであることから明らかになった。物性は非本質的な契機へと引き下げられたが、同時にさらに規定された。まず、この否定的な契機は、素材の肯定的な自立性に対する否定的な自立性として保持されている。次に、物は無規定性から完全な規定性へと至り、この物となった。最後に、この自己への帰還は非本質的である。自己と連続した存立が自立的な質料をなし、物の規定性は外的なものとなっているからである。
物は、物のうちでの関係に対して無関心な自立的な質料から成り立つ。物の区別は、特殊な質料がその物のうちにどれだけの量あるかにもとづく。質料は互いに不可入であり、量的な限界しかもちえない。この物は質料の寄せ集め、「もまた」である。物はある素材の定量から成り、もまた別の素材の定量から、もまたさらに別の素材の定量から成る。連関をもたないというこの連関だけが物をなしている。
C. 物の解消 この物は、自由な素材の量的な連関として端的に可変的である。素材はこの物から絶え間なく出てゆき入ってくる。物そのものは、固有の度量も形式ももたない絶対的な多孔性である。
物全体が自己自身の解消である。質料は単純で自己にのみ関係するが、その内容は一つの規定性であり、それに従って他のものに関係する。それゆえ物は質料の無関心な関係であるだけでなく、その否定的な関係でもあり、それが物の点性である。一方の質料は、他方があるかぎりでは、ない。
したがって物のうちでは両方の質料がともに存立するが、他方が存立するかぎりで一方は存立しない。それらの存立は否定的統一であるから、質料は端的に浸透しあう。しかし質料は互いに無関心であるから、浸透のうちで触れあわない。それゆえ質料は本質的に多孔的であり、一方の質料は他方の質料の孔、すなわちその存立しないことのうちに存立し、他方の孔のうちにも他のすべての質料が存立する。物は自己に矛盾する媒介である。実存はこの物において、自立的な存立であると同時に非本質的な実存であることで、完全性に達した。それゆえ実存の真理は、自らの空しさを自らの基礎としてもつことであり、実存は現象である。
注解 物が多くの自立的な質料から成り立つというのは、表象の最もありふれた規定の一つである。物はこのものであることと「もまた」であることという二つの規定をもつ。「もまた」は外的な直観において空間的な延長として現れ、「この」は物の点性である。物はある場所に色を、別の場所に臭素を、第三の場所に熱素をもつのではなく、物が温かいその点において、色をもち、酸っぱく、電気を帯びてもいる。それゆえ質料は多孔的であり、それぞれの間隙のうちに他のすべてがあると想定される。
この矛盾を遠ざけるための表象の言い逃れは、部分と孔との小ささである。表象は概念的に把握すべきところで量的な区別へと逃げ場を求め、矛盾を混乱へと引き下げる。しかしこの曇りを照らし出せば、それは表象の主観的な矛盾であり、対象の客観的な矛盾である。さらに考察すれば、この物のうちに自立的な質料と、その否定である多孔性と、別の自立的な質料とが一つの同じ点にあり、浸透することの浸透であることが認識されるであろう。水蒸気の大気中への拡散や気体どうしの相互の拡散についての物理学の新しい叙述は、物の概念の一つの側面を際立たせている。気体はそれぞれが他方にとって真空であるかのように互いのうちへ拡散し、無関心に自らを保持する。しかし一方の質料が他方の質料のあるところにあり、自立的なものが直接に他のものの自立性であることは矛盾している。物はこの矛盾そのものであり、それゆえ物は現象である。
同様の事情が、魂の諸力あるいは魂の諸能力という表象にもある。精神ははるかに深い意味で「この」であり、自らの規定が浸透しあう否定的統一であるが、魂として表象されると一つの物として受け取られる。魂は諸力から成り立つとされ、悟性や構想力がそれだけで作用すると表象される。しかし精神は、自らを解消して現象へと移行する物のような矛盾ではなく、すでに自らの絶対的統一すなわち概念へと帰っていった矛盾であり、そこでの区別は主観のうちの特殊な契機としてのみ考えられるべきである。
第二章 現象 実存とは、本質がそこへと自らを再建した有の直接性であり、即自的には本質の自己内反省である。現象とは、まずその実存における本質であり、反省された実存であることが現象における本質の契機をなす。或るものはたんに現象にすぎないと言われる。しかし現象であることは実存自身の真理である。直接的な実存の方が真理であるかのような意味で言われるのであれば、むしろ現象こそがより高い真理であり、実存は現象へと移行することにおいて本質を欠いたものであることをやめる。
本質はまず自分自身のうちで映現し、無から無を通って自己へと帰る抽象的な反省であった。本質が現象するとき、仮象の契機が実存をもち、本質は実在的な仮象である。現象は仮象と実存との統一である。現象はまず、交替のうちで等しくとどまる現象の法則である。次に、現象する世界には即自的に存在する世界が対立する。最後に、この対立は根拠へと帰り、現象は関係となる。
A. 現象の法則 現象とは、自らの否定によって媒介された実存するものであり、この否定がその存立をなす。否定は別の自立的なものであるが、同じく止揚されたものであるから、実存するものは否定の否定によって自己へと帰還し、本質的な自立性をもつ。しかし根拠である別の自立的なものもまた定立されてあることにすぎない。それゆえ実存するものの自立性は、無が無を通って自己へと帰ることとして本質的な仮象にすぎず、互いを根拠づけあう実存するものの連関は、この相互の否定に存する。
これが現象の否定的な側面である。しかしこの否定的な媒介のうちには、実存するものの自己との肯定的な同一性が含まれている。実存するものは定立されてあることに関係する定立されてあること、仮象のうちでの仮象であり、自らの否定のうちで自己に関係する。この同一的なものは現象の本質的な内容である。それはまず外的な直接性の形式において偶然的な定有として移行、生成、消滅に服し、次に、あの交替から取り出された単純な内容規定、すなわちとどまるものである。この内容は多様性を単純な区別、すなわち一方とその他方とに還元したものである。両者のどちらもが他方のうちに存立をもつが、それは他方の非存立のうちにのみある。この矛盾は自らを止揚し、一方の定立されてあることが他方の定立されてあることでもあるという、両者の存立の同一性となる。この統一が現象の法則である。
したがって法則は、現象するものの媒介の肯定的なものである。このとどまる存立は、まず実存がもつ有の直接性に対立している。両者は物においてはじめて分離し始め、実存する物はその解消においてこの対立となった。次に、この反省された直接性は定立されてあること(Gesetztseyn)として規定されている。ドイツ語の法則(Gesetz)という語も、この規定を含んでいる。最後に、現象と法則とは一つの同じ内容をもち、この内容が現象の基礎をなす。現象はさらに自らの直接的な有の非本質的な内容をも含んでいる。しかし非存立のうちでのこの内容の自己同一性、すなわち法則をなす現象の基礎は、現象自身の契機である。それゆえ法則は現象の彼岸にあるのではなく、現象のうちに直接に現在している。法則の国は、実存する世界の静かな写しである。
したがって法則は本質的な現象である。まず、法則とその実存との同一性はまだ直接的な同一性にすぎず、現象は法則によって定立されたのではない別の内容をもつ。次に、現象が法則と異なるものとして含むのは、形式とその運動である。法則の国が現象の静かな内容であるのに対して、現象は同じ内容が落ち着きのない交替のうちに現れる運動である。この否定性の側面を法則は含まず、それゆえ現象は法則に対して全体性である。最後に、この欠陥は、法則の両側面の同一性がまだ内的な同一性であって、必然的な同一性ではないことに現れる。落下運動の法則においては、通過した空間は経過した時間の二乗に比例する。しかし落下において通過した空間の概念のうちには、時間がその二乗として対応するということは含まれていない。時間は空間なしに、空間は時間なしに表象できると言われ、一方は他方に外的に付け加わる。両者の大きさの関係は経験から認識される。それゆえ法則は、必然的であることを示す証明、すなわち媒介をなお必要とする。法則はたしかに本質的な形式ではあるが、まだその両側面のうちへ内容として反省した実在的な形式ではない。
B. 現象する世界と即自的に存在する世界 実存する世界は静かに法則の国へと高まる。その空しい内容は他のもののうちに存立をもつが、この他のもののうちで現象するものは自己自身とも合致する。法則は現象の単純な同一性として現象の基礎であって、根拠ではない。それゆえそのかたわらに現象の他の内容もまた成り立ち、現象する物はその根拠と条件とを他の現象する物においてもつ。
しかし実際には、法則は現象の否定的反省でもある。現象の内容は自らの非有のうちへ反省した実存するものであるが、その他のものも同じく実存するものであり、自らの非有へと反省している。したがって現象するものはそこで自己のうちへ反省しており、この自己内反省が法則である。現象は法則において自らの対立をもち、法則は現象の否定的統一である。
それによって法則の規定は変化した。一方の定立されてあることは他方の定立されてあることであるから、それぞれの存立はそれ自身の非存立でもある。両側面は互いに否定的に関係し、それぞれが自らの他方をそれ自身において含み、同時にこの他在を自らから突き放す。法則は、さきには現象に属していた否定的形式という契機をも得て、それ自身が現象の本質的な全体性である。その内容は、自らを全体性とする本質的な関係のうちにあるあらゆる規定性である。自己のうちへ反省した現象は、即自かつ対自的に存在する世界として、現象する世界の上に開かれる一つの世界である。
この世界は、実存する世界が感覚的世界として規定されるかぎりで、超感覚的世界とも呼ばれる。超感覚的世界も直接性と実存とをもつが、反省された本質的な実存をもつ。ここでは、感情と直観の直接的な有にだけ実存を帰する感覚的表象が克服され、物、力、内的なものの表象をもちながら、それが反省された実存であることを知らない無意識の反省も克服されている。
即自かつ対自的に存在する世界は実存の全体性であり、その外には何もない。しかしそれは絶対的否定性、すなわち形式であるから、自らを本質的な世界と現象の世界とに突き放す。現象する世界は本質的な世界のうちで没落(zu Grunde gehen)し、自らの根拠(Grund)としてのそこへと帰ってゆく。本質的な世界は現象する世界の規定された根拠であり、そのあらゆる多様性の根拠である。だが同時に、本質的な世界は現象する世界の否定的なものであり、それに対立した世界である。こうして根拠関係は、現象の根拠関係、すなわち対立した内容の本質的な関係として再建された。対立した規定の同一性は本質的に成であり移行であって、もはや根拠関係そのものではない。
即自かつ対自的に存在する世界は、現象する世界の根拠であるかぎりでこれと同一であるが、この同一的な連関は同時に対立として規定されている。関係は、即自かつ対自的に存在する世界が現象する世界の転倒した世界である、というように規定されている。
C. 現象の解消 現象する世界において肯定的であるものは、即自かつ対自的に存在する世界においては否定的であり、逆もまた同様である。現象する世界における北極は即自かつ対自的には南極であり、正電気は即自的には負電気である。現象する定有において悪であり不幸であるものは、即自かつ対自的には善であり幸福である。
実際には、まさにこの対立のうちで両世界の区別は消え去っている。現象する世界は他在のうちへの反省であるが、この他のものも他のもののうちへ反省したものであるから、現象する世界はそれ自身において自己自身と等しい法則である。逆に即自かつ対自的に存在する世界は、否定的な契機を含むことで、自らを転倒する内容となり、直接的な実存という形式をも得る。したがって両世界は、それぞれがそれ自身において、即自かつ対自有と現象することとの全体性であり、それぞれの自立性は他方への本質的な関係のうちにのみある。
現象の法則においては、両側面の同一性はまだ内的なものにすぎなかった。しかしいまや法則は実現されている。その内的な同一性は同時に定有する同一性であり、法則の内容は観念性へと高められている。そのようにして法則は本質的関係である。世界とはおよそ多様性の形式を欠いた全体性を表現するが、この世界は本質的な世界としても現象する世界としても没落した。世界はなお全体性あるいは宇宙であるが、本質的関係としてであり、本質的関係は二つの全体性の形式統一の完成である。
第三章 本質的関係 現象の真理は本質的関係である。その内容は直接的な自立性をもつが、同時にこの自立性のうちで相対的な内容であり、自らの他方との関係の統一としてある。本質的関係はまだ本質と実存とに対する真の第三のものではないが、両者の規定された合一を含んでいる。
これが関係の概念である。しかしこの概念自身はまだ直接的であり、あの同一性と自立的な実存との反省された統一、すなわち実体はまだ現にない。それゆえ本質的関係は、まず直接的には全体と部分との関係であり、両者は互いに条件づけあい前提しあう。次に、一方が他方の契機であり、他方を自らの根拠としてそのうちにある関係、すなわち力とその発現の関係へと移行する。最後に、なお残る不等性が止揚され、内的なものと外的なものとの関係となる。このまったく形式的となった区別のうちで関係そのものは没落し、実体あるいは現実的なものが、直接的な実存と反省された実存との絶対的な統一として現れ出る。
A. 全体と部分の関係 本質的関係は、まず、実存の自己のうちへ反省した自立性を含み、この自立性は同時に、自らの対立したもの、すなわち直接的な自立性のうちへの反省である。それによって次に、他のものとして規定された、自己のうちで多様な直接的な自立性が定立されている。前者が全体であり、即自かつ対自的に存在する世界をなしていた自立性である。後者が部分であり、現象する世界であった直接的な実存である。本質的関係はまだ最初の直接的な関係であるから、否定的統一と肯定的な自立性とは「もまた」によって結びつけられ、両側面は契機であると同時に実存する自立的なものとしても定立されている。
したがってこの関係は、側面の自立性とその止揚されてあることとを一つの関係のうちに含み、直接的な矛盾として自らを止揚する。全体は部分から成り立ち、部分なしには何ものでもない。全体は自立的な全体性であるが、まさにそれゆえに、他のものにおいて存立する相対的なものである。部分も同じく、全体に無関心でありながら、反省を欠いた有として自己のうちで崩れ落ち、全体のうちでのみ自立性をもつ。
それゆえ全体と部分とは互いに条件づけあう。全体は部分の条件であるが、部分を前提するかぎりでのみある。この相互性によって、関係全体は条件づけることの自己への帰還であり、無条件的なものである。
両側面の同一性に従えば、全体は部分に等しく、部分は全体に等しい。しかし全体が等しいのはひとまとめにした部分、すなわち全体そのものにであり、部分が等しいのは分割された全体、すなわち部分にである。いずれも同語反復である。
こうして全体と部分とは無関心にばらばらになり、切り離されて自己を破壊する。それぞれの自立性はむしろ自己の否定であり、それぞれは自立性を他方においてもつ。この他方は始まりであるべきものであるが、それ自身また他方に始まりをもつにすぎない。
したがって関係の真理は媒介のうちにある。関係は、自らの根拠へと帰ってゆく矛盾である。各側面は、直接的であるかぎり自らを止揚して他方へ移行し、否定的な関係であるかぎり他方によって条件づけられている。こうして全体と部分との関係は、力とその発現との関係へと移行した。
注解 量は連続性と分離性との統一である。量の一が部分として、その連続性が部分から合成された全体として表現されるとき、物質の無限分割可能性の二律背反は、全体と部分との関係のうちに現れる。全体と部分とは互いに無関心に自立していると同時に一つの同一性をなすから、一方の契機は他方から自らを解放することのうちで、直接に他方を招き寄せる。
実存するものを全体として規定すれば、それは部分から成る。部分であるかぎり、それは単純なものであるが、全体への関係はそれにとって外的であるから、それは即自的には部分でもなく全体であり、ふたたび部分から成り、こうして無限に続く。全体は自立的でないから部分が自立的であり、しかし部分は全体なしにのみ自立的であるから、全体として自立的である。進行の無限性とは、どちらの規定も自らの自立性によって他方へ移行するという二つの思想を、一つにまとめることができないことである。
B. 力とその発現の関係 力とは、全体と部分との矛盾が解消した否定的統一であり、あの最初の関係の真理である。全体と部分とは表象がまず陥る思想を欠いた関係、死んだ機械的な集積であるが、力の関係では、全体の統一が多様性にとって外的であることをやめる。
まず、力はその発現へと移行し、外的なものは根拠としての力へ帰ってゆく。次に、この移行は自己への否定的な関係であり、力は自ら定立した変化のうちで自らにとどまる。最後に、この自己に関係する統一自身も契機であり、他のものを自らの条件としてもつ。
a. 力が条件づけられていること まず、力は存在する直接性の契機をもつ。直接的な有のうちにある否定的統一は実存する或るものであり、力はこの物あるいは質料に属する定立されてあることとして現れる。物は力に無関心であるから、力は疎遠な強制力によって物に押し込まれたものとして現れる。この直接的な存立としての力は物の静かな規定性であり、そのため磁気的な質料、電気的な質料が想定され、有名な引力の代わりに、すべてを結びつけておく微細なエーテルが想定される。
しかし力は直接的な実存を、自らを止揚する条件として含むのであり、力がそこにおいてあるべきだった物はもはや意味をもたない。次に、力は反省された存立と直接的な存立との統一として、自己から自らを突き放す矛盾であり、活動的である。最後に、力はまだ即自的に存在する活動にすぎず、外的な直接性としての自らの否定を前提および条件としてもつ。この条件は物ではなく、それ自身力である。力の活動は一つの力によって条件づけられているが、両者の統一はまだ内的なものにすぎず、他の力は力の定立する活動の彼岸にある。
b. 力の誘発 力が条件づけられているのは、力が含む直接的な実存の契機が、定立されたものでありながら直接的なものとして前提されたものだからである。この前提することは相互的である。力は自らを外的なものとして定立するが、自己内反省した統一でもあるから、その外面性を別の力として定立する。
しかし外的なものは自らを止揚するものである。前提する活動は自己内反省として自らの否定を止揚し、それを自らの外的なものとして定立する。こうして力は他の力にとっての衝撃であるが、衝撃は力をただ誘発するにすぎない。力の行為は、衝撃が外的であることを止揚し、それを自らの発現として定立することにある。
力の実在性においては、一方の力が誘発する力、他方が誘発される力として規定される。しかし二つの力には同じ仕方で両方の形式規定が帰属する。誘発されることは衝撃の外面性を止揚する力自身の行為であり、誘発する力は、それ自身誘発されるかぎりでのみ誘発する。与えられた衝撃と受け取られた衝撃、活動的な発現と受動的な外面性とは、直接的なものではなく媒介されたものである。
したがって、力が受動的にふるまい、ふたたび能動性へ移行することは、力の自己への帰還である。発現は、他の力によって誘発されたことを止揚する反作用であり、外面性のうちでの自己への無限な帰還と一つである。衝撃を定立することはそれを止揚することであり、衝撃を止揚することは外面性を定立することである。
c. 力の無限性 力は、その契機がまだ直接性の形式をもつかぎりで有限であり、形式上条件づけられ内容上制限されている。しかし力が真に発現するのは、他のものへの関係が自己への関係であり、受動性が能動性そのものであることである。力は、自らの外面性が内面性と同一であることを発現する。
C. 外的なものと内的なものの関係 全体と部分との関係においては、反省された直接性と存在する直接性とがそれぞれ固有の自立性をもつが、その自立性は両者の否定的統一にすぎない。このことが力の発現において定立された。反省された統一は自己を外面性へと移し置くことであり、外面性は直接にこの統一のうちへ取り戻されている。現にあるのは空虚な透明な区別、仮象であるが、この仮象は媒介であり、自立的な存立そのものである。
内的なものは本質の形式として、有の形式としての外的なものに対して規定されているが、両者はただ一つの同一性である。この同一性は、まず、内容に満ちた基礎としての両者の堅固な統一、絶対的な事柄であり、外的なものと内的なものとはただ一つの事柄である。しかし単純な自己同一性としての事柄は、その形式規定から異なる。外面性のうちでは、両者は事柄の形式として、あの同一性に対しても互いに対しても無関心である。
このようにして両者は異なった形式規定であり、内的なものは自己内反省の形式、外的なものは他のもののうちへ反省した直接性の形式である。しかし力の発現において、前提する規定作用と自己へ帰還する規定作用とは一つであった。それゆえ形式規定としての両者の統一は抽象的媒介であり、一方は直接に他方である。ただ内的なものにすぎない或るものは、まさにそれゆえにただ外的なものにすぎず、ただ外的なものにすぎない或るものは、まさにそれゆえにただ内的なものにすぎない。両者の媒介にはなお同一的な基礎が欠けており、両者を結びつける否定的統一は内容のない点である。
注解 本質の運動は概念への成である。内的なものと外的なものとの関係において、規定のそれぞれが他方としてだけでなく全体の全体性としてもあるという、概念の本質的な契機が現れ出る。しかしこの全体性、すなわち概念における普遍的なものは、ここではまだ現にない。
この媒介されていない形式の同一性は、事柄の始まりにおいて現れる。純粋な有は直接に無である。或るものがまだようやく内的に、その概念のうちにあるにすぎないとき、まさにそれゆえに、それはただ直接的な受動的な定有にすぎない。本質的関係は、力の関係を通り抜けて自らを実現する以前にはただ内的な関係であり、それゆえにこそ全体と部分との外的な関係であった。本質もまだようやく内的なものであるがゆえに、学校制度(Schulwesen)、新聞制度(Zeitungswesen)のように、外的な寄せ集めの共同性とも受け取られる。植物の胚、子供はまだ内的な植物、内的な人間にすぎず、それゆえにこそ他在に委ねられた受動的なものである。神もまた、その直接的な概念においては精神ではなく、ただ自然にすぎない。絶対的精神としての神だけが神の真の本性である。
内容としての同一性と純粋な形式としての同一性とは、一つの全体性の側面にすぎない。内容は、自らを差異として規定し外面性と内的なものとに分かれる形式そのものである。それによって内的なものと外的なものとは、それぞれそれ自身において自己と他方との全体性として定立されている。内的なものは単純な自己同一性として直接的なものであり、有であり外面性である。外的なものは非本質的なものとして根拠へと帰っていったものであり、内的なものである。
それゆえ、或るものがそうであるものは、まったくその外面性のうちでそうである。その外面性は即自的にそうであるものの発現であり、或るものは自らの本質を啓示すること以外の何ものでもない。本質的関係は、現象と内的なものとのこの同一性のうちで、自らを現実性へと規定した。
第三部門 現実性 現実性とは本質と実存との統一であり、形態を欠いた本質とよりどころのない現象とはそのうちで真理をもつ。本質的関係の完成である内的なものと外的なものとの関係において、両者の内容と形式との同一性が定立された。この統一が絶対的な現実性である。それはまず絶対者そのものであり、反省はこれに外的にふるまう。次に本来の現実性であり、現実性・可能性・必然性が絶対者の形式的な契機をなす。最後に、絶対者とその反省との統一が実体である。
第一章 絶対者 絶対者の単純な同一性は無規定であり、そのうちではあらゆる規定性が解消している。絶対者はあらゆる述語の否定として空虚なものとして、またあらゆる述語の定立として形式的な矛盾として現れる。絶対者の叙述は規定することでも外的反省でもなく、絶対者自身の開陳である。
A. 絶対者の開陳 絶対者は有でも本質でもなく、両者の絶対的な統一であり、本質的関係の根拠である。本質的関係は、まだこの同一性へ帰っておらず、その根拠はまだ定立されていない。絶対者の規定は絶対的形式であるが、その契機のそれぞれがそれ自身全体性であり全体の完全な内容であるような同一性である。
本質、実存、即自的に存在する世界、全体、部分、力といった反省された規定は、表象にとっては真の有として現れるが、絶対者はそれらが没落した根拠である。絶対者のうちには成も、自己を反省する規定作用も、発現もない。しかしそのようにして、反省の運動は絶対者の同一性に向かい合って立ち、まず、区別と規定とを絶対者のうちで没落させる。これが絶対者の否定的な開陳である。その真の叙述は有と本質との論理的運動のこれまでの全体であり、その内容は外からかき集められて絶対者の深淵(Abgrund)へ沈められたのではなく、自らの内的な必然性によって、自らの根拠(Grund)としての絶対者へと帰っていった。
この開陳は肯定的な側面ももつ。有限なものは、没落する(zu Grunde gehen)ことのうちで絶対者に関係している。仮象は無ではなく、絶対者が仮象のうちで映現するかぎりで仮象である。肯定的な開陳は有限なものを絶対者の表現および模像として考察するが、有限なものの透明性はまったくの消滅に終わる。この開陳は、そこに含まれる真に肯定的なものが絶対者自身であるから、それ自身一つの映現にすぎない。開陳は規定を外から受け取り、そこに自らの行為の始まりを得る。
しかし実際には、開陳は絶対者自身の行為であり、自己のもとで始まり自己のもとに到着する。ただ絶対的同一性としてのみある絶対者は、外的反省の絶対者、一つの規定性のうちにある絶対者、すなわち属性にすぎない。しかし反省は絶対者にとって外的であるがゆえに直接に内的でもある。絶対者自身が絶対的形式であり、この形式が絶対者を属性へと規定する。
B. 絶対的属性 絶対的に絶対的なものとは、その形式が内容に等しい絶対者である。属性はただ相対的な絶対者、形式規定のうちにある絶対者である。しかし形式は絶対者の形式であるから、属性は絶対者の内容全体、全体性である。本質的関係の側面はなお固有の直接的な存立をもつべきであったが、絶対者においてはそれらの直接性は仮象へと引き下げられている。
絶対的同一性においてはすべての規定が止揚されたものとして定立されているから、属性を属性とする形式規定も直接に仮象として定立されている。開陳は属性と自らの区別する行為とを単純な絶対者のうちへ沈めるが、それによって外面性から抜け出たのではなく、抽象的な同一性に到達したにすぎない。絶対者を属性とする形式は、空しいもの、たんなる存在の仕方として定立されている。
C. 絶対者の様態 属性は、まず単純な自己同一性のうちにある絶対者であり、次に否定、形式的な自己内反省である。この二つが属性の極をなし、属性はその中項である。後者の極、すなわち否定的なものとしての否定的なものが様態であり、それは絶対者の自己外有、有の可変性と偶然性のうちへの絶対者の喪失である。しかし様態は外面性として定立された外面性、仮象としての仮象、形式の自己内反省である。それゆえ様態においてはじめて、絶対者は絶対的同一性として定立されている。
開陳は絶対的同一性から属性へ、属性から様態へと移行して、自らの契機を通り抜けた。まず、この開陳の行為は反省する運動そのものであり、そのような運動としてのみ絶対者は真に絶対的同一性である。次に、様態は自己を解消する反省として自己内帰還である。最後に、開陳は自らが始める規定性を絶対者そのものにおいてもつ。最初の無差別な同一性としての絶対者は、それ自身規定された絶対者、すなわち属性だからである。それゆえ様態の真の意味は、それが絶対者自身の反省する運動であり、絶対者がすでにそうであるものだけを規定する透明な外面性、絶対者自身の示すことだという点にある。
開陳の内容を問うならば、絶対者においては形式と内容との区別は解消しており、自らを顕示することが絶対者の内容である。自己に対して自らを顕示することとして、絶対者は現実性である。
注解 この絶対者の概念と反省の関係とには、スピノザ的実体の概念が対応している。スピノザ主義は、反省とその規定作用とが外的な思考であるという点で欠陥のある哲学である。規定性は否定であるということが、スピノザ哲学の絶対的な原理である。しかしスピノザは質としての否定にとどまり、否定を自己を否定する否定として認識するには進まない。それゆえ実体は絶対的形式を含まない。実体は思考と延長との統一であるが、思考は延長から自らを分離する規定作用としてはない。そのため実体には人格性の原理が欠け、認識は、規定を与えられたものとして受け取り絶対者へ連れ戻す外的反省である。
スピノザが実体について与える自己原因の概念、その本質が実存を含むものという概念は、深く正しくとも、学の冒頭で直接に想定される定義である。しかし絶対者は最初のものではありえず、本質的に自らの結果である。属性は悟性が絶対者の本質を把握する仕方として規定される。悟性は様態とされているから属性よりも後のものであるが、そのことは別としても、属性は実体に外的に向かい合う悟性に依存する。属性は無限な多数性という意味でも無限とされながら、思考と延長の二つしか現れず、それは経験的に受け取られている。スピノザは思考に、すべてを永遠の相のもとに(sub specie aeterni)考察するという崇高な要求を課すが、動かない同一性のうちでは、属性も様態もただ消え去るものであり、成るものではない。
様態は実体の変状、他のもののうちにあり他のものによって把握されるものである。スピノザの開陳は絶対者から属性、様態へと進むかぎりで完全であるが、三つは内的な連関なしに順々に数え上げられるにすぎず、様態は否定としての否定ではなく、最初の同一性へ帰還しない。同様に、東洋の流出の表象では、絶対者は自らを照らす光であるが、流れ出すことは明るさからの遠ざかりであり、成は進行する喪失にすぎず、系列の最後の夜は最初の光へ立ち帰らない。
この自己内反省の欠如は、ライプニッツのモナドの概念において補われている。モナドは自己のうちへ反省した否定的なもの、世界の内容の全体性であり、多様なものはそのうちで否定的な仕方で保存されている。それゆえモナドは本質的に表象するものであり、受動性をもたず、その変化はモナド自身の顕示である。しかしモナドの制限はモナドの即自有に属し、他の存在者によって定立される予定であり、モナドどうしの調和も外から予定されている。神がモナドの源泉であるという点も通常の表象にとどまり、個体化の原理はより深い展開を得ず、有限なモナドの区別とその絶対者への関係とは、論議する独断的な反省に属し内的な整合性に達していない。
第二章 現実性 絶対者は、最初の即自的に存在する統一としての、内的なものと外的なものとの統一である。開陳は外的反省として、直接的なものを絶対者へ連れ戻しそれをたんなる仕方として規定したが、この仕方は絶対者自身の規定であり、絶対者の固有の顕示である。顕示以外の内容をもたない顕示として、絶対者は絶対的形式であり、現実性はこの反省された絶対性である。有は最初の直接性であり、その反省は他のものへの移行である。実存は根拠と条件とから出てきた直接性であるが、まだ反省と直接性との定立された統一ではなく、それゆえ、自らが含む反省を展開することによって現象へと移行する。実存は没落した根拠(zu Grunde gegangene Grund)であり、本質的関係となる。実存と即自有とが端的に契機である統一が現実性であり、現実的なものはその外面性のうちでそれ自身である顕示である。
現実性は一つの可能性に対する一つの現実性であり、両者の関係が必然性である。まず、その形式的な関係が偶然性である。次に、実在的な現実性とともに実在的な可能性と相対的な必然性が現れ出る。最後に、相対的必然性の自己内反省が絶対的必然性を与える。
A. 偶然性、あるいは形式的な現実性・可能性・必然性 現実性は、最初の、反省されない直接的な現実性であるかぎり形式的であり、有あるいは実存一般にすぎない。しかし現実性は内面性と外面性との形式統一であるから、直接に即自有あるいは可能性を含む。現実的であるものは可能的である。
この可能性は自己内反省した現実性であり、まず自己内反省という肯定的な契機を、次に、欠陥のあるものとして現実性を指し示し、現実性において自らを補うという否定的な意味をもつ。
肯定的な側面に従えば、可能性は本質性の形式であり、あらゆるものにとっての無規定な容器である。この意味では、自己矛盾しないものはすべて可能的であり、可能性の国は限りのない多様性である。しかし多様なものはそれぞれ規定されており、差異は対立へ、対立は矛盾へと移行するから、すべてのものは不可能なものでもある。「Aは可能である」とは「AはAである」と言うのと同じであり、何も言っていない。
しかし可能的なものは、ただ可能的なものにすぎないという規定と、形式の全体性の当為とをもつ。可能性は絶対的形式に適合しない本質性として定立された即自有であり、それ自身矛盾、不可能性である。内容がただ可能的なものにすぎないのだから、その反対も可能的である。AはAであり、−Aは−Aである。可能性は、A=Aであるがゆえに−A=−Aでもあるという関係づける根拠であり、可能的なAのうちには可能的な非Aも含まれている。この関係としての可能性は自らを止揚する矛盾であり、それによって直接的なもの、現実性となる。
この現実性は自己と可能性との統一である。可能性はただ可能性にすぎないものとして自らを規定したから、現実的なものもただ可能的なものにすぎない。可能性は、まだようやく、有あるいは実存一般にすぎない形式的な現実性であり、それゆえすべての可能的なものは有あるいは実存をもつ。
可能性と現実性とのこの統一が偶然性である。偶然的なものとは、ただ可能的なものとして規定され、その反対も同じくある現実的なものである。偶然的なものは、まず、可能性を直接にもつかぎり直接的な現実性であり、根拠をもたない。次に、定立されてあることとしての現実的なものであるかぎり、自らの自己内反省を他のもののうちにもち、根拠をもつ。偶然的なものは、偶然的であるがゆえに根拠をもたず、同じく偶然的であるがゆえに根拠をもつ。
偶然的なものは、自己内反省してあることと有との、相互への定立された媒介されない転化である。この二つの規定の成の絶対的な不安定が偶然性である。しかしそれぞれは対立したもののうちで自己自身と合致し、この同一性が必然性である。偶然的なものが必然的であるのは、現実的なものが可能的なものとして規定されて根拠と根拠づけられたものとへ突き放され、その根拠関係が端的に止揚され有として定立されているからである。現実性はその区別されたもの、可能性のうちで自己と同一であり、この同一性として必然性である。
B. 相対的必然性、あるいは実在的な現実性・可能性・必然性 明らかになった必然性は、その契機が単純な規定であり自立性の形態をもたないから形式的である。その統一は形式規定の区別に無関心なものとして規定されているから、多様な内容をもつ現実性であり、これが実在的な現実性である。
実在的な現実性は、まず多くの性質をもつ物、実存する世界であるが、現象へと解消せず、多様性のうちで自らを保持する。現実的(wirklich)であるものは作用する(wirken)ことができる。或るものはその現実性を、それが産出するものによって告げ知らせる。他のものに対するそのふるまいは自己の顕示であり、移行でも現象でもない。
実在的な現実性の即自有としての可能性は実在的な可能性である。ある事柄の規定、事情、条件に立ち入るとき、人は形式的な可能性ではなく、その実在的な可能性を考察している。ある事柄の実在的な可能性とは、その事柄に関係する事情の定有する多様性である。この現実性は事柄の固有の可能性ではなく、別の現実的なものの即自有であり、止揚されるべき現実性である。そのようにして実在的な可能性は条件の全体をなす。
実在的に可能的であるものは、その事情と連関とに従っても矛盾してはならない。しかしそれは自己のうちで多様であり、差異は対立へ移行するから、矛盾するものである。これは比較による矛盾ではなく、多様な実存がそれ自身において自らを止揚し没落するということである。ある事柄のすべての条件が完全に現にあるとき、事柄は現実性へと歩み入る。
自らを止揚する実在的な可能性においては、止揚されるものは二重である。現実性としての実存は自らを止揚して他のものの契機となり、即自有を得る。可能性としての実存は、その即自有が止揚されて現実性へと移行する。この運動は、すでに現にある同じ契機を産出するのであり、移行ではなく自己自身との合致である。それゆえ実在的な可能性の否定はその自己同一性であり、この止揚の自己への反動として実在的な必然性である。
必然的であるものは別様ではありえないが、可能的であるものは別様でありうる。実在的な可能性は現実性をそれ自身においてもつから、すでに必然性である。これらの条件と事情のもとでは、何か別のものが生じることはできない。
しかしこの必然性は相対的である。それは前提をもち、偶然的なものに出発点をもつ。実在的な現実的なものの規定性は実存する事情の多様性であり、それは他のものの可能性としての即自有にすぎない。前提することと自己へ帰還する運動とはまだ分離しており、必然性はまだ自己自身から偶然性へと自らを規定していない。内容においては、実在的に必然的なものは何らかの制限された現実性であり、別の観点ではただ偶然的なものにすぎない。形式においても、実在的な可能性はただ即自的に必然的なものにすぎないから、実在的な必然性は偶然性を含む。したがってここには即自的に必然性と偶然性との統一が現にあり、この統一は絶対的現実性と呼ばれるべきである。
C. 絶対的必然性 実在的な必然性は規定された必然性であり、その規定性は、必然性がその否定、偶然性をそれ自身においてもつことにある。この規定性は最初の単純性においては現実性であり、この現実性は、もはや別様ではありえない絶対的な現実性である。しかしそれによってこの現実性はただ空虚な規定、偶然性であり、別様でもありうるたんなる可能性である。この可能性は、可能性としても現実性としても規定される絶対的な可能性である。
こうして偶然性は実在的な必然性において成りもする。この成は実在的な必然性の固有の成であり、その前提は自らの定立である。実在的な必然性は、それぞれの契機が他方のうちで自己と合致する肯定的な統一として現実性であるが、この現実性は自己の否定から成るから、直接に可能性、媒介されたものとしても規定されている。それゆえ自らを偶然性として規定するのは必然性自身である。必然性はその有のうちで自己を自己から突き放し、この突き放しのうちで自己へ帰還した。
このようにして形式は、その実現のうちで自らのすべての区別に浸透し、自らを透明にした。実在的な必然性の内容の制限性をなしていた区別の解消が絶対的必然性であり、それは現実性と可能性、形式的な必然性と実在的な必然性とが帰ってゆく真理である。端的に必然的なものは、それがあるがゆえにのみある。それはただ自己だけを根拠と条件としてもつ。
絶対的必然性は絶対者の反省あるいは形式である。その区別は互いに自立的な他のものという形態をもつ存在する多様性としてあり、その関係は可能性と現実性との絶対的な転換である。それゆえ絶対的必然性は盲目である。区別された現実性は自由な現実性であり、どちらも他方のうちで映現しない。それらの相互の接触は空虚な外面性として現れる。
しかしこの偶然性はむしろ絶対的必然性であり、自由な現実性の本質である。この本質は、それらの現実性に映現がないから、光を嫌うものである。しかしそれらの本質はそれらにおいて噴出する。有はこの本質によって自己との矛盾であり、この否定はそれらの無、自由な他在として噴出する。それらは規定された内容であり、この内容は刻印である。必然性はそれらを絶対的に現実的なものとして自由に解き放ったとき、この刻印を押した。それらはこの刻印においてとらえられて没落する。しかし有は同じく本質であり、成は映現である。有の無への移行は自己自身との合致であり、偶然性は絶対的必然性である。
否定のうちでの有の自己とのこの同一性が実体である。必然性の盲目的な移行は、むしろ絶対者の固有の開陳であり、絶対者はその外化のうちで自己自身を示す。
第三章 絶対的関係 絶対的必然性は必然的なものではなく必然性であり、反省としての有、関係である。その契機はそれ自身全体性であるが、ただ一つの存立であり、区別は開陳の仮象であって、この仮象が絶対者自身である。絶対者は、はじめ外的反省によって開陳されたが、いまや必然性として自己自身を開陳する。この関係は、その直接的な概念においては実体と偶有との関係である。実体が他のものに対する対自有へと自らを規定するとき、それは因果性の関係である。最後に相互作用へ移行するとき、その規定のうちで定立された絶対的関係の統一が概念である。
A. 実体性の関係 絶対的必然性は絶対的関係である。それはそれがあるがゆえにある有、自己自身との絶対的な媒介としての有だからである。この有が実体である。実体は本質と有との最終的な統一として、実存と現象との背後に立つ抽象的なものではなく、直接的な現実性そのものである。有と反省とのこの統一として、実体は本質的に自己の映現であり、自己と同一な定立されてあることとしては映現する全体性、すなわち偶有性である。
この映現は可能性と現実性との統一であり、まず生成と消滅との領域としての偶然性である。しかし有は仮象であるから、偶有性の運動はその契機のそれぞれにおいて、有のカテゴリーと本質の反省規定との相互の映現を表す。この運動は実体の静かな自己産出としての現働性であり、実体は単純な抵抗のない境位としての自己に対して活動する。
実体を有の単純な同一性と偶有の交替とに区別することは、実体の仮象の一つの形式である。前者は表象の、形式を欠いた実体であり、何の真理ももたない。後者は絶対的威力としての実体である。実体は、可能的なものを移し入れる現実性によって創造する威力として、現実的なものを連れ戻す可能性によって破壊する威力として自らを顕示する。しかし両者は同一である。創造は破壊的であり、破壊は創造的である。偶有は互いに対していかなる威力ももたず、ある偶有が他の偶有を駆逐するように見えるところでも、それは両者を包括する実体の威力である。
実体は偶有のうちに直接に同一的に現在しているので、まだ実在的な区別は現にない。実体は偶有性を自らの定立されてあることとしてもつにすぎず、実体としての実体ではない。しかしこの関係は反省でもある。即自的に実体である偶有性は、そのようなものとしても定立され、自己に関係する否定性として規定される。そのようにしてそれは対自的に存在する、威力ある実体であり、実体性の関係は因果関係へと移行する。
B. 因果関係 自己のうちへ反省した威力としての実体は、規定を定立し自己から区別する。定立されたもの、すなわち止揚された実体性が結果であり、対自的に存在する実体が原因である。この関係はまず形式的な因果関係である。
a. 形式的因果性 原因は結果に対して根源的なものである。実体は自らを規定し、この規定作用は直接に規定作用の止揚であり帰還である。逆にこの帰還は自己への否定的な関係として自己の自己からの突き放しであり、これによって規定されたものが成る。そのようにして絶対的な現働性は原因であり、顕示としての、その真理における実体の威力である。偶有がただ消滅によってのみ実体的であるのに対し、結果は自己と同一なものとしての定立されてあることであり、原因は結果のうちで実体全体として顕示されている。
実体は原因としてはじめて現実性をもつが、この現実性をただ結果のうちでのみもつ。これが原因であるところの必然性である。原因は結果のうちではじめて真に現実的なもの、自己と同一なものであり、それゆえ結果は必然的である。原因は作用しなければならない。結果は原因が含まないものを何も含まず、原因は結果のうちにないものを何も含まない。
原因と結果とのこの同一性のうちで、両者を即自的に存在するものと定立されてあることとに区別する形式は止揚されている。原因は結果のうちで消え尽き、結果も同じく消え尽きる。消え尽きたこの因果性は直接性であり、原因と結果との関係に無関心で、その関係を外的に自らにおいてもつ。
b. 規定された因果関係 原因がその結果のうちで自己と同一であることは、原因の威力と否定性の止揚であり、形式の区別に無関心な統一、すなわち内容である。内容に対する形式は偶然的な因果性にすぎず、内容は現実的な実体であるが、有限な実体である。これが実在性と有限性とにおける因果関係であり、与えられた内容をもつ有限な因果性は、一つの同じ実体において外的な区別として経過する。
この内容の同一性によって、この因果性は分析的命題である。ある現象を結果として規定しその原因へ遡って説明することは、事柄上同語反復的な主観的悟性の考察である。雨は湿り気の原因である。雨は濡らす、というのは分析的命題であり、雨である同じ水が湿り気である。この色の原因である顔料も、行為の原因である内的な心情も同様であり、衝突の前と後とに現にあるのは同じ運動量である。画家や衝突する物体がもつ別の内容は、原因にかかわりのない偶然的な付随物である。
遠い原因が挙げられるときには、因果関係はこの同語反復を含まないように見える。中間項を通過する形式の変化が同一性を覆い隠すからである。戦闘で弾丸に当たった父親を失ったことで才能を展開する事情に置かれた人について、射撃や戦争がその技量の原因として挙げられうる。しかし射撃はそれだけで原因なのではなく、可能性の事情に属する一つの個別的な契機にすぎない。
とりわけ、因果関係を物理的・有機的な生命や精神的な生命に適用するのは不当である。生きているものは原因をその結果にまで到らせず、原因を原因として止揚するからである。栄養を血液の原因とし、寒さや湿気を熱病の原因とすることは、イオニアの風土をホメロスの作品の原因とし、カエサルの名誉欲をローマの共和政体の没落の原因とすることと同じく不当である。原因と結果との関係が本来的でない意味においてであれ認められるかぎり、結果は原因の顕示にほかならないのだから、原因より大きくはありえない。深い出来事に一つの逸話を最初の原因として持ち出すのは、歴史においてありふれた機知であり、そのような原因はきっかけ、外的な刺激にすぎない。揺れ動く茎から大きな形姿を生じさせる歴史のアラベスク画は、才気に富んではいるが皮相である。そこには精神が外的なものに対して行う転換があり、この転換そのものが因果関係を止揚する。
しかし、内容と形式とが無関心であるというこの規定性はさらに広がる。形式規定は内容規定でもあるので、原因と結果とは別の内容でもある。しかしこの内容の形式である因果関係は原因と結果とにおいて同一的な内容であるから、異なった内容は一方では原因と、他方では結果と外的に結びつけられ、それ自身は作用と関係とのうちに入らない。この外的な内容は直接的な実存であり、何らかの観点において原因であり結果でもある何らかの物である。この物は基体であるだけでなく有限な実体でもあり、その作用は外的なものから始まり、この外的な規定から自らを解放する。動く石は原因であるが、色や形などのほかの規定はその原因性に入らない。石の因果性は、外的なものとしての自己を取り除くことによって自己のうちへ帰還することに存する。そのかぎりで石は定立されてあることのうちで自己と同一なのではなく、ただ自らの抽象的な根源性を再建するにすぎない。雨である水も、別の力によって空中へ持ち上げられ、重さによって落下する。水の原因性は、重さにとって疎遠な地表からの隔たりを取り除いて根源的な自己同一性を再建することに存するが、それによって水の因果性もまた止揚される。
因果性の第二の規定性は形式にかかわる。それ自身において結果であるような根源性としての、自己にとって外的な因果性が、原因から原因への無限遡行をなす。原因がふたたび原因をもつのは、原因が有限なもの、規定されたものだからである。有限な反省は、一方ではこの直接的な基体にとどまり、それをある観点では原因、別の観点では結果とし、他方では形式統一を無限なもののうちへ移し置いて、それに到達できない自らの無力を表現する。結果から結果への無限進行も、これとまったく同じものであり、悪無限へと続いてゆく。
規定された因果関係の運動によって成ったものは何か。原因は結果をもち同時にそれ自身結果であり、結果はそれ自身原因でもあるが、原因がもつ結果と原因がそれである結果とは異なっている。しかし、いまや次のことが成った。原因はその消え尽きることのうちで結果のうちにふたたび成り、結果は原因のうちで消え去るが同じくふたたび成る。因果性のこの他者になることは、同時に因果性自身の定立である。因果性は自己自身を前提し、自らを条件づける。さきには即自的にすぎなかった基体は、いまや作用する因果性に対する前提として規定されている。
c. 作用と反作用 因果性は前提する行為である。原因は条件づけられている。原因は前提された外的な他のものとしての自己への否定的な関係であるが、この他のものは即自的にのみ因果性そのもの、実体的な同一性である。これが受動的な実体である。受動的であるのは、即自的に存在するが対自的ではないもの、純粋な有あるいは抽象的な自己同一性という規定性のうちにある本質である。これに、否定的に自己に関係する作用する実体が向かい合う。因果性はもはや内属する基体をもたず、それ自身が実体である。
この原因は自己自身に対する否定的な威力であり、同時に自らの前提されたものであるので、他のものとしての自己、すなわち受動的な実体に作用する。原因はまず受動的な実体の他在を止揚して自己のうちへ帰還し、次に受動的な実体を規定し、結果をそのうちに定立する。原因の作用は二重であり、受動的な実体の自立性の止揚であるとともに、原因が受動的な実体との同一性を止揚することであり、この後者によって受動的な実体は保持される。
そのかぎりで受動的な実体は強制力をこうむる。強制力は威力の現象、外的なものとしての威力である。受動的なものはただ定立されたものにすぎない自立的なものである。それゆえ強制力をこうむるものには、強制力を加えることが可能であるだけでなく、強制力が加えられなければならない。受動的な実体に強制力が加えられることは、ただその当然の権利が与えられることにすぎない。受動的な実体が失うのは自らにとって疎遠な直接性であり、それはその定立されてあることのうちでむしろ自己自身と合致する。他のものによって定立されることと、自らの成とは一つの同じものである。
受動的な実体がそれ自身原因へと転換されることによって、まず結果は受動的な実体のうちで止揚される。そこに反作用一般が存する。次に、反作用は最初に作用する原因に対して向かう。原因はその実体的な現実性をただ結果のうちでのみもつのだから、結果の止揚によって原因の実体性が止揚される。規定された因果性においては結果から結果への無限進行が現れたが、条件づけられた因果性においては、原因は結果のうちで自己自身に関係する。最初の原因は自らの結果を反作用として自己のうちへ取り戻し、ふたたび原因として現れる。有限な因果性において悪無限的な進行へと流れ出ていた作用は折り曲げられ、自己のうちへ帰還する作用、すなわち無限な相互作用となる。
C. 相互作用 有限な因果性においては、作用しつつ互いにふるまうのは実体である。機械論は因果性のこの外面性に存する。相互作用においてはこの機械論は止揚されている。相互作用は直接的な実体性の根源的な存続の消滅と原因の生成とを含むからである。
相互作用は、まず、互いに条件づけあう実体の相互的な因果性として現れる。それぞれが他方に対して同時に能動的であり受動的であるので、両者の区別はまったく透明な仮象である。原因の能動性を条件づけるものは、原因自身の能動性によって定立された受動性であり、原因の自己自身による否定である。原因は本質的に自らを結果とし、まさにそれによって原因だからである。それゆえ相互作用はただ因果性そのものであり、原因は結果のうちで原因として自己自身と関係している。
これによって因果性はその絶対的概念へと帰還し、同時に概念そのものに到達した。必然性は内的な同一性であり、因果性はその顕示であって、そこでは実体的な他在という必然性の仮象が止揚され、必然性は自由へと高められている。有と仮象との同一性はまだ内的な必然性であり、この内面性を因果性の運動は止揚する。必然性が自由となるのは、消え去ることによってではなく、そのまだ内的な同一性が顕示されることによってである。同時に偶然性も自由となる。互いのうちで映現しない自由な現実性という形態をもっていた必然性の側面が、いまや同一性として定立され、同一的なものとしても映現するからである。
したがって絶対的実体は、もはや必然性として自己を突き放すのでも、偶然性としてばらばらに分かれるのでもなく、自らを区別する。一方では、さきの受動的な実体である全体性、自己と同一なものとして定立された単純な全体、すなわち普遍的なものへと、他方では、さきの原因である実体である全体性、自己と同一な否定性として定立された個別的なものへと区別する。普遍的なものは直接に個別性と同じ否定性であり、個別性は直接に普遍性と同じ同一性である。両者のこの単純な同一性が特殊性である。これら三つの全体性は一つの同じ反省であり、完全に透明な区別へと自らを区別する。これが概念であり、主観性の、あるいは自由の国である。
主観的論理学、あるいは概念論
前書き 論理学のこの第三部は、概念論として、主観的論理学の体系という書名でも刊行される。これまでの部分では先行する仕事の乏しさを理由に寛容を求めたが、今回は反対の理由からである。概念の論理学には骨化した材料が出来上がっており、それを流動させ、死んだ素材のうちに生きた概念を燃え立たせなければならない。荒れた土地に町を建てるのとは別種の障害が、古くから住まわれた町に新しい区画を与えるときにはある。
何よりも、真理という対象の大きさが仕上がりの弁明となる。ピラトゥスが宮廷人の顔つきで「真理とは何か」と問うたとき、真理の認識はとうに放棄された目標とされていた。しかし宗教の問いがふたたび権利を取り戻しつつあるならば、哲学がその真の目標へと高まろうと努めることも、もはや奇異ではないであろう。
概念一般について 概念の本性は直接に述べることはできない。概念は絶対的な基礎とみなされるべきだが、そうでありうるのは自らを基礎としたかぎりにおいてのみである。抽象的に直接的なものは最初のものであるが、むしろ媒介されたものであり、基礎は媒介の止揚から自らを直接的なものとしたものでなければならない。
この側面から見れば、概念は有と本質、直接的なものと反省とに対する第三のものであり、有と本質とは概念の成の契機である。しかし概念は、両者がそのうちで没落しかつ含まれている同一性として、両者の基礎であり真理である。それゆえ客観的論理学は概念の発生的な叙述である。実体は現実性へと歩み入った本質であり、概念の直接的な前提である。因果性と相互作用とを通り抜ける実体の弁証法的運動が概念の発生であり、移行するものは自らの根拠へと反省し、見かけ上の他のものがその真理をなす。こうして概念は実体の真理であり、自由が必然性の真理である。
概念とは有と反省との絶対的統一であり、即自かつ対自有は定立されてあることであることによってはじめてある。その具体的な発生の主要な契機を、ここで手短にまとめておく。実体は絶対者であり、即自的には可能性と現実性との単純な同一性、対自的には絶対的な威力、自己に関係する否定性である。まず、実体は自らを区別して一つの関係とする。一方は威力をもたず自己を定立しない受動的な実体、他方は自らを他のものとして定立する能動的な実体であり、能動的な実体は受動的な実体を条件として前提したのである。次に、威力は前提されたものを止揚する。能動的な実体は原因として作用し、他の実体において結果を産出し、この現象することによってはじめて原因である。最後に、原因は受動的な実体の規定を変化させるが、その規定は定立されてあることにすぎず、受動的な実体は原因性を受け取って原因となる。結果は作用のうちで自己と同一な原因そのものである。こうしてどちらも自己自身の反対となりながら、自己と同一であり続ける。
だが同一的な関係と否定的な関係とは一つの同じものである。原因は自己自身の他のもののうちで自己と合致し、前提された根源性は対自的となる。相互作用は自らを止揚する現象、因果性の仮象の啓示である。即自かつ対自有は定立されてあることであることによってはじめてある、という自己自身への無限な反省が、実体の完成である。しかしこの完成はもはや実体ではなく、より高いもの、概念、主体である。
すでに注意したように、実体の立場にとどまる哲学はスピノザの体系であり、その欠陥もそこで示された。しかしその反駁は別のことである。その立場は本質の本性から生み出された必然的な立場であり、そのかぎりで真である。ただそれは最高の立場ではない。真の体系はそれにただ対立するのではなく、より高いものとして、従属するものを自らのうちに含まなければならない。反駁は外から、体系が承認しない想定から来てはならない。自己意識をもつ主体の自由と自立性とを決定済みのこととして前提しない人にとっては、スピノザ主義のいかなる反駁も成り立たない、と言われてきた。スピノザの実体の属性の一つは思考であり、この豊かな立場はあの想定をも含んでいる。真の反駁は相手の力のうちに入り込み、その強さの圏内に身を置かなければならない。まずその立場を必然的なものとして承認し、次にそれを自己自身からより高い立場へと高めること、すなわち概念へと導く前の書の実体の叙述こそが、スピノザ主義の唯一の真の反駁である。
実体の統一はただ内的な必然性にすぎないが、絶対的否定性によって自らを定立するとき、顕示された同一性となり、自由となる。二つの実体はいまや自らの同一性を盲目的な内的なものとしてではなく、仮象として、反省の契機としてもつ。こうして概念において自由の国が開かれた。因果関係のうちの実体の暗さは消え、自己自身にとって透明な明るさとなった。これが概念へと解放された実体である。
ここから概念のより詳しい規定が明らかになる。概念は自己への単純な関係のうちで絶対的な規定性であるが、規定性の自己への関係は自己との合致として規定性の否定でもあり、自己とのこの同等性として概念は普遍的なものである。しかしこの同一性は自己に関係する否定でもあり、そのようにして概念は個別的なものである。両者は一つのものであるが、この統一は二つであることという自由な仮象へと自らを分裂させる。その対立はまったくの仮象であるから、一方が言い表されるとき、他方も直接に言い表されている。
これが概念の概念である。概念の内容と規定とは、ふつうの理解の権威によってではなく内在的な演繹によってのみ証明され、その演繹はすでに私たちの背後にある。近ごろ哲学では、概念にあらゆる悪評を浴びせ、把握できないものと把握しないこととを最高の頂点とみなすことが習慣となっている。
ここでは一つの注意に限っておく。概念は、自由な実存にまで至ったかぎりでは、自我、純粋な自己意識にほかならない。自我は純粋な概念そのもの、概念として定有に達したものである。まず、自我はあらゆる規定性と内容とを捨象して制限のない自己との同等性へ帰ることによって、普遍性である。次に、自我は自己に関係する否定性として、他のものを排除する個別性、個人的な人格性である。直接に絶対的な個別化である絶対的な普遍性、これが自我の本性であり、同時に概念の本性である。
ふつう自我は、上着や色をもつように悟性や概念をもつとされる。カントはこの外的な関係を越え出た。概念の本質をなす統一が、統覚の根源的に総合的な統一、「我思う」の統一として認識されていることは、理性批判の最も深く正しい洞察の一つである。カントによれば、客観とは直観の多様なものが概念のうちで合一されているものであり、表象のあらゆる合一はその総合における意識の統一を必要とするから、この意識の統一が表象の客観的妥当性をなす。概念の統一は自我の自己自身との統一である。対象を把握することは、自我が対象に浸透し、それを自我自身の形式、普遍性へともたらすことにほかならない。思考は対象の直接性を止揚して定立されてあることを作り出すが、この定立されてあることこそが対象の即自かつ対自有、その客観性である。それゆえ概念を認識するために自我の本性を思い起こすことは正当化される。ただし自我のたんなる表象にとどまれば、自我は魂とも呼ばれる単純な物となり、概念はそれに性質として内属するにすぎない。
カントの叙述はなお二つの側面を含む。まず、悟性には感情と直観の段階が先立てられ、概念は直観なしには空虚とされる。次に、概念は認識の客観的なもの、真理とされながら、たんに主観的なもの、ただ形式的なものとされる。
まず、先立てられる段階は学によって異なり、論理学においてそれは有と本質である。直観や表象の形態は自己意識的な精神に属し、空間と時間や有機的自然と同様に論理学にかかわらない。概念もここでは主観的な悟性の作用としてではなく、即自かつ対自的な概念として考察されるべきである。概念の論理的な形式は、生命という盲目の概念からも、精神という思考する概念からも独立している。
次に、それらの形式と概念との関係である。ふつうの心理学的な表象でもカントでも、直観と表象の多様な素材がまずそれだけであり、悟性がそこへ加わって抽象によって普遍性の形式へと高める、と想定されている。悟性は空虚な形式であり、素材こそが実在性とされる。たしかに概念はまだ完全ではなく、概念と実在性との統一である理念へと高まらなければならない。しかしその実在性は外から取り入れられるのではなく、概念自身から導き出されなければならない。「それはただの概念にすぎない」と言う人は、手でつかめる感覚的な定有を概念よりすぐれたものとし、抽象を、主観的な都合で一つの徴表を取り出すことと考える。しかし哲学が感情や直観を悟性に先立てるのは、概念がそれらの弁証法と空しさから、それらの根拠として現れ出るという仕方においてであり、概念がそれらの実在性によって条件づけられているという仕方においてではない。抽象する思考は、たんなる現象としての素材を止揚し、本質的なものへと還元することである。
ここでの主要な誤解は、自然的な発展における始まりを、概念において最初のもの、真なるものとみなすことである。直観あるいは有は自然の順序では最初のもの、概念の条件であるが、それゆえに無条件的なものなのではない。哲学は起こることの物語ではなく、真であるものの認識であるべきである。
ふつうでも定義には類に加えて種差としての規定性が求められる。区別することも概念の本質的な契機なのである。カントは、ア・プリオリな総合判断があるという思想によってこの考察を始めた。統覚の根源的な総合は思弁的な展開にとって最も深い原理の一つであり、空虚な同一性に対立している。しかしその後の展開はこの始まりに対応していない。総合という表現がすでに外的な結合という表象へと導き、カント哲学は概念の心理学的な反映のもとにとどまって、概念は直観の多様なものによって条件づけられているという主張へと逆戻りした。しかし概念はア・プリオリな総合であるのだから、規定性と区別とを自らのうちにもつ。この規定性が絶対的な規定性、すなわち個別性であることによって、概念はあらゆる有限な規定性と多様性との根拠であり源泉である。
この形式的な位置は、カントの理性の叙述において完成される。理性においては概念が完成された真理に到達すると期待されるが、この期待は裏切られる。カントは理性の弁証法の結果を無限な無とし、理性の統一はたんに統整的な統一となる。理性概念はたんなる理念であり、それに真理を帰するのはいかなる経験のうちにも現れえないがゆえに恣意であるとされる。哲学が、叡知的な存在者には感性の空間的・時間的な素材が欠けているという理由でそれに真理を認めないなどということを、かつて考ええたであろうか。
カントのカテゴリーの演繹では、客観は自己意識の統一によって合一されたものであり、思考の客観性、すなわち概念と物との同一性、真理がはっきりと言い表されている。対象は概念のうちではじめて真理のうちにあり、直接性のうちではただ現象と偶然性にすぎない。しかし他方で、私たちは物を即自かつ対自的にあるとおりに認識することはできない、とも主張される。内容はただ直観の多様なものにすぎないという理由からである。しかし概念のうちでは、この多様性は止揚され、対象はその偶然的でない本質性へと連れ戻されている。現象は本質の顕示であり、本質のまったく自由となった顕示が概念である。
これは本質の展開全体からの結果である。有と本質よりも高い絶対者の形式が概念であり、概念はそれらの無条件的な根拠であることを証明した。なお残る第二の側面、すなわち概念が消え去った実在性をどのようにして自らから形づくるかの叙述に、この第三の書はあてられている。純粋にそれとしての概念にとどまる認識は、なお抽象的な真理にすぎない。しかしその不完全さは、感情や直観に与えられる思い込まれた実在性が欠けている点にではなく、概念が自分自身から生み出す固有の実在性をまだ自らに与えていない点にある。概念は自らのうちに根拠をもつ弁証法によって実在性を自らから生み出すのであり、出来合いの実在性へと逆戻りするのではない。カント哲学は、より高い統一を直観する悟性の理念において認めながら、概念は実在性から分離されたままであるという主張にとどまった。
論理学は、自然と精神の学の内容である実在性を含みえない形式的な学である。しかしそれは絶対的形式の学であり、この形式はそれ自身において全体性であり、真理の純粋な理念を含み、その内容あるいは実在性をそれ自身においてもつ。内容とは、絶対的形式自身によって定立された、それにふさわしい規定にほかならず、それゆえこの形式はすでにそれだけで真理である。カントは、真理とは認識とその対象との一致である、という名目的説明をつまらないものとして前提している。しかしこれは最高の価値をもつ定義である。これを、理性認識は物自体をとらえられないという超越論的観念論の根本主張と照らし合わせれば、物自体と一致できない理性、実在性と一致しない概念は、真でない表象であることがただちに明らかになる。
カントはさらに、真理の普遍的な規準は認識のあらゆる内容を捨象しているが、真理はまさに内容にかかわるのだから、内容の真理の徴表を問うことはばかげている、と述べる。しかし定義によれば、真理をなすのは内容ではなく、内容と概念との一致である。概念をもたない内容の真理の規準を問えないのは、それが意見に属するものにすぎないという反対の理由からである。一致には本質的に二つのものが属するのだから、空虚な形式だけでは一致でも真理でもない。カントは概念のア・プリオリな総合においてより高い原理をもっていたが、直観の多様なものがあまりにも強力であったため、思弁的な哲学することへと至ることができなかった。
この形式的なものは、真なるものであるためには、それ自身において形式にかなった内容をもたなければならない。ふつうの論理学の形式は歴史的に取り入れられるだけで批判にかけられない。肯定判断の形式は正しいとされ、真偽は内容にかかるとされる。しかしそれが言い表す命題「個別的なものは普遍的なものである」に、概念とその対象との一致が欠けていることは直接に明らかである。むしろ判断のような形式のうちで真理をとらえようとすることこそが、不可能でばかげたことなのである。論理的形式がどこまで真理に対応するかを探求しない論理学は、思考の現象についての博物学的な記述にすぎない。この記述をはじめて企てたのはアリストテレスの無限の功績である。しかしさらに進んで、体系的な連関と形式の価値とを認識することが必要である。
区分 本質は有の最初の否定であり、概念は第二の否定、否定の否定である。したがって概念は再建された有、ただし自己のうちでの無限な媒介と否定性としての有である。概念のうちで即自かつ対自有は定立されてあること、すなわち自らにふさわしい真の定有に到達した。この定立されてあることが概念のうちでの区別であり、それ自身概念全体である。
しかしこれは、まだようやく概念の概念にすぎない。概念自身の実在性は、その契機が概念自身によって定立された概念であるような定有でしかありえない。まず、概念は直接的なものとして、固定した規定をもつ主観的な、形式的な概念である。しかし概念の同一性が規定を弁証法的運動のうちへ置き、その真理として全体性が現れ出る。次に、客観性のうちにある概念は即自かつ対自的に存在する事柄そのものであるが、そこで概念は事柄のうちに沈められた内的なものであり、主観性の形式を自らに与えなければならない。客観性のうちで自由の形式をもつこの完成のうちで、適合した概念は理念である。
第一部門 主観性 概念はまず直接的な、形式的な概念である。次に、概念は自らを分割し、自立的で無関心な契機の外的な関係として判断となる。最後に、判断の弁証法的運動によって統一が定立され、判断は推論となる。形式的な推論におけるこの矛盾した関係は自らを止揚し、概念の主観性はその客観性へと移行する。
第一章 概念 悟性は、理性に対置されるとき、規定された概念の能力を意味する。しかしここでは概念はたんに抽象的に規定されたものではないから、悟性は概念一般の能力であるというかぎりでのみ理性から区別される。
この普遍的な概念は普遍性、特殊性、個別性という三つの契機を含み、そのそれぞれが概念全体である。まず、概念は普遍性であるが、全体性として自らを規定し区別する。次に、概念は特殊的な概念である。最後に、個別性は区別から絶対的否定性のうちへ自己を反省する概念であり、概念が判断となる契機である。
A. 普遍的概念 純粋な概念は絶対的に無限なもの、無条件的なもの、自由なものである。概念は本質から成ったが、この成は自己自身の反動であり、成ったものはむしろ根源的なものである。それゆえ概念は否定の否定としての自己との絶対的同一性であり、この自己への純粋な関係が普遍性である。
普遍性は単純な規定であるが、絶対的否定性によって最高の区別と規定性とを自らのうちに含む。有は直接的な単純なものとして直接に非有と一つとなるが、普遍的なものは自己自身においてもっとも豊かな単純なものである。抽象的なものにおける否定の否定は外的な操作として表象されるが、普遍的なものはそれ自身において否定の否定、絶対的媒介である。
それゆえ規定は普遍的なものにとって制限ではない。有の質的な規定は他の規定のうちで没落したが、普遍的なものは規定のうちでも自らにとどまる。それは具体的なものの魂であり、成のうちを曇りなく連続し、不死の自己保存の力をもつ。また反省規定のように他のもののうちに映現するだけでもなく、自らの規定の固有の肯定的な本性である。概念は形式を欠いた実体の深淵ではなく、形を与えるもの、創造するものである。普遍的なものは自由な威力であり、他のもののうちで静かに自己自身のもとにある。それは自由な愛、制限のない至福とも呼ばれうるであろう。
普遍的なものについて、特殊性と個別性なしに語ることはできない。普遍的なものは、最初の否定としては規定性を特殊性として、否定の否定としては個別性として自らのうちに含むからである。内容を捨象すれば、得られるのは概念の普遍的なものではなく抽象的なものである。規定性は外への映現としてはより高い普遍的なもののうちで解消される特殊性であるが、内への映現としては類に属する内在的な性格であり、制限ではなく肯定的である。
真により高い普遍的なものは、外への側面が内へと取り戻された第二の否定である。生命、自我、精神、絶対的概念はたんにより高い類ではなく具体的なものである。生命、自我、有限な精神がただ規定された概念にすぎないかぎり、それらの絶対的な解消は無限な精神の理念のうちにある。普遍的なものは自らを自由に規定する。その有限化は有の領域でのような移行ではない。普遍的なものは創造する威力であり、自己のうちでの区別作用である。ここに概念の創造が存する。
B. 特殊的概念 概念の規定性は特殊性である。それは他のものに対する限界ではなく普遍的なものの内在的な契機であり、普遍的なものは特殊性のうちで自己自身のもとにある。類はその種のうちで変わらず、種はただ互いに対して異なるにすぎない。特殊性がたんなる差異として受け取られれば、種はそれ以上の種がないかぎりで完全であるにすぎない。しかし特殊性は即自かつ対自的に異なったものの内在的な関係であり、それ自身全体性であり原理である。
特殊的なものは普遍的なものの区別、外への映現であるが、それが区別される他のものは普遍的なものそのもの以外にない。それゆえ種は、普遍的なものそのものと特殊的なものとにすぎない。真の区分とは、概念が自己を直接的な無規定な普遍性として一方の側に置くことであり、まさにこの無規定なものが概念の規定性をなす。両者は特殊的なものとして同位であり、普遍的なものに従属する。しかしその普遍的なものも向かい合うものの一方にすぎず、両者の規定性は本質的にただ一つの規定性、普遍的なもののうちの単純な否定性である。
以前のあらゆる区別は、概念のうちにこの統一をもつ。全体と部分、原因と結果は、それだけでは思考規定であり、他のものとの統一において認識されるときはじめて規定された概念となる。原因と結果とは二つの概念ではなく一つの規定された概念であり、因果性は一つの単純な概念である。
特殊性は普遍的なものと特殊的なものとの区別のうちで完全である。自然のうちで一つの類に二つより多くの種が見いだされるのは、概念の厳密さを保持できない自然の無力である。私たちは自然の類と種の多様性を驚嘆することができる。驚嘆は概念をもたないものであり、その対象は理性を欠いたものだからである。自然は概念の自己外有であるから、この差異のうちで気ままにふるまうことが許されている。概念が絶対的な威力であるのは、自らの区別を偶然性や恣意の形態へと自由に解き放つことができるからである。
概念は自らを規定するかぎりで有の形式を自らに与えるが、この有は普遍性の意味をもつ。規定されたものがまとうこの普遍性は抽象的な普遍性であり、普遍性は形式、規定性は内容である。媒介はただ条件にすぎず定立されていないので、内容はその普遍性に対して無関心である。したがって抽象的に普遍的なものは概念ではあるが、概念を欠いたもの、それとして定立されていない概念である。
規定された概念と言うとき、ふつうはこの抽象的に普遍的なものだけが意味され、悟性はその能力を指す。規定に沿って進む論証は有限性と必然性とを越え出ず、その最高のものは最高存在者という抽象、無規定性という規定性である。絶対的実体も絶対的形式を欠いているがゆえに抽象的である。規定された概念は、人間、国家、動物のように具体的な内容をもっていても、その規定性が区別の原理でないかぎり空虚である。原理はその展開と実現の始まりと本質とを含んでいる。
近年悟性が軽んじられているのは、悟性が規定性に与える固定性のためである。質的な規定性も反省規定も、他のものへの関係によって移行し消滅する。しかし悟性のうちで抽象的な普遍性を得た規定性は、他のものへの関係から取り出されて不滅となる。だがさらに、具体的なものを抽象的な規定性へと分離し、区別の深みをとらえることは、悟性の無限な力として尊重されるべきである。直観の具体的なものは、空間と時間のうちで互いの外に存立する感覚的な全体性にすぎない。幾何学や算術においても、図形や数を直観することではなく、それについての思考だけがその学を生み出す。
それゆえ、悟性が先へ進まないとしても、それは悟性の罪ではなく、主観的な理性の無力である。悟性は規定性にいわば有の硬さを与えるが、同時に規定性に精神を吹き込み、研ぎ澄ます。規定性はまさにこの先端においてのみ、自らを解消し対立したものへと移行する能力を得る。何かが到達しうる最高の成熟は、その没落が始まる段階である。規定性の不滅の形式は自己に関係する普遍性の形式であり、それは概念に属する。したがって悟性と理性とをふつうのように分けることは退けられるべきである。規定された抽象的な概念は理性の本質的な契機であり、有限なものは普遍性によって自己のうちで燃え上がり、理性の現象の始まりとなる。
普遍性の形式のうちにある規定性は、自己自身に関係する規定性であり、それは個別性である。普遍性が直接に特殊性であるのと同じく、特殊性もまた直接に個別性である。個別性は概念の第三の契機として、しかしまた両者の絶対的な自己内帰還として、同時に概念自身の定立された喪失として考察されるべきである。
注解 普遍性、特殊性、個別性は、数えれば三つの規定された概念である。しかし数は一を原理とし、数えられたものを互いに無関心なものとするから、概念規定にはもっともふさわしくない。それらはむしろただ一つの同じ概念である。
ふだんの論理学では、概念の種類が「ある」というように導入される。この「ある」は経験以外の正当性を表しておらず、こうして経験的な論理学、理性的なものについての非理性的な認識が得られる。カント哲学も、超越論的論理学のカテゴリーを主観的論理学から借りてくる。
概念は明晰さに従って、明晰な概念と曖昧な概念、判明な概念と判明でない概念、十全な概念と十全でない概念とに区分される。この区分は心理学的な規定から取られている。明晰な概念は主観的な表象にすぎない。判明な概念は徴表を挙げうる概念であるが、徴表はふつう第三者が対象を覚えておくための外的な規定、記号にすぎない。十全な概念では概念と実在性との一致が念頭にあり、それはもはや理念である。
統一や実在性は単純な概念とされるが、それは論理学者がその規定を見つけ出せなかったからにすぎない。精神、自然、世界、神でさえ、表象のうちでは単純なものであるが、意識の対象は把握され、その単純性が内的な区別とともに規定されなければならない。しかし合成された概念は木でできた鉄にすぎない。合成はまったく外的な関係であり、物を考察する最悪の形式である。
さらに概念は反対概念と矛盾概念とに区分される。その根底には差異と対立という反省規定があり、それらは互いに無関心な二つの種とみなされている。しかし概念のうちでは、同一性は普遍性へ、区別は特殊性へ、根拠へと帰ってゆく対立は個別性へと発展している。普遍的なものは特殊的なものと個別的なものとに対して反対のもの、矛盾するものでもあるが、この対立のうちでそれらと同一であり、それらの真の根拠である。
さらに概念は従属概念と同位概念とに区分される。判断が規定された概念の関係であるのだから、真の関係は判断においてはじめて明らかにならなければならない。偉大なオイラーや無味乾燥に悟性的なランベルトらは、概念規定の関係を線や図形による記号表記で表し、論理的な関係を計算へと高め、実際には引き下げようとした。しかし概念の規定は数や線のような死んだものではなく生きた運動であり、数や線においては完全な矛盾であるものが、概念の本性にとっては本質的である。高等数学でさえ、二つの縦座標の無限な接近や、弧を無限に多くの無限に小さな直線に等しいとすることを表すのに、二つの直線を互いの外に描く以上のことはせず、無限なものは表象に委ねるのである。
この試みに誘ったのは、普遍的なものは特殊的なものや個別的なものよりも広い、という量的な関係である。しかし普遍的なもののより広い範囲を、より大きな定量と受け取るならば、概念の本性は見誤られる。概念は量の可能性であるとともに質の可能性でもあり、その規定はそれ自身あらゆる規定の全体性である。磁気や色の関係のような自然の関係の方が、数や空間の関係より無限に高い象徴であろう。人間は理性に固有の表記手段として言語をもっているのだから、より不完全な表現を探し求めるのは無益である。概念は精神の純粋な自己であり、精神によってのみとらえられる。象徴のうちにあるより高い規定の響きは、むしろ概念によってはじめて認識されるのである。
C. 個別的なもの 個別性は、すでに特殊性によって定立されている。特殊性は規定された普遍性、すなわち自己に関係する規定性、規定された規定されたものだからである。
個別性は、まず、概念がその規定性から自己自身のうちへ反省することとして現れる。概念の他在がふたたび他のものとなり、概念は絶対的否定性という規定のうちで自己に等しいものとして再建される。特殊的なものが普遍的なものへ帰還する道は二つある。一つは規定されたものを捨て去り、より高い類、最高の類へと昇る抽象であり、もう一つは普遍的なものが規定性そのもののうちへ降りてゆく個別性である。ここで抽象は概念の道から外れる。抽象が高まってゆく最高の普遍的なものは、ますます内容を失う表面にすぎず、抽象が軽んじる個別性こそが、概念が自己自身をとらえる深みである。
抽象的な普遍的なものにおいては、否定性はたんなる条件としてその外にとどまり、普遍的なものは個別性を自らのうちにもたず、概念を欠く。抽象が生命、精神、神を、また純粋な概念をとらえることができないのはそのためである。抽象は個体性と人格性との原理である個別性を遠ざけ、生命も精神もない、色も内実もない普遍性にしか至らない。しかし概念の統一はきわめて分かちがたく、抽象の産物もそれ自身むしろ個別的なものである。抽象がとらえるのは個別的な性質や契機であり、そこでは個別的なものが内容として、普遍的なものが形式として互いに異なっている。
同じ理由から、特殊的なものは個別的なものでもあり、個別的なものは特殊的なものでもある。これまでの概念のどの規定も、直接に解消して他の規定のうちへ失われた。普遍的なもの、特殊的なもの、個別的なものを固く引き離して数えることができるのは、抽象が孤立させた表象だけである。個別性においては、概念規定の分離不可能性が定立されている。個別性は否定の否定として、概念規定の対立とその統一とを含み、区別に属する規定がそれぞれ全体性であることを含む。
しかし個別性は、概念の自己への帰還であるだけでなく、直接にその喪失でもある。概念は個別性によって自己の外になり、現実性のうちへ歩み入る。個別的なものは、自己に関係する否定性として対自的に存在するもの、質的な一、あるいはこれである。それはまず自己自身から自己を反発して多くのほかの一を前提し、次にそれらに否定的に関係して排除するものとなる。普遍的なものを多くの個別的なものに共通するものと理解するのは、普遍的なものについてもちうる最も低い表象である。個別的なものは「これ」であるが、媒介を外にもつのではなく、それ自身が定立された抽象である。
自立的な規定のこの関係としては、概念は自らを失った。規定はもはや概念の仮象ではなく、即自かつ対自的に存立するものとしてあるからである。個別性として概念は規定性のうちで自己へ帰り、規定されたもの自身が全体性となった。それゆえ概念の自己内帰還は、概念自身の絶対的な根源的な分割である。個別性として、概念は判断として定立されている。
第二章 判断 判断とは、概念そのものにおいて定立された概念の規定性である。規定された概念のこれまでの考察は主観的な反省であったが、概念はそれ自身この抽象することであり、その規定を互いに対置することは概念自身の規定作用である。判断とは、概念そのものによる規定された概念の定立である。
判断することは概念のもう一つの機能であり、どのような規定された概念があり、その規定がどのように必然的に明らかになるかは、判断において示されなければならない。判断は概念の最も手近な実現である。まず、概念の契機はその個別性によって自立的な全体性であり、次に、概念の統一がそれらの関係としてある。判断はまず主語と述語という二つの自立的なものを含むが、それぞれが何であるかはまだ言えない。判断によってはじめて規定されるべきだからである。
それゆえ主語と述語とは、まだ名前以上のものではない。主語は直接に存在するものを、述語は普遍的なもの、本質あるいは概念を表すのだから、主語はまず一種の名前にすぎず、それが何であるかは述語がはじめて表す。「これはどういう植物か」と問うとき、しばしばたんに名前が求められ、それを知れば人は満足する。神、精神、自然も、判断の主語としてはまだ名前にすぎない。主語の前提された意味はたんなる表象であり、ある主語にある述語が帰属するかをめぐる多くの論争はたんなる言葉の争いとなる。
次に、主語と述語との関係が考察されなければならない。判断は概念の自己自身による分割であり、この統一が判断をその真の客観性に従って考察する根拠である。判断は根源的に一なるものの根源的な分割(ursprüngliche Theilung)であり、判断(Urtheil)という語はこのことにかかわっている。しかし判断のうちでは概念の契機が自立性を得ているので、概念は判断において現象としてあり、表象はこの外面性に固執する。
この主観的な考察に従えば、主語と述語とはそれぞれ出来上がったものとされ、判断することは頭のなかの述語を外にある対象に付与し、結合することになる。しかし付与される述語は主語に帰属し、即自かつ対自的に主語と同一でなければならない。「この行為は善い」において、繋辞は述語が主語の有に属することを示している。文は主語と述語をもっていても、まだ判断ではない。「アリストテレスは、その73歳のとき、第115オリンピアードの第4年に死んだ」はたんなる文であり、時期や年齢が疑問視され、挙げられた数が主張される場合にのみ判断となる。「私の友人Nが死んだ」という知らせも、仮死にすぎないのかが問題である場合にのみ判断となる。判断を二つの概念の結合と説明するのはきわめて表面的であり、判断の本質的なもの、その規定の区別を見落としている。
判断は概念の定立された規定性として、主語と述語との区別を直接に個別性と普遍性としてもつ。個別的なものとしての主語は存在するもの、対自的に存在するものとして、普遍的なものとしての述語はその自己内反省、その即自有として現れる。そのかぎりで、個別的なものが判断によって普遍性へと高められ、逆に即自的に存在する普遍的なものは個別的なもののうちで定有へと降りてくる。これが判断の客観的な意味であり、以前の移行の形式の真の意味である。有限なものは無限なもののうちで没落し、実存するものはその根拠(Grund)から現象へ現れ出て、没落する(zu Grunde gehen)。この移行と映現とは、いまや概念の根源的な分割へと移行した。
しかしこの区別は同時に現象するものとして定立されており、主語は即自有として、述語は定有としても受け取られなければならない。述語のない主語は、現象における性質のない物、物自体、空虚な無規定な根拠であり、述語においてはじめて区別と規定性とを得る。主語は述語によって外的なものへの関係に立ち、ほかの物の影響に開かれ、それらに対して活動へと歩み入る。
この同一性は判断のうちに定立されている。繋辞は、主語が述語であることを表すからである。主語が自立的なものであるかぎり、述語は主語に内属し、主語の性質の一つにすぎない。しかし述語も自立的な普遍性であるかぎり、述語は主語を包摂する。ただし判断においては、主語と述語との区別のない同一性はまだ定立されておらず、繋辞は「AはBである」という無規定な有の関係としてある。繋辞の「である」が主語と述語との満たされた統一として定立されていれば、それはすでに推論である。
この同一性を定立することが、判断の運動の目標である。「主語は述語である」と判断は言うが、述語は主語がそうであるものではないはずだから、そこには矛盾があり、それは解消しなければならない。しかし主語と述語とは即自かつ対自的に概念の全体性であるから、判断の運動は展開にすぎず、論証(Demonstration)は提示(Monstration)にすぎない。判断は直接にはまず定有の判断であり、その質的なものが止揚されると、次に反省の判断となる。この外的な一致は必然的な連関の本質的な同一性へと移行して必然性の判断となり、最後に、主語と述語との区別が一つの形式となって、概念とその実在性との比較を含む概念の判断となる。このことが判断の推論への移行を基礎づける。
A. 定有の判断 主観的な判断においては、人は一つの同じ対象を、その個別的な現実性においてと、その概念においてとの二重に見ようとする。そのようにして判断は概念と実在性との一致、真理である。しかし最初の判断は直接的であり、この直接性がそれを定有の判断、質的な判断とする。主語が直接的なものであり、述語は主語に基盤をもつので、それは内属の判断でもある。
a. 肯定判断 主語と述語とはまず名前であるが、判断の側面としては概念の契機の規定をもつ。ただし直接性のゆえに、抽象的な個別性と普遍性という単純な規定である。述語は抽象的な普遍的なものであり、それを生む媒介はここではただ前提にすぎない。主語は抽象的に個別的なもの、直接的なもの、或るもの一般であり、繋辞も直接的で抽象的な有という意味しかもたない。まだ媒介も否定も含まないこの関係にちなんで、この判断は肯定判断と呼ばれる。
肯定判断の純粋な表現は「個別的なものは普遍的である」という命題であり、これを「AはBである」と捉えてはならない。あらゆる判断はこの命題を主張する。そのことが考えられていないのは、規定された形式が見落とされ、「カイウスは博学である」「バラは赤い」といった内容が意識の前に浮かぶからである。
客観的な意味に従えば、この命題は個別的な物の過ぎ去りやすさと、概念のうちでのそれらの肯定的な存立とを表す。逆に、普遍的なものは自らに定有を与え、本質が仮象へ、実体が偶有へと出ていくように、個別的なものへと決意する。これを表すのが逆の命題「普遍的なものは個別的である」である。主語は多様な性質をもつ物、偶有をもつ実体として、それ自身において普遍的なものである。述語は主語の全体性の一つの契機だけを含み、抽象的に個別的なものである。「バラは香りがよい」において、述語はバラの多くの性質の一つだけを個別化している。
こうして主語は普遍的なもの、述語は個別的なものとして規定される。しかし主語と述語とは、判断であるかぎり対立したままであるべきである。たんなる同一性について反省すれば、「個別的なものは個別的なものである」「普遍的なものは普遍的なものである」という同一的な命題が現れ、判断は止揚されてしまう。「個別的なものは普遍的である」は判断の形式を、「普遍的なものは個別的である」はその内容を表す。二つを合一して「特殊的なものは特殊的なものである」とすれば、それは外的な反省による空虚な同一的命題である。
それゆえ判断をまず形式に従って考察すれば、そのような直接的な個別的なものは普遍的ではない。述語はより広い範囲をもち、主語に対応しないからである。次に内容に従って考察すれば、主語は質や性質の悪無限な多数性という全体性であり、述語が言明する個別的な一つの性質ではない。したがって二つの命題はどちらも否定されなければならず、肯定判断はむしろ否定判断として定立されなければならない。
b. 否定判断 判断が真であるか否かは内容にのみ依存し、論理的な真理は内容が自己矛盾しないことだけを要求する、というのがふつうの表象である。しかし判断の両概念は個別的なものと普遍的なものとしてふるまい、これが真に論理的な内容をなす。「太陽は丸い」「キケロはローマの偉大な弁論家であった」「いまは昼である」といった内容は、判断としての判断にはかかわりがない。この純粋に論理的な内容のゆえに、肯定判断は真ではなく、その真理を否定判断のうちにもつ。内容はあの判断のうちでまさに自己矛盾している。キケロが偉大な弁論家であったという判断が理性の真理でないのは、経験的な内容をもつからではなく、肯定判断として、直接的に個別的なものと抽象的な規定性以外の内容をもちえないからである。
個別的なものは抽象的に普遍的ではなく、その述語は規定されたものであるから、個別的なものはまず特殊的なものである。普遍的なものも抽象的に個別的ではなく、述語はたんなる個別性より広いので、まず特殊的なものである。二つの命題は「個別的なものは特殊的なものである」に帰着する。この特殊性は外的な反省によってではなく、判断における否定的な関係によって生じた。
この規定は関係の規定としても受け取られなければならない。肯定判断は、一方が同時に他方であるものではないものどうしの関係であるから、関係は本質的に否定的である。それゆえ論理学者たちは、否定判断の「ない」が繋辞に引き寄せられたことについて、それほど騒ぎ立てる必要はなかった。判断規定は概念規定として自らの他の規定のうちへ自らを連続させるものであり、判断の関係も両極と同じ規定をもつ。
この帰結として、「ない」は述語へも引き寄せられ、述語は普遍的でないもの、すなわち特殊的なものとして規定される。否定的なものを抽象的な非有として固持すれば、白でないものは黒いものでも赤いもの、黄色いもの、青いものでもあることになる。しかし白は直観の概念を欠いた規定である。そのような内容を例とし、有や反省の規定を判断規定と受け取るのは、カントに従って悟性概念を無限な理性理念や物自体に適用するのと同じ無批判なやり方である。概念こそが真の物自体、理性的なものである。定有においてすでに無は限界となり、反省においては否定的なものは肯定的なものに関係して規定されている。概念の絶対的に流動的な連続性においては、「ない」は直接に肯定的なものであり、普遍的でないものはただちに特殊的なものである。
否定判断はまだ判断であるから、主語は普遍性への関係を保持しており、否定されるのは述語の規定性だけである。「バラは赤くない」と言うとき、色という普遍的な領域は保持され、バラが別の規定された色をもつことが想定されている。否定判断は全面的な否定ではなく、主語の述語への関係はなお肯定的である。
この特殊性は個別性と普遍性とを媒介し、否定判断は定有の判断の自己自身への反省という第三の歩みへと媒介する。しかし個別的なものは特殊的なものでもない。特殊性は個別性より広い範囲をもつからである。バラは何らかの色をもつのではなく、バラ色という規定された色だけをもつ。否定判断はすでに即自かつ対自的に否定の否定であり、規定性の否定は個別性の自己自身への無限な還帰である。これによって主語ははじめて個別的なものとして定立され、判断は「個別的なものは個別的である」と言い、また「普遍的なものは普遍的なものである」とも言う。
しかしまず、否定判断の否定は否定判断の形式において現れなければならない。述語は個別的なものとしての主語についてその全範囲を否定され、述語と主語とのあいだにもはや肯定的な関係がない。これが無限判断である。
c. 無限判断 否定的に無限な判断は、判断の形式も止揚されている不合理な判断である。主語と述語との関係を含むべきでありながら、その関係がないからである。「精神は赤くない」「バラは象ではない」「悟性は机ではない」といった判断は正しく、真であるが、不合理で愚かであり、むしろ判断ではない。より実在的な例は犯罪である。民事上の権利争いでは権利という普遍的な領域は承認されているが、犯罪は普遍的な領域を、権利としての権利を否定する。
無限判断の肯定的なもの、否定の否定は、個別性の自己自身への反省であり、主語ははじめて個別的なものとして定立される。判断規定のこの自己内反省によって、判断は自らを止揚した。否定的に無限な判断では区別が大きすぎ、肯定的に無限な判断では区別が欠けているので、どちらももはや判断ではない。止揚された定有の判断の統一は概念であるから、ふたたび自己のうちへ反省した両極へと分割される。定有の判断は反省の判断へと移行した。
B. 反省の判断 いまや主語はそれとしての個別的なものであり、普遍的なものは区別されたものの関係によって自らを一つへまとめた普遍的なものである。その例は「人間は死すべきものである」「物は過ぎ去りやすい」「この物は有用である」であり、それらの述語は関係のうちにある本質性を表すが、まだ概念の普遍性ではない。この判断を量の判断と規定するのは手近に見えるが、量は媒介に属する最も外的な規定にすぎない。定有の判断では規定の運動は述語において進行したが、反省判断では述語が根底にあるものをなし、規定の前進は主語において進行する。述語はもはや主語に内属するのではなく、個別的なものは偶有的なものとしてそのもとに包摂されている。反省の判断は包摂の判断である。
a. 単称判断 直接的な反省判断は「これは本質的に普遍的なものである」である。しかし「これ」は本質的に普遍的なものではない。否定は主語にかかわり、ただ一つの「これ」だけが反省の普遍的なものなのではない。単称判断はその真理を特称判断のうちにもつ。
b. 特称判断 主語の単一性の代わりに定立される非個別性は特殊性であり、外的な反省における個別的なものの拡張として、主語は、いくつかの「これ」となる。「いくつかの人間は幸福である」のうちには「いくつかの人間は幸福ではない」という直接的な帰結がある。特称判断は肯定と否定とを同時に含み、それゆえ無規定である。単称判断の主語は「カイウス」と言えたが、「いくつかのカイウス」とは言えず、「いくつか」には「人間」のようなより普遍的な内容、類が付け加わる。しかし、いくつかの「これ」は無規定であり、拡張は「これ」に対応して完全に規定されているべきである。こうして主語が獲得した普遍性は全称性であり、特称判断は全称判断へと移行した。
c. 全称判断 全称性は外的な反省の普遍性であり、それだけで存立する個別的なものの総括、比較のうちでのみ帰属する共通性にすぎない。解析学でも、多項式による展開は、より多くの個別性を表すがゆえに二項式による展開より普遍的とされる。しかし規則が一つの項の別の一つの項への依存にのみかかわる場合には、二項式がすでに全項式である。方法あるいは規則こそが真に普遍的なものであり、項の数が増えても普遍性において何も得ない。普遍性について全称性だけを思い浮かべるのは悪無限への逆戻りであり、多数性はどれほど大きくても特称性にとどまる。しかしその際、全体性としての全称性をひそかにすり替えるのは、概念である。
経験的な全称性においては、個別的なものは見いだされ外的に取り入れられるので、普遍性と個別的なものとは一つの統一へ合一されず、全称性は当為にとどまる。経験的に普遍的な命題は、反対の事例が一つも挙げられないかぎり事例の多数が全称性として通用する、という暗黙の取り決めに基づいている。
全称判断の主語「すべての人間」は、まず人間という類を、次にその個別化における類を表す。個別性は全称性へと拡張したことによって、自己への同一的な関係である否定性として定立されている。この反省は個別性にとって外的ではなく、個別性が即自的にそうであるものが対自的になるにすぎない。結果は客観的な普遍性であり、「すべての人間」の代わりに「人間」と言わなければならない。
こうして生じた普遍性は類、それ自身において具体的な普遍性である。類は主語の性質ではなく、本質的に主語であり、もはや述語のもとに包摂されていない。そのような述語は、この普遍性に対してはむしろ特殊的なものである。それゆえ主語と述語との関わり合いは逆転し、判断は自らを止揚した。主語と述語とは同一となり、繋辞のうちへ合致した。この同一性が類、物の即自かつ対自的に存在する本性であり、それがふたたび判断へ分割されるかぎり、主語と述語とは内的な本性によって関係し合う。この連関が必然性の判断の基盤をなす。
C. 必然性の判断 普遍性が至った規定は客観的な普遍性であり、本質の領域では実体性がそれに対応する。しかし客観的な普遍性は概念に属し、区別を内在させている。実体は区別をその偶有のうちにもつだけである。判断においてこの客観的な普遍性は、類と種として規定されている。
a. 定言判断 類は自らを分かち、種へと突き放す。定言判断はそのような普遍性を述語とし、主語はその述語において自らの内在的な本性をもつ。「バラは赤い」と「バラは植物である」、「この指輪は黄色い」と「それは金である」とを一つの部類に投げ込めば、最もありふれた把握にも目につく区別が見落とされる。定言判断において繋辞は必然性の意味をもつ。しかし主語の規定性はまだ偶然的であり、必然性はまだ内的な必然性である。規定性が本質的なものとして定立されなければならず、定言判断は仮言判断へと移行した。
b. 仮言判断 Aがあるならば、Bがある。Aの有はA自身の有ではなく、他のもの、Bの有である。ここでは直接的な規定性の必然的な連関が定立されている。仮言判断はAがあるともBがあるとも含まず、一方があるならば他方があるということだけを含み、両極の有はたんなる可能性としてある。同一性の命題は「AはAであるにすぎず、Bではない」と言明するが、仮言判断においては、有限なものは自らの有であると同じく他のものの有であることが概念によって定立されている。
仮言判断は、根拠と帰結、条件と条件づけられたもの、因果性の関係として受け取ることができる。定言判断において実体性が概念形式においてあるように、仮言判断では因果性の連関がその概念形式においてある。仮言判断はまだ無規定な形式をもつが、即自的には、他のものの有である有は自己と他のものとの統一、普遍性であり、同時に特殊的なものである。この判断に真実に定立されているのは、概念の具体的な同一性としての普遍性であり、こうしてそれは選言判断である。
c. 選言判断 選言判断は、形式との合一のうちに定立された客観的な普遍性である。それはまず類を単純な形式において主語として含み、次に同じ類をその区別された規定の全体性として述語に含む。AはBかCかのどちらかである。これが概念の必然性である。
まず、類は種の実体的な普遍性であり、主語はBでもCでもある。この「も…も」は特殊的なものと普遍的なものとの肯定的な同一性を表す。次に、種は互いに排除し合い、この「あれかこれか」は種の否定的な関係を表す。類は規定された特殊的なものとしての種の統一である。経験的な選言判断「AはBかCかDかなどのどれかである」は、種が見いだされたというだけで必然性を欠く。「あれかこれか」はそれ以外のあらゆる種を排除して一つの全体的な領域を閉じ、その必然性は客観的に普遍的なものの否定的統一のうちにある。反対概念と矛盾概念とは、本来ここでその場所とその真理とを見いだす。種はただ異なっているかぎりで反対的であり、互いに排除し合うかぎりで矛盾的であるが、どちらの規定もそれだけでは一面的であり、選言判断においてそれらの統一が真理として定立されている。
この同一性によって、類は最も近い類として規定されている。類が規定の捨象によって形成された普遍的なものにすぎないなら、「あれかこれか」の原理をなす規定性が類のうちに残っているかどうかは偶然的であり、類は選言判断を形成できない。種がその種的な区別を類の本質的な規定性においてもつかぎりで、類は最も近い類である。
選言的な項の互いの規定は概念の区別に帰着する。自らを選言的に分かち、その規定のうちで否定的統一を啓示するのは概念だけだからである。概念自身が直接にその選言項の一つであり、もう一つの項はその特殊性へと解消された普遍性である。色は紫か、藍か、明るい青か、緑か、黄色か、橙か、赤かのどれかである、という選言には、経験的な混合と不純さがただちに見てとれ、それはすでに野蛮と呼ぶべきである。色が明と暗との具体的な統一として概念的に把握されれば、類は自らを種へと特殊化する原理を自らにもつ。紫や橙のような混合や、藍や明るい青のような度の区別を種と見なすのは、無思慮なやり方にしか根拠をもたない。
選言判断の主語と述語とはそれ自身選言の項であり、客観的な普遍性において、また否定的統一において同一的である。この統一、この判断の繋辞は、両極がその同一性によって合致したものであり、定立されたものとしての概念そのものである。たんなる必然性の判断は、こうして概念の判断へと高まった。
D. 概念の判断 「バラは赤い」「雪は白い」といった定有の判断は大きな判断力を示すとは見なされず、反省の判断はむしろ命題である。いまの判断においてはじめて対象の概念への関係が現にあり、概念は当為として根底に置かれる。それゆえこの判断がはじめて真の判定を含む。善い、悪い、真である、美しい、正しいといった述語は、事柄がその普遍的な概念、すなわち前提された当為と一致しているか否かを表す。
この判断は様相の判断と呼ばれ、その規定はたんに主観的なものと見なされてきた。ここで概念、すなわち主観的なものが判断のうちにふたたび現れ出るからである。しかしこの主観的なものは外的な反省ではない。概念が失われた抽象に基づくこれまでの判断こそが主観的であり、概念の判断はむしろ客観的なもの、真理である。選言判断で概念は普遍的な本性とその特殊化との同一性として定立されたが、その否定的統一はまだ個別性へと自らを規定していない。この統一は自らを両極へ分割し、まず判断として定立される。
a. 実然判断 概念の判断は最初は直接的であり、実然判断である。主語は具体的な個別的なものであり、述語は主語の性状のその概念への関係を表す。「この家は悪い」「この行為は善い」がその例である。主語の普遍的な本性は当為として定立されており、外的な実存としての性状はそれに適合していることもしていないこともある。両極を関係させる統一としての概念はまだ欠けている。それゆえこの判断の確証は主観的な断言であり、その連関は外的な第三のもののうちにある。「この行為は善い」という断言には、「この行為は悪い」という反対の断言が同じ正当性をもって向かい合う。それゆえ判断は本質的に蓋然的である。
b. 蓋然判断 蓋然判断とは、肯定的にも否定的にも受け取られなければならないかぎりでの実然判断である。特称判断や仮言判断も蓋然的であるが、蓋然判断においては、直接的なものを偶然的なものとする規定そのものが現にある。蓋然的なものは主語の直接性にかかわる。「家は善い」とは言えず、「その家がどのような性状であるかに応じて」と言わなければならない。
それゆえ主語そのものが、その普遍性あるいは当為と、定有の特殊的な性状とへ区別され、それがあるべきとおりにあるかどうかの根拠を含んでいる。主語の二つの側面、その概念とその性状とは、どちらも主語の主観性と呼ぶことができる。この二重の意味は、それぞれがそれだけでは一面的であることの現象である。蓋然的なものが、その性状をもつ事柄として定立されると、判断はもはや蓋然的ではなく必当然的である。
c. 必当然判断 必当然判断、たとえば「これこれの性状をもつ家は善い」の主語は、まずそれがあるべきところの普遍的なものを、次にその性状を自らにもち、その性状が、主語が概念に対応するか否かの根拠を含む。この判断は真に客観的であり、判断一般の真理である。主語と述語は同じ内容をもち、この内容は類と個別化されたものとを含む具体的な普遍性である。述語をなす普遍性は、当為と定有との対応である。主語もこの二つの契機を事柄としての直接的な統一のうちに含む。しかし事柄の真理は、事柄が自らのうちで当為と有とに割れていることであり、この根源的な分割が同時に概念の統一への還帰として、事柄の魂をなす。
判断は主語の性状のうちに根拠をもつので必当然的であり、抽象的な「である」であった繋辞は根拠へと満たされた。こうして判断の形式は没落した。主語と述語は即自的に同じ内容であり、主語は規定性によって述語に関係し、最後にこの関係づけは述語の内容をなすからである。両者を関係させる規定性は、まず主語の直接的な性状であるが、本質的に両者を貫く普遍的なもの、すなわち特殊性である。この内容豊かな繋辞の充実によって、判断は推論となった。
第三章 推論 推論は、判断における概念の再建として、両者の統一であり真理である。判断においては契機は自立的な両極として定立されていたが、推論においては、それらの規定された統一が同時に定立されている。したがって推論は完全に定立された概念であり、理性的なものである。悟性は規定された概念をそれだけで固持するが、理性においては規定された概念がその全体性と統一とにおいて定立されている。それゆえ、あらゆる理性的なものが推論である。
推論することは昔から理性に帰せられてきた。あらゆる内容は理性的な形式によってのみ理性的でありうる。神、自由、無限なもの、無条件的なものといった対象を理性的なものとするのは、その無限なものが空虚な抽象ではなく、自己のうちで自らを区別し、その区別の統一としてある満たされた普遍性、すなわち概念であることである。理性は規定された両極の統一としてのみ有限なものを越えて高まる。そのようにして、理性的なものは推論にほかならない。
さて推論は、まず判断と同じく直接的であり、悟性推論である。まず定有の推論において規定は直接的かつ抽象的であるが、それぞれの規定が他方への関係であることが推論自身において明らかとなり、推論は他方が映現する反省の推論となる。最後に、この映現が自己内へ反省することで推論は必然性の推論となり、媒介するものは事柄の客観的な本性となる。こうして推論はその真理に到達し、主観性から客観性へと移り行く。
A. 定有の推論 直接的な推論は、概念規定を直接的なものとして契機とする形式的な推論である。概念は個別性と普遍性とを両極とし、自らはそのあいだに立つ特殊性として中項をなすが、その媒介はまだ定立されていない。定有の推論の弁証法的運動は、この媒介が推論の契機において定立されることに存する。
a. 推論の第一格 個―特―普が規定された推論の普遍的な図式である。個別的なものは直接に普遍的なのではなく特殊性を通して普遍的であり、逆に普遍的なものも特殊性を通して個別性へと降りてくる。この推論の意味は、それだけでは内的なものにすぎない個別的なものが、特殊化によって外的な連関のうちに歩み出て、この分離のうちで自己に関係する普遍的なもの、それゆえ真に個別的なものとなることである。しかし最初の推論では、規定がまだ推論の本質をなす統一として定立されていないので、この意味は表面的にあるにすぎない。
欠陥は個別性、特殊性、普遍性という形式関係にあるのではなく、この形式のもとで個々の規定がより豊かではない点にある。アリストテレスは、一方の極が中間の規定全体のうちにあり、中間の規定が他方の極全体のうちにあるならば両極は結び合わされているとして、内属の関わり合いに固執した。ほかの格は、正しい推論であるかぎりでこの根源的な関わり合いに還元され、そこから逸れるかぎりでは、最初の抽象的な形式が全体性へと自らを規定していく必然的な変形である。
個別的なものは特殊的なもののもとに、特殊的なものは普遍的なもののもとに包摂され、それゆえ個別的なものも普遍的なもののもとに包摂されている。この「それゆえ」は主観的な洞察から導かれた帰結として現れるが、両極そのものの本性に根拠づけられている。両極の真の関係は中名辞として定立されており、推論とは、この関係が空虚な「である」ではなく、内容豊かな中項によって作られていることにほかならない。
それゆえ、推論を三つの判断から成るものとみなすのは形式的な見方である。すべての人間は死すべきものである、カイウスは人間である、したがって彼は死すべきものである。このような推論を聞くと退屈に襲われるのは、切り離された命題が相違の仮象を与えるからである。しかし事物の本性は、大前提を立て、小前提を見いだし、そこから新しい命題を引き出すという仕方で事を運ぶのではない。区別された概念規定が本質的な統一のうちで合一されていることが事柄の本性であり、推論は判断の真理である。あらゆる事物は推論、すなわち特殊性によって個別性と結び合わされた普遍的なものである。
名辞が内容であるという側面から見れば、この推論は質的な推論である。直接的な個別的なものは無限に多様な規定性をもち、そのどれもが中名辞となって、個別的なものを別の普遍的なものと結び合わせる。それゆえ、どの性質を把握してどの述語と結合するかは、まったく偶然的で恣意的である。しかし区別は本質的に対立でもあるから、同じ主語にかかわる推論は矛盾へと移行しなければならない。壁が青く塗られたという中名辞からは壁は青いと推論されるが、黄色の塗料でも覆われていれば壁は緑でありうる。感性という中名辞から人間は善でも悪でもないと推論されても、人間には精神性という中名辞も妥当する。惑星や彗星の太陽に対する重さからは太陽への落下が正しく帰結するが、それらは固有の重心でもあるので落下しない。社会性という中名辞からは財産共有が推論されうるが、個体性という中名辞からは、ドイツ帝国で生じたように国家の解体が帰結する。カントの理性の二律背反とは、ある概念から、あるときは一方の規定を、別のときは同じく必然的に他方の規定を根底に置くことにほかならない。この偶然性はたんに内容のせいにされてはならず、形式的な推論の抽象的な形式のうちにある。
しかし推論の規定の本質的なものは、形式規定であり関係であることにある。両極の中項への直接的な関係が前提であり、両極の互いへの媒介された関係が結論である。直接的な関係である前提は判断であって、推論の本性に矛盾する。それゆえ前提もまた証明されなければならないと要求されるが、二つの前提は二つの推論を、その四つの前提は四つの推論を、八つの前提は八つの推論を求め、幾何級数的に無限に進む。有のより低い領域で現れた無限への進行が、概念の領域でふたたび現れる。そこには質的な有と、それを越え出る無力な当為との矛盾がある。無限な進行の真理は、進行そのものと、欠陥あるものと規定された形式とが止揚されることである。個―特と特―普とが同じ仕方で媒介されるなら、形式個―特―普が二倍にされるだけである。
それゆえ媒介は別の仕方で生じなければならない。特―普の媒介のためには個があるので媒介は特―個―普となり、個―特を媒介するためには普があるので個―普―特となる。形式的な推論の媒介は内容に従えば偶然的であり、その根拠は事柄にとって外的な直接的なもの、すなわち個別的なもののうちにある。形式に関しても、最初の推論の結論個―普によって個別的なものは普遍的なものとして定立され、小前提個―特においてはすでに特殊的なものとしてある。こうして個別的なものは両極の統一、すなわち中項として定立されている。
b. 第二格 特―個―普 最初の質的な推論の真理は、或るものが質的な規定性と即自かつ対自的にではなく、偶然性によって、あるいは個別性において結び合わされていることである。そのかぎりで個別的なものが真実には中項である。しかしさらに、推論の関係は直接性の止揚であり、結論は否定的な統一を含む。したがって媒介はいまや否定的な契機を含むものとして規定されている。
第二の推論の前提は特―個と個―普であり、後者はすでに最初の推論によって媒介されている。それゆえ第二の推論は最初の推論を前提し、逆に最初の推論も第二の推論を前提する。特殊的なものは位置を取り替えて主語となり、個別的なものは中項として定立されている。この推論の客観的な意味は、普遍的なものが個別性によってその種の一つであり、特殊的なものも否定的統一がその規定性を剥ぎ取ることで普遍性へと高められることである。
しかし名辞はまだ直接的な規定性であり、偶然的な個別性によって結びつけられた互いに無関心な二つの質である。別の格への移行は、媒介の否定的な契機が定立される点で概念の始まった実現であるが、同時に純粋な形式の他のものになることでもある。この推論は図式個―特―普に対応しない。このことは、普遍的な形式がこの推論のうちへ移行したという意味をもつ。普遍的な形式の真理は、主観的で偶然的な結び合わせであることに存するからである。古い習慣から第三格とされるこの格で正しい推論が成り立つのは特称判断においてのみであり、その結論は肯定的でも否定的でもある。
結論は肯定的であるとともに否定的でもあるので、普遍的な関係である。最初の推論の媒介は即自的に偶然的であったが、第二の推論ではこの偶然性が定立されており、それは自己自身を止揚する媒介である。しかし個別性の外面性は普遍性である。直接的な個別的なものによる媒介は自らにとって他の媒介を指し示し、それは普遍的なものによって生じる。中名辞は両極の規定された統一ではなく、そこに帰属する肯定的な統一は抽象的な普遍性にすぎない。中項がこの規定において定立されることで、推論の別の形式が生じる。
c. 第三格 個―普―特 この第三の推論はもはや直接的な前提を一つももたない。個―普は第一の推論によって、特―普は第二の推論によって媒介されており、三つの推論は互いを前提する。それゆえここで推論の規定は完成している。推論個―普―特は形式的な推論の真理である。両極は普遍性に従ってのみ中項に含まれ、媒介されるべきものが結び合わされていない。
中項は無規定な普遍的なものとして両極に対して述語であり、主語となることはない。それゆえこの推論が推論の一つの種として対応するには、普―特も個―普と同じ関わり合いを得なければならず、それは否定判断において生じる。こうして推論は正当となるが、結論は必然的に否定的である。それによって、どちらの前提を大前提とするかも無関心となった。これが、アリストテレスの知らなかったふつうの第四格の根拠である。
この推論の客観的な意味は、媒介するものが本質的に普遍的なものであることである。しかしこの普遍性はまだ抽象的で両極の規定性を含まないので、両極の規定性は無関心で外的なものとして定立されている。それによって、関わり合いを欠いた推論、普―普―普という第四格が生じた。それは名辞の質的な区別を捨象し、名辞の同等性をその規定とする。
d. 第四格 普―普―普、あるいは数学的推論 数学的推論は、二つの物あるいは規定が第三のものに等しいならば、それらは互いに等しいと言う。そこでは内属あるいは包摂の関わり合いは消し去られている。数学的推論は公理、すなわち証明も媒介も必要としない明白な最初の命題とみなされる。しかしその明白さは、規定の質的な差異を捨象し、量的な同等性だけを取り上げる形式主義にある。まさにそれゆえ、この推論は前提をもち、媒介されている。量的な規定は質的な区別の捨象によってのみあるからである。三角形は三角形として四角形に等しいのではなく、大きさに従ってのみ等しい。この推論の明白さは、思想規定において貧しく抽象的であることに基づくにすぎない。
しかし定有の推論の結果は、概念規定性の捨象であるだけではない。直接的な規定の否定性は、抽象的な規定性のうちにその他の規定性が定立されたという肯定的な側面をもつ。定有の推論はすべて互いを前提としており、それぞれの媒介にとって前提されたものは、与えられた直接性ではなく、ほかの二つの推論の媒介である。したがって真にあるのは媒介に関係する媒介、すなわち反省の媒介である。前提の円環は、個々の推論が指し示す他のものを、外にではなく円環の内に包括している。さらに、それぞれの形式規定が中項の位置に来た。中項はまず特殊性として、次に個別性および普遍性として自らを規定した。真の結果は、媒介が個々の形式規定性によってではなく、その具体的な同一性によって生じることである。こうして直接的な定有の推論は反省の推論へと移行した。
注解 推論の学説は、その煩瑣さが一般の不興の的となるまで仕上げられ、自然な悟性は、その操作を学ばなくても生まれつき行っているという理由で、この知識に背を向けた。理性の操作の仕方と法則とを対象とする研究は、自然の法則についての知識に劣らない関心を引くものでなければならない。六十いくつかの種類のオウムや、百三十七種のクワガタソウを発見したことが軽んじられないのであれば、理性形式を見つけ出すことはなおさら軽んじられてはならない。推論の一つの格は、オウムやクワガタソウの一つの種よりも無限に高いものではないだろうか。
しかし推論のふつうの叙述は推論を理性形式として叙述するものではなく、三段論法の知恵はその無価値さによって軽視を招いた。その欠陥は、推論の悟性形式にとどまり、概念規定を抽象的な形式的規定として受け取る点にある。推論においては個別的なものと普遍的なものとの統一が中項として定立されている。しかし形式個―特―普が絶対的なものとみなされるので、弁証法的な考察は脱落し、そのほかの推論はこの形式の必然的な変化としてではなく、種として考察される。
形式的な推論は、中項が両極の統一であるべきなのに、それとは質的に異なる規定としてあるという矛盾であり、それゆえそれ自身において弁証法的である。三つの格を通る経過の真の結果は、中項が個々の規定ではなく、それらの規定の全体性であることである。三段論法の不評の最も正当な側面は、それが概念そのものを唯一の内容とする対象についての、概念を欠いた営みである点にある。数は概念を欠いた素材であり、計算は機械的な手続きであって、実際に計算機が発明された。概念である推論の形式規定をそのような素材として扱うのは最も過酷なことである。
その極みは、ライプニッツが推論を組合せ計算に服させたことであろう。肯定・否定、全称・特称・不定・単称の区別を顧慮すると結合は2048通り可能であり、役に立たないものを除くと24の役に立つ格が残る。ここでは推論の規定がさいころの目やロンベルのトランプと同じ部類に置かれ、概念がその直接的な規定を止揚する精神的な本質であることが脇へ置かれている。それはルルス的な術と無意味さにおいて等しい。プルケの計算は、主語と述語との抽象的な同一性を固持し、両者を数学的な同等性のうちに置いた。「すべてのキリスト教徒は人間である」の述語はキリスト教徒であるような人間だけを意味するとされ、この命題と「ユダヤ人はキリスト教徒ではない」とからは、「したがって、ユダヤ人は人間ではない」という結論が帰結し、この結論はメンデルスゾーンのもとでこの計算をあまりよく推薦しなかった。無学な者にも論理学全体を機械的に教えられるというプルケの推薦は、論理学の叙述についての発明について言われうる最悪のことであろう。
B. 反省の推論 質的な推論の経過はその規定の抽象的なものを止揚し、名辞は他方の規定も映現する具体的な規定性として定立された。中項は規定の全体性として両極の定立された統一であるが、まずは両極を包括する反省の統一であり、まだ概念の絶対的な同一性ではない。中項は、個別性と、「すべて」として普遍性へと拡張された個別性と、両者を合一する類とを含む。この最初の反省の推論は全称性の推論と呼ぶことができる。
a. 全体性の推論 全称性の推論は、その完全性における悟性推論であるが、それ以上のものではまだない。全称性という形式は個別的なものを外的に普遍性へとまとめるにすぎず、まだ否定の否定ではない。全称性は概念の普遍性ではなく、反省の外的な普遍性である。いまや中項は個別性を含んで具体的であるから、中項によって主語と結合されうるのは、具体的なものとしての主語に帰属する述語だけである。緑は目に心地よいので絵は心地よい、規則性をもつので詩や建物は美しいと推論しても、それらはほかの規定のゆえに醜いことがありうる。これに対して「すべての緑のもの、あるいは規則的なものは心地よい」の主語は、ほかのすべての性質とともに受け取られた具体的な対象である。
しかし推論のこの反省の完全性こそが、推論をたんなるまやかしとする。「すべて」とはすべての個別的なものであるから、個別的な主語は大前提の述語をすでに直接にもっており、推論によってはじめて得るのではない。すべての人間は死すべきものである、ところでカイウスは人間である、ゆえにカイウスは死すべきものである。大前提は、結論が正しいがゆえにのみ正しい。反省の推論においては、大前提がその結論を前提することが推論そのものにおいて定立されている。大前提は全称性としての個別性によって媒介されている。これが帰納の推論である。
b. 帰納の推論 全称性の推論は第一格の図式個―特―普のもとに、帰納の推論は第二格の図式普―個―特のもとに立つ。帰納の推論は、普遍性とともに定立された完全な個別性を中項とするからである。一方の極はすべての個別的なものに共通する述語、他方の極は種の全体のうちで汲み尽くされる直接的な類であり、推論は普―e e―特という形態をもち、e は無限に至る。ライオン、象などが四足動物という類をなしている。帰納は経験の推論であり、普遍的な規定性がすべての個別的なもののうちに見いだされるがゆえに、類をその規定性と結び合わせる。
しかし帰納はなお本質的に主観的な推論である。個別的なものの直接性のゆえに、普遍性は完全性にすぎず、課題にとどまる。それゆえふたたび悪無限への進行が現れ、個別性と普遍性との統一は永続する当為にとどまる。a、b、c、d、eが無限に続いてはじめて類をなし、完成された経験を与えるのであり、そのかぎりで帰納の結論は蓋然的である。しかし帰納は、無限に続けられるべきだとすることで、類がその規定性と即自かつ対自的に結び合わされていることを前提し、自らの結論を前提している。個別性はただ普遍性と直接に同一的なものとしてのみ中項でありうる。それゆえ帰納の推論の真理は、直接にそれ自身において普遍性であるような個別性を中項とする推論、すなわち類比の推論である。
c. 類比の推論 この推論は第三格個―普―特を抽象的な図式とする。しかしその中項は、具体的なものの自己内反省、すなわちその本性であるような普遍性であり、そのゆえに同時にこの具体的なものでもある。個別的なものがその普遍的な本性に従って中項であり、同じ本性をもつ別の個別的なものが極である。地球には住民がいる、月は一つの地球である、したがって月には住民がいる。
普遍的なものがたんなる質や徴表であり、同一性がたんなる類似性として受け取られるほど、類比は表面的である。また大前提を「ある客観にいくつかの徴表において類似しているものは、ほかの徴表においても類似している」と示すのもふさわしくない。問題であるのはつねに推論の形式である。類比の推論は固有の形式であり、中項も両極も形式的な推論より規定されているので、形式規定が内容規定としても現れる。しかしそれは形式的なものの必然的な前進である。
この推論は四個名辞を含むように見える。二つの個別的なもの、共通と想定された性質、そして一方がもち他方は推論によってはじめて得る性質である。これは、中項が個別性として、しかし直接にまたその真の普遍性として定立されていることに由来する。地球は、その真理に従えば、個別的なものであるとともに普遍的な本性、すなわち類である。この側面に従えば、四個名辞は類比を不完全な推論とするものではない。しかし別の側面に従えば、類比は四個名辞によって不完全な推論となる。地球が天体一般として住民をもつのか、この特殊的な天体として住民をもつのかは無規定だからである。
月には住民がいるという個―特は結論であるが、地球には住民がいるという前提もまさにそのような個―特である。それゆえこの推論は自らの結論を前提しており、それが止揚を要求するのは個別性の契機である。中項には直接性から純化された類が残る。反省の推論は直接性の最初の否定を含むにすぎなかったが、いまや第二の否定が生じ、外的な反省の普遍性は即自かつ対自的に存在する普遍性へと規定された。反省の推論の媒介するものは全称性であるが、その本質的な根拠は個別性であった。しかし個別的なものは普遍性のうちで止揚された否定的な契機であり、直接的な個別的なものはむしろ類の外面性、極である。こうして推論は図式特―個―普から個―普―特のもとに入り、必然性の推論へと移行した。
C. 必然性の推論 媒介するものは、いまや単純な規定された普遍性として、しかし同時に両極の規定性全体を含む客観的な普遍性、すなわち類として規定された。中項は両極の規定性の自己内反省であるから、この推論は内容豊かであり、必然性の推論である。その実現は、両極もこの全体性として定立され、実体的な内容にすぎない必然性が定立された形式の関係となることにある。
a. 定言推論 定言推論は定言判断をその前提としてもち、その内実のある意味に従えば必然性の最初の推論である。主語はその実体によって述語と結び合わされている。実体の区別が推論の両極である。普遍性の極は類としての中項に対して種差であり、個別性の極は対自的に存在する存立へとまとめられた偶有性である。
この推論は図式個―特―普のもとに立つ。しかし中項は個別的なものの本質的な本性であってその性質の一つではないので、何らかの中名辞によって何らかの質と結び合わされる偶然性は脱落し、無限な進行に導いた意味での証明の要求は生じない。三つの名辞を貫いて一つの本質があり、個別性、特殊性、普遍性はその形式的な契機にすぎない。それゆえ定言推論はそのかぎりでもはや主観的ではなく、この同一性のうちで客観性が始まる。
しかしこの同一性がなお実体的な同一性、内容としてあり、まだ形式の同一性ではないことが主観的である。類のもとには無規定に多くの個別的なものが立つので、この個別的なものだけが包摂されていることは偶然的であり、しかもそれは外的な反省にのみ属するのではなく、個別的なものは主観的な現実性として定立されている。両極は即自的に客観的な普遍性をもちながら互いに無関心な現実性としてあり、同時にその直接性が同一性のうちで止揚された偶然的なものである。しかしこの同一性は形式的で内的な同一性にすぎない。それによって必然性の推論は仮言推論へと自らを規定した。
b. 仮言推論 仮言判断は、関係させられたものの直接性なしに、必然的な関係だけを含む。Aがあるならば、Bがある。仮言推論はこの有の直接性を付け加える。Aがあるならば、Bがある、ところでAがある、したがってBがある。しかし推論は関係を媒介する統一として含むので、Aの有はたんなる直接性としてではなく、推論の中項として受け取られなければならない。
まず仮言判断の関係は、実存の外的な差異のもとでの内的な実体的な同一性としての必然性であり、一方の側面は条件の全体性として、他方は現実性としてある。
さて、Aは媒介する有である。まず直接的な有、無関心な現実性であるかぎりで、次にそれ自身において偶然的な、自らを止揚する有としてあるかぎりにおいてである。条件を新しい現実性へと移すのは、条件がその概念における有、すなわち自己に関係する否定的な統一としての個別性であることである。条件は使用を待つ散らばった材料であり、この否定性が媒介するものとして、活動として自らを規定する。中項はもはやたんに内的な必然性ではなく、存在する必然性である。結論「したがってBがある」も、Bが直接的に存在しながら他のものによって媒介されてあるという同じ矛盾を表す。
しかし必然性は必然的なもののうちへと合致する。条件づける現実性を条件づけられた現実性へと移す形式活動は即自的に統一であり、Aの有はBの有でもあるので、この統一はこの推論によって定立されてもいる。こうして推論の媒介は、自己に関係する否定性、絶対的な形式として、まさにそれによって客観的な普遍性、自己と同一的な内容として規定された。この規定において推論は選言推論である。
c. 選言推論 仮言推論が第二格の図式普―個―特のもとに立つように、選言推論は第三格の図式個―普―特のもとに立つ。しかし中項は形式によって満たされた普遍性、その種へと分解された類としての全体性である。AはBでもCでもDでもあるものである。しかし特殊化は同じくB、C、Dの「あれかこれか」、規定の相互的な排除であり、しかもほかの特殊的なものを排除した個別性としての、自己に関係する規定である。AはBかCかDかのどれかである、しかしAはBである、したがってAはCでもDでもない。
媒介されたものはAの普遍性と個別性との結合であるが、媒介するものもこのAである。仮言推論の真理であった媒介するものと媒介されたものとの統一が、ここで定立されている。それゆえ選言推論はもはや推論ではない。中項はそれ自身二つの極を完全な規定性において含み、両極はもはや中項に対して固有の規定性をもたない。
それによって推論することの形式主義、それとともに推論の、また概念一般の主観性が止揚された。推論の格は概念の各規定性を個別に中項として示し、推論の類は中項の充実の段階を示す。中項は、形式的な推論では各規定性が個別に媒介の機能を通り抜けることによってのみ全体性として定立され、反省の推論では両極の規定を外的にまとめ、必然性の推論では展開された全体的な統一であるとともに単純な統一となった。中項と両極との区別に存していた推論の形式は、それによって止揚された。
それによって概念は実現され、客観性であるような実在性を獲得した。推論は媒介であり、推論の運動はこの媒介の止揚である。媒介においては何ものも即自かつ対自的にはなく、それぞれが他のものによってのみある。それゆえ結果は、媒介の止揚によって出てきた直接性、媒介と同一的な有、その他在から自己自身を再建した概念である。したがってこの有は即自かつ対自的にある事柄、すなわち客観性である。
第二部門 客観性 客観的論理学の第一巻では、抽象的な有が定有へと移行し、本質へと帰っていった。第二巻では、本質が根拠へ、実存へと歩み入り、実体へと自らを実現して、ふたたび概念へと帰った。いま概念は自らを客観性へと規定する。この移行は、形而上学において神の概念から神の定有への推論、すなわち存在論的証明として現れたものと同じである。神とはその概念がその有を含むものであるというデカルトの最も崇高な思想は、形式的な推論の悪い形式に落ち込み、ついに理性批判と、定有は概念からほじくり出せないという思想とに屈した。しかしこの証明の本質的な対象である概念と定有との連関にかかわるのは、概念が自らを客観性へと規定する経過全体である。判断へと決意することですでに自らを存在するものとして定立していた概念の、まだ抽象的な実在性が、客観性において完成する。
主語は述語においてはじめて規定性と内容を得るのであり、それ以前には、概念的に把握する認識にとってただ名前にすぎない。神は生ける神として、さらに絶対的精神として、ただその行いにおいてのみ認識される。人間は早くから神をその業において認識するよう指示されてきたのであり、業のうちには神の性質も神の有も含まれている。有、まして定有はきわめて貧しい規定であり、それを概念のうちに見いだす困難は、有そのものが何であるかを考察しなかったことからのみ生じえた。有は抽象的で直接的な自己関係として、概念の抽象的な契機にほかならず、概念は自己に関係する否定性として個別性であるから、有をより豊かな形式においてすでに含んでいる。この困難が克服できないものとなるのは、有が、私の財産状態のうちにある百ターラーのように、手でつかまれ外的な目に見えるものとして現れるべき場合である。
純粋な概念が絶対的な神的な概念そのものであるならば、あの論理的な経過は神の概念への適用ではなく、神の有への自己規定の直接的な叙述となる。ただし概念が神の概念として叙述されるには、すでに理念のうちへと取り入れられていなければならない。純粋な概念が判断と推論の有限な形式を通り抜けるのは、まだ客観性への成の途上にあるからであり、この客観性もまだ神的な実存ではない。それでも客観性は、存在論的証明の有や定有より豊かで高い。
直接性の形式はすでにいくつも現れた。有は最初の直接性、定有は最初の規定性を伴う直接性、実存は根拠から出てくる直接性、現実性と実体性は非本質的な実存とその本質性との区別が止揚されて出てきた直接性であり、客観性は、概念がその抽象と媒介とを止揚して自らをそこへと規定する直接性である。哲学は日常生活の言語から、概念の規定に近づく表現を選ぶ権利をもつ。
客観性には二重の意味がある。まず、自立的な概念に対立して立つという意味である。この意味での客観は、主観的観念論の自我=自我に対立する多様な世界であり、自我はこの即自的に空しい他のものを否定しようと、この世界と無限な闘いに入る。次に、制限も対立もない即自かつ対自的に存在するものという意味であり、理性的な原則や完全な芸術作品が客観的と呼ばれるのはこの意味においてである。
現在の立場では、客観性はまず、定立された媒介を自己への直接的な関係へと止揚した、概念の即自かつ対自的に存在する有である。しかし概念はその主観性の自由な対自有を再建しなければならないので、目的としての客観性への関わり合いが生じ、そこで客観性は、概念に対立するかぎりで空しいものという意味を得る。
客観性はまずその直接性においてあり、その契機は互いに外的な客観として存立し、概念の統一をただ内的な、あるいは外的な統一としてもつ。これが機械論である。次に、この統一が客観の内在的な法則となり、客観の関わり合いは客観固有の差異となる。これが化学論である。最後に、この統一は客観の自立性から区別され、目的として定立される。これが目的論であり、外的な合目的性は目的の実現によって内的な合目的性となり、理念となる。
第一章 機械論 客観性は、その統一へと帰った概念の全体性として直接的なものである。区別されたものは完全な自立的な客観であり、どのような結合においても互いに外的なままにとどまる。その関係が合成、混合、堆積以上のものにならないことが機械論の性格であり、機械的な記憶や習慣のような精神的な機械論にも、個体性の自由が欠けている。
A. 機械的客観 客観は、その媒介が釣り合わされて直接的な同一性となった推論であり、即自かつ対自的に普遍的なものである。それゆえ客観は質料と形式とに区別されず、性質も偶有ももたない。物と性質、全体と部分、実体と偶有といった反省の関わり合いは、すでに概念のうちで没落しているからである。
客観はまず、自らにおいて規定された対立をもたないかぎりで無規定であり、その区別は、多くの客観があるということにすぎない。それゆえ客観は集合体である。しかし客観は原子から成るのではない。原子は全体性ではないからである。世界表象の全体性であるライプニッツのモナドのほうがむしろ客観である。モナドは排除する一とされるが、その表象の根拠がモナドの外にあるかぎりで、実際には排除するものではない。
客観はその規定に対して無関心であり、規定を結合する形式も、混合であれ秩序や配列であれ、外的で無関心である。それゆえ客観はその規定性を他の客観のうちにもち、その客観もまた他のうちにもち、以下無限に続く。決定論は、客観の規定に対して別の客観の規定を挙げるが、どこにも自己規定の原理はないので、無限に進むほど無規定であり、その説明は空虚な言葉にすぎない。
規定性は一方の客観にも他方の客観にも同一的なものとして二重にあるにすぎず、説明は同語反復的である。しかし客観は互いに自立的であり、この同一性のうちで互いに外的にとどまる。客観の完全な無関心さと規定性の同一性とのこの矛盾は、互いに反発し合う多くの客観の否定的な統一であり、機械的過程である。
B. 機械的過程 客観が自己のうちで閉じた全体性としてのみ考察されるならば、それらは互いに作用し合うことができない。この規定において客観はモナドと同じである。しかしモナドは世界表象の展開のある度として規定されたものであり、閉じた全体性はこの規定性に対して無関心であるから、この規定性は別の客観によって定立されたものである。概念を欠いた、たんに表象するだけの自己関係こそが、他のものに対する受動性である。予定調和は、相互作用を前提とし、概念から引き離すにすぎない。
因果関係は概念のうちで没落した。ここで存在するものは実体ではなく客観であり、客観が原因であることは媒介されたもの、偶然的なものである。この表象された因果性こそが機械論である。客観の無関心な自立性もたんなる定立されてあることであり、それゆえ客観は混合し、集合体として一つの客観となることができる。
a. 形式的な機械的過程 機械的過程は、機械論の概念のうちに含まれているものの定立であり、まず矛盾の定立である。
客観の作用は、規定性に普遍性の形式を与える同一的な関係の定立であり、これが伝達である。精神的な伝達においては、香りが抵抗のない大気のなかで広がるように、一つの規定性が一人の人格から別の人格へと曇りなく連続する。物質的な客観のあいだでも規定性は観念的な仕方で広がる。法律、習俗、理性的な表象は個人を無意識のうちに貫き、運動、熱、磁気、電気は計量できない作用因として伝達される。
普遍性が定立されるならば、もう一つの概念の契機である特殊性も定立されなければならない。客観は自立性を証明し、普遍性のうちで個別性を再建する。これが反作用である。伝達されたものは客観の差異において特殊化し、分配される。作用する客観は規定性を失うのではなく、ただ普遍的なものとなる。
反作用は作用に等しい。まず、他方の客観は普遍的なもの全体を取り入れ、衝撃を相互的に突き返す。次に、それぞれの客観はその種別的な持ち分をもつ。最後に、それぞれの客観は自立性の弾性によって他のものの定立されてあることを突き出し、自己関係を保持する。こうして作用は静止へと移行し、表面的で一時的な変化にすぎなかったことになる。
この帰還が産物である。前提されていた概念の全体性は、産物において定立されている。しかし得られた規定性は外的なものにとどまるので、産物は過程に入る客観と同じであるが、同時にこの運動によってはじめて規定されており、機械的な客観はおよそ産物としてのみ客観である。他方、目的の場合のように終わりが始まりのうちにあるのではないので、結果は客観にとって偶然的なものである。
b. 実在的な機械的過程 機械的過程は静止へと移行する。さらに客観の概念は媒介を通り抜けて自己へと帰ったので、客観は規定性を自己内へ反省したものとしてもち、互いに規定的に区別されたものとなる。形式的な過程の結果は、静止であるとともに対立の分配である。一方の客観は非自立的な普遍性としてふるまい、他方の客観は突破できない自立的な個別性をもつ。
実在的な過程の最初の契機も伝達である。より弱いものがより強いものに貫かれうるのは、両者が一つの領域をなすかぎりにおいてのみである。空中に自由に垂れ下がった亜麻布は銃弾に撃ち抜かれず、まったく弱い精神は強い精神に対してかえって安全である。理性に対する唯一の首尾一貫した手段は、理性とまったくかかわらないことである。
抵抗は、その規定性が伝達された普遍的なものに適合しないかぎりで圧倒される。客観の個別性は伝達されたものを自らの述語とすることができず、粉砕される。威力が強制力となるのは、威力が客観の本性と同一的でありながら、その否定性が客観自身の自己内反省ではないからである。
客観的な普遍性としての、客観に対する強制力としての威力が運命である。生きているもの一般の運命は類であり、類は個体の過ぎ去りやすさによって自らを顕示する。本来の運命をもつのは、自らの客観的な普遍性に自らを対置しうる自由な自己意識だけである。しかしこの分離によって、自己意識は運命の機械的な関わり合いを呼び起こす。運命が強制力をもつには、自己意識が行為を犯して自らを特殊的なものとしたのでなければならない。行為をしない民族には非難すべき点がない。行為によって主体はその本質を外化して客観となり、外面性と機械論との関わり合いに入る。
c. 機械的過程の産物 形式的な機械論の産物は、規定性が定立されたものとしてある無関心な全体性である。その結果は静止であるが、規定されてあることの止揚は、自己のうちへと入った規定性、客観の真の個別性でもある。この自己内反省が中心であり、否定性の反省は自己において特殊化する普遍性、すなわち法則である。
C. 絶対的機械論
a. 中心 客観の空虚な多様性は、まず単純な自己規定する中心点へと集められている。本質的な規定性は、互いに機械的に作用し合う客観のあいだの実在的な中項をなし、客観を浸透する内在的な本質である。
物質的な世界においてこの個体的な普遍性は中心物体である。非本質的な物体は互いに衝突し圧し合うが、中心物体とその客観とのあいだにはそのような関わり合いはない。客観の中心物体との同一性は静止であるが、客観の外面性がこの統一に対応しないので、それは当為にとどまり、客観は中心へと努力する。力学が、運動させられた物体は外的な抵抗がなければ直線で無限に運動し続けると想定するのは空虚な抽象である。摩擦も中心性の現象にすぎず、物体を自らへと連れ戻すのは中心性である。
中心物体は対自有をもつ個体であり、その規定性は秩序や配列とは異なる内在的な形式である。しかしこの中心個体はまだ中項にすぎず、自らを両極へと分割する。非自立的であった客観も相対的な中心となり、三つの推論が成り立つ。相対的な中心個体は、絶対的な中心のもとに包摂され、非自立的な客観を包摂する推論の中項である。非自立的なものは、両中心を結ぶ紐帯として形式的な推論の中項である。絶対的な個体は客観的に普遍的な中項である。同じく、政府、市民個人、個々人の欲求あるいは外的な生活も三つの名辞であり、そのそれぞれがほかの二つの中項である。
三つの客観のそれぞれが中項と両極とを通り抜けるこの全体性が、自由な機械論である。圧力、衝撃、混合は外面性の関わり合いに属し、客観の外的な規定性であった秩序は、内在的で客観的な規定、すなわち法則へと移行した。
b. 法則 法則においては、客観性の観念的な実在性と外的な実在性との区別が現れ出る。外的な実在性は中心の観念的なものに対応せず、努力にまでしか至らない。しかし個体性は否定的統一の具体的な原理として、規定された概念区別へと自らを分割しつつ自己に等しい普遍性にとどまる。この観念的な実在性が客観的な全体性の魂であり、その区別が法則である。死んだ機械論は規則ではあっても法則ではない形式的な一様性を示すにすぎず、ただ自由な機械論だけが法則をもつ。法則は自己自身に火をつける運動の不滅の源泉であり、自由な必然性である。
c. 機械論の移行 しかしこの魂はまだその身体のうちに沈められており、法則の区別はその観念性のうちに閉じ込められている。客観はただ観念的な中心性においてのみ本質的な自立性をもつので、概念の判断に抵抗できない。客観の努力は規定的に自らに対立した客観への努力となり、中心の否定的統一は客観化された対立へと移行した。こうして自由な機械論は化学論へと自らを規定する。
第二章 化学論 化学論は、客観性の全体のうちで判断の契機をなす。
A. 化学的客観 機械的な客観が規定性に対して無関心な全体性であるのに対して、化学的な客観においては、他のものへの関係がその本性に属する。この規定性は普遍的な規定性であり、化学的な客観は即自的に概念全体として、その一面的な存立を止揚して実在的な全体となる衝動をもつ。化学論の図式は元素的な自然に限られず、気象的な関わり合い、性の関わり合い、愛や友情にも形式的な基盤をなす。化学的な客観の否定的統一は、その対立の二つの契機を二つの客観においてもつので、一方の有は他方の有である。化学的な客観は、直接的な定立されてあることと内在的な概念との矛盾として、過程を自己規定的に始める。
B. 過程 過程は、緊張した客観が自己自身に対して緊張しているのと同じだけ互いに対して緊張している、という前提から始まる。これが親和性である。それぞれの客観は自らの一面性とともに他方の一面性も止揚し、両方の契機を含む概念にかなった実在性を定立しようと努める。
両極を結び合わせる中項は、まず両者を保持する概念全体であり、次に両者から区別されて実存する伝達の境位、抽象的な中和性である。物体的なものにおいては水がこの媒体である。精神的なものにおいては、そこにこの関わり合いの類比物が生じるかぎりで、記号一般、より詳しくは言語がそれと見なされるべきである。
伝達において客観の実在的な区別は概念の統一へと還元され、その緊張は鈍らされ、努力は静かな中和性に到達する。こうして過程は消え去った。産物は中和的なものであり、緊張をもはやもたないが、その能力は保持している。差異はまだ直接に止揚されたにすぎない。
否定的統一は産物の外に抽象的な個別性として、自らを消耗しつつ外へと向かう不安な活動として実存し、中和的な客観を分割する。その分割は、抽象的で無関心な基体と、それに精神を吹き込む原理とへの分解である。この選言推論が化学論の全体性であり、その最後に根源的に規定された元素が現れる。元素は化学的な緊張から解放されているが、その規定性は外への衝動として、ふたたび他のものにおいて緊張を定立する。こうして化学論はその始まりへと帰ったが、その概念へのこの帰還によって自らを止揚し、より高い領域へと移行した。
C. 化学論の移行 ふつうの化学がすでにその例を示している。ある物体がその質量の一部により高い酸化を割り当て、別の部分をより低い酸化の度へと引き下げ、その度においてはじめて別の物体と中和的な結合を結ぶ。客観はここで、実在的な関係のための前提を自ら定立し、自らに中項を与える。
化学論は無関心な客観性の最初の否定であり、なお外面性につきまとわれている。第一の推論は形式的な中和性を、第二の推論は実在的な中和性を中項とし、第三の推論は自らを実現する概念として、その過程を条件づける前提を自ら定立する。しかしこれらの推論はなおばらばらに分かれ、過程は外から付け加わる条件から出発しなければならない。
しかしこれらの過程は、外面性と条件づけられてあることとが止揚されていく段階である。第一の過程では両極の互いに対する外面性が、第二の過程では中和的な合一の外面性が止揚され、第三の推論は無関心な基体という最後の直接性をも止揚して、それを概念の自己媒介の契機とする。こうして客観的な外面性から完全に解放された概念、この客観的な自由な概念が目的である。
第三章 目的論 合目的性が知覚されるところでは、その創始者として悟性が想定される。目的論はとりわけ機械論に対置され、作用因と目的因との対立、世界の本質が盲目的な自然機械論であるか悟性であるかという探究、宿命論および決定論と自由との二律背反も、この対立にかかわる。自由なものとは、その実存における概念だからである。
かつての形而上学は、どちらの概念が世界表象にあてはまるかを示そうと努めたが、どちらが即自かつ対自的に真理をもつのかを探究しなかった。実存は真なるものの尺度ではなく、真なるものこそが実存の基準である。対立する両者を同等に妥当するものとし、どこに適用するかだけを問うことはできない。問うべきは、どちらが真であるか、さらに一方が他方の真理ではないかである。目的関係は機械論の真理であることが証明された。化学論はここで機械論とまとめられ、両者は自然必然性のもとに立つ。
目的論的な原理が世界外の悟性と結びつけられるほど、それは真の自然研究から遠ざかるように見えた。目的はその実存における概念そのものであるのに、外的な規定性を説く機械論のほうが内在的な見方と見なされるのは、奇妙に思われるかもしれない。機械論は、規定する外的なものがそれ自身ふたたび同じような客観にすぎないかぎりで内在的であり、自然をそれだけで全体として捉えようとする全体性への努力である。この全体性は、世界外の悟性のうちには見いだされない。
目的論においては、機械論と異なり、内容が重要となる。しかしその内容が有限で取るに足らないものであるならば、自己のうちで無限な全体性という目的の形式と矛盾する。目的論が子どもじみているという非難を招いたのはこのためであり、機械論は客観の規定性に偶然的なものという価値を残すことで、むしろ無限な自由の意識を与える。この目的論の不利は、それが外的な合目的性にまでしか至らないことである。それでも目的関係一般は即自かつ対自的に機械論の真理であり、自由の原理をもつ。
カントの大きな功績の一つは、外的な合目的性と内的な合目的性との区別にある。後者において、カントは生命の概念、すなわち理念を開示し、理性批判がただ否定的に行うことを肯定的に行った。目的論と機械論との対立は自由と必然性との対立であり、カントはこれを超越論的理念の第三の抗争として挙げた。
定立はこうである。自然の法則に従う因果性は唯一の因果性ではなく、現象を説明するためには自由による因果性を想定することが必要である。反定立はこうである。自由は存在せず、世界におけるすべてはもっぱら自然の法則に従って生起する。証明は背理法的に進められるが、反対の想定の矛盾を示すために、証明されるべき命題そのものが前提されている。定立に対立した想定が矛盾するのは、それが定立に矛盾するからであり、自由の想定がなされえないのは、それが反定立に矛盾するからである。証明は二つの命題の実然的な主張にすぎない。
同じ二律背反は、目的論的判断力の批判において、物質的な事物の産出はすべて機械的な法則に従うということと、そのいくつかはそうではないということとの対立として現れる。カントの解決は、理性はどちらの命題も証明できないので、両命題を客観的な命題ではなく主観的な格率と見なすことである。私はつねに自然の出来事を自然機械論の原理に従って反省すべきであるが、折にふれて究極原因の原理に従って跡づけることは妨げられない、というのである。しかしこの立場では、どちらの原理が即自かつ対自的に真理をもつのかが探究されておらず、それは格率を折にふれて適用する偶然的な認識にとどまる。
それでもカントが目的論的な原理を反省的判断力に帰し、理性の普遍的なものと直観の個別的なものとを結合する中間項としたことは注目に値する。ただ包摂するにすぎない普遍的なものは抽象的であるが、目的は具体的な普遍的なものであり、特殊性と外面性との契機をもち、自己自身から自らを突き放す衝動である。目的関係は、あたかも悟性が私たちの認識能力のために与えたかのような統一に従う反省的な判断ではなく、外的な客観性を絶対的に規定する客観的な判断であり、さらには客観性を通して自己自身と結び合わされる自由な概念の推論である。
目的は機械論と化学論とに対する第三のものであり、それらの真理である。目的はなお客観性の領域に立つので、客観的な世界を自らに向かい合ってもち、機械的な因果性はこの外的な目的関係のもとに、止揚されたものとして現れる。それゆえ機械的あるいは化学的な技術は、外的に規定されているというその性格によって、おのずから目的関係に身を差し出す。
A. 主観的目的 主観的な概念は、客観的な領域の中心性において否定的な統一点を、化学論において概念規定の客観性を見いだし、具体的な客観的な概念として定立された。それゆえ目的は、自らを外的に定立しようとする衝動である主観的な概念であり、移行から引き離されている。目的は、発現する力でも結果のうちに移行する原因でもない。目的を力や原因と呼ぶならば、自己自身を発現へと誘発する力、自己自身の原因である原因としてのみそう呼びうる。
目的は、その実存における理性的なものであり、本質的にそれ自身において推論である。目的は自己に等しい普遍的なもの、無規定な活動であるが、自己への否定的な関係として自らを規定して特殊性、すなわち内容を自らに与え、同時に個別性である。この反省は外への反省でもあり、そのかぎりで目的はなお主観的であり、その活動は外的な客観性に向けられている。
目的の自己規定は規定された内容として形式から区別されているので、目的は無限な主観性でありながら有限である。目的の有限性は、目的が機械的かつ化学的な世界を前提として自らの前にもつことに存する。
目的の運動は、この前提を止揚し、客観を概念によって規定されたものとして定立することへと向かう。それは同時に目的の主観性の止揚であり、目的の実現である。目的は排除する個別性として決意し、自らを開く。主観性が自らを規定するのと同じ瞬間に、それは無関心な外的な客観性に関係させられており、この客観性は概念によって規定されたものとして定立されるべきである。まずは手段としてである。
B. 手段 目的における最初の直接的な定立は、同時に、無関心な客観的な世界の前提作用である。しかし目的の主観性は絶対的な否定的統一であるから、その次の規定作用はこの前提の止揚である。この止揚は自己への帰還であるが、客観的な世界に対してはまだ最初の外的な否定にすぎず、遂行された目的ではなくその始まりである。そのように規定された客観は手段である。
目的は手段によって客観性と、そして客観性のうちで自己自身と結び合わされる。手段は推論の中項である。目的は有限であるがゆえに手段を必要とする。絶対的な概念は自己自身のうちに媒介をもち、被造物としての世界は外面性の形式をもつにすぎない。
手段は形式的な推論の形式的な中項であり、両極に対して外的である。形式的な推論において特殊性が無関心な中名辞であるのと同様である。手段においては概念と客観性とはただ外的に結合されているにすぎず、手段はたんに機械的な客観である。しかし結び合わせるものとしては、中項それ自身が目的の全体性でなければならず、手段における目的規定は同時に活動でもある。
この中項全体は、抽象的な活動と外的な手段とを両極とする推論の全体性である。手段は即自的に目的と同一的であるから、目的に対して抵抗の力をもたず、浸透可能であり、目的に仕えるという性格をもつ。目的は客観の主観性あるいは魂である。しかし手段において目的と結合されている客観性は直接的にそうであるにすぎないので、前提はなお存立し、目的の活動はなお前提に向けられている。目的が活動であるのは、手段において客観性の契機が外的なものとして定立されているかぎりにおいてである。
C. 実現された目的 目的は手段への関係においてすでに自己のうちへ反省しているが、その客観的な自己への帰還はまだ定立されていない。手段による目的の活動がただ直接的な客観性を規定するだけなら、産物はまた手段にすぎず、それが無限に続いて、目的そのものの客観性は出てこない。それゆえ、客観は自分自身によって概念の統一へと合致しなければならず、手段による目的の外的な活動は、自らを媒介として規定し、自ら止揚しなければならない。
手段の外的な客観への関係は推論の第二の前提であり、そこでの過程は、機械的あるいは化学的な過程が目的の支配のもとで現れたものである。しかし、これらの過程はそれ自身において目的へと帰っていく。それゆえ、ここで生じる機械論は同時に客観性の概念への帰還であり、客観に対する合目的的な活動の否定的なふるまいは、客観性がそれ自身において概念へと移行することである。
目的が直接に客観に関係してそれを手段とし、それによって別の客観を規定することは、強制力と見なすことができる。しかし、目的が自らと客観とのあいだに別の客観を差し挟むことは、理性の狡知と見なすことができる。直接に客観に関係すれば、目的は機械論や化学論のうちに入り、偶然性と没落とに服するであろう。目的は客観を手段として外へ押し出し、それをすり減らさせ、その背後で機械的な強制力に対して自らを保持する。有限な目的は有限な内容をもつが、推論の外的な中項である手段においては、目的の理性性がこの外面性のうちで自らを保持するものとして告げ知らされる。そのかぎりで、手段は有限な目的よりも高い。鋤は、それによって準備される直接的な享受よりも尊い。道具は保持されるが、享受は過ぎ去り忘れられる。人間は目的に従えば自然に服しているとしても、道具において外的な自然を支配する威力をもつ。
しかし、目的は機械的過程の外に身を保つだけでなく、そのうちで自らを保持し、その過程の規定である。目的は機械的なものの即自かつ対自的に存在する真理であるから、そのうちでただ自己自身と合致する。目的の内容は単純な自己内反省した特殊性であり、その単純さのゆえに実現において同一的にとどまる。原因が結果においてただ自己自身と合致するように、あらゆる移行において概念は自らを保持するが、目的論的な移行においては、自由で具体的な統一としての概念そのものがすでに原因として実存している。それゆえ、目的論的な活動においては、終わりが始まりであり、帰結が根拠であり、結果が原因であって、それは成ったものの成である。他のものとして言い表される終わり、帰結、結果が、ここでは単純な概念と同一的なものとして定立されている。
産物をより詳しく見れば、合目的的な活動が手段によって客観に機械的にふるまうかぎり、産物は目的をただ外的にもつ。推論のほかの契機も互いに外的にふるまい、二つの前提はどちらも直接的な関係である。それゆえ、この推論は、生み出すべき結論をすでに前提しているという、形式的な推論一般の欠陥をもつ。目的と客観とのあいだには手段が差し挟まれなければならないが、その手段も目的によって規定された客観であるから、また新しい手段が必要となり、媒介の無限な進行が定立される。合目的的な行いの産物は手段と同じものであり、そこでは遂行された目的ではなく、ただ手段が出てきたにすぎない。家や時計は道具に対しては目的として現れうるが、その現実性をなす石や梁、歯車や軸は、圧力、空気・光・水による化学的過程、摩擦によって、すなわち使用と摩耗とによってのみその規定を満たす。それらは相対的な目的、本質的にはまた手段にすぎない。
結果として、外的な合目的性はただ手段に至るだけで、客観的な目的には至らない。しかし実際には、結果はたんに外的な目的関係であるだけでなく、その真理、すなわち内的な目的関係、客観的な目的である。目的が前提する客観の外面性は、すでに非本質的な仮象として定立されており、目的の活動は本来この仮象の止揚にすぎない。それゆえ、主観的な目的が客観を手段とするには強制力は必要なく、自己自身の確証、すなわち決意だけが必要である。客観性による客観性の第二の止揚は、否定性と同一的な客観性として客観性を再建する。この産物は、外的な客観性としては手段であり続け、概念と同一的な客観性としては実現された目的である。遂行された目的においては、手段も媒介も消失する。遂行された目的は手段でもあり、手段の真理は実在的な目的そのものである。こうして客観性の見かけ上最初の止揚は、すでに第二の止揚であり、媒介を通り抜けた自己内反省である。
概念はここで無関心な外面性の領域において自己自身と相互作用のうちにあるから、その運動は直接に二重のものであり、つねに最初のものが第二のものでもある。同一性にとって外的なものとして規定されたものがむしろ同一性そのものであることを固持することによってのみ、概念の真の客観化、すなわち媒介のそれぞれの契機がそれ自身媒介の推論全体であることが把握される。有限な概念の主観性は、手段を軽蔑して投げ捨てても、それ以上よいものに到達しなかった。目的は手段において達成され、満たされた目的においては手段と媒介とが保持されているという反省こそが、外的な目的関係の最後の結果である。
われわれは、主観性すなわち概念の対自有が、概念の即自有である客観性へと移行するのを見た。目的の運動は、概念がたんに当為や努力であるのではなく、具体的な全体性として直接的な客観性と同一的であることを達成した。この同一性は、自己自身を止揚する媒介によってのみ単純な直接性である。概念は、その即自的に存在する客観性から区別されて外面性をもちながら、この外的な全体性のうちで自己規定する同一性である。概念はいまや理念である。
第三部門 理念 理念は十全な概念であり、客観的な真なるものである。何かが真理をもつのは、それが理念であるかぎりにおいてのみである。理念という表現は、しばしばたんなる表象のためにも用いられてきた。カントはそれをふたたび理性概念のために取り戻した。カントによれば、理性概念は無条件的なものの概念であるが、現象に関しては超越的であり、知覚を概念的に把握するためのものであって、悟性概念は知覚を理解するためのものである。しかし、悟性概念が本当に概念であるならば、それによる理解は概念的把握である。森の終わりで左に行くよう道を教えられて「わかりました」と答える人の理解は、表象と記憶とに取り入れること以上のものではない。理性概念という表現もぎこちない。概念はおよそ理性的なものだからである。理性は概念と客観性との全体性であり、この意味において理念は理性的なものである。
それゆえ、真なる思想について「それはただの理念にすぎない」と言う評価は退けられなければならない。感性界においてそれに合致する対象が与えられえないという理由で理念に真理を認めないのは、現象、すなわち客観的な世界の真でない有をなすものが理念に欠けているという理由で、その客観的な妥当性を否認する奇妙な誤解である。カント自身、実践的な理念に関しては、理念に反するとされる経験への俗悪な訴えほど哲学者にふさわしくないものはないと認め、理念を最大限のための原型とし、現実をそれにつねに近づけていくことを目標と見ている。
しかし、理念は概念と客観性との統一であるから、つねに彼岸にとどまる目標ではない。あらゆる現実的なものは、理念を自らのうちにもち理念を表すかぎりでのみある。概念に対応しない実在性はたんなる現象であり、真理ではない。国家や教会のような全体は、その概念と実在性との統一が解消されると実存することをやめ、生きているものは魂と身体とが分かれると死んでいる。いまや理念であるものだけがある。有限な物が有限であるのは、その概念の実在性を自分自身において完全にはもたないかぎりにおいてである。しかし、最悪の国家でも、なお実存しているかぎり、なお理念である。国家の概念は個人の本性をきわめて本質的になしており、個人はそれを実在性へと移すよう駆り立てられるか、さもなければ没落しなければならない。
さらに、理念は主観的な概念と客観性との統一という、より規定された意味をもつ。理念は、客観のうちに沈められていた直接性から主観性へと解放された概念であり、それゆえ正当にも主観‐客観と規定された。真にその実在性に到達した概念は絶対的な判断であり、その主語は自己目的であり衝動である。客観性は目的の活動によって定立された客観性であり、その有限性と現象の側面は、概念の否定的統一へと帰ることのうちに没落する。それゆえ、理念は端的に単純であり非物質的である。
まず、理念は単純な真理、普遍的なものとしての概念と客観性との同一性である。次に、理念は、分離を止揚しようとする衝動である主観性と、空しい存立である客観性との関係であり、自らを個体性とその無機的な自然とへ分割し、それを主体の強制力のもとへ連れ戻して普遍性へと帰る過程である。理念の静止は、理念がその最も過酷な対立を永遠に産み出し、永遠に克服し、そのうちで自己自身と合致する安全と確信とのうちにある。
しかし、理念はまずまだ直接的であり、概念はまだ魂に満ちていない魂である。そのようにして、理念はまず生命である。次に、理念は認識と意欲としての、真なるものと善との理念であり、有限な認識と意欲においては、真なるものと善とはまだ目標としてある。有限な精神は客観的な世界という前提を作るが、その活動はこの前提を止揚することであり、客観的な世界は精神がそのうちで自己自身を認識する観念性となる。最後に、精神は理念を自らの絶対的な真理として認識する。それは認識と行為とが釣り合わされた無限な理念、自己自身の絶対知である。
第一章 生命 生命の理念はきわめて具体的な対象にかかわるので、論理学の領域を踏み越えるように見えるかもしれない。しかし、絶対的な真理が論理学の対象であり、真理が本質的に認識のうちにあるならば、認識は扱われなければならない。論理学に属するのは、認識の前提のうち、それ自身理念である形態だけであり、それは直接的な理念である。認識は、客観的なものとの関係における主観的な概念であるかぎり、理念に、前提された直接的な理念として関係するからである。直接的な理念は生命である。
しかし、この理念は概念の固有の必然性によって導き出された。論理的な生命は、自然哲学の自然生命からも、精神と結びついた生命からも区別される。自然の生命は存立の外面性へと投げ出され、無機的な自然を条件とする。自然は生命において最高の段階に達して自らを越え出るのであり、自然の終わりはその限界としてある。精神にとって、生命は手段であり、身体であり、理想へと生み出されるものである。どちらの場合も、生命は外面性の規定性をもつ。それだけでの生命の理念は、前提され条件づける客観性からも、この主観性への関係からも自由である。
生命はその理念においては絶対的な普遍性である。その客観性は端的に概念によって貫かれ、概念は多様性のうちで一にとどまる遍在する魂である。多様な外面性のうちでの単純なもののこの遍在は、反省関係に固執する思考にとっては絶対的な矛盾であり、概念的に把握できない秘密である。反省は概念を生命の実体として把握しないからである。生命は主観的な実体としては、特殊的な区別の種別的な衝動であり、同じく特殊化を統一へと連れ戻す普遍的な衝動である。この否定的統一としてのみ、生命は対自的に存在する魂であり、個別的なものとして生命のない自然に関係する。生命の根源的な判断は、個体的な主体として自らを切り離し、直接的な客観性の前提を作ることにある。
それゆえ、生命はまず生きている個体として考察されなければならない。次に、生命は前提を止揚して自らを実現する生命過程である。最後に、生命は類の過程であり、それは新しい個体性の成と最初の個体性の死とであるとともに、普遍的で自由な概念の成、すなわち認識への移行である。
A. 生きている個体 普遍的な生命は直接的な理念、その客観性が適合している概念である。しかし、客観性が概念に適合するのは、概念が外面性の否定的統一として客観性を自らに適合したものとして定立するかぎりにおいてである。概念の自己への無限な関係は自己規定であり、主観的な個別性と無関心な普遍性とへの分割である。この創造的な前提作用によって、普遍的な生命は判断の二つの極へと分裂し、その判断は直接に推論となる。
一方の極は、ただ概念から出てきたものとしての客観性であり、その本質は定立されてあることである。それは主体に内属する抽象的な普遍性であり、客観性に帰属する概念の全体性はいわば借りものにすぎない。それは主体とは異なる有でありながら、概念の契機として定立された有、概念の自己規定の判断の述語である。他方の極は、概念の否定的統一、単純で否定的な自己同一性としての理念、すなわち生きている個体である。
これはまず魂としての生命、自己自身を動かす原理である。しかし魂は直接に外的であり、客観的な有をもつ。それは直接的な手段であり推論の中項であって、魂の身体性は、それによって魂が外的な客観性と自らを結び合わせるものである。この客観性は個体の述語であるから、機械的あるいは化学的な関わり合いも、全体と部分という反省関係も帰属しない。概念が内在しているのだから、その合目的性は内的な合目的性である。この客観性が有機体であり、それは目的の手段であり道具であるが、それ自身遂行された目的である。有機体は部分ではなく肢体の多数である。肢体は個体性のうちでのみ存立し、切り離されれば機械的・化学的な関わり合いへと帰る。肢体の外面性に対立する否定的統一は、それぞれの種別的な契機の衝動であり、ほかの契機を犠牲にして自らを生み出そうとしつつ、同じく自らをほかの契機の手段としようとする。
生きている個体性のこの過程は、まだ個体性の内部に属している。生きているものの自己自身との過程は、外的な合目的性の推論における最初の前提であるが、同時に結論でもある。生きているものの外的な側面の不安と可変性とは、概念の顕示である。産物は自ら産み出すものであり、産出の過程としてのみ産物である。
生きている個体の身体性は、概念を実体としているから、普遍性、特殊性、個別性という区別を本質的な区別としてもち、その形態はそれらに従って刻み目を入れられている(insectum)。まず、普遍性は自己自身のうちでの生命性の震え、すなわち感受性である。感受性は無限に規定可能な受容性であり、印象をその多様な規定から自己感情の単純さへと連れ戻す、自己のうちに存在する魂の定有である。次に、特殊性は、自己感情のうちに閉じ込められていた否定性の開示、すなわち被刺激性である。生きているものはそれによって前提された客観性と相互作用のうちにあり、ほかの種と並ぶ種である。
最後に、個別性に従って、自己内反省は、一方では感情として、他方では概念の統一がその外的な客観性のうちで否定的統一として自らを定立する実在的な反省として、直接性を止揚する。後者が再生産である。感受性と被刺激性とは抽象的な規定であり、生命は再生産においてはじめて具体的な生命性であって、感情と抵抗力ももつ。再生産とともに、生きているものは現実的な個体性、対自有として自らを定立するが、同時にそれは客観的な世界への実在的な関係である。こうして、個体の内部に閉じ込められた生命の過程は、前提された客観性への関係へと移行する。
B. 生命過程 生きている個体は、自己のうちで自らを形態化することによって、即自かつ対自的に存在する主体として、前提された客観的な世界に自らを対置する。外的な世界は非自立的なものという価値しかもたない。生きているものはその自己感情において他在の空しさについての確信をもち、その衝動はこの他在を止揚し、確信に真理を与えようとする欲求である。
この過程は欲求から始まる。生きているものは、自らを規定して否定されたものとして定立し、他のものに関係するが、この喪失のうちで自己に等しくとどまる。その自己規定が客観的な外面性の形式をもちながら自己と同一的であることによって、生きているものは絶対的な矛盾である。概念は自己との絶対的な不等性へと分裂しつつ、この分裂のうちで同一性であるから、生きているものはこの矛盾の感情をもつ。それが苦痛である。苦痛は生きている本性の特権である。矛盾は思考できないと言われるならば、矛盾はむしろ生きているものの苦痛において現実的な実存でさえある。
苦痛から欲求と衝動とが始まる。外的な世界は、その機械的な規定可能性のゆえに、生きているものに対して自らを保持することができない。客観は生きているものに原因として作用するのではなく、それを刺激する。外面性が生きているもののうちに入るのは、それがすでに即自かつ対自的に生きているもののうちにあるかぎりにおいてのみである。主体は道具として客観に強制力を行使するが、機械的・化学的な過程は直接に中断され、内的な過程へと移行する。個体は客観からその固有の性状を奪い、自らの主観性を客観に実体として与えて、それをわがものとする。この同化は再生産と一つに合わさり、他のものへの移行であろう産出は再生産となる。
客観的な過程によって、生きているものは自らに自己感情を与え、その他在のうちで自己と同一的なものとして自らを定立する。個体はこの合致のうちで現実的な個別性となると同時に、その特殊性を止揚して普遍性へと高まった。こうして、生命は自らを類として定立した。
C. 類 生きている個体は、前提された世界との過程によって、自らを自己自身の基盤としてそれだけで定立し、理念の現実性となった。前提作用であったその発生は、いまやその産出となる。個体が得たさらなる規定は、その以前の無関心な他在と自らとの同一性として、類であることである。
類の関わり合いは、別の自立的な個体のうちでの自己感情の同一性であるから、矛盾であり、生きているものはふたたび衝動である。類はまだ直接性の領域のうちにあり、個体は即自的には類であっても対自的には類でない。個体はその普遍性を実現しようとする欲望をもつが、それは特殊的な個体性を止揚することによってのみ実現される。その実現された同一性が、現実的な理念から産み出された生きている個体の胚である。胚においては、主観的な概念が外的な現実性をもつことが、ふつうの知覚にとって現にある。
類の自己内反省は生きている種族の繁殖であり、反復と無限な進行にとどまる。しかし、類の過程において個体はその直接的な実存を止揚して死んでいき、その産物のもう一方の側面として実現された類をもつ。交合において、生きている個体性の直接性は死んでいく。この生命の死は精神の出現である。理念は、その特殊性を止揚して単純な普遍性という実在性を自らに与えることによって対自的にあり、認識の理念である。
第二章 認識の理念 生命は直接的な理念である。その判断において、理念は認識一般である。
概念は、抽象的な普遍性あるいは類として自由に実存するかぎりで、それだけである。区別されたものは単純な自己同等性の形式へと解放されており、概念の対象は概念そのものである。生命の理念においては、概念はその対自有を、客観性のうちに沈められた自己への関係としてもつにすぎなかった。生命を越えた高まりとは、概念の実在性が普遍性へと解放された概念形式であることである。この判断によって、理念は主観的な概念と、生命としてある客観的な概念とに二重化される。思考、精神、自己意識は、理念が自己自身を対象とするかぎりでの理念の規定である。
かつての魂の形而上学は、実体、単純さ、非物質性という規定をめぐって回り、経験的な意識から取られた精神の表象を主語として、どの述語が知覚と一致するかを問うた。カントは合理的心理学の批判において、知覚からわずかでも付け加えれば合理的な学は経験的な学に変わるとし、残るのは内容のまったく空虚な表象である私、すべての概念に伴うたんなる意識であるとした。この私によっては思想の超越論的な主語=x以上のものは表象されず、それについては最小の概念ももちえず、しかもそれについて判断するにはつねにすでにそれを用いていなければならないという不都合をもつ、というのである。合理的心理学の誤謬推理は、「私は考える」を思考する存在者、物自体と受け取り、そこから私が実体であり、単純であり、空間的・時間的な事物から独立に実存することを不当に導き出すことにある、という。
カントは自分の時代の、弁証法なしにとどまっていた形而上学だけを前にし、精神の概念についての古い哲学者の真に思弁的な理念を探究しなかった。批判においては、ヒューム的な懐疑論の流儀に従い、自己意識から経験的なものを取り除いて「私は考える」という現象だけを残した。しかし、私は自己自身を考え、私を考えるのは私であることなしには私は考えられえないという自己意識の本性を、不都合と呼び、循環と呼ぶのは滑稽である。そこには、自己意識と概念との絶対的な永遠の本性が啓示されている。自己意識は定有する純粋な概念であり、分離する判断として自らを対象とする絶対的な自己関係だからである。石はあの不都合をもたない。石が考えられるとき、石は自分自身の邪魔をせず、この労は石の外にある他のものが引き受けなければならない。
この不都合は逆に、私が客観として与えられる直観が欠けているという形でも現れる。しかし、そこで客観性のために要求されているのは、それを越えて高まることが思考と真理との条件であるような感性的な実在性である。私が概念を欠いたたんなる表象として受け取られるならば、それは客観性を欠いた一面的な主語にすぎない。しかし実際には、私は何かを、すなわち自己あるいはほかの何かを考えるのであり、この二つの形式の不可分性こそ概念の最も固有の本性である。カントはまさにこれを遠ざけて概念を欠いた表象だけを固持するが、それはアリストテレスの真に思弁的な理念に対しては貧弱で空虚なものとして現れる。嘆かれた不都合の経験は、それ自身、あの抽象の非真理が言い表される経験的な事実である。
カントの批判は、魂の単純さに基づくメンデルスゾーンの魂の持続性の証明に、量的な規定を対置する。魂は外延的な大きさを含まないとしても、意識は度をもち、内包的な大きさをもつから、次第に消えていくことによる無への移行の可能性がある、というのである。しかし、概念は抽象的な単純さではなく、自己自身とその他のものとの統一としての具体的な単純さであり、移行においてただ自己自身へと至るにすぎない永遠なものである。この反駁は、有のカテゴリーである内包的な大きさを精神に適用すること以外の何ものでもない。
固定した悟性概念に限られた形而上学でさえ、真理を認識することを目的とした。しかし、カントの批判の勝利は、むしろ真なるものを目的とする探究とこの目的そのものとを除去したことに存する。現象と表象とにとどまることは、概念と哲学とを断念することである。概念は概念を欠いたものを飛び越えるのであり、その権利は、概念そのものと、現象と表象との非真理、物自体や抽象的な私の非真理とにある。
この連関において、精神の理念は生命の理念の真理として出てきた。生命においては理念の実在性は個別性としてあり、類は内的なものである。直接的な個別性を止揚し、類として自己自身に等しくあるこの理念が、精神である。精神は、具体的な精神の学においては魂、意識、精神そのものという形態をもつ。モナドの体系では、魂は物質の原子と同じような原子であり、コーヒーカップから湯気として立ちのぼる原子も、幸運な事情によって魂へと発展しうる、というのである。人間学にとっても、魂を物質の原子と等しい原子とする形而上学は無縁のままでなければならない。人間学には、ただ、精神が自然との共感のうちに生き、夢や予感のうちに自然の変化を知覚する暗い領域だけが委ねられなければならない。プラトンによれば、神は肝臓に予言の才能を与えたが、自己意識的な人間はそれを越えて高められている。意識においては、自由な概念は対自的に存在する私として客観性に、向かい合っている対象として関係するが、その同一性はなお映現にすぎず、この段階は精神の現象学の対象である。その真理である対自的な精神は精神論の対象であり、与えられた内容から自らを解放して無限な精神の把握へと進む。
これに対して、論理的な精神の理念は純粋な学の内部に立ち、これら三つの学の歩みをすでに背後に、あるいは前方にもっている。そこでは私はただちに、自己自身にとって対象である自由な概念である。しかし、この概念は直接的であるがゆえに、まだその主観性における、それゆえ有限性における理念であり、実現されるべき目的である。理念は真なるものを求めるが、まだ求めるにすぎない。理念は推論の一方の極であり、他方の極は客観的な世界である。両極は理念であるという点で同一的であり、この統一は認識によって定立されるが、まずただ中項としてある。直接的には、この理念は理論的な理念、すなわち認識である。概念はまだ形式としてあり、その実在性は普遍性と特殊性という単純な規定にすぎず、個別性、すなわち内容を外から得る。
A. 真なるものの理念 主観的な理念はまず衝動である。それは自らを対象としながら、その対象が概念に対して自立的な他のものではない、という矛盾だからである。それゆえ、衝動は自らの主観性を止揚し、抽象的な実在性を前提された世界の内容で満たそうとする。概念は自己自身の絶対的な確信であり、即自的に存在する世界の他在を止揚して、客観のうちで自己自身との同一性を直観しようとする。
この衝動は、認識のうちにある真理の衝動、すなわち理論的な理念である。真理のより規定された意味は、真理が知のうちにあることである。認識は主観的なものとしての理念であるから、前提された世界の否定はまだ最初の否定であり、結論は根源的に分かれたものの外的な総合に至るにすぎない。内容はなお与えられたものという規定をもち、この認識はその目的のうちで目的に到達しておらず、その真理においてまだ真理に至っていない。奇妙なことに、近年ではこの有限性の側面が認識の絶対的な関わり合いとして固持され、物自体性と真理とが認識の彼岸とされてきた。この非真理の関わり合いを真の関わり合いと想定することが、近年の一般的な誤謬である。
有限な認識は、真理ではないはずの真理、物自体を認識しない認識という、自己自身を止揚する矛盾である。しかし、それについてのわれわれの考察は外的な反省であり、認識はそれ自身の歩みによってその有限性と矛盾とを解消しなければならない。客観は本質的に概念による規定可能性をもつ。理念においては客観は即自的には止揚されており、目的はそれを対自的に止揚することだけだからである。
推論の最初の前提は、目的関係と同じく、客観に対する概念の直接的な掌握であり、抵抗のない伝達である。しかし、概念にとっての固有の規定は、前提の最初の否定であるから同じく有でもあり、与えられたものの把握として通用する。概念の活動は自らを控えて受動的にすることにのみ存し、現にあるものはそれ自身においてあるとおりに自らを示す、とされる。この認識は論理的な規定の適用としてさえ現れず、見いだされたものの受容として、対象から外的な殻を取り除くことに限られているように現れる。この認識が分析的認識である。
a. 分析的認識 分析的認識は既知のものから未知のものへ、総合的認識は未知のものから既知のものへ進むと言われることがある。しかしこの区別には規定された思想を見いだしがたい。認識はおよそ未知から始まる。すでに知っているものを知るようになることはないからである。逆に、認識は既知のものからも始まる。認識がそれによって始まるものは、まさにそれによって既知のものだからである。そのかぎりで認識は、ひとたび始まれば、つねに既知のものから未知のものへ進む。
分析的認識は、推論全体の最初の前提として、まだ他在を含まない直接的な概念の伝達である。しかしこの直接性はそれ自身媒介である。概念の客観に対する否定的な関係が自己自身を無化し、単純で同一的なものとなるからである。この自己内反省は主観的なものにすぎず、区別はまだ前提された即自的な区別としてしかない。それゆえここで成立する規定は同一性、抽象的な普遍性の形式であり、異なるものの結合は認識の活動から排除されている。
分析的認識は前提された具体的な対象から始まる。分析は概念を根底にもつから、その産物は対象のうちに直接に含まれている概念規定である。客観は概念の全体性にほかならないから、主観的な概念の活動は、一方では客観のうちにすでにあるものの展開である。対象には置き入れられたもの以外に何もないとするのは主観的観念論であり、その彼方には物自体が隠れたままとなる。規定はただ対象から取り出されるとするのは実在論であり、主観的な概念を、思想規定を外から取り入れる空虚な同一性とする。分析的認識は、直接に前提作用として自らを規定する定立であり、二つの契機は切り離されるべきではない。論理的なものは、分析が取り出す抽象的な形式においては認識のうちにのみあるが、同じく即自的に存在するものでもある。
認識は区別の展開としての前進でもあるべきである。しかしここでの認識は概念と弁証法とを欠いているから、その前進は与えられた素材の規定においてのみ生じ、具体的なものをふたたび分析する行いの反復にすぎない。全体から部分へ、原因から結果へ進むことも、与えられた関わり合いにすぎない。カントはア・プリオリな総合的原則という深い所見を立て、その根を自己意識の統一、すなわち概念の自己同一性として認識した。しかし規定された連関そのものは形式論理学から与えられたものとして取り入れ、自己意識の単純な統一がこれらの規定と区別とへ移行すること、すなわち自己自身を産出する概念を示すことを省いた。
算術と離散量の学とは、とりわけ分析的な学、解析と呼ばれる。その素材である一は、関わり合いのあらゆる固有性が消し去られた原子であり、それにとってあらゆる規定と結合は外的である。先へと導く原理は、異なるもののうちで同等性として現れる分析的同一性であり、前進は等しくないものをより大きな同等性へ還元することである。加法は偶然的に等しくない数をまとめ、乗法は等しい数をまとめ、さらに冪の関わり合いが生じる。対象と関わり合いとの規定性は定立されたものであるから、それらを用いた演算もまったく分析的であり、それゆえ分析的な学は定理よりも課題をもつ。カントは5+7=12を総合的命題とした。しかし5+7と12とはまったく同じ内容であり、前者には、5から七つの一を数え続けよという要求も表されている。12は機械でも行える外的な演算の結果であり、他のものへの移行はない。それゆえ定理の形式の代わりに、等式の一方の側だけを言い表す課題の形式が選ばれ、解法に証明を続けさせることは余計な足場となる。
高等解析では、課題が直接に示すのとは別の規定が中間項として取られなければならず、その解法は総合的である。方程式の根の冪の和を求める課題は係数を根の関数として考察して解かれる。方程式xm−1=0の正弦による解法も、ガウスによるxm−1−1をmで割った剰余と原始根とを用いる解法も、助けとして取られた規定が課題そのものの規定ではないから総合的である。微分計算と積分計算の根底には、概念によってのみ捉えられる質的な大きさの規定があり、そこへの移行はもはや分析的ではない。移行をひとたび前提すれば、その後の展開は分析的演算の系列である。
分析的認識から総合的認識への移行は、直接性から媒介への、抽象的な同一性から区別への必然的な移行である。規定はその規定性によって本質的に他のものに関係する。抽象的な同一性は本質的に区別されたものの同一性であるから、主観的な概念にとっても、連関が概念によって定立され概念と同一的なものとならなければならない。
b. 総合的認識 分析的認識が存在するものの把握にすぎないのに対して、総合的認識は存在するものの概念的把握、規定の多様性をその統一において捉えることへ向かう。それは推論の第二の前提であり、その目標は必然性である。しかし異なるものの同一性はなお内的な同一性、必然性にすぎず、概念が主体としてある統一ではない。それゆえ概念には個別性が欠け、個別的なものはなお与えられた内容である。この認識は客観的な世界に概念規定に従った形式を与えるが、客観を見いださなければならず、命題の必然性も概念からではなく現象の区別に即して証明する。これがこの認識の有限性である。
1. 定義 まず、与えられた客観性が概念の形式へ変えられる。個別的なものは定義されるべき客観そのものであり、普遍的なものは最も近い類、特殊的なものはそれを規定された種とする種差である。定義は、実存に必要な対象の外面性を剥ぎ取り、直観された定有の豊かな規定を最も単純な契機へ還元する。しかし概念の契機の自己自身への反省である個別性は、まだこの実在性のうちに含まれていない。それゆえ概念の内容は与えられた偶然的なものであり、対象のどの質が概念の契機として選ばれるべきかについての原理もない。これが定義の困難である。
まず、自己意識的な合目的性の産物については、定義はたやすく見いだされる。それが役立つべき目的が本質的な形式をなしているからである。次に、幾何学的な対象は抽象的な空間規定であり、ただそれがあるべきものであるにすぎないから、その概念規定は妨げられない実在性をもつ。ただし空間の三つの次元、連続性と可分性とは直接的な前提であり、主観的な規定をこの地盤の固有の本性と絡み合わせることで、総合的な関わり合いと法則とが生み出される。
最後に、自然や精神の具体的な客観は、多くの性質をもつ物である。どの性質が類に、どれが種に属し、どれが本質的であるかを規定するには、定有そのもの以外に基準がない。性質の本質性は定有においては経験的な普遍性、持続か共通性にすぎない。それゆえ定義は本来の概念規定を断念し、外的な反省のための目印である徴表で満足する。ブルーメンバッハによれば耳たぶはほかのすべての動物に欠けているから、身体的な人間の定義の区別する性格として用いることができるであろう。しかしそのような外的な規定は、人間の全体的な外観にも、概念規定は本質的なものであるべきだという要求にも不適合である。類の発見には、暗い感情、本質的なものの予感が先行し、そのあとで悟性のための外面性が探し求められたのである。
さらに具体的な物では、概念とその現実化との区別が生じる。現実的なものは、否定的な概念判断に従って、悪いものでもありうる。それゆえどの性質に対しても反例が持ち出される。身体的な人間にとっての脳の本質性は無頭症によって、国家にとっての生命と所有の保護の本質性は専制国家や暴君的な政府によって逃げ去る。反例に対して概念を主張すれば、概念はもはやその確証を現象のうちにもたず、直接的な概念であるべき定義の意味に反する。定義の内容は直接的な定有から取られ、正当化をもたない。しかし直接性はただ媒介から出てくる。定義の内容規定性は他の規定性によって媒介されたものであるから、定義は区分へ移行しなければならない。
2. 区分 普遍的なものは自らを特殊化しなければならず、区分の必然性は普遍的なもののうちにある。定義の個別的な内容は特殊性を通って普遍性へと上昇するが、いまや普遍性が客観的な基盤として前提され、区分は普遍的なものの選言として示される。普遍的なものから特殊的なものへのこの前進が、総合的な学、体系的な認識の基盤である。
そのための最初の要件として、概念的把握である認識においては、具体的なものから切り離された単純なもの、普遍的なものが最初のものでなければならない。直観できる具体的な現実性から始めるほうが自然にかなっていると考えられるかもしれない。しかし認識されるべきであるならば、問題は自然にかなった道ではなく認識にかなった道であり、たやすさから言っても、抽象的な思想規定を捉えるほうが具体的なものを捉えるよりたやすい。読み方を学ぶときも、語や音節からではなく抽象的な音の記号から始める。幾何学は点と線とから、多角形ではなく三角形から、曲線のうちでは円から始める。物理学では、磁気、電気、気体などを具体的な紛糾から解放して示し、実験は必然的な条件だけを取るように自らを多様化しなければならない。色についても、認識にとって真に最初の形式は、主観的な感覚でも客観に固定された色でもなく、その中間にあるスペクトルである。いたるところで抽象的なものが始まりと境位とをなし、そこから具体的なものの豊かな形態が広がっていく。
区分の前進には内在的な原理が要求されるであろう。しかしこの認識にはそのような原理が欠けている。それは概念の形式規定を自己内反省なしに追い、内容の規定性を与えられたものから取るから、区分の根拠は比較によって見いだされた普遍的な規定にすぎず、多様でありうる。区分は概念を汲み尽くさなければならないという規則も形式的で空虚である。67種のオウムにさらに一ダースが見いだされるかどうかは、類を汲み尽くすことにとってどうでもよい。類はしばしば全体的な外観の暗い表象に従って想定されるから、あるときはある規定性を類の本質的な契機とし、別のときは特殊的なものから始めて別の規定性に導かれる。概念を欠いたこの営みは恣意の戯れである。物理的な自然も、依存的で外的な現実性によって多くの原理に従い、混合した両性的な存在者を生み出すから、区分の原理を固持することはできない。経験的な種の規定性は、対立なしに互いに異なっているということでしかなく、それゆえ区分の規定はしばしば数から取られる。
それでも、概念によりかなう区分の根拠が見いだされるならば、それは理性の本能に帰することができる。動物では歯と爪とが区分の根拠とされる。それはたんに徴表を際立たせやすい側面ではなく、個体性が他のものから自らを切り離す個別性として自らを定立する生命点である。植物では受精の部分が植物的な生命の最高点であり、性の差異と個体的な個別性への移行を示唆する。体系はそこに、植物が受けいれうる即自かつ対自的に最高の規定性を置いたのである。
3. 定理 この認識の第三の段階は、特殊性の個別性への移行であり、個別性が定理の内容をなす。定義はただ一つの規定性を含み、区分はほかの規定性に対する規定性を含むが、個別化においては対象は自己自身のうちで分かれ、その実在的な定有の条件と形式とにおいて認識される。それゆえ定理は定義とともに、概念と実在性との統一である理念を示す。しかしこの認識では実在性が概念から出てくるのではないから、統一そのものは認識されない。
定理は、対象の規定性の関わり合いが概念の内的な同一性のうちに根拠づけられているかぎりで、本来の総合的なものである。定義と区分の総合は外的に取り入れられた結合であるが、定理の総合は異なるものの結合であり、もはや概念の形式をその正当化としてもたない。それゆえ、まだ定立されていない統一がはじめて示されなければならず、証明することがこの認識にとって必然的となる。
さて、まず、対象のどの規定が定義に入り、どれが定理へ回されるべきかを区別する原理はない。定義の内容も本質的に媒介されたものであり、ただ主観的な直接性しかもたないからである。ユークリッドにおいてさえ、平行線についての前提が公理として見いだされ、人々はそれを証明しようとした。しかしそこにこそ、自らの学の本性を正確に評価していたユークリッドの正しい感覚がある。その証明は平行線の概念から行われるべきであるが、概念は彼の学の外にあるから、定義や公理、空間とその次元の演繹とともに、それは彼の学にとって必然的に前提であり、相対的な最初のものである。公理もまた、同語反復でないならば別の学からの命題、たいてい論理学からの定理であり、即自かつ対自的には証明を必要とする。
定理の内容には、対象の不完全な個別的な関わり合いと、実在性の内容全体を包括する関わり合いとの区別がある。完全な内容規定性の統一は概念に等しいから、それを含む命題はふたたび定義、展開された概念の完全な定有を表す実在的な定義であり、両者が合わさって理念を示す。ユークリッドの定理の配列は形式的な首尾一貫性として称賛されてきたが、それは合目的性の外的な配列にすぎない。三角形についての最初の命題は合同にかかわり、二つの三角形の重ね合わせは、規定されてあることという思想の代わりに感性的な重ね合わせを用いる回り道である。二辺とその挟む角とは、すでに悟性にとって三角形全体であり、残りは概念の規定性を越えた実在性の余剰である。しかし三角形の大きさの、その辺に従った自己自身のうちでの完全な規定性を含むのはピュタゴラスの定理であり、これがはじめて辺の等式、直角三角形の完全な実在的な定義である。ユークリッドはこれで第一巻を閉じ、第二巻も、自己自身に等しい正方形と自己のうちで等しくない長方形との等式で閉じる。この真の総合的な前進は普遍的なものから個別性への移行であるが、ほかの学のふつうの前進では、個別化はほかのところから入ってくる素材への普遍的なものの適用、経験的な付け足しにすぎない。
定理の実在的な規定は無関心に存立する異なるものという形式をもつから、その媒介が示されなければならない。この認識には反対のものへの移行が無縁であるから、媒介する規定は、連関の概念なしに暫定的な材料としてどこかから持ち込まれる。これが作図である。作図は証明においてはじめて意味をもち、それ自身においては盲目的で悟性を欠いた行いである。この秘密が証明において現れ出る。しかし作図が概念の主観性を欠くように、証明は客観性を欠いた主観的な行いであり、外から内へ進む外的な反省である。作図が示した事情は対象の本性の帰結であるのに、ここでは逆に根拠とされ、証明の神経をなす中名辞は結合が現象するものにすぎない。
ここからこの認識の必然的な限界が明らかになる。幾何学は大きさの学であり、質的な規定を捨象して同等性という概念を欠いた統一の内部にとどまる。その空虚な静かな空間では色もほかの感性的な性質も消え、そこに崇高なものがある。しかしその対象はなお空間、非感性的に感性的なもの、直観の形式である。幾何学が感性的な直観を根底にもつことをその最高の長所とする浅薄さに対しては、いかなる学も直観によってではなく思考によってのみ成立すると言わなければならない。幾何学がより高い学問性をもつのは、その感性的な対象の抽象のおかげである。空間の空虚さのゆえに、図形は確固とした静止のうちで互いの外にとどまり、幾何学は有限なものの単純な学である。しかし異なる図形の比較において質的な不等性と通約不可能性とが現れ、幾何学は有限性を越えて無限性へ駆り立てられる。ここで有限な学はその限界に達する。総合的なものの必然性と媒介とが、もはやたんに肯定的な同一性のうちにではなく、否定的な同一性のうちに根拠づけられているからである。
総合的方法はほかの学にとってはいっそう不十分であり、哲学にとっては最も不十分である。物理学が総合的な学の形式をとると、経験の分析から出てくる力などの反省規定が、結果としてのみ正当化されうるにもかかわらず頂点に置かれ、個別的なものに適用される。その説明と証明とは同語反復となるか真の関わり合いの混乱となり、経験を仮説に役立つ側面に従ってのみ取り上げる欺瞞を覆い隠す。それゆえそのような学に入っていくには、前提を盲目的に甘受しなければならない。ヴォルフはこの方法を、分析的な知識や手仕事的な知識にまで拡張した。窓は二人の人が並んで楽に寄りかかれるほどの幅でなければならないという定理を、人はしばしば別の人と一緒に窓に寄りかかるのが常だからという理由で証明するのである。この不器用さは方法の信用を失わせたが、哲学におけるこの方法への信頼はなお残り、スピノザは長く模範とされた。カントとヤコービとが、かつての形而上学の仕方全体とその方法とを覆した。カントは、その内容が厳密な論証によって二律背反に導くことを示したが、有限な内容に結びついた論証の本性については反省しなかった。ヤコービは論証の仕方の側から攻撃し、この方法が有限なものの硬直した必然性の圏域に縛られており、自由、すなわち概念と真にあるものすべてはその彼方にあることを明らかにした。哲学の原理は無限な自由な概念であるから、概念を欠いた有限性の方法はそれにふさわしくない。この方法の証明は、自由に対立する必然性、依存的なものの即自的な同一性以上には至らない。
それゆえ総合的認識において、概念の同一性は必然性として概念にとってある。しかしそこでは規定性は概念によって規定されていない素材としてあり、概念は自己自身を認識しない。対象が主観的な概念に不適合であるために、理念はこの認識においてはまだ真理に到達しない。しかし必然性の領域は有と反省との最高の頂点であり、即自かつ対自的に概念の自由へ移行する。この移行はなお即自的に、私たちの反省のうちにあり、ただ結果だけが概念にとってある。概念がいまや対自的に即自かつ対自的に規定された概念であるかぎりでの理念は、実践的な理念、すなわち行為である。
B. 善の理念 自己自身の対象である概念が即自かつ対自的に規定されていることによって、主体は自らを個別的なものとして規定している。概念は主観的なものとして、ふたたび即自的に存在する他在を前提し、自らを実現しようとする衝動、客観的な世界のうちで自分自身によって自らに客観性を与えようとする目的である。理論的な理念では、主観的な概念は客観的な世界から内容を取ってくる。しかし実践的な理念では、概念は現実的なものとして現実的なものに向かい合い、自らの現実性と世界の非現実性とを確信している。
概念に等しく、個別的な外的な現実性の要求を含むこの規定性が善である。善は自らのうちで概念の全体性であり、同時に自由な統一と主観性との形式における客観的なものであるから、絶対的であるという尊厳をもって現れる。この理念は端的に現実的なものの尊厳ももつから、認識の理念よりも高い。その衝動は、外的な世界の規定を止揚し、直接性という空虚な形式を自らに与えることに向けられている。意志の理念の内容は規定された内容として有限であるが、概念の形式によって無限である。それゆえ善は、何らかの特殊的な目的でありながら、すでにそれだけで真なるものである。
しかし善もふたたび有限なものとして固定されるならば、有限性の運命を免れない。遂行によって善は、外的な偶然性と悪と、善そのものの衝突とによって破壊されうる定有を得たにすぎない。善に前提された客観的な世界は固有の歩みを進み、善の遂行は不可能性にさえさらされる。そのようにして善は当為にとどまる。完成された善の理念は絶対的な要請であるが、要請以上のものではない。透明な思想の空間における主観性の国と、開かれていない暗黒の国である客観性の国とが、なお対立している。理念はここで自己意識の形態に入る。
しかし実践的な理念には、なお理論的な理念の契機が欠けている。理論的な理念にとっては、主観的な定立から独立した現実性が真に存在するものであるが、実践的な理念にとっては、この現実性は空しいものと見なされる。意志は、自らを認識から切り離すことで、自分自身でその目標の達成を妨げている。それゆえ善の理念は、その補完を真なるものの理念のうちにのみ見いだすことができる。
しかし善の理念はこの移行を自分自身によって行う。行為の推論において、最初の前提は善い目的の現実性への直接的な関係であり、第二の前提で善はそれを手段として外的な現実性に向ける。しかし現実性が善の制限となるこの抽象的な有を、実践的な理念はすでに最初の前提において止揚しており、目的は抵抗なく現実性に自らを伝達する。それゆえ二つの前提の思想を合わせればよい。概念の最初の否定である他在を止揚する第二の否定によってはじめて、目的の遂行は対自的に存在する概念としての善の現実性となる。それでも善が遂行されていないとされるのは、概念が活動の前の立場へ逆戻りし、悪無限への進行に陥るからである。客観的な概念をなお制限しているのは、自己についての概念自身の見方であり、概念は外的な現実性に対してではなく自己自身に対して向かわなければならない。
客観的な概念の活動によって外的な現実性が変えられることで、その現象する実在性、空しさが取り去られ、外的な現実性は即自かつ対自的に存在するものとして定立される。そこでは前提一般が止揚される。結果において媒介は自己自身を止揚し、前提の再建ではなく前提の止揚されてあることとしての直接性となる。主体の個別性は前提とともに消失し、主体は自由な普遍的な自己同一性としてある。こうして認識が再建され、実践的な理念と合一される。見いだされた現実性は同時に遂行された絶対的な目的であり、その内的な根拠であり現実的な存立であるのが概念であるような客観的な世界である。これが絶対的理念である。
第三章 絶対的理念 絶対的理念は理論的理念と実践的理念との同一性である。両者はそれぞれだけでは一面的であり、理念を到達されない彼岸としてもつにすぎず、一方から他方へ移行しながら二つの思想を一緒にせず、その矛盾にとどまる。絶対的理念は、実在性のうちでただ自己自身と合致する理性的な概念として、その直接性のゆえに生命への帰還である。しかし同時にこの直接性の形式を止揚し、最高の対立を自らのうちにもつ。概念は人格性をもつ自由な主観的な概念でありながら、排除する個別性ではなく、普遍性であり認識であり、他のもののうちで自らの固有の客観性を対象とする。ほかのものはすべて誤謬、混濁、思い込み、恣意、過ぎ去りやすさである。絶対的理念だけが有であり、不滅の生命であり、自己を知る真理であり、すべての真理である。
絶対的理念は哲学の唯一の対象であり内容である。自然と精神とは絶対的理念の定有を示す区別された仕方であり、芸術と宗教とは絶対的理念が自らを把握する仕方である。哲学はそれらと同じ内容をもつが、その仕方が概念であるがゆえに、最高の仕方である。論理的なものは、あらゆる特殊的な仕方が止揚され包み込まれた普遍的な仕方である。論理的な理念はまだ形式規定性における映現へ入っておらず、論理学は絶対的理念の自己運動をただ根源的な言葉として示す。そこでは区別はまだ他在ではなく、理念は自らにとって完全に透明である。論理学の経過から出てきた絶対的理念において、規定性は内容の形態をもたず、端的に形式としてある。それゆえなお考察すべきなのは、内容の形式の普遍的なもの、すなわち方法である。
方法はまず認識の仕方と様式として現れることがありうる。内容が方法にとって与えられたものと想定されるならば、方法は外的な形式にすぎない。しかし論理的なものの経過全体が、与えられた内容と客観とのあらゆる形態の移行と非真理とを明らかにし、絶対的な形式こそが絶対的な基盤であり最後の真理であることを証明した。方法は、主観的でも客観的でもある自己を対象とする概念、概念とその実在性との純粋な対応として出てきたのである。
それゆえ方法として考察すべきなのは、概念そのものの運動だけである。まず、概念がすべてであり、その運動が自己規定し自己実現する普遍的な絶対的活動であるという意味で、方法は端的に無限な力である。いかなる客観もこの力に抵抗できず貫かれ、何かは方法に完全に服しているかぎりでのみ、その真理において知られる。方法はそれぞれの事柄そのものの固有の方法であり、理性の唯一の絶対的な力であるとともに、すべてのもののうちで自己自身を見いだそうとする理性の最高で唯一の衝動である。次に、概念からの方法の区別も現れる。探求する認識では、方法は主体が客観に関係する道具として主観的な側に置かれ、主体、方法、客観が一つの同一的な概念として定立されていないので、推論は形式的にとどまる。真の認識においては、概念が中項であるのは同じく客観的なものの意味をもつからであり、客観的なものは結論において主観的な概念との同一性において定立されている。
方法をなすのは概念そのものの規定とその関係である。まず始まりから始める。始まりの内容は直接的なものであるが、感性的な直観の直接的なものではなく、思考の直接的なもの、抽象的な普遍性の形式をもつ単純なものである。この最初の普遍性は直接的な普遍性であるから、同じく有の意味をもつ。有はまさにこの抽象的な自己関係だからである。有を示せという要求が意味するのは概念の実現の要求であり、それは始まりのうちにではなく、認識の展開全体の目標として存する。
それゆえ始まりは、単純なもの、普遍的なものであるという規定性しかもたず、まさにそれゆえに欠陥をもつ。方法は客観的な内在的な形式であるから、始まりの直接的なものはそれ自身において欠陥があり、自らを先へ導こうとする衝動をもたなければならない。絶対的な方法において普遍的なものは、即自的には具体的な全体性であるが、まだ定立されず対自的でない。それゆえ前進は余剰ではなく、普遍的なものが自己自身を規定し、個別的なもの、主体となることに存する。ただその完成においてのみ、普遍的なものは絶対的なものである。即自的に具体的な全体性である始まりは、その直接性において外的な定有の規定をもちうる。生きているものの胚と主観的な目的とはそのような始まりであり、それ自身衝動である。これに対して太陽のような生きていないものにおいては、実在的な可能性は内的な全体性にとどまり、ほかの物体個体によって実存を得る。
始まりをなす具体的な全体性は自己のうちで区別されているが、最初の直接性のゆえに、区別されたものはまず異なるものである。だが直接的なものは主体として、これら異なるものの統一でもある。これが先へ進むことの最初の段階、判断、規定作用である。絶対的な方法は、規定されたものを対象そのものから取る。方法そのものが対象の内在的な原理であり魂だからである。これがプラトンの要求したこと、事物を即自かつ対自的にそれ自身において考察し、事物に内在するものを意識へもたらすことである。そのかぎりで方法は分析的である。しかし対象は、自らのもつ規定性によって他のものとして現れるので、方法は同じく総合的でもある。
最初の普遍的なものが自己自身から自らの他のものとして自らを規定する、この総合的であるのと同じく分析的な契機は、弁証法的契機と呼ばれるべきである。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、タレスが自然哲学の、ソクラテスが道徳哲学の創始者であったように、プラトンは第三の学、弁証法の創始者であった。弁証法はしばしば主観的な才能に基づく術と見なされてきたが、カントの哲学において理性にとって必然的なものとしてふたたび認められたことは、反対の結果が引き出されなければならないとしても、無限に重要な一歩である。
弁証法はふつう、世界、運動、点などの対象に、有限性、この場所にあることといった規定が帰属し、同じく必然的に反対の規定も帰属することを示す。エレア派はこれをとりわけ運動に適用した。その帰結は主張の矛盾と空しさであり、客観的な意味では対象が空しいということ、主観的な意味では認識に欠陥があるということである。健全な常識は、犬儒派のディオゲネスのように黙って行ったり来たりすることで運動の弁証法を示すか、人倫的な対象にかかわる場合には冒瀆として激怒する。それはソクラテス自身の命を奪った怒りである。しかし弁証法が人倫的な規定を止揚するかぎり、理性がそれをその真理において再建できるという信頼を理性に寄せなければならない。
ここでの根本的な先入見は、弁証法はただ否定的な結果をもつにすぎない、というものである。この形式では、対象か認識かが空しいとされ、第三のものとしての対象において示される規定はそれだけで妥当するものとして前提されたままである。この無批判的なやり方に注意を向け、論理学と弁証法との再建への衝撃を与えたことは、カントの哲学の無限な功績である。対象がそれであるところのものであるのは、思考規定と概念規定とにおいてである。有限なものと無限なもの、個別的なものと普遍的なもののような対立は、外的な結合によって矛盾にあるのではなく、即自かつ対自的に自己自身において移行である。それらを魂として動かし、その弁証法を現れ出させるのは概念である。
普遍的な最初のものは、即自かつ対自的に考察されれば、自己自身の他のものとして現れ、普遍的なものが特殊的なものとしてある。この第二のものは最初の否定的なものである。直接的なものは他のもののうちで没落したが、この他のものは空虚な否定的なもの、無ではなく、最初のものの他のものであり、最初のものの規定を含んでいる。したがって最初のものは他のもののうちに保存され保持されている。肯定的なものをその否定的なもののうちに、結果において固持することが、理性的な認識において最も重要なことであり、その証明の例は論理学全体である。この統一は「有限なものは無限である」「一は多である」のような命題で表すこともできるが、肯定判断の形式は内容と矛盾し、内容のうちにある否定を定立しない。
第二の規定、すなわち否定的な規定、媒介された規定は、同時に媒介する規定でもある。それは肯定的なものの否定的なものとして肯定的なものを含み、他のものの他のものであり、矛盾として自己自身の定立された弁証法である。それがすでに矛盾として現れないとすれば、それはその思想を一緒にしない思考の欠陥である。形式的な思考は矛盾は思考できないという原則を作るが、実際には、矛盾を思考することは概念の本質的な契機である。
この否定性が概念の運動の転回点である。それは自己への否定的な関係の単純な点であり、生きた精神的な自己運動の最も内的な源泉、あらゆる真なるものの弁証法的な魂である。われわれが到達した第二の否定的なもの、否定的なものの否定的なものは、あの矛盾の止揚であり、生命と精神との最も内的で最も客観的な契機であって、それによって主体、人格、自由なものがある。直接的なものがその他のものへ移行する第一の前提が分析的で普遍性の契機であるのに対して、否定的なものの自己自身への関係は、推論全体の総合的な第二の前提であり、個別性によって規定されている。
この転回点において、認識の経過は同時に自己自身へと帰る。否定性は、自らを止揚する矛盾として、最初の直接性、単純な普遍性の再建である。この第二の直接的なものは、数えるならば第三のものであるが、否定的なものを二つ組として数えれば第四のものでもある。方法の形式が三重性であることは認識の外的な側面にすぎないが、早くから概念なしに立てられていたこの形式を、より規定された適用において示したことも、カントの哲学の無限な功績である。推論も三重のものであるが、形式的な意味では同一性の悟性的な規定のうちで経過し、弁証法的な契機、否定性を欠いている。
第三のものは、媒介の止揚による直接的なもの、否定的なものの止揚による肯定的なものであり、他在によって自らを実現し、この実在性の止揚によって自己と合致した概念である。それゆえこの結果は真理であり、静止したものではなく、自己自身と媒介する運動である。始まるものが普遍的なものであるように、結果は個別的なもの、具体的なもの、主体であり、前者が即自的にそうであるものに、後者は対自的にもなっている。
この結果は、自己と同一的な全体としてふたたび直接性の形式をもち、それゆえふたたび始まりでありうる。新しい基盤の直接性は、それが同時に結果であったがゆえに形式にすぎず、内容としてのその規定性は導き出されたもの、証明されたものである。ここではじめて認識の内容が考察の圏内に入り、方法は体系へと拡張する。
この規定性は、始まりと、ただ形式的であった方法とを不完全なものとしてとがめ、始まりを導き出されたものとして受け取ることを要求する。それは後ろへ無限に進む進行の要求として現れうるし、新しい始まりからも結果が出てくるので、前進は前へも無限に転がり続ける。しかし無限な進行は概念を欠いた反省に属し、概念をその魂と内容とする絶対的な方法はそこへ導くことはできない。方法は自己自身とすべてとを概念として知る絶対的な形式であり、それに対立する内容は存在しない。方法は見かけ上の他のものとしての内容を通って始まりへ帰り、最初の無規定性を再建する。これを方法は全体性の体系として成し遂げる。
認識は内容から内容へと転がり進み、続くものはつねにより豊かでより具体的になる。普遍的なものが基盤をなしているので、前進は他のものから他のものへの流れではない。普遍的なものはどの段階にも先行する内容の全量を引き上げ、何も失わず、自己のうちで豊かになり凝縮する。しかし関わり合いは否定的な、弁証法的な側面ももつ。自己の外へ出ることは自己のうちへ入ることでもあり、より大きな広がりはより高い強度でもある。最も豊かなものは最も具体的で最も主観的なものであり、最高の頂点は純粋な人格性である。それは自らを最も自由なもの、最初の直接性である単純さとするがゆえに、すべてを自らのうちに包括し保持する。
こうして前進のどの一歩も、始まりから遠ざかることによって同時に始まりへの還帰的な接近でもあり、始まりの後ろへ進む基礎づけと前へ進むさらなる規定とは同じものである。始まりにとっては単純な普遍性であることで十分である。認識の道具を批判的に探究する必要を始まりに対して持ち出すことは、それ自身前提であり、むしろ導出を必要とする。方法は始まりを不完全なものとして、同時に必然的なものとして知る。直接に絶対的なもののうちに身を置こうとする性急さは、思い込まれた絶対的なものしかもたず、真理はただ展開された経過とその終わりとのうちにある。
この方法によって、学は自己のうちで結ばれた円環であり、しかも円環の円環である。どの項も始まりへ帰ることによって同時に新しい項の始まりだからである。この連鎖の断片が個別的な学であり、それぞれはただ前をもち、その結末においてその後を示す。
このようにして論理学も、絶対的理念において、その始まりである単純な統一へと帰った。方法は自己自身にのみ関わる純粋な概念であり、単純な自己関係として有であるが、いまや満たされた有、自己を概念的に把握する概念である。まず、この理念において論理学はそれ自身の概念を把握し、学の概念を認識することで結ぶ。次に、この理念はまだ純粋な思想のうちに閉じ込められた神的な概念の学にすぎず、そのかぎりで主観性のうちに閉じ込められているので、この主観性を止揚しようとする衝動である。純粋な真理は最後の結果として、別の領域と学との始まりともなる。
理念は、自らを純粋な概念とその実在性との絶対的な統一として定立し、有の直接性へと自らを取りまとめることによって、この形式における全体性として自然である。しかしこれは移行ではなく、絶対的な解放である。理念は、自己自身を絶対的に確信し自己のうちに静止しつつ、自己自身を自由に解き放つ。その規定性の形式も端的に自由であり、主観性なしにそれだけで存在する空間と時間との外面性である。外的な理念として自らを規定しようとするこの決意によって、純粋な理念はただ媒介を自らに定立するにすぎず、その媒介から、概念は外面性から自己のうちへと入った自由な実存として高まり、精神の学において自分自身によってその解放を完成し、自己自身の最高の概念を、自己を概念的に把握する純粋な概念としての論理学のうちに見いだすのである。
本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。
『有と無』
有、純粋有とは、無規定な直接性においてただ自分自身に等しいものであり、そこには何も直観されず、何も思考されない。無、純粋無とは、完全な空虚、規定と内容の欠如であり、純粋有と同じ規定のなさである。それゆえ純粋有と純粋無とは同じものであり、両者の真理は、一方が他方のうちに直ちに消える運動、すなわち成である。
『成』
成とは、有と無の不可分離であり、有と無の規定された統一である。成は生成と消滅という二つの契機をもち、有と無はそこで消えゆくもの、止揚されたものとしてある。成は対立するものを自分のなかで結びつけて自分に矛盾し、静かな単純性となった有と無の統一、すなわち定有へと沈み込む。
『定有』
定有は成から生じる規定された有であり、有と無の単純な一体として直接的なものの形式をもつ。定有(Daseyn)は語源的にはある場所にある有であるが、空間の表象はここには属さない。非有が有に取り込まれていることが規定性そのものをなし、この存在する規定性が質である。定有はそこで自己に反省し、或るものとなる。
『或るものと他のもの』
或るものと他のものは、まずどちらも或るものであり、次に、どちらも同じく他のものであって、どちらを先に取って或るものと呼ぶかはどうでもよい。或るものは自分の他在に関係するかぎり対他有であり、他のものへの関係に対する自己関係としては即自有である。両者の真理は関係であり、対他有と即自有は一つの同じものの契機である。
『限界・制限と当為』
限界は或るもの自身の内在的な規定であり、それゆえ或るものは有限なものである。或るものの固有の限界が否定的でありながら本質的なものとして定立されるとき、それは制限である。制限としての自分自身への否定的関係である即自有が当為であり、当為と制限は質的に対立して、有限なものから無限なものへの移行をなす。
『悪無限と真の無限』
有限なものとの質的な関係において定立され、有限なものの彼岸、無規定な空虚として有限なものに対立する無限なものが、悪無限、悟性の無限なものである。それは有限なものから切り離されることで有限化される。真の無限なものは否定の否定であり、有限なものはそこで自立して存在するのではなく、契機として、観念的なものとしてある。
『対自有』
対自有とは、自分に向かい、自分に関わってあることであり、否定が否定の否定へ移行して単純な自己関係となった有である。定有において否定は第一の否定にすぎなかったが、対自有において質的な有は完成する。対自有は、まず一であり、次に多くの一へ移行して反発と牽引となり、最後に両者の均衡のなかで量へ移行する。
『反発と牽引』
反発とは、一が存在する他のものとしての自己に否定的に関係し、多くの一を定立することである。牽引とは、多くの一が一つの一へ移行することであり、反発のなかでは観念性の当為にすぎなかったものがそこで実現される。牽引は反発を前提とし、反発は牽引に素材を提供し、関係のこの契機として牽引は反発自身のうちにある。両者の統一から量が生じる。
『定量』
定量とは、限界をもつ量であり、完全な規定性においては数である。定量は外延量と内包量すなわち度とに区別され、規定性を自分の外にもつ矛盾として量的無限性へ移行する。無限な定量は質の回復であり、質的な形式における定量が量的比である。比は質と量の形式的な統一として、度量へ移行する。
『度量』
度量とは、質と量の統一、質的に規定された量であり、存在するものはすべて度量をもつ。度量は有の具体的真理である。第一書 有論の第三部門 度量において、度量は種別的な量、実在的な度量を経て度量なきものへ進み、度量の交替のなかで自己自身に連続する統一が、絶対的無差別を経て本質へと規定される。
『本質』
有の真理は本質である。本質とは止揚された有であり、知は直接的な有から自らを内へと想起することによってはじめて本質を見いだす。言語は Seyn の過去形 gewesen のうちに Wesen を保持しており、本質とは時間を超えて過ぎ去った有である。本質は、まず自己自身のうちで映現する反省であり、次に実存と現象として現象し、最後に現実性として自らを啓示する。
『仮象と映現』
本質に向かい合う有は、まず非本質的なもの、次に仮象である。仮象の有は有の空しさのうちにのみあり、この空しさを本質のうちにもつ。仮象は自らの否定を媒介としてのみある反省された直接性であり、本質自身の映現、すなわち反省である。反省とは、本質が自己自身のうちで映現することである。
『反省(定立する反省・外的反省・規定する反省)』
本質は反省であり、自己自身のうちにとどまる成と移行の運動、無から無への、そしてそれによって自己自身へと帰る運動である。定立する反省は自己に関係する否定性として無から始まり、外的反省は一つの有を前提して見いだし、それに外的な規定を定立する。規定する反省は定立する反省と外的反省との統一であり、そこから反省規定すなわち本質性が生じる。
『同一性・区別・矛盾』
同一性とは、他在と他のものへの関係が純粋な自己同等性のうちへ消え去った、本質の自己との単純な同一性である。区別とは反省が自らのうちにもつ否定性であり、絶対的区別、差異、対立へと規定される。対立の両側面が互いに排除しあう自立的な反省規定となるとき、それが矛盾であり、矛盾は自らを解消して根拠へと帰ってゆく。
『根拠』
本質は自らを根拠として規定し、自立的な反省規定が没落(zu Grunde gehen)した規定こそが本質の真の規定である。根拠は、まず絶対的根拠として形式と本質、形式と質料、形式と内容の関係をなし、次に規定された根拠となり、最後に条件となる。自らの条件と同一な絶対的根拠が直接的な事柄であり、事柄は実存へと出現する。
『実存と物』
実存は媒介を止揚することから出てきた直接性であり、あるものはすべて実存する。実存する或るものは、媒介の自己内反省によって生じた直接性として、存在する或るものから区別され、物である。物は物自体と性質、諸質料からの成り立ちを経て、自己に矛盾する媒介として解消し、現象へと移る。
『現象と法則』
現象とは、まずその実存における本質であり、現象であることは実存自身の真理である。現象のうちで交替から取り出されたとどまる同一的な内容が現象の法則であり、法則は現象の彼岸にあるのではなく、現象のうちに直接に現在している。法則の国は実存する世界の静かな写しであり、法則(Gesetz)という語は定立されてあること(Gesetztseyn)の規定を含む。
『現実性(可能性・偶然性・必然性)』
現実性とは本質と実存との統一であり、形態を欠いた本質とよりどころのない現象とはそのうちで真理をもつ。形式的な現実性は即自有あるいは可能性を含み、現実的であるものは可能的である。現実性・可能性・必然性は、まず偶然性として、次に相対的必然性としてあり、必然性がその否定である偶然性をそれ自身においてもつことから、絶対的必然性へ移る。
『実体と因果性・相互作用』
実体とは本質と有との最終的な統一であり、自己の映現として、映現する全体性すなわち偶有性である。自己のうちへ反省した威力としての実体が規定を定立するとき、定立されたものが結果、対自的に存在する実体が原因であり、これが因果関係である。相互作用においては有限な因果性の機械論が止揚され、その規定のうちで定立された絶対的関係の統一が概念である。
『概念(普遍・特殊・個別)』
本質は有の最初の否定であり、概念は第二の否定、否定の否定として再建された有である。概念の自己への純粋な関係が普遍性であり、概念の規定性が特殊性である。特殊性は他のものに対する限界ではなく普遍的なものの内在的な契機であり、個別性はすでに特殊性によって定立されている。
『判断』
判断とは、概念そのものによる規定された概念の定立であり、概念はそこで自らを分割して、自立的な両極としての主語と述語の関係となる。判断は、定有の判断、反省の判断、必然性の判断、概念の判断へと進み、肯定・否定・無限、単称・特称・全称、定言・仮言・選言、実然・蓋然・必当然の各判断をなす。
『推論』
推論とは、判断における概念の再建として、概念と判断との統一であり真理である。判断において自立的な両極として定立されていた契機は、推論においては中項による規定された統一として定立されており、あらゆる理性的なものが推論である。推論は定有の推論、反省の推論、必然性の推論へ進み、個―特―普が規定された推論の普遍的な図式である。
『客観性(機械論・化学論・目的論)』
客観性とは、その統一へと帰った概念の全体性として直接的なものであり、その区別されたものは自立的な客観である。客観性は機械論、化学論、目的論へと進む。機械的な客観は規定性に対して無関心な全体性であり、化学的な客観においては他のものへの関係がその本性に属し、目的論においては目的が手段を通して実現された目的となる。
『理念(生命・認識・善)』
理念は十全な概念であり、客観的な真なるものであって、何かが真理をもつのはそれが理念であるかぎりにおいてのみである。理念は、まず直接的な理念としての生命であり、生きている個体、生命過程、類を経る。理念はその判断において認識一般となり、真なるものの理念と善の理念、すなわち理論的理念と実践的理念とに分かれる。
『絶対的理念と方法』
絶対的理念は理論的理念と実践的理念との同一性であり、哲学の唯一の対象であり内容である。絶対的理念において規定性は内容の形態をもたず端的に形式としてあり、この内容の形式の普遍的なものが方法である。方法は概念そのものの運動であり、始まりの直接的なものから出て自己を規定し、始まりへ帰ることによって、学を円環の円環とする。
『止揚』
止揚する(aufheben)は、保存するという意味と終わらせるという意味をもつ。止揚されたものは無になるのではなく、有から出てきた媒介されたものとして、そこから来た規定性をなお自分にもち、反対のものとの統一のうちで契機と呼ばれる。止揚されたものは観念的なものでもあり、有と無は成のうちで止揚されたものとしてある。
『即自・対自』
即自有とは、或るものが他のものへの関係に対して自己に関係し、自分の不等に対して自分と等しくある有であり、対他有と対をなす。或るものは、他在、他のものとの関係を止揚し突き放したかぎりで、対自的にある。方法において普遍的なものは即自的には具体的な全体性であるが、まだ定立されず対自的でなく、前進は普遍的なものが自己自身を規定し主体となることに存する。
『媒介と直接性』
天にあるものも自然にあるものも精神にあるものも、すべて直接性と同じく媒介を含んでいる。始まりである純粋有は純粋な知が帰っていく統一であり、この面では絶対に直接的なものは同様に絶対に媒介されたものでもある。本質論において、実存は媒介を止揚することから出てきた直接性であり、概念論において、概念は自らを基礎としたかぎりで絶対的な基礎であり、この基礎は媒介の止揚から自らを直接的なものとしたものでなければならない。
第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
ヘーゲルにおいて、物を定義することは容易ではない。物は論の到達点として置かれているのではない。物は、本質論の第二部門「現象」の第一章「実存」において、根拠から出現した実存がとる形として現れ、同じ章のうちで自らを解消して現象へと移行する。また定義そのものも、概念論の総合的認識において、与えられた対象を最も近い類と種差とによって捉える認識の一つの段階として扱われる。
以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。
根拠と条件とは、一つの全体の二つの側面であり、その統一が無条件的な事柄そのものである。事柄の条件とは、事柄が、根拠を欠いた直接的な有の姿で外に投げ出された、多様な定有である。一皿の料理という事柄にとって、材料も、道具も、火も、作り手の手も、それぞれ別々にただそこにあり、自分が料理の条件であることに無関心である。或る事柄のすべての条件が現にあるとき、この散らばった多様性は自らを内へと想起する。材料は材料として、火は火として没落し、根拠もまた根拠としては消え去る。この消失によってのみ媒介された直接性が『実存』である。料理は、材料と火とを経てきたものでありながら、いまはただそこにある。実存は本質の述語として受け取られるべきではない。本質は実存のうちへと移行したのであり、実存の彼方に本質が残っているのではない。実存は否定的統一として、自らを実存するもの、すなわち物として規定する。
実存は、自らの媒介の契機のうちに、『物自体』と外的な実存との区別を含んでいる。物自体は、止揚された媒介によって現にある本質的な直接的なものであり、多様な規定は物自体の外にある外的反省に属する。物自体は目にもたらされてはじめて色をもち、鼻にもたらされてはじめて匂いをもつ。皿の上の料理も、それ自体としては、見る目、嗅ぐ鼻、味わう舌に向かってはじめて、色と香りと味とをもつ。しかし物自体は実存の本質的な同一性であるから、この本質を欠いた外的反省は物自体には帰属せず、自己のうちで崩れ落ち、それ自身物自体となる。物自体は自己から自己を突き放して多くの物自体となるが、それらは差異を他方においてしかもたないから、一つに崩れ落ち、他のものとしての自己への物自体の関係が、物自体の規定性となる。この規定性が物の『性質』である。
物は性質をもつ。性質は物の他のものへの関係であり、物はこの関係のうちで自らを保持する。料理の塩味は舌という他のものへの関係であるが、料理はこの関係のうちで、この料理として自らを保っている。物自体は外的な実存の彼方の無規定な基礎ではなく、その性質のうちに実存する。多くの物は、その性質によって『相互作用』のうちにあり、物はこの関係の外では何ものでもない。性質なしに物について語るならば、物の区別は量的な区別にすぎず、一冊の本も、そのどの頁も、頁のどの小片も一つの物であり、こうして無限に続く。物性は性質へと移行した。
物から性質を取り去る外的な抽象に対して、価値は逆転する。自立的なのは性質の方であり、物は非本質的な外延にすぎない。性質は物の存立をなす自立的な『質料』、すなわち素材である。化学は、色、匂い、味を、色素、臭素、酸味や苦味の素材として示そうとする。物は、物のうちでの関係に対して無関心な自立的な質料から成り立ち、物の区別は、特殊な質料がその物のうちにどれだけの量あるかにもとづく。物は質料の寄せ集め、『もまた』である。物はある素材の定量から成り、もまた別の素材の定量から成る。料理は塩の定量から成り、もまた油の定量から、もまた水の定量から成る。
この物は、自由な素材の量的な連関として端的に可変的であり、素材はこの物から絶え間なく出てゆき入ってくる。湯気が立ちのぼり、香りが抜け、熱が逃げ、塩を足せば味が変わる。料理は、それを引き止める固有の度量も形式ももたない。物は、そのような多孔性である。しかし物は、無関心な関係であるだけでなく、質料の否定的な関係、すなわち「この」物でもある。物が温かいその点において、物は色をもち、酸っぱく、電気を帯びてもいる。ひと匙の料理のどの一点も、温かく、塩辛く、色をもつ。一方の質料は他方の質料の孔のうちに存立し、他方の孔のうちにも他のすべての質料が存立する。物は自己に矛盾する媒介である。ひと皿の料理のうちで、塩も油も水も、それぞれ自立的に存立しながら、他の素材の孔のうちにだけ存立する。ひと皿の料理は、それだけで立つものではなく、自らの存立を、絶えず出入りする素材のうちに、すなわち他のもののうちにだけもつ。実存はこの物において、自立的な存立であると同時に非本質的な実存であることで、完全性に達し、自らの空しさを自らの基礎としてもつ。そのような実存が『現象』である。
『物とは、根拠と条件との媒介が消え去ることによって実存のうちへ歩み出た直接的なものであり、その存立を諸性質と諸質料とのうちにもちながら、それらの「もまた」と「この」との矛盾として自らを解消し、現象へと移行する実存するものである。』
作品名:ヘーゲル『大論理学』を知るための本
発行責任者(著者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-opus-5-5)
参照原典:ドイツ語原典『Wissenschaft der Logik』(著作集〔Werke〕第3〜5巻、ベルリン、1833〜1841年刊。有論は1832年改訂の第二版、本質論・概念論は初版と同じ本文)
初版発行日:2026年10月14日
本書の本文・解説その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。
本書が参照する原典は、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『大論理学』(Wissenschaft der Logik)のドイツ語原典である。本書の制作において直接参照した版は、ヘーゲルの没後にベルリンで刊行された著作集(Werke)の第3巻から第5巻(1833〜1841年刊)に準拠したものである。有論の本文は、ヘーゲルが没する直前に改訂を終えた第二版(1832年)であり、本質論・概念論の本文は、それぞれ1813年・1816年の初版と同じである。
本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTMLが存在する場合は、術語および論証骨格の照合基準として当該翻訳HTMLを参照して制作している。
本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。