デイヴィッド・ヒューム(David Hume)。1711年、スコットランドのエディンバラに生まれ、1776年、エディンバラで没した。エディンバラ大学で学び、法律の勉強を始めたのち、1734年にフランスへ渡り、ランスとラ・フレーシュで人間本性論を執筆して、1737年にロンドンへ戻った。1739年に第1巻と第2巻を、1740年に第3巻を、ロンドンで刊行した。
原典言語:英語
原典名:人間本性論(A Treatise of Human Nature)
初版は、第1巻と第2巻が1739年、第3巻が1740年に、ロンドンで刊行された。本書が対象とする第1巻「知性について」(Of the Understanding)には、第1・2巻への告知と序論が先立つ。付録(Appendix)は1740年に第3巻とともに刊行され、第1・2巻の箇所を補う。底本は、L. A. Selby-Bigge編(Oxford: Clarendon Press, 1888)であり、1739〜40年の初版の本文と綴りを再現した版である。
本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。第Ⅰ部は、原典のうち第1巻「知性について」(第1・2巻への告知、序論、第1巻の本文、付録)を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。第2巻・第3巻は収録していない。
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第1巻・第2巻への告知 序論で立てた主題のすべてが、この二巻に収まるわけではない。知性と情念は、それだけで完結した推論をなす。この区分を利用して世間の好みを試し、成功すれば道徳、政治、批評へ進んで人間本性論を完結させる。世間の判断は最良の教えとして受け止める。
序論 新しい発見を称する人々は、先行するすべての体系を非難して自分の体系をそれとなく称賛する。人間の理性が扱う最も重要な問題について無知が残ると嘆くだけなら、諸学に通じた人のほとんどが同意する。最も信用を得てきた体系でさえ、原理は吟味なしに受け入れられ、帰結はそこから拙く引き出され、部分は整合せず、全体は明証性を欠く。
それを見抜くのに深い知識はいらない。戸口の外の野次馬でさえ、聞こえてくる騒ぎから、中が穏やかでないと分かる。最も些細な問いも論争を免れず、最も重大な問いには決着がない。論争は、あらゆることが不確かであるかのように増え、同時にあらゆることが確かであるかのような熱意で戦われる。この騒ぎで賞を得るのは理性ではなく雄弁であり、勝つのは槍や剣の兵士ではなく、ラッパ手や太鼓手や楽士である。
私の見るところ、形而上学的推論に対する世間の偏見はここから生じる。形而上学的推論とは、いくらかでも難解な議論の全般を指す。労力を無駄にしてきたので、どうせ誤りの餌食なら自然で楽しいものであれと、それを退ける。この嫌悪が正当とされるのは、徹底した懐疑論に大いなる怠惰が加わった場合だけである。真理が人間の能力の届くところにあるなら、それは深く難解なところにあり、最大の天才が届かなかったものに労せず届くと期待するのは空しい思い上がりである。私の哲学は、そのような利点を主張しない。易しく明白すぎる哲学には、かえって強い疑いを向けるだろう。
あらゆる学問は人間本性に関係し、遠く離れて見えても何らかの道を通ってそこへ戻る。数学、自然哲学、自然宗教でさえ、人間の力能と能力で判定されるかぎり人間の学に依存する。知性の範囲と力、用いる観念の本性、推論で行う作用の本性を説明できたなら、これらの学問にどんな進歩をもたらせるか見当もつかない。自然宗教は高次の力の意向とわれわれの義務にまで及ぶので、とくに進歩が期待される。われわれは推論する存在であるだけでなく、推論する対象の一つでもある。
これらがそうなら、人間本性とのつながりがさらに緊密な学問には何が期待できるか。論理学は推論能力と観念の本性を、道徳と批評は趣味と感情を、政治は社会で結びつく人間を扱う。この四つに、知ることに意味のあるほとんどすべてが含まれる。
成功を望める唯一の方策は、辺境の砦や村をときおり奪う退屈でのろい方法をやめ、これらの学問の首都である人間本性そのものへまっすぐ進軍することである。そこを押さえれば、他の領域での勝利はたやすい。重要な問題の決着はすべて人間の学に含まれ、これを知るまで確実に決着できるものはない。人間本性の原理を説明する試みは、新しい基礎の上に築かれた諸学の完全な体系の提案であり、その基礎こそ諸学が確実に立てる唯一のものである。
人間の学が他の諸学を支える唯一の堅固な基礎であるように、この学自身の唯一の基礎も、経験と観察でなければならない。道徳的な主題への実験的哲学の適用が自然的な主題より一世紀以上遅れたのは驚くに当たらず、タレスからソクラテスまでの隔たりは、ベーコン卿と、ロック氏、シャフツベリ卿、マンデヴィル博士、ハチスン氏、バトラー博士らイングランドの近年の哲学者との隔たりにほぼ等しい。理性と哲学の進歩は、寛容と自由の国にしか生まれえない。
この後者の進歩は、祖国にとって前者より小さな名誉ではなく、重要性が大きく改革がいっそう必要だった分、より大きな栄光である。心の本質は外的な物体の本質と同じく知られていないから、心の力能と性質の概念は、注意深い実験と個別の結果の観察によらなければ形づくれない。実験をなるべく先までたどり、結果を少数の単純な原因に帰して、原理を普遍的にしなければならない。それでも経験は超えられず、人間本性の究極の根源的な性質をつかんだと称する仮説は、はじめから僭越で妄想的だとして退けなければならない。
魂の究極の原理の説明に熱心な哲学者は、人間の心を自然に満足させるものを知っているとは思えない。絶望は享受とほぼ同じ効果をもち、満たせないと知ったとたん欲望そのものが消えるからである。人間の理性の行き着ける限りまで来たと分かれば、最も一般的な原理について、実在するという経験のほかに理由を与えられないと悟っても、われわれは満ち足りて落ち着く。書き手にも、無知を率直に告白し、推測を確実な原理として押しつけない満足がある。
究極の原理を説明できないことが人間の学の欠陥なら、それは諸学派の学問から卑しい職人の技芸まで、すべてに共通の欠陥である。どの学問も経験を超えられない。ただし道徳哲学には特有の不利がある。物体の実験は物体を置いて観察すればよいが、自分を考察する対象と同じ立場に置けば、反省と事前の考慮が自然な原理の働きを乱し、正しい結論を導けなくなる。この学の実験は、交際や仕事や楽しみのなかで人々が示す振る舞いを、人間の生活の注意深い観察から、そのまま拾い集めなければならない。慎重に集めて比較すれば、確実さで劣らず、有用さでほかのどの学問よりも勝る学を築けると期待できる。
第1巻 知性について
第1部 観念、その起源、構成、結合、抽象などについて
第1節 観念の起源について 人間の心のすべての知覚は、印象と観念と呼ぶ二つの種類に分けられる。両者を分けるのは、知覚が思考や意識に現れるときの力と生き生きとした度合いである。最も激しく現れる知覚が印象であり、心に最初に現れるときの感覚、情念、情動のすべてを含む。観念とは、思考と推論におけるそれらのぼんやりした像である。眠りや熱病や狂気のなかでは観念が印象に近づき、印象が弱く観念と区別できないこともあるが、一般には両者は別々の類に分けて固有の名を与えられるほど異なる。
知覚には単純と複合という区分もある。単純な知覚は区別も分離も許さず、複合的な知覚は部分に区別できる。この林檎の色、味、匂いは結びついているが、同じものではなく、互いに区別できる。
力と生気の度合いを除けば、印象と観念はあらゆる点でよく似ており、知覚は印象としても観念としても二重に現れる。目を閉じて自分の部屋を思い描くとき、観念は感じた印象の正確な表象であり、一方にあって他方にない事情はない。
だが、さらに調べると、最初の外見に流されていたと気づく。複合的な観念の多くには対応する印象がなく、複合的な印象の多くは観念にそのまま写されない。私は、舗道が黄金で城壁がルビーの新しいエルサレムを、見たことがなくても想像できる。パリを見たことはあるが、あの都市のすべての通りと家々を正しい比率のまま表す観念を形づくれるとは、断言できない。
それゆえ、複合的な印象と観念が正確な写しだという規則は、普遍的には成り立たない。単純な知覚については、最も正確に調べたうえで断言する。ここでは規則は例外なく成り立ち、単純な観念にはすべて類似する単純な印象があり、単純な印象にはすべて対応する観念がある。暗闇で思い描く赤の観念と、日光で目に入る赤の印象は、度合いが違うだけである。これを否定する者には、観念の伴わない単純な印象か、印象の伴わない単純な観念を挙げるよう求めるほかなく、挙げられないことは確かであり、その沈黙と自分の観察から結論を確立してよい。
単純な観念と印象が類似し、複合的なものはそれらから形成されるので、二種類の知覚は一般に正確に対応する。次に、どちらが原因でどちらが結果かを考察する。この問いの完全な検討は本論考の主題であるから、ここでは一般命題を一つ立てる。単純な観念はすべて、はじめて現れるとき、自分が正確に表す単純な印象に由来する。
これを裏づける現象は二種類だけだが、どちらも明白で、数多く、決定的である。まず、単純な印象と観念の対応を見直す。類似する知覚がこのように恒常的連接をなすことから、両者の間には大きな結合があると結論する。これほど多くの事例での恒常的連接は偶然ではなく、印象が観念に依存するか観念が印象に依存するかのどちらかである。どちらかは最初の現れの順序で分かり、単純な印象はつねに対応する観念に先立つ。子供に緋色やオレンジ色の観念、甘さや苦さの観念をもたせたいなら、その対象を見せ、つまり印象を伝える。考えるだけでは色も知覚せず感覚も感じないが、どの印象にもつねに、生気の度合いだけが違う観念が続く。恒常的連接は一方が他方の原因であることの、印象の先行性は印象が原因であって観念が原因でないことの、説得力のある立証である。
確認のため、もう一つの現象を考察する。生まれつき目が見えない、耳が聞こえないなど、印象を生む能力が妨げられていると、印象だけでなく対応する観念も失われる。器官が一度も働かなかった場合も同じで、パイナップルの味の正しい観念は、味わったことがなければ形づくれない。
ただし、観念が印象に先行することも不可能ではないと立証しうる反対の現象が一つある。異なる色の観念が互いに異なるなら、同じ色の異なる濃淡も、それぞれ別個の観念を生むはずである。そうでなければ、濃淡の段階を通じて一つの色が最も離れた色に変わることになり、不条理だからである。そこで、三十年間視力を享受してあらゆる色に親しんだ人が、青のある一つの濃淡にだけ出会わなかったと想定する。その濃淡を除いて、最も濃いものから最も薄いものへ並べると、彼は欠けた場所に空白を知覚し、そこの隔たりがほかより大きいと感じる。感官から伝えられたことがなくても、彼は想像力でこの欠落を補い、その観念を呼び起こせるだろうか。ほとんどだれもができると思うだろう。これは単純な観念が必ずしも印象から導かれないことの立証になるかもしれない。しかしこの事例はあまりに特殊で、一般的な格率を変更する価値はない。
この原理にはもう一つの制限がある。観念が印象の像であるように、一次的な観念の像である二次的な観念を形づくれる。これは規則の例外というより説明である。最初の観念は印象に由来するので、単純な観念はすべて、間接にせよ直接にせよ、対応する印象から生じる。
これが人間本性の学で確立する最初の原理であり、単純そうに見えても侮ってはならない。印象と観念のどちらが先行するかという問いは、生得観念があるか、すべての観念が感覚と反省から導かれるかをめぐる、あの大きな論争と同じだからである。延長と色の観念が生得でないと示すために、哲学者たちは感官から伝えられることを示し、情念と欲望の観念については先立つ経験を指摘した。これらの論拠が示すのは、観念に先立つのはより生き生きとした別の知覚であり、観念はそれに由来してそれを表す、ということにすぎない。問いをこう述べれば、論争は取り除かれ、この原理は推論により役立つと期待する。
第2節 主題の区分 単純な印象は対応する観念に先立ち、例外はまれなので、方法の上では印象を先に検討すべきに思える。印象は感覚の印象と反省の印象に分けられる。前者は未知の原因から根源的に魂に生じ、後者は大部分観念から導かれる。印象が感官を打ち、熱さや冷たさ、渇きや飢え、快や苦を知覚させる。その写しが心にとられ、印象が止んだあとも残るのが観念である。この快や苦の観念が戻ると、欲望と嫌悪、希望と恐れの新しい印象が生じ、これが反省の印象である。感覚の検討は解剖学者や自然哲学者に属するので立ち入らない。反省の印象は大部分観念から生じるので、方法を逆転させ、観念から始める。
第3節 記憶と想像力の観念について 印象がいったん心に現前すると、観念として再び現れる。その際、最初の生気をかなり保ち印象と観念の中間のようである場合と、生気を完全に失って完全な観念である場合がある。前者の仕方で印象を反復する能力が記憶、後者が想像力である。記憶の観念は想像力の観念よりずっと生き生きとして強く、想像力においては知覚は弱くぼんやりし、心はそれを長く一様に保ちにくい。
もう一つ違いがある。どちらの観念も対応する印象が先立たなければ現れないが、想像力は元の印象の順序や形式に拘束されないのに対し、記憶はそれに縛られ、変更する力がない。
想起で元の形式から離れるのは、記憶の欠陥から生じる。歴史家は叙述の都合である出来事を、実際に先行した出来事より前に語ることがあるが、正確な歴史家はその乱れに注意を払い、観念を本来の位置に戻す。記憶の主な働きは、単純な観念を保つことではなく、順序と位置を保つことである。想像力が観念を入れ替え変更する自由は、翼のある馬や火を吐く竜や怪物的な巨人を語る詩や物語の寓話が疑いえなくしている。すべての観念は印象の写しで、完全に分離不可能な二つの印象はないと考えれば、これは奇妙ではない。
第4節 観念の結合あるいは連合について 単純な観念は想像力によって分離され、好む形式で結びつけられうる。想像力に何らかの普遍的な原理の導きがなければ、その働きは説明がつかず、結びつけるのは偶然だけになる。同じ単純な観念が規則正しく同じ複合的な観念をなすのは、一方が自然に他方を呼び込む連合の性質が観念の間にあるからである。この結びつける原理は、分離不可能な結合ではなく、通常は優勢となる穏やかな力であり、諸言語が互いによく対応する原因でもある。この連合を生む性質は三つ、すなわち類似、時間と場所での近接、原因と結果である。
これらが連合を生むことは、ほとんど立証を要しない。想像力は、ある観念から類似する観念へ容易に移る。感官は対象を近接して置かれたまま規則正しくとらえるので、想像力も長い習慣によって、対象を思い描くとき空間と時間の部分に沿って進む。原因と結果による結合は後で徹底的に検討するが、これほど強い結合を想像力に生み、ある観念を別の観念に容易に呼び戻させる関係はない。
二つの対象が結合されるのは、直接に類似し、近接し、一方が他方の原因であるときだけでなく、間に介在する第三の対象が、そのそれぞれにこれらの関係のどれかをもつときでもある。これは遠くまで及びうるが、隔たりが一つ増すごとに関係は弱まる。四親等のいとこは因果性で結ばれるが、兄弟より遠く、子と親よりはるかに遠い。
三つの関係のうち因果性が最も広い。二つの対象がこの関係にあるのは、一方が他方の存在の原因であるときに限らず、他方の作用や運動の原因であるときもそうである。作用や運動は、ある観点から見た対象にほかならないからである。さらに、一方が他方に作用や運動を生み出す力能をもつだけでも、そうである。これは、社会のなかで人々を支配と服従に置く、利害と義務のあらゆる関係の源である。主人とは、召使と呼ぶ他者の行為を特定の点で指図する力能をもつ者であり、裁判官とは、争いのある事例で占有や所有を自分の意見で確定できる者である。力能は意志の発動だけで行為に変わり、それは多くの場合に蓋然的と考えられる。
これらが単純な観念の間の結びつきの原理であり、想像力において、記憶の分離不可能な結合の代わりをする。心の世界にも引力のようなものがあり、自然の世界と同じく並外れた効果をもつ。しかし原因は大部分が未知で、人間本性の根源的な性質とするほかなく、私はそれを説明するつもりはない。真の哲学者に必要なのは、原因を探ろうとする際限のない欲望を抑えることである。十分な実験で学説を立てたなら、それ以上の探究が曖昧な思弁に至ると見えるとき、そこで満足すべきである。
連合の結果のうち、最も注目すべきは複合的な観念である。それは思考と推論の通常の主題であり、関係、様態、実体に分けられる。これらを順に簡潔に検討し、一般的な観念と個別的な観念についての考察を付け加える。
第5節 関係について 関係という語は、かなり異なる二つの意味で用いられる。一つは、想像力のなかで二つの観念が結びつき、一方が自然に他方を呼び込む性質である。もう一つは、観念が恣意的に結ばれた場合でも比較するのが適切と考えられる、その事情である。日常は前者の意味でしか用いず、距離は哲学では関係だが、日常では関係が少ないと言われる。
比較を許す性質を数え上げるのは終わりのない作業に見えるが、入念に考察すれば七つの項目に含められ、それらが哲学的関係のすべての源である。まず類似であり、何らかの度合いの類似なしには比較できない。ただし類似は、つねに観念の連合を生むわけではない。性質があまりに一般的で多くの個体に共通になると、心をどれか一つに導かず、想像力が定まるのを妨げる。
次に同一性であり、ここでは、恒常的で不変の対象に当てはめる最も厳密な意味で扱う。人格の同一性は後で論じる。三つ目は、同一性のあとで最も普遍的な空間と時間の関係、四つ目は量あるいは数、五つ目は同じ性質をもつ対象のその度合いである。
六つ目は反対であり、類似なしにいかなる関係も存立しないという規則の例外に見えるかもしれない。存在と非存在の観念以外に、それ自体で反対の観念はなく、この二つも、ともに対象の観念を含むので類似している。火と水、熱と冷のような他の対象が反対なのは、経験と、その原因あるいは結果の反対性によって分かるにすぎない。この原因と結果の関係が七つ目であり、自然的関係であるとともに哲学的関係である。
相違を他の関係に加えると予想されたかもしれないが、私はそれを、実在的で積極的なものとは見ず、関係の否定と考える。相違は二種類あり、同一性に反するものが数の相違、類似に反するものが種類の相違である。
第6節 様態と実体について 実体と偶有性の区別に推論の多くを基礎づける哲学者たちに尋ねたい。実体の観念は感覚の印象から導かれるのか、反省の印象から導かれるのか。感官によるなら、目なら色、耳なら音、口蓋なら味でなければならないが、実体が色であり音であり味であると主張する人はいない。実体の観念が実在するなら反省の印象から導かれねばならないが、反省の印象は情念と情動にすぎず、どれも実体を表せない。したがってわれわれは、個別の性質の集まりの観念とは別の実体の観念をもたず、実体について語るときも、それ以外の意味をもたない。
実体の観念も様態の観念も、想像力で結ばれ、名を与えられた単純な観念の集まりである。違いは、実体を形づくる性質が、内属すると想定される未知の何かに帰せられるか、少なくとも近接と因果性で分離不可能に結びついていると想定されることにある。金の観念は最初は黄色い色、重さ、展性、可融性かもしれないが、王水に溶ける性質を発見すれば、それを加える。様態ではこれは起こりえず、様態を形成する単純な観念は、異なる主体に散らばった性質を表すか、結びついていても、その結びつける原理が基礎とみなされていないかである。踊りの観念は前者の例、美の観念は後者の例である。
第7節 抽象的な観念について 抽象的あるいは一般的な観念が、心の想念において一般的か個別的か、という重要な問いがある。ある偉大な哲学者は、一般的な観念はすべて、ある語に付随する個別的な観念にほかならず、語がそれにいっそう広い意味を与えて、類似する他の個体を機会に応じて呼び戻させるのだと主張した。バークリー博士である。私はこれを近年の文芸の共和国で最大の発見の一つとみなすので、論拠をもって確かなものにしたい。
一般的な観念の大部分は、形成において量と性質の特定の度合いをすべて捨象し、対象は延長や持続などがわずかに変わっても、その種に属さなくなるわけではない。そこに次のジレンマが考えられた。人間の抽象的な観念は、あらゆる大きさ、あらゆる性質の人間を表す。そうできるのは、可能な度合いのすべてを同時に表すか、特定の度合いをどれも表さないか、いずれかである。前者は心に無限の能力を含意して不条理とされたので、後者が結論され、抽象的な観念は量にも性質にも特定の度合いをもたないと想定された。この推理の誤りを、私は明らかにする。まず、度合いを正確に思い描かずに量や性質を思い描くことは不可能だと立証し、次に、心の能力は無限でなくても、あらゆる可能な度合いの概念を、反省と会話に足りるだけ一度に形づくれることを示す。
第一の命題には三つの論拠がある。まず、異なる対象はすべて区別可能で、区別可能な対象は思考と想像力によって分離可能であり、逆も真である。区別のないものを分離することも、相違のないものを区別することもできない。ところが線の正確な長さは線そのものから異ならず区別もできず、性質の正確な度合いもその性質から区別できない。これらの観念は分離も許さず、想念において結びついている。線の一般的な観念は、あらゆる抽象にもかかわらず、心に現れるときには量と性質の正確な度合いをもつ。ただし、その観念は、これと異なる度合いをもつ他の線を表すようにされうる。
次に、どんな印象も、量と性質の度合いにおいて規定されなければ心に現前しない。印象がときに混乱するのは弱さによるにすぎず、特定の度合いをもたない印象を心が受け入れられるからではない。それは同じものが存在しかつ存在しないという最も露骨な矛盾である。この結論は特定の生気の度合いに基づかない。観念は印象の写しにほかならず、両者は強さと生気においてのみ異なるので、印象について真のことは観念についても真である。
さらに、自然のものはすべて個体的であり、辺と角の比率が定まらない三角形が実在するとは考えられない。事実において不条理なら、観念においても不条理である。不条理なものについて明晰な観念は形づくれないからである。対象の観念を形づくることは観念を形づくることと同じで、対象への関係づけは観念自体に印のない外的な名づけにすぎない。量と性質をもちながらどちらの正確な度合いももたない対象の観念は形づくれず、この二点で限定されない観念も形づくれない。抽象的な観念は、表象においては一般的になりえても、それ自体では個体的である。
観念が本性を超えて適用されるのは、量と性質のあらゆる度合いを、生活に足りる程度に不完全に集めるからである。これが第二の命題である。いくつかの対象の間に類似を見出すと、度合いにどんな違いがあっても、そのすべてに同じ名を適用する。この習慣ができると、その名を聞いて、対象の一つの観念が現れ、想像力はそれを特定の事情と比率のまま思い描く。同じ語は他の個体にも適用されてきたので、語はそれらすべての観念を呼び起こせず、見渡して獲得した習慣を呼び起こす。語は一つの個体的な観念を習慣とともに呼び起こし、その習慣が、必要に応じて他の観念を生み出す。
並外れた事情の一つは、推論の対象となる個体的な観念を生み出したのち、もしそれと合わない推論をすれば、習慣がほかの個体をすぐに示唆することである。三角形という語から特定の正三角形の観念を形づくり、三角形の三つの角は互いに等しいと主張したとする。すると、不等辺三角形や二等辺三角形がただちに押し寄せ、形づくった観念については真であるその命題が偽であると知覚させる。心がそれらを示唆しないなら、能力の不完全さによるもので、誤った推論や詭弁の源となる。これは主として難解で複合的な観念の場合で、ほかでは誤りはまれである。
習慣は完全なので、同じ観念が複数の異なる語に結びつき、誤りなく別々の推論に用いられる。高さ一インチの正三角形の観念一つが、図形について語るときにも、三角形について語るときにも役立つ。しかし各語は固有の習慣を呼び起こし、語の下に通常含まれる観念に反する結論が形成されないよう、心に注意させる。
習慣が完全になる前は、心は自分の意味と範囲を理解するために、大きさも比率も異なる円、正方形、平行四辺形、三角形をめぐらせるかもしれない。いずれにせよ、一般的な語を用いるときは個体の観念を形づくり、それを汲み尽くすことはめったにできず、残りは呼び戻す習慣によってのみ表される。これが抽象的な観念と一般的な語の本性であり、観念は本性においては個別的だが表象においては一般的だという逆説は、これで説明される。個別的な観念は、習慣的な連接によって多くの他の個別的な観念と関係し、それらを容易に呼び戻す語に結ばれることで、一般的になる。
残る困難は、必要に応じてあらゆる個別的な観念を呼び戻すこの習慣であり、説明には類似する他の事例を挙げればよい。まず、千のような大きな数を口にするとき、心はその数の十全な観念をもたず、十進の各位の観念によって生み出す力能をもつだけだが、この不完全さは推論では感じられない。次に、談話や詩を暗唱で覚えた人は、思い出せずにいても、始まりの一語で全体を思い出す。さらに、統治、教会、交渉、征服について語るとき、構成する単純な観念を広げることはめったにないが、無意味なことを語らず、観念の間の矛盾を知覚できる。戦争では弱い側が交渉に頼るのを征服に頼ると言えば、習慣がその不条理をただちに知覚させる。最後に、個体は類似を考慮して一般的な語の下に集められるので、この関係が想像力への入りやすさを増す。
この仮説はこれまで哲学で優勢であったものと大きく反するが、最も信頼を置くのは、一般的な観念を通常の説明方法で成り立たせることが不可能だと立証したことである。別の体系が必要なことは確かで、私の提案のほかに候補はない。観念が本性において個別的で数も有限であるなら、観念が表象において一般的となり、無数の観念を含めるのは、習慣によるほかない。
この主題を離れる前に、同じ原理で、諸学派でよく語られながら理解されていない理性の区別を説明する。図形と、図形をもつ物体の区別、運動と動かされる物体の区別がその例である。困難は、異なるすべての観念は分離可能であるという原理から生じる。図形が物体と異なるなら観念は分離可能でなければならず、異ならないなら区別可能でも分離可能でもありえない。相違も分離も含まない理性の区別とは、何を指すのか。
これは抽象的な観念の説明に頼れば解ける。単純さのなかにも多くの類似と関係が含まれうると心が観察しなかったなら、図形を物体から区別しようとは夢にも思わなかっただろう。白い大理石の球が示されたとき、得るのは、ある形に並んだ白い色の印象だけで、色と形を分離も区別もできない。しかしのちに黒い大理石の球と白い立方体を観察して比較すると、完全に分離不可能に見えるものの内に、二つの異なる類似を認める。この練習を重ねると、理性の区別によって図形を色から区別しはじめる。球の図形だけを考察しようとするとき、実際には両方の観念を形づくりつつ、黙って黒い大理石の球との類似に目を向ける。色だけを考察しようとするときは、白い立方体との類似に向ける。白い大理石の球の図形を色を考えずに考察せよという人は不可能を求めており、その意味は、色と図形を一緒に考察しながら、他の球との類似を視野に保て、ということである。
第2部 空間と時間の観念について
第1節 空間と時間の観念の無限分割可能性について 逆説めいて、人類の最初の最も偏見のない概念にそむく意見を、哲学者は喜んで迎える。通念から遠い地点に立てたことが、自分の学の優越を示すと見えるからである。驚嘆を誘う命題は心に深い満足を与え、その快に根拠がないと言われても手放されない。そこで哲学者は珍奇な意見を売り、弟子は進んで買う。無限分割可能性の学説は、その最も明白な実例である。空間と時間の観念について、私はこの学説の吟味から始める。
われわれの心は有限であり、無限の完全な想念をもてない。無限に分割できる量は無限個の部分をもたねばならず、部分の数を限るなら分割も限られる。それゆえ有限な量の観念は無限の分割に耐えず、区別と分離を重ねれば、単純でもはや割れない下位の観念に出会う。心が無限を扱えないと認めるなら、観念の分割に果てがあると認めたことになる。
想像力は最小のものに行き着く。砂粒の千分の一や万分の一を語るとき、私に区別されるのは数と比であり、そのものを心に描いた像は、どれも同じで、砂粒全体の像と変わらない。部分があれば区別でき、区別できれば分離できる。ところが砂粒の観念は二十にさえ割れない。
感官の印象も同様である。インクの点から遠ざかり、見えなくなる直前の印象は、割れない印象であったはずだ。細部が伝わらなくなるのは、光が届かないからでなく、印象が最小に縮んだからである。顕微鏡と望遠鏡は新たな光を作るのでなく、元から来る光を広げ、単純に見えた印象に部分を与える。
だから、心は微小さにも大きさにも限界をもち、それを越えれば十全な観念を作れないという通念は誤りである。完全に単純な観念と像がある以上、それより細かいものは想像力にも感官にもない。感官の欠陥は、多数の部分からなる大きなものを、単純で小さく見せることにある。ダニの千分の一ほどの虫の動物精気も、最小の原子を越えない観念として形づくれる。むしろ困難は、そうした虫について正しい概念を得るまで、想念を広げることにある。
第2節 空間と時間の無限分割可能性について 観念が対象を十全に表すかぎり、観念同士の関係、矛盾、一致は対象にそのまま移る。われわれの観念は延長の最小部分を十全に表し、分割を進めても、形づくれる最小の観念を下回らない。観念の比較で矛盾と見えるものは、対象でも矛盾であり、逃げ道はない。
無限に割れるものは無限個の部分をもつ。さもなければ割れない部分で分割が止まる。だから有限な延長が無限に割れるなら、そこに無限個の部分を想定しても矛盾しない。その想定が矛盾なら、延長は無限には割れない。そして後者の想定が不合理であることは、明晰な観念を考えれば容易に確かめられる。形づくれる最小の延長の観念をとると、これ以下はないから、示すものは延長の実在する性質である。これを一度、二度、三度と重ねれば複合観念は倍、三倍と大きくなる。重ねるのを止めれば増大も止まり、果てなく重ねれば無限の延長の観念になる。無限個の部分の観念と無限の延長の観念は同じ観念であり、有限な延長に無限個の部分はなく、どんな有限な延長も無限には割れない。
別の論拠がある。存在は単位にだけ属し、数が存在するのは単位が存在するからにすぎない。二十人が存在するのは一人ずつが存在するからで、それを否定すれば二十人も崩れる。形而上学者の通常の見解では延長はつねに数で、割れない量に帰着しないから、延長は存在できないことになる。延長の一定量は無限の分数をもつ単位だと答えても、同じ規則で二十人も、地球も宇宙も一つの単位になる。単位は心が集めた対象に貼る虚構の名にすぎず、実は数だから単独では存在できない。単独で存在し、すべての数の条件となる単位は、まったく割れないものでなければならない。
時間でも同じである。時間の部分は同時にはありえず、1737年が1738年に重ならないように、瞬間は他の瞬間の前か後にある。時間が存在するなら割れない瞬間からなる。そうでなければ、同時に並ぶ無限個の瞬間を認めることになり、明白な矛盾だからである。運動の本性により空間の無限分割可能性は時間のそれを含意するから、時間で不可能なら空間でも不可能である。
擁護者も、これらは難点であって答えられないと認めるだろう。だが論証を難点と呼んで力を避けるのは、きわめて不合理な習慣である。論拠が釣り合って権威を弱め合うのは蓋然性の話であり、論証は正しければ対立する難点を許さず、正しくなければ詭弁にすぎない。論証に釣り合いを語る者は、理性を言葉の遊びとするか、自分の力不足を白状している。
数学者は、反対側にも同じ強さの論拠があり、割れない点にも答えられない反論があると言う。詳しい検討の前に、短く決定的な理由で一括して退けておく。形而上学の格率に、心が明晰に思い描けるものは存在しうる、とある。金の山は思い描けるから存在しうる。谷のない山は思い描けないから不可能とされる。ところで私が延長の観念をもつことは確実で、その観念は部分に割れるが、無限個の部分からなるものではない。無限は有限な能力の理解を超えるからである。ここに割れない部分からなる延長の観念があり、矛盾を含まない以上、合致する延長は可能である。数学的点への論拠はスコラ的な屁理屈にすぎず、延長の無限分割可能性の論証も、点の不可能性を立証せねば成立しないから、すべて詭弁である。
第3節 空間と時間についてのわれわれの観念のその他の性質について 観念をめぐる争いを片づけるうえで、先に得た原理ほど幸いな発見はない。印象は観念に先立ち、想像力のどの観念もまず対応する印象に現れるという原理である。印象は疑いなく明晰だが、観念の多くは曖昧で、作った心自身が本性を言い当てられない。この原理を空間と時間の観念にあてる。
目を開けると多くの見える物体を知覚し、目を閉じてそれらの距離を思うと、延長の観念が得られる。観念はそれに類似する印象に由来するから、この観念に似た印象は、視覚の感覚か、そこから生じる内的な印象のどちらかである。内的な印象は情念、情動、欲望、嫌悪などで、空間の観念の原型だと言う人はいまい。根源的な印象を伝えるのは感官だけである。では感官は何を伝えるのか。
目の前の机を見るだけで延長の観念は足りる。だが感官が私にもたらすのは、並んだ色のついた点の印象しかない。目がほかに何か感じるなら示してほしい。示せないなら、延長の観念は色のついた点とその現れ方の写しである。
最初に延長を受け取った合成物の点が紫だったとしよう。観念を繰り返すたび、点の順序と、知るかぎり唯一のその色も再現する。のちに他の色とその合成を経験し、点の配置が似ていると見いだすと、色の差を捨て、一致する配置だけで抽象的な観念を作る。類似が触覚の印象と視覚の印象にまで及んでも、抽象的な観念は両方を表せる。抽象的な観念とは、ある観点から見た個別の観念にすぎず、一般的な語に結びついて多様な対象を含む。
時間の観念は、印象と観念、感覚の印象と反省の印象を含む、あらゆる種類の知覚の継起から来る。空間より多様なものを含みながら、想像力では個別的な観念で表される、抽象的な観念の一例である。
空間の観念は見る対象と触れる対象の並びから来るが、時間の観念は知覚の継起から来る。熟睡する人や一つの思考に没頭する人は時間を感じず、知覚が速く続けば同じ持続も長く、遅ければ短く映る。ある偉大な哲学者によれば、知覚の継起の速さには心の根源的な構成による限界があり、外的対象もそれ以上に思考を速めも遅らせもできない。燃える炭を速く回すと火の円に見え、回転の間隔は感じられない。知覚が運動と同じ速さでは継起できないからである。継起する知覚がなければ、対象が実際に継起しても時間の概念はない。だから時間は、不変の対象を伴っても単独では現れず、変化する対象が知覚されつつ継起することで見いだされる。
確かめる論拠がある。持続は、長短を思える以上、異なる部分からなり、それらは同時に存在しない。同時に存在することは延長の性質で、延長を持続から分ける。不変の対象は同時的な印象しか生まず、時間の観念を与えない。ゆえに時間の観念の源は変化する対象の継起であり、時間は最初に現れるとき継起から離れない。
次に問う。継起を何も思わずに時間を思えるか。印象で結びついた対象が観念で分離できるかは、それらが異なるかを見ればよい。異なれば区別でき、先の格率により分離できる。異ならなければ区別できず、分離もできない。時間と継起する知覚は後者にあたる。時間の観念は特定の印象から来るのではなく、印象が心に現れる仕方から生じる。笛の五つの音は時間の観念を与えるが、時間は聴覚に示される六つ目の印象ではなく、反省で心が内に見いだす六つ目でもない。五つの音は心に情動も、反省の新しい観念を生む情愛も起こさない。心が気づくのは音の現れる仕方だけである。心は何らかの対象の観念をもたねばならず、それなしに時間の想念には達しえない。時間は別個の印象として現れないから、ある仕方で並んだ、継起する観念、印象、対象にほかならない。
不変の対象にも持続が文字どおり当てはまると言う人々がいる。だが持続の観念が不変のものから来ない以上、それを不変のものに帰すのは適切でなく、虚構が要る。静止にまで時間を当て、持続を運動と静止の尺度とするのがどんな虚構かは、のちに考える。
もう一つの論拠は、これらの観念が割れない部分から複合されるという原理だけによる。区別できる観念は分離できるから、延長の複合観念をなす割れない観念の一つを取り出して単独に考える。それは延長の観念ではない。延長は部分をもつが、これは単純だからである。では無か。そうではありえない。実在する延長はこのような観念から複合され、非存在者から実在はできないからである。それなら割れない点の観念とは何か。この問いはほとんど立てられてこなかったので、私の答えは新しく見えるだろう。
空間の観念は視覚と触覚から来る。見えも触れもしないものが延長して現れることはない。延長として現れる複合的な印象は、視覚にも触覚にも割れない小さな印象、色と固性をもつ原子の印象からなる。これらを想像力で捉えるには、その色や触知性の観念が要り、それが取り除かれれば原子は思考から消える。点が色も触知性もなければ観念をもたらさず、それらからなる延長の観念もありえない。ゆえに空間の観念は、見えるものか触れるものとしての延長にしかない。時間の割れない瞬間も、実在する対象で満たされ、その継起が持続をなす。
第4節 反論への答え 空間と時間の体系は、緊密な二つの部分からなる。前半はこうである。心の能力は無限でないから、延長や持続の観念は有限個の、単純で割れない部分からなる。よって空間と時間がこの観念どおりに存在することは可能であり、可能なら、無限分割可能性は不可能で矛盾なのだから、現実にそう存在する。
後半はその帰結である。割れない部分はそれ自体では無で、実在する何かで満たされねば思い描けない。ゆえに空間と時間の観念は独立の観念でなく、対象が存在する仕方と順序の観念である。物質のない真空も、実在に変化のない時間も思い描けない。両部分は結びついているので、反論をまとめて検討する。
1. 諸学派はしばしば言う。数学的点は非存在者で、連接しても実在をなさないから、点の体系は不合理であり、延長は無限に割れねばならないと。だが無限分割可能性と点の非存在のあいだには中間がある。点を色か固性のあるものとすることである。両極端の不合理がこの中間の真理を示す。物理的点という別の中間は、反駁するまでもない。そう想定された実在の延長も異なる部分なしにはなく、対象が異なれば想像力はそれらを区別し分離できる。
2. 延長を数学的点からなるとする体系には貫入が必要になる、という反論がある。単純な原子は部分をもたないから、外的な部分で触れえず、全本質で触れることになり、それは貫入であって不可能であり、数学的点も不可能だというのである。
貫入の正しい観念を置いて答える。空隙のない二つの物体が結びつき、できた物体がどちらより大きくないとする。これは一方の消滅と他方の保存であって、どちらが消えたかは区別できない。同じ本性の二物体が同時に同所にあれば、心は差異を保てない。
貫入を、近づいて一方が消えることだと取るとして、色のついた点や触れる点が、別の点の接近で消える必然性があるか。むしろ結びつきからは、二つに区別できる複合的な対象が生じ、各々が隣り合いながら存在を保つ。想像を助けるため点を異なる色とせよ。青い点と赤い点は消えずに並ぶ。並べないなら、赤と青のどちらが消えるのか。結びついて、どんな新色になるのか。
これらの反論の源であり、答えを難しくするのは、微小な対象に対する想像力と感官の弱さである。インクの点が見えない距離から近づくと、まず間欠的に、やがて恒常的に見え、大きさでなく色の力が増す。
3. 数学からも分割不可能性への反論が出されたが、数学の定義はむしろ私の教説に一致する。面は長さと幅があり深さがなく、線は長さのみ、点は長さも幅も深さもないとされる。延長が割れない点からなる想定のほかには理解できない定義である。長さも幅も深さもないものが、ほかにどう存在するのか。私の仕事は、定義を守り、論証を退けることである。
この論拠には二つの答えがあるが不十分である。一つは、幾何学の面、線、点は心の観念にすぎず、定義に合う線を引く者はなく、観念そのものから不可能が論証できるから、自然に存在せず存在もできないという。
これほど矛盾した推論はない。明晰で区別された観念で思い描けるものは、存在の可能性を含む。その観念から不可能を立証しようとする者は、明晰な観念をもつがゆえにもたないと言うに等しい。矛盾するなら、そもそも思い描けなかったはずだ。
中間はない。割れない点の可能性を認めるか、観念そのものを否定するかである。もう一つの答えは観念の否定に立つ。幅のない長さは思い描けないが、分離なき抽象により、幅に目を向けず長さだけ考察できるという。二つの町をつなぐ道の長さを考え、幅を見過ごすのと同じで、長さは幅から切り離せないが、部分的な考察は妨げられないというのである。
最小に達しえないなら心は無限の能力が要るという既出の論拠にはこだわらず、新たな不合理を探す。面は立体の、線は面の、点は線の限界であり、これらの観念が割れないのでなければ限界を思い描けない。それらが無限に割れるとし、想像力に最後の面、線、点を押さえさせてみよ。観念はたちまち砕け、最後の部分をつかむとまた割れて逃れ、果てなく続いて終点に至らない。どの微粒子も、握ろうとする水銀のように逃げる。だが有限な量の観念を限るものはなければならず、限る観念自身は部分からなりえない。部分があれば終えるのはその最後の部分で、以下同様だからである。ゆえに面、線、点の観念は割れない。面は深さに、線は幅と深さに、点はどの次元にも割れない。
スコラ学者はこの力を感じ、自然は無限に割れる微粒子の間に物体の限りを定める数学的点を混ぜたと主張する者もいれば、屁理屈の山で力をかわそうとする者もいた。どちらも敵の優位を認めている。
定義がこうである以上、論証と呼ばれるものは成り立たない。定義に合う割れない点、線、面の観念があるなら存在は可能であり、なければ図形の限界は思い描けず、幾何学の論証もない。さらにこれらの論証は、微小な対象では不正確な観念と厳密には真でない格率に依っており、無限分割可能性ほどの原理を打ち立てる重みをもたない。幾何学は量の比を大まかな自由さで扱い、誤りは大きくない。絶対の完全さを目指さなければ誤らない。
数学者に問う。線や面が他に等しい、大きい、小さいとは何を意味するか。点が割れないとする者も、無限に割れる量とする者も窮する。前者は、点の数が等しければ等しいと最も正当に答えられる。だがこの基準は役に立たない。点は微小で入り混じり、心が数えられず、一インチと一フィート、一フィートと一エルのどちらの点が少ないかを、計数で決める者はいない。
無限に割れると考える者は、この答えを使えない。仮説では最も小さい図形にも最も大きい図形にも無限個の部分があり、無限の数は厳密には等しくも等しくなくもないからである。エルとヤードの違いはフィートの数に、フィートとヤードの違いはインチの数にあると言うかもしれないが、一方のインチと他方のインチが等しいと想定され、遡りを無限に進めて確かめるのは不可能だから、部分の列挙と別の基準が必要になる。
等しさは合同で定義され、重ねて全部分が接触すれば等しいとする人々もいる。だが等しさは関係であり、図形の性質でなく、心の比較から生じる。重ね合わせにあるなら、部分の区別された概念をもち接触を思い描くはずで、大きな部分の接触では図形は等しくならないから、その部分は思い描ける限りの微小さまで進められる。思い描ける最小の部分は数学的点だから、これは点の数の等しさと同じ基準であり、役に立たないとすでに決まった。別の方向を探さねばならない。
心は、微小な部分を数えず、一目で物体の比を決め、等しい、大きい、小さいと言える。ヤードとフィートの尺度を見て前者が長いことは、疑えない。だがこの決定はつねに誤りなしとは限らず、再検討で訂正され、並べたり共通の尺度を当てたりして誤りが見つかる。この訂正もさらに正されうるもので、道具と注意に応じた精度の段階がある。
心はこうした判断と訂正に慣れ、緩やかな比較と厳密な比較に由来する混合した等しさの概念を作る。だが満足しない。健全な理性は感官の捉えるよりはるかに微小な物体があると教え、誤った理性は無限に微小な物体があると言い張るので、われわれは誤りから守る道具も技術もないと知る。微小な部分の加除は現れにも測定にも識別できないと感じながら、それまで等しかった図形が加除後には等しくないと想像し、現れも測定も誤りなく正される想像上の基準を置く。等しさの観念が、並置や尺度で訂正された現れの観念である以上、道具と技術を超えた訂正の概念は虚構で、役に立たず理解もできない。だがこの虚構は自然である。心は始めた理由が消えた後も行為を続けるのが常だからである。時間でも、部分の比を決める正確な方法はないのに、尺度の訂正の積み重ねが、完全な等しさの暗黙の概念を与えてきた。音楽家は耳が繊細になるにつれ自分を訂正し、対象が尽きても同じ働きを続けて完全な三度や八度を思うが、基準の出所は言えない。画家は色彩について、機械工は運動について同じ虚構を作る。
曲線と直線も同様である。区別は感官に明白だが、正確な境界を示す定義は与えられない。線を引くときの点から点への順序は知られず、観察されるのは一つの現れだけである。点の体系に立っても未知の基準を遠く思うだけで、無限分割可能性に立てば全体的な現れに頼るほかない。それでも最初の現れは、慎重な考察や試行で修正できる。この修正と、理由が尽きた後も同じ作用を続ける心の働きから、完全な基準の漠然とした観念が、説明も理解もできないまま形づくられる。
数学者は直線を二点間の最短の道と述べて、正確に定義したつもりになる。だがそれは性質の発見であって定義でない。直線と聞けばすぐに特定の現れを思うのであり、直線は単独で理解されるが、この定義はより長い他の線との比較を要する。最も真っ直ぐな道は最短だという日常の格率も、直線の観念が最短の道の観念と別でないなら、最短の道は最短だと言うに等しい。
等しさ、等しくなさ、短さ、長さにも正確な観念がなく、漠然とした観念の上に正確な観念は築けない。平面も全体的な現れしか区別の手段がない。平面を直線の流れで表しても、面の観念は、円錐から楕円の観念が独立しているのと同様、この作り方から独立している。直線も不規則に流れれば平面と別の図形になるから、平行で同一平面上の二直線に沿って流れると想定せねばならず、これは循環である。
かくて幾何学の本質的な観念、等しさと等しくなさ、直線、平面は、通常の思い描き方では正確でも確定的でもない。われわれは現れから下す弱い判断に頼り、コンパスや尺度で正すが、それ以上の修正は無益か想像上のものである。全能の神が完全な図形を作るとしても無駄で、究極の基準が感官と想像力以外から来ない以上、それを超えた完全性は語れない。
これほど漠然とした観念で、数学者はどんな確かさをもつのか。最も通俗的な原理についてさえ、二直線が共通の線分をもたないことを、どう証明するのか。不合理で明晰な観念に反すると言われるなら答える。感知できる角で傾く二直線が共通の線分をもつと考えるのは不合理である。だが二十リーグで一インチの割合で近づく二線なら、接点で一つに合うと主張しても不合理は見えない。合流する先の線が、そんな小さな角の二線と同じ直線になれないと言うとき、あなたはどんな基準によるのか。直線に固有の順序で点をとらないからか。そうだとしても、それは直線の観念を作る基準ではないし、順序がいつ破れいつ保たれるかを決める確固さは、感官にも想像力にもない。直線の根源の基準とは、全体的な現れにすぎず、あらゆる修正を尽くしても、それに適合したまま直線を合流させうる。
幾何学が示す無限分割可能性の論証が、壮大な主張を支える論拠に通常認める力をもたないことが、これで分かる。量の観念が無限に割れない以上、量が割れることを、反対の観念を使って証明するほどあからさまな不合理はなく、その論拠は新たな不合理を伴い明白な矛盾を含む。幾何学のほかの推論が同意を命じるのに、この一点でだけ明証性を欠くのも、このゆえである。
接点の論拠を例にとる。数学者は、図形は粗い下書きで、推論の真の基礎である観念を伝える助けにすぎないと言う。それゆえ私は、円と直線の観念を正確に作り、接触を思い描くとき、数学的点で触れると思えるのか、ある空間にわたって合流すると想像せねばならないのかを問う。一点で触れると思えると肯定すれば、その観念が可能であり、ゆえに事物も可能だと認める。合流させねばならないと言えば、ある微小さを超えた幾何学の論証の誤りを認める。合流に反対する論証が彼にはあるからだ。すなわち、合流の観念が円の観念とも直線の観念とも両立しないと証明できながら、両者が分離できないと認めている。
第5節 同じ主題の続き 私の体系の第二の部分が真で、空間または延長の観念が、一定の順序に並んだ見える点または触れられる点の観念であるにすぎないなら、見えるものも触れられるものもない空間、すなわち真空の観念は形づくれないことになる。これに三つの反論が出る。まず、真空と充満をめぐる論争は幾世代も続いており、事物についての論争に根拠があるかはともかく、論争があること自体が観念について決定的で、人々が長く論駁し擁護してきた当のものの概念をもたなかったはずはない、というのである。
次に、この論拠が受け入れられないなら、真空の観念が実在する、少なくともありうることは、次の推論で立証できる、と言われる。可能な観念から必然的に帰結する観念は、すべて可能である。世界が現に充満していても、運動が奪われたと思い描くことは容易で、神の全能によって物質の一部が消滅し、他は静止したままだと思い描くことも認めざるをえない。区別できる観念は想像力で切り離せ、切り離せるものは別個に存在すると思い描けるからである。そこで問う。壁が動かないまま、部屋のなかの空気も微細な物質も消滅したとき、何を思い描くべきか。物質と延長は同じなので壁どうしが接する、と答える形而上学者がいる。だが南北の二つの壁は、東西の二つの壁の対向する端に触れているのに、どうして互いに接するのか。床と天井は、反対側に立つ四つの壁に隔てられたまま、どう出会うのか。位置を変えれば運動を想定したことになり、間に何かを思い描けば新たな創造を想定したことになる。静止と消滅に厳密に従うなら、帰結するのは部分の接触ではない別の何かであり、それが真空の観念だと結論される。
第三の反論は、真空の観念が可能なだけでなく必然的だと主張する。物体は他の物体に場所を明け渡すとき真空へ動かねばならないので、真空なしには運動は不可能だという。この反論は自然哲学に属するので、これ以上は論じない。
答えるには、ここに関わる観念の本性と起源から調べ直さなければならない。暗闇の観念は、何かを積極的に示す観念ではない。それは光、より適切には色をもつ見える対象の否定にすぎない。視力のある人も、光が完全に奪われると、生来の盲人がもつ知覚以外は受け取らず、その盲人は光も暗闇も観念としてもたない。また、人が空中で支えられ、見えない力に静かに運ばれているとしよう。彼は変わらない運動から延長の観念を受け取らず、手足を動かしても、感じるのは互いに継起する感覚で、時間の観念を与えうるが、延長の観念に必要な仕方では配置されていない。暗闇と運動は、見えるものも触れられるものも取り除いたとき、真空の観念を与えない。残る問いは、見えるものや触れられるものと組み合わさったとき、それらが真空の観念を伝えるかである。
視覚の対象は平面に描かれたように見え、遠さは感官より理性で発見される。目の前に手をかざして指を開くと、指のあいだは、別の見える対象を置いた場合と同じくらい、天空の青い色で隔てられている。そこで、視覚が真空の観念を伝えうるかを知るには、完全な暗闇のなかに光る物体が示され、その光が周囲の印象を与えないと想定しなければならない。触覚にも並行して、器官が間隔を置いて動いた後に別の触れられる対象に出会い、それを離れてまた別の対象に出会うことを繰り返すと想定する。問いは、この間隔から物体を欠いた延長の観念が得られないか、ということである。
暗闇に光る物体が二つだけ見えるとき、その距離の大小も増減も知覚できる。この距離は見えるものではないから、そこに真空、純粋な延長があり、感官にさえ明白だと考えられるかもしれない。しかし少し反省すれば、変わったのは二つの対象の現れだけで、あいだの距離は光の否定、すなわち暗闇のままだと分かる。この距離は部分も合成もなく、盲人や最も暗い夜の知覚と異なる知覚を引き起こさない。盲目と暗闇が延長の観念を与えない以上、この距離も与えない。距離を判断させる光線の角や目の運動の知覚も、それぞれ単純で分割できず、延長の観念を与えられない。触覚でも、空中で何にも出会わずに手足を動かす人と、触れられる対象を知覚して離れ、別の対象を知覚する人とで、違いは対象を知覚することだけで、運動の感覚は同じである。その感覚は単独で延長の観念を伝えないのだから、触れられる対象の印象が混じっても、感覚は変わらず伝えない。
それでも運動と暗闇は、そのような観念を形づくれるという誤った想像を生む。現実の延長、つまり見える対象や触れられる対象を合成したものと、三つの関係で結ばれているからである。完全な暗闇の二つの見える対象は、距離が見える対象で埋まっている場合と同様に感官へ働きかける。経験によって、そのように置かれた二つの物体は、感知できる衝撃も貫入もなしに、間に見える対象を受け入れうると分かり、見えず触れられない距離は、対象に何の変化もなく、見えて触れられる距離へ置き換えうる。さらに、熱、冷、光、引力などあらゆる性質は距離に比例して減少し、どちらの距離でもほとんど違いは見られない。
この関係は、二種類の距離の取り違えを説明する。二つの観念のあいだに密接な関係があるとき、心はそれらを取り違え、言説と推論で一方を他方の代用にする、という格率が立てられるからである。その原因を、私は脳の精気で説明する。心が好きな観念を呼び起こそうと、その観念の置かれた脳の領域へ精気を送り出す。だが精気はめったに一直線には進まず、少しそれて近接する痕跡に落ち込み、最初に見ようとした観念の代わりに、関係する別の観念を提示する。この変化にわれわれが気づかないことも多く、提示された観念を求めたものと同じように推論に使う。ただし、現象そのものと、私が割り当てる原因とは区別しなければならない。私の説明が妄想的でも、現象は実在しうる。一方が偽でも他方が偽とは限らないのに、そう引き出すのは非常に自然であり、これは私が説明しようとする原理の明白な例である。
類似、近接、因果性の三つのなかでは類似が、誤りをもっとも多く生む源泉である。類似する観念は、それを考える心の働きもほとんど同じなので、われわれは見分けられない。しかし因果性と近接も同じ影響を及ぼすことがある。人々は観念の代わりに言葉を用い、思考する代わりに語る。両者は密接に結びついていて、心が容易に取り違えるからである。延長の代わりに、見えも触れられもしない距離の観念を用いるのも同じで、第一の種類の距離が第二の種類に変換できる点で因果性が、感官への作用と性質の減少の仕方が似ている点で類似が、この誤りに共に働く。
この説明の後では、どの反論にも答えられる。真空についての頻繁な論争は、観念の実在性を立証しない。人は密接な関係のある別の観念を取り違えて自分を欺くことがきわめて多い。第二の反論についても、部屋のすべてが消滅し壁が不動のとき、部屋は、空気が感官の対象でない現在とほぼ同じに思い描かれる。残るのは、目では光と影の度合いによって発見される虚構の距離であり、触覚では運動の感覚から成る距離である。印象は自らに類似した観念しか生じさせない。二つの物体のあいだの物体は、消滅しても両側に変化を生じさせないので、再び創造されても変化をほとんど生じさせないと思い描くのは容易である。物体の運動も創造とほぼ同じ結果をもつから、想像力は満足し、運動に矛盾がないことが立証される。そのうえで経験が、そのように置かれた物体が間に物体を受け入れる能力をもつことを確信させる。
私の推論は対象が感官にどう働くかを述べるにとどまり、実在的な本性と作用を説明していない、と言われるだろう。この反論には罪を認める。作用の隠れた原因を説明することは、私の意図ではなかった。そうした企ては人間の知性には手の届かないものではないかと恐れる。私は、対象が感官に作用する仕方と、経験が教える限りでの対象相互の結合を知れば満足する。それは生活の指針として十分であり、知覚、すなわち印象と観念の本性と原因の説明だけを標榜する私の哲学にも十分である。
延長の主題は逆説で締めくくる。見えず触れられない距離、すなわち見えて触れられる距離になりうる能力を真空と呼ぶなら、延長と物質は同一でありながら真空は存在する。そう呼ばないなら、充満のなかでも運動は可能で、衝撃が果てしなく続くことも、円を描いて戻ることも、貫入もない。どう言い表すにせよ、実在的な延長の観念は、感官の対象で満たし、部分を見えるものまたは触れられるものと思い描くことなしにはもてない。
時間とは実在する対象の存在の仕方にすぎないという説にも、延長と同じ反論が向けられる。論争し推論することが観念をもつ十分な立証なら、変化する存在を伴わない時間の観念もわれわれにあることになる。しかしそのような観念をもたないのは確かである。それは感覚の印象から導かれるのか、反省の印象からか。示せないなら、もつと想像するあなたは誤っている。しかし、そのような印象を示せなくても、思い込む原因は指摘できる。心では知覚が絶え間なく継起し、そのため時間の観念はつねに心にある。動かない対象を五時に考察し、六時にも考察するとき、われわれは各瞬間が対象の変化で区別されているかのように、時間の観念を適用しやすい。対象はその間に変化を受けうると経験が示し、不変の、むしろ虚構の持続も、明らかな継起と同じく、性質を増減させる効果をもつ。この三つの関係から、われわれは変化も継起もない時間の観念を形づくれると想像する。
第6節 存在の観念と外的存在の観念について 存在の観念と外的存在の観念も、ここで説明しておく。意識しあるいは記憶する印象や観念は、種類を問わず存在するものとして思い描かれ、この意識から存在の最も完全な観念と確かさが導かれる。ここから明晰なジレンマが作れる。存在を帰さずには印象も観念も記憶しないのだから、存在の観念は、あらゆる知覚に結びついた別個の印象に由来するか、知覚の観念そのものであるか、のどちらかである。
すべての観念は類似した印象から生じるという原理から、どちらをとるかは疑いない。あらゆる印象と観念に伴う別個の印象はなく、分離できないほど結びついた二つの印象さえない。存在の観念は、思い描くものの観念とまったく同じであり、あるものを単に反省しても、存在するものとして反省しても、違いは生じない。反対する者は、存在者の観念の源となる別個の印象を示し、それがあらゆる知覚から切り離せないことも示さなければならないが、それは不可能である。
外的存在の観念も同様に説明される。心に現前するのは知覚、すなわち印象と観念だけで、外的な対象はそれらが引き起こす知覚によってのみ知られる。観念は以前に心に現前したものから導かれるから、知覚と種的に異なるものを思い描くことは、われわれにはできない。想像力を天空の彼方、宇宙の果てまで駆けさせてみよう。それでもわれわれは自分の外へ一歩も出ず、狭い範囲に現れた知覚以外の存在を思い描けない。これが想像力の宇宙である。外的対象が知覚とは種的に別のものとされるとき、われわれにできるのは、相対的な観念を形づくることまでである。一般には種的に別とは想定せず、別の関係や結合や持続を割り当てるだけである。
第3部 知識と蓋然性について
第1節 知識について 哲学的関係には、類似、同一性、時間と場所の関係、量または数における比、性質における度合い、反対、因果性の七種類がある。これらは二つの類に分かれる。一方は比較する観念のみに依存し、他方は観念に変化なしに変わりうる。三角形の観念から、三つの角が二直角に等しいという関係を発見でき、これは観念が同じであるあいだは変わらない。しかし二つの対象の近接と距離は、観念に変化なしに、場所が変わるだけで変わる。同一性と因果性も同様である。完全に類似する二つの対象は、数的に異なりうる。また、ある対象が別の対象を生む力能は、観念だけからは発見できない。原因と結果は、抽象的な推論からではなく、経験によって知られる関係である。
そこで、観念だけで決まり、知識と確実性の対象となるのは、類似、反対、性質における度合い、量または数における比の四つである。このうち三つは論証より直観に属する。類似はただちに目に、むしろ心に飛び込む。存在と非存在が反対であることを疑える者はいない。色、味、熱、冷の度合いは、差が大きければ一見して決められる。量または数の比も、差が非常に大きければ一目で優劣が分かる。等しさなどの正確な比は、より技巧的に進めなければならない。
幾何学は図形の比を定める技術で、感官や想像力の漠然とした判断よりずっと優れるが、完全な精密さには達しない。その第一原理は対象の全体の現れから取られているからである。推論を任意の複雑さまで進めて完全な正確さを保つ学問は、代数学と算術だけで、二つの数は、一方の単位一つ一つにつねに他方の単位が対応するとき等しい。それでも幾何学の基礎的原理は最も容易で欺きの少ない現れに依拠するので、その帰結にそれだけでは得られない正確さを与える。千角形の内角の和が1996直角だと目は決められないが、与えられた二点のあいだに引ける直線は一本にかぎると目が判断しても、誤りが重大な結果を招くことはない。
論証的推論について、第二の考察を述べる。数学者は、自分たちの観念が洗練された精神的な本性をもち、魂の高次の能力による知的な観照でのみ把握されると主張し、二等辺でも不等辺でもない三角形の観念の説明にもこれを用いる。哲学者がこれを好むのは、不合理を覆い隠し、不明瞭な観念に訴えて明晰な観念の決定を拒めるからである。しかし、われわれのすべての観念は印象から写されたものだという原理を思い起こせば、この策略は打ち壊せる。すべての印象は明晰で精確なのだから、写された観念も同じ本性であり、こちらの落ち度がない限り、暗く入り組んだものを含まない。観念は印象に比べて弱く薄れているだけで、大きな神秘を含意しない。弱さで不明瞭になるなら、観念を安定して精確に保つのがわれわれの務めである。
第2節 蓋然性について、また原因と結果の観念について 四つの関係についての観察は以上である。観念が変わらなくても不在にも現前にもなりうる残りの三つ、同一性、時間と場所における位置関係、因果性は、もっと詳しく説明しなければならない。推論は比較と関係の発見に尽きる。二つの対象が関係ごと感官に現れているとき、これは推論ではなく知覚で、心は受動的に印象を受け入れるだけである。ある対象の存在や作用から、別の存在や作用がその後に続き、あるいは先に起きたという確かさを与える結合をつくるのは、因果性だけである。他の二つの関係は、因果性に関わる場合にだけ推論に用いられる。対象が感官から何度か離れて再び現れても個体として同じと想定するのも、原因と結果の結合に基づく。感官を超えて追跡でき、見も感じもしない存在や対象を知らせるのは、因果性だけである。知性の話題を終える前に、この関係を十分に解明しておこう。
推論の対象である観念は、それが生じる根源的な印象まで遡って検討しなければ完全に理解できない。原因と結果と呼ばれる二つの対象を、あらゆる側面から見回そう。その印象は、対象の個々の性質のうちには求められない。どんな性質を選んでも、それがなくても原因あるいは結果と呼ばれる対象が見つかり、すべての存在に属する性質は一つもないからである。
したがって、因果性の観念は、対象のあいだの何らかの関係に由来するはずである。まず見いだすのは、原因と結果とみなされる対象は近接していること、何ものも自らの存在する時間や場所から離れては働きえないことである。離れた対象どうしが産出し合うように見えても、調べると、たいてい近接する原因の連鎖で結ばれている。近接は因果性に本質的だとみなしてよい。
第二の関係は、原因が結果に時間上先立つことである。原因と結果が同時的でありうると主張する人々がいるが、大部分の事例で経験はこの意見に反する。さらに、完全な状態で一定の時間存在しながら別のものを生まない対象は、それを生む唯一の原因ではない、という格率がある。どの原因も結果と同時的でありうるなら、すべての原因がそうでなければならない。働きを遅らせる原因は、働きえた時点で自らを発揮していないから、適切な原因ではないのである。すると原因の継起は破壊され、時間は消滅し、すべての対象が共存してしまう。
近接と継起が本質的と分かっても、単一の事例を考察するかぎり、私はそれ以上先へ進めない。二つの物体がぶつかるとき、一方の運動は他方の運動の原因とみなされる。しかし見いだされるのは、一方が他方に近づくこと、一方の運動が他方に先立つが、感知できる隔たりはないことだけである。原因を、別のものを産出するもの、と定義しても、産出を因果性と別に示せなければ、同義の語を与える循環にすぎない。
それでは、近接と継起で因果性の完全な観念が得られるのか。決してそうではない。ある対象は、原因とみなされないまま、別の対象に近接し先行しうる。考えるべき必然的結合があり、その関係は他の二つよりはるかに重要である。対象の既知の性質に目を向けても、因果の関係はそれらに依存せず、見いだせるのは近接と継起だけで、これは不完全と分かっている。絶望のあまり、先立つ類似した印象のない観念をもつと言い張るなら、軽率さと移り気の強い証拠となる。反対の原理はすでに堅固に確立されているからである。
したがってわれわれは、隠れた何かを探して期待した場所に見つからず、近くの野原をくまなく探し回る人々のように進まなければならない。必然的結合の直接の考察を離れ、手がかりを与えるかもしれない問題を二つ検討する。まず、存在し始めるものがすべて原因をもつはずだと、われわれが必然的に言い切るのはなぜか。次に、特定の原因からは特定の結果が必ず生じると結論するのはなぜか、また、一方から他方への推理とそれに伴う信念は、どんな本性のものか。なお、原因と結果の観念は感覚の印象からも反省の印象からも導かれるが、簡潔さのために私はふつう後者のみを挙げ、述べることは前者にも及ぶとする。
第3節 原因がつねに必要である理由について 原因の必要性の問いから始める。哲学の格率に、存在し始めるものには必ず存在の原因があるというものがあり、立証されることなく当然のこととされ、直観に基づくと想定される。しかし、知識の観念に照らして吟味すると、そこに直観的確実性の標識はない。確実性は、観念の比較と、観念が同じである限り不変な関係の発見から生じる。その関係は類似、量と数における比、性質の度合い、反対であるが、この命題にそのどれも含意されていない。したがってこの命題は、直観が与える確実性をもたない。
この命題は論証的にも確実でない。原因の必要性を論証するには、産出する原理を欠いたまま何かが存在し始めることの不可能性を示さねばならないが、それは示せない。すべての別個の観念は分離可能であり、原因と結果の観念は別個なので、ある対象が今は存在せず次の瞬間に存在すると、原因の観念を結びつけずに思い描くのは容易である。この分離は矛盾も不合理も含まないから、観念だけに基づくどんな推論でも反駁できず、原因の必要性は論証できない。
原因が必要だとする論証は、どれも誤りである。ある哲学者によれば、時間と場所の点はすべて等しく、一つの時間と場所に固有で存在を決定する原因がなければ、存在は永遠に未決のままで、対象は存在し始められない。これに私は問う。時間と場所が原因なしに定まると考えることは、存在がそう定まると考えるより難しいのか。原因を取り除くことが一方で不合理なら他方でもそうでなければならず、一方が不合理だと分かっても、それは他方の不合理の立証にならない。
第二の論拠は、何かが原因を欠くなら自己を産出する、つまり存在以前に存在することになり、それは不可能だ、というものである。この推論は結論を導かない。原因を否定しながら原因の必要を認めていると想定し、その原因を対象自身とするから矛盾が生じる。しかし、何かが原因なしに生じると言うことは、それを自身の原因とすることではない。原因をすべて排除すれば、対象自身も排除されている。一方から他方が帰結するとするのは、原因の必要という問題の点を想定している。
第三の論拠も同じ事情にある。原因なしに産出されるものは、無によって産出される。しかし無は、二直角に等しいことができないのと同じく、原因であることもできず、これは同じ直観で知覚されるので、すべての対象に存在の現実の原因があるというのである。原因をすべて除くとき、われわれは無も対象自身も原因だとは想定していない。もしすべてに原因が必要なら、別の原因を除いた後は、対象自身か無を原因として受け入れざるをえない。だが、すべてに原因が必要かどうかこそ問題の点であり、当然のこととされてはならない。
すべての結果は原因を含意している、と言う人々はさらに取るに足りない。結果は相関的な語で、原因がその相関語だから、原因を前提する。しかしこれは、存在するものすべてに先立つ原因があることまでは立証しない。夫には必ず妻がいても、男がみな結婚しているとは言えないのと同じである。問いは、存在し始める対象が、その存在を原因に負わざるをえないかどうかである。
この意見が知識から導かれないなら、経験から生じなければならない。次の問いは、経験がこの原理をどう生じさせるのかだが、これを、特定の原因が特定の結果を必然的にもたなければならないとなぜ結論するのか、という問いに含めて扱うほうが都合よいので、これを以後の探究の主題にする。
第4節 原因と結果についてのわれわれの推論の構成部分について 原因や結果を推論するとき、心は見たり記憶したりしている対象の先へ進む。だが、印象か、印象に等しい記憶の観念を混ぜずに、観念だけで推論することはできない。原因から結果を推理するには、まずその原因の存在を確かめねばならない。道は二つで、記憶や感官でじかに知覚するか、別の原因から推理するかである。その別の原因も同じ手順で確かめ、見たり記憶したりしている何かに行き着く。推理は際限なく続けられず、それを止めるのは記憶か感官の印象だけである。
歴史を例にとる。カエサルが三月十五日に元老院で殺されたと信じるのは、歴史家たちの証言が一致するからである。その証言も別の証言から導かれ、目撃者に達する。この連鎖の根は、いま見られ記憶されている字形にある。記憶や感官の権威がなければ、環は互いにぶら下がるだけで、固定された一端がなく、信念も明証性もない。想定に基づく推論もすべて同じで、現在の印象も実在への信念もない。
過去の結論をもとの印象に頼らず推論できても、反論にはならない。印象が忘れられても、それが生んだ確信は残り、推論がもとは印象から導かれることも変わらない。
第5節 感官と記憶の印象について 因果性にもとづく推論の材料は異質である。記憶や感官の印象と、その印象の対象の原因または結果である存在の観念との、両方から成る。説明すべきは三つある。根源的な印象、結合した観念への移行、その観念の本性である。
感官の印象の究極の原因が、対象にあるのか、心の創造的な力能にあるのか、創り手にあるのかを、人間の理性は決められない。それは目下の目的に関わらない。知覚が真であれ偽であれ、その整合性から推理は引ける。
記憶を想像力から分ける特徴は、単純な観念にはない。どちらも単純な観念を印象から借りるからである。複合的な観念の配列にもない。記憶は根源的な順序を保ち、想像力は好きに置き換えるが、過去の印象を呼び戻して配列を突き合わせることはできないから、見分けには使えない。残るのは、記憶の優れた力と生気である。想像力で過去の冒険の場面を作っても、その観念が弱く不明瞭でなければ、記憶と区別する手だてはない。
情動を描く画家は、同じ情動に駆られた人を観察しておく。観察が新しいほど観念は明晰で、時を置くと衰える。記憶の観念が弱まると、想像力から来たのか記憶から来たのか決めかねる。逆に、想像力の観念が記憶の観念として通用するほどの力と生気を得ることもある。嘘つきは嘘を繰り返すうちに、それを記憶し信じるに至る。習慣が心に自然と同じ影響を及ぼし、観念を同じ力で刻むのである。
こうして、記憶と感官に伴う信念は、両者の提示する知覚の生気にほかならず、その生気だけが両者を想像力から区別する。信じるとは、感官では直接の印象を、記憶ではその反復を感じることである。最初の判断を成り立たせ、原因と結果をたどる推論の土台を据えるのは、知覚の力と生き生きとした性格のみである。
第6節 印象から観念への推理について 原因から結果への推理は、対象を見渡すことや、一方が他方に依存する本質を見抜くことから出てくるのではない。対象をそれ自体で考察するかぎり、他の対象の存在を含意する対象はない。含意するなら推理は知識に等しく、反対を思い描くことが矛盾になるだろう。だが別個の観念はどれも分離可能であり、そうはならない。印象から観念へ移るとき、われわれはその観念を切り離して、別の観念を置くこともできたのである。
したがって、存在から存在への推理は経験によってのみ可能である。ある種類の対象が何度もあり、別の種類の対象がつねにそれに近接と継起の規則的な順序で伴ったことを、われわれは記憶している。炎を見て熱を感じたことを記憶し、その恒常的連接を思い起こして、一方を原因、他方を結果と呼び、一方から他方を推理する。連接を知った事例では両方が知覚されていた。推論の場面で知覚されているのは一方だけで、他方は過去の経験で補われる。
まったく別の主題に専念していたときに、われわれは新しい関係に気づいた。恒常的連接である。近接と継起だけでは、複数の事例で保たれていると知覚しないかぎり、原因と結果とは言えない。この関係の直接の考察をやめたのは、その本質的な部分である必然的結合の本性を見つけるためであった。この手段で、最終の目的に達する望みがある。
ただ、恒常的連接は道のりをほとんど進めないように見える。似た対象が似た関係に置かれてきた、という以上を含まないからである。一つの対象から学べないことは、同種の百の対象からも学べないと思われ、印象を無限に反復しても、必然的結合の観念のような新しい根源的な観念は生じない。それでもあまりに早く絶望するのは愚かなので、推理と、印象から観念へ移る仕方を調べる。おそらくそのうえで、推理は必然的結合に拠るのではなく、必然的結合のほうが推理に依存する、と分かるだろう。
印象から原因または結果の観念への移行は、過去の経験と恒常的連接の想起に基づく。問いは、経験が観念を生むのは知性によってか想像力によってか、またこの移行を決めるのは理性なのか、知覚の連合と関係なのかである。理性が決めるなら、経験していない事例は経験した事例に似ており、自然の経過は一様であるという原理に基づくはずである。そこで、この原理を支えうる論拠を、知識と蓋然性の両方について検討する。
まず、論証的な論拠はありえない。自然の経過の変化を思い描けるから、変化は絶対に不可能ではない。明晰な観念を形づくれることは、可能性の否定できない論拠である。
蓋然性は、対象の関係だけを発見するので、印象と観念の両方に基づく。印象がなければ結論は妄想的になり、観念がなければ、心の作用は推論ではなく感覚になる。だから蓋然的推論には、見られ記憶されている何かから、見られも記憶もされていない何かを推理する必要がある。
記憶と感官を超えて導けるのは、原因と結果の関係だけである。その観念は経験から来る。経験は対象の恒常的連接を知らせ、一方に類似する対象が印象に現前すれば、われわれは通常の随伴物に似たものが存在すると推定する。だとすれば、蓋然性の土台は、経験した対象と経験していない対象が似ているという推定である。この推定が蓋然性から生じることはありえない。一つの原理が別の原理の原因であり、同時に結果でもあることはできない。
これを避けて、堅固な推論があると主張する人もいるだろう。こう言われるはずである。連接した対象はつねに別の対象を産出してきた。産出には力能が要り、力能は結果を含意する。だから通常の随伴物の存在を結論する基礎がある、というのである。過去の産出が含意するのは力能で、その力能が含意するのは新たな産出だが、その新たな産出こそ、力能と過去の産出から推理しようとしているものである。
この推論の弱さは、後で述べる力能の観念を先取りすれば示しやすいが、そうした助けなしに主張を維持する。
産出が力能を含意することは、しばらく認めよう。だが、力能は原因の感覚できる性質のうちになく、現前するのは感覚できる性質だけである。そこで問う。他の事例でそれらの性質が現れるだけで、同じ力能が存在すると、なぜ推定するのか。過去の経験は、せいぜい、そのときその対象が力能を備えていたことしか証明せず、同じ力能が存続することも、似た力能が似た性質と結合していることも証明しない。似た対象は似た力能を備えるという経験があると言うなら、その経験から過去の事例を超えて結論するのはなぜかと、問いを新たにする。答えるたびに同種の問いが生じ、限りなく続く。先の推論に正当な基礎はなかった。
理性は原因と結果の究極の結合を発見できないだけでなく、恒常的連接を知った後でさえ、経験を観察した事例の外へ拡張すべき理由を示せない。経験した対象と、観察の及ばない対象のあいだに類似がなければならないとわれわれは想定するが、それを証明することはできない。
理由が決めないのに移行させる関係がある。心が理由もなく、つねに一様に移行する場合には、これらの関係に動かされている、と一般規則にしてよい。いまがまさにそうである。理性は、連接を観察しても、対象の結合を示せない。だから移行を決めるのは理性でなく、観念を想像力のなかで結びつける原理である。観念が想像力のなかで結びつかなければ、推理も事実への信念もありえない。推理はひとえに観念の結びつきに依存する。
その結びつきの原理を、私は類似、近接、因果性の三つに還元し、どの対象の観念や印象も、これらで結ばれた別の対象の観念を自然に導くと主張した。これらは誤りえない原因でも唯一の原因でもない。注意を一つの対象に固定する人もいるし、思考は天から地へ跳躍することもある。それでも、観念を連合させる一般的原理は、この三つだけだと私は主張する。
一見これらと別に見えて、同じ起源に依存する結びつきもある。ある種類の個体が別の種類とつねに結びついていると経験したとき、新しい個体が現れると、思考は通常の随伴物へ運ばれる。語がそうである。語を聞けば、過去の経験を反省するまでもなく、想像力が一瞬の遅れもなく対応する観念へ移る。
この原理は、原因と結果の観念のあいだの原理と同じであり、推論の本質的な部分である。原因と結果の概念は、つねに連接し、分離できなかった対象の概念にほかならない。連接の理由は見抜けず、事実を観察して、対象が想像力のなかで結びつくのを見いだすだけである。一方の印象が現前すれば、通常の随伴物の観念をただちに形づくる。したがって、定義の一部として、意見あるいは信念とは、現前する印象と関係し連合した観念である、と置いてよい。
近接、継起、恒常的連接を含意するかぎりで、因果性は哲学的関係である。だが、われわれが因果性について推論できるのは、それが観念のあいだに結びつきを生む自然的関係であるかぎりにおいてである。
第7節 観念あるいは信念の本性について 対象の観念は信念の本質的な部分だが、全体ではない。信じていないことも思い描くからである。因果の推論は存在に関する結論で終わるが、存在の観念は対象の観念と別のものではなく、存在するものとして思い描いても何も付け加わらない。神は存在すると断言するとき、示された存在者の観念を形づくるだけである。私はさらに、存在の信念もまた観念に新しい観念を結びつけないと主張する。神を考え、存在するものとして考え、存在すると信じても、観念は増えも減りもしない。それでも想念と信念には大きな違いがあり、その違いは観念の構成にはなく、思い描く仕方にあるはずである。
私のそばの人が、カエサルは寝床で死んだとか、銀は鉛より融けやすいとか、水銀は金より重いとか言うとする。私は信じないが、同じ観念をすべて形づくる。では、信じることと信じないことの違いはどこにあるのか。直観や論証で立証される命題なら、同意する人は必然的に決定されていて、答えは容易である。しかし事実に関する推論では、想像力は問いの両側を自由に思い描ける。それでも問いは残る。
相手は別の仕方で思い描くのだと答えても、真理の一部しか言っていない。両側を思い描くことは認められているが、信じられるのは一方だけだから、信念が同意する想念に違いをもたらす。観念は百通りに結合し変化させられるが、その一つを固定する原理が現れるまで、意見はない。この原理は観念に何も付け加えないのだから、思い描く仕方を変えるだけである。
心のすべての知覚は印象と観念に分かれ、力と生気の度合いだけで区別される。観念は印象から写され、あらゆる部分で印象を表す。観念を変えようとしても、できるのは力と生気の増減だけで、ほかを変えれば別の対象や印象を表すことになる。色合いが、ほかを変えずに明るさの度合いだけを変えるのと同じである。信念は思い描く仕方を変えるだけだから、観念に付加的な力と生気を与えるにとどまる。したがって、信念または意見は、生き生きとした観念で、現前する印象に関係づけられたもの、と定義するのが最も正確である。
ここで、諸学派で教え込まれた誤りに触れる。知性の作用は想念、判断、推論に分けられ、判断は異なる観念の結合、推論は他の観念の介在による結合と定義される。だが判断が二つの観念の結合だというのは偽で、神は存在するという命題でも、存在の観念は対象の観念と結合される別個の観念ではない。推論も、三つ目の観念を介さず、二つの観念だけで原因から結果へ直接に進める。三つの作用は、対象を思い描く特定の仕方にすぎず、唯一の違いは想念に信念が結びつくときに生じる。私の仮説では、信念とは任意の観念の強く安定した想念で、直接の印象にある程度近づくものである。
この結論へ導く論拠を整理する。推理の基礎として、記憶か感官に現前する対象が必要である。理性は一方の存在が他方の存在を含意すると納得させられないので、一方の印象から他方の観念への移行は、習慣または連合の原理による。信念は観念を形づくる特定の仕方であり、観念は力と生気の度合いでしか変わらない。したがって信念は、現前する印象への関係から生まれた生き生きとした観念である。
この定義は、人々の感じと経験にも合う。同意する観念は、空中楼閣を築く人の空想より強く、確固とし、鮮明である。一冊の本を、一人は物語として、もう一人は真実の歴史として読めば、二人は同じ観念を同じ順序で受け取る。違いは、後者のほうが出来事をより生き生きと思い描くことにある。登場人物の関心事に入り込み、その顔つきや物腰まで思い浮かべる。著者を信じない前者の想念は弱くぼんやりしている。
第8節 信念の原因について 信念の本性は、生き生きとした観念が現前する印象に関係づけられていることだ、と説明したので、次に、信念を導く原理、すなわち何が観念に生気を与えるかを検討しよう。
人間本性の学の格率として、私は次を確立したい。印象が現前すると、それは心を関係づけられた観念へ運ぶばかりか、自分の力と生気の一部をその観念に分け与える。心の作用は、精気の高まりや注意の固定といった心の状態に依存する。思考を活気づける対象が示されれば、その状態の続くあいだ、作用は強く鮮明になる。新しい対象は精気に新しい向きを与えて状態を変えるが、関係づけられた対象のあいだを気づかれずに移るなら、状態は長く続く。だから、心は印象に活気づけられたまま、変化にほとんど気づかず、得た力と生気のすべてで関係づけられた観念を思い描く。
これを立証するのに、私は主として経験に頼る。最初の実験はこうである。不在の友人の絵が現れると、彼の観念は類似によって活気づけられ、喜びも悲しみも新たな力を得る。関係と現前する印象が協働している。絵が彼に似ていなければ、思考を彼に運びさえしない。絵も人物も不在なら、移行で観念はむしろ弱まる。絵が目の前にあれば眺めて喜ぶが、取り除かれれば、ぼんやりした像を介するより彼を直接考えることを選ぶ。
ローマカトリックの儀式も同種の実験である。信者は、外的な動作や姿勢が信心を活気づけ、遠い非物質的な対象だけでは信心が衰えると言う。感覚できる象徴と像が対象をいっそう現前させ、想像力に大きな影響を及ぼす、というのである。観念を活気づける類似の効果はありふれており、どの場合にも類似と現前する印象が協働している。
近接についての実験もある。距離は観念の力を弱め、近づけばまだ感官に現れなくても、印象に似た影響が及ぶ。二百リーグ隔たっているときに比べ、家から数マイルのところでは、家に関わるものは私をいっそう強く動かす。遠くで友人の近隣を反省しても、直接の印象を欠くので、優れた生気は得られない。
因果性にも同じ影響がある。迷信深い人々が聖人の遺物を好むのは、象徴や像が求められるのと同じ理由で、模範的な生涯の強い想念を得るためである。最良の遺物は聖人の手仕事で、衣服や家具が尊ばれるのも、聖人が使ったからである。それらは不完全な結果として、聖人と短い連鎖で結びつく。因果性を伴う現前する印象が、観念を活気づけ、信念を生み出すことが、これで明らかである。
しかし、ほかの論拠を求める必要はない。原因と結果からの推論というこの事例だけで足りるからである。われわれが信じる事実には観念があり、その観念は現前する印象への関係からのみ生じ、信念は観念の思い描き方を強めるだけである。この作用に入るのは、現前する印象、生き生きとした観念、想像力における両者の連合だけで、誤りの疑いはありえない。
これを自然哲学の問題として、経験と観察で決めよう。信念は内的な現象であり、現前する対象と推理される対象の特有の力能は知られていないから、信念の産出に関与できない。観念と信念の真の原因は現前する印象である。そこで、印象がこの並外れた結果を生む性質を、実験で探る。
まず、現前する印象は、現在の瞬間に限られた単一の知覚としては、この結果をもたない。初めて現れたとき結論を引き出せない印象が、通常の帰結を経験した後には信念の基礎になる。過去にその印象がつねに他の印象と連接していなければならない。
次に、この信念は、理性や想像力の新たな作用なしに、直接に生じる。新しい推論なしに過去の反復から生じるものを習慣と呼ぶのだから、現前する印象に続く信念は、もっぱら習慣から導かれる。
三つ目に、最初の印象を観念に変える。すると習慣的な移行は残るが、信念も確信もない。したがって現前する印象は不可欠である。印象と観念が力と生気の度合いだけで違うことと合わせて、全体として、現前する印象との関係から生まれる、観念のいっそう強烈で鮮明な想念が信念だと私は結論する。
こうして、蓋然的な推論は感覚の一種にすぎない。趣味と感情に従うのは詩と音楽だけでなく、哲学もそうである。ある原理を確信するのは、その観念が私をいっそう強く打つからにほかならない。一組の論拠を別のものより好むのも、影響の優劣についての自分の感じによる。対象のあいだに発見できる結合はなく、ある対象の現れから他の存在を推理するのは、想像力に作用する習慣による。
過去の経験は、気づかれないほど感知できない仕方で作用する。旅の途中で川に行き当たった人は、先へ進んだ帰結を予見する。だが、水が身体に及ぼす結果を、過去の事例を思い出して発見するわけではない。沈むことの観念は水の観念と、窒息の観念は沈むことの観念と緊密に結びついていて、反省する前に習慣が作用する。移行は経験から生じ、観念のあいだの第一次の結合から生じない。だから経験は、考えられることなく、隠れた作用によって信念を生む。経験していない事例は経験した事例に似ているというあの原理を、推論で確信する口実も、これで失われる。
重力や衝撃のような一様な連接では、心は過去の経験を明示的に顧みない。稀な連合では、反省が習慣と移行を助けることがある。場合によっては、反省が習慣なしに信念を生み、より正確には、間接的で人為的な仕方で習慣を生む。ただ一度の実験でも、余計な事情を除けば原因の知識に達する。
習慣はただ一つの事例では獲得できないから、この場合の信念は習慣の結果ではないと思われるかもしれない。だが、似た状況の似た対象はつねに似た結果を生むという原理を納得させる、何百万もの実験をわれわれはもっている。この習慣的な原理のもとに、一度の実験の結合も包摂される。あらゆる場合に、われわれは経験を、明示的にも暗黙にも、経験のない事例へ移し替えている。
最後に、心の作用を正確に語るのは難しい。通常の言語は、よく似たものを同じ語で呼ぶからである。たとえば、信念は現前する印象から導かれた強く生き生きとした観念だという私の主張には、こういう反論がありうる。対応する印象を忘れた観念から、そのような印象があったと結論でき、その結論にも信念が伴う。この信念の力と生気はどこから来るのか。私は、現前する観念からだと答える。この観念は不在の対象を表すものとしてではなく、心が親密に意識している、心のなかの実在的な知覚として扱われる。だから、関係づけられたものに、確固さ、堅固さ、力、生気を与える。観念は、当面の目的に関して、印象の位置を占める。
同じ原理から見れば、観念を想起すること、すなわち観念の観念が、想像力のとりとめのない想念より力と生気をもつのも不思議ではない。過去の思考を考えるとき、われわれは対象だけでなく、思索における心の作用、定義できないがだれもが理解している何かをも思い描く。記憶がこれを過去のものとして提示すれば、その観念は想起のない場合より確固としうる。これを理解すれば、印象の観念と観念の観念をどう形づくり、それらの存在をどう信じるかも分かるだろう。
第9節 ほかの関係とほかの習慣の結果について 先の論拠で安んじてはならない。新しい仮説を受け入れるのに慎重であることは、哲学者にふさわしく、真理の吟味にも欠かせない。だから私は、この原理を支えうる別の観点を探し、推論の邪魔になる反論をあらかじめ取り除く。
私は、因果性のほかに類似と近接も観念を連合させる原理であり、結ばれた対象の一方が記憶や感官に現れれば、心は連合と現前する印象の合わさった働きで、他方をより強く思い描くと述べてきた。これは因果的判断の説明を類比で支えるためだったが、そのまま反論にもなる。三つの関係が同じ原理から出て、観念を強める結果も同じであり、信念が観念をより強く鮮明に思い描くことにほかならないなら、類似や近接だけでも信念が生じるはずである。しかし経験は、信念が因果性からしか生まれず、この関係で結ばれた対象の間でしか推理が成り立たないことを教える。ならば、この困難に導いた推論のどこかに誤りがある。
答えはこうである。記憶に現れるものは、直接の印象と同じ生気で心を打つから、想像力の虚構と容易に見分けられる。この記憶の印象と観念から体系を作り、現前する印象に連なるすべてを、われわれは実在と呼ぶ。だが心はそこで止まらず、習慣や因果の関係でこの体系に連なる別の体系に進み、そこでも特定の観念を見るよう決定されるのを感じて、これにも実在の名を与える。前者は記憶と感官が扱い、後者は判断が扱う。
後者の体系は、時間と場所に隔てられて感官や記憶に届かないものを、われわれに近づける。旅行者や歴史家から受け取った印象を結びつけて、地球上のある場所にローマを置き、その政府、宗教、風習を思い、創建から革命、盛衰までを振り返る。私が信じるこれらも観念にすぎないが、習慣と因果から来る力と定まった秩序によって、ただの想像の産物から区別される。
近接と類似も、実在の体系の中では因果の関係を助ける。しかしそれにとどまらず、虚構された対象の間でも観念を活気づける。詩人は、エリュシオンの野を描くとき、美しい牧場や庭を眺めたほうがよく描けるだろう。とはいえ、これらの関係が単独で働くときは弱く不確かであり、因果の関係が実在の確信に必要であるように、この確信が他の関係に力を与えるのに必要である。意のままに虚構した対象を印象に結びつけても効果は小さく、同じ印象が戻ったときに同じ対象を同じ関係に置く理由もない。心は自分の作用のゆるさを感じ、複数の事例を比べて、虚構された類似や近接の束の間の閃きは当てにしないという規則を立てる。
因果の関係は逆である。対象は固定し、記憶の印象は明確な観念を伴って想像力に確かな位置を占め、思考は迷わずその印象からその観念へ移る。
私はこの反論を取り除くだけでなく、そこから説の証拠を引き出したい。近接と類似は因果性に遠く及ばないが、意見の確信も想念の生気も増す。新しい事例でそれが示せれば、信念が現前する印象に関係づけられた生き生きとした観念だという論拠が強まる。
近接から見る。メッカや聖地を見た巡礼者は、イスラム教徒でもキリスト教徒でも、見ない者より信仰が篤い。紅海、砂漠、エルサレム、ガリラヤの像を生き生きと思い出せる人は、モーセや福音書記者が語る奇跡を疑えない。場所の観念が近接する事実の観念へ容易に移り、生気を伝えて信念を増すからである。これらの野や川の想起は、俗人には新しい論拠と同じ働きをする。
類似でも同じである。現前する対象から不在の原因や結果に至る推理は、対象自体の性質からは得られず、経験なしには決められない。それでも一部の哲学者は、運動の伝達に明白な原因があり、一つの物体の衝撃から別の物体の運動を、過去の観察なしに推理できると考えた。しかしそうなら論証が成り立ち、反対は絶対に不可能のはずである。ところが、当たった物体が止まる、来た道を戻る、消える、円や楕円を描くといった結果は、どれも矛盾なく思い描ける。運動の伝達だけが自然に見えるのは、原因と結果の類似という関係が経験と結びつき、両者を不可分に思わせるからである。類似は経験と並行して働く。経験の直接の結果は観念の連合だけだから、私の仮説どおり、信念はすべて観念の連合から生じる。
光学の著者たちは、山頂の人の目に映る像が、狭い部屋に閉じ込められた人の像より大きいわけではないと認める。大きさの推理は経験によるのに、人はそれを感覚と取り違える。岬から広い海を見て得る想念は、波の音だけで得る想念より鮮明で、壮大さの喜びも強い。推理の確実さは同じだから、この差は、視覚の場合に習慣的連接に加えて像と対象の類似があり、それが関係を強めて印象の生気を観念へ運びやすくするからである。
軽信、つまり他人の証言をあまりに容易に信じる弱点も、類似で説明できる。証言への信頼も因果の推理と同じ起源をもち、人の誠実さの確かさを与えるのは経験だけである。しかしわれわれは、幽霊や魔法のように経験に反する報告まで信じやすい。言葉は観念と、観念は事実と結合しており、後者の結合を過大に評価させるのは、観念と事実の類似である。証言は結果であると同時に像とみなされる。
類似が大きく欠けると、推論は崩れる。例は来世への人々の無関心で、ほかでは盲目的に信じる人々が、ここでは頑固に信じない。多くの神学者が、俗人は心の中では不信仰者だと断言したのには理由がある。永遠の重要性を語る言葉は主題に及ばないのに、人々は途方もなく安心している。彼らは教え込まれたことを本当に信じているか。否である。信念は習慣から生じる作用だから、類似の欠如が習慣の確立したものを覆す。死後の存在の観念は不明瞭で、教育に助けられた理由でも、鈍い想像力には力を与えられない。私はこれを来世の遠さより、現世との類似の欠如に帰す。人々は現世に関わることなら、死後の名や家族や国に関心をもつからである。
類似の欠如が信念を破壊するので、魂の不死を、旅行者や歴史家の証言に対するように信じる人は、熟慮を重ねた少数以外にほとんどいない。ローマカトリック教徒は熱心だが、その思慮ある人々のほとんどは、永遠の罰を宣告する相手に火薬陰謀事件や聖バルテルミーの虐殺が企てられたことを、残酷だと非難する。この不一貫の弁明は、来世を実際には信じていないということしかなく、不一貫自体がその証拠である。
宗教では人は恐れさせられるのを喜び、陰鬱な説教者が人気を得る。日常では、堅固な主題への恐れは不快でしかない。劇と説教でだけ喜びになるのは、想像力が観念の上に休み、情念が信念の欠如で和らぎ、心を活気づけるだけの快さになるからである。
習慣は観念を強めるのに二通りで働く。一つは、二つの対象が連接してきたとき、一方の印象から他方の観念へ移り、現前する印象と容易な移行によってその観念を強く思い描く場合。もう一つは、そうした準備なしに観念だけが何度も心に現れ、次第に容易さと力を得て、新奇な観念から区別される場合である。両者の判断への結果が似て比例するなら、判断についての説明は満たされる。教育を考えれば、この一致は疑えない。
幼いころから慣れた意見は深く根づき、理性と経験の力でも根絶できず、影響は因果の恒常的な結びつきから来る習慣に迫り、しばしば凌ぐ。鮮明さが信念を生むというだけでは足りない。両者は同一だと言わねばならない。反復が観念を植えつけても、心のその作用が推論と比較にだけ結びついているなら、反復は信念を生まないはずだからである。習慣は誤った比較に導きうるが、比較の代わりをすることはできない。
脚や腕を失った人は長く使おうとする。人が死んでも、家族、とくに召使いは、その人がまだ部屋にいる気がしてしまう。有名な人の噂を聞き続けた人は、会ったことがなくても会った気がすると言う。同類の事例である。
この教育の論拠は、ありふれた現象に基づくだけに強い。人々の意見の半分以上は教育によるもので、暗黙に受け入れた原理が、抽象的推論や経験によるものを上回ると私は確信する。嘘つきが嘘を繰り返して記憶するように、想像力は反復で観念を強め、感官や記憶や理性の示すものと同じように働かせる。教育は人為的で、格言は理性に反し、時と場所で矛盾するから哲学者は認めないが、実際には原因と結果の推論と同じく習慣と反復に基づく。想像力という語は、記憶に対置するときは弱い観念を作る能力、理性に対置するときは論証と蓋然的推論を除いた同じ能力を指す。
第10節 信念の影響について 教育は意見の根拠として哲学に否認されながら、世間では力をもち、あらゆる新奇な体系は退けられやすい。信念についての私の説も同じ運命をたどるだろう。重大な結果がこれほど小さな原理から生じ、推論の大部分が行為や情念とともに習慣から導かれるとは、人々はなかなか信じない。そこで、情念と美の感覚を扱うときに述べるべきことを少し先取りする。
苦痛と快の知覚は行為の主要な源泉である。それらは現に感じられる印象として現れる場合と、いま私が言及するように観念としてのみ現れる場合があり、影響は等しくない。印象はつねに魂を最高度に動かすが、観念のすべてが同じ効果をもつわけではない。自然は両極端を避けている。印象だけが意志に影響するなら、災厄が近づくのが見えても避ける原理がなく、いつも危険にさらされる。観念すべてが影響するなら、善悪の像が絶えず心をさまよい、一瞬の平穏もなくなる。
自然は中間を取った。空虚な虚構は力をもたないが、存在すると信じる対象の観念は、現前する印象と同じ結果をより小さく生む。だから信念の結果は、観念を印象と同等に引き上げ、情念に同じ影響を与えることである。それは観念を力と生気において印象に近づけることでしかできない。印象と観念の根源的な違いは力の度合いだけだから、結果の違いの源もそこにあり、違いが縮まれば類似も生じるからである。信念は観念に印象の結果を模倣させるのだから、観念を力と生気で印象に似たものにする。ゆえに信念は、観念をより鮮明で強く思い描くことにほかならない。これは体系の追加の論拠であり、因果の推論が意志と情念にどう働くかも示す。
信念が情念を呼ぶのに要るように、情念も信念を助ける。臆病者は危険の報告にすぐ同意し、憂鬱な人は自分の情念を養うものを信じやすい。対象が情念を呼ぶと、その情動は容易な移行で想像力に移り、観念をより力強く生き生きと思い描かせ、同意させる。驚嘆と驚きも同じで、俗人の間では、いかさま師の壮大な口上は穏当な話より信じられる。最初の驚きが魂に広がり、観念を経験からの推理に似たものにするのである。
信念の想像力への結果も説明できる。判断が同意しない談話は楽しめない。嘘の習慣をもつ人の話は、信念が伴わず印象を残さないので満足を与えない。詩人も職業として嘘をつくが、虚構に真実らしさを与えようとつねに努める。意志や情念に影響しなくても、観念を想像力に面白くするには、真理と実在が要る。
だが真理の効果は、観念を抵抗なく受け入れさせることだけである。私の体系では、これは因果の推論が与える堅固さと力から生じる。だから別の原理が同じ容易さを与えるなら、それが真理の代わりを務める。詩人の言う詩的な事物の体系、マルスやユピテルやウェヌスの名は、信じられなくても、反復によって教育と同様に心へ入り込み、判断に触れずに想像力を支配する。悲劇作家が筋書きや主要人物を歴史から借りるのは、観客を欺くためでなく、並外れた出来事を受け入れやすくするためである。喜劇の人物は身近だから、その用心は要らない。
この混合は体系の強い確証でもある。一つの詩にまとめられた出来事は互いに関係をもち、その一つが信念の対象なら、関係で結ばれた他の出来事も力と生気を受け取る。はじめの想念の鮮明さは、いわば無数の管や水路を通って、交通のあるすべての観念に伝わる。結びつきが偶然的なので確かさには届かないが、両者が同じ起源から出ると納得させるほど近い。力と生気をもつ観念は想像力に快いから、信念は想像力を喜ばせる。
判断と想像力も、判断と情念と同じく助け合う。信念が想像力に活力を与えるだけでなく、活力ある想像力は信念と権威を得るのに最も適した才能で、雄弁に描かれるものへの同意は控えにくい。その生気は、習慣と経験から来る生気より大きいことも多い。人は著者や仲間の想像力に引きずられ、当人も自らの熱の犠牲になる。
生き生きとした想像力は狂気や愚行に堕ちやすく、作用も似ている。両者は同じ仕方で判断に影響し、同じ原理から信念を生む。血液と精気の異常な沸騰で想像力が過度の生気をもつと、真理と虚偽を区別できず、気ままな虚構が記憶の印象や判断の結論と同じ立場に立つ。現前する印象も習慣的な移行ももう要らず、頭脳の妄想は推理にも、ときには感官の印象にも劣らず鮮明になる。
詩にも小さな度合いで同じことがある。反省すれば幻影は散るが、詩的熱狂の中で詩人は偽りの信念や幻視をもつ。それを支える論拠が少しでもあれば、比喩や形象の輝きが確信を高め、読者にも詩人自身にも効く。
第11節 偶然の蓋然性について この体系に十分な力を与えるため、体系から目を離し、同じ起源から導かれるほかの推論を説明しなければならない。
哲学者は理性を知識と蓋然性に分け、因果からの議論をすべて蓋然性に入れざるをえず、私もそう語ってきた。だが日常の談話では、太陽が明日昇るとか人間はみな死ぬとかが蓋然的にすぎないと言えば滑稽であり、因果の議論の多くは蓋然性を超えるとされる。そこで理性を三つに分ける。知識は観念の比較から生じる確かさ、立証は因果の関係から導かれ疑いを免れた議論、蓋然性は不確実さを残す明証性である。私が検討するのは、この最後の種類である。
蓋然性の推論は、偶然に基づくものと原因から生じるものに分かれ、順に考察する。
原因と結果の観念は経験から出る。経験は恒常的に連接する対象を示し、その関係で眺める習慣を生む。無理をしなければ、ほかの関係では眺められない。偶然は何ら実在的でなく原因の否定にすぎないから、影響は逆である。偶然は、ある対象の存在と非存在について想像力を無差別にする。原因は思考に道筋をつけ、偶然はそれを壊して心を生来の無差別に置く。
無差別が偶然の本質だから、一つの偶然が他に優るのは、等しい偶然がより多い場合だけである。ほかの仕方で優ると言えば、出来事をその側に決める何か、つまり原因を認め、先の偶然の想定を壊す。
偶然と因果性は正反対だが、賭けに優劣をつける組み合わせは、偶然に原因が混じると想定しなければ思い描けない。何も偶然を制限しなければ、どんな概念も同等である。さいころが落ち、形を保ち、どれかの面を下にする原因を認めて初めて、残りを偶然に委ねる計算が成り立つ。四つの面に一つの点数、二つの面に別の点数が記されたさいころが例である。心は原因で出来事の数と性質に限られるが、どの出来事かは決められていない。
偶然は原因の否定で、全面的な無差別を生み、推論の基礎になるには原因の混合が要る。次に、優位の組み合わせが心にどう働くかを問う。原因からの信念で用いた論拠がここでも使え、この同意は論証でも蓋然性でも得られない。観念の比較だけでは、優位な側に出来事が必ず落ちるとは立証できず、そう想定すれば偶然の平等を覆すからである。
優位な側のほうが見込みが高いとは言える、と言われるかもしれない。だが見込みや蓋然性とは、より多い等しい偶然のことにほかならず、見込みが高いと言うのは優位が優位だと言うに等しい。同一命題である。問題は、等しい偶然の多さがどう心に働いて信念を生むかである。
四つの面に一つの図柄、二つの面に別の図柄があるさいころを、人が筒に入れて投げようとしている。その人は多くの面にある図柄を選び、それが出るといわば信じるが、反対の偶然の数に比例してためらいは残る。反対の偶然が減り、優位が増すほど、信念は安定する。この単純な対象への心の作用から、信念の本性が発見できる。
このさいころには三つの事情がある。重力、固性、立方体の形などの、落ちて面を上にする原因。無差別と想定される面の数。各面の図柄。さいころの本性はこれで全部であり、投げの結果の判断はこれだけを考慮する。順に見よう。
まず、心は習慣で原因から結果へ移る。恒常的連接がその習慣を生んだので、一方から他方を思い描かずにはいられない。さいころが筒を離れたとき、心は空中に浮かんでいると見なさず、机の上に置き、どれかの面を上にして落ちると見る。これは、偶然の計算に必要な混ざり合った原因の結果である。
次に、どの面かを定めるものはなく、完全に偶然による。偶然は心を無差別にするから、六つの面すべてを同じく蓋然的なものとして次々に考えさせる。想像力は、さいころを投げるという原因から、六つの面の一つが上になる結果へ移り、途中で止まることも別の観念を作ることもできないと感じる。しかし面は両立せず、一度に一つしか上にならないから、この原理はすべてが同時に上にあるとは考えさせず、特定の面へ全力で導くこともしない。力を六つの面に等しく分けて導く。思考の決定は共通で、各面の分け前は比率にふさわしい分だけである。原因から来る根源的な衝動、すなわち思考の生気は、こうして混ざり合った偶然に細かく砕かれる。
最後に図柄である。同じ図柄の面は協力し、散らばった衝動をその図柄の観念に結合して、結合によって強くなる。どの面かだけが問題なら面はすべて平等だが、問題は図柄だから、結合した衝動が働く。四つの面と二つの面では、前者の衝動が優位にある。ただし二つの図柄は同時に上にならないから衝動は相反し、劣位の衝動は強さの及ぶかぎり優位の衝動を打ち消す。観念の生気は衝動の度合い、移行への傾向の度合いに比例し、先の学説では信念は観念の生気と同じものである。
第12節 原因の蓋然性について 偶然の蓋然性について述べたことは、原因の蓋然性を説明する助けになるだけである。俗人が偶然と呼ぶものは、隠れた原因にほかならないと、哲学者たちも認めているからである。それゆえ、われわれが主として検討すべきなのは原因の蓋然性である。
原因の蓋然性には種類が複数あるが、起源はみな同じで、観念が現在の印象に連合することである。この連合を生む習慣は、対象が頻繁に連接するところから生じるため、完成へは少しずつ近づくほかなく、観察に入る事例ごとに新たな力を得る。最初の事例にはほとんど力がなく、二番目がいくらかを加え、三番目はさらに感じられるものになる。判断が完全な確かさに達するのはこの緩やかな段階を通ってであり、頂点に至る前の度合いはすべて推定または蓋然性にとどまる。したがって蓋然性から立証への推移は気づかれにくく、明証性の違いは隔たった度合いのあいだでしか知覚されにくい。
順序では最初で、立証より前に自然に生じるこの蓋然性を、成熟した人はもはや知らない。最も進んだ知識をもつ人でも、個別の出来事の多くでは不完全な経験しかなく、不完全な習慣と移行しか生まれないのがふつうである。しかし心は、原因と結果の結合に関する別の観察をすでに重ねていて、それが推論に新たな力を与えるので、適切に吟味されたただ一つの実験にも議論を築ける。ある対象から何かが続くのを一度見れば、それは永遠に続くと結論する。この格率がいつも拠り所にされないのは、実験が足りないからではなく、反対の事例にしばしば出会うからである。これが蓋然性の第二の種類、経験と観察に相反がある場合へ導く。
同じ対象がいつも連接しているなら幸いだが、ある観察が別の観察に反し、原因と結果が経験した順序で続かないこともある。そこで出来事の相反を考慮に入れざるをえない。問われるのは、この相反の本性と原因である。物事を見かけどおりに受け取る俗人は、原因の側の不確実さのせいにする。哲学者は、自然のほぼあらゆる部分に、微小であったり遠かったりして隠れた源泉や原理があることに気づき、相反が相反する原因の隠れた働きから生じている可能性を見る。観察を重ねると、これは確実性に変わる。結果の相反はつねに原因の相反を示し、原因同士の妨害と対立から生じていると分かる。農夫は時計が止まった理由を、ふつう正しく動かないからと言うほかない。職人は、ぜんまいや振り子の同じ力が歯車にいつも同じ影響を及ぼすことを見抜き、おそらく一粒の塵がそれを妨げ、運動全体を止めたのだと分かる。こうして、原因と結果の結合はどれも等しく必然的であり、不確実に見える事例は相反する原因が隠れて対立しているにすぎない、という格率が形づくられる。
相反の説明は異なっても、そこからの推理は同じ原理に基づく。過去の相反が未来についてためらいがちな信念を与える仕方は二つある。まず、現在の印象と関係づけられた観念とのあいだに、不完全な習慣と移行が生じることによる。連接が完全には恒常的でないとき、習慣も不完全になる。この原理がときに働くのは疑いない。しかし、この種の推論で最もふつうに心に影響する原理は、これでない。習慣だけに従うなら、反省なしに移行し、対象を見ることと、それに伴うと見出されたものを信じることのあいだに、一瞬の遅れもない。ところが蓋然的な推論では、相反を承知のうえで、異なる側を比較し、それぞれの実験を注意深く量る。この種の推論は習慣から直接ではなく、間接に生じる。その仕方を説明しなければならない。
対象に相反する結果が伴うとき、われわれは過去の経験だけで判断し、続くと観察したものをすべて可能とみなす。可能性も蓋然性も過去の経験が規定し、最もふつうだった結果を最も見込みが高いとみなす。考えるべきは、過去を未来の基準にする理由と、相反から一つの判断を引き出す仕方の二つである。まず、未来は過去に似るという想定は論拠に基づかず、すべて習慣から導かれる。この習慣は完全で十全であり、したがって想像力の最初の衝動も同じ性質をもつ。しかし次に、過去の実験が相反すると分かると、この決定は安定した対象を示さず、互いに一致しない多くの像を一定の比率で示す。最初の衝動は砕かれてそれらの像に広がり、各像は力と生気の等しい分け前を得る。どれも起こりうるし、起こるなら過去と同じ比率で混ざると判断する。
比率を考えるなら、像は最初の形を保つ。長い観察で、海に出る二十隻の船のうち帰るのは十九隻だと分かったとしよう。二十隻が港を出るのを見て、私は十九隻が無事に帰り一隻が沈むと思い描く。ここに困難はない。しかし一つの不確実な出来事について判断するには、過去の観念を見渡して像を寄せ集め、当の出来事の決定をそれに委ねることになる。優位な数の像が一致して結びつくと、観念は想像力の虚構よりも、より少ない実験に支えられた観念よりも、強く生き生きとする。新たな実験は絵筆の新たな一筆のようで、図形を増やさず、色彩に生気を加える。過去の実験の一つ一つは一種の偶然とみなせる。こうして相反する実験は、完全な習慣を分割し、のちに異なる部分で結合することで、不完全な信念を生む。
この説明を正当化するため、三つの考察を示す。精緻さは恐れない。物質が空気、火、動物精気のなかでも固性を保つように、正しい推論はどれほど精緻でも力を保つはずである。まず、反対の可能性を許さない蓋然性はない。そうなれば確実性になる。過去の一つの実験は、少なくとも未来への可能性を立証する。次に、可能性と蓋然性の構成部分は同じ性質で、数だけが異なる。単独の偶然は完全に等しく、一方に優位を与えるのは数の多さだけである。過去を未来に移すときも、実験の一つ一つは同じ重みをもち、秤を傾けるのは数の多さだけである。最後に、原因がいくつもの部分から成り、部分の数が変われば結果もそれに応じて増減するなら、結果は各部分から生じる結果の結びつきから合成される。物体の重さは部分が増減すれば増減するので、各部分が重さに寄与している。原因の一部の有無に結果の一部の有無が比例して伴うこの恒常的連接は、一方が他方の原因であることを立証する。信念は偶然または実験の数が変われば増減するから、合成された結果とみなされる。
三つを合わせよう。蓋然性の反対の可能性は、蓋然性と同じ性質の部分から成り、心に同じ影響をもつ。信念は各部分の結果の協力で形づくられるから、反対の信念も同じく対象の見方を含み、その度合いは等しい。優位な数が劣位のものに打ち勝つ唯一の仕方は、対象のより強く生き生きとした見方を生むことである。各部分は個別の見方を示し、結合して一つの一般的な見方をなす。部分は性質が等しくても数が異なり、その違いは結果に現れなければならない。どちらの側の見方も完全で全体的で、この点に違いはありえないから、違いを生むのは、優位な数の協力に由来する、蓋然性の側の生気の大きさだけである。
同じ議論を別の面から示そう。原因の蓋然性の推論はすべて、過去を未来に移すことに基づく。過去の実験は、単独でも他と結合していても、反対の実験に対立されていても、移されれば対象の見方を与える。協力の仕方には二つの仮説がある。各実験の見方が完全なまま自分を保ち、数が増えるだけだというものと、見方が同種のものに流れ込み、より優位な力と生気を与えるというものである。第一の仮説は経験に反する。推論に伴う信念は一つの結論であって、同種の結論が多数あるのではない。多数あれば心は散漫になり、有限な能力では区別しきれなくなる。それゆえ、同種の見方が流れ込み合って力を結合し、どれか一つだけよりも強く明瞭な見方を生むというのが、唯一の理にかなった意見である。対立については、同じ対象が両方の実験に一致して同時に存在しえない以上、相反する見方は両立せず、影響は互いに破壊的になる。心は、劣位を差し引いた力でのみ優位な側へ決定される。
この推論が一般の読者に難解に見えることは承知している。しかし、次の二つの原理を十分に確信した人は、通常の体系すべてから解き放たれる。どんな対象にも、それだけを取り上げて見るかぎり、そこから先へ結論を引くための理由は含まれていない。そして、連接が頻繁または恒常的だと観察した後でも、経験した対象を越えて推理を引き出す理由はない。因果性にもとづく最も確実な推論でも説得的だったこの二つは、蓋然的な推論では新たな度合いの明証性を得る。
まず、示された対象は、それ自体としては別の出来事について結論を引き出す理由を与えない。後者の不確かさは、前者に隠れた原因の相反から生じており、原因が既知の性質に置かれているなら、結論は確かになるはずだからである。次に、過去から未来への移し替えが知性の結論だけにもとづくなら、いかなる信念も確かさも生まない。相反する実験を比率とともに繰り返すだけだからである。想像力が一致する像を溶け合わせて単一の観念を取り出すとき、その観念は実験の数と優位に比例して強く生き生きとする。過去の経験は確定した対象を示さないのに、信念は確定した対象に定着する。信念は、移し替えに結びついた想像力の作用から生じる。
二つの考察で締めくくる。まず、相反する多くの見方が、経験でなく想像力の随意の作用から生じるなら、これらは結びついて強め合わない。習慣や教育が経験によらない反復から信念を生むには、長い時間と頻繁な、意図されない反復が要る。心の各作用は別個で独立しており、共通の対象で結ばれていないので、力の移行も結びつきも行われない。次に、偶然または実験が一方で一万、他方で一万と一のとき、判断は優位のゆえに後者を選ぶが、心が個別の見方を通覧して生気の差を見分けるのは不可能である。情愛にも同様の例がある。対象の量に応じて変わる情念は、厳密には、各部分を見ることから生じる多数のより弱い情念から成る複合的な情動である。千ポンドを欲する人の内には、実のところ千以上もの欲求が含まれる。それでも一単位の違いは情念では識別できない。より大きな数を選ぶ行為は、習慣と一般規則に依存する。三ギニーが二ギニーより大きな情念を生むと直接の感じから知覚し、類似のゆえにこれをより大きな数に移して、千ギニーには九百九十九ギニーを上回る強さの情念を割り当てる。
不完全な経験と相反する原因のほかに、類推から生じる第三の蓋然性がある。原因や結果からの推論は、過去の経験全体での二つの対象の恒常的連接と、現在の対象がその一方に類似していることにもとづく。現在の対象は想像力を活気づけ、類似が恒常的な結びつきとともにその生気を関係する観念に伝えるので、われわれはその観念を信じる。結びつきか類似のどちらかが弱まれば、移行の原理が弱まり、信念も弱まる。偶然と原因の蓋然性で減るのは結びつきの恒常性であり、類推では類似だけが影響を受ける。ある程度の類似がなければ推論は不可能だが、類似は度合いを許すので、推論の確固さもそれに比例して増減する。厳密には類似しない事例に移された実験は力を失う。それでも類似が残るかぎり、蓋然性の基礎となるだけの力は保つ。
第13節 非哲学的な蓋然性について 以上の蓋然性は、哲学者に受け入れられ、信念の合理的な基礎と認められている。同じ原理から生じながら認可を得られなかったものが、ほかにある。その第一は、印象の減少から生じる。結びつきと類似が減ると移行が難しくなり明証性が弱まるが、印象が減り、記憶や感官に現れる際の色が薄れても、同じ弱まりが生じる。記憶にある事実に根拠をおく論拠は、その事実が新しいか遠いかで、説得力が強くも弱くもなる。哲学は、これを認めない。認めれば論拠は今日と一か月後とで力が違うことになるからである。それでもこの事情は、提示される時期に応じて論拠の権威を密かに変える。印象の力と生気が大きければ、関係する観念にも大きな力と生気が伝わり、信念が依存するのはその度合いだからである。
第二の違いは、哲学者に否認されても必ず生じる。記憶に新しく鮮明な実験は、消えかかった実験より強く作用し、判断にも情念にも影響を及ぼす。伝えるべき元の力が多いからである。新しい観察も同じで、そこでは習慣と移行がより完全で、元の力をよく保って伝える。放蕩で死んだ仲間を見た酒飲みは、しばらくはその例に打たれて同じ災難を恐れる。しかし記憶が薄れるにつれて以前の安心が戻り、危険は確実さも現実味も乏しく思えてくる。
第三の例として、立証にもとづく推論も、論拠が多く結びつくだけで、しばしば気づかないうちに蓋然性の推論へ堕していく。中間の原因や結果なしに直接引き出された推理は、長い連鎖を通る場合より確信が強く生き生きとしている。どの環の結合も誤りえないとみなされるとしてもそうである。観念の生気は、想像力の習慣的な移行を通じて根源的な印象から来るので、距離に比例して衰え、移行のたびにいくらかを失う。ときには距離の影響が相反する実験の影響を上回り、各部分で正しい長い連鎖よりも、近くて直接の蓋然的推論のほうが生き生きとした確信を与える。
ここで、現在の主題が示す現象に触れよう。古代史のいかなる事柄も、何百万という原因と結果をたどる、測り知れない長さの連鎖を経なければ、確かさに至らない。事実の知識は最初の歴史家に達する前に多くの口を通って伝えられ、記録された後も、写本は一つ書かれるごとに新たな対象となり、前のものとの結合は経験と観察を通してしか知られない。先の推論からは、古代史の明証性は連鎖が延びるにつれて失われるはずだ、と結論したくなる。しかし、文芸共和国と印刷術が現状のまま続くなら、千世代後の子孫がユリウス・カエサルという人物がいたかを疑いうると考えるのは、常識に反する。これは現在の体系への反論になる。信念が根源的な印象から伝わる生気にのみ存するなら、移行の長さによって衰え、ついに消えるはずである。消滅を免れるなら、信念は生気とは異なる何かでなければならない。
答える前に、この論点からキリスト教に反対する有名な論拠が借りられたことを述べておく。そこでは、証言の連鎖の各環の結合が蓋然性を越えないと想定されていた。そう考えるなら、真の考え方ではないが、新たな蓋然性は元の確信を減らし続けるので、力と明証性をすべて失わない歴史や伝承はない。これは一般には真だが、のちに見るように、非常に注目すべき例外が一つある。
さしあたり、歴史の明証性は当初は完全な立証に等しかったと想定して答えよう。元の事実を現在の印象に結びつける環は数えきれないが、すべて同じ種類で、印刷者や写字生の忠実さにかかっている。ある版から次の版へ、さらに第三の版へと伝わり、いま精読する一巻に至る。この段階には変化がない。一つを知れば全部を知ったことになる。この事情だけが歴史の明証性を保つ。連鎖が互いに異なる部分から成るなら信念は保てないが、これらの立証はおおむね完全に似通っているので、心は容易に進み、各環について漠然とした一般的な概念しか形づくらない。それゆえ長い連鎖も、生気の減り方は短い連鎖と変わらない。
第四の種類は、軽率に自分に作る一般規則から生じ、偏見の源である。アイルランド人に機知はありえず、フランス人に堅実さはありえないという類である。前者の会話が明らかに楽しく、後者の会話が分別に富んでいても、われわれはこの偏見を抱き、彼らは愚か者か伊達男にちがいないとされる。
なぜ一般規則を作り、現在の経験に反してまで判断を左右させるのか。それは、原因と結果の判断が依存する原理と同じ原理から生じる。ある対象が別の対象に結びつくのを見慣れると、想像力は反省に先立つ自然な移行で前者から後者へ移る。習慣は、慣れ親しんだものとまったく同じ対象で全力で働くだけでなく、似たものにも低い度合いで働く。かなりの事情が同じまま残るかぎり、完全には破壊されない。梨や桃で果物を食べる習慣がついた人は、好みの果物が手に入らなければメロンで間に合わせる。赤ワインで酒飲みになった人は、白ワインを勧められても、ほぼ同じ勢いでそちらへ向かう。
習慣は判断の基礎でありながら、ときに想像力へ、判断と逆向きの働きをする。ほとんどの原因には、本質的な事情と余計な事情の複合がある。余計な事情が数多く目立ち、本質的な事情としばしば一緒に現れるとき、後者が欠けていても、想像力は通常の結果の想念へ進む。反省で正せるが、習慣が先んじて偏りを与える。高い塔から鉄の籠に吊り下げられた人は、鉄の固性の経験から落ちないと知っている。それでも足下の断崖を見渡すと震えずにいられない。深さと降下という事情が強く打ち、支えと固性という反対の事情でも、その影響は破壊できない。想像力はその対象とともに暴走して情念を引き起こし、情念は跳ね返って観念を生き生きとさせ、その観念がまた情念を増す。
私の体系では、すべての推論は習慣の結果で、習慣は想像力を活気づけることでしか働かない。そこから、判断と想像力は相反しえないという結論が出てきそうである。この困難を除く道は、一般規則の影響を想定することしかない。一般規則は、知性の作用の経験にもとづき、偶然的な事情を効力のある原因から区別させる。結果が特定の事情なしに生じると分かれば、その事情は効力のある原因の一部ではない。それでも頻繁な結びつきは、その事情に想像力への影響をもたせる。この対立が相反を生み、一般規則はより広く恒常的なので判断に、例外は気まぐれで不確かなので想像力に帰される。
こうして一般規則は互いに対立する。相当の事情で原因に類似した対象は、最も重要な事情で異なっていても、想像力を通常の結果の想念へ導く。これが第一の影響である。この作用を知性のより確かな作用と比べると、最も確立された推論の原理を破壊すると分かり、退ける。これが第二の影響で、前者の否定を含む。俗人は通常前者に導かれ、賢者は後者に導かれる。懐疑論者は、哲学が人間本性のある原理で転覆されそうになり、同じ原理の新たな方向づけで救われるのを見る。一般規則に従うことは非哲学的な蓋然性だが、これを、またほかの非哲学的な蓋然性を正せるのも、一般規則に従うことによってのみである。
一般規則が想像力と結びつくとき、効果が増すのも驚くに当たらない。賞賛や非難を間接にほのめかす方法は、あからさまな追従や非難より衝撃が小さい。隠された風刺で私を打つ者は、私を愚か者でめかし屋だと公然と言う者ほどには、私の憤りを動かさない。意味はどちらも同じく理解しているのにである。どちらの場合も私は相手の感情を直接には知覚せず、しるしによって気づく。違いは、公然のときは一般的で普遍的なしるしを、ひそかなときはまれなしるしを用いる点だけである。結合が通常で普遍的なほど、想像力は現在の印象から不在の観念へ容易に移り、対象をより大きな力で思い描く。感情を公然と述べることが仮面を外すと言われるのはそのためであり、この違いは印象と観念の違いにたとえられている。
ときには下品な悪口のほうが、繊細な風刺より不快でない。侮辱が加えられるその時に、自分を害する相手を非難し軽蔑する口実になるからである。これも同じ原理による。粗野な言葉を非難するのは、それが繊細な風刺より衝撃が強く、礼儀に反するからにほかならない。礼儀の規則が確立されると、罵りは普遍的に非難され、使う人を卑しめるので、与える苦痛は減る。より不快であるがゆえに、かえって不快でなくなる。
似た現象がある。名誉の点には、違反が公然と認められると世間は決して許さないが、体裁が保たれ秘かに隠されているときは見逃しがちな事柄が多い。同じ観念が示されても、示され方が異なるので影響が異なる。公然の違反では、推理のもとになるしるしは単一で、それだけで判断の基礎となる。隠された違反では、しるしは数多く、微細な事情を伴わなければほとんど決定しない。推論は、単一で結びついているほど説得的であり、想像力が部分を集める労力を求められると、感情の規則的な進行が乱される。
レス枢機卿の見解も、同じ原理で説明できる。世間は欺かれたい事柄が多く、世間は語る場合より行う場合のほうをたやすく許す。言葉の過失は行為の過失より公然として明瞭であり、行為には軽減する言い訳の余地が多いからである。
こうして、知識に達しないあらゆる意見や判断の由来はもっぱら知覚の力と生気にあり、心においてこれらの性質が信念と呼ばれるものを構成する。力と生気は記憶で最も顕著であり、その真実性への信頼は考えうる最大で、多くの点で論証の確かさに等しい。次の度合いは原因と結果の関係から生じる。その下には多くの度合いがある。強い習慣を生むだけの事例がないとき、事例が相反するとき、類似が正確でないとき、印象が弱いとき、経験が記憶から消えているとき、結合が長い連鎖に依存するとき、推理が一般規則に適合していないときには、観念の力と強さの減少によって明証性は減る。これが判断と蓋然性の本性である。
この体系の権威を支えるのは、各部分が拠って立つ疑いえない論拠と、部分どうしの一致、そして一方が他方の説明に必要なことである。記憶に伴う信念も、恒常的な結合から生じる判断も、中断された結合に依存する判断も、同じ本性のものである。相反する実験から決定するとき、心はまず自らのうちで分かれ、記憶している実験の数に比例してどちらの側にも傾向をもつ。争いは最後に、数の優位な側の有利に決着するが、明証性の力は反対の実験の数に応じて減る。蓋然性を構成する各可能性は想像力に別個に作用し、優勢になるのは可能性のより大きな集まりである。これらの判断を、想像力に及ぼす習慣の働きと見なさないかぎり、われわれは矛盾と不条理のなかを絶え間なく迷う。
第14節 必然的結合の観念について 直接の印象を越えて推論する仕方は説明した。そこで来た道を引き返し、途中で放置した問題に戻る。二つの対象を必然的に結びついたものと言うとき、われわれがもつ必然性の観念とは何か。印象に由来しない観念はないのだから、この観念をもつと言うなら、それを生む印象を見出さなければならない。必然性はつねに原因と結果に帰されるので、この関係にある二つの対象を調べる。分かるのは、二つが時間と場所で近接し、原因が結果に先立つことだけである。一つの事例ではこれ以上進めない。そこで多くの事例に視野を広げると、似た対象が似た近接と継起の関係に、つねに置かれている。これは役に立たないように見える。同じ対象の繰り返しが新しい観念を生むはずがないからである。しかしさらに探ると、この反復は新しい印象を生む。頻繁な反復の後には、一方の対象が現れると、心は習慣によって、その通常の随伴物を、より強い光のもとで考えるよう決定される。必然性の観念を与えるのは、この決定である。
これらの帰結は、すでに確立した原理からの演繹なので、たやすく受け入れられ、そして忘れられやすい。そこで警告しておく。いま検討したのは、原因の力能と効力という、哲学で最も崇高な問題の一つであり、古代と近代の哲学者がこれほど論争した問題はない。彼らは論争の前に、効力についてどんな観念をもつかを確かめるべきだった。彼らに欠けているその点を、私は補う。
効力、働き、力能、力、エネルギー、必然性、結合、産出的性質という語は、ほぼ同義である。一つで別のものを定義するのは不合理だから、力能についての通俗的な定義はすべて退け、観念を、それが由来する印象のなかに探す。最も通俗的な説明は、経験から物質に新しい産出があると見出し、それを産出する力能がどこかにあるはずだと結論する、というものである。だが理性だけでは根源的な観念は生まれず、経験を離れた理性は、存在のあらゆる始まりに原因が必要だとも結論させない。
したがって効力の観念は、感覚か反省の経路で心に入った、効力の個別の事例に由来するにちがいない。この観念をもつと言うなら、効力が明白に発見され、その作用が意識に明らかな事例を示さなければならない。示せなければ、この観念は想像上のものである。生得観念の原理だけがこのジレンマから救うが、それはすでに論駁された。
この探究に励ましはない。物体は実体形相によって作用すると言う者、偶有性や性質によると言う者、質料と形相、形相と偶有性、あるいは別個の能力によると言う者がいて、しかも千の仕方で混ぜられる。どれにも堅固さも明証性もなく、物質の既知の性質に効力を想定するのは根拠がないという強い推定が生じる。これらの原理自体が理解も説明もできないのだから、推定はいっそう強まる。反駁したい人は、力能や作用の原理が発見できる原因の事例を示せばよい。哲学で否定を立証する、ほとんど唯一の方法がこの挑戦である。
こうして哲学者たちは、自然の究極の力と効力は知られておらず、物質の既知の性質のなかに探しても無駄だと結論した。デカルト派は、物質の本質は延長にあり、延長は可動性だけを含意するので、運動を生むエネルギーは物質にないと推理した。物質は不活発で、運動の力能は神にあるにちがいない。神は物質を創造し、最初の衝撃を与えるだけでなく、全能を絶えず働かせて、物質の運動、形状、性質を次々と与える。
この意見を検討するには及ばない。力能が発揮されるのが知覚される事例がないかぎり、力能の観念はもてない。物体にその事例はないので、デカルト派は生得観念に立って神に頼った。しかし生得観念が偽である以上、神の想定は働きの観念の説明にならない。観念はすべて印象に由来する。それなら神の観念もこの起源から生じるはずだが、感覚の印象にも反省の印象にも力は含まれないので、神のうちに能動的な原理を見出すことはできない。物質に効力ある原理がないと結論した者は、同じ推論で至高の存在からもそれを除かなければならない。それが不敬だと考えるなら、避ける道は一つある。物体にも精神にも、その事例が一つも発見できない以上、どの対象にも力能の十全な観念をもたないと、最初から結論することである。
派生的な力能を物質に認める第二原因の仮説でも、そのエネルギーが既知の性質のどれにも宿らない以上、観念の起源の困難は残る。われわれは力能や効力を含む印象をもったことがなく、力能の観念ももったことがない。
一般的な観念は、ある見方で捉えられた個別の観念にほかならない。したがって一般的な力能の観念をもつなら、特定の存在者に宿る特定の力能も思い描けるはずである。原因と結果の結合をはっきり個別に思い描き、一方をただ眺めるだけで、他方が続くか先立つと言明できるはずである。ところが二つの対象のあいだの結合を、あるいはそれを結ぶ効力を、はっきり理解する観念を、心は形づくれない。そのような結合は論証にあたり、一方に他方が続かないことが不可能だと含意するが、この種の結合はすでに退けた。反対の意見の人は、その対象を示してほしい。示されるまでは、一般的な力能の観念をもてると思うのは、自分を欺いている。
力能や効力という語は、無意味というより誤用されているのだろう。そこで観念の本性と起源をもう一度探る。原因と結果の二つの対象を考察するだけでは、それらを結ぶ絆は知覚できない。したがって必然的結合、力能、効力の観念は、一つの事例からは得られない。しかし同じ対象がつねに連結されている事例をいくつも観察すると、われわれはただちに結合を思い描き、一方から他方へ推理しはじめる。類似した事例の多数性こそが力能の源泉である。ところがすべての観念は印象から写されるので、完全に類似した事例の反復は、個々の事例にある以上の根源的な観念を、それだけでは生まない。力能の観念はどの一つの事例にもないのに、反復から生じる。だから反復は、新しい何かを発見するか生み出すかしなければならない。力能はそこに置くべきである。
まず、似た対象が継起と近接で反復されても、対象に新しいものは発見されない。そこからは推理が引き出せず、仮に引き出せても、力能のような新しい観念は推論から生じない。推論するところでは、明晰な観念をあらかじめもっていなければならず、想念は知性に先立つからである。
次に、反復は対象にも外的な物体にも新しいものを生まない。類似した事例はそれ自体として独立だからである。いま私が二つのビリヤードの球の衝突に見る運動の伝達は、一年前に見た伝達とまったく別個であり、互いに影響しない。こうして、恒常的連接からも、継起と近接の類似からも、対象には何も発見されない。しかし必然性の観念はこの類似から由来する。それゆえこの観念は、連結された対象に属するものを何も表さない。観念の起源を、別の方面に求めなければならない。
類似の観察は、心のなかに新しい印象を生み、これが観念の真の原型である。十分な事例を観察すると、一つの対象からその通常の随伴物へ思考が移り、その随伴物をいっそう強い光のなかで思い描くことへと、心が決定されるのを感じる。この決定が、観念が由来する力能ないし効力である。事例はそれ自体として別個で、結びつきをもつのは、観察する心のなかだけである。必然性は、思考を一つの対象から別の対象へ運ぶ、心の内的な印象にほかならない。この観点を離れては、必然性の最も遠い概念にも達せず、対象にも精神にも物体にも、原因にも結果にも帰せない。
原因と結果を結ぶ必然的結合は、一方から他方へ推理する基礎になる。その推理の基礎とは、慣れ親しんだ結びつきによって生じる移行である。したがって両者は同じものである。必然性の観念は感官が伝える印象にはなく、反省の印象、すなわち習慣が生む、対象からその通常の随伴物の観念へ移ろうとする傾向から生じる。必然性は心のなかにあり、物体の性質としては、最も遠い観念も形づくれない。二つに一つである。われわれは必然性の観念を何ももたないのか、それとも必然性とは、経験した結びつきに沿って原因から結果へも結果から原因へも思考が移るよう決定されることにほかならないのか。
二掛ける二が四に等しい必然性、三角形の三つの角が二直角に等しい必然性は、観念を比較する知性の作用のなかにしかない。同様に原因と結果を結ぶ必然性は、一方から他方へと移る心の決定にある。原因の効力は、原因そのものにも神にも置かれない。二つの対象の結びつきを、過去のあらゆる事例を通して見渡す魂に属している。
これは私の逆説のうちで最も激しい。受け入れられるには、確かな立証の力に頼るほかない。力能の観念は対象を眺めても得られず、結びつきの反復から生じ、反復は対象には何も引き起こさず、習慣的な移行によって心にだけ影響する。この移行が力能であり必然性であるから、それらは対象の性質ではなく知覚の性質で、魂のなかで内的に感じられ、物体のなかに外的に知覚されるのではない。私は、読者の偏りがこの学説に偏見を抱かせるのを恐れる。
その偏りは説明できる。心は外的な対象に自分を広げ、それらに伴う内的な印象を対象と結びつける。ある音や匂いが目に見える対象につねに伴うと、それらの性質が場所のうえで連結できないのに、われわれは連結があると思い込む。同じ傾向のため、必然性と力能は考察される対象のなかにあり、考察する心のなかにはないと、われわれは想定する。しかし心の決定として捉えなければ、必然性の最も遠い観念さえ形づくれない。
これが唯一の理にかなった説明でも、私の見解は突飛で滑稽に扱われるだろう。何だって。原因の効力が心の決定のなかにあるというのか。原因は、観想する心が存在しなくても作用を続けるのではないか。力能は作用する物体に置かれなければならず、それをすべての原因から取り除いて、原因や結果を知覚するだけの存在者に与えるのは、甚だしい不条理である。
私はこう答える。この場合は、緋色が喇叭の音と同じでないという想定に、盲人が不条理を見出したと称するのと、同じ事情にある。対象における力能や実在する結合の観念を実際にはもたないなら、あらゆる作用に効力が必要だと立証しても、意味がない。まったく知らない未知の性質を力能や効力と呼ぶのは構わない。しかし、これらの語に、明晰な観念をもちながら対象とは両立しない何かを意味させるとき、誤りが始まる。思考の決定を外的な対象に移し、そこに理解可能な結合を想定するときが、そうである。
自然の作用がわれわれの思考から独立だという反論は、認める。対象が近接と継起の関係をもつこと、似た対象が似た関係をもつと観察されうることは、知性の作用に先立つ。しかしさらに力能ないし必然的結合を対象に帰すなら、それは対象に観察されえないもので、観想するときに内的に感じるものから観念を引き出すほかない。この点を徹底して、いま進めているこの推論そのものを、その一つの事例にしてみる。
ある対象が示されると、通常それに随伴する対象の生き生きとした観念が、ただちに心に伝わる。この決定が、対象の必然的結合を形づくる。観点を対象から知覚へ変えると、印象が原因、生き生きとした観念が結果であり、両者の必然的結合は、一方から他方へ移るのを感じる、あの新しい決定である。内的な知覚を結ぶ原理も、外的な対象を結ぶ原理と同じく理解できず、経験によるほかは知られない。経験は対象の内的な構造への洞察を与えず、ただ心を移ることに慣らすだけである。
ここで推論をまとめ、原因と結果を正確に定義する。関係の本性は推理の本性に依存するので、推理を先に検討する倒錯した順序をとらざるをえなかった。この欠点をいま正す。定義は二つ与えられる。同じ対象を、哲学的関係として二つの観念の比較で見るか、自然的関係として連合で見るかの違いだけである。原因とは、ある対象が他の対象に先行し近接しており、前者に類似するすべての対象が、後者に類似する対象に対して、同様の先行と近接の関係に置かれているもの、である。これが外的な対象から引かれていて不完全だと言われるなら、別の定義がある。原因とは、ある対象が他の対象に先行し近接し、それと結びついているために、一方の観念が心を決定して他方の観念を形づくらせ、一方の印象が心を決定して他方のいっそう生き生きとした観念を形づくらせるもの、である。より適切な定義は私にはできない。原因と結果と呼ばれる対象を精密に検討すると、単一の事例では先行と近接が、複数の事例では恒常的連接が見出されるだけである。この連接は推論の対象にならず、習慣によってのほかは心に作用しない。習慣が想像力を決定し、一つの対象の観念からその随伴物の観念へ移行させる。
ここから系を引き出し、通俗的な誤りを取り除こう。まず、すべての原因は同じ種類であり、作用因と、形相因、質料因、範型因、目的因との区別には、根拠がない。作用性の観念は恒常的連接に由来し、これが観察されるところの原因は作用因であり、観察されないところにはいかなる種類の原因もないからである。原因と機会の区別も、本質的に異なる何かを意味するなら退けなければならない。機会に恒常的連接が含まれるなら実在する原因であり、含まれなければ関係ですらない。
次に、必然性も種類は一つで、道徳的必然性と物理的必然性とを分ける通例の区別は、自然に根拠をもたない。必然性を構成するのは恒常的連接と心の決定であり、これらを取り除けば偶然である。偶然と絶対的必然性のあいだに中間はない。力能とその行使の区別も、同様に根拠がない。
さらに、これで先の推論への反発も克服できる。存在のあらゆる始まりに原因が必要なのは、論証的にも直観的にも根拠がないと、先に立証しようと努めた。原因を先行と近接と恒常的連接で定義するなら、そのような対象が存在の始まりごとに伴うべきだという絶対的な必然性、すなわち形而上学的な必然性は、ないと容易に思い描ける。心の決定による定義でも、この意見に同意する困難はいっそう小さい。
第四の系として、ある対象について観念が形づくれないなら、それが存在すると信じる理由もわれわれにありえない。存在についての推論はすべて因果性に由来し、因果性についての推論は、経験した対象の連接に由来する。その同じ経験が対象の概念を与え、結論から神秘を取り除く。対象の十全な知識は要らず、存在すると信じる性質の知識だけで足りる。
第15節 原因と結果を判断する規則 先の学説によれば、経験を離れ、ただ眺めるだけで、他の何かの原因だと決定できる対象はなく、原因ではないと断定できる対象もない。どんな対象からでも、どんなものでも生じうる。創造、消滅、運動、理性、意志は、互いから、あるいは想像できるどの対象からも生じうる。対象の恒常的連接が因果性を決定すること、存在と非存在のほかに互いに対立する対象はないことを比べれば、これは奇妙でない。対立しないところでは、恒常的連接を妨げるものはない。
すべての対象が原因や結果になりうるので、実際にそうであるときを知る規則を定める。原因と結果は空間と時間で近接し、原因は結果に先立つ。両者には恒常的な結びつきがあり、これがこの関係を主として構成する。同じ原因は同じ結果を生み、同じ結果は同じ原因からしか生じず、この原理は経験から導かれ、哲学的推論の大半の源泉である。異なる対象が同じ結果を生むなら、それは共通の性質による。類似した対象の結果が違うなら、それは原因の違いによる。結果が原因の増減とともに増減するなら、複合的な結果である。ただし熱を一定の度合いを超えて増せば、快は増さず苦痛に変わる。最後に、結果のないまま完全な状態で存在する対象は唯一の原因ではなく、他の原理の助けを必要とする。
これが私の推論に用いる論理学のすべてである。スコラ学派の論理学者は、規則の長い体系を述べたが、俗人に優ることを示していない。規則は考案しやすく、適用は難しい。自然のどの現象も多くの事情で複合されているので、余計なものを分離し、新たな実験で調べなければならない。道徳哲学ではなおさらで、心の行為に本質的な見方や感情は、存在さえ知られないことがある。
私を安心させるのは、実験の範囲を広げることである。そこで、獣の推論を人間のそれと並べて検討する。
第16節 動物の理性について 明白な真理を否定するのが滑稽なら、それを擁護するために労苦するのもまた滑稽である。獣が人間と同じく思考と理性を備えていることほど、明白な真理はない。論拠は最も愚かな人にも見逃されない。
われわれは、手段を目的にかなうよう整えるとき、理性と意図に導かれていると意識している。したがって、ほかの生き物が何百万もの事例で、似た行為を似た目的へ向けるのを目にすると、理性と蓋然性についての原理は、似た原因が存在すると信じるよう迫る。動物の行為と人間の行為の類似は完全で、最初に選ぶ動物の最初の行為が、反論の余地のない論拠を与える。
この学説は、あらゆる体系を試す試金石になる。動物の外的な行為はわれわれのものに類似するので、内的な行為も類似すると判断し、内的な行為が類似する以上、その原因も類似していなければならないと結論する。したがって、人間と獣に共通の心の作用を説明しようとする仮説は、そのまま両者に当てはまらなければならず、偽の仮説はこの試練に耐えない。哲学者たちの体系に共通する欠陥は、動物の能力も子どもや一般の人々の能力も超える、思考の巧妙さを想定することである。巧妙さは偽りの証拠であり、単純さは真理の証拠である。
動物の行為には、通常の能力に見合うものと、非凡な洞察の事例がある。火や断崖を避け、主人にじゃれつく犬は前者であり、巣の場所と材料を綿密に選び、ふさわしい季節に卵を抱く鳥は後者である。
前者は、人間本性に現れる推論と本質的に異ならない。まず、記憶または感官に直接現前する印象が判断の基礎に要る。犬は声の調子から主人の怒りを推理して罰を予見する。次に、その推理は過去の対象の連接の経験に基づく。ある合図のあとに打擲を続け、次に別の合図のあとに続けるなら、犬は最新の経験に応じて異なる結論を引き出す。
習慣が想像力に及ぼす影響とは独立に、信念の原理を説明し、しかも人間にも獣にも適用できる仮説を、哲学者に立ててもらいたい。私の体系だけがこれらの条件に答えるなら、受け入れられるべきである。獣は対象のあいだの実在する結合を知覚せず、一方から他方を推理するのは経験による。経験していない対象が経験した対象に類似するという結論も、論拠から形づくれない。したがって獣に経験が働くのは、習慣を通じてのみである。獣については誤りの疑いがまったくありえず、私の体系の強い確証である。
習慣の力をこれ以上に示すものはない。人間は自分の理性の作用には驚かず、動物の本能には感嘆して、それを同じ原理に還元できないことに困難を感じる。正しく見れば、理性とは魂のなかの驚くべき理解できない本能にほかならず、観念の連なりに沿ってわれわれを運ぶ。この本能は過去の経験から生じるが、その究極の理由は誰にも与えられない。習慣は自然の原理の一つであり、その力のすべてを起源から得ている。
第4部 懐疑論的な、その他の哲学体系について
第1節 理性に関する懐疑論について 論証的な諸学の規則は確実で誤りがない。しかし適用するわれわれの能力は誤りやすい。だからあらゆる推論において、最初の判断を検査し抑制するために、さらに新しい判断を下さなければならない。知性がわれわれを欺いた事例の歴史を、その証言が真であった事例と比べるのである。理性は、真理を自然な結果とするが、他の原因の闖入や心の諸力能の不定さに妨げられうる、一種の原因とみなされる。こうして、知識はすべて蓋然性に変質する。
代数学者や数学者も、真理を発見したその場で全幅の信頼を置くことはない。証明の見直し、友人の是認、学識ある世界の同意ごとに信頼は増す。この増大は、新たな蓋然性の付加にほかならない。
長い勘定で、商人は会計係の技量に由来する蓋然性を超える蓋然性を、勘定の構成で作り出す。会計係の技量は、それ自体ある程度の蓋然性にすぎない。長い加算は二つの数の加算にまで還元できるので、数の命題でも、蓋然性を超える確実性はほとんどない。ここでは知識と蓋然性の限界も、一方が終わり他方が始まる数も、示せない。しかし両者は反対の本性をもち、分割できず、気づかれないまま移り変わることはできない。しかも一つの加算が確実ならすべての加算が確実で、総和も確実になる。私は確実だと言いかけたが、これもほかの推論と同じく、知識から蓋然性へ変質せざるをえない。
すべての知識が蓋然性に帰着し、日常生活の明証性と同じ本性になるのだから、その基礎を検討しなければならない。
あらゆる判断で、最初の判断は対象の本性に由来するが、知性の本性が与えるもう一つの判断で修正しなければならない。良識と長い経験をもつ人は、愚かな人より自分の意見に大きな確かさをもつが、その権威は完全でない。過去の誤りを意識し、将来にも恐れ続けるからである。ここで、最初の蓋然性を調整し、その正当な比率を定めるために、新しい種類の蓋然性が働きはじめる。論証が蓋然性に抑えられるように、蓋然性もまた、知性の本性を対象とする反照的な作用によって新たな修正を受ける。
こうして、主題に内在する不確実性に、判断する能力の弱さに由来する不確実性が加わり、さらに能力の真実さへの評価にも誤りの可能性があるという疑いが加わる。この決定も蓋然性に基づくので最初の明証性を弱め、同種の第四の疑いにも弱められ、これが際限なく続いて、ついには本来の蓋然性がどれほど大きくても何も残らない。有限なものは、無限に反復される減少には耐えられない。論理学の規則は、信念と明証性の完全な消滅を要求する。
私は、すべては不確かで、判断は真偽の尺度をもたないと主張する懐疑論者なのか、と尋ねられたなら、その問いは無用だと答える。私もほかの誰も、そのような意見を真摯に恒常的に抱いたことはない。自然は、われわれが息をし、感じるのと同じ抑えがたい必然性で、判断するよう決定した。対象が現前する印象と習慣で結びついているとき、それを強い光のなかで見ずにいられないのは、真昼に周囲の物体へ目を向ければ見ずにいられないのと同じである。全面的な懐疑論を論駁した者は、敵なしに論争し、自然が植えつけた能力を、論拠で確立しようとしたのである。
それゆえ、空想的なあの学派の論拠を示した私の意図は、原因と結果についての推論はすべて習慣に由来し、信念は思考する部分より、感じる部分の作用と言うべきだという仮説を、納得させることにある。もし信念が力と生気の付加もない思考の単純な作用なら、信念は自己破壊し、判断は全面的に中止されるだろう。しかし論拠に誤りを見出せない人も、いつもどおり信じ、推論し続ける。だから信念は一種の感覚であり、想念に特有の仕方であって、観念や反省がいくら働いても破壊できない。
では、私の仮説でも、なぜこの論拠は判断の全面的な停止を生まないのか。新たな蓋然性は、思考にせよ感覚にせよ、最初の判断と同じ原理に基づくので、等しく最初の判断を覆し、心を全面的な不確実性に陥れるように思われる。私が記憶と感官の印象から思考を、連接した対象へ移し、一方の側に強い想念を感じるとする。これが最初の決定である。次に私が判断そのものを吟味し、正しいときも誤るときもあると観察して、これらの反対の原因を秤にかけ、新たな蓋然性を持ち出して最初の決定の確かさを減じる。これが際限なく続く。それでもなお、われわれが目的に十分な程度の信念を保つのは、なぜか。
私はこう答える。最初の決定、さらに二度目の決定を経ると、心の作用は無理を伴う不自然なものになり、観念は弱く不明瞭になる。判断の原理は最初と同じでも、想像力に及ぼす影響や、思考に加える活力は同じでない。心が対象に容易に達しないところでは、同じ原理も、自然な想念の場合と同じ効果をもたない。注意は張り詰め、精気は自然な流れから逸らされ、通常の経路を流れるときのようには動きを支配されない。
似た事例は形而上学に豊富にある。歴史や政治なら説得的な論拠が、難解な主題では、理解されても影響力をほとんどもたない。理解の努力が、信念が依存する感情の働きを乱すからである。他の主題でも同じで、想像力の緊張は情念と感情の規則的な流れを妨げる。英雄を不運のなかでも賢く機知に富む者に描くことに腐心する悲劇詩人は、情念を動かせない。心は身体と同様に、力と活動性の一定の度合いを授けられ、一つの作用に用いれば、残りを犠牲にする。作用の性質が異なるほど、心の態勢まで変わり、二つを同時には行えない。したがって、精妙な推論がもたらす確信が、それを思い描こうと想像力が払う努力に比例して減るのは、何ら不思議ではない。信念は生き生きとした想念だから、自然で容易なものに基づかなければ完全にはなりえない。
懐疑論者の論拠を吟味もせず一挙に退ける、手っ取り早いやり方には賛成できない。彼らは、懐疑論的な推論が強ければ理性にある程度の力と権威があることの立証であり、弱ければ知性のすべての結論を無効にするには足りない、と言う。この論拠は正しくない。懐疑論的な推論は、存立するなら、心の態勢が移るのに応じて強くも弱くもなるはずだからである。理性は玉座に立つ者として現れる。それゆえ理性の敵は、理性の庇護に身を寄せるほかなく、理性の無力さを理性的な論拠で証明して、理性自身の署名のある特許状を作る。この特許状は、理性に矛盾するので、理性の力を減じると同時に自らの力も減じ、ついには双方とも何も残らなくなる。懐疑論的な理性と独断論的な理性は、傾向が反対でも同じ種類のもので、等しい力をもつ。自然が懐疑論的な論拠の力を砕いてくれるのは幸いである。自滅だけに頼るなら、それは人間の理性をすべて破壊した後でなければ起こらない。
第2節 感官に関する懐疑論について 懐疑論者は理性の自己弁護を不可能と言いつつ、なお推論し信じている。その同じ規則で、物体の存在という原理にも彼は従わざるをえない。哲学に擁護の力はないが、自然はこの点を彼の選択に委ねなかった。思弁に任せるには大事すぎると見たのである。物体は存在するのかと問うても無駄で、それはあらゆる推論の前提である。問えるのは、何がわれわれに物体の存在を信じさせるのかだけである。
この原因の探究に先立って、混同されがちな二つの問いを分ける。対象が感官から去ってもなぜ継続的な存在を帰するのか。なぜ対象に、心や知覚から別個の存在、つまり外的な所在と独立性を想定するのか。二つは相互に含み合うが、区別しておけば、決着を生む人間本性の原理を見つけやすい。この意見を生むのは感官か、理性か、想像力か。
感官は、現れなくなった対象の継続的存在を与えない。作用をやめたあとも作用すると言うのは、語の矛盾である。与えうるのは別個の存在の意見だけで、それには印象を、像として、あるいは外的な存在そのものとして示さねばならない。感官が伝えるのは単一の知覚で、その向こうを示唆しない。単一の知覚から二重の存在を推理し、類似と因果性を想定するのは、感官ではなく理性か想像力の働きである。
したがって、感官が別個の存在を示唆するなら、錯覚によって印象をその存在そのものとして伝えねばならない。感覚は感じられるとおりのもので、疑われるのは関係と位置だけである。それを示すには、対象とわれわれ自身が感官に明白で、比べられねばならない。自己と人格の同一性は最も深遠な形而上学を要する問いで、日常でもその観念は固定的でも確定的でもない。感官が自分と外的対象を区別すると考えるのは不合理である。しかも内外を問わず、情念や苦痛や快も含め、すべての印象は同じ地位にあり、印象あるいは知覚として現れる。意識に知られる作用が現れと違うとは考えにくい。感官が欺きうるかを論じるのはやめ、実際に欺いているか、誤りがどこから生じるかを調べよう。
外的な存在については、こう言われるだろう。身体はわれわれのものであり、その外にあるように現れる印象は、われわれの外にもあると想定される。私が書く紙は手の向こうに、机は紙の向こうに、窓の外には野原と建物が広がる。感官だけで外的存在は確信できると推理されるかもしれない。だが三つの考察でこの推理は防げる。手足を見ても知覚しているのは印象であり、これに物体的存在を帰するのは、検討中の作用と同じく説明を要する。音や味や匂いは延長のうちに存在しないように思われ、身体の外にあるものとは現れえない。視覚でさえ、距離は経験なしに教えない。
知覚の独立は感官の対象にならず、経験から導く意見でしかなく、その経験は独立の説に好意的でない。別個の存在を語るとき念頭にあるのは、位置よりも独立性である。自分のうちの絶え間ない変転に左右されず、途切れない対象に、十分な実在性を認めるのである。以上で、感官は継続的存在の概念も別個の存在の意見も生まないと結論できる。
感官が伝える印象は三種ある。形、大きさ、運動、固性。色、味、匂い、音、熱と冷たさ。鋼で肉を切られる苦痛と快。一つ目は哲学者も俗人も継続的とみなし、二つ目は俗人だけがそうみなし、三つ目は両者とも中断する知覚とみなす。さて、感官に現れるかぎり、色や音は運動や固性と同じ仕方で存在する。色や音は鋼の苦痛や火の快と同じ地位にあり、どちらも物体の諸部分の配置と運動から生じる知覚だと認められている。違いは知覚にも理性にも基づかず、想像力に基づく。感官に判定を委ねるなら、知覚はどれも存在の仕方が同じだと結論できる。
音と色に別個で継続的な存在を帰すのに、われわれは哲学的原理を秤にかけてはいない。子どもや農民を導いているのは哲学の論拠ではない。俗人は知覚と対象を混同し、見ているそのものに継続的な存在を帰する。哲学は、心に現れるものはすべて中断し心に依存する知覚だと教える。俗人の見解はこれと正反対で理に合わないから、知性以外の能力から生じる。知覚と対象が同じなら、一方から他方を推理できず、事実に確かさを与える唯一の関係である因果関係も使えない。知覚を対象から区別しても推論できないことは、まもなく分かる。この意見はもっぱら想像力による。
すべての印象は内的で消滅する存在として現れる。それでも一部の印象にだけ別個で継続的な存在を帰すのなら、そこに固有の性質があり、それが想像力と合致するはずである。比べて見つければよい。
それは不随意性でも激しさでもない。苦痛と快、情念と情愛は、永続すると想定される形、延長、色、音の印象より激しく、同じく不随意だが、知覚を超えた存在をもつとは想定されない。穏やかな火の熱は火のなかにあると想定されるが、近づいたときの苦痛は知覚のなかにしかないとされる。通俗の見方が退けられたので、別の仮説を探さなければならない。
継続的存在を帰する対象には、固有の恒常性がある。目の前の山々や家々や木々は、いつも同じ順序で現れた。目を閉じ頭を回しても、まもなく少しも変わらず戻る。寝台、机、書物、書類も、私が見るのをやめたことで変わらない。外的とされる印象にだけこれが当てはまる。
恒常性は完全ではない。物体はしばしば位置と性質を変える。だが変化のなかでも整合性を保ち、互いに規則的に依存する。これが因果性にもとづく一種の推論の基礎になり、継続的存在の意見を生む。一時間留守にすれば暖炉の火は変わっているが、私がいてもいなくても同じ時間で同じ変化が起きるのを、私は見慣れている。整合性は恒常性と並ぶ外的対象の特徴である。
内的な印象の整合性は種類が違う。情念は経験上、互いに依存しあうが、その依存を保つために、知覚されないときも情念が存在したと想定する必要はない。外的対象は、継続的存在がなければ作用の規則性を大きく失う。
私は火に向かって部屋に座り、感官を打つ対象は周囲数ヤードに収まる。記憶は過去の存在しか告げない。そこへ扉が蝶番で回る音がし、運搬人が歩いてくる。この音を扉の動き以外から聞いたことがないから、記憶にある扉がなお存在しなければ、現象は過去の経験すべてに反する。人体には重さがあるから、運搬人は、記憶にある階段が私の不在中も存在しなければ、空中を上ってきたことになる。さらに、二百リーグ隔たった所にいると言う友人から手紙が届く。経験に合うように説明するなら、私と友人の間の海と大陸を心に広げ、駅逓や渡し船の継続的存在を想定せざるをえない。私は音を聞くことと扉の動くのを見ることを同時に経験する習慣があるが、この場合は両方の知覚を受け取っていない。扉が残っていて気づかぬうちに開いたと想定しなければ、観察は互いに矛盾する。この想定は初め恣意的な仮説だったが、矛盾を調停できる唯一のものとして力と明証性を得る。似た事例がほぼ瞬間ごとに現れるので、対象の過去と現在の現れを結ぶために継続的存在を想定し、世界を現前しないときも存在を保つものと見るよう導かれる。
この結論は習慣から導かれ過去の経験に規制されるから、原因と結果の推論と同じに見えるが、根底で異なる。心に現前するのは知覚だけだから、習慣は知覚の規則性を超えられず、知覚されない対象のいっそう大きな規則性を推理する基礎にならない。だが整合性から継続的存在を推理するのは、知覚以上の規則性を対象に与えるためである。二種の対象の結合は恒常的でなく頭を回せば断たれうるのに、中断しても続くと想定する。習慣は反復された知覚の結果でしかないから、これを知覚の外へ広げるには、別の原理の協働がなければならない。
数学の基礎を検討したとき、想像力はある思考の流れに入ると、対象が尽きても、櫂で動かされたガレー船のように推進力なしに進み続けると述べた。同じ原理が継続的存在の意見をもたらす。対象は現れるままでも整合性をもつが、継続的存在を想定すれば、はるかに一様になる。心は一様性を観察する流れに入ると、それを完全にするまで進む。だがこの原理だけでは、これほど巨大な建造物を支えるには弱すぎると恐れる。恒常性を加えなければならない。まず体系の素描を示す。恒常性からの推理も継続的存在の意見を生み、この意見は別個の存在の意見に先立って後者を生み出す。
印象の恒常性を観察する習慣がつくと、たとえば太陽や海の知覚が、不在のあと同じ部分と順序で戻るのを見て、われわれは中断した知覚を(実際は異なるのに)類似ゆえに個体として同じものとみなしがちになる。だが存在の中断は同一性に反し、最初の印象は消え二番目は新たに創られたと見させるので、一種の矛盾に巻き込まれる。そこで中断を覆い隠し、むしろ取り除こうとして、中断した知覚が感じ取れない実在的な存在で結ばれていると想定する。この継続的存在の観念は、中断した印象の記憶と、それらを同じとみなす傾向から力と生気を得る。信念の本質は想念の力と生気にある。
この体系の正当化には四つのことが要る。まず個体化の原理、つまり同一性の原理を説明する。次に、中断した知覚の類似がなぜ同一性を帰させるかを示す。さらに、この錯覚が継続的存在で結ぶ傾向を生むことを説明する。最後に、その傾向から生じる想念の力と生気を説明する。
まず個体化の原理。一つの対象を見るだけでは同一性の観念は得られない。対象はそれ自身と同じ、と言って、対象の観念が自身と区別されないなら、何も意味せず、断言が含意する主語と述語もなくなる。単一の対象が伝えるのは単一性の観念であって、同一性の観念は伝えない。多数の対象は、どれほど類似していても、心が一方は他方でないと言明するので、別個の数としか思い描かれない。同一性は単一性とも数とも両立しないから、そのどちらでもない何かのはずだが、一見これは不可能に思われる。単一性と数の間に中間はなく、存在と非存在の間に中間がないのと同じである。
時間あるいは持続の観念に頼って、この困難を除く。不変の対象に時間を適用するのは想像力の虚構で、不変の対象が共存する対象の変化、とくに知覚の変化に参与すると想定する。しばらく眺めて変化も中断もない対象が同一性の概念を与えうるのは、この虚構による。時間の二点を同じ瞬間に見渡せば、対象が増えて数の観念になり、対象に変化も中断もないまま時間だけが移ると想像すれば、単一性の観念になる。見方次第でどちらにもなる中間の観念を、同一性の観念と呼ぶ。厳密には、対象がそれ自身と同じと言えるのは、ある時点の対象が別の時点のそれ自身と同じだという意味でしかない。個体化の原理とは、時間が移ると想定されるあいだ対象が変わらず途切れないことにほかならず、心はこれによって多数性を強いられずに対象をたどれる。
体系の第二の部分に進む。知覚の恒常性は、現れの間隔が長く、不変性しかもたないのに、なぜ完全な数的同一性を帰させるのか。説明するのは俗人の意見だから、彼らの考え方と言い方に合わせる。哲学者は対象と知覚を区別し、共存し類似する二つと想定するが、大多数の人はそれを理解しない。目や耳に入る感覚がそのまま対象であり、直接知覚されるペンや紙が、別の類似したものを表象するとは思い描けない。だから私はまず、ただ一つの存在があると想定し、対象とも知覚とも呼ぶ。
ある観念を別の観念と取り違えさせるものとして、すでに立証した観察を思い出す。想像力で両者を連合させ、移りやすくする関係ほど適したものはなく、その中でも類似が最も効く。類似は観念だけでなく心の態勢も連合させ、一方を他方を思い描く働きに似た働きで思い描かせる。そこで一般規則として、心を同じ態勢か、それに似た態勢に置く観念は、きわめて混同されやすい。心は厳密な注意があるときだけ変化に気づくが、一般にそうした注意はなしえない。
この格率を適用する。変化も中断もなく同じままの対象を考えるとき、心の能力は休息し、移行はほとんど感じられない。同一の対象のほかに、心をこの態勢に置く対象は何か。答えは難しくなく、関係をもつ対象の継起である。関係の本性は、一方が現れたときに相関項への移行を容易にすることだから、心にほとんど変化が生じず、同じ対象を見続けるときの作用が続くように思われる。思考は一つの対象を見ているかのように滑り、継起を同一性と取り違える。
感官の印象のほとんどは、中断のあとも同じ現れと位置で戻る。私は部屋の家具を見渡し、目を閉じて開ける。新しい知覚は以前のものと完全に類似している。この類似は千の事例で観察され、中断した知覚の観念を最も強い関係で結び、心を容易に運ぶ。その移行は、途切れない一つの知覚を見るときの態勢とほぼ同じだから、一方を他方と取り違えるのは自然である。
こう考えるのは思慮のない非哲学的な人々すべてで、われわれも折にふれてそうである。彼らは知覚だけを対象とみなし、内的と外的、表象するものとされるものという二重の存在を考えない。感官に現前する像が実在の物体であり、完全な同一性を認めるのは、その中断した像に向けてである。ところが現れの中断は、それらを互いに異なるものと見させる。類似した知覚に沿う想像力の移行は同一性を帰させ、現れの中断は、類似してはいても互いに別個の多くの存在と考えさせるので、どう調停するかに途方に暮れる。この矛盾の当惑が、現れを継続的存在という虚構で結ぼうとする傾向を生む。これが仮説の第三の部分である。
感情や情念への矛盾は、外から来ても内から来ても不快を与える。類似した知覚の同一性と現れの中断が対立するから、心は不快を覚え、解放を求める。一方を他方に犠牲にするほかないが、類似した知覚に沿う思考のなめらかな移行が同一性を帰させるので、この意見は手放しがたい。そこで反対の側に向かい、知覚は継続的存在を保つと想定する。ただし現れの中断は見過ごせず、心における知覚の現れと存在は一見同じに思われる。知覚が現前なしに存在するという矛盾に同意できるのかは疑わしい。これを明らかにする原理に触れておく。
問題は事実ではなく、結論が形づくられる仕方と原理である。ほとんどの人は、哲学者でさえ生涯の大半、知覚を唯一の対象とみなし、それが継続して存在し、われわれが不在でも消滅しないと想定する。そこで問う。知覚が消滅せずに心から不在になるとは、また新たに創造されずに心に現前するとは、どう思い描くのか。
最初の問いに答える。心と呼ぶものは、ある関係で結びついた知覚の集まりにほかならず、偽りながら完全な単純性と同一性をもつと想定される。どの知覚も他から区別でき、別々に存在しうるから、特定の知覚を心から切り離し、思考する存在を構成する集まりとの関係をすべて断つことに、不合理はない。
同じ推論が第二の問いに答える。知覚という名が分離を不合理にしないなら、同じものを指す対象という名も、連接を不可能にしない。外的対象が心に現前するとは、連結した知覚の集まりとある関係を得て、反省や情念を増し、記憶を観念で満たす影響を及ぼすことである。同じ継続して存在するものが、現前しても不在でも、存在そのものに実在的な変化はない。現れの中断は存在の中断を必ずしも含意せず、継続的存在の想定は矛盾を含まない。類似のために知覚を同一とみなすなら、継続的存在を作り出して間隙を埋め、見かけの中断を消せる。
だが継続的存在は作り出されるだけでなく、信じられてもいる。この信念はどこから来るのか。これが体系の第四の部分である。信念一般は観念の生気にほかならず、観念は現在の印象との関係によってこの生気を得うる。印象は最も鮮明な知覚で、その性質は関係によって結びついた観念に部分的に伝わる。関係は印象から観念へのなめらかな移行を生み、心は変化にほとんど気づかず、第一の知覚の生気の大半を第二にとどめる。
この傾向が関係以外の原理から生じても、印象から観念へ生気を伝える結果は同じで、今の場合がそうである。記憶は、互いに類似した知覚が、中断をはさんで戻る事例を多く示す。この類似は、それらを同じとみなす傾向と、矛盾を避けるために継続的存在で結ぶ傾向を与える。この傾向は記憶の生き生きとした印象に由来し、そこから虚構が生気を受ける。すなわち物体の継続的存在を信じさせる。経験のない対象にも継続的存在を帰するのは、現れ方が似ているからで、この類似が推論と類比の源である。
各部分に自らの立証が伴うことは、反省すれば認められる。俗人は知覚だけを対象としながら物質の継続的存在を信じているから、その想定に立って信念の起源を説明しなければならない。そこでは、中断のあとも同一という考えは偽であり、理性ではなく想像力から生じる。想像力を誘うのは、同じと想定する傾向をもつ類似した知覚だけである。この傾向が継続的存在の虚構を生み、虚構は同一性に反する唯一の事情である中断を癒す。傾向は記憶の現在の印象によって信念をも生じさせる。以前の感覚の想起がなければ、継続的存在を信じないからである。こうして全体が首尾一貫した体系をなす。
想像力の傾向によってそのように継続的存在を帰しても、わずかな反省と哲学で誤りに気づく。継続的存在と別個の存在という二つの原理は密接に結合しており、最初に成立する継続的存在の意見が、多くの反省なしにもう一方を引き連れてくる。だが実験を比較して少し推論すれば、知覚の独立した存在という教説が最も明白な経験に反することに、すぐ気づく。これが継続的存在を帰した誤りに気づかせ、多くの意見の起源となる。
片方の目を指で押せば、対象がみな二重に見えて、半分は自然な位置から外れる。この二つのどちらにも継続的存在を帰さず、同じ本性の二つだから、すべての知覚が器官と、神経および動物精気の状態に依存することが分かる。距離による見かけの大小、形の見かけの変化、病気による色の変化など、無数の実験がこれを確証する。
この推論からは、知覚は独立した存在をもたないだけでなく、継続的存在ももたないはずである。哲学者たちはここまで進み、知覚と対象を区別した。前者は中断し、戻るたびに異なるとされ、後者は途切れず存在し続けて、同一を保つとされる。しかし私は、この体系は対症療法でしかなく、通俗の体系がもつ困難をそっくり引き継ぎ、そのうえ固有の困難も抱えると主張する。二重の存在という意見は、中断する知覚が同一で継続するという通俗の想定を通らなければ、至ることができない。知覚だけが対象で感官を離れても存在し続けると確信していなければ、対象だけが継続すると考えるには至らない。つまり後者の仮説は、理性にも想像力にも第一次的な推奨をもたず、想像力への影響力のすべてを前者から借りている。この二つの部分を、主題が許すかぎり明晰に立証する。
第一の部分、すなわち理性について。確実と知る唯一の存在は知覚で、意識に直接現前するので、すべての結論の最初の基礎になる。ある存在から別の存在へ結論する唯一の方法は因果関係で、その観念は、二つの存在が恒常的に連接し、つねに同時に心に現前していた過去の経験から導かれる。だが心に現前するのは知覚のほかにない。因果の連接を観察できるのは異なる知覚の間だけで、知覚と対象の間では観察できない。前者の存在や性質から後者の存在を結論することは決してできない。
想像力についても同じである。想像力がこの原理に本来の傾向で行き着くことはない。知覚は途切れ、互いに異なると認めたとしよう。その想定のうえで、想像力がなぜ直接に、知覚と似ながら継続し、中断せず、同一である別の存在を信じるに至るのかを、誰かが私の満足するように示せば、私は現在の意見を捨てる。それまでは、第一の想定が抽象的で困難であること自体が、想像力の働く主題でないことを示すと考える。通常の意見の起源を説明するには、知覚が唯一の対象で、知覚されないときも存在するという、偽ではあるが最も自然な想定から出発しなければならない。
第二の部分は、先の結論の避けがたい帰結である。哲学的な体系は多くの心を捉えているが、もともとの権威をもたないから、権威のすべてを通俗の体系から引き出している。反対の二つがどう結びつくかを説明する。
想像力は次の連なりを自然にたどる。知覚は唯一の対象であり、類似した知覚は現れが途切れても同じである。見かけの中断は同一性に反するから、中断は現れを超えず、知覚は不在のときも存在し続ける。ところが少しの反省で知覚の依存が分かり、この結論は砕かれる。すると継続的存在という意見も完全に退けられると予想される。だが事情は違う。哲学者は知覚の独立と継続を退けても、継続的存在という意見までは退けない。必然的な帰結であるはずのその否定は、少数の突飛な懐疑論者に特有だった。彼らも言葉の上で主張しただけである。
冷静な反省の意見と、本能によって受け入れる意見が対立すれば、どちらが勝つかは予見しやすい。注意が主題に向くあいだは哲学的原理が勝つが、思考をゆるめた瞬間に自然が姿を現し、以前の意見へ引き戻す。自然は最も深い反省のさなかにも歩みを止める。われわれは知覚の依存と中断を知覚しながら、道半ばで立ち止まり、独立で継続的な存在の概念を退けない。その意見は想像力に深く根ざし、根絶できない。
とはいえ反省が力を保つあいだは闘争がある。心の安らぎを得るために、理性と想像力の二つの原理をともに容れる新しい仮説、知覚と対象の二重の存在を案出する。依存的な知覚が中断し異なると認める点で理性を満たし、対象に継続的存在を帰す点で想像力に応える。この体系は、反する二つの原理の怪物的な子である。想像力は、類似した知覚が継続し、不在で消滅しないと告げ、反省は、類似した知覚でさえ中断し互いに異なると告げる。この矛盾を、反対の性質を異なる存在に帰する新しい虚構で回避する。中断は知覚に、継続は対象に帰すのである。
自然は理性に攻撃されても戦場を去らず、理性も姿を偽れない。二つの敵を和解できないので、それぞれの求めるものを順に認め、あらゆる条件をそなえた何かが見つかるような二重の存在を作り出す。知覚が継続し、同一で独立だと十分に確信していたなら、二重の存在には陥らない。依存的で中断し異なると十分に確信していたなら、二重の存在を受け入れる気にならない。この意見は、二つの原理に固執しながら両方を受け入れる口実を探さざるをえない心の中間的な状況から生じ、その口実を最後に二重の存在の体系に見いだす。
この体系にはもう一つ利点がある。通俗の体系に似ているので、理性が厄介なときはなだめ、それが怠ければ通俗の概念に戻れる。哲学者たちは書斎を出るやいなや、ほかの人々と同じく、知覚は中断した現れを通して同一のまま続くという、とうに論破された意見に交じる。
この体系が想像力に依存する点はほかにもある。まず、外的対象が内的知覚に類似すると想定する。因果関係は知覚から外的対象の存在への結論を与えないし、与えうるとしても、類似を推理する理由は何もない。その意見は、想像力が観念をすべて先行する知覚から借りる性質だけに由来する。知覚以外は思い描けないから、すべてを知覚に似せるしかない。次に、個々の対象が、それの引き起こす知覚に類似すると考える。因果関係で結びついた観念に、結びつきを完成させるため類似を付け加えるからである。
外的存在に関する通俗の体系も哲学的な体系も説明したので、見直して生じる感情を吐露せずにはいられない。私は感官への暗黙の信頼を結論と予期してこの主題を始めた。だが率直に言えば、いまは反対に傾いている。感官、というより想像力に暗黙の信頼を置くよりは、いかなる信頼も置かない方に傾いている。継続的存在の意見を生むのは知覚の整合性と恒常性だが、これらはそのような存在と知覚しうる結合をもたない。恒常性は最大の効果をもつが、類似した知覚を数において同一とする粗雑な錯覚が、最大の困難である。哲学的な体系も同じ困難を免れず、通俗の想定を否定しながら同時に成り立たせるという不合理を負う。哲学者は、類似した知覚の同一と継続を否定しながら、そうであってほしい性質を担わせる新しい一組の知覚を、恣意的に作り出す。この混乱から誤りのほかに何が期待でき、それらへの信念をどう自分に正当化できるのか。
理性と感官の両方に関する懐疑的な疑いは、根本的には癒されない病で、追い払って去ったかに見えても、どの瞬間にも戻ってくる。どんな体系も知性と感官を擁護できず、擁護しようとすれば、かえって両者をさらす。疑いは深い反省から自然に生じるから、進めるほど増大する。救済を与えるのは不注意と無関心だけで、私はもっぱらそれに頼る。読者も一時間後には、外的世界と内的世界の両方を確信しているだろう。その想定で、印象のいっそう個別的な探究に進む前に、両方について古代と近代が提案した一般的な体系をいくつか検討する。
第3節 古代の哲学について 道徳家たちは、自分の心と徳の進歩を知る方法として、朝に夢を思い出し、最も熟慮した行為と同じ厳しさで調べることを勧めてきた。夢には技巧も恐れも策略も入らず、気質が想像力の虚構に最も自由に働き、性格が最もよく現れるからである。同じく、古代の哲学が作った実体、実体形相、偶有性、隠れた性質という虚構を批判的に調べれば、有益な発見が得られると私は確信する。これらは、不合理で気まぐれの極みでありながら、人間本性の原理と密接に結びついている。
物体の観念とは、心が、恒常的に結びついた別個の感覚されうる性質を、観念として寄せ集めたものでしかない。それでもわれわれは、その複合物を一つのものとみなし、かなり変化しても同じものとみなす。複合は単純性に、変化は同一性に反する。この明白な矛盾に陥る原因と、それを隠す手段を考察する価値がある。
変わっていく性質の観念は密接な関係で結ばれている。そのため心は継起を追うとき、容易な移行で運ばれて変化に気づかず、不変の対象を見ているのと変わらない。想像力は心への影響が似た観念を取り違えるので、関係する性質の継起を、変化せずに続く一つの対象とみなす。思考の進みがなめらかで途切れないので、心は欺かれて継起に同一性を与える。
だが持続の二つの時期を一度に見渡して比べると、徐々には感じなかった変化が重大に見え、同一性を壊す。この矛盾を和解させようとして、想像力は、あらゆる変化を通じて変わらないと想定される未知の何かを作り、実体、根源的で第一の質料と呼ぶ。単純性も同じ原因による。桃やメロンの色、味、形、固性は、強い関係のために一つのものと思い描かれる。だが別の観点から見れば、それらは互いに区別され分離可能である。そこで想像力は、性質を結びつける原理として、未知の根源的な実体を作り出す。
逍遙学派は、火、水、土、空気が循環し変化するので根源的質料は同質だとし、同時に各対象に別個の実体形相を割り当てる。変化を追うときは同じ実体を、感覚される差異を見るときは本質的な差異を想定し、両方に身をまかせるために、物体は実体と実体形相を同時にもつとされる。
偶有性の概念はその避けがたい帰結である。性質を見いだすときはいつも実体の存在を思い込んでいたので、因果の結合を推理させる習慣が、性質は未知の実体に依存するという推理をさせる。だが性質はすべて別個で、他から離れて存在できる。実体という妄想を離れても同じである。哲学者は隠れた性質の見解で虚構をさらに押し進め、支える実体も支えられる偶有性も、不完全な観念しかないまま想定する。この体系全体は理解しがたいが、先の原理に劣らず自然な原理に由来する。
この主題には意見の三つの段階がある。俗人のもの、偽の哲学のもの、真の哲学のものである。真の哲学は、誤った知識の見解より俗人の見解に近い。俗人は恒常的に結びついた対象の間に結合を知覚していると思い、習慣のために切り離しを不可能と思う。哲学者は習慣の効果を捨象して観念を比べ、対象は別個であり、一方から他方を推理するのは恒常的な連接を観察するときだけだと知覚する。ところが彼らは、原因に属する力能の観念をわれわれはもたないと結論する代わりに、作用が成り立つ性質を探し続ける。通俗の誤りを免れても、結合を物質や原因のうちに探すことは免れない。正しく結論していれば、俗人に戻り、探究を無関心に眺めたであろう。その状態は、シシュポスとタンタロスの刑罰より苦しい。永遠に逃れるものを、決して存在しえない場所で探しているからである。
自然は埋め合わせとして、能力と隠れた性質という語を哲学者に与えた。意味のある語を頻繁に使うと、観念は省き、随意にそれを呼び戻す習慣だけを保つようになる。同じく、意味のない語を頻繁に使っても、先の語と同じ地位にあって秘密の意味があると思い込む。現れの類似が心を欺き、哲学者は錯覚によって、民衆が愚かさで、真の哲学者が穏健な懐疑論で達するのと同じ無関心に至る。
逍遙学派が想像力に導かれた例のうち、共感、反感、真空への恐怖が最も顕著である。人間本性には、自分のうちに観察する情動を外的対象に与える傾向がある。少しの反省で抑えられ、子ども(自分を傷つけた石を打つ)、詩人(あらゆるものを擬人化する)、古代の哲学者(共感と反感)にだけ生じる。子どもと詩人は許せる。だが哲学者にどんな弁解があるだろうか。
第4節 近代の哲学について 想像力があらゆる体系の最終的な審判者なら、古代の哲学者がそれに導かれたことを非難するのは不当だ、という反論があるかもしれない。弁明のために、想像力のなかの原理を区別する。恒久的で抵抗できず普遍的な原理は、原因から結果への習慣的な移行であり、思考と行動すべての基礎で、除けば人間本性は滅びる。変わりやすく弱く不規則な原理は、いま私が注意したものであり、不要で、弱い心にだけ生じ、習慣と推論に覆される。暗闇で明瞭な声を聞き、誰かが近くにいると結論する人は、正当に自然に推論している。暗闇で幽霊への不安にとらわれる人も自然に推論していると言えるが、それは病気が自然的原因から生じると言うのと同じ意味にすぎない。
古代の意見は暗闇の幽霊のようなもので、人間本性において普遍的でも避けがたくもない原理に由来する。近代の哲学は、この欠陥から自由で、堅固で恒久的な原理だけから生じると称する。この主張の根拠を探究しなければならない。
その基本原理は、色、音、味、匂い、熱と冷は外的対象の作用から生じる心のなかの印象にすぎず、対象の性質に類似しないという意見である。満足できる理由は一つだけで、見かけ上同じ対象でも印象が変わることである。病人は好んだ食物に不快な味を感じ、ある人に苦いものが別の人には甘い。雲の色は距離と角度で変わり、火は距離しだいで快も苦も伝える。一つの対象から同じ感官の異なる印象が生じるなら、そのどれもが対象の性質に類似するとは限らない。一つの対象が同時に同じ感官の異なる性質をそなえることはなく、また一つの性質が互いに全く違う印象のすべてに似ることもありえないから、多くの印象は外的な範型をもたない。同様の結果からは同様の原因を推定する。色や音の印象の多くは内的な存在で、類似しない原因から生じると認められており、見かけ上は他の色や音の印象と何ら異ならない。そこで、すべてが同様の起源をもつと結論する。
これを認めれば、色や音などは継続的な独立の存在を失い、第一性質だけが残る。延長と固性、およびその変様である形、運動、重さ、凝集である。動物や植物が生じて朽ちることも、物体相互の作用も、すべて形と運動の変化にほかならない。
この体系には異論が多いが、私は決定的な一つに限る。外的対象を説明する代わりに、この体系は対象を消滅させ、懐疑論へわれわれを還元する。色、音、匂いが単なる知覚なら、運動、延長、固性でさえ、実在的で独立の存在をもたない。
運動は動く物体の観念を想定し、それは延長か固性に帰着する。延長は、色か固性をもつ部分からしか思い描けない。複合的な延長の観念は、最終的には単純で不可分な部分に解消され、それらは色をもつか固いのでなければ無である。色は除かれるから、延長の実在性は固性に依存する。固性は、互いに貫入しない二つの物体の観念である。では、その物体の観念とは何か。運動は延長に、延長は固性に依存するので、固性の観念を運動か延長に依存させれば循環に陥る。近代哲学は固性の、したがって物質の正しい観念を残さない。
言い換える。固性の観念には、貫入なしに押し合う二つの物体が要る。二つの無は互いを排除できない。それらを固いものと思い描けば際限がなく、延長をもつものと思い描けば、偽の観念である色か、固性かへ戻る。色、音、熱と冷が除かれたあと、物体の首尾一貫した観念を与えるものは何も残らない。
固性は消滅の不可能性にほかならず、それが属する対象の観念がいっそう必要になる。観念は由来する印象から検討するのが、われわれの方法である。視覚、聴覚、嗅覚、味覚の印象は類似する対象をもたないから、固性の観念をもたらす感官は触覚しか残らず、物体の固性は触れれば感じると自然に思われる。だがこれは通俗の考えである。
まず、感じは固性と少しも類似しない。片手が麻痺した人も、その手が机に支えられているのを見れば、もう一方の手で触れるときと同じく、完全な不可入性の観念をもつ。抵抗は神経と動物精気に運動を与えて感覚を伝えるが、感覚と運動と抵抗が類似することは帰結しない。
次に、触覚の印象は単純であり、固性は近接と衝撃を伴う二つの物体を想定する複合的な対象である。手で石を押す場合と二つの石が押し合う場合の違いは、前者にだけ感じがあることだが、単純な印象は一部だけ取り除けない。印象の全体が、外的対象に原型をもたない。固性は不変なのに、触覚の印象は刻々変わる。
こうして、理性と感官の間に、すなわち原因と結果から形づくる結論と、物体の継続的な独立の存在を確信させる結論の間に、全面的な対立がある。原因と結果から推論すれば、色も音も味も匂いも継続的な独立の存在をもたず、これらを除けば宇宙にそのような存在をもつものは残らない。
第5節 魂の非物質性について 外的な対象にも物質の観念にも、これほどの矛盾と困難があった。それなら、はるかに曖昧に思える心の本性には、さらに大きな矛盾があると予期する。だがこの予期は誤りである。知的世界は曖昧でも、自然界のような矛盾には悩まされない。それについて分かっていることは自己整合的であり、分からないことは、そのままにして満足するほかない。
知覚が内属すると想定される実体について、凝った推論をする哲学者がいる。この果てしない難癖を止める最良の方法は、実体と内属とは何を意味するのかを尋ねることである。答えたあとで初めて、論争に入ることが理にかなう。
この問いは物質と物体については答えられなかった。心の場合には、同じ困難に加えて固有の困難がある。すべての観念は先行する印象に由来するから、心の実体の観念をもつなら、その印象もなければならない。だが印象が実体を表象できるのは類似によるほかなく、印象は実体ではなく、実体に固有の性質ももたない。
心の実体の観念をもつと称する哲学者は、その観念を生む印象を指し示してほしい。それは感覚の印象なのか、反省の印象なのか。快、苦痛、無差別のいずれなのか。いつもわれわれに伴うのか、間をおいて戻るのか。
実体の定義は「それ自体で存在しうるもの」だと言って逃れるなら、この定義は思い描きうるすべてに当てはまり、実体と偶有性、魂とその知覚を区別しないと指摘する。すでに認められた原理がある。明晰に思い描かれるものは存在しうる。また、異なるものはすべて区別でき、区別できるものはすべて想像力によって分離できる。知覚は互いに、また宇宙の他のすべてと異なるから、別個で分離可能であり、別々に存在でき、存在を支えるのに他の何も要らない。それゆえ知覚は、この定義が説明する意味での実体である。
起源によっても定義によっても、実体の満足な概念は得られない。魂が物質的か非物質的かの問いそのものを退けざるをえない。われわれは知覚以外のものの完全な観念をもたず、実体は知覚とまったく異なるから、実体の観念はない。知覚の存在を支えるのに必要と見えるものもないから、内属の観念もない。問いの意味さえ分からないのに、答えられるだろうか。
魂の非物質性のための一般的な論拠がある。延長をもつものは部分から成り、少なくとも想像力において分割できる。だが分割できるものが、分割できない思考に連接することはできない。連接を想定すれば、分割できない思考は物体の左にあるのか、右にあるのか。特定の一部分にあるなら、知覚はその部分とだけ連接する。すべての部分にあるなら、思考も延長をもち分割可能になり、不合理である。情念に長さ一ヤード、幅一フィート、厚さ一インチがあるなどと、思い描ける人がいるだろうか。思考と延長は両立しない性質であり、一つの主体で一体化することはない。
この論拠が及ぶのは魂の実体ではなく、場所的な連接である。どんな対象が場所的な連接を受け入れるかを考察する。
空間と延長の概念は、視覚と触覚だけから得られる。味わいや音は、距離と近接の観念を、習慣と反省によってしか形づくらせない。場所をもつものは延長をもつか、数学的な点である。延長をもつものは円形や正方形のような形をもつが、これらは欲求には当てはまらない。欲求を数学的な点とみなせば、配置して長さ、幅、厚さを作れるはずだが、不合理である。
そこで私は、複数の形而上学者に非難される格率を主張する。対象はどこにもなくても存在しうる。存在者の大部分はこのように存在し、存在せざるをえない。視覚と触覚の対象を除く、すべての知覚がそうである。道徳的な反省は情念の右にも左にも置けず、匂いや音は円形にも正方形にもなれない。情念が特定の場所にあるように見えるなら、延長の観念はそれらからも得られることになり、すでに確立したことに反する。もつように現れないなら、そのように存在することもありうる。思い描くものはすべて可能だからである。
単純でどこにもない知覚が、延長をもつ物質と場所的に連接できないことは、共通の性質なしには関係を築けないのだから、もはや立証するまでもない。この問いは日常の生活にも現れる。机の一端の無花果と他端のオリーブを考えよう。それぞれの味わいを、色をもち触知できる性質と同じ場所に連接させていることも明らかである。苦い味と甘い味は、見える物体のなかにあり、机の長さで隔てられていると想定される。
延長をもつ対象は、場所をもたない対象と場所的に連接できないが、他の多くの関係を受け入れる。果物の味と匂いは、色や触知できることからつねに切り離せず、心に現れる時間も同時である。この因果性と時間における近接の関係のために、一方が現れると心は他方の想念へ向かう。しかも、対象が関係で結ばれると、結びつきを完成させる新しい関係を加えようとする傾向が、われわれにはある。物体を並べるとき、類似したものを近接させて置くのがその例である。いまの場合、因果性と時間における近接から、結合を強めるために場所における連接を虚構として作り出す。
だが反省すれば、この結びつきには理解できず矛盾した何かがある。物体の周囲の内にあると思い描く味は、あらゆる部分にあるのか、一つの部分だけにあるのか。一つだけとは答えられない。どの部分も同じ味わいをもつと経験が確信させる。あらゆる部分とも答えられない。味に形と延長を想定することになり、不合理だからである。想像力の傾きと理性の対立に引き裂かれて、われわれはどちらも捨てず、主題を混乱と曖昧さに巻き込んで、対立が知覚されないようにする。味は延長なしに全体を満たし、分離なしに各部分に丸ごとあると想定するのである。これは、全体は全体のなかに、全体はどの部分にもある、というスコラの原理を用いていることになり、ほとんど、事物がその場所にありながらそこにないと言うに等しい。
こうした不合理は、場所を受け入れないものに無理に場所を与えようとすることから生じる。理性が先入見に打ち勝つ力をもつなら、この場合は理性が勝たざるをえない。選択肢は、存在者が場所なしに存在するか、形と延長をもつか、全体が全体のなかに、各部分のなかにあるか、のいずれかである。後の二つの不合理は、最初の想定の真実性を立証する。数学的な点の仕方で存在するという第四の見解は第二の見解に帰着し、ある数の匂いと音を連接すれば十二立方インチの物体ができる、と想定することになる。
この見方から、思考をすべて延長と結びつける唯物論者を非難せざるをえなくても、思考をすべて単純で分割できない実体に帰す論敵にも、同じ非難が向く。最も通俗的な哲学は、外的対象は知覚の介在なしに心に知られないと教える。いま現れている机は知覚であり、その最も明白な性質である延長は知覚にある。知覚は部分から成り、形をもち、動かせ、分離でき、分割できる。延長の観念は印象そのものの写しだから、その観念が当てはまるものは延長をもつ。
自由思想家は今度は勝ち誇ってよい。延長をもつ印象と観念が現にあるのだから、分割できない単純な主体が延長をもつ知覚とどう一体化するのかと、論敵に問える。非物質的な実体は、知覚に対して左側にあるのか、右側にあるのか。延長なしにあらゆる部分にあるのか、他の部分を離れずに一つの部分に丸ごとあるのか。答えは、それ自体が不合理であるか、分割できない知覚と延長をもつ実体との結びつきの仕方を、そのまま説明するかのどちらかである。
そこで魂の実体の問いに戻る。思考する実体に非物質性、単純性、分割不可能性を認める教説は、真の無神論であり、スピノザが悪名高い理由となった見解をすべて正当化する、と私は主張する。論敵は、非難が自分に返るのを見れば、現在の教説を憎むべきものにする口実を失う。
スピノザの根本原理は、宇宙の単純性と、思考と物質の双方が内属する実体の単一性である。世界にはただ一つの単純で分割できない実体があり、場所的な現前なしにどこにでもある。感覚で外的に発見するもの、反省で内的に感じるものは、すべてその唯一の存在の変様にすぎない。同じ基体が、それ自体には差異も変化もなく、最も異なる変様を支える。
この忌まわしい仮説は、いま広く支持される魂の非物質性の仮説とほとんど同じだと示せる。すべての観念は先行する知覚に由来するから、知覚の観念と対象の観念が、種において異なるものを表象することはない。違いを想定しても理解できないままで、外的な対象を、関係項を欠いた単なる関係として思い描くか、知覚とまったく同一視するかのどちらかを強いられる。
ここから、一見詭弁に見える帰結が出る。対象と印象の間に種の違いは想定できても、思い描けない。だから印象について形づくった結論が対象に当てはまるかどうかは確実でない。だが対象についての結論は、印象にもまちがいなく当てはまる。対象の性質は心に思い描かれねばならず、印象に共通でなければ思い描かれないからである。こうして、経験からの変則的な推論による以外、印象に及ばない結合や背反を対象の間に発見することはできない。その逆は、同じようには真でないかもしれない。
二つの存在の体系を考える。まず、太陽、月、星、地球、海、植物、動物、人間、船、家という対象の宇宙があり、スピノザは、これらは単純で複合されない主体の変様にすぎないと告げる。次に、思考の宇宙、私の印象と観念がある。そこにも別の太陽、月、星、地球と海、町、家、山、川があり、神学者は、これも単純で複合されない一つの実体の変様だと告げる。第一の仮説は嫌悪と軽蔑で、第二の仮説は喝采と崇敬で扱われる。注意して見ると、どちらも理解不可能で、よく似ており、一方の不合理は両方に共通だと分かる。観念はすべて印象に由来し、対象の性質の観念は印象の性質に当てはまる。延長をもつ対象と単純な本質との間に背反が見いだされるのは、その対象の印象と同じ本質との間にも、同じ背反が成り立つ場合に限られる。
この議論を詳しく検討する。スピノザには、様態は実体と同じでなければならず、宇宙の延長は単純な本質と同一視されなければならない、と言われてきた。用語を変えるだけで、同じ議論が、われわれの延長をもつ知覚と魂の単純な本質にも適用できる。さらに、物質の各部分は様態ではなく別個の実体だ、とも言われてきた。だが実体をそれ自体で存在しうるものとみなすなら、あらゆる知覚とその各部分が別個の実体であることを、私は立証した。この点でも二つの仮説は同じ困難を抱える。
また、単一の実体が同じ瞬間に、対立する形をとって、あの正方形の机にも、この円形の机にもなりうるのはどうしてかと問われた。私は同じ問いを机の印象について立てる。答えはどちらも同じく満足のいくものではない。
こうして同じ困難がどちらにもつきまとい、魂の単純性と非物質性の確立は一歩も進まず、無神論への道が整う。思考を変様と呼ばず、作用と呼んでも同じである。作用は抽象的な様態とほぼ同じ意味だからである。そのことは二つの反省で明らかになる。
まず、知覚は作用と呼べない。知覚はすべて互いに分離でき区別できるので、実体の抽象的な様態でありうることは思い描けない。運動の例では、運動は物体に実在的な変化をもたらさない。だが朝に気の合う仲間と庭を歩く人と、午後に地下牢で恐怖と絶望と憤りに満ちた人の間には、根本的な違いがある。魂の実体の観念がない以上、根本的な変化を伴わずに魂がこうした対立を受け入れうる理由は、語りようがない。作用という語は、知識を何も増さない。
次に、作用という語が非物質性の主張に利益をもたらすなら、無神論の主張にも等しくもたらす。無神論者も、植物、動物、人間は、盲目の必然性から自らを発揮する単純な普遍的実体の個別の作用にほかならないと断言してよい。これは不合理だとあなたは言うだろう。私は理解できないと認める。だがそこに見いだされる不合理は、印象と観念の想定にも当てはまる。
次は知覚の原因に関する仮説である。諸学派では、物質と運動はどう変化しても物質と運動のままで、位置と配置の違いを生むだけだと言われる。円を描く運動が円運動にすぎないのに、楕円の運動が情念や道徳的な反省でもあるというのは不合理だ。二つの球形の粒子の衝突が苦痛になるというのも不合理だ。そこで諸学派は、思考は物質によって引き起こされないと結論する。
この議論の論駁は容易である。原因と結果の間の結合をわれわれは感じ取らず、この関係の知識は恒常的な連接の経験からしか得られない。相反しない対象はすべて恒常的な連接を受け入れうる。だから経験に先立って考えるなら、何でも何かを生みうる。運動と思考の間に結合が見えないのは、他のすべての原因と結果でも同じである。てこの両端に同じ重さの物体を置いても、距離に依存する運動の原理は見つからない。配置が思考を生まないと経験に先立って立証するなら、同じ推論で運動も生まないことになるが、それは明白な経験に反する。身体の状態が違えば思考も感情も変わることを、誰でも知覚できる。思考の原因の問いに限れば、観念の比較で思考と運動は異なると分かり、経験で恒常的に結びついていると分かる。したがって運動は、思考や知覚の原因でありうるだけでなく、実際にその原因である。
ここには次のジレンマしか残らない。心が対象の観念のなかに結合を知覚できる場合を除き、何も他の原因たりえないとするか、恒常的に連接していると見いだされる対象はすべて原因と結果だとするか。前者を選べば、宇宙に原因はなく、神さえ原因ではないことになる。至高の存在の観念も、効力も他の存在との結合も含まない個別の印象に由来するからである。無限の力能をもつ存在の観念と結果の観念との結合は必然的だ、と言われるかもしれない。だが力能は結合によってしか定義できず、これは同語反復にすぎない。さらに、神があらゆる原因の欠陥を補うと想定すれば、甚だしい不敬虔に導かれる。物質が運動や思考を生めない理由は見える結合がないことだったが、同じ理由で、われわれのあらゆる意志作用と知覚の作者は神だと認めなければならず、至高の存在は、善も悪も、悪徳も有徳も含めて、われわれのすべての行為の真の原因となる。
こうして、もう一方の側、すなわち恒常的に連接する対象はすべて原因と結果とみなすべきだという側へ、必然的に追い込まれる。相反しない対象は恒常的な連接を受け入れうるから、観念だけで決定できるかぎり、何でも何かの原因あるいは結果でありうる。これは唯物論者に、論敵に対する優位を与える。
全体の決定はこうである。魂の実体についての問いは理解できない。知覚のすべてが場所的な結びつきを許すわけではなく、延長をもつ知覚ももたない知覚もある。対象の恒常的連接が原因と結果の本質そのものなのだから、物質と運動は、関係の概念をもてるかぎり、しばしば思考の原因とみなしてよい。
哲学が自己弁護を強いられるのは、臣下に対する大逆罪で告発された王のような屈辱である。哲学が自己弁護を名誉と考えるのは、宗教が傷つけられたように見えるときだけである。前述の議論が宗教に危険だと思う人があるなら、以下の弁明でその懸念が消えることを望む。
対象の作用や持続を、経験に先立って結論する根拠はない。どんな対象でも、活動をまったく止めることも、一瞬で消滅することも想像でき、想像できるものはすべて可能である。これは物質にも精神にも当てはまる。魂の不死についての形而上学的な議論は、どちらの場合も等しく決定力を欠き、道徳的な議論と自然の類比からの議論は、どちらの場合も等しく強力である。私の哲学が、宗教を支える議論に何も加えないとしても、少なくとも何も奪わず、すべては以前とまるで変わらないと考えて、満足できる。
第6節 人格の同一性について われわれが自己と呼ぶものは、どの瞬間にも身近に意識され、存在も持続も感じられ、同一で単純であることは論証以上に確かだ、と考える哲学者たちがいる。激しい情念もこの意識を乱さず、苦痛や快が自己に及ぼす影響を考えさせて、かえって注意を固定するだけだという。立証しようとすれば明証性を損ない、疑えば確実なものは何も残らない、と彼らは言う。
不幸にも、この主張は経験に反する。自己の観念が実際にあるなら、それはどの印象から導かれるのか。実在的な観念は、何か一つの印象から生じるはずである。しかし自己は、種々の印象や観念がそれに関係すると想定されるものであって、一つの印象ではない。仮に一つの印象がそれを生むなら、その印象は生涯を通じて同一でなければならない。だが変わらず続く印象はない。苦痛も快も、悲しみも喜びも、情念も感覚も代わる代わる現れ、同時にそろうことがない。それゆえ、そのような観念はない。
さらに、個々の知覚は異なり、区別され、分離可能であって、それぞれ独立に存在できる。それなら、どのように自己に属するのか。私が自分自身に深く入り込むとき、熱さや冷たさ、明暗、愛憎、苦痛や快など、何か特定の知覚に必ず行き当たる。知覚なしに自分をとらえたことはない。熟睡のあいだは自分を感じず、存在しないと言ってよい。死によって知覚がすべて取り除かれれば、私は完全に無に帰する。自分について別の概念をもつ人がいるなら、もはやその人と推論できない。その人は単純で継続的な何かを知覚しているのかもしれないが、私は自分のうちにそのような原理がないと確信する。
この種の形而上学者を除く人類は、あえて断言するが、想像もつかない速さで次々に入れ替わり、絶えず流れ動いている知覚の束あるいは集まりでしかない。眼窩のなかで眼を動かせば知覚が変わり、思考はそれ以上に変わりやすい。心は一種の劇場であり、知覚が現れ、通り過ぎ、混じり合う。厳密に見れば、心に一時点の単純性はなく、時点をまたぐ同一性もない。それを想像する傾向がどれほど強くてもそうである。劇場という比較に惑わされてはならない。心を作るのは継起する知覚だけで、場面が演じられる場所について、われわれは何も知らない。
では何が、継起する知覚に同一性を帰させ、中断のない存在を自分がもつと想定させるのか。人格の同一性は、思考あるいは想像力にかかわるものと、情念あるいは自分への関心にかかわるものとに区別される。いま問題なのは前者である。植物や動物に帰する同一性とのあいだに大きな類比があるので、それも併せて説明しなければならない。
不変で中断のない対象の観念が、同一性の観念である。密接に関係して継起する異なる対象の観念は、関係がない場合と同じく、完全な相違を与える。両者は別個で、反対でさえあるのに、混同される。前者を考察する想像力の作用と、後者を反省する作用とは、感じがほとんど同じだからである。関係は、心の移行を継続的な対象を眺めるときと同じくなめらかにする。この類似が、関係する対象という概念の場所に同一性の概念を置き換えさせる。反省で自分を正してもこの偏りは取れず、最後には屈して、中断し変化する対象を実際に同じだと主張する。
この不条理を正当化するため、われわれは対象を結びつけ、中断や変化を妨げる理解できない原理を、虚構として作り出す。中断を除くために感官の知覚の継続的存在を、変化を覆うために魂、自己、実体の概念を作る。そうしない場合も、関係のほかに部分を結ぶ神秘的なものを想像しがちで、植物の同一性にもこれがあてはまると私は考える。同一性を正当化する不変で中断のないものは見いだせない。
同一性をめぐる論争は、言葉の争いではない。変化し中断する対象に同一性を帰すとき、誤りは表現にとどまらず、不変で中断のない何かや神秘的な何かを、虚構として作り出す傾向を伴うからである。日常の経験から、同じままと想定される対象が、類似、近接、因果性で結ばれた部分の継起にすぎないと示せば足りる。そうした継起は相違の概念に対応するので、同一性を帰すのは誤りによる。部分の関係は観念の連合と容易な移行を生むだけなので、誤りは、この心の作用が一つの継続的な対象を眺める作用と似ていることだけから生じる。したがって私の主な仕事は、同一性を帰されるすべての対象が関係する対象の継起にすぎないと立証することである。
近接し結びついた物質のかたまりを想定する。部分がすべて中断なく同じなら、完全な同一性を帰す。小さな部分が加わり、あるいは去れば、厳密には同一性は破壊されるが、われわれはそれほど正確に考えず、わずかな変化なら同じと言う。移行がなめらかなので、同じ対象の継続的な考察だと思いがちである。
変化する部分の大きさは、全体に対する比で測られる。一つの山は惑星に相違を生じないが、数インチの変化が物体の同一性を破壊しうる。思考の作用の連続を断つのは現実の大きさではなく、比である。この中断が対象を同じに見えなくするのだから、不完全な同一性をなすのは、思考が中断せずに進むことである。
変化が漸進的で気づかれなければ、同一性が破壊されたとみなす傾向は弱い。心は状態から状態へ容易に移り、中断を知覚しないからである。この知覚が続くために、心は対象を継続して存在する同一のものとみなす。それでも変化がついに相当になれば、ためらう。そこで想像力をさらに進ませる工夫がある。部分を共通の目的へ結合させることである。船は頻繁な修理で相当な部分が替わっても、同じとみなされる。目的はどの変化のもとでも同じで、想像力は状態から状態へ容易に移れる。
部分の共感が加わり、部分が原因と結果の相互関係をもつなら、いっそう注目に値する。動物と植物がそうである。数年で全面的に変わっても、同一性を帰する。小さな若木から大木に育つ樫は、物質の一粒さえ共通でなくても同じ樫であり、幼児は大人になり、太り痩せても、同一性は変わらない。
数的同一性と種的同一性は、ときに混同される。途切れては再び始まる音を同じ音と言うが、あるのは種的同一性、つまり類似にすぎない。レンガ造りの教会が荒廃し、同じ教会を教区が切り石で建て直したと言える。共通するのは教区の住民との関係だけで、それでも同じと呼ぶには足りる。しかしこれらの場合、前の対象は後のものが現れる前に消滅しており、相違と多数性が一時点に提示されないので、同じと呼ぶのをためらわない。
対象が本性上変わりやすいなら、突然の移行さえ認める。川は部分の運動と変化が本性なので、24時間足らずで変わっても、何世紀も同じ川である。本質的なことは予期され、予期されることは印象が弱く、思考の連続をあまり断たないので、同一性を損なう力も小さい。
人格の同一性に進む。人間の心に帰する同一性は虚構にすぎず、植物や動物に帰するものと同種である。それゆえ別の起源はありえず、似た対象に対する想像力の似た作用から生じるに違いない。
より直接の推論もある。心を構成する知覚はどれも別個の存在で、互いに区別され、分離可能である。それでも全系列を同一性で結ぶのは、知覚を実際に結ぶのか、想像力のなかで観念を連合させるにすぎないのか。知性は対象のあいだに実在的な結合を観察せず、因果の結びつきさえ習慣的な観念の連合に帰着することは、すでに立証した。同一性は、反省するとき想像力のなかで観念が結びつくために、知覚に帰する性質にすぎない。観念を想像力のなかで結びつけうるのは、先に述べた類似、近接、因果性の三つの関係だけで、これらが観念の世界で結びつける原理である。その本質は容易な移行にある。それゆえ人格の同一性の概念は、結合した観念の系列に沿った、思考のなめらかで中断のない進行から生じる。
残る問いは、どの関係がこの進行を生むかである。近接はほとんど影響がないので除き、類似と因果性が残る。まず類似。他人の胸のうちを見通して知覚の継起を観察でき、彼が過去の知覚の記憶を保っていると想定しよう。記憶は過去の知覚の像を呼び起こす能力であり、像は対象に似ている。類似した知覚が連鎖に置かれれば、想像力は容易に運ばれ、全体が一つの対象の持続に見える。記憶は同一性を発見するだけでなく、類似を生んでその産出にも寄与する。
因果性については、人間の心の真の観念は、種々の知覚が原因と結果の関係で結ばれた体系である。知覚は一つが他を生み、壊し、作用を及ぼし、姿を変えさせる。印象は観念を生み、観念は別の印象を生み、一つの思考は別の思考を追い払う。魂は共和国に何よりよく比べられる。成員が統治と従属で結ばれ、絶え間ない変化のなかで別の人格を生み、共和国を存続させる。共和国が成員だけでなく法律や国制を変えても同じであるように、人格も、印象や観念だけでなく性格や気質を変えても、同一性を失わない。情念に関する同一性は、遠い知覚を互いに影響させ、過去や未来の苦痛や快への関心を与えて、想像力に関する同一性を強化する。
記憶だけが継起の持続と範囲を知らせるので、同一性の源とみなされる。記憶がなければ因果性の概念も、自己を構成する連鎖の概念もない。しかし記憶から因果性の概念を得れば、同じ原因の連鎖を記憶の外へ延ばし、忘れた時や行為も含められる。1715年1月1日にも、1719年3月11日にも、1733年8月3日にも、自分が何をしていたか、誰が言えるか。忘れたからといって、現在の自己がそのときの自己と別の人格だとは言えない。記憶は同一性を生むというより、知覚のあいだの因果関係を示して、それを発見する。
この教説から、人格の同一性についての精緻な問いは決定できず、哲学的というより文法的な困難だという結論に至る。関係も移行の容易さも気づかれない程度ずつ減るので、同一性の名に値する時点を決める基準はない。結合した対象の同一性をめぐる論争は、部分の関係が虚構や結びつきの想像上の原理を生む場合を除き、すべて言葉の上のものである。
単純性の概念についても同様である。密接に関係した部分からなる対象は、単純で分割できない対象とほぼ同じ仕方で想像力に作用する。そこで単純性を帰し、その支えに結びつきの原理を虚構として作り出す。
こうして、知的世界と道徳的世界にわたる諸体系の検討を終えた。判断と知性の本性を説明したので、主題をいっそう綿密に検討する作業に戻り、人間本性の精確な解剖を進めるときである。
第7節 本書の結論 広大な哲学の深みへ乗り出す前に、私は持ち場でしばし立ち止まり、企てた航海をよく考えたい。私は、浅瀬に乗り上げ、入り江でかろうじて難破を免れながら、水漏れする傷んだ船でなお海に出て、しかも地球を一周しようとまで野心を進めた人のようである。過去の誤りの記憶は私を臆病にし、探究に用いる能力の惨めな状態は不安を増す。それを矯正もできないことは、果てしない大洋に身をさらすより、いま立つ不毛の岩の上で滅びようと決意させるほどの絶望に私を追いやる。憂鬱に打たれ、絶望を養わずにいられない。
私は自分の哲学のこの孤独に、人間との交わりから追放された奇怪で粗野な怪物のような恐れを覚える。呼びかけても誰も耳を貸さない。形而上学者、論理学者、数学者、神学者の敵意にもさらされた。外には論争と中傷を予見し、内には疑いと無知しかない。弱い私は、賛同に支えられなければ意見が緩んで崩れるのを感じる。
私自身の弱点に人間本性の弱点が重なるのに、どうしてこの企てに乗り出す自信がもてようか。最も厳密な推論の後でも、同意すべき理由は挙げられず、そう見える見方で強く考える傾向を感じるだけである。経験は過去の対象の連接を教え、習慣は未来にも同じことを期待させる。両者が想像力に作用し、ある観念を他の観念より生き生きと形づくらせる。この性質は一見取るに足りないが、これがなければ、どんな議論にも同意できず、感官に現前する対象を超えられない。記憶の像も過去の知覚の真の絵として受け入れられない。記憶、感官、知性はすべて、想像力、すなわち観念の生気に基づいている。
この不定で誤りやすい原理に、そうせざるをえないとはいえ無批判に従えば、誤りに導かれるのも不思議ではない。原因と結果から推論させるのも、外的対象の継続的存在を確信させるのも、同じ原理である。二つの作用は等しく必然的でありながら、状況によっては真っ向から衝突し、原因と結果を正しく推論する者は、同時に物質の継続的存在を信じることができない。どちらを選ぶのか。順次両方に同意すれば、明白な矛盾を受け入れる者が、栄えある称号をどうして僭称できるのか。
この矛盾は、ほかの部分に堅実さの埋め合わせがあればまだ許されよう。だが事情は逆で、人間の知性を第一原理までさかのぼると、将来の探究を断念させる見解に至る。人間は何よりも原因を探究し、原因が結果に作用するエネルギー、両者を結ぶ絆を知るまで進む。ところがこの結合、エネルギーが、ほかならぬわれわれ自身のうちにあって、習慣から得られた、対象からいつもの随伴物へ、印象から対応する生き生きとした観念へと進む心の決定にほかならないと知れば、失望せざるをえない。究極の作用原理が外的対象にあると知りたいと言うなら、自己矛盾に陥るか、意味なく語っているかである。
この欠陥は日常生活では知覚されない。それは想像力の錯覚にほかならず、問題は、どこまで従うべきかである。どちらに答えても危険なジレンマに陥る。些細な示唆にまで同意すれば、示唆は互いに相反して、誤りと不条理に導き、軽信を恥じざるをえない。想像力の飛翔ほど理性に危険なものはなく、明るい想像力をもつ人は、聖書が翼で目を覆っていると語る天使になぞらえてよい。
逆に、想像力の示唆をすべて退け、知性という一般的で確立された性質に固執しても、致命的である。知性は単独で最も一般的な原理に従うと自らを覆し、どの命題にも最低限の明証性さえ残さない。この全面的な懐疑論から救われるのは、遠く離れた見方には入り込みにくいという、想像力の特異な性質によってのみである。では洗練された推論は受け入れないという格率を立てるべきか。それは学問と哲学を断ち、しかもこの格率自体が洗練された推論に基づくので、自己矛盾に陥る。選択は偽りの理性か、理性がないかしかない。私は何をなすべきか知らず、この困難がすぐ忘れられると観察するだけである。洗練された反省はほとんど影響しないが、影響すべきでないという規則は立てないし、立てることもできない。それは矛盾を含意する。
しかし、洗練された反省がほとんど影響しないというこの意見を、私は現在の感じから撤回したくなる。理性の矛盾を見つめて頭が熱くなって信念と推論をすべて退けかねず、どの意見も別の意見より蓋然的とは見えない。私はどこにいて、何者なのか。いかなる原因から存在を得て、どんな状態に戻るのか。どんな存在が私を取り巻いているのか。最も惨めな状態で、深い闇に囲まれていると思い込み始める。
幸いにも、理性は雲を払えないので、自然自身が、心の傾きを緩め、感官への気晴らしと生き生きとした印象によって、この憂鬱と錯乱から癒してくれる。私は食事をとり、バックギャモンをし、語り合い、友人と楽しく過ごす。三、四時間後に思弁に戻ると、あまりに冷たく、滑稽で、入り込む気になれない。
こうして私は、日常生活の事柄では、ほかの人々と変わらず生き、語り、行為するよう、否応なく決定されている自分を見いだす。それでも以前の気質の名残は強く、書物をすべて火に投げ込み、哲学のために人生の快楽を手放すことは二度とすまいと決意しかねない。自然に屈してよく、この盲目的な服従にこそ私の懐疑論的な気質が示される。だが、自然の流れに逆らい、人々の交わりから遠ざかり、真理に達する見込みもないのに、詭弁で頭を苦しめる義務を、どんな理由で負うのか。愚か者でなければならないなら、せめて私の愚行は、自然で快いものであろう。
哲学にはこの憂鬱と怠惰に対抗するものがなく、勝利を、理性の力よりまじめで上機嫌な気質の回帰から期待していると認めざるをえない。人生のあらゆる出来事で、なお懐疑論を保たねばならない。火が暖め水が元気づけると信じるのは、それ以外に考えるのが骨だからにすぎない。理性が生き生きとして傾向と混じるとき同意すべきで、そうでないとき理性にはわれわれに作用する資格がない。
気晴らしと交際に疲れて自室や川辺で空想にふけると、心は主題へ向かう。道徳的な善悪の原理、統治の基礎、情念と傾向の原因を知りたい好奇心を抑えられない。美醜、真偽、理性と愚行を、原理を知らないまま決めていると思うと落ち着かない。発見で名を得たい野心も生じる。これが私の哲学の起源である。
この好奇心がなくても、弱さのために、このような探究に導かれるのは必然である。迷信は哲学よりはるかに大胆で、自分自身の世界を開く。人間の心が獣のように日常の狭い円環にとどまることはほとんど不可能なので、案内役を、最も安全で快いものから選ぶべきである。私は迷信よりも哲学を選ぶ。迷信は通俗的な意見から生じて心を強くとらえ、生活を乱す。哲学は、誤っても冷たい思弁の対象にすぎない。キュニコス派は、哲学的な推論から、どんな修道士にも劣らない行き過ぎに走った例である。一般に、宗教の誤りは危険であり、哲学の誤りはただ滑稽である。
この二つの場合がすべての人間を包括しないことは承知している。とくにイングランドには、日々感官にさらされる対象の先へ思考を進めたことのない実直な紳士が多い。彼らを哲学者に仕立てるより、体系の創始者たちに、その粗野で土臭い混合物を分けたい。熱い想像力が哲学に入り、仮説がもっともらしさだけで受け入れられるかぎり、確かな原理は得られない。仮説を取り除けば、真とまでは望みすぎだが、最も批判的な吟味に耐える体系を望める。多くの体系が興っては衰えたからといって、絶望すべきではない。2000年は諸学の完成には短い。
私の唯一の望みは、哲学者たちの思索に別の方向を与え、確かさを期待できる主題を明確に示すことである。人間本性は人間に関する唯一の学であるのに、最も顧みられてこなかった。それをもう少し流行させれば十分で、この望みが憂鬱を鎮める。読者が気楽な気分ならついてきてほしい。哲学を気楽に学ぶ人は、疑いに圧倒されて全面的に退ける人より真に懐疑的である。真の懐疑論者は、哲学的な確信だけでなく疑いにも自信をもたず、訪れる無害な満足を拒まない。
懐疑的な原理をもちながら精緻な探究に傾向のまま取り組むだけでなく、個別の点で、見渡した観点に応じて断定的でありたい性向に従うのも適切である。探究をすべて控えるほうが、この自然な性向を抑えるよりも容易である。そのとき懐疑論も謙虚さも忘れがちになり、明らかだ、確実だ、否定できないという言葉を使う。そうした表現は、対象をそのとき見渡して引き出されたもので、独断的な精神も、判断へのうぬぼれも含意しないと断っておく。これらは誰にもふさわしくなく、懐疑論者にはなおさらふさわしくない。
付録 誤りを告白する機会こそ、私が最も喜んで捉えたいものである。真理と理性に立ち返ることは、無謬の判断よりも名誉あることだと考える。誤りのない人が受けるのは知性への賞賛だけだが、誤りを正す人は気質の率直さと誠実さをも示す。前の巻の推論に、一つの項目を除いて、重大な誤りはない。ただ表現のいくつかは誤解を防ぐほど巧みでなかったので、それを補うために以下を付け加える。
われわれは、原因か結果が現前するのでなければ、いかなる事実も信じる気になれない。私の考えでは、ジレンマは避けられない。信念は、対象の単純な想念に結びつく新しい観念であるか、独特の感じであるか、そのどちらかである。新しい観念でないことは二つの論拠で示せる。まず、個別の対象の観念から分離できる抽象的な存在の観念を、われわれはもたない。次に、心は観念を好きなように分離し結合し変化させられるから、信念が付け加わる観念にすぎないなら、人は望むものを何でも信じられることになる。ゆえに信念は、意志に依存せず、われわれの支配できない原因と原理から生じる、一定の感じにある。事実を確信するとは、想像力の空想に伴うのとは異なる感じとともに思い描くことであり、不信とは、論拠がその感じを生まないことである。信念が感情でなければ、奔放な想像力の対象も、歴史と経験に基づく最も確立された真理と対等になってしまう。
この感じは心の他の感情に類比的か。類比的でなければ、それを根源的な原理とみなして原因の説明をあきらめるほかなく、類比的であれば、類比によってより一般的な原理にさかのぼれる。確信と確かさの対象である想念が、空中楼閣を築く人のゆるくだらけた空想より大きな確固さと堅固さをもつことは、だれもが認める。それらはより強くわれわれを打ち、心はそれらをより固くつかんで、その上に定まって休らう。つまり現前する印象にいっそう近づいており、心の他の多くの作用に類比的である。
これを避ける道は、信念を、想念を変様させず、意志や欲求が善の想念に付け加わるように付け加わる別個の印象とみなすことしかない。だがそれは経験に反する。推論は観念の作用であり、結論に入るのは観念だけである。たとえば私は、知っている人の声を聞く。その音は隣の部屋から来る。この印象は私の思考をただちにその人へ運び、私は彼をいま存在するものとして思い描く。この観念は魔法にかけられた城の観念よりも固く心をつかむが、別個の印象は伴わない。旅や歴史の出来事を思い出すときも同じである。これが争われうるのは、疑いに揺れた心が新しい論拠で定まる場合だけで、そこには想念から区別される感じがあるが、それは疑いから安らぎへの移行の快である。ほかのどんな場合でもよい。脚と腿だけが見え、体の残りが隠れているとき、私は彼に頭と肩と胸と首を与えて信じる。この作用は思考だけで行われ、観念は現前する印象との習慣的な結合によって変様されるにすぎない。
別個の印象についてどう言うにせよ、心が事実とみなすものを虚構より固くつかむことは認めねばならない。それなら、なぜ必要もなく想定を増やすのか。さらに、別個の印象の原因は何も説明できないが、固い想念の原因なら説明できる。この主題の全体が固い想念の原因に尽きており、別個の印象を生み出しうるものは残らない。推理される事実とは、現前する印象と頻繁に連接してきた対象の観念にほかならない。情念と想像力に及ぼす信念の結果もすべて固い想念から説明でき、前の巻で挙げた論拠は、信念が観念を変様させるだけで、別個の印象なしに感じを異ならせることを立証している。
そこで二つの問いを哲学者たちの考察に委ねる。信念を単純な想念から区別するものは、感じあるいは感情のほかにあるか。この感じは、より固い想念、つまり対象のいっそう固いつかみ方にほかならないのではないか。同意が得られるなら、次の仕事は信念と心の他の作用との類比を調べることで、現前する印象からの移行は、つねに観念を生き生きとさせ、強くする。それに通常伴う対象の観念は、思い描かれるより感じられ、由来する印象に近づく。次の箇所に挿入していれば、この推論はもっと説得力をもっただろう。
二人が同じ出来事にかかわり、一方だけがよく覚えていて、仲間に思い出させようと苦労する。彼は時、場所、同席した人々、言われたことを挙げるが効果がなく、ついにある幸運な事情が全体をよみがえらせて、友に完全な記憶を与える。忘れていた人は、時と場所の事情を含むすべての観念を相手の話から受け取っていたが、想像力の虚構とみなしていた。記憶に触れる事情が語られると、感じの変化のほかには何の変化もなく、同じ観念が記憶の対象となり同意される。想像力は記憶と同じ対象を表象でき、両者は観念の感じの違いだけで区別される。
事実についての信念を形づくるこの作用は、哲学の最大の神秘の一つであり、私も説明に窮する。私は帰納から、意見あるいは信念が虚構と異なるのは、観念の部分の本性や順序ではなく、思い描かれ方によると結論する。この仕方は、その人自身の感じに頼らなければ伝えられない。同意された観念は、虚構的な観念とは異なって感じられ、私はこの感じを、力、生気、堅固さ、確固さ、安定性と呼んで説明しようとする。この語の多様さは、実在を虚構より現前させ、思考に重みを与え、情念と想像力に強く働く作用を言い表そうとするだけである。想像力は対象を真の色で目の前に置けるが、それだけでは信念に達しえない。ゆえに信念は、観念の本性や順序にではなく、想念の仕方と心に対する感じにある。この感じの真の名は信念であり、日常生活でだれもが理解している。それは観念に力と影響を与え、行為を支配する原理とする。
キケロの引く言葉では、記憶に値する人々が過ごした場所を見ると、その行いを聞くよりも心を動かされる。プラトンが最初に議論したと伝えられる庭園は、彼自身が目の前に立っているかのように思わせる。スペウシッポスはここに、クセノクラテスはここにいた。場所にはこれほど大きな想起の力がある。
詩と狂気に共通するのは、観念に与える生気が、対象の結合からではなく、その人の気分と性向から得られることである。しかしその生気が、最も低い蓋然性の推論に生じる感じと同じになることはなく、詩的な熱狂は信念の幻影にすぎない。悲劇や叙事詩は、現実なら不快な情念に最高の楽しみを与えうるが、その情念は確固とも堅固とも感じられない。情念におけるこの違いは、観念における違いの証拠である。生気が現前する印象と習慣的に連接した観念に生じる場合には、見かけの動揺が小さくても、詩や雄弁の熱情より力強く実在的な何かがある。この違いは反省と一般的規則からも生じる。虚構の活力は偶然の事情で、実在するものと結びついていないと、われわれは観察するからである。一般的規則はまた、観念の力と生気が増すたびに信念を増すことを慎ませる。疑いも反対の蓋然性も許さない意見には、力が他に劣ることがあっても完全な確信を帰する。こうして知性は感官を訂正し、20フィートの距離の対象が10フィートの距離の同じ大きさの対象と同じ大きさに見えると想像させる。
ある人々は、われわれが心のなかにエネルギーあるいは力能を感じてその観念を得て、物質に移すのだと主張する。意志に従う身体の運動や思考がその証拠だという。だが意志は、その結果との見いだされうる結合を、物質的原因がその結果とのあいだにもつ以上にはもたない。意志作用と身体の運動の結合を知覚するどころか、これほど説明しがたい結果はない。意志の心に対する支配も同じで、結果は原因と区別され、恒常的連接の経験がなければ予見できない。心の働きは物質の働きと同じで、知覚されるのは恒常的連接だけであり、外的な対象に比べて、内的な印象にも明白なエネルギーはない。ゆえに、物質が未知の力で作用すると認める以上、自分の心に問うて力の観念を得ようとしても無駄である。同じ不完全さは神の観念にも伴うが、宇宙の秩序が全能の心を立証すれば宗教には足りる。
知性的な世界の理論は、物質的な世界の説明に伴う矛盾を免れるだろうと、私は期待していた。だが人格の同一性の節を見直すと、以前の意見をどう整合させるべきか分からない迷宮に気づく。これは謙虚さをもつ十分な理由である。自己の同一性と単純性を否定した論拠から、両側を示す。
自己や実体の観念を、われわれはもたない。すべての観念は先行する印象に由来するが、単純で個体的なものとしての自己や実体の印象はないからである。別個のものは区別可能で、思考によって分離できる。すべての知覚は別個だから、矛盾なしに別々に存在しうる。私がこの机とあの煙突を見るとき、現前するのは個別の知覚だけで、これが哲学者たちの学説である。机と煙突が別々に存在するという俗人の学説は矛盾を含まず、この学説をすべての知覚へ広げても矛盾は生じない。すべての観念は知覚から借りられるから、知覚について理解できず整合しない命題は、対象についてもそうである。対象が共通の実体も内属の基体もなしに存在すると言うのは理解でき整合的だから、知覚についても不条理ではない。自分に反省を向けても、私は知覚なしに自己を知覚せず、自己を形づくるのは知覚の合成である。心が牡蠣の生命よりも低く、渇きや飢えの知覚だけをもつと想定しよう。その知覚以外に何を思い描くか。自己の概念をもたないなら、ほかの知覚を加えても与えられない。死に続くと想定される自己の消滅は、愛と憎しみ、苦痛と快楽、思考と感覚という個別の知覚の消滅にほかならず、一方が他方より長く存続できないから、知覚は自己と同じものでなければならない。自己が実体と同じなら、実体が変化するなかでの自己の存続を問うのはなぜか。別個なら違いは何か。外的実体の観念をもたないという原理は、心についても同じ原理への道を開く。
ここまでは明証性が十分にあると思う。しかし、実在的な単純性と同一性を知覚に帰させる結合の原理を説明しようとすると、私の説明は不十分で、先行する推論の見かけの明証性だけが受け入れさせたと自覚する。知覚が別個の存在なら、結びつけられることによってのみ全体をなす。だが別個の存在のあいだの結合は、知性には見いだされない。感じられるのは、ある対象から別の対象へ移る思考の決定だけである。ゆえに思考だけが人格の同一性を見いだす。過去の知覚の連なりを反省すると、その観念が互いに結びついて感じられ、自然に互いを導くことが分かる。多くの哲学者は人格の同一性を、反省された思考である意識から生じると考えるから、ここまでは現在の哲学も有望である。しかし継起する知覚を意識のなかで結びつける原理の説明になると、私の望みはすべて消え、満足させる理論は見つからない。
要するに、整合させられない二つの原理があり、どちらも捨てられない。一つは、われわれの知覚がどれも別個の存在であること、もう一つは、心が別個の存在のあいだに実在的な結合を決して知覚しないことである。知覚が単純で個体的な何かに内属するか、心が実在的な結合を知覚するなら、困難はないだろう。私は懐疑論者の特権に訴え、この困難は私の知性の手に余ると告白する。ただし絶対に乗り越えられないとは宣言しない。ほかの人々か私が、より成熟した反省によって、調停する仮説を発見するかもしれない。
重要性の低い二つの誤りも告白する。一つは、二つの物体のあいだの距離が、光線が作る角度によって知られると述べたことである。これらの角度は心に知られていないからである。もう一つは、同じ対象の二つの観念が、力と生気の度合いによってのみ異なると述べたことである。感じが異なることによってのみ異なる、と述べるべきだった。印刷の誤りも二つあり、as the perception は a perception に、moral は natural に直してほしい。
異なる単純な観念どうしも、類似をもちうる。類似の点が、異なる点と別個で分離可能である必要もない。青と緑はともに単純な観念で異なるが、青と緋色よりも似ている。それでも完全な単純性は、分離や区別の可能性を排除する。音、味、匂いも、共通の事情を何ももたなくても、全体的な現れの比較から無限の類似を許す。単純な観念はすべて単純性において似ているが、その似た事情は、複合を排除する本性ゆえに、残りから区別も分離もできない。
等しい二つの対象を示せば足り、基準は要らないと主張する哲学者は多い。定義は、対象の知覚がなければ無益で、知覚すれば不要だという。私はこの推論に同意し、等しさの有用な概念は、対象の全体的な現れと比較から得られると主張する。数学者はどちらに向かってもジレンマに立つ。微小な不可分の部分の数え上げという厳密な基準を用いるなら、実践では役に立たず、退けようとしている延長の不可分性を立てることになる。測定と並置で補正された不正確な基準を用いるなら、その第一原理は想像力と感官に基づくので、精妙な推理を与えるには粗すぎ、結論もこれらの能力を超えることも、矛盾することもできない。
思索を感官に対する現れに限るかぎり、困難はなく、問いに当惑しない。二つの対象のあいだの見えず触れられない距離は、無ではなく、感官にある仕方で作用する対象の性質という何かである。それらが接触しているかどうかは、接触という語の定義による。間に感じとれるものがなければ接触であり、手が間に運動を介在させずに両方を感じるときを接触と言うなら、接触していない。困難は語の曖昧さからのみ生じる。
現れを超えて探究するなら、結論は懐疑論と不確実さに満ちるだろう。距離はいつも物体で、あるいは器官が改良されれば見えるか触れられるようになる何かで満たされているかと問われれば、どちらの側にも決定的な論拠はない。ただ俗な考えや世間一般の通念により適するという理由だけで、反対の意見に傾いている。ニュートンの哲学が主張する真空も、物体が衝突も貫入もなしに物体を受け入れるように置かれている、というにすぎず、その実在的な本性は知られていない。人間のすべての能力を超える主題には、控えめな懐疑論と、無知の率直な告白がふさわしい。
本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。
『印象と観念』
人間の心のすべての知覚は、心に入ってくる力と生気の度合いによって、印象と観念の二つに分かれる。印象は、感覚、情念、情動のように、魂に最初に現れるときのより強いものであり、観念は、考えたり推論したりするときの、その薄れた像である。単純な観念はすべて、はじめて現れるとき、これに対応する単純な印象から写されたものである。
『単純な知覚と複合的な知覚』
単純な知覚は、区別も分離も許さず、複合的な知覚は、部分に区別できる。複合的な観念には、対応する印象をもたないものがあり、複合的な印象にも、観念に正確には写されないものがある。しかし単純な観念は、すべて対応する単純な印象から写される。
『記憶と想像力』
印象を観念として心に再び現す二つの能力。記憶は、元の生気をかなり保ち、観念の順序と位置を保つ。想像力は、観念を自由に移し換え、変えることができる。記憶の観念は、想像力の観念よりも生き生きとしている。
『観念の連合』
想像力は自由であるが、観念は無秩序に結びつくのではなく、穏やかな力が観念を一つに引き寄せる。この連合の原理は、類似、近接、因果の三つである。
『関係』
関係という語には二つの意味がある。観念を想像力のなかで自然に結びつける連合の原理が自然的関係であり、観念を任意に比較する根拠が哲学的関係である。哲学的関係には、類似、同一性、時間と場所の関係、量または数における比、性質における度合い、反対、因果性の七種類がある。
『実体』
実体の観念は、単純な観念の集まりを、想像力が一つにまとめ、特定の名を与えたものである。その性質は、未知の何かに内属すると想定されるか、少なくとも近接と因果で分離不可能に結びついていると想定される。新しい性質が見いだされれば、その性質は最初から含まれていたかのように、この集まりに加わる。
『抽象的な観念』
抽象的あるいは一般的な観念は、表象においては一般的であっても、それ自体は個別的である。ある語に結びつけられた個別的な観念が、似た他の個体を、習慣によって機会に応じて呼び戻す。
『空間と時間の観念』
空間の観念は、色のついた、あるいは触れられる点と、その現れ方の順序を写したものである。時間の観念は、変化する対象の継起から得られる。いずれの観念も、無限には分割できず、それ以上は分割できない部分に行き着く。
『外的存在』
存在の観念は、存在するものとして思い描くどの知覚の観念とも、別のものではない。知覚とは種類の異なるものとして外的な対象を思い描こうとしても、知覚との関係を通した相対的な観念が形づくれるにとどまる。
『知識』
知識とは、観念だけに依存する関係についての確実性であり、類似、反対、性質における度合い、量または数における比がこれにあたる。直観と論証がこれを与える。同一性、時間と場所の関係、因果性は、観念を変えずに変わりうるため、知識の対象にはならない。
『蓋然性』
蓋然性とは、不確実さを残す明証性である。観念の比較から生じる確かさである知識にも、疑いを免れた因果の論拠である立証にも達しない。偶然にもとづく蓋然性と、原因にもとづく蓋然性とがある。
『原因と結果』
原因と結果の観念には、近接、原因の時間的な先行、そして必然的結合が含まれる。一つの対象を調べても、そこから別の対象の存在を引き出す理由は見いだされないため、原因と結果についての推論は、経験にもとづく。
『恒常的連接』
似た対象が、過去の経験のなかで、つねに同じように連接して現れてきたこと。個々の事例には新しいものが見いだされないが、同様の事例が繰り返されると、心の内に新しい印象が生じる。
『習慣』
過去の反復から生じ、新たな推論や結論を伴わないものを、習慣と呼ぶ。現在の印象から、それに結びついた観念への移行を引き起こす原理は、習慣である。
『信念』
現在の印象に関係づけられた、あるいは連合された、生き生きとした観念。信念は観念に新しい部分を加えるのではなく、その観念を思い描く仕方を、より力強く、生き生きとした、堅固で安定したものに変える。
『必然的結合』
対象のうちに力や必然的な結合を、感官によっても理性によっても見いだすことはできない。この観念は、似た対象の恒常的連接が繰り返されたのち、一方の対象の現れから他方へ移ろうとする、心の内の決定の印象から生じる。
『懐疑論』
理性に関する懐疑論では、判断のたびに誤りの蓋然性を差し引くと、確実さが減り続けて、信念と明証性が消える結論に至る。感官に関する懐疑論では、物体の継続的で別個の存在という信念が、理性にも感官にも支えられないことが論じられる。
『恒常性と整合性』
物体が継続して存在するという意見は、ある種の印象の恒常性と整合性に依存する。恒常性とは、山や家のように、目を離して戻ったときに、同じ姿で現れること。整合性とは、見ていないあいだの変化が、物が存在し続けたと想定することで、規則的な連なりとして調停されること。
『虚構』
途切れて現れる似た知覚を、想像力が同じ一つのものと取り違え、その途切れを埋めるために、継続的な存在を想定したもの。想像力は、ひとたび思考の流れに入ると、対象が尽きても、櫂で動かされたガレー船のように進み続ける。
『知覚と対象の二重の存在』
知覚は中断し、対象は継続して存在するという区別を立てて、理性と想像力の対立を調停しようとする哲学の体系。通俗の仮説を経由してのみ到達でき、通俗の体系の困難をすべて引き継ぎ、そのうえ固有の困難も抱える。単一の知覚から二重の存在を推理するのは、感官ではなく、理性か想像力の働きである。
『知覚の束』
形而上学者の一部を除く人間は、想像もつかない速さで継起し、絶えず流れ動く、異なる知覚の束または集まりにほかならない。心は一種の劇場にたとえられるが、この比較に惑わされてはならない。心を作るのは継起する知覚だけであり、場面が演じられる場所について、われわれは何も知らない。
『人格の同一性』
自分自身を捉えようとして自分のうちに入り込むと、いつも何らかの個別の知覚に出会い、知覚なしに自己を捉えることはない。心に帰される同一性は、虚構的なものである。それは、知覚の間の類似と因果の関係が想像力に与える移行の容易さから、帰属されるものである。
第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
ヒュームにおいて、物を定義することは、物が存在するという前提から始めて済む作業ではない。人間本性論第1巻は、心に現れる知覚から出発し、物が存在するとわれわれが信じていることが、どのような原理から生じるのかを問う。物は論の到達点として定義されるのではなく、知覚が物として受け取られるに至る過程のなかで現れる。
私は、物を思い描こうとして、まず心の知覚を見つめた。心のすべての知覚は、心に入ってくる力と生気の度合いによって、二つに分かれる。感覚するとき、感じるときに現れる、より力と生気の強いものが『印象』であり、考えるときや推論するときに現れる、その薄れた像が『観念』である。単純な観念はすべて、はじめて現れるとき、これに対応する単純な印象から写されたものである。
私が物と呼ぶものの観念は、単純ではなく、複合的である。色、重さ、展性、可融性といった単純な観念が、一つの名のもとに集められている。その性質は、未知の何かに内属すると想定されるか、少なくとも近接と因果で分離不可能に結びついていると想定される。金の観念は、はじめは黄色、重さ、展性、可融性であっても、王水に溶けるという性質が見いだされれば、私はそれをほかの性質に付け加え、はじめから含まれていたかのように扱う。この観念が『実体』の観念であり、それは、単純な観念を『想像力』が一つにまとめたものにほかならない。これらの性質を支える何かについて、私は、性質そのもの以外に観念をもたない。
では、物が存在するとは、どういうことか。存在の観念は、存在するものとして思い描くどの知覚の観念とも、別のものではない。私は、できるかぎり自分の外に注意を向けようとしたが、知覚とは種類の異なる存在を思い描くことは、一歩もできなかった。外的な対象は、知覚との関係を通じて、相対的に思い描けるにすぎない。
それでも私は、いま見ていない物が存在することを信じている。知覚された物から、まだ知覚されない物へ私を運ぶのは、原因と結果の関係だけである。原因と結果の観念には、近接と時間的な先行が含まれ、さらに『必然的結合』が含まれる。しかし、一つの対象をどれだけ調べても、そこからほかの対象の存在を引き出す理由は見いだされない。見いだされるのは、似た対象がいつも同じように連接して経験されてきたという、『恒常的連接』だけである。過去の反復から生じ、新たな推論や結論を伴わないものを、私は『習慣』と呼ぶ。一方の印象が現れたとき、習慣によって他方の観念へ移り、その観念を、現在の印象の生気を受け取った、強く生き生きとした観念として思い描くこと、これが『信念』である。必然的結合の観念も、対象のうちにある力から生じるのではなく、恒常的連接が繰り返されたのち、一方から他方へ移るように心が決定される、その決定の印象から生じる。
では、物が継続して存在し、私の知覚から別個に存在するという信念は、どこから来るのか。感官は、知覚が途切れたあとも物が継続していることを示さず、知覚とは別のものを示すこともない。理性も、これを私に与えない。私の知覚には、ある種のものについて、『恒常性』と『整合性』がある。山や家は、目を離して戻るたびに、同じ姿で現れる。扉の蝶番の音が聞こえ、少しして運搬人が近づいてくるとき、扉がなお存在し、私の知らないうちに開けられたと想定するほかに、この現象を過去の経験と調停する仕方はない。似た知覚が途切れながら現れるとき、私の心はそれらを追って滑らかに移り、その移りゆきは、変わらない一つの対象を見つめているときの心の状態とほとんど変わらない。そこで想像力は、似た知覚を同じ一つのものと取り違える。しかし知覚は現に途切れている。この矛盾を和らげるために、想像力は、継続的な存在を補う。これは『虚構』であるが、私はそれを信じている。
私は、この信念の不整合に気づいた哲学が、知覚と対象とを分け、知覚は途切れ、対象は継続して存在すると考えるのを見た。しかし私は、この体系が、通俗の体系の困難をすべて引き継ぎ、そのうえ固有の困難も抱えていると主張する。古代の哲学が作った実体、実体形相、偶有性、隠れた性質を、私は想像力の虚構として批判的に調べた。物体の観念とは、恒常的に結びついた、別個の感覚されうる性質を、心が観念として寄せ集めたものでしかない。近代の哲学は、色や音を心のなかの知覚とし、延長と固性だけを物体に残した。だが私は、延長が固性に、固性が触覚の感じに頼り、その感じが固性に似てはいないことを見いだした。そこには、物体の首尾一貫した観念を与えるものは何も残らなかった。
この考察は、私自身にも向けられた。私は、自分のうちに、知覚から区別される単純で同一な自己を捉えようとした。しかし、自分と呼ぶものに深く入り込むたびに、私が出会うのは、熱さや冷たさ、明るさや暗さ、愛や憎しみ、苦しみや喜びといった、何らかの個別の知覚であり、知覚なしに自己を捉えたことは一度もない。ある種の形而上学者を除けば、人間は、想像もつかない速さで継起し、絶えず流れ動く、異なる知覚の『束』または集まりにほかならないと、私はあえて断言する。同一性は、知覚そのものに属するのではない。知覚どうしは、類似と因果の関係で結ばれている。その関係をたどるとき、私の想像力は一つの知覚から次へ滑らかに移り、その移りゆきは、変わらない一つの対象を見つめているときの心の状態に似ている。この心の状態のために、私は知覚の継起に同一性を付け加えてしまう。
この結論に至っても、私の懐疑は、私をそこにとどめない。理性が私を懐疑へ導いても、私が食事をし、人と語り、遊戯に興じるとき、その懐疑は消え、私はふたたび日常の生活に戻る。
以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。
『物とは、近接と因果によって結びついていると想定された知覚の集まりであり、その恒常性と整合性を手がかりとする想像力の傾向によって、継続して別個に存在するものと信じられている虚構である。』
作品名:ヒューム『人間本性論』第1巻「知性について」を知るための本
発行責任者(著者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)
参照原典:英語原典 David Hume, A Treatise of Human Nature, Book I: Of the Understanding(初版:London: John Noon, 1739、付録は1740年。底本は L. A. Selby-Bigge 編、Oxford: Clarendon Press, 1888)
初版発行日:2026年10月15日
本書の本文・解説その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。
注記:本書が参照する原典は、デイヴィッド・ヒューム『人間本性論』(A Treatise of Human Nature)の英語原典のうち、第1巻「知性について」と付録である。本書の制作において直接参照した版は、L. A. Selby-Bigge編(Oxford: Clarendon Press, 1888)であり、1739〜40年の初版の本文と綴りを再現している。
本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTMLが存在する場合は、術語および論証骨格の照合基準として当該翻訳HTMLを参照して制作している。
本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。