エドムント・フッサール(Edmund Husserl)。1859年、当時オーストリア帝国領であったモラヴィアのプロスニッツ(現チェコ共和国のプロスチェヨフ)に生まれ、1938年、ドイツのフライブルクで没した。ライプツィヒ、ベルリン、ウィーンで数学、物理学、天文学、哲学を学び、1883年にウィーン大学で変分法に関する論文により学位を得た。その後ハレ大学で私講師を務め、1901年からゲッティンゲン大学で、1916年からはフライブルク大学で教えた。1891年に算術の哲学、1900年と1901年に論理学研究、1913年にイデーン第一巻を刊行した。
原典言語:ドイツ語
原典名:純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 第一巻(Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch)
初版は1913年に、ハレで、哲学と現象学的研究のための年報の第1巻として刊行された。本書が対象とするのは、序論と第一巻の全体(第一篇から第四篇まで)である。底本は、Max Niemeyer 社版の1913年版と、その無変更再版である1922年版である。
本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。第Ⅰ部は、原典のうち序論と第一巻(第一篇から第四篇まで、§1から§153まで)を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。原注は収録していない。
本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ9割程度である。
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序論 ここでわれわれが道を探している純粋現象学は、他のあらゆる学問に対する唯一無二の位置を特徴づけ、哲学の基礎学として示そうとするものである。本質的に新しい学問であり、その原理的な特性のために自然的思考から遠く、それゆえ今日になってはじめて発展を迫られている。現象学は自らを「現象」の学問と称する。現象を対象とする学問は、ほかにもとうに知られている。たとえば心理学は心的な「現出」ないし現象の学問と呼ばれ、自然科学は物理的な「現出」ないし現象の学問と呼ばれる。歴史学では歴史的な現象が、文化学では文化現象が語られ、実在についてのあらゆる学問で似たことが言われる。現象という語の意味がこの語り方でどれほど異なり、どのような意義をもちうるにせよ、現象学がこれらすべての「現象」に、あらゆる意義に即して関わることは確かである。ただし全く別の態度においてである。この態度によって、古くから親しまれた学問で出会う現象のあらゆる意味は、一定の仕方で変様される。そのように変様されたものとしてのみ、現象は現象学的圏域に入る。この変様を理解すること、より正確には、現象学的な態度を遂行し、その固有の性格と自然的態度の性格とを、反省的に学問的意識へと高めること。これが第一の、決して容易ではない課題である。現象学の地盤を得て、その固有の本質を学問的に確かめようとするなら、この課題を完全に果たさなければならない。
ここ十年、ドイツの哲学と心理学では、現象学がしきりに話題になっている。人々は論理学研究と一致しているつもりで、現象学を経験的心理学の下位段階とみなしている。心的体験を「内在的」に、しかも厳密に内的経験の枠内で記述する圏域とみなしているのである。この理解に対する私の異議は、どうやらほとんど効果がなかった。付した論述は、少なくとも違いの主要な点をいくつか鋭く描き出していたのに、理解されなかったか、顧みられずに脇へ押しやられた。心理学的方法への私の批判に対する反論も、そのために全く無効である。それらは私の叙述の素朴な意味を取り違えているからである。この批判は、近代心理学の価値を否定せず、傑出した人々の実験的研究を貶めてもいない。批判が明るみに出したのは、この方法の字義どおり根本的な欠陥である。その除去にこそ、心理学がより高い学問の段階へ上昇することと、研究領域が格段に拡大することとが懸かっているにちがいないと、私は考える。私の「攻撃」とされるものに対する心理学の不必要な弁護については、いずれ数語で触れる機会があるだろう。ここでこの論争に触れるのは、支配的で極めて重大な結果をもたらす誤解を前に、あらかじめ強調しておくためである。純粋現象学は、われわれが以下でその入口に道を開こうとするものであり、論理学研究で最初の突破に達したのと同じものである。その意味は、この十年の研究の継続のなかで私にますます深く豊かに開かれてきた。そして、それは心理学ではない。偶然的な領域の区分や術語ではなく、原理的な理由が、現象学を心理学に数え入れることを不可能にしている。現象学が心理学にとって方法上どれほど大きな意義を要求せざるをえないとしても、またどれほど本質的な「基礎」を心理学に提供するとしても、現象学はそれ自体は心理学ではない。すでに理念の学問であるという点で、幾何学が自然科学ではないのと同様である。いや、両者の違いは、この比較の場合よりもいっそう根本的なものとして現れてくる。現象学が「意識」を、あらゆる体験の種類、作用、作用の相関者を扱うという事実は、これを少しも変えない。もっとも、支配的な思考習慣のもとでこれを洞察するには、並々でない労苦が要る。これまでの思考習慣をすべて遮断し、それらが思考の地平を取り囲んでいる精神の制約を認識して取り壊すことである。そのうえで、完全な思考の自由のなかで、真正な、全く新しく立てねばならない哲学的問題を把握することである。そうした問題には、あらゆる側面から制約を取り払われた地平がはじめて近づける。これは厳しい要求だが、これに劣るものでは足りない。現象学の本質を自分のものにし、その問題設定の固有の意味と、他のあらゆる学問(とりわけ心理学)に対する関係を理解することが非常に困難なのは、自然的な経験や思考の態度とは全く異なる態度の取り方が必要だからでもある。この態度のなかで、古い態度に決して後戻りすることなく自由に動き、目の前に立つものを見て、区別し、記述できるようになるには、さらに独自の骨の折れる研究が要る。
この第一巻の最も重要な課題は、この新しい世界に分け入る際の過大な困難を、いわば少しずつ克服できる道を探すことである。われわれは自然的立場から出発する。世界はわれわれに向かい合うものとして、意識は心理学的経験で示されるものとして取り上げ、それらに本質的な前提をあらわにする。次に「現象学的還元」の方法を作り上げる。この方法によって、あらゆる自然的な研究様式の本質に属する認識の制約を取り除き、その研究様式に固有の一面的な視線の向きをそらすことができる。こうして最後に、「超越論的」に純化された現象の自由な地平を得て、それとともに、われわれ固有の意味での現象学の領域を得る。
予示する線をもう少し明確に引こう。そして、時代の先入見が求めるとおり、また事象そのものの内的な共通性も求めるとおり、心理学に結びつけよう。
心理学は経験科学である。経験という語の通常の意味では、このことには二重のことが含まれている。
1. 心理学は事実の学問であり、D. ヒュームの意味での matters of fact の学問である。
2. 心理学は実在の学問である。心理学的「現象学」として扱う「現象」は実在的な出来事であり、そうした出来事は、現実の定在をもつかぎり、それが属する実在的な主観とともに、実在の総体であるただ一つの空間的・時間的な世界に組み入れられる。
これに対して、純粋ないし超越論的現象学は、事実学ではなく本質学(「形相的」学問)として基礎づけられる。この学問は「本質認識」だけを確立しようとするのであって、「事実」はまったく扱わない。これに対応する還元は、心理学的現象から純粋な「本質」へ、また判断的思考においては事実的(「経験的」)一般性から「本質」の一般性へと移行させるものであり、形相的還元である。
第二に、超越論的現象学の現象は非実在的なものとして特徴づけられる。ほかの還元、すなわち特殊に超越論的な還元は、心理学的現象から、その現象に実在性を与え、それゆえ実在的な「世界」への組み入れを与えるものを「浄化」する。われわれの現象学は、実在的な現象の本質論ではなく、超越論的に還元された現象の本質論でなければならない。
これらすべてが詳しくは何を意味するのかは、以下で初めて明らかになる。さしあたりこれは、入門的な一連の研究の図式的な枠組みを示すものである。ここに一つ注意を付け加えておく。上の二つの標示した点では、学問を実在学と観念学(あるいは経験的学問とアプリオリな学問)に分けるという、一般に通用している唯一の区分ではなく、むしろ二つの区分が用いられている。この二つの区分は、二組の対立、すなわち事実と本質、実在的なものと非実在的なものに対応する。この二重の対立を、実在と観念という対立に代えて区別することについては、のちの研究(第二巻)で立ち入った正当化を行う。実在の概念には根本的な限定が必要であり、その限定によって、実在的存在と個体的存在(端的に時間的な存在)とのあいだに区別を立てねばならないことが示される。純粋本質への移行は、一方では実在的なものの本質認識をもたらし、他方では、残された圏域に関して、非実在的なものの本質認識をもたらす。さらに、超越論的に浄化されたすべての「体験」は非実在であり、「現実の世界」へのいかなる組み入れからも外れて措定されていることが示される。現象学が探究するのは、まさにこの非実在であるが、それを単称的な個別としてではなく、「本質」において探究する。ただし、超越論的現象が単称的な事実としてどこまで研究の対象となりうるのか、またそのような事実研究が形而上学の理念とどのような関係にありうるのかは、最後の一連の研究で初めて考察できる。
第一巻では、超越論的に浄化された意識とその本質相関者をわれわれに見えるものにし、接近可能にする現象学的還元について、一般論を扱うだけではない。この純粋意識の最も一般的な構造について、またそれを介して、この新しい学問に属する最も一般的な問題群・研究方向・方法について、確定した表象を得ることも試みる。
第二巻では、とくに重要な問題群をいくつか詳しく扱う。これらの問題群を体系的に定式化し、典型的に解決することは、現象学が物理的な自然科学・心理学・精神科学に対してもつ難しい関係と、さらにアプリオリな諸学問すべてに対してもつ関係を、本当に明晰にするための前提条件である。ここで描く現象学的な素描は、同時に、第一巻で得た現象学の理解を大いに深め、現象学の巨大な問題圏について比較にならないほど内容豊かな知識を得るための手段ともなる。
第三の最終巻は、哲学の理念にあてる。この巻は、次の洞察を呼び起こすことになる。真の哲学の理念は、絶対的認識の理念を実現することにある。この哲学は純粋現象学に根ざしており、しかもその意味は重い。あらゆる哲学のうち第一のものであるこの哲学を、体系的に厳密に基礎づけ遂行することが、「学問として登場しうる」あらゆる形而上学とその他の哲学にとって、欠くことのできない前提条件だということである。
ここで現象学を本質学として、すなわち「アプリオリ」な、われわれの言い方では形相的な学問として基礎づけようとするのだから、現象学そのものに向けるあらゆる努力に先立って、本質と本質学についての一連の基礎的な考察を置くのが有益である。それは、自然主義に対して本質認識が根源的に固有の権利をもつことを擁護するためである。――
われわれはこの序の言葉を、ささやかな術語上の考察で閉じる。すでに論理学研究でそうしたように、私はアプリオリとアポステリオリという表現を、できるかぎり避ける。一般的な用法でこれらの表現にまとわりつく、紛らわしい不明確さと多義性があるからであり、また、過去の悪しき遺産としてこれらの表現に絡みついている、いかがわしい哲学説があるからでもある。これらを用いるのは、一義性を与える文脈の中だけであり、しかもわれわれが明晰で一義的な意義を与えた別の術語に、同じ意味のものとして添える場合だけとする。とくに、歴史上の並行を響かせたい場合がそうである。
理念と理想という表現は、紛らわしい多義性の点では、おそらくそれほどひどい状態にはない。しかし全体としては十分にひどく、そのことは、私の論理学研究がしばしば誤解されたことで痛いほど思い知らされた。術語を改めることにしたのは、カントの理念概念というきわめて重要な概念を、(形式的ないし質料的な)本質という一般概念からきれいに分けておきたいという要求にもよる。そこで私は、術語としてまだ使い古されていないエイドスを外来語として用い、ドイツ語としては「本質」を用いる。この語には、害のない、ただし時に厄介な多義性がつきまとっている。
できることなら、ひどく負荷のかかった実在的という語も除きたかった。ただし、それにふさわしい代わりの語が見つかればの話である。
さらに一般的に述べておく。歴史的な哲学の言語からまったくはみ出すような術語を選ぶことはできない。とりわけ、哲学の根本概念は、直接に接近できる直観にもとづいていつでも同定できる確固たる概念によって、定義的に固定できるものではない。むしろ、その最終的な解明と規定には、一般に長い研究が先立たなければならない。そのため、しばしば組み合わせた言い回しが欠かせない。それは、一般の言葉でほぼ同じ意味で用いられる複数の表現を、そのうちの個々のものに術語としての際立ちを与えながら、並べ合わせるものである。哲学では、数学のように定義することはできない。数学の手続きをまねることは、この点で実りがないだけでなく、倒錯しており、きわめて有害な結果を招く。なお、上に挙げた術語的な表現は、以後の詳細な考察のなかで、それ自体において明証的な特定の指示によって、確固たる意味を得るべきである。これに対して、この点でも、また一般にも、哲学の伝統との煩雑な批判的比較は、この著作の分量のためだけでも、断念しなければならない。
第一巻 純粋現象学への一般的導入
第一篇 本質と本質認識
第一章 事実と本質
§1 自然的認識と経験 自然的認識は経験から始まり、経験のうちにとどまる。したがって、われわれが「自然的」と呼ぶ理論的態度では、可能な研究の全地平がひとつの語で言い表される。それは世界である。この根源的な態度の諸学問は、総じて世界についての学問である。この態度が排他的に支配するかぎり、「真正の存在」「現実の存在」、すなわち実在的存在の概念と、「世界の中の存在」の概念とが一致する。実在的なものはすべて世界の統一へと結びつくからである。
どの学問にも、その研究の領野として、ひとつの対象領域が対応する。その学問のあらゆる認識、すなわちここでは正しい言明には、正当に証示する基礎づけの根源的な源泉として、ある種の直観が対応する。その直観において、この領域の対象は自体所与性に達し、少なくとも部分的には原的な所与性に達する。第一の「自然的」な認識圏域と、そのすべての学問の与える直観は自然的経験であり、原的に与える経験は知覚である。ここで知覚とは、この語を通常の意味で理解したものである。実在的なものを原的に与えられていることと、それを端的に直観しつつ「気づく」こと、「知覚する」ことは、同じことである。物理的な物の原的な経験は「外的知覚」にあり、想起や先を見やる期待にはもはやない。自分自身と自分の意識状態の原的な経験は、いわゆる内的知覚ないし自己知覚にある。しかし他者とその体験の原的な経験は、「感情移入」にはない。感情移入は、他者の身体的な表出の知覚にもとづいて、他者の体験を「見てとる」。この見てとりは、直観的で与える作用ではあるが、もはや原的に与える作用ではない。他者とその心の生は、「自身がそこに」あるものとして、また身体と一体にそこにあるものとして意識されてはいるが、身体のように原的に与えられたものとして意識されてはいない。
世界とは、可能な経験と経験認識の対象の総体であり、現勢的な経験にもとづき、正しい理論的思考によって認識できる対象の総体である。経験科学の方法が詳しくはどのようなものか、直接の経験所与性という狭い枠を越え出る権利をどのように基礎づけるのか、それをここで論じる場ではない。自然的態度の学問とは、広義・狭義のいわゆる自然科学、つまり物質的自然の学問のすべてであり、さらに、動物的存在者をその心理物理的自然とともに扱う生理学や心理学なども含む。同じくここには、いわゆる精神科学のすべて、すなわち歴史、文化学、あらゆる種類の社会学的諸学科が属する。これらを自然科学と同列に置くべきか対置すべきか、それら自身を自然科学とみなすべきか、本質的に新しい型の学問とみなすべきかは、さしあたり未決のままにしておいてよい。
§2 事実 事実と本質の不可分性 経験科学は「事実」学である。経験することという基づける認識作用は、実在的なものを個体的に措定する。それを、時空的に定在するものとして、すなわちこの時間位置にあり、この持続をもち、その本質からすれば他のどの時間位置にあってもよかったような実在性内容をもつものとして措定する。さらにそれを、この場所に、この物理的形態であるもの、ないしこの形態の身体的なものと一体で与えられているものとして措定する。ところが、同じ実在的なものは、それ自身の本質から見れば、任意のどの場所に、任意のどの形態であっても同じようにありえたはずである。事実上は変化していないときに変化しえたはずであり、事実上変化しているのとは別の仕方で変化しえたはずである。あらゆる種類の個体的存在は、ごく一般的に言えば、「偶然的」である。それはこうあるが、その本質からすれば別様でもありえた。たしかに、これこれの実在的な状況が事実上あるなら、これこれの特定の結果が事実上なければならない、という自然法則は成り立つかもしれない。しかしそうした法則も、事実上の規則づけを表現するにすぎない。その規則づけ自体はまったく別様に定められてもよかったのである。しかも法則は、可能な経験の対象の本質にはじめから属するものとして、次のことをすでに前提している。法則によって規則づけられるこの種の対象は、それ自体において見れば偶然的だということである。
しかし、事実性と呼ばれるこの偶然性の意味は、それが必然性に相関的に関係するところで限定される。この必然性は、空間的・時間的な事実を結びつける妥当な規則が単に事実として成り立っていることを言うのではない。本質必然性という性格をもち、したがって本質的一般性への関係をもつ。どの事実も「それ自身の本質からして」別様でありうるとわれわれが述べたとき、すでに次のことを表明していた。あらゆる偶然的なものの意味には、まさに一つの本質、したがって純粋に把握されるべき一つのエイドスをもつことが属している。そしてこのエイドスは、一般性の段階を異にするさまざまな本質真理のもとにある。個体的な対象は、単に個体であり、このものであり、一回限りのものであるだけではない。それは「それ自身において」しかじかの性状をもつものとして、固有の特質と本質的な派生的述語の総体をもつ。他の副次的で相対的な規定がその対象に属しうるためには、これらの述語が(「それ自身においてあるとおりの存在者」としての)その対象に属さなければならない。たとえばどの音も、それ自体で一つの本質をもち、その最上位に一般的な本質「音一般」、というよりむしろ音響的なもの一般をもつ。これは、個々の音から、単独で、あるいは他の音との比較によって「共通なもの」として見て取られるべき契機として、純粋に理解されたものである。同様にどの物質的な物も、固有の本質的な種別をもち、その最上位に一般的な種別「物質的な物一般」をもつ。そこには時間規定一般、持続一般、形態一般、物質性一般が含まれる。個体の本質に属するものはすべて、別の個体ももちうる。そして、いまわれわれが例で示したような種の最上位の本質的一般性は、「領域」あるいは「範疇」を、しかも個体のそれを画定する。
§3 本質直観と個体的直観 さしあたり「本質」が指していたのは、一個体に固有の存在のうちにその何であるかとして見いだされるものだった。しかし、そうした何であるかはどれも「理念において措定」されうる。経験する直観、すなわち個体的直観は、本質直観(イデーション)へと転換されうる。この可能性そのものは、経験的な可能性としてではなく、本質可能性として理解すべきである。そのとき直観されるのは、対応する純粋な本質ないしエイドスであり、それは最上位の範疇であれ、その特殊化であれ、完全な具体化に至るまでのいずれでもありうる。
この本質を与える、場合によっては原的に与える直観は、十全的でありうる。たとえば音の本質については、われわれはそうした直観を容易に得られる。しかしこの直観は、多かれ少なかれ不完全な「不十全的」なものでもありうる。しかもそれは、明晰さや判明さの大小という点にとどまらない。ある種の本質範疇には、それに属する本質が「一面的に」、継起のなかで「多面的に」、それでも決して「全面的に」は与えられえないという固有の性格がある。これに相関して、それらに対応する個体的な個別化は、不十全的で「一面的」な経験的直観においてのみ、経験され表象されうる。これは物的なものにかかわるすべての本質について、しかも延長ないし物質性のあらゆる本質成分について当てはまる。さらに、より詳しく見れば(後続の分析がそれを明証的にするだろう)、これはあらゆる実在一般についても当てはまる。もっとも、そのとき、一面性と多面性というあいまいな表現は確定した意義をとり、不十全性にはさまざまな種類が区別されるようになる。
さしあたり、次のことを指摘すれば足りる。物理的な物の空間形態は、原理的に、単なる一面的な射映においてしか与えられない。また、連続的な直観が任意に進行しても、得るものがあるにもかかわらず、この不十全性は絶えず残り続ける。この点を措いても、物理的な特性はどれも、われわれを経験の無限性へと引き込む。どれほど広範な経験の多様も、物のさらに詳細で新しい規定を開いたままにする。こうして際限なく続いていく。
個体的直観がどのような種類のものであれ、十全的であろうとなかろうと、それは本質直観への転換をとりうる。そして後者も、対応する仕方で十全的であろうとなかろうと、与える作用という性格をもつ。ここには次のことが含まれる。
本質(エイドス)は新種の対象である。個体的直観ないし経験する直観に与えられるものが個体的対象であるように、本質直観に与えられるものは純粋な本質である。
ここにあるのは単に外面的な類比ではなく、根本的な共通性である。本質直観もまさに直観であり、それは形相的対象がまさに対象であるのと同じである。相関的に結びついた概念「直観」と「対象」を普遍化することは、恣意的な思いつきではなく、事象の本性によって強く要請される。経験的直観、とりわけ経験は、個体的対象についての意識であり、直観するものとして「それを所与性にもたらす」。知覚としては、原的な所与性に、すなわち対象を「原的に」、その「有体的」な自体性において把握するという意識にもたらす。まったく同様に、本質直観も何ものかについての意識であり、「対象」についての、すなわち視線が向けられ、そのなかで「それ自体与えられる」あるものについての意識である。その何ものかは、さらに他の作用において「表象」され、漠然とあるいは明瞭に思考され、真または偽の述定の主語とされうる。これはまさに、形式論理学の必然的に広い意味での「対象」のすべてがそうであるとおりである。論理的に言えば「可能な真なる述定の主語」であるような可能なあらゆる対象は、あらゆる述定的思考に先立って、表象し直観する視線のうちに入る、それ固有の仕方をもつ。場合によっては、その「有体的な自体性」において対象に行き当たり、対象を「把握する」視線のうちに入る。したがって本質直観は直観である。それが厳密な意味で見て取る作用であり、単なる、おそらくは漠然とした現前化ではないなら、それは原的に与える直観であり、本質をその「有体的」な自体性において把握する。他方でそれは、原理的に固有で新しい種類の直観でもある。すなわち、他の範疇の対象性に相関して属するさまざまな直観の種類に対して、とりわけ通常の狭い意味での直観、すなわち個体的直観に対して、そうである。
確かに、本質直観の固有性には、個体的直観の主要な一部、すなわち個体的なものの現出、その見えていることが、その基底に横たわるという点がある。ただしその把握も、現実としての措定も、そこにはまったくない。また確かなのは、そのために、「対応する」個体的なものへ視線を転じ、例示的な意識を形成する自由な可能性なしには、いかなる本質直観も可能でないことである。逆に、イデーションを遂行し、その中で個体的に見えているものにおいて例示される、対応する本質へ視線を向ける自由な可能性なしには、いかなる個体的直観も可能でない。しかしこのことは、二種類の直観が原理的に区別されることを何ら変えない。われわれがいま述べたような命題に現れるのは、両者の本質関係だけである。直観の本質的な区別には、ここで明らかに個体的に定在するものの意味での「現存」と「本質」との間の、すなわち事実とエイドスとの間の本質関係が対応する。このような連関を追究しながら、われわれはこれらの名辞に属し、これから固定的に割り当てられる概念的本質を洞察的に把握する。こうして、エイドス、すなわち理念や、本質という概念にとりわけまとわりつく思想はすべて、また一部は神秘的な思想も、きれいに除かれたままになる。
§4 本質直観と想像 本質認識はあらゆる事実認識から独立している エイドスは、知覚や想起などの経験の所与において直観的に例示されうるが、単なる想像の所与においても同じく例示されうる。したがって、本質そのものを原的に把握するには、対応する経験する直観から出発してもよく、経験しない、定在を把握しない、むしろ「単に想像する」直観から出発してもよい。
自由な想像のなかで空間形態、旋律、社会的な出来事などを作り出すとき、あるいは経験する作用、好みや嫌悪の作用、意志する作用などを虚構するとき、われわれは、イデーションによって、多様な純粋な本質を、場合によっては十全的にさえ、原的に直観できる。空間的形態、旋律、社会的出来事などの本質を一般に直観する場合もあれば、当の特殊な類型の形態や旋律などの本質を直観する場合もある。そのようなものが現勢的な経験において与えられていたかどうかは、問題にならない。自由な虚構が、いかなる心理学的な奇跡によってであれ、原理的に新しい種類の、たとえば感性的なデータの想像へ導くとしよう。そのデータはいかなる経験にも現れたことがなく、これからも現れないとする。それでも、対応する本質の原的な所与性は何も変わらない。もっとも、想像されたデータが現実のデータであることは、決してない。
これと本質的に関連するのは、本質に関するかぎり、措定とさしあたりの直観的な把握は個体的な定在のいかなる措定もまったく含まず、純粋な本質真理は事実についてのいかなる主張もまったく含まないということである。したがって、本質真理だけからは、ごくわずかな事実真理さえ推論できない。事実についての思考や言明はすべて、その基礎づけのために経験を必要とする。そうした思考の妥当性の本質が経験を必然的に要求するからである。同様に、純粋な本質についての思考、すなわち事実と本質を結びつけない混ざりもののない思考は、基礎づける土台として本質直観を必要とする。
§5 本質についての判断と形相的な普遍妥当性をもつ判断 ここで次のことに注意しなければならない。本質と本質事態について判断することと、形相的に判断すること一般とは、同じではない。後者の概念には広さを与えなければならないからである。形相的認識は、そのすべての命題において本質を「それについての対象」としているわけではない。これと密接に関連することだが、これまで捉えてきたような本質直観、すなわち、経験や定在の把握に類比される意識であり、経験において個体的なものが把握されるように、そこで本質が対象的に把握される意識は、定在の措定をいっさい排除したうえで本質をうちに含む唯一の意識ではない。本質は、直観的に意識され、ある仕方では把握されることもありうるが、それでも「それについての対象」にはならない場合がある。
判断から始めよう。より正確に言えば、問題は、本質についての判断と、個体的なものの措定と混ざらずに、未規定に一般的な仕方で、個体的なものについて、しかも純粋に本質の個別として、「一般に」という様態で判断する判断との違いである。たとえば純粋幾何学では、たいていの場合、直線、角、三角形、円錐曲線などのエイドスについて判断するのではなく、直線や角一般、あるいは「そのようなものとして」の直線や角について、個体的な三角形一般、円錐曲線一般について判断する。そのような普遍的判断は、本質の一般性という性格、つまり「純粋」な、あるいは人が言うように「厳密」な、端的に「無条件の」一般性という性格をもつ。
簡単にするため、「公理」、すなわち直接に明証的な判断を扱うと仮定しよう。他のすべての判断は、媒介的な基礎づけによってこの判断へ遡る。ここで前提したように、上述の仕方で個体的な個別について判断するのであれば、そうした判断は、ノエシス的な基礎づけ、すなわち洞察可能にするために、ある種の本質直観を必要とする。これは変様された意味では本質把握とも呼べるだろう。この直観も、対象化する本質直観と同様に、本質の個体的な個別が見えていることに基づいている。ただし、その個別を経験することに基づくのではない。この直観にも、単なる想像表象、あるいはむしろ想像における見えで足りる。見えているものはそのものとして意識され、「現出する」が、定在するものとして把握されてはいない。たとえば本質の一般性、すなわち「無条件」で「純粋」な一般性において「色一般は音一般とは異なる」と判断するとき、いま述べたことはこの判断で確かめられる。色という本質の個別の一つと、音という本質の個別の一つが、直観的に「思い浮かべられ」、しかも本質の個別として思い浮かべられる。定在の措定をともなわない想像直観と本質直観が、同時に、ある仕方でそこにある。ただし後者は、本質を対象にする直観としてではない。だが事情の本質には、対応する対象化する態度へ転じることがいつでもわれわれに許されていること、この転換がまさに本質的可能性であることが属している。態度が変われば判断も変わり、その場合は「色という本質、すなわち類は、音という本質、すなわち類とは別のものである」となる。どこでもそうである。
逆に、本質についてのどの判断も、これらの本質の個別についての、そのようなものとしての無条件に一般的な判断へ、等価に転換できる。このように、純粋な本質判断、すなわち純粋に形相的な判断は、どのような論理形式であっても、一つにまとまる。これらに共通するのは、個体的な存在を措定しないことである。個体的なものについて、まさに純粋な本質の一般性において判断する場合でも、そうである。
§6 いくつかの基本概念 一般性と必然性 明らかに、次の理念は相互に属し合う。形相的な判断すること、形相的な判断ないし形相的な命題、形相的な真理(あるいは真なる命題)である。この最後の理念の相関者が、端的な形相的事態、すなわち形相的真理のうちに成立しているものである。さらに、先の諸理念の相関者が、単に思念されているだけという変様された意味における形相的事態、すなわち判断されたものそのものという意味での事態であり、これは成立していることも、成立していないこともありうる。
形相的に一般的な事態のあらゆる特殊化と個別化は、それがそうであるかぎり、本質的必然性と呼ばれる。したがって、本質的一般性と本質的必然性は相関者である。ただし必然性をめぐる言い方は、相互に属し合う相関関係に従って揺れ動く。対応する判断も必然的と呼ばれるのである。しかし、これらの区別に注意することが重要であり、とりわけ、通例そうされているように、本質的一般性そのものを必然性と呼ぶことは避けねばならない。必然性の意識、より詳しくは、ある事態が形相的一般性の特殊化として意識される判断意識は、必当然的意識と呼ばれる。判断そのもの、すなわち命題は、それが関係する一般的なものの必当然的な、必当然的に「必然的」とも呼ばれる帰結である。ここで述べた一般性、必然性、必当然性の関係についての命題は、より一般的に捉えることもでき、その場合には、純粋に形相的な圏域だけでなく、任意の圏域に妥当する。だが、これらの命題が形相的な限定のもとで、際立った、特に重要な意味を得ることは明らかである。
形相的判断が個体一般について行われることと、個体の定在の措定との結びつきも、非常に重要である。本質の一般性は、定在するものとして措定された個体、あるいは、個体の未規定で一般的な圏域、すなわち定在するものとしての定立を受ける圏域に、移し替えられる。現実のものとして措定された自然の事例に幾何学的真理を「適用」することはすべて、ここに属する。そのとき、現実のものとして措定された事態は、個体的な現実事態であるかぎりで事実であり、本質の一般性の個別化であるかぎりで形相的必然性である。
自然法則の無制限な一般性を本質の一般性と混同してはならない。「すべての物体は重い」という命題は、たしかに、全自然の内部にあるいかなる特定の物的なものも、定在するものとして措定しない。それでもこの命題は、形相的に一般的な命題がもつ無条件の一般性をもたない。自然法則としてのその意味に従えば、この命題はなお定在の措定、すなわち自然そのもの、空間的・時間的現実の措定を伴っているからである。つまり、すべての物体、自然のうちにあるすべての「現実の」物体が重い、ということである。これに対して、「すべての物質的な物は延長をもつ」という命題は形相的な妥当性をもち、主語の側で行われた定在の定立が遮断されるならば、純粋に形相的な命題として理解できる。この命題が言明するのは、物質的な物の本質と延長の本質にもっぱら基づくこと、しかもわれわれが「無条件の」普遍妥当性として洞察にもたらしうることである。それは、物質的な物の本質を(たとえばそうした物の自由な虚構に基づいて)原的な所与性にもたらし、そのうえで、この与える意識のうちで、あの命題が明示的に提示した本質事態の「洞察」、すなわちその原的所与性が要求する思考の歩みを遂行することによって生じる。空間内の現実のものがこうした真理に対応することは、単なる事実ではなく、本質法則の特殊化として本質的必然性である。そこで事実であるのは、適用が行われる当の現実のものだけである。
§7 事実学と本質学 個体的対象と本質のあいだには連関が成り立つ。この連関自体も形相的であり、それによれば、あらゆる個体的対象には、その本質として一つの本質の内実が属し、逆にあらゆる本質には、その事実的な個別化となりうる可能的な個体が対応する。この連関が、事実学と本質学の相互の対応関係を根拠づける。純粋な本質学がある。純粋論理学、純粋数学、純粋な時間論、空間論、運動論などである。これらは、そのあらゆる思考の歩みにおいて、事実の措定をまったく含まない。あるいは同値のことだが、これらにおいては、経験が経験として、すなわち現実を、定在を把握し、ないし措定する意識として、基礎づけの機能を引き受けることはない。それらのうちで経験が機能している場合でも、経験は経験として機能するのではない。黒板に図形を描く幾何学者は、それによって、事実的に定在する黒板の上に、事実的に定在する線を生み出している。しかし、彼の物理的な産出が基礎づけにならないのと同様に、産出されたものを彼が経験することも、経験することとしては、彼の幾何学的な本質直観と本質思考にとって基礎づけるものではない。それゆえ、彼がそのとき幻覚を見ていようといまいと、また、実際に描く代わりに、線や作図を想像の世界のなかに思い描こうと、どちらでも同じである。自然研究者はまったく異なる。彼は観察し、実験する。すなわち経験に基づく定在を確認する。彼にとって経験することは基礎づける作用であり、単なる思い描きでは決して代わりがきかない。だからこそ、事実学と経験科学は同値の概念なのである。これに対して幾何学者は、現実ではなく「観念的な可能性」を、現実事態ではなく本質事態を探究する。彼にとっては、経験の代わりに本質直観が最終的に基礎づける作用である。
すべての形相的学問において事情は同じである。直接の洞察において把握される本質事態、ないし形相的公理に基づいて、間接的な本質事態が成り立つ。これらは間接的に洞察的な思考において、しかも完全に直接洞察的な原理に従って、所与となる。この意味で、間接的な基礎づけの歩みはどれも必当然的であり、形相的に必然的である。それゆえ、純粋に形相的な学問の本質は、もっぱら形相的に進むこと、すなわち最初から、またその後も一貫して、形相的な妥当性をもつ事態しか認識にもたらさないことにある。そうした事態は、直接に原的所与性へともたらされうるもの、つまり原的に直観された本質に直接基づくものか、このような「公理的」事態から純粋な推論によって「導出」されうるもののいずれかである。
これと関連して、厳密な形相的学問という実践的理想がある。これを実現するすべを教えたのは、本来、近代数学がはじめてである。その理想とは、あらゆる形相的学問に最高段階の合理性を与えることである。それは、間接的な思考の歩みをすべて、その時々の形相的領域の、一度かぎり体系的に編成された公理のもとへの単なる包摂に還元することによってなされる。さらに、問題が最初から「形式的」ないし「純粋」論理学そのもの(最も広い意味での普遍数学)にかかわるのでない場合には、この論理学の公理もすべて併せて用いる。
これとまた関連して、「数学化」の理想がある。この理想は、いま特徴づけた理想と同様に、あらゆる「厳密な」形相的学科にとって認識の実践上、大きな意義をもつ。そうした学科では、たとえば幾何学のように、認識の全体が、少数の公理の一般性のうちに、純粋に演繹的な必然性をもって含まれている。これに立ち入る場所は、ここではない。
§8 事実学と本質学のあいだの依存関係 以上から明らかなように、形相的学問の意味は、経験的諸学問の認識成果を取り込むことを原理的に排除する。経験的諸学問では、直接的な確認に現れる現実の定立が、あらゆる間接的な確認をも貫いているからである。事実からは、つねに事実しか帰結しない。
さて、あらゆる形相的学問が原理的にあらゆる事実学から独立しているとすれば、逆のことが事実学については成り立つ。学問として十分に展開された事実学で、形相的認識を含まずに純粋でありえ、したがって形式的であれ質料的であれ形相的学問から独立でありうるようなものは、存在しない。というのも、第一に、経験科学が判断の間接的な基礎づけを行うところではどこでも、形式論理学が扱う形式的原理に従って進まなければならないことは、自明だからである。総じて経験科学は、あらゆる学問と同様に対象へ向かっている以上、対象性一般の本質に属する法則に拘束されていなければならない。こうして経験科学は、形式的存在論的な諸学科の複合体と関係する。この複合体は、狭義の形式論理学のほかに、形式的「普遍数学」のその他の諸学科、つまり算術、純粋解析、多様体論をも包括している。第二に、あらゆる事実は質料的な本質の内実を含んでおり、そこに含まれる純粋な諸本質に属する形相的真理はいずれも、一つの法則を与えるはずである。与えられた事実的個別は、およそ可能な個別すべてと同じく、この法則に拘束される。
§9 領域と領域的形相論 経験的な具体的対象性はいずれも、その質料的本質によって、経験的対象の最高の質料的類、すなわち「領域」に組み入れられる。すると、純粋な領域的本質には領域的な形相的学問が対応する。これはわれわれの言い方では、領域的存在論でもある。その際われわれは、次のことを想定する。領域的本質のうちに、ないしそれを組み立てるさまざまな類のうちに、きわめて豊かで多方面に枝分かれした認識が基づいており、その体系的な展開に関しては、一つの学問について語る価値が、あるいは領域の個々の類的構成要素に応じた存在論的諸学科の全体的な複合体について語る価値が、およそあるとする。この前提が実際にどれほど広範囲に満たされているかは、のちに十分に納得できるだろう。この想定のもとで、領域の範囲に組み入れられる経験的学問はいずれも、形式的存在論的諸学科にも領域的存在論的諸学科にも、本質的に関係づけられることになる。これはこうも言い表せる。あらゆる事実学、すなわち経験科学は、形相的存在論に本質的な理論的基礎をもつ。なぜなら、ここでなした想定が当たっているならば、領域のあらゆる可能な対象に、純粋で無条件に妥当する仕方で関わる認識の豊かな蓄えは、経験的事実の探究にとって無意味でありえないことが、まったく自明だからである。この認識は、一部は対象性一般の空虚な形式に属し、一部は領域のエイドスに属する。後者は、いわば領域的対象すべての必然的な質料的形式をなしている。
この意味で、たとえば自然科学のあらゆる学科には、物理的自然一般についての形相的学問、すなわち自然の存在論が対応する。事実的自然には、純粋に把握できるエイドスが、つまり自然一般という「本質」が、そこに含まれた本質事態の無限の充実とともに対応するからである。自然についての完全に合理化された経験科学の理念を形成してみよう。それは、理論化がきわめて進み、そこに組み入れられた個別がすべてもっとも一般的で原理的な根拠へ還元されているような経験科学である。そうすると、この理念の実現は、対応する形相的学問の形成に本質的に依存することは明らかである。つまり、あらゆる学問一般に同じ仕方で関係する形式的普遍数学のほか、とりわけ質料的存在論的諸学科の形成に依存する。これらの学科は、自然の本質を、したがって自然的対象性そのものの本質上のあらゆる種別をも、合理的な純粋さにおいて、まさに形相的に解明するのである。このことは、むろん任意のどの領域についても当てはまる。
認識実践の面でも、あらかじめ次のことが期待される。経験科学が「合理的」段階、すなわち「厳密な」法則論的学問の段階に近づくほど、言い換えれば、発展した形相的学科を基礎として高度に備え、基礎づけのためにそれらから益を引き出すほど、その経験科学は、認識実践的な成果の範囲と力においても、それだけ増大するだろう。
このことは、合理的な自然科学、すなわち物理学の発展が裏づけている。その大きな時代は、近世に入って、すでに古代に、しかも本質的にはプラトン学派において、純粋な形相論として高度に発達していた幾何学が、突如として大規模に、物理学的方法にとって実り多いものとされることから、まさに始まる。人は、物質的な物の本質が res extensa であること、したがって幾何学とは、そうした物性の一つの本質契機、すなわち空間形式に関わる存在論的学科であることを、明晰にとらえる。しかし人はさらに、物の一般的な、われわれの言い方では領域的な本質が、はるかに広くおよぶことも明晰にとらえる。そのことは、この発展が同時に、一連の新しい学科、すなわち幾何学に並置されるべき学科であり、経験的なものを合理化するという同じ機能を担うべき学科を形成する方向をたどることに示される。形式的および質料的な数学的諸学問の見事な開花は、この傾向から生じた。これらの学問は、燃えるような熱意をもって、純粋に「合理的」な学問として、つまりわれわれの意味での形相的存在論として形成され、ないし新たに作り出された。しかもそれは、近世の初めから長いあいだ、それ自身のためではなく、経験的諸学問のためであった。それらは実際、広く称賛された合理的物理学の並行的発展において、期待された実りを豊かにもたらした。
§10 領域と範疇 分析的領域とその範疇 何らかの形相的学問、たとえば自然の存在論の中に身を置くと、われわれは(これはまさに通常のことである)本質を対象として向いているのではなく、本質に属する対象、この例では自然という領域に従属する本質の対象に向いている。その際、「対象」とは、さまざまな、しかし相互に属し合う形態の表題であることに気づく。たとえば「物」「特性」「関係」「事態」「集合」「秩序」などであり、これらは明らかに互いに同列ではない。それぞれが、いわば原対象性の優位をもつある種の対象性に差し戻され、この対象性に関しては、他のすべてがいわば単なる変形として現れる。この例でこの優位をもつのは、当然、物的な特性や関係などに対する物そのものである。ところで、まさにこれが、あの形式的な成り立ちの一部であり、その解明なしには、対象という語も対象領域という語も混乱にとどまるだろう。われわれは以下の考察をこの解明にあてるが、この解明からおのずと、領域の概念に関わる重要な範疇の概念も得られるだろう。
範疇とは、一方では「ある領域の範疇」という結びつきにおいて、当該の領域、たとえば物理的自然という領域を指し示す語である。他方では、そのつど特定された質料的領域を、領域一般の形式に、すなわち同じことだが対象一般という形式的本質とそれに属する「形式的範疇」に関係づける語でもある。
まず、軽んじられない注意を一つ述べておく。形式的存在論は、さしあたり質料的存在論と同列にあるように見える。対象一般の形式的本質と、各領域の本質とが、どちらも同じ役割を演じているように見えるからである。そのため、これまでのように単に領域と言うのではなく、むしろ質料的領域と言い、それに「形式的領域」を並べたくなるだろう。この言い方を採るにしても、なお若干の注意が必要である。一方の側には質料的なものがあり、これはある意味で「本来の」本質である。他方の側には、たしかに形相的なものがあるが、本質の根本において異なるものがある。それは単なる本質形式であり、本質ではあるが、まったく「空虚な」本質、すなわち空虚な形式というしかたで、可能なあらゆる本質に当てはまる本質である。この本質は、その形式的一般性のもとに、最高の質料的一般性をも含めてすべてを従え、それに属する形式的真理を通じてそれらに法則を課す。したがって、いわゆる「形式的領域」は、質料的領域(領域そのもの)と同列に置かれるものではなく、本来は領域ではなく、領域一般の空虚な形式である。それは、事象内実をもつ本質の特殊化をともなうあらゆる領域を、自らの傍らにではなく、むしろ(たとえ形式的にすぎないにせよ)自らの下にもつ。質料的なものが形式的なものに従属することは、次のことに表れる。形式的存在論が、およそ可能なあらゆる存在論の形式を同時に、つまり「本来の」「質料的な」あらゆる存在論の形式を、自らのうちに蔵していること、そして形式的存在論が質料的存在論にそれらすべてに共通する形式的な成り立ちを課すことである。この共通の成り立ちには、われわれがいま領域と範疇の区別に関して研究すべきものも含まれている。
形式的存在論(つねに、普遍数学にまで至る完全な外延をもつ純粋論理学として)から出発するなら、われわれの知るとおり、それは対象一般についての形相的学問である。その意味では、あらゆるものが対象であり、これについて、数学のさまざまな部門に分かれる無限に多様な真理を確立できる。しかしそれらはすべて、直接的な、すなわち「根本」真理の小さな集まりに帰着し、この真理は純粋に論理的な諸部門において「公理」として機能する。そこでわれわれは、これらの公理に現れる純粋に論理的な根本概念を、論理的範疇あるいは論理的領域「対象一般」の範疇と定義する。これらの概念は、公理の全体系のなかで対象一般の論理的本質を規定するものであり、あるいは、対象そのものの、すなわち何らかのものの、それがそもそも何ものかでありうるべきである限りでの、絶対に必然的で構成的な規定を表現するものである。われわれが絶対に厳密に限定した意味での純粋に論理的なものは、哲学にとって唯一重要な(しかもまさに根本的に重要な)「分析的なもの」という概念を、「総合的なもの」に対して規定する。それゆえ、これらの範疇を分析的範疇とも呼ぶことがある。
論理的範疇の例は、特性、相対的な性状、事態、関係、同一性、等しさ、集合(集まり)、個数、全体と部分、類と種などの概念である。しかし、「意義範疇」、すなわち命題(アポファンシス)の本質に属し、さまざまな種類の命題、命題の成分、命題の形式に関わる根本概念もここに属する。このことは、われわれの定義にしたがい、「対象一般」と「意義一般」とを結びつける本質真理に着目して言える。しかもこの真理は、純粋な意義真理を純粋な対象真理へと転換できるように両者を結びつけている。まさにそれゆえ、「アポファンシス的論理学」は、意義についてのみ述べる場合でも、最も包括的な意味での形式的存在論に共に属する。とはいえ、意義範疇は独自の一群として別に分け、それ以外の範疇を際立った意味での形式的対象的範疇としてそれに対置しなければならない。
ここでさらに注意しておくと、範疇のもとで、一方では意義としての概念を理解することができるが、他方では、そしてなおいっそう適切には、これらの意義のうちに表現を見いだす形式的本質そのものを理解することもできる。たとえば「範疇」としての事態や多数性などは、後者の意味では、事態一般、多数性一般などという形式的エイドスを意味する。この多義が危険なのは、ここでいたるところで区別されなければならないものを、純粋に分けることをまだ学んでいないあいだだけである。区別すべきものとは、「意義」と、意義によって「表現」を受けうるもの、そしてまた、意義と意義される対象性である。用語のうえでは、意義としての範疇的概念と範疇的本質とを明示的に区別できる。
§11 統語的対象性と最終的な基体 統語的範疇 いまや、対象性一般の領域で重要な区別が必要になる。この区別は、意義の形式論のなかでは、(「純粋文法的」な)「統語的形式」と「統語的基体」ないし「素材」との区別として映し出される。ここに、形式的存在論的範疇が統語的範疇と基体範疇に分かれることが示される。これをこれから詳しく論じる。
われわれが統語的対象性と解するのは、ほかの対象性から「統語的形式」によって導き出された対象性である。これらの形式に対応する範疇を、われわれは統語的範疇と呼ぶ。たとえば、事態、関係、性状、統一、多数性、個数、順序、順序数などの範疇がこれに属する。ここで成り立っている本質の事情は、次のように記述できる。あらゆる対象は、展開でき、ほかの対象に関係づけられ、要するに論理的に規定できるかぎり、さまざまな統語的形式をとる。規定する思考の相関者として、より高次の対象性が構成される。すなわち、性状と、性状によって規定された対象、任意の対象どうしの関係、統一の多数性、順序の項、順序数による規定の担い手としての対象などである。思考が述定的であれば、表現と、それに属する言明的な意義形成体が段階を追って生じる。これらは、統語的対象性をそのあらゆる分節と形式にわたって、ちょうど対応する意義の統語のなかに映し出す。これらすべての「範疇的対象性」は、対象性一般と同様に、ふたたび範疇的形成体の基体として機能しうる。この形成体もまた同様に機能し、以下同様に続く。逆に、そうした形成体はいずれも、明証的に最終的な基体、すなわち第一段ないし最下段の対象へと遡る。この対象は、もはや統語的・範疇的形成体ではない。つまり、思考機能(付与、否認、関係づけ、結合、数えることなど)の単なる相関者にすぎないあの存在論的形式を、それ自身のうちにまったく含まない。したがって、形式的領域である対象性一般は、最終的な基体と統語的対象性とに分かれる。後者を、われわれは対応する基体の統語的派生と呼ぶ。基体には、すぐ後で明らかになるように、すべての「個体」も属する。個体的特性、個体的関係などと言う場合に、これらの派生対象がそう呼ばれるのは、もちろん、それが派生してきた基体のゆえである。
次のことも付け加えておく。最終的な、統語的に無形式の基体には、意義の形式論の側からも到達する。あらゆる命題とあらゆる可能な命題成分は、その言明的形式の基体として、いわゆる「名辞」を含んでいる。これらは、単に相対的な意味での名辞でありうる。つまり、それ自身がふたたび形式を含みうる(たとえば複数形、属性づけなど)。だがどの場合にも、必然的に最終的な名辞に、すなわち統語的な形成をもはや何も含まない最終的な基体に行き着く。
§12 類と種 いまや、本質の全圏域に属する、範疇的区別の新たな一群が必要になる。あらゆる本質は、事象内実をもつ本質であれ、空虚な(したがって純粋に論理的な)本質であれ、本質の段階列に、すなわち類的一般性と特殊性の段階列に組み入れられる。この列には、決して一致することのない二つの限界が必然的に属する。下降すれば、最低の種差、われわれの別の言い方では形相的単称に至る。上昇して、種の本質と類の本質を通れば、最高類に至る。形相的単称とは、自分の上にはその類として「より一般的な」本質を必然的にもつが、自分の下には、それに関して自らが種(最近種、あるいは間接的な、より高次の類)となるような特殊化をもはやもたない本質である。同様に、最高の類とは、自分の上にもはや類をもたない類である。
この意味で、意義の純粋論理的領域では、「意義一般」が最高類であり、あらゆる特定の命題形式、あらゆる特定の命題成分形式が形相的単称である。命題一般は媒介的な類である。同様に、個数一般も最高類である。二、三などは、その最低の種差、すなわち形相的単称である。事象内実をもつ圏域では、たとえば物一般、感性的性質、空間形態、体験一般が最高類である。特定の物、特定の感性的性質、空間形態、体験としてのそれぞれに属する本質の内実は、形相的な、しかも事象内実をもつ単称である。
これらの、類と種によって示される本質関係(クラス関係、すなわち集合関係ではない)には、より一般的な本質が、特殊な本質のうちに「直接ないし間接に含まれている」ということが属する。この含まれ方は、形相的直覚においてその固有性に即して把握されるべき、ある特定の意味でのものである。まさにそれゆえ、形相的な類と種の関係、すなわち形相的特殊化への関係を、「部分」と「全体」の関係の一つとして扱う研究者もいる。このとき「全体」と「部分」は、「含むもの」と「含まれるもの」の最も広い概念をもつ。形相的な種の関係は、その特殊例である。したがって、形相的に単称的なものは、それより上にあるすべての一般性を含意する。これらの一般性は、それ自身、段階的に「たがいに入れ子になって」おり、より高いものは常により低いもののうちにある。
§13 一般化と形式化 一般化と特殊化の関係は、次の関係から鋭く区別しなければならない。事象内実をもつものを純粋に論理的な形式的なものへ普遍化すること、あるいは逆に、論理的に形式的なものを事象化することである。一般化は、たとえば数学的解析学で大きな役割を果たす形式化とは別のものである。特殊化も、脱形式化、すなわち論理的・数学的な空虚な形式ないし形式的真理の「充填」とは別のものである。
本質が純粋論理的な本質の形式的一般性に属することと、より高次の本質類に属することを、混同してはならない。三角形は最高類である空間形態に、赤は最高類である感性的性質に従属する。他方、赤も三角形も、同質的であれ異質的であれ、あらゆる本質は、範疇的な称号「本質」に従属する。しかしこの称号は、それらにとって本質類という性格をもたない。「本質」を事象内実をもつ本質の類とみなすのは、対象一般(空虚なあるもの)をあらゆる種類の対象の類とみなし、さらにそれを唯一の最高類、すなわちすべての類の類と誤解するのと同じく、誤っている。むしろ、形式的存在論的範疇はすべて形相的単称と呼ばなければならない。それらは「形式的存在論的範疇一般」という本質に最高類をもつ。
同様に、特定の推論、たとえば物理学に役立つ推論は、純粋論理的な推論形式の個別化である。特定の物理学的命題も、命題形式の個別化である。ただし純粋な形式は、事象内実をもつ命題や推論の類ではなく、それ自身がもっぱら最下位の種差にすぎない。すなわち、純粋論理的な類である命題と推論の種差である。これらの類は、同様のあらゆる類と同じく、最高の類「意義一般」をもつ。論理的な空虚形式の充填(普遍数学には空虚形式以外のものはない)は、最後の分化に至る真正の特殊化とは、まったく異なる「操作」である。このことはどこでも確認できる。たとえば、空間から「ユークリッド多様体」への移行は、一般化ではなく、「形式的な」普遍化である。
この徹底した区別を確証するには、本質直覚に立ち戻らなければならない。本質直覚はただちに次のことを教える。論理的な形式本質、たとえば範疇は、事象内実をもつ個別化のうちに、一般的な赤が赤のさまざまな色合いのうちに「ある」ようには「ある」のではない。「色」が赤や青のうちに「ある」ようにも、「ある」のではない。さらにそれらは、通常の狭い意味での部分関係と共通性をもち、含まれていることを語ることを正当化するような本来の意味では、そもそもそれらのうちに「含まれて」いない。
個体的なもの、つまりこのものを、本質のもとに包摂することを、本質がより高次の種や類に従属することと混同してはならない。この包摂は、問題となるのが最下位の種差か類かに応じて、性格を異にする。この指摘は、詳しい論究を要しない。
外延という揺れ動く言い方も、上で論じた違いに応じて分化せざるをえない。これは普遍的判断における本質の機能にとくに関わるが、ごく簡単に示唆するにとどめる。最下位の種差でないどの本質も、形相的外延、すなわち特殊なものの、結局は形相的単称の外延をもつ。他方、どの形式的本質も、形式的な、あるいは「数学的」外延をもつ。さらに、どの本質も一般に、個体的な個別化の外延、つまり形相的に普遍的な思考においてそれに関係づけられうる、可能なこのもの性の観念的な総体をもつ。経験的外延という言い方は、それ以上のことを意味する。絡み合って含まれる定在の措定が純粋な一般性を廃棄するため、定在の圏域に限定するということである。これらはすべて、本質から意義としての「概念」にも移される。
§14 基体範疇 基体本質とτόδε τι われわれはさらに、「充満した」「事象内実をもつ」基体と、それに応じた統語的対象性、他方で空虚な基体と、そこから形成された統語的対象性、すなわち空虚なあるものの諸変形、とのあいだの区別に注目した。後者のクラスは、それ自身空虚でも貧弱でもない。普遍数学としての純粋論理学の成り立ちに属する事態の全体として、さらにその事態を組み立てるあらゆる範疇的対象性の全体として規定されるからである。したがって、三段論法的ないし算術的な公理や定理が言い表す事態、あらゆる推論形式、数値、数の構成体、純粋解析の関数、そこで定義されたユークリッド的ないし非ユークリッド的多様体が、ここに属する。
事象内実をもつ対象性の類を優先すると、あらゆる統語的形成の核として、最終的な事象内実をもつ基体に行き着く。これらの核に基体範疇が属し、それは互いに排他的な二つの主要称号のもとに整理される。一つは「事象内実をもつ最終的本質」、もう一つは「このもの!」、すなわち純粋で統語的に無形式な個体的個別である。ここで思い浮かぶ名辞である個体は、次の理由で不適切である。この語が同時に表す不可分性は、どう規定するにせよ、この概念に取り入れてはならず、個体という特別で不可欠な概念のためにとっておかなければならない。そこでわれわれは、アリストテレスの表現τόδε τιを採る。この表現は、少なくとも語形のうえでは、この意味を含んでいない。
われわれは無形式な最終的本質とこのものを対置した。次に、その両者のあいだに成り立つ本質連関を確定しなければならない。それは、どのこのものも自らの事象内実をもつ本質の内実をもち、それが先に挙げた意味で無形式な基体本質という性格をもつ、ということにある。
§15 自立的対象と非自立的対象 具体者と個体 われわれはさらにもう一つの基本的区別、すなわち自立的対象と非自立的対象の区別を必要とする。範疇的形式は、それが形式であるところの基体に必然的に指示を向ける限り、非自立的である。基体と形式は互いに依存し合い、「互いなしには」考えられない本質である。したがってこのもっとも広い意味では、純粋論理的形式は非自立的である。範疇的形式「対象」はあらゆる対象質料に関して、範疇「本質」はあらゆる特定の本質に関して、そうである。この非自立性は度外視する。そして、非自立性ないし自立性の際立った概念を、本来の意味で「内容的」な連関に関係づける。すなわち、より本来的な意味での含まれていること、一つであること、場合によっては結合されていることの関係である。
ここで関心を寄せるのは、最終的な基体、さらに狭く言えば事象内実をもつ基体本質の事情である。これらの本質には二つの可能性がある。別の本質と一つの本質の統一を基づけるか、そうしないかである。前者の場合には、一方的ないし相互的な非自立性という、さらに記述すべき関係が生じる。結びつけられた本質のもとに入る形相的な個別と個体的な個別については、必当然的に必然的な帰結が生じる。一方の本質の個別は、他方の本質と少なくとも類を共有する本質によって規定されたものとしてでなければ、存在しえない。たとえば、感性的性質は必然的に何らかの広がりの差異を指し示す。広がりもまた必然的に、それと一つになってそれを「覆う」何らかの性質の広がりである。範疇でいえば強度に属する「強まり」の契機は、質的な内容に内在するものとしてのみ可能であり、そうした類の内容もまた、何らかの強まりの度合いなしには考えられない。ある類的規定性をもつ体験としての現出は、「現出するものそのもの」の現出としてでなければ不可能であり、逆もそうである。
ここから、個体、具体者、抽象者という形式的範疇的概念について、重要な規定が得られる。非自立的な本質は抽象者と呼ばれ、絶対的に自立的な本質は具体者と呼ばれる。事象内実をもつ本質が具体者であるようなこのものは、個体と呼ばれる。
一般化という「操作」を、拡張された論理的な「変形」の概念のもとに捉えるなら、次のように言える。個体とは、純粋に論理的に要請される根源的対象であり、あらゆる論理的変形が指し戻される論理的な絶対者である。
具体者は形相的な単称である。種と類(これらの表現は通常、最低位の差異を除外する)は原理的に非自立的だからである。したがって、形相的単称は抽象的なものと具体的なものに分かれる。
具体者のなかに互いに重ならずに含まれる形相的単称は、必然的に「異種的」である。形式的存在論の法則、すなわち同一の類に属する二つの形相的単称は一つの本質の統一において結合されえないという法則に照らせば、一つの類の最低位の差異は互いに「両立しない」からである。したがって、具体者に組み入れられたどの単称も、差異として見れば、種と類の別個の体系へ、それゆえ別個の最高類へも通じる。現象的な物の統一では、特定の形態は最高類である空間形態一般へ、特定の色は視覚的性質一般へ通じる。ただし、具体者のなかの最低位の差異は、互いに重ならない場合だけでなく、重なり合う場合もある。物理的特性は空間的規定を前提し、それを自らのうちに含んでいる。その場合には、最高類もまた重なり合う。
類は、特徴的かつ根本的な仕方で、自らのもとに具体者をもつ類と、自らのもとに抽象者をもつ類とに分かれる。形容詞がここで二義性を帯びるにもかかわらず、便宜上、具体的な類と抽象的な類と呼ぶ。具体的な類そのものを本来の意味での具体者とみなそうという考えは、だれにも浮かびえないからである。厳密さが求められる場合には、「具体者の類」ないし「抽象者の類」という煩雑な表現を用いなければならない。具体的な類の例は、実在的な物、視覚的ファントム(感性的に充実して現れる視覚的形態)、体験である。これに対して、空間形態や視覚的性質は、抽象的な類の例である。
§16 事象内実をもつ圏域における領域と範疇 アプリオリな総合的認識 個体と具体者の概念によって、学問論の根本概念である領域もまた、厳密に「分析的」に定義される。領域とは、具体者に属する最高類の統一の全体にほかならない。すなわち、具体者のうちの最低位の差異に属する最高類を、本質の統一によって結びつけたものである。領域の形相的外延は、これらの類の差異が具体的に統一された複合体の観念的な総体を含み、個体的外延は、そうした具体的本質をもつ可能な個体の観念的な総体を含む。
あらゆる領域的本質は、「総合的」本質真理を規定する。これは、その類本質としてのこの本質に基づき、形式的存在論的真理の単なる特殊化ではないような真理である。したがって、領域的概念とその領域的な種別は、これらの総合的真理のなかでは自由に変更できない。該当する特定の名辞を未規定の名辞に置き換えても、形式論理的な法則は得られない。すべての「分析的」必然性においては、そうした置き換えが特徴的に成り立つ。領域的本質に基づく総合的真理の総体が、領域的存在論の内容をなす。そのうちの根本真理の全体、すなわち領域的公理が、領域的範疇の総体を限定し、われわれに対してそれを定義する。これらの概念は、純粋に論理的な範疇の特殊化を表現するだけではない。領域的公理によって、領域的本質に固有に属するものを表現する点で際立っている。すなわち、その領域の個体的対象に「アプリオリ」かつ「総合的」に帰属せざるをえないものを、形相的一般性において表現する。純粋に論理的ではないこうした概念を、与えられた個体に適用することは、必当然的かつ無条件に必然的であり、しかも領域的(総合的)公理によって規制されている。
カントの理性批判との響き合いを保とうとするなら(根本的な見解には著しい違いがあるが、それは内的な親近性を排除しない)、アプリオリな総合的認識とは領域的公理のことだと理解すべきことになる。そうした認識の還元できない類は、領域の数だけある。「総合的根本概念」すなわち範疇とは、領域的根本概念(本質的に特定の領域とその総合的原則に関係する)のことであり、区別すべき領域の数だけ、区別された範疇の群がある。
その際、外面的には形式的存在論が、領域的存在論、すなわち本来の「質料的」「総合的」存在論と同列に並ぶ。形式的存在論の領域的概念である「対象」は、形式的公理系を規定し、それによって形式的(「分析的」)範疇の総体を規定する(上記§10を参照)。ここには実際、強調してきた本質的な相違にもかかわらず、この並置を正当化する根拠がある。
§17 論理的考察の結び 考察はすべて純粋に論理的であり、いかなる「質料的」な圏域にも、同じことだが、いかなる特定の領域にも踏み込まなかった。領域と範疇について一般的に語ったが、この一般性は、積み重ねられた定義の意味に照らして、純粋に論理的なものだった。必要だったのは、純粋論理学の地盤の上で、あらゆる可能な認識ないし認識対象性の根本構造のうち、純粋論理学から出発する部分として、ある図式を描くことだった。その図式によれば、個体は「アプリオリな総合的原理」のもとで、概念と法則に従って規定可能でなければならない。あるいはこの図式によれば、すべての経験的学問は、それぞれに属する領域的存在論に基づかなければならず、あらゆる学問に共通する純粋論理学にのみ基づくのではない。
同時に、ここから一つの課題の理念が生じる。われわれの個体的直観の範囲で具体物の最上位の類を規定し、こうして直観的な個体的存在のすべてを存在領域に従って分配することである。それぞれの領域は原理的に、しかも最も根本的な本質上の根拠から区別された形相的学問と経験的学問、ないし学問群を示している。この根本的な区別は、領域どうしの絡み合いや部分的な重なりを決して排除しない。たとえば「物質的な物」と「心」は異なる存在領域だが、後者は前者に基づけられている。この基づけから、心論が身体論に基づけられることが生じる。
諸学問の根本的な「分類」の問題は、主として領域を分けるという問題である。そのためには、ここで数本の線で進めたような種類の純粋に論理的な研究が、あらかじめ必要になる。他方で、現象学も確かに必要になるが、われわれはこれまでのところ現象学について何も知らない。
第二章 自然主義的な誤解
§18 批判的論議への序論 本質と本質学を事実と事実学に対置して論じてきた先の叙述は、純粋現象学という理念を構築するための本質的な基盤を扱っていた。序論によれば現象学は本質学になるはずだから、この叙述はまた、現象学が心理学をはじめ、あらゆる経験的学問に対してもつ位置を理解するための基盤でもある。ただし、多くのことがここにかかっているのだが、原理的な規定はすべて正しい意味で理解されなければならない。われわれはこれらの規定において、与えられた哲学的立場から講義したのではない。受け継がれてきた哲学説を、たとえ広く承認されたものであっても、用いたのでもない。直観において直接与えられている区別を、忠実に表現しただけである。それらをそこで与えられるとおりに受け取り、仮説的な解釈や説明を加えず、新旧の伝承された理論が示唆したかもしれないものを持ち込むこともしなかった。このように行われた確定は、現実の「始まり」である。しかも、包括的な存在領域に関わる一般性をもつなら、その確定は哲学的な意味で原理的であり、哲学そのものに属してもいる。しかし、この最後の点さえ前提する必要はない。これまでの考察は、今後のすべての考察もそうあるべきだが、哲学という、これほど争われ疑わしい「学問」へのいかなる依存からも自由である。基礎的な確定において、われわれは哲学の概念さえ前提しなかったし、今後もそうするつもりである。われわれが企てる哲学的エポケーとは、明示的に定式化すれば、既存のあらゆる哲学の教説内容に関して判断を完全に控え、すべての論証をこの控えの枠内で行うことである。他方で、哲学一般について語ることを、だからといって避ける必要はなく、そもそも避けることができない。歴史的事実としての哲学や、その諸潮流について語ってよい。これらの潮流は、良い意味でもしばしば悪い意味でも、人類の一般的な学問的確信を規定してきたのであり、いま扱った基礎的な論点についてもそうである。
この点で、われわれは経験論と争わなければならない。この争いはエポケーの内部でも戦える。問題になるのは、直接の確定に服する点だからである。哲学が本来の意味での「原理的」な基礎、すなわち本質上、直接に与える直観によってのみ基礎づけられうる基礎を備えているなら、それに関わる争いの決着は、あらゆる哲学的学問から、つまりその理念をもつことや、根拠づけられたとされるその教説内容をもつことから独立である。この争いを強いるのは、「理念」「本質」「本質認識」が経験論によって否定されていることである。自然科学は「数学的」であることによって高い学問的水準を形相的な基礎づけに負っているが、それでもなぜ自然科学の勝利の前進が哲学的経験論を促進し、経験研究者の間ではほとんど唯一の支配的な確信にまでしたのか。その歴史的な理由を展開するのは、ここの場ではない。いずれにせよ、心理学者たちの間にも、理念への敵意が生きている。この敵意は、最終的には経験科学そのものの進歩にとって危険にならざるをえない。その理由は、この敵意が、これらの学問の形相的な基礎づけ、決してすでに完結してはいないその基礎づけや、場合によって必要になる新しい本質学の構成を妨げるからである。後ではっきり示されるように、これはまさに現象学に関わる。現象学は、心理学と精神科学の本質的な形相的基礎をなすからである。それゆえ、われわれの確定を擁護するために、いくつかの論述が必要になる。
§19 経験論による、経験と原的に与える作用との同一視 経験論的自然主義は、認めざるをえないことだが、きわめて評価に値する動機から生まれている。それは認識の実践における急進主義であり、伝統や迷信の力、粗野な、あるいは洗練された偏見というあらゆる「偶像」に対して、自律的な理性こそ真理をめぐる問いにおける唯一の権威だという権利を、貫こうとする。理性的に、あるいは学問的に事象について判断するとは、事象そのものに従うことである。すなわち、語られたことや思念から事象そのものへ立ち返り、事象をその自体所与性において問う。事象にそぐわない偏見は、すべて脇に置く。すべての学問は経験から出発し、間接的な認識を直接的な経験に基礎づけなければならないと言うのも、まったく同じことを別の表現で言っているにすぎないと、経験論者は考える。こうして経験論者にとって、真の学問と経験科学は同じものである。事実に対する「理念」や「本質」とは、スコラ学的な存在物か、形而上学的な亡霊でなくて何であろうか。人類をこの種の哲学的な怪異から解放したことこそ、近代自然科学の主要な功績だという。すべての学問が関わるのは、経験可能で実在的な現実だけである。現実でないものは空想であり、空想から成る学問は、空想上の学問にすぎない。心的な事実としての空想は認められるが、それは心理学に属する。ところが、前章で示そうと試みたように、空想に基づく、いわゆる本質直観によって、空想から新たな所与、すなわち「形相的」な所与が、非実在的な対象が湧き出るという。経験論者なら、こう結論するだろう。これはまさしく「イデオロギー的な行き過ぎ」であり、「スコラ学への後戻り」であり、あるいは、19世紀前半に自然科学に疎い観念論が、それによって真の学問を大いに阻害したとされる、あの種の「アプリオリな思弁的構成」にほかならない。
動機がいかに善意に発し、良いものであっても、経験論者の言うことはすべて、誤解と偏見に基づいている。経験論的な議論の原理的な誤りは、「事象そのもの」へ立ち返るという根本要求を、経験によるあらゆる認識の基礎づけという要求と同一視し、取り違えていることにある。認識可能な「事象」の枠を自然主義的に限定するのは理解できることだが、その限定のもとで彼は、経験をそのまま、事象そのものを与える唯一の作用とみなす。だが、事象がそのまま自然事象であるわけではない。通常の意味での現実が、そのまま現実一般であるわけでもない。経験と呼ぶ原的に与える作用が関わるのは、自然の現実だけである。ここで同一視を行い、それを自明と思い込むのは、最も明晰な洞察において与えられる区別を、見もせずに脇へ押しのけることにほかならない。それゆえ問われるべきは、偏見がどちらの側にあるかである。真の無偏見性が求めるのは、「経験にそぐわない判断」を一律に退けることではない。判断の固有の意味が経験による基礎づけを要求する場合に限って、退けるのである。判断の本質をそれぞれまったく異なる種類に即して研究せず、この主張が背理ではないかと検討することもなく、すべての判断が経験による基礎づけを許し、要求するとあっさり主張する。これは「アプリオリな思弁的構成」であり、経験論の側から出てきたからといって、よくなるわけではない。真の学問と、それに固有の真の無偏見性は、あらゆる証明の土台として、それ自体で直接に妥当する判断を要求する。そうした判断は、原的に与える直観から直接にその妥当性を得る。ただし、この直観の性質は、判断の意味、ないし対象と判断事態に固有の本質が定める。対象の根本的な諸領域、それに対応する与える直観の領域的な諸類型、これに属する判断の諸類型、そして、そうした類型の判断を基礎づけるためにまさにこの種の直観を要求するノエシス的な諸規範。これらを、上から要請したり布告したりすることはできない。洞察的に確定できるだけである。そしてこのことは、それ自身がふたたび原的に与える直観によって示し、その中で与えられたものに忠実に合わせた判断によって固定するということを意味する。真に偏見のない、純粋に事象に即した手続きとは、ほかでもなくこのようなものだと、われわれには思われる。
直接的な「見ること」は、感性的に経験する見ることだけでなく、どのような種類であれ、原的に与える意識としての見ること一般が、あらゆる理性的な主張の究極の権利源泉である。見ることが権利を与える機能をもつのは、それが原的に与えるからであり、またその限りにおいてである。ある対象を完全な明晰さで見るとする。実際に見ながら把握したものの枠内で、もっぱら見ることに基づいて解明と概念的把握を行う。さらに(「見ること」の新たな仕方として)その対象がどのような性質のものかを見る。そのとき、それを忠実に表現する言明は権利をもつ。この権利の理由をたずねて「私はそれを見ている」に価値を認めないのは背理であり、この点もわれわれはあらためて洞察する。起こりうる誤解を防ぐために付け加えると、このことは、ある見ることが別の見ることと対立しうること、一つの正当な主張が別の主張と対立しうることを、排除しない。一つの力が別の力に打ち負かされても、それが力でないことにはならないのと同様に、このことから見ることが権利根拠でないということにはならないからである。このことが示しているのは、おそらくある範疇の直観では(まさに感性的に経験する直観がそうである)、見ることが本質上「不完全」であり、原理的に確証も反証もされうるということである。したがって、経験の中に直接の、それゆえ真正の権利根拠をもつ主張でさえ、経験が進むなかで、より優勢でそれを無効にする反対の権利によって、放棄されなければならないことがある。
§20 懐疑論としての経験論 こうしてわれわれは、経験の代わりに、より一般的な「直観」を置く。それゆえ、学問一般と経験科学との同一視を退ける。なお、この同一視を支持して純粋に形相的な思考の妥当性を否認すれば、懐疑論に行き着くことは容易にわかる。しかもその懐疑論は、真正の懐疑論として、背理によって自らを廃棄する。経験論者に、その一般的な主張、たとえば「あらゆる妥当な思考は、唯一の与える直観である経験に基づく」という主張の妥当性の源泉をたずねさえすれば、彼は証明可能な背理に巻き込まれる。直接的な経験が与えるのは単称的な個別だけで、一般性ではない。それゆえ経験では足りない。本質洞察には訴えられない。彼はそれを否認しているからである。そうすると帰納に、そしてひろく、経験科学が一般命題を得る間接的な推論様式の複合に訴えるほかない。では、間接的な推論が演繹的なものであれ帰納的なものであれ、その真理はどうなのか。この真理は、それ自体、経験可能なもの、ひいては最終的には知覚可能なものなのか。単称判断の真理でさえすでにそうなのか、とまで問える。また、争いや疑いが生じた場合に人が拠りどころとする推論様式の原理、たとえば三段論法の原理や「第三のものとの等しさ」の命題は、どうなのか。あらゆる推論様式の正当化は、これらを最終的な源泉としてさかのぼるのではないか。これらもまた経験的な普遍化にすぎないのか。それとも、そうした見方は最も根本的な背理を含んでいるのではないか。
ここで長い論争に立ち入ることは、他の箇所で述べたことの繰り返しになるので避ける。少なくとも次のことは明らかになったはずである。経験論の根本主張は、まずもってより精密な解明、明確化、基礎づけを必要とする。そしてこの基礎づけ自体が、それらの主張が述べる規範に適合していなければならない。同時に、この自己への関係づけに背理が潜んでいるのではないかという重大な疑いが、少なくとも存在する。しかも経験論の文献には、こうした関係において真の明晰さと学問的な基礎づけを生み出そうと真剣に遂行された試みは、その端緒すらほとんど見いだされない。学問的で経験的な基礎づけは、ここでも他の場合と同様に、理論的に厳密に確定された個別事例から出発し、原理的な洞察に貫かれた厳密な方法に従って一般的な主張へ進むことを要求するだろう。経験論者は、自分たちの主張の中で全認識に課す学問的な要求が、自分たちの主張そのものにも向けられていることを、見落としているように思われる。
彼らは、真の立場の哲学者として、しかも無偏見という自らの原理と明白に矛盾して、解明されず基礎づけられてもいない先入見から出発する。これに対してわれわれが出発点とするのは、あらゆる立場の前にあるもの、すなわち、直観において、しかもあらゆる理論化する思考に先立って与えられたものの全領域、直接に見て把握できるすべてである。ただし、偏見に目をくらまされ、真正の所与の類をまるごと顧慮することを妨げられなければの話である。「実証主義」が、あらゆる学問を「実証的なもの」、すなわち原的に把握されるべきものに、まったく偏見なく基づけることを意味するなら、真の実証主義者はわれわれである。われわれは、あらゆる直観の種類を認識の等価な権利源泉として認める権利を、いかなる権威によっても、「近代自然科学」の権威によってさえ、損なわれはしない。自然科学が実際に語るときには、喜んで、門弟として耳を傾ける。だが、自然研究者が語るとき、いつも自然科学が語っているわけではない。「自然哲学」や「自然科学的認識論」について語るときには、語っていない。ましてや、あらゆる公理が表現するような一般的な自明性を、経験的事実の表現だと信じさせようとするときに、自然科学が語っているはずはない。たとえば、a + 1 = 1 + a であること、判断は色を帯びえないこと、質的に異なるどの二つの音についても一方が低く他方が高いこと、知覚はそれ自体で何かの知覚であることである。われわれは完全な洞察において、こうした命題が形相的直覚の所与を解明的に表現していると認識している。まさにこのことから、「実証主義者」が、あるときは直観の種類の基本的な区別を混同し、またあるときは区別を対比してとらえながらも、偏見に縛られて、そのうちただ一つだけを妥当なものとして、それどころか存在するものとしてのみ認めようとすることが、われわれには明らかである。
§21 観念論の側の不明瞭さ もちろん、不明瞭さはここでは反対の側にもある。この側は、純粋な思考、「アプリオリな」思考を認め、そのため経験論の主張を退ける。だが、純粋な直観作用のようなものがあることを、反省的に明晰な意識にもたらしていない。それは、経験する直観において個体的な実在が与えられるのとまったく同様に、本質が対象として原的に与えられる所与の仕方である。また、判断的な洞察もすべて、とくに無条件に一般的な真理の洞察は、与える直覚という概念に含まれ、この概念には多様な区別があり、とりわけ論理的範疇に並行する区別があることを認識していない。たしかに明証については語る。だが明証を、洞察として、通常の見ることと本質的な関係に置く代わりに、「明証感情」を語り、それが神秘的な真理の指標として判断に感情の色合いを与えるという。こうした見方が可能なのは、意識の種類について上から理論を作るのではなく、純粋に直観しつつ本質に即して分析することを学んでいない間だけである。明証の感情、思考の必然性の感情、そのほかどう呼ばれようと、これらのいわゆる感情は、理論的に考え出された感情にほかならない。このことは、明証のある事例を実際に直観的な所与にもたらし、同じ判断内容の明証のない事例と比較した者なら、誰でも認めるだろう。するとただちに、感情を含む明証理論の暗黙の前提が根本的に誤っていると気づく。その前提とは、ほかの心理学的な本質からすれば同じ判断が、あるときは感情の色合いを帯び、別のときは帯びないというものである。実際には、同じ上層、すなわち同じ言明が単に意義に即して表現するという層が、あるときは「明晰に洞察する」事態直覚に一歩一歩合わせられている。別のときは下層として、まったく別の現象、すなわち直観的でない、場合によってはまったく混乱し分節されていない事態意識が働いている。それなら同じ権利で、経験の圏域でも次のように理解できてしまうだろう。明晰で忠実な知覚判断と、同じ事態についての任意の漠然とした判断との違いは、前者には「明晰さの感情」が備わり、後者には備わっていないということにすぎない。
§22 プラトン的実在論という非難 本質と概念 われわれは「プラトン化する実在論者」として、理念ないし本質を対象として立て、ほかの対象と同じように現実の、つまり真正の存在を認め、実在の場合と同じく直覚によって把握可能とする。これが繰り返し格別の反発を招いてきた。ここでは、残念ながらきわめて多い、ざっと読むだけの読者は除く。そうした読者は、著者にまったく無縁な自分自身の概念を著者に押しつけ、そのうえで著者の叙述から不条理を読み取ることにさほど苦労しない。対象と実在的なもの、現実と実在的現実が同一のことを意味するなら、理念を対象や現実とみなす見方は、たしかに誤った「プラトン的実体化」である。だが「論理学研究」でなされたように両者を厳密に分け、対象を何ものかとして、たとえば真なる定言的で肯定的な言明の主語として定義するなら、暗い偏見に由来する反発を除いて、どんな反発が残りうるだろうか。そもそも対象の一般的な概念を、私が発明したわけではない。あらゆる純粋に論理的な命題が要求する概念を復権させ、同時に、この概念が原理的に不可欠であり、一般的な学問の言説をも規定していることを指摘したにすぎない。この意味で、音列の中で数的にただ一つの項である音質 c は「対象」である。個数の列の中の数2も、幾何学的形成体の観念的世界における円という図形も、命題の「世界」における任意の命題も、要するに多種多様な観念的なものは、「対象」である。理念盲は一種の心盲であり、人は偏見のために、自分の直観の野にあるものを判断の野にもたらすことができなくなっている。実のところ、誰もが、いわばたえず「理念」や「本質」を見ており、思考においてそれらを操作し、本質判断さえ行っている。ただ、自分の認識論的な「立場」から、それらを解釈して消し去っているだけである。明証的な所与は辛抱強く、理論が自分の頭ごしに語るにまかせるが、それでもあるがままにとどまる。理論が所与に従うべきであり、認識論が、そうした所与の根本的な種類を区別して、その固有の本質に即して記述すべきである。
偏見は、理論の面では奇妙なほど人を満足しやすくする。本質は、したがって本質直観つまりイデーションも、ありえないという。それゆえ、一般的な言説がそれに反する箇所では、「文法的な実体化」が問題であるに違いないという。人はそれに引きずられて「形而上学的な」実体化にまで進んではならない。事実として存するのは、実在的な経験や表象に結びつく、「抽象」という実在的で心的な出来事にほかならないという。そこで「抽象理論」が熱心に構築され、経験を誇る心理学は、ここでもあらゆる志向的な圏域でと同様に、でっち上げられた現象と、分析ではない心理学的分析によって豊かにされる。これらは心理学の主要な主題をなすはずのものである。こうして、理念ないし本質は「概念」であり、概念は「心的な形成体」、「抽象の産物」だと言われる。そしてそのようなものとしてなら、たしかにわれわれの思考で大きな役割を演じる。「本質」「理念」「エイドス」は、「味気ない心理学的事実」を指す、もったいぶった「哲学的な」名にすぎない。形而上学的な暗示を呼ぶ点で、危険な名である。
われわれは答える。たしかに本質は「概念」である。もっとも、この多義的な語が許すとおりに、概念という語で本質そのものを理解するならばの話である。ただし、その場合は心的な産物という言い方がナンセンスであり、厳密で本来的な意味に理解するなら、概念形成という言い方も同様にナンセンスであることを、明確にしておく必要がある。ある論文では、個数の列は概念の列であると述べられ、少し先では、概念は思考の形成体だと述べられている。つまりまず、個数そのもの、すなわち本質が、概念と呼ばれていたのである。だが、個数は、われわれがそれを「形成」しようとしまいと、それがあるところのものではないのか。たしかに、数えることは私が行うのであり、私は「一と一」において自分の数表象を形成する。これらの数表象は今はこれであり、同じものとして別の機会に形成するとしても、別のものである。この意味では、一つの同じ数についての数表象は、あるときはなく、あるときは多数、任意の数だけある。しかしまさにそれによって、われわれは区別したのである。数表象は数そのものではなく、2ではない。2は数列のこのただ一つの項であり、あらゆるこうした項と同様に、無時間的な存在である。したがって、数を心的な形成体と呼ぶのは背理であり、算術的な言説の意味に反する。その意味はまったく明晰で、いつでも妥当なものとして洞察でき、それゆえあらゆる理論の前にある。概念が心的な形成体であるなら、純粋な数のような事象は概念ではない。だが、それらが概念であるなら、概念は心的な形成体ではない。それゆえ、まさにこれほど危険な多義を解消するために、新しい名辞が必要である。
§23 イデーションの自発性 本質と虚構されたもの 次のように反論されよう。概念は、あるいは言いたければ、赤や家などの本質は、抽象によって個体的な直観から生じるというのは、やはり真であり明証的ではないか。われわれは、すでに形成された概念から恣意的に概念を構築しているのではないか。それなら、やはり心理学的な産物が問題になっている。さらに、これは恣意的な虚構の場合に似ている、とつけ加えられるかもしれない。われわれが自由に思い描く笛を吹くケンタウロスは、まさにわれわれの表象の形成体である、と。われわれは答える。たしかに「概念形成」も自由な虚構も自発的に行われ、自発的に産出されたものは、もちろん精神の産物である。だが笛を吹くケンタウロスは、表象されたものが表象と呼ばれる意味では表象であるが、表象が心的な体験の名である意味では表象ではない。ケンタウロスそのものは、もちろん心的なものではなく、心の中にも意識の中にも、そのほかどこにも存在しない。それは「無」であり、まったくの「空想」である。より正確に言えば、空想体験とは、ケンタウロスを空想することである。その限りで、体験そのものには、「ケンタウロスとして思念されたもの」、ケンタウロスとして想像されたものが属している。だが、この空想体験を、そこで空想されたものそれ自体と混同してはならない。同様に、自発的な抽象においても、産出されるのは本質ではなく、本質についての意識である。この事情は、明らかに本質に基づいて、次のとおりである。本質を原的に与える意識、つまりイデーションは、それ自身において必然的に自発的である。これに対し、感性的に与える意識、すなわち経験する意識にとって、自発性は本質外のものである。個体的な対象は「現出」し、統握において意識されうるが、その対象「に」向かう自発的な「働き」は伴わなくてもよい。したがって、本質意識と本質そのものとの同一視、ひいては後者の心理学化を要求しうるような動機は、取り違えによるものを除けば、まったく見出されない。
さらに、虚構する意識を並置することは、本質の「存在」に関して疑念を抱かせるかもしれない。本質は、懐疑論者の望むとおり、虚構ではないのか。だが、虚構と知覚を「直観する意識」というより一般的な概念のもとに並置すれば、知覚によって与えられる対象の存在が損なわれるというなら、先に行った並置も本質の「存在」を損なうことになる。物は知覚され、想起され、それによって「現実の」ものとして意識されうる。あるいは変様した作用において、疑わしいもの、無効なもの、すなわち錯覚的なものとして意識されうる。さらに、まったく別の変様において、「単に念頭に浮かぶだけのもの」として意識されうる。本質もまったく同様であり、それと関連して、本質も他の対象と同じく、たとえば誤った幾何学的思考におけるように、あるときは正しく、あるときは誤って思念されうる。ところで、本質把握と本質の直観は多様な形をとる作用であり、とくに本質直観は原的に与える作用であって、そのようなものとして感性的な知覚のアナロゴンであり、空想のアナロゴンではない。
§24 あらゆる原理の原理 誤った理論はもう十分である。あらゆる原理の原理とは、すなわち次のことである。あらゆる原的に与える直観は認識の権利源泉である。そしてすべてのものは、「直覚」において原的に(いわば有体的な現実のままに)示されるとき、それが自らを与えるとおりに、そのまま受け取るべきである。しかも、そこで自らを与える限界の内でだけである。どのような考えうる理論も、われわれを迷わせることはできない。実際、どの理論もまた、自らの真理を原的な所与性からのみ汲み取りうるにすぎないことを、われわれは洞察する。したがって、そうした所与性に、単なる解明と、それにぴったり即した意義とによって表現を与えるだけの言明は、すべて絶対的な始まりである。この章の導入の言葉で述べたとおり、それは本来の意味で基礎づけに召されたprincipiumである。このことは、原理という語が通常それに限られる、この種の一般的な本質認識にとくに当てはまる。
この意味で、自然研究者が「原理」に従うのは、まったく正しい。その原理とは、自然の事実に関わるどの主張についても、それを基礎づける経験を問わなければならない、というものである。なぜなら、これは原理であるからだ。すなわち、一般的な洞察から直接に汲み取られた主張であり、原理に用いられる表現の意味を完全な明晰さにもたらし、それらに属する本質を純粋な所与性にもたらすことで、われわれはいつでもそれを確かめられる。同じ意味で、本質研究者も、一般的な命題を用い、語る者もすべて、これと並行する原理に従わなければならない。そのような原理は存在せざるをえない。いま認めたばかりの、あらゆる事実認識を経験によって基礎づけるという原理自体が、経験によって洞察されるものではないからである。あらゆる原理、そして一般にあらゆる本質認識が、まさにそうであるのと同様である。
§25 実践における実証主義者としての自然研究者、反省における自然研究者としての実証主義者 実証主義者が本質認識を退けるのは、「哲学的に」反省し、経験論的哲学者たちの詭弁に惑わされるときだけである。自然研究者として通常の自然科学的態度で考え、基礎づけるときには、そうではない。そのとき彼は、きわめて広い範囲で、明らかに本質洞察に導かれているからである。周知のとおり、純粋数学の諸分野は、幾何学や運動学のような質料的なものも、算術や解析学などのような形式的(純粋に論理学的)なものも、自然科学的な理論化の基本的な手段である。これらの分野が経験的に進められないこと、すなわち、経験された図形や運動などへの観察や実験によって基礎づけられないことは、明白である。
経験論はもちろん、これを認めようとしない。だが、その論拠を真剣に受け取るべきだろうか。その論拠とは、基礎づける経験が不足するどころか、むしろ無限の経験が自由に使えるというのである。全人類の経験全体において、さらには先行する動物の諸世代の経験においてさえ、幾何学的・算術的な印象の莫大な宝が集められている。それは統握の習慣の形で統合されており、われわれの幾何学的洞察はこの蓄えから汲み取っている、と。――しかし、これらのいわゆる集められた宝について、だれも学問的に観察せず、忠実に記録していないのに、どうして人は知るのか。とうの昔に忘れられた、まったく仮説的な経験が、現実の、しかも経験としての本来の機能と射程において最も入念に吟味された経験に代わって、学問の、しかも最も厳密な学問の根拠となるのは、いつからなのか。物理学者は観察し、実験する。そして十分な理由から、学問以前の経験で満足せず、ましてや、遺伝されたというだけの経験についての本能的な統握や仮説で満足することはない。
あるいは、他方面から実際に言われてきたように、われわれは幾何学的洞察を「想像経験」に負っており、それを想像上の実験からの帰納として遂行しているのだと言うべきだろうか。だが、そう問い返そう。ではなぜ物理学者は、そのような驚くべき想像経験を利用しないのか。それはおそらく、想像のなかでの実験は想像された実験にすぎず、想像のなかの図形、運動、集合が、現実のものではなく、まさに想像されたものにすぎないのと同じだからである。
しかし、こうした解釈のすべてに対して最も正しいのは、論証によってその土俵に立つことではなく、数学的主張の固有の意味を指摘することである。数学の公理が何を言明しているのかを疑いなく知るには、経験論的哲学者にではなく、数学的に考えながら公理的な事態を完全な洞察のうちに把握する意識に目を向けなければならない。この直覚にのみ従うならば、公理が、経験的事実を少しも共に措定することなく、純粋な本質連関を表現していることには、まったく疑いの余地がない。幾何学的な思考や直観については、それを生き生きと遂行し、直接の分析に基づいてその内在的な意味を規定すべきであり、外から哲学したり心理学化したりしてはならない。過去の世代の認識から認識の素質を受け継いだ、ということはあるかもしれない。しかし、われわれの認識の意味と価値を問う場合、この相続の歴史は、われわれの金の価値内容にとってその金の来歴が無関係であるのと同様に、どうでもよい。
§26 独断的態度の学問と哲学的態度の学問 したがって、自然研究者たちは、数学とあらゆる形相的なものについて、語るときには懐疑的であるが、形相的な方法論では独断的に振る舞う。それは彼らにとって幸いである。自然科学が偉大になったのは、古代の旺盛にはびこった懐疑論をあっさり脇へ押しやり、その克服を断念したからである。「外的」自然の認識が一般にいかにして可能かという奇妙な難問や、古代人がすでにこの可能性に見出した困難をどう解くかという問題に、自然科学は骨を折らなかった。代わりに、可能なかぎり完全な自然認識、すなわち厳密な自然科学という形での認識の、正しい方法という問題に取り組むことを選んだ。ところが自然科学は、自らの事象的研究に自由な道を開いたこの転換を、再び懐疑的な反省に場を与え、懐疑的な傾向に研究の可能性を制限させることによって、半ばまた元に戻してしまった。経験論的な先入見に身を委ねた結果、懐疑論はいま、経験の圏域に関してだけは働きを停止したままだが、本質の圏域に関してはもはやそうでない。形相的なものを偽りの経験論の旗のもとで研究圏に引き入れるだけでは、自然科学にとって十分ではないからである。そうした価値の読み替えを受け入れるのは、数学のように、古くから基礎づけられ、慣習的な権利によって揺るがない形相的な学科だけである。これに対し、新しい学科の基礎づけにおいては、すでに示唆したとおり、経験論的な先入見が十分に作用する妨げとして働かざるをえない。良い意味で独断的な、すなわち哲学以前の研究圏域がある。あらゆる経験科学がここに属し、経験科学だけがここに属するのでもない。この圏域における正しい立場とは、完全に意識して、あらゆる懐疑論を、あらゆる「自然哲学」や「認識論」もろとも脇へ押しやることである。そして認識対象性を、実際に見出されるところで受け取ることである。後から認識論的反省が、そうした対象性の可能性にどれほどの困難を示そうとも、それは変わらない。
学問的研究の領域では、避けがたく重要な区別を行わなければならない。一方には、独断的態度の学問がある。それらは事象に向かい、認識論的ないし懐疑的な問題系には頓着しない。それらは事象の原的な所与性から出発し、認識の吟味においても繰り返しそこへ戻る。そして、事象が直接にどのようなものとして自らを与えるかを問う。またそれに基づいて、この事象について、さらにはその領域の事象一般について、間接的に何が推論されうるかを問う。他方には、認識論的な、固有の意味で哲学的な態度の学問的研究がある。それは認識可能性をめぐる懐疑的な問題を追究し、まず原理的な一般性においてそれらを解決し、次に得られた解決を適用して、独断的諸学問の成果の最終的な意味と認識価値を判定するための帰結を引き出す。少なくとも現在の時代状況において、また高度に発達し、完全な厳密さと明晰さに達した認識批判が総じて欠けているかぎり、独断的研究の限界を「批判主義的」な問いの立て方に対して閉じておくことが正しい。言い換えれば、認識論的な、しかも通例は懐疑的な先入見が研究の歩みを妨げないよう配慮することが、目下のところ正しいとわれわれには思われる。そうした先入見の当否を決めるのは哲学的な学問であり、独断的な研究者が気にかける必要はない。ところが、懐疑論というものはまさに、そのような不都合な妨げに傾かせる性質をもつ。
まさにこのことによって、認識論が独自の次元の学問として必要となる特有の事情が、同時に示されている。純粋に事象に向かい洞察に支えられた認識は、どれほど満足のいくものであってもよい。だが認識が反省的に自分自身に立ち返るやいなや、あらゆる認識の種類の、さらには直観や洞察さえもの妥当の可能性が、紛らわしい不明瞭さと、ほとんど解きがたい困難とを帯びて現れる。とくに、認識対象が認識に対して要求する超越に関して、そうである。まさにそれゆえに、あらゆる直覚、経験、洞察にあえて逆らって自己を主張する懐疑論が存在し、その結果として、実践的な学問活動における妨げとしても作用しうる。ここで「独断的」という語は決して低い評価を表そうとするものではないが、われわれはこの妨げを、自然的な「独断的」学問の形で、次のようにして遮断する。すべての方法の最も一般的な原理、あらゆる所与性の根源的権利という原理だけを明晰にし、生き生きと念頭に保つ一方で、さまざまな認識の種類と認識の相関の可能性についての、内容豊かで多様な問題は無視する。
第二篇 現象学的根本考察
第一章 自然的態度の定立とその遮断
§27 自然的態度の世界:私と私の環境世界 われわれは、自然的生活を送る人間として、表象し、判断し、感じ、欲しつつ、「自然的態度において」考察を始める。これが何を意味するかを、単純な省察によって明らかにする。その省察は、「私」という言い方で遂行するのが最もよい。
私は、空間のなかに果てしなく広がり、時間のなかで果てしなく生成し、生成してきた世界を意識している。私がそれを意識しているとは、まず、それを直接に直観的なものとして見出し、経験しているということである。見ること、触れること、聞くことなど、感性的知覚のさまざまな仕方によって、物体的な物が何らかの空間的な配置をなして私にとって端的にそこにあり、「目の前にある」。私がそれらに特に注意を向けているかどうかは問わない。人間のような動物的存在も、私にとって直接にそこにいる。私は彼らを見、彼らが近づく足音を聞き、彼らの手を取り、彼らと話しながら、彼らが何を表象し、何を考え、どのような感情が動き、何を望み、欲しているかを、直接に理解する。彼らもまた、私が注意を向けていなくても、私の直観の野に現実のものとして目の前にある。しかし、彼らも、そのほかの対象も、ちょうど私の知覚の野のなかにある必要はない。現実の対象は、確定した、多かれ少なかれ既知のものとして、現勢的に知覚されているものと一体となってそこにある。それら自身が知覚されておらず、直観的に現在してさえいなくても、そうである。私は注意を、いま見て注目している机から、見えていない部屋の背後の部分を通って、ベランダへ、庭へ、あずまやにいる子どもたちへ、など、私がちょうど「知っている」すべての対象へ動かしていくことができる。この知は概念的思考とは何の関係もない。注意を向けることで初めて、しかもそのときでさえ部分的に、たいていはきわめて不完全に、明晰な直観へ変わるにすぎない。
だが、私が目覚めたあらゆる瞬間に意識の上で「目の前にある」世界は、共に現在するものの領域によっても、汲み尽くされない。その領域とは、直観的に明晰に、あるいは暗く、判然と、あるいは不分明に共に現在するもの、すなわち現勢的な知覚野を絶えず取り巻く縁の領域である。世界はむしろ、確固とした存在秩序をもって、限りなく及んでいる。現勢的に知覚されたもの、多かれ少なかれ明晰に共に現在し、規定されているものは、一部は未規定な現実の、暗く意識された地平に貫かれ、一部はそれに取り囲まれている。私はこの地平に、注意の明るくする視線の光線を送り込むことができ、その成果は一定しない。規定する現前化が、最初は暗く、のちに生き生きとしてきて、私に何かを取り出してくれる。そうした想起の連鎖が結びつき、規定性の圏は次第に広がって、場合によっては、中心的な周囲としての現勢的な知覚野との連関が成立するまでに至る。しかし一般には、成果は別のものである。暗い未規定性の空虚な霧が、直観的な可能性や推測可能性で満たされ、ただ「世界」としての世界の「形式」だけが、あらかじめ描かれている。未規定な周囲は、そのほかの点では無限である。霧のような、決して完全には規定されえない地平は、必然的にそこにある。
私がこれまで追ってきた、空間的現在という存在秩序における世界について言えることは、時間の継起における存在秩序に関しても同様である。いま、そして目覚めたあらゆる今において、私にとって目の前にあるこの世界は、両側に無限な時間的地平をもち、既知と未知の、直接に生きたものと生きていないものとの、過去と未来をもつ。目の前にあるものを私に直観にもたらす経験の自由な働きによって、私は、直接に私を取り巻く現実のこうした連関を追うことができる。私は空間と時間における自分の立場を変え、視線をあちらへ、こちらへ、時間的には前へも後ろへも向けることができる。多かれ少なかれ明晰で内容豊かな知覚や現前化を、いつでも新たに得ることができる。あるいはまた、空間的・時間的世界の確固とした形式のなかで可能なもの、推測されるものを私が直観化する、多かれ少なかれ明晰な像を得ることもできる。
このようにして、私は目覚めた意識のなかで、いつでも、それを変えることはけっしてできないまま、一つの同じ世界、内容的な構成においては変化するにせよ同一の世界に関係している自分を見出す。世界は絶えず私にとって「目の前にあり」、私自身もその一員である。それゆえ、この世界は私にとって単なる事象の世界としてあるのではなく、同じ直接性において価値の世界、財の世界、実践的な世界としてある。私は何の苦もなく、物が事象的な性状のみならず、価値性格をも備えているのを目の前に見出す。美しい、醜い、好ましい、好ましくない、快い、不快であるなど。物は、直接に使用対象としてそこに立っている。「机」とその上の「本」、「コップ」、「花瓶」、「ピアノ」など。こうした価値性格や実践的性格もまた、私がそれらの性格に、そもそも対象に向かうかどうかにかかわらず、「目の前にある」対象そのものに構成的に属している。同じことは、「単なる物」だけでなく、私の周囲の人間や動物にも、もちろん当てはまる。彼らは私の「友」あるいは「敵」、私の「召使い」あるいは「上司」、「他人」あるいは「親戚」などである。
§28 コギト 私の自然的環境世界と観念的環境世界 私が自分を見いだす世界は、同時に私の環境世界でもある。この世界に、多様に移り変わる意識の自発性の諸複合が関係する。すなわち、探究的な考察、記述における解明と概念化、比較と区別、集合と計数、前提と推論であり、要するに、さまざまな形式と段階における理論化する意識である。情意と意志の多様な作用と状態も、そこに関係する。好むことと好まないこと、喜ぶことと悲しむこと、欲することと避けること、望むことと恐れること、決意することと行為することである。素朴な自我作用、すなわち、世界が自発的な向け変えと把握において私に直接に目の前にあるものとして意識される作用も含めて、これらすべてをデカルトの表現であるコギトが包括する。自然に日々を送るなかで、私は絶えずこの基本形式において、あらゆる「現勢的」生を生きている。それは、私がコギトを言明するかどうか、「反省的」に自我とコギタレに向かうかどうかにかかわらない。私がそうしているなら、新たなコギトが生きており、それ自身は反省されておらず、したがって私にとって対象的ではない。
私は絶えず、知覚し、表象し、思考し、感じ、欲求する者として自分を見いだす。その際、私はたいてい、自分を絶えず取り巻いている現実に現勢的に関係している自分を見いだす。というのも、私がいつもそのように関係しているわけではなく、私が生きているコギトのすべてが、物や人間、あるいは周囲世界のなんらかの対象や事態をコギタートゥムとしているわけではないからである。たとえば私は、純粋な数とその法則に取り組む。この種のものは、周囲世界にも、「実在的現実」の世界にも、見いだされない。それでも数の世界は、算術的な取り組みの対象領域として、私にとって存在する。その取り組みのあいだ、個々の数や数の形成体が私の視点に入り、その周りを、一部は規定され一部は未規定の算術的な地平が取り巻く。しかし明らかに、この私にとっての存在は、定在するものそのものと同様に、別の種類のものである。算術的世界が私にとって存在するのは、私が算術的に態度をとっているとき、そしてそのあいだに限られる。これに対して自然的世界、すなわち通常の語義での世界は、私が自然的に生き続けるかぎり、絶えず私にとって存在する。それが成り立つあいだ、私は「自然的に態度をとって」いるのであり、この二つはまったく同じことを言っている。算術的世界や、それに似た別の「世界」を自分のものにしても、これは変わる必要がない。自然的世界は「存在するもの」であり続け、私はこれまでどおり自然的態度のうちにあって、新しい態度に妨げられない。私のコギトがこうした新しい態度の世界のなかだけを動くなら、自然的世界は考慮の外に置かれる。それは私の作用意識にとって背景であるが、算術的世界がそのなかに組み入れられる地平ではない。同時に存在するこの二つの世界は、連関をもたない。ただし自我への関係は別であり、これにしたがって私は、自由に自分の視線と作用を一方の世界にも他方の世界にも向けることができる。
§29 「他の」自我主体と、間主観的な自然的周囲世界 私について妥当するこのすべては、周囲世界のなかに存在しているのを見いだす他のすべての人間についても妥当すると、私は知っている。彼らを人間として経験しつつ、私は彼らを、私自身がそうであるのと同じ自我主体として、またそれぞれの自然的周囲世界に関係する者として受け入れる。しかも私は、彼らの周囲世界と私の周囲世界を、客観的には一つの同じ世界として捉えている。この世界がわれわれ全員に意識されるありようが、人によって異なるだけである。各人にはそれぞれの場所があり、そこから存在する物を見る。したがって各人は、物の異なる現出をもつ。現勢的な知覚の領野や想起の領野なども、各人で異なる。間主観的に共通して意識されているものでさえ、異なる統握の仕方や明晰さの度合いなどで意識される。こうしたすべてにもかかわらず、われわれは隣人と了解し合う。そして、われわれ自身も属している客観的な空間的・時間的現実を、われわれすべての存在する周囲世界として共同で措定する。
§30 自然的態度の一般定立 自然的態度の所与性を、したがってこの態度そのものを特徴づけるために提示してきたことは、あらゆる「理論」に先立つ、純粋な記述の一部であった。理論とは、ここではあらゆる種類の先入見を言う。この探究では、それを厳しく遠ざけておく。理論がわれわれの圏域に属するのは、周囲世界の事実としてだけであり、現実の、あるいは思念された妥当の統一としてではない。いまわれわれは、純粋な記述を続けて、自然的態度に見いだされるもの(ましてやそれと整合的に織り合わされるすべての態度に見いだされるもの)を、広がりと深みを汲み尽くす体系的で包括的な特徴づけにまで高めることを、課題としない。そのような課題は、学問的なものとして確定することができるし、確定しなければならない。非常に重要でもあるが、これまでほとんど見られてこなかった。だがここでは、それはわれわれの課題ではない。現象学の入口へと向かうわれわれには、この方面で必要なことはすでに果たされている。必要なのは、自然的態度のごく一般的な性格のいくつかだけであり、それらは記述のなかですでに、十分な明晰さの充実をもって現れている。われわれにとって特に大切だったのは、まさにこの明晰さの充実であった。
最も重要な点を、もう一度次の文にまとめる。私は絶えず、自分の向かい側に、一つの空間的・時間的な現実が存在しているのを見いだす。私自身もこの現実に属しており、そこに見いだされ、同じ仕方でそれに関係している他のすべての人間もこれに属している。「現実」を、この語がすでに言うとおり、私は定在するものとして見いだし、それが私に与えられるとおりに、定在するものとして受け入れる。自然的世界の所与性をどれほど疑い、退けても、自然的態度の一般定立は少しも変わらない。「その」世界は現実として常にそこにある。せいぜい、あちこちで私が思念していたのとは「別様」であるにすぎない。あれやこれやは、「仮象」や「幻覚」などの名目のもとに、いわばそこから抹消されなければならないだけである。その世界は、一般定立の意味では、常に定在する世界である。この世界を、素朴な経験知がなしうるよりも包括的に、確実に、あらゆる点でより完全に認識すること、その地盤の上で現れるあらゆる学問的認識の課題を解くこと、これが自然的態度の諸学問の目標である。
§31 自然的定立の根本的な変更 「遮断」と「括弧入れ」 そこで、この態度にとどまるのをやめ、根本的に変更しようと思う。この変更が原理的に可能であると確信することが、いま必要である。
一般定立によって、実在的周囲世界は絶えず、ただ統握として意識されているだけでなく、存在する「現実」として意識されている。この一般定立は、もちろん固有の作用、すなわち存在についての分節された判断に存するのではない。それは態度が続く全期間にわたって、すなわち自然的に目覚めて生き続けるあいだ、持続的に成り立っている。そのつど知覚されたもの、明瞭にであれ暗くであれ現前化されたもの、要するに、自然的世界から経験を通じて、あらゆる思考に先立って意識されているものがある。それはすべて、その総体的な統一においても、分節されて際立つすべての点においても、「そこにある」「存在している」という性格を担う。この性格には、本質上、それと一致する明示的な(述定的な)存在判断を基づけることができる。同じことを言明するとき、われわれは次のことを知っている。その判断で主題にされ述定的に捉えられたのは、主題とされず、思考されず、述定されないまま、すでに根源的な経験のなかに、あるいは経験されたもののなかに、「存在する」という性格として含まれていたものにほかならない。
この潜勢的で明示されない定立にも、明示的な判断の定立とまったく同じように対処できる。そのようないつでも可能な手続きが、たとえば一般的な懐疑の試みである。デカルトは、これを、まったく別の目的で、すなわち絶対に疑いえない存在圏域を取り出す意図のもとで遂行しようとした。われわれはここでこれに結びつけるが、ただちに強調しておく。普遍的な懐疑の試みは、ただ方法上の補助手段としてわれわれの役に立てばよい。この試みによって、その本質に含まれるものとして、明証的に明るみに出されうるいくつかの点を取り出すためである。
普遍的な懐疑の試みは、われわれの完全な自由の領域に属する。どれほど固く確信しているものでも、さらには十全な明証において確かめられているものでも、すべてのものを疑ってみることができる。
このような作用の本質に何が含まれるかを考えてみよう。疑おうと試みる者は、なんらかの「存在」を疑おうと試みる。それを述定的に明示すれば、「これはある」「事情はこうである」などになる。その際、存在の種類は問題にならない。たとえば、ある対象の存在は疑わないが、それがこれこれの性状であるかどうかを疑う者は、まさにそうした性状であることを疑っている。このことは、疑うことから疑おうと試みることへも引き継がれる。さらに、ある存在を疑いながら、同じ意識のなかで(同時という統一形式のなかで)、この存在の基体に定立を与えること、すなわちそれを「存在する」という性格において意識することはできない。言い換えれば、同じ存在素材を、同時に疑い、かつ確実だと見なすことはできない。同様に、「存在する」ものとして意識されているなんらかのものを疑おうと試みることは、定立のある種の廃棄を必然的に条件づける。まさにこの点がわれわれの関心を引く。それは、定立が反定立に、措定が否定に変わることではない。推測や憶測、未決定、疑い(この語のどの意味でであれ)に変わることでもない。この種のものも、われわれの自由な恣意の領域には属さないからである。それはむしろ、まったく独特のものである。われわれは、遂行した定立を放棄せず、確信にも何も変更を加えない。確信は、新たな判断の動機を導入しないかぎり、それ自体としてあるがままにとどまる。そして、われわれはまさにそうした動機を導入しない。それでもこの定立は、一つの変様を被る。定立はそれ自体としては元のままにとどまりながら、われわれはそれをいわば「作動から外し」、「遮断し」、「括弧に入れる」。定立はなおそこにあるが、括弧のなかの括られたものとして、あるいは遮断の連関の外にある遮断されたものとしてある。次のようにも言える。定立は体験だが、われわれはそれを「使用しない」。これは欠如の意味で理解されてはならない。意識を失った者について、その者は定立を使用しないと言う場合のようにではない。むしろ、この表現も、これに並行するすべての表現も、一つの独特な意識の仕方を示唆する名称である。この意識の仕方は、根源的で単純な定立(それが現勢的な、さらには述定的な存在措定であるかどうかを問わない)に加わり、それを独特な仕方で評価し直す。この評価替えは、われわれの完全な自由に属する。それは定立と並置されうるが、「同時」という統一のなかでは定立と両立しない、あらゆる思考上の態度表明に対立する。さらに、本来の語義での態度表明すべてにも対立する。
疑いの試みは、ある定立に、しかもわれわれが前提するように、確かで持続された定立に結びついている。この試みでは、「遮断」は、反定立の変様とともに、すなわち非存在の「措定」とともに、その内部で成就する。この非存在の措定が、疑いの試みの下地の一部をなす。デカルトでは、この要素が非常に優勢であり、彼の普遍的な懐疑の試みは、実のところ普遍的な否定の試みだと言えるほどである。ここではこの点を考慮しない。われわれは、疑いの試みの分析的な構成要素をすべて取り上げるわけではなく、その厳密で完全な分析にも関心がない。われわれが取り出すのは、「括弧入れ」ないし「遮断」という現象だけである。この現象は、疑いの試みという現象に結びついているのではない。疑いの試みから特に容易に切り離せるのは確かだが、それ以外の織り合わせのなかにも現れうるし、それだけで単独でも現れうる。あらゆる定立に関して、われわれは完全な自由において、この独特なエポケーを行うことができる。これは判断の控えであり、真理についての揺らがない、場合によっては明証的であるがゆえに揺らぎえない確信と両立する。定立は「作動から外され」、括弧に入れられ、「括弧に入れられた定立」という変様に変わる。判断そのものは「括弧に入れられた判断」に変わる。
この意識を、たとえば水の精が輪舞を舞っているということを「ただ思い浮かべる」意識と、単純に同一視してはならないのは当然である。その場合には、生きており生き続ける確信の遮断は行われていない。もっとも他方で、二つの意識が近縁であることは明白である。まして問題なのは、「想定すること」や前提することの意味での思い描きではない。通常の多義的な言い方では、「私は、これこれだと思い描く(想定する)」という言葉でも、これが表現されうる。
さらに注記しておくと、相関的に、措定されるべき対象性についても、それがどの領域、どの範疇に属するものであれ、括弧入れを語ることを妨げるものは何もない。この場合に意味されているのは、この対象性に関係するあらゆる定立を遮断し、括弧入れの変様へと変えるべきだということである。なお、厳密に見れば、括弧入れの比喩は初めから対象の圏域のほうによく合い、作動から外すという言い方は作用の圏域、つまり意識の圏域のほうによく合う。
§32 現象学的エポケー デカルトによる普遍的懐疑の試みの代わりに、われわれは、厳密に規定された新しい意味での普遍的な「エポケー」を置くこともできるだろう。しかし、十分な理由があって、われわれはこのエポケーの普遍性を限定する。というのも、それがありうるかぎり包括的であれば、あらゆる定立ないし判断は完全な自由において変様でき、判断可能なあらゆる対象性は括弧に入れられるので、変様されていない判断のための領域は残らず、ましてや学問のための領域は残らないからである。ところがわれわれの狙いは、まさに新しい学問的領野の発見にある。しかもその領野は括弧入れの方法によって獲得されるべきものであり、そのときの方法は、一定の仕方で限定されたものにとどまる。この限定を、一言で示さなければならない。
自然的態度の本質に属する一般定立を、われわれは作動から外す。この一般定立が存在的な観点で包括するものはすべて、括弧に入れる。したがって、絶えず「われわれにとって存在し」、「目の前にあり」、われわれがそれを括弧に入れたいと思っても、意識の上での「現実」として常にそこにあり続けるであろう、この自然的世界の全体を、括弧に入れる。
これは私の完全な自由である。そのように行うとき、私はこの「世界」を、まるでソフィストのように否定しない。まるで懐疑論者のようにその定在を疑いもしない。ただ私が行うのは「現象学的」エポケーであり、これによって空間的・時間的な定在についてのあらゆる判断が、私に完全に閉ざされる。
したがって、この自然的世界に関係する学問のすべてを、それらがどれほど私にとって確固としており、私がどれほど感嘆していても、またそれらに対してごくわずかの異論を唱えることさえ思いもよらなくても、私は遮断する。私はそれらの妥当をまったく使用しない。それらの学問に属する命題は、たとえ完全な明証をもつものであっても、一つとして自分のものにせず、一つとして受け入れず、一つとして私に基盤を与えない。ただし、その命題が、これらの学問において現れるとおりに、この世界の現実についての真理として理解されているかぎりでの話である。私がそれを受け入れてよいのは、それに括弧を付けたあとだけである。すなわち、判断遮断という変様した意識のなかでのみ受け入れる。その場合、命題は、学問のなかでそうであるような、妥当を要求し、その妥当を私が認めて利用する命題としては受け入れない。
ここで問題にしているエポケーを、実証主義が要求するものと取り違えてはならない。実証主義自身は、われわれが確認せざるをえなかったように、その要求に反している。いま問題なのは、探究の純粋な事象性を曇らせるあらゆる先入見の遮断ではない。あらゆる基礎づけを直接に見いだされるものへ遡らせることによって、「理論から自由な」「形而上学から自由な」学問を構成することでもない。その価値がもとより問われない、そうした目標に到達する手段が問題なのでもない。われわれが要求することは、別の線上にある。自然的態度において措定され、経験のなかで実際に見いだされる世界の全体は、「理論から自由に」、すなわち実際に経験され、経験の連関のなかで明晰に証示される世界として受け取っても、いまのわれわれにとって何の意味ももたない。この世界は、吟味されないまま、しかし異議も唱えられないまま、括弧に入れられるべきである。同様に、この世界に関係する理論と学問は、実証主義によるものであれ、別の仕方で基礎づけられたものであれ、どれほど優れていても、同じ運命を負わなければならない。
第二章 意識と自然的現実
§33 現象学的残余としての「純粋」ないし「超越論的意識」の予示 われわれは現象学的エポケーの意味を理解するようになったが、その可能な働きはまだまったく理解していない。何よりも、これまでに示したエポケーの全圏域の限定によって、その普遍性が実際に制限されたのかどうかが明らかでない。自分自身をすべてのコギタレとともに含めて、世界全体が遮断されたとき、いったい何が残りうるのか。
読者はすでに、これらの省察を支配する関心が新しい形相論に向けられていると知っている。そこで読者は、事実としての世界は遮断されるが、エイドスとしての世界は、またそのほかの本質圏域も、遮断されないだろうと予想するだろう。実際、世界の遮断は、たとえば数列やそれに関係する算術の遮断を意味しない。しかしわれわれは、この道を行かない。われわれの目標もこの道の線上にはない。目標は、その固有性がこれまで境界づけられてこなかった、新しい存在領域を獲得することとも言い表せる。この領域は、あらゆる真正の領域と同様に、個体的存在の領域である。このことがより詳しく何を意味するかは、続く確認が教えるだろう。
われわれはまず、直接に指示する仕方で進む。指示されるべき存在は、本質的な理由から、「純粋な体験」ないし「純粋な意識」とその純粋な「意識の相関者」、そして他方でその「純粋自我」と呼ぶことになるものにほかならない。そこでわれわれは、自然的態度において与えられているその自我、その意識、その体験から出発して考察する。
私は存在する。私は現実の人間であり、自然的世界のなかの他の対象と同じく、一つの実在的対象である。私はコギタチオ、すなわち広い意味と狭い意味での「意識作用」を遂行する。これらの作用は、この人間主体に属するものとして、同じ自然的現実のなかに生じる出来事である。私のそのほかのすべての体験も同様である。この体験の変転する流れのなかから、特有の自我作用がきわめて独特な仕方で輝き出し、互いに移行し合い、総合へと結びつき、絶えず変様していく。最も広い意味では、意識という表現は(そうなると適切さは下がるが)すべての体験を含む。われわれは、学問的思考においても、決して揺らぐことのない最も堅固な習慣にしたがって、「自然的に態度をとって」いる。そのためわれわれは、心理学的反省において見いだされるこれらすべてを、実在的な世界の出来事として、すなわち動物的存在者の体験として受け取る。これらをそうしたものとしてのみ見ることは、われわれにとってあまりに自然である。だから、態度を変えうる可能性をすでに知り、新しい対象領域を探している現在でさえ、新しい領域が、新しい態度によって、まさにこれらの体験の圏域そのものから生じることに、まったく気づかない。このことは、次の事情と関係している。われわれは、視線をこれらの圏域に向けたままにせず、そこから逸らして、算術や幾何学などの存在論的な領域に新しい対象を探してきた。しかしそれでは、本来の意味で新しいものは何も得られないであろう。
そこでわれわれは、視線を意識の圏域にしっかり向け、そこに内在的に見いだされるものを研究する。まだ現象学的な判断遮断を遂行せずに、まずこの圏域を体系的な本質分析にかける。ただし決して汲み尽くす分析ではない。われわれにどうしても必要なのは、意識一般の本質についての、とりわけ意識自身のなかで、その本質上、「自然的」現実が意識されるかぎりでの意識の本質についての、ある一般的な洞察である。この研究は、目指す洞察を遂行するのに必要なところまで進める。その洞察とは、意識はそれ自体に固有の存在をもち、この存在は、その絶対的な固有の本質において、現象学的遮断によって影響を受けないという洞察である。したがって意識は「現象学的残余」として残る。それは原理的に独特な存在領域であり、実際に新しい学問の領野、すなわち現象学の領野となりうる。
この洞察によって初めて、「現象学的」エポケーはその名にふさわしいものとなる。完全な意識をもってこれを遂行することは、「純粋」意識に、さらにその先で現象学的領域の全体に、われわれが接近できるようにするために必要な操作であると明らかになるだろう。まさにそれによって、この領域と、これに属する新しい学問が、なぜ未知のままにとどまらざるをえなかったかが理解できるようになる。自然的態度においては、自然的世界以外のものは見えない。現象学的態度の可能性が認識されず、そこから生じる対象性を原的な把握にもたらす方法が形成されていなかったかぎり、現象学的世界は、未知のままで、ほとんど予感されることさえなかったのである。
われわれの術語について、なお次のことを付け加えておく。認識論的な問題系に根ざす重要な動機があるので、これから多く語ることになる「純粋」意識を超越論的意識とも呼び、それを得る操作を超越論的エポケーとも呼んでよい。方法のうえでは、この操作は「遮断」や「括弧入れ」のさまざまな段階に分かれ、こうしてわれわれの方法は段階的な還元の性格を帯びる。そのためわれわれは、主として現象学的諸還元について語る。その全体の統一に即して一括する場合には、その現象学的還元と言うこともある。したがって認識論的な観点からは、超越論的諸還元とも言うことになる。なお、これらの術語もすべてのわれわれの術語も、われわれの叙述が指示する意味にのみ従って理解しなければならない。歴史や読者の術語上の習慣が示唆するほかの意味で理解してはならない。
§34 主題としての意識の本質 われわれは、現象学的なエポケーには一切煩わされない一連の考察から始める。われわれは自然な仕方で「外界」に向かい、自然的態度を離れないまま、自分の自我とその体験について心理学的な反省を行う。新しい態度の種類について何も聞いたことがなければそうするのとまったく同じように、われわれは「何ものかについての意識」の本質に没頭する。この意識においてわれわれは、たとえば物質的な物、身体、人間の定在を、また技術的・文学的な作品の定在などを意識している。われわれは次の一般原理に従う。あらゆる個体的な出来事はその本質をもち、その本質は形相的な純粋さで把握しうるものであり、この純粋さにおいて、可能な形相的研究の一つの領野に属さなければならない。したがって、「私は在る」「私は思う」「私は自分に対して世界をもつ」などといった一般的で自然的な事実もまた、その本質内実をもつ。いまはこの本質内実にのみ携わろうとする。そこでわれわれは、任意の単称の意識体験を例として遂行する。その体験は、自然的態度において与えられるとおりに、実在的な人間の事実として取る。あるいは、想起や自由に虚構する想像のなかで、そうした体験を現前化する。この例示的な基盤は完全に明晰であると前提しよう。その上でわれわれは、関心をもつ純粋な本質を、十全なイデーションにおいて把握し固定する。そのさい、単称の事実も、自然世界一般の事実性も、われわれの理論的な視線から消え去る。純粋に形相的な研究を行うところでは、いつもそうである。
われわれは主題をさらに限定する。主題の題目は、意識、いっそう明確には意識体験一般であり、きわめて広い意味のものだった。幸いなことに、その厳密な限定はここでは問題にならない。そのような限定は、ここで行うたぐいの分析の初めにあるのではなく、大きな労苦の末に得られる後の成果である。出発点としては、最初に差し出される際立った意味での意識を取る。これはデカルトのコギト、すなわち「われ思う」によって最も簡単に表せる。周知のとおり、デカルトはこれを広く理解し、「私は知覚する、私は想起する、私は想像する、私は判断し、感じ、欲し、意志する」のすべてを含めた。こうしてコギトは、数えきれないほど流動する特殊な形態をとる、およそ類似した自我体験のすべてを含む。これらすべてが関係づけられている自我そのもの、あるいはそれらの「うちに」さまざまな仕方で「生き」、能動的に、受動的に、自発的に、受容的に、その他の仕方で「振る舞う」自我を、われわれはさしあたり考察の外に置く。しかも、あらゆる意味での自我を外に置くのである。のちにこの自我は、なお徹底的にわれわれの課題となる。いまは、分析と本質把握の拠りどころとなるものが十分に残る。その際われわれは、包括的な体験連関へとただちに送り返される。その連関は、意識体験の概念を、特定のコギタチオからなるこの圏を越えて拡張するよう強いる。
われわれは意識体験を、具体の全き充実において考察する。その充実をもって意識体験は、その具体的な連関、すなわち体験の流れのなかに現れ、自身の本質によってこの流れへと結びつく。そのとき、反省的な視線が捉えうる流れのどの体験も、固有の、直観的に把握しうる本質をもち、それ自体としての固有性において取り上げうる「内容」をもつことが、明証となる。われわれにとって肝心なのは、コギタチオのこの固有の内容を、その純粋な固有性において把握し、一般的に特徴づけることである。したがって、コギタチオがそれ自体であるところのものに属さないものは、すべて除外する。同様に、意識の統一、すなわち純粋にコギタチオの固有のものによって要求される統一を特徴づけることも肝心である。この統一は、コギタチオがそれなしには存在しえないほど必然的に要求されている。
§35 「作用」としてのコギト 潜勢性変様 例から始めよう。私の前の薄暗がりに、この白い紙が置かれている。私はそれを見、それに触れる。紙をこのように知覚しつつ見、触れることは、ここにある紙についての具体的で完全な体験である。この紙は、まさにこれらの性質において与えられ、まさにこの相対的な不明瞭さ、この不完全な規定性、私に対するこの定位において現れる。この体験は、コギタチオであり、意識体験である。紙そのもの、すなわちその客観的な性状、空間における広がり、私の身体と呼ばれる空間物に対する客観的な位置は、コギタチオではなくコギタトゥムであり、知覚体験ではなく知覚されたものである。たしかに、知覚されたもの自身が意識体験であることはありうる。しかし、物質的な物のようなもの、たとえば知覚体験において与えられるこの紙は、原理的に体験ではなく、全く異なる存在の種類をもつ存在であることは、明証である。
これをさらに追う前に、例を増やそう。本来の知覚すること、すなわち気づくことにおいて、私は対象、たとえば紙への向け変えのうちにあり、それをこの今ここに存在するものとして把握する。把握とは取り出して捉えることであり、知覚されたものはどれも経験の背景をもつ。紙の周りには本、ペン、インク壺などが置かれており、これらもある意味で「知覚され」、知覚的にそこにあり、「直観の野」のうちにある。しかし、紙に向け変えているあいだ、これらは二次的なものにせよ、向け変えも把握も全く欠いていた。それらは現れていたが、取り出され、それだけで措定されてはいなかった。このように物の知覚はどれも、背景直観の暈をもつ。直観することにすでに向け変えられていることまで含めて考えるなら、背景直視と言うほうがよい。これもまた「意識体験」であり、より短く言えば「意識」であり、しかも、共に直観された対象的な「背景」に実際に含まれるすべてのもの「についての」意識である。ただし、ここで問題にしているのは、直観された背景に属しうる客観的な空間のなかに「客観的に」見いだされるもの、すなわち、妥当し進展する経験がそこで確定しうる物や物的な出来事のすべてではない。問題にしているのはもっぱら、「対象への向け変え」の様態で遂行される知覚の本質に属する意識の暈であり、さらに、この暈そのものに固有の本質に含まれるものである。ところで、この本質には、根源的な体験の一定の変様が可能であることが含まれている。この変様とは、「視線」(必ずしも単に物理的な視線ではなく、「精神の視線」)を、最初に見やった紙から、すでに以前から現れていた、つまり「暗黙的に」意識されていた対象へと自由に転じることである。これらの対象は、視線を転じた後には、明示的に意識され、「注意して」知覚され、あるいは「ついでに留意され」るものとなる。
物は、知覚においてと同様に、想起においても、また想起に類した現前化においても意識されており、自由な想像においても意識されている。これらはあるときは「明晰な直観」において、あるときは目立った直観性なしに、「暗い」表象の仕方で意識される。その際それらは、現実のもの、可能なもの、虚構されたものなど、さまざまな「性格づけ」のもとで、われわれの前に浮かぶ。これら本質を異にする体験にも、知覚体験について述べたことのすべてが明らかに当てはまる。これらの意識の種類において意識される対象(たとえば想像された水の精)を、それらについての意識であるところの意識体験そのものと混同しようとは、考えもしない。そこで再び認識されるのは、そうした体験のすべての本質に――これらの体験はつねに完全な具体において取る――あの注目すべき変様が属するということである。この変様は、現勢的な向け変えの様態における意識を潜勢性の様態における意識へと移し、またその逆も行う。あるときは体験は、いわば「明示的な」意識として、自らの対象的なものを意識し、またあるときは暗黙的な、単に潜勢的な意識として意識する。対象的なものは、知覚においてと同様に、想起や想像においてもすでにわれわれに現れうる。しかしそのとき、われわれは精神の視線でそれにまだ「向かって」いない。二次的にも向かっておらず、ましてそれに特別な意味で「携わって」いるわけではない。
同様のことは、デカルト的な例の圏域の意味での任意のコギタチオ、つまり思考、感情、意志のすべての体験にも確認される。ただし、次の節で明らかになるように、現勢性を特徴づける「~に向かっていること」、「~に向け変えられていること」は、感性的表象という、最も単純であるがゆえに好んで挙げられる例の場合のようには、意識の対象を取り出して捉える留意とは合致しない。こうした体験のすべてについても、現勢的なものが潜勢的なものの「暈」に取り巻かれていることが、明らかに当てはまる。体験の流れは、決して現勢性だけから成ることはできない。まさに現勢性こそが、われわれの例の圏を越えて導かれるべき最も広い普遍化のなかで、また潜勢性との対比を遂行することによって、際立った意味、すなわち表現「コギト」「私は何ものかについての意識をもつ」「私は意識作用を遂行する」の意味を規定する。この確固とした概念を鋭く区別したまま保つために、デカルト的な言い方であるコギトとコギタチオは、もっぱらこの概念のために取っておく。ただし、「潜勢的な」などの添え語によって変様を明示する場合は別である。
「目覚めた」自我とは、自らの体験の流れのうちで、コギトという特定の形式の意識を連続的に遂行する自我である、と定義できる。もちろんこれは、その自我がこれらの体験を絶えず、あるいはそもそも述定的な表現にもたらし、もたらしうるということではない。実際、動物的な自我主観も存在する。しかし、先に述べたことからすれば、目覚めた自我の体験の流れの本質には、連続して続くコギタチオの連鎖が絶えず潜勢性の媒質に取り巻かれていることが属する。この潜勢性はつねに現勢性の様態へ移る用意があり、逆に現勢性も潜勢性へ移る用意がある。
§36 志向的体験 体験一般 現勢的な意識の体験が潜勢性へ移ることで被る変化がどれほど徹底的であっても、変様した体験は、根源的な体験となお重要な本質上の共通性をもつ。一般に、現勢的なコギトはどれも、その本質として、何ものかについての意識である。先に述べたことからすれば、自らの仕方では変様したコギタチオもまた意識であり、しかも対応する変様していないコギタチオと同じものについての意識である。したがって、意識の一般的な本質特性は、変様においても保たれる。これらの本質特性を共有する体験はすべて、「志向的体験」とも呼ばれる。これは論理学研究の最も広い意味での作用である。何ものかについての意識であるかぎり、その何ものかに対して「志向的に関係している」と言う。
その際よく注意すべきことに、ここで語っているのは、体験と呼ばれる何らかの心理学的な出来事と、対象と呼ばれる別の実在的な定在とのあいだの関係ではない。客観的現実のなかで一方と他方とのあいだに成り立つであろう心理学的な結合でもない。むしろここで語るのは、純粋にその本質に即した体験、ないし純粋な本質であり、またこれらの本質のうちに「アプリオリに」無条件の必然性において含まれているものである。
体験が何ものかについての意識であること、たとえば虚構がある特定のケンタウロスの虚構であり、知覚がその「現実の」対象の知覚であり、判断がその事態の判断であること、などは、世界のなかの、とりわけ事実的な心理学的連関のなかの体験の事実にかかわるのではない。それは、純粋で、イデーションにおいて純然たる理念として把握された本質にかかわる。体験そのものの本質には、体験が意識であるということだけでなく、何についての意識であるか、またどのような規定された、あるいは未規定な意味でそうであるかも含まれている。したがって、潜勢的な意識がどのような種類の現勢的なコギタチオへ、先に論じた変様、すなわち「留意する視線を、それまで留意されなかったものへ向け変えること」によって移されるべきかも、その潜勢的な意識の本質に含まれている。
最も広い意味での体験とは、体験の流れのなかに見いだされるあらゆるものを指す。したがって、志向的体験、すなわち現勢的および潜勢的なコギタチオを完全な具体において取ったものだけでなく、この流れとその具体的な部分のなかに見いだされる実的な契機のすべてを含む。
容易に分かるように、志向的体験の具体的な統一のなかにあるすべての実的な契機が、それ自体として志向性という基本性格、すなわち「何ものかについての意識」であるという特性をもつわけではない。たとえば、知覚的な物の直観でこれほど大きな役割を果たす感覚与件のすべてがそうである。この白い紙を知覚する体験のなかに、より詳しくは、紙の白という質に関係する成分のなかに、われわれは適切に視線を転じることで、感覚与件の白を見いだす。この白は、具体的な知覚の本質に切り離せないかたちで属するものであり、しかも実的な具体的構成部分として属している。紙の現れる白に対して呈示する内容として、それは志向性の担い手ではあるが、それ自身が何ものかについての意識ではない。まさに同じことが、ほかの体験与件、たとえばいわゆる感性的感情にも当てはまる。これについては、のちにさらに詳しく論じる。
§37 コギトにおける純粋自我の「~に向かっていること」と把握する留意 志向的体験の記述的な本質分析に、ここでこれ以上深く立ち入ることはできない。以後の論述で留意すべきいくつかの契機だけを取り上げる。志向的体験が現勢的であり、つまりコギトの仕方で遂行されているなら、その体験のなかで主観は志向的対象へと「向かう」。コギトそのものには、対象への、コギトに内在的な「~への視線」が属する。この視線は他方で「自我」から湧き出るのであり、したがって自我は決して欠けることができない。何ものかへのこの自我の視線は、作用に応じて、知覚においては知覚する、虚構においては虚構する、気に入ることにおいては気に入る、意志することにおいては意志する「~への視線」などである。コギトの、作用そのものの本質に属するこの、視野に収めること、精神の目に収めることは、それ自体がふたたび固有の作用なのではない。とりわけ、どれほど広い意味であれ知覚することと、またそのほかの、知覚と類縁のすべての作用の種類と、混同してはならない。留意すべきは、その意識の完全な相関者として取るかぎり、ある意識の志向的対象は、把握された対象と決して同じではない、ということである。われわれはふつう、把握されていることをそのまま対象(対象一般)の概念に取り入れる。というのも、対象のことを考え、対象について何かを言うやいなや、われわれはそれを把握されたものという意味での対象にしてしまっているからである。最も広い意味では、把握することは、何かに留意すること、それに気づくことと合致する。特に注意しているのであれ、ついでに留意しているのであれ、そうである。少なくとも、これらの言い方が通常理解されているとおりには、そうである。さて、この留意ないし把握において問題になるのは、コギト一般の様態、つまり現勢性の様態ではなく、より詳しく見れば、特別な作用の様態である。それをまだもたない意識ないしどの作用も、この様態を取りうる。それを取るとき、その志向的対象は、一般に意識され、精神的に向かっていることの視野のうちにあるだけでなく、把握された、気づかれた対象である。たしかに、物に向け変えられるには、把握する仕方でしかありえない。「単純に表象しうる」対象性のすべてについても、同様である。そこでは向け変えは、虚構においてであっても、それだけでただちに「把握」であり、「留意」である。しかし、評価の作用では価値に、喜びの作用では喜ばしいものに、愛の作用では愛されるものに、行為することでは行為に向け変えられているが、これらすべてを把握せずに向け変えられている。志向的対象、すなわちそのようなものとしての価値あるもの、喜ばしいもの、愛されるもの、希望されるもの、行為としての行為は、むしろ固有の「対象化する」転回においてはじめて、把握された対象となる。評価しつつ事象に向け変えられていることには、たしかに事象の把握が共に含まれている。しかし、単なる事象ではなく、価値ある事象あるいは価値こそが、評価する作用の完全な志向的相関者である。これについては、なお詳しく論じる。したがって、「評価しつつ事象に向け変えられていること」は、価値を「対象としてもつこと」を、すでに意味しているわけではない。ここで言う対象とは、価値について述定するためにもたなければならない、把握された対象という特別な意味でのものである。価値に関係するすべての論理的作用でも、同様である。
評価する作用のような種類の作用では、したがって、われわれは二重の意味での志向的対象をもつ。単なる「事象」と完全な志向的対象とを区別しなければならず、それに応じて二重の志向、二重の向け変えがあることになる。ある評価の作用のなかで事象に向かっているとき、事象への方向は、その事象に留意すること、それを把握することである。しかし、把握する仕方ではないにせよ、われわれは価値にも「向かって」いる。事象を表象することだけでなく、それを包む、事象を評価することもまた、現勢性の様態をもつ。
ただちに付け加えておかなければならないが、事情がこれほど単純なのは、評価の単純な作用に限ってのことである。一般に、情意の作用と意志の作用は、より高い段階で基づけられたものである。それに応じて、志向的な客観性も多様になり、統一的な総体的客観性に含まれる対象が向け変えを受ける仕方も多様になる。いずれにせよ、次の主要命題が述べることは成り立つ。
どの作用にも、留意の様態がはたらいている。しかし、その作用が単純な事象意識でないところでは、すなわちそのような意識のうえに、事象に「立場を取る」別の意識が基づけられているところではどこでも、事象と完全な志向的対象とが分かれて現れる。たとえば「事象」と「価値」とが、また同様に、留意することと精神の視野に収めていることとが、分かれて現れる。同時に、これらの基づけられた作用の本質には、ある変様の可能性が属する。この変様によって、作用の完全な志向的対象は、留意された対象となり、その意味で「表象された」対象となる。そしてこの対象は今度は、解明、関係づけ、概念的な把握、述定の基体として役立ちうる。この対象化のおかげで、自然的態度において、したがって自然世界の成員として、われわれの前には単なる自然の事象ではなく、あらゆる種類の価値と実践的対象が立ち現れる。都市、照明設備のある通り、住居、家具、芸術作品、書物、道具などである。
§38 作用への反省 内在的知覚と超越的知覚 さらに付け加えておく。コギトのうちに生きているとき、われわれはコギタチオそのものを志向的対象として意識しているわけではない。しかしコギタチオは、いつでも対象になりうる。「反省的」な視線の転換の原理的な可能性が、コギタチオの本質に属しているからである。この視線の転換はもちろん、新たなコギタチオという形で行われ、そのコギタチオが素朴に把握する仕方でもとのコギタチオに向かう。言い換えれば、どのコギタチオも、いわゆる「内的知覚」の対象になりうるし、さらにその後には、是認や否認などの反省的な評価の対象にもなりうる。同じことが、適切に変様された仕方で、作用印象という意味での現実の作用についてだけでなく、われわれが「想像において」「想起において」意識している作用、あるいは他者の作用を理解し追体験する「感情移入において」意識している作用についても当てはまる。われわれは想起や感情移入など「において」反省し、そこで意識されている作用を、把握の対象とし、さらにそれに基づく態度決定の作用の対象とすることができる。これは、さまざまな可能な変様のもとで行われる。
ここで、超越的知覚と内在的知覚の区別、あるいはより一般に作用の区別に取りかかる。外的知覚と内的知覚という言い方には重大な疑念があるので、これを避ける。以下の説明を与えておく。
内在的に向けられた作用、より一般的に捉えれば内在的に関係する志向的体験とは、その本質に、その志向的対象がそもそも存在するならば、その作用自身と同じ体験の流れに属するということが含まれているものを言う。したがって、これは、ある作用が同一の自我の作用に関係する場合、すなわちコギタチオがコギタチオに関係する場合には、どこでも当てはまる。ある作用が同一の自我の感性的な感情所与に関係する場合なども同様である。意識とその対象は、もっぱら体験によって作られた個体的な一つの統一をなす。
超越的に向けられた志向的体験とは、このことが当てはまらないものである。たとえば、本質に向けられたすべての作用や、別の体験の流れをもつ他の自我の志向的体験に向けられた作用がそうである。同様に、物に向けられたすべての作用、およそ実在に向けられた作用もそうであり、これはのちに示される。
内在的に向けられた知覚、手短に言えば、いわゆる「内的」知覚である内在的知覚の場合、知覚と知覚されたものは、本質上、媒介のない一つの統一、すなわちただ一つの具体的なコギタチオの統一をなす。ここでは知覚作用が対象を自らのうちに含んでいるので、知覚作用を対象から切り離せるのは抽象によってだけであり、しかも本質的に非自立的なものとしてだけである。知覚されたものが志向的体験である場合、たとえばちょうど生きている確信を反省するとき(たとえば「私は…と確信している」と言明するとき)には、二つの志向的体験が入れ子になっている。そのうち少なくとも高次のものは、非自立的であり、しかも低次のものに基づけられているだけでなく、同時にそれに志向的に向け変えられている。
実的な「包含」(これは実のところ比喩にすぎない)というこの種のあり方は、内在的知覚と、そこに基づけられた態度決定を特徴づける標識である。志向的体験が内在的に関係するその他の大半の場合には、これが欠けている。たとえば、想起についての想起の場合にすでにそうである。現在の想起に、想起された昨日の想起は、その具体的統一の実的な構成部分として含まれてはいない。現在の想起は、それ自身の完全な本質からすれば、昨日の想起が実際には存在しなかったとしても存在しえただろう。他方、昨日の想起がもし実際に存在したのであれば、それは必然的に現在の想起と、一つの同じ、決して途切れたことのない体験の流れに属し、この流れが両者を多様な体験の具体相によって連続的に媒介している。明らかに、超越的知覚や、その他の超越的に関係する志向的体験の場合は、この点でまったく事情が異なる。物の知覚は、その実的な構成のうちに物そのものを含んでいないだけでなく、物の存在はもちろん前提したうえで、物とのいかなる本質的統一からも外れている。体験自身の固有の本質だけによって規定される統一は、体験の流れの統一にほかならない。同じことだが、体験は体験とだけ、一つの全体へと結合されうるのであり、その全体の総体的本質は、これらの体験の固有の本質を包み込み、それらに基づけられている。この命題は、以後さらに明瞭さを増し、大きな意義を得ることになる。
§39 意識と自然的現実 「素朴な」人間の捉え方 われわれが獲得してきた体験と意識のあらゆる本質的特徴は、われわれを絶えず導く目標、すなわち、現象学的領野を規定するはずの「純粋」意識の本質を獲得するための、必要な下位段階である。われわれの考察は形相的であった。しかし、体験、体験の流れ、そしてあらゆる意味での「意識」という本質の単称的な個別は、実在的な出来事として自然的世界に属していた。そのさいわれわれは、自然的態度の地盤を放棄していない。個体的意識は自然的世界と二重の仕方で絡み合っている。個体的意識は何らかの人間や動物の意識であり、また少なくともその特殊化の多数においては、この世界についての意識である。実在的世界とのこの絡み合いを前にして、意識が「固有の」本質をもち、他の意識とともに、自己完結した、まさにこれらの固有の本質だけによって規定された連関、すなわち意識の流れという連関を形づくる、とは何を意味するのか。この問いは、ここでは意識を、どれほど広くとってもよく、結局は体験の概念と重なる意味で理解できるので、体験の流れとそのすべての成分の固有本質性に関わる。まず、物質的世界は、どの点で、原理的に異なる種類のもの、すなわち体験の固有本質性から排除されたものであるというのか。そして、物質的世界がそうであるなら、すなわちあらゆる意識とその固有本質性に対して「異質なもの」、「別のあり方」であるなら、意識は物質的世界と、したがって意識にとって異質な世界全体と、どうして絡み合うことができるのか。というのも、物質的世界が任意の一断片ではなく、自然的世界の基礎層であり、他のあらゆる実在的存在が本質的にこれに関係していることは、容易に納得できるからである。物質的世界にまだ欠けているのは人間と動物の心であり、これらがもち込む新しいものは、まず第一に、環境世界への意識的な関係を伴う「体験すること」である。しかもそこでは、意識と物的性が結合した一つの全体をなしている。この全体は、動物と呼ぶ個々の心理物理的統一において結合し、最上位では全世界の実在的統一において結合している。全体の統一は、その部分の固有の本質によって統一されている以外にありうるだろうか。そうだとすれば、部分は原理的な異質性ではなく、何らかの本質共同性をもたねばならない。
状況を明らかにするために、われわれは最後の源泉を探る。自然的態度で私が遂行する世界の一般定立は、この源泉から養分を得ている。したがって、この源泉のおかげで、私は意識において、定在する物の世界を自分に向き合うものとして見いだし、この世界のなかに自分の身体を帰属させ、そのうえで自分自身をこの世界に組み入れることができる。明らかに、この最後の源泉は感性的経験である。ただし、われわれの目的には、感性的知覚を考察すれば十分である。感性的知覚は、経験する作用のうちで、ある良い意味で原経験の役割を果たしており、他のすべての経験する作用は、そこから自らの基礎づける力の主要部分を引き出している。あらゆる知覚する意識には、個体的対象の有体的な自己現在の意識であるという固有性がある。この対象は、純粋論理的な意味で個体であるか、あるいは個体の論理的・範疇的な変形である。われわれの場合、すなわち感性的な、より明確には物的な知覚の場合、論理的個体は物である。物知覚を、特性や過程などについての他のすべての知覚の代表として扱えば足りる。
われわれの自然的で覚醒した自我の生は、現勢的ないし潜勢的な知覚が絶え間なく続くことである。物の世界と、そのなかにある自分の身体は、つねに知覚のうちに現前している。では、意識そのものを、それ自体で具体的な存在として、またそのうちで意識されたもの、すなわち知覚された存在を、意識に「向き合う」ものとして、また「それ自体で」あるものとして、どのように区別し、また区別しうるのか。
私はまず「素朴な」人間として思索する。私は物そのものをその有体性において見、把握する。もちろん私は時に誤る。知覚された性状に関してだけでなく、定在そのものについても誤る。私は錯覚ないし幻覚にとらわれる。そのとき知覚は「真正の」知覚ではない。しかし知覚が真正であるとき、すなわち、現勢的な経験の連関のなかで、場合によっては正しい経験的思考の助けを借りて「確証」されうるとき、知覚された物は存在し、現実のものであり、知覚において実際にそれ自身が、しかも有体的に与えられている。その際、知覚することは、単に意識として考察し、身体と身体器官を度外視すれば、それ自体としては本質を欠いたもののように、すなわち空虚な「自我」が対象そのものを空虚に見やることのように現れる。この見やりは、対象と奇妙に接触している。
§40 「第一次」性質と「第二次」性質 有体的に与えられた物 「物理学的に真なるもの」の「単なる現出」 「素朴な人間」としての私が、「感覚に欺かれて」こうした反省をあれこれ紡ぎ出す傾向に身を任せたとする。すると今度は、「学問的な人間」として、第二次性質と第一次性質というよく知られた区別を思い出す。それによれば、特殊な感覚性質は「単に主観的」であり、幾何学的・物理学的な性質だけが「客観的」であるとされる。物的な色、物的な音、物の匂いや味などは、いかに「有体的」に物に現れ、物の本質に属するように見えようとも、それ自身は、またそこに現れているとおりには、現実のものではなく、ある第一次性質の単なる「記号」にすぎないというのである。しかし物理学のよく知られた教説を思い起こすと、こうした人気の高い命題の意味が、文字どおりのものではありえないことがすぐにわかる。つまり、知覚された物のうち、「特殊」感性的な性質だけが現実に単なる現出であるかのように解することはできない。そう解するなら、それらを差し引いた後に残る「第一次」性質は、客観的真理において存在する物に属し、そのほかにも現出に至らない同様の性質がある、ということになってしまうだろう。そうなると、延長は、物体性とすべての第一次性質の本質核であるのに、第二次性質なしには考えられない、というバークリの古い異議が正しいことになる。そうではなく、知覚された物の本質内容の全体、すなわち、有体性において現前するもののすべて、そのあらゆる性質と、およそ知覚されうるすべてのものとともに、「単なる現出」である。そして「真の物」とは物理学の物である。物理学が、与えられた物を、原子、イオン、エネルギーなどの概念だけで規定し、いずれにせよ空間を満たす過程として規定し、その唯一の特徴が数学的表現であるなら、物理学は有体性において現前する物の内容の全体に対して超越的なものを思念していることになる。そうなると物理学は、物を自然的な感性空間のうちにあるものとしてさえ思念しえない。言い換えれば、物理学の物理的空間は、有体的な知覚世界の空間ではありえない。そうでなければ、物理学もまたバークリの異議を免れないだろう。
それゆえ「真の存在」は、徹底して原理的に、知覚において有体的な現実として与えられるものとは別様に規定されたものであることになる。後者は、感性空間的な規定性も含め、もっぱら感性的な規定性とともに与えられている。本来経験される物が与えるのは、単なる「これ」、すなわち数学的規定とそれに属する数学的公式の担い手となる空虚なxだけである。このxは、知覚空間のなかにではなく、知覚空間がその単なる「記号」にすぎない「客観的空間」、すなわち記号的にしか表象できない三次元のユークリッド的多様体のなかに存在する。
そこで、これをひとまず受け入れよう。そこで教えられているとおり、あらゆる知覚において有体的に与えられたものは「単なる現出」であり、原理的に「単に主観的」であるが、それでも空虚な仮象ではないとしよう。というのも、知覚において与えられたものは、自然科学の厳密な方法において、その「記号」である超越的存在を、妥当に、誰にでも遂行でき、洞察的に検証できる仕方で規定するのに役立つからである。たしかに、知覚所与の感性的内容そのものは、つねにそれ自体で存在する真の物とは別のものと見なされる。だが、知覚された規定性の基体、すなわち担い手である空虚なxは、つねに、厳密な方法によって物理学的述語で規定されるものと見なされる。したがって逆の方向からすれば、あらゆる物理学的認識は、可能な経験の経過、すなわちそこに見いだされる感性的な物と感性的物的な出来事についての可能な経験の経過の指標として役立つ。このように物理学的認識は、われわれすべてが生き、行為する、現勢的経験の世界における方向づけに役立つ。
§41 知覚の実的な構成とその超越的対象 このすべてを前提したとき、何が、コギタチオとしての知覚そのものの具体的で実的な構成に属するのか。物理学的な物は属さない。これはまったく超越的であり、「現出世界」の全体に対しても超越的である。この現出世界がどれほど「単に主観的」と呼ばれようと、そのすべての個々の物と出来事に関して、知覚の実的な構成には属さず、知覚に対して「超越的」である。われわれはすでに先ほど、ただし軽く、物の超越について語った。今や、超越的なものと、それを意識している意識との、謎を含む相互関係をどう理解すべきか、より深い洞察が求められる。
物理学の全体と理論的思考の全領分を遮断しよう。そして、素朴な直観と、それに属する総合の枠内にとどまろう。知覚はこの枠内に属する。そうすれば、次のことが明証的である。直観と直観されたもの、知覚と知覚された物は、本質において互いに関係している。しかし、原理的な必然性において、実的にも本質上も、一つに結ばれてはいない。
卓を見ながらその周りを歩き、空間のなかの位置を変えるとき、私は連続的に、同一の、それ自体としては変わらない卓の有体的な定在の意識をもつ。ところが、卓の知覚は絶えず変化し、移り変わる知覚の連続である。私が目を閉じる。ほかの感覚は卓と関係していないので、卓の知覚はない。目を開ければ、再び知覚をもつ。それは同じ知覚だろうか。もっと厳密に考えよう。再び現れた知覚は、どんな場合にも、個体として同じものではない。同じなのは卓だけである。卓は、新しい知覚と想起を結びつける総合的意識において、同一のものとして意識される。知覚された物は、知覚されなくても、また潜勢的にさえ意識されなくても(先に述べた潜勢性の仕方で)、変化なく存在しうる。これに対して知覚そのものは、意識の絶えざる流れのなかでそれであるものであり、それ自身が絶えざる流れである。知覚の今は、つねに、いましがた過ぎ去ったものの意識へと移り変わり、同時に新しい今が輝き出し、以下同様に続く。知覚された物一般がそうであるように、物に属する部分、側面、契機も、第一次性質と呼ばれようと第二次性質と呼ばれようと、同じ理由から、知覚に対して必然的に超越的である。見られた物の色は、原理的に、色の意識の実的な契機ではない。色は現出する。しかし証示する経験において、その現出は連続的に変化しうるし、変化せざるをえない。同じ色が、色の射映の連続的な多様「において」現出する。似たことは、あらゆる感性的性質にも、あらゆる空間的形態にも当てはまる。同一のものとして有体的に与えられた一つの同じ形態が、連続的に、つねに別の形態の射映において「別の仕方で」現出する。これは必然的な事情であり、明らかにより一般的な妥当性をもつ。というのも、われわれは単純にするために、知覚において変化せずに現れる物を例にしたにすぎず、任意の変化への移し替えは自明だからである。
本質必然性において、同一の物についての「全面的」で、連続的に統一をなして自己自身のうちで確証される経験意識には、連続的な現出と射映の多様からなる体系が属する。有体的な自体所与性という性格をもって知覚に入るすべての対象的契機は、この体系のなかで一定の連続性として現れ、射映する。各規定性はそれ自身の射映の体系をもつ。物全体と同様にどの規定性も、現勢的な知覚の連続が途中で中断しても、想起と新しい知覚を総合的に統一する把握的意識にとって、同一のものとして立ち現れる。
ここで、物知覚と呼ばれる具体的な志向的体験の実的な構成に、疑いなく何が属するのかが分かる。物は志向的統一であり、連続的に規則づけられて流れ去る、互いに移行し合う知覚の多様において、同一のものとして統一的に意識される。これに対して、知覚の多様そのものは、つねに一定の記述的な構成をもち、この構成は、その統一に本質上対応づけられている。たとえば、どの知覚の位相にも、色の射映、形態の射映などの内容が必然的に属する。これらは「感覚所与」に数えられる。感覚所与は、一定の類をもつ固有の領域の所与であり、それぞれの類のなかで、感覚「野」という独特の具体的な体験の統一へ結びつく。さらに感覚所与は、ここでは詳しく記述しない仕方で、知覚の具体的な統一のなかで「統握」によって魂を吹き込まれ、その魂の吹き込みにおいて「呈示機能」を果たす。ないし、この機能と一つになって、色、形態などの「現出」をなす。この現出が、ほかの性格とさらに絡み合って、知覚の実的な構成をなす。知覚が同一の一つの物についての意識であるのは、統握の本質に基づく統一への結合と、さまざまなそうした統一の本質に基づく同一化の総合の可能性とによる。
感覚所与は、色の射映、滑らかさの射映、形態の射映などの「呈示」の機能を果たす。しかし、色そのもの、滑らかさそのもの、形態そのもの、要するに物的契機のあらゆる種類とは、まったく原理的に区別されることを、厳密に念頭に置かなければならない。射映は、同じ名で呼ばれるけれども、原理的に、射映されるものと同じ類ではない。射映は体験であり、体験としてだけ可能で、空間的なものとしては可能でない。これに対して射映されるものは、本質上空間的であり、原理的に空間的なものとしてだけ可能で、体験としては可能でない。形態の射映(たとえば三角形の射映)を空間のなかで可能なものと見なすのは不合理であり、そう見なす人は、射映を、射映された形態、すなわち現出する形態と取り違えている。さらに、知覚の様々な実的契機を、コギタチオとして(知覚に対して超越的なコギタトゥムの諸契機と対比して)体系的に完全に区別し、一部はきわめて難しい区別に沿って性格づけるには、どうすべきか。これは大規模な研究の主題である。
§42 意識としての存在と実在としての存在 直観の仕方の原理的な違い これまでの考察から、物は、その知覚に対しても、物に関わるあらゆる意識一般に対しても超越的であることが明らかになった。それは、物が意識の実的な構成部分として事実上見いだされない、という意味にとどまらない。事情全体が形相的に洞察される。端的に無条件的な一般性と必然性において、物は、いかなる可能な知覚、いかなる可能な意識一般においても、実的に内在的なものとしては与えられえない。こうして、体験としての存在と物としての存在とのあいだに、根本的で本質的な区別が現れる。原理的に、体験という領域的本質には(特にその領域的特殊化であるコギタチオには)、内在的知覚において知覚されうることが属し、空間的物的なものの本質には、そうでないことが属する。より深い分析が教えるように、物を与えるあらゆる直観の本質には、物として与えられたものと一体になって、物に類似した別の所与が、視線を適切に転じれば把握される、ということが属する。それらは、場合によっては分離可能な層や下位段階として、物的に現れるものの構成に含まれる。たとえば、さまざまに特殊化された「視覚物」がそうである。これらについても、まったく同じことが言える。それらも原理的な超越である。
この内在と超越との対立をもう少し追う前に、次の注意を挿入しておく。知覚を別にすれば、志向的体験には数多くのものがあり、それらは、志向的客観がほかの点でどのようなものであれ、本質上、その客観が実的に内在することを排除する。たとえば、現前化はすべてそうであり、想起も、感情移入による他者の意識の把握もそうである。われわれはこの超越を、ここで問題にしている超越と混同してはならない。物そのもの、すなわち、われわれがなお解明し確定すべき真正の意味での実在はすべて、本質上、しかもまったく「原理的に」、内在的に知覚されえず、それゆえ体験の連関のなかに見いだされえない。物そのものが端的に超越的と呼ばれるのは、このためである。ここに、存在の仕方の最も基本的な相違、意識と実在との相違が示される。
この内在と超越との対立には、われわれの叙述でさらに明らかになったとおり、所与の種類の原理的な相違が属する。内在的知覚と超越的知覚が区別されるのは、有体的な自己という性格で立ち現れる志向的対象が、一方では知覚に実的に内在し、他方ではそうでない、という点においてだけではない。両者は所与の仕方によって区別される。この仕方は、本質的な相違を保ったまま、知覚のあらゆる現前化変様、すなわち並行する想起直観と想像直観にも、必要な変更を加えて引き継がれる。われわれが物を知覚するのは、物が、そのつど「実際に」本来の意味で知覚に「入り込む」あらゆる規定性に即して「射映する」ことによってである。体験は射映しない。「われわれの」知覚が物そのものに近づけるのは物の単なる射映を通じてだけだ、ということは、物の偶然の頑固さでも、「われわれ人間の構成」の偶然でもない。空間的物性の本質(「視覚物」を含む最も広い意味でのそれ)から、この種の存在は知覚において原理的に射映によってしか与えられない、ということが明証的に読み取れる。同様に、コギタチオの、すなわち体験一般の本質から、体験が射映を排除することも読み取れる。体験の領域に属する存在にとって、「現れる」ことや射映によって呈示されることは、そもそも意味をなさない。空間的存在がなければ、異なる立脚点から、変化する定位のもとで、異なる側面、異なる遠近法的眺め、現出、射映に即して見る、という話にも意味がない。他方、空間的存在一般は、あらゆる可能な自我にとって、いま述べた所与の種類においてしか知覚されえない。これは本質必然性であり、必当然的な洞察において把握される。空間的存在は、一定の「定位」においてしか「現れ」えない。この定位は新たな定位への体系的な可能性を必然的に予示し、各定位には一定の「現出の仕方」が対応する。それは、これこれの「側面」からの所与などと表現される。この現出の仕方という言い方を体験の仕方という意味に解するなら(直前に行った記述からわかるように、この言い方は対応する存在的な意味をもつこともできる)、次のことになる。独特に構築された体験の種類、さらに詳しくは独特に構築された具体的知覚の本質には、そこで志向されたものが空間物として意識される、ということが属する。その本質には、確定した秩序をもつ連続的な知覚の多様へ移行する観念的可能性も属する。この多様はつねに繰り返し継続しうるので、決して完結しない。この多様の本質構造には、それが整合的に与える意識の統一を成り立たせる、ということが含まれる。しかもその統一は、つねにいっそう完全に、つねに新たな側面から、つねにいっそう豊かな規定をもって現れる一つの知覚物についての統一である。他方、空間物とは、そうした現出の仕方の統一としてしか原理的に与えられえない志向的統一にほかならない。
§43 原理的な誤りの解明 したがって、知覚は(そして知覚なりに、他の種類の物直観もすべて)物そのものに近づけない、と考えるのは原理的な誤りである。物はそれ自体における存在においては、われわれに与えられていないというのである。この考えでは、あらゆる存在者には、それがあるがままのものとして素朴に直観し、とくに知覚する原理的可能性が属し、その知覚は、有体的な自己を「現出」による媒介をいっさい経ずに与える十全な知覚だとされる。絶対に完全な認識の主観であり、したがって可能な十全な知覚のすべての主観でもある神は、有限なわれわれには与えられていない、物そのものについての知覚を、当然もっているとされる。
しかしこの見解は背理である。超越的なものと内在的なものとのあいだに本質的な区別はない、という主張が含まれるからだ。想定された神的直観においては、空間物が実的な構成要素、したがってそれ自身が体験であり、神的な意識の流れ、体験の流れに共に属するものになってしまう。人は、物の超越は像や記号の超越だという考えに惑わされている。像説はしばしば熱心に反駁され、その代わりに記号説が据えられる。だが、どちらも誤りであるばかりでなく、背理である。われわれが見る空間物は、そのすべての超越にもかかわらず、知覚されたものであり、その有体性において意識的に与えられたものである。その代わりに像や記号が与えられているのではない。知覚に、記号意識や像意識をすり替えてはならない。
一方の知覚と、他方の像的象徴的ないし記号的象徴的表象とのあいだには、橋渡しできない本質的な区別がある。後者の種類の表象では、われわれは意識のなかで何かを直観するが、それは別のものを写している、あるいは記号として指示している、という意識においてである。一方を直観野にもちながら、われわれはそれに向かうのではなく、基づけられた統握という媒体を通じて、もう一方の、写されたもの、指示されたものに向かう。知覚には、そのようなことは問題にならない。単純な想起や単純な想像でも同様である。
直接に直観する作用では、われわれは「自己」を直観する。その統握の上に、より高次の統握が築かれることはない。したがって、直観されたものが何の「記号」や「像」としてはたらきうるのか、その何かは意識されていない。まさにそれゆえ、それは「自己」として直接に直観されたと言われる。知覚では、この同じものがさらに独特に、「有体的」なものとして性格づけられる。想起や自由な想像では、これに対して、変様した性格、すなわち「思い浮かぶ」「現前化された」ものという性格が現れる。人は、本質的に異なる構造をもつこれらの表象の仕方と、それに対応する所与を、通例のやり方でごちゃまぜにすると、背理に陥る。単純な現前化を象徴化(像による象徴化であれ記号による象徴化であれ)と混同し、まして単純な知覚を、その両方と混同する場合である。物の知覚は、想起や想像のように、現在していないものを現前化するのではない。それは現在化する。つまり、有体的な現在における自己を、自らの固有の意味に従って把握する。これ以外のことを知覚に求めるのは、まさに知覚の意味に反することである。物の知覚が問題であれば、射映する知覚であることがその本質に属する。それと相関して、知覚のなかで与えられたものとしての物の意味には、原理的に、そのような構造をもつ知覚、すなわち射映する知覚によってしか知覚されえない、ということが属する。
§44 超越的なものの単に現象的な存在、内在的なものの絶対的な存在 物の知覚にはさらに、これもまた本質必然性だが、ある種の不十全性が属する。物は原理的に「一面的」にしか与えられえない。これは、不完備であるとか、何らかの意味で不完全であるとかいうだけのことではなく、射映による呈示が定めているとおりのことを指す。物は必然的に単なる「現出の仕方」において与えられる。その際、統握のうえでは、必然的に、「実際に呈示されたもの」の核が、非本来的な「共所与」の地平と、多かれ少なかれ漠然とした未規定性に取り囲まれている。この未規定性の意味もまた、物として知覚されたもの一般の、またそのようなものとしての一般的な意味によって、ないしは物の知覚と呼ぶこの知覚類型の一般的本質によって、あらかじめ描かれている。実際、未規定性は必然的に固く予め描かれた様式をもつ被規定可能性を意味する。それは、連続的に互いに移行し、一つの知覚の統一へとまとまる可能な知覚の多様を予示する。その知覚のなかで、持続する物は、新たな射映の系列において、新たな、あるいは戻ってきた以前の「側面」を示す。非本来的に共に把握されていた物的契機は、しだいに実際の呈示に至り、未規定なものはより詳しく規定され、やがて明晰な所与に変わる。逆の方向では、明晰なものがふたたび不明晰なものに、呈示されたものが呈示されないものに移行する。このように無限に不完全であることは、物と物の知覚との相関の、廃棄できない本質に属する。物の意味が物の知覚の所与によって規定されるなら(ほかに何が意味を規定しえようか)、物の意味はこの不完全性を要求する。物の意味は、可能な知覚の連続的で統一的な連関へ、われわれを必然的に送り返す。その連関は、遂行されたどの知覚からも、無限に多くの方向へ、体系的に固く規則づけられた仕方で、しかもどの方向へも際限なく広がりながら、つねに意味の統一に貫かれている。経験をどれほど先へ進め、同じ物についての現勢的な知覚の連続体をどれほど大きく通過したとしても、規定可能な未規定性の地平は、原理的につねに残る。いかなる神もこれを変えることはできない。1 + 2 = 3であること、あるいは何か他の本質真理が成り立つことを神が変えられないのと同じである。
一般に、すでに次のことが見て取れる。超越的存在一般は、それがどの類のものであれ、自我にとっての存在として理解されるかぎり、物と類比的な仕方でしか、すなわち現出を通じてしか、所与に至りえない。そうでなければ、その存在は内在的にもなりうる存在だということになろう。しかし、内在的に知覚されうるものは、ただ内在的にのみ知覚されうる。同一のものが、あるときは超越的知覚の形式で現出によって与えられ、別のときは内在的知覚によって与えられうる、と考えられるのは、上に示し、いまや解明された取り違えを犯す場合だけである。
物と体験との対比を、もう一方の側へもさらに押し進めておこう。体験は、先に述べたように、自らを呈示しない。このことには、体験の知覚が、知覚のなかで「絶対的なもの」として与えられている(ないし与えられうる)ものの単純な看取であり、射映を通じた現出の仕方の同一者として与えられるのではない、ということが含まれる。物の所与について述べてきたことはすべて、ここでは意味を失う。感情体験は射映しない。私がそれに目を向けるなら、私は絶対的なものをもつのであり、それには、あるときはこう、あるときはああと呈示されうる側面がない。思考において、私はそれについて真なることも偽なることも考えうるが、看取する視線のなかに立ち現れているものは、その質や強度などとともに絶対的にそこにある。これに対して、ヴァイオリンの音は、その客観的同一性とともに射映によって与えられ、変化する現出の仕方をもつ。現出の仕方は、私がヴァイオリンに近づくか遠ざかるか、コンサートホールのなかにいるか閉ざされた扉越しに聞くか、などに応じて異なる。どの現出の仕方も、絶対的に与えるものとして通用する権利を主張しない。もっとも、私の実践的な関心の枠内では、ある現出の仕方が正常なものとして一定の優位をもつ。コンサートホールの「正しい」席でこそ、私は音を「それ自身」として、「実際に」響くとおりに聞く。視覚に関しても、われわれはあらゆる物的なものについて、正常な見え方があると言う。正常な昼光のもとで、正常な定位において見る色、形、物全体について、物は実際にそう見える、その色は現実の色だ、などと言う。しかしそれは、物の対象化の全体の枠内にある二次的な対象化の一種を示すにすぎない。「正常な」現出の仕方だけを固守して、他の現出の多様と、それらとの本質的な関係を切り捨てるなら、物の所与の意味は何も残らないだろう。
したがって、次のことを確認しておく。現出を通じた所与の本質には、いかなる現出も、一面的な呈示によらずに事象を「絶対的なもの」として与えることはない、ということが属する。これに対して、内在的な所与の本質には、まさに絶対的なものを、側面において自らを呈示し射映することがまったくありえないものを、与えることが属する。また、物の知覚の体験に実的に属する射映する感覚内容そのものは、他のものにとっての射映としてはたらくが、それ自身がふたたび射映によって与えられるのではないことも、明証的である。
体験もまた、完全には、決して知覚されない。体験の完全な統一は、十全には捉えられない。体験は本質上、流れである。反省的な視線を向けるわれわれは、今の点から流れを追って泳ぐことはできるが、そのあいだに、過ぎ去った区間は知覚にとって失われている。直前に流れ去ったものについては、把持の形式でのみ、あるいは振り返る再想起の形式でのみ、意識をもつ。結局、私の体験の流れ全体は一つの体験の統一であり、これを完全に「共に泳ぎながら」知覚によって把握することは、原理的に不可能である。しかし、体験の知覚の本質に属するこの不完備性ないし「不完全性」は、「超越的」知覚、すなわち射映する呈示による、現出のようなものを通じた知覚の本質にある不完全性とは、原理的に別のものである。
知覚の圏域に見いだされるあらゆる所与の仕方と、それらのあいだの区別は、再生的変様にも、変様した仕方で入り込む。物的な現前化は、呈示によって現前化する。その際、射映そのもの、統握、したがって現象の全体が、すみずみまで再生的に変様されている。体験についても、われわれは再生と、再生的直観の作用をもつ。それは現前化の仕方と、現前化における反省の仕方においてである。もちろんここには、再生的な射映は何も見いだされない。
われわれはさらに次の対照を付け加える。現前化の本質には、相対的な明晰さないし暗さの程度の違いが属する。この完全さの違いが、射映する現出による所与に関わる区別とは無関係であることは明らかである。多かれ少なかれ明晰な表象は、明晰さの程度によって射映するのではない。ここで射映とは、われわれの術語を規定する意味でのことである。その意味では、空間的形態、それを覆うあらゆる質、したがって「現出する物そのもの」の全体が、表象が明晰であろうと暗かろうと、多様に射映する。再生的な物の表象には、可能な明晰さの程度がさまざまにあり、しかもそれは射映の仕方ごとにある。要するに、これらの違いは異なる次元にある。知覚の圏域そのもので、明晰な見えと不明晰な見え、判明な見えと不判明な見えという名目で行う区別も、いま論じた明晰さの違いとある類比を示すことは明らかである。いずれも、表象されたものの所与の充実が程度的に増減することに関わるからである。しかしそれらの違いもまた、異なる次元に属する。
§45 知覚されない体験、知覚されない実在 これらの事情に深く立ち入るなら、体験と物とが、その知覚可能性に関して互いにどのような関係にあるかについて、次の本質的な区別が理解される。
体験の存在の仕方には、現実の体験でありかつ原的な現在として生きているものであれば、どの体験にも、ごく直接に、見て取る知覚の眼差しを向けうる、ということが属する。これは「反省」という形で生じる。反省には奇妙な固有性があり、そこで知覚的に把握されたものは、ただ存在して知覚する眼差しの内で持続しているだけでなく、すでにあったものとして、しかもこの眼差しがそれに向け変えられるより前にあったものとして、原理的に性格づけられる。「すべての体験は意識されている」とは、とくに志向的な体験について言えば、次のことを意味する。志向的な体験は、何ものかについての意識であり、自分自身が反省する意識の対象となるときにだけ現にあるのではない。反省されないままですでに「背景」としてそこにあり、したがって原理的に知覚に備えている。その意味はさしあたり、われわれの外的な視野にある注目されない物のあり方と類比的である。こうした物が備えていられるのは、注目されないままですでにある仕方で意識されている限りであり、物の場合これは、それらが現れているということである。この条件を満たす物はすべてではない。すべての現れるものを包む私の注意の視野は、無限ではないからである。他方、反省されない体験もまた、ある種の備えの条件を満たさねばならない。ただしそれは、まったく別の、体験の本質にかなった仕方においてである。体験は「現れる」ことができないからだ。体験は、その定在というただそれだけのあり方によって、つねにこの条件を満たしている。その体験が属する自我、すなわち場合によってはその純粋な自我の眼差しが体験「の内で」生きている自我にとって、満たしている。反省と体験がここで示唆するにとどまるこうした本質に固有の特性をもつからこそ、われわれは反省されない体験について、したがって反省そのものについても、何かを知りうる。体験の再生的な変様および把持的な変様が、平行的な、ただし相応に変様されただけの性格をもつことは、自明である。
対比をさらに進めよう。体験の存在の仕方とは、反省という仕方で原理的に知覚可能であることである。物もまた原理的に知覚可能であり、知覚において私の環境世界の物として把握される。物は知覚されていなくてもこの世界に属し、したがってその場合にも自我にとってそこにある。しかしそれは、素朴な注目の眼差しがそれに向きうる、というあり方ではない。背景の領野は、素朴に観察しうる領野として理解するなら、私の環境世界のわずかな部分を含むにすぎないからである。「それがそこにある」とはむしろ、現勢的な知覚から、実際に現れている背景の領野とともに、可能な、しかも連続的かつ整合的に動機づけられた知覚の系列が、注目されない背景としてのつねに新しい物の領野を伴いながら先へ続き、ついには当の物が現出し把握されるであろう知覚の連関に達する、ということを意味する。一つの自我の代わりに複数の自我を考慮しても、原理的には本質的なことは何も変わらない。可能な相互了解の関係によってのみ、私の経験世界は他者の経験世界と同一視され、同時に他者の経験の余剰によって豊かにされうる。したがって、整合的な動機づけの連関によって私のそのつどの現勢的な知覚の圏域と結びつくことのない超越は、まったく根拠のない想定であろう。そうした結びつきを原理的に欠く超越は、ナンセンスであろう。物の世界のうち現勢的に知覚されていないものの現存は、このような性格のものであり、体験の原理的に意識された存在とは本質的に異なる。
§46 内在的知覚の疑いえなさと超越的知覚の疑わしさ 以上からは重要な帰結が導かれる。内在的知覚はどれも、その対象の現存を必然的に保証する。反省的な把握が私の体験に向かうとき、私は絶対的な自己を把握したのであり、その定在は原理的に否定されえない。それが存在しないという洞察は原理的に不可能であり、そのように与えられた体験が真には存在しないということを可能と考えるのは、背理であろう。思考する者である私の体験の流れは、すでに経過した領域についても将来の領域についても、どれほど広い範囲にわたって知られていなくてもよい。しかし私が、流れつつある生をその現実の現在において見やり、その際に自分自身をこの生の純粋な主観としてとらえるやいなや、私は端的に、必然的に言う。私はある、この生はある、私は生きている、コギト、と。自分自身を純粋な主観としてとらえるとはどういうことかは、後に改めて扱う。
どの体験の流れにも、そして自我そのものにも、この明証を得る原理的な可能性が属しており、どの流れも自我も、自らの絶対的な定在の保証を原理的な可能性として自分自身の内に担っている。しかし、と人は問うかもしれない。ある自我が、自らの体験の流れの内に想像しかもたず、その流れが虚構する直観のほかに何ものからも成らない、ということは考えられないか。そのような自我が見いだすのはコギタチオの虚構だけであり、この体験の媒体の本性からして、その反省はもっぱら想像の内での反省であろう。しかし、これは明白な背理である。思い浮かべられるものは単なる虚構でありうる。しかし思い浮かべること自体、すなわち虚構する意識は、それ自身は虚構されたものではない。その本質には、どの体験にも劣らず、知覚しつつ絶対的な定在を把握する反省の可能性が属する。私が感情移入的な経験において措定する他者の意識がすべて存在しない、という可能性には背理はない。だが私の感情移入も、私の意識一般も、本質においてだけでなく現存においても、原的に、絶対的に与えられている。この際立った事情が成り立つのは、自我と体験の流れが自分自身に関係する場合にだけである。内在的知覚のようなものが存在するのも、存在せざるをえないのも、ここだけである。
これに対し、すでに知られているとおり、物の世界の本質には、その領域内ではどれほど完全な知覚も絶対的なものを与えないということが属している。これと本質的に結びついて、どれほど広範囲に及ぶ経験も、有体的な自己現前の意識がたえずあるにもかかわらず、与えられたものが存在しないという可能性を開いたままにする。本質法則として次が成り立つ。物的な現存は、所与性によって必然的に要求されるものではなく、ある意味でつねに偶然的である。経験のその後の経過が、すでに経験にもとづく権利をもって措定されたものを放棄するよう迫ることが、つねにありうる。あとになって、それは単なる錯覚だった、幻覚だった、単なる首尾一貫した夢だった、などと言われる。さらに、この所与性の圏には、つねに開かれた可能性として、統握の変更のようなもの、すなわち、ある現出が、それと整合的には両立しえない別の現出へ転じ、それによって後の経験措定が前の経験措定に影響を及ぼすということがある。その結果、前の経験の志向的対象は、事後的にいわば改変を被る。これらはすべて、体験の圏域では本質上排除される。絶対的な圏域では、抗争も仮象も他在も居場所をもたない。それは絶対的な措定の圏域である。
こうして、あらゆる点で明らかなように、物の世界の内で私にとってあるものは、すべて、原理的にただ推定的な現実にすぎない。これに対し、物の世界がそれにとってある私自身は、「私のもの」のうち物の世界に数えられるものを除けば、ないし私の体験の現勢性は、絶対的な現実であり、無条件で端的に廃棄しえない措定によって与えられている。
世界の定立は「偶然的」である。私の純粋自我と自我生の定立は「必然的」であり、端的に疑いえない。有体的に与えられた物的なものはすべて、存在しないこともありうる。有体的に与えられた体験は、存在しないこともありうる、ということがない。これが、この必然性とあの偶然性を定義する本質法則である。
とはいえ、そのつどの現勢的な体験の存在必然性は、純粋な本質必然性、すなわちある本質法則の純粋に形相的な特殊化ではない。それは事実の必然性である。そう呼ばれるのは、事実に、しかもここではその定在そのものに、ある本質法則が関与しているからである。純粋自我一般と体験一般の本質には、明証的に廃棄しえない定在の定立という本質性格をもつ反省の、観念的な可能性が基づいている。
いま行った考察からは、世界の経験的考察から汲み出された証明で、世界の現存を絶対的な確実性でわれわれに保証してくれるようなものは、およそ考えられないことも明らかになる。世界が疑わしいというのは、整合的な経験の途方もない力に対抗して考慮に入りうる理性的動機が存在するという意味ではない。疑いが考えうるという意味においてである。疑いが考えうるのは、非存在の可能性が、原理的な可能性として、決して排除されないからである。どれほど大きな経験の力も、しだいに釣り合いを取られ、凌駕されうる。体験の絶対的な存在は、これによって何も変わらない。体験は、つねにこれらすべての前提であり続ける。
われわれの考察はこうして頂点に達した。必要とする認識は得られた。われわれに開かれた本質連関の内には、自然的世界の全体を意識の領分、すなわち体験の存在圏域から原理的に切り離しうるという、これから引き出そうとする帰結にとっての最も重要な前提が、すでに含まれている。この帰結の内で、確かめうるとおり、まったく別の目標に向けられていたデカルトの省察の、ただ純粋に展開されるにいたらなかっただけの核心が、ついに正当な位置を得る。もっとも、最終目標に達するためには、のちにいくつかの補いが必要となる。ただし、それは容易にもたらせる。さしあたりわれわれは、帰結を、限定された妥当の枠内で引き出す。
第三章 純粋意識の領域
§47 意識の相関者としての自然的世界 前章の成果に結びつけて、次の考察を行う。われわれ人間の経験の実際の経過は、直観的に与えられた物、すなわちデカルトの imaginatio に属する物を超え出て、それらの基礎に「物理学的真理」を置くよう、理性を強いるようなものである。しかしそれは別様でもありえた。人間の発展が前学問的な段階を一度も超え出ず、これからも超え出ないために、物理的世界はたしかにその真理をもつのに、われわれはそれについて何も知らない、という具合でありうるだけではない。物理的世界が、事実として妥当しているのとは別の法則秩序をもつ別のものである、という具合でもない。むしろ、われわれの直観的世界が最終のものであり、その「背後」には物理的世界がそもそも存在しない、ということも考えられる。すなわち、知覚の物が数学的・物理学的な規定可能性を欠き、経験の所与がわれわれのような物理学をおよそ排除する、ということである。その場合、物理学的な概念形成と判断形成を基礎づける経験の動機づけが失われるのに応じて、経験の連関も類型的に別のものとなるだろう。だがおおよそ、「素朴な経験」という名で包括される知覚や再想起などの、与える直観の枠内で、今と似た「物」が、現出の多様の内で連続的に持続する志向的統一として、われわれに示されうるだろう。
われわれはこの方向にさらに進むこともできる。経験意識の相関者としての物的客観性を思考の上で破壊するのに、われわれを妨げる制限はない。ここでは、つねに次のことに注意すべきである。物が何であるかは、われわれがそれについてのみ言明し、その存在か非存在、そのとおりか別様かについてのみ争い、理性的に決定しうる物について言えば、経験の物としてそうである。物にその意味を指定するのは経験だけであり、しかも事実的な物が問題なのだから、特定の秩序をもつ経験の連関の内にある現勢的な経験である。しかし、経験の体験の種類、とりわけ物知覚という根本体験を形相的な考察に付し、それらから本質必然性と本質可能性を見て取り(明らかにわれわれはそれをなしうる)、したがって動機づけられた経験連関の本質上可能な変形をも形相的に追跡できるなら、「現実の世界」と呼ばれる事実的経験の相関者は、多様な可能的世界と環境世界の特殊事例として現れる。これらはさらに、多かれ少なかれ秩序づけられた経験連関をもつ「経験する意識」という理念の、本質上可能な変形の相関者にほかならない。したがって、物の意識に対する超越や物の「自体存在」という言い方にだまされてはならない。物的なものの超越の真正な概念は、超越についての理性的な言明すべての尺度である。この概念は、知覚そのものの固有の本質内実から、ないし、われわれが証示する経験と呼ぶ特定の種類の連関からでなければ、どこからも汲み出せない。それゆえ、この超越の理念は、この証示する経験の純粋な理念の形相的な相関者である。
これは、現実ないし可能性として扱われうるはずの、およそ考えうるあらゆる種類の超越にあてはまる。自体的に存在する対象が、意識にも意識-自我にもまったく関わりのないものである、ということは決してない。物は環境世界の物であり、見られていない物も、実在的に可能な物、つまり経験されてはいないが経験されうる物、ないしおそらく経験されうる物も、そうである。経験されうるということは、空虚な論理的可能性を意味せず、経験の連関の内で動機づけられた可能性を意味する。この連関そのものが、隅々まで「動機づけ」の連関であり、つねに新しい動機づけを取り込み、すでに形成された動機づけを作り替える。動機づけは、その統握内容ないし規定内容に応じて、豊かさの程度に差があり、内容の上で限定されていたり漠然としていたりする。それは、すでに「既知の」物が問題か、「まったく未知の」まだ「発見されていない」物が問題か、あるいは見られている物について、すでに知られている点が問題か、まだ知られていない点が問題か、による。問題となるのはもっぱら、こうした連関の本質形態であり、それらはあらゆる可能性にわたって純粋に形相的な探究に服する。本質には、実在的に存在するものは何であれ、まだ現勢的には経験されていなくても、所与性に達しうるということが属する。このことは、それが私のそのつどの経験の現勢性の、未規定ではあるが規定可能な地平に属する、ということを意味する。この地平は、物の経験そのものに本質上付随する未規定性の成分の相関者であり、これらの成分は、つねに本質上、充実化の可能性を開いたままにする。その可能性は決して任意のものではなく、その本質類型にしたがってあらかじめ描かれた、動機づけられたものである。すべての現勢的な経験は、自らを超えて可能な経験を指し示し、その可能な経験もまたそれ自体、新たな可能な経験を指し示し、こうして無限に続く。そしてこれらはすべて、本質上定まった、アプリオリな類型に結びついた種類と規則形式にしたがって進行する。
実践的生活と経験科学の仮説的な設定はすべて、この可変的でありながらつねに共に措定されている地平に関係しており、この地平によって世界の定立は本質的な意味を得る。
§48 われわれの世界の外にある世界の論理的可能性と事象的背理 この世界の外にある実在的なものを仮説的に想定することは、たしかに「論理的に」可能であり、そこに形式的な矛盾がないことは明らかである。しかし、その想定が妥当するための本質条件、その意味が要求する証示の仕方を問うなら、さらに、超越的なものの定立によって原理的に規定される証示の仕方一般を、その本質をどのように正当に一般化するにせよ問うなら、われわれは次のことを認識する。そのような超越的なものは、必然的に経験されうるのでなければならない。しかもそれは、空虚な論理的可能性によって考え出されたにすぎない自我にとってではなく、何らかの現勢的な自我にとって、その経験連関の証示可能な統一として、経験されうるのでなければならない。ここでは、これを個々にいたるまで根拠づけるほどにはまだ進んでおらず、そのための前提はのちに続く分析がはじめてすべて与える。それでも、一つの自我にとって認識可能なものは、原理的に、どの自我にとっても認識可能でなければならない、ということは洞察できる。事実としては、どの自我もどの自我とも「感情移入」と了解の関係にあるわけではなく、またありえないとしても、たとえばわれわれが、おそらく最も遠い星々の世界に生きている精神たちとそうであるように、原理的に見れば、了解を成立させる本質上の可能性がある。したがって、事実として分かたれた経験世界が、現勢的な経験の連関を通じて一つの間主観的な世界へと合一する可能性もある。この世界は、統一的な精神の世界、すなわち人間共同体の普遍的な拡張の相関者である。これを考慮すると、一つの空間的・時間的な世界、すなわちわれわれの現勢的な経験によって固定された世界の外にある実在性の形式論理的な可能性は、事象的には背理であると分かる。そもそも世界や実在的な物があるなら、それらを構成する経験の動機づけは、上で一般的に性格づけた仕方で、私の経験にも、どの自我の経験にも及ぶことができなければならない。人間のどの経験においても規定されて証示されえない物や物の世界があることは、もちろんありうる。しかしそれは、経験の事実上の限界にもとづく、単に事実的な理由によるにすぎない。
§49 世界の無化の残余としての絶対的意識 他方、これらすべてからは、そもそも世界が、あるいは何らかの物が存在しなければならない、ということは言えない。世界の現存は、ある本質形態によって際立った、ある種の経験の多様の相関者である。しかし、現勢的な経験がただこうした連関形式の内でのみ経過しうる、ということは洞察できない。知覚一般の本質、およびこれに関与するほかの種類の経験する直観の本質だけからは、そのようなことは取り出せない。むしろ、次のことは十分に考えうる。経験が個々の場合に抗争によって仮象に解消するだけではない。事実においてそうであるのとは違って、すべての仮象がより深い真理を告げてもおらず、すべての抗争がそれぞれの位置で、より広い連関を通じて全体の整合性を保つために要求されるまさにそのものでもない。さらに、経験することの内には、われわれにとってだけでなくそれ自体として調停できない抗争がひしめき、経験が自らの物の措定を整合的に保てという要求にたちまち頑強に逆らい、その連関が射映、統握、現出の確固たる規則秩序を失い、もはや世界が存在しない。これらはすべて考えうることである。その際、いくらかの範囲では、それでも粗い統一形成が構成にいたることはありうる。すなわち、直観にとっての一時的な拠り所であり、物の直観の単なる類似物にすぎないものである。それらは、保存的な「実在」、すなわち「知覚されていてもいなくてもそれ自体で現存する」持続的な統一を構成する能力を、まったく欠いているからである。
ここで、前章の終わりに得た成果、すなわち物的な超越のすべてに本質上そなわる非存在の可能性を加えて考えよう。そうすれば、意識の存在、およそあらゆる体験の流れの存在は、物の世界の絶滅によってたしかに必然的に変様されるが、それ自身の現存は損なわれないことが明らかになる。変様されるのは確かである。というのも、世界の絶滅とは、相関的には、各体験の流れ(一つの自我の体験の全体の流れを、両側に果てしなく、完全に取った場合)において、ある秩序ある経験の連関が、したがってそれに沿って方向づけられる理論化する理性の連関も、排除されることにほかならないからである。しかし、このことは、ほかの体験や体験の連関が排除されることを含まない。したがって実在的な存在は、すなわち意識に即して諸現出によって自らを呈示し証示するような存在は、意識そのものの存在(最も広い意味での体験の流れの存在)にとって必然的ではない。
それゆえ内在的存在は、原理的に nulla「re」indiget ad existendum という意味で、疑いなく絶対的存在である。
他方、超越的な「res」の世界は、論理的に考えられた意識にではなく、現勢的な意識に、まったく依存している。
このことは、前節での先の論述から、最も一般的な点ではすでに明らかになっている。超越的なものは、ある種の経験の連関によって与えられる。超越的なものは、整合的に証示される知覚の連続体において直接に、しかも完全性を高めながら与えられ、経験に基づく思考のある方法的な形式において、多かれ少なかれ間接的に、洞察的でますます進展する理論的規定に至る。意識が、その体験内容と経過において、実際にそれ自身のうちで次のような性質をもつと仮定しよう。すなわち、意識主体が経験し経験にもとづいて思考するという自由な理論的ふるまいにおいて、そうした連関をすべて遂行しうるような性質である。その際、ほかの自我や体験の流れとの相互了解による助力も勘定に入れなければならない。さらに、これに属する意識の規則性が実際に成り立っており、統一的な世界の現出と、その世界についての理性的な理論的認識とにいやしくも必要なものは、意識の経過の側に何一つ欠けていないと仮定しよう。そこで問う。これらすべてを前提すれば、対応する超越的な世界が存在しないなどと、なお考えうるだろうか。それはむしろ背理ではないか。
こうしてわれわれは、意識すなわち体験と実在的な存在とが、決して同格の存在の種類ではなく、平和に並んで住まい、ときおり互いに「関係し」たり「結びついたり」するようなものではないことを見て取る。真の意味で結びつき、一つの全体を形づくりうるのは、本質のうえで類縁であるもの、すなわち一方も他方も同じ意味で固有の本質をもつものだけである。内在的存在ないし絶対的存在も超越的存在も、たしかにどちらも「存在するもの」「対象」と呼ばれ、どちらも対象的な規定内容をもつ。しかし、双方について対象や対象的規定と呼ばれているものは、空虚な論理的範疇に従ってのみ同じ名で呼ばれているにすぎないことは明証的である。意識と実在のあいだには、意味の真の深淵が口を開けている。一方には、射映し、決して絶対的には与えられえない、単に偶然的で相対的な存在がある。他方には、必然的で絶対的な存在があり、原理的に射映や現出によっては与えられない。
したがって、人間の自我とその意識体験が世界の中に実在的に存在するという語り方、また「心理物理的」な連関に関してこれに属するいっさいについての語り方は、それぞれの意味ではたしかに十分に根拠づけられている。しかしそれにもかかわらず、意識は「純粋性」において考察されるなら、それ自身で閉じた存在連関、すなわち絶対的存在の連関とみなされねばならない。この連関には何ものも入り込むことができず、そこから何ものも抜け出ることができない。それは空間・時間的な外部をもたず、いかなる空間・時間的連関のうちにもありえず、いかなる物からも因果性を受けず、いかなる物にも因果性を及ぼさない。ただし、因果性が、実在どうしの依存関係としての自然的因果性という通常の意味をもつかぎりでのことである。
他方、人間も人間の自我も従属的な個別的実在として数え入れられる空間・時間的な世界の全体は、その意味からして単なる志向的存在であり、したがって、意識にとっての存在という、単に二次的で相対的な意味しかもたない存在である。それは、意識がその諸経験において措定する存在であり、原理的には、整合的に動機づけられた現出の多様の同一なものとしてのみ直観され規定されうる。それを超えては無である。
§50 現象学的態度と、現象学の場としての純粋意識 こうして、存在についての語りの通常の意味が逆転する。われわれにとって第一である存在は、それ自体では第二のものである。すなわち、それは、第一のものとの「関係」においてのみ、それであるところのものである。盲目的な法則の秩序のせいで、ordo et connexio rerum が ordo et connexio idearum に従わねばならなくなった、というわけではない。実在は、個々に取られた物の実在であれ世界全体の実在であれ、われわれの厳密な意味で本質上自立性を欠いている。実在は、それ自体で絶対的な何かであり、そのうえで二次的にほかのものに結びつく、というのではない。絶対的な意味ではそもそも何ものでもなく、「絶対的な本質」をまったくもたない。実在がもつのは、原理的にただ志向的なもの、ただ意識されたもの、意識に即して表象されるもの、現出するものであるような何かの本質体である。
ここでわれわれは、思索をふたたび第一章に、現象学的還元についての考察に戻そう。いまや、世界をその相関者とする自然的な理論的態度に対して、この心理物理的な全自然を遮断してもなお何かが、すなわち絶対的意識の場の全体が残るような新しい態度が、実際に可能でなければならないことが明らかになる。そこでわれわれは、経験のなかで素朴に生き、経験されたもの、すなわち超越的自然を理論的に探究するかわりに、「現象学的還元」を遂行する。言い換えれば、自然を構成する意識に属する作用を、その超越的な定立もろとも素朴に遂行し、作用に含まれる動機づけに規定されて次々と新たな超越的定立に至るのではなく、これらの定立をすべて「作動の外に置く」。われわれはそれに加わらない。把握し理論的に探究するまなざしを、その絶対的な固有存在における純粋意識に向ける。これこそが、求められていた「現象学的残余」である。われわれは、あらゆる物、生物、人間を、われわれ自身も含めて、世界全体を「遮断」したのに、なお残る。われわれは本来、何も失わなかった。むしろ絶対的存在の全体を得たのである。この存在は、正しく理解するなら、世界的な超越のすべてを自らのうちに蔵し、自らのうちに「構成」している。
自然的態度では、世界がわれわれにとってそこにあるための作用を、われわれはことごとく遂行している。われわれは、知覚し経験することのうちに、すなわち定立的作用のうちに素朴に生きている。この作用において物の統一がわれわれに現れ、単に現れるだけでなく、「眼前にある」「現実の」という性格において与えられている。自然科学を営むとき、われわれは経験論理的に秩序づけられた思考作用を遂行する。この作用において、与えられたままに受け取られたこれらの現実が思考によって規定され、また、そのように直接に経験され規定された超越を基礎として、新たな超越が推論される。現象学的態度では、われわれは原理的な一般性において、こうしたコギト的定立のすべての遂行を差し止める。すなわち、遂行された定立を「括弧に入れ」、新たな研究にとってはこれらの定立に「加わらない」。定立のうちで生き、それを遂行するかわりに、それに向けられた反省の作用を遂行し、定立そのものを、それがそうである絶対的存在として把握する。われわれはいまやもっぱらこうした第二段の作用のうちに生きている。その作用に与えられるものは、絶対的体験の無限の場、すなわち現象学の根本の場である。
§51 超越論的予備考察の意義 反省はだれでも遂行でき、意識をその把握するまなざしのうちにもたらすことができる。しかしそれだけでは現象学的反省が遂行されたことにならず、把握された意識も純粋意識ではない。根本的な考察が必要なのは、自然の構成部分ではない純粋意識の場が、そもそも存在し、むしろ存在しうると認識するためである。自然がその場の内在的な連関に動機づけられた志向的統一としてのみ可能だと認識するためでもある。そうした統一は、それを「構成する」意識を、ひいては絶対的意識のすべてを探究する態度とはまったく別の態度において与えられ、理論的に探究される。これを認識するためにも、この考察が必要である。また、自然科学を基礎とする世界観という美名のもとで哲学が窮状にあるなかで、超越論的な意識研究が自然研究を意味せず、自然研究を前提として仮定することもできないと明らかにするためである。その超越論的態度では、自然は原理的に括弧に入れられているからである。全世界を度外視する現象学的還元は、必然的であれ事実的であれ、包括的な連関の構成要素を単に抽象することとは、まったく別のことである。もし意識体験が、色が拡がりなしには考えられないように、自然との絡み合いなしには考えられないのなら、意識をそれだけで絶対的に固有の領域とみなすことはできないだろう。だが自然からの「抽象」で得られるのは自然的なものだけであり、超越論的に純粋な意識は決して得られない。同様に、還元は、現実の存在の全体のうち、連続した一部分へと判断を限定することにすぎないのでもない。個別の現実科学では、理論的関心は特定の領域に限られ、他の領域は、実在的関係が媒介的な研究を迫らないかぎり考慮の外に置かれる。力学は光学的な出来事を「捨象」し、物理学は心理的なものを「捨象」する。だがどの自然研究者も知るとおり、孤立した現実の領域はなく、世界全体は唯一の「自然」であり、すべての自然科学は唯一の自然科学の分肢である。絶対的な本質体としての体験の領分は、根本的に事情が異なる。それは固く閉じていながら、区切りうる境界をもたない。それを限界づけるものは、それとなお本質の共同性を分かちもたねばならないからである。ところがそれは、分析が明らかにした特定の意味での、絶対的存在の全体である。世界的で自然的なあらゆる存在から本質からして独立であり、その現存のためにもそれを必要としない。自然の現存は意識の現存を条件づけえない。自然自身が意識の相関者であることが明らかになるからである。自然は、規則づけられた意識の連関のうちで自らを構成するものとしてのみ存在する。
ついでに、誤解を避けるために述べる。意識の経過が個体ごとに区分されて与えられている秩序には、事実性があり、それに内在する目的論がある。これが秩序の根拠を問う正当な機縁を与えるなら、理性にかなって想定されるべきかもしれない神学的原理は、本質上の理由から、世界の意味での超越としては想定できない。そう想定すれば背理的な循環になることが、われわれの確認から前もって明証的に帰結する。絶対者の秩序づける原理は、絶対者そのもののうちで、純粋に絶対的な考察において見いだされねばならない。世界内的な神は明証的に不可能である。絶対的意識における神の内在も、体験としての存在という意味での内在としては、同様に背理である。それゆえ、絶対的な意識の流れとその無限性のうちには、物的実在を整合的な現出の統一として構成する場合とは別の、超越の顕示のしかたがなければならない。その顕示のしかたは、最終的には直観的でなければならず、理論的思考はこれに理性にかなって従いながら、想定された神学的原理の統一的な支配を理解にもたらしうるのでなければならない。そのときこの支配は、実在とその特殊な本質に属する関数的連関に照準を合わせた、因果性の自然概念の意味では、因果的なものとして捉えられないであろう。このことも明証的である。
だがこれらはすべて、ここではこれ以上われわれに関わりがない。われわれが直接に目指すのは神学ではなく現象学である。現象学が神学にとって間接的にどれほど大きな意味をもとうとも、それは変わらない。遂行された根本的考察は、絶対的圏域を現象学に固有の研究領域として開くために不可欠だったかぎりで、現象学に仕えるものであった。
§52 補足 物理的な物と「諸現出の未知の原因」 さて、必要な補足に移る。先の考察は主として感性的な imaginatio の物についてであり、物理的な物に十分な顧慮を払わなかった。物理的な物にとっては、知覚に与えられた物は「単なる現出」、「単に主観的なもの」として機能するとされる。しかしこの単なる主観性を、体験の主観性と混同してはならない。知覚された物がその知覚性質において体験であり、この性質そのものも体験であるかのように扱ってはならない。これはすでに先の論述の意味に含まれている。現れる物が「真の」物理的な物の仮象や誤りを含む像であるというのも、自然研究者の発言ではなく方法の意味に即して考えるなら、真意ではありえない。現出の規定性が真の規定性の「記号」であるという言い方も、誤解を招く。
広く流布した「実在論」の意味で、次のように言ってよいだろうか。実際に知覚されたもの(第一の意味で現れるもの)は、それ自身がまた現出であり、あるいは、内的に異質で切り離された別のものの下部構築と見なされるべきだ、と。理論的に見れば、この別のものは、現出体験の経過を説明するために仮説的に想定された、まったく未知の実在であり、隠れた原因だ、と言ってよいだろうか。この原因は、間接的にしか、しかも類比によって数学的概念でしか性格づけられない。
われわれの一般的な叙述だけからでも、この種の理論が可能なのは、経験に固有の本質のうちにある、物として与えられたものの意味、すなわち「物一般」の意味を、真剣に学問的に究明することを避けているあいだだけであることは明らかである。この叙述は、以後の分析によってさらに深まり、絶えず確証されることになる。この意味こそが、物についてのあらゆる理性的な語りの絶対的な規範である。この意味に反するものは、最も厳密な意味で背理的であり、これはいま挙げた型の認識論的な学説のすべてに疑いなくあてはまる。
未知とされるこの原因がそもそも存在するなら、それは、われわれにとってでないにせよ、よりよく、より遠くまで見る他の自我にとっては、原理的に知覚可能で経験可能でなければならない。これは容易に示せる。問題なのは、空虚な、単に論理的な可能性ではなく、内容豊かで、その内容とともに妥当する本質可能性である。さらに、この可能な知覚もまた本質必然性をもって諸現出を通じた知覚でなければならず、したがってわれわれは避けがたい regressus in infinitum に陥ることが示されるはずである。また、次のことが指摘されるはずである。知覚において与えられた経過を、仮説的に想定された未知の物的な原因実在によって説明すること、たとえば惑星の摂動を、まだ知られていない新しい惑星、海王星を想定して説明することは、経験された物を物理的に規定するという意味での説明、すなわち原子やイオンなどの物理的な説明手段による説明とは、原理的に別のことである。
ここでは、こうした関係のすべてを体系的に汲み尽くして論じることには立ち入らない。われわれの目的には、いくつかの主要な点を際立たせれば足りる。手がかりとして、容易に確かめられる次の確認を取り上げよう。物理学の方法では、知覚された物そのものが、つねに原理的に、物理学者の探究し学問的に規定する当の物にほかならない。
この命題は、先に述べた諸命題と矛盾するように見える。それらの命題でわれわれは、物理学者の通常の言い回しの意味、ないし第一性質と第二性質という伝統的な区別の意味を、より詳しく規定しようとした。明白な誤解を除いたうえで、「本来経験された物」は「単なるこのもの」、「空虚なx」を与え、これが厳密な物理的規定の担い手となるが、その規定自身は本来の経験には含まれないと述べた。「物理学的に真」の存在は、知覚そのものにおいて「有体的に」与えられるものとは「原理的に別様に規定された」ものであるとも述べた。そのうえ後者は、物理的ではない感性的な規定性だけをそなえて立ち現れる、とも述べた。
しかし二つの叙述はまったく両立する。物理学的な見方についてのあの解釈と、われわれは本気で争う必要がない。ただ、それを正しく理解しなければならない。先に、物理的な物を特に顧慮することなく、ただちに根本的な一般性において論駁した、原理的に誤った像と記号の理論に、決して陥ってはならない。像や記号は、自らの外にあるものを指し示す。それは、別の表象の仕方、すなわち与える直観の仕方に移ることで「それ自身」を把握しうるはずのものである。記号や像は、それ自身において、示された(ないし写された)当のものを「顕示」しない。ところが物理的な物は、感性的かつ有体的に現れるものに異質なものではなく、そのうちにおいて、しかも廃棄しえない本質上の理由からアプリオリに、ただそのうちにおいてのみ、原的に自らを顕示する。物理的規定の担い手として機能するxの感性的な規定内容も、後者に異質でそれを覆い隠す外被ではない。むしろ、xが感性的規定の主語であるかぎりでのみ、xは物理的規定の主語でもあり、物理的規定は感性的規定のうちで自らを顕示する。物理学者が語るまさにその物は、原理的に、感性的にのみ、感性的な「現出の仕方」において与えられうる。これらの現出の仕方の変転する連続のなかで現れる同一のものを、物理学者は、「状況」として考慮されうるあらゆる経験可能な(知覚された、ないし知覚可能な)連関との関係において、因果的な分析にかけ、実在的な必然性の連関に従って探究する。彼が観察し、それを用いて実験し、絶えず見て、手に取り、秤皿にのせ、溶解炉に入れる物、まさにこの物であって他の物ではないものが、重さ、質量、温度、電気抵抗などの物理的述語の主語となる。同様に、力、加速度、エネルギー、原子、イオンなどの概念によって規定されるのも、知覚された経過や連関そのものである。したがって、感性的な形態、色、匂いや味の特性をもつ、感性的に現れる物は、決して別のものの記号ではなく、いわば自分自身の記号である。
次のことだけは言える。しかじかの感性的性状をもち、与えられた現象的状況のもとで現れる物は、物理学者にとって、すなわち、そのような物一般について、当該の種類の現出連関において一般的に、すでに物理学的規定をなし終えている物理学者にとって、この同じ物の豊かな因果的特性の徴候である。そうした特性は、種として周知の現出の依存関係のなかで、まさにそのようなものとして自らを示す。ここで自らを示すものは、意識体験の志向的統一のなかで自らを示すものである以上、明らかに原理的に超越的である。
以上から明らかなように、物理学的な物の高次の超越もまた、意識にとって、ないし単独で、あるいは感情移入の連関のなかで認識主観として働くどの自我にとっても、世界の外へ出ることを意味しない。
自然的に経験すること、ないしそれが遂行する自然的定立の地盤の上に、物理学的思考が確立される。この思考は、経験の連関が差し出す理性の動機に従って、ある種の統握の仕方、ある種の志向的構築を、理性によって要求されたものとして遂行せざるをえない。しかもそれを、感性的に経験された物の理論的規定のために遂行せざるをえない。まさにこのことによって、素朴な感性的 imaginatio の物と、物理学的 intellectio の物との対立が生じる。後者の側には、物理学的概念に表現され、その意味をもっぱら自然科学的方法から汲み取り、また汲み取ってよい、あらゆる観念的で存在論的な思考形成物が成長してくる。
経験論理学的な理性は、物理学という名のもとに、より高次の段階の志向的相関者を作り上げる。素朴に現れる自然から物理学的自然を作り上げるのである。この洞察的な理性の所与は、素朴に直観的に与えられた自然の経験論理学的規定にほかならない。それにもかかわらず、これを未知の物的実在の世界であるかのように自体的に立て、現出を因果的に説明する目的のために仮説的に下に据えられたものだと見なすならば、神話を弄することになる。
こうして人は背理にも、感性物と物理学的な物とを因果性によって結びつける。その際、通常の実在論は、感性的現出、すなわち現れる対象そのもの(それ自身すでに超越である)を、その「単なる主観性」のゆえに、それらを構成する現れることの絶対的体験、つまり経験する意識一般と取り違えている。少なくともこの形での取り違えを、人はいたるところで犯している。客観的物理学が説明しようとしているのは、現れる物という意味での「物の現出」ではなく、経験する意識の構成する体験という意味での「物の現出」であるかのように語るのである。因果性は、原理的には構成された志向的世界の連関に属し、その中でのみ意味をもつ。ところが人は、これを、「客観的」な物理学的存在と、直接的経験のなかで現れる「主観的」存在、つまり「第二性質」をもつ「単に主観的な」感性物とのあいだの、神話的な絆にしてしまうだけではない。後者から、それを構成する意識への不当な移行を通じて、因果性を物理学的存在と絶対的意識、とりわけ経験することの純粋な体験とのあいだの絆にしてしまう。その際、物理学的存在に神話的な絶対的実在性をすり替える一方で、真に絶対的なもの、すなわち純粋意識そのものをまったく見ていない。こうして人は、論理的に規定する思考の志向的相関者であるこの物理学的自然を絶対化するという不条理に気づかない。また、直接に直観的な物の世界を経験論理学的に規定するという機能において完全に既知の自然、その背後に何かを探すことには意味がない自然を、未知の実在にしてしまうことにも気づかない。その実在は、神秘的にみずからを示すだけで、それ自身としては決して、いかなる固有の規定性においても捉えられないとされる。そのうえ人は、主観的現出や経験する体験の経過に関する原因実在という役割まで、これに負わせようとする。
これらの誤解には、次の事情が影響している。すべての範疇的な思考統一には、とりわけ非常に間接的に形成されたものには際立って、感性的な非直観性が備わっている。人はこれに誤った解釈を与える。また、これらの思考統一に感性的な像、すなわち「模型」を下に置こうとする、認識実践上有益な傾向にも、人は誤った解釈を与える。つまり、感性的に直観できないものは、隠されたものの象徴的な代表者であり、知的な組織がもっと優れていれば、この隠されたものを素朴な感性的直観にもたらせるはずだと考える。模型はこの隠されたものの直観的で図式的な像として役立つ、すなわち、古生物学者が乏しいデータに基づいて死に絶えた生物世界について描く仮説的な図に似た機能をもつと考えるのである。人は、構築的な思考統一の洞察的な意味をそれ自体として顧みず、ここでの仮説的なものが思考総合の圏域に結びついていることを見落とす。神的な物理学でさえ、実在についての範疇的な思考規定から、素朴に直観的な実在をつくることはできない。それは、神の全能でも、楕円関数を描いたりヴァイオリンで演奏したりすることができないのと同じである。
これらの論述はなお深化を必要とするが、われわれの目的に必要なことは、すでに明証となった。原理的には、物理学的な物の超越は、意識のなかで構成され、意識に結びついた存在の超越である。その認識にどれほど多くの特殊な謎が潜むにせよ、数学的自然科学を顧慮しても、われわれの成果は何ら変わらない。
自然の客観性を「単なる事象」として明らかにしてきたことはすべて、それらに基づけられた価値論的な客観性と実践的な客観性、美的対象、文化的形成物にも妥当しなければならない。このことは、特別に論じるまでもない。そして最後に、意識に即して構成される超越一般のすべてについても、同様である。
§53 動物と心理学的意識 もう一つ、われわれの考察の限界を広げることが非常に重要である。われわれは、感性的に現れる物質的自然の全体と、それに、より高次の認識段階として基づけられる物理学的自然を、確認の範囲に収めた。では動物的実在、すなわち人間と動物については、その心と心的体験に関してはどうか。完全な世界は、単に物理的なだけでなく、心理物理的である。誰もが否定できないことだが、心を宿した身体と結びついたすべての意識の流れは、この世界に属するはずである。すると、一方では意識が絶対的なものであり、そのなかで超越的なものすべて、つまり結局は心理物理的世界の全体が構成されるはずである。他方では意識は、この世界の内部の従属的な実在的出来事であるはずである。これはどのように折り合うのか。
意識がいわば実在的世界のなかへどのようにして入り込むのか、それ自体で絶対的なものがどのようにして自らの内在を手放し、超越の性格を帯びうるのかを明らかにしよう。それは第一の原的な意味での超越、すなわち物質的自然の超越への一定の関与を通じてのみ可能である。意識は、身体との経験的関係を通じてのみ、実在的に人間的・動物的な意識となり、自然の空間と、物理的に測られる自然の時間のなかに位置を得る。さらに、意識と身体が自然的で経験的・直観的な統一へ結びつけられて初めて、一つの世界に属する動物的存在者同士の相互理解が可能になる。それによってのみ、各々の認識主観が、完全な世界を自分や他の主観とともに見出し、それを、自分とすべての他の主観に共通して属する同一の環境世界として認識できる。
固有の統握の仕方ないし経験の仕方、固有の種類の「統覚」が、この「結びつけ」、すなわち意識の実在化と呼ばれるものの働きを果たす。この統覚が何に存するにせよ、どのような特別な種類の証示を要求するにせよ、次のことはまったく明らかである。意識そのものは、これらの統覚的な絡み合いにおいて、ないし物体的なものとの心理物理的関係において、自らの固有の本質を何も失わず、自らの本質に異質なものを何も自らのうちに取り入れえない。そうでなければ背理だからである。物体的存在は原理的に現出するものであり、感性的射映を通じて自らを呈示する。これに対し、自然的に統覚された意識、すなわち人間的・動物的な意識として与えられ、物体性との結びつきにおいて経験される体験の流れは、この統覚によって、当然ながら、それ自身が射映を通じて現れるものになるのではない。
それでも意識は他のものとなった。自然の構成部分となった。意識はそれ自体では、あるところのものであり、絶対的な本質をもつ。しかしこの本質において、その流れゆくこのもの性において把握されるのではなく、「何かとして統握される」。そしてこの独特な統握において、独特な超越が構成される。いまや、同一の実在的自我主観の意識状態性が現れる。この自我主観は、その状態性のなかで自らの個体的で実在的な特性を示す。しかも、状態のなかで自らを示す特性の統一として、現れる身体と一つであるものとして意識される。こうして現出に即して、心理物理的な自然的統一である人間ないし動物が、統覚の基づけに対応して、身体によって基づけられた統一として構成される。
あらゆる超越する統覚と同様に、ここでも二重の態度が本質に基づいて遂行されなければならない。一方の態度では、統握する視線は統覚された対象へ向かい、いわば超越する統握を通り抜けていく。他方の態度では、視線は反省的に、純粋な統握する意識へ向かう。したがってわれわれの場合、一方に心理学的態度がある。この態度では、自然的態度をとる視線が、たとえば喜びの体験へ、人間ないし動物の体験状態性として向かう。他方に、本質可能性として共に絡み合っている現象学的態度がある。この態度は、反省しつつ超越的措定を遮断し、絶対的で純粋な意識へ向け変わり、そこで絶対的体験の状態性統覚を見出す。上の例でいえば、喜びの感情体験は絶対的な現象学的所与だが、それは、これに心を吹き込む統握機能という媒体のうちにある。その機能とは、現れる身体と結びついた人間的自我主観の状態性を「示す」ことにほかならない。「純粋」体験は、ある意味で、心理学的に統覚されたもののなかに、すなわち人間の状態としての体験のなかに「ある」。この体験は自らの固有の本質とともに、状態性の形式を、したがって人間自我と人間身体性への志向的関係を帯びる。この例の喜びの感情が、この志向的形式を失うことは考えうる。その場合、それはたしかに変化を被る。しかしその変化とは、純粋意識のなかで単純化し、もはや自然としての意義をもたなくなることにすぎない。
§54 続き 超越的な心理学的体験は偶然的で相対的であり、超越論的体験は必然的で絶対的である 自然的な統覚を遂行はするが、それがつねに無効であり、われわれにとって経験の統一が構成されうるような整合的な連関を許さない、と考えてみよう。言い換えれば、上の論述の意味で、自然全体、まず物理的自然が「絶滅」されたと考えてみよう。そのとき、もはや身体はなく、したがって人間もいない。人間としての私はもはやなく、ましてや私にとっての隣人もいない。しかし私の意識は、その体験の構成要素がどれほど変わっていようとも、固有の本質をもつ絶対的な体験の流れであり続ける。体験を人格的自我の「状態」として捉えさせるもの、つまりその変転のなかで同一の人格的特性が示されるようなものが、なお何か残っているとしても、われわれはこれらの統握をも解消し、それらを構成する志向的形式を取り除いて、純粋な体験に還元することができるだろう。心的な状態もまた、それが構成される絶対的体験の規則性に遡る。その絶対的体験のなかで、心的状態は志向的で、その種類に即して超越的な形式「状態」を帯びる。
たしかに、身体をもたない意識は考えうる。逆説的に聞こえようが、おそらく心をももたない、人格的でない意識も考えうる。それは、身体・心・経験的自我主観という志向的な経験の統一が構成されず、これらすべての経験概念が、したがって人格ないし動物的自我の体験という心理学的意味での体験の概念も、拠り所をもたず、妥当性をもたないような体験の流れである。すべての経験的な統一は、したがって心理学的体験もまた、卓越した本質形態をもつ絶対的な体験連関の指標であり、その連関のほかに、なお別の形態が考えうる。すべては同じ意味で、超越的であり、単に相対的であり、偶然的である。自分の体験も他人の体験も、経験上、動物的主観の心理学的で心理物理的な状態性とみなされ、しかも完全に正当にみなされている。しかしこの自明性は、いま示した点で限界をもつ。経験的体験に対しては、その意味の前提として、絶対的体験が対置される。この絶対的体験は形而上学的構築物ではない。態度を相応に変更することによって、その絶対性において疑いなく示すことができ、直接的直観において与えうる。さらに、心理学の意味での心的なもの一般、すなわち心的人格、心的特性、体験ないし状態は経験的統一であり、あらゆる種類と段階の実在と同様に、志向的「構成」の単なる統一にすぎない。それらは自らの意味において真に存在し、直観され、経験され、経験に基づいて学問的に規定されうる。それでもなお「単に志向的」であり、したがって単に「相対的」である。それらを絶対的な意味で存在するものとして立てることは、したがって背理である。
§55 結び あらゆる実在は「意味付与」によって存在する 「主観的観念論」ではない ある仕方で、また語の用法にいくらか注意すれば、「すべての実在的統一は意味の統一である」とも言える。意味の統一は、意味を付与する意識を前提する。私は繰り返し強調するが、これは何らかの形而上学的な要請から演繹するからではなく、直観的で完全に疑いのない手続きにおいて示すことができるからである。この意識はそれ自身絶対的であり、みずからふたたび意味付与によって存在するのではない。実在の概念を自然的実在、すなわち可能な経験の統一から引き出すならば、「宇宙」「全自然」はたしかに実在の全体と同じである。しかしそれを存在の全体と同一視し、そうすることでそれ自体を絶対化することは背理である。絶対的実在は、丸い四角形と同程度の意味しかもたない。実在と世界は、ここでは、一定の妥当する意味の統一の名にほかならない。その統一は、本質に即してまさにそのように、他ではないように意味を付与し、意味の妥当性を証示する、絶対的で純粋な意識の、一定の諸連関に関係している。
われわれの論述を前にして、それでは世界の全体を主観的な仮象に変え、「バークリの観念論」に身を投じることになる、と異議を唱える者がいる。その人に対しては、これらの論述の意味を把握していないと応答するほかない。世界の完全に妥当する存在、すなわち実在の全体としての存在からは、何も差し引かれていない。それは、四角形が丸いことを否定しても、四角形の完全に妥当する幾何学的存在から何も差し引かれないのと同じである。この場合、その否定は平板な自明のことにすぎない。実在的現実は「解釈し直された」のでも、ましてや否定されたのでもない。取り除かれたのは、その固有の、洞察的に解明された意味と矛盾する、背理的な解釈である。この解釈は、世界の哲学的絶対化に由来する。その絶対化は自然的な世界観察にはまったく無縁である。自然的な世界観察は、記述した一般定立の遂行のなかで素朴に生きており、決して背理的になりえない。背理は、人が哲学するようになって初めて生じる。すなわち、世界の意味について究極の解明を求めながら、世界自身がその存在の全体を一定の「意味」としてもつこと、この意味が意味付与の場としての絶対的意識を前提することに気づかないときである。同時に、この絶対的な根源の存在圏域が、直観する探究に近づきうるものであり、最高の学問的品位をもつ洞察的認識が無限に充実していることにも気づかないときである。ただし後者については、まだ示していない。それはこの探究の進行のなかで初めて明らかになるだろう。
最後に、なお注意しておく。自然的世界の絶対的意識における構成について一般的に語ったが、この一般性が反発を招いてはならない。われわれは上から哲学的思いつきを試みたのではなく、この領域での体系的な基礎的作業に基づいて慎重に得られた認識を、一般的に保たれた記述に集約した。このことは、学問に経験のある読者なら、叙述の概念的な規定性から読み取れるだろう。より詳しい論述への要求や、開いたままの欠落を埋めることへの要求は、切実であってよいし、そうでなければならない。以後の叙述は、これまでの輪郭をより具体的に形作るために、かなりの寄与をするだろう。ただしここでの目標は、超越論的構成の詳細な理論を与えて、実在の諸圏域に関する新たな「認識論」を構想することにはなかった。目標はただ、超越論的に純粋な意識の理念を獲得するのに役立ちうる一般的な思想を、洞察にもたらすことにあった。われわれにとって本質的なのは、次の明証である。現象学的還元は自然的態度の、ないしその一般定立の遮断として可能であり、その遂行のあとには、絶対的ないし超越論的に純粋な意識が残余として残る。この残余になお実在を押しつけることは、背理である。
第四章 現象学的還元
§56 現象学的還元の範囲への問い 自然科学と精神科学 自然の遮断は、超越論的に純粋な意識へ眼差しを向け変えることを可能にするための方法的な手段であった。いまやその意識を直観の眼差しのうちにとらえたのだから、今度は逆に、純粋な意識研究のために何が遮断されたままでなければならないのか、必要な遮断が自然の圏域だけにかかわるのかどうかを考えておくことが、なお有益である。基礎づけるべき現象学の側から言えば、これは、現象学がその純粋な意味を損なうことなく、どの学問から汲み取ってよく、どの学問を既定のものとして用いてよいのか、どの学問はいけないのか、つまりどの学問が「括弧入れ」を必要とするのか、ということでもある。現象学は「根源」の学問という固有の本質をもつので、素朴な(「独断的な」)学問ならおよそ思いも及ばないこの種の方法上の問いを、慎重に考えぬかなければならない。
まず自明なのは、自然的世界、すなわち物理的世界と心理物理的世界を遮断すれば、評価的・実践的な意識機能において構成される個体的な対象性もすべて遮断される、ということである。あらゆる種類の文化的形成物、技術や美の芸術の作品、妥当の統一としてではなく文化的事実として問題になるかぎりでの学問の作品、あらゆる形態の美的価値や実践的価値がこれにあたる。国家・習俗・法・宗教のような現実も、当然同様に遮断される。これによって、自然科学も精神科学もことごとく遮断に帰す。それらは認識の全体も含めて、まさに自然的態度を必要とする学問だからである。
§57 純粋自我の遮断の問い 一つの境界点で困難が生じる。自然的存在者としての人間も、「社会」という人格的結合のなかの人格としての人間も遮断される。あらゆる動物的存在者も同様である。だが純粋自我はどうか。現象学的還元によって見いだされる現象学的自我もまた、超越論的な無になってしまったのか。純粋意識の流れへと還元してみよう。反省においては、遂行されたどのコギタチオも、コギトという明示的な形をとる。超越論的還元を行うと、それはこの形を失うのだろうか。
はじめから明らかなのは、この還元を遂行したのち、超越論的な残余として残る多様な体験の流れのどこにも、純粋自我には突き当たらない、ということである。他の体験のなかの一つの体験としても、固有の意味での体験の部分として、その部分が属する体験とともに生じては消えるものとしても、突き当たらない。自我は絶えずそこにあり、しかも必然的にそこにあるように見える。この恒常性は、明らかに、愚鈍に居座り続ける体験、「固定観念」のそれではない。むしろ自我は、到来し流れ去るすべての体験に属しており、その「眼差し」は、現勢的なすべてのコギトを「通して」対象的なものへと向かう。この眼差しの光線は、コギトごとに替わり、新しいコギトとともに新たに閃き出て、そのコギトとともに消える。しかし自我は同一的なものである。少なくとも原理的に見れば、どのコギタチオも替わり、来ては去ることができる。もっとも、すべてのコギタチオが必然的に移ろうものなのか、われわれが見いだすとおり単に事実として移ろうものにすぎないのかは、疑ってよいかもしれない。これに対し、純粋自我は原理的に必然的なものに見える。しかも、体験の現実的で可能的なあらゆる変転にもかかわらず絶対的に同一なものとして、いかなる意味でも、体験そのものの実的な部分や契機とはみなせない。
どの現勢的なコギトにおいても、自我は特別な意味で自らを生き尽くしている。だが背景の体験もすべて自我に属し、自我もそれらに属している。それらはすべて、私のものである一つの体験の流れに属するものとして、現勢的なコギタチオに変わらざるをえず、あるいはそうしたコギタチオに内在的に組み入れられうるのでなければならない。カントの言葉で言えば、「私は考える」は、私のすべての表象に伴いうるのでなければならない。
現象学的に世界を遮断し、世界に属する経験的主観性をも遮断したあとの残余として、純粋自我が残り、しかもその場合、体験の流れごとに原理的に異なる純粋自我が残るならば、純粋自我とともに、独特な――構成されたものではない――超越、すなわち内在における超越が現れる。この超越はどのコギタチオにおいても直接に本質的な役割を演じるので、われわれはこれを遮断してはならない。ただし多くの研究にとっては、純粋自我の問いを未決のままにしておいてよい。とはいえ、純粋意識に固有の本質的特質であり、純粋意識とともに与えられているものとして、直接に明証的に確認できる範囲に限って、純粋自我を現象学的所与とみなす。これに対し、純粋自我についての教説でこの枠を超えるものは、すべて遮断に帰す。なお、純粋自我をめぐる難問と、ここで行った暫定的な立場の確保のために、本書の第二巻に独立の一章を充てる機会があるだろう。
§58 神の超越の遮断 自然的世界を放棄したのちにも、われわれはなお別の超越に突き当たる。この超越は、純粋自我のように、還元された意識と一体になって直接に与えられるのではなく、きわめて間接的に認識に至るものであり、いわば世界の超越に対して極をなして向かい合っている。われわれが言うのは、神の超越である。自然的世界を意識の絶対者へと還元すると、一定の種類の意識体験の事実的な連関が、際立った規則的秩序とともに現れる。この連関のうちに、志向的相関者として、経験的直観の圏域において形態学的に秩序づけられた世界、すなわち分類的・記述的な学問がありうる世界が構成される。まさにこの世界は、物質的な下位層に関するかぎり、同時に、数学的自然科学の理論的思考において、厳密な自然法則のもとにある物理的自然の「現出」として規定されうる。事実を実現する合理性は、本質が要求するような合理性ではないので、これらすべてのうちに驚くべき目的論がある。
経験的世界そのもののうちに見いだされるあらゆる目的論には、たとえば、生物の系列が人間にいたるまで事実として発展してきたこと、人類の発展において精神の財宝をそなえた文化が生い立ってきたことなどがある。これらを体系的に探究することは、そうした形成物のすべてを与えられた事実的状況から自然法則に従って説明する自然科学的な説明によっては、片づかない。むしろ、超越論的還元の方法によって純粋意識へ移行すれば、必然的に、そこで生じてくる、対応する構成的意識の事実性の根拠への問いに行き着く。事実一般ではなく、無限に高まる価値の可能性と価値の現実の源泉としての事実こそが、「根拠」への問いを強いる。もちろん、この根拠は物的・因果的な原因という意味をもつものではない。宗教的意識の側から、同じ原理へ、しかも理性的に基礎づける動機という仕方で導きうるものは、ほかにもあるが、ここでは立ち入らない。ここでは、世界の外にある「神的な」存在の現存に対する理性的根拠を、いくつかの群に分けて示唆するだけにとどめる。この存在は、世界に対してだけでなく、明らかに「絶対的な」意識に対しても超越的であろう。したがってそれは、意識の絶対者とはまったく別の意味での「絶対者」であろう。他方で、世界という意味での超越的なものに対しても、まったく別の意味での超越的なものであろう。
この「絶対者」と「超越的なもの」にも、当然、現象学的還元を及ぼす。新たに創出すべき研究領野が純粋意識そのものの領野であるべきかぎり、これらはその領野から遮断されたままにする。
§59 形相的なものの超越 普遍数学としての純粋論理学の遮断 あらゆる意味での個体的実在と同様に、いまやほかのあらゆる種類の「超越」も遮断しようと試みる。これは「一般的」対象、すなわち本質の系列にかかわる。本質もまた、ある仕方で純粋意識に対して「超越的」であり、純粋意識のなかに実的には見いだされない。とはいえ、超越を際限なく遮断することはできない。超越論的な純化は、あらゆる超越の遮断を意味しえない。あらゆる超越を遮断すれば、純粋意識は残るにしても、純粋意識についての学問の可能性は残らないからである。
このことを明らかにしておこう。形相的なものをできるかぎり広範に遮断し、したがってすべての形相的学問をも遮断することを試みてみる。最も広い論理的意味での個体的存在について、領域的に閉じることのできる圏域にはそれぞれ存在論が属している。たとえば物理的自然には自然の存在論が、動物性には動物性の存在論が属する。これらの学問分野は、すでに形成されたものであれ、ようやく要請されたものであれ、すべて還元を免れない。質料的存在論に対立するのが「形式的」存在論であり、これは思考の意義にかかわる形式論理学と一体をなす。この存在論には「対象一般」という準領域が属している。この形式的存在論をも遮断しようとすると、疑念が生じてくる。この疑念は同時に、形相的なものを際限なく遮断する可能性にもかかわってくるだろう。
次のような一連の考えが浮かぶ。学問の目的のために、われわれはどの存在領域にも一定の形相的な圏域を付け加えなければならない。それは必ずしも研究領域としてではなく、本質認識の場としてである。当該の領域の研究者は、その領域の本質固有性において連関している理論的動機がそれを示唆するところでは、いつでもこの場に手を伸ばせなければならない。とりわけ形式論理学(ないし形式的存在論)には、どの研究者も自由に依拠できなければならない。何を探究するにせよ、探究されるのは常に対象であり、形式的に対象一般(特性や事態一般など)に妥当することは、その研究者にも当てはまるからである。また、研究者がどのように概念や命題をとらえ、推論を行うにせよ、形式論理学がそうした意義や意義の類について形式的一般性において確定することは、どの専門研究者にも同じように関係する。したがって現象学者にも関係する。純粋な体験もまた、論理的に最も広い意味での対象の下に位置づけられる。だから、形式論理学と形式的存在論は、遮断できないように思われる。同様に、明らかに同じ理由から、一般的ノエシス論も遮断できない。一般的ノエシス論は、判断する思考一般の理性的であることと非理性的であることについての本質洞察を述べるものであり、その思考の意義内容は形式的一般性においてのみ規定されている。
しかしさらに詳しく考えると、一定の前提のもとでは、形式論理学を、したがって形式的数学(代数学、数論、多様体論など)のすべての学問分野を、「括弧」に入れる可能性が生じる。その前提とは、現象学の純粋な意識研究が、記述的分析という課題、すなわち純粋な直覚において解決されるべき課題以外の課題を自らに課さず、課す必要もない、ということである。そのとき、数学的な諸学問の理論形式も、それらから間接的に導かれる定理もすべて、現象学の役には立たない。概念形成と判断形成が構築的に進まず、間接的な演繹の体系も組み立てられない場合には、数学に見られるような演繹的体系の形式論一般は、質料的研究の道具として働くことができない。
現象学はたしかに、純粋に記述的な学問分野であり、超越論的に純粋な意識の領野を純然たる直覚において探究する。したがって、現象学がそのつど拠り所にする機会がありうる論理的命題は、矛盾律のような論理的公理に尽きるはずであり、しかも現象学は、その一般的で絶対的な妥当を、自らの所与にそくして範例的に洞察できるようにすることができる。それゆえ、形式論理学も数学全体も、明示的に遮断を行うエポケーのなかに含め入れることができる。この点で、現象学者であるわれわれが従おうとする規範の正当性は確実である。その規範とは、意識そのものにおいて、純粋な内在のなかで本質にそくして洞察しうるもの以外には、何も要求しないことである。
これによってわれわれは同時に、記述的現象学がこれらすべての学問分野から原理的に独立であることを、明示的な認識にもたらす。この確認は現象学の哲学的な活用にとって重要である。
§60 質料的で形相的な学問分野の遮断 質料的で形相的な圏域についていえば、一つの圏域は、その遮断がもとより考えられないほどに際立っている。現象学的に純化された意識そのものの本質の圏域である。かりにわれわれが、世界の現象学的遮断の影響圏のなかで動いているので経験的・心理学的にではなく、それでも事実学的に、純粋意識を単称的な特殊化において研究することを目標に据えたとしても、意識のアプリオリなしでは済ませられないだろう。事実学は、自らの領域の個体的な対象性にかかわる本質真理を用いる権利を、手放すことができない。ところが、序論で述べたことからすでに明らかなように、われわれの意図はまさに現象学そのものを形相的な学問として、すなわち超越論的に純化された意識の本質論として基礎づけることにある。
それを行うなら、現象学は「内在的本質」のすべてを自らのものとして包括する。内在的本質とは、意識の流れの個体的な出来事のなかで、流れ去る何らかの単独の体験において、もっぱら個別化される本質である。ここで根本的に重要なのは、かならずしもすべての本質がこの範囲に属するのではないと洞察しておくことである。個体的な対象性について内在的なものと超越的なものの区別が成り立つのとちょうど同じように、それに対応する本質についてもこの区別が成り立つ。したがって「物」「空間形態」「運動」「物的な色」など、また「人間」「人間的感覚」「心」、心理学的な意味での体験である「心的体験」、「人格」「性格特性」なども、超越的本質である。現象学を、意識の内在的な諸形態についての純粋に記述的な本質論、すなわち現象学的遮断の枠内で体験の流れのなかにとらえられる出来事についての本質論として形成しようとするなら、この枠内には、超越的で個体的なものは何ひとつ属さない。したがって現象学にも、「超越的本質」のどれも属さない。その論理的な場所は、むしろ当該の超越的な対象性についての本質論にあるはずである。
現象学はしたがって、その内在のなかで、こうした本質の存在措定をいっさい行わず、本質の妥当や非妥当、ないしそれらに対応する対象性の観念的可能性について言明を行わず、本質にかかわる本質法則も確定しない。
超越的で形相的な領域と学問分野は、純粋な体験領域に真に縛られようとする現象学に、原理的にいかなる前提も提供できない。先に述べた規範に従って現象学をまさにこの純粋性において基礎づけることがわれわれの目標であり、またこの純粋性における完全に自覚的な遂行には最大の哲学的関心もかかっている。そこでわれわれは、根源的な還元を明示的に拡張し、超越的で形相的なすべての領域と、それらに属する存在論に及ぼす。
そこで、現実の物理的自然と経験的な自然科学を遮断するのと同様に、形相的な学問、すなわち物理的な自然対象性そのものに本質上属するものを探究する学問も遮断する。幾何学、運動学、「純粋」な物質物理学に括弧を付ける。同様に、動物的な自然存在者についてのあらゆる経験科学を遮断し、人格的結合のなかの人格的存在者、歴史の主体・文化の担い手としての人間、さらには文化形成物そのものなどについての、あらゆる経験的な精神科学を遮断したのと同じく、いまやこれらの対象性に対応する形相的な学問も遮断する。これを前もって、理念において行う。周知のとおり、これまでのところ、これらの形相的な学問(たとえば合理的心理学や社会学)は、基礎づけに至っていないか、純粋で非のうちどころのない基礎づけには至っていないからである。
現象学が担うべく召命されている哲学的機能を考慮すれば、ここでもまた、これまでの論述が同時に、現象学の絶対的な独立性を、他のあらゆる学問からと同様に、質料的で形相的な学問からも確定していることを、明言しておくのがよい。
ここに与えた現象学的還元の拡張は、自然的世界とそれにかかわる学問を遮断するという最初の単純な遮断がもつような基礎的な意義を、明らかにもたない。この最初の還元によってはじめて、現象学的領野へ眼差しを向け変え、その所与を把握することが可能になるからである。その他の還元は、最初の還元を前提するので二次的であるが、それでも意義は決して小さくない。
§61 現象学的還元の体系化がもつ方法論的意義 すべての現象学的還元についての体系的な教説は、現象学的方法にとって、さらには超越論的哲学的研究一般の方法にとって、大きな重要性をもつ。その明示的な「括弧入れ」は、次のことをたえず思い出させるという方法上の機能をもつ。当該の存在圏域と認識圏域が、超越論的現象学的なものとして探究されるべき領域の外に原理的にあること、そして、括弧に入れられたそれらの領域に属する前提が入り込んでくれば、それはかならず背理的な混同、真正のμετάβασιςを示す徴候であることである。もし現象学的領野が、自然的な経験態度の領野のように直接自明に現れるなら、あるいは、たとえば経験的に空間的なものから出発して幾何学的な領野が得られるように、この態度から形相的な態度への単なる移行によって得られるなら、そのときには、込み入った還元も、それに付随する難しい考察も必要ないだろう。また、とくに形相的な学問分野の対象性を解釈するさいに、誤ったメタバシスへの誘惑が絶えず存在するのでなければ、個々のステップを区別する入念さも必要ないだろう。その誘惑はあまりに強く、個別の領域で一般的な誤解から自らを解き放った者でさえ、脅かされる。
最初に挙げるべきは、形相的なものを心理学化するという、現代にきわめて広く行き渡った傾向である。この傾向には、観念論者を自称する多くの人も屈している。そもそも観念論の側でも、経験主義的な見方の影響は強い。理念や本質を「心的な形成物」とみなす人は、物に即した色や形などの例示的な直観にもとづいて色や形の「概念」を得る意識の操作に目を向ける。そのとき、結果として生じる色や形という本質についての意識を、これらの本質そのものと取り違える。こうした人は、原理的に意識の流れにとって超越的なものを、意識の流れの実的な構成部分に数えている。これは、一方では心理学を損なう。すでに経験的な意識に関わるからである。他方では、ここでわれわれに関わるのはこちらだが、現象学を損なう。それゆえ、求める領域を本当に見いだそうとするなら、この点で明晰さをつくり出すことがきわめて重要になる。これは当然、われわれの道で行われる。まず形相的なもの一般の全般的な正当化として、次いで現象学的還元の学説との連関で、とくに形相的なものの遮断として行われる。
さて、この遮断は、むろん、あらゆる意味での超越的な個体的対象性の形相論に限らねばならなかった。ここで、新たな根本的契機が問題になる。本質と本質事態を心理学化する傾向からはすでに解放されているとしても、われわれが簡潔に内在的と超越的な本質の区別と呼んだ、結果の多い区別を認識し、あらゆる箇所で一貫して考慮に入れることは、新たな大きな一歩である。この一歩は、最初の一歩からそのまま出てくるわけではない。一方には意識の形成物そのものの本質があり、他方には意識に超越的な個体的出来事の本質がある。後者は、意識の形成物のなかでただ「顕示される」にすぎず、たとえば感性的現出を通じて意識に即して「構成される」ものの本質である。
少なくとも私にとっては、最初の一歩のあとでも、二つ目の一歩はかなり困難だった。論理学研究を注意深く読む読者なら、このことはいまや見逃せないだろう。そこでは最初の一歩が、完全に決然と踏み出されている。形相的なものの固有の権利が、その心理学化に対抗して詳しく基礎づけられる。「プラトン主義」や「論理主義」にあれほど活発に反発した時代の気分には、大いに逆らう態度であった。二つ目の一歩は、論理的範疇的対象性についての理論や、それらについての与える意識の理論など、いくつかの理論では決然と踏み出されている。しかし同じ巻の別の論述では、動揺が明らかである。論理的命題の概念が、あるときは論理的範疇的対象性に、あるときは判断する思考に内在する対応した本質に関係づけられているからである。現象学の初学者にとって、反省のなかでさまざまな意識の態度を、それぞれ異なる対象的相関者とともに使いこなせるようになるのは、実際難しい。しかしこのことは、意識そのものの内在に属さないすべての本質圏域にあてはまる。この洞察は、形式論理的ないし存在論的な本質と本質事態、つまり「命題」「推論」などの本質、さらには「数」「順序」「多様体」などの本質についてだけでなく、自然的世界の圏域から取られた本質、「物」「物体的形態」「人間」「人格」などについても得なければならない。この洞察の指標となるのが、拡張された現象学的還元である。この還元の帰結として、われわれを支配する実践的意識が生じ、これが大きな方法論的意義を持つようになる。その意識とは、次のものである。自然的世界の圏域と同様に、これらすべての形相的な圏域も、現象学者にとっては、その真の存在に関して原理的に与えられたものとみなしてはならない。現象学者の研究領域の純粋性を確保するために、これらの圏域を判断のうえで括弧に入れなければならない。これらに関わるすべての学問から、定理を一つも、公理すら一つも取り出して、現象学的な目的のための前提として認めてはならない。まさにこれによって、われわれは方法的に、あの混同から身を守る。生まれながらの独断論者であるわれわれには、その混同があまりに深く根づいており、ほかの仕方では避けられないからである。
§62 認識論的な予示 「独断的」態度と現象学的態度 私はいま「独断論者」という語を用いた。ここでの用法が単なる類比的なものではなく、認識論的なものを思わせる響きが事象そのものの本質から生じていることは、のちに明らかになるだろう。独断論と批判主義という認識論上の対立を想起すれば、還元に服するすべての学問を独断的と呼ぶ十分な根拠がある。本質的な源泉から洞察できるように、含まれる諸学問は実際、「批判」を必要とするまさにそれらの学問であり、しかもそのすべてである。その批判は、これらの学問自身には原理的に果たせない。他方で、他のすべての学問のために、同時に自分自身のためにも批判を果たすという唯一無二の機能を持つ学問は、現象学にほかならない。より正確に言えば、現象学を際立たせる固有の特徴は、その形相的一般性の範囲で、あらゆる認識とあらゆる学問を包括することにある。それも、それらにおいて直接に洞察できるもの、あるいは少なくとも、それらが真正の認識であれば洞察できるはずのもの、そのすべてに関してである。可能な方法における、あらゆる可能な直接の出発点とあらゆる直接の歩みの意味と権利は、現象学の勢力圏に属する。したがって現象学には、あらゆる形相的な、つまり無条件に一般に妥当する認識が含まれている。任意に与えられうる認識や学問に関わる「可能性」の根本問題は、これらの認識によって答えられる。応用現象学として現象学は、原理的に独自のあらゆる学問に対して、最終的に価値を見定める批判を行う。それによってとくに、その対象の「存在」の最終的な意味規定と、その方法論の原理的な解明を行う。こうして、現象学がいわば近世哲学全体の秘められた憧憬であることが理解される。すでにデカルトの驚くほど深遠な根本的考察が、現象学へと向かっている。ついで、ロック学派の心理学主義がふたたび現象学へと向かう。ヒュームはほとんど現象学の領域に足を踏み入れているが、目をくらまされたままである。まして、カントは現象学を見て取っている。カントの最大の直覚は、現象学的領域の固有性を完全に意識された明晰さにまで自分で獲得してはじめて、われわれに十分理解できるようになる。そのときわれわれには、カントの精神の眼差しがこの領域にとどまっていたことが明証的になる。ただカントは、この領域をまだ自分のものにできず、固有の厳密な本質学の作業領域として認識することもできなかった。たとえば純粋理性批判第一版の超越論的演繹は、本来すでに現象学的な地盤で動いている。しかしカントはこの地盤を心理学的なものと誤解し、そのためにみずからふたたびこの地盤を放棄してしまう。
とはいえ、これによってわれわれは、将来の叙述、すなわち本書の第三巻での叙述を先取りしている。ここでは、予示的に述べたことが、還元に服する諸学問の複合体をなぜ独断的と呼び、これをまったく別の次元の学問としての現象学に対置するのか、その正当化に役立てばよい。同時にわれわれは、これと並行して、独断的態度と現象学的態度を対比する。その際、自然的態度が、特殊なものとして独断的態度に従属することは明らかである。
われわれが教えた現象学固有の遮断は、個体的現存の形相的な遮断から独立している。この事情から、次の問いが浮かぶ。それらの遮断の枠内でも、超越論的に還元された体験についての事実学は可能ではないのか。この問いは、原理的な可能性の問いすべてと同様に、形相的現象学の地盤でのみ決着できる。その答えによって、現象学的本質論を遂行する前に、素朴に現象学的事実学から始めようとするあらゆる試みがなぜナンセンスであるかが、理解できるようになる。すなわち、現象学外の事実学のほかに、それらと並行し同格に並ぶ現象学的事実学は存在しえないことが示される。その理由は、あらゆる事実学の最終的な評価が、それらすべてに対応する事実的な、しかも事実的可能性として動機づけられた現象学的連関の、統一的な結合へと至るからである。この結合された統一は、求められていた現象学的事実学の領野にほかならない。したがって、この学問は、主要な一部分に関しては、形相的現象学によって可能になる、通常の事実学の「現象学的転回」である。残る問いは、そこからさらに何を成し遂げうるかということだけである。
第三篇 純粋現象学の方法論と問題系
第一章 方法に関する予備的考察
§63 現象学にとっての方法的考察の特別な意義 還元の規範に従ってあらゆる超越を厳密に遮断し、体験をその固有の本質にもとづいて純粋に取るなら、形相的認識の領野が開かれる。始まりの困難を越えれば、この領野は無限に広がる。体験には種類と形式の多様があり、実的な本質の内実と志向的な本質の内実もある。これらは汲み尽くせない。それらに根ざす本質連関も、必当然的に必然的な真理の多様も、汲み尽くせない。この意識のアプリオリの領野を開墾し、そこから十分な価値をもつ果実を収穫することが課題となる。この領野は、その固有性においてこれまで正当な扱いを受けたことがなく、実際には見られたことすらない。だが正しい出発点をどう見いだすのか。ここでは出発点がもっとも難しく、状況は尋常ではない。際立った所与が眼前に豊富にあるわけではない。手を伸ばしてこの領野を一つの学問の対象にできるとは確信できず、従うべき方法についてはなおさら確信がない。
自然的態度の所与、とくに自然の対象は違う。われわれはそれらに、持続的な経験と数千年の思考の訓練によって、多様な固有性や要素や法則に関して馴染んでいる。自ら研究を進めてその認識を促そうとするときにも、それは変わらない。未知のものはすべて既知のものの地平である。方法的な努力はすべて所与に結びつき、方法の発展はすべて既存の方法に結びつく。問題になるのは特殊な方法の展開にすぎず、それは実証された学問的方法論の確固たる様式に組み込まれ、考案もこの様式に導かれる。
現象学では事情が異なる。あらゆる事象を規定する方法の前に、まず超越論的に純粋な意識を視線に収める方法が要る。いつも意識されている自然的所与は、新たに志向されたものといわば絡み合っている。そこから骨を折って視線をそらさねばならず、取り違える危険もつきまとう。自然的な対象圏域で助けとなるものはすべて、ここには欠けている。慣れ親しんだ直観が欠け、受け継がれた理論化も、事象にかなった諸方法も欠けている。すでに形成された方法論に向けられる、歩み寄ってくれる信頼も、当然欠けている。この信頼は、承認された諸学問や生活の実践における成功した実証済みの適用から養分を得るはずのものである。
それゆえ現象学は、懐疑という基調を考慮に入れなければならない。新しい種類の事象から新しい種類の認識を得る方法を展開すれば足りるのではない。方法の意味と妥当性についても、あらゆる真剣な反論に耐える完全な明晰さをつくり出さなければならない。
さらに、原理に関わるためはるかに重要なことだが、現象学はその本質上「第一」哲学であると主張し、あらゆる理性批判に手段を提供しなければならない。それゆえ、完全な無前提性を要求し、自分自身に関する絶対的な反省的洞察を要求する。現象学に固有の本質は、みずからの本質について、したがって方法の原理についても、完全な明晰さを実現することにある。
したがって、方法の基本部分への洞察、つまり新しい学問にとって最初から、またその進行のなかで絶えず方法を規定するものへの洞察に向けた努力は、現象学にとって、他の学問における類似の努力とはまったく異なる意義を持つ。
§64 現象学者の自己遮断 最初の歩みから妨げになりかねない懸念に触れておく。
われわれは自然的世界全体と、超越的で形相的な圏域をすべて遮断し、それによって「純粋な」意識を得ようとする。しかしわれわれはいま、「われわれ」が遮断すると述べたではないか。現象学者であるわれわれも自然的世界の一員である。自分自身を働かないようにできるのか。
「遮断する」の意味をずらさなければ、これがまったく困難でないことは、すぐに納得できる。それどころか、われわれは自然的な人間として語るべきとおりに、平然と語り続けてよい。現象学者としても自然的な人間であることをやめるべきではなく、語りのなかでもそのようなものとして自分を措定するべきだからである。ただし方法の一部として、新たに作るべき現象学の台帳に記入する確認事項のために、われわれは還元の規範を自分に課す。この規範はわれわれの経験的定在にも関わり、明示的であれ暗示的であれ、自然的措定を含む命題を記入することを禁じる。個体的定在に関するかぎり、現象学者は幾何学者などの形相学者と変わらない仕方で進める。幾何学者は学問的論考のなかで、しばしば自分自身や自分の研究について語る。しかし数学を営む主観は、数学的命題そのものの形相的内容には含まれない。
§65 現象学の自己への還帰 ここにも次のつまずきがありうる。純粋な体験を研究するとき、この研究そのもの、この態度と視線の向けがもつ体験も、現象学的純粋性において研究されるべき領域に属するはずだ、というのである。
これも困難ではない。心理学者の思考はそれ自体が心理的なものであり、論理学者の思考は論理的規範の範囲に属する。自己への還帰が懸念されるのは、そのつどの思考についての認識に、その他すべての事象の認識が左右される場合だけであろう。これは明らかに背理的な前提である。
もっとも、自己に還帰する学科には困難がある。最初の導入も最初の探究的な踏み込みも、方法上の補助手段を用いて行わなければならない。その補助手段は、あとになってはじめて学問的に最終的な形にされるからである。予備的で準備的な、事象上および方法上の考察なしには、新しい学問の構想は成立しない。しかし、始まったばかりの心理学や現象学がこの準備作業で用いる概念やその他の方法的要素は、それ自体が心理学的、現象学的なものであり、すでに基礎づけられた学問の体系のなかではじめて、学問的な刻印を得る。
現象学の遂行を妨げる深刻な懸念はない。まして現象学が、単なる直接的な直覚の枠内の、純粋に「記述的」な本質学であろうとするなら、手続きの一般的な部分は自明である。純粋な意識の出来事を例示的に眼前に据え、完全な明晰さにもたらす。その明晰さのなかで分析と本質把握を施し、洞察できる本質連関を追う。直観されたものは、忠実な概念的表現にまとめる。その表現の意味は、直観されたもの、ないし洞察されたものだけによって規定される。この手続きは、素朴に営まれるかぎり、さしあたり新しい領域を見渡し、見ること、把握すること、分析することを練習して、その所与に少し慣れるのに役立つにすぎない。その場合には、手続きそのもの、そこで働く所与の種類、明晰さ、洞察、忠実な表現について、その本質、機能、条件を学問的に反省する。この反省が、方法を一般的かつ論理的に厳密に基礎づける。手続きは、意識的に従われるなら、学問的方法としての性格と地位を得る。その方法は、厳密に定式化された方法的規範を適用して、限定し改善する批判を行うことを可能にする。現象学が本質的に自己に関係していることは、ここに現れる。方法的反省のなかで確定されるものも、それ自身また現象学的領域に属する。反省的な分析はすべて現象学的な本質分析である。獲得された方法論的洞察も、その確定に関しては、みずからが定式化する規範のもとにある。したがって、新たな反省において、方法論的言明で言明された事態が完全な明晰さにおいて与えられうること、用いた概念が与えられたものに忠実に適合していることを、いつでも確信できなければならない。
これは現象学に関わるすべての方法論的研究にあてはまる。現象学に道を開こうとするこの著作全体は、内容からして、それ自身すっかり現象学である。
§66 明晰な所与の忠実な表現 一義的な術語 現象学は、純粋な直覚の内部での本質論だけであろうとする。純粋な意識の例示的な所与について直接の本質直観を遂行し、これを術語として固定する。語は一般の言語に由来してよく、曖昧であってもかまわない。しかし、その語が直観的に与えられたものと「合致」するやいなや、hic et nunc での明晰な意味を帯びる。そこから学問的に固定できる。
語の適用を、直観的に把握された本質へ忠実に適合させただけでは、この直観的な把握の側で必要なことが十分に果たされていても、すべては済まない。学問が可能になるのは、思考の成果が知の形で保存でき、さらなる思考のために言明命題の体系として使えるときだけである。その命題は、論理的な意味では判然としており、表象の基盤が明晰でなくても、したがって洞察がなくても、理解でき、判断のうえで現勢化できる。もっとも学問は、これに属する基礎づけと現勢的な洞察を、任意の、しかも間主観的な仕方でつくり出すための、主観的および客観的な備えも必要とする。
これらすべてには、同じ語や命題が、「充実する意味」をなす一定の本質に一義的に対応づけられることも含まれる。直覚と、よく習熟した例示的な個別直観に基づいて、語や命題は明確でただ一つの意義を備える(場合によっては習慣的に押し寄せてくる他の意義を、いわば「抹消」しつつ)。その結果、語や命題は、現勢的な思考のあらゆる可能な連関のなかで自らの思考概念を保持し、別の直観的所与や別の充実する本質に適応する能力を失う。一般に通用する言語は外来の人工語をなるべく避けるので、日常の語の用法には多義がある。それに対しては、つねに用心と、たびたびの再検討が必要である。すなわち、先の連関で固定したものが新しい連関でも本当に同じ意味で用いられているかどうかを、確かめなければならない。これらの規則や類似の規則(たとえば、学問を間主観的な協働の形成体とみる見方に関わる規則)に、ここで立ち入るべき場面ではない。
§67 明晰化の方法 「所与性の近さ」と「所与性の遠さ」 関心が大きいのは、表現よりも、表現によって表されるべき、そしてあらかじめ把握されるべき本質と本質連関に関わる方法上の考察である。探究する眼差しが体験に向かうとき、体験はたいてい空虚で漠然とした遠さのなかで現れ、単称的な確認にも形相的な確認にも使えない。体験そのものではなく体験の所与の仕方に関心を移し、空虚さと漠然さの本質そのものを探究しようとするなら、事情は異なるだろう。その場合、空虚さと漠然さ自身は漠然としたものではなく、最も完全な明晰さで所与となるからである。しかし、漠然と意識されたもの自身、たとえば想起や想像のなかで不明瞭に思い浮かぶものに本質を引き渡させようとするなら、引き渡すものは不完全でしかありえない。個別直観の明晰さが低ければ、本質把握の明晰さも低い。把握されたものも「不明瞭」でぼやけを、外的および内的な未分化を抱える。把握されたものが同じものか異なるものかを決定することは、不可能になるか、「大まか」にしか可能でなくなる。そこにどのような成分が含まれているのかも、揺れ動きながらほのめく成分が「本当は何であるのか」も、確認できない。
そのつど流動的な不明瞭さのなかで、直観からより遠くあるいはより近く思い浮かぶものを、通常の近さへ、つまり完全な明晰さへともたらすことが求められる。それは、その明晰さのもとで相応の価値をもつ本質直観を行い、志向された本質と本質関係が完全な所与性に達するようにするためである。
本質把握にも、思い浮かぶ個別のものと同様に、明晰さの段階がある。ところが、あらゆる本質には、個体における対応する契機にも同じく、いわば絶対的な近さがあり、そこでは本質の所与性が、この段階系列に関して絶対的である。すなわち純粋な自己所与性である。対象的なものは「自身」として眼差しの前に立つだけでなく、それ自身においてあるがままに意識されている。不明瞭さが残るかぎり、その残りは契機を陰らせる。陰った契機は、純粋所与の光の輪に届かない。完全な不明瞭では、何ひとつ所与に達しておらず、意識は「暗い」ものであり、もはや直観するものでも「与える」ものでもない。
厳密な意味で与える意識は、直観的でない意識に対する直観的な意識、また暗い意識に対する明晰な意識と合致する。同様に、所与性、直観性、明晰さにも段階がある。ゼロの限界は暗さであり、1の限界は完全な明晰さ、直観性、所与性である。
ただし、所与性を原的所与性として、したがって知覚的なものとして理解してはならない。「自己所与」は、「原的に与えられた」、つまり「有体的」と同一ではない。ここで定めた意味では「与えられた」と「自己所与の」は同じことであり、この重複した表現を用いるのは、より広い意味での所与性を除外するためにすぎない。より広い意味では、表象されるあらゆるものについて、それは(たとえば「空虚な仕方で」)表象のなかで与えられている、と言われる。
この規定は、対象性に関する制限なしに、任意の直観ないし空虚表象に当てはまる。もっとも、ここで関心をもつのは、体験の所与の仕方と、その現象学的な(実的かつ志向的な)構成要素だけである。
将来の分析を考慮して、次の点に注意しておく。純粋自我の眼差しが当の意識体験を通り抜けて向かうかどうか、より明確に言えば、純粋自我が「所与のもの」へ「向け変え」、場合によってはそれを「把握する」かどうかにかかわらず、事情の本質的な点は保たれる。「知覚的に与えられた」は、この所与のものの存在を把握するという本来の意味で「知覚された」にあたるかわりに、単に「知覚の用意がある」ことをも意味しうる。同様に「想像的に与えられた」も、まだ「想像しつつ把握された」を意味する必要はない。これは明晰さの段階、暗さの段階のすべてに関してもそうである。のちに詳しく論じる「用意」に、あらかじめ注意を促しておく。反対のことが付記されていない場合や文脈上自明な場合には、所与性は、把握されていることを含意する。本質の場合には、原的に把握されていることを含意する。
§68 真正な明晰さの段階と不真正な明晰さの段階 通常の明晰化の本質 明晰さの段階について、二つを区別しなければならない。一つは真正な、程度的な明晰さの段階であり、これには暗さの内部の程度的な段階も並べてよい。もう一つは不真正な段階、すなわち明晰さの範囲の外延的な拡大であり、場合によっては同時に内包的な明晰さの上昇を伴う。
すでに直観された契機、たとえば音や色は、より大きな明晰さでも、より小さな明晰さでも与えられうる。直観的に与えられたものを越えて及ぶ統握は、すべて除外しておく。扱うのは、直観的なものが実際に直観的である枠内で動く程度的な段階である。直観性そのものは、強度に似た連続的な差異を許す。それは強度のようにゼロから始まり、上方では確固とした限界で終わる。この限界を、低い段階はある仕方で指し示している、と言いたくなる。不完全な明晰さで色を直観するとき、われわれは色を「それ自体で」あるとおりに思念しており、それはまさに完全な明晰さで与えられた色である。とはいえ、指し示すというイメージに惑わされてはならない。あたかも一つの事象が別の事象の記号であるかのように考えてはならない。明晰な「それ自体」が不明瞭なものによって呈示されると言うこともできない。物的特性が直観のなかで感覚契機によって「呈示される」、つまり射映するのとは違う。明晰さの程度的な差異は、独特な、所与の仕方の差異である。
直観を越えて及ぶ統握が、直観的な統握に空虚統握を織り合わせ、そのため準程度的にたえずより多くの空虚に表象されたものが直観的になり、ないしすでに直観的なもののより多くが空虚に表象されたものになりうる場合には、事情はまったく異なる。ここでは、自らを明晰にすることは、互いに結びつく二種類の過程から成る。空虚に表象されたものを直観化する過程と、すでに直観的なものの明晰さを高める過程である。
これが通常の明晰化の本質である。というのも、通例、純粋な直観が存在するのではなく、純粋な空虚表象が純粋な直観に移行するのでもないからである。むしろ、場合によっては中間段階として、不純な直観が主要な役割を演じる。不純な直観は、対象的なものを、ある側面では直観にもたらし、他の側面では単に空虚に表象する。
§69 完全に明晰な本質把握の方法 完全に明晰な把握には利点がある。絶対に疑いえない同一化と区別、関係づけが可能になり、あらゆる「論理的」作用を「洞察的に」遂行できる。本質把握の作用もこれに属する。そうした作用の対象的な相関者には、いま明らかにした明晰さの差異が移される。他方で、完全な本質所与性を得ることにも、いま得た方法論的な認識が移される。
この方法は形相的学問の方法一般の基本部分であり、段階的な手順を必要とする。個別直観は、本質上一般的なものを完全に明晰に得るには十分でありうる。しかしその一般的なものは、導きとなる志向ほどには及ばない。共に織り込まれた本質のより詳しい規定の側で、明晰さが欠けているからである。それゆえ、例示的な個別のものをより近くにもたらすか、より適切なものを新たに用意する必要がある。そうしたものにおいて、混乱と暗さのなかで志向された個々の特徴が際立ち、最も明晰な所与性にもたらされうる。
近づけることは、暗さの圏域のなかでも行われる。暗く表象されたものは、ついには直観の門を叩く。だからといって、その門を越える必要はない(「心理学的な制止によって」おそらく越えることもできない)。
そのつど与えられたものは、たいてい未規定な規定可能性の周圏に取り巻かれている。この周圏には、表象の系列へと展開してゆくなかで、「展開する」仕方での近づけが備わっており、それはまず再び暗さのなかで、次いで改めて所与性の圏域のなかで行われ、ついには志向されたものが完全な所与性に入る。
本質把握のあらゆる明証が、基礎にある個別のものの具体性における完全な明晰さを必要とする、とは言えない。色と音、知覚と意志といった最も一般的な本質差異の把握には、例を低い明晰さの段階で与えておけば足りる。そこでは類(色一般、音一般)が完全に与えられている。だが差異はまだ与えられていないかのようである。受け入れがたい言い方だが、私は避ける術を知らない。事情を生き生きとした直覚において現前化してみてほしい。
§70 本質の明晰化の方法における知覚の役割 自由な想像の優位 本質把握の方法の、とくに重要な特徴をさらにいくつか取り上げよう。
直接直観的な本質把握は、例示的な個別のものの単なる現前化に基づいて遂行されうる。想像のような現前化も完全に明晰でありうるので、完全な本質洞察を可能にする。一般に、原的に与える知覚には、あらゆる現前化に対する利点がある。とりわけ外的知覚がそうであり、それは定在の確認のための経験する作用としてだけでなく(これはここでは問題にならない)、現象学的な本質確認の土台としてである。外的知覚は、原的な様態で実際に所与に達した対象的な契機のすべてについて、完全な明晰さをもつ。そのうえ、これに立ち返って関係づけられる反省の協力のもとで、作用の分析を含む現象学的な一般的本質分析のために、明晰で持ちこたえる個別化を提供する。怒りは、反省によって煙のように消え、内容の面で速やかに変様しうる。怒りは知覚のようにいつでも用意があるわけでもなく、手軽な実験的設定でいつでも生み出せるわけでもない。怒りを原的なあり方で反省的に研究することは、消えゆく怒りを研究することである。これはけっして無意義ではないが、おそらく研究すべきものではない。これに対して、はるかに近づきやすい外的知覚は、反省によって「消えて」しまわない。外的知覚の一般的な本質と、それに属する成分や本質相関者の本質は、明晰さを作り出す格別の努力なしに、原的なあり方の枠内で研究できる。知覚にも、暗がりや霧などのなかでの知覚に関連して明晰さの差異があると言われるなら、それが先に論じた差異と全く同列に置かれうるかどうかは、ここでは立ち入らない。知覚は通常霧に包まれてはおらず、必要とされる明晰な知覚はいつでも意のままになる、ということで足りる。
仮に原的であることの利点が方法上きわめて重要だとすれば、それがどこで、どのように、どの範囲で、さまざまな体験の種類において実現可能かを考察しなければならないだろう。また、体験のどの種類が、これほど優遇された感性的知覚の領域にこの点で特に近いか、なども考察しなければならないだろう。だが、これらすべては考えなくてよい。現象学では、あらゆる形相的学問と同じく、現前化が、より正確に言えば自由な想像が、知覚に対して優位な地位を得る理由がある。知覚の現象学そのものでもそうである。ただし感覚与件の現象学は除く。
幾何学者は、探究的な思考のなかで、図形や模型に対する知覚においてよりも、比較にならないほど多く想像において操作する。これは「純粋な」幾何学者、つまり代数的方法を放棄する者にもあてはまる。想像においては、明晰な直観を得るよう努めねばならないが、作図や模型はその努力を免れさせてくれる。しかし現実に作図し模型を作るときには拘束される。これに対し想像には、比類のない自由がある。虚構した図形を恣意的に作り変え、連続的に変様した可能な形態をたどり抜け、無数の新しい形成体を生み出せる。この自由が、本質認識の無限の地平を伴う本質可能性の広がりへの通路を、そもそも初めて開く。作図は通常、想像による構成と、それを基礎に遂行される形相的に純粋な思考に後から従い、すでに遂行された過程の段階を固定して、その過程をより容易に再び現前化させる役割を果たす。図形に即して「考え直される」場合にも、新たに結びつく思考過程は、その感性的な基礎からすれば想像の過程であり、その結果が図形上の新しい線として固定される。
還元された体験と、本質上それに属する相関者を扱う現象学者にとっても、事情は最も一般的には変わらない。現象学的な本質形成物もまた無限に多い。原的所与性という補助手段を、現象学者も限られた範囲でしか用いられない。知覚、想像、想起などの主要類型や、判断、推測、感情、意欲の最も一般的なものは、原的所与性において例を自由にできる。しかし、あらゆる可能な特殊な形態についてはそうでない。幾何学者が無限に多くの種類の物体について作図や模型を自由にできないのと同様である。ここでも本質探究の自由は、想像における操作を必然的に要求する。
ここで要求される完全な明晰化と想像所与の自由な作り変えのために、想像を十分に訓練することは必要であり、幾何学が模型の収集を重視するのも理由のないことではない。さらに、原的な直観における豊かで良質な観察によって、想像を肥やすことも必要である。ただしこれは、経験そのものが妥当を基礎づける、という意味ではない。歴史の提示から、さらに豊かには芸術、とりわけ詩作の提示から、きわめて多くの益を引き出せる。それらは想像の産物ではあるが、新たな形成の独創性、個々の特徴の豊かさ、動機づけの切れ目のなさの点で、われわれ自身の想像の成果をはるかに凌ぐ。そのうえ芸術的な表現手段の暗示力によって、理解しながら統握するなら、とりわけ容易に完全に明晰な想像へと置き換えられる。
逆説的な言い方を好むなら、実際に次のように言える。多義的な意味をよく理解するなら、厳密な真理としても言える。「虚構」は、あらゆる形相的学問と同じく、現象学の生命の要素をなす。虚構は、「永遠の真理」の認識が養分を引き出す源泉でもある。
§71 体験の記述的形相論の可能性の問題 われわれは現象学をたびたび記述的な学問と呼んできた。ここで疑念が生じる。現象学に単なる記述という目標を定めるのは正しいのか。記述的な形相論は、そもそも誤ったものではないのか。
手探りで新しい形相論に入り込み、どのような探究が可能か、どこから出発すべきか、どのような方法に従うべきかを問う者は、思わず数学的諸学科、とりわけ幾何学と算術に目を向ける。しかしただちに気づくように、これらは導き手となるべく召されるものではありえず、関係が本質的に異なっているはずである。真正な現象学的本質分析をまだ一つも知らない者にとっては、現象学の可能性に迷いを抱く危険が、ここにいくらかある。形相論という学問の理念を目下有効に代表しうるのは数学的諸学科だけなので、それとは別種の、その理論的型の全体において既知のものとはまったく異なる非数学的な学科がなお存在しうるという考えは、さしあたり遠ざけられたままである。そこで、一般的な考察によって現象学的形相論という要請に同意した者が、現象の数学のようなものを打ち立てようとしても、失敗する。この失敗は、現象学の理念を放棄させる誘因となりうる。しかしそれは、なおさら誤りであろう。
数学的諸学科に固有のものを、体験の本質論に固有のものと対比して、最も一般的な点で明らかにしよう。それによって、体験の領域で原理的に不適切とされるはずの目標と方法が、本当はどのようなものなのかも明らかにしよう。
§72 具体的・抽象的・「数学的」本質学 本質と本質学を質料的なものと形式的なものに区別することから出発する。現象学は明らかに質料的な形相的学問に属するので、形式的な数学的諸学科を除外できる。類比が方法上の導きとなりうるとしても、それが最も強く作用するのは、幾何学のような質料的な数学的諸学科に限るときである。それゆえ、より特殊に問おう。現象学は体験の「幾何学」として構成されねばならないのか、構成されうるのか。ここで求める洞察を得るには、一般的な学問論からいくつかの重要な規定を念頭に置いておく必要がある。
あらゆる理論的学問は、観念的に閉じた総体を、ある認識領域への関係を通じて結びつける。その領域は一つの上位の類によって規定されている。根底的な統一が得られるのは、端的に最上の類にまで、すなわちそのつどの領域と、領域的な類の構成要素にまで遡ったときにはじめてである。領域的な類の構成要素とは、領域的な類のうちで一つにまとまり、場合によっては相互に基づけ合う最上の諸類のことである。最上の具体的な類である領域は、部分的には互いに排他的で、部分的には互いに基づけられ合う最上の諸類から成り立つ。この構造は、対応する具体者が、部分的には互いに排他的で、部分的には互いに基づけられ合う最下位の差異から成り立つ構造に対応している。たとえば物の場合、それは時間的、空間的、物質的な規定性である。どの領域にも領域的存在論が対応する。この存在論は、自立して閉じた、場合によっては互いに依拠し合う一連の領域的学問から成り、それらは領域のうちに統一をもつ最上の諸類にちょうど対応している。下位の類に対応するのは、単なる学科にすぎない。円錐曲線という類には、円錐曲線についての学科が対応する。そのような学科が完全な自立性をもたないのは当然である。その学科は、認識と認識の基礎づけにおいて、最上の類のうちに統一をもつ本質認識の全基盤を、本性上自由に用いなければならないからである。
最上の類が領域的(具体的)な類であるか、その構成要素にすぎないかに応じて、学問は具体的であるか抽象的であるかのいずれかになる。この区別は、類一般における具体的な類と抽象的な類の区別に対応している。したがって領域には、自然の形相論におけるように具体的な対象が属することもあれば、空間形態、時間形態、運動形態のように抽象的な対象が属することもある。すべての抽象的な類が具体的な類に、最終的には領域的な類に本質的に関係することが、抽象的な学科と完全な学問に、具体的な学問、すなわち領域的な学問への本質的関係を与える。形相的学問の区分には、経験科学の区分が並行している。経験科学も領域に従って分かれる。個々の自然科学は物理的自然科学の学科にすぎない。自然の圏域に分かれるより前に、物理的自然一般に属している、形相的法則だけでなく経験的法則をも含む強力な蓄えが、これらの学科に統一を与えている。このほか、異なる領域どうしが、経験的な規則性によって結びつくこともある。物理的なものの領域と心的なものの領域がそうである。
既知の形相的学問は記述的には進まない。幾何学は、空間に描きうる無数の空間形態を、個別的な直覚において把握し、記述し、分類しはしない。記述的自然科学が経験的な自然の形態について行うのとは違う。幾何学はむしろ、ごく少数の種類の根本形成体、すなわち物体、面、点、角などの理念を確定する。これらは「公理」において規定的な役割を果たすものと同じである。公理、すなわち根源的な本質法則の助けにより、観念的に可能なすべての空間形態と、それらに属するすべての本質関係を、純粋に演繹的に導出することができる。導出は、厳密に規定する概念の形で行われ、その概念は、われわれの直覚にとって一般には縁遠いままの本質を代理する。幾何学的領域の類としての本質、あるいは空間の純粋な本質は、幾何学が自らの方法によって、実際にすべての可能性を厳密に掌握できると確信できるような性格のものである。空間形態一般の多様体は、論理的に注目すべき根本特性をもつ。この特性に対して、「定的」多様体あるいは「厳密な意味での数学的多様体」という名称を与える。
この多様体では、当該領域の本質から場合によっては汲み出されるべき有限個の概念と命題が、ありうるすべての形態を完全かつ一義的に規定する。その規定は、純粋に分析的な必然性という仕方で行われる。原理的に未決のものは何も残らない。そのような多様体は「数学的に汲み尽くして定義可能」という卓越した特性をもつ、と言い換えられる。「定義」は公理的概念と公理の体系にあり、「数学的に汲み尽くす」とは、定義的な主張が多様体に関して考えうる最大の先決を含んでいる、ということである。もはや何一つ未規定のまま残らない。
定的多様体の概念と同値のものは、次の命題にも含まれている。卓越した公理的概念から、いかなる論理形式でであれ形成されるすべての命題は、公理の形式論理的な帰結であるか、その反帰結、すなわち公理と形式上矛盾するかのいずれかである。後者の場合には、その矛盾対立する反対が公理の形式論理的な帰結となる。定的な多様体では、「真」と「公理の形式論理的な帰結」は同値であり、同様に「偽」と「公理の形式論理的な反帰結」も同値である。
公理の体系が、純粋に分析的な仕方で、多様体をこの意味で「汲み尽くして定義する」とき、私はこれを定的な公理系とも呼ぶ。そのような公理系に基づくあらゆる演繹的学科は定的な学科であり、すなわち厳密な意味で数学的な学科である。多様体の質料的な特殊化を完全に未規定にし、形式化による普遍化を行うなら、定義はすべてそのまま成り立つ。このとき公理系は公理形式の体系に、多様体は多様体形式に、多様体に関わる学科は学科形式に変わる。
§73 現象学の問題への適用 記述と厳密な規定 では現象学は、質料的数学の代表である幾何学と比べてどうなのか。現象学が具体的・形相的な学科に属することは明らかである。その外延をなすのは体験の本質であり、これは抽象者ではなく具体者である。具体者として、体験の本質はさまざまな抽象的契機をもっている。問題は次のようになる。これらの抽象的契機に属する最上の類もまた、幾何学のような「数学的」学科、すなわち定的学科の領域をなすのか。そうであれば、ここでも定的な公理系を探し、その上に演繹的理論を築くべきなのか。あるいは、ここでも「根本形成体」を探し、それらからこの領域の他のあらゆる本質形態とその本質規定を、公理を一貫して適用しつつ演繹的に導出すべきなのか。このように導出することの本質には、媒介的な論理的規定であるという点がある。その結果は、たとえ「図形に描かれる」としても、原理的には直接的な直覚において把握されえない。言葉を変え、相関的な言い回しに転じて、次のように問うこともできる。意識の流れは真正の数学的多様体なのか。それは、事実性においてとらえるなら、物理的自然に似ているのか。物理的自然は、物理学者を最終的に導く理想が妥当し、厳密な概念でとらえられているとすれば、具体的な定的多様体と呼ばれるはずである。
これらの原理的な問いについて完全に明晰になることは、学問論上きわめて重要である。そのためには、定的多様体の概念を確定したうえで、質料的に規定された領域がこの理念に対応しうるために満たさなければならない必要条件を考察する必要がある。必要条件の一つは「概念形成」の厳密性であり、これは自由な恣意や論理的技巧の事柄ではない。標榜される公理的概念は、直接的な直覚において証示されうるものでなければならないから、厳密性は把握された本質そのものにおける厳密性を前提する。ところが、ある領域に「厳密な」本質がどの程度見いだされるか、さらに、現実の直覚において把握されうるすべての本質、したがってすべての本質構成要素にも、厳密な本質を下構成しうるのかどうかは、その領域に固有の性格に全面的に左右される。
この問題は、なお未解決の問題と絡み合っている。その問題とは、「記述」とその「記述的概念」、および「厳密な規定」とその「理想概念」との関係を明らかにすることである。これと並行して、いまだほとんど理解されていない「記述的学問」と「説明的学問」の関係も明らかにしなければならない。これに関する試みは、続編で報告する予定である。考察の主線をあまり長く止めておくわけにはいかず、このような問いをいま汲み尽くして扱えるほど十分に準備もできていない。そこで、一般的な仕方で近づけうる点を示唆するにとどめよう。
§74 記述的学問と厳密な学問 幾何学と記述的自然科学とを対比しよう。幾何学者は、記述的な自然研究者のようには、感性的・直観的な形態に関心を持たない。曖昧な形態類型についての形態学的概念も形成しない。こうした類型は感性的直観に基づいて直接に把握され、曖昧なままに概念的に固定される。概念が流動的な適用圏域をもつことは、欠点ではない。これらの概念が奉仕する認識圏域にとって、概念はまったく不可欠であり、その圏域ではこれだけが正当だからである。直観的な物の所与を、与えられた本質性格において適切に概念的表現にもたらそうとするなら、それらを与えられるとおりに受け取るほかなく、それらは流動的なものとしてしか自らを与えない。典型的な本質は、直接に分析する本質直観においてのみ、把握にもたらされる。最も完全な幾何学も、その最も完全な実践的習熟も、記述的自然研究者が「ぎざぎざの、刻み目のある、レンズ形の、散形の」などの語で適切に表現していることを、厳密な概念で表現させることはできない。これらはすべて、偶然にではなく本質的に不正確であり、それゆえ非数学的でもある概念である。
幾何学的概念は「理想」概念であり、人が「見る」ことのできないものを表現する。その「起源」、したがって内容も、記述概念のそれとは本質的に異なる。記述概念は、素朴な直観から直接に取り出された本質を表現し、「理想」を表現しない。厳密な概念は、カント的な意味での「理念」の性格をもつ本質に相関者をもつ。これに対立するのが、記述概念の相関者としての形態学的本質である。
イデーションは、理想本質を、形態学的本質が「近づく」だけで決して到達しない、原理的にはいかなる感性的直観にも見いだされない観念的な「限界」として与える。これは、素朴な「抽象」による本質把握とは根本的に異なる。素朴な抽象では、取り出された「契機」が、原理的に曖昧なもの、典型的なものとして、本質の領域に高められる。流動的なものに外延をもつ類概念の確固さと明瞭な区別可能性は、理想概念の厳密性と、決して混同されてはならず、外延にまったく理想的なものをもつ類の厳密性とも混同されてはならない。さらに、厳密な学問と純粋に記述的な学問は、結びつくことはあっても、互いに代わることは決してできない。いかに広く、理想的な下構成を操る厳密な学問が発展したとしても、純粋な記述の根源的で正当な課題を解くことはできない。
§75 純粋な体験についての記述的本質論としての現象学 現象学は、現象学的態度における超越論的に純粋な体験についての、記述的な本質論であろうとする。下構成も理想化も行わない学科として、自らの権利を自らのうちにもつ。還元された体験のうちで、純粋な直覚において形相的にとらえられるものは、実的な構成部分としてであれ志向的相関者としてであれ、すべて現象学のものであり、現象学にとって絶対的な認識の大きな源泉である。無数の形相的具体者をもつこの領野で、真に学問的な記述がどこまで成立しうるのか、それが何を成し遂げうるのかを、もう少し詳しく見てみよう。
意識一般の特性は、さまざまな次元にわたって変動が進行することにある。そのため、どんな形相的具体者についても、それを直接に構成するすべての契機についても、概念的に厳密に固定することは問題になりえない。たとえば「物的な想像」という類の体験を取ろう。現象学的に内在的な知覚においてであれ、それ以外の(常に還元された)直観においてであれ、われわれに与えられているとおりの体験である。このとき形相的単称であるものは、この物の想像であり、具体性の充実の全体において、体験の流れのなかを流れ去っているとおりのものである。それは、その物をあるときはこの側面から、あるときはあの側面から現出させる、まさにその規定性と未規定性において、まさにそれに固有の明確さあるいは不鮮明さ、揺れ動く明晰さと途切れがちな暗さなどにおいて、それ自身である。現象学が捨てるのは個体化だけである。具体性の充実における本質内容の全体を、現象学は形相的意識へと高め、観念的に同一な本質として受け取る。この本質は、あらゆる本質と同様に、いま・ここにおいてだけでなく、無数の例において個別化されうる。このような流動的な具体者を、概念的・術語的に固定することなど考えられない。その直接的な、同じく流動的な部分や抽象的契機のそれぞれにも、同じことがあてはまる。
われわれの記述的圏域では、形相的単称を一義的に規定することは問題になりえない。しかし、より高い特殊性の段階にある本質については、事情がまったく異なる。それは、確固として区別し、同一化しつつ保持し、厳密に概念でとらえることができる。同様に、構成する本質へと分析することもできる。したがって、これらについては、包括的な学問的記述という課題を、意味をもって立てることができる。
こうして、知覚一般の本質を、類として記述し、厳密な概念で規定する。物の知覚や動物的な生き物の知覚などの下位の種の本質も同じである。想起一般、感情移入一般、意欲一般も同様である。最高の一般性に立つのは、体験一般、コギタチオ一般であり、これらがすでに包括的な本質記述を可能にする。その際、一般的な本質把握、分析、記述の本性には、より高い段階での成果が、より低い段階での成果にそのように依存することはない、ということが含まれる。たとえば体系的な帰納的手続きが方法上要求され、一般性の梯子を一段ずつ上っていかなければならない、ということはない。
論じてきたところから、演繹的な理論化は現象学から除かれる。媒介的な推論は、現象学に端的に禁じられているわけではない。しかし現象学の認識はすべて、記述的で、内在的圏域に純粋に適合したものでなければならない。推論や非直観的な手続きがもつのは、われわれを事象へと導く方法上の意義にすぎない。その事象を所与性にもたらすのは、後に続く直接の本質直観の務めである。押し寄せてくる類比は、現実の直覚に先立って、本質連関についての推測を示唆するかもしれず、そこからさらに進む推論が引き出されうる。しかし最終的には、本質連関の現実の直視が、その推測を果たさなければならない。そうなるまでは、現象学的な成果はない。
還元された現象の形相的領域には(全体にせよ、ある部分領域にせよ)、記述的な手続きのほかに、直観的な所与に純粋で厳密な理想を置き換える、理想化する手続きもありうるのではないか。それは、記述的現象学の対応物となる体験の数学の基本手段となりうるかもしれない。こう問わずにはいられないが、この問いは、いまの論述によって、むろん答えられてはいない。
この探究は、未決のまま残したものが多いとはいえ、われわれを大きく前進させた。それは、重要な問題の数々を視野に入れたという点にとどまらない。類比に頼っても、現象学の基礎づけにとって何も得られないことが、いまやまったく明らかである。歴史的に与えられたアプリオリな学問、すなわちどこまでも厳密な観念学の方法論が、すべての新しい学問、とりわけ超越論的現象学のそのままの範型とならなければならないと考えるのは、誤った方向に導く偏見にすぎない。あたかも、形相的学問には「厳密性」という唯一の方法的類型しかありえないかのようである。超越論的現象学は、記述的な本質学として、数学的諸学問とはまったく別の形相的諸学問の根本類に属する。
第二章 純粋意識の一般的構造
§76 以下の研究の主題 現象学的還元によって、超越論的意識の領域が、ある特定の意味で「絶対的」な存在として示された。それは存在一般の根本範疇(われわれの言い方では根本領域)であり、他のすべての存在領域はそこに根ざし、その本質に即してそこへ関係づけられ、それゆえ本質上すべてそこに依存している。範疇論は、あらゆる存在の区別のなかでもっとも根本的な区別から出発しなければならない。それは、意識としての存在と、意識のなかで「自らを示す」「超越的」存在との区別である。この区別は、洞察されるとおり、現象学的還元の方法によってのみ、その純粋さにおいて得られ、その価値を認められうる。超越論的存在と超越的存在との本質関係には、現象学とその他すべての学問との関係が根ざしている。この関係には、われわれはすでに繰り返し触れており、のちにさらに深く究明すべきである。その意味には、現象学が現に遮断している他のあらゆる学問に、現象学の支配領域がある注目すべき仕方で及ぶ、ということが含まれる。遮断は、価値を転換する符号の変更という性格をもつ。価値を転換されたものは、再び現象学的圏域に組み入れられる。比喩的に言えば、括弧に入れられたものは、現象学の黒板から拭い去られたのではなく、指標を付されたにすぎない。この指標を付されたまま、それは研究の主要な主題のうちにある。
この事情を、それに固有のさまざまな観点とともに、根本から理解することが、どうしても必要である。たとえば物理的自然は遮断を受けるが、自然科学的な経験と思考という面から見た自然科学的意識の現象学があるだけでなく、その相関者としての自然そのものの現象学もある。心理学と精神科学が遮断の対象となるとしても、人間、その人格性、その意識の経過についての現象学がある。社会的精神、文化形成体などについての現象学もある。あらゆる超越的なものは、意識に即して所与となるかぎり、それについての意識という面から、たとえばそれが同一のものとして所与となるさまざまな意識の仕方という面から、現象学的研究の客観となる。それだけでなく、これと本質的に絡み合ってはいるが、与えられたものとして、また所与性において受け取られたものとしても、現象学的研究の客観となる。
この種の強力な領域が現象学的研究には存在する。体験という理念から出発する者は、とりわけ心理学的態度から始め、体験の概念をさしあたり現代の心理学から与えられるままにしている場合には、それをまったく予期しない。そうした領域を現象学的なものとして認めることには、内的な抵抗の影響のもとで、はじめのうちほとんど気が向かないだろう。心理学と精神科学にとっては、括弧に入れられたものをこのように取り込むことから、まったく独特で、さしあたり人を混乱させる事情が生じる。この点を心理学についてだけ示唆しておく。意識は、心理学的経験の所与として、つまり人間や動物の意識として、経験科学的な研究では経験的心理学の、本質学的な研究では形相的心理学の客観である。他方、括弧入れの変様においては、心的な個体とその心的体験をともなう世界全体が、絶対的意識の相関者として現象学に属する。こうして現象学そのものの内部で、意識はあるときは絶対的意識として現れ、またあるときは相関者として心理学的意識として現れる。後者は自然的世界に組み入れられ、ある意味で価値を転換されているが、意識としての固有の内容を失ってはいない。これらは難しく、きわめて重要な連関である。これらの連関のゆえに、絶対的意識についての現象学的確認はどれも、形相的心理学的な確認に解釈し直すことができる(厳密に考えれば、後者自体は決して現象学的なものではない)。ただしその場合でも、現象学的な考察の仕方のほうがより包括的であり、絶対的であるぶんより根本的である。これらすべてを洞察し、純粋現象学と形相的・経験的心理学、ないし精神科学との本質関係を、十分に照らし出された明晰さにもたらすことは、ここに関わる諸学科と哲学にとって大きな課題である。とりわけ心理学は、これまで欠いている根本的な基礎づけを、上に述べた本質連関についての広い洞察をもつときにのみ、得ることができる。
これは、現象学の理解からなおどれほど遠いかを痛感させる。われわれは現象学的態度を実践することを学んだ。方法上の惑わせる疑念をいくつか取り除き、純粋な記述の権利を擁護した。研究の場は開かれている。しかし、そこで何が大きな主題であるのか、さらに詳しく言えば、体験のもっとも一般的な本質的なあり方によって、記述のどのような基本方向が予め示されているのかを、まだ知らない。以下の諸章で、このあり方を、少なくとも特に重要ないくつかの特徴にそって性格づけることを試みる。
われわれは方法の問題を実際には離れない。これまでの方法論的な論究もすでに、現象学的圏域の本質についてのもっとも一般的な洞察によって規定されていた。この圏域についてより深く踏み込んだ認識は、個々の細目に即してではなく、貫徹する一般性に即したものであっても、より内容豊かな方法上の規範をわれわれに与えるはずであり、すべての特殊な方法はその規範に拘束されることになる。このことは自明である。方法は、ある領域に外から持ち込まれたものでも、持ち込むべきものでもないからである。形式論理学、ないしノエシス論は、方法を与えるのではなく、可能な方法の形式を与える。形式的認識は方法論の面でどれほど有益でありうるとしても、規定された方法は、単なる技術的な特殊性に即してではなく、一般的な方法上の類型に即して、その領域の根本のあり方と一般的構造から生じる規範である。したがって、この方法を認識として把握することは、これらの構造の認識に本質的に依存する。
§77 体験圏域の根本的特質としての反省 反省における諸研究 純粋な体験圏域のもっとも一般的な本質的特質のうち、まず反省を扱う。反省には普遍的な方法論的機能があるからである。現象学的方法は、まったく反省の作用のなかで動く。ところが、反省を遂行する能力に、したがって現象学そのものの可能性に、懐疑が向けられている。この懐疑をまず片づけたい。
予備的考察で、現象学の地盤に立ち入る前に得た反省についての確認は、還元を厳密に遂行している今も引き継げる。それらは体験に固有の本質にだけ関わり、統握の上でのみ超越論的に浄化されて、確実な所有として残るからである。まず要約し、ただちに事象の奥へ、また反省によって可能となり要求される現象学的研究のあり方の奥へ踏み込む。
あらゆる自我は自分の体験を体験し、体験のなかにはさまざまなものが実的かつ志向的に含まれている。自我が体験を体験するとは、体験とそこに含まれるものを「視線のうちに」もち、内在的経験などの内在的直観によって把握することではない。視線のうちにない体験も、観念的な可能性としては「視線に入れられた」体験になりうる。反省が向かえば、体験は自我にとっての客観となる。体験の構成要素や志向性、すなわち何についての意識であるかに向かう視線についても同じである。反省もまた体験であり、新たな反省の基体となりうる。こうして原理的な一般性において、際限なく続く。
現実に体験されている体験は、新たに反省する視線に入るとき、現実に体験されたものとして、「今」存在するものとして自らを与える。だがそれだけではない。たった今過ぎ去ったものとしても、また、視線に入っていなかったかぎりでは、まさにそのようなもの、つまり反省されていなかったものとしても、自らを与える。自然的態度のわれわれは、それについて考えることなく、次のことを自明としている。体験は、われわれがそれに向かい、内在的経験で把握しているときだけ存在するのではない。内在的反省において、把持(「第一次」想起)のなかで「たった今」過ぎ去ったものとして「なお意識されて」いるときにも、体験は実際にあったのであり、実際にわれわれによって体験されたものであった。
さらにわれわれは、再想起にもとづき、その「うちで」行う反省も、以前の体験を知らせてくれると確信している。それらの体験は「当時」現在的で、内在的に知覚されうるものであったが、知覚されてはいなかった。素朴で自然的な見解では、まったく同じことが先想起、すなわち先を見る期待にも当てはまる。ここで問題になるのは、まず直接的な「予持」であり、直接的な把持のちょうど対応物である。次に、まったく異なる仕方で現前化する、より本来的な意味で再生産する先想起であり、これは再想起の対応物である。先を見る視線のなかで「やがて来るもの」として意識された、直観的に期待されたものは、先想起の「うちで」可能な反省のおかげで、同時に、知覚されるであろうものという意義をもつ。それは、想起し返されたものが、知覚されたものであったという意義をもつのと同様である。それゆえ先想起においても反省でき、向かっていなかった自分の体験を、先想起されたもの自体に属するものとして意識できる。来るべきものを見るだろうと言うときにはいつもそうしており、そのとき反省する視線は「未来の」知覚体験に向け変えられている。
これらすべてを、自然的態度のなかで、たとえば心理学者として明らかにし、さらに広い連関へと追跡する。
還元を遂行すれば、これらの確認は(括弧入れされたまま)本質的一般性の例示的な場合に変わる。われわれは純粋な直覚の枠内でそれを自分のものとし、体系的に研究できる。たとえば、生き生きとした直観のなかで(思い描かれたものでもよい)、何らかの作用の遂行、たとえば自由に実り豊かに進む理論的思考の流れに対する喜びのなかに身を置く。あらゆる還元を遂行して、現象学的事象の純粋な本質のなかに何があるかを見る。さしあたり、進行する思考への向かいがある。この喜ばしい進行のあいだに、反省する視線が喜びに向け変えられるとする。喜びは視線に入れられ、内在的に知覚された体験となり、反省の視線のなかでしかじかに変動し、薄れてゆく。そのとき思考の流れの自由さは損なわれ、思考の流れは変様した仕方で意識され、その進行に属する喜ばしさは本質的に影響を受ける。このことも確認できるが、それには新たな視線の転換が必要である。それらは今は働かせずにおき、次のことに注意しよう。
喜びについての最初の反省は、その喜びを現勢的で現在的なものとして見いだす。しかし、いまようやく始まったものとしてではない。喜びは継続するものとして、以前にすでに体験されていて、ただ注視されていなかったものとして、そこに立っている。すなわち、明証的に、喜ばしいものの過ぎ去った持続と所与の仕方をたどる可能性が成り立つ。理論的思考の経過の以前の区間に、またそれに以前に向かっていた視線にも注意する可能性が成り立つ。他方で、それに対する喜びの向かいに注意し、対比のなかで、経過した現象には喜びに向かう視線が欠けていたことを把握する可能性が成り立つ。さらに、あとから客観となった喜びに関して、それを客観化する反省への反省を遂行する可能性もある。こうして、体験されたが視線に入れられていなかった喜びと、視線に入れられた喜びとの区別を、さらに有効に明晰にもたらすことができる。視線の向け変えとともに始まる、把握し解明する作用などによって入り込む変様も、同様に明晰にもたらすことができる。
これらすべてを、現象学的態度において形相的に考察できる。より高い一般性においてでも、特定の体験の種類について本質上明らかになるものに即してでもよい。こうして、反省されない意識の様態で体験される諸体験をもつ体験の流れ全体が、体系的な完全性をめざす学問的な本質研究にかけられる。それらの体験に志向的に含まれうる体験契機のあらゆる可能性についても同じであり、とくに、場合によってはそれらのなかで変様して意識されている体験とその志向的なものについてもそうである。後者について、われわれはあらゆる現前化に志向的に含まれ、その「うちでの」反省によって取り出される体験の変様という形で、例を知った。たとえば、あらゆる想起のうちにある「知覚されていた」と、あらゆる期待のうちにある「知覚されるであろう」である。
体験の流れの研究は、それ自体、さまざまな独特の構造をもつ反省的作用のなかで行われる。これらの作用もそれ自体体験の流れに属し、それに応じた高次の段階の反省において、現象学的分析の客観とされうるし、されなければならない。このような分析は、一般的な現象学と、それに欠かせない方法論的洞察の基礎となるからである。同じことは心理学にも当てはまる。反省における、あるいは――通常これと同一視される――想起における体験の研究という漠然とした言い方では、まだ何も成し遂げられていない。あるのはせいぜい、真剣な本質分析を欠くためにすぐ紛れ込みがちな、いくつかの誤りだけである。たとえば、内在的知覚や内在的観察のようなものはそもそもありえない、という主張がそうである。
事象にもう少し立ち入ろう。
§78 体験の反省の現象学的研究 反省とは、体験の流れがさまざまな多様な出来事(体験契機、志向的なもの)とともに、明証的に把握可能となり分析可能となる作用の名称である。言い換えれば、意識一般を認識するための、意識の方法の名称である。まさにこの方法において、反省自体が可能な研究の客観となる。反省は、本質的に相互に属する体験の種類の名称でもあり、したがって現象学の主要な一章の主題でもある。さまざまな「反省」を区別し、体系的な秩序のもとで完全に分析することが、そこでの課題である。
まず明らかにしておかねばならない。あらゆる種類の「反省」は、意識の変様という性格をもち、しかも原理的にあらゆる意識がこの変様を受けうる。
ここで変様と言うのは、反省が本質上、態度の変更から生じ、それによって、先に与えられている体験ないし体験所与(反省されていないもの)が、反省された意識の様態へと、ある種の転換を受けるからである。先に与えられた体験が、すでに何かについての反省された意識という性格をもっていてもよく、その場合、変様はより高い段階のものである。しかし最後には、まったく反省されていない体験と、その実的ないし志向的な所与にまで立ち戻る。本質法則的には、どの体験も反省的変様へと移行させることができ、しかもさまざまな方向に向かって移行させることができる。これらの方向は、のちにさらに詳しく知ることになる。
反省の本質研究は、現象学にも、心理学にも劣らず、基本的な方法論的意義をもつ。反省の概念のもとに、内在的な本質把握のあらゆる様態と、他方で内在的経験のあらゆる様態が含まれるからである。たとえば内在的知覚がそうである。それは、ほかの仕方で意識されているものから、それについての意識へと視線を転じることを前提するかぎり、事実、反省である。同様に、あらゆる想起は、自己自身への反省的な視線の転換を許すだけでなく、想起「の中での」独特の反省も許す。想起のなかでは、たとえば楽曲の経過が、反省されないまま「過ぎ去った」という様態で意識されている。このように意識されたものの本質には、それが知覚されていたことを反省する可能性が属する。期待、すなわち「来るべきもの」に対して先を見る意識にも、視線をこの来るべきものから、それが知覚されるであろうことへとそらす本質的可能性が成り立つ。これらの本質連関のゆえに、「私はAを想起する」と「私はAを知覚した」、「私はAを待ち受けている」と「私はAを知覚するだろう」という命題は、アプリオリに、また直接に等価である。ただし等価であるにすぎない。意味は異なるからである。
現象学的課題は、反省という名称のもとに入るすべての体験の変様を、それらが本質関係にあり、また前提するすべての変様との連関において、体系的に究明することである。前提とされるのは、あらゆる体験がその原的な経過のあいだに受けざるをえない本質的変様の全体と、あらゆる体験について「操作」という仕方で遂行されると観念的に考えられうる、さまざまな種類の変形である。
あらゆる体験は、それ自身において生成の流れであり、それがあるところのものであるのは、不変の本質類型をもつ根源的な産出においてである。把持と予持の絶えざる流れが、それ自身流れつつある原的であることの位相によって媒介され、その位相において体験の生きた今が、その「さっき」と「のち」に対して意識される。他方、あらゆる体験は、再生のさまざまな形式のなかにその並行物をもち、それらは根源的体験の観念的な「操作的」変形とみなせる。どの体験にも、再想起、可能な先想起、可能な単なる想像、またこうした変形の反復のなかに、「厳密に対応する」が徹頭徹尾変様した対応物がある。
もちろん、並行化されたすべての体験を、共通の本質内実をもつ体験として考える。したがって並行する体験は、同じ志向的対象性を意識しているはずであり、他の観点での可能な変化のうちに成り立ちうるすべての所与の仕方の範囲から、同一の所与の仕方で意識しているはずである。
考察に入れた変様は、どの体験にも観念的に可能な変形として属し、どの体験についても遂行されると考えられうる、いわば観念的な操作を表す。それゆえ、この変様は際限なく反復でき、変様した体験についても遂行されうる。逆に、すでにそのような変様として性格づけられている体験のどれからでも、ある根源的体験、すなわち現象学的な意味で絶対的に原的な体験を表す「印象」へと連れ戻される。こうして物の知覚は、あらゆる想起、想像による現前化などに対して、原的な体験である。知覚は、具体的体験が一般にそうでありうるかぎりで原的である。厳密に見れば、知覚はその具体性において、ただ一つの、しかも絶えず連続的に流れる絶対的に原的な位相、すなわち生きた今の契機しかもたないからである。
これらの変様は、まず反省されずに意識されている現勢的な体験に関係づけることができる。これらの第一次的な変様には、反省されて意識されたものもすべて eo ipso あずからざるをえないからである。反省されて意識されたものも、体験に向かう反省であっても、完全な具体性において捉えれば、それ自身が反省されずに意識された体験であり、そのようなものとしてあらゆる変様を受ける。たしかに反省そのものは、新種の一般的な変様である。それは、自我が自分の体験へ向かうことであり、それと一体に、コギトの作用(とくに最下層の基礎的な層、すなわち単純な表象の作用)を遂行することである。この作用「において」、自我は自分の体験へ向かう。しかし、反省が直観的な、あるいは空虚な統握ないし把握と絡み合っていることこそが、反省的変様の研究に、先に示した諸変様の研究との必然的な絡み合いを強いる。
反省的に経験する作用だけによって、われわれは体験の流れについて、またその流れが純粋自我に必然的に関係していることについて、何ごとかを知る。体験の流れとは、一つの同じ純粋自我がコギタチオンを自由に遂行する場であり、流れのすべての体験は、自我がそれらに目を向けられるか、あるいは「それらを通して」自我に疎遠な別のものに目を向けられるかぎりで、まさに自我のものである。これらの経験は、還元されたものとしても意味と権利を保つ。われわれはこれを確信し、本質の一般性という普遍的なあり方において、このような種類の経験一般の権利を把握する。これと並行して、体験一般に関係する本質直観の権利も把握する。
こうしてわれわれはたとえば、内在的に知覚する反省、すなわち端的な内在的知覚の絶対的な権利を把握する。それは、その経過のなかで現実に原的な所与性にもたらすものに即してである。同じく、内在的把持の絶対的な権利も把握する。それは、把持のなかで「なお」生きているもの、「たったいま」あったものという性格で意識されているものに関してであるが、そのように性格づけられたものの内容が及ぶかぎりでのことにすぎない。たとえば、それが色ではなく音の知覚だったという点がそうである。同じく、内在的再想起の相対的権利も把握する。この権利は、再想起の内実を個別に見たときに、本来の再想起の性格を示すかぎり及ぶ(想起されたもののあらゆる契機がそうするわけでは、一般にはまったくない)。この権利は、どの再想起においても全く同じように成り立つ。これは単に「相対的」な権利であり、それが権利であることに変わりはないにせよ、より強いものに覆されうる。
こうしてわれわれは、完全に明晰に、しかも無条件の妥当の意識のうちに、次のことを洞察する。体験が認識として確実なのは、内在的知覚という反省する意識において与えられているかぎりにおいてだけだ、と考えるのは背理だろう。ましてや、体験が確実なのはその都度の現勢的な今においてだけだ、と考えるのは背理だろう。視線を振り返ったときに「なお」意識されたものとして見いだされるもの(直接の把持)が、あったことを疑うのは誤りだろう。さらに、視線に入ってくる体験が、まさにそのことによってtoto coelo異なるものに変じてしまうのではないかと疑い続けるのも、誤りだろう。ここで肝要なのは、形式的な精密さがどれほどあっても、妥当の根源的な源泉、すなわち純粋な直覚への適合をまったく欠いている論証に、惑わされないことだけである。「原理中の原理」に忠実であり続けることである。すなわち、完全な明晰さがあらゆる真理の尺度であり、自らの所与に忠実な表現を与える言明は、どれほど美しい論証があろうとも、いっこうに気にかける必要がないということである。
§79 批判的補論 現象学と「自己観察」の困難 最近の論述から、現象学は方法論的懐疑の影響を受けないことがわかる。経験的心理学では、これと並行する懐疑が、内的経験の価値を否定したり、不当に制限したりすることにしばしば至ってきた。それにもかかわらず、近ごろH. J. ワットは、この懐疑を現象学に対しても主張できると考えた。彼は、論理学研究が導入しようと試みた純粋現象学の固有の意味を把握しておらず、純粋に現象学的な事情が経験的・心理学的な事情と異なることも見ていない。双方の困難は似ているとはいえ、違いはある。一方には、人間的な内的経験の所与を表現する定在の確認について、その射程と原理的な認識価値を問う問いがあり、これが心理学的方法の問題である。他方には、現象学的方法の問題、すなわち本質の確認の原理的な可能性と射程を問う問いがある。この確認は、純粋な反省を基盤として、体験を、自然統覚から自由な体験自身の本質に即して扱うはずのものである。両者のあいだには内的な関係があり、かなりの程度で一致さえあるから、ワットの異論、とくに次のような文に配慮することは正当である。
「人はそもそも、直接的な体験の認識にどのようにして至るのかについて、推測を立てることさえほとんどできない。というのも、それは知でも知の対象でもなく、何か別のものだからである。体験することを体験することについての報告が、たとえそれがあるとしても、どのようにして紙の上に記されるのかは、洞察できない」。「しかし、これがとにかく自己観察という根本問題の最後の問いである」。「こんにち、この絶対的な記述は現象学と呼ばれている」。
Th. リップスの叙述を紹介しながら、ワットはさらに述べる。「自己観察の対象の知られた現実には、現在の自我と現在の意識体験の現実が対置される。この現実は体験されている[つまり単に体験されているのであって、「知られて」いる、すなわち反省的に把握されているのではない]。まさにそれゆえ、この現実は絶対的な現実である」。「この絶対的な現実を何に役立てうるかについては、きわめて異なる意見がありうるだろう」。彼はさらに続ける。「……ここで問題になるのも、おそらくは自己観察の成果だけである。さて、この回顧的な考察がつねに、まさに持たれた体験を対象として知ることであるなら、知ることのできない、ただ意識されているだけの状態を、どうして立てるべきなのか。この議論全体の重要性は、まさにこの点、すなわち、知ではない直接的な体験という概念の導出にかかっている。観察はできなければならない。体験は結局だれもがしている。ただ、そのことを知らないだけである。また、仮に知っていたとしても、自分の体験が本当に絶対的に、自分が思い描くとおりのものだと、どうして知りえようか。現象学は、だれの頭から出来上がったまま生に飛び出してよいというのか。現象学は可能なのか、可能だとすればどのような意味においてか。これらすべての問いが迫ってくる。おそらく、実験心理学の側から自己観察の問題を論じれば、この領域に新しい光が投げかけられるだろう。現象学の問題は、実験心理学にとっても必然的に生じる問題だからである。おそらく実験心理学の答えのほうが、より慎重なものになるだろう。それには現象学の発見者の熱意がないからである。いずれにせよ実験心理学は、それ自身の側から、より帰納的な方法に頼らざるをえない」。
この最後の数行は、帰納的方法の全能に対する敬虔な信仰を語っている。ワットがこの方法の可能性の条件を考えるなら、その信仰をほとんど保てないだろう。それだけに、「機能的に分解する心理学は知の事実を決して説明できないだろう」という告白には驚かされる。
現在の心理学に特徴的なこれらの発言に対しては、それらが心理学的な意図で述べられているかぎり、まず先に挙げた心理学的な問いと現象学的な問いの区別を持ち出さなければならない。現象学的な本質論は、現象学者が自分の現象学的確認の基礎として役立つ体験の現存を確かめるための方法に、関心を向ける必要がない。幾何学が、黒板上の図形や戸棚のなかの模型の現存をどう方法的に確保するかに関心を向ける必要がないのと同じである。純粋な本質の学問である幾何学と現象学は、実在的な現存についての確認を知らない。まさにこのことと関連して、両者にとっては、明晰な虚構が提供する基礎は、現勢的な知覚と経験の所与に劣らず良いだけでなく、広い範囲ではそれよりも良い。
現象学は体験についての定在の確認を行う必要がなく、したがって、事実学が依拠せざるをえない自然的な意味での「経験」や「観察」を行う必要もない。それでも現象学は、その可能性の原理的な条件として、反省されていない体験について本質の確認を行う。ところが、この確認は反省に、詳しくは反省的な本質直覚に負っている。それゆえ、自己観察への懐疑的な疑念は、この疑念が内在的に経験する反省からあらゆる反省一般へと容易に拡張されうるかぎり、現象学にも関わってくる。
実際、「体験することを体験することについての報告が、たとえそれがあるとしても、どのようにして紙の上に記されるのかが、洞察できない」のだとすれば、現象学は何になるというのか。「知られた」反省的な体験の本質については言明してよいが、体験一般の本質については言明できないのだとすれば、現象学は何になるというのか。たしかに、現象学者は、自分のイデーションの例示として念頭に浮かぶ体験について、定在の確認を行う必要はないかもしれない。だが、現象学者がイデーションで見て取るのは、そのつど例としてまさに目の前にあるものの理念だけではないか、と異議を唱えることもできよう。視線が体験に向けられるやいなや、体験ははじめて、いま現象学者に現れているとおりのものになる。視線をそらせば、体験は別のものになる。把握された本質は、反省された体験の本質にすぎない。反省によって、反省された体験であれ反省されていない体験であれ、体験一般に妥当する絶対的に有効な認識を得られるという見解には、まったく根拠がない。たとえ本質可能性としてであれ、「知ることのできない状態を、どうして立てることができようか」。
この異議は明らかにあらゆる種類の反省に当てはまる。それでも現象学では、どの反省も絶対的な認識の源泉として通用しようとする。想像のなかで、私の念頭に一つの物が、たとえケンタウロスであっても、浮かぶ。私は、それがある種の「現出の仕方」、「感覚の射映」、統握などにおいて呈示されると、知っているつもりである。そこで私は、本質洞察、すなわち、そのような対象は一般に、そうした現出の仕方においてのみ、そうした射映の機能と、ここでほかに何か役割を果たしうるものとによってのみ、直観されうるという洞察を、もっているつもりである。しかし、ケンタウロスを視野にとらえているとき、私はその現出の仕方や射映するデータ、統握を視野にとらえてはいない。またその本質を把握しているとき、それらとその本質を把握してはいない。そのためには、ある種の反省的な視線の転換が必要であり、それは体験全体を流動させ変様させる。こうして私は、新たなイデーションにおいて新たなものを目の前にしており、反省されていない体験の本質成分を得たとは主張できない。また、物が物そのものとして「現出」において呈示されること、すなわち、感覚与件によって射映し、その感覚与件がそれ自身また統握を受けることが、物の本質に属する、とも主張できない。
この困難は明らかに、志向的体験の「意味」に関する意識分析にも及ぶ。すなわち、思念されたもの、志向的に対象的なもの自体、言明の意味など、これらに属するいっさいに関する分析である。これらもまた、独特な向きをとる反省の内部での分析だからである。ワット自身はさらに踏み込んで言う。「心理学は、自己観察によって、記述されるべき体験の対象的関係が変化することを、明らかにしなければならない。おそらくこの変化は、人が信じがちであるよりも、はるかに大きな重要性をもっている」。ワットが正しいなら、自己観察において、いましがたこの本に注意を向けていたし、いまもなお向けていると確認するとき、われわれは言いすぎたことになる。それは、せいぜい反省の前にしか成り立たなかった。反省は、ここで「記述されるべき体験」である注意の体験を変えてしまう。しかもワットによれば、対象的関係の点でそうである。
あらゆる真正の懐疑論は、どのような種類や方向のものであれ、原理的な背理によってそれと知られる。懐疑論は、その論証のなかで暗黙のうちに、論証が妥当するための可能性の条件として、自らの主張が否定しているまさにそのものを前提している。ここで問題の論証にもこの特徴が当てはまることは、難なく確信できる。「私は反省の認識上の意義を疑う」とただ言うだけの者でも、疑いについて言明しつつ反省しているのだから、背理を主張している。この言明が妥当するには、当面の場合について、反省が、疑われている認識価値を現実にそして疑いなくもっていること、反省が対象的関係を変えないこと、反省されていない体験が反省へと移行するときにその本質を失わないことが、前提となる。
さらに、これらの論証では、反省が一つの事実として、また反省が引き起こす、あるいは引き起こしうる過ちとともに、絶えず語られている。それとともに当然、「知られていない」反省されていない体験についても、やはり事実として、すなわち反省された体験がそこから生じてくるものとして語られている。こうして、反省されていない体験について、そのなかには反省されていない反省も含めて、知が絶えず前提とされている。同時に、その知の可能性は疑問に付されている。反省されていない体験の内容と反省の働きについて、何かを確認する可能性が疑われているからである。すなわち、反省が根源的な体験をどこまで変えるのか、体験をいわば全く別のものへと歪めてしまわないか、という疑いである。
しかし明らかに、この疑いと、そこで立てられた可能性が正当だとすれば、反省されていない体験と反省が一般に存在し、また存在しうるという確実性のための権利の根拠は、少しも残らなくなる。さらに、絶えず前提とされていたこの後者が知られうるのは反省によってのみであり、直接的な知としては反省的な与える直観によってのみ基礎づけられうる。同じことは、反省によって後から生じる変様の現実ないし可能性を主張する場合にも言える。そのようなものが直観によって与えられているなら、それは直観の内実のなかで与えられている。したがって、ここには認識できるものが何もない、すなわち、反省されていない体験の内実についても、それが受ける変様の種類についても何もない、と主張するのは背理である。
これで背理を明らかにするには十分である。ここでも至るところと同様に、懐疑は、言葉の上の論証から、本質直覚へ、原的に与える直観とそれ固有の権利へと立ち返ることによって、力を失う。すべては、人がこの直覚を現に遂行し、問題となっているものを真正な本質の明晰さの光のもとに引き上げることを、自分に課すことができるかどうかにかかっている。ないし、前節で試みた叙述を、それが遂行され提示されたとおりに、直観的に受け取ることができるかどうかにかかっている。
反省の現象は、純粋で、場合によっては完全に明晰な所与の圏域である。対象的に与えられたものそのものから、それを与える意識とその主観へと反省できる。すなわち、知覚されたもの、有体的に「そこに」あるものから知覚することへ、想起されたもの、「あったもの」として「念頭に浮かぶ」かぎりの想起されたものから想起することへ、言明から、その経過しつつ与えられていることにおいて、言明することへ、などと反省できる。これは直接的であるがゆえに、いつでも達成できる本質洞察である。その際、知覚することは、この知覚されたものの知覚することとして、そのつどの意識は、そのつど意識されているものの意識として、所与となる。本質上、したがって単に偶然的な理由からではなく、たとえば単に「われわれにとって」とか、われわれの偶然的な「心理物理的構成」のゆえにでもなく、この種の反省によってのみ、意識や意識内容(実的な意味でも志向的な意味でも)は認識可能である。このことは明証的である。したがって神でさえも、この絶対的で洞察的な必然性に縛られている。2 + 1 = 1 + 2であるという洞察に縛られているのと同様である。神もまた、自分の意識と意識内容の認識を、反省によってのみ得ることができるだろう。
このことによって同時に、反省は完全な認識という理想といかなる二律背反的な争いにも巻き込まれえないことが言われている。あらゆる存在の種類は、すでに何度も強調したように、本質上それ固有の所与の仕方と、それ固有の認識方法の仕方をもつ。その本質的な固有性を欠陥として扱うのは背理であり、「われわれ人間の」認識の偶然的・事実的な欠陥のようにみなすのは、なおさら背理である。これとは別の問いが、問題の認識の可能な「射程」についての問いである。これも本質洞察において考量されるべきものであり、そのつど現実に与えられ形相的に捉えられるものを越える言明を、どのように避けるべきかが問われる。さらにまた別の問いが、経験的方法論の問い、すなわち、われわれ人間が、たとえば心理学者として、与えられた心理物理的な事情のもとで、人間の認識にできるだけ高い品位を与えるために、どのように進めるべきかという問いである。
なお強調しておく。洞察(明証ないし直覚)にわれわれが繰り返し立ち返るのは、ここでも至るところでも空虚な文句ではない。それは、導入の篇の意味で、あらゆる認識において究極的なものへ遡ることを意味し、最も原始的な論理学的・算術的公理について洞察を語る場合とまったく同じである。意識の圏域に与えられたものを洞察的に捉えることを学んだ者は、すでに引用した「直接的な体験の認識にどのようにして至るのか推測を立てることができない」といった文を、驚きをもってしか読めないだろう。この文から読み取れるのは、近代心理学にとって内在的な本質分析がいまなおいかに縁遠いかということだけである。だがこの分析こそ、あらゆる内在的な心理学的記述において規定的に働くべき概念を確定するための、唯一可能な方法なのである。
この反省の問題を論じるなかで、現象学と心理学との内密な連関がとりわけ感じ取られる。体験の種類に関するあらゆる本質記述は、可能な経験的定在に対する無条件に妥当する規範を表現している。心理学的方法そのものにとって構成的な体験の種類も、内的経験のあらゆる様態も、当然これに含まれる。したがって現象学は、心理学の方法論上の根本問題についての審級である。現象学が一般的に確定したことを、心理学者は、自らのあらゆる以後の方法論が可能となる条件として承認し、場合によってはそれを援用しなければならない。これに抵触するものは、原理的な心理学的背理の特徴を示す。それは、物理的圏域において、幾何学的真理や自然一般の存在論の真理に反するあらゆる抵触が、原理的な自然科学的背理の特徴であるのとまったく同じである。
このような原理的背理は、自己観察の可能性への懐疑的な疑念を、実験心理学の道を進む心理学的帰納によって克服しようとする希望のうちにも表れている。これは、物理的な自然認識の領域で、どの知覚も個々に取れば実際に欺きうるのだから、外的知覚はすべて結局は欺くのではないかという並行する懐疑を、実験物理学によって克服しようとする場合と、まったく同じ事情である。実験物理学は、一歩ごとに外的知覚の権利を前提しているのである。
ここで一般的に述べたことは、以後のすべての論述、とりわけ反省的な本質洞察の外延についての解明によって、説得力を増すはずである。ここで触れた現象学(ないし、ここではまだ現象学から区別しておらず、いずれにせよ現象学と内密に結びついた形相的心理学)と経験科学的心理学との関係は、これに属する深い問題のすべてとともに、本書の第二巻で解明されるはずである。私は確信している。遠くない将来に、事象内実をもつ数学的諸分野(たとえば幾何学や運動学)が物理学の基礎であるのと同じ意味で、現象学(ないし形相的心理学)が経験的心理学にとって方法論上の基礎をなす学問であるという確信が、共有財産となるであろう。
古い存在論の教説、すなわち「可能性」の認識は「現実」の認識に先行しなければならないという教説は、私の考えでは、正しく理解され、正しい仕方で役立てられるならば、大きな真理である。
§80 体験の純粋自我への関係 超越論的に純化された体験領域の一般的な本質的特性のうちで、第一の位置を占めるべきは、あらゆる体験が「純粋」自我へ関係することである。あらゆる「コギト」、すなわち際立った意味でのあらゆる作用は、自我の作用として性格づけられ、「自我から発出し」、自我はその作用のなかで「現勢的に」「生きている」。この点はすでに述べたので、先に論じたことを数文で想起しておく。
観察しながら、私は何かを知覚する。同様に想起のなかで、私はしばしば何かに「従事して」いる。虚構する想像のなかでは、いわば観察するようにして、想像された世界のなかの営みを追う。あるいは私は思考し、推論を行い、判断を撤回する。場合によっては、判断そのものを「控える」こともある。気に入ること、あるいは気に入らないことを遂行し、喜び、あるいは悲しみ、願い、あるいは意志し行為する。あるいはまた、喜びや願望、意志や行為を「控える」。このようなすべての作用において、私はそこに居合わせており、現勢的に居合わせている。その際、反省しつつ、私は自分を人間として統握する。
だが私が現象学的エポケーを遂行すれば、自然的定立の世界全体と同じく「人間である私」も遮断に付され、そのとき、純粋な作用体験が、それ自身の本質をともなって残る。しかし私は、この体験を人間の体験として統握することが、定在の定立を別にしても、必ずしも付随しなくてよい種々のものを持ち込むことにも気づく。他方で、どんな遮断も、コギトの形式を廃棄して作用の「純粋」主観を消し去ることはできないことにも気づく。「向かうこと」、「従事すること」、「立場を取ること」、「経験すること、被ること」は、「自我からそこへ」向かうか、逆向きの方向線では「自我へ向かって」くるものであることを、その本質のうちに必然的に含んでいる。この自我は純粋自我であり、いかなる還元もこれを損なえない。
われわれはこれまで、「コギト」という特殊な類型の体験について語ってきた。自我の現勢性にとって一般的な環境をなすそれ以外の体験は、たしかに、いま論じた際立った自我関係を欠いている。それでもそれらも純粋自我に関与しており、純粋自我もそれらに関与している。それらは「自我のもの」として自我に「属し」、自我の意識の背景、自我の自由の場である。
自我のこうした独特な絡み合いが、「自らの」あらゆる体験とのあいだにあるにもかかわらず、体験する自我は、それだけで取り出して、固有の探究対象にできるようなものではない。自我の「関係の仕方」ないし「振る舞いの仕方」を除けば、自我は本質成分をまったく欠いており、解明できる内容をもたない。自我はそれ自体で記述不可能であり、純粋自我であって、それ以上の何ものでもない。
それでも、重要な記述が多様に成り立つ機縁はある。それは、自我がそのつど体験の種類ないし体験の様態において体験する自我である、その特殊な仕方に関してである。その際、体験そのものと、体験することの純粋自我とは、必然的に相互に関係し合うにもかかわらず、つねに区別される。さらに、体験の仕方の純粋に主観的なものと、体験の残りの、いわば自我に背を向けた内容とが区別される。したがって体験圏域の本質には、ある種の、きわめて重要な二面性がある。これを、体験には主観に方向づけられた側面と客観に方向づけられた側面とが区別されねばならない、と言い表すこともできる。この言い方は、体験の場合によっては「対象」が、体験において純粋自我に類比的な何かであるとわれわれが教えているかのように、誤解されてはならない。それでも、この言い方は正当化されるであろう。この二面性には、少なくとも相当の範囲で、探究の区分(現実の分離ではないが)が対応する。すなわち、一方は純粋な主観性に方向づけられ、他方は主観性にとっての客観性の「構成」に属するものに方向づけられている。われわれは、体験が対象へ向かう「志向的関係」と、それに関連する種々の体験成分と「志向的相関者」について、多くを語らねばならない。しかしこれらは、包括的な探究において、純粋自我とその関与の仕方に深く立ち入ることなく、分析的にも総合的にも探究し記述できる。もっとも、自我は必然的に居合わせるものである以上、しばしば触れざるをえない。
本篇でこれから遂行しようと考えている省察は、主として、客観に方向づけられた側面に向けられるべきである。自然的態度から出発するとき、この側面がまず現れるからである。この篇の導入の節で示唆した問題も、すでにこの側面を指し示している。
§81 現象学的時間と時間意識 現象学的時間は、あらゆる体験の一般的な特性として、独自の考察を要する。
現象学的時間、すなわち(一つの純粋自我の)一つの体験の流れのなかにあるあらゆる体験の統一的な形式を、「客観的」時間、すなわち宇宙的時間と、十分に注意して区別しなければならない。
還元によって、意識は、物質的実在への統握的な「結びつき」(これはもちろん比喩である)を失い、二次的にではあれ空間に取り込まれていることも失った。それだけでなく、宇宙的時間への組み入れも失った。体験に本質上属する時間は、今・以前・以後という所与性の様態をもち、またそれらによって様相的に規定される同時や継起などをもつ。この時間は、いかなる太陽の位置によっても、いかなる時計によっても、いかなる物理的手段によっても測定できず、そもそも測定できない。
宇宙的時間は現象学的時間に対して、ある意味で次のような類比の関係にある。具体的な感覚内容(たとえば視覚的感覚与件の場における視覚的な感覚内容)の内在的な本質に属する「広がり」は、客観的な空間的「延長」に対して関係する。この延長とは、現れ、この感覚与件において視覚的に「射映する」物理的対象の延長である。色や広がりのような感覚契機を、それによって射映する物的契機、すなわち物の色や物的延長と同じ本質類のもとに置くのは、背理であろう。現象学的な時間的なものと世界時間的なものについても、同じことが言える。体験とその体験契機のなかで、超越的時間が現出に即して呈示されることはありうる。しかし原理的に、ここでも他の場合と同様に、呈示するものと呈示されるものとのあいだに模像的な類似を想定することは、意味をもたない。そうした類似は、類似として本質の一致を前提とするからである。
そのほか、宇宙的時間が現象学的時間のなかで自らを示す仕方が、世界の他の事象的な本質契機が現象学的に呈示される仕方とまったく同じだ、と言おうとしているわけではない。色やそれ以外の感性的な物の性質が、感覚野の対応する感覚与件のなかで自らを呈示することは、本質的に種類が異なる。物的な空間形態が感覚与件の内部の広がりの形式のなかで射映することも、また別の種類である。しかし、上に述べたことには、どの場合にも共通性がある。
ところで時間は、後続の探究から明らかになるように、まったく閉じた問題圏域の名称であり、しかも格別に困難な問題圏域の名称である。これまでの叙述が、ある意味で一つの次元全体を黙したままにしていたこと、またそうせざるをえなかったことが示されるであろう。それは、さしあたり現象学的態度においてのみ見えるものを混乱させずに保つためであり、また、この新しい次元を顧みないでいるかぎり、閉じた探究領域をなすものを保つためである。還元によって取り出した超越論的「絶対者」は、実のところ最終のものではない。それは、ある深く潜んだまったく独特な意味で自らを構成するものであり、その根源を、究極の真に絶対的なものにもっている。
幸いにも、時間意識の謎は、準備的な分析のなかでは、その厳密さを損なうことなく、棚上げにしておける。次の諸文では、ごく軽く触れるにとどめる。
時間性という名称が体験一般について表している本質的特性は、個々のあらゆる体験に一般的に属するものを示すだけではない。それは、体験を体験と結びつける必然的な形式でもある。あらゆる現実の体験は、体験の現実についての明晰な直覚に基づいて明証をもって言えるように、必然的に持続するものであり、この持続によって、終わりのない持続の連続体、すなわち充実した連続体に組み入れられる。体験は、あらゆる側に無限な、充実した時間地平をもつ。これは同時に、その体験が一つの無限な「体験の流れ」に属するということでもある。個々の体験は、たとえば喜びの体験のように、始まることも終わることもでき、それによって持続を閉じることができる。しかし体験の流れは、始まることも終わることもできない。あらゆる体験は、時間的存在として、その純粋自我の体験である。したがって、自我がこの体験に純粋な自我の眼差しを向け、その体験を現実に存在するものとして、ないし現象学的時間のなかで持続するものとして把握する可能性が、必然的に属する。この可能性は、われわれが知っているとおり、空虚な論理的可能性ではない。
他方で、事情の本質には、自我が時間的な所与の仕方に眼差しを向けて、次のことを明証をもって認識する可能性が属する。記述されたことを直覚のなかで追体験する者は、だれもが実際にこの明証を得る。すなわち、持続する体験は、所与の様態の連続的な流れのなかで、経過ないし持続の統一的なものとして構成されるのでなければ、可能でない。さらに、時間的体験についてのこの所与の仕方は、新しい種類と次元のものではあるが、それ自身ふたたび体験である。たとえば、始まり、終わり、そのあいだ持続する喜びを、私はまず、純粋な眼差しのうちにそれ自体としてもつことができる。私はその時間的な位相とともに進む。しかし私は、その所与の仕方にも注意を向けることができる。すなわち、「今」のそのつどの様態に注意し、またこの今に、そして原理的にあらゆる今に、必然的な連続性において新たな今が、絶えず接続することに注意を向ける。それと一体となって、あらゆる現勢的な今が「いましがた」へと変わり、その「いましがた」がふたたび連続的に、いましがたのいましがたという、つねに新たな「いましがた」へと変わることにも注意を向ける。新たに接続されたどの今についても同様である。
現勢的な今は必然的に点的なものであり、つねに点的なものにとどまる。それはつねに新たな素材に対する持続する形式である。「いましがた」の連続性も同様で、つねに新たな内容をもつ形式の連続性である。これは同時に、持続する喜びの体験が、不変の形式をもつ意識連続体のなかで、「意識に即して」与えられるということである。その形式とは、把持の連続性の限界位相としての一つの印象位相である。これらの把持は等位に並ぶものではなく、連続的に志向的に相互に関係づけられるべきものであり、把持の把持の連続的な入れ子をなす。形式はつねに新たな内容を得る。したがって、体験の今が与えられる印象のどれにも、持続の連続的に新たな点に対応する新たな印象が連続的に「接続する」。印象は連続的に把持へと変わり、この把持は連続的に変様した把持へと変わる、というように続く。
これに加えて、連続的な変化の逆方向がある。以前には以後が対応し、把持の連続体には予持の連続体が対応する。
§82 続き 三重の体験地平、同時に体験の反省の地平として ここでわれわれは、さらに多くのことを認識する。あらゆる体験の今は、新たに現れる体験の開始位相の今であっても、必然的にその以前の地平をもつ。しかし、この以前は原理的に、内容を欠いた空虚な形式、つまり無意味なものではありえない。それは必然的に、過ぎ去った今という意義をもち、この形式において、過ぎ去ったあるもの、過ぎ去った体験を含む。新たに始まるどの体験にも、必然的に体験が時間的に先行しており、体験の過去は連続的に充実している。しかしあらゆる体験の今は、その必然的な以後の地平ももち、これも空虚な地平ではない。あらゆる体験の今は、終わろうとする体験の持続の終端位相の今であっても、必然的に新たな今へと変わり、その今は必然的に充実したものである。
これについては次のようにも言える。今の意識には、必然的に、いましがた過ぎ去ったものの意識が結びつく。この意識自身がふたたび一つの今である。いかなる体験も、終わることと終わってしまったことの意識なしには終わりえず、この意識は新たな充実した今である。体験の流れは無限の統一であり、流れの形式は、一つの純粋自我のあらゆる体験を必然的に包括する形式であって、種々の形式の体系をもつ。
これらの洞察をさらに詳しく形づくることと、その大きな形而上学的帰結を論証することは、予告した将来の叙述のために留保しておく。
いま扱った、反省的(内在的)知覚の可能な所与としての体験の一般的な特性は、いっそう包括的な特性の構成部分である。この包括的な特性は、本質法則のうちに言い表される。その法則とは、あらゆる体験が、時間的な継起の観点から、本質的にそれ自身で閉じた体験連関のなかにあるだけでなく、同時性の観点からもそうである、というものである。あらゆる体験の今は、やはり「今」という原的性の形式をもつ体験の地平をもち、それらの体験はそのようなものとして、純粋自我の一つの原的性の地平、つまり自我の原的な意識の今の全体をなす。
この地平は統一的に過去の様態へと入っていく。あらゆる以前は、変様した今として、注視されたどの体験にも、すなわちその体験の以前であるものにも、終わりのない地平を含意している。この地平は、同じ変様した今に属するすべてを包括し、要するに、その体験の「同時に存在した」の地平である。したがって、先に与えた記述は新たな次元で補わなければならない。そうして初めて、純粋自我の現象学的時間野の全体を得る。自我はこれを、「自分の」任意の体験から、以前・以後・同時という三つの次元に従って踏破できる。あるいは、時間的体験統一の、全体の、その本質上統一的な、それ自体で厳密に閉じた流れを得る。
一つの純粋自我と、三つの次元すべてにわたって充実し、この充実において本質的に連関し、その内容的連続性において自らを要求する一つの体験の流れとは、必然的な相関者である。
§83 統一的な体験の流れを「理念」として把握すること この意識の根源形式には、本質法則に従って、次のことが関係している。
純粋な自我の眼差しが、反省しつつ、しかも知覚的に把握しつつ、何らかの体験に当たるとき、この連関が届くかぎり、眼差しをほかの体験へ向け変えるアプリオリな可能性が成り立つ。しかし原理的に、この全体の連関は、決して、単一の純粋な眼差しによって与えられたもの、あるいは与えられうるものではない。それでもこの連関も、原理的に種類は異なるものの、直観的に把握できる。それは、内在的直観の「進行における際限のなさ」という仕方、つまり固定された体験から、その体験地平の新たな体験へ、さらにそれらの固定から、それらの地平の体験の固定へ、というように進む仕方である。ただし、ここで体験地平と言うとき、それは、記述した次元に従った現象学的時間性の地平を意味するだけでなく、新しい種類の所与性の様態の相違をも意味する。これに従えば、自我の眼差しの対象となった体験、したがって眼差されたものという様態をもつ体験は、眼差されていない体験の地平をもつ。「注意」の様態において、場合によっては明晰さを増しつつ把握されたものは、明晰と暗さ、また際立つことと際立たないことの相対的な相違をともなう、背景的な不注意の地平をもつ。ここに形相的可能性が根ざしている。眼差されていないものを純粋な眼差しにもたらすこと、ついでに気づかれたものを第一次的に気づかれたものにすること、際立たないものを際立つものにすること、暗いものを明晰に、さらにいっそう明晰にすることである。
続く把握から把握への連続的な進行のなかで、われわれはある意味で統一としての体験の流れをも把握する。それを単称的な体験のようにではなく、カント的意味での理念という仕方で把握する。それは、当てずっぽうに措定され主張されたものではなく、絶対に疑いなく与えられたものである。ただしそれは、所与性という語の相応に広い意味においてである。この疑いのなさは、直覚に基づいてはいるが、内在的知覚において純粋な所与性に至る体験の存在に成り立つ疑いのなさとは、まったく別の源泉をもつ。これがカント的「理念」を見て取るイデーションに固有なことである。そのイデーションは、その内容、ここでは体験の流れについての十全的な規定が到達不可能だからといって、洞察性を失わない。同時にわれわれは、体験の流れとその成分そのものに、区別できる一連の所与性の様態が属することを見る。その系統的な探究は、一般現象学の主要課題をなさねばならないであろう。
われわれの考察から、形相的に妥当で明証的な命題を引き出すこともできる。それは、いかなる具体的体験も、完全な意味で自立したものとはみなされえないという命題である。どの体験も、その種類と形式に従って任意ではなく拘束された連関に関して、「補完を必要とする」。
たとえば、何らかの外的知覚、いまこの特定の家の知覚を、具体的な充実においてとってみよう。その知覚には、必然的な規定部分として、体験の周囲が属する。しかしそれは固有の、必然的でありながら「本質外的」な規定部分である。すなわち、その変化が体験の固有の本質内実を何も変えないような規定部分である。したがって、周囲の規定性が変化するのに応じて、知覚そのものが変化する。他方、知覚という類の最下位の差異、すなわちその内的な固有性は、同一であると考えることができる。
この固有性において本質的に同一な二つの知覚が、周囲の規定性に関しても同一であることは、原理的に不可能である。もしそうであれば、両者は個体的に一つの知覚になってしまうだろう。
いずれにせよ、このことは、一つの体験の流れに属する二つの知覚、したがって一般に二つの体験に関して、洞察にもたらすことができる。どの体験も、ほかの体験の(明るい、あるいは暗い)暈に影響を及ぼす。
さらに立ち入って考察すれば、二つの体験の流れ(二つの純粋自我にとっての意識の圏域)は、本質内容が同一であることは考えられないと分かるだろう。これまでの論述からすでに見て取れるように、一方の完全に規定された体験が他方に属することも決してありえない。両者に共通でありうるのは、内的な種類が同一の体験だけであり(ただし個体として同一のまま共通するわけではない)、そのうえ絶対に同じ「暈」をもつ二つの体験が共通することは決してない。
§84 現象学の主要主題としての志向性 われわれはここで体験の一つの特性に移る。それは、「客観的」に方向づけられた現象学の一般主題とまさに呼べるもの、すなわち志向性である。志向性は体験の圏域一般の本質的な特性であり、あらゆる体験が何らかの仕方でこれにあずかる。もっとも、どの体験についても同じ意味で志向性をもつと言えるわけではない。可能な反省の視野に対象として入るどの体験についても、抽象的な体験契機であっても時間的であると言えるのとは、事情が異なる。意識を際立った意味で特徴づけるのも、体験の流れ全体を意識の流れと呼び、一つの意識の統一と呼ぶことを正当化するのも、志向性である。
第二篇での意識一般の準備的な本質分析で、われわれはすでに、志向性一般と「作用」「コギタチオ」の特別な位置について、最も一般的な規定を取り出した。これは現象学の入口の手前で、還元の方法によって現象学を獲得するという目的のために行ったものである。われわれはその後もこれらの規定を用いてきたが、そうしてよかった。根源的な分析は、まだ現象学的還元の明示的な規範のもとで遂行されたわけではない。だが体験の純粋な固有本質に関わるので、心理学的統覚と存在措定の遮断によって影響を受けることはありえなかったからである。いま問題なのは、志向性を、現象学的構造の全面にわたって通じる包括的な名称として論じることである。また、これらの構造に本質的に関係する問題設定を、一般的な序論で可能なかぎり素描することである。そこで先に述べたことを、いまの異なる方向の目標に必要な形で要約し直す。
志向性とは、体験が「何かについての意識である」という固有性である。理性論的な謎も形而上学的な謎も、この驚くべき固有性へ遡る。それはまず、明示的なコギトにおいてわれわれに現れた。知覚することは物の知覚であり、判断することは事態の判断、評価することは価値事態の評価、願うことは願望事態の願望である。現勢的なコギトでは、純粋自我から放射する「視線」が、そのつどの意識相関者の「対象」、すなわち物や事態などに向かい、その対象についての、きわめて多様な意識を遂行する。ところが現象学的反省が教えたのは、あらゆる体験に、表象する、思考する、評価するという自我の向け変えがあるわけではない、ということだった。向け変えとは、現勢的に相関対象に関わり、それに向けられている(あるいは対象から離れていても、なお視線はそれに向けている)ことである。それでも、そうした体験は志向性を宿しうる。コギト的に知覚された対象は、自我の向け変えという際立たせる働きを受けることで背景から浮かび上がるが、その対象的な背景も体験の上で実際に対象的である。一つの対象にコギトという様態で向かっているあいだにも、多くの対象が「現出」し、直観的に「意識されて」おり、対象野という統一へと流れ合う。この対象野は潜勢的な知覚野であり、そこに現れるどの対象にも特別な知覚(気づくコギト)が向かいうる。それは、体験の上で現にある感覚の射映、たとえば視覚的感覚野の統一のなかに広がるものが、対象的な統握を欠き、視線を向けてはじめて直観的な現れが構成される、という意味ではない。
ここにはさらに、現勢性の背景の体験も属する。気に入ること、判断、願望の「動き」であり、背景からの隔たりの程度はさまざまである。この隔たりは、自我からの遠さと近さとも呼べる。そのつどのコギタチオに生きる現勢的な純粋自我が、関係の基点だからである。気に入ること、願うこと、判断することなどは、特有の意味で「遂行され」うる。つまり、自我がその遂行において「生き生きと活動する」(あるいは悲しみの「遂行」のように、現勢的に「苦しむ」)場合である。しかし、そうした意識の仕方がすでに背景に「動き」として現れながら、「遂行され」ていない場合もありうる。それでも、これらの潜勢性は、固有の本質からしてすでに「何かについての意識」である。したがって、コギトに特有のもの、すなわち「視線を向けること」、自我の向け変えを、われわれは志向性の本質に含めなかった。自我の向け変えは、なお何通りにも理解でき、現象学的に探究すべきものである。コギト的なものは、志向性と呼ぶ一般的なものの特別な様態だった。
論理学研究では、この一般的なものを「作用性格」、この性格をもつ個々の具体的な体験を「作用」と呼んだ。作用概念はたえず誤解されてきた。そのため私は、用語の範囲をもう少し慎重に画定し、作用という表現と志向的体験という表現を、用心なしに等価なものとして用いることをやめた。のちに明らかになるように、最初にとった作用概念は絶対に不可欠である。しかし、遂行された作用と遂行されていない作用との様態上の違いを、たえず考慮しなければならない。付加語なしに作用と言うときは、本来の作用、いわば現勢的で遂行された作用だけを指す。
始まりの段階にある現象学では、すべての概念ないし名辞が、ある意味で流動したままでなければならない。意識の分析が進み、最初は区別のない統一のうちに見て取られていたものの内部に新たな現象学的な層が認識されるにつれて、概念は分化する用意をしていなければならない。選ばれた名辞はどれも連関への傾向をもち、関係の方向を指し示す。だがその方向の源泉が一つの本質層にとどまらないことが、あとでしばしば明らかになる。このとき、用語法をもっと限定するか、修正したほうがよいことも明らかになる。したがって最終的な用語法を期待できるのは、学問がきわめて進んだ発展段階に達してからである。始まりの学問的叙述に、用語法の論理学という外面的で形式的な尺度を当て、最終的な成果にふさわしい用語法を要求することは、誤解を招き、根本的に誤っている。始まりでは、どの表現もよい。とりわけ、適切に選ばれた比喩は、明晰に把握できる現象学的な出来事へ視線を向けさせる。明晰さは、ある種の未規定な暈を排除しない。この暈をさらに規定し、明らかにすることが、これからの課題である。もう一つの課題は、比較や連関の変更のなかで遂行する内的分析、すなわち成分ないし層への分解である。ところが、直観的な指示に満足せず、厳密学のような「定義」を要求する人々がいる。また、わずかな粗い例示的分析から得た現象学的概念を、非直観的な学問的思考のなかで自由に操作すれば、現象学を促進できると信じる人々もいる。こうした人々はなお初心者にとどまり、現象学の本質も、現象学が原理的に要求する方法論も把握していない。
以上は、経験的に方向づけられた心理学的現象学にも、同じく当てはまる。これは、内在的で本質的なものに結びつく、心理学的現象の記述という意味での現象学である。
志向性の概念は、未規定な広がりのままに捉えるなら、現象学の始まりに不可欠な出発点の概念であり、根本概念である。それが指す一般的なものは、立ち入って研究する前はまだ漠然としているかもしれない。本質的に異なる非常に多くの形態をとって現れるかもしれない。純粋な志向性の本質とは何か、具体的な形態のどの成分が志向性を担い、どの成分が志向性にとって内的に異質なのか。これを厳密で明晰な分析によって取り出すことは、どれほど困難かもしれない。それでもなお、体験を志向的と認識し、何ものかについての意識と言明するとき、体験は一定の、きわめて重要な観点から考察されている。これは具体的な体験にも、抽象的な体験層にも成り立つ。そうした層もまた、問題の特性を示しうるからである。
§85 感覚的なὕλη、志向的なμορφή 志向性は、謎に満ちた形式や段階を別にしても、普遍的な媒体に似ている。体験の流れを意識の一つの統一と呼んだとき、われわれはすでにこれを示唆した。この媒体は結局すべての体験を、志向的と特徴づけられていない体験さえも、自らのうちに担う。われわれは当面、ある考察の段階に拘束されている。この段階では、体験時間性をすべて構成する最終的な意識の暗い深みへは降りず、体験を、内在的反省において統一的な時間的経過として示されるとおりに受け取る。ここでは、二つを原理的に区別しなければならない。第一は、論理学研究で「一次的内容」と呼ばれていたすべての体験である。第二は、志向性に特有のものをうちに担う体験ないし体験契機である。
前者に属するのは、最上位の類に従って統一的な「感覚的」体験、すなわち色のデータ、触覚のデータ、音のデータなどの「感覚内容」である。われわれはもはやこれらの感覚内容を、現出する物的契機、たとえば色彩性や粗さなどと混同しない。物的契機のほうが、感覚内容を通して体験の上で「呈示される」。快、苦痛、くすぐったさの感覚、おそらく「衝動」の圏域の感覚的契機も、前者に属する。こうしたデータは、より包括的な具体的体験の成分として見いだされる。この体験は全体として志向的であり、感覚的契機の上に、いわば「魂を与える」、意味を付与する(ないし意味付与を本質的に含む)層がのっている。この層によって、それ自身には志向性をまったくもたない感覚的なものから、具体的な志向的体験が成り立つ。
感覚的体験は、体験の流れのなかでいたるところ必然的に、何らかの「魂を与える統握」(この統握がさらに要求し可能にする性格のすべてを伴う)を担うのか。言い換えれば、感覚的体験はつねに志向的機能のうちにあるのか。他方、志向性を成り立たせる性格が、感覚的な土台なしに具体性をもちうるのか。この二つは、ここでは決められず、さしあたり未決のままにしておく。
いずれにせよ現象学の領域全体では、全体として、つまり保持すべき構成された時間性の段階の内部で、感覚的なὕληと志向的なμορφήとのこの注目すべき二重性と統一が、支配的な役割を果たしている。明晰な直観や、明晰に遂行された評価、気に入る作用、意欲などを現前化してみると、素材と形式という概念が自然に迫ってくる。そこでは志向的体験は、きわめて拡張された意味での意味付与による統一として成り立つ。感性的データは、さまざまな段階の志向的な形式づけ、すなわち意味付与のための素材として現れる。それは単純なものにも、特有の仕方で基づけられたものにも当てはまる。これについてはのちに詳しく論じる。この言い方の適切さは、「相関者」の論が別の側面から確かめる。先に未決としておいた可能性は、形式のない素材と素材のない形式と名づけられることになる。
用語について付け加える。一次的内容という表現は、もはや十分に特徴を示すとは思われない。感性的体験という表現を同じ概念に使うことはできない。感性的知覚、感性的直観一般、感性的喜びという言い方が妨げになるからである。そこでは、単なるヒュレー的体験ではなく志向的体験が感性的と呼ばれている。「単なる」「純粋な」感性的体験という言い方も、新たな多義を生むから、事態を改善しない。「感性的」という語自身の多義は、現象学的還元でも残る。「sinngebend」すなわち意味を付与するものと、「sinnlich」すなわち感性的なものとの対比に現れる二重の意味は、ときに邪魔になるが、ほとんど避けられない。より狭い意味での感性は、外的知覚で「感官」に媒介されるものの現象学的な残余を指す。還元の後には、外的直観の「感性的」データのあいだに本質的な類縁が示され、これに対応して固有の類的本質、すなわち現象学の根本概念が一つある。より広い意味では、感性は感性的感情と衝動をも含む。これらはそれ自身の類的統一をもち、より狭い意味の感性とも、おそらく一般的な種類の本質的類縁をもつ。これはすべて、ヒュレーの機能的概念がそのうえで表現する共通性を別にしての話である。この両方があいまって、もともと狭い意味だった感性という語を、感性的データが素材として機能する情意と意志の圏域の志向的体験に、昔から転用させてきた。したがって新しい名辞が必要である。それは、機能の統一と形式づける性格との対比によって、このグループ全体を表現するものでなければならない。そこでわれわれは、ヒュレー的データないし素材的データ、端的に素材という表現を選ぶ。古い表現は、それなりの仕方で避けられないものである。古い表現を想起させたいときは、感覚的素材、さらには感性的素材と言う。
素材を志向的体験へと形づくり、志向性に特有のものを持ち込むものは、意識という語にその特有の意味を与えるものと同じである。すなわち意識は、それによって、それ自体で、自らがそれについての意識であるところの何かを指し示す。意識契機、意識性、志向的契機という語は、のちに現れる多様な多義のために使えない。そこでわれわれは、ノエシス的契機、短くノエシスという名辞を導入する。ノエシスは、この語の最も広い意味でのヌースに特有のものを成す。ヌースはあらゆる現勢的な生の形式にしたがって、われわれをコギタチオへ、志向的体験一般へと連れ戻す。したがってヌースは、形式という理念の形相的前提であるものすべてを、本質的にはそれだけを包括する。ヌースという語が、そのすぐれた意義の一つ、すなわち「意味」を想起させることも、歓迎されないことではない。ただし、ノエシス的契機で遂行される「意味付与」は多くを含み、意味という際立った概念に連なる「意味付与」は、基礎としてしか含まれない。
ノエシス的な側面を心的な側面と呼ぶにも、十分な根拠がある。ψυχήと心的なものを語るとき、哲学的な心理学者たちの視線は、志向性を持ち込むものに、ある種の優先をもって向けられていた。感性的契機は、身体とその感官の働きに帰せられた。この古くからの傾向は、ブレンターノの「心的現象」と「物理的現象」の区別で、最も新しい形をとった。この区別は特別に重要である。ブレンターノ自身はなお現象学的な地盤から遠く、この区別によって、彼が本来探していた区別、すなわち物理的な自然科学と心理学の経験領域の区別を捉えたわけでもない。それでも、この区別は現象学の道を切り開いた。ここで特に関わるのは次のことだけである。彼は素材的契機の概念をまだ見いださなかった。素材的契機としての「物理的現象」(感覚データ)と、ノエシス的に捉えるなかで現出する対象的契機(物的な色、物的な形)としての「物理的現象」とを、区別しなかったからである。しかし他方で彼は、「心的現象」を、志向性という特性によって特徴づけた。まさにそれによって、あの優れた意味での「心的なもの」を、われわれの時代の視野にもたらした。この語の歴史的な意義では、この意味はある種の強調を受けてはいたが、はっきりとは取り出されていなかった。
それでも、心的という語を志向性と同等に用いることには反対する事情がある。この意味での心的なものと、心理学に固有の対象という意味での心的なものとを、同じ語で呼ぶことはできない。後者の概念にも、好ましくない二重の意味がある。その源は、「心のない心理学」を目指す周知の傾向にある。この傾向のために、人は心的なものについて、とりわけ、対応する「心的素質」に対比される現勢的に心的なものについて、好んで、経験的に措定された体験の流れの統一のなかにある体験を考える。ところが、この心的なものの実在的な担い手である動物的存在、ないしその「心」と心的実在的な特性も、心理学の対象と呼ばざるをえない。「心のない心理学」は、二つを取り違えているように思われる。一つは、あいまいな心の形而上学の意味での、心という実在体の遮断である。もう一つは、経験のなかに事実として与えられた心的実在一般の遮断である。体験はこの実在の状態であり、この実在は、決して単なる体験の流れではない。体験の流れは身体に結びつけられ、経験的にある仕方で規則づけられており、素質概念はこの規則づけの単なる指標にすぎない。いずれにせよ、支配的な心的なものの概念は、特有の意味で志向的なものに向かっていない。このため、この語はわれわれには使えない。
そこでノエシス的という語にとどまる。現象学的存在の流れは、素材的な層とノエシス的な層をもつ。素材的なものに向かう分析はヒュレー現象学的、ノエシス的契機に関わる分析はノエシス現象学的と呼べる。比べものにならないほど重要で豊かな分析は、ノエシス的なものの側にある。
§86 機能的問題 最も大きな問題は機能的問題、すなわち「意識の対象性の構成」の問題である。それが関わるのは、たとえば自然に関して、ノエシスがどのように働くかである。ノエシスは素材的なものに魂を吹き込み、多様でありながら統一をなす連続体や総合へと自らを織り合わせて、あるものについての意識を成り立たせる。その結果、対象性の客観的統一が、この意識のうちで整合的に「示され」、「証示され」、「理性的に」規定されうる。
この意味での「機能」は、数学での意味とはまったく異なり、ノエシスの純粋な本質に根ざす。意識とは何ものか「の」意識であり、「意味」を、いわば「心」「精神」「理性」の精髄を宿すことがその本質である。意識は、「心的複合体」や、溶け合った「内容」、「感覚」の「束」や流れの名称ではない。感覚はそれ自体では無意味であり、どれほど任意に混ぜ合わせても「意味」を生み出しえない。意識は徹頭徹尾「意識」であり、あらゆる理性と非理性、正と不正、実在と虚構、価値と無価値、行為と悪行の源泉である。したがって意識はtoto coelo、感覚論だけが見ようとするものとは異なる。感覚論が見るのは、それ自体で無意味で非合理な素材であり、ただしこの素材は合理化を受け入れうる。この合理化が何を意味するかは、まもなくさらによく理解する。
機能の観点は現象学の中心であり、そこから広がる研究はほぼ現象学の圏域の全体を覆う。最終的にはすべての現象学的分析が、構成部分ないし下位の段階として、何らかのかたちでこの観点に仕える。個々の体験に付着した分析と比較、記述と分類に代わって、個別のものを、「総合的統一」を可能にする機能の「目的論的」観点のもとで考察することが登場する。この考察が向かうのは、体験そのもののうちに、その意味付与のうちに、そもそもそのノエシスのうちに、本質上いわばあらかじめ描かれており、いわばそこから取り出されるべき意識の多様である。たとえば経験と経験的思考の圏域では、多様な意識の連続体と、区切られた意識体験の結びつきが、意味の共属によって内的に結ばれ、一にして同一の客観的なものについての意識によって包まれている。この客観的なものは、あるときはこのしかたで、あるときはあのしかたで現れ、直観的に自らを与え、ないし思考によって自らを規定する。この考察は、実的に内在的ではないこの同一の統一体が、どのようにして「意識された」「思念された」ものであるのかを探究する。また、思念されたものの同一性に、きわめて異なりながら本質上要請される構造をもつ意識形態がどう属するのか、これらをどう方法的に厳密に記述すべきかを探究する。さらに探究するのは、「理性」と「非理性」に応じて、あらゆる対象的領域と範疇の対象性の統一が、意識のうえでどのように「証示され」、また「退けられ」うるのかである。思考意識の諸形式のうちで、規定され、「さらに」規定され、「別様に」規定され、あるいは「無効な」「仮象」として斥けられうるし、斥けられざるをえないのは、どのようにしてかも探究する。「現実」と「仮象」、「真の」実在と「仮象的実在」、「真の」価値と「仮象的価値および無価値」という、ありふれていながら謎に満ちた区別の現象学的解明も、ここに連なる。
したがって、最も包括的な一般性において探究すべきは、あらゆる領域と範疇の客観的統一体が「意識のうえでどのように構成されるか」である。それらについての現実的かつ可能的な意識のあらゆる連関が、まさに本質可能性として、それらの本質によってどのようにあらかじめ描かれているかを、体系的に示さねばならない。そこには、それらに志向的に関係する単純な、あるいは基づけられた直観、低次と高次の段階の思考形態、混乱したものと明晰なもの、明示的なものと非明示的なもの、学問以前のものと学問的なものが含まれ、厳密な理論的学問の最高の形態にまで至る。可能な意識のすべての基本的な種類と、それらに本質上属する変形、融合、総合を、形相的一般性と現象学的純粋性において、体系的に研究し、洞察的に明らかにせねばならない。すなわち、それらが自らの本質によって、あらゆる存在可能性(と存在不可能性)をどのようにあらかじめ描くのかを明らかにせねばならない。また、絶対に確固とした本質法則に従って、存在する対象がどのようにして、規定された本質内容をもつ意識連関の相関者なのか、逆に、そのような連関の存在がどのようにして存在する対象と等価なのかを明らかにせねばならない。これは常に、すべての存在領域と、存在の具体化に至るまでの一般性のあらゆる段階に関係づけて行われる。
現象学は、あらゆる超越を「遮断する」純粋に形相的な態度において、純粋意識という自らの地盤の上で、必然的に、固有の意味で超越論的な問題のこの全体的複合に至る。それゆえ現象学は、超越論的現象学の名に値する。現象学は、体験を、単に存在するだけで何も意味せず何も思念しない任意の死んだ事物、すなわち「内容複合体」であるかのように、要素、複合形成、類と下位類に従って考察するのではなく、原理的に独特な問題性を我がものとするに至らざるをえない。体験は志向的体験として、しかも純粋にその形相的本質によって、「~についての意識」として、この問題性を示す。
当然、純粋ヒュレー論は超越論的意識の現象学に従属する。それは自己完結した学科の性格をもち、そのようなものとしてそれ自体に価値がある。他方、機能的観点からは、志向的な織物への可能な織り込み、志向的な形成のための可能な素材を提供する点で意義をもつ。問題の困難さだけでなく、絶対的認識の理念から見た問題の序列についても、ヒュレー論は明らかに、ノエシス的現象学と機能的現象学のはるか下にある。この二つは本来切り離せない。
これから、いくつかの章に分けてさらに詳しく論じる。シュトゥンプは、ベルリン学士院の重要な論文で、「心的機能」という結びつきの中で機能という語を、彼が「現出」と呼ぶものに対置して用いている。そこで意図された区別は心理学的なものであり、われわれの「作用」と「第一次内容」の対置、ただし心理学的なものへと転じたものと一致する。問題の名辞がわれわれの叙述ではこの尊敬する研究者の場合とはまったく異なる意義をもつことに、注意しなければならない。双方の著作を表面的にしか読まない読者が、シュトゥンプの現象学の概念(「現出」についての学説としてのもの)をわれわれのそれと混同した例は、すでに何度かある。シュトゥンプの現象学は、先にヒュレー論として規定したものに対応するだろう。ただしわれわれの規定は、その方法的意味において、超越論的現象学の包括的な枠組みによって本質的に条件づけられている。他方、ヒュレー論の理念は、現象学から eo ipso 形相的心理学の地盤へと移される。われわれの見解では、シュトゥンプの「現象学」はこの地盤に組み入れられる。
第三章 ノエシスとノエマ
§87 予備的な注意 志向的体験の特質は、一般性においては容易に言い表せる。われわれは皆「何かについての意識」という表現を、とりわけ任意の例示を通じて理解している。それだけに、これに対応する現象学的な本質上の特質を純粋かつ正しく把握することは、いっそう難しい。この名称が、骨の折れる形相的な確定作業の広大な領域を画していることは、文献から判断してよいなら、今日でもなお、哲学者や心理学者の大多数にとって縁遠いようである。というのも、あらゆる表象作用は表象されたものに、あらゆる判断作用は判断されたものに関係する、などと言って洞察しても、ほとんど何も成し遂げたことにはならないからである。論理学、認識論、倫理学をその多くの明証とともに指し示し、これらの明証を志向性の本質に属するものと名指しても、同様である。これは同時に、現象学的本質論を、古い論理学と、せいぜいそれに並べうる学科との新しい名称だと主張する、きわめて単純なやり方でもある。超越論的態度の独自性を把握せず、純粋に現象学的な地盤を本当に我がものとしないままでは、なぜなら、現象学という語を用いることはできても、事象そのものは手にしていないからである。態度をただ変えるだけで、ないし現象学的還元をただ遂行するだけで、純粋論理学が現象学のようなものになるわけでもない。というのも、そこで引き合いに出されうる論理的な命題も、純粋に存在論的、純粋に倫理的な、その他どんなアプリオリな命題も、どの程度まで実際に現象学的なものを表現し、それがそのつどどの層に属するのかは、決して自明ではないからである。それはむしろ最も困難な諸問題を含み、その意味は、決定的な基本的区別についてまだ何も予感していない人々には、当然隠されている。私の経験から判断を述べてよいなら、道は長くて茨に満ちている。その道は、純粋に論理的、意義論的、存在論的、ノエシス的な洞察から、また通常の規範的で心理学的な認識論から出発して、真の意味で内在的-心理学的な所与を把握するに至り、ついで現象学的な所与を把握するに至る。最後に、超越論的な関係をアプリオリに理解可能にするすべての本質連関を把握するに至る。対象的な洞察から出発して、本質上それに属する現象学的な洞察への道を得ようとするなら、どこから始めても同様である。
「何かについての意識」は、きわめて自明でありながら、同時にきわめて理解しがたい。最初の反省が導く迷宮のような迷路は、この厄介な問題の圏域全体を否定する懐疑を、容易に生み出す。少なからぬ人々は、志向的体験、たとえば知覚体験を、それ自身に固有の本質において把握できないという理由だけで、入り口をすでに塞いでしまう。彼らは、知覚のうちに生きて、知覚されたものへ観察的・理論的に向かうのをやめ、むしろ視線を知覚作用ないし知覚されたものの所与の仕方の特性へ向け、内在的な本質分析において示されるものを、与えられるとおりに受け取ることに至らない。正しい態度を獲得して練習によって固め、とりわけ、流布し習い覚えたあらゆる理論にかまわず、徹底した無先入見のうちで、明晰な本質的所与に従う勇気を得たなら、確かな成果がただちに得られ、同じ態度をとるすべての人にとって同じ成果が得られる。そこで、自ら見たものを他者に伝え、他者の記述を検証する確かな可能性が生じる。気づかれていない空虚な語の思念の混入を際立たせ、あらゆる妥当の圏域と同様にここでも起こりうる誤りを、直覚に照らして測り直すことで見分け、除去する可能性も生じる。だが、いよいよ事象そのものに向かおう。
§88 実的な体験構成要素と志向的な体験構成要素 ノエマ 現在の考察の全体と同様に、いわば現象学の入り口ですでに捉えられ、以後のあらゆる方法的な進め方を規定するような、最も一般的な区別をめざして進むなら、志向性に関して、われわれはただちに、まったく根本的な区別に突き当たる。すなわち、志向的体験の固有の構成要素と、その志向的相関者ないしその構成要素との区別である。第二篇の形相的な予備考察で、すでにこの区別に触れていた。それは、自然的態度から現象学的態度への移行において、現象学的圏域に固有の存在を明らかにするのに役立った。だが、この区別が、この圏域そのものの内部で、すなわち超越論的還元の枠内で、現象学の問題性の全体を条件づける根本的な意義を得ることは、そこでは論じようがなかった。そこで一方でわれわれは、体験の実的分析によって見出される部分と契機とを区別しなければならない。この場合、体験を他のどんな対象とも同じく対象として扱い、その断片や、体験を実的に構成する非自立的契機を問う。他方で、志向的体験は何かについての意識であり、その本質からして、たとえば想起として、判断として、意志としてなどそうである。そこでわれわれは、この「何かについて」の側面からして、本質上何が言明されるべきかを問うことができる。
あらゆる志向的体験は、そのノエシス的契機のおかげで、ノエシス的なものである。体験の本質とは、「意味」のようなもの、場合によっては多重の意味を自らのうちに宿し、これらの意味付与に基づき、これと一体となって、さらに別の働きを遂行することである。この働きは、意味付与によって「意味ある」ものとなる。そのようなノエシス的契機とは、たとえば、純粋自我の視線が、意味付与によって自我に「思念された」対象、すなわち自我の「念頭にある」対象へ向かうことである。さらに、この対象の把握であり、視線がほかの対象へ向け変えられている間も、この対象を保持することである。同様に、展開すること、関係づけること、まとめて捉えること、信じること、推測すること、評価することなどの、多様な立場決定の働きがある。これらはすべて、異なる構造をもち、それ自体のうちで変わりうるが、当該の体験のうちに見出される。この一連の例示的な契機は体験の実的な構成要素を指し示すが、意味という名称を通じて、実的ではないものをも指し示す。
あらゆる箇所で、実的でノエシス的な内実の多様なデータには、真に純粋な直覚において示されうるデータの多様が、相関的な「ノエマ的内実」、簡潔には「ノエマ」のうちで対応している。これらは、今後われわれがつねに用いる名辞である。知覚は、そのノエマを、最下層には知覚の意味、すなわち知覚されたものそのものとして持つ。そのつどの想起は、想起のうちで「思念された」もの、「意識された」ものであるとおりの、想起されたものそのものを持つ。判断作用は判断されたものそのものを、気に入ることは気に入るものそのものを持つ。あらゆる箇所で、ここで(きわめて拡張された意味で)「意味」と呼ぶノエマ的相関者は、知覚や判断や気に入ることなどの体験のうちに「内在的に」あるとおりに、まさにそのまま受け取られるべきである。すなわち、体験そのものを純粋に問うて、体験がわれわれに提示するとおりに受け取られるべきである。これらをどう理解しているかは、純粋な直覚において遂行する例示的な分析によって、十分に明らかになる。
いま、われわれが快い気持ちで庭の花咲くリンゴの木や、芝生の若々しい緑などを眺めているとしよう。知覚とそれに伴う快が、同時に知覚されたものであり快いものであるわけではないのは、明らかである。自然的態度では、リンゴの木は超越的な空間的現実のうちに存在し、知覚と快はわれわれ実在的な人間に属する心的状態である。実在的な人間ないし実在的な知覚と、実在的なリンゴの木とのあいだには、実在的な関係が成り立つ。ある場合には、知覚は「単なる幻覚」であり、知覚されたもの、つまりわれわれの前にあるこの木は、「現実の」実在のうちには存在しない、と言われる。このとき、以前には現実に成り立つものとして思念されていた実在的な関係が損なわれる。知覚だけが残り、知覚が関係する現実のものは何もない。
ここで現象学的態度に移る。超越的世界は「括弧」を受け、われわれはその現実の存在に関してエポケーを行う。そこで、知覚と気に入る評価というノエシス的体験の複合のうちに、本質上何が見出されるのかを問う。物理的世界と心的世界の全体とともに、知覚と知覚されたもののあいだの実在的な関係が現実に成り立つことも、遮断されている。それでも、知覚と知覚されたもののあいだ、同様に気に入ることと気に入るもののあいだには、明らかに一つの関係が残っている。この関係は「純粋内在」における本質所与にまで至る。すなわち、現象学的に還元された知覚体験と気に入る体験が、超越論的な体験の流れに組み入れられているとおりに、純粋にそれらに基づいて至る。この純粋に現象学的な事情が、いまわれわれの関心事となる。現象学は、幻覚、錯覚、一般に偽りの知覚についても何か言うべきことがあるかもしれず、おそらくは非常に多くのことがあるだろう。だが、それらが自然的態度で演じていた役割のままでは、現象学的遮断を免れないことは明証的である。ここでは、知覚に対しても、任意に進行する知覚の連関(たとえばわれわれが歩きながら花咲く木を眺める場合のような)に対しても、それに「その」現実のうちで何かが対応するのか、という種類の問いを立てるべきではない。この定立的な現実は、判断のうえでは、もはやわれわれにとって存在しないからである。それでも、いわばすべては元のままである。還元された知覚もまた「庭にあるこの花咲くリンゴの木など」の知覚であり、還元された快も、同じこのものへの快である。木は、この知覚で現れるものとして、この気に入ることで「美しい」「魅力的」なものとしてなどであったときの、あらゆる契機、性質、性格のうち、ごくわずかな差異も失っていない。
この態度では、本質への問いを立てることができるし、立てなければならない。「知覚されたものそのもの」とは何か。この知覚のノエマとして、それはどのような本質契機を宿しているか。答えは、本質上与えられたものに純粋に身を委ねることで得られる。われわれは「現れるものそのもの」を、忠実に、完全な明証において記述できる。これを別の言い方で表現したものが、「知覚をノエマ的な観点から記述する」ことにほかならない。
§89 ノエマ的言明と現実についての言明 心理学的圏域におけるノエマ これらの記述的言明は、現実についての言明と同じ文言になりうる。それにもかかわらず、根本的な意味変様を受けているのは明らかである。記述されたものも、「まったく同じもの」として与えられながら、いわば符号を反転する変更によって、根本的に別のものである。還元された知覚(現象学的に純粋な体験)「のうちに」われわれは、その本質に取り除きがたく属するものとして、知覚されたものそのものを見出し、それを「物質的な物」「植物」「木」「花咲く」などと表現する。引用符は明らかに意味をもち、符号の反転、すなわち語の意義の対応する根本的な変様を表している。端的な木、自然のなかの物は、知覚の意味として知覚に属し切り離せない、この知覚された木そのものとは、まったく別のものである。端的な木は燃え尽きることがあり、化学元素に分解することなどがある。だが意味は、すなわちこの知覚の意味は、その本質に必然的に属し、燃え尽きることはなく、化学元素も、力も、実在的な特性ももたない。
体験に純粋に内在し、還元されたうえで固有に属するものがある。それは、体験がそれ自体であるとおりのあり方から取り去って考えることができず、形相的態度では eo ipso エイドスへ移行するものである。これは、あらゆる自然と物理学から、またそれに劣らずあらゆる心理学からも、深淵によって隔てられている。自然主義的な像であるこの像ですら、その違いを示すには十分に強くない。
知覚の意味は、いうまでもなく、現象学的に還元されていない知覚、心理学の意味での知覚にも属する。したがって、現象学的還元は心理学者にとって、有用な方法的機能をもちうる。それは、ノエマ的意味を対象そのものからはっきり区別して固定し、さらにそれを、志向的体験の心理学的本質に、いまや実在的に捉えられたその本質に切り離しがたく属するものとして認識する機能である。
心理学的態度でも現象学的態度でも、次のことを鋭く見据えておかなければならない。「知覚されたもの」は意味としては、知覚的に現れるもののうちで場合によっては「実際に現れる」ものだけを、しかも知覚において意識されているまさにその様態で、すなわちその所与の仕方で含むにすぎない。それゆえ「間接的な知識」に基づいて何かをこの意味に押しつけてはならない。知覚に内在的なものとしてのこの意味へは、独特の反省がいつでも向かうことができる。現象学的判断は、そこで把握されたものだけに忠実な表現で合わせなければならない。
§90 「ノエマ的意味」と、「内在的対象」と「現実の対象」との区別 知覚と同様に、あらゆる志向的体験は「志向的対象」を、すなわちその対象的意味をもつ。まさにこのことが志向性の根本をなす。同じことを別の言葉でいえば、意味をもつこと、何かを「意味のうちにもつ」ことが、あらゆる意識の根本性格である。それゆえ意識は、体験一般であるだけでなく、意味をもつ「ノエシス的」な体験でもある。
もっとも、われわれの例の分析で「意味」として取り出されたものは、完全なノエマを汲み尽くしてはいない。これに応じて、志向的体験のノエシス的側面も、「意味」を相関者として特別にそれに属する本来の「意味付与」の契機だけからなるのではない。完全なノエマが、ノエマ的契機の複合体からなることは、やがて示される。その中で、固有の意味契機は、ある種の必然的な核層をなすにすぎない。この核層に他の諸契機が本質的に基づけられている。これらの契機もまた、まさにそのゆえにのみ、拡張された意味でなら、意味契機と呼んでよいだろう。
さしあたり、ひとり明瞭に現れたものにとどまる。志向的体験は、すでに示したように、適切に視線を向ければそこから「意味」を取り出せる性質を、疑いなくもっている。表象された対象あるいは思念された対象そのものが存在しないこと(ないし存在しないという確信)があっても、当の表象から(したがって当の志向的体験一般から)、その表象されたものそのものを奪うことはできない。それゆえ、この両者を区別しなければならない。この事情は隠れたままではありえず、この区別は顕著なので、文献のうえに表れずにはいなかった。スコラ哲学の区別がこれを指し示している。それは、一方の「心的」「志向的」「内在的」対象と、他方の「現実の」対象との区別である。しかし、意識の区別を初めて捉えることから、それを現象学的に純粋に固定し、正しく評価することまでには、途方もない一歩がある。整合的で実り豊かな現象学にとって決定的なこの一歩は、まだ踏み出されていない。決定的なのは、現象学的な純粋さのうちに実際に見いだされるものを絶対に忠実に記述することと、所与を超越するあらゆる解釈を遠ざけることである。名称はここですでに解釈を表明しており、しかもしばしば大変に誤った解釈を表明している。そうした解釈は「心的」「内在的」対象といった表現に表れ、少なくとも「志向的」対象という表現によって助長される。
次のように言うのは、あまりに安易である。体験において与えられているのは、志向と、その志向的対象である。志向的対象はそのようなものとして志向に切り離しがたく属し、したがって志向そのものに実的に内属する。それは、対応する「現実の対象」が現実に存在するかしないか、その間に滅びてしまったかどうかにかかわらず、その志向の思念されたもの、表象されたものでありつづける、と。
しかし、このように現実の対象(外的知覚の場合には、知覚された自然の物)と志向的対象とを分け、後者を知覚の「内在的」対象として体験に実的に埋め込もうとすると、困難に陥る。二つの実在が向かい合うはずなのに、見いだされうるのは一つだけだからである。私が知覚するのは物であり、自然の対象であり、あそこの庭の木である。これこそが知覚する「志向」の現実の対象であり、ほかのものではない。第二の内在的な木も、私の前の向こうに立つ現実の木の「内的な像」も、決して与えられていない。そうしたものを仮説的に想定すれば、不合理に行き着くだけである。心理学的に実在的な知覚の中にある実的な部分としての模写は、またしても一つの実在的なものであり、別のものにとって像として機能する実在的なものであろう。だがそれができるのは、模写意識によってのみである。この意識の中でまず何かが現れるはずで、これによってわれわれは第一の志向性をもつ。そしてこの何かが、さらに意識的に「像対象」として別のものにとって機能するには、第一の志向性に基づけられた第二の志向性が必要となる。明証的なのは、これらの意識の仕方の一つ一つがすでに内在的対象と現実の対象との区別を要求しており、構成によって解決されるはずだった当の問題を、自らのうちに含んでいることである。そのうえ、この構成は、以前に論じた異論にさらされる。物理的なものの知覚に模写機能を埋め込むことは、知覚に像意識をすり替えることである。しかし像意識は、記述的に見れば、本質的に異なった仕方で構成されている。主要な点は、知覚に、そして帰結としてあらゆる志向的体験に、模写機能を求めると、(われわれの批判から容易にわかるように)避けがたく無限後退を招くことである。
こうした迷妄に対しては、純粋な体験に与えられたものに踏みとどまり、明晰さの範囲内で、それが自らを与えるとおりにそのまま捉えなければならない。そのとき「現実の」対象は「括弧に入れ」られるべきである。これが何を意味するかを考えてみよう。自然的に態度をとる人間にとって、現実の対象とは、あそこの外にある物である。われわれはそれを見て、その前に立ち、目をじっとそれに向け、空間の中で自分に向かい合うものとして、見いだされるとおりに記述し、それについて言明する。同様にわれわれは、評価においてもそれに態度をとる。それは気に入るか、行為へと駆り立てる。われわれはそれを手に取り、加工する。ところが現象学的還元を遂行すると、あらゆる超越的措定、とりわけ知覚そのものに含まれる措定は、遮断する括弧を受け取る。この括弧は、基づけられたすべての作用に、すべての知覚判断に、そこに根ざす価値措定に、場合によってはその価値判断に及ぶ。これが意味するのは、次のことである。われわれが許すのは、これらの知覚や判断などを、それら自身がそれ自体であるところの本質存在として考察し、それらのうちに明証的に与えられているものを確定することだけである。「現実の」物の、さらには「超越的」自然全体の定立を利用する判断、つまりその定立に「ともに加わる」判断は、一切認めない。現象学者としてのわれわれは、こうした措定をすべて控える。だからといって、それらを捨て去るわけではない。それらは確かにそこにあり、現象に本質的に属している。われわれはそれらにともに加わるのではなく、それらを観察し、対象にする。それらを現象の構成部分として、つまり知覚の定立をまさに知覚の成分として受け取るのである。
これらの遮断の明晰な意味を保ちながら、われわれは、「還元された」現象の全体に何が明証的に「含まれている」かを問う。知覚は、そのノエマ的意味を、「知覚されたものそのもの」を、すなわち引用符をつけて理解された「あそこの空間の中の、花盛りのこの木」をもっている。これこそ、現象学的に還元された知覚の本質に属する相関者である。比喩的にいえば、知覚が受けた「括弧入れ」は、知覚された現実についてのあらゆる判断を妨げる。すなわち、変様されていない知覚に根ざし、その定立を取り込むあらゆる判断を妨げる。しかしこの括弧入れは、知覚がある現実についての意識であるという判断は妨げない。ただしその現実の定立を、いまやともに「遂行して」はならない。また、知覚的に現れるこの「現実そのもの」の記述も妨げない。この現実は、たとえばまさに知覚されたものとして、ただ「一面的に」、あれやこれやの定位などで現れるものとして、特別な仕方で意識されている。このとき、われわれは微細な注意を払わなければならない。実際に本質に含まれているもの以外は何も体験に埋め込んではならず、そこに「含まれている」とおりに、そのまま「埋め込む」のでなければならない。
§91 最も広い志向性の圏域への移し替え これまで知覚を優先して詳しく述べてきたことは、実際には志向的体験のあらゆる種類に当てはまる。想起では、還元ののち、想起されたものそのものが見いだされる。期待では期待されたものそのものが、虚構する想像では想像されたものそのものが見いだされる。
これらの体験のどれにも、ノエマ的意味が「内属して」いる。この意味は、さまざまな体験で互いにどれほど似ていようと、場合によっては核となる内容の点で本質的に等しかろうと、種の異なる体験では、いずれにせよ異なった種類のものである。場合によっては共通するものも、少なくとも異なった仕方で性格づけられており、しかもそれは必然である。どの場合でも問題は花盛りの木であるかもしれず、現れているものそのものの忠実な記述が、必然的に同じ表現で行われるかもしれない。それでもノエマ的相関者は、知覚、想像、像による現前化、想起などで本質的に異なる。あるときには、現れているものは「有体的現実」として、別のときには虚構されたものとして、さらに別のときには想起による現前化として性格づけられる。
これらは、知覚されたもの、想像されたもの、想起されたものなどそのものにおいて、すなわち知覚の意味、想像の意味、想起の意味において、切り離せないものとして見いだされる性格である。しかもこれらは、当のノエシス的体験の種類との相関において、必然的に属するものとして見いだされる。したがって、志向的相関者を忠実かつ完全に記述しようとする場合には、偶然ではなく本質法則によって規制されたこうした性格をすべて、ともに捉え、厳密な概念で固定しなければならない。
これによってわれわれは気づく。完全なノエマの内部では、先に予告したとおり、本質的に異なる層を区別しなければならない。それらの層は、中心にある「核」、すなわち純粋な「対象的意味」のまわりに集まっている。この意味は、われわれの例のどこでも、同一の客観的表現だけで記述できる。並行する種の異なる体験において、同一のものでありえたからである。同時に、次のことも見て取れる。諸定立に加えた括弧入れを再び取り除くと、意味のさまざまな概念に対応して、変様されていない客観性のさまざまな概念も、並行して区別できるはずである。「対象そのもの」、すなわち、あるときは知覚され、別のときは直接に現前化され、三度目には絵画に像として描かれているといった同一のものは、そのうちの一つの中心的な概念を示すにすぎない。しかし、さしあたりはこの示唆で十分とする。
われわれは意識の圏域をさらに少し見渡し、主要な意識の仕方について、ノエシス的・ノエマ的構造を知ろうと試みる。実際に例証する中で、ノエシスとノエマとの根本的な相関が例外なく妥当することを、一歩ずつ確かめていく。
§92 ノエシス的観点とノエマ的観点から見た注意的変化 準備の諸章で、意識のある注目すべき変化について、すでに何度か語った。この変化は、志向的な出来事のあらゆる種類と交差し、それゆえ独自の次元をもつ、ごく一般的な意識の構造をなす。比喩でいえば、純粋自我の「精神の眼差し」ないし「視線の光線」と、その向け変えと背け変えである。これに属する現象は、完全に明晰判明に取り出された。「注意」が語られるところでは、この現象が主役を演じるが、他の現象から現象学的に切り離されず、混ざり合ったまま、注意の様態と呼ばれている。われわれはこの語を保持したうえで、さらに注意的変化について語りたい。ただしそれは、明確に区別した出来事と、今後さらに詳しく記述される、ひとまとまりの現象的変化の群に関してだけである。
問題となるのは、理念的に可能な一連の変化である。この変化は、ノエシス的な核と、それに必然的に属する種々の類の性格づける契機とをすでに前提している。ノエマ的な働きは変えないが、体験の全体を、ノエシス的側面でもノエマ的側面でも変形する。純粋自我の視線の光線は、あるときはこのノエシス的層を、あるときはあの層を貫いて進む。想起の中の想起のような入れ子の段階をも貫き、まっすぐに進むこともあれば、反省しながら進むこともある。潜勢的なノエシス的対象の与えられた全体野の内部で、知覚的に現在しているその木の全体に、その部分や契機に、隣の物や連関、出来事に目を向ける。突然、ふと「思い浮かんだ」想起の対象に視線を向けると、視線は、物の世界を絶えず構成している知覚のノエシスを通る代わりに、想起のノエシスを通って想起の世界に入る。視線は想起の世界をさまよい、他の段階の想起や、想像の世界などへ移っていく。
簡単のために、素朴な確かさの中に立っている知覚の世界という一つの志向的層にとどまろう。知覚された物を、そのノエマ的内容に関して理念において固定し、それについての具体的な意識の全体も、現象学的な持続の対応する区間で、完全な内在的本質に従って固定する。注意的な光線の特定の歩みも、この光線が体験の契機である以上、これに含まれる。固定されたこの体験に変化の仕方が可能であることは明証的であり、これをまさに「注意の配分とその様態における単なる変化」と呼ぶ。このとき体験のノエマ的構成は同じままである。同じ対象性が有体的に存在するものとして性格づけられ、同じ現出の仕方、同じ定位で、現れている徴表のもとに呈示されている。未規定な暗示や直観的でない共現在化という同じ様態で、これこれの内容の構成が意識されている。並行するノエマ的構成を比較すると、変化はただ、一方の場合にはこの対象的契機が「優先」され、他方の場合にはあの契機が「優先」される点にある。同一の契機が、あるときは「第一に注目されたもの」であり、別のときは第二次にのみ、あるいは「まだ辛うじてともに気づかれたもの」であり、「まったく気づかれていないもの」でさえあるが、なお現れている。これらは注意そのものに特別に属する種々の様態である。そこでは現勢性の様態の群が、潜勢性の様態から区別される。潜勢性の様態とは、われわれがただ不注意と呼ぶもの、いわば死んだ意識もちの様態である。
他方、これらの変様は、ノエシス的構成における体験そのものの変様であるだけではない。体験のノエマにも及び、ノエマ的側面では、同一のノエマ的核を損なうことなく、独自の類の性格づけを示す。注意は照らす光に喩えられる。特別な意味で注目されたものは、多かれ少なかれ明るい光の円錐の中にあり、半影や完全な暗闇の中へ移ることもある。この比喩は、現象学的に固定すべきあらゆる様態を区別して描き出すには不十分だが、現れているものそのものにおける変化を示すかぎりでは適切である。照明の交替は、現れているものを、それ自身の意味内実の点では変えない。だが明るさと暗さは、その現出の仕方を変様させる。それらはノエマ的対象へ視線を向けるときに見いだされ、記述されるべきものである。
ノエマにおける変様は、同一のものに外的な付属物が加わるようなものではない。具体的なノエマは、徹頭徹尾変化する。この変様は、同一のものの所与の仕方の必然的な様態である。
しかし、よく見ると、それぞれの様態で注意的に性格づけられた全体のノエマ的内容(いわば注意的な核)が、任意の注意的変様に対して一定に保たれるわけではない。ノエシス的側面から見ると、ある種のノエシスは、必然的にか、その特定の可能性に即して、注意の様態によって、とりわけ積極的な注意によって条件づけられている。「作用の遂行」「現勢的な態度決定」はすべて、たとえば疑いの決着、拒否、主語の措定とそれについての述定的な定立、評価や選択の評価などであり、自我が態度をとる当のものへの積極的な注意を前提する。それでも、さまよい、広がりを広げたり狭めたりする視線の機能が、相関するノエシス的変様とノエマ的変様の独自の次元を意味することは変わらない。この変様の体系的な本質研究は、一般現象学の根本的課題に属する。
注意的形成体は、その現勢性の様態において、際立った仕方で主観性の性格をもつ。これらの様態によって様相化される機能、あるいは種類からしてこれらの様態を前提する機能も、同じ性格を得る。注目する光線は、純粋自我から発して対象的なものの上に終わり、それへ向けられ、あるいはそれから逸れるものとして、自らを与える。光線は自我から分かれず、それ自身が自我光線であり、そうでありつづける。「対象」は触発されたもの、目標点であり、ただ自我に(自我自身から)関係づけられているだけで、それ自身が「主観的」なのではない。自我光線を担う態度決定は、自我自身の作用となる。自我は行為し、あるいは被り、自由であり、あるいは制約されている。われわれはまた、自我はこうした作用の中で「生きている」とも述べた。この生は、何らかの「内容」が内容の流れの中に存在するという意味ではなく、記述できる多様な仕方である。それは、cogito という一般的な様態をもつ志向的体験の中で、純粋自我が「自由な存在」として生きる仕方である。ところが「自由な存在として」という表現は、自分から自由に出ていくことや自分の中へ戻っていくこと、自発的に行うこと、対象から何かを経験し被ることなど、そうした生の様態以外の何も意味しない。体験の流れの中で自我光線ないし cogito の外で進行することは、本質的に異なる仕方で性格づけられ、自我の現勢性の外にある。しかし、以前に示唆したように、自由な自我の作用のための潜勢性の野であるかぎりで、自我への帰属性をもつ。
ノエシス的・ノエマ的な主題の特徴づけは、以上で足りる。これらは、注意の現象学で体系的に扱わなければならない。
§93 意識のより高次の圏域のノエシス的・ノエマ的構造への移行 続いて、「より高次の」意識の圏域の構造を取り上げる。一つの具体的な体験のなかで複数のノエシスが積み重ねられ、ノエマ的相関者も基づけられたものとなる。どのノエシス的契機にも、それに特有に対応するノエマ的契機が伴うのが、本質法則だからである。
より高次のノエシスを具体的に完全な形でとらえるなら、そのノエマ的内実には、まず主として目につく中心的な核が現れる。それは「思念された客観性そのもの」であり、現象学的還元が要求するとおりの、引用符つきの客観性である。この中心的なノエマは、意識されたものそのものとして成り立つ、変様された客観的内実のとおりに受け取らなければならない。のちには、この新しい種類の客観性が、その所与の仕方、「性格」、多様な様態をもち、それらをもって当該のノエシス的体験の完全なノエマのなかで意識されたものであることが分かる。というのも、変様して受け取られた客観的なものは、意味という名目のもとでは、たとえばこれについてのわれわれの学問的探究のように、それ自身がふたたび客観的なものとなるからである。ただし、それは独自の品位をもつ客観的なものである。ここでも、ノエマにおけるあらゆる区別には、変様されていない客観性における平行する区別が対応しなければならない。
たとえば知覚のような一定の種類のノエマについて、何が種類そのものによって、何が区別を生む特殊化によって本質法則的に拘束されるのかを確定することは、さらに立ち入った現象学的研究の課題である。しかしこの拘束は全体を貫いている。本質の圏域には偶然はなく、すべては本質関係によって結びつけられている。とりわけノエシスとノエマがそうである。
§94 判断の領域におけるノエシスとノエマ 基づけられた本質のこの圏域から、一例として述定的判断を考察しよう。判断すること、すなわち具体的な判断体験のノエマは、「判断されたものそのもの」である。これは、われわれがふつう単に判断と呼ぶものにほかならず、少なくともその主要な核においてはそれにほかならない。
完全なノエマをとらえるには、具体的な判断作用において意識されているままの、完全なノエマ的具体性において受け取らなければならない。判断されたものを、判定されたものと取り違えてはならない。判断作用が知覚やそのほかの単純に「措定する」表象作用に基づいて組み立てられるとき、表象作用のノエマは判断作用の完全な具体性に入り込み、一定の形式をとる。ちょうど表象するノエシスが、具体的な判断のノエシスの本質構成要素になるのと同じである。表象されたものは、アポファンシス的な主語ないし目的語などの形式を得る。簡単のため、言語的「表現」というより高い層は度外視する。これらの「について語られる対象」、とりわけ主語対象が、判定されたものである。それらから形づくられた判断された内容の全体を、体験において「意識されたもの」であるとおりに、性格づけと所与の仕方とともに受け取ったものが、完全なノエマ的相関者であり、判断体験の最も広く解された「意味」をなす。より精確に言えば、それは「その所与の仕方のありようにおける意味」であり、所与の仕方がその意味に性格として見いだされるかぎりでのものである。
ただしこのとき、現象学的還元を見落としてはならない。判断体験の純粋なノエマを得ようとするなら、この還元は判断を下すことを「括弧に入れる」よう求める。そうすれば、現象学的純粋さのもとで、具体的に本質としてとらえられた判断のノエシスと、それに対応し必然的にそれと一つになった判断のノエマ、すなわちエイドスとしての「下された判断」とが、向かい合う。
心理学主義者は、これらすべてにつまずくだろう。彼らはすでに、経験的体験としての判断作用と、「理念」すなわち本質としての判断とを区別しようとしない。この区別は、われわれにはもはや基礎づけを要しない。しかしこれを受け入れる者でさえ、この一つの区別ではまったく足りず、判断の志向性の本質に属する二つの側面にわたる複数の理念を固定する必要があると言われて、驚くだろう。何よりもまず、ここでも、あらゆる志向的体験と同じく、ノエシスとノエマという二つの側面を原理的に区別しなければならない。
ここで批判的に述べておく。論理学研究で確定された「志向的」および「認識的」本質の概念は、正しいが、なお第二の解釈が可能である。原理的には、ノエシス的本質だけでなく、ノエマ的本質をも表す表現として理解できるからである。また、論理学研究で一面的に遂行されたノエシス的統握は、純粋に論理学的な判断概念の構想にとっては、まさに問題になる統握ではない。この判断概念は、純粋論理学が純粋なマテシスの意味で要求するものであり、規範的な論理学的ノエシス論のノエシス的な判断概念とは対立する。すでに日常の言葉づかいにも現れている、判断を下すことと下された判断との区別は、正しいものを指し示しうる。すなわち、判断体験には相関的に、その端的な判断がノエマとして属している。
これが、「判断」ないし純粋論理学的な意味での命題として理解されることになる。ただし純粋論理学が関心をもつのは、完全な内実におけるノエマではなく、より狭い本質によってのみ規定されたと考えられたかぎりでの、同じノエマである。この本質をより詳しく規定する道は、先に述べた論理学研究の区別の試みが示している。特定の判断体験から出発して完全なノエマを得ようとするなら、「その」判断を、まさにこの体験において意識されているとおりに受け取らなければならない。これに対して形式論理学的な考察では、「その」判断の同一性ははるかに広く及ぶ。明証的な判断「SはPである」と「同じ」盲目的な判断とは、ノエマ的には異なるが、意味の核に関しては同一であり、この核だけが形式論理学にとって規定的になる。これは、知覚のノエマと、同じ対象をまったく同じ規定内容で、同じ性格づけ、たとえば「確実に存在するもの」「疑わしく存在するもの」において表象する、平行的な現前化のノエマとの区別に似ている。作用の種類は異なり、そのほかにも現象学的な違いの余地は大きく残るが、ノエマ的な何かは同一である。いま性格づけた判断の理念は、形式論理学の基本概念をなす。形式論理学とは、mathesis universalis のうち、述定的な意義に関わる部門である。この理念には、相関的にノエシス的理念が対置される。それは第二の意味での「判断」、すなわち判断すること一般として、形相的に、また形式のみによって規定された一般性において理解されたものであり、判断することの形式的でノエシス的な正当性論の基本概念である。
以上はすべて、ほかのノエシス的体験にも当てはまる。述定的確信としての判断と本質的に類縁のあらゆるもの、すなわち対応する憶測、推測、疑い、さらには拒否にも当てはまる。その一致は、ノエマにおいて同一の意味内実が現れ、それがただ異なる「性格づけ」を備えているだけ、という程度にまで及びうる。同じ「SはPである」が、確信の、可能なものとして憶測することの、あるいは推測することなどの、ノエマ的な核でありうる。ノエマのなかで「SはPである」は、内容として取り出されて考えられるかぎり、単独で立たず、非自立的である。それはそのつど、「確実」「可能」「蓋然的」「無効」などの移り変わる性格づけのなかで意識されており、完全なノエマはこの性格づけなしでは済まない。これらの性格には、変様を与える引用符が属し、相関者として、可能と見なす、蓋然的と見なす、無効と見なすなどのノエシス的体験契機に、特別に対応づけられている。
これによって同時に分かるように、「判断の内容」にも、同様に推測の内容、問いの内容にも、二つの基本的な概念が分かれ出る。論理学者はしばしば、必要な区別を欠いたまま、判断の内容という言い方を、判断というノエシス的概念ないしノエマ的・論理学的概念、つまり先に性格づけた二つの概念を意味するように用いる。これらに平行して、推測、問い、疑いなどにも、対応する概念の対がある。それらは判断の二つの概念とも、また互いにも、当然決して一致しない。ところがここでは、判断の内容の第二の意味が現れる。それは、判断が、推測(ないし推測すること)、問い(ないし問うこと)、その他の作用のノエマ、ないしノエシスと同一に共有しうる「内容」としての意味である。
§95 情意と意志の圏域における類比的な区別 類比的な論述は、情意と意志の圏域にも当てはまる。気に入ることと気に入らないこと、評価すること、望むこと、決意すること、行為すること。これらの体験はいずれも、複数の、しばしば多重の志向的な層をもち、ノエシス的な層とノエマ的な層とを含む。
その際、層は、一般的に言えば、全体現象の最上層が脱落しても、残りが具体的に完全な志向的体験であることをやめない、というあり方をしている。逆に、具体的体験が新たなノエシス的全体層を受け入れることもできる。たとえば、具体的な表象の上に、非自立的な契機である「評価すること」が積み重なる場合、あるいはそれが再び脱落する場合である。
知覚すること、想像すること、判断することなどが、それを完全に覆う評価の層を基づけるとき、最高の段階から名づければ具体的な評価体験である基づけの全体のなかには、異なるノエマ、ないし意味がある。知覚されたものそのものは、意味として、とくに知覚することに属しているが、具体的な評価の意味にも入り込み、その意味を基づけている。したがって、評価において価値あるものとして立っている対象、物、性状、事態、あるいは評価の意識を基づける表象や判断などの対応するノエマを、価値対象そのもの、価値事態そのもの、あるいはそれらに対応するノエマ的変様から区別しなければならない。さらに、具体的な価値意識に属する完全なノエマも区別しなければならない。
より明確にするため、ここでも、またすべての類比的な場合にも、区別を与える相対的な名辞を導入するのがよい。価値ある対象と価値対象、価値ある事態と価値事態、価値ある特性と価値特性を、よりよく区別して保つためである。ただしこの区別自体が、さらにもう一度二義的である。価値あるものである単なる「事象」、すなわち価値性格、価値性をもつ事象がある。これに対して具体的な価値そのもの、すなわち価値客観性がある。同様に並行して、単なる事態ないし事情と、価値事態ないし価値事情がある。これは、評価が基づける土台として事態意識をもつ場合である。価値客観性はその事象を含意しており、新たな客観的層として価値性をもち込む。価値事態は、それに属する単なる事態を自らのうちに含み、価値特性もまた、事象特性を、さらにそれを越えて価値性を含む。
ここでも、端的な価値客観性と、ノエマのうちにある、引用符つきの価値客観性とを区別しなければならない。知覚することに対して、知覚されたものそのものが、知覚されたものが真に存在するかという問いを除外する意味で向かい合うように、評価することに対しては評価されたものそのものが向かい合い、しかもここでも、価値の存在、すなわち評価された物の存在とその真に価値あるものであることとは、問いの外にとどまる。現勢的な措定はすべて、ノエマをとらえるために遮断しなければならない。そしてふたたび、評価することの完全な「意味」には、当の評価体験において意識されている、その充実の全体をともなう評価の「何」が属すること、引用符つきの価値客観性が、そのままで完全なノエマであるわけではないことに、よく注意しなければならない。
意志の圏域でも、これまでの区別は同様に遂行される。
一方に、われわれがそのつど遂行する決意することがある。それは、地盤として必要とするあらゆる体験を自らのうちに含み、多様なノエシス的契機が属する。意志の措定の根底には、評価する措定、物の措定などがある。他方に、意志の領域に特有に属する固有の種類の客観性として決意がある。それは、同じようなほかのノエマ的客観性に基づけられている。われわれが現象学者としてすべての措定を遮断すれば、意志の現象には、現象学的に純粋な志向的体験として、ふたたびその「意志されたものそのもの」が残る。それは、意志することに固有のノエマ、「意志の思念」であり、この意志において「思念」であるとおりのものであって、何が、何を目指して意志されているかのすべてとともにある。
いま「思念」と言った。この語は、「意味」や「意義」と同じく、ここでどこでも自然に浮かんでくる。思念することないし思いなすことには思念が、意義づけることには意義が対応する。しかしこれらの語はすべて、転用による多義を非常に多くまとっている。その多義には、学問的な分離を厳密に遂行しなければならない相関的な層へのすべり込みから生じたものも、少なくない。そのため、最大限の用心が適切である。われわれの考察は、本質上の類「志向的体験」の最も広い外延のなかを動いている。ところが「思念する」という言い方は、ふつうはより狭い圏域に限られ、しかもそれらは同時に、より広い圏域の現象の下位層としてはたらく。したがって、この語およびそれに近縁の表現が名辞として考慮されうるのは、これらのより狭い圏域に対してだけである。一般的なものには、新しい名辞と、添えた例示的な分析のほうが、確かにより良い役に立つ。
§96 以後の諸章への移行 結びの注意 ノエシス、すなわちそのノエシス的構成要素を強調して名づけられた具体的に完全な志向的体験と、ノエマとの区別を一般的に取り出すことに、これほど注意を払ってきたのは、この区別をとらえ使いこなすことが、現象学にとって最大の射程をもち、正しい基礎づけにとって決定的だからである。一見、自明なことが問題になっているように見える。すべての意識は何ものかについての意識であり、意識の仕方は非常にさまざまである。しかし近づくと、大きな困難を感じた。その困難は、ノエマの存在の仕方、すなわちノエマが体験のなかに「ある」、体験のなかで「意識されている」とはどういうことかの理解に関わる。とりわけ、実的な構成部分として体験そのものに属するものと、ノエマに固有のものとして割り当てられるべきものとの、きれいな区別に関わる。ノエシスとノエマの平行する構造の正しい分節にも、その後なお十分な困難がある。この区別の主要部分は、最初に現れる表象と判断においてすでに首尾よく遂行した。それらについては論理学が価値ある、しかしとうてい十分とは言えない準備作業を与えている。だが情意作用における平行的な区別を、ただ要請し主張するだけでなく、実際に明晰な所与性にもたらすには、いくらかの労苦と自己克服が必要である。
単に上へ導くだけのわれわれの省察の連関のなかでは、現象学の諸部分を体系的に遂行することは課題たりえない。それでも、われわれの目的は、これまでよりも深く事象に立ち入り、そうした探究の端緒を描き出すことを求めている。これは、ノエシス的・ノエマ的構造を、現象学の問題系と方法論にとっての意義が理解できるまで明晰にするために必要である。現象学の豊かさ、問題の大きさ、進め方の性格について内容の豊かな表象を得られるのは、領域から領域へと実際に足を踏み入れ、それぞれの問題の広がりを目に見える形にしたときだけである。そうした領域が確かな作業の地盤として感じとられるのは、現象学的な区別立てと解明を遂行することによってのみであり、これによって初めて問題の意味も理解できる。今後の分析と問題の指摘は、これまでのものが部分的にすでにそうしてきたように、この流儀に厳密に従うべきである。扱う素材は初心者にはどれほど多様に見えようとも、われわれは限られた圏域にとどまり、現象学への入口に比較的近いもの、全体を貫く体系的な主要線を追うために無条件に必要なものを優先する。すべてが難しく、固有に現象学的な本質直観が与えるものへの、骨の折れる集中を要求する。現象学への、したがって哲学への「王道」はない。あるのはただ一つの道、現象学自身の本質が指し示す道だけである。
最後に一言。現象学は、われわれの叙述では始まりつつある学問として現れる。ここで試みた分析の成果のうち、どれだけが最終的であるかは、将来が教えるほかない。記述してきたことの多くは、sub specie aeterni、別様に記述されねばならなくなるだろう。ただし、一つのことは目指してよいし、目指さねばならない。われわれの立場から、真剣きわまる研究を経て実際に見ているものを、一歩ごとに忠実に記述することである。われわれの方法は、未知の大陸を行く探検家のそれである。探検家は、整備されていない、いつも最短とは限らない道で目に入ってくるものを、念入りに記述する。時と状況に応じて語られねばならなかったことを語り出したのだという、確かな意識に満たされてよい。語られたことは、見たものの忠実な表現であるから、新たな研究が数々の改善を伴う新たな記述を要求するとしても、いつまでも価値を保つ。同じ心構えで、われわれは今後も、現象学的な形成物の忠実な叙述者であろうと思う。そのうえで、自分自身の記述に対しても、内的な自由という習慣を保ちたい。
第四章 ノエシス的・ノエマ的構造の問題性
§97 ヒュレー的契機とノエシス的契機は実的な体験契機であり、ノエマ的契機は非実的な体験契機である 前章で、ノエシス的なものとノエマ的なものとの区別を導入するにあたって、実的分析および志向的分析を語った。その話に戻る。現象学的に純粋な体験は、それ固有の実的な構成要素をもつ。簡単のため、最下位の段階のノエシス的体験に話を限る。思考作用や情意作用・意志作用で確認したように、ノエシス的な層が幾重にも積み重なって志向性が複合しているような体験は、ここでは除く。
例として、感性的知覚、すなわち単純な樹木の知覚を取り上げよう。庭を眺めやったとき、意識の一つの統一のうちで、あそこのこの木を眺めている。木は今静かに立っており、やがて風に動かされて現れる。持続的に眺めているあいだに、窓辺に歩み寄って木に対する空間的な位置を変え、あるいは頭や目の向きを変え、遠近調節を緩めたり緊張させたりすれば、木はその点でもきわめて多様な現出の仕方で与えられる。このように一つの知覚の統一は、多様な変様を自らのうちに含みうる。自然的に態度をとって観察するわれわれは、それらの変様を、あるときは現実の客観の変化に、あるときは実在的な心理物理的主観性との関係に、最後にはこの主観性そのものに帰する。しかしいま問われるのは、「純粋な内在」へと還元するとき、現象学的残余として何が残るのか、純粋な体験の実的な構成部分として認めてよいものは何か、何がそうでないのかを記述することである。そこで、次のことを完全に明らかにしておかねばならない。一方で、知覚体験の本質には、それ自身において「知覚された木そのもの」という完全なノエマが属する。このノエマは、木自体と世界全体の現実を遮断しても影響を受けない。しかし他方で、引用符に入れた「木」をもつこのノエマは、現実の木と同様に、知覚のうちに実的には含まれていない。
知覚の中に、部分・断片・切り離せない契機として、実的に何を見いだすか。それは真正の実的構成部分であり、すでにおりにふれて、素材的構成部分およびノエシス的構成部分という名で取り出してきた。これらをノエマ的な諸要素と対比しよう。
木の幹の色は、純粋に知覚において意識されたものとして、現象学的還元の前に現実の木の色として受け取っていたものと、まさに「同じ」である(少なくとも「自然的」人間として、物理学的知識が混入する前には、そうである)。この色こそ、括弧に入れられて、ノエマに属する。しかし、知覚体験の実的な構成部分としては属さない。もっとも、知覚体験のうちにも「色のようなもの」を見いだしはする。それは「感覚色」であり、具体的な体験のヒュレー的契機であって、そのうちでノエマ的な、ないし「客観的」な色が「射映する」。
一つの同じノエマ的な色は、変化しうる知覚意識の連続的な統一のうちで、同一的でそれ自体は変化しない一つの色として意識されるが、この色は、感覚色の連続的な多様のうちで射映する。われわれは、木を、その色に関して変化しないものとして見ている。そのあいだ、目の向きや相対的な定位は幾重にも変わり、視線は幹や枝の上を絶え間なく動き、われわれは近づいて、さまざまな仕方で知覚体験を流動させる。射映に向かう感覚反省を遂行すれば、その射映を明証的な所与として把握する。そして完全な明証のうちで、態度と注意の向きを交互に変えながら、射映と対応する対象的契機とを関係づけ、対応するものとして認識することもできる。その際、ある固定された物の色に属する射映の色が、「統一」が連続的な「多様」に対するのと同じように振る舞うことも、ただちに見てとれる。
現象学的還元の遂行のなかで、次のような一般的な本質洞察さえ得る。木という対象が、知覚のうちで現れるとおりに客観的に規定されたものとして現れうるのは、ヒュレー的契機(連続的な知覚系列であれば連続的なヒュレー的変化)がまさにそのとおりのものであって、ほかのものではないときに限られる。ここには、次のことが含まれている。知覚のヒュレー的内容がどう変わっても、それが知覚意識そのものを端的に廃棄するのでない限り、少なくとも、現れるものが客観的に「別のもの」になるという結果を、必ずもたらす。それは、現れるもの自体において別のものになる場合もあれば、その現出に属する定位の仕方などにおいて別のものになる場合もある。
以上から、「統一」と「多様」がまったく異なる次元に属することは、疑いえない。ヒュレー的なものは、実的な構成部分として体験に属する。そこで多様なものとして「表示する」もの、「射映する」ものは、ノエマに属する。
素材は、先に述べたように、ノエシス的契機によって「魂を吹き込まれて」いる。自我が素材にではなく対象に向けられているあいだ、素材は「統握」や「意味付与」を経験する。これらは、反省において、まさに素材において、素材とともに把握される。ここからただちに、次のことが帰結する。ヒュレー的契機(感覚色や感覚音など)だけでなく、それに魂を吹き込む統握も、すなわち両者が一つになったもの、つまり色や音、さらに対象のあらゆる性質の現出も、体験の「実的」な内実に属する。
一般に、知覚はそれ自身において、それ自身の対象の知覚である。「客観的に」向けられた記述が対象について取り出すどの構成要素にも、知覚の実的な構成要素が対応する。ただし、よく注意すべきことに、それは、記述が、この知覚そのものにおいて「そこに立っている」とおりの対象に、忠実に従っている限りでのことである。これらのノエシス的な構成要素はすべて、ノエマ的な客観とその契機に遡ることによってしか、名指すことができない。たとえば、木の幹についての知覚意識、幹の色についての知覚意識、と言うことになる。
他方で、考察が示したように、ヒュレー的構成部分とノエシス的構成部分から成る実的な体験の統一は、「そのうちで意識された」ノエマの構成部分の統一とはまったく異なる。さらにそれは、これらすべての実的な体験の内実を、それらを通じて、またそれらのうちで意識にもたらされるノエマと一つにする統一とも異なる。素材的体験に「基づいて」、ノエシス的機能「によって」、「超越論的に構成されたもの」は、われわれが純粋な直覚において体験とそのノエマ的に意識されたものを忠実に記述するなら、明証的な所与である。しかしそれは、体験を実的な、したがって本来の構成要素として成り立たせているものとは、まったく別の意味で体験に属する。
現象学的還元を、また同様に純粋な体験の圏域を「超越論的」と呼ぶのは、次の理由による。この還元においてわれわれは、素材とノエシス的形式の絶対的な圏域を見いだす。この圏域の、特定の性格をもつ織り合わせには、内在的な本質必然性に従って、これこれと与えられた規定されたもの、ないし規定されうるものを、驚くべき仕方で意識にもつことが属する。この規定されたものは、意識そのものにとって向かい合うもの、原理的に別のもの、非実的なもの、超越的なものである。ここは、超越的なものについての客観的に妥当な認識の本質と可能性にかかわる、最も深い認識問題の、考えうるただ一つの解決にとって、根源の泉である。「超越論的」還元は、現実に関してエポケーを行う。しかしこの還元が現実から残すものには、ノエマが、それ自身のうちにあるノエマ的統一とともに属する。したがって、実在的なものが意識そのもののうちでまさに意識され、とりわけ与えられる仕方も、残るものに属する。ここで問題になっているのがまったく形相的な、すなわち無条件に必然的な連関であるという認識は、研究のために大きな領野を開く。それは、ノエシス的なものとノエマ的なもの、意識体験と意識の相関者とのあいだの、本質的関係の領野である。後者の本質名称には、意識対象性そのものが含まれ、同時に、思念されていること、ないし所与性という、ノエマ的な「いかに」の諸形式が含まれる。われわれの例の圏域では、まず次の一般的な明証が生じる。知覚は、対象を空虚に現在にもつことではない。「a priori」知覚固有の本質には、「それの」対象をもつこと、しかもそれをあるノエマ的内実の統一としてもつことが属する。この内実は、「同じ」対象についての別の知覚では、そのつど別のものになるが、いつも本質上あらかじめ描かれている。また、そのつど客観的にこれこれと規定された対象の本質には、まさにこのような記述的種類の知覚においてノエマ的であること、そしてそれらにおいてのみそうでありうることなどが属する。
§98 ノエマの存在の仕方 ノエシスの形式論 ノエマの形式論 しかし、なお重要な補足が必要である。まず、次の点に十分注意しなければならない。ある現象から、それ自身を実的に分析する反省へ移ること、またそのノエマを分解する、まったく別種の反省へ移ることは、いずれも新たな現象を生み出す。この新たな現象は、ある意味で古い現象の改作である。これを古い現象と取り違え、古い現象のうちに実的ないしノエマ的にあるものを新しい現象に帰すなら、誤りに陥るだろう。たとえば、射映する色の素材的内容が、知覚体験においても、分析する体験においてと同じようにあると考えているわけではない。知覚体験では、それらは実的な契機として含まれていたが、そこでは知覚されておらず、対象として把握されてもいなかった。ところが分析する体験においては、それらは対象的であり、以前にはなかったノエシス的機能の目標点である。これらの素材がなお表示機能を帯びているとはいえ、この表示機能もまた本質的な変化を(別の次元のものだが)被っている。このことは後でなお論じる。この区別が現象学的方法にとって本質的に重要であることは明らかである。
次に、われわれの特別な主題に属する諸点に目を向けよう。どの体験も、その体験とその実的な構成要素に眼差しを向け変えることが原理的に可能であり、逆の方向でノエマ、たとえば見られた木そのものに眼差しを向け変えることも原理的に可能である。この眼差しの向けられ方において与えられるものは、論理学的に言えば、それ自身は対象であるが、まったく非自立的な対象である。その esse は、もっぱらその「percipi」にのみ存する。ただしこの命題は、バークリーの意味ではおよそ成り立たない。ここでは percipi は esse を実的な構成部分として含んでいないからである。
これは当然、形相的な考察の仕方にも移される。ノエマのエイドスはノエシス的意識のエイドスを指し示し、両者は形相的に一つに属する。志向的なものそのものは、それについての意識であるような、これこれの種類の意識の志向的なものとして、まさにそれであるところのものである。
しかし、この非自立性にもかかわらず、ノエマはそれだけで考察でき、他のノエマと比較でき、その可能な改変にしたがって探究できる。ノエマの一般的で純粋な形式論を構想することができる。これに相関的に対置されるのは、ヒュレー的な構成要素と特有のノエシス的な構成要素をもつ、具体的なノエシス的体験の形式論であり、これもまた一般的で、同様に純粋なものである。
この二つの形式論は、けっして、いわば鏡像のように互いに関係するわけではなく、符号を変えるだけで互いに移行するわけでもない。たとえば、どのノエマ N にも「N についての意識」を代入すればよい、というようなことではない。このことは、すでに述べたこと、すなわち物のノエマにおける統一的な性質と、可能な物の知覚におけるそれらのヒュレー的な射映の多様との、相互帰属から明らかである。
同じことは、特有のノエシス的契機についても成り立つはずだ、と思われるかもしれない。とくに、ヒュレー的所与の複合的な多様、たとえば色の所与や触覚の所与が、一つの同じ客観的な物の多様な射映という機能を獲得するようにさせる契機を、指摘できよう。素材そのものには、その本質上、客観的統一への関係は一義的にあらかじめ描かれていない。むしろ同じ素材的複合が、離散的に互いに飛び移る複数の統握を経験しうるのであり、それに応じて異なる対象性が意識される。それならば、魂を吹き込む統握そのものに、体験契機として本質的な違いがあることは明らかではないか。その違いは、統握が魂を吹き込み、「意味」を構成するかぎりで、射映とともに分化するのではないか。そこで結論を引き出したくなる。ノエシスとノエマのあいだには並行性があるが、諸形成は双方で、その本質上の対応関係において記述されねばならない。ノエマ的なものは統一の領野であり、ノエシス的なものは「構成する」多様の領野だ、というのである。多様なものを「機能的に」統一し、同時に統一を構成する意識は、ノエマ的な相関者に「対象」の同一性が与えられているところで、けっして同一性を示さない。物の統一を構成する持続的な知覚を考えよう。その異なる区間は、同一のもの、すなわちこの知覚の意味において変化しないこの一本の木を示す。木は、この定位で、次にはあの定位で、前面から、次には背面から現れ、視覚的に捉えられたある箇所の性状に関しては、はじめは不明瞭で未規定に、次いで明瞭で規定されて現れる。ノエマのうちに見いだされる対象は、文字どおりの意味で同一のものとして意識される。しかしその対象についての意識は、内在的な持続の異なる区間では同一ではなく、ただ結びつけられた、連続的に一つになったものである。
ここで述べられたことにどれだけ正しい点があるにせよ、引き出された結論は完全に正確なわけではない。こうした微妙な問題では、最大限の慎重さが求められる。並行性は複数あり、あまりに容易に混ざり合い、大きな、なお大いに解明を要する困難がつきまとっている。具体的なノエシス的体験、すなわちヒュレー的契機も含めた体験と、純粋なノエシス、すなわちノエシス的契機の単なる複合とを区別して、念入りに視野に入れておかねばならない。さらに、完全なノエマと、たとえば知覚の場合の「現れる対象そのもの」とを、区別したままにしておかねばならない。この「対象」とそのあらゆる対象的な「述語」は、たしかに、構成する意識体験(具体的なノエシス)の多様に対する統一である。ここで述語とは、通常の知覚では端的に現実のものとして措定される、知覚された物の述語の、ノエマ的な変様である。しかしそれらは同時に、ノエマ的な多様の統一でもある。ノエマ的「対象」(とその「述語」)のノエマ的な性格づけを、われわれはこれまで甚だしく無視してきた。それを注意の圏内に引き入れるやいなや、このことを認識する。たとえば、現れる色は、たしかにノエシス的な多様、とりわけノエシス的な統握性格の多様に対する統一である。だが、より詳しい研究が示すように、これらの性格のあらゆる変化には、そこでたえず現れている「色そのもの」においてではないにせよ、色の変化する「所与の仕方」、たとえば色が現れる「私に対する定位」においては、ノエマ的な並行物が対応する。こうして、ノエマ的な「性格づけ」には、ノエシス的なものが映し出される。
それがどのようにしてそうなのかは、例として優先した知覚の圏域に限らず、包括的な分析の主題とならねばならない。さまざまな意識の種類を、その多様なノエシス的性格とともに順に分析し、ノエシス的・ノエマ的な並行物を探究していくことになる。
しかしあらかじめ心に刻んでおかねばならない。ノエマ的にこれこれと「思念された」対象、すなわち「意味」における対象の統一と、構成する意識形成とのあいだの並行性(「ordo et connexio rerum – ordo et connexio idearum」)を、ノエシスとノエマの並行性、とくにノエシス的性格と対応するノエマ的性格との並行性として理解されたものと、取り違えてはならない。続く考察は、この後者の並行性に向けられる。
§99 現在化と現前化の圏域におけるノエマ的核とその性格 したがって、完全なノエマと完全なノエシスに到達するには、ノエシス的出来事とノエマ的出来事の二つの並行する系列のうちで示されたものの範囲を、大幅に広げることが課題である。これまで主として視野に置いてきたものは、そこにどれほど大きな問題が含まれているかは予想もしていなかったが、中心的な核にすぎず、しかもその核は一義的に限定されてさえいない。
まず、あの「対象的意味」を想い起こそう。それは、先に、種類の異なる表象、すなわち知覚・想起・像表象などのノエマを比較することによって得られたものである。それは、もっぱら客観的な表現だけで記述でき、有利に選ばれた極限の場合には、互いに同一の表現で記述できる。その極限の場合とは、まったく同じで、同じように定位され、あらゆる点で同じように統握された対象、たとえば一本の木が、知覚において、想起において、像において、などと現れる場合である。同一の「現れる木そのもの」と、現れ方の同一の「客観的」な「いかに」に対して、直観の種類から直観の種類へ、またそのほかの表象の種類に応じて変わる所与の仕方の違いが残る。
あの同一のものは、あるときは「原的に」、別のときは「想起として」、さらに別のときは「像として」意識される。しかしこれが示すのは、「現れる木そのもの」における性格であって、ノエマ的相関者へ向かうまなざしの方向で見いだされるのであり、体験とその実的な内実へ向かう方向で見いだされるのではない。したがってここに表現されているのは、ノエシス的契機という意味での「意識の仕方」ではなく、意識されたもの自身がそのものとして与えられる仕方である。いわば「観念的」なものにおける性格として、それらは自身「観念的」であって、実的ではない。
より詳しく分析すれば、例として挙げた性格が一つの系列に属するのではないことに気づく。
一方には、単純な再生的変様、すなわち単純な現前化がある。これはそれ自身の本質において、きわめて奇妙なことに、他のものの変様として与えられる。現前化は、それ自身の現象学的本質において知覚を指し示す。たとえば過去のことを想起することは、すでに述べたように、「知覚したことがある」ことを含意する。「対応する」知覚(同じ意味の核をもつ知覚)は、何らかの仕方で想起のなかで意識されているが、実際に想起のなかに含まれているわけではない。想起はそれ自身の本質において、知覚の「変様」なのである。相関的に、過去として性格づけられるものは、それ自体において「現在であった」ものとして、すなわち「現在」の変様として与えられる。この「現在」は、変様されていないものとしては、知覚の「原的」な、「有体的に現在する」ものである。
他方、像化的変様は、別の変様の系列に属する。それは「像」「のなかで」現前化する。ところが、像は原的に現出するものでありうる。たとえば「描かれた」像がそうである。それは、壁に掛かっていると言われるような物としての絵画ではなく、われわれが知覚的に把握するものである。しかし像は、想起や自由な想像のなかで像表象をもつときのように、再生的に現出するものでもありうる。
同時に、この新しい系列の性格は、第一の系列の性格に連関しているだけでなく、複合をも前提としていることがわかる。その複合は、意識の本質にノエマ的に属する「像」と「像に描かれたもの」との区別を顧慮してのことである。ここからさらに、ノエマがそのつど、互いを指し示す一対の性格、しかもそれぞれ異なる表象対象そのものに属する性格を、自らのうちに含んでいることもわかる。
最後に、変様するノエマ的性格の、近縁でありながら新しいタイプを、記号表象が提供する。このタイプにも、いたるところでそうであるように、並行するノエシス的性格が対応している。そこでは記号と表示されるものとが類比的に向かい合っている。ここでもまた表象の複合体が現れ、記号表象としてのその独特の統一の相関者として、ノエマ的な対象の対に即して、ノエマ的に互いに属し合う性格づけの対が現れる。
また、「像」が、像としてのその意味に従って、それ自身において、何かの変様として、すなわちこの変様がなければまさに有体的な、あるいは現前化された自己として立っているはずのものの変様として与えられるのとまったく同じように、「記号」もまた、その仕方においてではあるが、何かの変様として与えられることに気づく。
§100 ノエシスとノエマにおける表象の、本質法則的な段階形成 これまでに扱ったすべての表象変様のタイプは、つねに新たな段階形成を受け入れる。その結果、ノエシスとノエマにおける志向性は段階状に積み重なる。あるいはむしろ、独特の仕方で入れ子状に重なる。
単純な現前化、すなわち知覚の単純な変様がある。しかし、第二段、第三段の、そして本質上は任意の段の現前化もある。例としては、想起「のなかの」想起が役立つ。想起のなかに生きるとき、われわれは体験の連関を現前化の様態で「遂行」している。そのことは、想起「のなかで」反省することによって確かめられる。この反省は、それ自身が原的な反省することの現前化変様である。そのとき、体験の連関は、想起に即して「体験されていた」と性格づけられているのが見いだされる。こうして性格づけられた体験のなかには、それらに反省するにせよしないにせよ、それ自身想起が現れうる。それは「体験されていた想起」と性格づけられ、まなざしはそれらを通り抜けて、第二段の想起されたものに向けられうる。二次的に変様された体験連関のなかには、さらに想起が現れうるし、こうして観念的には無限に続く。
単なる符号の変更が、これらすべての出来事を自由な想像のタイプへと移す。その独特の性格を、われわれはのちに理解することになる。こうして、想像のなかの想像が生じ、さらに任意の入れ子の段にまで及ぶ。
同様に、さらに混合がある。あらゆる現前化は、その本質上、すぐ下の段に関して、知覚の現前化変様を自らのうちに含んでいる。これらは、現前化のなかの驚くべき反省によって、把握するまなざしのなかに入ってくる。しかも、それだけではない。一つの現前化現象の統一のなかで、知覚の現前化と並んで、想起、期待、想像などの現前化も同時に見いだされうる。そのとき、当の現前化そのものが、これらのどのタイプのものでもありうる。そしてこのすべてが、異なる段で生じる。
同じことは、複合的なタイプである像的表象と記号表象にも当てはまる。高次の段の表象からなる、きわめて込み入っていながら容易に理解できる表象形成の例を取り上げよう。ある名前がそれを名指すことで、われわれにドレスデンの画廊を、そしてそこを最後に訪れたときのことを想い起こさせる。われわれは広間を歩き、画廊を描いたテニールスの絵の前に立つ。さらに、その画廊の絵がまた絵を描き、それらの絵がさらに判読できる銘文を描いている、と考えてみよう。そうすれば、表象がどれほど入れ子になりうるか、また把握されうる対象性に関して、どれほどの媒介が実際に作り出されうるかがわかる。しかし、本質洞察の例として、とりわけ入れ子の任意の継続が観念的に可能であるという洞察の例として、これほど非常に複雑な場合は必要ない。
§101 段階の特徴 さまざまな「反省」 このような段階的な形成体はすべて、その分節のなかに反復された現前化変様を含んでいる。そこでは明らかに、対応する段階形成をもつノエマが構成される。第二段の像意識では、「像」はそれ自身において、第二段の像として、すなわち像の像として性格づけられている。昨日、若いころの体験を想い起こしたことを思い出すなら、ノエマ「若いころの体験」は、それ自身において、第二段の想起されたものとして性格づけられている。
どのノエマ的段階にも、一種の指標としての段階特徴が属しており、これによって、性格づけられたものはどれも、自らが自分の段階に属することを示す。それが第一次の対象であるか、何らかの反省的なまなざしの向きのうちにある対象であるかは、ともかくである。どの段階にも、その段階のなかでの可能な反省が属しているからである。たとえば、第二の想起段階で想起された物に関しては、これらの物の、同じ段階に属する(第二段で現前化された)知覚への反省が属している。
どのノエマ的段階も、次の段階の所与性「の」「表象」である。ただし、ここで「表象」は表象体験を意味せず、「の」も意識と意識対象との関係を表さない。それはいわば、ノエシス的志向性に対するノエマ的志向性である。後者は前者を意識の相関者として自らのうちに担い、その志向性は何らかの仕方でノエマ的志向性の線を通り抜けていく。
これは、注意する自我のまなざしを意識の対象的なものに向けるなら、いっそう明らかになる。このまなざしは、段階の系列にあるノエマを通り抜けて、最後のものの対象に至り、この対象を通り抜けず、それを固定する。しかしまなざしは、段階から段階へと移ることもできる。その場合、すべてを通り抜けるのではなく、各段階の所与性に固定的に向けられる。それは、まっすぐなまなざしの向きにおいてか、反省する向きにおいてかのいずれかである。
先の例でいえば、まなざしはドレスデン画廊の段階にとどまることができる。このとき、われわれは「想起のなかで」ドレスデンと画廊を散策している。そのうえで、ふたたび想起の内部で、絵の鑑賞に生きることもでき、そのときわれわれは絵の世界のなかにいる。さらに、第二段の像意識において、描かれた画廊に向かうなら、その画廊に描かれた絵を観察する。あるいは、段階を追ってノエシスなどに反省する。
可能なまなざしの向きのこの多様は、互いに関係し合い、入れ子状に基づけられた志向性の多様に、本質的に属している。類比的な基づけを見いだすところでは、どこでも、類比的な変転する反省の可能性が現れる。以下では、まったく別種の基づけもなお多く知ることになる。これらの関係が、学問的に立ち入った本質探究を必要としていることは、言うまでもない。
§102 性格づけの新たな次元への移行 現前化による変様の領域で出会った独特な性格づけのすべてについて、すでに挙げた理由から、ノエシス的なものとノエマ的なものを区別しなければならない。ノエマ的「対象」、すなわち像対象ないし像に描かれた対象と、記号として機能する対象と表示される対象は、「〜の像」「描かれた」「〜の記号」「表示された」という性格づけを度外視すれば、明証的に、体験のなかで意識されてはいるが、体験に超越的な統一である。それゆえ、これらの対象に即して意識的に現れ、まなざしの態度においてその固有性として把握される性格を、実的な体験契機とみなすことはできない。実的な体験の内実と、その体験のなかで非実的なものとして意識されているものとが、どのような関係にあるかは、どれほど困難な問題をもたらすにせよ、この区別はどこでもしなければならない。ノエマ的核についてもそうである。この核は、「志向的対象そのもの」(「客観的」な所与の仕方においてとらえられたもの)として、ノエマ的「性格」のそのつどの担い手となる。性格そのものについても同じである。
核に付着する性格には、さらにまったく別のものがあり、核に属する仕方もきわめて多様である。それらは、性格づけの根本的に異なる次元に組み入れられる。ここで示唆される性格はすべて、必要な分析的・記述的研究の標題にほかならず、普遍的な現象学的射程をもつ。まず、比較的に最も単純な構造をもつ志向的体験、すなわち「表象」に重点をおいて扱う。それは他のすべての志向的体験に必要な基盤をなす。ただし、性格の同じ根本類と差異は、基づけられたすべての志向的体験にも、したがってすべての志向的体験にも見いだされる。つねに必然的に、一つのノエマ的核、すなわち「対象ノエマ」が意識されており、これは何らかの仕方で性格づけられていなければならない。しかも、各々の類に由来する、互いに排除し合う差異に応じて性格づけられる。
§103 信念性格と存在性格 新たな性格を探すと、まず、先に扱った性格の群に、全面的に別種の存在性格が結びつくことに気づく。存在の様態に相関するノエシス的性格が、「ドクサ的」あるいは「信念性格」である。直観的表象では、たとえば通常の知覚に「気づくこと」として実的に含まれる知覚信念、さらに詳しくは知覚の確実性がそれである。これに対応するノエマ的相関者は、現出する「対象」の存在性格、すなわち「実際に」という性格である。「確実な」再現前化も、同じ性格を示す。過去のもの、今存在するもの、将来存在するようになるものについての、あらゆる種類の「確かな」想起がそうである(将来のものについては、前もって想起するような期待がそうである)。これらは、存在を「措定する」作用、「定立的」作用である。ただし、この表現が作用を特別な意味での態度表明として指し示すとしても、その点は考慮の外に置くべきである。
知覚や想起によって現出するものは、これまで考察した圏域では、端的に「実際に」存在するものという性格、すなわち、他の存在性格と対比すれば「確実に」存在するものという性格をもっていた。というのも、この性格は変様しうるし、場合によっては同じ現象において、現勢的な変様によって別のものに変わりうるからである。「確実な」信念は、単なる憶測や推測、あるいは問いや疑いへ移行しうる。そのとき、現出するもの(性格づけの第一の次元では「原的」「再生的」などと性格づけられたもの)は、「可能な」「蓋然的な」「疑問の余地のある」「疑わしい」という存在の様相を帯びる。
知覚された対象は、はじめは素朴な自明性、確実性のうちに立っている。突然、われわれは、単なる「錯覚」の犠牲になったのではないか、見たもの、聞いたものが「単なる仮象」ではないかと疑わしくなる。あるいは、現出するものは存在の確実性を保つが、われわれは何らかの性状の複合に関して確信がもてない。その物は、人間であるかのように「思われてくる」。すると、逆の憶測が生じる。森の暗がりでは、動く人間に似て見える、動いている木かもしれない、と。しかしいま、一方の「可能性」の「重み」が著しく増す。そこでわれわれはそれを選び、「いずれにせよ、やはり木だった」と確定的に推測する。
存在の様相は、想起でも、はるかに頻繁に入れ替わる。その大部分は、純粋に直観ないし不明瞭な表象の枠内で成立し、交替するのであって、特別な意味での「思考」も、「概念」も、述語的判断も関与しない。これに属する現象は、なお多様な研究を促す。ここにはなお種々の性格(たとえば「決着した」、可能性の「重み」)が現れる。とくに、そのつどの性格の本質的な基盤を問う問い、すなわちノエマとノエシスの、本質法則によって規則づけられた構造全体を問う問いは、さらに深い探究を要求する。ここでは、他の箇所と同様に、問題群を取り出しておけば十分である。
§104 変様としてのドクサ的様相 信念様相の系列でも、前の諸系列の分析で明らかにした、変様を語ることの志向的な意味が効力を発揮する。信念の確実性は、「様相化されていない」原形式の役割を果たす。相関者でも同じで、端的な存在性格(「確実に」「実際に」存在すること)が、あらゆる存在様相の原形式として機能する。そこから湧き出る存在性格は、それ自身の意味において、この原形式へ遡って関係する。「可能な」は「可能に存在する」とほぼ同じことを意味し、「蓋然的な」「疑わしい」「疑問の余地のある」も同様である。ノエシスの志向性は、これらのノエマ的関係に映し出される。われわれはここでもあらためて、「ノエマ的志向性」を、ノエシス的な、本来そう呼ばれる志向性の「並行物」として語らざるをえなくなる。
この関係は、意味の核と存在性格との統一である完全な「命題」にも移し入れられる。
この一連の存在性格の全体に対して、存在様相という名辞を用いるのが便利である。変様されていない「存在」も、それがこの系列の一項として考察されるべきところでは、つねにこれに含める。算術家が数という名のもとに一をも含めるのと、ほぼ同様である。同じ意味で、ドクサ的様相を語ることも一般化する。この名のもとに、ノエシス的な並行物とノエマ的な並行物をまとめるが、それをしばしば意識的な両義性のうちで行う。
「確実に存在する」と呼ぶ際には、「確実な」という語の多義に注意しなければならない。この語は、ときにノエシス的な、ときにノエマ的な「確実に存在する」を意味する。さらに、肯定の相関者である「然り」を、「否」や「ない」の対応物として表すためにも用いられ、これはここではきわめて惑わしやすい。厳密に除外しておかなければならない。語の意義は、論理的に直接の等価性の枠内で絶えず移り変わる。しかしわれわれの務めは、等価性をあらゆるところで明らかにしたうえで、等価な概念の背後にある本質的に異なる現象を鋭く区別することである。
信念の確実性は、際立った意味での、端的な信念である。われわれの分析によれば、それは、信念という標題のもとに把握されるすべての作用の多様のなかで、このうえなく奇妙な特別の位置を占める。この多様は、しばしばきわめて不適切にも「判断」とさえ言われる。この特別な位置を考慮し、確実性とその他の信念様態を通常同列に置くことへの記憶をすべて消し去るような、固有の表現が必要である。そこで、原信念ないし原ドクサという名辞を導入する。これによって、明らかにしたあらゆる「信念様相」の志向的な遡及関係が、適切に表される。ドクサ的様相という表現は、原ドクサの本質に根ざす志向的変形のすべてについて用いる。以下の分析で新たに取り出されるものについても同様である。
「信念」(あるいは「判断」)という一つの類が、確実性や推測などにおいてたんに分化するのだとする学説がある。色や音が感覚性質という類の並列的な種であるように、それらも同位の種の系列をなすかのように扱う。この根本的に誤った学説は、われわれにとってもはやほとんど批判を要しない。ここでは、われわれの現象学的確認がもたらす帰結を追うことも控える。
§105 信念としての信念様相 存在としての存在様相 第二次の様態が原ドクサへ遡って関係する志向性を語るとき、この語りの意味は、複数のまなざしの向きの可能性を要求する。それは、高次の段の志向性の本質に属する。われわれは、蓋然性の意識(推測すること)に生きながら、蓋然的であるものに目を向けることができる。他方、蓋然性そのものに、そのものとして目を向けることもできる。すなわち、推測のノエシスがノエマ的対象に付与した性格のうちにある、そのノエマ的対象に目を向ける。この第二のまなざしの立場では、意味の内実をもつ「対象」は、蓋然性の性格とともに、存在するものとして与えられる。それゆえ、この対象に関する意識は、変様されていない意味での単純な信念である。可能性の意識(「憶測」)、あるいは問うことと疑うことについても、同様である。そこで可能なもの、疑問のあるもの、疑わしいものとして意識されているものに、まなざしを向けることができる。さらに、可能性、疑問性、疑わしさそのものに目を向け、場合によっては解明しつつ、意味の対象について、可能であること、疑問であること、疑わしいことを把握し、述定することもできる。そのとき、それは変様されていない意味で存在するものとして与えられている。
こうして、きわめて奇妙な本質的特性を確認できる。あらゆる体験は、そのノエシスが「志向的対象そのもの」において構成するすべてのノエマ的契機に関して、原ドクサの意味での信念意識として機能する。あるいは、次のようにも言える。新たなノエシス的性格が加わるたび、ないし古いものが変様されるたびに、新たなノエマ的性格が構成されるだけでなく、それによってただちに、意識にとって新たな存在対象が構成される。ノエマ的性格には、意味の対象に即した述定可能な性格が対応する。これらは、現実の、単にノエマ的に変様されただけではない派生的述語である。これらの文は、新たなノエマ的圏域に慣れ親しめば、いっそう明晰になるだろう。
§106 肯定と否定、およびそのノエマ的相関者 ふたたび新たな遡及的変様がある。あらゆる種類の信念様相への本質的な志向的遡及関係のゆえに、場合によっては高次の段に属する変様である。それが、拒否と、それに類比的な同意、より特殊には否定と肯定である。否定はすべて、あるものの否定であり、このあるものは、われわれを何らかの信念様相へ送り返す。ノエシス的には、否定は何らかの「措定」の「変様」である。これは肯定の変様をいうのではなく、何らかの信念様相の、拡張された意味での「措定」の変様をいう。
その新しいノエマ的な働きは、対応する措定的性格の「抹消」であり、固有の相関者は、「ない」という抹消の性格である。否定の線は、ある措定的なもの、より具体的には一つの「命題」を貫いて引かれ、その存在様相を抹消する。まさにそれによって、この性格と命題そのものは、別のものの「変様」として現れる。素朴な存在意識が否定意識に変わるとき、ノエマでは素朴な「存在する」から「存在しない」が生じる。同様に、「可能」「蓋然的」「疑問の余地のある」から、「不可能」「蓋然的でない」「疑問の余地のない」が生じる。こうして、具体的なノエマ的充実のもとで捉えられた全ノエマ、全「命題」が変様する。
否定が、比喩的に言えば線で消すのに対して、肯定は「下線を引く」。肯定は、否定のように措定を「廃棄する」のではなく、措定を「確認」し、「同意して」認める。これも抹消の変様に並行する一連のノエマ的変様をなすが、ここではこれ以上追わない。
われわれはこれまで、純粋自我の「態度決定」に固有のものを度外視してきた。純粋自我は、拒否においては、ここでは特に否定においては、拒否されたもの、すなわち抹消されるべき存在に「向かう」。それは、肯定において肯定されたものに傾き、向かうのと同じである。事情のこの記述的な側面も見落としてはならず、固有の分析が必要である。また、志向性が互いに入り組んでいることに応じて、そのつど異なるまなざしの向きが可能である。否定する意識に生きる、すなわち否定を「遂行する」とき、自我のまなざしは、抹消を受けるものに向けられている。しかし、把握するまなざしとして、抹消されたもの、線を付されたものそのものに向けることもできる。そのとき、これは新しい「対象」として、素朴なドクサ的原様態において「存在するもの」として現れる。新しい態度が新しい存在対象を生み出すのではない。拒否の「遂行」においても、拒否されたものは抹消されたという性格において意識されている。しかし新しい態度に至って初めて、この性格は、ノエマ的な意味の核の述定可能な規定となる。肯定についても、当然同じことが言える。現象学的な本質分析の課題は、この方向にもある。
§107 反復された変様 このような分析のはじまりとしてすでに身につけたものは、ただちに次のような洞察の前進を果たすのに足りる。否定されたものも肯定されたものも、それ自身が存在対象である。したがって、存在の様態において意識されるあらゆるものと同様に、肯定されることも否定されることもできる。各段階で新たに遂行される存在構成の結果として、観念的には無限に続く、反復された変様の連鎖が生じる。第一段階では、たとえば「存在しないのではない」、「不可能ではない」、「疑問の余地がないのではない」、「蓋然的でなくはない-存在する」となる。
前に論じたあらゆる存在変様についても、同じことが当てはまる。あるものが可能である、蓋然的である、疑問の余地がある、ということ自体が、ふたたび可能性・蓋然性・疑問性の様態で意識されうる。ノエシス的な形成に、ノエマ的な存在形成が対応する。すなわち、それが可能であることが可能である、蓋然的であることが可能である、疑問の余地があることが可能である。また、それが可能であることが蓋然的である、蓋然的であることが蓋然的である。あらゆる複合においてこの調子である。さらに、より高次の形成には、あらためて肯定されたものと否定されたものが対応し、これらはまたしても変様されうる。こうして、観念的には無限に進む。これは単なる言葉の反復ではまったくない。確率論とその応用を思い起こせばよい。そこでは、可能性と蓋然性が絶えず、考量され、否認され、疑われ、推測され、問われ、確定されている。
変様を語るとき、つねに注意しなければならない。一方では、現象の可能な変換、したがって可能な現勢的操作に関係する。他方では、ずっと興味深い、ノエシスないしノエマの本質的特性に関係する。この特性とは、成立をまったく考慮に入れなくても、それ自身の本質において、他の、変様されていないものを指し示すということである。どちらの面でも、純粋に現象学的な地盤に立つ。変換や成立を語ることは、ここでは現象学的な本質的出来事に関わり、自然の事実としての経験的体験については、少しも述べていないからである。
§108 ノエマ的性格は「反省」規定ではない ノエシスとノエマの新しい群を明晰な意識にもたらすたびに、あらためて根本的認識を確認しておくことが必要である。ノエシスとノエマは、忠実な記述が求めるとおりに、実際にかつ正しく区別されなければならない。この認識は、心理学主義的な思考習慣にひどく反する。純粋に内在的な本質記述にすでになじみ、あらゆる意識に、それに属し内在的に記述可能なものとして志向的対象を認めるまでになったとしても、なお誘惑は大きい。ノエマ的性格、とりわけ最後に扱ったものを、単なる「反省規定」として捉えようとする誘惑である。反省という通常の狭い概念では、反省規定とは、志向的対象が意識の対象であるところの意識の仕方へと、その対象が関係づけ戻されることによって、対象に付け加わる規定である。
その説によれば、否定されたもの、肯定されたものなどは、次のようにして生じる。「判断」の対象が、否定することへの関係づける反省において否定されたものとして、肯定することへの反省において肯定されたものとして、推測することへの反省において蓋然的なものとして性格づけられる、というのである。これは単なる構成物であり、倒錯している。これらの述語が関係づける反省述語にすぎないのであれば、作用の側面への現勢的な反省と、それへの関係づけにおいてのみ与えられうるはずである。ところが、明証的に、それらはそのような反省によって与えられていない。相関者に固有のことがらを、われわれは、相関者へと向かうまなざしの向きにおいて直接に把握する。現れている対象そのものにおいて、否定されたもの、肯定されたもの、可能なものや疑問の余地のあるものを把握するのであり、作用を振り返って見ることは決してない。逆に、そのような反省によって生じるノエシス的述語は、問題のノエマ的述語と同じ意味をもつどころではない。真理の立場から見ても、非存在は「妥当的に否定されていること」と等価であるにすぎず、同一ではない。可能であることも、「妥当的な仕方で可能と見なされていること」などと同一ではない。
自然な語り方、いかなる心理学的偏見にも惑わされない語り方も、これを証言する。立体鏡をのぞきながら、われわれは、この現れているピラミッドは「無」であり、単なる「仮象」だと言う。現れているものそのものが、述定の明白な主語である。それは物ノエマであって、物ではまったくないが、われわれは、それ自身において性格として見いだすもの、すなわち無であることを、それに帰す。ここで必要なのは、現象学のどこでもそうだが、現象において実際に見て取られるべきものを、解釈し直すのでなく、それが自ら与えるとおりにただ受け取り、誠実に記述する勇気だけである。あらゆる理論は、これに従わなければならない。
§109 中立性変様 信念の圏域に関係づけられる変様のうちに、きわめて重要なものが、なお一つ残っている。それはまったく孤立した位置を占めており、上の変様と同じ列に並べてはならない。この変様は、信念の圏域に属するのではなく、一般的な意識の変様である。この変様が信念の措定に対して取る固有の関係は、さらに深く探究してはじめて明らかになる。この事情からして、ここでこれにより詳しい考察を捧げることは正当化される。その際、なお欠けている真正な信念変様の一種で、この新しい変様と混同されやすいもの、すなわち想定という変様も論じる機会を得る。
いま扱うのは、それが関係づけられるあらゆるドクサ的様相を、ある意味で完全に廃棄し、完全に無力にする変様である。ただし、その意味は否定とはまったく異なる。否定は、すでに見たように、否定されたものにおいて積極的な働きをもち、非存在はそれ自身がふたたび存在だからである。中立性変様は、抹消せず、何も「成し遂げ」ない。それは、あらゆる働きに対する意識上の対応物、その中立化である。働くことを控えること、働きを作動停止にすること、「括弧に入れる」こと、「未決のままにしておく」こと、働きの中に「身を置いて考える」こと、成し遂げられたものを「加担」せずに「単に考える」ことのすべてに、この変様は含まれている。
この変様は、学問的に取り出されたことがなく、術語としても固定されていない。これに触れた者は、いつもほかの変様と混同してきた。一般の言語にも、これを表す一義的な名がない。そこで、取り除きによって、迂言的に、一歩ずつ近づくしかない。上に仮に指示した表現はどれも、意味のうえで余計なもの、すなわち恣意的な行為を合わせて表しているからである。ここでは、それはまったく問題ではない。それゆえわれわれはそれを取り除く。この行為の結果は、固有の内容をもっている。この内容は、それがこの行為に「由来する」ことを度外視して、それ自体として考察できる。そのような恣意がなくても、この内容は体験の連関のうちで可能であり、現れる。未決のままにしておくことから意志的なものをすべて取り除き、さらにそれを疑わしいものや仮説的なものとも理解しないなら、「未決に」しておくこと、もっとよく言えば、「そこにあるもの」として持つことが残る。持たれるのは、「現実に」そこにあるものとして意識されてはいないあるものである。措定性格は力を失っている。そのとき、信念は本気の信念ではなく、推測は本気の推測ではなく、否定は本気の否定ではない。それは「中立化された」信念、推測、否定である。その相関者は、変様されていない体験の相関者を反復するが、根本的に変様された仕方においてである。端的な存在するもの、可能な・蓋然的な・疑問の余地のある存在するもの、存在しないもの、そのほかの否定されたものや肯定されたものの各々が、意識上そこにある。ただし「現実に」という仕方ではなく、「単に考えられたもの」、「単なる思想」としてである。すべてが、変様を与える「括弧」を帯びている。この括弧は、以前にたくさん語った、現象学への道を拓くのにきわめて重要な括弧と、ごく近縁である。端的な措定、つまり中立化されていない措定は、相関者の成果として「命題」をもち、これらはみな「存在するもの」として性格づけられる。可能性、蓋然性、疑問性、非存在、肯定的存在も、それ自身「存在するもの」であり、そのようなものとして、意識において「思念されたもの」として性格づけられている。しかし、中立化された措定は、その相関者が、措定できるものも、実際に述定できるものも含まない点で、本質的に異なる。中立的な意識は、その意識されたものに対して、いかなる点でも「信念」の役割を果たさない。
§110 中立化された意識と理性の裁定 想定すること ここに意識の比類のない固有性が実際にあることは、次の点に示される。本来の、中立化されていないノエシスは、その本質上、「理性の裁定」に服する。これに対し、中立化されたノエシスにとっては、理性と非理性をめぐる問いが意味をもたない。相関的に、ノエマについても同じである。ノエマ的に存在する(確実な)もの、可能なもの、推測されるもの、疑問の余地のあるもの、無であるものなどとして性格づけられたものは、「妥当的に」あるいは「非妥当的に」そう性格づけられうる。それは「真に」存在し、可能であり、無であるなどということがありうる。これに対し、単に考えることは何も「措定」せず、措定的意識ではない。現実や可能性などについての「単なる思想」は、何も「要求」しない。それは、正しいと認められることも、正しくないと退けられることもない。
たしかに、単に考えることはどれも、想定することへ移し替えられうる。この新しい変様は(単に考えることの変様と同じく)まったく無条件に自由な恣意に服する。しかし、想定することは、やはり措定することに類するものであり、想定は一種の「命題」である。ただそれは、信念の措定の、上で扱った主系列に対して、かたわらに立つまったく独自の変様だということである。想定は、理性によって判定されるべき措定の統一に、一つの項として入ることができる。すなわち、仮説的な「前件」あるいは後件として入り、そうすることで、それ自身が理性による評価を受けうる。単にそこに置かれているだけの思想については言えないが、仮説的な想定については、それは正しい、あるいは正しくないと言いうる。この二つを混同し、単に考えること、ないし単なる思想について語る際に含まれる多義を見落とすのは、根本的な誤りである。
やはり惑わすような多義が、「考える」という語にも含まれている。この語は、あるときは、説明し、概念把握し、表現する思考という際立った圏域、すなわち特定の意味での論理的思考に関係づけられる。またあるときは、措定的なもの一般に関係づけられる。後者は、いかなる説明も、概念把握しながらの述定も問わない。ここで念頭にあるのは後者である。論じてきた出来事はすべて、さしあたり優先した圏域、すなわち単なる感性的直観と、その不明瞭な表象への変形との圏域に見いだされる。
§111 中立性変様と想像 「単に考える」という表現には、なお危険な多義が問題になる。ごく身近な取り違え、すなわち中立性変様と想像の取り違えを防がなければならない。紛らわしく、容易には解きほぐせないのは、次の点にある。想像そのものが実際に一つの中立性変様であること。想像はその型の特殊性にもかかわらず普遍的な意義をもち、あらゆる体験に適用できること。想像は単に考えることのほとんどの形態でも役割を果たしていること。それにもかかわらず、想像は、あらゆる措定の種類に従う多様な形態をもつ一般的な中立性変様から、区別されなければならないこと。想像することは、総じて「措定する」現前化の中立性変様であり、したがって、考えうるかぎり最も広い意味での想起の中立性変様である。
日常の語りでは、現前化(再生)と想像が混ざり合っている。分析のために、現前化という一般的な語を、それに属する「措定」が本来のものか中立化されたものかについては何も示さないまま用いる。そうすると現前化は、あらゆる種類の想起と、その中立性変様という二つの群に分かれる。ただし、この区別が真正な分類とは言えないことは、のちに示される。
およそ体験は、いわば本当に生きているかぎり「現在存在する」体験である。その本質には、それについての反省の可能性が属し、この反省において体験は、必然的に確実なもの、現在存在するものとして性格づけられる。したがって、すべての体験には、原的に意識されたあらゆる個体的存在と同様に、観念的に可能な想起変様の系列が対応する。体験することには、可能な並行物としてその体験の想起が、したがってその想起の中立性変様として想像が対応する。どの体験についてもそうであり、純粋自我のまなざしの向きがどうあってもそうである。
どんな対象を現前化したときでも、たとえばそれが単なる想像世界であり、われわれがそれに注意を向けているとしても、想像する意識の本質には次のことが属するとされる。すなわち、この世界だけでなく、それを「与える」知覚も同時に想像されている。われわれが向かっているのは世界であって、「想像のなかの知覚」、すなわち想起の中立性変様に向かうのは、以前に論じたように「想像のなかで反省する」ときにかぎられる。この観念的にはいつでも可能な変様は、あらゆる体験を、想像する体験自身をも、対応する単なる想像、同じことだが中立化された想起へと移すであろう。これを、あらゆる「措定する」体験に対置できる中立性変様と取り違えないことが、根本的に重要である。この点で、想起はまったく特殊な措定する体験である。通常の知覚はそれとは別であり、知覚的ないし再生的な可能性意識、蓋然性の意識、疑問性の意識、疑いの意識、否定の意識、肯定の意識、想定の意識もまた、それぞれ別である。
変様されない確実性において措定する通常の知覚の中立性変様は、中立的な像対象意識である。それは、模写的な世界が知覚的に描かれているのを通常に観察するとき、われわれがその構成要素として見いだす意識である。これを明らかにするため、デューラーの銅版画「騎士、死、悪魔」を観察するとしよう。まず、通常の知覚を区別する。その相関者は物「銅版画の紙葉」、すなわち画帖のなかのこの紙葉である。第二に、知覚的意識がある。この意識においては、黒い線のなかに、色のない小さな形象「馬上の騎士」「死」「悪魔」が現れる。美的観察では、われわれはこれらの形象に対象として向いているのではない。向いているのは、「像のなかに」描かれた実在、もっと正確には「写し取られた」実在、すなわち血と肉をもった騎士などである。
「像」とは、小さな灰色の形象であり、基づけられたノエシスによって、そこに別のものが類似を通じて「模写的に描かれる」。この像についての意識は、模写を媒介し可能にするものであり、知覚の中立性変様の一例である。この模写する像対象は、存在するものとしても、存在しないものとしても、またほかのいかなる措定の様相においても、われわれの前に立たない。それは存在するものとして意識されているが、存在の中立性変様における「いわば存在するもの」としてである。同様のことは、写し取られたものにも当てはまる。われわれが純粋に美的にふるまい、これをふたたび「単なる像」として受け取り、存在や非存在、可能であることや推測されたものであることなどの刻印を与えないときである。これは欠如ではなく変様、まさに中立化という変様である。この変様を、先行する措定に付け加わる、作り替える操作として思い描いてはならない。そうなることもときにはあるが、そうなる必要はない。
§112 想像変様の反復可能性 中立性変様の反復不可能性 想像と、中立化する変様一般との根本的な違いは、次の点に現れる。想像変様は、現前化として反復可能である(想像「のなか」の想像がある)。これに対し、中立化という「操作」の反復は、本質上排除されている。
反復された再生的(および像的)変様が可能だというわれわれの主張は、かなり一般的な反論に出会うだろう。この状況が変わるのは、本来の現象学的分析への習熟が、現在よりも広まったときだけである。体験を「内容」として扱い、あるいは心的「要素」として扱うかぎり、事態は改善されない。原子論的で物象化する心理学への否定が流行になっているにもかかわらず、そうした要素は結局のところ、一種の小さな物と見なされているのである。「感覚内容」と対応する「想像内容」との違いを、「強度」や「充実」といった事象的な標識にしか見いだせないと信じているかぎりも、同じである。
まず、問題になるのが意識の違いだと見ることを学ばなければならない。ファンタスマは、色あせただけの感覚与件ではない。その本質からして、対応する感覚与件の想像である。この「の」は、強度や充実をどれほど薄めても、入り込んでこない。
意識の反省に習熟している人は、さらにその前提として、志向性の所与性を見ることをそもそも学んでいる人は、想像のなかの想像、あるいは想起のなかの想起や想像に見られる意識の段階を、そのまま見るだろう。その人はまた、こうした段階形成の本質的な種別に何が含まれているかも見るだろう。高次の段階のどの想像も、その想像で間接的に想像されているものの直接的な想像へと、自由に移し換えられる。ところが、この自由な可能性は、想像から対応する知覚への移行では成り立たない。ここには自発性にとっての裂け目があり、純粋自我がそれを越えられるのは、実現する行為と創作という本質的に新しい形式においてだけである(随意に幻覚を起こすこともここに数えられる)。
§113 現勢的措定と潜勢的措定 「措定する」意識という広い意味の言い方には、どうしても区別を加える必要がある。現勢的措定と潜勢的措定を区別しよう。そのうえで、それでも欠くことのできない一般的な名称として、「措定的意識」を用いる。措定の現勢性と潜勢性の違いは、先に論じた注意と不注意という現勢性の違いと近い関係にあるが、決して一致しない。中立性変様を考慮に入れると、自我が注意的に向け変わる現勢性と潜勢性という一般的な区別のなかに二重性が入り込む。現勢性という言い方の概念にも二義性が入り込み、その本質を明らかにしなければならない。
中立性変様は、現実の信念や推測などと、信念や推測などのなかに「ただ思い入ること」という独特に変様した意識とのコントラストにおいて、われわれの前に現れた。相関的には、存在するもの、蓋然的に存在するものなどを「現実に」あるいは「現実に措定して」もつことと、それを「ただ未決のもの」として、現実に措定してもっていないこととのコントラストである。しかし最初から、措定の潜勢性に関して、非中立的な意識と中立的な意識が本質的に異なるふるまいをすることも示唆していた。「現実の」意識からは、そこに潜勢的に含まれた種々の措定を引き出すことができ、これらはそのとき現実の措定である。定立的に現実に思念されたもののどれにも、現実の派生的述語が潜んでいる。ところが、中立的な意識は、それ自身のうちに「現実の」派生的述語を一つも「含んで」いない。注意的な現勢性による展開、つまり意識された対象的なものの種々の述語への向け変えによって得られるのは、もっぱら中立的な作用、ないし変様した述語だけである。注意的な向け変えの一般的な潜勢性が、このように二重に分かれるという奇妙な事態は、より深い探究を必要としている。
前々節の考察で明らかになったのは、現に存在する現在としての、あるいは現象学的時間意識において構成された時間的統一としての、現実のどの体験も、知覚されたものと同様に、自らの存在性格をともなうことである。現勢的などの体験の現在にも、観念的には中立性変様が対応する。それは、可能であって内容上それに正確に対応する、想像された体験の現在である。そのような想像体験はどれも、現実に現在存在するものとしてではなく、「いわば」現在存在するものとして性格づけられる。これは、任意の知覚のノエマ的所与を、観念的にそれに正確に対応する想像すること(想像による観察)のノエマ的所与と比べる場合と、まったく同様である。知覚されたものは「現実に現在する存在」として性格づけられ、並行して想像されたものは、内容上は同じだが「単なる想像」、「いわば」現在する存在として性格づけられる。それゆえ、根源的な時間意識そのものが、知覚意識のように機能し、その対応物を、対応する想像意識のうちにもつ。
しかし、この全体を包む時間意識は、現勢的に措定する継続的な内在的知覚ではない。そのような知覚自身が、時間意識において構成された体験だからである。継続的に内的に反省することでもない。そうであれば、体験が現勢的に存在するものとして把握され、対象になるはずである。
体験のなかには、内在的反省と呼ばれる際立ったもの、より特殊には内在的知覚があり、対象へと現勢的に、存在を把握し措定しつつ向けられている。これと並んで、超越的に向けられ、同じ意味で存在を措定する知覚、いわゆる外的知覚もある。通常の語義での「知覚」は、何らかの物が自我に有体的な現在において現れるだけでなく、自我がその現れる物に気づき、それを現実に定在するものとして把握し、措定することを意味する。定在措定のこの現勢性は、先に述べたことによれば、知覚的な像意識では中立化されている。描かれたものではなく「像」に向け変わるとき、われわれが対象として把握するのは、何か現実のものではなく、まさに像、虚構物である。この「把握」は、向け変えの現勢性をもつが、「現実の」把握ではなく、「いわば」の変様における単なる把握にすぎない。措定も、現勢的な措定ではなく、「いわば」において変様した措定である。精神の眼差しを虚構物から逸らすと、中立化された措定の注意的な現勢性は、潜勢性に移行する。像はなお現れているが、「顧慮」されておらず、「いわば」の様態においても把握されていない。この潜勢性の本質には、現勢的に眼差しを向け変える可能性が含まれる。しかし、その向け変えが措定の現勢性を生み出すことは決してない。
「現勢的」な(中立的でない、現実に措定する)想起を、眼差しを逸らしたために、なお現れてはいるがもはや現勢的に措定されていない想起と比べても、事情は似ている。「なお」現れているものの措定の潜勢性とは、ここでは、注意的な現勢性によって、単に把握するコギタチオが生じるだけでなく、まさしく「現実に」把握する、現勢的に措定するコギタチオが生じるということである。想起の中立性変様、すなわち単なる想像においても、われわれはふたたび注意的な潜勢性をもつ。ただし、これを現勢性に変えると、たしかに「作用」(コギタチオ)は得られるが、「いわば」の様態における、徹頭徹尾中立化された、徹頭徹尾ドクサ的な措定が得られる。想像されたものは、「現実に」現在のもの、過去のもの、未来のものとして意識されてはいない。措定の現勢性なしに、ただ「漂って」いるだけである。単なる眼差しの向け変えは、この中立性を取り除けない。他の場合に措定の現勢性を生み出せないのと同様である。
どの知覚にも背景がある。とくに把握された物は、知覚的に共に現れる物的な周囲をもつが、その周囲には個別的な定在定立が欠けている。この周囲もまた「現実に存在する」周囲であり、本質可能性という意味で、存在を現勢的に措定する眼差しを向けることができるように意識されている。この周囲は、ある意味で潜勢的な措定の統一である。想起の背景についても、知覚ないし想起の、把持と予持、後方への想起と前方への想起の周縁についても、同様である。それらは、多少とも充実して、明晰さの度合いを変えながら押し寄せてくるが、現勢的な定立として遂行されてはいない。これらのどの場合でも、対応する眼差しの向け変え(注意的な現勢性)によって「潜勢的措定」を現勢化すれば、必然的に新たな現勢的措定が次々に生じる。これは、これらの事情の本質に属している。ところが、並行する中立性変様に移ると、すべてが「いわば」の変様へ置き換えられ、「潜勢性」自身もそうなる。像対象や想像対象にも、必然的に注意的な背景がある。ここでも「背景」とは、潜勢的な向け変えと「把握」の名称である。だが、現実の向け変えを作り出しても、原理的に現実の措定には至らず、つねに変様した措定にしか至らない。
同じことは、ここでとくに関心を引く、特定の信念定立(ドクサ的原定立)の様相的な変形にも当てはまる。推測、憶測、問い、否定、肯定がそうである。そこで意識されている相関者、すなわち可能性、蓋然性、非存在などは、ドクサ的措定を、したがって同時に特定の「対象化」を経験しうる。しかし、われわれが推測し、問い、拒み、肯定することに「おいて」「生きて」いるあいだは、ドクサ的原定立を遂行していない。概念を必然的に普遍化した意味でなら、別の「定立」、すなわち推測定立、疑問性定立、否定定立などを遂行している。しかし、いつでも対応するドクサ的原定立を遂行できる。そこに含まれた潜勢的な定立を現勢化するという観念的可能性が、現象学的な事情の本質に根ざしている。最初から現勢的な定立が問題であった場合には、この現勢化は、出発点となった定立に潜勢的に含まれていたものとして、そのつど現勢的な定立に至る。出発点となった定立を中立性の言語へ翻訳すれば、潜勢性もまた同じ言語へ翻訳される。推測や問いなどを単なる想像のなかで遂行するなら、先に述べたことはすべてそのまま妥当し、ただ符号が変わる。注意の可能な眼差しの向け変えによって、根源的な作用ないし作用ノエマから取り出されるべきドクサ的定立と存在様相は、いまやすべて中立化されている。
§114 定立の潜勢性と中立性変様についてのさらなる論述 非中立的意識と中立的意識の違いは、コギトの様態にある体験だけでなく、注意的な潜勢性の様態にある体験にも関わる。それは、意識の「背景」が注意的な現勢性へと変換され、体験がドクサ的コギトへ、さらには原ドクサへ移行するときの、二重のふるまいに表れる。これは言うまでもなく、どんな場合でも可能である。あらゆる志向的体験の本質には、ノエシスにも、ノエマにも、その述語にも、原ドクサの仕方で措定しつつ「目を向ける」可能性が属しているからである。
中立性変様は、特殊な変様ではなく、現勢的な定立、すなわち実際に定立であるのはそれだけである定立に結びついた変様でもない。あらゆる意識一般の根本的で本質的な特性に関わる変様であり、この特性は、現勢的な原ドクサ的措定が可能か不可能かというふるまいに表現される。それゆえ、この特性を、現勢的な原措定において、ないしその原措定が被る変様において示す必要がある。
意識一般は、どのような種類と形式のものであれ、根本的な区別に貫かれている。最初から純粋自我が「遂行する」ものとして生きていない意識、つまり最初から「コギト」の形式をもたない意識には、どれも、それをこの形式へ移す本質上可能な変様が属している。そこで、コギトの様態のなかでの意識の遂行の仕方には、二つの根本的な可能性がある。どのコギトにも、ちょうど対応する相手が属する。そのノエマは、並行するコギトのなかに、ちょうど対応する対ノエマをもつ。
一方は「現実の作用」であり、そのコギトは「現実に措定する」コギトである。他方はある作用の「影」であり、非本来的な、「現実に」は措定しないコギトである。一方は現実に働き、他方は働きの単なる反映である。相関者では、一方に現実の働きがあり、他方に対応する働きの「単なる思考」がある。両者は観念的には正確に対応するが、同じ本質のものではない。変様は本質にまで移るからである。原的な本質には、その対本質が、同じ本質の「影」として対応する。
影、反映、像といった比喩的な言い方に、単なる仮象や、欺く思念などを持ち込んではならない。そうすれば、現実の作用、ないし措定的な相関者が与えられたことになってしまうからである。この変様は、想像変様と取り違えやすい。想像変様もまた、どの体験にも、内的時間意識における体験の現在として、その対応物、すなわちその想像像をつくり出す。だが、この取り違えについては、改めて警告する必要はない。
志向的体験を二つの種類に根本的に分ける区別がある。この二つは、現実と、ノエマ的に働くことの力のない反映とのような関係にある。この区別は、ドクサ的な領域から出発するわれわれの場合、次の基本命題に現れる。どのコギトも、それ自身においてドクサ的原措定であるか、そうでないかのどちらかである。しかし、これもまた意識一般の普遍的な根本本質に属する法則性により、どのコギトもドクサ的原措定へ移し換えることができる。それは多様な仕方で可能であり、とくに次のような仕方でも可能である。コギトに属するノエシス的な「定立」の相関者として、そのコギトのノエマのなかに構成される、最も広い意味での「定立的性格」は、どれも存在性格への変換を経験し、最も広い意味での存在様相の形式をとる。こうして、推測のノエマ的相関者であり、推測という「定立」そのものの「作用性格」の相関者である「蓋然的」という性格は、蓋然的であることへと変わる。同様に、疑問性定立の特有の相関者である「疑わしい」というノエマ的性格は、疑わしくあることという形式へ、否定の相関者は非存在という形式へと変わる。これらはいずれも、いわば現勢的なドクサ的原定立の刻印を受け取った形式である。しかし事はさらに進む。われわれは、定立の概念をあらゆる作用の圏域に拡張する理由を見いだすだろう。そうすれば、好ましさの定立、願望の定立、意志の定立について語ることができ、そのノエマ的相関者は「好ましい」、「望ましい」、「実践的に為されるべき」などである。これらの相関者もまた、当の作用をドクサ的原定立へ移し換えることがアプリオリに可能であるために、きわめて拡張された意味での存在様相の形式をとる。こうして「好ましい」、「望ましい」、「為されるべき」などが述語づけ可能になる。現勢的な原信念措定においては、それが好ましくあるもの、望ましくあるものなどとして意識されるからである。ただし、これらの例では、この移し換えは、根源的な体験のノエマをその本質全体において保つものと理解しなければならない。変わるのは、移し換えに伴って法則的に変化する所与の様態だけである。この点は、なお補足を要する。
場合は分かれる。原ドクサが、現実に信じられた信念か、その力のない対応物、単に「思い描く」ことかによってである。ノエマ的な構成要素の展開が、現実のドクサ的原措定に至るのか、ただ中立的なものにのみ至るのかは、当の志向的体験の本質によって絶対的にあらかじめ決まっている。あらゆる意識体験の本質には、最初から、潜勢的な存在措定の総体が描かれている。しかもそれは、当の意識が最初からどのような性質かに応じて、可能な現実の措定の領野であるか、可能な中立的な「影の措定」の領野である。
意識は、原像と影、措定的意識と中立的意識という二重の類型をもつ。前者のドクサ的潜勢性は、現実に措定する作用に至る。後者は、そうした作用の影像だけを生じさせる。そのノエマには「現実の」ノエマが含まれず、その対像だけが含まれる。中立的な体験にも、内在的時間意識のデータとしてドクサ的に措定できる可能性が一つだけ残る。この可能性が、それらを変様した意識として規定する。
「措定的」と「中立的」という表現を、以後は術語として用いる。どの体験も、コギトの形式をもつかどうか、何らかの特別な意味で作用であるかどうかにかかわらず、この対立のもとに入る。したがって措定性は、現実の措定が現にあること、あるいは遂行されていることを意味せず、現勢的に措定するドクサ的作用を遂行しうる、ある種の潜勢性を表すにすぎない。とはいえ、体験が最初から遂行された措定である場合も、措定的体験の概念に含めておく。本質法則的に、遂行された措定にはどれも複数の潜勢的な措定が属しているのだから、この扱いはなおさら差し支えない。
措定性と中立性の区別は、信念の措定にかかわる単なる特性ではない。推測や問い、想定、否定、肯定のような、信念の変様の一種でもなく、信念の変形でもない。予告していたとおり、それは意識の普遍的な区別である。分析の歩みでは、これが正当な理由から、ドクサ的コギトという狭い圏域で特に示された区別、すなわち措定的な信念と、その中立的な対応物(単に「考えてみる」こと)との区別に結びつけられて現れた。信念の作用性格とあらゆる作用性格との間に、深い本質的な絡み合いがあるからである。
§115 適用 拡張された作用概念 作用の遂行と作用の動き コギトとは、一般に明示的な志向性である。志向的体験という概念は、潜勢性と現勢性の対立を、しかも一般的な意味で、すでに前提している。明示されていない体験を反省して明示的なコギトへ移ってはじめて、その体験が志向性を、ないしそれに固有のノエマを含むと認識できるからである。たとえば、知覚や想起のなかに、注目されていないが後から注目しうる背景の意識がある。明示的な体験は、遂行された「私は思う」である。しかしそれは、注意が変われば、遂行されていないものへ移ることもできる。遂行された知覚、判断、感情、意志の体験は、注意が「もっぱら」新しいものに向かうときにも消えない。自我が新しいコギトのなかでもっぱら「生きている」ということが、そこに含まれる。以前のコギトは「減衰し」、「暗がり」に沈むが、変様してもなお体験としての定在をもつ。同様に、体験の背景にコギタチオが浮かび上がる。想起の仕方や中立性変様を受けて浮かぶこともあれば、変様を受けずに浮かぶこともある。たとえば、現実の信念が「動き出す」。われわれは「それと知る前に」すでに信じている。同様に、好むことや好まないことの措定、欲求、さらには決意までもが、われわれが本来のコギトを遂行する前に、すでに生き生きと働いていることがある。
コギトは、当初からの概念どおり、実際に知覚し、判断し、好むといった本来の作用を指す。いま記述した場合でも、体験の構造全体は、そのすべての定立とノエマ的性格を含めて、この現勢性を欠いたまま同じである。この点でわれわれは、遂行された作用と遂行されていない作用をいっそう明確に区別する。後者は「遂行から外れた」作用か、作用の動きである。後者の語は、遂行されていない作用一般に用いてさしつかえない。作用の動きは、そのすべての志向性とともに体験されているが、自我はそのなかで「遂行する主観」として生きてはいない。これによって、作用の概念は、欠かせない意味で拡張される。遂行された作用、あるいは経過が問題になるときにはむしろ作用の遂行が、最も広い意味での「立場決定」をなす。厳密な意味での立場決定は基づけられた作用を指す。この種の作用については後に論じる。たとえば憎む者が憎まれるものに対してとる立場決定がそうであり、憎まれるものは、下位の段階のノエシスですでに、現に存在する人格あるいは事象として構成されている。存在要求に対する肯定や否定の立場決定も、ここに属する。
広い意味での作用も、コギタチオと同じく、中立性と措定性の区別を内にもつ。これらの作用は、コギタチオに転換される前から、すでにノエマ的かつ定立的に働いている。その働きを目にするのは、狭い意味での作用であるコギタチオを通じてはじめてである。措定、あるいは「いわば」の様態での措定は、それに属するノエシスの全体とともに、すでにそれらの作用のなかに現実に存在している。ただし、理想的な場合を前提する。転換と同時に、作用が志向的に豊かになったり、ほかの仕方で変化したりしない場合である。転換の直後に体験の流れのなかで生じる豊かさや新たな形成は、除外してよい。
われわれの議論全体では、中立性という題目のもとで、ドクサ的措定が優先されていた。中立性は、潜勢性にその指標をもっていた。すべては、どの定立的な作用性格も、その本質のうちに、自らと「合致する」ドクサ的定立という類の性格を含んでいる、ということにかかっていた。ここで作用の「志向」とは、好みの志向、評価し意志する志向のように、好みの措定や意志の措定に特有の性格である。作用志向が中立化されているか否かに応じて、そこに含まれるドクサ的定立も、中立化されているか否かのいずれかである。このドクサ的定立は、原定立として考えられていた。
この優先は、以後の分析で制限を受ける。本質法則性は、より精密な規定を要することが明らかになるだろう。あらゆる定立に含まれるドクサ的定立としては、まず、想定をも包括するドクサ的様相が、ドクサ的原定立に代わって通用しなければならないからである。ただし、ドクサ的様相が一般に優先されるこの範囲のなかでも、信念の確実性には特別な優位がある。これらの様相自体が、信念の定立へ転換されうるのである。したがって、ここでもあらゆる中立性は、原定立へ関係づけられた際立った意味で、ドクサ的潜勢性にその指標をもつ。その際、ドクサ的なもの一般とあらゆる種類の定立的なものとの「合致」の仕方も、より詳しい規定を受ける。
ここまでの命題は、いくつかの不備があるとはいえ、ただちに最も広い一般性で提示された。しかし、特定の作用の圏域でしか洞察的に示されていない。より広い基礎づけの基盤が要る。ノエシスとノエマの並行関係は、まだすべての志向的領域では詳しく論じられていない。これがこの節の主題であり、主題自身が分析の拡張を促す。拡張を進めるなかで、中立性変様についての一般的な主張は、確認されると同時に補われる。
§116 新たな分析への移行 基づけられたノエシスとそのノエマ的相関者 われわれはこれまで、ノエシスとノエマの構造に現れる一般的な事柄を、大きな、しかしきわめて限られた枠のなかで、控えめな程度に研究してきた。それらを明確に際立たせるのに必要な範囲にとどめ、ノエシスとノエマという二重の主題が伴う問題群について、一般的でありながら内実のある表象を得るという導きの目的にかなう範囲にとどめた。研究は、体験の流れの単なる下層にかかわるものだった。そこには、比較的単純に構築された志向性が属している。最後の先を見通した考察を除けば、感性的直観を、とくに現出する実在についての直観を優先した。暗化によってそこから生じる感性的な表象も優先した。とはいえその際、本質的にそれらに属する現象も考慮に入れた。たとえば、対象がもはや感性的な物ではない反省的な直観や表象がそうである。成果の一般性は、下位の領域に縛りかねないものを副次的と感じさせた方法のおかげで、研究の枠を広げればただちに明らかになる。中心にある感性的な意味核(これにはさらなる分析が大いに必要である)と、それを取り巻く定立的性格との区別は、再び現れる。現前化、注意、中立化のように、意味核にも及びながら意味核の「同一的」なものを残す変様も、再び現れる。
ここから二つの方向へ進める。どちらも、表象に基づけられた志向性へ通じる。一つはノエシス的な総合へ向かう方向であり、もう一つは新種の、基づけられた「措定」様式へ導く方向である。
後者をとると、まず、感じ、欲し、意志するノエシスに突き当たる。できるだけ単純な、下位にも上位にも総合を含まないものから始める。このノエシスは、知覚、想起、記号表象などの「表象」に基づけられており、その構築には、段階的な基づけの明らかな違いが現れる。全体の作用について、措定的な形式を優先する。ただし、中立的な下位の段階を排除してよいわけではない。措定的な形式について言えることは、適切に変様されて、対応する中立化へ移されるからである。たとえば、美的な好みは、知覚的ないし再生的な内容をもつ中立性意識に基づけられている。喜びや悲しみは、中立化されていない信念ないし信念の様相に基づけられている。意志することも同様で、快いもの、美しいものなどとして評価されたものに関係している。
新たなノエシス的契機とともに、その相関者には、新たなノエマ的契機が現れる。一つは、信念の様態に類比的な新たな性格であり、その新たな内容においてそれ自身、ドクサ論的な措定可能性をもつ。もう一つは、この新種の契機に結びつく新種の「統握」である。基礎にあるノエシスの意味に基づけられ、それを包み込む新たな意味が構成され、まったく新たな意味の次元がもち込まれる。構成されるのは、単なる「事象」に加わった規定要素ではない。事象の価値、すなわち諸価値であり、具体的な価値対象性である。美と醜、善と悪、使用対象、芸術作品、機械、書物、行為、所業がそれである。
上位の段階のどの完全な体験も、その完全な相関者において、最下位の段階のノエシスに見て取ったものに似た構築を示す。評価されたものそのものが意味核であり、新たな定立的性格に取り囲まれている。「価値がある」「好ましい」「喜ばしい」は、「可能な」「推測される」と同じように、場合によっては「無効な」や「たしかに現実の」と同じように働く。もっとも、これらを同じ系列に置くのは誤りだろう。
この新たな性格に関しても、意識は措定的である。「価値がある」は、価値あるものとして存在するとドクサ的に措定されうる。それに属する「存在する」も、あらゆる「存在する」や「確実な」と同じく、様相化されうる。その場合、意識は可能な価値の意識であり、「事象」はただ価値あるものとして憶測される。あるいは、価値があると推測されるものとして、あるいは価値がないものとして意識される。価値がないとは、悪い、醜いなどの「無価値」とは異なる。それは単に、「価値がある」の抹消である。こうした変様はどれも、価値意識と評価するノエシスに、またノエマにも、外面的にではなく内面的に及ぶ。
ここでも注意的変様は、注目する眼差しがどう進むかに応じて、深く及ぶ多様な変化を生む。眼差しは、さまざまな志向的層を通り抜けて、「事象」と事象的契機に向かうことがある。これは、下位の段階としてすでに知っているまとまった変様の体系をなす。しかし眼差しは、価値に、すなわち構成された上位の段階の規定性に、それを構成する統握を通り抜けて向かうこともある。ノエマそのものとその性格に向かうことも、別の反省でノエシスに向かうこともある。そのすべてが、注目すること、ついでに気づくこと、気づかないことなどの、特有の様態で起こる。
これらの複雑な構造を完全に明晰に展開するには、きわめて困難な研究が要る。「価値の統握」は、事象の統握とどう関係するのか。新たなノエマ的性格づけである善い、美しいは、信念の様相とどう関係するのか。それらは系列と種別のなかでどのように体系的に配列されるのか。ほかにも同様の問いがある。
§117 基づけられた定立と中立化変様の学説の締めくくり 定立の一般的概念 新たな意識層と中立化との関係を考察する。われわれは、この変様をドクサ的措定性に関係づけてきた。いま際立たせた層でも、この措定性は、最も広い作用の圏域で先に認め、判断の様相の圏域でとくに論じた役割を、実際に果たしている。推測の意識には「推測される」「蓋然的である」が、好みの意識には「好ましい」が、喜びの意識には「喜ばしい」が、措定的に含まれている。含まれているとは、ドクサ的措定を受け入れうるということであり、それゆえ述語づけうるということである。したがって、どの情意意識も、その新種の基づけられた情意ノエシスとともに、措定的意識の概念のもとに入る。この概念は、ドクサ的措定性に、最終的には措定的な確実性に関係づけて整えてきたものである。
だが、より詳しく見れば、中立性変様をドクサ的措定性に関係づけることは、その根底に重要な洞察があるとはいえ、ある意味ではやはり回り道である。
好みの作用も、情意と意志のあらゆる作用も、遂行されているかどうかにかかわらず、「作用」であり「志向的体験」であって、そのつど「志向」、つまり「立場決定」が属している。別の言い方をすれば、それらは最も広い、しかし本質的に統一された意味での「措定」であり、ただドクサ的でないにすぎない。先に通りすがりに、作用性格一般は「定立」であると述べたが、これはきわめて正しい。拡張された意味での定立であり、特別な場合にのみ信念の定立ないしその様相である。特有の好みのノエシスと信念の措定とは、本質的に類比的であり、願望のノエシスや意志のノエシスなども同様である。評価すること、願うこと、意志することにも、それらに「含まれる」ドクサ的措定性とは別に、何かが「措定」されている。これこそが、さまざまな意識の種類を並行づけ、分類するときの源泉でもある。つまり人は、そのとき実際には措定の種類を分類していたのである。
具体的な内実のなかにほかに何が見出されるにせよ、少なくとも一つの、通常は基づけの仕方で結ばれた複数の「措定性格」ないし「定立」をもつことは、あらゆる志向的体験の本質に属する。その複数のうちには、必ず一つ、いわば統治者的なものがあり、他のすべてを自らのうちに統合して支配している。
これらすべての特有の「作用性格」、つまり「措定」の性格を結ぶ最上位の類的統一は、本質的で類的な相違を排除しない。したがって、情意の措定は措定としてドクサ的措定と類縁だが、信念のあらゆる様相が互いに属し合うほどには、ドクサ的措定に属し合っていない。
あらゆる措定性格に類的な本質共同性があるとともに、その措定の相関者(「ノエマの意味での定立的性格」)の本質共同性も、またそれをさらなるノエマ的下地とともに取るなら、あらゆる「命題」の本質共同性も、ただちに与えられている。一般論理学、一般価値論、倫理学の間でいつも感じられてきた類比は、究極的にはこの共同性に基づく。この類比を最も深いところまで追えば、一般的で形式的な並行する諸学科の構成、すなわち形式論理学、形式的価値論、形式的実践論へ導かれる。
こうして、一般化された名称「定立」に連れ戻される。次の命題を、この名称に関係づける。
どの意識も、現勢的ないし潜勢的に「定立的」である。これに伴い、現勢的措定の概念も、措定性の概念も、拡張を受ける。中立化とその措定性への関係についての学説は、拡張された定立の概念にも移される。したがって、定立的意識一般には、遂行されているかどうかにかかわらず、中立化的と呼ぶ一般的な変様が属している。措定的定立とは、現勢的な定立か、現勢的な定立へ移されうるものであり、したがって「現実に」措定されうるノエマをもつ。これに対立するのが、非本来的な定立、すなわち「いわば」の定立である。それは力のない映しであり、中立化されたノエマに関して、現勢的・定立的な遂行をいささかも受け入れない。中立性と措定性の区別は、ノエシス的にもノエマ的にも並行し、あらゆる種類の定立的性格に直接かかわる。狭い、唯一通用している語義での「措定」であるドクサ的な原措定を経由する回り道は要らない。もっとも、この区別が自らを証示できるのは、その原措定においてだけである。
だが、ドクサ的措定を優先することは、事象そのもののなかに深い根拠をもつ。分析によれば、ドクサ的原定立、すなわち信念の確実性は、その措定的潜勢性が意識の圏域の全体に及ぶという、比類のない優位をもつ。本質法則的に、どの定立も、どの類に属するものであれ、その本質に取り除きえない形で属するドクサ的な性格づけによって、現勢的なドクサ的措定へ転換されうる。措定的作用は、どのような「質」で措定するにせよ、ドクサ的にも措定する。ほかの様態で措定されているものは、すべて存在するものとしても措定されている。ただし、現勢的にではない。この現勢性は、原理的に可能な「操作」によって、本質に即して生み出すことができる。したがって、どの「命題」も、たとえば願望命題でも、ドクサ的命題に転換できる。そのとき願望命題は、ある意味で両者を併せもち、同時にドクサ的命題であり、願望命題である。
ドクサ的なものの優位は、本来、ドクサ的な様態一般にかかわる。あらゆる情意体験、あらゆる評価・願望・意志は、それ自体において、確信、憶測、あるいは推測的ないし疑念的なもののいずれかとして性格づけられているからである。価値は評価において意識され、好ましいものは好むことにおいて、喜ばしいものは喜ぶことにおいて意識される。ただし、評価するときに、完全には「確か」でない仕方で意識されることもある。あるいは、その事象がただ価値あるものとして憶測されるにとどまり、まだその事象のために評価の側に立つには至っていない、という仕方で意識されることもある。ドクサ的な措定の様態に向かう態度をとっていないとき、価値はそのドクサ的性格において現勢的に措定されてはいない。こうした変様のうちに生きているかぎり、その態度をとる必要はない。だが、憶測の定立に生きていて、そこから信念の定立へ移行するなら、その態度をとりうる。この定立は、述語的に捉えられると、「その事象は価値あるものであるはずだ」という形式を得る。ノエシス的な側と評価する自我へ向きを変えるなら、「それは私に価値あるもの(おそらく価値あるもの)として憶測される」という形式を得る。ほかの様態についても同様である。
あらゆる定立的性格には、この仕方でドクサ的様態が潜んでいる。様態が確実性のそれであるときには、ドクサ的な原定立が潜んでいる。これらは、定立的性格とノエマ的意味の点で合致している。しかしこのことはドクサ的な変形についても当てはまるので、あらゆる作用のうちに、ノエマ的な合致によらずに、ドクサ的な原定立もまた存することになる。
これにもとづいて、あらゆる作用、ないしその相関者は、「論理的なもの」を、明示的にであれ暗黙的にであれ蔵している、とも言える。作用は、常に論理的に明示されうる。これは、「表現すること」というノエシス的な層が、あらゆるノエシス的なものに(ノエマ的には表現という層があらゆるノエマ的なものに)寄り添いうるという、本質に基づく一般性による。中立性変様へ移行すると、表現することそのものも、表現されたものそのものも、中立化されることは明証的である。
以上のすべてから、およそあらゆる作用は、情意作用や意志作用も含めて、「客観化する」ものであり、対象を根源的に「構成する」ものであることが帰結する。これらの作用は、種々の存在領域の、したがって対応する存在論の、必然的な源泉である。たとえば評価する意識は、たんなる事象の世界に対して、新しい種類の「価値論的」対象性、すなわち新しい領域の「存在者」を構成する。評価する意識の本質そのものによって、現勢的なドクサ的定立が観念的可能性として予め描かれており、この可能性が、新しい種類の内実をもつ対象性である価値を、評価する意識において「思念された」ものとして際立たせるからである。情意作用において、価値は情意的に思念されている。これらの作用のドクサ的内実を現勢化することによって、価値はドクサ的に、さらに論理的・表現的に思念されたものとなる。
ドクサ的でない仕方で遂行されたあらゆる作用意識は、この意味で潜勢的に客観化するものであり、ドクサ的なコギトだけが、現勢的な客観化を遂行する。
ここに、論理的なものの普遍性、究極的には述語的判断の普遍性を解明すべき源泉のうち、最も深いものがある。その際、まだ立ち入って扱っていない、意義に基づく表現という層を加える。そこから、論理学そのものの支配が普遍的であることの最終的な根拠も理解される。さらに、情意と意志の志向性に本質的にかかわる、形式的および質料的な、ノエシス的ないしノエマ的な、また存在論的な諸学科が可能であること、いやむしろ必然であることも理解される。この主題は、補足的な認識をいくつか確保するまで待って、改めて取り上げる。
§118 意識の総合 統語的形式 先に示した第二の方向、すなわち総合的意識の形式に注意を向けると、志向的連結による体験の多様な形成の仕方が視野に入る。それらは本質可能性として、一部はおよそあらゆる志向的体験に、一部はそれらの特殊な類の固有性に属する。意識と意識は、たんに結びつくだけでなく、一つの意識へと結合する。その相関者は一つのノエマであり、このノエマはそれ自身、結合されたノエシスのノエマに基づけられている。
ここで目指しているのは、内在的時間意識の統一ではない。もっとも、それについても、一つの体験の流れのすべての体験を包括する統一として、意識と意識を結びつける意識の統一として、想起しておかねばならない。任意の個々の体験は、「根源的な」連続的時間意識において、現象学的時間のうちに広がる統一として構成される。適切な反省的態度をとれば、体験の持続の異なる区間に属する体験の伸びについて、その意識的な所与の仕方に注意できる。この持続の統一を構成する意識全体は、連続的に諸区間から合成されており、それらの区間において持続の体験区間が構成される。したがって、ノエシスは結合するだけではない。(充実した体験持続の)一つのノエマをともなう一つのノエシスを構成し、そのノエマは、結合されたノエシスのノエマに基づけられている。個々の体験について成り立つことは、体験の流れ全体についても成り立つ。体験が本質上いかに互いに疎遠でありうるとしても、それらはすべて一つの時間の流れとして、一つの現象学的時間の成員として構成される。
根源的時間意識のこの原総合(能動的で離散的な総合とは考えてはならない)は、その問題系とともに、明示的に除外してきた。ここで総合について語るのは、この時間意識の枠内ではなく、具体的に充実された現象学的時間の枠内である。同じことだが、持続する統一として、体験の流れのなかで経過する出来事として捉えられた、体験そのものの総合である。体験の流れ自体は、充実された現象学的時間にほかならない。連続的総合にも、いまは立ち入らない。たとえば、空間的物性を構成するあらゆる意識に本質的に属するような総合であり、きわめて重要だが、より詳しく知る機会は後に十分にある。関心は分節された総合に向かう。すなわち、離散的に区切られた作用が、一つの分節された統一、より高い段階秩序の総合的作用の統一へと結合する、固有の仕方に向かう。連続的総合の場合、「より高次の作用」とは言わない。その統一は(ノエシス的にも、ノエマ的にも、対象的にも)、統一されたものと同じ秩序段階に属する。これから論じる一般的なことの多くは、連続的総合にも、分節された総合すなわち多定立的総合にも、同じように当てはまる。
より高い段階の総合的作用の例は、意志の圏域では「ほかのもののために」という関係づける意志することである。感情作用の領域では、関係づける好むこと、すなわち「~を顧慮して」喜ぶこと、あるいは「ほかのもののために」喜ぶことがそうである。さまざまな作用の類に、類似の作用が現れる。明らかに選好の作用もすべてここに属する。
より立ち入った考察のために、ある意味で普遍的な、もう一つの総合の群を取り上げる。集める総合すなわちまとめ取る総合、選言的な総合すなわち「これかあれか」に向かう総合、解明する総合、関係づける総合である。これらは、そこで構成される総合的対象性の純粋な形式に応じて、形式的存在論的な形式を規定する。他方では、ノエマ的形成体の構造に関して、アポファンシス的な形式論理学の意義形式に映し出される。この論理学は、命題の論理学として徹頭徹尾ノエマ的に向けられている。
形式的存在論と論理学への関係は、ここで問題になっているのが本質上閉じた総合の群であることをすでに示唆している。この群には、結合されるべき体験の種類に関して、可能な適用の無条件の一般性が属する。したがって、結合される体験のほうも、任意に複雑なノエシス的統一であってよい。
§119 多定立的作用の単定立的作用への変換 分節された総合、すなわち多定立的作用について、まず留意すべきことがある。
総合的に統一された意識はすべて、いかに多くの個別の定立や総合がそこに組み入れられていようと、それに属する全体対象をもつ。全体対象は、低次または高次の総合的成員に志向的に属する諸対象に対して、そう呼ばれる。それらの対象もすべて、基づけの仕方で全体対象に寄与し、それに組み入れられる。独特に区切られたノエシスは、たとえ非自立的な層であっても、それぞれ全体対象の構成に自らの寄与をする。たとえば評価の契機は、事象意識に必然的に基づけられているので非自立的だが、それでも対象的な価値層、すなわち「価値性」の層を構成する。
先に挙げた普遍的な意識の総合のうち、とくに総合的な層もまた、こうした新しい層である。すなわち、総合的意識そのものから特に生じる形式のすべて、したがって結合の形式と、成員そのものに(総合に取り込まれているかぎりで)付着する総合的形式である。
先に述べたように、総合的意識では総合的な全体対象が構成される。ただし、この対象は、単純な定立によって構成されたものとはまったく別の意味で「対象的」である。総合的意識は、あるいはその「うちの」純粋自我は、対象的なものに多射線的に向かい、単純に定立的な意識は一本の射線で向かう。総合的に集めることは「複数的」意識であり、一と一と一が取りまとめられる。同様に、原初的な関係づける意識においても、関係は二重の措定において構成される。ほかのあらゆる場合も同様である。
総合的対象性は、その本質上、「根源的に」はただ総合的にのみ意識されうる。その多射線的(多定立的)構成のいずれにも、本質法則的な可能性が属する。すなわち、多射線的に意識されたものを、単純に一本の射線で意識されたものに変え、そこで総合的に構成されたものを、「単定立的」作用において特有の意味で「対象にする」ことが可能である。
こうして、総合的に構成された集まりは、際立った意味で対象的になる。それは、根源的に構成された集まりへ単純な定立が遡って関係づけられることにおいて、すなわち定立が総合に結びつくという固有のノエシス的な連結において、単純なドクサ的定立の対象となる。言い換えれば、複数的意識は、本質に基づいて単数的意識へ移行させることができる。単数的意識は、そこから多数性を一つの対象として、個別のものとして取り出す。この多数性は、ほかの多数性やそのほかの対象と結びつけられ、それらとの関係に置かれうる。
集める意識とまったく類比的に構成された選言的な意識と、その存在的ないしノエマ的な相関者についても、事情は同じである。関係づける意識からも、総合的に根源的に構成された関係を、結びつけられた単純な定立において取り出し、際立った意味での対象にできる。そのような対象として、ほかの関係と比較し、およそ述語の主語として用いることもできる。
ただし、単純に対象化されたものと、総合的に統一されたものとが実際に同一であることを、完全な明証にもたらさなければならない。後から来る定立ないし取り出しが、総合的意識に何も付け加えて作り上げず、この意識が与えるものを把握するだけであることも、完全な明証にもたらさなければならない。もっとも、両者の所与の仕方が本質的に異なることも、同じく明証的である。
論理学では、この法則性は「名詞化」の法則に表れる。この法則によれば、あらゆる命題と、命題のうちで区別できるあらゆる部分形式に、名詞的なものが対応する。命題そのもの、たとえば「Sはpである」には、名詞的な「ということ」文、つまり「Sがpであるということ」が対応する。新しい命題の主語の位置では、「pである」にはpであること、「類似した」という関係形式には類似性、複数形には複数性などが対応する。
「名詞化」から生じた概念は、純粋な形式のみによって規定されたものとして考えられるとき、およそ対象性の理念の形式的・範疇的な変形をなし、形式的存在論の基礎的な概念素材を供給する。形式的数学的な諸学科のすべてが、これに含まれる。この命題は、アポファンシスの論理としての形式論理学と、普遍的な形式的存在論との関係を理解するうえで、決定的に重要である。
§120 総合の圏域における措定性と中立性 本来の総合はすべて、単純な定立の上に築かれる。われわれは終始そうした総合を念頭に置いてきた。ここで定立は、先に確定した一般的な意味、すなわちあらゆる「志向」「作用性格」を包括する意味で理解する。総合そのものも、より高い段階の定立である。現勢性と潜勢性について、中立性と措定性についての確認は、これにもとづいて、説明するまでもなく総合にも移される。
これに対して、基づける定立の措定性と中立性が、基づけられた定立のそれに対してどのような異なる仕方でかかわるかを確定するには、より詳しい研究が要る。
一般的に、総合にかぎらず、より高い段階の措定的定立は低い段階のすべての定立が措定的であることを前提する、とはただちに言えない。たとえば現勢的な本質直観は、中立化された作用ではなく措定的な作用である。だがそれは、何らかの例示的に直観する意識に基づけられ、この意識は中立的な、つまり想像の意識であってさしつかえない。同様のことは、現れる好まれる対象に関する美的な好むことについても、描写する「像」に関する措定的な描写意識についても成り立つ。
関心のある総合の群を考察すると、この群ではあらゆる総合が、その措定的性格に関して、基づける諸ノエシスのそれに依存していることがわかる。下位の定立がすべて措定的ならば、総合は措定的であり、しかもそうでしかありえない。そうでないならば、中立的である。
たとえば集めることは、実際に集めることか、「いわば」の様態で集めることかであり、実際に定立的であるか、中立化されて定立的であるかである。前者の場合には、個々の集まりの成員に向けられた作用のすべてが実際の定立であり、後者の場合にはそうではない。論理的統語論に映し出される種類のほかの総合についても同様である。純粋な中立性は、措定的総合に対して機能することはけっしてなく、少なくとも「仮設」への変換を被らざるをえない。仮言的な前件または後件への変換がそうであり、仮設的に立てられた名詞的なもの、たとえば「偽ディオニュシオス」への変換もそうである。
§121 情意と意志の圏域におけるドクサ的統語 この群の総合が、論理的な命題形式論が体系的に展開する言明文の統語的形式において、自らを表現するのはなぜか。そう問うなら、人はこう答えるだろう。それはドクサ的総合、あるいは、それらが形をとる論理的・文法的統語を想い起こして言えば、ドクサ的統語である。「と」の統語、ないし複数形、「あるいは」の統語、主語の措定を土台にして述語を関係づけて措定する統語などは、ドクサ的作用の本質に属する。論理的な意味での「信念」と「判断」が近しく属し合うこと(両者をそのまま同一視しようとしないとしても)、信念の総合がその「表現」を言明文の形式に見いだすことを、だれも疑わないだろう。それは正しい。しかし、この見解が真理のすべてを含んでいないことは、洞察できる。「と」「あるいは」「もし」「なぜなら」「ならば」の総合、つまりさしあたりドクサ的なものとして現れる総合は、けっしてたんにドクサ的なのではない。
こうした総合が非ドクサ的な定立の固有の本質にも属することは、根本的な事実である。それは次の意味においてである。
疑いなく、集合的な喜び、集合的な好み、集合的な意志などがある。ドクサ的な(論理的な)「と」のほかに、価値論的で実践的な「と」もあり、「あるいは」やここに属するすべての総合についても同様である。たとえば、子どもたちの群を愛情をこめて見る母親は、一つの愛の作用において、それぞれの子ども個々と全員とをともに包み込んでいる。この集合的な愛の作用の統一は、一つの愛とそれに加えた集合的な表象することではない。集合的な表象が愛の必然的な土台として付け加えられるとしても、そうではない。愛することそのものが集合的であり、基底にある表象すること、場合によっては複数的な判断することと同じく、多射線的である。複数的に表象することや判断することについて語るのと同じ意味で、複数的に愛することについて語ってさしつかえない。統語的形式は、情意作用そのものの本質に、すなわちそれに特有の定立的な層に入り込む。これをすべての総合について遂行することはここではできないので、与えた例を示唆として十分とする。
先に探究した、ドクサ的定立と定立一般との本質的な親縁関係を想い起こす。定立一般のいずれにも、たとえばこの愛の志向がノエマ的に成し遂げるものに応じて、並行するドクサ的定立が隠れている。ドクサ的な「と」「あるいは」などと、価値的および意志的な「と」「あるいは」との並行関係は、この本質的親縁関係の特別な場合である。情意の総合的な作用が構成する総合的な情意の対象性は、対応するドクサ的作用によって、明示的な客観化に至るからである。愛の対象として愛される子どもたちの群は一つの集まりである。これは、事象的な集まりに加えて愛がある、ということではなく、愛の集まりである、ということを意味する。ノエシス的に見れば、自我から出る愛の射線が、それぞれが個々の対象に向かう射線の束に分かれる。それと同じように、愛の集まりそのものには、そのつど集められた対象と同じだけ多くのノエマ的な愛の性格が配分される。これらは同じ数の措定的性格であり、総合的に結びついて、一つの措定的性格というノエマ的統一をなす。
これらの統語的形式はすべて並行する形式である。すなわち、固有の情意的成分と情意的総合をもつ情意作用そのものに属すると同時に、情意作用と並行して本質上それと一体をなすドクサ的措定性にも属する。このドクサ的措定性は、それぞれの下位段階や上位段階へ適切に視線を転換することで、情意作用から取り出せる。このことはノエシス的圏域からノエマ的圏域へも移される。価値論的な「と」は、本質上ドクサ的な「と」を内に含み、価値論的な統語的形式はどれも論理的な形式を含む。これは、単純なノエマ的相関者がどれも「存在する」、あるいは別の存在様相を含み、その基体として「あるもの」の形式とそれに付随するその他の形式を含んでいるのと同じである。本質上可能な視線の転換と、それに含まれる定立的ないし総合的・ドクサ的な手続きによって、新しい作用を形成することができる。そのもとになるのは、われわれがいわばただ情意的に生きているだけの情意作用で、ドクサ的な潜勢性は現勢化されていない。新しい作用では、潜勢的でしかなかった情意的対象性が、現勢的でドクサ的な、場合によっては明示的に解明された対象性へと変わる。直観的な複数の対象に目を向けてそれらをドクサ的に措定しながら、同時に総合的な情意作用を遂行することは可能であり、経験的な生ではごくありふれている。たとえば集合的な好みの統一、選び出す情意作用の統一、優先する好みの統一、後回しにする好まないことの統一がそうである。このとき現象全体をドクサ的に向け変えることにはまったく移らないが、言明をおこなうときには向け変える。たとえば、多数のものに対する、あるいは多数のうちの一つに対する自分の好みについて、一方が他方よりも優れていることなどについて言明するときである。
このような分析を入念に遂行することが、価値論的・実践的な対象性、意義、意識の仕方の本質を認識するうえで、つまり倫理的、美的な概念や認識、およびそれらに本質上近いその他の概念や認識の「起源」の問題にとって、どれほど重要かは、強調するまでもない。
ここでの課題は、実のところ現象学的な問題を解くことではない。現象学の主要な問題を学問的に練り上げ、それに関連する探究の方向をあらかじめ描くことである。それゆえ、事象をここまで導いておけば十分とすべきである。
§122 分節された総合の遂行の様態 「主題」 定立と総合の領域には、一般的な変様の重要な群が属している。その簡潔な論及を、ここですぐに付け加えておくのが最もよい。
総合は一歩一歩遂行されうる。総合は、根源的な産出において生成し、成立する。意識の流れにおけるこの生成が原的であることは、まったく独特である。定立と総合は、純粋自我が新たな一歩ごとに現勢的に踏み出すことによって生成する。自我自身がその歩みのなかに生き、歩みとともに「登場する」。措定すること、その上に措定すること、先に措定すること、後に措定することは、自我の自由な自発性と能動性である。自我は、定立のなかに受動的に生きるのではない。定立は、生み出しの根源の泉としての自我から放たれる。どの定立も、最初の定立もそれ以降の定立も、点的な根源的措定という始動点から始まる。この「始動」は、根源的な現勢性の独特な様態として、定立そのものに属している。それは、いわばfiatのようなもの、意志と行為の始動点のようなものである。
ただし、一般的なものと特殊なものを混同してはならない。自発的に決意すること、意志的に実行する行為は、ほかの作用と並ぶ一つの作用であり、その総合も、ほかの総合と並ぶ特殊な総合である。だが、どのような種類のものであれ、どの作用も、いわば創造的な開始という自発性の様態において始まりうる。その様態において、純粋自我は自発性の主観として登場する。
この始動の様態は、ただちに、本質必然性にしたがって別の様態へ移行する。たとえば、知覚しつつ把握し、つかむことは、まもなく、途切れなく「手中にしていること」へと変わる。
さらに新たな様態の変化が続く。それは、定立が総合のための単なる一歩であった場合、純粋自我が新たな一歩を遂行する場合、そして自我が、総合的意識の貫く統一のなかで、たった今手中にしていたものを「なお」手中に「保持する」場合である。このとき自我は、新たな主題的対象を把握するというより、全体主題の新たな項を第一次的な主題として把握しながら、先に捉えた項を、同じ全体主題に属するものとしてなお保っている。たとえば、集める場合、私は把握する視線を新たな対象へ向け変えるときにも、たった今知覚して把握したものを手放さない。証明を遂行するとき、私は前提の思想を一歩ずつ通り抜ける。どの総合的な歩みも放棄せず、獲得したものを手中から失わない。しかし現勢性の様態は、新たな主題的な根源的現勢性を遂行することによって、本質的に変化している。
ここで問題になるのは、暗化でもあるが、決して暗化だけではない。たった今記述した区別は、明晰と不明晰の区別に対して、まったく新しい次元をなす。もっとも、両種の区別は、これほど緊密に絡み合っている。
これらの新たな区別も、明晰性の区別やその他すべての志向的区別に劣らず、ノエシスとノエマの相関の法則のもとにある。現勢性の変様のノエシス的なものには、ノエマ的には、定立の変化ないし総合の歩みのなかで「思念されたものそのもの」が与えられる仕方の変化が対応する。この変化は、そのつどのノエマ的内容そのものに示すことができ、固有の層として際立たせることができる。
現勢性の様態(ノエマ的には所与性の様態)が、流れるように連続的な変化は別として、一定の離散的な類型にしたがって必然的に変わるとしても、変化を貫いて本質的に共通なものはつねに残る。ノエマ的には、何であるかが同一の意味として保たれる。ノエシス的側面では、この意味の相関者と、定立と総合による分節の形式全体が保たれる。
ここで新たな本質変様が生じる。純粋自我は、定立から完全に退くことができる。定立的な相関者を自らの「手中」から解き放ち、「別の主題に向かう」ことができる。たった今まで自我の(理論的、価値論的などの)主題であったものは、多少とも暗化していても、そのすべての分節とともに、意識から消えたわけではない。それはなお意識されているが、もはや主題的な手中にはない。
このことは、個々の定立にも、総合の項にも当てはまる。私はたった今考えている。通りから聞こえた口笛が、私の主題(ここでは思考の主題)から私を一瞬そらす。音へ向け変える一瞬があるが、ただちに元の主題へ戻る。音の把握は消し去られたわけではなく、口笛はなお変様した形で意識されているが、もはや精神の手中にはない。口笛は主題にも並行する主題にも属さない。同時的な、場合によっては貫徹し「妨げ」ともなる主題や主題的総合がありうるというこの可能性は、さらに別の可能な変様を示している。あらゆる基本的な種類の作用と作用の総合にかかわる「主題」という名は、現象学的分析の重要な主題をなしている。
§123 混乱と判明 総合的作用の遂行の様態として 遂行の様相を、さらに考察しよう。それは、根源から湧き出る現勢性という優先的な様態とは、いわば逆の方向にある。単純な、あるいは多様な定立を備えた思考は、「混乱した」思考として現れうる。その際、思考は、現勢的・定立的な分節をまったく欠く単純な表象のように与えられる。たとえば、証明や理論や会話を想起する場合である。それは「ふと思い浮かぶ」。最初、われわれはそれに向かっておらず、それは「背景」に浮かび上がる。次いで、自我の視線が一条の光線としてそれに向けられ、そのノエマ的対象性を、分節のない手中で把握する。ここで新たな過程が始まりうる。混乱した再想起は、判明な、そして明晰な再想起へ移る。証明の道筋を一歩一歩想起し、定立と総合を「再び」生み出し、昨日の会話の段階を「再び」たどる。もちろん、再想起という仕方での、「以前の」原的な産出の再産出というこうした再生は、非本質的である。たとえば、複雑な理論を遂行するための新しい理論的着想を、われわれはまず混乱した統一的なかたちで持ち、次いで自由に能動的に遂行した歩みで展開し、総合的な現勢性に変える。ここで示唆したことは、当然ながら、あらゆる種類の作用に関係づけるべきである。
混乱と判明のこの重要な区別は、今後論じる「表現」、明示的な表象、判断、情意作用などの現象学において重要な役割を果たす。われわれは、すでにつねに非常に複合的な総合的形成体、すなわちそのつど読むものの「思想内容」をなすものを、ふだんどのように把握しているか。そして、読んだものの理解において、表現のいわゆる思想的基盤に関して、実際に原的な現勢化にいたるものは何かを考えてみればよい。
§124 「ロゴス」のノエシス的・ノエマ的な層 意義作用と意義 これまで考察したあらゆる作用には、表現する作用、すなわち特別な意味で「論理的」な作用層が織り込まれる。この層についても、ノエシスとノエマの並行関係を明らかにできる。この並行関係に条件づけられて、語り方に一般的で避けがたい二義性が生じる。これは表現と意義についての語りでも同じである。だが、二義性として認識し、並行する構造を分けておけば、危険ではない。あとは、語りがどちらの構造に関係づけられるべきかが、そのつど疑いなく明らかであるよう配慮するだけでよい。
表現には、感性的な、いわば身体的な側面と、非感性的な「精神的」側面がある。この周知の区別から出発する。前者の詳しい論究には入らない。両側面が統一される仕方にも入らない。これらもまた、重要な現象学的問題を示している。
取り上げるのは「意義作用」と「意義」だけである。これらの語は、根源的には言語の圏域、「表現すること」の圏域にしか関係しない。だが、その意義を拡張し適切に変様して、ノエシス的・ノエマ的圏域の全体に適用することは、ほとんど避けられず、同時に重要な認識の一歩でもある。表現する作用と絡み合っているか否かを問わず、あらゆる作用に適用されるのである。われわれはあらゆる志向的体験について、つねに「意味」を語ってきた。この語は、一般には「意義」と同じ価値で用いられる。明確さのために、意義という語は古い概念のために優先して用い、とくに「論理的」あるいは「表現する」意義という複合的な言い方でも用いる。意味という語は、これまでどおり、より包括的に用いる。
例を挙げて話を続ける。知覚では、ある対象が一定の意味を帯び、一定の充実をもって一括的に措定されて現前している。通常、これは最初の単純な知覚的把握にそのまま続く。われわれは与えられたものを解明し、取り出された部分や契機を関係づけて一つに措定する。たとえば「これは白い」という図式にしたがってである。この過程は表現を要求しない。語音という意味での表現も、語の意義作用のようなものも要求しない。なお語の意義作用は、ここでは語音から独立して(語音が「忘れられた」場合のように)存在しうる。だが「これは白い」と「考えた」か言明したなら、純粋に知覚的な「思念されたものそのもの」と一体になって、新しい層も共にそこにある。このようにして、想起されたもの、想像されたものも、そのものとして解明し表現できる。任意の作用のノエマ的意味での思念は、しかもノエマ的核としての思念は、どれも「意義」によって表現できる。そこでわれわれは一般に次のように立てる。
論理的意義は表現である。
語音が表現と呼ばれうるのは、それに属する意義が表現するからにほかならない。表現することは根源的には意義のうちにある。「表現」は、あらゆる「意味」(ノエマ的「核」)に適合させられる独特な形式である。この形式は、意味を「ロゴス」の領域へ、概念的なものへ、したがって「一般的なもの」へと高める。
ここで最後の語は、きわめて特定の意義で理解されており、ほかの意義から区別されなければならない。たった今示唆したことには、論理的思考とその相関者の本質の解明にとって基礎となる、現象学的分析の大きな主題が示されている。ノエシス的観点では、「表現すること」の名で特別な作用層が指される。ほかのすべての作用はこの層に独特な仕方で適合させられ、不思議な仕方で融合する。作用のノエマ的意味のそれぞれ、したがってその意味に含まれる対象性への関係が、表現することのノエマ的なもののなかで「概念的に」刻印されるのである。独特な志向的媒体が存在する。この媒体は、ほかのあらゆる志向性を形式と内容に関していわば映し出し、自分に固有の色合いで写し取る。その際、自分に固有の「概念性」の形式をそれに刻み込む。ただし、映すとか写し取るとかいう、思わず浮かんでくる言い方は、慎重に受け取るべきである。それを媒介する形象性が、容易に誤解を招きかねないからである。
意義作用と意義という名称に属する現象には、きわめて難しい問題が結びついている。どの学問も、その理論的内容、すなわち定理、証明、理論のすべてに関して、特別に「論理的」な媒体、すなわち表現という媒体のなかで客観化される。それゆえ、表現と意義の問題は、一般的に論理学的な関心に導かれる哲学者や心理学者にとって最も身近な問題である。またこの問題こそ、真剣にその根底に達しようとするやいなや、現象学的な本質研究へと駆り立てる最初の問題でもある。そこから次の問いが出る。「表現すること」は「表現されたもの」からどう理解されるべきか。表現的な体験は表現的でない体験とどのような関係にあるのか。後者は付け加わる表現することにおいて何を経験するのか。人は後者の「志向性」に、すなわち「内在的な意味」に、質料と質、すなわち定立の作用性格に突き当たる。また、この意味と、前表現的なもののうちにあるこれらの本質契機とを、表現する現象そのものの意義と、それに固有の契機から区別することに突き当たる。この大きな問題が、その深くにある意味の全体において評価されることがいかに少ないかは、今日の文献からもなお多くの面で見て取れる。
表現の層は、他のあらゆる志向的なものにまさに表現を与えること以外では、生産的ではない。これが表現の層の独自性をなす。そのノエマ的な働きは、表現することに尽き、さらにそれとともに新たに入ってくる概念的なものの形式にも尽きる。
表現する層は、表現を受ける層と、定立的性格に関して完全に本質上一体である。合致のなかで、表現する層は表現を受ける層の本質をそれほど深く自らのうちに取り込む。それゆえ、明示的に表象することをまさに表象することそのもの、明示的に信じ、推測し、疑うことを、信じ、推測し、疑うことと呼ぶ。明示的に願い、欲することも、願い、欲することと呼ぶ。措定性と中立性の区別も明示的なものへ移ることは、すでに先に述べた。表現する層は、表現を受ける層とは別様に性質づけられた措定的ないし中立的な定立をもつことはできない。合致のなかに見いだすのは、分けるべき二つの定立ではなく、ただ一つの定立である。
ここに属する構造を完全に解明するには、かなりの困難がある。感性的な語音の層を捨象してもなお、ここで前提した種類の層構造が実際にあると認めることさえ、容易ではない。その層構造とは、どれほど不明瞭で空虚で単に言葉だけの思考にも、意義を表現する層と、表現されたものの下層がある、というものである。まして、この層構造の本質連関を理解することは、さらに容易ではない。層構造という像にあまり多くを求めてはならないからである。表現は、上に塗られたニスでも、上にかぶせた衣服でもない。表現は精神的な形成であり、志向的な下層に対して新たな志向的機能を果たし、その下層からは相関的に志向的機能を受ける。この新しい像が何を言わんとするかは、現象そのものと、そのすべての本質的変様について研究しなければならない。とりわけ重要なのは、そこに現れる「一般性」の種々の種類を理解することである。一方は、どの表現と表現契機にも、非自立的な「である」「ない」「と」「もし」などにも属する一般性である。他方は、「ブルーノ」のような固有名に対して、「人間」のような「一般名」がもつ一般性である。さらにもう一つは、それ自体では統語的に形式をもたない本質に属する一般性であり、これは意義の種々の一般性と比較される。
§125 論理的・表現的圏域における遂行の様相と解明の方法 示唆した困難を解明するには、先に扱った現勢性の様態の区別、すなわち作用の遂行の様相に、特別な配慮を払わなければならない。この様相は、あらゆる定立と総合に関わるように、明示的な定立と総合にも関わる。ただしそれは二重の仕方においてである。一方でそれは意義の層、つまり特別に論理的な層そのものに関わり、他方で基づける下層に関わる。
読書のとき、われわれはどの意義も分節して自由に能動的に遂行できる。その際、先に描いた仕方で、意義を意義と総合的に結びつけることもできる。この本来の産出の様態における意義作用の遂行において、「論理的」理解の完全な判明さを得る。この判明さは、先に記述した様態のすべての混乱へと移りうる。たった今読んだ文が闇に沈み、生き生きとした分節を失い、われわれの「主題」として「なお手中に」あることをやめる。
だが、この判明と混乱は、表現された下層にかかわる判明と混乱から区別されなければならない。語と文の判明な理解、ないし言明する作用の判明で分節された遂行は、基盤の混乱と両立する。この混乱は単に不明晰を意味するのではないが、不明晰をも意味する。下層は、混乱した統一的なものでありうる(そして多くの場合そうである)。その場合、下層は自らの分節を自らのうちに現勢的にもつのではない。実際に分節され、根源的な現勢性において遂行された論理的表現の層が、ただそれに適合することによって、分節を得ている。
これは方法論上きわめて重要な意味をもつ。先に論じた明晰化の方法は、学問の生の要素である言明に関して、本質的な補完を必要とする。混乱した思考から、本来的で完全に明示的な認識へ、すなわち思考作用を判明かつ同時に明晰に遂行することへ至るために必要なことは、いまや容易に示せる。まず、「論理的」作用(意義作用)のうち、なお混乱した様態で遂行されていたものを、すべて原的で自発的な現勢性の様態へ移す。すなわち、完全な論理的判明性を作り出す。次に、基づける下層においても同様のことを成し遂げる。生気のないものをすべて生きたものに、混乱をすべて判明性に、非直観的なものをすべて直観的なものに変えるのである。この作業を下層で遂行して初めて、先に記述した方法が作動する。ただし、下層で明らかになる不両立が、さらなる作業を不要にする場合は別である。その際、直観の概念、すなわち明晰な意識の概念が、単一定立的な作用から総合的な作用へ移されることを考慮に入れなければならない。
より深い分析が示すように、問題になるのは、そのつど獲得されるべき明証の種類、ないしその明証が向けられている層である。形式論理学の根本法則から得られる、ノエマ的意義の本質連関に関わる純論理的な明証は、いずれも、意義が与えられていることを必要とする。すなわち、当の意義法則が定める形式をもつ表現的命題が、与えられていることである。意義は非自立的であるから、法則の明証を媒介する論理的な本質形成体の例示は、論理的表現を受ける下層をも伴う。しかし、純論理的な洞察が問題であるときには、これらの下層を明晰にする必要はない。相応の変様を加えれば、同じことが、応用論理的な「分析的」認識のすべてに当てはまる。
§126 表現の完全性と一般性 さらに、完全な表現と不完全な表現を区別しなければならない。表現するものと表現されるものの統一は、たしかにある種の合致の統一だが、上層が下層の全体にわたって表現的に及ぶ必要はない。表現が完全であるのは、下層のすべての総合的な形式と質料を、概念的かつ意義的に刻み出すときである。部分的にしかそうしないとき、表現は不完全である。たとえば、待ちわびた客を乗せた馬車が入ってくるという複合的な出来事を目にして、家の中へ「馬車だ! 客人だ!」と叫ぶ場合がそうである。この完全性の区別が、相対的な明晰性と判明性の区別と交差することは、言うまでもない。
先ほど論じたものとはまったく別の不完全性があり、それは表現そのものの本質、すなわち一般性に属する。「願わくは」という語は願望を、命令形は命令を、「だろう」という語は推測、ないし推測されるもの一般を、一般的に表現する。表現の統一においてさらに詳しく規定するものは、それ自身がまた一般的に表現される。表現することの本質に属する一般性からして、表現されるものの個々の特殊化がすべて表現に反映されることは決してありえない。意義作用の層は、下層の一種の重複ではなく、原理的にそうではない。下層に見られる変化可能性の次元は、まるごと表現的な意義作用に入ってこない。それら、ないしその相関者は、そもそも「表現され」ない。相対的な明晰性や判明性の変様、注意的な変様などがそうである。だが、表現という語り方の特殊な意味が示すものの内部でも、本質的な違いがある。たとえば、総合的な形式と総合的な素材が表現を見いだす仕方についてである。
あらゆる形式意義、およびそもそもあらゆる「共範疇的」意義は非自立的である。孤立した「と」や「もし」、孤立した属格「天の」は、理解できるのに、非自立的で補完を必要とする。この補完の必要が、二つの層に関して、また不完全な意義作用の可能性に即して、何を意味するかが問われる。
§127 判断の表現と情意ノエマの表現 意義の圏域における最も古く最も難しい問題の一つを解こうとするなら、これらすべての点で明晰でなければならない。この問題は、必要な現象学的洞察が欠けていたまさにそのために、これまで解かれないままだった。言明することは、判断することの表現として、そのほかの作用の表現とどのような関係にあるのか。われわれには、「そうである!」が表現に至る明示的な述定がある。明示的な推測、問い、疑い、願望、命令などもある。言語の上では、部分的には独特の構造をもちながら、二義的に解釈される文の形式が現れる。平叙文に、疑問文、推測文、願望文、命令文などが連なる。論争は、文法上の語形とその歴史的な形式は別として、これらが同位の意義の種類なのか、それともすべて、その意義からすれば実は平叙文なのか、という点にあった。後者であれば、関連するすべての作用形成体は、たとえば情意の圏域のもののように、それ自体は判断作用ではないのに、そこに基づけられた判断することを迂回する道によってしか「表現」に至れない。
しかし、問題をそもそも作用、すなわちノエシスにだけ関係づけるのは不十分である。こうした意義の反省でまさに視線が向けられているノエマが、絶えず見過ごされていることが、事象の理解を妨げている。正しい問題設定に到達するだけでも、われわれが示してきた構造に配慮する必要がある。ノエシス的相関とノエマ的相関がすべての志向的なもの、すべての定立的・総合的な層を貫いているという一般的な認識が要る。論理的な意義の層と、それによって表現されるべき下層との区別が要る。ここでも志向的な圏域の他の場所と同じく、本質上可能な反省の方向と変様の方向についての洞察が要る。とりわけ、あらゆる意識をいかにして判断意識へ移せるか、あらゆる意識からいかにしてノエシス的およびノエマ的な種類の事態を取り出せるかについての洞察が要る。最近の一連の問題分析全体の連関からわかるように、われわれが最終的に連れ戻される根本問題は、次のように捉えなければならない。
表現的な意義作用の媒体、すなわちロゴスのこの媒体は、特殊にドクサ的なものなのか。意義作用を意義されるものに適合させるとき、それは、あらゆる措定性に内在するドクサ的なものと合致しないのか。
もちろん、情意体験の表現に複数の仕方がありうることは、排除されない。その一つは直接的な仕方、すなわち、分節された表現を分節された情意体験に直接適合させる、体験の単純な表現である。表現という語り方の相関的な意味では、その体験のノエマの単純な表現である。この場合、ドクサ的なものがドクサ的なものと合致する。したがって、もっぱらドクサ定立的な体験である表現を情意体験に適合させうるようにするのは、情意体験のあらゆる成分に内在するドクサ的形式であろう。情意体験は、それ自体としてもそのすべての項についても多重に定立的であり、その中には必然的にドクサ定立的なものも含まれる。
より正確に言えば、この直接的表現は、より忠実で完全であろうとするなら、ドクサ的に様相化されていない体験にしか属さない。願うときに確信がないなら、直接適合させて「Sがpであるように」と言うのは正しくない。根底に置かれた見解の意味からすれば、あらゆる表現することは、際立った意味でのドクサ的作用、すなわち信念の確信だからである。したがって表現は、確信(たとえば願望の確信、意志の確信)しか表現できない。このような場合、忠実な表現は間接的にしか行えず、たとえば「たぶんSがpであるように」という形になる。様相が現れるときは、できるかぎり適合した表現を得るために、様相の中にいわば隠れているドクサ的定立に、定立的質料を変えたうえで遡らなければならない。この見解を正しいものとして認めるなら、さらに次のことを補わなければならない。
間接的な表現の複数の可能性が、「迂回」を伴って常にある。どの対象性にも、それがどのような作用によって構成されていようと、単純な作用であれ、多重に総合的に基づけられた作用であれ、本質上、関係づける展開のさまざまな可能性が属している。したがって、どの作用にも、たとえば願望作用にも、その作用に、そのノエマ的対象性に、そのノエマ全体に関係する、別の作用がいくつも連なりうる。それは、主語定立とその上に立てられた述語定立の連関であって、最初の作用で願望的に思念されたものが、そこで判断として展開され、それに応じて表現される。そのとき表現は、もとの現象にではなく、そこから導かれた述定的なものに直接適合している。
その際つねに留意すべきは、次の三つがよく区別すべきものだということである。概念的・意義的な表現に先立つ判断としての解明的ないし分析的総合、言明ないし通常の意味での判断、そして最後にドクサ(belief)である。「判断理論」と呼ばれるものは、ひどく多義的である。ドクサの理念の本質解明は、言明や解明の本質解明とは別のことである。
第四篇 理性と現実
第一章 ノエマ的意味と対象への関係
§128 序論 前章の現象学的な遍歴は、われわれをほとんどあらゆる志向的圏域へと導いた。実的な分析と志向的な分析、ノエシス的な分析とノエマ的な分析とに分けるという根本的な観点に導かれて、われわれはいたるところで、そのつど新たに枝分かれする構造に行き当たった。この区別は、あらゆる志向的構造を貫く根本構造に関わる。したがって現象学的方法論を支配する導きの動機となり、志向性の問題に関するすべての研究の歩みを規定しなければならない。この洞察を、もはや拒むことはできない。
同時に、この区別とともにeo ipso、根本的に対立しながら本質上たがいに関係し合う二つの存在領域の区別が浮かび上がったことも明らかである。われわれは先に、意識一般が固有の存在領域とみなされるべきだと強調した。だがそのうえで、意識の本質記述は、意識の中で意識されるものの記述に連れ戻すこと、意識相関者は意識から切り離せないが、実的には意識の中に含まれていないことを認識した。こうしてノエマ的なものは、意識に属しながら独特な対象性であるものとして区別された。ここでわれわれは気づく。無変様の意味で解された端的な対象は、根本的に異なる最高類の下にある。だがすべての対象の意味と、完全に捉えたすべてのノエマは、他の点でどれほど異なっていようと、原理的に唯一の最高類に属する。さらに、ノエマとノエシスの本質が、たがいに切り離せないということも成り立つ。ノエマ側の最低の差異はいずれも、形相的にノエシス側の最低の差異に連れ戻す。このことは当然、すべての類形成と種形成に移される。
ノエシスとノエマという志向性の本質的な二面性を認識すれば、体系的な現象学は、体験、とりわけ志向的体験の実的分析にだけ、一面的に関心を向けてはならない、という帰結が出てくる。ところが、初めのうちはその誘惑がきわめて大きい。心理学から現象学へという歴史的で自然な歩みのために、純粋な体験の内在的研究、すなわちその固有の本質の研究を、当然のことのようにその実的成分の研究と解してしまうからである。実際には、両側に形相的研究の大きな領域が開ける。それらは絶えず相互に関係しながらも、明らかになるように、広い範囲にわたって別々である。作用分析、ノエシス的分析と考えられてきたものの多くは、まったく「思念されたものそのもの」へ視線を向けることで得られたものであり、そこで記述されていたのはノエマ的構造だったのである。
次の考察では、ノエマの一般的な構造に注意を向けたい。その観点はこれまでたびたび挙げられてきたが、ノエマ的分析の導きとはならなかった。意識が或る対象性に関係するという現象学的問題は、何よりもそのノエマ的側面をもつ。ノエマはそれ自体のうちに、固有の「意味」によって対象的な関係をもっている。そこで、意識の「意味」は、それが自分のものとする「対象」にいかにして届くのか、またその対象は、ノエマ内容の大きく異なる多様な作用において「同じ」でありうるが、われわれはそのことを意味からどのようにして見て取るのか、と問うなら、新しい構造が現れ、その並外れた重要性は明らかである。というのも、この方向に進み、他方で並行するノエシスを反省すると、われわれはついに、次の問いに突き当たるからである。意識が、実際に或る対象的なものに「関係している」、「的確な」ものであると称する「要求」は、本来何を意味するのか。「妥当する」対象的関係と「妥当しない」対象的関係は、ノエシスとノエマに即して現象学的にどう解明されるのか。こうしてわれわれは、理性の大問題の前に立つ。その解明を超越論的な地盤で行うこと、その定式化を現象学的問題として行うことが、この篇のわれわれの目標となる。
§129 「内容」と「対象」 「意味」としての内容 これまでの分析では、普遍的なノエマ構造が絶えず役割を果たしてきた。それは、或るノエマ的「核」を、折々にそれに属する「性格」から区別することによって示された。ノエマ的具体は、これらの性格によって、多種多様な変様の流れに引き込まれて現れる。この核は、まだ学問的な正当な扱いを受けていなかった。核は直観的に際立ち、統一をなし、われわれがおおむねそれに関係できる程度に明晰だった。いまや、核をより詳しく考察し、現象学的分析の中心に据える時である。そうすると、あらゆる作用の類を貫いて走る、普遍的に重要な区別が浮かび上がり、それが大きな研究群の導きとなる。
意識内容という通例の多義的な語り方から出発する。内容として捉えるのは「意味」である。意識は、この意味によって、或る対象的なものに、意識「自身の」ものとして関係する。次の命題を掲げる。
どのノエマも「内容」、すなわち自分の「意味」をもち、それによって「自分の」対象に関係する。
近ごろ、作用、内容、対象の根本的な区別がついに得られたことが、大きな進歩として称賛されるのをよく耳にする。この三つの語の組み合わせは、とりわけトヴァルドフスキの見事な論文以来、すっかりスローガンになってしまった。この著者の功績は、一般に行われている或る種の混同を鋭く論じ、その誤りを明証的にしたことにあり、それは大きく、疑いえない。しかし、関連する概念的本質の解明においては、彼は、非難として数えるべきことではないが、以前の世代の哲学者たちが、不用意な混同をしていたにもかかわらずよく知っていたことを、著しくは超えていないと言わざるをえない。実際、意識の体系的な現象学に先立っては、根本的な進歩はそもそも不可能だった。「表象」の「作用」、「内容」、「対象」といった、現象学的に解明されていない概念では、われわれは役に立たない。何もかもが作用と呼ばれ、とりわけ、何もかもが表象の内容や表象そのものと呼ばれうるのである。そしてそう呼ばれうるもの自体を、学問的に認識することが課題である。
この点で、私には必要な第一歩と思われるものが、すでに試みられていた。「質料」と「質」を現象学的に取り出すこと、そして「志向的本質」を「認識的本質」から区別する理念を立てることである。これらの区別は、ノエシス的な視線方向の一面性のなかで行われ、思念されていた。しかしこの一面性は、ノエマ的な並行物に目を向ければ容易に克服される。したがってこれらの概念をノエマ的に理解できる。判断の質や願望の質などの「質」は、われわれがこれまで「措定」性格、最も広い意味での「定立的」性格として扱ってきたものにほかならない。この表現は同時代の心理学、すなわちブレンターノの心理学に由来するが、私には今ではあまり適切と思えない。独自の定立はそれぞれ質を持つが、定立そのものを質と呼ぶべきではない。さて、そのつど「何」であるもの、つまり「質」から措定の特徴づけを受ける「質料」が、「ノエマ的核」に対応することは明らかである。
この端緒を一貫して仕上げることが課題である。これらの概念をいっそう深く解明してさらに分解し、ノエシス的・ノエマ的なあらゆる領域を通じて正しく遂行しなければならない。この方向で本当に成功した前進は、現象学にとって格別の意義をもつはずである。問題になっているのは、脇に離れた特殊事項ではなく、あらゆる志向的体験の中心的な構造に属する本質契機だからである。事象に近づくために、次の考察を加えよう。
志向的体験は、人が言いならわすところでは、「対象的なものへの関係」を持つ。また、それは「何ものかについての意識」であるとも言う。たとえば、この庭にある、花の咲いたリンゴの木についての意識である。このような例を前にしても、さしあたり二つの言い方を区別する必要はないと考える。先行する分析を思い出すと、完全なノエシスが、その志向的で完全な「何」としての完全なノエマに関係していることがわかる。しかし、この関係は、意識がその志向的に対象的なものに関係するという言い方で思念されている関係ではありえないことは明らかである。なぜなら、あらゆるノエシス的契機、とくにあらゆる定立的ノエシス的契機には、ノエマのなかの一契機が対応し、このノエマのなかで、定立的性格の複合体に対して、それによって性格づけられたノエマ的核が区別されるからである。さらに、場合によってはノエシスを貫いて進む(現勢的なcogitoを貫いて進む)「…への眼差し」を思い出そう。この眼差しは、特有の定立的契機を、自我の措定の現勢性がもつ光線に変える。この自我がそれらの契機とともに、存在を把握し、あるいは推測し、願望するなどしつつ、対象的なものへどのように「向かう」のか、その眼差しがノエマ的核をどのように貫いて進むのかに、正確に注意しよう。そうすれば、意識の対象的なものへの関係、とりわけ「方向」という言い方が、ノエマの最も内なる契機を指し示していることに気づく。それは、いま示した核そのものではない。いわば核の必然的な中心点をなし、核に特有に属するノエマ的な固有性の「担い手」として機能する。すなわち、「思念されたものそのもの」がもつ、ノエマ的に変様された特性の担い手である。
さらに詳しく立ち入ると、志向的体験についてだけでなく、ノエマそれ自体として取り上げたものについても、「内容」と「対象」の区別を立てるべきことに実際に気づく。したがってノエマもまた対象に関係し、「内容」を持ち、この内容を介して対象に関係する。その際、対象はノエシスの対象と同じである。こうして「並行関係」は、ここでもまた全面的に確証される。
§130 「ノエマ的意味」という本質の限定 これらの注目すべき構造をもう少し身近にするために、考察を単純にして、注意的変様は考慮の外に置く。さらに、措定的作用に限り、その定立のなかで生きている場合を考える。その際、基づけの段階の順序に応じて、あるときは一つの部分定立に、あるときは別の部分定立に主として生き、残りの定立は遂行されてはいるものの、副次的な機能にとどまることもある。このような単純化によって、分析の妥当の一般性が損なわれないことは、後から容易に明らかにできる。このような変様に左右されない本質が問題だからである。
そこで、生きたcogitoに身を置くなら、それは本質上、際立った意味で、ある対象性への「方向」を持つ。言い換えると、そのノエマには「対象性」が属している。ただしそれは引用符つきの対象性である。この対象性は一定のノエマ的な内実を備えており、その内実は、限界の定まった記述のなかで展開される。すなわち、「思念された対象的なもの、思念されているとおりのもの」の記述として、あらゆる「主観的」表現を避ける記述である。そこでは、「対象」「性状」「事態」といった形式的存在論的表現、「物」「図形」「原因」といった質料的存在論的表現、「ざらざらした」「硬い」「色のついた」といった事象内実を持つ規定が用いられる。そのすべてが引用符を伴い、したがってノエマ的に変様した意味を持つ。これに対して、思念されたこの対象的なものそのものの記述から除外されるのは、「知覚に即した」、「想起に即した」、「明瞭に直観された」、「思考に即した」、「与えられた」といった表現である。これらの表現は記述の別の次元に属し、意識されている対象的なものではなく、それが意識されている仕方に属する。他方、現出している物的対象について、その「前面」は色や形などに関してかくかくに規定されている、「背面」は「ある」色を持つが「それ以上は規定されていない」、そもそもあれこれの点で、こうであるかああであるかが「未規定」である、と述べるなら、これはやはり問題の記述の枠内に収まる。
このことは自然的対象だけでなく、ごく一般に当てはまる。たとえば価値対象性にも当てはまる。その記述には、思念された「事象」の記述が属し、さらに「価値」の述語の提示が属する。たとえば、現出している木について、評価的に思念するわれわれの「意味において」、その木は「見事に」香る花で覆われている、と言うような場合である。その際、価値述語もまた引用符を伴う。それは価値そのものの述語ではなく、価値ノエマの述語である。
これによって、あらゆるノエマのなかに、まったく確固とした実質が限定されたことは明らかである。あらゆる意識はその「何」を持ち、そのつど「自らの」対象的なものを思念する。原理的に、どの意識についても、このようなノエマ的記述を、「思念されたものとまさにそのとおりに」遂行できなければならないことは、明証的である。解明と概念的把握によって、われわれは、形式的ないし質料的な、事象内実をもって規定された、あるいは「未規定」な、すなわち「空虚に」思念された「述語」の閉じた総体を得る。これらの述語が、変様した意義において、ノエマの当該の対象核の「内容」を規定する。
§131 「対象」、すなわち「ノエマ的意味における規定可能なX」 しかし、述語は「何ものか」の述語であり、この「何ものか」もまた問題の核に属している。しかも明らかに、切り離せない仕方で属している。それは、先に述べた中心の統一点である。述語の結合点、すなわち「担い手」ではあるが、述語の統一であるわけではない。述語の何らかの複合体や結びつきを統一と呼ぶような意味での統一ではないのである。それは述語から必然的に区別すべきであるが、述語と並べて置くことも、述語から切り離すこともできない。逆に、述語そのものはその述語であって、それなしには考えられず、しかもそれから区別できる。われわれは、意識の連続的な、あるいは総合的な進行のなかで、志向的客観は絶えず意識されているが、その進行のなかで繰り返し「別様に自らを与える」と言う。客観は「同じもの」であり、ただ別の述語を伴い、別の規定内容をもって与えられているにすぎない、と言う。「それ」はただ異なる側面から現れているにすぎず、その際、未規定のままだった述語がより詳しく規定された、とも言う。あるいは、「その」客観は所与のこの区間では変わらないままだったが、今度は同一のものである「それ」が変化し、この変化によって美しさを増し、実用価値を失う、などと言う。これがつねに、そのつど思念されたものそのものについてのノエマ的記述として理解され、しかもこの記述が、いつでも可能であるように、純粋に十全的に遂行されているなら、同一の志向的「対象」は、移ろい変わりうる「述語」から明証的に区別される。中心的なノエマ的契機として取り出されるのは、「対象」、「客観」、「同一のもの」、「その可能な述語の規定可能な主語」、すなわちあらゆる述語を捨象した純粋なXである。そしてそれは、これらの述語から、より正確にはこれらの述語ノエマから、区別される。
一つの客観に対して、われわれは多様な意識の仕方、すなわち作用、ないし作用ノエマを割り当てる。これは明らかに偶然ではない。そのいずれも、多様な志向的体験もまた考えられることなしには考えられない。それらの体験は連続的な、あるいは本来的に総合的な(多定立的な)統一において結びついており、その統一のなかで「それ」、すなわち客観が、同一でありながらノエマ的には異なる仕方で意識される。したがって、先に性格づけた核は変わりうるものであり、「対象」、すなわち述語の純粋な主語は、まさに同一のものである。作用の内在的持続のどの部分区間も、すでに一つの「作用」と見なすことができ、全体の作用も、連続的に結びついた作用の、ある整合的な統一と見なすことができるのは明らかである。そこでこう言える。ここではどこでも、複数の作用ノエマは異なる核を持つ。しかしそれにもかかわらず、それらは同一性の統一へと結合する。この統一のなかで、どの核にも含まれている「あるもの」、すなわち規定可能なものが、同一のものとして意識される。
しかし同様に、分離した作用、たとえば二つの知覚や、一つの知覚と一つの想起も、「整合的な」統一へと結合することができる。この結合に独特な性格は、結びついた作用の本質に明らかに無縁ではない。この性格によって、さしあたり分離した核において、場合によってはあるときはこう、あるときは別様に規定されたあるものが、同じあるものとして、あるいは整合的に同じ「対象」として意識される。
こうして、あらゆるノエマのなかには、統一点としてのこのような純粋な対象的あるものが含まれている。同時にわれわれは、ノエマ的に見て、二種の対象概念を区別すべきことを理解する。一つはこの純粋な統一点、すなわちノエマ的な「端的な対象」であり、もう一つは「規定性のあり方における対象」である。後者には、そのつど「開かれたままの」、またこの様態で一緒に思念されている未規定性も数え入れる。その際、この「あり方」は、そのつどの作用が指定するとおりに、したがって実際にそのノエマに属するものとして、厳密に受け取るべきである。われわれが繰り返し語ってきた「意味」は、ノエマ的な「あり方における対象」にほかならない。それは、先に性格づけた記述がそこに明証的に見出し、概念的に表現できるすべてを伴っている。
いまわれわれが「核」ではなく、慎重に「意味」と言ったことに注意しておく。というのも、ノエマの現実の、具体的に完全な核を得るには、さらに、性格づけた記述には表れず、われわれにとって意味を定義するその記述には刻印を見出さない、一つの次元の区別を考慮に入れる必要があることが、明らかになるからである。ここではさしあたり、この記述がとらえるものだけに純粋に従うなら、「意味」はノエマの一つの基礎部分である。意味は、ノエマごとに一般には異なるが、場合によっては絶対に等しく、ことによっては「同一的」と性格づけられることさえある。それは、「規定性のあり方における対象」が双方で同じものとして現れ、絶対に等しく記述されるべき場合である。どのノエマにも意味が欠けることはありえず、その必然的な中心、すなわち統一点、純粋に規定可能なXが欠けることもありえない。「意味」は、「あるもの」なしにも、規定する内容なしにも成り立たない。このようなことは、後から来る分析と記述がはじめて持ち込むのではなく、明証的な記述の可能性の条件として、またそれに先立って、意識の相関者のなかに実際に含まれていることは明証的である。
意味に属する意味の担い手は、空虚なXである。また、諸意味の本質に基づいて、任意の段階の意味統一へと整合的に結合する可能性がある。この二つによって、どの意味もそれぞれの「対象」を持つだけでなく、異なる意味が同一の対象に関係する。それは、それらの意味が意味統一へと組み入れられうるかぎりのことであり、その意味統一のなかで、結びついた諸意味の規定可能なXが、互いに、またそのつどの意味統一の全体意味のXと、合致するかぎりのことである。
論述を、単定立的作用から総合的作用、より明確には多定立的作用へ移す。定立的に分節された意識では、どの項も、記述したノエマ的構造を持つ。どの項も、その「規定する内容」を伴うXを持つ。しかしそれに加えて、総合的な全体作用のノエマは、「支配的」定立に関して、総合的なXと、その規定する内容を持つ。作用の遂行においては、純粋自我の眼差しの光線が、多数の光線に分かれて、総合的統一に至るXへと向かう。名詞化という転換にあたって、総合的な全体現象は変様する。その変様は、現勢性の光線が最上位の総合的なXへ向かうようなものである。
§132 その充実の様態における意味としての核 意味は、われわれが規定したとおりでは、ノエマの全体構成における具体的な本質ではなく、ノエマに内在する抽象的な形式の一種である。というのも、意味を、すなわち「思念されたもの」を、それが思念されたものであるときの規定内容とまさに同じ姿で固定するなら、「あり方における対象」について第二の概念が明らかに得られるからである。それは、その所与の仕方のあり方における対象という概念である。その際、注意的変様や、遂行様態のような種類のあらゆる区別を度外視するなら、つねに措定性という優先的な圏域のなかで、明晰さの充実の区別が考慮に入る。この区別は認識にとってきわめて規定的である。暗く意識されたものそのものと、同じものが明晰に意識された場合とは、ノエマ的な具体性に関しては大きく異なる。体験の全体が異なるのと同様である。しかし、暗く意識されたものが思念される際の規定内容が、明晰に意識されたものの規定内容と絶対に同一であることを妨げるものは何もない。その記述は重なり合うだろうし、総合的な統一意識が両方の意識を包括して、実際に同じ思念されたものが問題になるようにすることもできる。したがって、完全な核としてわれわれが数えるのは、当該のノエマ的構成部分の完全な具体性、すなわちその充実の様態における意味である。
§133 ノエマ的命題 定立的命題と総合的命題 表象の領域における命題 次に、これらの区別をあらゆる作用の領域で丁寧に遂行する必要がある。また、ノエマとしての意味に対して特別な関係を持つ定立的契機を補って考慮する必要がある。論理学研究では、これらの契機は、質という名のもとで、最初から意味の概念、すなわち「意義的本質」の概念に取り入れられた。そのため、この統一のなかで「質料」と質という二つの成分が区別された。ここでの「質料」は、いまの捉え方でいう意味にあたる。しかし、意味という術語はその「質料」だけを指すものとして定義し、意味と定立的性格の統一を命題と呼ぶほうがふさわしいように思われる。そうすると、知覚やその他の定立的直観に見られるような一項の命題と、多項の総合的命題が得られる。後者には、述定的なドクサ的命題(判断)や、述定的に分節された質料を持つ推測の命題などがある。さらに、好みの命題、願望の命題、命令の命題などにも、一項のものと多項のものがある。命題の概念は、これによってたしかに並外れて、おそらく奇異なほどに拡張されたが、それでも重要な一つの本質的統一の枠内にある。意味と命題という概念が、われわれにとっては、表現や概念的意義に関するものを何も含まず、他方であらゆる明示的な命題、ないし命題の意義を自らの下に含むことを、つねに念頭に置かねばならない。
われわれの分析によれば、これらの概念は、あらゆるノエマの完全な織物に属する抽象的な層を指している。この層をその全面的な一般性においてとらえること、すなわち、この層が実際にあらゆる作用の圏域に位置を占めることを洞察することは、われわれの認識にとって大きな射程を持つ。単純な直観においても、対象の概念と切り離せない意味と命題の概念は必然的に適用される。したがって、直観の意味と直観の命題という特別な概念を、必然的に鋳造しなければならない。たとえば外的知覚の領域では、「知覚された対象そのもの」から、知覚されているという性格を捨象することで、あらゆる解明し概念化する思考に先立ってこのノエマのなかにある何ものかとして、対象の意味を見て取ることができる。すなわちこの知覚の物の意味であり、それは知覚ごとに(「同じ」物に関してさえ)異なる。この意味を直観的な充実とともに完全にとるなら、現出の、一定の、きわめて重要な概念が得られる。これらの意味には命題が対応する。直観の命題、表象の命題、知覚的命題などである。外的直観の現象学は、それとして、変様を受けていない意味での端的な対象ではなく、ノエシスの相関者としてのノエマを扱う。そこでは、ここで取り出したような概念が、学問的研究の中心に位置する。
まず一般的な主題に戻ると、さらに次の課題が生じる。意味の基本的な種類を体系的に区別することである。単純な意味と総合的な意味、すなわち総合的作用に属する意味、そして第一段階の意味と高次の段階の意味を区別する。一方では内容的規定の基本的な種類に従い、他方ではあらゆる意義の領域で同じように役割を果たす総合的形成の基本形式に従う。こうして、形式と内容に関してa prioriに意味の全体的構造を規定し、あらゆる意識の圏域に共通するか、類として閉じた圏域に固有であるもののすべてを考慮に入れる。そのうえで、意味(意義)の体系的で普遍的な形式論の理念へと上り詰める。さらに、措定性格の体系的な区別を考慮に入れるなら、それによって同時に命題の体系的な類型論が成し遂げられる。
§134 アポファンシス的形式論 ここでの主要な課題は、体系的で「分析的」な「論理的」な意義の形式論、ないし述定的命題の、すなわち形式論理学の意味での「判断」の、体系的な形式論を構想することである。この形式論は、分析的ないし述定的総合の形式だけを考慮し、これらの形式に入り込む意味の名辞は未規定のままにしておく。この課題は特殊なものであるが、それでもなお普遍的な射程を持つ。述定的総合という名称が、可能なあらゆる意味の種類にとって可能な操作の一つの部類を指すからである。それは、どこでも等しく可能な、解明の操作と、解明されたものを関係づける統握の操作である。後者は、規定主語の規定として、全体の部分として、その基準項に対する関係項として、などと捉える。これらとからみ合って、集まりの操作、選言の操作、仮言的結合の操作がある。これらすべては、あらゆる言明に先立ち、言明とともに新たに現れる明示的な、あるいは「概念的な」捉え方にも先立つ。この捉え方は、あらゆる形式と質料に、意義に即した表現として寄り添う。
この形式論の理念には、すでに何度か触れている。示したところでは、これは学問的な普遍数学の原理的に必然的な下位段階をなす。この形式論は、現在の研究の成果によって孤立を失う。理念として構想された、意味一般についての一般的な形式論の内部に故郷を得るとともに、ノエマ的現象学のうちに最終的な根源の場を得る。この点をもう少し身近に引き寄せよう。
分析的・統語的な操作は、先に述べたように、あらゆる可能な意味ないし命題にとって可能な操作である。そのつどのノエマ的意味は、「思念された」対象そのものにほかならず、しかも規定内容のそのつどの如何における対象である。どのような規定内容を「展開されないまま」自らに含んでいようと、この操作は可能である。ノエマ的意味はつねに展開することができ、展開(「分析」)と本質上結びついた操作のどれであれ、遂行することができる。こうして生じる総合的な形式は、文法の「統語論」に倣って統語的な形式とも呼んだものであり、まったく一定の形をもち、固定した形式の体系に属し、抽象によって取り出し、概念的に明示して捉えることができる。たとえば、単純な知覚定立において知覚されたものを、知覚されたものそのものとして、分析的に扱うことができる。その扱いは、「これは黒い、インク壺だ、この黒いインク壺は白くない、白ければ黒くない」などの表現に示される。一歩ごとに新しい意味が得られる。すなわち、根源的な一項的命題の代わりに総合的命題が得られ、この命題は、あらゆる原ドクサ的命題の表現可能性の法則にしたがって、表現ないし述定的言明にもたらすことができる。分節された命題の内部では、各項が、分析的総合に由来する統語的形式をもつ。
これらの意味形式に属する措定がドクサ的原措定だと仮定しよう。そうすると、論理的意味での判断(アポファンシス的命題)のさまざまな形式が生じる。これらの形式をすべてアプリオリに規定し、無限に多様でありながら法則的に限界づけられた形式の形成体を、体系的に余すところなく掌握するという目標は、アポファンシス的命題ないし統語論の形式論という理念をわれわれに示す。
しかし、措定は、とりわけ総合的な全体措定は、ドクサ的様相であることもできる。たとえば、われわれは推測し、「推測的」という様態で意識されたものを展開する。あるいは、それが疑わしいものとして立っていて、疑わしさの意識のうちで疑わしいものを展開する、などである。これらの様相のノエマ的相関者を表現にもたらし(「Sはpであろう」、「Sはpなのか」など)、単純な述定的判断そのものについても同じことを行い、さらに肯定と否定も表現するならば(たとえば「Sはpではない」、「Sはやはりpである」、「Sは確かに、実際にpである」)、形式の概念が拡張され、命題の形式論の理念も拡張される。形式はいまや多重に規定される。一部は本来の統語的形式によって、一部はドクサ的様相によってである。その際、全体命題にはつねに全体定立が属し、その中にドクサ的定立が含まれている。同時に、そのような命題も、それに直接適合した概念的「表現」も、意味の展開と述定によって言明命題に移すことができる。この展開と述定は、様相的性格を述語に変える。言明命題とは、これこれの形式の内容の様相について判断する判断であり、たとえば「Sがpであることは確実である、可能である、蓋然的である」といったものである。
判断の様相の場合と同様のことは、基づけられた定立、すなわち情意と意志の圏域の意味や命題、それらに特有の総合、対応する表現の仕方についても言える。そうすると、命題、とくに総合的命題についての新しい形式論の目標は、容易に示される。同時に、存在の様相と同じ仕方で当為の様相も(類比的な言い方が許されるならば)判断の質料に取り入れるとき、適切に拡張されたドクサ的命題の形式論のうちにあらゆる命題の形式論が映し出されることがわかる。この取り入れが何を意味するかは、長い論述を要せず、せいぜい例による説明で足りる。たとえば、「Sがpであってほしい」の代わりに、「Sがpであること、それがあってほしい、それは望ましい(望まれたのではない)」と言う。「Sはpであるべきだ」の代わりに、「Sがpであること、それはあるべきである、それは当為されたものである」などと言う。
現象学自身は、これらの形式論を体系的に仕上げることを自らの課題とは見なさない。アポファンシス的形式論に学べるように、形式論では、原始的な公理的基本形態から、それ以外のあらゆる形態の体系的可能性が演繹的に導かれる。現象学の領野は、直接的な直覚において示しうるアプリオリの分析であり、直接に洞察される本質と本質連関を確定することであり、さらに、超越論的に純粋な意識のあらゆる層の体系的な連関のなかで、それらを記述的に認識することである。理論化する論理学者は、形式的な意義論において、あるものを孤立させ、一面的な関心の向きのゆえに、それだけで独立したものとして扱う。そのとき、そのものが現象学的には織り込まれているノエマ的・ノエシス的連関に、注意も理解も向けない。現象学者は、これと同じものをその完全な連関において取り上げる。現象学的な本質の絡み合いをあらゆる側面から追究することが、現象学者の大きな課題である。論理学の基礎概念を公理的に単純に示すことは、どれもみな現象学的探究の項目となる。最も広い論理的一般性において単純に取り出される「命題」(判断命題)、定言命題や仮言命題、属性的規定、名詞化された形容詞や関係詞などは、すでにそれだけで、理論化する眼差しがそれらを取り出した元の、対応するノエマ的本質連関のなかへ戻して埋め込まれるやいなや、純粋現象学の困難で広範な問題群をもたらす。
§135 対象と意識 理性の現象学への移行 あらゆる志向的体験はノエマをもち、そのノエマのうちに、対象へ関係する意味がある。逆に、われわれが語りの的にするもの、現実として目の前にしているもの、可能あるいは確からしいと見なすもの、どれほど未規定に思い浮かべるものは、すべてすでに意識の対象である。世界と現実が何であり、何と呼ばれようとも、現実の意識と可能な意識の枠内で、対応する意味ないし命題によって代表されねばならない。その意味や命題は、多かれ少なかれ直観的に充実されている。それゆえ、現象学が超越論的な現象学としてあらゆる現勢的な実在の措定を括弧に入れ、先に記述したそのほかの括弧入れも遂行するとき、遮断されたものはすべて符号の変更を伴ってやはり現象学の枠内に属する、という先の主張の意味と正しさを、われわれはいま、より深い根拠から理解する。遮断に委ねられる実在的な現実と観念的な現実は、現象学的圏域においては、対応する意味と命題の全体的な多様によって代表される。
したがって、自然の現実の物は、どれも、さまざまに充実された意味と命題によって代表される。物はそれらの意味と命題のうちで、これこれに規定され、さらに規定されうるものとして、可能な志向的体験の相関者となる。つまり物は、「完全な核」の多様、あるいはここでは同じことだが、あらゆる可能な「主観的な現出の仕方」によって代表され、それらの仕方において、同一のものとしてノエマ的に構成されうる。この構成はまず、本質上可能な個人的意識に関わり、次いで可能な共同体意識に関わる。共同体意識とは、「交流」している意識自我と意識の流れの、本質上可能な複数である。その複数にとって、一つの物は、同じ客観的に現実のものとして、間主観的に与えられ、同一視されうる。つねに心にとめておくべきことは、われわれの論述はすべて、ここでの論述も、現象学的還元の意味で、形相的一般性において理解されるべきだ、という点である。
他方、どの物にも、結局は一つの空間と一つの時間をもつ物の世界全体にも、可能なノエシス的出来事の多様が対応する。それは、物や物の世界に関わる、単称の個体と共同体個体の可能な体験であり、先のノエマ的多様の並行物である。その本質そのものに、意味と命題に関してこの物の世界に関係するという固有性がある。そこには、ヒュレー的所与の多様が、それに属する「統握」や定立的な作用性格とともに含まれている。この結びついた統一を、われわれはこの物的なものについての経験意識と呼ぶ。物の統一には、ノエシス的体験の無限で観念的な多様が向き合っている。この多様は、無限でありながら見渡せる一定の本質内容をもち、そのすべてが「同じもの」の意識である点で一致している。この一致は、意識の圏域そのもののうちで、それ自身もまたここでわれわれが区切った群に属する体験において、所与となる。
経験する意識に限ったのは、「物」に限ったのと同様に、例として意図しただけである。何であれすべてのものは、どれほど広く枠を張ろうと、最下位の具体化にまで降りても、本質によってあらかじめ描き出されている。体験の圏域は、その超越論的な本質構造からして厳密に法則的である。可能な本質形態はどれも、ノエシスとノエマに関して固く規定されている。それは、空間に描きこみうる図形がすべて空間の本質によって規定されているのと同じである。ここで形相的な現存と呼ばれる可能性は、したがって絶対に必然的な可能性であり、形相的体系の絶対に固い構造連関のなかの、絶対に固い項である。目標は、この体系を、純粋な本質直覚から湧き出る概念と法則言明の体系として、理論的に形成し、掌握することである。形式的存在論と範疇論の基本的な区別、すなわち存在領域の区分とその存在範疇は、さらに進むなかで個々の点まで理解されるとおり、現象学的探究の主要項目である。これらの区別には、ノエシス的・ノエマ的な本質連関が必然的に対応する。この連関は、体系的に記述し、可能性と必然性に関して規定できなければならない。
先に特徴づけた、対象と意識のあいだの本質連関が何を言っているか、あるいは言うべきだったかを、より精確に考えてみる。すると、一つの二義性が感じられる。この二義性を追うと、われわれは探究の大きな転換点の前に立っている。われわれは対象に「命題」の多様を割り当て、それによって同一視の総合がアプリオリに可能になる。この総合によって、対象は同じものとして現れることができ、また現れねばならない。さまざまな作用ないし作用ノエマのなかで、さまざまな「規定内容」を備えたXは、必然的に同じものとして意識される。だが、それは実際に同じものなのか。対象そのものは「現実の」ものなのか。多様で整合的な、直観によって充実された命題が意識のなかで経過しているというのに、対象は現実のものでないこともありうるのではないか。
われわれの関心は、意識の経過の事実性にはなく、ここで定式化されるべき本質問題にある。意識、ないし意識主観そのものは、現実について判断し、問い、推測し、疑い、疑いを決着させ、その際に「理性の判決」を下す。この権利の本質と、それに相関する「現実」の本質を、超越論的意識の本質連関のなかで、つまり純粋に現象学的に、あらゆる種類の対象に関して、形式的範疇と領域的範疇のすべてにしたがって、明らかにできるはずではないか。
物的対象性など、ノエシス的・ノエマ的な対象性の「構成」についてのわれわれの語りには、両義性があった。ともかくわれわれは、主に「現実の」対象を、つまり「現実の世界」の物を考えていた。しかし、意識のうえでは意味と命題によってしか与えられない対象にとって、この「現実の」は何を言っているのか。命題そのものにとっては、ノエマ、ないし並行するノエシスの本質的な性質にとっては、形式と充実に関するその構造の特殊な仕方にとっては、何を言っているのか。この構造は、特殊な対象領域に応じて、どのように特殊化されるのか。問いはこうである。対象をまさにその現実において必然的にする意識連関のすべてを、現象学的な学問性においてノエシス的に、ノエマ的にどう記述すべきか。だがより広い意味では、対象は、現実のものであるかどうかを問わず、ある種の意識連関のなかで「構成される」。この意識連関は、同一のXの意識を伴うかぎりで、洞察しうる統一を自らのうちにもつ。
実際、ここまでの論述は、何らかの際立った意味での現実だけに関わるのではない。現実をめぐる問いは、すべての認識そのものに潜んでおり、可能な対象構成に関わるわれわれの現象学的認識にも潜んでいる。どの認識も、「現実に存在するもの」として思念された「対象」に相関者をもつからである。ノエマ的に「思念された」Xの同一性が、「単に」思念された同一性ではなく「現実の同一性」であるのは、いつなのか。この問いはどこでも立てられうる。そして、この「単に思念された」はどこでも何を言っているのか。
現実の問題と、現実を自らのうちで証示する理性意識の相関的な問題に、われわれは新たな考察を向けねばならない。
第二章 理性の現象学 対象を端的に語るとき、ふつうは、そのつどの存在範疇に属する、真に存在する対象を意味している。理性的に語るならば、言明されたことは、「基礎づけ」、「証示」でき、直接に「見」て取るか、間接に「洞察」できなければならない。論理的圏域、すなわち言明の圏域では、「真に存在する」ことないし「現実に存在する」ことと、「理性的に証示できる」こととは、原理的に相関する。これは、ドクサ的な存在様相ないし措定様相のすべてについて言える。ここで問題にしている理性的証示の可能性は、経験的な可能性ではなく、「観念的」な可能性、すなわち本質可能性として理解されるべきである。
§136 理性意識の第一の基本形式:原的に与える「見ること」 理性的証示とは何を意味するのか、すなわち理性意識は何に成り立つのかを問う。例を直観的に現前化し、それらの例について本質分析を始めると、ただちにいくつかの区別が示される。
第一に、措定的体験のうちで、措定されたものが原的所与性に至る体験と、そうした所与性に至らない体験との区別がある。すなわち、最も広い意味で「知覚する」「見る」作用と、非「知覚する」作用との区別である。
風景についての想起意識は、原的に与えるものではない。風景は、実際に見ているときのようには、知覚されていない。だからといって、想起意識が固有の権利をもたない、と言いたいわけではない。ただ「見る」意識ではないというだけである。この対立の類比物は、あらゆる種類の措定的体験に見出される。2+1=1+2であると「盲目的」に述定することもできるが、同じ判断を洞察的に遂行することもできる。洞察的に遂行するとき、事態、すなわち判断の総合に対応する総合的な対象性は、原的に与えられ、原的な仕方で把握されている。その洞察は、遂行の後ではただちに把持的変様のなかで暗くなり、事態はもはや原的には与えられない。変様した洞察が、同じ意味についてのほかの暗く混乱した意識、たとえば以前に学んだ事柄の「無思慮な」再生に対して、理性上の優位をもつことはありうる。それでも、それはもはや原的に与える意識ではない。
これらの区別は、純粋な意味ないし命題に関わるのではない。というのも、意味や命題は、このような例の対の両項において同一であり、意識のうえでも同一のものとしてつねに直観できるからである。区別が関わるのは、単なる意味ないし命題が、充実された、あるいは充実されていない意味と命題である、その仕方である。ここで単なる意味ないし命題は、単なる抽象者であり、意識のノエマという具体のなかでは、補足する契機の付加を要求する。
意味の充実だけでは決まらず、充実の仕方も問題になる。意味の体験の仕方の一つは「直観的」なものであり、このとき「思念された対象そのもの」はより直観的に意識されている。特に際立った場合は、直観の仕方がまさに原的に与える仕方である場合である。風景の知覚における意味は知覚的に充実されており、知覚された対象は、その色や形が「知覚に入る」かぎり、「有体的」に意識されている。同様の際立ちは、あらゆる作用の圏域に見出される。事情は並行論の意味で両面的であり、ノエシス的でありノエマ的である。ノエマへの態度では、有体性の性格が、原的な充実の状態として純粋な意味と融合している。この性格を伴う意味が、ノエマ的な措定性格、すなわち存在性格の基底としてはたらく。ノエシスへの態度でも、並行することが成り立つ。
だが、特有の理性性格が措定性格に備わるのは、措定性格が、ただ総じて意味に基づく措定であるだけでなく、充実された、原的に与える意味に基づく措定であるとき、本質上そのときにかぎる。
ここでも、あらゆる種類の理性意識でも、「属する」という言い方は独自の意義を帯びる。物が有体的に現出するたびに、措定は属する。措定は、この現出とただ総じて一つなのではなく、まして単なる一般的な事実として一つなのでもない。措定は現出と独特の仕方で一つであり、現出によって「理性的に動機づけ」られている。同じことは次のようにも言える。措定は原的所与性のうちに根源的な権利根拠をもつ。ほかの所与の仕方では、権利根拠が欠けているとはかぎらない。だが根源的な根拠という優位が欠けている。この優位は、権利根拠を相対的に評価するときに際立った役割を果たす。
同様に、本質直観において「原的に」与えられた本質ないし本質事態の措定も、その措定の「質料」、すなわち所与の仕方における「意味」に「属する」。この措定は理性的な措定であり、信念の確実性として根源的に動機づけられ、「洞察する」という特有の性格をもつ。措定が盲目的で、語の意義が、暗く混乱して意識された作用の基底に基づいて遂行されているならば、洞察という理性性格は必然的に欠ける。この性格は、事態のそのような所与の仕方、ないし意味の核のそのようなノエマ的装備とは、本質上両立しない。他方、このことは二次的な理性性格を排除しない。本質認識の不完全な再現前化の例が、これを示している。
洞察、総じて明証は、まったく際立った出来事である。「核」からいえば、それは理性措定と、それを本質上動機づけるものとの統一であり、この統一は、ノエシス的にもノエマ的にも理解できる。動機づけという言い方がとりわけよく合うのは、ノエシス的な措定することと、充実されているという仕方におけるノエマ的命題との関係である。「明証的な命題」という表現は、そのノエマ的な意義において直接に理解できる。
「明証」という語は、あるときはノエシス的性格ないし完全な作用に(判断することの明証)、あるときはノエマ的命題に(明証的な言明命題)適用される。この二義性は、ノエシスとノエマの相関に関わる表現に、一般的かつ必然的に生じる。その源泉を現象学的に示せば、二義性は無害になり、それが不可欠であることまで認識できる。
なお指摘しておくべきことに、充実化という語は、まったく別の方向にもう一つの二義を持つ。一方は「志向の充実化」であり、これは現勢的な定立が意味の特別な様態を通じて帯びる性格をいう。他方は、この様態そのものの固有性、ないし当の意味の固有性、すなわち理性的に動機づける「充実」を内に蔵しているという固有性である。
§137 明証と洞察 「原的」明証と「純粋」明証、実然的明証と必当然的明証 上の例の対は、同時に第二および第三の本質的な区別を例示している。通常、明証および洞察と呼ぶものは、措定的でドクサ的な、十全的に与える意識であって、「別様であることを排除する」。定立は十全的な所与性によって格別の仕方で動機づけられ、最高の意味での「理性」の作用となる。算術の例がそれにあたる。風景の例には、見ることはあるが、通常の限定された語義での明証、つまり「洞察すること」はない。対比すると、二重の差異に気づく。一方の例が扱うのは本質であり、他方の例が扱うのは個体的なものである。また、原的な所与性は、形相的な例では十全的であり、経験の圏域に属する例では不十全的である。場合によっては交差するこの二つの差異は、明証の種類に関して重要であることが明らかになるだろう。
前者の差異について言えば、いわば「実然的」に個体的なものを見ること、たとえば物や個体的な事態に「気づく」ことは、その理性性格において、「必当然的」に見ること、すなわち本質ないし本質事態を洞察することと、本質的に異なる。またそれは、この洞察することの変様とも異なる。この変様は、場合によっては両者の混合によって生じる。つまり、洞察を実然的に見られたものに適用する場合であり、総じて、措定された個別のものがそうあることの必然性の認識においてである。
明証と洞察は、通常の限定された意味では同義に解され、必当然的に洞察することを意味する。われわれはこの二つの語を術語として区別したい。実然的に見ることと必当然的に洞察することの双方を包括する、より一般的な語がどうしても必要である。現象学的認識として最も重要なのは、この両者が一つの本質的な類に属することである。さらに一般的に捉えれば、理性意識一般が定立的様相の最上位の類であり、原的な所与性に関わる「見ること」(極度に拡張された意味での)は、その類の固く限定された一つの種を成す。最上位の類に名を与えるには、二つの選択肢がある。「見ること」の意義を押し広げるか、「洞察すること」「明証」の意義を拡張するかである。最も一般的な概念には、明証という語が最も適切だろう。原的な所与性への動機づけ関係によって特徴づけられる理性定立のそれぞれには、原的明証という表現を当てる。さらに、実然的明証と必当然的明証を区別し、洞察という語には必当然性の特別な呼称を残す。続いて、純粋な洞察と不純な洞察を対置すべきである。不純な洞察とは、たとえば、存在自体は明証的である必要すらない事実的なものの、必然性の認識である。同様に、純粋な明証と不純な明証も対置すべきである。
研究が深まれば、さらに別の区別も生じる。明証性格に影響を与える動機づけの基盤の区別で、たとえば、「分析的」「論理的」とも呼ばれる純粋に形式的な明証と、総合的アプリオリでもある質料的な明証との区別である。ただし、ここでは最初の素描を超えて進んではならない。
§138 十全的明証と不十全的明証 第二の区別、すなわち十全的な所与性と不十全的な所与性の区別を考慮しよう。これは同時に、「不純な」明証の際立った型を記述する機会を与えてくれる。物の有体的な現出に基づく措定は理性的ではあるが、その現出は常に一面的な「不完全な」現出にすぎない。有体的に意識されているのは、「本来」現れているものだけではなく、まさにこの物そのもの、すなわち全体的な意味に即した全体である。この意味は、一面的にしか直観されず、多様に未規定でもある。「本来」現れているものは、それだけで一つの物として切り離せるものではない。その意味相関者は、物の完全な意味のなかで非自立的な部分をなす。この部分が意味の統一と自立性を持てるのは、空虚な成分と未規定の成分を必然的に内に蔵する全体のなかだけである。
物的実在、つまりこの意味での存在は、原理的に、完結した現出においては「不十全的に」としか現れえない。これと本質的に連関して、そうした現出に基づく理性措定は、「最終的」ではありえず、「克服しえない」ものでもありえない。その措定は、個別化されたままでは、端的な「物は現実である」とは等価でなく、ただ「それは現実である」と等価であるにすぎない。これは、経験の進行が「より強い理性動機」をもたらし、その措定を、より広い連関のなかで「抹消されるべき」ものとして示すことがない、という前提のもとでのことである。この場合、措定が理性的に動機づけられているのは、現出、すなわち不完全に充実された知覚の意味によってだけであり、個別化して考察した場合に限られる。
実在という意味での超越の圏域における理性の現象学は、アプリオリに描かれているさまざまな出来事を研究しなければならない。まず、一面的な現れが、連続的な進行のなかで、一つの同じ規定可能なXをめぐる新たな現れへとどう関係するのか、またそこにどのような本質可能性が生じるのかを、明らかにしなければならない。一方には、経験の進行が連続的に先行する理性定立によって絶えず理性的に動機づけられ、全面的に整合的な充実化という仕方で進む過程がある。その過程では、先行する現れの空所が埋まり、未規定性がより詳しく規定され、理性の力が高まる。他方には、不整合の融合ないし多定立的総合がある。絶えず同じものとして意識されているXが、当初の意味付与とは「別様に」規定される場合である。このとき、先の知覚経過の定立成分が、その意味とともに抹消を被る。場合によっては知覚全体がいわば爆発して、「相克する物の統握」、すなわち物の端緒へと分解する。これらの端緒の定立は、互いに打ち消しあい、その打ち消しのなかで独特に変様される。あるいは、一方の定立は変様されないまま残り、「対抗定立」の抹消を「条件づける」。この種の出来事は、ほかにもある。
根源的な理性措定は、整合的な充実化の進行のなかで、動機づける「力」に関して積極的な高まりを経験する。措定は絶えず「重み」を増すので、常に、そして本質的に重みを含んでいるが、その重みは程度的に異なっている。さらに、他の可能性についても分析しなければならない。措定の重みが「対抗動機」によって損なわれること、措定同士が疑いのなかで互いに「つり合う」こと、措定が、競合する「より強い」措定に「打ち負かされ」「放棄され」ること、などである。
このすべてについて、措定性格の変化を本質的に規定する出来事を、意味、つまりそれに属する措定質料において、包括的な本質分析にかけなければならない。たとえば、現出の「相克」ないし「競合」の出来事がそうである。というのも、ここでも、現象学的圏域のどこでもそうであるように、偶然も事実性もなく、すべてが本質的に規定されて動機づけられているからである。
同様に、ノエシス的所与とノエマ的所与の一般現象学の連関のなかで、あらゆる種類の直接的な理性作用の本質探究を遂行すべきだろう。
想定された対象のどの領域とどの範疇にも、意味の根本種、ないし命題の根本種が対応する。さらに、その意味を原的に与える意識の根本種が対応し、それに属して原的明証の根本型が対応する。この明証は、そのような原的所与性によって本質的に動機づけられている。
われわれの拡張した意味での明証は、どれも、十全的であるか、不十全的であるかのいずれかである。十全的な明証は、原理的にもはや「補強」も「弱化」もされえず、したがって重みの程度を持たない。不十全的な明証は、強めることも弱めることもできる。ある圏域でどの種類の明証が可能かは、その圏域の類の型に依存し、アプリオリにあらかじめ形づくられている。ある圏域(たとえば本質関係の圏域)で明証に属する完全性を、それを本質的に排除する他の圏域にまで要求するのは、背理である。
「十全的」と「不十全的」という概念の、所与の仕方に関わる根源的な意義を、これらの概念によって基づけられる理性措定自身の本質的な特性に、まさにこの連関のゆえに転用してよい。これは転用による避けがたい多義の一つであり、根源的なものと派生的なものを十分に意識して区別しさえすれば、害にならない。
§139 あらゆる種類の理性の絡み合い いかなる性質の定立も、これまで論じてきたところでは、理性的であれば、その意味の定立として権利を持つ。理性性格とは、まさに正当性の性格そのものであり、この性格は定立に本質的に「属する」。事実的に定立する自我の偶然的な状況のもとにある、偶然的な事実として属するのではない。これに対応して命題も、正当であると言われる。理性意識において命題は、ノエマ的な正当性格を備えて現れ、この性格は命題に本質的に属している。もっと正確に言えば、命題には、そのような種類の充実が「属して」おり、この充実が定立の理性的卓越を根拠づける。
ここで命題は、それ自体に権利を持つ。しかし、「命題を支持する何かがある」ということもありうる。命題は、「それ自身」は理性的でなくても、理性に与りうる。ドクサ的な圏域にとどまるために、ドクサ的様相が原ドクサと独特の連関にあることを思い出そう。すべての様相は、原ドクサへと遡示する。他方、これらの様相に属する理性性格を考察すると、質料や動機づけの状況がどれほど異なっていようと、それらがすべて、原信念の領分に属する一つの原初的な理性性格へと遡示する、という考えが最初から浮かぶ。それは、原的で最終的には完全な明証という場合を指している。この二種類の遡示のあいだに、深いところで本質連関が成り立っていることが、はっきり感じられてくる。
次のことだけを示唆しておく。推測は、それ自体で理性的と性格づけられうる。推測に含まれる、対応する原信念への遡示にしたがい、この原信念を「仮定すること」の形で自分のものにすると、「この原信念を支持する何かがある」。理性的と性格づけられるのは、信念そのもの、端的な信念ではない。もっとも信念は理性に与っている。ここには、さらに理性論的な区別と研究が必要であることがわかる。さまざまな性質と、それぞれに固有の理性性格とのあいだに、相互的な本質連関が際立つ。最終的に、すべての線は原信念に遡り、その根源的理性、ないし「真理」に行き着く。
真理とは明らかに、原ドクサ、つまり信念の確実性の、完全な理性性格の相関者である。「原ドクサ的な命題、たとえば言明命題が真である」という表現と、「対応する信念、判断に完全な理性性格が属する」という表現は、等価な相関者である。ここで問題になっているのは、体験と判断する者という事実のことではない。もっとも、真理が現勢的に与えられうるのは現勢的な明証意識においてだけであり、したがって、この自明性そのものの真理、先に指摘した等価性などの真理もそうである、ということは、形相的には自明である。原ドクサ的明証が欠けていても、「Sはpである」という意味内容について、あるドクサ的様相が明証的でありうる。たとえば、推測「Sはpであろう」である。この様相的明証は、意味が変わった原ドクサ的明証と等価であり、必然的に結びついている。すなわち、「Sがpであることは、推測される(確からしい)」という明証、ないし真理とである。他方では、「Sがpであることを支持する何かがある」という真理とも、さらに「Sがpであることが真であることを支持する何かがある」という真理とも結びついている。これらすべてから、現象学的な起源研究を必要とする本質連関が示されている。
しかし明証は、信念の圏域(それも述定的判断の圏域だけ)におけるこの種の理性的出来事の、単なる名称では決してない。すべての定立的圏域、とりわけ、それらのあいだを走る重要な理性関係の名称でもある。
これは、情意定立と意志定立の圏域における理性という、きわめて困難で広範にわたる問題群に関わり、またそれらの理性と「理論的」、すなわちドクサ的な理性との絡み合いにも関わる。「理論的」な、あるいは「ドクサ論的真理」、ないし明証には、「価値論的および実践的な真理、ないし明証」という並行物がある。その際、後者の名称にいう「真理」は、ドクサ論的な真理、すなわち特殊論理的な、アポファンシス的な真理において、表現され、認識される。これらの問題の扱いにとって、われわれが上で着手しようとした種類の研究が基礎的でなければならない。それは、ドクサ的定立を、情意と意志の定立をはじめ、定立のあらゆる他の種類と結びつける本質関係、またすべてのドクサ的様相を原ドクサへと導き戻す本質関係に関する研究である。まさにこれによって、最終的な根拠から、なぜ信念の確実性が、したがって真理が、あらゆる理性において圧倒的に支配的な役割を果たすのかも、理解できるようになる。ちなみに、この役割は同時に、ドクサ的圏域における理性の問題が、解決の点で、価値論的理性と実践的理性の問題に先行しなければならないことを、自明にしている。
§140 確証 明証のない正当性 次の問題には、さらなる研究が必要である。これらの問題は、「合致」の結合が呈示するものである。この結合は、際立った一例だけを挙げれば、同一の意味と命題に属しながら、理性的価値を異にする作用のあいだで、その本質に即して作られるべきものである。たとえば、明証的な作用と明証的でない作用が合致に至ることがある。明証的でない作用から明証的な作用への移行においては、明証的な作用は証示する作用の性格を、明証的でない作用は自らを証示する作用の性格を帯びる。一方の洞察的な措定は、他方の洞察のない措定に対して「確証する」ものとして機能する。「命題」は「実証され」、あるいは「確証され」、不完全な所与の仕方が完全な所与の仕方に変わる。この過程がどのように見えるかは、当の措定の種類の本質によって、ないし、そのつどの命題の完全な充実化における本質によって、あらかじめ描かれている。命題のどの類についても、原理的に可能な実証の形式を、現象学的に明らかにしなければならない。
措定が非理性的でないなら、その本質から動機づけられた可能性を取り出さなければならない。すなわち、その措定を、それを実証する現勢的な理性措定へと導くことができるという可能性と、その導き方である。ここで洞察すべきことは、不完全な明証がすべて、対応する原的明証、つまり同じ意味の原的明証において終結する充実化の過程を指示するわけではない、ということである。ある種の明証については、このようないわば原的な実証が原理的に排除されている。再想起、ある意味ではあらゆる想起一般、また本質的に感情移入がそうである。感情移入には、次の巻で一つの根本的な明証の種類を割り当て、さらに詳しく研究する。いずれにせよ、これによってきわめて重要な現象学的主題が示されている。
上で語った動機づけられた可能性は、空虚な可能性とは鋭く区別される。動機づけられた可能性は、命題が、与えられているとおりに充実されたとき、その命題が自らのうちに含むものによって、規定されて動機づけられている。この机が、いま見えない下側に、実際には四本であるのに十本の脚を持つことは、空虚な可能性である。これに対して、いま私が遂行している規定された知覚にとっては、この四という数が動機づけられた可能性である。あらゆる知覚にとって動機づけられているのは、知覚の「状況」がある仕方で変化し、その「結果」として、知覚が対応する仕方で知覚系列へと移行しうることである。この系列は規定された種類のもので、私の知覚の意味によってあらかじめ描かれており、その知覚を充実し、その措定を確証する。
証示の「空虚な」あるいは「単なる」可能性に関しては、さらに二つの場合を区別しなければならない。一つは、可能性が現実と合致する場合である。つまり、可能性を洞察することが、そのまま原的な所与性の意識と理性の意識を伴う場合である。もう一つは、そうでない場合であり、いま用いた例がこれに当たる。現実の経験は、単に「可能な」知覚を通り抜けるだけではなく、実在的なものに向かう措定の証示、たとえば自然の出来事についての定在措定の証示を、現実にもたらす。これに対して、本質措定、ないし本質命題のどの場合にも、その完全な充実化を直観的に現前化することは、充実化そのものと等価である。本質連関を直観的に現前化すること、さらには単に想像することと、その連関を洞察することとは、アプリオリに「等価」であり、一方は態度を変えるだけで他方へ移行する。この相互の移し換えが可能であることは、偶然ではなく、本質必然的である。
§141 直接的な理性措定と間接的な理性措定 周知のとおり、あらゆる間接的な根拠づけは、直接的な根拠づけにさかのぼる。あらゆる対象領域と、それに関わる措定について、権利のすべての根源は、直接的な明証、もっと狭く限れば原的な明証、ないしそれを動機づける原的な所与性にある。ただし、この源泉からは、さまざまな仕方で間接的にくみ取ることができる。それ自体では明証をもたない措定の理性価値は、この源泉から導き出せる。措定が直接的なものであれば、その理性価値を強めて確認することもできる。
後者の場合を考察しよう。一つの例によって、明証をもたない直接的な理性措定と、所与性の原的さに関わるわれわれの意味での原的明証との関係に関わる困難な問題を示唆しておく。
明晰な想起はどれも、ある仕方で根源的で直接的な権利をそなえている。それだけで見れば、想起は「重み」をもつが、その権利は相対的で不完全なものにすぎない。想起が現前化するもの、たとえば過去について言えば、想起には現勢的な現在への関係が含まれている。想起は過去を措定し、必然的に地平をも共に措定する。その仕方が漠然として暗く、未規定であっても、そうである。この地平を明晰にし、定立的に判明なものにするなら、地平は、定立的に遂行された想起の連関のうちに展開できるはずである。その連関は、現勢的な知覚のうちに、現勢的ないまここで終端する。同じことは、あらゆる時間様態に関わる意味での、あらゆる種類の想起について言える。
こうした命題に本質洞察が表れていることは、見誤りようがない。これらの命題は本質連関を指し示しており、その連関を示せば、あらゆる想起が受けうる、また「必要とする」実証の意味と種類が、解明される。想起から想起へ、判明にする想起の連関のなかへと進むたびに、想起は強められる。この連関の最後の端は、知覚の現在にまで届いている。この強化はいわば相互的であり、想起の重みは機能的に互いに依存している。連関のなかにある想起は、連関が広がるにつれて力を増し、より狭い連関のなかや孤立した場合よりも、大きな力をもつ。そして、解明が現勢的な今まで行き渡れば、知覚とその明証の光がいくらかは、系列全体に照り返す。
さらにこう言うことさえできよう。隠れたところで、想起の理性性、すなわち権利性格は、あらゆる混乱と暗さを貫いて働く知覚の力から生じるのだ、と。その知覚が「遂行されていない」場合でも、そうである。
いずれにせよ、このような実証は必要である。そうでなければ、知覚の権利が間接的に反映した輝きを、何が担っているのかが現れてこない。想起には、それ固有の不十全性がある。「実際に想起されたもの」に、想起されていないものが混ざり込むことがある。あるいは、複数の想起が互いに入り込んで、一つの想起の統一であるかのように見せかけることがある。ところが、地平を現勢化しつつ展開すると、それぞれに属する想起の系列が分かれる。統一的な想起像が「爆発」し、互いに両立しない複数の想起直観へと分解するのである。この場合には、われわれが知覚についてときおり示唆してきたものと似た出来事を、記述しなければならない。
以上はすべて、直接的な理性措定の「補強」と「実証」に関わる、大きく重要な問題群の例示的な示唆である。同時に、理性措定を純粋なものと不純なもの、混ざりのないものと混ざったものとに分ける区別の例解でもある。とりわけここで把握されるのは、あらゆる間接的な理性措定、さらにはあらゆる述定的・概念的な理性認識が明証へさかのぼるという命題が成り立つ、一つの意味である。念のため言えば、「根源的な」権利源泉であるのは原的明証だけである。たとえば想起の理性措定、したがって感情移入も含めたあらゆる再生的な作用の理性措定は、根源的ではなく、ある種の仕方で「派生的」である。
しかし、原的所与性という源泉からは、まったく別の形式でもくみ取ることができる。
その形式の一つは、すでにときおり示唆された。生き生きとした明証から非明証へ連続的に移行するなかで、理性価値が弱まるというものである。ここでは、本質的に別の一群の場合を指摘しておこう。そこでは、命題が間接的に、すべての段階で明証的な総合的連関のなかで、直接的に明証的な根拠に関係づけられている。こうして、理性措定の新しい一般的な類型が生じる。この類型は、現象学的には、直接的な明証とは別の理性性格をもつ。ここにも派生的な種類の「間接的明証」がある。通常この表現がもっぱら狙っているのは、この明証である。この派生的な明証性格は、その本質からして、ある措定連関の終端項にだけ現れうる。その措定連関は、直接的な明証から出発し、さまざまな形式で進行し、以後のすべての段階で明証に支えられている。これらの明証は、一部は直接的で、一部はすでに派生的であり、また一部は洞察的で、一部は非洞察的であり、原的なものもあれば非原的なものもある。こうして、現象学的理性論の新しい分野が示された。課題は、ノエシス的にもノエマ的にも、間接的に根拠づけ、証示するときの理性の一般的および特殊な本質事象を、あらゆる種類と形式において、またすべての定立的圏域において研究することである。さらに、そのような証示のさまざまな「原理」を、その現象学的起源にさかのぼらせ、関与するすべての現象学的層に配慮しながら、「理解可能」にすることである。これらの原理は、たとえば、与えられるべき対象性が内在的か超越的か、十全的か不十全的かに応じて、本質的に異なる。
§142 理性定立と存在 ここで示唆した研究群の目標は、理性を一般的に本質から理解することである。ここでいう理性は、もっとも広い意味での理性、すなわち、価値論的な措定や実践的な措定にまで及ぶ、あらゆる措定の種類に関わる理性である。この本質理解が得られるとき、それがそのまま、真に存在することの理念を、真理・理性・意識の理念と結びつける本質相関についての、一般的な解明を得たことになるはずである。
このとき、一般的な洞察がまもなく得られる。「真に存在する対象」は、「理性的に措定されるべき」対象と等価な相関者であるだけでなく、根源的で完全な理性定立において措定されるべき対象とも、等価な相関者である。この理性定立では、対象は不完全にも、単に「一面的に」も与えられない。その質料として基礎にある意味は、規定可能なXについて、統握によって予示されたどの側面に関しても、何ものも「開いたまま」にしない。まだ確固とした規定性になっていない規定可能性も、完全に規定されて閉じていない意味も、残らない。理性定立が根源的なものであるべきである以上、その理性的根拠は、完全な意味で規定されたものの原的な所与性のうちになければならない。Xは完全な規定性において思念されているだけでなく、まさにこの規定性において原的に与えられている。ここで示された等価性は、次のことを言う。
無条件的な本質一般性のアプリオリにおいて、原理的に、「真に存在する」どの対象にも、可能的な意識の理念が対応する。その意識のなかでは、対象そのものを原的に、しかも完全に十全的に把握できる。逆に、この可能性が保証されているなら、そのまま、その対象は真に存在する。
ここでさらに特別な意義をもつのは、次の点である。あらゆる統握範疇(これはあらゆる対象範疇の相関者である)の本質においては、その範疇に属する対象について、具体的な、完全あるいは不完全な統握のどのような形成が可能かが、確定的に予示されている。同様に、あらゆる不完全な統握について、それをどのように完全にするか、その意味をどのように完備して直観によって充実させるか、直観をさらにどのように豊かにするかが、本質に基づいて予示されている。
あらゆる対象範疇(すなわち、われわれのより狭い、際立った意味での、あらゆる領域とあらゆる範疇)は、一般的な本質であり、この本質自体が、原理的には十全的な所与性にもたらされうる。範疇は、その十全的な所与性において、具体的な体験の多様のなかで意識されるようになる個々の対象のそれぞれについて、洞察的で一般的な規則を規定する。ここでいう体験は、個体的な単称としてではなく、本質として、最低次の具体者として取らなければならない。この規則は、その範疇に属する対象を、意味と所与の仕方に関して、完全な規定性、十全的で原的な所与性にもたらす仕方を規定する。すなわち、どのような意識連関によって、またこれらの連関のどのような具体的な本質装備によって、もたらされるかを規定する。これらの短い文にどれほどのものが含まれているかは、終章(§149以降)のより詳しい論述で理解されるだろう。ここでは、簡単な例示で足りる。物の見られていない規定性は、物の規定性一般と同じく、必然的に空間的である。このことをわれわれは必当然的な明証において知っている。この空間性は、現出する物の見えない側面を空間的に補う可能な仕方について、法則的な規則を与える。その規則は、十全に展開されれば、純粋幾何学と呼ばれる。さらなる物的な規定性は、時間的であり、物質的である。これらには、可能な(したがって自由に任意ではない)意味の補完についての、また可能な定立的直観ないし現出についての、新しい規則が属する。その本質の内実がどのようなものでありうるか、素材や可能なノエマ的(ないしノエシス的)統握性格がどのような規範に従うかも、アプリオリに予示されている。
§143 カント的な意味での理念としての、物の十全的な所与性 先の叙述(286頁)との矛盾という見かけを取り除くために、補足が必要である。われわれは、原理的に不十全にしか現出しない(したがって不十全にしか知覚できない)対象しか存在しない、と述べた。しかし、われわれが付けた制限を見落としてはならない。われわれが述べたのは、完結した現出において不十全にしか知覚できない、ということである。対象のなかには、いかなる完結した意識においても、完全な規定性で、完全な直観性で与えられることのできないものがある。自然ないし世界という名称が包括するすべての超越的な対象、すべての「実在」が、これに属する。
しかし、「理念」として(カント的な意味での)、それでもなお完全な所与性は予示されている。それは、本質類型において絶対的に規定された、連続的な現出の終わりなき過程の体系として予示されている。あるいは、これらの過程の場として、アプリオリに規定された現出の連続体が、異なるが確定した次元をもち、確固とした本質法則性に貫かれたものとして予示されている。
この連続体は、あらゆる側面に無限であり、そのすべての相において、同じ規定可能なXの現出から成り立つ。その現出は、連関して秩序づけられ、本質内容に応じて規定されているので、連続体の任意の線を連続的にたどれば、整合的な現出連関が得られる(この連関自体は、動く現出の一つの統一と呼ぶべきである)。この連関のなかで、一つの同じXが絶えず与えられたまま、連続的かつ整合的に「より詳しく」規定され、決して「別様に」規定されない。
連続体はあらゆる側面で無限であるから、たどり抜くことの完結した統一、すなわち有限な、動くだけの作用は、考えられない(そうなれば、背理的な有限の無限が生じる)。それでもなお、この連続体の理念と、それによってあらかじめ形づくられた完全な所与性の理念は、洞察的に目の前にある。それは、「理念」が洞察的でありうるかぎりでの洞察性であり、固有の洞察の類型を示している。
本質に基づいて動機づけられた無限性の理念は、それ自体が無限性ではない。この無限性が原理的に与えられえないという洞察は、この無限性の理念が洞察的に与えられることを排除しない。むしろ、それを要求する。
§144 現実と原的に与える意識 終結的な規定 したがって、真に存在することというエイドスは、十全的に与えられ、明証的に措定されうることというエイドスと、相関的に等価であるという点は変わらない。ただし後者は、有限な所与性の意味か、理念の形式での所与性の意味かのいずれかである。一方の場合、存在は「内在的」存在であり、完結した体験、あるいはノエマ的な体験相関者としての存在である。他方の場合、存在は超越的存在、すなわち、その「超越」がまさに、存在の「質料」として要求されるノエマ的相関者の無限性にある存在である。
与える直観が十全的かつ内在的であるところでは、意味と対象は一致しないが、原的に充実された意味と対象は一致する。対象とはまさに、十全的な直観において原的な自体として把握され、措定されるものである。それは、原的であることによって洞察的であり、意味の完全性と、意味の完全な原的充実化によって、絶対的に洞察的である。
与える直観が超越するものであるところでは、対象的なものは十全的な所与性に達しえない。与えられうるのは、そうした対象的なものの理念、ないしその意味と「認識に即した本質」の理念だけである。それとともに、まさに法則的な、不十全な経験の無限性に対する、アプリオリな規則も与えられる。
実際に遂行された経験と、この規則(ないし、それを包括する多様な規則体系)に基づいても、その先の経験の経過がどのように進まなければならないかを、一義的に読み取ることはできない。無数の可能性が開かれたままである。ただし、それらの可能性は、内容の非常に豊かなアプリオリな規制によって、類型としてはあらかじめ形づくられている。幾何学の規則体系は、いまここで観察された運動の一部を補いうる可能的な運動形態のすべてを、絶対的に確固として規定する。だが、現実に動くものの現実の運動経過を、ただ一つとして特別扱いすることはない。ここで、経験に基づく経験的思考はどのように先へ進むのか。経験に基づいて措定された統一である物的なものは、無限の多義性を含んでいる。それにもかかわらず、学問的な規定のようなものがいかにして可能になるのか。自然の定立の内部で、自然対象や自然的過程などの理念(個体的に唯一のものの理念として、完全に規定されている)に従った、一義的な規定という目標が、いかにして達成されうるのか。これらは新しい研究層に属し、特殊な意味で経験する理性、とりわけ物理学的・心理学的な、総じて自然科学的な理性の現象学に属する。この現象学は、経験科学そのものに属する存在論的でノエシス的な規則を、その現象学的源泉にさかのぼらせる。つまり、この規則の内容が埋め込まれているノエシス的な層とノエマ的な層を探り出し、形相的に研究する。
§145 明証の現象学についての批判的論述 ここまでの考察から明らかなように、意識一般ではなく理性意識を直観的な探究にかける理性の現象学、すなわち際立った意味でのノエシス論は、一般的な現象学を全面的に前提する。措定性の領域において、あらゆる類の定立的意識が規範のもとにあることは、それ自体が一つの現象学的事実である。これらの規範は本質法則にほかならず、種類と形式に即して厳密に分析し記述すべき、一定のノエシス的・ノエマ的な連関に関わる。ここでは、理性の否定的な対極である「非理性」も、至るところで考慮に入れなければならない。それは、明証の現象学が、その対極である背理の現象学を自らのうちに含むのと同じである。明証に関する一般的な本質論は、理性の現象学のうち、基礎的ではあるが比較的小さな部分をなす。そのとき、本書の冒頭で明証の誤った解釈に対して簡潔に主張したことが、確認される。これを完全に洞察するには、いま行った考察だけですでに足りる。
明証は、実際、何らかの意識の指標ではない。判断(ふつう明証が語られるのは判断についてだけである)に貼り付いて、神秘的な声のように、よりよい世界から「ここに真理がある」とわれわれに呼びかけるものではない。それではまるで、そのような声が自由な精神であるわれわれに何かを語りかけながら、その権利資格を証示しなくてもよいかのようである。われわれはもはや、懐疑論と取り組む必要も、古い型の疑念を検討する必要もない。そうした疑念は、明証の指標説や感情説では克服できない。それは、たとえば、(デカルト的な虚構である)偽りの霊や、事実的な世界経過の宿命的な変化が、あらゆる偽なる判断に、この指標、すなわち思考の必然性や超越的な当為の感情などを備えさせることはありえないか、という疑念である。現象学的還元の枠内で、ここに属する現象そのものを研究するなら、きわめて明晰に認識される。問題なのは、特有の措定様態であって、作用に付け加わった内容や、どんな種類であれ付随物であるものなどでは決してない。この様態は、ノエマの形相的に規定された本質構成に属する。たとえば、根源的な洞察性という様態は、「原的に」与える本質直観というノエマ的性状に属する。さらに、本質法則が、この際立った構成をもたない措定的作用が、それをもつ作用へ関係することを規制していることも認識される。たとえば、「志向の充実化」の意識、つまり定立的性格にとくに関わる正当化と補強の意識があり、それに対応する権利剥奪や弱体化という反対性格がある。また、論理学の原理が深い現象学的解明を要求していること、たとえば矛盾律が、可能な確証と可能な弱体化(ないし理性的な抹消)という本質連関にわれわれを連れ戻すことも認識される。総じて、ここで問題になっているのは、偶然の事実ではなく、形相的連関のなかにある形相的な出来事である。したがって、エイドスのなかで成り立つことは、事実にとって絶対に踏み越えられない規範として機能する。この現象学的な章では、次のことも明らかになる。すべての措定的体験、たとえば任意の判断体験が、同じ仕方で明証的になりうるわけではなく、とくに、すべてが直接的に明証的になりうるわけではない。さらに、理性措定のあらゆる仕方、直接的あるいは間接的な明証のあらゆる類型は、現象学的な連関に根ざしており、そのなかで根本的に異なる対象領域がノエシス的・ノエマ的に分かれ出る。
特に重要なのは、あらゆる領域における連続的な同一性の統合と総合的な同一化を、その現象学的な構成に即して体系的に研究することである。まず、志向的体験の内的な構造をあらゆる一般的な構造にわたって知り、これらの構造の並行関係と、ノエマにおける意味、意味の主語、定立的性格、充実といった層を知る必要がある。そのうえで、すべての総合的な統合について、単に作用の結合が一般に成り立つだけでなく、一つの作用への統一として結合が成り立つことを、完全に明らかにしなければならない。特に、同一化する統合がどのように可能か、規定可能なXがどのように合致に至るか、その際に意味規定とその空所、すなわち未規定性の契機がどう振る舞うかを明らかにしなければならない。同様に、さまざまな充実が、そしてそれとともに確証・証示・進展する認識の形式が、低次および高次の意識段階において、どのように明晰さと分析的洞察に達するかも明らかにしなければならない。
しかしこれらの研究も、理性に関するあらゆる並行した研究も、「超越論的」な、すなわち現象学的な態度において遂行される。そこで下される判断はどれも、自然的現実の定立を背景として前提する自然的判断ではない。現実意識、自然認識、自然に関わる価値直観と価値洞察の現象学を行う場合でさえ、そうである。われわれはどこでもノエシスとノエマの諸形成を追い、体系的で形相的な形態学を構想し、至るところで本質必然性と本質可能性を取り出す。後者は必然的可能性、すなわち両立可能性という統合の形式であり、本質において指定され、本質法則によって限界づけられている。「対象」はわれわれにとってどこでも意識の本質連関の名称である。それはまず、ノエマ的なXとして、意味と命題のさまざまな本質類型にとっての意味の主語として現れる。さらにそれは「現実の対象」という名称として現れ、そのときは、一定の形相的に考察された理性連関の名称となる。この連関のなかで、意味に即して統一をなすXが、理性にかなった措定を受け取る。
同様に、「可能な対象」「蓋然的な対象」「疑わしい対象」などの表現も、「目的論的」に帰属し合う意識形成の一定の群を指す名称であり、その群は形相的に限界づけられ、本質研究において確定されるべきものである。ここでも連関は常に別のものであり、その別であることを厳密に記述しなければならない。たとえば、可能性が、しかじかに規定されたXの意味内実における原的所与性によって、すなわち現実の証示によって証示されるだけでなく、再生的に基づけられた単なる憶測も、整合的に結び合うことで互いに確証し合えることは、容易に洞察できる。同様に、疑わしさが、ある記述的な類型に属する、様相化された直観どうしの抗争現象において証示されることも洞察できる。これらに、事象・価値・実践的対象性の区別に関わり、それらに対して構成される意識形成体を追う、理性論的な研究が結びつく。こうして現象学は、自然的世界の全体と、現象学が遮断するすべての観念的世界とを、実際に包括する。現象学はそれらを「世界の意味」として、対象の意味とノエマ一般を閉じたノエシスの体系に結びつける本質法則性によって包括し、とりわけ「現実の対象」を相関者とする理性法則的な本質連関によって包括する。この「現実の対象」は、それ自身がそのつど、目的論的に統一された意識形成の、まったく特定の体系の指標を表している。
第三章 理性論的な問題系の一般性の諸段階 理性の現象学の省察は、これまで一般性の高みにとどまっていた。そのため、問題の本質的な分岐も、形式的存在論や領域的存在論との連関も、はっきりとは現れなかった。さらに近づこうと試みなければならない。そうして初めて、理性の現象学的形相論の完全な意味と、問題の豊かさの全体が開かれる。
§146 もっとも一般的な問題 理性の問題系の源泉にさかのぼり、その分岐を体系的にたどろう。
現象学全体を包括する問題の名称は志向性である。志向性はまさに意識の根本特性を表し、すべての現象学的問題は、ヒュレー的な問題でさえ、これに組み入れられる。したがって現象学は志向性の問題から始まる。ただし最初は一般的な形で始まり、意識されたものが現実に(真に)存在するか否かという問いは、範囲に引き入れない。措定的意識が、その定立的性格とともに、最も広い意味で「思念すること」と呼べること、そしてそのようなものとして、理性の対立である妥当と非妥当のもとに必然的に立つことも、考慮の外にとどまる。最後の数章で、われわれは意識の主要構造に配慮しながら、これらの問題に取り組むことができた。始まりが形相的であるから、分析は当然できるかぎり一般的に行った。あらゆる形相的圏域で、体系的な道は高次の一般性から低次の一般性へと進む。探索的な分析が特殊なものに結びつく場合でも、そうである。われわれは理性と理性定立一般について、原的明証と派生的明証、十全的明証と不十全的明証、本質洞察と個体的明証などを語った。この記述は、意識の最も一般的な構造に関する諸章で苦労して獲得した、一連の難しい区別を、すでに前提していた。意味、命題、充実した命題(論理学研究の言い方では認識的本質)という概念がなければ、理性論的な問題を根本的に定式化することは、そもそもできない。これらの概念はさらに、別の概念とそれに対応する本質の区別を前提していた。すなわち、措定性と中立性の区別、定立的性格とその質料の区別、そしてエイドス「命題」には入らない固有の本質変様の取り出し(たとえば注意的変様)である。最も一般的な理性論的層で必要な分析の範囲が過小評価されないよう、ここで強調しておく。この層について、最後の章の本質記述は単なる始まりとみなされるべきである。ここでも他のところと同様に、われわれが遂行したのは方法上の意図だけである。すなわち、現象学的研究の一領野として描くべき、原理的に新しい層のそれぞれについて、その層を確かめ、出発点の問題と根本問題を定式化し、それを取り巻く問題地平を自由に見渡せるだけの確かな地盤を得ることである。
§147 問題の分岐 形式論理学、価値論、実践論 理性の一般的な現象学は、理性性格を規定するさらなる構造上の違いに目を向けるなら、分岐する。すなわち、定立の根本的な種類による違い、単純な定立と基づけられた定立の違い、およびこれと交差する、一項的な定立と総合の違いである。理性の問題(明証の問題)の主要な群は、定立の主要な類と、それらが本質上要求する措定の質料に関わる。当然、第一に来るのは原ドクサと、ドクサ的な様相、およびそれに対応する存在の様相である。
こうした理性論的な目標を追うと、必然的に、形式論理学の理性論的な解明の問題に、そしてこれに並行する諸学科、すなわち私が形式的価値論および実践論と名づけた学科の問題に行き着く。
ここで以前の論述を参照しておく。命題の純粋な形式論、とりわけ述定的でドクサ的な総合に関わる総合的命題の形式論と、ドクサ的な様相、さらに情意作用と意志作用に属する総合的形式についての論述である。総合的形式とはたとえば、選好の形式、「他のもののために」評価し意志する形式、価値論的な「そして」と「あるいは」の形式である。これらの形式論では、理性による妥当や非妥当は問題にならず、ノエマ的に、総合的命題がその純粋な形式に即して論じられる。したがってこれらはまだ、理性論の層に属さない。
しかし、この妥当と非妥当の問いを、純粋な形式だけによって規定されていると考えられるかぎりでの命題一般について立てるやいなや、われわれは形式論理学と、上に挙げた形式的な並行学科のうちにいる。これらの学科は、その本質からして、対応する形式論を下位の段階として、その上に築かれている。総合的形式は、当該の命題範疇の定立ないし命題に多くを前提しながら、その特殊性については未規定のままにしておく。この総合的形式のうちに、可能な妥当性のアプリオリな諸条件が含まれ、それは当該学科の本質法則に表現される。
とりわけ、述定的(分析的)総合の純粋な形式には、ドクサ的な理性の確実性の、ノエマ的に言えば可能な真理の可能性のアプリオリな条件が含まれる。それを客観的に取り出すのは、最も狭い意味での形式論理学、すなわち形式的アポファンティーク(「判断」の形式論理学)であり、これはこれらの「判断」の形式論に基礎をもつ。
同様のことは、情意と意志の圏域に属する総合と、そのノエマ的相関者にも、したがってその種の総合的「命題」にもあてはまる。その体系的な形式論が、ここでも妥当論の形式的な構築の土台とならなければならない。目的と手段の連関のように、これらの圏域の純粋な総合的形式には、価値論的および実践的な「真理」の可能性の条件が含まれる。情意作用でも遂行される「客観化」によって、価値論的・実践的に理性的であることのすべてが、ドクサ的な理性性に、ノエマ的には真理に、対象的には現実に転換する。われわれは、真の、あるいは現実の目的、手段、卓越性などと語る。
これらすべての連関には、固有の、きわめて重要な現象学的研究が関わる。いま与えた形式的諸学科の特徴づけそのものが、すでに現象学的であり、われわれの分析から多くを前提している。「ドグマ的」に扱われる純粋論理学の研究者は、アポファンシス的な形式、すなわち「命題一般」ないし「判断」、定言的・仮言的・連言的・選言的判断などを抽象によって把握し、それらについて形式的真理の公理を確定する。だが彼は、分析的総合についても、ノエシス的・ノエマ的な本質関係についても、自分が取り出して概念的に確定した本質を純粋意識の本質複合体に組み入れることについても、何も知らない。この完全な本質連関のなかでのみ完全に理解されるものを、彼は孤立させて研究する。現象学が初めて、超越論的に純化された意識における直覚の源泉にさかのぼることで、真理の形式的条件、認識の形式的条件と語るときに、そこに本来何が含まれているかを明らかにする。一般に現象学は、認識、明証、真理、存在、さらには対象や事態などの概念に属する本質と本質関係を、われわれに啓発する。現象学は、判断することの構築と判断の構築を理解させる。ノエマの構造がどのように認識を規定するか、その際「命題」がどのような特別な役割を果たすか、命題の認識的「充実」にどのような異なる可能性があるかも、理解させる。どのような充実化の仕方が明証の理性性格の本質条件となるか、どのような種類の明証がそのつど問題となるかなども、現象学が示す。特に現象学は、論理学のアプリオリな真理が、命題の直観的充実化の可能性、すなわち対応する事態が総合的直観に至る可能性と、命題の純粋な総合的形式、すなわち純粋論理的形式とのあいだの本質連関に関わることを理解させる。同時に、その可能性が可能な妥当の条件であることも理解させる。
現象学はまた、厳密に見れば、ここではノエシスとノエマの相関に応じて二重のものを区別しなければならないことを示す。形式的アポファンティーク(たとえば三段論法論)では、ノエマ的命題としての判断と、その「形式的真理」が論じられ、態度は徹頭徹尾ノエマ的である。他方、形式的でアポファンシス的なノエシス論では、態度はノエシス的であり、判断することの理性性と正しさが論じられ、この正しさの規範が、命題の形式に関係づけて述べられる。たとえば、矛盾を真とみなすことはできない。妥当な推理様式の前提の形式に従って判断する者は、対応する形式の帰結を引き出す「べき」である、など。現象学的な連関では、これらの並行関係はただちに理解できる。判断することすなわちノエシスに関わる出来事も、それに本質上対応するノエマ、すなわちアポファンシスにおける出来事も、その必然的な相互関係と意識の完全な絡み合いのなかで研究される。
並行する他の形式的諸学科についても、ノエシス的規整とノエマ的規整の並行性に関して、当然同じことが言える。
§148 形式的存在論の理性論的問題 これらの学科から、一つの転回が、対応する存在論へとわれわれを導く。この連関は、現象学的には、どの作用の内部でも遂行できる一般的に可能な視線の転換によって、すでに与えられている。その際、視線が捉える内実は、さまざまな本質法則によって互いに絡み合っている。第一次の態度は対象的なものに向かう態度であり、ノエマ的反省はノエマ的内実に、ノエシス的反省はノエシス的内実に導く。ここで関心をもつ諸学科は、これらの内実から純粋な形式を抽象によって取り出す。形式的アポファンティークはノエマ的形式を、並行するノエシス論はノエシス的形式を取り出す。これらの形式が互いに本質法則的に結びついているように、双方は、存在的内実に視線を向け直すことで把握できる存在的形式とも、本質法則的に結びついている。
形式論理学のどの法則も、等価的に形式的存在論の法則に転換できる。判断についてではなく事態について、判断の項(たとえば名詞的意義)についてではなく対象について、述語の意義についてではなく標識について、といったぐあいに判断が行われることになる。また論じられるのは、もはや判断命題の真理や妥当ではなく、事態の存立や対象の存在などである。
この転回の現象学的内容も、基準となる概念の現象学的内容にさかのぼることで解明しなければならない。
ところで、形式的存在論は、形式的でアポファンシス的な真理をこのように単に転換する圏域を、はるかに超えて広がる。大きな諸学科が、以前論じた「名詞化」を通じて、形式的存在論に加わる。複数的判断では、複数が複数的定立として現れる。名詞化する転回によって、これは集合という対象となり、こうして集合論の基礎概念が生じる。集合論では、固有の種類の特性や関係などをもつ対象としての集合について判断される。関係、個数などの概念についても、数学的諸学科の基礎概念として、同じことが言える。命題の単なる形式論について述べたのと同じく、これらの学科を展開すること、つまり数学や三段論法論などを営むことは、現象学の課題ではない。現象学が関心をもつのは、公理と、その概念的内実だけであり、それらは現象学的分析の主題となる。
いま述べたことは、形式的価値論と実践論にそのまま移される。また、理論的な要請としてこれらに付け加えるべき形式的存在論にも、そのまま移される。それは、きわめて拡張された意味での価値、財、要するに情意意識と意志意識の相関者であるすべての存在的圏域についての存在論である。
ここで、これらの考察で「形式的存在論」の概念が拡張されたことに気づく。価値や実践的対象性は、「対象」「あるもの一般」という形式的名称のもとに組み入れられる。したがって、普遍的な分析的存在論の立場から見れば、それらは質料的に規定された対象であり、それらに属する価値と実践的対象性の「形式的」存在論は、質料的な学科である。他方、定立的な類、すなわち信念ないし信念の様相、評価すること、意志することの並行関係と、それらに特有に配属された総合および統語的形成にもとづく類比も、効力をもつ。その効力は非常に大きく、カントは目的を意志することと手段を意志することの関係を、端的に「分析的」と呼んでいる。しかしそのことで、もちろん類比と同一性を取り違えている。本来の分析的なもの、すなわちドクサの述定的総合に属するものは、それに対応する形式的類似物、すなわち情意定立と意志定立の総合に関わるものと混同してはならない。理性の現象学の深く重要な問題は、これらの類比と並行関係の根本的な解明に結びついている。
§149 領域的存在論の理性論的問題 現象学的構成の問題 形式的諸学科がわれわれに課す理性論的問題を論じたので、次は質料的諸学科、まず領域的存在論へと移るべきであろう。
どの対象的領域も、意識に即して構成される。領域的な類によって規定された対象は、そのようなものとして、現実の対象であるかぎり、知覚されうること、一般に明晰に、あるいは不明瞭に表象されうること、思考されうること、証示されうることについて、アプリオリに指示された仕方をもつ。したがって、理性的であることを基づけるものに関して、ここでも意味、命題、認識に属する諸本質へ立ち返る。ただし今回は、単なる形式にではない。領域的本質と範疇的本質の質料的一般性を視野に置くので、規定内容が領域的規定性においてとらえられた命題へ立ち返る。ここでは、どの領域も、それぞれ固有の完結した研究群のための手引きを与える。
たとえば物質的物という領域を手引きにとる。この手引きが何を意味するかを正しく理解すれば、同時に一つの一般的問題をとらえることになる。この問題は、大きく、相対的に完結した一つの現象学的学科にとって規準となる。それは、超越論的意識における物という領域の対象性の、一般的な「構成」の問題であり、より短く言えば、「物一般の現象学的構成」の問題である。これと同時に、この手引きとなる問題に対応する研究方法も知ることになる。同じことは、どの領域についても、またその現象学的構成にかかわるどの学科についても言える。
問題となるのは次のことである。物の理念は、この領域にとどまるなら、意識に即しては、一定のノエマ的内実をもつ概念的思想「物」によって代表される。どのノエマにも、本質上、可能なノエマからなる観念的に完結した群が対応する。この群の統一は、そこに属するノエマが合致による総合的な統一化をなしうる点にある。ノエマがここでのように整合的であれば、この群のなかには、直観的な、とりわけ原的に与えるノエマも見いだされ、群のほかのあらゆる種類のノエマは、同一化的な合致においてそれらのノエマのうちで充実化される。措定性の場合には、それらのノエマから確証と理性の力の充実を汲み取る。
われわれは、まさに手にしているとおりの、言葉だけの、おそらくまったく不明瞭な表象「物」から出発する。そして自由に、同じ「物」一般についての直観的表象を産出し、この語の漠然とした意味を明らかにする。「一般的表象」にかかわるので、例示的に進めなければならない。任意の想像直観を物について産出する。たとえば有翼の馬、白いカラス、黄金の山などを自由に直観する。これらもやはり物であろうから、それらの表象は、現実の経験の物についての表象と同じく、例示に役立つ。そこで、イデーションを遂行しつつ、直観的明晰さのうちに、一般的に限界づけられたノエマ的規定の主語として、本質「物」をとらえる。
すでに確認したことを想起すると、この場合、本質「物」は原的に与えられるが、この所与性は原理上、十全的たりえない。ノエマ、すなわち物の意味を、十全的な所与性にもたらすことはできる。しかし多様な物の意味は、その充実においてとらえても、領域的本質「物」を、自分たちに内在的な原的直観的内実として含まない。それは、同一の個体的な物に関わる多様な意味が、この物の個体的本質を含まないのと同じである。言い換えれば、問題が物の個体の本質であれ、領域的本質としての物一般であれ、求める本質をそのすべての本質規定性の充実のうちに十全的に得るには、一つの物直観も、有限に完結した物直観の連続体や集まりも、決して足りない。だが不十全的な本質直観には、どれもが足りる。不明瞭な表象という例示的な土台の上に成り立つ空虚な本質把握に比べれば、この直観は少なくとも本質を原的に与えているという大きな利点をもつ。
これは、個体的本質から領域としての物に至るまで、本質的一般性のあらゆる段階にあてはまる。
ところで、不完全な所与性(不十全に与えるノエマ)は、その完成の観念的可能性のための規則を内に含む、というのは一般的な本質洞察である。私がいま抱いているケンタウロスの現出は、ケンタウロスの本質を単に「一面的に」与えるにすぎない。この現出の本質には、次のことが属する。私は、その物のさまざまな側面を追い、さしあたり未規定で開かれたままだったところを、自由に想像しつつ確定し、直観的にすることができる。この、ますます完全に直観化し、より詳しく規定していく想像の過程を進めるうえで、われわれは広い範囲で自由である。想像されたケンタウロスに、より詳しく規定する特性や特性の変化を、任意に直観的に付け加えられるからだ。しかし完全に自由なのではない。規定されうる主語が同一のものであり、整合的に規定されうるものでありつづけることができるような、整合的な直観の歩みに沿って進むべきであるかぎりは、そうである。たとえばわれわれは、空間という法則的なものに拘束される。それは、可能な物一般の理念が、枠組みとして固く指定してくるものである。想像されたものをいかに恣意的に変形しようとも、空間形態はやはり空間形態へと移行する。
では、規則ないし法則というこの言い方は、現象学的には何を言うのか。不十全に与えられた領域「物」が、可能な直観の歩み、すなわち明らかに可能な知覚の歩みに対して規則を指定するとは、どういうことか。
これに対する答えはこうである。物ノエマの本質には、しかも絶対的に洞察できるかたちで、整合的な直観の「進行における際限のなさ」という観念的可能性が属する。それは、類型的に規定されて指示された方向に沿っており、したがって対応するノエシスの連続的な連なりにも、並行する際限のなさがある。ここで、物一般という一般的「理念」を洞察的に獲得することに関する先の論述を思い出す。その論述は、一般性のどの低次の段階にも、個体的に規定された物という最低の具体にいたるまで、妥当しつづける。物の超越は、直観の進行におけるこれらの際限のなさに表れる。直観は、くり返し直観の連続体へと移され、先に与えられた連続体は拡張されなければならない。物のどの知覚も最終的に完結したものではなく、未規定を詳しく規定し、未充実を充実させる新たな知覚の余地が、つねに残る。進行するたびに、同じ物 X に連続的に属する物ノエマの規定内容は豊かになる。どの知覚も知覚の多様も拡張可能であり、したがって過程は終わりのないものだ、というのは本質洞察である。それゆえ、物の本質についてのいかなる直観的把握も、さらなる知覚がノエマ的に新しいものを付け加ええないほどに完全ではありえない。
他方でしかし、われわれは物の「理念」を、明証をもって十全的にとらえている。その理念は、通覧してゆく自由な過程において、整合的な直観の進行の際限のなさを意識するなかで、とらえられる。こうしてわれわれはまず、物の、そしてこの個体的な物の、充実されていない理念を、整合的な直観がちょうど「及ぶ」かぎり「そこまで」与えられていながら、同時に「in infinitum」規定されうるままにとどまるものとして、とらえる。「など」は、物ノエマにおける洞察的で絶対に欠かせない契機である。
この際限のなさについての例示的な意識に基づいて、われわれはさらに、規定された無限性の方向の「理念」を、通覧する直観的経過のどの方向についてもとらえる。ここでもふたたび、物一般という領域的「理念」を、そのような性質の規定された経過の無限性のなかで持続する同一のものとして、また、それに属するより限定された性質をもつノエマの無限系列のなかで自らを示すものとして、とらえる。
物と同様に、物の本質内実に属するどの性状も、とりわけどの構成的「形式」も一つの理念であり、このことは領域的一般性から最低の特殊性にいたるまで言える。さらに詳しく述べれば、次のとおりである。
物は、その観念的本質において、res temporalis として、時間という必然的「形式」のうちに自らを与える。直観的な「イデーション」は、「理念」直観としてここでとりわけその名にふさわしいが、物が必然的に持続するものであり、原理上その持続に関して際限なく延長されうるものであることを、われわれに教える。われわれは「純粋直観」において、時間性の「理念」と、そこに含まれるすべての本質契機をとらえる。というのも、このイデーションは、カントの純粋直観の概念を現象学的に解明したものにほかならないからである。
さらに物は、その理念に従って res extensa でもある。たとえば空間的な観点では、無限に多様な形態変化が可能であり、形態と形態変化を同一に保ったままでも、位置の無限に多様な変化が可能である。物は in infinitum「可動的」である。われわれは空間の「理念」と、それに組み入れられた諸理念をとらえる。
最後に物は res materialis であり、実体的統一である。そのような統一として、物は因果性の統一であり、しかも可能性からいえば無限に多様な因果性の統一である。これらの固有に実在的な特性においても、われわれは理念にぶつかる。このように、物の理念の構成要素はすべて、それ自身が理念であり、そのどれもが、「無限の」可能性についての「以下同様」を含意している。
われわれがそこで論じていることは、「理論」でも「形而上学」でもない。問題になるのは本質必然性であり、それは物ノエマに、また相関的に物を与える意識に、廃棄しえないかたちで含まれており、まったく洞察的にとらえ、体系的に探究することができる。
§150 続き 超越論的手引きとしての物の領域 物直観そのものが、ノエシスとノエマの両面で内に含む無限性、すなわち物の理念と、それが内に含む無限性の次元を、最も一般的な点で理解したので、物という領域が手引きとして現象学的研究に役立ちうるとはどういうことかも、ほどなく理解できる。
個体的な物を直観しつつ、その運動、接近と遠ざかり、回転と向き変え、形や質の変化、因果的な振る舞い方を直観のなかで追ってゆくとき、われわれは直観の諸連続体を遂行する。それらは互いにしかじかに合致しつつ、統一意識へと結びつく。その際、視線は同一のもの、すなわち意味のXに、あるいは措定的ないし中立化された命題のXに向けられている。それは、みずから変化し、回転するなどする、一つの同じものである。自由な直観のなかで、この過程の進行の際限のなさを意識しながら、さまざまな基本方向に沿って終わりなく可能な変様を追う場合も同様である。さらに、イデーションの態度に移り、たとえば物という領域的理念を明晰にする場合も同様である。その際われわれは、幾何学者が自らの幾何学的直観の自由と純粋さのなかで行うのと同じように進めている。
しかしそのすべてによっても、われわれは直観の過程そのものについて、またそれに属する本質や本質的無限性について、何も知らない。その素材やノエシス的契機についても、そのノエマ的内実についても、双方で区別でき形相的にとらえられる諸層についても、何も知らない。われわれが現勢的に体験していること、あるいは想像変様において反省されないまま意識していることを、見ているわけではない。それゆえ態度の変更が必要であり、ヒュレー的、ノエシス的、ノエマ的というさまざまな「反省」が必要である。これらはいずれも、Xへの根源的で「直線的」な視線方向からのそらしであるから、そう呼ぶのが正当である。これらの反省こそが、大きく内的に連関した研究領野、ないし物の領域の理念のもとにある強力な問題系を、われわれに開く。
そこで次の問いが生じる。
直観的に表象する物意識の統一に属するノエシスとノエマは、どのように体系的に記述されるべきか。
ノエマ的圏域では、問いはこうなる。
「現実の」物が所与となり、直観に即して、根源的な「経験」においてその現実を証示する、多様な措定的直観、すなわち「直観命題」は、どのような姿をしているか。
ドクサ的定立を捨象するなら、単なる――ノエマ的に解された――現出は、どのような姿をしているか。この現出は、純粋に形相的に見れば、それ自体において一つの同じ物、そのつどまったく規定された物を「現出させ」、その物は、この直観ないし現出の多様に必然的な相関者として属している。現象学は原理上、漠然とした言い回しや不明瞭な一般性にとどまらない。現象学は、本質連関のなかへ、またその到達しうる最後の特殊化にまで入り込む、体系的に規定された解明、分析、記述を要求する。すなわち、決着をつける仕事を要求する。
物の領域的理念、すなわち規定的な意味内実をもつその同一のXは、存在するものとして措定されるとき、現出の多様に規則を指定する。これは、その多様が、たまたま寄り集まった、ただの多様ではないということである。このことは、それらが、それ自体において、純粋に本質上、物に、しかも規定された物に関係することからすでに明らかになる。領域の理念は、まったく規定された、規定的に秩序づけられた、in infinitum 進行する、観念的全体としてとらえれば固く完結した現出系列を指定する。すなわち、その経過の規定された内的組織を指定するのであり、この組織は、領域的な物の理念のなかに構成要素として一般的に描かれている部分理念と、本質上、しかも探究可能なかたちで連関している。たとえばこの組織の一部として、単なる res extensa の統一は、res materialis の理念が規範を与える統一なしでも考えられるが、res extensa でないような res materialis は考えられない、ということが示される。実際、物の現出はどれも必然的に自らのうちに一つの層を含んでおり、われわれはそれを物図式と呼ぶ、ということが、つねに形相的現象学的直覚において明らかになる。それは、単に「感性的」性質で充実された空間形態であり、「実体性」や「因果性」というどんな規定性も欠いている。ただしこれらは引用符つき、すなわちノエマ的に変様して解されたものである。単なる res extensa という対応する理念だけでも、豊富な現象学的問題の表題である。
現象学的に素朴なわれわれは、次のことを単なる事実とみなす。「われわれ人間」には空間物がつねにある一定の「定位」において現れること、たとえば視覚的視野のなかで上下、左右、遠近に向けて定位されて現れること。われわれは物をある一定の「奥行き」、「距離」においてしか見られないこと。物が見られうる変化するすべての距離は、見えないが理想的な限界点としてわれわれによく知られた、すべての奥行き定位の中心、すなわちわれわれが頭のなかに「局在」させる中心に関係づけられていること。ところが、これらのいわゆる事実性、つまり「真の」「客観的な」空間には無縁の空間直観の偶然性は、わずかな経験的特殊化を除けば、本質必然性であることが明らかになる。したがって、空間物的なものは、われわれ人間にとってだけでなく、絶対的認識の理想的な代表者としての神にとっても、現出を通じてのみ直観されうることが示される。その現出において、それは「遠近法的に」、多様だが規定された仕方で変化しながら、しかも変化する「定位」において与えられており、また与えられていなければならない。
いまや、これを一般的テーゼとして根拠づけるだけでなく、あらゆる個別の形態にわたって追跡することが必要である。「空間表象の起源」の問題は、その最も深い現象学的意味がこれまで決してとらえられなかったが、空間が直観的に呈示され、空間的なものが、現出の統一として、すなわち記述的な呈示の仕方の統一として「構成される」、そのようなノエマ的(ないしノエシス的)現象のすべてについての、現象学的な本質分析に帰着する。
構成の問題とは、明らかに次のことにほかならない。規則づけられ、一つの現れるものの統一へと必然的にともに属する現出系列は、直観的に見渡され、理論的にとらえられうる。それは、それらの無限性があるにもかかわらず(「など」という規定されたかたちで、まさに一義的に支配できるものだが)、その形相的な固有性において分析され記述されうる。さらに、統一としての規定された現れるものと、現出の規定された無限な多様とのあいだの相関の、法則的な働きは、完全に洞察され、こうしてあらゆる謎を取り除かれうる。
このことは、res extensa、さらに res temporalis にある統一についてと同様に、「物質的物」、すなわち実体的・因果的な物という表現が示す、より高次の基づけられた統一についても、劣らずあてはまる。これらの統一はすべて、経験する直観の段階で「多様」のなかで構成される。そしてどこでも、双方の本質連関を、意味と意味の充実、定立的機能などについて、あらゆる層に至るまで完全に解明しなければならない。最後に、現象学的に純粋な意識において、現実の物の理念を代表するものは何か、またそれが、構造に即して探究され本質に即して記述されたノエシス的・ノエマ的連関の、絶対に必然的な相関者であるのはどのようにしてか、についての完全な洞察が生まれてこなければならない。
§151 物の超越論的構成の諸層 補遺 これらの研究は、本質的に、原的に経験する意識の枠内での物の構成のさまざまな段階と層によって規定される。どの段階も、段階のなかのどの層も、固有の統一を構成することによって特徴づけられ、その統一は、それはそれで物の完全な構成にとって必然的な媒介項である。
たとえば、単純に知覚的な物の構成の段階、すなわちその相関者が感性的性質を備えた感性物であるような段階をとるなら、われわれは単一の意識の流れ、すなわち一つの知覚する自我主観の可能な知覚に関わっている。ここにはさまざまな統一の層が見いだされる。感覚的図式、より高次および低次の秩序の「視覚物」がそれであり、これらはこの秩序のなかで完全に取り出され、ノエシス的・ノエマ的構成について、個別にも連関においても研究されなければならない。この段階の層のうち最上位に実体的・因果的な物が位置する。それはすでに特有の意味での実在であるが、それでもなお構成上、一つの経験する主観と、その観念的な知覚の多様に結びつけられている。
次に高い段階は間主観的に同一な物であり、より高次の構成的統一である。その構成は、「了解」の関係にある開かれた複数の主観に関係する。間主観的世界は、間主観的な経験、すなわち「感情移入」によって媒介された経験の相関者である。したがって、われわれは、多くの主観によってすでに個別的に構成された多様な感性物の統一へ、さらに続けて、それに対応する、つまりさまざまな自我主観と意識の流れに属する知覚の多様へと向かうことになる。しかし何よりも、感情移入という新しいものへ、そしてそれが「客観的」経験においてどのように構成する役割を果たし、あの分離した多様に統一を与えるのかという問いへと向かうことになる。
探究は、事象の本質が要求する完全さと全面性をもって遂行されなければならない。たとえば先に、導入という目的にしたがって、構成する現出の多様の第一の基礎的な体系だけを視野に収めた。すなわち、同一の物が絶えず整合的に現れる体系である。この体系では、知覚は、あらゆる体系的な線に沿った限りない進行のなかで純粋な合致に達し、定立は絶えず確証を受ける。ここにあるのは、より詳しい規定だけであり、別様の規定は決してない。先行する経験の経過によって(この観念的に閉じた体系の内部で)措定された物の規定は、領域の本質によって形式的に指示された同じ性状の範疇に属する別の規定によって、「抹消」されることも「置き換え」られることもない。整合が妨げられることも、その妨げが再び調整されることもなく、措定された物が丸ごと抹消されるような、整合の「爆発」もない。しかし、これらの反対の場合も、現象学的には同じく考慮に入れなければならない。経験的現実が構成される可能な連関のなかで、これらの場合もまた役割を果たすからであり、果たしうるからである。事実としての認識の道も、観念的に可能な認識の道も、誤謬を通って進む。最も低い認識段階、すなわち直観的に現実を把握する段階において、すでにそうである。それゆえ、整合に部分的な破れが生じ、整合が「修正」によってのみ保たれる知覚の経過を、ノエシス的およびノエマ的な本質の内実にしたがって体系的に特徴づけなければならない。具体的には、統握の変更、独特の定立的な出来事、先に統握されたものを「仮象」「錯覚」として評価し直したり価値を下げたりすること、ところどころで調整されない「抗争」へ移行することなどである。整合の連続的な総合に対して、抗争の総合、解釈替えの総合、別様の規定の総合も、さらにそのほか何と呼ばれようとも、それらの総合は正当な位置を得なければならない。「真の現実」の現象学にとっては、「空しい仮象」の現象学もまったく欠くことができないからである。
§152 超越論的構成の問題を他の領域へ転用すること ここで物質的な物の構成について例示的に述べたこと、しかも、あらゆる「思考」に先立つ経験の多様の体系における構成という観点で述べたことは、問題の面でも方法の面でも、あらゆる対象領域に転用されなければならない。このことは容易に見て取れる。「感性的知覚」に代わって、今や当該の領域に本質上対応づけられた、原的に与える作用の種類が登場する。この種類は、あらかじめ現象学的分析が取り出して探究しておかなければならない。
異なる領域の絡み合いには、きわめて困難な問題が付きまとう。それらは、構成する意識形態における絡み合いを条件づける。物は、経験する主観に対して孤立したものではない。このことは、「客観的」な物の世界の間主観的構成について先に示唆したことからも、すでに明らかになっている。ところで、この経験する主観自身が、経験のなかで実在的なものとして、人間や動物として構成されている。間主観的な共同体も同様に、動物的な共同体として構成されている。
これらの共同体は、本質的には心的な実在に基づけられ、その心的な実在もまた物理的な実在に基づけられているにもかかわらず、新しい種類の高次の対象性であることが示される。総じて、心理学主義的・自然主義的などんな解釈替えにも抗する、多種多様な対象性があることが明らかになる。あらゆる種類の価値対象と実践的対象がそうであり、われわれの現勢的な生を動かしがたい現実として規定する、あらゆる具体的な文化形成体もそうである。たとえば国家、法、習俗、教会などである。これらの対象性のすべてを、それらが所与となるとおりに、基本的な種類にしたがって、また段階の秩序において記述し、それらについて構成の問題を立て、解かなければならない。
これらの構成は、当然ながら、空間的な物性および心的主観の構成にも遡る。これらはまさに、そうした実在に基づけられているからである。最下位の段階としては、結局、物質的実在がほかのすべての実在の根底にある。したがって、物質的自然の現象学に際立った位置が与えられることは確かである。しかし、先入見なしに見て、現象学的にその源泉へ還元するなら、基づけられた統一はまさに基づけられたものであり、しかも新しい種類のものである。それとともに構成される新しいものは、本質直観が教えるように、ほかの実在の単なる総和へは決して還元できない。こうして実際に、こうした現実の特有の類型はどれも、それ自身の構成的現象学を伴い、それとともに新しい具体的な理性論を伴う。どの場合も、課題は原理的には同じである。そうした対象性すべての原的所与性を構成する意識形態の完全な体系を、すべての段階と層にわたって認識にもたらし、それによって当該の種類の「現実」の意識上の等価物を理解可能にすることが肝要である。存在と意識の相関に関わる多くの身近な誤解(たとえば、あらゆる現実が「心的なものに解消する」という誤解)を排除するために、ここで真理に即して述べるべきことはすべて、現象学的態度において、直覚の光のなかで把握された構成的群の本質連関を基礎にしてはじめて述べることができる。
§153 超越論的問題の全面的な広がり 探究の区分 いま可能であると認識され、要求された探究は、途方もなく広がっている。これまで可能だったような一般的な論述では、その広がりについて十分な表象を呼び起こすことはできない。そのためには、少なくとも現実の主要な類型について、実際に遂行された探究の断片が必要になる。つまり、一般的な意識構造の問題圏に関してわれわれが従った手順が必要になる。だが次の巻では、自然科学、心理学、精神科学という名称で呼ばれる大きな学問群の相互関係、とりわけ現象学との関係をめぐる、現代の関心を大きく集めている争点を論じる。この論述は、同時に構成の問題をより手に取りやすい近さに引き寄せる機会を与えてくれる。ただ、構成の問題が本当に重大な問題であること、そして、事象内実をもつあらゆる学問の、真の意味で原理的なもののすべてに関わる探究領域が開けることは、すでにここで明らかになっているだろう。「原理的なもの」とは、実のところ、領域的な理念をめぐって基本概念と基本認識として集まるもの、そして対応する領域的存在論のなかで体系的な展開を見出す、ないし見出すべきもののほかではない。
構成の理念を適切に拡張するなら、いま述べたことは、事象内実をもつ圏域から形式的圏域へ、そしてこれに配された存在論的諸学科へ、したがってあらゆる原理と原理の学問一般へ転用される。その際、構成的探究の枠は、最終的に現象学全体を包括しうるほどに広がる。
以下の補足的な考察を行えば、このことはおのずと明らかになるだろう。
まず、対象構成の問題は、可能な原的に与える意識の多様に関係している。したがってたとえば物の場合は、同一の物についての可能な経験、いや知覚の総体に関係している。これに、再生的で措定的な意識の種類を補って考慮すること、そしてそれらの構成的な理性の働きの探究が続く。同じことになるが、単純に直観する認識に対するそれらの働きの探究である。同様に、不明瞭に表象する(しかし単純な)意識と、それに関わる理性および現実の問題も考慮される。要するに、われわれはさしあたり、「表象」という単なる圏域のなかを動いている。
しかし、これと結びつくのが、より高次の、狭い意味でいわゆる「悟性」圏域ないし「理性圏域」の働きに関する、対応する探究である。この圏域には、説明し関係づけるといった「論理的」(さらに価値論的で実践的)な総合、「概念的」な操作、言明、新しい間接的な基礎づけの形式が属する。さしあたり単定立的な作用のなかで、たとえば単なる経験のなかで与えられていた(あるいは理念において与えられたと考えられていた)対象性は、総合的操作の働きに委ねることができる。そして、その操作によって、ますます高い段階の総合的対象性を構成できる。この対象性は、全体としての定立の統一のなかに複数の定立を含み、全体としての質料の統一のなかに、分節して現れる複数の質料を含む。人は集めることができ、段階の秩序が異なる集合(集合の集合)を「形成」することができる。「全体」から「部分」を、主語から特性や述語を「取り出し」、あるいは「際立たせ」ることができる。対象を対象に「関係づけ」、好きなように一方を関係項に、他方を被関係項に「する」ことができる、などである。こうした総合は、「実際に」、「本来的に」、すなわち総合的な原的性において遂行できる。その場合、総合的対象性は、その総合的形式に関して、原的に与えられたものの性格をもつ(たとえば実際に与えられた集まり、主語化、関係などの性格である)。さらに、定立が原的性の性格をもつ場合、つまり定立的な作用性格が原的に理性的なものとして動機づけられている場合には、その対象性は原的性の完全な性格をもつ。自由な想像を引き入れ、原的に与えられたものと、かのように与えられたものとを関係づけることもできる。あるいは総合をまったく変様のなかで遂行し、そのように意識されたものを「仮定」に変え、仮説を「立て」、そこから「帰結を導く」こともできる。さらに、比較と区別を遂行し、そこで与えられた同等性や相違そのものを再び総合的操作に委ね、これらすべてにイデーションや本質の措定ないし仮定を結びつけ、こうして in infinitum 進むこともできる。
これらの操作の根底には、客観化の低次または高次の段階にある、あるいは直観的で、あるいは非直観的な、場合によってはまったく混乱した作用がある。不明瞭であったり混乱していたりする場合には、総合的な「形成体」を明晰にすることをめざせる。その可能性の問いや、「総合的直観」によるその履行の問いを提起することもできる。さらに、その「現実」の問い、すなわち明示的で原的に与える総合的作用によって、場合によっては間接的な「推論」や「証明」の道をたどって、それを履行しうるかどうかの問いも提起できる。現象学的には、これらの総合のあらゆる類型を、そこで「構成される」総合的対象性との相関において探究しなければならない。すなわち、さまざまな所与性の様態と、それが、そうした対象性の「現実の存在」にとって、また真に可能であること、実際に蓋然的であることにとって持つ意義を解明し、こうして理性・真理ないし現実のあらゆる問いについて解明しなければならない。したがってここにも「構成の問題」がある。
論理的総合は確かに、単純な質料(意味)をもつ最下位の定立に基づいている。しかしその基づき方は、総合的段階の本質法則性が、とりわけ理性法則が――きわめて広く、はっきり境界づけられた「形式的」圏域において――総合の項のもつ特殊な質料から独立であるようなものである。まさにそれによって、論理的認識の「質料」を捨象し、それを未規定で自由に変更可能な一般性において(「何ものか」として)考える、一般的かつ形式的な論理学が可能になる。したがって、構成に関わる探究も二つに分かれる。一方は、形式的な基本概念に結びつき、それだけを理性の問題、ないし現実と真理の問題の「手引き」とする探究である。他方は、先に述べた探究、すなわち領域的基本概念に、そしてさしあたり領域そのものの概念に結びつく探究であり、そこでは、この領域の個体的なものがどのように所与に至るかが問われる。領域的範疇と、それによって指示される探究においては、総合的形式が領域的質料から受ける特殊な規定が正当に扱われる。また、領域的公理に表現されるような特殊な拘束が領域的現実に及ぼす影響も、同じく正当に扱われる。
ここまで述べたことは、明らかにあらゆる作用と対象の圏域に転用される。さらに、対象性のうち、その構成を、特有の定立と質料をもつ情意の作用がアプリオリに担わなければならないものにも転用される。その担い方を形式と質料的な特殊性とに即して解明することが、対応する構成的現象学の大きな課題であり、この課題はほとんど予感されてもおらず、ましてや着手されてもいない。
現象学そのものをここでは除いたうえで、構成的現象学がアプリオリな存在論に対して、さらにはあらゆる形相的学科に対して持つ緊密な関係も、これによって明証的になる。形式的および質料的な本質論の段階的な序列は、ある意味で構成的現象学の段階的な序列をあらかじめ描き、それらの一般性の段階を規定し、存在論的および質料的形相的な基本概念と基本命題において、それらに「手引き」を与える。たとえば、時間、空間、物質やそれらから直接導かれる概念といった、自然の存在論の基本概念は、物質的な物性を構成する意識の諸層の指標であり、それに属する基本命題は、諸層の内部および諸層のあいだの本質連関の指標である。純粋論理的なものの現象学的解明によって、純粋時間論、幾何学、そしてあらゆる存在論的学科の間接的な命題もまた、超越論的意識の本質法則性とその構成する多様の指標であることが、またその理由が、理解可能になる。
ただし、構成的現象学と、それに対応する形式的および質料的な存在論とのこれらの連関のなかに、前者を後者によって基礎づけるといったことは何も含まれていないことを、明確に述べておかなければならない。存在論的な概念や命題を構成的な本質連関の指標として認識するとき、またそれを、権利と妥当を純粋にそれ自身のうちに担う直観的な提示の手引きと見るとき、現象学者は存在論的には判断しない。この一般的な確認は、のちにいっそう徹底した論述によって確かめられることになる。この事情の重要性のゆえに、そうした論述はたしかに必要である。
ノエシス的な意識の層とノエマ的な意識の層を等しく考慮する、構成の問題の全面的な解決は、明らかに、理性の完全な現象学と同等になるだろう。この現象学は、理性のあらゆる形式的・質料的な形態に即するとともに、その正常な形態(肯定的に理性的なもの)に劣らず、変則的な形態(否定的に理性的なもの)にも即する。さらに、これほど完全な理性の現象学が現象学一般と合致するであろうこと、すなわち、対象構成という総称が要求する意識記述のすべてを体系的に遂行すれば、意識記述一般のすべてをそのうちに含まざるをえないであろうことが、おのずと迫ってくる。
本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。
『事実と本質』
事実は偶然的で個別的なものであり、経験によって与えられる。本質は、個体的な存在がそのつどもつ「何であるか」であり、あらゆる偶然的なものの意味には、一つの本質をもつことが属している。両者は不可分だが、本質は事実の経験から独立に把握できる。
『本質直観』
本質を直接に捉える直観。個体的な直観とは区別されるが、それに基づいて可能になる。想像のなかで自由に変えてみることによって、本質が際立つ。事実の存在を措定しない。
『形相的還元』
心理学的な現象から純粋な本質へ、また判断的思考においては、事実的な一般性から本質の一般性へと移ること。超越論的還元とは区別される。
『領域と範疇』
領域は、個体の最高の類を本質的に統一した全体であり、範疇は、領域的根本概念であり、領域的公理によって限定され、その領域の個体的対象にアプリオリかつ総合的に帰属せざるをえないものを表現する。領域に対しては領域的形相論が対応する。
『自然的態度』
世界を定在するものとして見いだし、それが与えられるとおりに受け入れて生きる、日常的かつ学問的な態度。現象学は、この態度の定立を遮断することから始まる。
『一般定立』
自然的態度が続くあいだ持続的に成り立っている定立であり、これによって実在的周囲世界は、存在する「現実」として意識されている。存在についての分節された判断という固有の作用に存するのではなく、潜勢的で明示されない定立である。
『遮断と括弧入れ』
自然的態度の一般定立を、使わないままにとどめること。定立を否定したり疑ったりするのではなく、その効力を働かせず、括弧に入れる。定立はなおそこにあるが、括弧のなかの括られたものとしてである。
『エポケー』
ギリシア語ἐποχήに由来し、判断を控えること。現象学的エポケーは、自然的態度の定立の全体を括弧に入れ、世界に関する一切の判断を控える徹底した態度変更である。
『現象学的還元』
エポケーによって世界の措定を遮断し、純粋意識とその相関者へ視線を向け変えること。遮断の範囲を詰め、遮断すべきものを体系的に定める。
『純粋意識』
現象学的還元のあとに残る残余としての意識。世界の無化を考えても残る絶対的な存在であり、現象学の場である。それ自身の固有の存在をもち、現存するためにいかなる物も必要としない。
『体験』
意識の流れのなかで、そのつど生きられる個々の意識作用や内容。体験は反省によって知覚され、内在的な存在として絶対的に与えられる。
『志向性』
意識が、何かについての意識であるという、体験の根本的な性格。ただし、感覚与件のように、志向的体験の実的な契機のすべてがこの性格をもつわけではない。
『コギト』
「われ思う」という作用を遂行している意識。純粋自我が、体験のなかで、対象へ向かっていることとして現れる。現勢性と潜勢性の変様が、ここで区別される。
『純粋自我』
到来し流れ去るすべての体験に属し、その眼差しが現勢的なすべてのコギトを通して対象的なものへ向かう、同一的な自我。世界とともに遮断されるのではなく、残余に属する。
『反省』
体験そのものに視線を向け変えること。現象学的な研究は反省において行われる。反省の遂行能力には、自己観察の困難に関する懐疑的な疑念が向けられており、この疑念は現象学にも考慮に入ってくる。
『内在と超越』
内在的な知覚は、体験そのものを捉え、体験のうちに含まれる。超越的な知覚は、体験の外にある物を、射映を通して捉える。内在的なものは疑いえず、超越的なものは疑わしい。
『射映』
物が、知覚のなかで、ある側面から、ある向きのもとに与えられるときの、与えられ方の多様。物は一面的にしか与えられないが、体験は自らを射映によって呈示せず、絶対的なものとして与えられる。
『構成』
対象が、意識の働きのなかで、意味をもつものとして成り立つこと。物の超越論的な構成は一定の層をなす。
『超越論的』
「純粋」意識を超越論的意識とも呼び、それを得る操作を超越論的エポケーとも呼ぶ。認識論的な問題系に根ざす動機による呼称である。超越論的に浄化された意識とその本質相関者が、現象学の領域となる。
『ヒュレー』
体験のうち、志向的な形式によって生気を与えられる感覚的な素材。感覚与件などが属する。それ自体には志向性がない。
『ノエシスとノエマ』
ノエシスは、体験の実的な構成要素のうち、意味を与える志向的な契機である。ノエマは、体験に現れるものを、そこで思念されるとおりに、意味として取り出したものであり、体験の実的な部分ではない。
『実的と非実的』
体験の実的な構成要素は、体験そのものを実際に構成している部分である。ヒュレー的契機とノエシス的契機がこれにあたり、ノエマ的契機は実的ではなく非実的である。実在的とは別の語である。
『ノエマ的意味』
ノエマの核にあって、規定可能なXに規定を与える内実。現実の対象でも内在的な対象でもなく、思念されたものそのものの意味である。
『措定と定立』
措定は、あるものを存在するものとして立てることである。定立という語は、あらゆる「志向」、あらゆる「作用性格」を包括する一般的な意味で用いられる。信念の措定を中心に、様相化や中立化を受ける。
『ドクサと信念』
ドクサ的な作用は、信念の措定を担う作用である。原信念は、あらゆる様相的な変様の元になる。疑いや問いなどの様相は、そこからの変様として扱われる。
『中立性変様』
あらゆる措定を、「単に考える」だけの非措定的な仕方に変えること。想像とは別であり、反復できない。
『現勢性と潜勢性』
体験がいま現に遂行されている状態が現勢性であり、背景に退いたまま、いつでも注意の対象となりうる状態が潜勢性である。コギトは現勢的であり、体験は潜勢的な暈に取り巻かれている。
『体験の流れ』
一つの純粋自我に属する、体験の統一的な連続。無限の時間地平をもち、理念として把握される。
『明証』
対象がそれ自体として原的に与えられること。原的な所与性への動機づけ関係によって特徴づけられる理性定立を包括する、最も一般的な語であり、洞察はその必当然性の呼称として残される。原的明証と純粋明証、実然的明証と必当然的明証などが区別される。
『十全的と必当然的』
十全的な明証は、原理的にもはや補強も弱化もされえない明証であり、不十全的な明証は強めることも弱めることもできる。必当然的な明証は、本質ないし本質事態を洞察する明証であり、個体的なものを見る実然的な明証と区別される。内在的な体験は十全的に与えられうるが、物は不十全的にしか与えられない。
『洞察』
実然的に見ることに対して、本質ないし本質事態を必当然的に見ること。洞察的な措定は、洞察のない措定に対して確証するものとして機能しうる。
『理性と現実』
理性意識は、原的に与える作用に基づいて措定に権利を与える。「現実の対象」は、意味に即して統一をなすXが理性にかなった措定を受け取る、形相的に考察された理性連関の名称である。
『充実化』
意味や命題が充実されているか、充実されていないかという、その仕方。意味の充実は直観的でありうるが、直観の仕方が原的に与える仕方である場合が際立つ。ノエマの核は、充実の様態における意味として扱われる。
第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
フッサールにおいて、物の定義は、論の出発点にも到達点にも、ひと言で置かれてはいない。物は、自然的な世界のなかに見いだされる物として最初に現れ、その世界の定立が遮断されたのち、意識の側から、意味の統一として成り立つものとして扱われる。物がどのようなものかは、この運動を辿るなかではじめて言えるようになる。
私は卓を見ている。世界は、そこにあるものとして私に与えられている。私はこの『自然的態度』のなかで、世界を定在するものとして受け入れている。環境世界が存在する「現実」として意識されていることは、存在についての判断という固有の作用に存するのではなく、私が目覚めて生き続けるあいだ持続的に成り立っている。これが『一般定立』である。
私は、この態度にとどまるのをやめ、根本的に変更しようと思う。疑ってみることはできる。だが私が取り出したいのは、否定でも疑いでもない。定立はそのまま元にとどまりながら、私はそれを作動から外し、『括弧入れ』をして『遮断』する。定立はなおそこにあるが、括弧のなかの括られたものとしてである。あらゆる定立に関して、私は完全な自由において、この『エポケー』を行うことができる。世界の存在についての判断はすべて控えられる。
私は卓の周りを歩き、位置を変える。私は連続的に、同一の変わらない卓の有体的な定在を意識している。ところが卓の知覚は絶えず変化し、移り変わる。目を閉じれば知覚はなく、目を開ければ再び知覚をもつが、それは個体として同じ知覚ではない。同じなのは卓だけである。見られた卓の色は、色の意識の実的な契機ではない。同じ色が、色の『射映』の連続的な多様において現出する。射映は体験であり、射映されるものは本質上空間的で、体験としては可能でない。卓は知覚に対して超越的である。
物は、原理的に一面的にしか、現出の仕方においてしか与えられない。実際に呈示されたものの核は、非本来的な共所与の地平と、漠然とした未規定性に取り囲まれる。このように無限に不完全であることは、物と物の知覚との相関の廃棄できない本質に属する。経験をどれほど進めても、規定可能な未規定性の地平は残る。これに対して、体験は自らを射映によって呈示しない。感情体験に目を向けるなら、あるときはこう、あるときはああと呈示しうる側面のない絶対的なものがそこにある。
私は、世界が、あるいは何らかの物が存在しないことを考えてみる。経験の内に調停できない抗争がひしめき、射映、統握、現出の確固たる規則秩序が失われ、もはや世界が存在しない、ということは十分に考えうる。世界の絶滅とは、各体験の流れにおいて、ある秩序ある経験の連関が排除されることにほかならない。そのとき意識の存在は変様されるが、現存は損なわれない。残るのは、疑いなく絶対的な『純粋意識』である。諸現出によって自らを呈示する実在的な存在は、意識の存在にとって必然的ではない。意識と実在のあいだには、意味の真の深淵が口を開けている。一方には、射映し、決して絶対的には与えられえない、偶然的で相対的な存在があり、他方には、射映や現出によっては与えられない、必然的で絶対的な存在がある。
ある仕方で、すべての実在的統一は意味の統一であるとも言える。意味の統一は意味を付与する意識を前提する。この意識は絶対的であり、みずからふたたび意味付与によって存在するのではない。世界の完全に妥当する存在からは、何も差し引かれていない。取り除かれたのは、実在的現実の固有の意味と矛盾する背理的な解釈だけである。
物の完全な所与性は、完結した意識のなかでは与えられない。それでもカント的な意味での理念として、完全な所与性は予示されている。それは、現出の終わりなき過程の体系、アプリオリに規定された現出の連続体として予示される。任意の線をたどれば整合的な現出連関が得られ、同じ規定可能なXが絶えず与えられたまま、より詳しく規定され、決して別様に規定されない。無限であるから、たどり抜くことの完結した統一は考えられない。それでもこの連続体の理念は、洞察的に目の前にある。
この現出の無限な多様と、そこに現れる一つの統一との相関の法則的な働きを洞察することが、『構成』の問題である。物は、感性的性質で充実された空間形態の層から、実体的・因果的な物という高次の統一まで、いくつもの層をなして構成される。さらに、感情移入によって媒介された、多くの主観に同一の物の層がある。
以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。
『物とは、どの知覚においても一面的な射映においてしか与えられず、現出の無限の連続体を理念として予示しながら、純粋意識に意味を付与されて構成される、超越的であることを含む意味の統一であり、その存在は意識にとって必然的ではなく、二次的で相対的である。』
作品名:フッサール『イデーン 第一巻』を知るための本
発行責任者(著者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-sonnet-5-5)
参照原典:ドイツ語原典 Edmund Husserl, Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch(Jahrbuch für Philosophie und phänomenologische Forschung, Bd. I, Halle a. d. S.: Max Niemeyer, 1913/無変更再版 1922、序論と第一巻)
初版発行日:2026年10月18日
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注記:本書が参照する原典は、エドムント・フッサール『純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 第一巻』(Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie. Erstes Buch)のドイツ語原典のうち、序論と第一巻の全体である。本書の制作において直接参照した版は、Max Niemeyer 社版(Halle a. d. S., 1913)に準拠したものであり、1922年の再版は、これと無変更である。
本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTMLが存在する場合は、術語および論証骨格の照合基準として当該翻訳HTMLを参照して制作している。
本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。