イマヌエル・カント(Immanuel Kant)。一七二四年四月二十二日、プロイセン王国ケーニヒスベルク(現在のロシア連邦カリーニングラード)に生まれ、一八〇四年二月十二日、同地で没した。父は馬具職人であり、敬虔主義の気風の強い家庭に育った。一七四〇年、ケーニヒスベルク大学に入学し、哲学者マルティン・クヌッツェンのもとでライプニッツ=ヴォルフ学派の哲学とニュートン自然学を学んだ。大学修了後、一七四〇年代から一七五〇年代にかけて、ケーニヒスベルク近郊の家庭で家庭教師を務めた。一七五五年、ケーニヒスベルク大学の私講師(無給の講師)となり、一七七〇年、同大学の論理学・形而上学正教授に就任した。生涯のほとんどをケーニヒスベルクおよびその近郊で過ごした。
原典の言語はドイツ語であり、原典名は『純粋理性批判』(Critik der reinen Vernunft)第二版である。本書が参照する底本は、プロイセン王国リガのヨハン・フリードリヒ・ハルトクノッホ社より一七八七年に刊行された第二版(B版)である。
本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ2割程度である。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
第Ⅰ部は、原典全体を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。
さらに詳しく知りたい方へ
原典 → 翻訳HTML『純粋理性批判』を読む
トピックス → 関連記事
物の定義史から『純粋理性批判』を知る → タイムライン
本一覧は、本書が参照する原典において実際に用いられている構造単位を、そのまま示す。
献辞 学問の成長をその一部において促進することは、閣下ご自身の利益のために働くことに等しい。学問の利益は、単に保護者という崇高な地位によってだけでなく、愛好者にして開明な鑑識者というはるかに親密な地位によって、閣下と結びついているからである。閣下が本書の初版に対して賜ったのと同じ恩寵深い御目にかけて、いまこの第二版もまた捧げられ、あわせて文筆上の使命に関わるそのほかいっさいの事柄が、その御庇護に委ねられる。
献辞の冒頭には、フランシス・ベーコン『大革新』の序文からの一節が置かれている。我々自身については沈黙する。しかし、いま取り組んでいる事柄については、人々がこれを単なる意見としてではなく一つの事業として捉え、ある特定の学派や主義のためにではなく、人類の実利と偉大さのための基盤を築こうとしているのだと確信してくれるよう求める。人々が公平な心で、自らの利益にかなうものとしてこの事業に自ら参与してくれるよう求める。そして、この大革新を、無限で人間の力を超えたものと空想せず、良い期待を抱いてくれるよう求める。この事業は実のところ、無限の誤謬の終わりであり、正当な限界だからである。
第二版序文 理性の営みに属する諸認識が学の確実な歩みに乗っているかどうかは、その成果から判断できる。目的に到達しようとして行き詰まり、幾度も後戻りを強いられ、携わる者たちの見解が一致しないならば、その研究はいまだ手探りにすぎない。論理学は、アリストテレス以来一歩も後退せず、その境界をあらゆる思考の形式的規則のみに厳密に限定することによって、最古の時代からこの確実な歩みを進めてきた。この限定性のゆえに、論理学において悟性が扱うのは悟性自身とその形式のほかにない。理性が自分自身とだけでなく対象とも関わらねばならないとき、学の確実な道を進むことははるかに困難となる。
理性の理論的認識のうち、対象をアプリオリに規定するのは数学と物理学である。数学は、ある一人の人物の幸運な着想がもたらした一つの革命によって、長い手探りの状態から抜け出た。等辺三角形を最初に論証した者は、図形のうちに見えるものを追跡するのではなく、自らの概念に従ってアプリオリに構成したものを通じて性質を生み出さねばならないこと、そしてアプリオリな確実な認識のためには、自分の概念に従って自ら対象に置いたものから必然的に帰結すること以外、何も対象に付け加えてはならないことを見出した。
物理学もまた同様の革命を経た。ガリレイが斜面上で球を転がし、トリチェリが水柱の重さに等しい重さを空気に担わせ、シュタールが金属を石灰に変えたとき、自然研究者たちは、理性が洞察しうるのは理性自身がその構想に従って生み出したものだけであり、理性は自らの原理を先立たせ、自然にその問いに答えるよう強いねばならないことを理解した。理性は、一致した現象のみが法則として通用しうる原理を一方の手に携え、自ら考案した実験をもう一方の手に携えて、任命された裁判官として自然のもとへ赴かねばならない。物理学はこの着想によって、単なる手探りから学の確実な歩みへともたらされた。
経験による教示から完全に離脱し、単なる概念のみによって成り立つ形而上学は、これまでのところ、学の確実な歩みを進めることができていない。形而上学において理性は絶えず行き詰まり、その支持者たちの主張は一致からほど遠く、むしろ一つの闘技場である。そこではいまだかつて、いかなる剣士も、わずかな地歩さえ勝ち取り、その勝利のうえに永続する所有を打ち立てたためしがない。
この確実な道がいまだ見出されずにいるのは何によるのか。その道はそもそも不可能なのか、それとも、これまでただ見誤られてきたにすぎないのか。
これまで、我々のあらゆる認識は対象に従わねばならないと想定されてきた。しかしこの想定のもとでは、概念によって対象についてアプリオリに何かを確定しようとするあらゆる試みは水泡に帰した。そこで、対象の方が我々の認識に従わねばならないと想定するならば、事情はどうか。これは、天体の運動の説明のために、観察者の方を回転させ星々を静止させたコペルニクスの着想と同じ事情である。対象の直観に関しても同様に試みることができる。直観が対象のあり方に従わねばならないとすれば、直観について何かをアプリオリに知る道筋は見出せない。しかし対象の方が我々の直観能力のあり方に従うのだとすれば、この可能性はよく思い描かれる。認識のためにこれらの直観をある対象に関係づける概念についても、対象の方、すなわち経験の方がこれらの概念に従うと想定するならば、より容易な解決が見出される。経験そのものが悟性を必要とする認識であり、その規則は対象が私に与えられるよりも前に、アプリオリに私自身のうちに前提されていなければならないからである。
この思考様式の転換によって、アプリオリな認識の可能性を説明することができる。しかしそこからは、我々の認識は可能な経験の限界を決して超え出ることができない、という帰結が生じる。まさにここに、この認識はただ現象にのみ及び、物自体はそれ自体としては現実的でありながら我々には認識されないままにとどまる、というあの評価の真理性を確かめる機会がある。我々を必然的に経験と現象の限界の彼方へと駆り立てるのは無条件者であり、理性はこの無条件者を物自体のうちに要求する。経験的認識が対象そのもの、すなわち物自体として対象に従うと想定するならば、無条件者は矛盾なしには考えられない。しかし、我々に与えられる限りでの事物の表象が事物自体に従うのではなく、これらの対象の方が現象として我々の表象の仕方に従うのだと想定するならば、この矛盾は消え去る。無条件者は、我々がそれを知る限りでの事物のうちには見出されえないが、我々がそれを知らない限りでの、物自体としての事物のうちにこそ見出されねばならない。
これまでの形而上学のやり方を改め、全面的な革命を成し遂げようとするこの試みのうちに、純粋思弁理性の批判の仕事はある。この書は方法についての一つの論考であり、学そのものの体系ではないが、その学の限界に関しても、内的な構造全体に関しても、輪郭を描き出している。純粋思弁理性は、対象を選び取る仕方の違いに応じて自らの能力を測ることができ、自らに課題を課すさまざまな仕方を完全に数え上げることができる。それゆえ形而上学は、対象を扱う他のいかなる理性の学にもない、稀有な幸運を持つ。すなわち、この批判によって学の確実な歩みへともたらされたならば、自らに属する認識の全領野を完全に包摂し、その仕事を完成させ、これ以上増やす必要のない一つの基本財産として、後世の使用のために据え置くことができるという幸運である。
この批判の第一の効用は消極的なものである。すなわち、思弁的理性が決して経験の限界を超え出ないようにすることである。しかしこの消極的な効用は、思弁的理性が自らの限界を超えて踏み出そうとする際に用いる諸原則が、実は本来感性に属する限界をあらゆるものにまで拡張し、純粋な実践的理性使用そのものを締め出してしまう、という事情に気づくならば、たちまち積極的なものへと転じる。純粋理性の端的に必然的な実践的使用、すなわち道徳的な使用というものが存在し、その使用において理性は避けがたく感性の限界を超えて拡張される。それゆえこの積極的な効用を批判の奉仕から奪うことは、警察の主な仕事が、市民が互いに懸念せねばならない暴力に歯止めをかけ、各人が安心して自分の事柄に励めるようにすることにすぎないとして、警察には積極的な効用がないと言うのに等しい。
空間と時間はただ感性的直観の諸形式にすぎず、現象としての事物の存在の諸条件にすぎない。我々は、これらの概念に対応する直観が与えられうる限りにおいてでなければ、事物の認識のためのいかなる要素も持たない。したがって我々は、いかなる対象についても、それが感性的直観の対象である限り、すなわち現象としてでなければ、物自体としての認識を持つことができない。しかし、まさに同じ対象について、物自体として認識することはできないにせよ、少なくともそれを思考することはできなければならない、という留保はつねに残る。事物を経験の対象として捉える場合と、物自体として捉える場合との区別がまったくなされなかったとすれば、因果性の原則は事物一般をおしなべて無条件に規定することになり、人間の魂について、その意志は自由であると同時に自然必然性に従っている、すなわち自由ではない、と言うことは明白な矛盾に陥ってしまう。しかし対象を現象として、あるいは物自体として捉えることを区別するならば、まさに同じ意志が、現象においては自然法則に必然的に従って自由ではないとされながら、物自体に属するものとしてはその法則に従わず、自由であると考えられても、そこには何ら矛盾は生じない。私は物自体としての私の魂を、いかなる思弁的理性によっても認識することはできないが、それでもなお自由を思考することはできる。道徳は、自由の前提なしには端的に不可能であるはずのアプリオリなデータを、我々の理性のうちに存する実践的な根源的諸原則として挙げる。だが私にとって道徳のために必要なのは、ただ自由が自分自身と矛盾しないこと、すなわち少なくとも思考されうることだけである。
これらの原則を、可能な経験の対象たりえないものに適用するならば、それを実際にはつねに一つの現象へと変えてしまい、純粋理性のあらゆる実践的な拡張を不可能だと宣言してしまうことになる。それゆえ私は、信仰のための場所を得るために、知識を廃棄せねばならなかった。形而上学の独断論、すなわち純粋理性の批判なしにそこで済ませられるという先入見こそが、道徳性に反するあらゆる不信仰の真の源泉である。
批判は、純粋な認識としての理性の独断的な手続きに対立するのではなく、独断論、すなわち理性がその原理にいかにして到達したかを問うことなしに、単なる概念からの純粋な認識でもって済ませようとする僭越さに対立する。批判は、堅実な学としての形而上学を促進するための必要な予備的措置であり、その学は必然的に独断的に、体系的に遂行されねばならない。将来の形而上学の体系においては、諸原理の合法則的な確定、概念の明確な規定、証明の厳密さの追求によって学の確実な歩みを最初に範を示した、あのヴォルフの厳格な方法に従わねばならない。もっともヴォルフは、純粋理性そのものの批判によって、あらかじめその領野を整えておくことを思いつかなかった。
第二版に際して、命題そのもの、およびその論証根拠、構想の形式や完全性について、変更すべき点は見出されなかった。純粋思弁理性はまことの構造体を成しており、そこではすべてが一つのもののために存在し、個々の部分もまたすべてのもののために存在している。それゆえどれほど小さな不備であれ、その使用のうちで必ず露見せざるをえない。叙述の面では、美学(感性論)、とりわけ時間の概念に関する誤解、悟性概念の演繹論の不明瞭さ、純粋悟性の諸原則の証明における不十分な明証性への疑念、そして誤謬推理論への誤解を取り除くための改良が試みられた。この叙述方法に関する変更は、超越論的弁証論の第一主要部の終わりまでにとどまる。
序論 あらゆる認識は経験とともに始まる。感官を刺激し、悟性の働きを動かす対象がなければ、認識能力は何によっても働き始めることができない。しかし、あらゆる認識が経験とともに始まるとしても、そのすべてが経験から生じるわけではない。経験的認識でさえも、印象によって受け取るものと、認識能力が自ら差し出すものとの合成物でありうるからである。したがって、経験から、さらには感覚のあらゆる印象からさえも独立した認識が、そもそも存在するのかどうかが問われる。そうした認識はアプリオリな認識と呼ばれ、その源泉を経験のうちに持つ経験的な認識から区別される。以下では、アプリオリな認識ということで、あらゆる経験からまったく独立に成り立つ認識を理解する。これに対立するのが経験的な認識、すなわちアポステリオリにのみ可能な認識である。アプリオリな認識のうち、経験的なものが何ら混じっていないものを純粋と呼ぶ。「あらゆる変化はその原因を持つ」という命題は、アプリオリではあるが純粋ではない。「変化」という概念が経験からしか引き出しえないからである。
第一節 純粋な認識と経験的な認識の区別について 純粋な認識を経験的な認識から区別する標識は、必然性と厳密な普遍性である。経験は、何かがしかじかのあり方をしていることを教えるが、それが他のようにはありえないということまでは教えない。ある判断がその必然性とともに考えられるならば、それはアプリオリな判断である。経験は判断に真の、厳密な普遍性を与えることは決してなく、比較にとどまる普遍性を与えるにすぎない。ある判断が厳密な普遍性において考えられている場合、その判断は経験から導き出されたものではなく、端的にアプリオリに妥当する。必然性と厳密な普遍性とは、それゆえアプリオリな認識の確実な標識であり、両者は分かちがたく結びついている。
第二節 我々はアプリオリな認識を有すること 数学のあらゆる命題、また「あらゆる変化はその原因を持たねばならない」という命題は、この意味で疑いなくアプリオリである。物体の経験的な概念から、色、硬さ、重さ、不可入性を次々と取り去ってみても、その物体が占めていた空間だけは取り去ることができない。同様に、あらゆる対象についての経験的な概念から性質を取り去っても、それを実体として、あるいは実体に属するものとして考えさせているものだけは取り去ることができない。この概念が押しつけてくる必然性によって、それが認識能力のうちにアプリオリにその座を占めていることが認められる。
第三節 哲学はアプリオリな認識を判定する学を必要とすること ある種の認識は、あらゆる可能な経験の領野そのものを離れ去り、経験のうちには対応する対象が与えられえないような諸概念によって、判断の範囲をその限界を超えてまで拡張しているように見える。この、感性界を超え出た認識のうちにこそ、理性の探究は存する。純粋理性そのものに課せられた避けがたい課題とは、神、自由、そして不死性である。その究極目的がひとえにこれらの課題の解決に向けられている学は、形而上学と呼ばれる。その方法は当初は独断的である。理性の能力あるいは無能力をあらかじめ吟味することなく、自信をもってその遂行を引き受けるのである。
数学的認識は古くから信頼性を保持しており、それによって、経験の範囲を超え出てしまえば経験によって反駁される心配がなくなる別の認識にも、好都合な期待を与えてしまう。理性の力についての証明に勇気づけられて、拡張への衝動は限界を知らない。プラトンは、感性界が悟性にあまりに狭い限界を課すという理由で感性界を後にし、諸イデアの翼に乗って純粋悟性の空虚な空間へと赴いたが、寄りかかる支えを持ち合わせていなかった。思弁における人間理性のありふれた運命とは、できるかぎり早く建物を完成させてしまい、その基礎の吟味はあとになってから行う、というものである。理性の仕事の大部分は、すでに持っている概念の分解から成り立っており、この分析的な手続きが確実な進展を与えるがゆえに、理性は自分でも気づかないまま、与えられた概念にまったく異質なものをアプリオリに付け加えてしまう。
第四節 分析判断と総合判断の区別について あらゆる判断において、述語Bが主語Aという概念のうちに含まれているものとして属しているか、あるいはBが概念Aの外にまったく存するか、のいずれかである。前者の判断を分析的と呼び、後者を総合的と呼ぶ。分析判断(説明判断)は述語によって主語の概念に何も付け加えず、ただその概念を分解によって分かち解くだけである。総合判断(拡張判断)は、主語の概念のうちにはまったく考えられていない述語を付け加える。「すべての物体は延長を持つ」は分析判断である。延長がこの概念と結びついていることを見出すために、物体という概念の外へ出る必要はなく、ただその概念を分解しさえすればよいからである。これに対して「すべての物体は重さを持つ」という判断における述語は、物体という概念のうちで考えているものとはまったく別のものであり、この付加は総合判断を与える。
経験判断はそれ自体としてすべて総合的である。分析判断を経験に基礎づけるのは不合理だからである。アプリオリな総合判断においては、経験の領野を探し回るという手立てがまったく欠けている。「起こることはすべて、その原因を持つ」という命題において、原因という概念は、起こるという概念のまったく外にあり、その表象のうちにはまったく含まれていない。悟性がこの概念をそれに属するものとして認識するに至る根拠、この未知のもの=Xは、経験ではありえない。この原則は、必然性という表現をともなって、まったくアプリオリに、単なる概念だけから、第二の表象を第一の表象に付け加えるからである。思弁的なアプリオリな認識の究極目的の全体は、こうした総合的な、拡張的な原則にこそ懸かっている。
第五節 総合判断が理論的理性の諸学に含まれること 数学的判断はすべて総合的である。数学者たちの推論がすべて矛盾律に従って進むことから、その諸原理もまた矛盾律から認識されるのだと思い込まれてきたが、これは誤りである。本来の数学的命題はつねにアプリオリな判断であって、経験的なものではない。「7+5=12」という命題は、7と5の和という概念から矛盾律に従って導かれる分析的な命題にすぎないと思われるかもしれない。しかし7と5の和という概念は、両方の数を一つの数へと結合すること以上の何ものも含んでおらず、十二という概念はまだ考えられていない。この概念を超え出て、自分の五本の指、あるいは五つの点を助けとして借り、直観のうちに与えられた五の単位を、七の概念へと少しずつ加えていかなければならない。したがって算術の命題はつねに総合的である。純粋幾何学のいかなる原則も、同じく分析的ではない。二点のあいだの最短経路が直線であることは、総合的な命題である。直線という概念は大きさについては何も含まず、ただ質のみを含むからである。
自然科学は、アプリオリな総合判断を原理としてそのうちに含んでいる。物体的世界のあらゆる変化を通じて物質の量は不変に保たれる、という命題、あるいは作用と反作用とはつねに互いに等しい、という命題がそれである。物質という概念のうちで、持続性は考えられておらず、ただ空間を満たすことによる現前が考えられているにすぎないからである。形而上学は、これまでのところ単に試みられたにすぎない学であるとしても、アプリオリな総合的認識を含むべきものである。形而上学にとって肝心なのは、事物についての概念を単に分解し分析的に解明することではなく、アプリオリな認識を拡張することであり、「世界は最初の始まりを持たねばならない」という命題等がそれである。したがって形而上学は、その目的からすれば、もっぱらアプリオリな総合命題から成り立っている。
第六節 純粋理性の一般的課題 純粋理性の本来の課題は、次の問いのうちに含まれている。すなわち、アプリオリな総合判断はいかにして可能か、という問いである。形而上学がこれまで不安定な不確実性と矛盾の状態にとどまってきたのは、この課題が、分析判断と総合判断の区別そのものとともに、それより早く思い浮かべられることがなかった、という原因に帰せられる。あらゆる哲学者のうちで、この課題にもっとも肉薄したのはヒュームであったが、彼はそれを因果性の原理という一つの総合的命題にとどめ、そのような命題はアプリオリにはまったく不可能であると結論づけた。しかし彼がこの課題をその一般性において見据えていたならば、自分の議論に従えば純粋数学もまた存在しえないことになる、と気づいたはずである。純粋数学は確実にアプリオリな総合命題を含んでいるからである。
上記の課題の解決には、純粋数学はいかにして可能か、純粋自然科学はいかにして可能か、という問いへの答えも同時に含まれている。これらの学問については、それらが現実に与えられている以上、それらがいかにして可能であるかを問うことがふさわしい。しかし形而上学に関しては、その本質的な目的について、これまで提示されてきたもののうちどれ一つとして現実に存在するとは言えないことからして、誰もがその可能性を根拠をもって疑うことになる。もっとも形而上学は、学としてではないにせよ、自然の素質としては現実に存在している。人間理性は、自らの内的な必要に駆られて、経験的使用によっては答えることのできない問いにまで進んでいくからである。それゆえ、自然の素質としての形而上学はいかにして可能か、という問いが立てられる。しかしこの種の自然な問いに答えようとするこれまでのあらゆる試みにおいて、つねに避けがたい矛盾が見出されてきた以上、この能力によって、対象についての知あるいは不知のいずれかへ決着をつけることができなければならない。この最後の問いは、正当にも次のようなものとなる。すなわち、学としての形而上学はいかにして可能か、という問いである。したがって理性の批判は、最終的に必然的に学へと導く。これに対し、批判を欠いた理性の独断的な使用は根拠のない主張へと導き、それに対しては同じだけ見かけの説得力を持つ主張を対置することができ、それゆえ懐疑論へと導く。
第七節 純粋理性批判という特別な学の理念と区分 このことだけからすでに、純粋理性の批判と呼びうる、一つの特別な学の理念が生じる。理性とは、アプリオリな認識の諸原理を提供する能力である。純粋理性そのもの、その源泉と限界とを、ただ吟味するだけの学を、純粋理性の体系への予備学と見なすことができる。そうした学は教説ではなく、ただ純粋理性の批判とのみ呼ばれるべきものであり、その効用は思弁に関してはただ消極的なものにすぎず、理性を拡張するのではなく、ただ純化するのに役立ち、理性を誤謬から守るにすぎない。対象一般についての認識の仕方に、それがアプリオリに可能であるべき限りで携わる認識を、すべて超越論的と呼ぶ。この探究が目的とするのは、認識そのものの拡張ではなく、ただその是正にすぎず、あらゆるアプリオリな認識の価値あるいは無価値を判定する試金石を提供することにある。この探究は、書物や諸体系の批判ではなく、純粋理性の能力そのものの批判である。
超越論的哲学とは一つの学の理念であり、この理念のために純粋理性の批判が、この建物を構成するあらゆる部分の完全性と確実性を全面的に保証しつつ、その全体構想を建築術的に設計すべきものである。したがって、超越論的哲学を構成するものはすべて、純粋理性の批判に属する。この学を区分するにあたってもっとも肝要な留意点は、いかなる経験的なものをも含む概念が入り込んではならないということである。道徳性の最高の諸原則は、アプリオリな認識ではあるが、超越論的哲学には属さない。快と不快、欲望や性向等の経験的な由来を持つ概念が、義務という概念のうちに組み込まれざるをえないからである。それゆえ超越論的哲学は、ひとえに思弁的な純粋理性の哲学である。この学の区分を体系一般という観点から行うならば、この学は第一に純粋理性の要素論を、第二にその方法論を含んでいなければならない。人間の認識には二つの幹があり、それらはおそらく我々には未知の一つの共通の根から生じているのであろう。すなわち感性と悟性であり、前者によって対象が与えられ、後者によってそれが思考される。感性が、対象が与えられる際の諸条件をなすようなアプリオリな諸表象を含むとするならば、それは超越論的哲学に属することになる。超越論的感性論は、要素論の第一部をなすことになる。人間の認識の対象がそもそも与えられうる条件は、それが思考される条件に先立つからである。
第一部 超越論的要素論 我々のあらゆる認識は、心の二つの根本源泉、すなわち表象を受け取る感性の能力と、これらの表象を通じて対象を認識する悟性の能力とから生じる。超越論的要素論は、この二つの源泉のそれぞれに宿るアプリオリな認識の要素を、感性論と論理学とに分けて解明する。超越論的感性論は、空間と時間という感性のアプリオリな形式を扱い、超越論的論理学はさらに、真理の論理学としての分析論(純粋悟性概念とその原則の体系)と、仮象の論理学としての弁証論(純粋理性の理念とその弁証的推論の批判)とに分かれる。
第一部門 超越論的感性論 あらゆる仕方・あらゆる手段によってであれ、認識が対象に関わるとしても、対象に直接に関わり、あらゆる思考がその手段として目指しているものは、直観である。しかし直観が成り立つのは、対象が我々に与えられる限りにおいてのみであり、対象が与えられるということ自体、対象が心を一定の仕方で触発することによってのみ可能である。我々が対象によって触発されるその仕方によって、諸表象を受け取る能力を、感性と呼ぶ。感性を介して対象は我々に与えられ、感性のみが我々に直観を与える。これに対して対象は悟性によって思考され、悟性から諸概念が生じる。
対象によって触発される限りにおいて対象が表象能力に及ぼす作用は、感覚である。感覚を介して対象に関わる直観は、経験的直観と呼ばれる。経験的直観の、いまだ規定されていない対象は、現象と呼ばれる。現象のうち、感覚に対応するものを現象の質料と呼び、現象の多様なものが一定の関係のうちに秩序づけられうることを可能にするものを、現象の形式と呼ぶ。あらゆる現象の質料はアポステリオリにのみ与えられるが、その形式は、あらかじめ心のうちにアプリオリに用意されていなければならず、あらゆる感覚から切り離して考察することができる。感覚に属するいかなるものも見出されない表象を、純粋と呼ぶ。したがって、感性的直観一般の純粋な形式は、心のうちにアプリオリに見出されるはずであり、この純粋な形式それ自体もまた純粋直観と呼ばれる。物体の表象から、実体・力・可分性等と、不可入性・硬さ・色等とを取り去るならば、なお延長と形とが残る。これらは純粋直観に属する。感性のあらゆるアプリオリな諸原理についての学を、超越論的感性論と呼ぶ。超越論的感性論において、まず感性を孤立させ、経験的直観以外の何ものも残らないようにし、次にこの経験的直観から感覚に属するものをすべて取り去り、純粋直観と、現象の単なる形式以外の何ものも残らないようにする。この探究にあたって、感性的直観の純粋な形式は、アプリオリな認識の諸原理として二つ存在することが判明する。空間と時間である。
第一節 空間について 外官を介して、我々は対象を我々の外にあるものとして表象し、これらすべてを空間のうちに表象する。内官は、それを介して心が自分自身、あるいは自らの内的状態を直観するものであるが、内的規定に属するものはすべて、時間の関係のうちに表象される。空間と時間とは何であろうか。それらは現実の存在者であろうか。それとも、事物自体に属するはずのものであろうか。あるいは、直観の形式にのみ、我々の心の主観的なあり方にのみ付着するものであろうか。この点を明らかにするために、まず空間の概念を究明する。
§2 この概念の形而上学的究明 空間は、外的経験から抽き出された経験的概念ではない。ある種の感覚を、私の外にある何かに関係づけるためには、空間の表象があらかじめ根底になければならない。したがって、外的経験そのものが、まさにこの表象によってはじめて可能になる。空間は、あらゆる外的直観の根底にある、必然的でアプリオリな表象である。空間が存在しない、という表象を我々は決して作ることができないが、空間のうちに対象が何ら見出されない、ということは十分に考えることができる。したがって空間は、現象の可能性の条件として見なされねばならない。空間は、論証的な概念ではなく、純粋直観である。我々はただ一つの空間しか表象することができず、多くの空間について語る場合も、それによって理解しているのは、ただ一つの同じ空間の諸部分にすぎない。空間は本質的に唯一であり、ここから、経験的ではないアプリオリな直観が、空間についてのあらゆる概念の根底にある、ということが帰結する。空間は、無限に与えられた大きさとして表象される。いかなる概念も、無限に多くの表象を自らのうちに含んでいるかのようには考えられえないが、空間はまさにそのように考えられている。したがって、空間の根源的な表象はアプリオリな直観であって、概念ではない。
§3 空間の概念の超越論的究明 超越論的究明とは、ある概念を、そこから他の総合的アプリオリな認識の可能性が理解されうる一つの原理として説明することである。幾何学は、空間の性質を総合的に、しかもアプリオリに規定する学である。空間の表象は、根源的に直観でなければならない。単なる概念からは、その概念を超え出るような命題を引き出すことはできないが、幾何学ではまさにそれが行われているからである。しかもこの直観は、対象のいかなる知覚にも先立って我々のうちに見出されなければならず、純粋な直観でなければならない。対象そのものに先立ち、そのうちで対象の概念がアプリオリに規定されうるような外的直観が心のうちに宿りうるのは、その直観が、対象によって触発される際の主観の形式的なあり方として、外官の形式一般としてのみ可能である、と考える以外にない。したがって、幾何学が総合的アプリオリな認識として可能であることを理解可能にするのは、ひとえにこの説明のみである。
上記の概念からの帰結 一、空間は、事物自体のいかなる性質も、事物相互の関係も表しはしない。対象そのものに付着し、直観のあらゆる主観的条件を捨象してもなお残るはずの規定を、まったく表さないからである。二、空間は、外官のあらゆる現象の形式にほかならない。すなわち、外的直観がそれによってのみ可能となる、感性の主観的条件である。したがって我々が空間について語りうるのは、ただ人間という立場からのみである。対象によって触発されるままに外的直観をそもそも得ることができる、その主観的条件から離れてしまうならば、空間の表象はまったく何も意味しなくなる。この述語が事物に帰属させられるのは、それらが我々に現れる限りにおいて、すなわち感性の対象である限りにおいてのみである。したがって、我々は、あらゆる可能な外的経験に関する空間の経験的実在性を主張するが、同時にまた、その超越論的観念性をも主張する。あらゆる経験の可能性の条件を度外視し、空間を事物自体の根底にあるものとして想定するならば、空間はたちどころに無に帰する。空間のうちで直観されるものはいかなるものも事物自体ではなく、空間もまた、事物自体にそもそも固有な形式ではない。我々には対象自体はまったく知られておらず、我々が外的対象と呼ぶものは、我々の感性の単なる表象にほかならず、その形式が空間である。しかしその真の相関者、すなわち事物自体は、これによっては認識されないし、認識されえない。
第二節 時間について 時間は、何らかの経験から抽き出された経験的概念ではない。同時存在や継起そのものが、時間の表象があらかじめアプリオリに根底になければ、知覚のうちに現れることはないからである。時間は、あらゆる直観の根底にある必然的な表象である。現象一般に関して、時間そのものを取り去ることはできないが、現象の方を時間から取り去ることは十分にできる。したがって時間はアプリオリに与えられている。このアプリオリな必然性のうちに、時間一般についての公理の可能性も基づいている。時間はただ一つの次元しかもたない。異なる時は同時にではなく相前後して存在する。これらの原則は経験から引き出すことはできない。時間は、論証的な概念ではなく、感性的直観の純粋な形式である。異なる時は、ひとえに同じ一つの時の諸部分にすぎない。時間の無限性が意味するのは、時間のあらゆる規定された大きさが、根底にあるただ一つの時間を限定することによってのみ可能である、ということにほかならない。
§4 時間の概念の形而上学的究明 変化という概念、そしてそれとともに運動という概念は、時間の表象を通じて、かつそのうちでのみ可能である。同一の対象における矛盾対立する述語の結合の可能性、すなわち変化の可能性が理解可能になるのは、この表象がアプリオリな内的直観である場合に限られる。矛盾対立する両規定が一つの物のうちに、相前後して見出されうるのは、時間においてのみである。
§5 時間の概念の超越論的究明 時間は、それ自体で存立するもの、あるいは事物に客観的な規定として付着するものではない。時間は、あらゆる直観が我々のうちで生じうるための主観的条件にほかならない。時間は、内官の形式、すなわち我々自身とその内的状態とを直観する働きの形式である。時間は外的現象の規定ではありえず、我々の内的状態における諸表象の関係を規定する。時間は、あらゆる現象一般のアプリオリな形式的条件である。空間があらゆる外的直観の純粋な形式として外的現象にのみ限定されているのに対し、時間は、あらゆる表象が心の規定として内的状態に属する以上、内的現象の直接的な条件であり、そのことによって間接的に外的現象の条件でもある。
§6 これらの概念からの帰結 事物をそれ自体としてありうるままに捉えるならば、時間は無に等しい。時間が客観的な妥当性をもつのは、現象に関してのみである。したがって我々の主張が教えるのは、時間の経験的実在性である。これに対して時間が絶対的実在性を要求することはいっさい認められない。ここに、時間の超越論的観念性が成り立つ。感性的直観の主観的条件を捨象するならば、時間はまったくの無であり、事物自体に帰属させることはできない。
§7 説明 変化は現実的である。変化は時間においてのみ可能である。したがって時間は何か現実的なものである、という異論がありうる。この論証全体は認められる。時間はたしかに何か現実的なものである。すなわち、内的直観の現実の形式である。時間は、対象としてではなく、対象としての私自身を表象する仕方として、現実に見なされるべきものである。時間から我々の感性のこの特殊な条件を取り去るならば、時間という概念もまた消え去り、時間は対象そのものにではなく、それを直観する主観にのみ付着する。したがって時間と空間とは、そこからアプリオリにさまざまな総合的認識が汲み取られうる二つの認識源泉であるが、これらは対象が現象として考察される限りにおいてのみ対象に関わるのであって、事物自体を表すものではない。最後に、超越論的感性論が空間と時間というこの二つの要素以外を含みえないことは、感性に属する他のあらゆる概念、たとえば運動や変化の概念でさえも、何か経験的なものを前提していることから明らかである。
§8 超越論的感性論への一般的注記 我々のあらゆる直観は現象の表象にほかならない。我々が直観する事物は、それ自体ではなく、我々が我々の主観を取り去るならば、対象のあらゆる性状、空間と時間における対象のあらゆる関係、いや空間と時間そのものまでもが消え去り、これらは現象としては、ひとえに我々のうちにおいてのみ存在しうる。対象自体が、我々の感性のこの受容性のすべてから切り離されて、どのようなあり方をしているのかは、我々にはまったく知られないままである。したがって、我々の感性の全体が、事物自体に帰属するものだけを含みながら、それを我々が意識的には区別しない徴表と部分表象との積み重ねのもとでのみ含む、事物についての混乱した表象にすぎない、と考えることは、感性および現象という概念の歪曲である。ライプニッツ゠ヴォルフ学派の哲学は、感性と知性との区別を単に論理的なものとみなしたが、この区別は明らかに超越論的なものであって、認識の起源と内容そのものに関わる。日照り雨における虹を単なる現象と呼び、この雨そのものは事物自体である、と言うとき、この経験的なものを一般的に取り上げてこれもまた対象自体を表象しているのかどうかを問うならば、この問いは超越論的なものとなる。そしてこの場合、雨粒だけでなく、その丸い形も、雨粒が落ちてくる空間さえも、それ自体としては何ものでもなく、超越論的な対象は我々には知られないままである。
空間と時間はそれ自体として客観的であり、事物自体の可能性の条件である、と想定してみよう。幾何学の諸命題は、総合的アプリオリに、実然的な確実性をもって認識される。このような命題は、概念によるか直観によるかのほかに道はなく、単なる概念からは総合的認識はまったく得られない。したがって諸君は、自らの対象をアプリオリに直観のうちに与え、この対象のうえに総合命題を基礎づけなければならない。もし空間が、諸君の直観の単なる形式でないとしたら、諸君は外的対象について、アプリオリにはまったく何も総合的に確定することができないであろう。したがって、空間と時間とが、あらゆる経験の必然的条件として、我々のあらゆる直観の単なる主観的条件にほかならないということ、そしてそれゆえに、あらゆる対象はこれらとの関係においては単なる現象にすぎず、この仕方でそれ自体として与えられている事物ではないということ、これらは疑いなく確実なのである。
我々の認識のうちで直観に属するものはすべて、単なる諸関係しか含まない。単なる諸関係によっては、事物自体は認識されない。内的直観についても、事情はまったく同様である。時間はすでに、継起の関係、同時存在の関係、持続するものの関係を含んでいる。したがって、内官の対象である主観は、内官によっては単なる現象としてしか表象されえない。自己自身の意識(統覚)は、我という単純な表象である。人間においては、この意識は、主観のうちにあらかじめ与えられている多様なものについての内的知覚を必要とし、この多様なものが自発性なしに心のうちに与えられるそのあり方は、感性と呼ばれなければならない。心は、みずから直接に自発的に表象するであろうそのあり方によってではなく、内側から触発される仕方に従って、すなわち、それがあるところのままにではなく、それが現れるままに、自分自身を直観するのである。
空間と時間においては、外的対象の直観であれ、心の自己直観であれ、そのいずれもが、それが現れる通りに表象される、と言うとき、これは、これらの対象が単なる仮象である、と言おうとしているのではない。現象においては、対象そのものも、我々がそれに帰する性状すらも、つねに現実に与えられたものとみなされる。ただ、その性状が、主観の直観の仕方にのみ依存する限りにおいて、この対象は、現象としては、それ自体としての対象そのものから区別される、というだけのことである。むしろ、これらの表象形式に客観的実在性を帰属させるならば、それによってすべてが単なる仮象へと転じてしまうことを避けられなくなる。そうであれば、善良なバークリーが物体を単なる仮象へと引き下げたことも、あながち非難できないであろう。自然神学においては、対象についてのあらゆる直観から、時間と空間の条件を取り除くことに、周到な注意が払われている。時間と空間を、あらゆる事物の客観的形式にしようとしないのであれば、残された道は、それらを我々の外的および内的直観のあり方の主観的形式にすることしかない。
超越論的感性論の結び ここに我々は、超越論哲学の一般的課題、すなわち「総合的アプリオリな命題はいかにして可能であるか」という問いを解決するために必要な構成要素の一つを得たことになる。それは、アプリオリな純粋直観、すなわち空間と時間である。我々がアプリオリな判断において、与えられた概念を超え出ようとするとき、この空間と時間のうちにおいて、概念のうちにはないが、それに対応する直観のうちにはアプリオリに見出され、その概念と総合的に結合されうるものを見出す。しかしこの理由により、こうした判断は、決して感覚の対象を超え出ることはできず、ただ可能な経験の対象についてのみ妥当しうる。
第二部門 超越論的論理学 我々の認識は、心の二つの根本源泉から生じる。第一は、諸表象を受け取る能力(印象の受容性)であり、第二は、これらの表象を通じて対象を認識する能力(概念の自発性)である。直観と概念とが、我々のあらゆる認識の要素をなす。内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である。感性一般の諸規則についての学、すなわち感性論を、悟性一般の諸規則についての学、すなわち論理学から区別しなければならない。
一 論理学一般について 一般論理学は、悟性の一般的使用の論理学と、特殊な使用の論理学とに分かれる。前者は要素論理学と呼ぶことができ、後者はこの学あるいはあの学のオルガノンと呼ぶことができる。一般論理学はさらに、純粋論理学と応用論理学とに分かれる。純粋論理学は、悟性が働かされる際のあらゆる経験的条件を捨象し、もっぱらアプリオリな諸原理にのみ関わる、悟性と理性とのカノンである。これに対して応用論理学は、心理学が教える主観的・経験的条件のもとでの悟性使用の諸規則へと向けられており、ただ通常の悟性のカタルティコンにすぎない。したがって純粋な理性教説をなすべき部分は、応用論理学をなす部分から完全に分離しなければならない。
二 超越論的論理学について 一般論理学は、認識のあらゆる内容を捨象し、思考一般の形式のみを考察する。しかし、純粋な直観と経験的な直観との両方が存在する以上、対象についての純粋な思考と経験的な思考との間にも違いが見出されうる。あらゆるアプリオリな認識が超越論的と呼ばれるのではなく、ある種の表象がまったくアプリオリに適用される、あるいは可能であるということ、そしてそのいかにを我々が認識する、その認識のみが超越論的と呼ばれなければならない。そこで、経験的起源でもなければ感性論的起源でもないような概念によって、対象をアプリオリに思考するような、純粋な悟性と理性認識の学の理念を立てておく。そのような認識の起源・範囲・客観的妥当性を規定するような学は、超越論的論理学と呼ばれなければならない。
三 一般論理学の分析論と弁証論への区分について 真理とは認識とその対象との一致である。真理の普遍的な基準とは、対象の違いにかかわりなく、あらゆる認識について妥当するようなものであろう。しかし、そのような基準においては、認識のあらゆる内容が捨象されており、真理とはまさにこの内容に関わるものである以上、質料の面から見た認識の真理について、いかなる普遍的な標識も要求することはできない。単に形式の面から見た認識に関して言えば、論理学は、悟性の普遍的かつ必然的な諸規則のうちに真理の基準を示さなければならない。しかしこの基準は、真理の消極的条件にすぎず、論理学は形式にではなく内容に関わる誤りを、いかなる試金石によっても発見することができない。一般論理学は、悟性と理性のあらゆる形式的な働きをその諸要素へと分解し、これらを認識のあらゆる論理的判定の諸原理として提示する。論理学のこの部分は分析論と呼ぶことができ、少なくとも消極的な真理の試金石である。思い込まれたオルガノンとしての一般論理学は、弁証論と呼ばれる。一般論理学は、オルガノンとみなされる限り、つねに仮象の論理学、すなわち弁証論的なものである。それゆえ人々は、弁証論というこの呼称を、むしろ弁証論的仮象の批判として論理学に数え入れることを好んできた。
四 超越論的論理学の超越論的分析論と弁証論への区分について 超越論的論理学においては、悟性を孤立させ、認識のうちから、もっぱら悟性にその起源をもつ思考の部分のみを取り出す。この純粋な認識の使用は、それが適用されうる対象が直観のうちで与えられている、ということを、その条件として前提している。純粋な悟性認識の諸要素と、それなくしてはいかなる対象もおよそ思考されえないような諸原理とを提示する、超越論的論理学のこの部分が、超越論的分析論であり、それは同時に真理の論理学である。しかし、これらの純粋な悟性認識と諸原則だけを頼りにし、経験の限界を超えてまで用いることは、非常に人を誘惑し誤らせるものである。それは本来、経験的使用を判定するためのカノンにすぎないはずであるのに、これを普遍的かつ無制限な使用のためのオルガノンとして通用させるならば、その使用は弁証論的であることになる。超越論的論理学の第二部門は、この弁証論的仮象の批判でなければならず、超越論的弁証論と呼ばれる。それは、根拠なき僭越さの誤った仮象を暴き、悟性と理性が超越論的諸原則だけによって達成しようと思い込んでいる発見と拡張への要求を、詭弁的な欺瞞から純粋悟性を守るための、単なる判定と防御へと引き下げるためのものである。
第一区分 超越論的分析論 この分析論は、我々のあらゆるアプリオリな認識を、純粋な悟性認識の諸要素へと分解する作業である。重要となるのは、これらの概念が経験的な概念ではなく純粋な概念であること、直観や感性にではなく思考と悟性とに属すること、要素的な概念であって派生的な概念から区別されること、そしてその一覧が完全であり、純粋悟性の全領野を余すところなく満たしていることである。この種の完全性は、試行によって作り上げられた寄せ集めの見積もりによっては確実に前提できず、悟性認識全体についてのアプリオリな理念から、そしてそこから規定される諸概念の体系的連関からのみ可能である。この部門全体は、純粋悟性の概念を扱う巻と、その原則を扱う巻との、二つの巻から成る。
第一巻 概念の分析論 概念の分析論とは、すでに与えられている概念をその内容に即して分解し明晰にするという通常の手続きを意味するのではなく、いまだほとんど試みられたことのない、悟性能力そのものの分解を意味する。純粋な諸概念を、それらが人間の悟性のうちで準備されている最初の萌芽と素質にまで遡って追跡し、それらが経験の機会に展開され、経験的な諸条件から解き放たれてその純粋な姿において示されるに至るまでをたどる、これこそが超越論哲学に固有の仕事である。
第一章 純粋悟性概念発見のための手引き 純粋悟性概念を、機会に応じてその都度見出されるままに集めていくならば、その一覧がいつ完成したかを確実に定めることはできず、諸概念はいかなる秩序のもとにも配列されない。超越論哲学は、その概念を一つの原理から探し求める利点と義務とをあわせもつ。これらの概念は絶対的統一体としての悟性から純粋に生じる以上、一つの理念のもとで相互に連関していなければならず、この連関こそが、それぞれの概念に位置を、全体に完全性を、アプリオリに規定する規則を与える。
第一節 悟性の論理的使用一般について 悟性は、感性から独立にはいかなる直観にもあずかることができない以上、直観の能力ではなく、概念による認識、すなわち論証的な認識の能力である。直観が触発にもとづくのに対し、概念は、さまざまな表象を一つの共通の表象のもとに秩序づける機能、すなわち思考の自発性にもとづく。ところで概念は、それによって判断するという使用のほかに、いかなる使用ももたない。判断とは対象の間接的な認識であり、対象についてのある表象のさらなる表象である。したがって悟性のあらゆる働きは判断へと還元することができ、悟性一般は判断する能力として表象されうる。判断における統一の諸機能をあまさず示すことができれば、悟性のあらゆる機能もまた見出されることになる。
第2節 判断のあらゆる論理的機能を、量・質・関係・様相という四つの項目のもとに一覧する。
§9 判断における悟性の論理的機能について ある判断一般の内容をすべて捨象し、そこに残る単なる悟性の形式にのみ注意を向けるならば、思考の機能は四つの項目のもとに整理され、そのそれぞれが三つの契機を自らのもとに含んでいることが見出される。すなわち、量においては全称的・特称的・単称的、質においては肯定的・否定的・無限的、関係においては定言的・仮言的・選言的、様相においては蓋然的・実然的・必然的という、四項目十二契機の判断表が成り立つ。
この区分は論理学者の慣用からいくらか逸脱する。単称判断は、外延をまったくもたないがゆえに、推理式における使用に際しては全称判断と同様に扱いうるが、一般妥当的な判断と認識としての大きさにおいて比較するならば、単位が無限に対するのと同じ関係に立ち、本質的に異なる。したがって思考のあらゆる契機についての完全な表においては、単称判断は独自の位置に値する。
同様に、無限判断も肯定判断から区別されなければならない。一般論理学は述語の内容を捨象し、それが主語に付与されるか対立させられるかにのみ注意するため、無限判断を肯定判断のうちに数え入れて済ませる。しかし超越論的論理学は、この論理的な肯定が単に否定的な述語を介して行われる場合、それが認識全体にもたらす利得にも注意を払う。「魂は可死的でない」という判断は、論理的形式としては肯定でありながら、可死的なものを除いた無限の領域のうちに魂を置くにすぎず、その概念をいささかも増大させることはない。この機能は、アプリオリな純粋認識の領野において重要でありうるがゆえに、超越論的な表において見過ごされてはならない。
判断における思考の関係は、述語の主語に対する関係(定言的)、根拠の帰結に対する関係(仮言的)、区分された認識とその諸項相互の関係(選言的)のいずれかである。選言的判断は、複数の命題が互いに排除し合いながらも、合わさって一つの認識の全領分を満たすという共同性の関係を含む。
判断の様相は、判断の内容には何も付け加えず、ただ思考一般との関係におけるコプラの価値にのみ関わる特殊な機能である。蓋然的判断は肯定または否定を単に可能なものとして想定し、実然的判断はそれを現実的なものとみなし、必然的判断はそれを必然的なものとみなす。あるものをまず蓋然的に判断し、次にそれを実然的に真として受け入れ、最後にそれを悟性と不可分に結びついたものとみなすというように、あらゆることが段階的に悟性へと組み込まれていく。
第3節 前節で示した判断の論理的機能の一覧から、同数・同構造の純粋悟性概念、すなわちカテゴリーの表を導き出す。
§10 純粋悟性概念、すなわちカテゴリーについて 一般論理学は認識の内容をすべて捨象し、表象がどこか他所から与えられることを期待したうえで、それを分析的に概念へと変える。これに対して超越論的論理学は、超越論的感性論が提供する感性のアプリオリな多様なもの、すなわち空間と時間における純粋直観の多様なものを、あらかじめ自らの前に有している。この多様なものが一つの認識を作り出すためには、まず何らかの仕方で通覧され、受け取られ、結合されなければならない。この働きを綜合と呼ぶ。
綜合とは、さまざまな表象を互いに付け加え合わせ、その多様性を一つの認識のうちに包摂する働きであり、多様なものがアプリオリに与えられている場合には純粋である。綜合一般は構想力の盲目的な機能にすぎないが、この綜合を概念にもたらすことは悟性に属する機能であり、これによってはじめて本来の意味での認識がもたらされる。純粋な綜合を一般的に表象すると、純粋悟性概念が得られる。
一つの判断においてさまざまな表象に統一を与えるのと同じ機能が、一つの直観におけるさまざまな表象の綜合にも統一を与える。したがって同じ悟性が、判断の論理的形式をもたらしたのと同じ働きによって、今度は直観一般における多様なものの総合的統一を介して、自らの諸表象のうちに超越論的な内容をもたらす。このようにして生じる純粋悟性概念は、判断表にあった論理的機能とちょうど同じ数だけ存在する。これをアリストテレスにならってカテゴリーと呼ぶ。すなわち、量においては単一性・数多性・全体性、質においては実在性・否定性・制限性、関係においては実体と偶有性・原因と結果・相互作用、様相においては可能性と不可能性・存在と非存在・必然性と偶然性という、四項目十二個のカテゴリー表が成り立つ。
この区分は判断する能力という一つの共通の原理から体系的に生み出されたものであり、行き当たりばったりに探し求められたのではない。アリストテレスは原理をもたなかったため、目についたカテゴリーをかき集めて十個を見出し、のちにさらに五個を付け加えたが、その表にはなお純粋な感性の様態や経験的なものまでもが混入しており、根源的概念のうちに派生的な概念が数え入れられている一方で、欠けているものもある。
§11 このカテゴリー表は、悟性のあらゆる要素概念を体系の形式ごと含んでいるがゆえに、企てられた思弁的な学のあらゆる契機とその秩序とに対して指針を与える。第一の注記として、この表は、直観の対象に向けられた数学的カテゴリー(量・質)の類と、対象の存在に向けられた力学的カテゴリー(関係・様相)の類とに分かれる。第一の類は、第二の類にのみ見出されるような相関者をもたない。
第二の注記として、いずれの類においてもカテゴリーの数はひとしく三つであり、しかもいずれにおいても第三のカテゴリーは、第二のカテゴリーと第一のカテゴリーとの結合から生じている。全体性は数多性を単一性として見たものにほかならず、制限性は実在性が否定性と結びついたものであり、相互性はある実体が他の実体を規定する原因性であり、必然性は可能性そのものによって与えられる存在にほかならない。しかしこの結合には悟性の特別な働きが必要であるから、第三のカテゴリーもまた根源的概念である。
第三の注記として、相互性のカテゴリーと選言判断の形式との一致は他のカテゴリーの場合ほど目につきにくいが、選言判断の諸項が互いに排除し合いながらも一つの領分のうちで対等に結びついているのと同じ仕方で、ある事物の諸部分もまた、互いに独立に存在しながら一つの全体のうちで相互に規定し合うものとして考えられる。
§12 古人の超越論哲学には、なおもう一つ、カテゴリーには数え入れられない純粋悟性概念の一章があった。「あらゆる存在するものは、一であり、真であり、善である」という命題がそれである。事物についてのこれらの述語は、事物についてのあらゆる認識一般に関する論理的要件にほかならず、その根底には量のカテゴリー、すなわち単一性・数多性・全体性が置かれている。ある対象についてのあらゆる認識のうちには、諸認識の多様なものを一つにまとめる概念の統一(質的統一)があり、与えられた概念から引き出される帰結の真理性(質的な数多性)があり、そしてこの数多性が合わさって概念の統一へと立ち返る完全性(質的完全性)がある。これらは、量についての三つのカテゴリーを、認識の質を通じて姿を変えて用いているにすぎない。
第二章 純粋悟性概念の演繹について 第一章で見出されたカテゴリーが、単に思考のうちで恣意的に用いられる概念にすぎないのか、それとも実際に対象について何かを認識するための客観的妥当性をもつ概念であるのかを証明する。
第1節 演繹とは、法律用語になぞらえて言えば、ある概念を用いる権利(quid juris)を、単なる事実にかかわる問い(quid facti)から区別して明らかにする手続きである。経験的概念とは異なり、経験に先立つカテゴリーについては、この権利の証明が特に必要とされる。
§13 超越論的演繹一般の諸原理について 純粋にアプリオリな使用へと定められた概念には、つねに演繹が必要である。経験からの証明だけでは足りず、これらの概念が、経験からはまったく取り出されえない対象にいかにして関係しうるのかを知らなければならないからである。概念がいかにしてアプリオリに対象へと関係しうるか、その説明を超越論的演繹と呼び、ある概念が経験を通じていかにして獲得されたかを示すにすぎない経験的演繹から区別する。空間・時間の概念とカテゴリーとは、ともに完全にアプリオリに対象へと関係する点で一致しており、したがってこれらについて必要な演繹は、つねに超越論的なものでなければならない。
空間と時間については、感性的直観の純粋な形式を介してのみ対象が現れうる以上、その客観的妥当性はすでに示された。しかしカテゴリーは、対象が直観のうちで与えられるための条件を少しも表象するものではなく、悟性の諸機能なしでも現象は直観のうちに与えられうる。したがって、思考の主観的な諸条件が、いかにして対象のあらゆる認識の可能性の条件という客観的妥当性をもつべきか、という固有の困難がここに生じる。原因という概念のように、ある規則に従って一つのものから他のものが必然的に帰結するということは、経験のうちに繰り返し見出される規則性からは決して得られない。経験は比較的な普遍性しか与えないからである。純粋悟性概念を単なる経験的産物として扱おうとするならば、その使用はまったく変わってしまうことになる。
§14 カテゴリーの超越論的演繹への移行 総合的表象とその対象とが一致しうるのは、対象が表象を可能にするか、表象が対象を可能にするかの、二つの場合のみである。後者の場合、対象の認識が可能であるための条件は、対象が現象として与えられる直観と、それに対応する対象が思考される概念との二つである。感性の形式的条件はアプリオリに心のうちにあるため、あらゆる現象はこれと必然的に一致する。そこで問題となるのは、アプリオリな概念もまた、対象一般が思考されるための条件として先行しているのではないか、ということである。もしそうであれば、対象についてのあらゆる経験的認識は必然的にこの概念に適合することになる。したがって、あらゆるアプリオリな概念の超越論的演繹は、それらが経験の可能性のアプリオリな条件として認識されなければならないという、一つの原理をもつ。ロックはこの考察を欠いたためカテゴリーを経験から導出し、ヒュームはアプリオリな起源の必要を認識しながらも、それがいかにして可能かを説明できず、結局これらの概念を習慣から導出した。しかし両者の経験的導出は、純粋数学と一般自然科学というアプリオリな認識の現実性と両立しない。
カテゴリーとは、対象一般についての概念であり、これによって、その対象の直観が判断における論理的機能のうちの一つに関して規定されたものとみなされる。たとえば実体というカテゴリーのもとに物体という概念を包摂するならば、その経験的直観は経験においてつねに主語としてのみ考察されなければならず、決して単なる述語としては考察されないことが規定される。
第二節 純粋悟性概念の超越論的演繹 統覚の根源的・総合的統一から出発し、カテゴリーが経験のあらゆる対象に必然的に妥当することを証明する。
§15 結合一般の可能性について あらゆる結合(コンユンクティオ)は、感覚を通じて我々のうちに入ってくることはできず、感性的直観の純粋な形式のうちに含まれていることもできない。結合とは表象力の自発性の働きであり、それゆえ悟性と呼ばれなければならない。あらゆる結合は、それが直観の多様なものの結合であれ概念の結合であれ、すべて悟性の働きである。これに綜合という一般的な呼び名を与える。我々が対象のうちで結合されたものとして表象しうるものは、我々自身があらかじめそれを結合していたのでない限り、何一つない。
結合という概念は、多様なものとその綜合という概念のほかに、さらにその統一という概念をも伴っている。結合とは、多様なものの総合的統一の表象である。この統一の表象は結合から生じるのではなく、むしろこの統一の表象が多様なものの表象に付け加わることによって、結合という概念そのものがはじめて可能になる。この統一は、あらゆるカテゴリーがすでに前提しているものであるから、判断におけるさまざまな概念の統一の、したがって悟性の可能性そのものの根拠を、それ自体のうちに含むもののうちに求めなければならない。
§16 統覚の根源的・総合的統一について 「私は考える」は、私のあらゆる表象に伴うことができなければならない。そうでなければ、まったく考えられえない何かが私のうちに表象されることになり、これはその表象が私にとって無に等しいというのと同じことである。この表象は自発性の働きであり、感性に属するとはみなせない。私はこれを純粋統覚、あるいは根源的統覚と呼ぶ。この統覚の統一を、自己意識の超越論的統一とも呼ぶ。直観のうちで与えられる多様な諸表象は、それらがすべて一つの自己意識に属していないならば、すべてが私の表象であることにはならない。
直観のうちで与えられた多様なものについての統覚のこの同一性は、諸表象の綜合の意識によってのみ可能である。私が与えられた諸表象の多様なものを一つの意識のうちで結合することができることによってのみ、私はこれらの表象そのもののうちにある意識の同一性を自分自身に表象することができる。すなわち、統覚の分析的統一は、何らかの総合的統一を前提してはじめて可能である。結合はひとえに悟性の働きであり、悟性そのものは、アプリオリに結合し、与えられた諸表象の多様なものを統覚の統一のもとにもたらす能力にほかならない。この原則こそが、人間のあらゆる認識の最高の原則である。
§17 統覚の総合的統一の原則は、あらゆる悟性使用の最高の原理である 感性に関するあらゆる直観の可能性の最高の原則は、この直観のあらゆる多様なものが空間と時間という形式的条件のもとに立つ、というものであった。これと同じ直観の、悟性に関する最高の原則は、直観のあらゆる多様なものが統覚の根源的・総合的統一の諸条件のもとに立つ、というものである。悟性とは諸認識の能力であり、対象とは、その概念のうちに与えられた直観の多様なものが統一されているところのものである。諸表象のあらゆる統一は、それらの綜合における意識の統一を必要とする。したがって、意識の統一こそが、諸表象の一つの対象への関係、すなわちそれらの客観的妥当性を成り立たせるものであり、悟性の可能性そのものも、この意識の統一にもとづく。空間のうちで一本の線を認識するためには、私はそれを描かなければならず、与えられた多様なものの規定された結合を総合的に成し遂げなければならない。それによってこの働きの統一が意識の統一となり、はじめて一つの対象が認識される。したがって、この原則は、単に考えるだけで直観することのない人間の悟性にとって、不可避的な第一の原則である。
§18 自己意識の客観的統一とは何であるか 統覚の超越論的統一とは、ある直観のうちで与えられたあらゆる多様なものが、対象についての一つの概念のうちに統一される、その統一のことであり、客観的と呼ばれ、意識の主観的統一から区別されなければならない。主観的統一は内官の一規定であり、諸表象の連想による意識の経験的統一は一つの現象に関わるものにすぎず、まったく偶然的である。これに対して、時間における直観の純粋な形式は、直観の多様なものの「私は考える」への必然的な関係による、意識の根源的統一のもとに立つ。この統一のみが客観的に妥当する。
§19 あらゆる判断の論理的形式は、そこに含まれる諸概念の統覚の客観的統一に存する 論理学者たちは、判断とは二つの概念のあいだの関係の表象であると説明するが、この関係が何に存するのかはそこでは規定されていない。あらゆる判断における与えられた諸認識の関係を検討すると、判断とは、与えられた諸認識を統覚の客観的統一へともたらす仕方にほかならないことが見出される。「である」という繋辞は、与えられた諸表象の客観的統一を主観的統一から区別することを目指している。たとえば「物体は重い」という判断は、これらの表象が連想の法則によって単に主観的に結びついているのではなく、統覚の必然的統一によって、対象のうちで結合されていることを言おうとしているのである。
§20 あらゆる感性的直観は、その多様なものが一つの意識のうちに集約されうるための唯一の条件として、カテゴリーのもとに立つ 感性的直観のうちで与えられた多様なものは、必然的に統覚の根源的・総合的統一のもとに属する。直観の統一はこの統一によってのみ可能だからである。しかし、与えられた諸表象の多様なものを統覚一般のもとにもたらす悟性の働きこそが、判断の論理的機能である。したがって、一つの経験的直観のうちで与えられた多様なものは、判断における論理的機能のうちの一つに関して規定されている。ところでカテゴリーとは、与えられた直観の多様なものがそれに関して規定される限りでの、まさにこの判断の諸機能にほかならない。したがって、与えられた直観における多様なものもまた、必然的にカテゴリーのもとに立つのである。
§21 注記 私が自分のものと呼ぶ一つの直観のうちに含まれる多様なものは、悟性の綜合によって、自己意識の必然的統一に属するものとして表象される。そしてこれはカテゴリーを介して行われる。ここに、純粋悟性概念の演繹の緒が開かれる。この演繹において、カテゴリーが感性から独立にもっぱら悟性のうちにのみ生じるものである以上、多様なものが経験的直観へといかにして与えられるかについては、なおも捨象しなければならない。この演繹の意図が完全に達成されるのは、感性のうちで経験的直観がいかにして与えられるかというあり方から、この直観の統一が、カテゴリーが与えられた直観一般の多様なものに対して規定するものと同じものにほかならないことが示され、カテゴリーの妥当性が我々のあらゆる感覚の対象に関してアプリオリに説明されるときである。
§22 カテゴリーは、経験の対象への適用以外には、事物の認識のためのいかなる使用ももたない ある対象を考えることと、ある対象を認識することとは同じではない。認識には、対象が考えられる概念(カテゴリー)と、対象が与えられる直観との、二つの構成要素が属している。この概念に対応する直観がまったく与えられえないとすれば、それは形式の上では一つの思考ではあっても、いかなる対象ももたない。我々に可能なあらゆる直観は感性的である以上、純粋悟性概念による対象一般の思考は、その概念が感覚の対象へと関係づけられる限りにおいてのみ、認識となりうる。したがってカテゴリーは、経験的直観への可能な適用を通じてでなければ、事物についていかなる認識も我々に与えない。カテゴリーは、事物が可能な経験の対象として想定される限りにおいてでなければ、事物の認識のためのいかなる使用ももたないのである。
§23 この命題は、超越論的感性論が我々の感性的直観の純粋形式の使用の限界を規定したのとちょうど同じように、対象に関する純粋悟性概念の使用の限界を規定する。純粋悟性概念は、感性の制限からは自由であり、直観一般の対象へと及ぶ。しかし、我々の感性的直観を超えたこの概念のさらなる拡張は、我々にとって何の役にも立たない。それらは客観的実在性をもたない単なる思考の形式となる。非感性的な直観の対象を想定したとしても、その対象の直観がいかなるものでないかを示すだけで、そこに何が含まれているかを言うことができないなら、それは本来の認識ではない。経験的直観が適用の事例を与えてくれないならば、たとえば実体という概念に対応するどのような事物が存在しうるのか、まったく分からないのである。
§24 カテゴリーの、感覚の対象一般への適用について 純粋悟性概念は、単なる悟性によって、直観一般の対象に関係する。これらの概念における多様なものの綜合は、ひとえに統覚の統一に関わるものであり、単に超越論的であるだけでなく、単に純粋に知性的なものでもあった。しかし我々のうちには、感性的直観のある一定の形式がアプリオリに根底として存しているので、悟性は、統覚の総合的統一に従って内官を規定することができる。それによって、単なる思考の形式にすぎなかったカテゴリーは、現象としての対象への適用という客観的実在性を得ることになる。
感性的直観の多様なもののこの綜合は、形象的綜合と呼ぶことができ、直観一般の多様なものに関して単なるカテゴリーのうちで考えられた悟性的結合から区別される。形象的綜合は、統覚の根源的・総合的統一のみに向けられている場合には、構想力の超越論的綜合と呼ばれる。構想力とは、ある対象が、それが現に存在していなくても、直観のうちに表象する能力であり、感性をアプリオリに規定する能力である。これは、悟性が感性に及ぼす作用であり、我々に可能な直観の対象への悟性の最初の適用である。私はこれを、経験的な諸法則にのみ従う再生的構想力から区別して、生産的構想力と呼ぶ。
ここに、内官が我々自身についてさえも、我々があるがままにではなく、我々に現れるがままにのみ意識に対して表すのはなぜか、という逆説を理解する鍵がある。内官を規定するのは悟性であり、悟性の綜合は、それだけで考察されるならば感性なしにも意識している働きの統一にほかならないが、この働きによって、悟性は自らに与えられうる多様なものに関して感性そのものを内的に規定する。我々は、思考のうちで一本の線を引くことなしにはいかなる線をも考えることができず、円を描くことなしにはいかなる円をも考えることができない。したがって悟性は、内官のうちに多様なものの結合をあらかじめ見出すのではなく、内官を触発することによってそれを生み出すのである。空間を外的感覚の現象の単なる純粋形式として認めるならば、時間を、一本の線を引くという像のもとにおいてでなければ表象できないことからも、内的直観に関する限り、我々は自分自身を、それがそれ自体としてあるところのものとしてではなく、単に現象としてのみ認識する、ということが明らかになる。
§25 表象一般の多様なものの超越論的綜合において、すなわち統覚の総合的・根源的統一において、私は自分自身を意識している。しかしそれは、私が私自身にどのように現れるかとしてでも、私が私自身においてどうであるかとしてでもなく、ただ私が在るということとしてのみである。この表象は一つの思考であって、直観ではない。したがって、私自身の存在は現象ではないが、私の存在の規定は、内官の形式に即してのみ生じうるのであり、それゆえ私は、自分が(それ自体として)あるがままの自分についての認識をもたず、ただ自分自身に現れるがままの自分についての認識をもつにすぎない。私は、ひとえに自らの結合能力を意識している知性として存在するが、それが結合すべき多様なものに関しては内官という制約的な条件に服しており、自分自身にどのように現れるかとしてのみ自分自身を認識することができるのである。
§26 純粋悟性概念の、経験一般における可能な使用の超越論的演繹 形而上学的演繹においては、カテゴリーのアプリオリな起源一般が、それらが思考の一般的な論理的機能と完全に合致することによって示された。これに対して超越論的演繹においては、それらが直観一般の対象についてのアプリオリな認識であることの可能性が示された。今や、カテゴリーによって、我々の感覚に現れうるあらゆる対象を、その結合の法則に関してアプリオリに認識するという可能性が説明されなければならない。
覚知の綜合ということで、経験的直観における多様なものの合成を理解する。これによって知覚が可能になる。現象の多様なものの覚知の綜合は、つねに空間と時間という形式に適合していなければならない。この総合的統一は、与えられた直観一般の多様なものを一つの根源的意識のうちでカテゴリーに従って結合するというあの統一が、ただ我々の感性的直観に適用されたものにほかならない。したがって、知覚そのものを可能にするあらゆる綜合はカテゴリーのもとに立つ。そして経験とは結合された諸知覚による認識であるから、カテゴリーは経験の可能性の諸条件であり、経験のあらゆる対象についてもアプリオリに妥当する。
たとえば一軒の家についての経験的直観を知覚にするならば、私は空間における多様なもののこの総合的統一に従って、その形を描く。これは、空間の形式を捨象するならば、大きさのカテゴリーである。また、水の氷結を知覚するならば、私は流動性と固体性という二つの状態を時間の関係のうちに立つものとして覚知するが、これは時間を捨象するならば、原因のカテゴリーである。カテゴリーとは、現象に、したがって自然に、アプリオリに法則を指定する諸概念である。自然の方がカテゴリーに従わなければならないのは、現象が事物自体としてではなく、悟性をもつ限りで現象がそれに内属する主観に相対的にのみ存在するからである。あらゆる可能な知覚は覚知の綜合に依存し、この経験的綜合はカテゴリーに依存している。したがって自然のあらゆる現象は、その結合に関してカテゴリーのもとに立たなければならない。
§27 この悟性概念の演繹の結果 我々は、カテゴリーによってでなければ、いかなる対象も考えることができず、それらの概念に対応する直観によってでなければ、考えられたいかなる対象も認識することができない。我々のあらゆる直観は感性的であるから、可能な経験の対象についての認識でなければ、我々にはいかなるアプリオリな認識も可能ではない。しかし、経験の対象にのみ限定されたこの認識は、だからといってすべてが経験から借り受けられたものではない。経験と、その対象についての諸概念との必然的な一致が考えられうる道は、経験がこれらの概念を作るか、あるいはこれらの概念が経験を可能にするかの、二つしかない。前者はカテゴリーに関しては成り立たない。したがって残るのは、カテゴリーが、悟性の側から、あらゆる経験一般の可能性の根拠を含んでいるという、第二の道だけである。もしカテゴリーを、経験から汲み取られたものでも自ら考え出された第一原理でもなく、我々の創造者によってあらかじめ設定された主観的な素質にすぎないとする中間の道を提案する者があれば、その場合カテゴリーには、その概念に本質的に属する必然性が欠けてしまうことになる。「結果は原因と結びついている」とは言えず、ただ「私はこう結びつけて考えるほかないように仕組まれている」としか言えなくなり、これこそ懐疑論者が最も望むところのものである。
この演繹の要約 この演繹は、純粋悟性概念を経験の可能性の諸原理として提示し、この経験を空間と時間における現象一般の規定として提示するものであり、最後に、この規定を、感性の根源的な諸形式である空間と時間との関係における悟性の形式としての、統覚の根源的・総合的統一という原理から、提示するものである。
第二巻 原則の分析論 一般論理学は、悟性・判断力・理性という上位の認識能力の区分と一致する構図の上に築かれ、その分析論において概念・判断・推理を扱う。超越論的論理学は、内容の点で純粋なアプリオリな認識にのみ限定されるため、この区分にそのまま倣うことはできない。理性の超越論的使用はおよそ客観的妥当性をもたず、真理の論理学である分析論には属さず、仮象の論理学として超越論的弁証論という特別な部門を必要とする。したがって原則の分析論は、ひとえに判断力のためのカノンにほかならず、アプリオリな諸規則の条件を含む悟性概念を、諸現象へと適用する仕方を判断力に教えるものである。
序論 超越論的判断力一般について 悟性が規則の能力であるとすれば、判断力とは、あるものが与えられた規則のもとに立つか立たないかを区別する、規則のもとに包摂する能力である。一般論理学は判断力のためのいかなる規定も含みえない。これらの規則のもとにいかに包摂すべきかを一般的に示そうとしても、それはまたしても一つの規則によってでなければなされえず、この規則自体がふたたび判断力の教示を必要とするからである。したがって判断力は、教えられうるものではなく、ただ訓練されうるだけの特殊な才能である。しかし超越論的論理学の場合には事情がまったく異なる。純粋な悟性概念のうちに与えられる規則のほかに、それが適用されるべき事例をも、同時にアプリオリに示すことができるという固有性が、超越論哲学にはあるからである。この判断力の超越論的教説は、純粋悟性概念がそのもとでのみ用いられうる感性的条件を扱う図式論と、これらの条件のもとで純粋悟性概念からアプリオリに流出する総合的判断を扱う原則論との、二つの章を含む。
第一章 純粋悟性概念の図式論について ある対象をある概念のもとに包摂するすべての場合において、前者の表象は後者と同種でなければならない。ところで純粋悟性概念は、経験的な、いや総じて感性的な直観と比較するとまったく異種であり、いかなる直観のうちにも決して見出されない。したがって、一方ではカテゴリーと、他方では現象と、それぞれ同種性を保ちながら両者を媒介する、第三のものが存在しなければならない。この媒介的な表象は、純粋でありながら、一方では知性的であり、他方では感性的でなければならない。そのようなものが、超越論的図式である。
悟性概念は多様なもの一般の純粋な総合的統一を含んでいる。時間は、内官の多様なものの結合の形式的条件として、純粋直観のうちにアプリオリな多様なものを含んでいる。超越論的な時間規定は、それの統一を成り立たせるカテゴリーと同種であると同時に、多様なもののあらゆる経験的表象のうちに時間が含まれているという限りにおいて、現象とも同種である。したがって、カテゴリーの現象への適用は、この超越論的な時間規定、すなわち悟性概念の図式を介して可能となる。図式は、それ自体としてはつねに構想力の産物にすぎず、像とは区別されなければならない。純粋悟性概念の図式は、いかなる像にももたらされえないものであり、ただ、カテゴリーが表現する統一の規則に即した、構想力の超越論的な産物にすぎない。
量のカテゴリーの図式は数であり、これは一を一に相次いで加えていくことをまとめ上げる、同種の直観一般の多様なものの綜合の統一である。質のカテゴリーの図式は、実在性として時間を満たすものの度、すなわち感覚が〇から出発してある大きさへと連続的に産出されることである。実体の図式は、時間における実在的なものの持続性である。原因と因果性の図式は、それが任意に定立されるならばつねに他の何かがそれに続くという、規則に従った多様なものの継起である。相互性の図式は、一般的な規則に従った実体相互の規定の同時存在である。様相のカテゴリーの図式は、可能性についてはさまざまな表象の綜合と時間一般の諸条件との一致、現実性については規定された時における存在、必然性についてはあらゆる時における対象の存在である。したがって図式とは、規則に従ったアプリオリな時間規定にほかならない。
この図式論が示すのは、悟性の図式論が、構想力の超越論的綜合を通じて、内官における直観のあらゆる多様なものの統一以外の何ものにも帰着しない、ということである。純粋悟性概念の図式は、それらに対象への関係、すなわち意義を与えるための、真にして唯一の条件である。しかし感性の図式は、カテゴリーをはじめて実在化すると同時に、それを悟性の外にある諸条件へと限定してもいる。したがって図式を欠いたカテゴリーは、悟性の諸概念へと向かう機能にすぎず、いかなる対象も表象するものではない。
第二章 純粋悟性のすべての原則の体系 今や我々の仕事は、悟性がこの批判的な用心のもとで実際にアプリオリに成し遂げる諸判断を、体系的な連関のうちに示すことである。そのためには、カテゴリー表が自然で確実な導きを与えてくれる。我々はカテゴリーに関係する諸原則にのみ限定し、空間と時間に関する超越論的感性論の諸原理や、直観からのみ引き出される数学的諸原則は扱わない。しかし、総合的判断の理論をあらゆる誤解から解放するため、まずは対比のために、分析的判断の原則についても語らなければならない。
第一節 あらゆる分析的判断の最高原則について あらゆる判断一般に共通する一般的だが消極的な条件は、それらが自己矛盾を犯さないということである。「いかなる事物にも、それに矛盾する述語は帰属しない」という命題は矛盾律と呼ばれ、あらゆる真理の消極的だが一般的な規準である。もしある判断が分析的であるならば、その真理性はつねに矛盾律に従って十分に認識されうる。したがって矛盾律は、あらゆる分析的認識の一般的かつまったく十分な原理として認めなければならない。しかしその権威と有用性は、それ以上には及ばない。我々が本来関わっているのは認識の総合的部分のみであるから、この種の認識の真理性に関しては、矛盾律からいかなる解明も期待することはできないのである。
第二節 あらゆる総合的判断の最高原則について 分析的判断において、私は与えられた概念のもとにとどまる。しかし総合的判断においては、私は与えられた概念を超え出て、その概念のうちに考えられていたのとはまったく別の何かを、その概念と関係づけて考察しなければならない。与えられた概念を超え出て別の概念と総合的に比較するには、その総合がそこにおいてのみ生じうる第三のものが必要となる。この第三のものとは、我々のあらゆる表象がそこに含まれている一つの総体、すなわち内官とそのアプリオリな形式である時間である。
ある認識が客観的実在性をもつべきであるならば、その対象は何らかの仕方で与えられうるのでなければならない。したがって、経験の可能性こそが、我々のあらゆるアプリオリな諸認識に客観的実在性を与えるものである。この関係を離れては、アプリオリな総合的命題はまったく不可能である。したがって、あらゆる総合的判断の最高原則はこうである。すなわち、あらゆる対象は、可能な経験における直観の多様なものの総合的統一という必然的な諸条件のもとに立つ、というものである。経験一般の可能性の諸条件は、同時に経験の対象の可能性の諸条件でもあり、それゆえアプリオリな総合的判断において客観的妥当性をもつ。
第三節 純粋悟性のあらゆる総合的原則の体系的展示 原則というものがどこかに存在するということは、ひとえに純粋悟性に帰せられるべきことである。カテゴリー表は、原則の表へのまったく自然な手引きを与える。原則の表は、カテゴリー表の客観的使用の諸規則にほかならないからである。したがって、純粋悟性のあらゆる原則は、直観の公理、知覚の先取、経験の類推、経験的思考一般の要請の四つである。量と質のカテゴリーの原則は直観的な明証性をもつゆえに数学的原則、関係と様相のカテゴリーの原則は単に論証的な明証性しかもたないゆえに力学的原則と呼ぶ。前者は無条件に必然的、すなわち構成的であるのに対し、後者はただ知覚相互の関係にのみ関わる統制的な原則である。
一 直観の公理 その原理はこうである。あらゆる直観は外延量である。あらゆる現象は、空間と時間における直観として、ある一定の空間ないし時間の表象を生み出す多様なものの綜合を通じてでなければ、経験的意識のうちに取り入れられることはできない。私が外延量と呼ぶのは、部分の表象が全体の表象を可能にする、すなわち部分の表象が全体の表象に必然的に先立つような量のことである。いかに小さな線であっても、それを思考のうちで引くことなしには表象することができず、いかに小さな時間についても事情は同様である。したがってあらゆる現象は、統覚において部分から部分への継起的な綜合によってのみ認識されうるがゆえに、外延量である。この、諸形態を生み出す産出的構想力による継起的綜合のうえに、幾何学がその公理とともに根拠づけられる。この超越論的原則は、純粋数学をその全き精密さのままに経験の対象へと適用可能にするものであり、これなしには、感覚の対象が空間における構成の規則に従う必要はないという言い逃れを退けることができなくなる。
二 知覚の先取 その原理はこうである。あらゆる現象において、感覚の対象である実在的なものは、内包量、すなわち度をもつ。知覚とは経験的意識のことであり、そこには感覚が含まれている。経験的意識から純粋な意識へは段階的な移行が可能であり、経験的意識の実在的なものが完全に消え去り、単なる形式的な意識だけが残るという移行である。感覚には、外延量ではないが、それでもなお一つの量、すなわち内包量が帰属することになる。したがって、感覚を含む限りにおける知覚のあらゆる対象には、内包量、すなわち感官に及ぼす影響の度が帰せられなければならない。
現象における実在性と否定とのあいだには、多くの可能な中間的感覚の連続的な連関がある。あらゆる感覚、それゆえまた現象におけるあらゆる実在性は、それがいかに小さくとも、一つの度をもち、この度はなお常にさらに減少しうる。この性質、すなわち諸々の量のうちに最小可能な部分が存在しないという性質を、連続性と呼ぶ。空間と時間は連続量であり、現象もまた、その直観の点では外延量として、また単なる知覚の点では内包量として、いずれも連続量である。この知覚の先取は、空虚な空間あるいは空虚な時間の証明が経験からは決して引き出されえないこと、すなわち、感性的直観における実在的なものの完全な欠如は知覚されることも推論されることもできないことを教える。
三 経験の類推 その原理はこうである。経験は、諸知覚の必然的な結合の表象を通じてのみ可能である。経験においては、諸知覚は互いにただ偶然的な仕方で連なるにすぎず、それゆえその結合の必然性は諸知覚そのものからは明らかにならない。時間そのものは知覚されえないので、対象の現存在の時間における規定は、ただ時間一般におけるそれらの結合を通じて、アプリオリに結合された諸概念を通じてのみなされうる。時間の三つの様態、すなわち持続・継起・同時存在に対応して、現象のあらゆる時間関係についての三つの規則が、あらゆる経験に先立って存し、経験をはじめて可能にするのである。
直観の公理と知覚の先取という数学的な二つの原則は、現象をその単なる可能性の点からのみ扱い、構成的と呼ぶことができる。これに対して、現象の現存在をアプリオリに諸規則のもとにもたらすべき経験の類推は、その現存在を構成することができないので、単に統制的な諸原理を与えることしかできない。哲学における類推とは、与えられた三つの項から第四の項に対する関係のみを認識し、その項そのものを与えることはできないものであり、経験の統一が生じるべき一つの規則にすぎない。これらの類推は、超越論的な悟性使用の原則としてではなく、単に経験的な悟性使用の原則としてのみ、その意味と妥当性をもつ。
A 第一の類推 実体の持続性の原則 現象のあらゆる変化を通じて実体は持続し、その量は自然のうちで増加も減少もしない。あらゆる現象は時間のうちにあり、この時間においてのみ同時存在も継起も表象されうる。しかし時間そのものは知覚されることができない。したがって、知覚の対象、すなわち現象のうちに、時間一般を表象する基体が見出されなければならず、この基体との関係を通じて、あらゆる変化ないし同時存在が知覚されうるのでなければならない。実在的なもの、すなわち事物の実存に属するものの基体は実体であり、これにおいてのみ実存に属するあらゆるものは規定としてのみ思考されうる。したがって、持続するものこそが現象における実体であり、これはあらゆる変化の基体として、つねに同一のままにとどまる。
実体は持続する、という命題は、証明の試みがどこにも見出されない、それでいてあらゆる経験の根底に置かれてきた総合的命題である。実のところ、この命題は同語反復的である。まさにこの持続性こそが、我々が現象にカテゴリー、すなわち実体のカテゴリーを適用する根拠だからである。本来証明されるべきであったのは、あらゆる現象のうちに何か持続するものがあり、それに対して可変的なものはその実存の単なる規定にすぎない、ということであった。無からは何も生じず、無へと帰することもできない、という古代の命題も、この持続性の原則からの帰結にすぎない。変化するものはすべて持続しており、ただその状態のみが変化するのである。したがって、ただ持続するもの(実体)のみが変化を被り、可変的なものそのものは、ある規定が終わり別の規定が始まるという変転を被るにすぎない。
B 第二の類推 因果性の法則に従う時間継起の原則 あらゆる変化は、原因と結果の結合の法則に従って生じる。私が諸現象の継起を知覚するとき、この結合は構想力の総合的能力の産物であり、この能力は思考された二つの状態を二通りの仕方で結びつけることができる。単なる知覚によっては、継起する諸現象の客観的な関係は未規定のままである。この関係が規定されたものとして認識されるためには、両状態の関係を必然的なものと定めるような概念が必要であり、これが原因と結果の関係の概念にほかならない。したがって、諸現象の継起、すなわちあらゆる変化を因果性の法則に服させることによってのみ、経験そのものが可能になる。
ある出来事の知覚においては、覚知における諸知覚の継起の順序が規定されている。たとえば一隻の船が川を下ってゆくのを見るとき、その下流における位置の知覚は上流における位置の知覚に続くことしかできない。この規則こそが、継起する諸知覚の順序を必然的なものとするのである。したがって私は、覚知の主観的な継起を、諸現象の客観的な継起から導き出さなければならない。ある出来事に先立つ何かのうちには、この出来事がつねに必然的に続くという規則の条件が存していなければならない。そうでなければ、知覚のあらゆる継起はただ覚知のうちにのみ、単に主観的にのみ存することになり、いかなる対象にも関係しない、諸表象の単なる戯れをもつにすぎないことになるであろう。
この因果性は、時間継起にのみ限定されるものではない。原因と結果は同時でありうる。たとえば熱せられたストーブは、その結果である部屋の暖かさと同時である。重要なのは時間の秩序であって時間の経過ではない。この因果性は、作用という概念へ、さらに力・実体という概念へと導く。作用があるところには実体があり、あらゆる結果は、あらゆる変転の基体としての持続するもの、すなわち実体に帰着する。あらゆる変化は、因果性の連続的な作用によってのみ可能であり、ある状態から別の状態への移行は、つねに一つの時間のうちに、あらゆるより小さな度を通じて生じる。これが、あらゆる変化の連続性の法則である。
C 第三の類推 相互作用の法則にもとづく同時存在の原則 空間において同時に知覚されうる限りにおいて、あらゆる実体は、全面的な相互作用のうちにある。同時存在とは、多様なものが同じ時間のうちに実存することであるが、時間そのものは知覚されえないので、これらの互いに外にありながら同時に存在する事物の諸規定の、相互的な継起についての一つの悟性概念が必要とされる。したがって、空間における実体の同時存在は、それら相互の相互作用を前提とする以外には、経験のうちで認識されえない。
もし諸実体が完全に孤立しており、いかなる実体も他の実体に作用せず、他の実体から相互的な影響を受けることもない、と想定するならば、それらの同時存在はいかなる可能な知覚の対象にもならないであろう。したがって、あらゆる実体は、他方における一定の諸規定の因果性を含むと同時に、他方の因果性の結果を自らのうちに含んでいなければならない。すなわち、現象におけるあらゆる実体は、それらが同時に存在する限り、相互に、全面的な相互作用の共同体のうちに立つことが必然的なのである。以上が経験の三つの類推であり、これらはまとめてこう述べる。あらゆる現象は一つの自然のうちに存し、そのうちに存さなければならない。このアプリオリな統一なしには、経験の統一もありえないからである。
四 経験的思考一般の要請 一、経験の形式的な諸条件と合致するものは、可能である。二、経験の実質的な諸条件(感覚の)と連関しているものは、現実的である。三、経験の普遍的な諸条件に従って、現実的なものとの連関が規定されているものは、必然的である。様態のカテゴリーには、それが述語として付け加えられる概念を、対象の規定として少しも増やすことがなく、ただ認識能力への関係のみを表現するという、特有の点がある。したがって、事物の可能性の要請は、その概念が経験一般の形式的な諸条件と一致することを要求する。ある綜合を自らのうちに含む概念は、この綜合が経験に属さないならば、空虚なものとみなされ、いかなる対象にも関係しない。
事物の現実性を認識するための要請は、知覚、それゆえ意識されている感覚を要求する。一つの物の単なる概念のうちには、その現存在の性格はまったく見出されえない。しかし、事物の知覚に先立ってさえも、それがいくつかの知覚と経験的結合の原則(類推)に従って連関している場合には、その物の現存在をアプリオリに比較的な仕方で認識することもできる。したがって我々は、鉄粉が引き寄せられるのを知覚することから、あらゆる物体を貫く一つの磁性物質の現存在を認識するのであり、たとえこの物質そのものの直接の知覚が我々には不可能であるとしても、そうなのである。しかし、現存在を間接的に証明するこれらの規則に対して、一つの強力な異論を提起するのが、観念論である。
観念論論駁 観念論とは、我々の外なる空間における対象の現存在を、疑わしく証明不可能なものとするか、あるいは誤りで不可能なものとする理論である。前者はデカルトの蓋然的観念論であり、ただ「私は在る」ということのみを疑いえないものとして宣言する。後者はバークリーの独断的観念論であり、空間をそれ自体としては不可能な何かとみなす。定理はこうである。私自身の現存在についての、単なる、しかし経験的に規定された意識は、私の外なる空間における対象の現存在を証明する。
私は、自分の現存在が時間のうちで規定されたものであることを意識している。あらゆる時間規定は、知覚のうちに何か持続的なものを前提とする。しかしこの持続的なものは、私のうちにある何かではありえない。というのも、まさに私の時間における現存在そのものが、この持続的なものによってはじめて規定されうるからである。したがって、この持続的なものの知覚は、ただ私の外にある一つの物によってのみ可能である。すなわち、私自身の現存在の意識は、同時に、私の外にある他の事物の現存在についての、直接の意識でもあるのである。外的経験こそが本来直接的なものであり、それを介してのみ、内的経験、すなわち私自身の現存在の時間における規定が可能なのである。
原則の体系への一般的注記 我々がある物の可能性を単なるカテゴリーだけからは洞察することができず、純粋悟性概念の客観的実在性を示すためには、つねに手もとに一つの直観をもたなければならない、ということは、きわめて注目に値する。直観が欠けている限り、我々はカテゴリーによって一つの対象を思考しているのかどうか、そもそもそれらに何らかの対象が対応しうるのかどうかを、まったく知ることができない。カテゴリーはそれ自体としてはいかなる認識でもなく、与えられた直観から認識を作り出すための単なる思考の形式にすぎない、ということが確証される。
さらに注目に値するのは、諸カテゴリーに従って事物の可能性を理解するために、そしてその客観的実在性を示すために、我々はただ諸直観だけでなく、そのうえつねに外的な諸直観を必要とする、ということである。実体の概念に対応する持続的なものを与えるためには空間における直観が必要であり、因果性の概念に対応する変化を呈示するためには運動、すなわち空間における変化を例にとらなければならない。共同体というカテゴリーの客観的実在性もまた、空間における外的な直観なしには洞察することができない。この省察全体は、先に行った観念論の論駁を確証するとともに、単なる内的意識からの自己認識の可能性の限界を我々に示すものである。したがってこの節全体からの最終的な帰結はこうである。純粋悟性のあらゆる原則は、経験の可能性のアプリオリな諸原理にほかならず、あらゆるアプリオリな総合的命題もまた、ただこの経験にのみ関係するのである。
第三主部 あらゆる対象一般を現象と本体とに区別することの根拠について 純粋悟性の国土は、あらゆる部分を測量し尽くされたが、それは一つの島であり、自然そのものによって変わることのない境界のうちに囲い込まれている。真理の国土であるこの島は、広大かつ荒々しい仮象の大洋によって取り囲まれており、そこでは霧の堤や融け去る氷が新しい大陸があるかのように偽り、発見を求める航海者を空しい希望によって欺く。この海へ乗り出す前に、まずこの国土の地図にあらかじめ一瞥を投げかけ、そこに含まれるもので満足しうるか、いかなる権原のもとにこの国土を所有しているかを問うことが有益である。
悟性が経験から借用することなく自分自身から汲み出すものは、それでもなお経験における使用以外のいかなる目的のためにも持たれていない。純粋悟性の諸原則は、アプリオリに構成的であれ単に統制的であれ、可能な経験のための純粋な図式作用にほかならないものしか含まず、それにもかかわらずあらゆる真理の源泉でさえある。しかし、自らの認識の源泉について思いをめぐらすことなくただ経験的使用にのみ携わる悟性は、自分自身の使用の限界を自ら規定し、何がその全領域の内にあり何が外にあるのかを知ることだけは、決して成し遂げることができない。
概念の超越論的使用とは、それが事物一般および物自体に関係づけられることであり、経験的使用とは、それが単に現象、すなわち可能な経験の対象にのみ関係づけられることである。対象は直観においてでなければ概念に与えられることができず、たとえ純粋直観がアプリオリに可能であるとしても、その客観的妥当性は経験的直観を通じてのみ得られる。数学の諸概念でさえ、図形の構成や数によって感性化されることを要求する。同じことはあらゆるカテゴリーおよびそこから紡ぎ出された諸原則についても当てはまる。量・実在性・実体・原因・共同体・可能性・現存在・必然性のいずれの概念も、感性の諸条件、すなわち時間へと立ち返ることなしには、実在的に定義することも、その対象の可能性を理解可能にすることもできない。
したがって純粋悟性概念はけっして超越論的使用のものではありえず、つねにただ経験的使用のものでしかありえない。悟性の諸原則は単に現象を展開するための諸原理にすぎず、事物一般についてアプリオリな総合的認識を体系的な教説として与えると僭称する存在論という誇り高い名称は、単なる純粋悟性の分析論という、より謙虚な名称に席を譲らなければならない。思考とは、与えられた直観を一つの対象へと関係づける作用であり、判断力の条件、すなわち図式が欠けるならば、あらゆる包摂は成り立たなくなる。
ある種の対象を現象すなわちフェノメナと呼ぶとき、それらを直観する仕方をそれ自体の性質から区別することによって、感官の対象ではない他の可能な事物を単に悟性によって思考された対象、すなわちヌーメナとして対置することになる。しかし悟性が対象をフェノメンと呼ぶ場合、同時にこの関係の外になお一つの物自体についての表象を作り出し、それについても諸概念を作りうると思い込む両義性が生じる。ヌーメノンということで我々の感性的直観の対象ではないという限りにおいての物を理解し、それに対する直観の仕方を捨象するならば、これは消極的な意味におけるヌーメノンである。これに対し、非感性的な一つの直観、すなわち知性的直観の対象を理解するならば、これは積極的な意味におけるヌーメノンであるが、そのような直観の可能性を我々は洞察することができない。
カテゴリーは空間と時間における直観の統一への関係においてのみ意味をもち、この統一が見出されえないヌーメノンの場合には、カテゴリーのあらゆる使用、いやその意味さえも成り立たなくなる。ある物の可能性は概念の無矛盾性だけからは証明されえず、対応する直観を与えることによってのみ証明されうる。したがって、我々によってヌーメノンと呼ばれるものは、感性の僭称を制限するための境界概念にすぎず、ただ消極的な使用のものにすぎない。対象をフェノメナとヌーメナとに、世界を感性界と悟性界とに区分することは、積極的な意味においてはまったく認められず、悟性はこの境界概念によって、感性によって制限されるのではなく、むしろ物自体をヌーメナと呼ぶことによって感性そのものを制限するという、消極的な拡張を得るにとどまる。
付録 反省概念の多義性について、経験的悟性使用と超越論的悟性使用との混同による 省察とは、諸対象そのものに関わるのではなく、我々が概念に至りうる主観的な諸条件を見出すために自らを準備する心の状態であり、与えられた諸表象の、我々のさまざまな認識源泉への関係についての意識である。表象をさらに扱う前に、それがどの認識能力のもとに属するのか、悟性の前においてか感官の前においてかを問うこの作用を、超越論的省察と呼ぶ。諸概念が互いに属しうる関係には、同一性と相違性、一致と対立、内的なものと外的なもの、規定可能なものと規定(質料と形式)の四つがあり、この関係の正しい規定は、それらがどの認識力において主観的に互いに属するのかにかかっている。
一 同一性と相違性。純粋悟性の対象としてある対象が何度もまったく同じ内的諸規定とともに呈示されるならば、それはつねに同じ一つの物である。しかし現象であるならば、諸概念の比較は問題にならず、場所の相違こそが対象の数的な相違の十分な根拠となる。二滴の水は、内的な相違から完全に捨象しても、異なる場所において同時に直観されるということだけで数的に異なるものとみなすのに十分である。ライプニッツは諸現象を物自体そのもの、すなわち純粋悟性の対象とみなしたために、その不可識別者同一の原理をそのまま通用させたが、感性の対象については、多性と数的な相違はすでに空間そのものによって外的現象の条件として与えられているのである。
二 一致と対立。実在性がただ純粋悟性によってのみ表象される場合、諸実在性のあいだにいかなる対立も思考されえない。これに対し現象における実在的なものは相互に十分に対立しうり、同じ主語のうちで結合されて一方が他方の帰結を全部または一部消し去ることがある。たとえば反対方向に働く二つの力、あるいは快と苦のつり合いがそうである。
三 内的なものと外的なもの。純粋悟性の対象にあっては、他のいかなるものへの関係ももたないものだけが内的なものである。これに対し空間における現象実体の内的諸規定は諸関係にほかならず、我々は実体を、そこにおいて働く力、すなわち引力と斥力とによってしか知らない。ライプニッツは諸実体をヌーメナとして表象していたので、物質の構成要素から外的関係を意味しうるすべてのものを取り去った後に、表象力を賦与された単純な諸主語、すなわちモナドを作り出したのである。
四 質料と形式。質料は規定可能なもの一般を、形式はその規定を意味する。純粋悟性の概念においては質料が形式に先立つため、ライプニッツはまず諸事物(モナド)とその表象力を想定し、その後にそれらの外的関係と諸状態の共同体とをその上に根拠づけた。しかし、あらゆる対象を単に現象として規定するのが単なる感性的直観にすぎないとすれば、直観の形式は感性の主観的な性質としてあらゆる質料に先立ち、空間と時間はあらゆる現象とあらゆる経験のデータに先立ってそれらをはじめて可能にするのであり、質料の可能性そのものが形式的直観、すなわち時間と空間がすでに与えられていることを前提とするのである。
反省概念の多義性についての注記 ある概念に対して感性のうちに、あるいは純粋悟性のうちに与えられる位置を、超越論的場所と呼ぶことができる。各概念にその使用の違いに応じて帰属するこの位置についての判定と、これを規則に従って規定する指示とが、超越論的トピカとなる。この教説は、いかなる認識能力に概念が本来属するのかをつねに区別することによって、純粋悟性のごまかしと、そこから生じる幻惑とを根本から防ぐ。このような超越論的トピカを欠いたまま、反省概念の多義性に欺かれて、ライプニッツは事物の内的性状をひとえに悟性とその形式的諸概念とのみ比較することによって認識しうると信じ、一つの知性的な世界体系を打ち立てた。彼は現象を知性化し、これに対しロックは悟性概念をことごとく感性化したのである。
第一に、ライプニッツは感官の諸対象を事物一般としてひとえに悟性のうちでのみ比較し、それらの超越論的場所をまったく顧みなかったため、事物一般の概念にのみ妥当する不可識別者同一の原理を感官の対象にまで拡張してしまった。しかし空間における現象は、その位置を単に悟性のうちにもつのではなく感性的な外的直観のうちにもち、位置の相違はそれだけで対象を現象として多数化し区別することを必然的なものとする。したがって、あの一見もっともらしい法則は自然の法則ではなく、単なる諸概念による事物の比較という分析的な規則にすぎない。
第二に、実在性は互いに論理的に矛盾することはないという原則は、諸概念相互の関係についてはまったく正しいが、自然や物自体一般に関しては何の意味ももたない。実在的な対立、すなわち一つの主語のうちで結合された一方の実在性が他方の帰結を打ち消す対立は、いたるところで生じ、自然のうちのあらゆる障害と反作用がこれを示している。ライプニッツ゠ヴォルフ学派はこの原則から、あらゆる悪はただ被造物の限界の帰結、すなわち否定にすぎないと考えたが、これは事物一般の単なる概念において言えることにすぎず、現象としての事物には当てはまらない。
第三に、ライプニッツのモナド論は、内的なものと外的なものとの区別を単に悟性への関係においてのみ表象したことにその根拠をもつ。実体一般はあらゆる外的関係から自由な内的なものをもたなければならず、我々は諸実体に対して表象という状態以外のいかなる内的状態も帰属させることができない。こうしてモナドが仕上げられ、その相互の共同体の原理も、物理的な相互作用ではなく予定調和でなければならなかったのである。
第四に、時間と空間についての彼の学説、すなわち感性のこれらの形式を知性化した学説も、同じ超越論的省察の錯覚から生じた。ライプニッツは空間を実体の共同体における秩序として、時間をそれらの状態の力学的継起として考え、両者が事物から独立したものであるという性格を、これらの概念の混雑性に帰した。しかし物自体について純粋悟性によって何か総合的に語りうるとしても、現象には適用されえない。空間と時間は物自体の諸規定ではなく、現象の諸規定である。
この省察の批判が示すのは、現象こそが我々の認識が客観的実在性をもちうる唯一のものである、ということである。超越論的分析論を去る前に、なお体系の完全性のために必要な事柄を付け加えておかなければならない。対象一般の概念(問題的に取られたもの)のもとに、いかなるものでもないものとしての「無」の概念を区分すれば、次の四つが区別される。第一に、いかなる直観も対応させることのできない対象を欠いた空虚な概念、すなわち思考物(ヌーメナがこれにあたる)。第二に、実在性に対立する否定、すなわち対象の欠如についての概念、否定物(影や寒さのようなもの)。第三に、実体を欠いた単なる直観の形式、すなわち対象を欠いた空虚な直観、想像物(純粋な空間と純粋な時間)。第四に、それ自体と矛盾する概念の対象、すなわち概念を欠いた空虚な対象、否定物(二辺からなる直線図形のようなもの)である。
第二区分 超越論的弁証論 真理の論理学であった超越論的分析論に対し、超越論的弁証論は仮象の論理学として、理性がその本性上どうしても陥ってしまう錯覚、すなわち超越論的仮象を暴き、批判する。序論ではまず仮象とは何かを、単なる感官の誤りや蓋然性から区別したうえで、この仮象が理性そのものの自然な、しかも避けがたい傾向から生じることを示す。第一巻では、この仮象を生み出す理性の理念、すなわち魂・世界・神そのものの起源を明らかにし、第二巻では、これらの理念から実際にどのような誤った推論、すなわち誤謬推理・アンチノミー・理想が生じるかを、章ごとに検討していく。
序論 理性を、悟性が下す判断のための諸原則を提供する、より高次の能力として規定し、この理性に固有の純粋な原則こそが、超越論的仮象の根源であることを予告する。
一 超越論的仮象について 真理も誤りも判断のうちにのみ存し、感官そのものは判断を下さない以上、感官は誤らない。誤りは、判断の主観的な諸根拠が客観的な諸根拠と混じり合い、後者をその規定から逸脱させることによってのみ生じる。ここで扱われるのは、経験的仮象でも論理的仮象でもなく、ただ超越論的仮象のみである。これは、その使用が可能な経験の限界のうちにとどまる内在的原則ではなく、あらゆる境界標を取り壊し、まったく新しい領域を僭称する超越的原則が生む仮象である。
単なる理性の形式の模倣のうちに存する論理的仮象は、論理的規則への注意が向けられるやいなや完全に消え去る。しかし超越論的仮象は、たとえそれがすでに暴かれ、超越論的批判によってその空虚さが明確に洞察されたとしても、それでもなおやまない。それはちょうど、海の中央が岸辺よりも高く見えるのを避けられず、月が昇るときにより大きく見えるのを天文学者でさえ妨げることができないのと同様の、避けることのできない幻惑である。
したがって超越論的弁証論は、超越的判断の仮象を暴き、それが人を欺かないよう防ぐことで満足せざるをえず、それが消え去り仮象であることをやめる、というところまではけっしてなしえない。純粋理性には、知識の欠如や詭弁によってではなく、人間理性に払いのけがたく付随する、自然で避けがたい弁証論というものが存在するのである。
二 純粋理性が超越論的仮象の座であることについて 理性を、悟性のように諸規則を与える能力ではなく、諸原理の能力として、悟性から区別する。推論において悟性の認識に普遍性を与える理性の論理的使用は、あらゆる条件づけられた認識に対してその条件の系列全体、すなわち無条件的なものを求めよという、理性に固有の純粋な原則を生み出す。経験にはけっして与えられえないこの無条件的なものを求める要求こそが、超越論的仮象の根源である。
A 理性一般について 我々のあらゆる認識は感官から始まり、そこから悟性へと進み、そして理性において終わる。理性には、悟性と同様に、認識のあらゆる内容から捨象する単に論理的な使用があるが、それ自体が感官からも悟性からも借用されない概念と原則の起源そのものを含んでいる限りにおいて、実質的な使用もある。超越論的論理学の第一部において悟性を諸規則の能力として説明したのに対し、理性はここで諸原理の能力と呼ぶことにする。
特殊なものを諸概念を介して普遍的なもののうちに認識する場合を、原理からの認識と呼ぶ。純粋悟性の諸原則は、それ自体として、その起源に従って考察するならば、諸概念からの認識であることとはまったく別のものである。悟性が諸規則を介した諸現象の統一の能力であるとすれば、理性は、諸原理のもとでの悟性の諸規則の統一の能力である。したがって理性はまず経験や対象に向かうのではなく悟性に向かい、悟性の多様な諸認識に対して、諸概念を通じたアプリオリな統一、すなわち理性統一を与える。
B 理性の論理的使用について 直接に認識されるものと単に推論されるにすぎないものとのあいだには区別がある。あらゆる理性推理において、我々はまず悟性によって一つの規則(大前提)を考え、次に判断力を介して一つの認識をその規則の条件(小前提)のもとに包摂し、最後に自分の認識をその規則の述語(結論)によって理性によりアプリオリに規定する。理性推理はこうして、定言的・仮言的・選言的の三種類に区別される。
結論が一つの判断として与えられたとき、それがすでに与えられている諸判断から流れ出るのではないかを見ようとするならば、我々は悟性のうちに、この結論の主張がある一般的規則に従って見出されないかを探し求める。ここから分かるのは、理性が推論することにおいて、悟性の認識の大きな多様性をできるだけ少数の原理へともたらし、それによってその認識の最高の統一をもたらそうとする、ということである。
C 理性の純粋使用について 理性を孤立させることはできるのか。そしてその場合、理性はなお、それ自身からのみ発し、それによって対象へと関係するような、諸概念と諸判断の固有の源泉なのであろうか、それとも単に、与えられた諸認識に論理的な形式を与えるにすぎない従属的な能力にすぎないのであろうか。問題は、理性それ自体、すなわち純粋理性は、アプリオリな総合的諸原則と諸規則とを含んでいるのか、ということである。
理性推理は、悟性がそのカテゴリーによって行うように直観を規則のもとにもたらすために直観へと向かうのではなく、諸概念と諸判断へと向かう。したがって理性統一は、可能な経験の統一ではなく、悟性の統一としてのこの経験統一とは本質的に区別される。理性はまた、その論理的使用において自らの判断の一般的条件を求め、条件の条件を可能な限り求めることによって、悟性の条件づけられた認識に対して無条件的なものを見出し、その認識の統一を完成することを、固有の原則とする。
この論理的格率が純粋理性の原理となりうるのは、もし条件づけられたものが与えられているならば、互いに従属し合う諸条件からなる系列全体、すなわちそれ自体無条件的である系列全体もまた与えられている、ということを想定することによってのみである。しかしこの原則は明らかに総合的であり、そこから生じる諸原則はあらゆる現象に関して超越的であることになる。したがって、この系列が無条件的なものにまで及ぶというあの原則が客観的な正しさをもつのか、それとも単なる論理的な規定にすぎないのかを問うことこそが、超越論的弁証論の仕事となる。我々はこれを二つの巻に分けることにする。第一巻は純粋理性の超越的な諸概念について、第二巻はその超越的かつ弁証的な理性推理について扱う。
第一巻 純粋理性の概念について 純粋理性からの諸概念は、単に反省された概念ではなく、推論された概念である。悟性概念の客観的実在性は、その適用がつねに経験のうちで示されうるという点にのみ根拠をもつのに対し、理性概念が関わるのは、あらゆる経験的認識がその一部にすぎないような認識の全体であり、いかなる現実の経験もこれに完全には到達しない。理性概念は、悟性概念が諸知覚を理解することに役立つのと同様に、それらを包括的に把握することに役立つ。これらの概念に、我々はカテゴリーに倣って新しい名を与え、超越論的理念と呼ぶことにする。
第一節 理念一般について プラトンは理念という表現を、感覚から借用されることが決してないだけでなく、アリストテレスの悟性概念さえも凌駕するような何かを理解する仕方で用いた。理念は彼にあっては事物そのものの原型であり、それは最高の理性から流れ出たものであって、人間理性はこれを想起によって呼び戻さなければならない。
プラトンは自らの理念を、とりわけ自由にもとづく実践的なもののうちに見出した。徳の模範として何かが示されるとき、我々はつねに、その真の原型を自分自身の頭のうちにもち、それに従ってのみその模範を評価している。これが徳の理念である。いかなる人間もこの理念に十分に適合して行動することはないが、道徳的な価値についてのあらゆる判断は、この理念を介してのみ可能である。同様に、各人の自由が他の各人の自由と両立しうる法則に従った、人間の最大の自由の体制も、少なくとも一つの必然的理念であり、国家体制と法律の根底に置かれなければならない。
しかしここでは、理念という表現をより控えめに規定し直す。理念とは、感覚においてそれに合致する対象がまったく与えられえないような、一つの必然的な理性概念である。表象一般から、意識を伴う知覚、客観的な認識としての直観と概念、経験的概念と純粋概念(ノティオ)を経て、経験の可能性を超え出る、諸ノティオから成る概念こそが、理念すなわち理性概念にほかならない。
第二節 超越論的理念について 判断の形式が、直観の綜合についての概念へと転化されてカテゴリーを生み出し、経験における悟性のあらゆる使用を導くのと同様に、理性推理の形式を、カテゴリーの指示に従って直観の総合的統一に適用するならば、特殊な諸概念のアプリオリな起源、すなわち純粋理性概念ないし超越論的理念が得られ、これが経験の全体における悟性の使用を諸原理に従って規定することになる。
理性推理の結論において、ある述語はある一定の対象へと制限されるが、それはあらかじめ大前提において、その述語をその全範囲において考えておいたあとのことである。このような範囲の完成された大きさが普遍性であり、これに対応するのが、直観の綜合における諸条件の総体性である。したがって超越論的理性概念とは、与えられた条件づけられたものに対する、諸条件の総体性についての概念にほかならない。無条件的なもののみが諸条件の総体性を可能にし、諸条件の総体性はつねにそれ自体無条件的であるから、純粋理性概念一般は、無条件的なものという概念によって説明されうる。
悟性がカテゴリーを介して表象する関係の種類と同じだけ、純粋理性概念の種類も存在する。すなわち、一つの主語における定言的綜合の無条件的なもの、一つの系列の諸項の仮言的綜合の無条件的なもの、一つの体系における諸部分の選言的綜合の無条件的なものであり、これらは定言的・仮言的・選言的という三種類の理性推理にそれぞれ対応し、いずれも前提推理によって無条件的なものへと進んでいく。
理念とは、感覚においてそれに合致する対象がまったく与えられえない、一つの必然的な理性概念である。理念は恣意的に考え出されたものではなく、理性そのものの本性によって課されたものであり、超越的であるがゆえに、経験のうちにはそれに十分適合する対象は決して現れない。したがって理性の単に思弁的な使用においては、たとえば「あらゆる現象の絶対的全体」は、いかなる解決もない一つの問題であり続ける。これに対し、実践理性の理念、たとえば徳や知恵の理念は、それ自体のうちに現実の行為を生み出す因果性を備えており、決して単なる理念として軽んじられうるものではない。
超越論的理性概念は、あらゆる関係において無条件的なもの、すなわち絶対的総体性にのみ向かうものであり、端的に無条件的なものにおいてでなければ決して終わることがない。この統一を現象の理性統一と呼び、カテゴリーが表現する統一を悟性統一と呼ぶことができる。したがって純粋理性概念の客観的使用はつねに超越的であるが、純粋悟性概念の客観的使用は、ひとえに可能な経験にのみ限定されるがゆえに、その本性上つねに内在的でなければならない。条件づけられた一つの認識に到達するには、条件の側の系列のあらゆる項が総体性において与えられているという前提が必要であるのに対し、条件づけられたものの側への下降に関しては、理性はそのような総体性にまったく無頓着でいることができる。
第三節 超越論的理念の体系 ここで扱われるのは、認識のあらゆる内容を捨象する論理的な弁証論ではなく、完全にアプリオリに、その対象が経験的にはまったく与えられえない、推論された諸概念の起源を含むべき超越論的な弁証論である。弁証的推理には、理性が諸原理から諸認識へと至ることのできる三種類の推理形式に対応する、三種類のものしか存在せず、いずれにおいても理性の仕事は、条件づけられた綜合から、悟性が決して到達しえない無条件的な綜合へと上っていくことにある。
我々の諸表象がもちうる関係は、第一に主観への関係、第二に対象への関係であり、この対象は現象としてか、思考一般の対象としてかのいずれかである。したがって、それについて概念ないし理念を形成しうる関係は、主観への関係、現象における対象の多様なものへの関係、あらゆる事物一般への関係という三重のものとなる。
考える主観は心理学の対象であり、あらゆる現象の総体(世界)は宇宙論の対象であり、考えられうるすべてのものの可能性の最高条件を含む事物(あらゆる存在者の存在者)は神学の対象である。したがって純粋理性は、超越論的霊魂論、超越論的世界学、そして超越論的神認識論のための理念を、我々の手にもたらす。これらはいずれも、悟性に由来するものではなく、ひとえに純粋理性の純粋かつ真正な産物である。
これらの超越論的理念については、カテゴリーについて与えることができたような客観的演繹は不可能である。というのも、それらはそれに合致するものとして与えられうるいかなる対象への関係ももたないからであり、まさにそれゆえに単なる理念にすぎないのである。しかし、我々の理性の本性からのそれらの主観的な導出は、本章においてすでに果たされてきた。自己自身(魂)の認識から世界認識へ、そしてこれを介して根源存在者(神)へと進んでいくこの進歩は、諸前提から結論へという理性の論理的な進行に似た、自然な歩みであり、これが続く第二巻の主題となる。
第二巻 純粋理性の弁証的推論について 理念に対応する対象については、我々は問題的な概念をもつことはできても、いかなる知識ももつことはできない。しかし純粋理性概念の超越論的実在性は、我々が一つの必然的な理性推理によってそのような理念へと導かれる、という点にもとづいており、この経験的な前提をまったく含まない推理を介して、我々は不可避的な仮象によって、それに客観的実在性を与えてしまう。このような詭弁的な理性推理には、その結論が行き着く先である理念の数と同じだけ、三種類しか存在しない。主観の絶対的統一へと推論する第一の類を超越論的誤謬推理(Paralogismus)、現象の系列における無条件的な統一へと推論する第二の類を純粋理性のアンチノミー(二律背反)、事物一般の可能性の諸条件の絶対的統一へと推論する第三の類を純粋理性の理想(Ideal)と呼ぶことにする。
第一章 純粋理性の誤謬推理について 論理的誤謬推理は理性推理がその形式において誤っていることに存するが、超越論的誤謬推理は、その形式において誤って推論せざるをえないという超越論的な根拠をもち、人間理性の本性のうちにその根拠をもつ、不可避的だが解消可能な幻惑を伴う。「私は考える」は、あらゆる概念一般の乗り物であり、合理的心理学は、この一つの命題のうえに築かれた自称の学にほかならない。
合理的霊魂論のトピクは、魂は実体である、その性質に関して単純である、さまざまな時間に関して数的に同一である、空間における可能な対象との関係にある、という四つの要素からなり、これらの組み合わせから、非物質性・不朽性・人格性・霊性・不死性といった概念が生じる。
統覚の私が、あらゆる思考において主語である、単数で単純な主語である、私自身の同一性をもつ、といった命題はいずれも分析的命題にすぎない。しかしそれは、私が対象として自存する存在者すなわち実体である、単純な実体である、あるいは人格として持続する、ということを意味しない。そのような総合的な主張のためには、思考のうちにはまったく見出されない持続的な直観というデータが必要とされるのであり、これを我々は内的直観のうちにはもたないのである。
合理的心理学の手続きを支配する誤謬推理は、「主語としてしか考えられえないものは、主語としてしか存在せず、したがって実体である。ところで、考える存在者は、単にそのようなものとして考察される限り、主語としてしか考えられえない。したがって、それはまた実体としてしか存在しない」という推論に表される。しかし大前提は直観のうちで与えられうるとおりのあり方における存在者について語っているのに対し、小前提は思考および意識の統一との関係においてのみ考察された存在者について語っており、両者の思考の意味が食い違っている以上、この結論は語形の詭弁(Sophisma figurae dictionis)による誤謬推理にほかならない。
魂の持続性についてのメンデルスゾーンの証明の論駁 メンデルスゾーンは、魂が単純な存在者であるならば分割によっては存在をやめることができないという通常の論証には、なお消滅(Verschwinden)による終焉の可能性が残るという不十分さがあることを見て取り、単純な存在者はおよそ存在をやめることができないと証明しようとした。しかし実在性には内包量、すなわち度合いがあり、単純な実体もそのあらゆる能力の度合いを無限に多くのより小さな度合いを通じて漸次的に衰弱させることによって、分割によってではなく、消燃(Elangueszenz)によって無へと変化しうるのであり、この証明は不十分である。
合理的心理学の諸命題を総合的な連関のうちで取り扱うならば、考える存在者は実体としてその実存を自分自身から規定することさえできることになり、この理性論的な体系においては観念論が不可避となる。これに対し分析的な手続きに従い、「私は考える」を現存在を含む命題として分析するならば、考える存在者一般に属するのは、私は考える、主語として、単純な主語として、私の思考のあらゆる状態において同一な主語として、という四つの契機にすぎない。
しかし第二の命題における主語という概念は単に論理的に取られているにすぎず、それによって実体が理解されるべきかは未規定のままである。単純な主語という第三の命題からは、唯物論によって考える主語の性状を説明することの不可能性が帰結するが、私が実体として存在するのか偶有性として存在するのかは、この単純な自己意識によってはまったく規定されえない。したがって合理的心理学は、我々の自己認識に何かを付け加えるドクトリン(教説)としては存在せず、ただ思弁的理性に踏み越えられない限界を設定するディシプリン(訓練)としてのみ存在する。
心理学的誤謬推理の解決の結び 合理的心理学における弁証的仮象は、理性の一つの理念(純粋な知性的存在者)を、あらゆる点において未規定な、考える存在者一般の概念と取り違えることに基づいている。経験的に規定された実存からの可能な捨象を、分離されて可能な実存についての意識と取り違え、認識の単なる形式にすぎない意識の統一を、私のうちなる実体的なものとして認識していると信じ込んでしまうのである。魂と身体の共同体という課題は、本来この心理学には属さない超越的な問いであるが、内官と外官の対象が、内的にではなく、ただ一方が他方に対して外的に現れる限りにおいてのみ区別されると考えるならば、この困難は消え去り、あとに残るのはただ、実体の共同体一般がいかにして可能であるかという、心理学の領野を超え出た問いだけである。
合理的心理学から宇宙論への移行に関する一般的注記 「私は考える」あるいは「私は考えつつ存在する」は経験的命題であるから、魂は思考においてさえ現象へと解消されてしまうように見える。しかし単なる論理的機能としての思考それ自体は、直観のあり方が感性的であるか知性的であるかを捨象するがゆえに、意識の主語を現象として表すことはない。これに対し、実存に関して主語を規定する「私は考えつつ存在する」という命題は内官の直観を必要とし、そこには単なる思考の自発性だけでなく、直観の受容性もまた存在する。
もし道徳法則の意識という実践理性の驚嘆すべき能力によって、経験のうちにではなく、我々自身の現存在をアプリオリに規定する契機が見出されるならば、一つの自発性が発見されることになるであろう。しかしそれによっても合理的心理学の試みは前進しない。実体・原因等の悟性概念に意味を与えるには、なお感性的直観が必要であり、これらの直観は我々を経験の領野を超え出るところまで連れていくことは決してできないからである。とはいえ、これらの概念は、自由とその主体という実践的使用に関しては、主語と述語、根拠と帰結という単なる論理的諸機能として、なお適用する権能をもつのである。
第二章 純粋理性のアンチノミー 詭弁的推理の第二の種類、すなわち世界概念をめぐるものは、仮言的理性推理との類比に従い、現象における客観的諸条件の無条件的統一を内容とする。誤謬推理の場合とは異なり、これは一面的な仮象をもたらすのではなく、対立する二つの主張の双方に、それぞれもっともらしい根拠が見出されてしまう、まったく自然な対立論法(アンティテティク)を生じさせる。これによって理性は、懐疑的絶望に身を委ねるか、独断的な強情によって反対の理由に耳を貸さなくなるかという誘惑にさらされることになる。
現象の総合における絶対的総体性にかかわる超越論的理念を、世界概念と呼ぶことにする。純粋理性の誤謬推理が弁証的心理学の根拠を築いたのと同様に、純粋理性のアンチノミーは、純粋な(合理的な)宇宙論の超越論的諸原則を、それを妥当なものとして認めてわがものとするためではなく、現象とは両立しえない一つの理念として、その眩惑的だが誤った仮象のうちに描き出すのである。
第一節 宇宙論的理念の体系 理性は、与えられた条件づけられたものに対して、条件の側における絶対的総体性を要求し、それによってカテゴリーを超越論的理念へと変える。この要求が向かうのは、互いに従属し合う諸条件からなる系列の総合、すなわち遡行的総合の総体性のみであり、帰結へと向かう前進的総合には向けられない。
時間はそれ自体一つの系列であり、経過し尽くした時間全体が、与えられた瞬間の条件として必然的に与えられたものと考えられる。空間はそれ自体としては系列をなさないが、限界づけの条件という点では、空間における前進もまた一つの遡行であり、同じく条件の系列の総合の絶対的総体性という理念があてはまる。空間における物質の分割もまた一つの遡行的総合をなす。実体とその偶有性のカテゴリーは超越論的理念にはふさわしくないが、因果性のカテゴリーは与えられた結果に対する原因の系列を提供し、可能性・現実性・必然性の概念は、現存在における偶然的なものがつねにより高次の条件を指し示す限りで、無条件的な必然性へと理性を導く。
こうしてカテゴリーの四項目に従い、あらゆる現象の与えられた全体の合成における絶対的完全性、現象における与えられた全体の分割における絶対的完全性、一つの現象の発生における絶対的完全性、現象における可変的なものの現存在の依存性における絶対的完全性という、四つの宇宙論的理念のみが存在することになる。この無条件的なものは、系列全体としてのみ無条件的であり遡行が無限であるとする場合と、系列の一部分が絶対的に無条件的であり、それゆえ系列に一つの第一のもの(世界の始まり・世界の限界・単純なもの・絶対的自己活動性としての自由・絶対的自然必然性)が存在するとする場合との、二通りに考えることができる。
第二節 純粋理性の対立論法 アンティテティク(対立論法)とは、一方に優先的な支持を認めるのではなく、見かけ上独断的な諸認識のあいだの相克そのものを考察することである。理性を経験の限界を超えて拡張しようとするとき生じる詭弁的教説は、それ自体として矛盾を含まないばかりか、その対立命題もまた同じく妥当で必然的な主張の根拠をその側にもつ。
純粋理性の弁証的命題は、恣意的な問いにではなくあらゆる人間理性が必然的に突き当たる問いにかかわり、その仮象が暴かれた後もなお人を惑わし続ける、自然で不可避的な仮象を伴う。このような争いをみずから引き起こしてまで、その争いの対象がもしかすると単なる幻影にすぎないのではないかを吟味する手続きを、懐疑的方法と呼ぶ。これは、あらゆる認識の基礎を掘り崩す懐疑論とはまったく異なり、確実性そのものを目指すものである。
数学や経験科学、道徳においては、直観や経験、実践的帰結によって誤解を解消する手段が存するが、あらゆる可能な経験の領野を超えて拡張していく超越論的主張には、そのような試金石がない。したがって超越論的理性には、諸主張を自由かつ妨げられることなく互いに競い合わせるという、この懐疑的方法のほかに、いかなる試金石も許されないのである。
第一の相克 世界が時間において始まりをもち、空間において限界をもつかどうかをめぐる相克である。
正命題・証明 世界は時間において一つの始まりをもち、空間に関しても限界のうちに閉じ込められている。世界が時間に関して始まりをもたないとすれば、与えられたいかなる時点までにも無限の系列が経過し尽くしていなければならないが、継起的総合によって決して完結しえない系列が経過し尽くすことはできない。空間に関しても、無限に広がる世界を一つの与えられた全体として考えるには、その諸部分の継起的総合が完結したものと見なされなければならないが、これもまた不可能であるから、世界は空間においても限界のうちに閉じ込められている。
第一のアンチノミーへの注記 I 正命題について 無限性の真の超越論的概念とは、一つの量を測り尽くす際の単位の継起的総合が決して完結しえない、ということである。ここから、与えられた時点に至るまでに現実の相次ぐ諸状態の永遠が経過し尽くしているということはありえず、世界は一つの始まりをもたねばならないことが帰結する。空間的総体性についても、部分の継起的総合が完結することはありえない以上、その総体性という概念そのものが不可能なのである。
反対命題・証明 世界は始まりをもたず、空間における限界ももたない。世界に始まりがあるとすれば、世界が存在しなかった空虚な時間が先行していたはずであるが、空虚な時間においてはいかなる物の生成も不可能であるから、世界は始まりをもつことができない。同様に、世界が空間において限界づけられているとすれば、世界は限界づけられていない空虚な空間のうちに存することになるが、世界の外にはいかなる対象も見出されないのだから、そのような空虚な空間への関係は無にほかならない。したがって世界は、その広がりに関して無限である。
II 反対命題への注記 空間はそれ自体としては何ら現実的なものではなく、単に外的直観の形式、可能な諸対象の形式にすぎない。したがって、一つの空間が諸現象によって限界づけられることはありうるが、諸現象がそれらの外にある空虚な空間によって限界づけられることはありえない。世界の限界を想定するならば、世界の外にある空虚な空間と、世界に先立つ空虚な時間という二つの非在物を想定せざるをえないのであり、ここで問題になっているのはただ現象界だけであって、あらゆる直観の条件を捨象した可想界に関しては、いかなる総合的命題も不可能である。
第二の相克 世界におけるあらゆる合成された実体が単純な部分から成り立っているかどうかをめぐる相克である。
正命題・証明 世界におけるあらゆる合成された実体は単純な部分から成り立っており、いたるところに単純なもの、あるいは単純なものから合成されたもの以外は何も存在しない。合成された諸実体が単純な部分から成り立っていないとすれば、思考のうちであらゆる合成を廃棄するとき何も残らないことになり、いかなる実体も与えられなかったことになってしまう。したがって、あらゆる合成を欠いて存立する単純なものが残らなければならない。
第二のアンチノミーへの注記 I 正命題について 空間と時間は合成体ではなく全体であり、単純な部分から成り立ってはいない。合成されたものから単純なものへの推論は、それ自体で存立する事物についてのみ妥当し、状態の偶有性には妥当しない。ここで問題にされている単純なものは、合成されたものの構成要素としての単純なもの、すなわちアトムスであり、この反対命題の弁証的原則はモナドロギー(単子論)と呼んでおく。
反対命題・証明 世界におけるいかなる合成されたものも単純な部分から成り立ってはおらず、この世界のうちにはいかなる単純なものもどこにも存在しない。合成されたものが単純な部分から成り立っているとすれば、その部分が占める空間もまた単純な部分から成り立たなければならないが、空間はさらなる空間からのみ成り立ち単純な部分からは成り立たない。さらに、端的に単純なものの現存在は、いかなる経験や知覚によっても証示されえない以上、感性界のうちには単純なものは何一つ与えられていない。
II 反対命題への注記 単子論者は、空間を外的直観の対象の可能性の条件とみなすのではなく、逆に諸実体の力学的関係を空間の可能性の条件として前提することで、この困難を回避しようとする。しかし物体は現象としての概念しかもたず、あらゆる外的現象の可能性の条件として必然的に空間を前提するのであるから、この逃げ道は無効である。ただし、思考する私が端的に単純な実体であるという主張については、単なる自己意識のうちには互いに外にある多様なものが知覚されえない、という事情がその根拠となっているにすぎない。
第三の相克 自然法則に従う因果性のほかに、自由による因果性を想定する必要があるかどうかをめぐる相克である。
正命題・証明 自然の法則に従う因果性は、世界の諸現象がすべてそこから導出されうる唯一の因果性ではなく、自由による因果性もまた必然的に想定されなければならない。すべてが単に自然の諸法則に従って生起するとすれば、あらゆる原因はそれ自体もまた生起したものとしてさらに先行する原因を前提することになり、そこにはつねに副次的な始まりがあるだけで第一の始まりがなく、系列の完全性が成り立たない。したがって、それに先行する原因によっては規定されない、原因の絶対的自発性、すなわち超越論的自由による因果性が存在しなければならない。
第三のアンチノミーへの注記 I 正命題について 自由という超越論的理念の内容は、行為の絶対的自発性、すなわち継起する諸状態の系列をみずから始める能力である。この能力がひとたび証明されれば、世界の経過のただ中においても、種々の系列をみずから始めさせることが許される。たとえば私が自然原因の必然的な影響を受けることなく自由に椅子から立ち上がるとき、時間の点では先行する系列の継続であっても、因果性の点では端的に新しい系列の始まりなのである。
反対命題・証明 自由というものは存在せず、世界においてはすべてがもっぱら自然の法則に従ってのみ生起する。超越論的自由が存在すると想定すれば、その自発性そのものが端的に始まることになり、その行為はいかなる先行する状態にも因果的に連関しない状態を前提することになるが、これは因果法則に反しており、いかなる経験のうちにも見出されない空虚な思考物である。自然の諸法則からの自由は、強制からの解放であると同時に、あらゆる規則の導きの糸からの解放でもあり、経験の徹底的で合法則的な統一を断ち切ってしまう。
II 反対命題への注記 自然の全能性の擁護者は、時間の点で第一なるものを想定しないのと同様に、因果性の点でも第一なるものを求める必要はないと主張しうる。しかし、たとえ超越論的自由の能力がいくらか認められるとしても、それは世界の外にのみ存在しうるのであって、世界の内部の諸実体にそのような能力を帰属させることは、普遍的諸法則に従って互いを規定し合う現象の連関、すなわち自然そのものを崩壊させてしまうがゆえに、決して許されない。
第四の相克 世界に端的に必然的な存在者が属するかどうかをめぐる相克である。
正命題・証明 世界には、その部分としてであれその原因としてであれ、端的に必然的な存在者である何かが属している。感官界はあらゆる変化の系列を含んでおり、あらゆる変化はそれに先行する条件のもとにあるから、与えられた被制約者は、端的に無制約なもの、すなわち絶対的に必然的なものに至るまでの完全な条件の系列を前提する。この必然的なものは、時間の外にはありえない以上、感官界そのものに属さなければならない。
第四のアンチノミーへの注記 I 正命題について この証明は宇宙論的論拠、すなわち現象における被制約者から系列の絶対的総体性の必然的条件へと上っていく論拠であり、必然的存在者が世界そのものであるか、それと区別された物であるかは未決定のままにする。証明を宇宙論的に開始した以上、途中から系列の一項に属さない何かへと飛躍することはできず、最上の原因は時間系列に属するものとしてのみ遡行を終結させうるのである。
反対命題・証明 端的に必然的な存在者は、世界のうちにも、世界の原因としてその外にも、いっさい存在しない。世界そのものが必然的存在者であるとすれば、無制約に必然的な、原因をもたない始まりがあることになり力学的法則に反するか、あるいは系列全体が矛盾を含むことになる。世界の外に必然的な世界原因があるとしても、その原因が行為し始める以上、その因果性は時間のうちに、すなわち世界のうちに属することになり、前提と矛盾する。
II 反対命題への注記 このアンチノミーには、正命題と反対命題とがまったく同じ証明根拠から対立する結論を導くという、奇妙な対比が見られる。正命題は諸条件の系列の絶対的総体性に目を向けて無制約なものを得るのに対し、反対命題は時間系列のうちで規定されているすべてのものの偶然性に目を向けて、あらゆる無制約なものを失わせる。この両者の推論はいずれも、対象を異なる観点から考察することによる、人間理性にとってごく自然なものである。
第三節 この相克における理性の関心について この相克の起源が単なる誤解にあるのではないかと思案するにあたり、真理の試金石としてではなく、我々自身の関心という観点から、両当事者がそこから出発する諸原理を比較してみよう。反対命題の側には純粋な経験論という思考様式の均質性が見られ、正命題の側にはなお知性的な諸端緒を根底に置く純粋理性の独断論が見られる。
独断論(正命題)の側には、第一に、世界の始まり・魂の単純性と不滅性・意志の自由・根源的存在者という、道徳と宗教の礎石を支える実践的関心がある。第二に、無条件的なものから出発して被制約者の導出を完全にアプリオリに把握できるという思弁的関心がある。第三に、絶対的に第一のものという理念に安楽さを見出す通俗性という利点がある。
経験論(反対命題)の側には、道徳や宗教を支える実践的関心は見出されないが、悟性がつねに可能な経験という自らに固有の地盤の上に立ち、その認識を際限なく拡張できるという、きわめて魅力的な思弁的関心がある。ただし経験論が、理念に関してそれ自身独断的になり、自らの直観的認識の範囲を超えたものを大胆に否定するならば、経験論そのものが不遜という誤りに陥る。これがエピクロス主義とプラトン主義との対立である。
さらに、人間理性はその本性からして建築術的であり、あらゆる認識を一つの可能な体系に属するものと見なすため、いかなる第一のものも認めない反対命題のもとでは、認識の完全な建築物が不可能となる。この建築術的関心もまた正命題の諸主張を推薦する。しかし、いよいよ行為し実践するという段になれば、この単に思弁的な戯れは消え去り、我々は自らの原則を実践的関心にのみ従って選ぶことになるのである。
第四節 純粋理性の超越論的諸課題について、それらが端的に解決されうる限りにおいて 自然の個々の現象の説明とは異なり、超越論哲学において理性に与えられた対象にかかわる問いは、いかなるものも、まさにその同じ人間理性にとって解決不可能ではありえない。というのも、我々を問いを立てうる状態にする概念そのものが、まさにその問いに答えうる状態にも我々をしうるはずであり、対象はこの概念の外にはいっさい見出されないからである。
このような満足のいく答えを正当に要求しうるのは、宇宙論的理念にのみかかわる問いである。その対象と、それに必要な経験的綜合とは与えられたものとして前提されうるが、そこから生じる問いは、経験のうちには決して与えられえない絶対的総体性という、この綜合の進行にのみかかわる。したがって、その答えは理念のほかにはどこにも見出されえない。というのも、この理念は理性の単なる産物にほかならず、理性はその責任を未知の対象へと転嫁することができないからである。
第五節 四つの超越論的理念すべてを通じた宇宙論的問いの懐疑的呈示 もし、ある宇宙論的理念について、それが現象の遡行的綜合における無制約なもののどちらの側に転ぼうとも、いずれにせよあらゆる悟性概念にとって大きすぎるか小さすぎるかのいずれかであろうと、あらかじめ洞察できるならば、その理念自体が空虚で意味を欠くものであることが分かる。世界に始まりがないとすればそれは悟性概念にとって大きすぎ、始まりがあるとすればなお先行する時間を前提するがゆえに小さすぎる。空間についても、無限であれば大きすぎ、限界づけられているとすればその限界を規定するものが問われて小さすぎる。
物質の分割が無限に続くとすれば遡行は大きすぎ、単純なものにおいて終わるとすればなお複数の部分への遡行を残すため小さすぎる。すべてが自然の因果性に従うとすればより高次の原因への遡行が際限なく必要となり大きすぎ、自由による産出を選ぶとすれば経験の因果法則がなお先へ進むことを強いるため小さすぎる。端的に必然的な存在者を想定すれば経験的概念にとって近づきがたく大きすぎ、すべてが偶然的であるとすればなお依存する別の現存在を探し求めることを強いられ小さすぎる。
いずれの場合も理念が経験的遡行にとって大きすぎるか小さすぎるかするのは、可能な経験こそが我々の諸概念にその実在性を与えるものであり、理念が単なる思考物にすぎないのか世界のうちに対象を見出すのかを判定する基準だからである。したがって我々は、これらの宇宙論的理念の根底に、その対象が我々にどのように与えられるかについての、空虚で単に思い描かれたにすぎない概念が存しているのではないかという、根拠ある疑いを抱くに至るのである。
第六節 超越論的観念論、宇宙論的弁証論を解決する鍵として 経験の対象は、それ自体として存在するのではなく、経験においてのみ与えられ、経験を離れては存在しない。空間や時間のうちで直観されるものはすべて、したがって可能な経験の対象はすべて、現象にほかならず、すなわち単なる表象であって、我々の外に、それだけで自体的に存立するようないかなる現存在ももたない。これに反して超越論的実在論者は、時間および空間を、我々の感性から独立に、それ自体として与えられているものとみなし、それゆえ外的現象をも、我々やその感性から独立に自体的に存在する物とみなす。まさにこの超越論的実在論者こそ、後になって経験的観念論者を演じ、外的現象がそれ自体として自存する物であるという誤った前提のもとに、我々の外的直観の一切の確実性を疑わしいものにしてしまうのである。これに対して超越論的観念論者は経験的実在論者たりうる。すなわち、空間のうちで直観される外的対象も、時間のうちで表象される内的状態も、いずれも同等に現実的なものと認めながら、なお空間と時間、そしてそれらのうちにあるすべての現象は、それ自体としては何物でもなく、我々の表象にほかならないとみなすのであり、それらが我々の外に、それ自体として存在すると主張することは決してない。
月に住民が存在するかどうかは、誰もこれを知覚したことがないとしても、我々が経験の進行のうちで到達しうる知覚の系列のうちに位置づけうる限りにおいて、現実的なものと言われねばならない。同様に、我々がいまだかつて意識したことのない過去の出来事も、可能な知覚の系列を、経験的法則にしたがって現在の知覚へと遡らせて連結しうる限りにおいて、現実的なのである。この現象の根底に想定される、感性的ならざる未知の原因は、超越論的対象と呼ばれ、我々の可能な知覚の全範囲がそこへと関係づけられうるものであるが、それ自体としては経験に先立って認識されうるものではなく、ただ経験的遡及の系列に属するものとしてのみ考えられうる。このように、現象の実在性を、それ自体として与えられた完結した全体としてではなく、経験的遡及によってのみ規定されうるものとして捉える超越論的観念論の立場こそ、宇宙論的弁証論の解決の鍵をなすのである。
第七節 理性がそれ自身との宇宙論的争いについてなす批判的決定 四つのアンチノミーの根底には、いずれも次のような推論が潜んでいる。すなわち、制約されたものが与えられているならば、その制約の系列全体もまた与えられている、しかるに感官の対象は制約されたものとして与えられている、ゆえに……という推論である。しかしこの推論における「与えられている」という語には、一つの多義性が潜んでいる。制約の系列への遡及がなされるべきことが課題として要求されているにすぎない、という意味であれば、この命題は分析的に真であり、何ら異論の余地はない。しかし、この系列とその全体性とが、対象そのもののうちにすでに現実に与えられている、という意味であれば、この命題が妥当するのは、物自体についてのみである。物自体についてであれば、その総合は時間的な継起をまったく含まぬがゆえに、その系列全体がいわば一挙に与えられていると言うことができる。しかし現象については決してそうではない。現象の経験的総合は本性上つねに継起的であって、遡及という営みが現実に遂行される限りにおいてのみ与えられるのであり、あらかじめ完結した全体としては決して与えられていない。この語の多義性(figurae dictionisの詭弁)こそが、宇宙論的推論の誤謬の根にほかならない。
対立には二種類がある。分析的・矛盾的対立においては、二つの対立する判断のうち一方は必ず真でなければならない。これに対して弁証的対立においては、両者がともに偽でありうる。なぜなら両者は、ともに一つの誤った共通の前提を分かち持つからである。エレアのゼノンが「神」について相矛盾するように見える主張を並べたのも、あるいは「ある物体は良い香りがするか、良い香りがしないかのいずれかである」という命題と「ある物体は良い香りがするか、良い香りでないかのいずれかである」という命題との違いも、この区別を示す例である。前者の対立は、物体がおよそ匂いをもたないという第三の場合を許すがゆえに弁証的でありうる。しかるに数学的な最初の二つのアンチノミーにおける正命題と反対命題もまた、ともに、世界がそれ自体として存在する一つの物であり、絶対的な大きさを定まったものとしてもつという、誤った共通の前提を分かち持っている。この前提を斥けるならば、「世界は無限である」も「世界は有限である」もともに偽となる。なぜなら世界、すなわち現象の系列は、表象の継起的な総合的遡及のうちにおいてのみ存在するのであって、その遡及に先立ち、あるいはそれから独立に与えられた確定した全体としては、そもそも存在しないからである。この論法は、大きさのみならず、四つの宇宙論的理念のすべてに同様に及ぼされうる。かくしてアンチノミーは、単なる弁証的仮象の争いにすぎないことが示されて解消されるとともに、この解消はそのまま、現象の超越論的観念性についての間接的な証明ともなる。もし世界がそれ自体として存在する一つの全体であるとすれば、それは有限であるか無限であるかのいずれかでなければならないが、正命題・反対命題の証明が示す通り、そのいずれもが偽である。したがって世界がそれ自体として存在する一つの全体であるという前提そのものが偽であり、ゆえに現象は我々の表象にほかならないということになる。
第八節 宇宙論的理念に関する純粋理性の規制的原理 総体性を求める宇宙論的原則は、条件の系列の最大限が客観のうちにあらかじめ与えられているとする構成的原理としては成り立たないが、遡行をどこまでも続けよと命じる規制的原理としては、なおも正当な意義を保つ。この規則は対象が何であるかを語るのではなく、与えられた制約されたものから出発し、無制約なものへと向けて諸条件の系列のうちを遡行してゆくべきことを課題として指示するにすぎず、その無制約なものが経験のうちで実際に到達されることは決してない。
この遡行がどこまで及ぶかについては、無限への遡行(regressus in infinitum)と不定への遡行(in indefinitum)とを区別しなければならない。全体がすでに経験的直観のうちに与えられている場合――たとえば与えられた一つの物体の分割の場合――には、遡行は無限に進む。なぜなら全体とともに、そのあらゆる可能な部分もまた、あらかじめ経験的に与えられているからである。これに対し、系列のうちのただ一項のみが与えられており、絶対的総体性へと向けた遡行がそこから初めて進められるべき場合――たとえばある人間の祖先の系列の場合――には、遡行はただ不定な仕方で及ぶにすぎない。いずれの場合にも、諸条件の系列がそれ自体として有限であるか無限であるかが問われているのではない。系列はそれ自体としては何ものでもなく、遡行そのもののうちにおいてのみ与えられるのであるから、問いはただ、我々がその経験的遡行をどのように、そしてどこまで行うべきかにのみ関わるのである。
第九節 宇宙論的理念に関する規制的原理の経験的使用について 純粋悟性概念にも理性概念にも超越論的使用は存在せず、感官界における諸条件の系列の絶対的総体性は、もっぱら理性の超越論的使用にのみ基づいている。しかるに感官界はそのようなものを含まない以上、この系列の大きさについて、それが限界づけられているか、それ自体として無限であるかを語ることはできず、ただ、経験をその諸条件へと遡らせるにあたって、我々がどこまで経験的遡行を続けるべきかを語りうるにすぎない。したがって、諸現象それ自体についての構成的原理としての理性の原理の無効性が示された後に残されるのは、可能な経験の継続と大きさについての一つの規則としての、その妥当性のみである。この規則が、対象にふさわしい悟性の最大限可能な使用を規定するものとして確証されうるならば、弁証的であったはずの原則は教義的な原則へと転じ、理性が自分自身と争うことも完全に終わることになる。この確証を、四つの宇宙論的理念それぞれについて、以下の各節で具体的に示していく。
I 世界全体からの諸現象の合成の総体性という宇宙論的理念の解決 経験的遡行においては、絶対的限界についてのいかなる経験も、また経験的に端的に無制約な条件についてのいかなる経験も、決して見出されえない。したがって世界全体の大きさについての宇宙論的問いに対する第一の答えは消極的なものとなる。すなわち世界は、時間における第一の始まりをも、空間における最外部の限界ももたない。なぜなら、そのような限界が成り立つとすれば、世界は空虚な時間あるいは空虚な空間によって限界づけられていることになるはずであるが、内容のまったく空虚なそのような経験は不可能だからである。ここから同時に、一つの肯定的な答えも導かれる。世界の諸現象の系列における遡行は、不定なるもの(in indefinitum)へと進む、というものである。世界全体はつねにただ概念のうちにのみもたれ、直観のうちに全体として与えられることは決してない以上、世界の大きさについての概念は、遡行に先立って与えられているのではなく、遡行そのものによってはじめて与えられる。したがって我々は、世界の大きさそれ自体について、有限であるとも無限であるとも、そこにregressus in infinitumが成立するとさえも言うことができず、ただ、系列のいずれの項からもつねになおいっそう高次の項へと進んでいかなければならないという規則を、経験的遡行に対して示しうるにすぎない。
II 直観のうちで与えられた一つの全体の分割の総体性という宇宙論的理念の解決 直観のうちに与えられた一つの全体の分割は、これに反して事情を異にする。物質のようにその限界のうちで全体として直観に与えられているものについては、その分割の遡行は無限に進む、と言うことができる。なぜならその全体とともに、そのあらゆる可能な部分もまた、あわせて経験的直観のうちにすでに与えられているからである。しかしそれでもなお、そのような無限に分割可能な全体が無限に多くの部分から成る、と言うことは許されない。全体の直観のうちにはあらゆる部分が含まれているとしても、分割の全体、すなわち分割の系列全体は含まれておらず、これは継続していく分解、すなわち遡行そのもののうちにのみ存するからである。空間は、その限界のうちに直観されるものはすべて一つの全体であって、その諸部分はいかなる分解によってもつねに再び空間であり、無限に分割可能である。物体の可分性もまた、物体が延長する全体としての可能性をなす空間の可分性に基づいており、それゆえ無限に分割可能ではあるが、無限に多くの部分から成るのではない。ただし、これは物質が単なる空間の充填として細分される限りにおいて妥当するのであって、あらかじめ分節された有機的全体のように、全体がその概念自体によってすでに分割されたものとして表象される場合にまで、この無限分割の規則を拡張することはできない。そのような組織化がどこまで及ぶかは、経験のみが決めうることである。
数学的・超越論的理念の解決への結びの注記、および力学的・超越論的理念の解決への予備的注記 これまでのアンチノミーの争いは、いずれも、諸条件を制約されたものと同種的な系列の諸項として表象する点で共通していた。そこでは対立する両主張をともに偽と宣言する以外に、争いを解消する道はなかった。しかし範疇表に従えば、二つの宇宙論的理念は諸現象の数学的総合に、残りの二つは力学的総合にかかわっており、この相違を見過ごしてはならない。数学的総合における諸条件は、それ自体系列の一部をなす同種的な条件しか許さない。これに対して力学的総合における感性的諸条件の系列は、系列の一部ではなく単に可想的なものとして系列の外に存する、非同種的な条件をも許容する。それによって理性は満足させられ、しかも諸現象の系列そのものが混乱させられることもない。かくして力学的理念においては、経験的には無制約でありながら非感性的な条件とも結びつくことにより、悟性と理性の双方を満足させることができ、対立する両主張がともに真でありうることになる。これに対して単に数学的に無制約な統一にのみかかわる理念においては、このようなことは決して起こりえない。
III 諸原因からの世界出来事の導出の総体性という宇宙論的理念の解決 生起することについては、自然に従う因果性と自由による因果性の二種類しか考えられない。前者はある状態と、それに先行する状態との、時間諸条件に基づく結合であり、この先行する状態の因果性もまたそれ自体発生したものである以上、ふたたび一つの原因を必要とする。これに対して宇宙論的な意味における自由とは、ある状態をおのずから始める能力であり、その因果性は自然法則に従ってふたたび別の原因のもとに立つことがない。もし諸現象がそれ自体としての事物であるならば、自由を救うことはできず、自然はいかなる出来事についても十分に規定する原因であることになる。しかし諸現象が、それ自体としての事物ではなく、経験的諸法則に従って連関する単なる表象にすぎないならば、諸現象自身もまた、現象ではないような根拠をなおもたなければならない。そのような可想的な原因は、その因果性に関しては諸現象によって規定されることがなく、系列の外にある。したがって同じ結果が、その可想的な原因に関しては自由であると見なされながら、同時に諸現象に関しては自然の必然性に従って生じたものと見なされることができる。
自然必然性の一般法則と結合した自由による因果性の可能性 感官の一つの対象において、それ自体は現象ではないものを可想的と呼ぶ。感官界において現象と見なされる主観が、感性的直観の対象ではない一つの能力をもち、それによって諸現象の原因でありうるならば、その因果性は二重に考察されうる。すなわち、それ自体としての事物のその行為に即しては可想的な因果性として、感官界における一つの現象としてのその諸結果に即しては感性的な因果性としてである。かくして感官界のある主観には、その諸行為が自然諸法則に従って他の諸現象と連関する経験的性格と、この経験的性格の根底にありながらそれ自体はいかなる感性の諸条件のもとにも立たない可想的性格とが、ともに認められなければならない。可想的性格に従うならば、この主観はいかなる時間的条件のもとにも立たず、いかなる行為も発生したり消滅したりすることはない。この主観は、その経験的性格に従うならば現象として自然の因果連結に服しながら、その可想的性格に従うならば感性のあらゆる影響から解放されており、自らの結果をおのずから始めるという意味において自由である。かくして自由と自然は、同じ一つの行為のうちに、それを可想的原因と比較するか感性的原因と比較するかに応じて、いかなる争いもなく同時に見出されうる。
自然必然性との結合における自由の宇宙論的理念の説明 あらゆる出来事は、悟性の法則に従って一つの自然秩序のうちで経験的に規定されており、いかなる現象もこの法則から除外されることはない。問題はただ、この自然必然性を認めたうえで、同じ結果を自由からの結果とも見なすことが可能であるか否かである。現象における諸原因のうちには、端的におのずから一つの系列を始めうるものはなく、あらゆる行為は先行する状態を前提する結果にすぎない。しかし、経験的因果性の各々の結果が、自然諸原因との連関を中断することなく、それでもなお可想的な因果性の結果でありうるとすれば、行為する主観は現象としての原因として自然と結びついたままでありながら、その行為の可想的根拠だけは単に可想的なものと見なされうる。人間はその選択意志の経験的性格をもち、その限りにおいてあらゆる行為は先行する諸条件から必然的なものとして予見されうるはずであり、この経験的性格に関しては自由は存在しない。しかし人間は同時に、感官の印象には数え入れられない諸行為と内的諸規定とにおいて自らを認識する能力、すなわち悟性と理性という単に可想的な能力をもつ。理性は自らの因果性を、実践のあらゆる場面で命令する「べし」という語のうちに示す。べしは単なる自然の経過のうちにはいかなる意味ももたず、理性は経験的に与えられた根拠に屈することなく、理念に従った独自の秩序を自らに作り出す。
人間の選択意志の経験的性格は結果としての諸現象から引き出され、この性格に関してはいかなる自由も存在しない。しかし同じ諸行為を、理性がそれ自体の可想的性格において原因である限りにおいて考察するならば、事情はまったく異なる。可想的性格における理性の因果性は発生するのでも、ある時に始まるのでもなく、時間の諸条件にまったく服さない。したがって理性が諸現象に関して因果性をもちうるとすれば、理性はそれを通じて結果の経験的系列の感性的条件がはじめて始まるような能力であり、その条件自体は感性的でないがゆえに始まらない。これは、悪意ある虚言を例にとれば明らかになる。その行為を悪い教育や性向、機縁といった経験的諸原因に即して説明しながらも、人はなおその行為者を非難する。この非難は、過ぎ去った諸条件の系列をなかったこととし、理性がそれらのあらゆる経験的諸条件にかかわりなく、行為者の行動を別様に規定することができたし、また規定すべきであった、という一法則に基づいている。すなわち行為はその可想的性格に帰せられ、行為者はまったく自由であったと見なされるのである。しかし、なぜ可想的性格がまさにこれらの現象と経験的性格とを与えるのかは、我々の理性のあらゆる能力を超え出ている。ここで示しえたのは、自由が現実であること、あるいはその可能性でさえもなく、ただ自由と自然必然性とが一つの同じ行為において互いに矛盾せず、両立しうるということだけである。
IV 現象一般の現存在に関する依存の総体性という宇宙論的理念の解決 先の項目では感官界の諸変化を力学的系列において考察したが、ここで問題となるのは無制約な因果性ではなく、実体そのものの無制約な現存在、すなわち必然的存在者へと至る系列である。諸現象の総体のうちにあるものはすべて可変的であり現存在において制約されている以上、この依存的現存在の系列のうちには、その現存在が端的に必然的であるような無制約な項はあり得ない。しかし力学的遡行は数学的遡行とは異なり、制約は被制約者とともに必ずしも一つの経験的系列をなす必要がない。したがって、感官界のあらゆる物はまったく偶然的であり、つねにただ経験的にのみ制約された現存在をもつにすぎないが、それにもかかわらず系列全体について、一つの可想的な、無制約に必然的な存在者が成り立ちうる、と言うことができる。この存在者は、系列にその一員として属することなく、系列のいかなる一員をも経験的に無制約にすることもなく、感官界の全体を、そのあらゆる項を通じて成り立つ経験的に制約された現存在のうちに、そのままにしておく。かくして、感官界のうちにあるすべてのものは経験的に制約された現存在をもつという理性の規制的原理と、系列全体がある可想的存在者のうちに基礎づけられうるということとのあいだには、真の矛盾は見出されず、両者はともに真でありうるのである。
純粋理性の全アンチノミーへの結びの注記 我々の理性概念が、感官界のうちにある諸条件の総体性のみを対象とする限り、それらの理念は超越論的ではあってもなお宇宙論的である。しかし無制約なものを、感官界の外、あらゆる可能な経験の外にあるもののうちに置くやいなや、理念は超越的となる。それはもはや経験的理性使用の完成に役立つ理念にとどまらず、経験から材料を取ることのない、みずからのための対象を作り出すことになる。このような超越的な理念は、単に可想的な対象をもつにすぎず、それを内的諸述語によって規定可能な一つの物として考えるいかなる根拠も我々の側にはなく、それは単なる思考物にすぎない。しかし、第四のアンチノミーを引き起こしたあの理念こそが、我々にこの一歩を踏み出すことを強いる。というのも、それ自体としては決して根拠づけられておらず、つねに制約されているにすぎない諸現象の現存在は、あらゆる現象から区別された一つの可想的対象を、その偶然性が終わるところのものとして探し求めるよう、我々を促すからである。この可想的な必然的存在者の探究から、物一般についての純粋な諸概念による認識を導き出そうとする試みが、次の主部――純粋理性の理想――において企てられることになる。
第三章 純粋理性の理想 純粋理性のうちに含まれる三つの理念のうち、神にかかわる弁証的推論を扱う、第二巻最後の章である。理念によって個体的に規定されたただ一つのものとしての対象、すなわち理想という概念を導入し、あらゆる可能な述語の総体という理念から、最も実在的な存在者としての神の理念、すなわち超越論的理想が理性にとって必然的に生じることを示す。そのうえで、この理想から神の現存在を証明しようとする存在論的証明・宇宙論的証明・自然神学的証明という三種類の伝統的証明を、順に取り上げて批判していく。
第一節 理想一般について 純粋な悟性概念は、感性の諸条件のもとでなら諸現象へと適用されて具体的に呈示されうるが、理念は、それが具体的に表象されうるようないかなる現象も見出されない以上、カテゴリーよりもさらに客観的実在性から遠く隔たっている。理想はさらにこれよりも隔たっている。理想とは、単に具体的にではなく個体的に、すなわち理念のみによって規定可能な、あるいはまさしく規定された一つの個別的な物としての理念を意味する。プラトンにとって理念は神的悟性のうちにある一つの個別的対象、すなわちあらゆる模像の原根拠であったが、そこまで高く飛び立たなくとも、人間理性は理念だけでなく理想をも含んでいる。たとえばストア派の賢者は一つの理想であり、単に思考のうちにのみ存在するが、知恵の理念と完全に合致する一人の人間である。理念が規則を与えるのに対し、理想は原像として、模像の全面的規定に役立つのであり、我々はそれに到達することは決してできないとしても、これと自らを比較し、判定し、改善するのである。これらの理想に客観的実在性を認めることはできないが、それゆえに脳中の妄想と見なされるべきではなく、むしろ理性に不可欠な規範を与えるものである。
第二節 超越論的理想について(プロトテュポン・トランスツェンデンタレ) あらゆる物は、その可能性に関して、全面的規定の原則のもとに立つ。すなわち、諸物のあらゆる可能な述語のうち、その対立するものと比較される限り、そのいずれか一方が物に帰属しなければならない。この原則は、各々の物を、諸物一般のあらゆる述語の総体としての全体的可能性との関係においても考察し、これをアプリオリな条件として前提するのである。この全体的可能性、すなわちあらゆる可能な述語がそこから取られうる素材の総体は、実在性の全体(オムニトゥード・レアリタティス)の理念にほかならず、あらゆる真の否定は、この無制限なものの単なる制限として、はじめて理解されうる。この実在性の全体的所有によって全面的に規定された一つの個別的存在者の概念、すなわちエンス・レアリッシムム(最も実在的な存在者)こそが、純粋理性の一つの超越論的理想である。理性はこの理念をさらに実体化しつつ追い求めるならば、根源存在者を、唯一・単純・全充足的・永遠等々、その無制約な完全性において規定することができるであろう。このような存在者の概念こそが、超越論的な意味で考えられた神の概念であり、純粋理性の理想は超越論的神学の対象なのである。しかしこの理想は、理性が諸物一般の全面的規定の根底に置くべく必要とした単なる理念にすぎず、それが客観的に与えられ、それ自体一つの物を成すことを求めたのではない。この理想を実体化し、さらには人格化してしまう仮象は、感官の対象の可能性についての経験的原理――あらゆる経験的実在性の総体をその可能性の制約として前提するという原理――を、この制限を取り除いて、諸物一般の可能性についての超越論的原理へとすり替えてしまうことに由来するのである。
第三節 最高存在者の現存在を推論するための思弁的理性の証明根拠について 理性は、通常の経験、すなわち何か現存するものから出発する。もし何かが現存するならば、何か或るものが必然的に現存するということもまた認められなければならない。というのも偶然的なものは、他の何かという条件のもとでのみ現存するのであり、この推論は無条件に必然的な一つの原因に至るまで続けられうるからである。そこで理性は、この無制約な必然性にふさわしい存在者の概念を、可能な諸物のあらゆる概念のうちから探し求め、あらゆる方面において条件として十分であるもの、すなわち最高実在性をもつ存在者のうちにこれを見出す。こうして理性は、あらゆる実在性を含む最高存在者が、あらゆる物の原根拠として端的に必然的にそこに存在する、と結論する。思弁的理性による神の現存在の証明は、三種類のみが可能である。すなわち、規定された経験から世界の外にある最高原因へと昇っていく自然神学的証明、不確定な経験、すなわち何らかの現存在を根底に置く宇宙論的証明、そしてあらゆる経験を捨象し単なる諸概念からアプリオリに最高原因の現存在を推論する存在論的証明である。これ以外の道はありえない。経験がそのための最初の契機を与えるとはいえ、これらいずれの証明においても、実は単に超越論的概念のみが理性をその努力において導いている。以下ではまず、この超越論的証明――存在論的証明――の吟味から始め、その後で宇宙論的証明、自然神学的証明の順に検討していく。
第四節 神の現存在の存在論的証明の不可能性について 絶対に必然的な存在者という概念は、一つの純粋な理性概念、すなわち単なる理念にすぎず、その客観的実在性は、理性がそれを必要とするということによってはまだ証明されていない。これまで挙げられてきた必然性の実例は、いずれも判断から取られたものであり、諸物とその現存在から取られたものではない。たとえば三角形は三つの角をもつという命題は、三つの角が端的に必然的であるというのではなく、三角形が存在するという条件のもとで三つの角も必然的に存在する、というにすぎない。同一判断において述語を廃棄しながら主語を保持するならば矛盾が生じるが、主語をその述語ともども廃棄するならば、いかなる矛盾も生じない。神は全能であるという判断において、神は存在しないと言うならば、全能性もその他いかなる述語も、主語とともにすでに廃棄されているのであり、そこには最小限の矛盾も現れない。したがって、廃棄されれば矛盾を生じるような、端的に必然的な主語というものを、我々はいかなる最小限の概念によっても示すことができないのである。
存在論者たちは、最も実在的な存在者という概念にはあらゆる実在性が含まれており、現存在もまた一つの実在性である以上、この存在者の非存在を想定すれば矛盾が生じる、と主張する。しかしこれは、単にその可能性のみを考えようとしていた物の概念のうちに、あらかじめ現存在の概念を持ち込んでおくという、一つの同語反復にすぎない。存在は決して実在的な述語ではない。すなわち、ある物の概念に付け加わりうる何かについての概念ではなく、単に一つの物をそのあらゆる述語とともにそれ自体として措定することにすぎない。百の現実のターラーは、百の可能なターラーという概念よりも、内容としては最小限たりとも多くを含まない。両者の概念はまったく同一である。しかし私の財産の状態にとっては、百の現実のターラーのほうが、その単なる概念よりも多くを意味する。なぜなら現実性においては、対象は私の概念に対して総合的に付け加わるのであり、この付加は概念そのものを少しも増やさないからである。したがって、いかなる述語によって一つの物を考えようとも、この物は存在すると付け加えて言うことによって、その物には最小限たりとも何かが付け加わることはない。感官の対象であれば、その現存在は経験的な知覚との連関を通じて認識されうるが、純粋な思考の対象については、その現存在を認識するためのいかなる手段も存在しない。かくして、諸概念のみから最高存在者の現存在を導こうとする存在論的証明のあらゆる労苦は、失われているのである。
第五節 神の現存在の宇宙論的証明の不可能性について 宇宙論的証明はこう論じる。もし何かが現存するならば、端的に必然的な存在者もまた現存しなければならない。ところで少なくとも私自身が現存する。したがって、絶対に必然的な存在者が現存する。小前提は一つの経験を含み、大前提は経験一般から必然的なものの現存在への推論を含む点で、この証明は存在論的証明とは異なり経験から出発する。しかしこの必然的存在者がいかなる性質をもつかを規定しようとする段になると、理性は経験にはまったく別れを告げ、もっぱら諸概念のうちを探究する。すなわち、あらゆる可能な物のうちで、いずれが絶対的必然性の要求される諸条件を自らのうちに含んでいるかを探し、最も実在的な存在者の概念のうちにのみこれが見出されると信じて、これこそが端的に必然的な存在者である、と結論するのである。しかしこの推論は、最高実在性をもつ存在者の概念が現存の絶対的必然性の概念を完全に満たす、すなわち一方から他方が推論されうる、ということをあらかじめ前提しており、これこそまさに存在論的証明が主張したことにほかならない。したがって、宇宙論的証明のうちで実際にあらゆる証明力を担っているのは、もっぱら諸概念のみによる存在論的証明であり、経験はそこに至る手引きとして用いられるにすぎず、証明が成立した後にはまったく余計なものとなる。この証明にはこのほかにも、感官界にのみ意味をもつ因果性の原則をその外へと拡張する誤り、経験のうちでさえ許されない無限系列の不可能性からの第一原因への推論、系列の完結に関する理性の見せかけの自己満足、論理的可能性と超越論的可能性との混同など、多くの弁証的な誤謬が寄り集まっている。かくして宇宙論的証明は、新しい道を約束しながら、実は捨てたはずの古い存在論的証明の道へと我々を連れ戻す、論点相違の誤謬を犯しているのである。
ある必然的存在者の現存在に関するあらゆる超越論的証明における弁証的仮象の発見と説明 これまで導かれた両方の証明は、いずれも超越論的、すなわち経験的諸原理から独立に試みられたものであった。何かが現存すると前提するならば、何か或るものが必然的に現存するという帰結を避けて通ることはできない。しかし私が望むいかなる物の概念を取り上げようとも、その現存在を端的に必然的なものとして表象することは決してできず、現存するものが何であれ、その非存在を考えることを妨げるものは何もない。したがって、現存するもの一般について何か必然的なものを認めなければならないとしても、いかなる一個の物も、それ自体として必然的であると考えることはできない。そこから帰結するのは、必然性と偶然性とは、諸物そのものにかかわる客観的な性質ではなく、理性の単に主観的な原理にすぎない、ということである。すなわち一方は、与えられたあらゆるものに対して何か必然的なものを探し求めよと命じ、他方は、いかなる経験的なものをも無制約なものとして受け取ってはならないと警告する。この二つの規則は、理性の単に形式的な関心に仕えるかぎり、発見法的かつ規制的な原理として、何ら矛盾なく両立しうる。したがって、絶対に必然的なものは、世界のうちに見出されることが決してない以上、世界の外に、諸現象の統一への最上の根拠として想定されなければならない。最高存在者の理想とは、世界におけるあらゆる結合を、あたかも全充足的で必然的な一つの原因から生じたかのように見なすための、理性の一つの規制的原理にほかならず、それ自体として必然的な現存在の主張ではない。しかし、この形式的な統一の原理を、超越論的なすり替えによって実体化し、あたかもそれが一つの現実の必然的対象であるかのように表象してしまうことは、ちょうど空間が単に感性の原理にすぎないにもかかわらずそれ自体で成り立つ一つの対象であるかのように表象されてしまうのと同様に、不可避の自然な仮象なのである。この規制的原理が構成的原理へと転化してしまう点にこそ、あらゆる超越論的証明に共通する弁証的仮象の真の所在がある。
第六節 自然神学的証明の不可能性について もし諸物一般の概念も、単なる現存在一般についての経験も、求められているものを成し遂げることができないとすれば、なお一つの手段が残されている。すなわち、規定された経験、つまり現在の世界の諸物のその性状と配列とが、一つの最高存在者の現存在への証明根拠を与えないかどうか試みることであり、これを自然神学的証明と呼ぶ。現在の世界が示す多様性・秩序・合目的性・美しさの光景は、我々に言葉を失うほどの驚嘆を抱かせ、この無限に偶然的なものを支える、それ自体として根源的かつ独立に成り立つ何かを想定するよう促す。この証明は最も古く、最も明晰で、通俗的な人間理性に最もふさわしいものであり、その威信から何かを奪い取ろうとすることは無駄であろう。しかしこの推論に従う限り、それが証明しうるのは、せいぜい、自らが加工する素材の適否によってつねに制限される一つの世界建築者にすぎず、そのイデーにあらゆるものが服するような一つの世界創造者ではない。というのも、世界の秩序と合目的性から証明されるのは世界における形相の偶然性にすぎず、質料そのものの偶然性ではないからである。質料そのものの偶然性を証明するには、人間の技術との類比とはまったく異なる、超越論的な論拠が必要とされるのであり、これはまさにこの証明が避けようとしていたものである。
さらにこの証明が、完全に規定された概念、すなわちあらゆる完全性を全充足的に所有する存在者の概念にまで到達しようとする段になると、経験的証明根拠だけではもはや先へ進むことができなくなる。そこで人はにわかにこの経験的な道筋を捨て去り、世界の秩序と合目的性から結論づけられていた偶然性のみを頼りに、もっぱら超越論的諸概念によって端的に必然的なものの現存在へと進み、そこから、あらゆる実在性を包摂する存在者という全面的に規定された概念へと進んでいく。こうして自然神学的証明は、その企ての途中で行き詰まり、宇宙論的証明へと跳躍するのであり、そしてこの宇宙論的証明は隠された存在論的証明にほかならない以上、この証明は実際には、当初あれほど否認していたはずの純粋理性のみによって、その意図を成し遂げているのである。したがって自然神学的証明の根底には宇宙論的証明があり、宇宙論的証明の根底には存在論的証明があるのであって、これら三つの道以外に思弁的理性に開かれた道はなく、もっぱら純粋な理性概念のみによる存在論的証明こそが、(そもそも証明というものがこの対象について可能である限りにおいて)唯一可能な証明なのである。
第七節 理性の思弁的原理からのあらゆる神学の批判 根源存在者の認識としての神学は、単なる理性からのもの、すなわち理性神学か、あるいは啓示からのものかのいずれかである。理性神学は、その対象をもっぱら純粋理性によって、超越論的概念のみを通じて考えるならば超越論的神学と呼ばれ、自然から借りてきた概念によって最高の知性として考えるならば自然神学と呼ばれる。もっぱら超越論的神学のみを認める者は理神論者と呼ばれ、その対象のもとにただ一つの世界原因を思い描くにとどまるのに対し、自然神学をも認める者は有神論者と呼ばれ、悟性と自由とによって他のあらゆる物の根源根拠を自らのうちに含む一つの世界創始者を思い描く。超越論的神学はさらに、根源存在者の現存在を経験一般から導出しようとする宇宙神論と、いかなる経験の助けも借りずもっぱら諸概念のみによってこれを認識しようとする存在神論とに分かれる。自然神学は、世界のうちに見出される秩序と統一から一つの世界創始者へと推論するものであり、それがあらゆる自然的秩序の原理としてであれば自然神学的神学、あらゆる道徳的秩序の原理としてであれば道徳神学と呼ばれる。
これまでの検討が示す通り、神学に関する理性の単に思弁的な使用のあらゆる試みは、まったく実を結ばず、その内的な性状からしてまったく無効かつ空虚である。これに対して、理性の自然的使用の諸原理は、そもそもいかなる神学にも導かない。というのも、因果性の経験的に妥当な法則は、経験の対象の連鎖のうちにとどまる限り、根源存在者にまで導くことができず、たとえこの法則を用いて経験の限界を越えて跳躍することを許したとしても、経験はあらゆる可能な結果のうちの最大のものを我々に手渡すことは決してなく、そこから一つの最高存在者についての規定された概念に至ることはできないからである。したがって、もし人が道徳的諸法則を根底に置くか、あるいはそれを手引きとして用いるのでなければ、そもそも理性の神学というものはおよそ成り立ちえない。自然神学的証明は、他の諸証明に思弁と直観とを結びつけることによって力を添えることはできるとしても、それ自身だけでこの仕事を完成させることはできないのであり、神への確信へと至る真の道は、思弁的な証明にではなく、道徳的な原理にこそ見出されなければならないのである。
超越論的弁証論への付録 これまでの批判によって、超越論的理念には対象を認識させる構成的な使用がまったくないことが示された。しかしそれでもなお、これらの理念には積極的な役割が残されている。すなわち、悟性認識に対して体系的統一を与える統整的な使用である。誤って構成的に用いられれば仮象を生むが、正しく統整的に用いられれば、それはきわめて有益な導きの糸となる。
純粋理性の理念の統整的使用について 純粋理性のあらゆる弁証的試みの帰結は、経験の領野を超え出ようとするあらゆる推論が欺瞞的であることを確証するにとどまらず、同時に次のことを教える。すなわち、超越論的理念は、悟性にとってのカテゴリーと同じく理性にとって自然なものであるが、カテゴリーが真理へと導くのに対し、理念は、それが現実の物についての概念として受け取られる場合には超越的なものとなり、抗いがたい仮象を引き起こす、ということである。しかし理性の本性に基づくものである以上、超越論的理念には良き、内在的な使用が必ずあるはずである。理性は決して対象へ直接に関係するのではなく、もっぱら悟性にのみ関係し、諸概念を作り出すのではなくただこれを秩序づけ、系列の総体性との関係における統一、すなわち体系的統一を与えるにすぎない。この統一を目指す悟性のあらゆる規則の方向線が収斂する一点を、虚焦点と呼ぶことができる。これは可能な経験の限界の外に置かれた単なる理念にすぎないが、それでもなお、悟性の諸概念に最大限の広がりとともに最大限の統一をもたらすために不可欠なのである。
悟性認識の体系性、すなわち一つの原理からの認識の連関こそが、理性が固有に取り仕切ろうとするものである。この理性による統一を求める論理的原則は、単なる方法上の経済的便法ではありえず、一つの超越論的原則を前提していなければならない。この原則に従ってこそ、体系的統一は対象そのものに付随するものとしてアプリオリに必然的だと想定されうるのであり、これなしには、我々はまったく理性をもたず、連関した悟性使用も、経験的真理の十分な標識ももちえないのである。理性はこうして悟性のために三つの原理によってその領野を準備する。第一に、より上位の諸類のもとにある多様なものの同種性の原理、第二に、同種的なもののより下位の種における多様性の原理、そして第三に、両者を結合し、あらゆる種から他のあらゆる種への段階的な移行を命じる親和性ないし連続性の原理である。これらは、諸形式の同種性・種分化・連続性の諸原理と呼ばれる。これらの原理は超越論的であり、経験的使用が従うべき単なる理念を含むにすぎず、経験的使用はそれに漸近的に近づきうるのみで決して到達することはないが、それでもなお、アプリオリな総合的命題として、発見的原則としてきわめて有益に用いられるのである。
純粋理性の諸原理は、経験的概念に関してさえ構成的ではありえない。というのも、それらに対応する感性の図式を与えることができず、具体的な対象をもつことができないからである。しかしそれでもなお、あらゆる悟性概念の全面的な体系的統一という理念は、一つの原理における悟性認識の区分と統合との極大として、感性の図式の一つの類比物として与えられうる。対象の性状からではなく、認識の完全性に関する理性の関心から取られたこのような主観的な諸原則を、理性の格率と呼ぶ。単なる統整的原則が構成的なものと見なされるならば、それらは客観的原理として互いに矛盾しうるが、単に格率としてのみ見るならば、そこに真の相争いはなく、単に方法の相違と相互制限とがあるにすぎない。人種や生物種の性格をめぐる論争、あるいはライプニッツやボネの唱えた被造物の連続的階梯という理念をめぐる論争は、いずれもこの理性の二重の関心――多様性への関心と統一への関心――の相違に由来するものであり、客観的な洞察に基づくものではない。こうした格率は、経験や観察がそれに匹敵しうる以上にはるかに先へ進むものであるが、何かを規定することなく、ただ体系的統一への道を指し示すにすぎないのである。
人間理性の自然な弁証論の究極意図について 純粋理性の諸理念は、カテゴリーのような仕方での超越論的演繹を許さない。しかしそれらが単なる思考物ではなく、何らかの客観的妥当性をもつのであれば、それらの演繹もまた可能でなければならない。或るものが端的に一つの対象として与えられるのか、それとも単に理念における一つの対象として与えられるのかは、大きな相違である。後者の場合、それは一つのシェーマにすぎず、それに対して直接にはいかなる対象も認められていない。かくして、最高の知性という概念は単なる一つの理念であり、世界の諸物は、あたかもそれらが一つの最高の知性からその現存在を得ているかのように考察されなければならない、というにすぎない。この理念は本来ただ発見法的な概念であって指示的な概念ではなく、対象がいかに構成されているかを示すのではなく、この理念の指導のもとで経験の諸対象一般の構成と結合とをいかに探求すべきかを示すのである。このように、三種類の超越論的理念が理性の経験的使用のあらゆる規則を体系的統一へと導き、経験認識を拡張しこそすれ決してこれに反することがない、と示されるならば、そのような諸理念に従って進むことは理性の必然的な格率であり、これこそが思弁的理性のあらゆる理念の超越論的演繹なのである。すなわち構成的原理としてではなく、経験的認識一般の体系的統一という統整的原理としての演繹である。
かくして我々は、第一に(心理学において)、心のあらゆる現象を、あたかもそれが人格的同一性をもち恒常的に現存する単純な実体であるかのように結合しなければならず、第二に(宇宙論において)、内的・外的自然現象の諸条件を、あたかもそれ自体として無限でありいかなる最高の項をも持たないかのように追求しなければならず、第三に(神学において)、可能な経験の連関に属するものすべてを、あたかも一つの絶対的だが徹頭徹尾依存的な統一を成すかのように考察すると同時に、あたかも現象の総体の外に一つの唯一最高かつ全充足的な根拠、すなわち自立的で創造的な一つの理性をもつかのように、我々の理性のあらゆる経験的使用を方向づけなければならない。これらの理念を客観的かつ実体的なものとして端的に受け入れることは許されず、ただそれらの実在性が、自然認識の体系的統一という統整的原理の一つのシェーマとして通用すべきなのであり、それゆえそれらは実在の諸物の類比物としてのみ、根底に置かれるべきなのである。
この理念を単に統整的な使用に制限することから離れ、これを構成的に用いるならば、理性はさまざまな仕方で誤って導かれる。第一の誤りは怠惰な理性であり、これは自らの自然探究を端的に完結したものと見なし、経験の手引きに従った自然探究のすべてを台無しにしてしまう。心理学的理念を、魂の諸現象を説明するための構成的原理としてあらゆる経験を超えて用いる独断的な心霊論者は、まさにこの誤りを犯している。第二の誤りは転倒した理性であり、合目的的統一という原理の現実性を実体化されたものとして根底に置くことから始め、自然に対して目的を暴力的かつ独裁的に押し付けてしまうのであり、こうして本来証明されるべきであったものが前提されてしまうという、証明の誤った循環が生じるのである。
超越論的神学に関して問おう。世界から区別された、世界秩序の根拠を含む何かが存在するのか。疑いなく存在する。この存在者は実体であり最大の実在性をもち必然的であるか。この問いはまったく意味をなさない、なぜなら悟性の諸概念は感官界に適用されるのでなければ意味をもたないからである。それでは、この存在者を経験の諸対象との類比によって考えることは許されないのか。むろん許される、ただし実在における対象としてではなく、理念における対象としてにすぎない。すなわち、世界の設営の体系的統一・秩序・合目的性の、我々にとって未知の基体としてである。こうして我々は、一人の賢明で全能な世界創始者を、単に理念のうちで、自然探究の統整的原理として前提することができ、また前提しなければならないのであり、それによって経験の領野を超えて認識を拡張するのではない。こうしてあらゆる人間の認識は、諸直観から始まり、そこから諸概念へと進み、そして諸理念でもって終わる。完成された批判は、思弁的使用における理性のあらゆる働きが、これらの要素でもって、可能な経験の領野を決して超え出ることはできないことを、確信させてくれるのである。
第二部 超越論的方法論 超越論的要素論において、我々は純粋かつ思弁的な理性のあらゆる認識の建築資材を見積もり、それがいかなる建築物に足りるかを規定した。判明したのは、資材の蓄えは、経験の平面における我々の仕事のためにちょうど足りるだけの一つの住居にしか足りず、天にまで届く塔という大胆な企ては、材料の不足のために挫折せざるをえない、ということであった。超越論的方法論のもとで、純粋理性の完全な体系の形式的諸条件の規定を理解する。この意図のもとで、純粋理性の訓練・カノン・建築術・歴史を扱うことになる。
第1章 純粋理性の訓練 訓練とは、才能を積極的に伸ばす陶冶とは異なり、ある種の規則から逸脱しようとする恒常的な性向を制限し根絶するための、消極的な強制である。経験的使用における理性は経験という試金石によって、数学における理性は純粋直観による具体的呈示によって、絶えず吟味に付されるため、いずれも批判を必要としない。しかし、単なる諸概念による理性の超越論的使用の場合には、理性は、可能な経験の狭い限界を超えて拡張しようとする性向を制御する一つの訓練を必要とするのであり、純粋理性の哲学全体は、まさにこの消極的な効用のみを扱う。本章では、純粋理性の訓練を、内容にではなく、もっぱら純粋理性による認識の方法に向ける。
第1節 教条的使用における純粋理性の訓練 哲学的認識は概念からの理性認識であり、数学的認識は概念の構成からの理性認識である。ある概念を構成するとは、それに対応する直観をアプリオリに呈示することを意味する。哲学的認識は特殊なものをただ普遍的なもののうちにおいてのみ考察するのに対し、数学的認識は普遍的なものを個別的なもののうちに、しかもアプリオリに、理性によって考察する。この相違は両者の対象の相違(質か量か)にではなく、認識の形式そのものに存する。構成されうるのは大きさの概念のみであり、実在性のような諸々の質は経験的直観以外のいかなる直観においても呈示されえないため、それについての理性認識は概念によってのみ可能である。一人の哲学者に三角形の概念を与えてその角の総和を探らせても、彼は概念の分析以上には進めないが、幾何学者はただちに三角形を構成することから始め、直観に導かれつつ一連の推論を通じて普遍的な解答に到達する。
この相違の根拠は、アプリオリな一つの概念が、それ自体のうちに一つの純粋直観を含んでいるか否かにある。前者であれば構成されうるが、後者であれば推論的にのみ、諸概念に従ってのみ判断が可能である。あらゆる直観のうちアプリオリに与えられているのは、諸現象の単なる形式、すなわち空間と時間のみであり、これらを大きさとして捉える概念は構成されうる。これに対して、諸現象の材料は知覚のうちにおいてのみ、後天的にのみ表象されうる。実在性・実体・力等々の超越論的概念は、経験的諸直観の総合を表すにすぎず、それに対応する直観へとアプリオリに超え出ることができない以上、そこから規定的な総合的命題は生じえず、ただ可能な経験的諸直観の総合の一つの原則が生じうるにすぎない。したがって超越論的命題とは、単なる諸概念に従った推論的な理性認識であり、それによっていかなる直観もアプリオリに与えられることはないのである。
数学の徹底性は、定義・公理・論証という三つの要素に基づいているが、そのいずれも哲学によって模倣されることはできない。経験的概念は定義されえずただ解明されうるのみであり、アプリオリに与えられた概念(実体・原因等)もまた、その分析の完全性を必当然的に確信することができない以上、厳密には定義されえない。定義に適した概念として残るのは、アプリオリに構成されうる恣意的な総合を含む概念のみであり、それゆえ定義をもつのは数学のみである。公理、すなわち直接に確実なアプリオリな総合的諸原則もまた、諸概念のみによる推論的認識である哲学のうちには見出されない。数学は概念の構成によって対象の直観のうちでその述語をアプリオリかつ直接に結びつけることができるが、哲学の総合的諸原則はつねに演繹を必要とするからである。論証、すなわち直観的である限りにおける必当然的証明もまた、数学にのみ属する。哲学的認識は普遍的なものをつねに抽象的に諸概念によって考察しなければならないため、これを論証ではなく推論的証明と呼ぶべきである。
したがって、純粋理性の哲学は、教条的な足取りで数学の称号を借りて自らを飾り立てることをやめ、むしろ自らの限界を見誤る理性の幻惑を発見し、諸概念の十分な解明を介して、思弁の自惚れを慎ましくも根本的な自己認識へと連れ戻さなければならない。諸概念からの直接に総合的な命題を教条と呼ぶならば、純粋理性はその思弁的使用において教条を一つも含んでいない。悟性概念によって理性が打ち立てる確実な諸原則も、諸概念から直接にではなく、それらを可能な経験へと関係づけることによってのみ確実なのであり、それゆえこれらは定理ではなく原則と呼ばれるべきものである。
第2節 論争的使用における純粋理性の訓練 理性はそのあらゆる企てにおいて自由な批判に服さねばならず、この自由をいかなる禁止によっても損なうことはできない。純粋理性の論争的使用とは、その諸命題を、それらに対する教条的な否定に対抗して防御することを意味する。実のところ純粋理性のうちには、本来の対立論は存在しない。アンチノミー論で見た見かけ上の対立は、諸現象を物自体として受け取るという誤解に基づくものであり、それが解ければ矛盾は消え去る。神の現存在や魂の単一な実体性といった主張とその否定との争いにおいても、否定の側が教条的に何かを主張しうる根拠はまったくなく、あらゆる可能な経験を超え出た事物について総合的に判断する権能を、いかなる人間もそもそも持ちえない以上、我々は少なくとも自らの側の占有を守ることができ、いつか反対のことが証明されるのではという心配は無用である。
ヒュームが理性の洞察に対する慰めとなる説得を掘り崩そうとしたのも、プリーストリーが魂の自由と不死性という宗教の礎石を取り壊そうとしたのも、いずれも理性の自己認識をさらに前進させようとする理性の関心にほかならない。ここで問題となるのは公共の福祉ではなく、あらゆる関心から抽象された思弁において理性がいったいどこまで到達しうるかということのみであるから、剣を振るって切り込む代わりに、批判の安全な座からこの争いを落ち着いて見物すればよい。純粋理性の批判こそが、理性のあらゆる争いにとっての真の裁判所である。批判なしには理性はいわば自然状態にあり、自らの主張を戦争によるほかには通用させられないが、批判は、その権威を誰も疑うことのできない自らの設立の根本規則から決定を下し、訴訟によって争いを解決する法的状態の平穏を与えてくれるのである。
したがって、純粋理性の領野には本来の論争は存在しない。両陣営はともに自らの影と戯れる空虚な剣術家であり、彼らは自然を超え出て、そこでは彼らの教条的な手のうちに、つかんで保持しうるものは何一つ存在しないのである。しかし、いかなる批判によっても抑制されようとしない理屈屋たちの盲目を前にしては、一方の大言壮語に対して同じ権利に基づく他方をぶつける以外に助言はなく、それによって理性は敵の抵抗によってたじろがされ、批判に耳を傾けるようになる。しかしこの懐疑的なやり方にとどまり、無知の確信と告白そのものを、理性の自分自身との争いを終わらせる方法として推奨することは、まったく無駄な企てであり、理性に安息をもたらすのにはまるで役立たない。
自己自身と不和になった純粋理性の懐疑的満足の不可能性について 自らの無知が端的に必然的であるということは、単なる観察によってではなく、ただ批判的に、我々の認識の最初の源泉を究明することによってのみ確定されうる。それゆえ理性自身の批判によってのみ可能な、この自らの無知の認識は一つの学であるが、単なる観察による無知の自覚は、そこからの推論がどこまで及びうるか言うことのできない単なる知覚にすぎない。我々の理性は、その限界がただ漠然としか認識されえない一つの平面ではなく、むしろ一つの球体に比較されなければならない。その半径は、アプリオリな総合的命題の本性から見出されるのであり、そこからその内容と限界とを確実に示すことができるのである。
ヒュームは因果性の原則について、その真理性はいかなるアプリオリな洞察にも基づいておらず、経験の反復から生じる単なる主観的な習慣にすぎないと論じ、そこから、経験を超え出ようとする理性のあらゆる企ての空虚さを結論づけた。しかし彼は、一つの物の概念から可能な経験へとアプリオリに出て行くこと(これによって因果性の概念の客観的実在性が成り立つ)と、現実の経験の対象の総合(これはつねに経験的である)とを混同してしまった。彼が悟性のアプリオリな総合のあらゆる種類を体系的に見渡していれば、持続性の原則もまた因果性の原則と同様に経験を先取りするものであることを見出し、悟性を全能力に関して批判の秤にかけ、規定された限界をあらかじめ描くこともできたはずである。しかし彼は悟性を限定するだけで画定することはせず、一般的な不信を生み出すのみで、不可避な無知についての規定された知識を何ら生み出さなかったのである。
あらゆる懐疑的な論争は、本来、批判なしに歩みを続ける教条論者に対してのみ向けられたものであり、それはただ彼を自己認識へと導くためにすぎない。懐疑論そのものは、我々が何を知り、何を知りえないかに関しては、まったく何の役にも立たない。したがって懐疑論は、理性にとっての一つの休憩所ではあるが、恒常的に留まるべき住居ではない。こうして懐疑論者は、教条的な理屈屋を、悟性と理性そのものの健全な批判へと導く訓育者なのである。懐疑的な手続きは、それ自体としては理性の諸問題にとって満足を与えるものではないが、それでもなお予備的訓練となるものであり、それによって理性の慎重さを呼び覚まし、自らの正当な所有物を確保しうる根本的な手段へと理性を導くのである。
第3節 仮説に関する純粋理性の訓練 純粋かつ思弁的な使用における理性の批判が示したのは、我々がそこでは実のところ何一つ知りえないということであった。しかし構想力が単に空想的にふるまうのではなく、理性の厳格な監督のもとで創作するべきであるならば、まず対象そのものの可能性が完全に確実でなければならず、そのうえで、実際に与えられていて確実であるものと結びつけられてはじめて、それは仮説と呼ばれうる。我々は力学的結合の可能性についてアプリオリにいかなる概念も作ることができない以上、経験的に指定することのできない新たな性状に従って対象を根源的に考え出し、それを一つの許容された仮説の根底に置くことはできない。魂を単純なものとして思考することは、その内的諸現象についての判断の統整的原理として置くためになら許容されるが、魂を単純な実体として受け入れることは、まったく恣意的で盲目的に敢行された命題であろう。
自然における秩序と合目的性は、あくまで自然の諸根拠から、自然の諸法則に従って説明されなければならない。どれほど突飛な物理的仮説であっても、これに代えて神的な創始者へと一挙に訴える超物理的な仮説よりは、まだ耐えうるものである。というのも、それは怠惰な理性の一つの原理であり、なお継続的な経験によって知りうるはずのあらゆる原因を素通りして、理性にとって好都合な単なる一つの理念のうちに安らおうとするものだからである。仮説が受け入れられるに値するための要件はまた、それが与えられている帰結をアプリオリに規定するために十分であることであり、補助となる仮説をさらに呼び出さねばならないとすれば、それらは単なる作り話にすぎないという疑いを与える。もし理性の諸主張が、仮説としてではなく、アプリオリに証明された教条として通用すべきであるならば、その証明は論証の必当然的確実性をもたなければならず、そこには意見の入り込む余地はないのである。
純粋理性の単に思弁的な問いにおいては、命題をそれに基づかせるための仮説は成り立たないが、それらを論争的な使用において弁護するためだけになら許容される。すなわち、敵対者の見せかけの洞察を無効にするために、こちらも同様に証明されえない仮説を対抗策として用いることは、正当防衛として自由なのである。例えば、精神の高揚や混乱が身体の変様にすぎないという異論に対しては、身体は思考の原因ではなく単にそれを制限する条件にすぎず、身体からの分離こそが感性的使用の終わりであり知性的使用の始まりでありうる、という仮説を対置することができる。しかしこうした仮説は、それ自体としての意見としての妥当性をもたず、ただ対立する超越的僭称に相対的な妥当性しかもたない。純粋理性が断定的に判断することは必然的でなければならないか、さもなければまったくの無であり、理性は実際にはいかなる意見をも含んでいない。それゆえこれらの仮説は、それ自体として証明済みであるかのように登場させてはならず、理性を作り話や幻惑のうちに溺れさせることのないよう、注意深く防がなければならないのである。
第4節 証明に関する純粋理性の訓練 超越論的で総合的な命題の証明は、数学におけるように概念から概念へと構成によって直接に進むことはできず、つねに一つの可能な経験へと関係づけることを通じて、その総合がアプリオリに可能であることを示さなければ、導きの糸を失ってしまう。統覚の統一から魂の単純性を導き出す誤謬推理はその好例である。「私は考える」における主観は、たしかに思考の論理的主語として単純であるが、それは抽象におけるたんなる単純性にすぎず、対象そのものにおいて単純な実体であることを意味しない。抽象における単純性(思考する際の主観の論理的な統一にすぎないもの)と、対象における単純性(現実に単純な実体としてのそれ)とを混同することこそ、超越論的証明がつねに警戒しなければならない飛躍にほかならない。
そこから、超越論的証明のための三つの規則が導かれる。第一の規則は、いかなる証明を試みる前にも、まずどのような権利によって、用いようとする原則からそのような拡張を期待できるのかを、理性自身に問わなければならない、というものである。見出された原則が悟性の原則、たとえば因果性の法則であれば、それは可能な経験の対象にのみ妥当し、経験を超えて適用することはできない。他方、条件づけられたものとその条件の総体性の両方を目指す純粋理性の原則であれば、それは必然的にあらゆる可能な経験を超え出てしまい、それゆえまったく使用不可能であるか、あるいはせいぜい統整的な妥当性しかもたず、けっして構成的・客観的に使用することはできない。
第二の規則は、真の超越論的命題については、ただ一つの証明しか可能ではない、というものである。というのも、その命題は一つの概念のみに基づいており、判断の根拠を見出す仕方も一通りしかないからである。それゆえ、たとえば神の現存在の証明のように、一つの主張のために幾通りもの証明を並べ立てる独断論者は、それによってむしろ、実のところ有効な証明を一つも持たないことを露呈しているのであり、ある弁護士が、ある裁判官のために一つの論拠を、別の裁判官のために別の論拠を持ち出すのと変わらない。
第三の規則は、超越論的証明はけっして間接的(背理法によるもの)であってはならず、つねに直接的・実証的でなければならない、というものである。数学においては、対立する選択肢の一方を論駁すれば、それによって他方が証明されたことになる。というのも数学の領域は余すところなく二分されているからである。しかし超越論的な事柄においては、対立しあう二つの主張が、実は一つの誤った共通の前提を分かち持っており、そのため両者がともに偽でありうる。「存在せぬものについてはいかなる述語も成り立たない」という原則がそれであり、まさに純粋理性のアンチノミーにおいて、世界が空間・時間において有限であるか無限であるかをめぐる正命題と反対命題とが、世界をそれ自体で与えられた自存的な全体とみなす誤った共通の前提を分かち持つがゆえに、双方ともに成り立たないことが示された通りである。
第2章 純粋理性のカノン 人間理性にとって屈辱的なのは、その純粋な思弁的使用においては何一つ成し遂げえず、それどころか自らの逸脱を制御し、そこから生じる幻惑を防ぐために、なお一つの訓練を必要とすることである。しかしこのことはまた、理性を再び高めもする。理性は他のいかなる検閲も自らの上に許すことなく、この訓練を自ら課すことができ、また課さなければならないのであり、純粋理性のあらゆる哲学の最大の、そしておそらく唯一の効用は、したがってただ消極的なものにすぎない。それはオルガノンとして拡張のために役立つのではなく、訓練として限界規定のために役立ち、真理を発見する代わりに誤りを防ぐという功績のみをもつ。とはいえ、純粋理性の領域に属する積極的な認識の一つの源泉が、どこかに存在しなければならない。そうでなければ、経験の限界をどこまでも超え出て確固たる足場を得ようとする抑えがたい欲求は、何に帰せられるべきであろうか。理性にまだ残されている唯一の道、すなわち実践的使用の道においてこそ、よりよい幸運が期待される。〈カノン〉とは、ある認識能力の正しい使用のアプリオリな諸原則の総体を意味する。純粋理性のあらゆる総合的認識は、その思弁的使用においてはまったく不可能であるから、その思弁的使用のカノンはおよそ存在せず、あらゆる超越論的論理学はこの点に関しては訓練以外の何ものでもない。したがって、もしどこかに純粋理性の正しい使用があり、そのカノンもまた存在しなければならないとすれば、それは思弁的な理性使用にではなく、実践的な理性使用に関わるものであろう。
第1節 我々の理性の純粋使用の究極目的について 理性はその本性の性向によって、経験使用を超え出て、単なる諸理念を介してあらゆる認識の最も外側の限界にまで身を投じようとし、その円環の完成において一つの体系的全体としてのみ安らぎを見出す。この努力は単にその思弁的関心にのみ基づくのか、それともひとえに実践的関心にのみ基づくのか。理性の思弁が超越論的使用において最終的に行き着く究極の意図は、意志の自由、魂の不死性、神の現存在という三つの対象に関わる。しかしこれら三つに関して、理性の単に思弁的な関心はきわめて乏しい。意志が自由であるとしても、それは我々の意欲の可想的原因に関わるにすぎず、行為そのものは自然の他の現象と同様に自然法則に従って説明する以外にない。魂の精神的本性が洞察されうるとしても、この生の諸現象の説明根拠にも、来るべき状態の性状にもあてにすることはできない。最高知性の現存在が証明されたとしても、そこから何らかの特殊な配置や秩序を導き出す権能はもたない。この三つの命題は思弁的理性にとってつねに超越的なままにとどまり、それ自体としては無益な、理性のこの上なく困難な骨折りにすぎない。
したがって、これら三つの基本命題が〈知〉のためにはまったく必要でないにもかかわらず理性によって切実に推奨されるのであれば、その重要性は本来ただ実践的なものにのみ関わらざるをえない。自由によって可能であるものはすべて実践的である。我々の自由な意志の行使の諸条件が経験的である場合、理性はただ統整的使用のみをもち、傾向性によって課されるあらゆる目的を幸福という一つの目的へと統一する実用的な諸法則しか与えることができない。これに対して、目的が理性によって完全にアプリオリに与えられ、経験的に制約されず端的に命令する純粋実践的な諸法則こそが道徳的諸法則であり、これのみが純粋理性の実践的使用に属し、一つのカノンを許容する。したがって純粋理性のカノンにおいて我々が扱うのは、神は存在するか、来るべき生はあるか、という二つの問いのみである。なお、ここでいう〈自由〉はただ実践的な意味にのみ限られる。感性的な諸衝動から独立に理性によってのみ規定されうる意志は〈自由な意志〉と呼ばれ、実践的自由は経験によって証明されうる。これに対して超越論的自由は、理性自身の因果性の、感官界のあらゆる規定的諸原因からの独立性を要求するものであり、これはすでに純粋理性のアンチノミーにおいて論じられた一つの問題にとどまるが、実践的使用における理性にとってこの問題は関わりがない。
第2節 純粋理性の究極目的の規定根拠としての、最高善の理想について 私の理性のあらゆる関心は、次の三つの問いのうちに統一される。一、私は何を知りうるか。二、私は何をなすべきか。三、私は何を希望してよいか。第一の問いは単に思弁的であり、これまでの批判によって、この二つの大きな目的に関しては我々に決して知が与えられえないことが決着済みである。第二の問いは単に実践的であり、純粋理性に属しうるとしても超越論的なものではなく道徳的なものである。第三の問い、すなわち〈なすべきことをなすとすれば、そのとき何を希望してよいか〉という問いは、実践的であると同時に理論的でもあり、あらゆる希望は幸福へと向かうものである。幸福とは我々のあらゆる傾向性の充足であり、幸福という動機に基づく実践的法則は実用的(処世の規則)と呼ばれ、幸福に値することのみを動機とする実践的法則は道徳的と呼ばれる。完全にアプリオリに行為を規定し、端的に命じる真に純粋な道徳法則が実在することは、正当に前提してよい。
純粋理性はその実践的・道徳的使用においては、道徳的規定に従って人間の歴史のうちに見出されうる行為の可能性の諸原理、すなわち一種特有の道徳的統一を含んでいる。世界があらゆる道徳法則に適合しているであろう限りにおいてその世界を〈道徳的世界〉と呼ぶ。この世界は可想的世界としてのみ考えられるが、その理念は感官界に対して現実にその影響を及ぼすことができ、また及ぼすべきものである以上、客観的実在性をもつ。以上が第一の問い〈汝が幸福に値するようになる、そのことをなせ〉への答えである。さていまや第二の問い、すなわち幸福に値しないものとならないようにふるまうならば、そのことによって幸福にあずかりうると希望してよいか、が問われる。道徳的諸原則が理性の実践的使用に従って必然的であるのとまったく同様に、各人が自らの態度によって幸福に値するものとなった、まさにその程度に応じて幸福を希望する根拠をもつということを前提することも、同じく必然的である。
道徳的に最も完全な意志が最高の至福と結びつき、世界におけるあらゆる幸福の原因であるような一つの知性の理念を、私は〈最高善の理想〉と呼ぶ。感官界はそのような道徳性と幸福との連関を保証してくれないため、我々はこの連関を、感官界における態度の帰結としての未来の一つの世界として想定せざるをえない。したがって神と来るべき生とは、純粋理性が我々に課す義務から切り離すことのできない、二つの前提である。幸福は道徳性に正確に見合うように分配されている限りにおいてのみ体系をなすが、これは一人の賢明な創始者かつ統治者のもとにある可想的世界においてのみ可能であり、理性はそのような存在者と、そのような世界における生を想定せざるをえないと感じるか、さもなければ道徳的諸法則を空虚な妄想と見なすほかない。ライプニッツはこの世界を〈恩寵の国〉と呼び、感官界の自然の成り行きにのみ従う〈自然の国〉から区別した。
この道徳神学は、唯一・最も完全・理性的な一つの根源存在者という概念へと必然的に導く点で、思弁的神学に対して特有の長所をもつ。道徳的統一を一つの必然的な世界法則という見地から考察するならば、それはこれらすべての諸法則を自らのうちに包摂する唯一の最高意志でなければならず、この意志は全能・全知・遍在・永遠でなければならない。人間理性の歴史においても、道徳的諸概念が十分に純化される以前には、自然の認識はただ粗雑で漠然とした神性の概念しか生み出せなかったのであり、いま正しいと見なされている神的存在者の概念を作り上げたのは、思弁的理性ではなく、道徳的な理性諸原理と完全に一致する実践的使用における純粋理性にほかならない。
しかし実践的理性がこの最高善としての唯一の根源存在者という概念に到達したとしても、この概念から出発して道徳的諸法則そのものをそこから導き出そうと企ててはならない。まさにこれらの法則こそが、その内的な実践的必然性によって、我々を一人の賢明な世界統治者という前提へと導いたのだからである。我々は、諸行為が神の命令であるがゆえに拘束力をもつと見なすのではなく、我々がそれに内的に義務づけられているがゆえに、それらを神的な命令として見なすのであり、道徳神学はただ内在的な使用のみをもつ。道徳的に立法する理性の手引きを見捨て、それを直接に最高存在者の理念に結びつけようとする超越的使用は、単なる思弁の使用と同様に、理性の究極目的を転倒させ、挫折させるのである。
第3節 意見・知識・信仰について 真とみなすことは我々の悟性における一つの出来事であり、その根拠が理性さえもてば誰にとっても妥当するならば客観的に十分であり、そのとき真とみなすことは〈確信〉と呼ばれる。それがただ主体の特殊な性状にのみ根拠をもつならば〈説得〉と呼ばれる。説得は単なる仮象にすぎず、私的な妥当性しかもたないが、真理は客観との一致に基づくものであるから、あらゆる悟性の判断は一致していなければならない。それゆえ真とみなすことを他人に伝達し、あらゆる人間の理性にとって妥当すると見出されるかどうかが、確信と説得とを見分ける試金石となる。
真とみなすこと、すなわち判断の主観的妥当性は、意見・信仰・知識という三つの段階をもつ。意見とは主観的にも客観的にも不十分であることを意識しつつ真とみなすことであり、主観的にのみ十分で客観的には不十分な場合は〈信仰〉、主観的にも客観的にも十分な場合が〈知識〉と呼ばれる。純粋理性からの諸判断においては、あらゆることがアプリオリに認識されるべきものである以上、〈意見をもつ〉ことはまったく許されず、知らなければならないか、あるいはあらゆる判断を差し控えなければならない。これに対して理性の超越論的使用においては、〈意見をもつ〉ことは不十分であるが、〈知る〉こともまた過剰であり、単に思弁的な意図においては判断することができない。
しかし理論的には不十分な真とみなすことも、実践的な関係においてはあらゆる場合に〈信仰〉と呼ばれうる。ある目的の達成条件について、他により良い判断材料をもたない場合の偶然的な信仰は〈実用的信仰〉と呼ばれ、その試金石は〈賭け〉である。単に理論的な判断のうちにも実践的なものの類比物があり、これを〈教義的信仰〉と呼ぶ。神の現存在についての教説は、合目的的統一が自然探究の手引きとして不可欠である以上、この教義的信仰に属し、この理論的な関係においてすら、神を確固として信じることができる。しかし単に教義的な信仰は、思弁において見出される諸困難によって動揺しやすい。
これに対して道徳的信仰の場合は事情がまったく異なる。道徳法則にあらゆる点で従うということが端的に必然的であり、この目的があらゆる目的の総体と連関するための可能な条件は、神が存在し来るべき世界があるということ以外にはただ一つも知られていない。それゆえ私は必然的に神の現存在と来るべき生とを信じることになり、この信仰を何ものも揺るがすことはできない。もっとも誰も〈自分は神が存在することを知っている〉と誇ることはできない。この確信は論理的な確実性ではなく道徳的な確実性であり、〈神が存在するということは道徳的に確実である〉と言うのではなく、〈私は道徳的に確実である〉と言わなければならない。このようにして、経験の限界を超えて彷徨する理性のあらゆる名誉欲的な意図が挫折させられたのちにも、実践的な意図において満足する理由をもつに足るだけのものが、なお我々には残されているのである。
第3章 純粋理性の建築術 〈建築術〉とは諸体系の技法である。体系的統一こそが通常の認識を初めて学問たらしめるものであり、建築術は我々の認識一般における学問的なものについての教説として、必然的に方法論に属する。〈体系〉とは、一つの理念のもとでの多様な諸認識の統一である。この理念は一つの全体の形式についての理性概念であり、多様なものの範囲と諸部分相互の位置とをアプリオリに規定する。したがって全体は有節的〈アルティクラーティオ〉であって、堆積的〈コアケルワーティオ〉ではなく、あたかも動物の身体のように、いかなる肢体も付け加えることなく内的に成長するのである。一つの理念に従って企図される図式のみが建築術的統一を基礎づけ、経験的・偶然的な諸意図に従って企図される図式は技術的統一を与えるにすぎない。
誰も一つの理念がその根底になければ学問を打ち立てようとは試みないが、その仕上げにおいては、彼が最初に与える図式は、彼の理念にきわめて稀にしか対応していない。というのも、この理念はあらゆる部分がまだ包み込まれた一つの萌芽として、理性のうちに潜んでいるからである。それゆえ諸学問は、その創始者の記述に従ってではなく、彼が結びつけた諸部分の自然な統一から、理性そのもののうちに根拠づけられていると見出される理念に従って規定されなければならない。あらゆる認識は主観的には、歴史的であるか理性的であるかのいずれかである。他から与えられたのと同じ程度・同じだけのことを認識しているにすぎない場合、それは歴史的であり、たとえヴォルフの体系全体を学んでも、それは単に歴史的な認識にすぎず、生きた人間の石膏像にすぎない。客観的な理性認識が主観的にもこの名称を担いうるのは、それが理性の一般的な諸源泉、すなわち諸原理から汲み出された場合のみである。
あらゆる理性認識は、諸概念からのものである哲学的認識か、諸概念の構成からのものである数学的認識かのいずれかである。数学は学ぶことができるが、哲学は(歴史的にでなければ)決して学ぶことができず、理性に関する限りせいぜい〈哲学することを〉学べるにすぎない。哲学とは客観的に見れば、あらゆる哲学することの試みを判定するための原型であり、どこにも具体的には与えられていない可能な学問の単なる理念である。この意味における哲学者とは理性の技巧家ではなく、人間理性の立法者であり、この世界概念に従えば、哲学の本質的な諸目的のうち最高のものは究極目的、すなわち人間の全使命にほかならず、それについての哲学が〈道徳〉と呼ばれる。
人間理性の立法は自然と自由という二つの対象をもち、当初は二つの別個の体系においてであるが、最終的には一つの哲学体系となる。純粋理性の哲学は、理性の能力を吟味する予備学としての〈批判〉と、純粋理性からのあらゆる哲学的認識を体系的連関において含む〈形而上学〉とに分かれる。形而上学はさらに、自然の形而上学と道徳の形而上学とに分かれ、前者は存在論・合理的自然学(合理的物理学・合理的心理学)・合理的宇宙論・合理的神学という四つの主要部分から成る。この区分はその本質的な諸目的に従った建築術的なものであって、恣意的に企てられた技術的なものではなく、それゆえ不変であり立法的なものでもある。経験的心理学は形而上学から完全に追放され、応用哲学の側へと移されなければならない。
この学問は、当初正当に要求されうる以上のものを期待され、ついにはその希望が裏切られたと分かったことで一般的な軽蔑に陥ったが、形而上学は宗教の基礎ではありえないとしても、つねにその防塁として立ち続けなければならず、法のない思弁的理性がもたらすであろう荒廃を防ぐ学問を、人間理性は決して欠くことができない。したがって、自然の形而上学と道徳の形而上学、とりわけそれらに先立って予備演習的に行われる理性の批判とが、本来ただそれのみが真の意味における〈哲学〉を構成する。形而上学は人間理性のあらゆる陶冶の完成であり、認識を拡張するよりもむしろ誤りを防ぐことに役立つとしても、その価値はいささかも損なわれることなく、むしろ検閲官の職務によって威厳と権威を与えられるのである。
第4章 純粋理性の歴史 この表題はここではただ、体系のうちに残された、将来埋められなければならない一つの箇所を示すためにのみ置かれている。人間が哲学の幼年期において、むしろ終着点としたい神の認識ともう一つの世界の希望とから探究を始めたのは奇妙なことであるが、それが自然の成り行きであった。神学と道徳とが、その後つねに身を捧げられてきたあらゆる抽象的な理性探究への二つの推進力であり、前者が思弁的理性を次第に〈形而上学〉という名のもとに有名になる仕事へと引き込んでいったのである。
この抗争の舞台における最も著しい変化には三重の意図が見出される。第一に〈対象に関して〉、感官の諸対象のうちにのみ現実性を認める感覚論哲学者(エピクロス)と、悟性のみが真なるものを認識するとする知性論哲学者(プラトン)とが対立した。第二に〈起源に関して〉、純粋な理性認識が経験から導き出されるとする経験論者(アリストテレス、近代ではロック)と、経験から独立に理性のうちにその源泉をもつとする理性論者(プラトン、近代ではライプニッツ)とが対立した。第三に〈方法に関して〉、学問なしの通常の理性によるほうが思弁よりも多くを成し遂げられるとする自然主義的方法と、体系的に手続きを進める学問的方法とが区別され、後者はさらに教条的方法(ヴォルフ)と懐疑的方法(ヒューム)とに分かれる。
批判の道だけが、いまなお開かれている。この道を歩み通す好意と忍耐とをもってこの小道を街道に変えるために力を貸すならば、何世紀もの間なし得なかったこと、すなわち人間理性をその知識欲がつねに、しかしこれまでは無駄に携わってきたことがらにおいて完全な満足へともたらすということが、今世紀が終わる前にもなお達成されうるのではないか。
本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。
『アプリオリ/アポステリオリ』
アプリオリな認識とは、経験、それどころかあらゆる感官による印象からさえも独立に生じる認識であり、アポステリオリな認識とは経験のうちにその源泉をもつ認識である。純粋な認識とは、経験的なもの一切が混入していないアプリオリな認識を指す。
『直観と概念』
直観とは、対象が我々に与えられる仕方であり、概念とは、その対象を思考する仕方である。内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である。
『感性・悟性・理性』
感性とは、諸表象を受け取る能力(印象の受容性)であり、悟性とは、これらの表象を通じて対象を認識する能力(概念の自発性)である。理性とは、原理から推論し、諸条件の系列をその無条件的な総体性にまで追求しようとする、より高次の認識能力である。
『現象と物自体』
我々が直観するものは現象、すなわち我々にとってのその現れ方にすぎず、物がそれ自体としていかにあるかではない。物自体は我々の認識の対象たりえず、ただ思考されうるにとどまる。
『超越論的/超越的』
あらゆる経験に先立つが経験の対象への適用のために存する認識、およびその認識がアプリオリに可能であることを扱う認識が「超越論的」と呼ばれる。これに対して、経験の限界を超えて用いられる使用は「超越的」と呼ばれ、両者は峻別されなければならない。
『カテゴリー(純粋悟性概念)』
経験的起源をもたず、悟性そのものにアプリオリに由来する根源的な概念であり、判断における悟性の論理的機能の表に対応して導出される。
『統覚の総合的統一(「私は考える」)』
「私は考える」は、私のあらゆる表象に伴いうるのでなければならない。この自己意識の根源的・総合的統一こそが、あらゆる悟性使用の最高の原理である。
『図式論』
純粋悟性概念(カテゴリー)を感性的直観へと適用可能にするための、時間規定を媒介とした手続き。
『総合判断と分析判断』
分析判断とは、述語がすでに主語概念のうちに(暗に)含まれている判断であり、総合判断とは、述語が主語概念には含まれておらず、これに付け加えられる判断である。
『現象と本体(フェノメナ/ノウメナ)』
感官の対象として与えられうる限りでの物は現象と呼ばれ、これに対して、単に悟性によってのみ考えられうる限りでの物は本体(可想体)と呼ばれる。
『理念』
カテゴリーを超えて理性そのものから生じる概念であり、それに対応するいかなる対象も経験のうちには与えられえない、必然的な理性概念。
『超越論的仮象』
経験的な錯覚とは異なり、理性の本性そのものに不可避的に付随する仮象であり、それを認識してもなお完全には消え去らない。
『誤謬推理(パラロギスムス)』
統覚の論理的統一(単なる思考主観としての「私」の単純性)を、実体としての魂の実在的な単純性と混同することから生じる、超越論的な推論上の誤り。
『アンチノミー』
世界全体の総体性をめぐり、それぞれが同等に証明可能であるかに見える正命題と反対命題とが、純粋理性の対立論法として互いに対立する事態。
『理想』
単なる理念のうちでもなお、一つの個体として、個別的なものとして規定されうる理念であり、最高存在者の理念(超越論的理想)がその代表例である。
『統整的使用と構成的使用』
理性の理念を、対象そのものを与えるものとして用いるのが構成的使用であり、これは許されない。これに対し、悟性の経験的使用を体系的統一へと導く指標として用いるのが統整的使用であり、これのみが正当である。
『可想的世界(道徳的世界)』
理性的存在者の自由が道徳法則にあらゆる点で適合しているであろう限りでの世界であり、感官界ではなく、実践的理念として客観的実在性をもつ。
『訓練とカノン』
訓練とは、理性の逸脱を制御し誤りを防ぐ消極的な規律であり、カノンとは、ある認識能力の正しい使用のためのアプリオリな諸原則の総体であって、積極的なものである。純粋理性の思弁的使用にはカノンは存在しないが、実践的使用にはこれが存在する。
『最高善』
道徳性と、それに正確に見合うように分配された幸福との結合からなる理想であり、これが実現されるためには神の現存在と来るべき生とが前提とされなければならない。
『意見・信仰・知識』
主観的にも客観的にも不十分な真とみなし方が意見、主観的にのみ十分なものが信仰、主観的にも客観的にも十分なものが知識と呼ばれる。
『道徳的信仰』
道徳法則にあらゆる点で従うことが端的に必然的であることから生じる、神の現存在と来るべき生への必然的な信仰であり、思弁的な教義的信仰とは異なり、何ものによっても揺るがされない。
『建築術』
諸認識を単なる寄せ集め(堆積的)としてではなく、一つの理念のもとで内的に有節化された全体として構築する、体系の技法。
第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
物とは何であるか、という問いから出発する。日常的な、また従来の形而上学における理解に従えば、物とは、諸々の性質の担い手として、それ自体で存立する或るものである。実体は諸々の偶有性のもとに持続し、我々の認識から独立に、それがそれであるところのものとしてある――これが、物についての最も素朴で、かつ最も根強い理解である。
しかしこの理解は、次の問いによって動揺させられる。我々が物について何かを認識するとき、我々はその物をそれ自体としてあるがままに認識しているのか、それとも、我々の認識能力の側の何らかの条件を通して認識しているのか。空間と時間は、物のうちに、我々の認識から独立にあらかじめ存する性質ではなく、我々の感性そのものに属する純粋な直観の形式である。したがって、空間・時間のうちで我々に直観されるものは、物がそれ自体としてあるところのものではなく、物が我々に対して現れるところのもの、すなわち現象にほかならない。物がそれ自体としていかにあるかは、この現象からは知られえない。
しかし、現象は単なる仮象、すなわち無ではない。現象は、それについて何かが現れるところの或るものを、必然的に前提する。この、現象の根底に想定されざるをえないが、それ自体としては規定されえない或るものを、物自体と呼ぶ。物自体は、認識の対象としては空虚な、単に問題的な一つのXにとどまる。
とはいえ、単に感性的に与えられた現象の多様、すなわち単なる直観の雑多だけでは、いまだ物とは呼ばれえない。雑多な表象が、一つの意識のうちに、統覚の総合的統一のもとで結合され、悟性のカテゴリーによって規定されて初めて、それは一つの対象として、すなわち物として成立する。とりわけ、実体と偶有性のカテゴリーのもとでは、時間のうちで変転する諸規定の根底に持続するものとして、原因性のカテゴリーのもとでは、後続する状態がそれに従って規定される根拠として、相互作用のカテゴリーのもとでは、他の実体と同時に存在してこれと相互に規定し合うものとして、その現象は規定される。
したがって、我々が経験のうちで物として認識するものは、感性の純粋形式である空間・時間のもとで与えられた現象が、統覚の総合的統一のもとで悟性のカテゴリー、とりわけ実体・原因性・相互作用のカテゴリーによって規定されることによって、可能な経験の対象として成立したものである。物とは、このようにして成立した現象、すなわち、持続する実体として、因果の法則に従い、他の実体と相互作用のうちにある限りでの現象である。
物自体は、現象一般の背後に想定される未知のXである。魂・世界・神という理性の三つの理念もまた、それぞれ思考する主観・世界全体・あらゆるものの根拠について、これと同じ仕方で理性のうちに生じる。理性がこれらを、あたかも可能な経験を超えて直接に認識されうる物であるかのように扱うならば――第Ⅰ部の誤謬推理・アンチノミー・理想の各章で見たとおり――そこには不可避の弁証的仮象が生じる。この仮象は、条件づけられたものについて無条件的なものへと遡ろうとする理性そのものの自然な性向から生じる以上、その仕組みを見抜いたあとでもなお現れ続け、水中の棒が曲がって見え続けるのと同様、完全に消し去ることはできない。しかし、それによって欺かれず、これを真なる認識として通用させさえしなければ、この仮象は害をなすものではない。物の認識は、つねに可能な経験の範囲内に、その本来の場所をもつのである。
物とは、感性の純粋形式である空間・時間のもとで直観に与えられた現象が、統覚の総合的統一のもとで悟性のカテゴリー、とりわけ実体・原因性・相互作用のカテゴリーによって規定されることによって、可能な経験の対象として成立するものである。
作品名:カント『純粋理性批判』を知るための本
発行責任者(著者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(Claude Sonnet 5)
参照原典:ドイツ語原典『Critik der reinen Vernunft』(第二版、ヨハン・フリードリヒ・ハルトクノッホ社、リガ、1787年刊)
初版発行日: 年 月 日
本書の本文・解説その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。
本書が参照する原典は、イマヌエル・カント『純粋理性批判』(Critik der reinen Vernunft)のドイツ語原典である。本書の制作において直接参照した版は第二版(ヨハン・フリードリヒ・ハルトクノッホ社、リガ、1787年刊)に準拠したものである。第二版の頁付け(B版頁)は、現在に至るまでカント研究における標準的な参照体系として広く用いられている。
本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTMLが存在する場合は、術語および論証骨格の照合基準として当該翻訳HTMLを参照して制作している。
本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。