ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ『モナドロジー』を知るための本

知の地図シリーズ / 古典書房

哲学者について

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ。1646年、ライプツィヒに生まれ、1716年、ハノーファーに没した。父はライプツィヒ大学の道徳哲学教授であった。ライプツィヒ大学、イェーナ大学で法学・哲学を学び、アルトドルフ大学で法学博士号を取得した。マインツ選帝侯に仕えたのち、1676年よりハノーファー選帝侯家に仕え、図書館司書、宮廷顧問官、歴史編纂官などを務めた。

原典について

原典言語:フランス語

原典名:モナドロジー(La Monadologie)

本書の構成と考え方

本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。第Ⅰ部は、原典全体を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。

本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ5割程度である。

目次

原典構造一覧

本一覧は、本書が参照する原典において実際に用いられている構造単位を、そのまま示す。

原典に章・部などの区分はなく、冒頭から末尾まで通し番号(§1〜§90)のみによって構成されている。

第Ⅰ部 原典について

§1〜3モナドとは、複合体の中に入り込む単純実体である。単純とは部分を持たないことをいう。複合体が存在する以上、単純実体もまた存在しなければならない。複合体とは、単純なものの集積、すなわちアグレガトゥムにほかならないからである。部分を持たないところには、延長も形も分割可能性もない。モナドは自然の真のアトムであり、事物の要素である。

§4〜6恐れるべき分解はなく、単純実体が自然に消滅する仕方はない。同じ理由により、単純実体が自然に始まる仕方もない。合成によって形成されることがありえないからである。モナドは一挙にでなければ始まることも終わることもできない。モナドは創造によって始まり、消滅によって終わる。複合体は部分によって始まりまた終わる。

§7モナドの内部には何も移し入れることができず、いかなる内的運動も考えることができない。複合体では部分の間に変化が生じ、内的運動が励起され、方向づけられ、増大し、あるいは減少しうるが、モナドではそれができない。モナドは窓を持たない。そこから何かが出入りすることはない。偶有性が実体から離れ、あるいはその外を歩き回ることもない。かつてスコラ学者たちの感覚的形象がそうであったようにはいかない。実体も偶有性も、外部からモナドの中に入ることはできない。

§8しかしモナドは何らかの性質を持たなければならない。さもなければ存在者でさえないだろう。単純実体がその性質において異ならないとすれば、事物の変化に気づく方法はない。複合体の中にあるものは単純な構成要素からしか来ないからである。性質に差がないモナドは、そのうえ量においても差がないのだから、互いに区別がつかないことになる。充実が想定されるならば、それぞれの場所は運動において以前持っていたものと等価なものしか受け取らないことになり、事物のある状態は別の状態と区別がつかない。

§9それゆえ、それぞれのモナドは他のあらゆるモナドと異ならなければならない。自然の中には、互いにまったく同じであり、内的な規定に基づく違いを見出すことが不可能であるような、二つの存在者は決して存在しないからである。

§10〜11あらゆる被造的存在者は変化に服し、被造的モナドもまた変化に服する。この変化はそれぞれのモナドにおいて連続的である。モナドの自然な変化は内的原理から来る。外的原因はその内部に影響を及ぼすことができないからである。

§12〜13しかし、変化の原理のほかに、単純実体の特殊化と多様性をなす、変化するものの詳細がなければならない。この詳細は、単一性の中に、多をも包み込まなければならない。あらゆる自然の変化は程度によって生じ、何かが変化し、何かが残るからである。単純実体の中には、部分はないとしても、諸性質と諸関係の複数性がなければならない。

§14単一性、すなわち単純実体の中に、多を包み込み表す過ぎゆく状態は、知覚と呼ばれる。知覚は統覚、すなわち意識とは区別されなければならない。デカルト派は、気づかれない知覚を無に等しいものとみなした点で誤った。そのために、精神のみをモナドとし、獣の魂も他のエンテレケイアも存在しないと考えるに至り、長い放心状態を厳密な意味での死と混同し、魂が完全に分離されるというスコラ学の偏見に陥り、魂の可死性という意見をも助長した。

§15内的原理の働き、すなわちある知覚から別の知覚への移行をもたらす働きは、欲求と呼ばれる。欲求は、それが向かう知覚全体に常に完全には到達しないが、常に何かを得て、新たな知覚に到達する。

§16私たち自身、単純実体の中に多があることを経験する。気づく最も小さな思考も、対象における多様性を包み込んでいるからである。魂が単純実体であることを認める者は、モナドの中にこの多を認めなければならない。ベール氏は、その『辞典』の「ロラリウス」の項目で行ったように、これに困難を見出すべきではなかった。

§17知覚およびそれに依存するものは、力学的な理由、すなわち形と運動によっては説明できない。思考し、感じ、知覚を持つ構造の機械を、同じ比率を保ったまま拡大し、水車小屋のようにその内部に入れるほどにしたと仮定する。内部を訪れても、そこに見出されるのは互いに押し合う部品だけであり、知覚を説明するものは何もない。知覚を求めるべきは、複合体や機械の中にではなく、単純実体の中にである。単純実体の中に見出されるのは知覚とその変化のみであり、単純実体のあらゆる内的作用はこの一点にのみ存する。

§18被造的な単純実体、すなわちモナドは、それ自身のうちに一定の完全性を持ち、内的作用の源泉となる自足性を備えているがゆえに、エンテレケイアと呼びうる。この自足性のゆえに、モナドはいわば非物体的自動機械である。

§19知覚と欲求を持つものすべてを魂と呼ぶならば、あらゆる被造的モナドは魂と呼びうるだろう。しかし感覚は単なる知覚以上のものであるから、知覚と欲求のみを持つ単純実体には、モナドおよびエンテレケイアという一般的な名称で十分であり、魂と呼ばれるのは、知覚がより判明であり記憶を伴うもの、それらだけである。

§20〜21私たちは自分自身において、何も思い出さず判明な知覚を持たない状態を経験する。失神するとき、あるいは夢を見ない深い眠りに沈むときがそうである。この状態において魂は単純なモナドと感覚的にほとんど異ならないが、この状態は持続せず、魂はそこから抜け出すのだから、魂は単純なモナド以上のものである。とはいえ、このとき単純実体がまったく知覚を持たないということにはならない。単純実体は消滅しえず、変様、すなわちその知覚にほかならないものなしには存続しえないからである。判明なものが何もないほど多数の小さな知覚があるとき、私たちは放心状態に陥る。同じ方向に何度も回り続けるときのように、眩暈が生じて気絶し、何も判明に区別できなくなる。死は動物にこの状態を一時的にもたらしうる。

§22〜23単純実体のあらゆる現在の状態は、その先行する状態の自然な帰結であり、現在は未来をはらんでいる。放心状態から目覚めたとき、私たちは自分の知覚に気づくのだから、たとえそのときは気づいていなかったとしても、その直前にもすでに知覚を持っていたはずである。知覚が自然に生じうるのは別の知覚からのみであり、運動が自然に生じうるのが別の運動からのみであるのと同じことである。

§24このことから、もし知覚のうちに判明なもの、際立ったもの、より高い趣をもつものが何もなければ、私たちは常に放心状態にあることになる。これこそ、完全に裸のモナドの状態である。

§25自然は動物に、複数の光線や複数の空気の振動を集め、その結合によってより大きな効果を持たせる器官を与え、際立った知覚を与えている。これに近いことが、嗅覚、味覚、触覚においても見られ、おそらく知られていない多くの感覚においても同様であろう。

§26〜28記憶は魂に、理性を模倣する一種の連想をもたらすが、これは理性とは区別されなければならない。動物は、自分を打つ何かを知覚し、それと似た知覚を以前にも持っていた場合、記憶による表象によって、先行する知覚に結びついていたことを予期し、そのとき抱いたのと似た感情に導かれる。犬に杖を見せると、犬はそれが与えた痛みを思い出し、鳴き声を上げるか逃げ出す。動物を打ち動かす強い想像力は、先行する知覚の大きさか多さから生じる。強い印象は、しばしば一挙に、長い習慣あるいは何度も繰り返された多くの中程度の知覚と同じ働きをする。人間は、知覚の連想が記憶の原理によってのみなされる限りにおいて、動物と同じように行動する。それは理論を持たず単なる実践のみを行う経験医たちに似ている。私たちの行為の四分の三は経験的なものにすぎない。明日も日が昇るだろうと予期するとき、私たちは経験家として行動している。これまでずっとそうだったからである。理性によってそう判断するのは天文学者だけである。

§29しかし、必然的で永遠な真理の認識こそが、私たちを単なる動物から区別し、理性と諸学問を持たせ、自分自身と神の認識にまで高める。これこそ、私たちのうちで理性的魂、あるいは精神と呼ばれるものである。

§30必然的真理の認識、およびその抽象化によってこそ、私たちは反省的作用へと高められる。この作用は、私たちに「自我」と呼ばれるものを考えさせ、様々なものが私たちの内にあると見なさせる。このようにして、自分自身について考えるとき、私たちは存在、実体、単純なものや複合されたもの、非物質的なもの、神そのものについて考える。私たちの内に限られてあるものが、神においては限りなくあると考えることによってである。これらの反省的作用こそが、私たちの推論の主要な対象を与える。

§31〜32私たちの推論は二つの大きな原理に基づく。一つは矛盾律であり、これによって矛盾を含むものを偽と判断し、偽に対立するものを真と判断する。もう一つは充足理由律であり、これによって、なぜそうであってそうでないのではないのかについての充足理由なしには、いかなる事実も真であるとは認められないと考える。もっとも、その理由の多くは私たちに知られえない。

§33〜35真理には二種類あり、推論の真理と事実の真理である。推論の真理は必然的であり、その反対は不可能である。事実の真理は偶然的であり、その反対は可能である。ある真理が必然的である場合、その理由は分析によって見出される。すなわち、より単純な観念や真理へと分解していき、最終的に原初的なものに至ることによってである。数学者たちのもとでは、思弁的な定理や実践的な規範が、分析によって定義・公理・要請へと還元される。そして最終的には、定義を与えることのできない単純な観念、証明されえずまた証明を必要ともしない公理・要請・原初的な諸原理が存在する。これらは同一命題であり、その反対は明白な矛盾を含む。

§36〜38しかし充足理由は、偶然的な真理あるいは事実の真理の中にも見出されなければならない。すなわち、被造物の宇宙全体に広がる事物の連鎖の中にである。そこでの個々の理由への分解は、自然の事物の計り知れない多様性と物体の無限の分割とのゆえに、際限のない詳細にまで及びうる。いま書いているこの文字の作出因には無数の現在および過去の形と運動が関与しており、魂の目的因には無数の現在および過去の小さな傾向と性向が関与している。この詳細のすべては、さらに先行する、あるいはより詳細な別の偶然的なものしか含んでおらず、そのそれぞれもまた同様の分析を必要とするのだから、これによって少しも先へは進まない。充足理由あるいは究極の理由は、この偶然性の詳細の連鎖の外になければならない。その系列がどれほど無限であろうとも。事物の究極の理由は、必然的な実体の中になければならない。この実体においては、変化の詳細は、いわば源泉の中にあるように卓越した仕方でのみ存在する。これこそ、神と呼ばれるものである。

§39〜40この実体はこの詳細のすべてに対する充足理由であり、この詳細はいたるところで結びついているのだから、神はただ一つのみ存在し、この神で十分である。この唯一にして普遍的かつ必然的な最高実体は、それ自身の外に、それに依存しないものを何も持たず、可能な存在の単純な帰結であるのだから、限界を持ちえず、可能な限りのあらゆる実在性を含んでいなければならない。

§41神は絶対的に完全である。完全性とは、実在性のうちに限界のあるものについてはその限界を度外視して、正確に捉えられた積極的実在性の大きさにほかならない。限界がまったくないところ、すなわち神においては、完全性は絶対的に無限である。

§42そこからまた、次のことが帰結する。被造物はその完全性を神の影響から得ているが、その不完全性は、限界を持たざるをえない被造物自身の本性から得ている。被造物が神から区別されるのは、まさにこの点によってである。

§43〜45神のうちには、もろもろの現実存在の源泉だけでなく、実在的なものとしての本質の源泉、すなわち可能性のうちにある実在的なものの源泉もある。神の知性が永遠の真理の、あるいはそれらの真理が依存する諸観念の領域であるからであり、神なしには、可能性のうちに実在的なものは何もなく、現実に存在するものが何もないだけでなく、可能なものすら何もないだろう。本質あるいは可能性のうちに、あるいは永遠の真理のうちに実在性があるとすれば、その実在性は何か現実存在し現実的なものの中に基礎づけられていなければならない。したがって必然的存在者の現実存在の中に基礎づけられていなければならない。必然的存在者においては、本質が現実存在を包み込んでおり、可能であることが現実的であることに十分だからである。こうして、神のみが、可能であるならば必ず現実存在するという特権を持つ。いかなる限界も否定も矛盾も含まないものの可能性を妨げうるものは何もないのだから、この一事だけで、神の現実存在をア・プリオリに知るのに十分である。永遠の真理の実在性によっても、これを証明した。そしていまア・ポステリオリにも証明した。偶然的な存在者が現実に存在しており、それらは、それ自身のうちに現実存在の理由を持つ必然的存在者の中にしか、その究極ないし充足の理由を持ちえないからである。

§46永遠の真理が神に依存するがゆえに恣意的であり、神の意志に依存すると考えてはならない。それが真であるのは、偶然的な真理についてだけである。偶然的な真理の原理は適合性あるいは最善の選択であるのに対し、必然的な真理は、もっぱら神の知性のみに依存し、その内的対象をなす。

§47神のみが根源的な単一性、すなわち根源的な単純実体であり、すべての被造的ないし派生的なモナドは、その産物であって、瞬間から瞬間へと、神性からの連続的な閃光によって、いわば生まれ出る。その閃光は、被造物の受容性によって限界づけられており、被造物にとって限られていることは本質的なことである。

§48〜49神のうちには、あらゆるものの源泉である力能があり、次に、観念の詳細を含む認識があり、最後に、最善の原理に従って変化ないし産出を行う意志がある。これらは、被造的モナドにおいて主体をなすもの、すなわち知覚能力と欲求能力とに対応する。神においてはこれらの属性は絶対的に無限あるいは完全であるのに対し、被造的モナド、すなわちエンテレケイア(あるいは、ヘルモラウス・バルバルスがこの語を訳したように、ペルフェクティハビエス)においては、完全性の度合いに応じた模倣にすぎない。被造物は、完全性を持つ限りにおいて外部に対して作用すると言われ、不完全である限りにおいて他から作用を受けると言われる。作用は、モナドが判明な知覚を持つ限りにおいてそのモナドに帰され、受動は、モナドが混雑した知覚を持つ限りにおいてそのモナドに帰される。

§50被造物が他の被造物よりも完全であるのは、その被造物のうちに、他の被造物において生じることをア・プリオリに説明する根拠が見出される場合である。そのことによって、その被造物が他に作用すると言われる。

§51〜52単純実体においては、これは一つのモナドから他のモナドへの観念的な影響にすぎず、それが効果を持ちうるのは神の介入によってのみである。神の観念のうちで、あるモナドが、事物の初めから他を規定するにあたって自分にも配慮するよう、正当な理由をもって求めるという仕方によってである。被造的モナドは他のモナドの内部に物理的な影響を及ぼすことができないのだから、一方が他方に依存しうるのは、この手段によってのみである。こうして、被造物の間では作用と受動が相互的である。神は、二つの単純実体を比較するとき、それぞれのうちに、一方を他方に適合させるよう自分を促す理由を見出すのであり、ある観点からは能動的であるものも、別の観点からは受動的である。すなわち、あるものにおいて判明に認識される事柄が、他において生じることの理由を与えるのに役立つ限りにおいて、そのものは能動的であり、あるものにおいて生じることの理由が、他において判明に認識される事柄のうちに見出される限りにおいて、そのものは受動的である。

§53〜55神の観念のうちには無限の可能な宇宙が存在し、そのうちただ一つしか現実に存在しえない。神を、他の宇宙ではなくある一つの宇宙へと決定させる、選択の充足理由がなければならない。この理由は、これらの世界が含む適合性、すなわち完全性の度合いのうちにしか見出されえない。それぞれの可能なものは、それが包み込む完全性の度合いに応じて、現実存在を要求する権利を持つからである。これこそが、最善のものの現実存在の原因である。神の知恵がこれを神に知らしめ、神の善がこれを選ばせ、神の力能がこれを産出させる。

§56〜58あらゆる被造物の、それぞれの被造物への、そしてそれぞれの被造物の他のすべての被造物への、このつながりないし適合こそが、それぞれの単純実体が他のすべてを表す関係を持つことをなし、したがってそれぞれの単純実体が、宇宙の永続する生きた鏡であることをなす。同じ一つの都市も、異なる側から眺められれば、まったく別のものに見え、いわば遠近法的に増殖されているかのようであるのと同じく、単純実体の無限の多数性によって、あたかもそれだけ多くの異なる宇宙があるかのようであるが、それらは実のところ、それぞれのモナドの異なる視点による、ただ一つの宇宙の遠近法的な現れにすぎない。これこそが、可能な限り最大の秩序とともに、可能な限りの多様性を得るための手段、すなわち可能な限りの完全性を得るための手段である。

§59神の偉大さをしかるべき仕方で高めるのは、まさにこの仮説にほかならない。このことは、ベール氏自身も認めていた。彼はその『辞典』のロラリウス項目でこの説に異論を唱えたとき、神に多くを与えすぎている、可能である以上のものを与えていると考えたくなったほどであった。しかし彼は、あらゆる実体が、自らが持つ関係によって他のすべての実体を正確に表すというこの普遍的調和が、なぜ不可能であるのかについて、いかなる理由も挙げることができなかった。

§60物事が他の仕方ではありえないア・プリオリな理由は、いま述べたことのうちに見出される。神は全体を秩序づけるにあたって、あらゆる部分、とりわけあらゆるモナドに配慮したからである。モナドの本性は表象的であるから、事物の一部分しか表象しないように限定するものは何もない。もっとも、この表象は、宇宙全体の詳細においては混雑したものにすぎず、判明でありうるのは事物のごく一部分、すなわちそれぞれのモナドに対して最も近いか最も大きいものにおいてのみである。そうでなければ、それぞれのモナドが神性そのものになってしまうだろう。モナドが限られているのは、対象においてではなく、対象の認識のあり方においてである。モナドはすべて、混雑した仕方で無限に、全体にまで及ぶが、判明な知覚の度合いによって限定され、区別されている。

§61複合体もこの点において単純実体と対応している。あらゆるものが充実しているため、物質全体はつながっており、この充実の中では、あらゆる運動が、距離に応じて遠くの物体にも何らかの効果を及ぼす。それぞれの物体は、それに触れているものによって影響を受けるだけでなく、それらに起こることすべてから、何らかの仕方で影響を受け、さらにそれらを介して、自分に直接触れているものにさらに触れているものからも影響を受ける。ゆえに、この伝達はどれほどの距離にも及ぶことになる。あらゆる物体は、宇宙の中で行われるすべてのことから影響を受ける。すべてを見る者であれば、それぞれの物体のうちに、いたるところで行われていること、さらにはかつて行われたこと、これから行われるであろうことさえも読み取ることができるだろう。現在のうちに、時間的にも場所的にも遠く隔たったものを見て取ることによってである。ヒッポクラテスが言ったように、すべてのものが共に呼吸するのである。しかし魂は、自分自身のうちで判明に表象されているものしか読み取ることができない。魂は、自らの襞をいっぺんに展開することはできない。その襞は無限に及ぶからである。

§62〜63それぞれの被造的モナドは宇宙全体を表象するとはいえ、自分に特別な仕方で結びついた身体を、より判明に表象する。この身体のエンテレケイアをなすのは、そのモナドである。この身体は、充実の中で物質全体がつながっていることによって宇宙全体を表現するのだから、魂もまた、自分に特別な仕方で属するこの身体を表象することによって、宇宙全体を表象する。あるモナドに属する身体、すなわちそのモナドがエンテレケイアないし魂であるような身体は、そのエンテレケイアとともに生物と呼びうるものを構成し、その魂とともに動物と呼ばれるものを構成する。生物あるいは動物のこの身体は、常に有機的である。あらゆるモナドはそれぞれの仕方で宇宙の鏡であり、宇宙は完全な秩序のうちに秩序づけられているのだから、表象するものの中にも、すなわち魂の知覚の中にも、したがってその知覚に従って宇宙が表象される身体の中にも、秩序がなければならないからである。

§64〜65生物のあらゆる有機的身体は、一種の神的な機械、すなわち自然のオートマトンであり、あらゆる人工のオートマトンを無限に凌駕する。人間の技術によって作られた機械は、そのあらゆる部分において機械であるわけではない。真鍮の歯車の歯は、私たちにとってはもはや人工的な何かではない部分や破片を持ち、その車輪が用いられる目的との関係で機械であることを示すものは何も残っていない。しかし自然の機械、すなわち生きた身体は、その最小の部分に至るまで、無限に機械である。これこそが、自然と技術との、すなわち神的な技術と私たちの技術との違いをなすものである。自然の作者がこの神的で無限に驚くべき技巧を用いることができたのは、物質のあらゆる部分が、古代人が認めていたように単に無限に分割可能であるだけでなく、実際にも際限なく分割されており、それぞれの部分がさらに部分へと分かれ、そのそれぞれが固有の運動を持っているからである。そうでなければ、物質のどの部分も宇宙全体を表現することはできないだろう。

§66〜69物質のどれほど小さな部分の中にも、被造物の、生物の、動物の、エンテレケイアの、魂の一つの世界がある。物質のそれぞれの部分は、植物で満たされた庭園として、あるいは魚で満たされた池として捉えることができる。しかし、その植物のそれぞれの枝も、動物のそれぞれの器官も、その体液のそれぞれの一滴も、なおそのような庭園であり、そのような池である。庭園の植物の間にある土や空気、あるいは池の魚の間にある水は、それ自体は植物でも魚でもないが、それでもなお、たいていは知覚できないほど微細な、植物や魚を含んでいる。こうして、宇宙には未耕作のもの、不毛のもの、死んだものは何もなく、混沌もなく、見かけ上の混乱以外の混乱はない。それはちょうど、遠くから眺めた池において、池の魚そのものを見分けることなく、混雑した動きと、いわば蠢きのようなものが見えるのに似ている。

§70〜71生きたそれぞれの身体は、動物における魂にあたる、支配的なエンテレケイアを持つ。しかし、この生きた身体の器官には、他の生物・植物・動物が満ちており、そのそれぞれもまた、自らのエンテレケイアあるいは支配的な魂を持っている。それぞれの魂が、常に自分に固有の、あるいは自分に割り当てられた物質の塊ないし部分を持っており、常にその魂に奉仕するよう定められた、より下位の他の生物を所有していると考えてはならない。あらゆる身体は、川のように絶えず流動しており、その部分は絶えず出入りしているからである。

§72〜73魂が身体を変えるのは、少しずつ、段階的にのみであり、そのため魂がいっぺんにすべての器官を奪われることは決してない。動物にはしばしば変態が起こるが、魂の輪廻、すなわち魂の転生は決して起こらない。まったく分離された魂も存在しなければ、身体を持たない精霊も存在しない。神だけが、完全にそこから離れている。このことがまた、厳密な意味での完全な発生も、完全な死も、すなわち魂の分離としての死も、決して存在しない理由でもある。発生と呼ばれるものは展開と成長であり、死と呼ばれるものは、包み込みと縮小である。

§74〜75哲学者たちは、諸形相、エンテレケイア、諸魂の起源について、大いに困惑してきた。しかし、植物・昆虫・動物について行われた精密な研究によって、自然の有機的身体が混沌や腐敗から生じることは決してなく、常に種子から生じること、そしてその種子の中には疑いなく何らかの前形成があることが気づかれるようになった。有機的身体は受胎の前からすでにそこに存在していただけでなく、その身体の中に魂も、一言で言えば動物そのものも存在していたのであり、受胎という手段によって、この動物はただ、別の種の動物になるための大きな変態へと備えられたにすぎない。生殖によらずとも、これに近いことが見られる。蛆が蠅になり、毛虫が蝶になるときのようにである。受胎によってより大きな動物の段階にまで高められる動物は、精子的動物と呼ぶことができる。しかしそのうちで自分の種にとどまるもの、すなわち大部分のものは、大きな動物と同じように生まれ、増殖し、滅ぼされる。より大きな舞台へと移るのは、選ばれた少数のものだけである。

§76〜77しかしそれは真理の半分にすぎなかった。もし動物が自然に始まることが決してないのであれば、自然に終わることもまたない。発生がまったくないだけでなく、完全な破壊も、厳密な意味での死もまったくない。経験から引き出されたこれらのア・ポステリオリな推論は、上で述べたようにア・プリオリに導かれた諸原理と完全に一致する。こうして、魂だけでなく動物そのものも破壊されえない、と言うことができる。もっとも、その機械はしばしば部分的に消滅し、有機的な外皮を脱ぎ捨てたり、新たに身にまとったりするのだが。

§78〜79これらの原理は、魂と有機的身体との結合、すなわち両者の一致を、自然な仕方で説明する。魂は自らの法則に従い、身体もまた自らの法則に従う。両者は、あらゆる実体の間に成り立つ予定調和によって出会う。あらゆる実体は、同じ一つの宇宙の表象だからである。魂は、欲求によって、目的因の法則に従って作用する。身体は、運動によって、作出因の法則に従って作用する。この二つの領域、作出因の領域と目的因の領域は、互いに調和している。

§80〜81デカルトは、魂が物体に力を与えることはできないと認めていた。物質のうちには常に同じ量の力があるからである。しかし彼は、魂が物体の方向を変えることはできると考えていた。それは、彼の時代には、物質全体において同じ総方向が保存されるという自然の法則がまだ知られていなかったためである。もしこれに気づいていたなら、予定調和の体系に至っていただろう。この体系によれば、身体は、あたかも魂が存在しないかのように作用し、魂は、あたかも身体が存在しないかのように作用し、そして両者は、あたかも一方が他方に影響を及ぼしているかのように作用する。

§82精神、すなわち理性的な魂については、根本的には、あらゆる生物・動物と同じことが成り立つ。すなわち、動物も魂も世界とともにしか始まらず、世界とともにしか終わらない。ただし理性的動物には特有の点がある。その精子的な小さな動物は、それにとどまる限り、通常の、すなわち感覚的な魂しか持たない。しかし、選ばれたものが現実の受胎によって人間の本性に達すると、その感覚的な魂は理性の段階に高められ、精神の特権にまで引き上げられる。

§83通常の魂と精神との間には、さらに次のような違いがある。魂一般は、被造物の宇宙の生きた鏡ないし像であるが、精神はさらに、神性そのもの、すなわち自然の作者そのものの像でもあり、宇宙の体系を認識し、建築的な見本によってその何かを模倣する能力を持つ。それぞれの精神は、いわばその持ち場における小さな神性のようなものである。

§84〜86このことによって、精神は神と一種の社会を結ぶことができる。神は、精神に対して、発明者がその機械に対するような関係にあるだけでなく、君主がその臣民に対するような、また父がその子に対するような関係にもある。ここから、あらゆる精神の集まりが、神の国、すなわち最も完全な君主のもとにある、可能な限り最も完全な国家を構成しなければならないことが帰結する。この神の国、この真に普遍的な君主国は、自然の国のうちにある一つの道徳の国であり、神の諸業のうちで最も高く、最も神的なものである。真に神の栄光が成り立つのは、まさにこの国においてである。神の偉大さと善が、精神たちによって認識され、称賛されるのでなければ、栄光というものは存在しないだろうからである。神が本来の意味で善を持つと言われるのも、この神の国との関係においてであり、これに対して神の知恵と力能は、いたるところに現れている。

§87〜89二つの自然の国、すなわち作出因の国と目的因の国との間の完全な調和のほかに、自然の物理的な国と、恩寵の道徳的な国との間にも、もう一つの調和がある。すなわち、宇宙という機械の建築家として見られた神と、精神たちの神的な国の君主として見られた神との間の調和である。この調和によって、事物は自然そのものの道筋によって恩寵へと導かれる。この地球は、精神たちの統治が、あるものの処罰とあるものの報奨のために要求する時に、自然の道筋によって破壊され、修復されなければならない。建築家としての神は、あらゆる点で立法者としての神を満足させる。罪は、自然の秩序によって、そして事物の機械的な構造そのものによって、その罰を自ら伴わなければならず、同様に、美しい行いは、身体に関わる機械的な道筋によって、その報いを引き寄せるであろう。もっとも、これは常にただちに起こりうる、あるいは起こらなければならないことではない。

§90こうして最終的には、この完全な統治のもとでは、報いのない善い行いはなく、罰のない悪い行いはなく、すべては、善き人々の益となるように成就するであろう。すなわち、この偉大な国家において不満を抱かず、自らの義務を果たしたのちには摂理を信頼し、あらゆる善の作者を然るべき仕方で愛しかつ模倣する人々、その完全性を考察することに喜びを見出す人々の益となるように。それは、愛するものの幸福に喜びを見出させる、純粋で真の愛の本性に従ってのことである。まさにこのことのゆえに、賢明で徳のある人々は、神の予見的ないし先行的な意志に適うと見えるすべてのことのために働き、しかも、神がその秘められた、帰結的で決定的な意志によって現実に生じさせることに満足する。もし宇宙の秩序を十分に理解することができたなら、それが最も賢明な人々のあらゆる願いをも凌駕しており、全体にとってだけでなく、私たち一人ひとりにとっても、これ以上によくすることは不可能であることを見出すであろう。ただし、それは万物の作者に対して、しかるべき仕方で結びついている場合に限られる。すなわち、単に私たちの存在の建築家、作出因としてだけでなく、私たちの主人として、また私たちの意志のあらゆる目的をなすべき目的因として、そしてただ一人私たちの幸福をなしうるものとして、結びついている場合である。

用語欄

本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。

『モナド』

複合体の中に入り込む単純実体。部分を持たない。複合体は単純なものの集積、すなわちアグレガトゥムにほかならず、複合体が存在する以上、単純実体、すなわちモナドも存在しなければならない。単純実体という語も、同じ対象を指して用いられる。

『知覚』

単一性、すなわち単純実体の中に、多を包み込み表す過ぎゆく状態。統覚、すなわち意識とは区別される。

『欲求』

内的原理の働き、すなわちある知覚から別の知覚への変化ないし移行をもたらす働き。それが向かう知覚全体に常に完全には到達しないが、常に何かを得て、新たな知覚に到達する。

『内的原理』

モナドの自然な変化がそこから来るもの。外的原因はモナドの内部に影響を及ぼすことができないため、モナドの変化は内的原理から来るとされる。

『エンテレケイア』

被造的な単純実体、すなわちモナドに与えられる名。それ自身のうちに一定の完全性を持ち、内的作用の源泉となる自足性を備えていることによる。いわば非物体的自動機械である。

『魂』

知覚と欲求を持つもののうち、知覚がより判明であり記憶を伴うものに与えられる名。単なる知覚のみを持つ単純実体には、モナドおよびエンテレケイアという名称で十分であるとされる。

『精神』

必然的で永遠な真理の認識によって、単なる動物から区別され、理性と諸学問を持ち、自分自身と神の認識にまで高められた魂。感覚的な魂が理性の段階に高められることによって、精神の特権にまで引き上げられる。

『充足理由律』

いかなる事実も、なぜそうであってそうでないのではないのかについての充足理由なしには真であると認められないとする原理。推論が基づく二つの大きな原理のうちの一つ。

『予定調和』

魂と有機的身体との結合を成り立たせるもの。魂は自らの法則に従い、身体もまた自らの法則に従い、両者はこの予定調和によって出会う。あらゆる実体が同じ一つの宇宙の表象であることによる。

第Ⅱ部 物の定義について

第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。

ライプニッツにおいて、物を定義することは容易ではない。感覚に与えられる物は複合体であるが、複合体は単純なものの集積、すなわちアグレガトゥムにほかならず、それ自体としては実体ではない。単純実体こそが真の実体であり、単純実体には延長も形もない。したがって物の定義は、感覚に現れる複合体としての物から出発しながら、その根底にある単純実体、そして単純実体どうしの関係のあり方への参照なしには完結しない。

以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。

『物とは、単純実体すなわちモナドの集まりとして成立する複合体であり、それぞれのモナドが自己の視点から宇宙全体を表現し、神による予定調和によってこれらの表現が一致することによって、知覚に多と秩序をもって現れるものである。』

この定義文は、複合体・モナド・予定調和という三つの契機を一文のうちに結びつけている。それらが分かちがたく結びついているのは、いずれか一つを欠いては物が成立しないという、この哲学者の思考の構造そのものによる。

物の根底には部分を持たない単純実体がある。複合体は単純なものの集積にほかならないからである。私たちが物と呼ぶものは、この単純実体、すなわち『モナド』の集まりとして成立する。

それぞれのモナドは、自己の視点から宇宙全体を表現する。モナドには窓がなく、物どうしが直接に作用し合うことはない。それぞれのモナドの表現は、あらかじめ神によって定められた一致、すなわち『予定調和』によって、互いに調和する。

この調和によって、多数のモナドの表現は、一つの秩序ある全体として知覚に現れる。物として現れるものは、この秩序をもった現れそのものである。物の成立は、それぞれのモナドが宇宙を自己の視点から表現し、その表現が予定調和によって一致することによる。

作品名:ライプニッツ『モナドロジー』を知るための本

発行責任者(著者):飯島健二

発行:古典書房

制作協力:Claude(claude-sonnet-5)

参照原典:フランス語原典『モナドロジー(La Monadologie)』(C. I. Gerhardt編、Die philosophischen Schriften von Gottfried Wilhelm Leibniz, Sechster Band, Berlin: Weidmann, 1879年)

初版発行日:2026年7月3日

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注記:本書が参照する原典は、ライプニッツ『モナドロジー』(La Monadologie)のフランス語原典である。本書の制作において直接参照した版はゲルハルト版(C. I. Gerhardt編、Die philosophischen Schriften von Gottfried Wilhelm Leibniz, Sechster Band, Berlin: Weidmann, 1879年刊行)に準拠したものである。本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTML(leibniz-monadorojii-hon.html)を、術語および論証骨格の照合基準として参照して制作している。本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。