パルメニデスは前515年頃、南イタリアのエレアに生まれた。エレア学派の創始者とされる。ピタゴラス派のアメイニアスに師事したとも伝えられる。エレアの立法者として政治にも携わったという記録が残る。没年は前450年頃とされる。
原典言語はギリシャ語。原典名はΠερὶ Φύσεως(自然について)。六脚韻の詩として書かれた。現存するのは断片のみであり、後世の著作家による引用として伝承されている。断片番号はDiels-Kranz(DK)方式(28 B 1〜19)に従う。底本はHermann Diels, Poetarum Philosophorum Fragmenta(Berlin: Weidmann, 1901)に準拠したテキストによる。
本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。
本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ4割程度である。
第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
第Ⅰ部は、原典全体を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。
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本一覧は、本書が参照する原典において実際に用いられている構造単位を、そのまま示す。
断片Ⅰ 馬に乗り、太陽の娘たちに先導されて、パルメニデスは夜と昼の門を越え、女神のもとへ至る。女神はこう告げる。揺るぎない真理(アレーテイア)の完全な核心も、死すべき者たちの思い込みも、すべてを学ばなければならない、と。詩はここから始まる。
断片Ⅱ 女神はまず、探究において思惟できる道が二つあると言う。一つは「存在する、同時に存在しないことはできない」——これは説得(ペイトー)の道であり、真理(アレーテイア)に従う。もう一つは「存在しない、存在しないことが必然だ」——この道はまったく知ることのできぬ小道だと女神は言う。存在しないものは知ることができない。語ることもできない。
断片Ⅲ 思惟することと存在することは、同じことだ。
断片Ⅳ〜Ⅴ 遠くにあるものも、思惟によって傍らにあるものとして見よ。あちこちに散らばっていても集まっていても、存在するものは存在するものとのつながりから切り離されない。どこから始めようとも、同じことだ。そこへ再びまた戻ってくるのだから。
断片Ⅵ 語ることと思惟することは、存在するものでなければならない。存在することはある。無はない。女神はこれをパルメニデスに心得よと命ずる。そして二つの誤った道を示す。一つはこの探究の道から思惟を遠ざけることであり、もう一つは、死すべき者たちが無知のままに形作る道——存在することと存在しないことを同じとし、また同じでないともする道——である。後者において道はどこにも向かわない。
断片Ⅶ 存在しないものが存在すると強いられることは、決してない。経験豊かな習慣がこの道でパルメニデスを強いることのないよう、女神は探究の道から感覚の働きと無根拠な言葉を遠ざけよと告げる。女神が語った問いを、言葉によって判断せよ。
断片Ⅷ 道についてのただ一つの語り、存在するということが残る。この道には徴が数多くある。
存在するものは生成もせず、滅しもしない。全体として完全で、唯一で、揺るぎなく、果てがない。かつてあったこともなく、これからあることもない。今、すべてが、一つの連続したものとして、一緒にある。存在しないものから生じたとは、語ることも思惟することも許されない。何の必然が、無から始まって、生じることを促したのか。全くあるか、全くないか、どちらかでなければならない。
確信の力が、存在しないものから何かが生じると認めることは、決してない。それゆえ、正義の女神ディケーは縛りを緩めることなく、生成することも滅することも許さず、しっかりと保つ。一方の道は、思惟できない名のない道として捨て去り、他方の道は真実としてあり続ける。もし存在するものが生じたとすれば、存在しない。これからあるとしても、同じく存在しないことになる。こうして生成は消え去り、滅びも人知れず消え去る。
存在するものはすべてが均一であるため、分割できない。どこも劣るところなく、すべてが存在するもので満ちている。すべては連続する。存在するものは存在するものに接するからだ。しかし存在するものは、真理(アレーテイア)の確信から生成と滅びを遠くへ追いやり、大きな縛りという限界の中で、動かず、始まりなく、止まることなくあり続け、同じものとして、同じところに留まり、それ自身のうちにある。強力な必然の女神アナンケーが、縛りという限界の中で存在するものを囲い込み、堅固にそこに留める。存在するものは欠けていない。したがって、存在するものが果てのないままであることは、許されない。欠けているとすれば、すべてにおいて欠けを必要とするだろう。
思惟することと、思惟が存在する理由とは、同じことだ。存在するものを離れては、思惟を見出すことはできない。思惟は存在するものの中で語られるからだ。存在するもの以外に、今あるものも、これからあるものも、何もない。運命の女神モイラがそれを全体として動かないよう縛ったからだ。それゆえ、死すべき者たちが真実と信じてつけたすべては、名にすぎない。生成と滅び、存在することと存在しないこと、場所を変えること、輝く色を変えること、これらすべては名にすぎない。
存在するものは最後の限界をもち、あらゆる方向から完結している。よく丸い球の塊に似て、中心からあらゆる方向に等しく均衡している。存在するものがここでより多く、あそこでより少なくあることはない。すべてが侵されないからだ。あらゆる方向から等しく、均等に限界に達している。
ここで、真理(アレーテイア)についての確かな語りと思惟を終える。これ以降は、死すべき者たちの思い込みを学べ、と女神は言う。死すべき者たちは二つの形を判断として名で呼ぶことにした。そのうちの一つは採用してはならない、そこに彼らの迷いがある。一方は炎のような天空の火、穏やかで非常に軽く、あらゆる方向で自分自身と同じ。もう一方はそれと対立するものとして、暗い夜、密で重い外見だ(断片VIII末尾)。
断片Ⅸ 光と夜のそれぞれの力に応じて、光に属するものと夜に属するものに名がつけられた。すべては光と見えない夜とで満ちている。両者等しく、一緒に、どちらにも何も欠けがない。
断片Ⅹ〜ⅩⅠ 天空の本性と天空にあるすべての星座を、清らかな太陽の炎の見えない働きとそれがどこから生じたかを、パルメニデスは知るだろう。丸い月の周回する働きとその本性も。また周囲を囲む天空が、どこから生じ、いかに必然の女神アナンケーがそれを導いて星々の境界を保つよう縛ったかも、知るだろう。大地と太陽と月、共通の天空と天の川と最果てのオリンポス、そして星々の熱い力が、いかにして生じようと動き出したか。
断片ⅩⅡ〜ⅩⅢ より狭い輪は混じりけのない火で満たされ、その外の輪は夜で満たされ、そこに炎の割り当てが注ぎ込まれる。それらの中心に、すべての舵を取る精霊がいる。この精霊は、雄に雌を交わらせ、また雌的なものに雄を交わらせながら、すべての忌まわしい誕生と交わりを司る。すべての神々の中で、最初に愛の神エロスを考え出した。
断片ⅩⅣ〜ⅩⅤa 夜に輝き、大地の周りをさまよう、借り物の光。常に太陽の光へと目を向けながら。大地を水に根ざすものと言う。
断片ⅩⅥ〜ⅩⅦ 流動的な体の各部分を、それぞれが持つように、そのように思惟が人々にそなわる。すべての人において、またすべてにおいて、身体の各部分の本性が人々において考えとなる。より多いものが思惟を決めるからだ。右側に男の子を、左側に女の子を。
断片ⅩⅧ 愛と美と生殖の女神ウェヌスが雄と雌の両方の種から生まれる者に性別の区別をもたらすと、ラテン語で伝わる断片は記す。
断片ⅩⅨ こうして思い込みによって、これらのものは生じ、今あり、やがて育って終わりを迎える。人々はそれぞれのものに、目立つ名をつけた。
本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。
『存在するもの』
断片VIIIにおいて徴として示される。生成せず滅せず、唯一で完全で連続し、動かず、球のように均衡している。思惟することと同一であり、思惟は存在するものの中にのみある。
『思惟』
断片IIIにおいて「思惟することと存在することは同じことだ」と言われる。存在するものを離れては見出すことができない。感覚の働きとは区別される。
『真理(アレーテイア)』
断片IIにおいて「存在する、同時に存在しないことはできない」という道が説得(ペイトー)の道であり真理(アレーテイア)に従うと言われる。断片VIIIにおいて、確かな語りと思惟は真理(アレーテイア)についてのものとして終わる。
『思い込み』
断片Iにおいて女神が「死すべき者たちの思い込み」として示す。断片VIIIにおいて「真の確信はない」とされ、生成・滅び・場所の変化・色の変化はすべて名にすぎないと言われる。断片VIII末尾から断片IXまでの「思い込みの世界」において、光と夜の二原理による宇宙の記述が展開される。
『縛りという限界』
断片VIIIにおいて、存在するものが動かず、始まりなく、止まることなくあり続ける根拠として示される。正義の女神ディケーが縛りを緩めることなく生成と滅びを許さず、必然の女神アナンケーがこの縛りという限界の中で存在するものを囲い込む。
『二つの道』
断片IIにおいて示される。第一の道は「存在する、同時に存在しないことはできない」。第二の道は「存在しない、存在しないことが必然だ」——これは知ることも語ることもできぬ小道とされる。断片VIにおいて、この二つに加え、第三の誤った道——存在することと存在しないことを同じとし、また同じでないともする道——が示される。
第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。
パルメニデスにおいて、物を定義するとは容易ではない。感覚に現れる物——変化し、生成し、滅びるもの——は、断片VIIIで示されるように、すべて「名にすぎない」とされる。物の根底に据えられる「存在するもの」は、唯一で分割できず、真理(アレーテイア)の道においてのみ語られる。感覚的な物は「思い込みの世界」に属し、光と夜の二原理による名づけにすぎない。したがって物の定義は、感覚に現れる個々の物を起点としては成立しない。思惟によってのみ把握される「存在するもの」を起点とするほかない。
以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。
『物とは、思惟によってのみ把握される存在するものであり、生成せず滅せず、唯一で分割できず、あらゆる方向から均衡した限界の中に、それ自身として留まるものである。』
物の根底にあるのは「存在するもの」だ。存在するものは生成しない。存在しないものから生じることは思惟することも語ることも許されないからだ。生じたとすれば、生じる以前は存在しなかったことになる。しかし存在するものは今、すべてが一つの連続したものとして、一緒にある。
存在するものは分割できない。すべてが均一であり、どこも劣るところなく、存在するもので満ちているからだ。ここでより多く、あそこでより少なくということはなく、存在するものが連続してあることを妨げるものは何もない。存在するものは『唯一』としてある。
存在するものはあらゆる方向から完結している。よく丸い球の塊に似て、中心からあらゆる方向に等しく均衡している。強力な必然の女神アナンケーが縛りという限界の中で存在するものを囲い込み、堅固にそこに留める。それゆえ存在するものは、大きな『縛りという限界』の中で動かず、始まりなく、止まることなくあり続ける。
この定義において感覚に現れる物は現れない。生成・変化・消滅は名にすぎず、光と夜の二原理による「思い込みの世界」の語りに属する。思惟することと存在することが同じであるとき、物とは思惟の対象としてのみある。
作品名:パルメニデス『自然について』を知るための本
発行責任者(著者):飯島健二
発行:古典書房
制作協力:Claude(claude-sonnet-5)
参照原典:ギリシャ語原典『Περὶ Φύσεως(自然について)』(Hermann Diels編、Poetarum Philosophorum Fragmenta、Weidmann社〔ベルリン〕、1901年、Diels-Kranz方式〈28 B 1〜19〉)
初版発行日:2026年06月30日
本書の本文・解説その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。
注記:本書が参照する原典は、パルメニデス『自然について』(Περὶ Φύσεως)のギリシャ語原典である。本書の制作において直接参照した版はDiels版(Hermann Diels, Poetarum Philosophorum Fragmenta, Berlin: Weidmann, 1901年刊行)に準拠したものである。Diels-Kranz版は現代のパルメニデス研究における標準版であり、現在刊行されている研究・翻訳文献の大部分がこれを底本としている。
本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTMLが存在する場合は、術語および論証骨格の照合基準として当該翻訳HTMLを参照して制作している。
本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。