プラトン『パルメニデス』を知るための本

知の地図シリーズ / 古典書房

哲学者について

プラトン(Πλάτων)は、紀元前428/427年頃、アテナイの名門の家に生まれた。若くしてソクラテスに師事した。紀元前399年、師ソクラテスが刑死したことを機に、政治家を志す道を離れ、哲学に専念するようになった。その後、メガラ・イタリア・シケリア等を遊学し、紀元前387年頃、アテナイに学園アカデメイアを創設した。紀元前348/347年頃、アテナイで没した。

原典について

原典言語は古典ギリシア語。原典名は Παρμενίδης(パルメニデス)。本書が参照する底本は、John Burnet編、Platonis Opera, Tomus II(Oxford: Clarendon Press、1901年、Oxford Classical Texts)である。

本書の構成と考え方

本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。第Ⅰ部は、原典全体を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。

本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ3割程度である。

目次

原典構造一覧

本一覧は、本書が参照する原典において実際に用いられている構造単位を、そのまま示す。ただし、『パルメニデス』の原典には、巻・章・節などの構造区分が存在しない。版面上に実際に用いられているのは、1578年にアンリ・エティエンヌ(Stephanus)が定めた通し番号とページ内区分(126a〜166cのステファヌス版番号)のみであり、本一覧はこれを構造単位として示す。

第Ⅰ部 原典について

対話の枠(126a〜127d)

状況:クラゾメナイから来たケパロスは、アテナイのアゴラでアデイマントスとグラウコンに出会い、母を同じくする兄弟アンティポンの名を尋ねる。アンティポンは若いころ、ゼノンの仲間ピュトドロスから、かつてソクラテスとゼノンとパルメニデスが交わした議論を何度も聞き、それをそらんじていると言われている。一行はメリテの家にアンティポンを訪ね、ためらう彼から、ピュトドロスの語ったとおりの話を聞く。

大パナテナイア祭に、パルメニデスとゼノンがアテナイに来ていた。パルメニデスはおよそ六十五歳の白髪の老人、ゼノンは四十歳近くであった。二人の泊まるピュトドロスの家に、まだごく若いソクラテスが、大勢の人々とともに、ゼノンの書物を聞くためにやって来る。ゼノン自身が朗読し、終わり近くに、パルメニデスと、後に三十人の一人となったアリストテレスが入って来る。

ゼノンの書物とソクラテスの形相(127d〜130a)

ソクラテス:最初の議論の最初の仮定はこう言う。もしあるものが多であるなら、それらは似ていると同時に似ていないのでなければならない。しかし似ていないものが似ていることも、似ているものが似ていないことも不可能である。したがって多であることも不可能である。この書物は、世に語られていることに逆らって、多はないということを論じ抜こうとしている。パルメニデスは詩のなかで万有は一であると言い、ゼノンは多はないと言う。一方は一であると言い、他方は多はないと言いながら、ほとんど同じことを語っている。

ゼノン:この書物は、パルメニデスの説への一種の援護である。一があるなら多くのおかしな帰結が生じると嘲笑する人々に対して、多があるという彼らの仮定のほうが、一があるという仮定よりもいっそうおかしな帰結を被ることを示そうとしたのである。若いころ、論争心から書いたものである。

ソクラテス:類似性の形相がそれ自体としてあり、それとは反対の非類似性の形相もあるのではないか。私たちも、私たちが多と呼んでいる他のものも、それらを分け持つ。類似性を分け持つものは似たものとなり、非類似性を分け持つものは似ていないものとなり、両方を分け持つものは両方となる。すべてのものがこの両方を分有して、似ていると同時に似ていないとしても、何の不思議もない。

私が一であり多であることが示されても、驚くにはあたらない。右と左、前と後ろ、上と下が異なるという点で、私は多数性を分有している。ここにいる七人のうちの一人の人間であるという点で、私は一を分有している。石や木材が多でありかつ一であることを示す人は、あるものが多でありかつ一であることを示しているのであって、一が多であることを示しているのではない。

しかし、類似性と非類似性、多数性と一、静止と運動の形相を、まずそれ自体として別々に区別し、そのうえで、それらが互いに混じり合ったり分かれたりしうることを示す人がいるなら、私は驚嘆するだろう。目に見えるものについてたどられたこの難問が、推論によって捉えられるもの、すなわち形相そのもののうちで絡み合っていることが示されるなら、なおいっそう感嘆するだろう。

形相への問い(130a〜135c)

状況:ソクラテスが語るあいだ、パルメニデスとゼノンは、ほほえみながら聞いている。パルメニデスは、議論へと向かうソクラテスの意気込みに感嘆を述べ、問いを重ねていく。

パルメニデス:君は、一方に形相それ自体を、他方にそれを分有するものを、別々に区別しているのか。類似性、一と多には、それ自体としての形相があるとする。正しいもの、美しいもの、善いものにも形相がある。では、人間や火や水の形相はどうか。

ソクラテス:それらについては、何度も困惑してきた。髪の毛や泥や垢のような、きわめて取るに足らないものには、形相があるとは思わない。それらは、私たちが目にしているそのままのものである。すべてのものについて同じことが言えるのではないかと心を乱されたことはあるが、たわごとの淵に落ちるのを恐れて逃げ去ってしまう。

パルメニデス:それは君がまだ若く、人々の思わくを気にかけているからである。哲学がつかむとき、君はこれらのどれひとつとして軽んじなくなるだろう。

では、他のものは形相を分け持つことによってその名を受けるとして、分け持つものは、形相の全体を分け持つのか、部分を分け持つのか。全体であるなら、一つの同じものが、多くの別々にあるもののうちに同時に全体としてあり、それ自身がそれ自身から離れてあることになる。

ソクラテス:昼のようなものであれば、そうはならない。昼は一つの同じものでありながら、同時に多くの場所にあり、それ自身から離れてはいない。

パルメニデス:それは、帆布で大勢の人々を覆って、一つのものが全体として多くの人々の上にあると言うようなものである。しかし帆布は、その部分が一人一人の上にある。そうすると形相は分割できるものとなり、分有するものは形相の部分を分有することになる。しかし大きさそのものを分割すれば、大きなものは大きさそのものより小さな部分によって大きいことになる。等しさの小さな部分によって何かが等しくなり、小ささの部分を取り去られた小ささそのものは、その部分より大きくなる。これらはいずれも不合理である。部分によっても全体によっても分け持つことができないなら、他のものは、どのような仕方で形相を分け持つのか。

次に、君が形相を一つだと考える理由を問う。多くの大きなものを見渡すと、一つの同じイデアがあるように思われ、そこから君は、大きいということは一つであると考える。しかし大きさそのものと他の大きなものとを同じように魂によって見渡すなら、今度はまた一つの大きいものが現れ、それによってこれらすべてが大きく見える。こうして大きさの別の形相が次々に現れ、形相の一つ一つは、もはや一つではなく、数において限りのないものになる。

ソクラテス:形相の一つ一つは思考であって、魂のうち以外のどこにも生じないのではないか。そうであれば、形相の一つ一つは一つであり続ける。

パルメニデス:思考は、何ものかについての思考である。それは、すべてのものの上にある一つのもの、すなわち一つのイデアについての思考であり、すべてのものの上に常に同じものとしてある、この一つと考えられるものこそが形相である。それに、他のものが形相を分有するなら、それぞれのものが思考から成り、すべてが思考しているか、思考でありながら思考していないか、そのどちらかになる。

ソクラテス:それも筋が通らない。むしろ形相は、手本として自然のうちに立っており、他のものはそれらに似せられた似像である。分有とは、形相に似せられること以外の何ものでもない。

パルメニデス:何かが形相に似ているなら、形相もまたそれに似ている。似ているもの同士は、一つの同じものを分有しなければならず、そのものこそ形相である。そうすると、形相のほかに常に別の形相が現れ、新しい形相が生じることは決してやまない。したがって、他のものは類似によって形相を分け持つのではない。別の仕方を探さなければならない。

しかし最大の難問は別にある。形相がそのようなものであるなら、知られることさえできない、と主張する人がいても、その人が誤っていることを示すのは容易ではない。それぞれのものについてそれ自体としての存在を立てる人は、それらが私たちのうちにはないことに同意する。イデアのうちで互いに関係し合ってあるものは、互いに関係し合うことによってその存在をもつのであって、私たちのもとにあるもの、すなわち似像に関係してもつのではない。私たちのもとにあるものも、同じ名をもってはいるが、それら同士の関係においてある。

たとえば、私たちのうちの誰かが主人であるとき、その人は奴隷そのものの主人ではなく、人間である奴隷の主人である。主人であることそのものは、奴隷であることそのものに対してある。同じように、知識そのものは真理そのものについての知識であり、私たちのもとにある知識は、私たちのもとにある真理についての知識である。形相そのものを私たちはもっておらず、知識の形相そのものも私たちはもっていない。そうすると、美そのものも善そのものも、イデアとしてそれ自体としてあると想定しているすべてのものは、私たちにとって知られえない。

さらに恐ろしいことがある。もっとも厳密な知識をもつのは神である。しかし形相は私たちのもとにあるものに対して働きをもたないのだから、神々のもとにある主人であることは私たちを支配せず、神々のもとにある知識は私たちも人間の事柄も知らない。

ソクラテス:神から知ることを奪うなら、その議論はあまりにも驚くべきものになる。

パルメニデス:形相をそれ自体として区別するなら、形相は、これらのことを、さらに非常に多くのことを抱え込む。それを見出し、十分に吟味し分けて他人に教えることができるのは、驚くべき人でなければならない。しかし逆に、これらの難点に目を向けて、それぞれのものについて常に同じものであるイデアを認めないなら、その人は思考をどこへ向ければよいかさえ分からず、問答する力をまったく損なってしまう。

訓練の必要とその方法(135c〜137c)

パルメニデス:君は訓練を積む前に、あまりに早くから、美や正義や善、それぞれの形相を区別しようとしている。議論へと向かう意気込みは美しく神的なものである。しかし若いうちに、世間では役に立たないと思われ、無駄話と呼ばれているもので、もっと訓練を積まなければならない。そうでなければ、真理は逃れ去る。

その訓練は、ゼノンのやり方である。ただし、君がゼノンに求めたように、目に見えるもののさまよいではなく、言論によって捉えられ、形相であると考えられるものについて考察する。そして、それぞれのものについて、それがあると仮定して帰結することを考察するだけでなく、同じそのものがないと仮定してもみなければならない。多があるとすれば、多にとって、それ自身に対して、また一に対して何が帰結するか、一にとって、それ自身に対して、また多に対して何が帰結するか。多がないとすれば、どうなるか。類似性、非類似性、運動、静止、生成と消滅、あることとあらぬことについても同じである。仮定したものについて、それ自身に対して、また他のものに対して、さらに他のものについても、それ自身に対して、また仮定したものに対して帰結することを、あるとする場合とあらぬとする場合の両方で考察する。

状況:ソクラテスは、それを自ら一通りやってみせてほしいと頼む。ゼノンも、このようにすべてを通り抜けてさまよい歩くことなしには、真理に出会って知性を得ることはできないと言い添えて、ともに頼む。パルメニデスは、年老いた競走馬に自らをなぞらえたイビュコスのように、この年で言論の海を泳ぎ渡らなければならないことを恐れながらも、引き受ける。手間のかかる遊戯として、一そのものについて、一があるとすれば、また一がないとすれば、何が帰結しなければならないかを、自分自身の仮定から始める。答え手には、いちばん若いアリストテレスが立つ。

一があるなら、一は(その一)(137c〜142a)

パルメニデス:もし一があるなら、一は多ではない。そうすると、一には部分があってはならず、一は全体であってもならない。部分とは全体の部分であり、全体とはどの部分も欠けていないものである。一が全体であっても部分をもっても、そのどちらの場合にも部分から成り、多であることになる。

部分をもたないなら、一は始まりも終わりも中間ももたない。終わりと始まりはそれぞれのものの限界であるから、一は限りのないものである。一は形ももたない。丸いものとは端がどの方向にも中心から等しく隔たっているものであり、まっすぐなものとは中間が両端の手前にあるものである。いずれを分有しても、一は部分をもち、多であることになる。

そのようなものである以上、一はどこにもない。他のもののうちにあるなら、一は取り囲むものと多くの箇所で多くの部分によって接することになる。それ自身のうちにあるなら、取り囲むものと取り囲まれるものとが別々になり、一は二であることになる。

一は運動もしない。運動とは質的変化と移動の二つだけである。一がそれ自身から質的に変化するなら、なお一であることはできない。移動するなら、同じ場所で回転するか、場所を変えるかである。回転するものは中心と、中心の周りを移動する部分とをもたなければならない。場所を変えるものは、何かのうちに生じつつあるあいだ、一部はすでにそのうちにあり、一部はなおその外にある。部分をもたないものに、そのどちらもできない。

一は静止もしない。何かのうちにあることができない以上、一は決して同じもののうちにはなく、同じもののうちにないものは静止していない。こうして一は、静止してもおらず、運動してもいない。

一は、それ自身とも他のものとも、同じでも異なるのでもない。それ自身と異なるなら一ではなくなり、他のものと同じであるなら、その他のものとなって一ではなくなる。異なるということは異なるものにだけふさわしく、一であることによって異なるのではない。また一の本性は同じということの本性とは別である。多と同じになったものは、一ではなく多になる。一がそれ自身と同じであるなら、一でありながら一ではないことになる。

同じという性格を帯びるものが似ているものであり、異なるという性格を帯びるものが似ていないものである。一は、一であることとは別のどんな性格も帯びない。帯びれば、一より多くのものになるからである。したがって一は、それ自身とも他のものとも、似ていることも似ていないこともない。

同じ理由から、一は、等しくもなく、等しくなくもない。等しいものは相手と同じ尺度から成り、大きいものや小さいものは、より多い尺度、より少ない尺度から成る。同じということを分有しない一は、同じ尺度から成ることができない。多くの尺度から成るなら、尺度の数だけの部分から成り、もはや一ではない。

一は、年長でも年少でも同じ年齢でもない。同じ年齢であるなら時間の等しさと類似性を分有し、年長や年少であるなら非類似性と不等性を分有するからである。時間のうちにあるものは、常にそれ自身より年長になっていき、同時にそれ自身より年少にもなっていく。一にはそのような様態のどれひとつも与らないのだから、一には時間も与らず、一は何らかの時間のうちにあるのでもない。

あった、なった、なりつつあった、という言い方はかつての時間の分有を、あるだろう、なるだろう、という言い方はこの先の時間の分有を、ある、なりつつある、という言い方は今の時間の分有を意味する。一がどんな時間も分有しないなら、一はかつても、今も、この先も、なることもあることもない。何かが存在を分有するのは、これらのどれかによる以外にない。そうすると、一は存在をまったく分有せず、一は一であるという仕方でさえ、あるのではない。一は一でもなく、あるのでもない。

あらぬものには、それに属するものも、それについての何かもない。一には名前も説明もなく、知識も感覚も思わくもない。一は名づけられることも、語られることも、思わくされることも、知られることもない。

アリストテレス:一についてこのような事態がありうるとは、私には思われない。

一があるなら、一は(その二)(142b〜155e)

パルメニデス:仮定に初めから立ち返る。一があるなら、一は存在を分有する。一の存在は一と同じものではない。同じであるなら、一があると言うのは一が一であると言うのと同じことになる。しかし仮定は、一が一であるなら、ではなく、一があるなら、である。あるは、一とは別の何かを意味している。

そうすると、あるところの一そのものは全体であり、一とあることとがその部分である。二つの部分のそれぞれも、一はあることを欠かず、あることは一を欠かないのだから、それぞれがまた一とあることとをもち、もっとも小さい部分も二つの部分から成る。こうして一は常に二になっていき、あるところの一は数において限りのないものとなる。

次に、存在を分有する一を、それが分有するものを除いて、思考によってそれ自体としてだけ捉える。一の存在と一それ自体とは別々のものである以上、両者は、一であることによってでも存在であることによってでもなく、異なるということによって互いに異なる。異なるということは、一とも存在とも同じではない。存在と一、存在と異なるということ、一と異なるということ、どの組を取り出しても、両方と呼ばれる二つのものがあり、そのそれぞれは一である。二に一を付け加えれば三になる。二と三があれば、二倍と三倍もある。偶数の偶数倍も、奇数の奇数倍も、偶数の奇数倍も、奇数の偶数倍もある。こうして一があるなら数もあり、数があるなら、あるものは限りのない多数である。

すべての数が存在を分有するなら、存在は、もっとも小さいものにも大きいものにも配分されており、あらゆるもののうちでもっとも多く分割されている。しかし存在の部分は、あるかぎり常に何か一つのものでなければならない。そうすると存在のあらゆる部分には一が伴っている。一は、同時に多くの場所に全体としてあることはできないのだから、分割されており、部分の数と同じだけのものである。存在と一とは、常にすべてにわたって等しく並んでいく。あるところの一が多であるだけでなく、一そのものも、存在によって細かく分かたれて、多であり、数において限りのないものである。

部分は全体の部分であり、全体によって取り囲まれている。取り囲むものは限界である。そうすると、あるところの一は、一でありかつ多であり、全体でありかつ部分であり、限られたものでありかつ数において限りのないものである。全体であるなら、始まりと中間と終わりをもち、中間は両端から等しく隔たっている。一は、まっすぐな形か丸い形か、両方が混じった形か、何らかの形を分有する。

部分のそれぞれは全体のうちにあり、すべての部分は全体によって取り囲まれる。一はそれ自身のすべての部分であり、全体でもあるのだから、一は一によって取り囲まれ、それ自身のうちにある。しかし全体は、すべての部分のうちにも、どれかの部分のうちにも、いくつかの部分のうちにもない。全体がどこにもないなら、全体は何ものでもない。そうすると全体は、他のもののうちになければならない。一は、全体であるかぎりでは他のもののうちにあり、すべての部分であるかぎりではそれ自身のうちにある。

それ自身のうちにあるかぎり、一は同じもののうちにあって静止している。常に別のもののうちにあるかぎり、一は決して同じもののうちになく、運動している。

どんなものも、どんなものに対しても、同じであるか、異なるか、部分であるか、全体であるかである。一はそれ自身の部分でも全体でもなく、それ自身と異なるものでもないのだから、それ自身と同じである。しかし一は、それ自身のうちにあると同時に別のもののうちにもあるという点で、それ自身と異なる。一でないものはすべて一と異なるのだから、一は他のものと異なる。ところが同じということと異なるということとは反対のものであり、異なるということは、どんな時間にも同じもののうちにあることができない。そうすると異なるということは、一のうちにも一でないもののうちにもなく、一と一でないものとは、異なるということによっても、それ自身によっても、互いに異ならない。また一でないものは一を分有せず、数でもなく、一の部分でも一に対する全体でもない。部分でも全体でもなく互いに異なるのでもないものは、同じである。こうして一は、他のものともそれ自身とも、異なり、また同じである。

一が他のものと異なるのは、他のものが一と異なるのとちょうど同じだけである。異なるという名前は、何度口にしても、それが属しているあの本性に当てて語られる。そうすると一と他のものとは、異なるということそのものに即して同じ性格を帯びており、同じ性格を帯びているものは似ている。こうして一は、異なるかぎりでは他のものと似ており、同じであるかぎりでは、その反対の性格に即して似ていない。同じ性格を帯びているかぎりでは似ており、別の性格を帯びているかぎりでは似ていない、という議論も成り立つ。それ自身に対しても同じように、一はそれ自身と似ており、また似ていない。

一は、他のもののうちにあるかぎり他のものと接し、それ自身のうちにあるかぎりそれ自身と接する。しかし接しようとするものは、相手のすぐ隣の場所を占めなければならない。一がそれ自身と接するには二でなければならず、一であるかぎりそれはできない。また接触があるためには少なくとも二つのものがなければならず、接触の数は常にものの数より一つ少ない。他のものは一を分有せず、数をもたないのだから、一だけがあって二はなく、接触はない。こうして一は、他のものともそれ自身とも、接しており、また接していない。

大きさと小ささとは形相である。小ささが一の全体のうちにあるなら、一と等しく広がるか一を取り囲むかであり、大きさや等しさの働きをすることになる。部分のうちにあっても同じである。そうすると小ささは、あるもののどれのうちにもなく、小ささそのもの以外に小さいものはない。大きさについても同様である。大きさそのものと小ささそのものとは、互いに対してのみ優越し、優越される。一も他のものも大きさや小ささをもたないのだから、互いに優越せず優越されず、対等であり、等しい。一はそれ自身とも等しい。

しかし一は、それ自身のうちにある以上、それ自身を取り囲むものとしてはそれ自身より大きく、取り囲まれるものとしてはそれ自身より小さい。一と他のもののほかには何もなく、あるものは常にどこかになければならないのだから、他のものは一のうちに、一は他のもののうちにある。一が他のもののうちにあるかぎり、一は他のものより小さく、他のものが一のうちにあるかぎり、一は他のものより大きい。こうして一は、それ自身とも他のものとも、等しく、大きく、小さい。そして大きさにおいてそうであるなら、尺度の数においても、部分の数においても、それ自身とも他のものとも、等しく、多く、少ない。

一があるなら、一は時間を分有する。あるということは、現在の時間とともにする存在の分有であり、あったということは過去の時間との、あるだろうということは未来の時間との共同である。時間は進んでいくのだから、一は常にそれ自身より年長になっていく。年長になっていくものは、年少になっていくものより年長になっていくのだから、一は同時にそれ自身より年少にもなっていく。

一は、あったとあるだろうとのあいだにある今に行き当たるとき、年長になっていくことをやめ、そのとき年長である。進んでいくものは今を跳び越えることがなく、今とこの先の両方に触れて、そのあいだでなっていく。今は、一があることの全体にわたって常に一に居合わせている。こうして一は常に、それ自身より年長であり年長になっていき、年少であり年少になっていく。しかし一は、それ自身と等しい時間をかけてあり、なっていくのだから、それ自身と同じ年齢であり、年長でも年少でもない。

他のものに対してはどうか。他のものは別の複数のものである以上、一より多い数を分有する。数のうちでは、より少ないものが先に生じ、もっとも少ないものが最初である。それは一である。そうすると、一が最初に生じ、他のものは後から生じたのであり、他のものは一より年少であり、一は他のものより年長である。

しかし一は、本性に反して生じることはできない。一は部分をもつのだから、始まりと中間と終わりをもつ。始まりが最初に生じ、終わりが最後に生じる。全体であり一であるものは、終わりと同時に生じるのだから、一は他のもののうちで最後に生じ、他のものより年少である。さらに、始まりであれほかのどんな部分であれ、部分である以上は一でなければならない。そうすると一は、最初に生じるものとも、二番目に生じるものとも同時に生じ、どれにも後れをとることなく、最後のものにまで行き着いて全体として一となる。こうして一は、他のすべてのものと同じ年齢であり、先の議論では年長でも年少でもあり、この議論では年長でも年少でもない。

なっていくことについてはどうか。年長であるものは、最初に生じたときに隔たっていた以上に年長になっていくことはできない。等しくないものに等しいものを付け加えても、隔たりは同じだけにとどまるからである。この点で、一と他のものとは、互いに年長にも年少にもなっていかない。しかしより多い時間とより少ない時間とに等しい時間を付け加えるなら、両者の隔たりの割合は以前より小さくなる。そうすると、年長であったものは、以前に自分がそれより年長であった相手に対して、以前より年少になっていき、年少であったものは年長になっていく。両者は反対の方向へ進み、互いに反対のものになっていくが、そうなってしまうことはない。なってしまえば、もはやなっていくのではなく、そうであることになるからである。この点で、一と他のものとは、互いに年長にも年少にもなっていく。

こうして一は、それ自身より、また他のものより、年長であり、年少であり、また年長になっていき、年少になっていき、そして年長でも年少でもなく、そうなっていくのでもない。一は時間を分有するのだから、一はあったし、あるし、あるだろう。なりつつあったし、なりつつあるし、なるだろう。一に属する何か、一についての何かがあり、一についての知識も思わくも感覚もある。現に今、私たちが一についてこれらすべてのことを行っている。一には名前も説明もあり、一は名づけられもし、語られもする。

時間のうちで変化する一と瞬間(155e〜157b)

パルメニデス:三番目のことを語る。一が、一であり多であり、また一でも多でもなく、時間を分有するものであるなら、一は、あるときには存在を分有し、あるときには分有しない。分有しているときに同時に分有しないことはできないのだから、一は、ある時間には分有し、別の時間には分有しない。存在を分け取ることが生じることであり、存在から離れることが滅びることである。一は、存在を取り、また手放すことによって、生じ、また滅びる。一になるときには多であることが滅び、多になるときには一であることが滅びる。一は分離し、また結合し、似たものになり、また似ていないものになり、増大し、減少し、等しくなる。

運動しているものが静止へ、静止しているものが運動へと変化するとき、それはいつ変化するのか。静止しているあいだにも、運動しているあいだにも変化せず、同時に運動もせず静止もしていないような時間はない。しかし変化するものは、変化することなしに変化するのではない。そうすると、変化するそのときに、変化するものがそのうちにある、奇妙なものがある。それが瞬間である。瞬間は、運動と静止のあいだに座を占めていて、どんな時間のうちにもない。この瞬間へと、またこの瞬間から、運動しているものは静止へ、静止しているものは運動へと変化する。

一も、静止しかつ運動しているのなら、瞬間において変化し、そのときには運動していることも静止していることもない。ほかの変化も同じである。あることから滅びることへ、あらぬことから生じることへと変化するとき、一は、あるのでもあらぬのでもなく、生じるのでも滅びるのでもない。一から多へ、多から一へと進むとき、一は一でも多でもなく、分離するのでも結合するのでもない。似ているものから似ていないものへ、小さいものから大きいものや等しいものへと進むときも同様である。一があるなら、一はこれらすべての様態を被る。

一があるなら、他のものは(その一)(157b〜159b)

パルメニデス:一があるなら、一以外の他のものは何を被っていなければならないか。他のものは、一とは別のものである以上、一ではない。しかし一をまったく欠いているのでもなく、何らかの仕方で一を分有している。他のものは部分をもつことによって他のものであり、部分をもたないならまったくの一であるだろう。

部分は、多くのものの部分でも、すべてのものの部分でもない。多くのものの部分であるなら、自分自身の部分でもあることになり、一つ一つのものの部分でないなら、どれの部分でもないことになる。部分は、私たちが全体と呼ぶ、すべてのものから一つの完全なものとして生じた何か一つのイデアの部分である。そうすると、他のものは、部分をもつなら全体すなわち一を分有し、部分をもつ一つの完全な全体でなければならない。部分のそれぞれも、他のものから区別されてそれ自体としてあるという点で、一を分有する。一を分有するものは、一とは異なるものとして分有するのであり、一とは異なるものは多くのものである。

一を分け持つものは、分け持つそのときには、まだ一であるのでも一を分有しているのでもない。それは一がそのうちにない多数のものである。そのようなものから、思考によって、できるかぎり小さいものを取り去っても、それもまた一ではなく多数である。このようにして、形相とは異なる本性を、それ自体として常に考察していくなら、目にする部分はどれも数において限りのないものである。しかし部分が部分となるときには、部分は互いに対しても全体に対しても限界をもち、全体も部分に対して限界をもつ。一とそれ自身とが結びつくことによって、他のもののうちに何か異なるものが生じ、それが互いに対して限界を与える。それら自身の本性は、それ自体としては限りのなさを与える。こうして他のものは、全体としても部分ごとにも、限りのないものであり、また限界を分有する。

他のものは、すべて限りのないものであるかぎり同じ性格を帯び、すべて限界を分有するかぎりでも同じ性格を帯びる。しかし限られたものであり限りのないものであるという点では、反対の性格を帯びており、反対のものはできるかぎり似ていないものである。こうして他のものは、それ自身とも互いにも、似ており、また似ていない。同じでもあり異なるのでもあり、運動もし静止もしていること、あらゆる反対の性格を帯びていることも、もう難なく見出される。

一があるなら、他のものは(その二)(159b〜160b)

パルメニデス:もう一度、一があるなら、を考察する。一と他のものとが語られれば、すべてが語られたことになり、両者とは別の、同じ何かはない。そうすると一と他のものとが同じもののうちにあることはなく、両者は離れてある。真に一であるものは部分をもたないのだから、一の全体も部分も他のもののうちにはない。他のものは、どのような仕方でも一を分有しない。

そうすると他のものは、一ではなく、多でもない。多であるなら、そのそれぞれが全体の一つの部分であり、一を分有するからである。一をあらゆる点で欠く他のものは、全体でも部分でもなく、二でも三でもない。似ていることも似ていないこともない。似ていたり似ていなかったりするなら、互いに反対である二つの形相をもつことになるが、一つのものさえ分有しないものが二つのものを分有することはできない。他のものは、同じでも異なるのでもなく、運動しているのでも静止しているのでもなく、生じるのでも滅びるのでもなく、大きいのでも小さいのでも等しいのでもない。このような性格を帯びるなら、一も二も三も、奇数も偶数も分有することになるからである。

このようにして、一があるなら、一はすべてであり、また一でさえない。それ自身に対しても、他のものに対しても、同じようにそうである。

一があらぬなら、一は(その一)(160b〜163b)

パルメニデス:次に、一があらぬなら、何が帰結しなければならないかを考察する。一があらぬなら、という仮定は、一でないものがあらぬなら、という仮定とまったく反対である。大きさがあらぬなら、小ささがあらぬなら、と言う人は、それぞれの場合に、あらぬものとして何か異なるものを語っている。一があらぬなら、と言う人も、他のものとは異なるものを語っており、私たちはその人の語っていることが分かっている。そうすると、あらぬと語られる一は、まず知られうるものであり、次に他のものとは異なるものである。

したがって一には、一についての知識がある。そうでなければ、一があらぬなら、と言うとき、何が語られているのかさえ知られない。他のものは一とは異なり、一には、他のものとは異なるものとしての異他性がある。さらにあらぬ一は、あれ、何か、これ、これに、これらの、といったことを分有している。そうでなければ、一が語られることも、一とは異なるものが語られることもない。一は、あらぬのである以上、あることはできない。しかし多くのものを分有することは妨げられない。あらぬのが、まさにあの一であってほかのものでないのなら、むしろそうでなければならない。

他のものは一とは異なり、異なる性質のもの、別様のものであり、一に似ていない。そうすると一にも非類似性があり、それとの関係で他のものは一に似ていない。一に、それ自身に対する非類似性があるなら、議論は一についてのものではなくなる。したがって一には、それ自身に対する類似性がなければならない。

一は他のものと等しくもない。等しいなら、一はもうあることになり、他のものに似ていることにもなるからである。等しくないものは不等なものであり、一は不等性を分有する。不等性には大きさと小ささが属し、大きさと小ささとのあいだには常に等しさがある。そうするとあらぬ一には、等しさも大きさも小ささも与っている。

さらに一は、何らかの仕方で存在をも分有しなければならない。私たちが一はあらぬと言うとき、真実を語っているなら、私たちはあるものを語っている。一は、あらぬものとして、あるのである。あるものが完全にあるためには、あるものであることの存在を分有し、あらぬものであらぬことの非存在を分有する。あらぬものが完全にあらぬためには、あるものであらぬことの非存在を分有し、あらぬものであることの存在を分有する。あらぬ一にも、あらぬのであるために、あることが与っていなければならない。一があらぬなら、一には存在があり、また非存在もある。

このようにあり、またこのようにないものは、変化を意味しており、変化は運動である。一は、あるものでありあらぬものであるのだから、あることからあらぬことへの変化をもち、運動している。しかし一は、あるもののうちのどこにもないのだから、場所を移ることも、同じ場所で回転することもない。同じものは、あるものだからである。一は、それ自身から質的に変化することもない。変化するなら、議論はもはや一についてのものではなくなる。動かないものは静止している。こうしてあらぬ一は、静止しており、また運動してもいる。運動するかぎり質的に変化し、運動しないかぎり質的に変化しない。質的に変化するものは、以前とは異なるものになり、以前のあり方からは滅びる。あらぬ一は、生じ、また滅び、そして生じることも滅びることもない。

一があらぬなら、一は(その二)(163b〜164b)

パルメニデス:もう一度初めに立ち返る。あらぬと言うとき、それは、あらぬと言うものに存在が欠けていること以外の何も意味していない。あらぬと語られることは、どのような仕方でも、どのような点でもあらぬのであり、何らかの仕方で存在を分有することもない、ということを端的に意味している。

そうすると、あらぬものは、あることも、ほかのどんな仕方で存在を分有することもできない。生じることは存在を分け取ることであり、滅びることは存在を失うことである。存在に何ひとつ与っていないものは、存在をもつことも、存在から離れることも、存在を分け取ることもない。あらぬ一は、生じることも滅びることもなく、質的に変化することもなく、運動することもない。どこにもないものは、常に何か同じもののうちにあるのではないのだから、静止することもない。

あるもののどれひとつとして、一には属していない。一には、大きさも小ささも等しさもなく、類似性も異他性もない。他のものも、一に対して似ているのでも似ていないのでもなく、同じなのでも異なるのでもない。あれの、あれに、何か、これ、これの、ほかのものの、ほかのものに、かつて、この先、今、知識、思わく、感覚、説明、名前、そのどれも、あらぬものについてはない。あらぬ一は、どのような点でも、どのようなあり方もしていない。

一があらぬなら、他のものは(その一)(164b〜165e)

パルメニデス:一があらぬなら、他のものは何を被っていなければならないか。他のものは、他のものでなければならない。他のものは異なるものであり、異なるものは異なるものと異なる。他のものにも、それが他のものである相手となる何かがある。一はあらぬのだから、他のものが一と他のものであることはない。他のものは互いに他のものである。

一があらぬのだから、他のものは、一つとしてではなく、多数のまとまりとして、互いに他のものである。それらの塊のそれぞれは、数において限りのないものである。もっとも小さいと思われるものを取り上げても、眠りのなかの夢のように、一つだと思われていたものが突然多くのものとして現れ、もっとも小さいものが、そこから細かく分かれたものに比べて、きわめて大きなものとして現れる。

多くの塊があり、そのそれぞれは一つであるように現れるが、実際には一つではない。それらの数もあるように思われ、あるものは偶数、あるものは奇数であるように現れるが、それは真実ではない。もっとも小さいものがあるように思われるが、それも多くの大きなものとして現れる。それぞれの塊は、より大きいものからより小さいものへと移り変わって現れる前に、その中間に来たと思われ、それが等しさの見かけとなる。

それぞれの塊は、ほかの塊に対しては限界をもちながら、それ自身に対しては、始まりも限界も中間ももたない。思考によってそれらのうちの一つを捉えるたびに、始まりの前には別の始まりが、終わりの後には別の終わりが、中間のうちには、より中ほどの、より小さな別のものが現れる。一があらぬ以上、それらを一つのものとして捉えることができないからである。思考によって捉えられるものはすべて、細かく分かれて砕け散る。一なしに捉えられるのは、常に塊だからである。

そのようなものは、遠くからぼんやりと見る人には一つのものとして現れ、近くから鋭く思考する人には、そのそれぞれが数において限りのないものとして現れる。陰影で描かれた絵のように、離れて立つ人にはすべてが一つのものとして、同じ性格を帯びて似ているように現れ、近寄る人には、多くの異なるものとして、互いに似ていないものとして現れる。こうして一があらぬが、一以外の他のものがあるなら、他のものは、限りのないものであり限界をもつものであり、一でもあり多でもあり、似ており似ておらず、同じでもあり異なるのでもあり、接してもおり離れてもおり、運動してもおり静止してもおり、生じもし滅びもし、そのどちらでもないように現れる。

一があらぬなら、他のものは(その二)(165e〜166c)

パルメニデス:最後にもう一度初めに立ち返る。一があらぬが、一以外の他のものがあるなら、何がなければならないか。他のものは一ではない。多でもない。多くのものがあるなら、そのうちには一もあるからである。そのうちのどれひとつとして一でないなら、すべては何ものでもなく、多でもない。

他のものは、一として現れることも、多として現れることもない。他のものは、あらぬもののどれとも、どのような仕方でも共同をもたず、あらぬものには、どんな部分もないからである。他のもののもとには、あらぬものについての思わくも見かけもない。一なしに多を思わくすることはできない。一があらぬなら、他のものは、一でも多でもなく、一とも多とも思わくされない。似ているのでも似ていないのでもなく、同じでも異なるのでもなく、接してもおらず離れてもいない。先にたどってきたどの性格も、他のものはもたず、そのどれとしても現れない。

まとめて、一があらぬなら何ものもあらぬ、と言うなら、正しく言っていることになる。そして、一があるにせよ、あらぬにせよ、一も他のものも、それ自身に対しても互いに対しても、あらゆるものがあらゆる仕方で、あり、またあらず、現れ、また現れない。

アリストテレス:まったくその通りである。

用語欄

本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。

『一(ヘン)』

後半の考察の主題。パルメニデスは詩のなかで万有は一であると語ったとされ、後半では、自分自身の仮定として、一があるなら、一があらぬなら、一にとって、また他のものにとって何が帰結するかをたどる。部分をもたない一は、どこにもなく、時間も存在も分有しないものとして現れ、存在を分有する一は、部分をもち、数において限りのないものとして現れる。

『多(ポラ)』

多くのもの。一と対になる語。ゼノンの書物は、もしあるものが多であるなら、それらは似ていると同時に似ていないことになる、として、多はないことを論じる。ソクラテスは、自分は多数性を分有する点で多であり、一を分有する点で一である、と語る。

『ある・あること(エイナイ、オン)』

ある、あるもの。否定はあらぬ、あらぬもの。後半の転回点として、一があると言うことは、一が一であると言うことと同じではなく、あるは一とは別の何かを意味する、とされる。あらぬと言うことは、あらぬと言うものに存在が欠けていること以外の何も意味しない、とも語られる。

『存在(ウーシアー)』

あることを指す名詞。一があるとは、一が存在を分有することであり、存在を分け取ることが生じることであり、存在から離れることが滅びることである、とされる。あった、ある、あるだろう、という仕方でしか存在は分有されないとして、時間を分有しない一は存在をまったく分有しないとされる。

『形相(エイドス)』

類似性そのもの、正しいもの、美しいもの、善いものの形相のように、それ自体として別にあるとされるもの。ソクラテスが立て、パルメニデスがどのようなものに形相があるのか、全体として分け持たれるのか部分として分け持たれるのか、私たちに知られうるのか、と問いただす。それでも、形相を認めなければ思考の向かう先がなくなり、問答する力が失われる、とされる。

『イデア(イデアー)』

形相と並んで用いられる語。多くの大きなものを見渡すと、何か一つの同じイデアがあるように思われる、と語られ、それぞれのものについて常に同じものであるイデアを認めないなら、問答する力が失われる、とされる。

『分有する(メテケイン)』

何かに与ること。他のものは形相を分有することによって、その形相の名で呼ばれる。分有が全体によるのか部分によるのか、似せられることによるのかが問われ、いずれも行き詰まる。後半では、一が存在を分有する、他のものが一を分有する、という形で、考察の全体を貫く。

『仮定(ヒュポテシス)』

議論の出発点として立てられる前提。ゼノンの書物は、多があるならという仮定から帰結をたどる。パルメニデスは、それぞれのものについて、それがあると仮定するだけでなく、ないと仮定しても、それ自身と他のものにとって何が帰結するかを考察する訓練を勧め、自ら一の仮定によってそれを行う。

『他のもの(タ・アラ)』

一以外のもの。後半では、一にとって何が帰結するかと並んで、他のものにとって何が帰結するかが考察される。一があるなら、他のものは一を分有して限界をもちつつ、それ自身の本性によっては限りのないものであり、一があらぬなら、他のものは互いに他のものであるほかなく、一つに見えて一つでない塊として現れる。

『瞬間(エクサイプネース)』

運動と静止のあいだに座を占め、どんな時間のうちにもないとされる奇妙な本性。運動しているものが静止へ、静止しているものが運動へと変化するのは、この瞬間においてであり、そのときには運動していることも静止していることもない。あることとあらぬこと、一と多のあいだの変化についても同様とされる。

『思わく(ドクサ)』

確かな知識と対比される、思いなし。若いソクラテスは、まだ人々の思わくを気にかけているとされる。一があらぬなら、他のものは一つであるように思われ、数や等しさがあるように思われるが、それは見かけにすぎず、さらに最後には、あらぬものについての思わくさえ他のもののもとにはない、とされる。

第Ⅱ部 物の定義について

第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。

パルメニデスにおいて、物の定義は論の到達点として置かれているわけではない。本書は、形相とそれを分有するものとの関係を問い、その問いに答えないまま、一があるなら、一があらぬなら、という仮定の帰結をたどる訓練へと移り、一も他のものも、あり、またあらず、現れ、また現れない、という言葉で終わる。物が何であるかという問いは、この運動のなかで、一以外の他のものが何を被るかという問いとして扱われるにとどまる。

以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。

ソクラテスは、自分が一であり、また多であると言う。右側にあるものと左側にあるもの、前と後ろ、上と下が異なるという点で、ソクラテスは多数性を分有している。ここにいる七人のうちの一人の人間であるという点で、一を分有している。石や木材も、同じように、多でありかつ一である。

ここにある物は、形相を分け持つことによって、その名を受ける。しかし分け持つのが形相の全体であれば、形相はそれ自身から離れてしまい、部分であれば、形相は分割されてしまう。似せられることであれば、形相は限りなく増えていく。物がどのような仕方で形相に与るのかは、定まらない。それでも形相を認めなければ、思考は向かう先を失う。

そこで、一について仮定を立て、一以外の『他のもの』が何を被るかをたどる。他のものは、一とは別のものである以上、一ではない。しかし一をまったく欠いているのでもない。他のものは部分をもち、部分は多くのものの部分ではなく、一つの完全な全体の部分である。こうして他のものは、全体としても、部分のそれぞれとしても、一を分有する。

しかし一を分け持つそのときには、それはまだ一ではなく、一がそのうちにない多数である。思考によってできるかぎり小さいものを取り去っても、取り去られたものはなお一ではなく多数である。他のものは、全体としても部分ごとにも、それ自身の本性においては、数において『限りのないもの』である。一とそれ自身とが結びつくときにはじめて、部分は部分どうしで、また全体に対して『限界』をもち、全体も部分に対して限界をもつ。右と左、上と下とが区切られ、そのどれもが一人の人間という全体に対して区切られるのは、このときである。

一があらぬなら、他のものは、互いに他のものであるほかない。それぞれの『塊』は、遠くからぼんやりと見れば一つのものとして現れ、近くから鋭く思考すれば、数において限りのないものとして現れる。眠りのなかの夢のように、一つだと思われたものが多くのものとなり、もっとも小さいと思われたものがきわめて大きなものとなる。陰影で描かれた絵のように、離れて立てばすべてが一つの同じものとして現れ、近寄れば多くの、互いに似ていないものとして現れる。物が一つのものとして現れることは、一によってはじめて成り立つ。

『物とは、一以外の他のものとして、一を分有することによって一つの全体とその部分とになり、部分どうし、また部分と全体とが互いに限界をもつものであるが、それ自身の本性においては数において限りのないものであり、一を欠くなら、一つに見えて一つではない塊として現れるにすぎないものである。』

作品名:プラトン『パルメニデス』を知るための本

発行責任者(著者):飯島健二

発行:古典書房

制作協力:Claude(claude-opus-5-5)

参照原典:古典ギリシア語原典『Παρμενίδης(パルメニデス)』(Burnet版、Platonis Opera, Tomus II、Oxford Classical Texts、1901年)

初版発行日:2026年9月25日

本書の本文・解説その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。

注記:本書が参照する原典は、プラトン『パルメニデス』(Παρμενίδης)の古典ギリシア語原典である。本書の制作において直接参照した版はBurnet版(Oxford Classical Texts、Platonis Opera, Tomus II、1901年刊行)に準拠したものである。Burnet版は現代のプラトン研究における標準版であり、現在刊行されている研究・翻訳文献の大部分がこれを底本としている。

本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTMLが存在する場合は、術語および論証骨格の照合基準として当該翻訳HTMLを参照して制作している。

本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。

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