プラトン『ティマイオス』を知るための本

知の地図シリーズ / 古典書房

哲学者について

プラトン(Πλάτων)は、紀元前428/427年頃、アテナイの名門の家に生まれた。若くしてソクラテスに師事した。紀元前399年、師ソクラテスが刑死したことを機に、政治家を志す道を離れ、哲学に専念するようになった。その後、メガラ・イタリア・シケリア等を遊学し、紀元前387年頃、アテナイに学園アカデメイアを創設した。紀元前348/347年頃、アテナイで没した。

原典について

原典言語は古典ギリシア語。原典名は Τίμαιος(ティマイオス)。

本書の構成と考え方

本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。第Ⅰ部は、原典全体を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。

本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ3割程度である。

目次

原典構造一覧

本一覧は、本書が参照する原典において実際に用いられている構造単位を、そのまま示す。ただし、『ティマイオス』の原典には、巻・章・節などの構造区分が存在しない。版面上に実際に用いられているのは、1578年にアンリ・エティエンヌ(Stephanus)が定めた通し番号とページ内区分(17a〜92cのステファヌス版番号)のみであり、本一覧はこれを構造単位として示す。

第Ⅰ部 原典について

対話の導入部(17a〜20c)

状況:前日の客の一人が姿を見せていない。ティマイオスは、その人物が病を得たためであり、自ら進んでこの集いを欠くような者ではないと請け合い、欠けた分を補うのは残った者たちの務めだと応じる。

状況:ソクラテスは前日みずからが語った内容を、あらためて手短にたどり直す。

ソクラテス:国制について語ったこと、どのような人々からなる国制が最善であるかを論じたことが、まず思い起こされる。農夫やその他の技術者たちは、防衛にあたる者たちの階級から区別された。おのおのの人間には、その本性にふさわしいただ一つの仕事、ただ一つの技術のみが与えられる。とりわけ戦いを担う者たちには、都市の守護にのみ専念する務めが課される。彼らは、支配される側の友には温和に、戦いで相まみえる敵には苛烈に接する者でなければならない。そのためには、気概に満ちていると同時に、知を愛する者でもあるという、守護者の魂の本性が要求される。この二つの性質を兼ね備えてはじめて、両方の相手に対して正しくふるまうことができる。

守護者たちの養育は、体育と音楽、そしてそれらにふさわしいあらゆる学びによって、すべての面にわたって行われる。彼らは、金銀その他いかなる財産も私有せず、守るべき者たちから節度にかなった程度の報酬のみを受け取り、それを共同で用いながら生活する。徳への配慮に常にとどまり、他の仕事から自由でいられるようにするためである。

女性についても同様である。男性に近い本性を持つ女性たちは男性と組み合わされ、戦争においても、その他あらゆる仕事においても、すべての女性に共通のものとして課される。婚姻と子どもについても、全員に共通のものと定められる。誰も自分の子を個別に知ることのないように図られ、すべての者が互いを同族とみなす。ふさわしい年齢の範囲にある者同士は兄弟姉妹とみなされ、上の世代にあたる者は親およびその祖先、下の世代にあたる者は子孫およびその子とみなされる。生まれる子どもたちができる限り優れた天性を持つよう、支配者たちは婚姻の組み合わせにひそかにくじを用い、同類の者同士が結ばれるよう仕向けながら、その結びつきの原因を運のせいだと思わせる。優れた者の子は育てられ、劣った者の子はひそかに他の都市へ分け与えられる。成長する子どもたちには絶えず見極めが行われ、価値ある者は上の階級へ引き上げられ、逆に価値のない者は下の階級へと入れ替えられる。

状況:この要点をたどり終えたところで、語り落としたものは何もないことが確かめられる。

状況:ここでソクラテスは、自らのうちに生じているある思いを語り出す。

ソクラテス:それは、静かにしている美しい生き物――描かれたものであれ、生きているものであれ――を目にした者が、それが実際に動き、その肉体にふさわしい競技において力を発揮するさまを見たいという欲求に駆られるのに似ている。たどってきたこの国制についても、それが他の国々を相手に戦い抜くさまを、誰かが語ってくれるのを聞きたいという思いである。教育と養育にふさわしいことを、実際の行いにおいても、他国との言論による交渉においても成し遂げるさまを、である。

しかし、自身にはそれを語ることができないと見切りをつけている。それは自分一人に限ったことではない。詩人という種族は、自らが慣れ育った事柄については容易に、そしてもっともよく模倣するが、その育ちの外にあることがらを、行いにおいて模倣するのは難しく、言論において模倣するのはさらに難しい。もう一方のソフィストという種族は、さまざまな言論や美しいものごとには通じていても、都市から都市へと渡り歩き、自分自身の住まいをどこにも構えたことがないために、哲学者や政治家が実際の戦いのさなかで行い、そのつど言論によって相手と渡り合いながら成し遂げるであろうことがらとは、的を外してしまうだろう。

そこで残るのは、資質と養育の両方を兼ね備えた、ここにいる者たちである。ティマイオスは、法の治まった都市ロクリスの出身であり、財産と家柄において誰にも劣らず、その都市の最高位の役職と栄誉を担い、哲学においてもその頂点に達している。クリティアスとヘルモクラテスについても、今語られていることがらのいずれにも通じていることが、多くの証言によって保証されている。だからこそ、前日、国制について語ってほしいと望まれたときに喜んで応じたのであり、今日この続きを語ることができるのは、彼らをおいて他にないと知っていた。自らに課された務めを果たしたうえで、同じ務めを彼らに課し返し、その約束を得た今、身を整え、誰よりも受け取る準備を整えて座っている。

アトランティス伝説(枠物語)(20c〜27b)

状況:ヘルモクラテスが応じる。

ヘルモクラテス:ティマイオスの言う通り、この務めを果たすことに、熱意を欠くことも、言い訳もない。昨日ここを出てからも、宿に着いてからも、道すがらも、まさにこのことを検討していた。クリティアスが、古い言い伝えに基づく話を提案したのだ。それを今、ソクラテスにも語り、ふさわしいかどうかを一緒に判断してもらうのがよい。

状況:クリティアスは、第三の仲間であるティマイオスの同意を条件に、これに応じる。ティマイオスも同意する。

クリティアス:実に奇妙でありながら、まったくの真実である話を語ろう。七賢人の中でも最も知恵ある者、ソロンがかつて語った話であり、ソロンは自分たちの曽祖父ドロピデスと親しい間柄だった。祖父クリティアスは、当時すでに九十歳近く、自分はまだ十歳ほどだった。ある年のアパトゥーリア祭で、子どもたちがソロンの詩を歌ったとき、氏族の一人が、ソロンは知恵にも詩作にも優れていたと言った。すると祖父は、「もしソロンが詩作に専念し、エジプトから持ち帰ったあの話を完成させていたなら、ホメロスやヘシオドスにも劣らぬ評価を得ただろう」と喜んで語り、その話がどのようなものかと問われて、さらに祖父は次のように語った。

「ソロンがエジプトのサイスを訪れたとき、古代の事柄に通じた神官たちに、フォロネウスやニオベ、大洪水の後のデウカリオンとピュラの神話について語り、系図をたどって年代を数えようとした。すると一人の高齢の神官が、『ソロンよ、ギリシア人はいつまでも子どもだ。老いたギリシア人など存在しない』と言った。その理由を問われた神官は、『人類には火と水による幾度もの滅びが繰り返し起こる。パエトーンの神話は、天体の軌道のずれによって長い年月を経て起こる、地上の大規模な火災の真実を伝えている。山地に住む者はこうした滅びに弱いが、都市に住む者は洪水によって海へ押し流される。エジプトだけは、ナイル川の性質のおかげで、こうした滅びを免れ続けてきた。それゆえ、この地に保存されている記録がもっとも古い。他の土地では、そのつど文字も学芸も失われ、人々は何も知らないまま、また子どものような状態に戻ってしまう。あなたが語った系図は、この地では、幾度も繰り返された洪水のうちのたった一度しか覚えていないことに等しい。実は、アテナイの地には、かつて人類の中でもっとも美しく最善であった種族が生まれ、今のアテナイ人はその子孫にほかならないのだが、生き残った者たちが文字を残さずに死んでいったため、そのことは忘れられている』と語った。

神官はさらに、『今から九千年前、大洪水より前のアテナイは、戦争にもっとも優れ、もっとも美しい国制を持つ都市だった。その国制では、神官の階級が他から区別され、職人の階級はそれぞれ自分の仕事にのみ従事し、戦士の階級は他のあらゆる階級から切り離され、戦争に関すること以外は何も任されず、知恵については宇宙にまで及ぶ配慮が払われ、占いや医術に至るまでその応用が見出されている』と語った。そして、この都市がなしたもっとも美しい事業として、神官は、『当時、大西洋の彼方、ヘラクレスの柱の手前にあった、リビュアとアジアを合わせたよりも大きな島に、アトランティスと呼ばれる強大な力が生まれ、この入り口の内側にある多くの地域を支配したうえで、ヨーロッパとアジアの全土を隷属させようと進軍してきた。そのとき、当時のアテナイの都市が、その徳と強さにおいて先頭に立ち、他のすべての者たちを解放した。しかし後に、尋常でない地震と洪水が一昼夜のうちに起こり、当時の戦士たちはみな地中に沈み、アトランティス島もまた海に沈んで姿を消した。それゆえ、かの地の海は、今なお通行不能なままである』と語った」。

状況:クリティアスは、この話を聞いた驚きを語る。前日ソクラテスが国制について語ったとき、その内容がソロンの語ったことと不思議に符合していることに気づいたためである。その場ではすぐに語らず、夜のあいだ記憶を確かめ、翌朝には仲間たちにも伝えた。

クリティアス:前日ソクラテスが神話のように語ってくれた市民たちと国とを、ここで真実のものとして移し替え、あの神官が語った、当時のアテナイの真の祖先であると見なすことにしよう。仲間全員で分担し、力の及ぶ限りこの務めを果たすよう努めよう。

ソクラテス:これに代わる話を他に選ぶことはできない。作り話ではなく真実の言論であるという点も大きな意味を持つ。あとは静かに聞く番だ。

クリティアス:もてなしの段取りはこう決めた。天文学と万物の本性にもっとも通じたティマイオスが、まず宇宙の生成から人間の本性に至るまでを語る。続いて自分が、そこで生み出された人間たちを受け取り、ソロンの言論に従って、彼らをあの当時のアテナイ人として位置づける。

ソクラテス:完全な形で、言論のもてなしのお返しを受け取ることになりそうだ。ではティマイオスよ、慣例に従って、まず神々を呼び出したうえで、この後を語ってほしい。

知性による生成(宇宙論前半)(27c〜47e)

状況:ティマイオスが語り始める。

ティマイオス:何かに着手する者は皆、それが小さなことであれ大きなことであれ、常に神を呼び求める。まして万物についての言論を、それが生成したものか否かを含めて語ろうとする自分たちは、なおのこと神々と女神たちに、彼らの心にかない、自分たちにもふさわしい形で語れるよう祈らなければならない。神々への呼びかけについては、以上の通りとしておこう。あわせて、聞き手であるあなたがたにとってもっとも理解しやすく、語る自分にとってももっとも意図を示しやすいものとなるよう祈っておく。

まず区別しなければならないのは、常にあり、生成を持たず、理性を伴う知性によって把握される、常に同一のあり方を保つものと、常に生成しつつ、決してあることのない、理性を伴わない感覚を伴う思わくによって思わくされるもの、という二つである。そして、生成するものはすべて、必然的に何らかの原因によって生成する。原因なしに生成することは、いかなるものにも不可能だからだ。そこで、製作者が常に同一のあり方を保つものに目を向け、そのような手本を用いて形と機能を作り上げるならば、その作品は必然的に美しくなる。しかし、すでに生成したものに目を向け、生成した手本を用いるならば、美しくならない。この天全体、すなわち宇宙は、目に見え、触れることができ、身体を持つ以上、感覚されるものであり、感覚されるものは生成し、生まれるものである以上、何らかの原因によって生成したことになる。

この万物の製作者にして父を見出すことは至難の業であり、見出したとしても、それをすべての人に語ることは不可能だ。しかし、彼が二つの手本のどちらに目を向けて宇宙を作り上げたのかは、検討しなければならない。もしこの宇宙が美しく、製作者が善いものであるなら、明らかに永遠なる手本に目を向けたのであり、そうでない可能性を口にすることは誰にも許されない。宇宙は生成したものの中でもっとも美しく、製作者は原因の中でもっとも優れている以上、宇宙は、言論と思慮によって把握される、常に同一のあり方を保つ手本を用いて作られたことになる。そして、この宇宙が何かの似姿であることは、まったくの必然だ。ここで、似姿とその手本について区別しておかなければならない。言論というものは、それが説明しようとする当のものと同族である。安定し確固としたものについては、言論もまた安定し、反駁されないものでなければならないが、それに似せて作られた似姿については、言論もまた、それと同じ比率にある、尤もらしいものであればよい。したがって、神々や万物の生成について語る際、あらゆる点で完全に一貫し正確な言論を示すことができなくとも、驚かないでほしい。他の誰にも劣らないほど尤もらしい言論を示すことができれば、それで満足すべきである。語る自分も、判定するあなたがたも、人間の本性を持っていることを忘れず、尤もらしい話を受け入れる以上を求めるべきではない。

状況:ソクラテスが、前置きへの賛意を述べ、本論を続けるよう促す。

ティマイオス:それでは、この万物を組み立てた者が、いかなる理由によって生成とこの宇宙全体とを組み立てたのかを語ろう。彼は善かった。そして善き者には、いかなることについても決して妬みが生じることはない。妬みを持たない彼は、あらゆるものができる限り自分自身に似たものとなることを望んだ。見えるものすべてを受け取ったとき、それが静止せず不調和かつ無秩序に運動していたので、無秩序よりも秩序の方があらゆる点で優れていると考え、無秩序から秩序へと導いた。目に見えるものの中で、知性を備えたものの全体が、知性を欠いたものの全体よりも美しくなることは決してなく、知性は魂を離れてはいかなるものにも宿ることができない。この考えによって、神は知性を魂の中に、魂を身体の中に組み立てることで、万物を組み立てた。したがって、尤もらしい言論に従って言うならば、この宇宙は、神の配慮によって、真実の意味で、魂を備え知性を備えた生き物として生まれた、と言わなければならない。

これが成り立つ以上、続けて語らなければならないのは、製作者が宇宙をどの生き物に似せて組み立てたのか、ということだ。部分的な種として生まれたもののどれかに似せた、と見なすことはやめよう。不完全なものに似たものは、決して美しいものにはならないからだ。むしろ、他のあらゆる生き物が個々にも種類ごとにもその部分となっている、あの生き物にこそ、宇宙はもっともよく似ている、としよう。あの生き物は、あらゆる可知的な生き物を自らのうちに包み込んで持っているからだ。もし手本に従って製作されたのであれば、宇宙は一つでなければならない。可知的な生き物をすべて包み込んでいるものが、他の何かとともに二番目のものとして存在することはありえないからだ。もしそうであれば、それら二つを包み込む、さらに別の生き物が必要になってしまう。したがって、製作する者は二つの宇宙も無限の宇宙も作らず、この唯一無二の天が一つのものとして生まれ、今もこれからも存在し続けるようにした。

生成したものは身体を備え、目に見え、触れることができるものでなければならない。しかし、火から切り離されては何ものも目に見えるものにはならず、何らかの固いものなしには触れることのできるものにもならず、固いものは土なしにはありえない。それゆえ神は、火と土から作り始めた。しかし、二つのものだけでは、第三のものなしに美しく組み立てられることはできない。両者を結びつける絆が必要であり、絆の中でももっとも美しいのは、それ自身と結びつけられるものとをできる限り一つにするものであり、これをもっとも美しく成し遂げるのは比例の本性である。三つの数、あるいは塊、あるいは力において、中項が第一項に対して持つ関係を、第三項が中項に対して持ち、逆に第三項が中項に対して持つ関係を、中項が第一項に対して持つならば、中項は第一項にも第三項にもなり、第一項と第三項もまた両方とも中項になる。そうなればすべてが必然的に同じものとなり、互いに同じものとなった以上、それらすべては一つのものとなる。もし万物の身体が奥行きを持たない平面として生まれる必要があったなら、一つの中項だけで十分だっただろう。しかし実際には、それは立体でなければならず、立体は常に二つの中項を必要とする。そこで神は、火と土の間に水と空気を置き、火が空気に対する関係が空気が水に対する関係と同じであり、空気が水に対する関係が水が土に対する関係と同じであるようにして、これら4つを結びつけた。こうして、比例によって調和した宇宙の身体が生まれ、それらから友愛を得て、それを結びつけた者以外の何ものによっても解かれることのない、一つにまとまったものとなった。

組み立てる者は、火のすべて、水のすべて、空気のすべて、土のすべてから宇宙を組み立て、いかなる部分もいかなる力も外部に残さなかった。この生き物が、完全な部分から成るできる限り完全な全体となるように、そしてそれと同じようなものを作り出すための素材が外部に残されず、唯一のものとなるように、さらに、老いることも病むこともないようにするためである。合成された身体は、外から強い力を持つものが取り囲み、時ならぬときに衝突すると、それを解体させ病や老いをもたらすが、この宇宙には外部というものが存在しないため、そうした危険がない。この理由によって、神はこの宇宙を、あらゆるものから成る唯一の完全な全体として作り上げ、それにふさわしい、あらゆる形の中でもっとも完全な球形を、轆轤で削り出すようにして与えた。それ自身にもっともよく似た形であり、似ているものは似ていないものよりも美しいと考えたからである。その外側は、あらゆる方向から見て滑らかに仕上げられた。それには目も耳も必要なかった。外部に、見るべきもの、聞くべきものが何一つ残されていなかったからだ。呼吸のための気息も、栄養を摂り以前に消化されたものを排出するための器官も必要としなかった。何ものもそこから出て行くことも、どこかから入ってくることもなかったからだ。それは、自らの衰えを自らの糧として与え、自らのうちで自らによって、あらゆることをなし、こうむるように作られていた。組み立てた者は、それが自足していることの方が、他のものを必要とすることよりも優れていると考えたからだ。手についても、ものを掴んだり身を守ったりする必要がなかったので、無駄に取り付ける必要はなく、足やおよそ立って歩くための働きも同様に必要なかった。神は、7種類の運動のうち、知性と思慮にもっともかかわりの深い、同じ場所で自らのうちを同じ仕方で回転する運動だけをこれに割り当て、他の6種類の運動はすべて取り除いた。この巡行のために足を必要としなかったので、脚も足も持たないものとして生み出された。

魂については、身体よりも後から作られたのではなく、生成においても徳においても、身体に先立ち、これを支配する女主人として組み立てられた。我々はしばしば、偶然性に囚われて、魂を身体より後のもののように語ってしまうが、神が組み合わせたのはそうではない。不可分で常に同一である実在と、身体に関わって生成する可分な実在という両者から、神は第三の実在の種類をその中間に混ぜ合わせて作った。同性質の本性と他性質の本性についても同様にし、他性の本性は混ざりにくいものだったが、無理やり同一のものへと合わせた。こうして三つのものから一つを作り上げると、神はこの全体を、ふさわしい数の比率、すなわち1、2、3、4、9、8、27に従って部分に分けた。そして、2倍と3倍の間隔を、1.5倍・4/3倍・9/8倍の中項によって満たしていったが、9/8倍の間隔ですべてを満たしたところに、256対243という比率のわずかな余りが残った。この構成全体を長さに沿って二つに裂き、それぞれの中央を、ちょうどΧ(カイ)の文字のように交差させ、円環状に曲げて、一方を外側の円(同一性の運動、右回り)、もう一方を内側の円(他性の運動、左回り)とした。内側の運動はさらに六つに裂かれ、2倍と3倍の間隔に従って七つの不等な円(惑星の軌道)となり、互いに反対方向に、比率をもって様々な速さで進むようにされた。こうして生まれた魂の構成全体を、神は身体の内側に組み立て、中心と中心とを合わせて結び合わせ、天の最果てにまであらゆる方向に張り巡らせ、外側からも円環状に覆った。

天の身体は目に見えるものとなったが、魂そのものは目に見えないものでありながら、理知と調和にあずかるものであり、常にある可知的なもののうちでもっとも優れたものとして生まれた。魂が、感覚されるものに触れ、他性の円がそれを魂全体に伝えるときには確固とした真実な思わくと信念が生じ、理知的なものに触れ、同一性の円が滑らかに回転してそれを示すときには知性と知識が必然的に成し遂げられる。この両者が宿るものを、魂以外の何かと呼ぶならば、真実を語らないことになる。生み出した父は、これが動き、生きているのを見て大いに喜び、いっそう手本に似せて作り上げようと考えた。しかし、生き物の本性である永遠性を、生成したものに完全に付与することは不可能だったため、神は、永遠が一のうちに留まる一方で数に従って進行する、永遠のある動く似姿を作った。これが、我々が時間と名づけたものである。日々・夜々・月々・年々は、天が生まれる前には存在せず、天の構成と同時に生まれた。「あった」「あるだろう」というのは生成した時間の相にすぎず、「ある」だけが常に同一であるものにふさわしい。時間は天とともに生まれた。両者がともに生まれた以上、もし解体が起こるならともに解体するようにするためであり、また永遠なる本性という手本に、できる限りよく似たものであるようにするためである。こうして、太陽と月、その他の惑星は、時間の数を区分し守るために生まれ、神はこれらを七つの軌道に配置した。月をもっとも近い軌道に、太陽を二番目の軌道に置き、明けの明星とヘルメスの星は、太陽と同じ速さながら反対の力を持つ軌道に置かれた。他の星々の配置については、詳しく述べれば労力に見合わないため、ここでは触れない。

それぞれの星は、時間を共に成し遂げるための運行に到達すると、生きた絆によって身体を結びつけられた生き物として生まれた。同一性の運行に制御されながら、ある星はより大きな円を、ある星はより小さな円を巡り、より小さな円を巡る星ほど速く一周する。神は、地球に近い方から二番目の軌道に光を灯した。これが太陽である。そのことによって、しかるべき生き物たちが数にあずかるようにするためであった。こうして夜と昼が生まれた。これはもっとも単一で思慮深い周期である。月は、月がそれ自身の軌道を巡って太陽に追いつくときであり、年は太陽がそれ自身の軌道を巡るときである。他の星々の周期については、大多数の人間はその遍歴が時間であることさえ知らない。それでも、8つの周期すべてが互いに完結し合ったときに、完全な時間の数が完全な年を満たす、ということは理解できる。

次に、天にある神々の種族、翼を持ち空を飛ぶもの、水に棲むもの、歩行し陸に棲むものという4つの種族が作られた。神的なものの姿は、その大半を火から作り、宇宙全体に似せてよく整った円形とし、天のいたるところに配置した。それぞれに、自分自身について常に思案する運動と、同一性・類似性の周転運動に支配された前方への運動という、二つの運動を与えた。不動の星々はこのうち前者のみを持ち、遊星は後者もあわせ持つ。大地については、我々の養い手であり、夜と昼の守護者にして製作者となるよう、神は作り上げた。これは、天の内にある神々のうち、最初の、もっとも年長の神である。これらの神々の合唱や周回のあり方を、図なしに詳しく語ることは無駄な労力であろう。他の神霊たち、すなわちオケアノスとテテュス、ポルキュス、クロノスとレア、ゼウスとヘラをはじめとする神々の系譜については、自らそう語る者たちの言を、証明なしに、慣習として受け入れるべきである。

こうして、目に見える神々もそうでない神々もすべて生まれ終えると、この万物を生み出した者は、彼らに向かって語りかけた。自分は彼らの製作者にして父であり、自分によって生まれたものは、自分が望まない限り解かれることはない、と告げたうえで、こう命じた。死すべき種族はまだ三つ、生まれていない。これらが生まれなければ、天は不完全なままとなる。もし自分自身がこれらを生み出せば、神々と等しいものになってしまう。それゆえ、あなたがたが、その本性に従って生き物の製作に向かい、自分の力を模倣しなさい。不死なるものと同じ名で呼ばれるにふさわしい、主導する部分については、自分自身が種を蒔き、始まりを与えたうえで引き渡そう。残りの部分については、あなたがたが、不死なるものに死すべきものを織り合わせて生き物を作り上げ、養いを与えて成長させ、衰えたものを再び受け入れなさい。こう語り終えると、神は再び同じ盃に、前の残りの部分を混ぜ合わせたが、もはや同じように純粋なものではなく、二番目、三番目に純粋なものだった。この全体を、星の数と等しい数の魂に分け、それぞれを一つずつの星に割り当て、いわば乗り物に乗せるようにして、万物の本性と定められた法を示した。最初の誕生はすべての者に等しく定められ、誰も彼によって不当に扱われることのないようにするためである。それらは蒔かれた後、それぞれにふさわしい時間の器官へと生まれ、あらゆる生き物のうちもっとも神を敬う生き物とならねばならなかった。そして、人間の本性は二重であるため、より優れた方の種族が、後に男と呼ばれることになった。

魂が必然的に身体に植え付けられると、あらゆる者に共通の激しい経験から生じる感覚が備わり、次に、快と苦の混ざり合った恋情、恐れと激情、それに続く感情が備わる。これらを制するなら正しく生き、これらに制されるなら不正のうちに生きることになる。ふさわしい時間を善く生きた者は、再び自らの連れ星の住まいへと赴き、幸福な生を得るが、そこから外れた者は、二度目の誕生において女性の本性へと生まれ変わる。なお悪徳をやめない者は、その性向に応じた獣の本性へと、常に生まれ変わり続ける。この変転は、後に付着した、火・水・空気・土からなる非理性的な群れを、言論によって制するまでやむことがない。神は、これらすべてを掟として定めると、後の悪徳についてそれぞれの者の責めを負わないようにするため、あるものは地に、あるものは月に、あるものは他の時間の器官へと種を蒔いた。種蒔きの後のこと、すなわち死すべき身体を形作り、人間の魂に残りの部分を仕上げることは、若き神々に委ねられた。そして、これらすべてを取り決め終えると、神は自らの本性にかなったあり方のうちに留まり続けた。

父の掟に従った若き神々は、自らの製作者を模倣し、宇宙から火・土・水・空気の部分を、いずれ返却されるものとして借り受け、解けることのない絆によってではなく、あまりに小さいために目に見えない、密に並んだ楔によって、一つ一つの身体を作り上げ、不死なる魂の周回運動を、流れ込み流れ出る身体のうちに結びつけた。しかし、大きな流れに結びつけられた魂の運動は、支配することもされることもなく、力ずくで運ばれ、生き物全体はあらゆる六つの方向へ、さまよいながら進んだ。栄養を与える大きな波が絶えず流れ込み流れ出るなかで、外部からぶつかってくるものによる経験(これが「感覚」と呼ばれるようになったものである)が、さらに大きな混乱を引き起こした。この運動は、魂の周回運動を激しく揺さぶり、2倍と3倍の間隔、1.5倍・4/3倍・9/8倍の中項と結び目とを、あらゆる方向にねじり、円のあらゆる屈折と破損を生じさせた。それらは互いにかろうじて結びつきを保ちながらも、非理性的に、あるときは逆方向に、あるときは斜めに、あるときは仰向けに運ばれた。周回運動がこの経験を激しくこうむり、あるものと同一である、あるものと異なると、真実とは反対のことを告げるようになると、魂は偽りで無分別なものとなり、支配し指導する周期は一つもなくなる。これらの経験のゆえに、魂は最初、死すべき身体に縛りつけられたときには無分別なものとして生まれる。しかし、成長と栄養の流れが弱まり、周回運動が再び静けさを取り戻すと、それぞれの円は本性にかなった形へと向かい始め、それを持つ者を思慮あるものに仕上げる。これに正しい教育の養いが加わるならば、完全に健全な者となり、もっとも大きな病から逃れることができるが、これを怠るならば、生を不完全なまま歩み終えることになる。

二つの神的な周回運動は、宇宙全体の形を模倣した球形の身体、すなわち今我々が頭と呼んでいるもののうちに結びつけられた。これがもっとも神的なものであり、我々のうちにあるすべてのものを支配する。神々は、頭があらゆる高低のある地面を移動するのに困らないよう、身体をその乗り物として与えた。歩行のために伸ばすことも曲げることもできる四つの手足が与えられ、前が後ろよりも尊く主導的なものと考えられたため、頭部の球体の前面に顔が配され、そこに魂の配慮のための器官が結びつけられた。まず目が、燃やす力を持たず穏やかな光を与える火として組み立てられた。我々の内にある、この火と同族の純粋な火を、目を通して滑らかで密度の高いものとして流れ出させ、昼間の光の中で外に出て行った火が似たものへと向かい、密着して一つの馴染んだ物体を成立させることで、その運動を身体全体を通じて魂に伝え、「見る」という感覚をもたらす。夜になり同族の火が去ると、視覚の流れは切り離され、異質なものへと出て行った火はそれ自体が変質して消えてしまう。こうして見ることをやめ、まぶたが閉じることで内なる火の力が閉じ込められ、内側の諸運動が均一化されると、静けさが生じ、眠りが訪れる。大きな静けさが生じれば夢をほとんど見ない眠りとなるが、より大きな運動がいくらか残される場合には、目覚めたときに記憶される幻影、すなわち夢が生まれる。鏡に映る像や、左右・上下が反転して見える現象も、内側と外側それぞれの火が、滑らかな面のまわりで互いに交わり合うことから、同じ仕組みによって説明される。

これらすべては、神が最善の姿を成し遂げるために用いる補助原因である。しかし大多数の人々は、冷やしたり温めたり凝固させたりするものだから、という理由で、これらを万物の原因そのものだと思い込んでいる。しかし、いかなる言論も知性も持たないものが、原因そのものであるはずはない。存在するもののうち、知性を持つにふさわしいのはただ魂だけであり、しかも魂は目に見えない。これに対して火・水・土・空気はすべて目に見える物体である。知性と知識を愛する者は、思慮ある本性という第一の原因をまず追い求め、他のものによって動かされ、他のものを必然的に動かす第二の原因を、その次に追い求めなければならない。目という器官が得られた補助的な原因については以上の通りとしておこう。しかし、視覚の最大の働き、神がそれを贈った目的こそが語られねばならない。もし星々や太陽や天を見ることがなければ、万物についてのこの言論は決して語られることがなかっただろう。昼と夜、月々の巡りと年々の周期、分点と至点が、数というものを工夫させ、時間の観念と万物の本性への探求とを我々に与えた。これらから、我々は哲学という、死すべき種族へのもっとも大きな贈り物を得た。神が視覚を贈った理由は、天における知性の乱れなき周回運動を見て取り、それを我々自身の思考の周転運動のために用い、両者が同族でありながら乱れている我々のそれを、正しい状態に立て直すためである。声と聴覚についても、同じ理由、同じ目的で神々から贈られた。音楽は、聴覚のために有用である限りにおいて、我々の内なる魂の周回運動と同族の運動を持つものとして、調和のために与えられた。それは、今日そう見なされているような非理性的な快楽のためではなく、調和を欠く魂の周回運動を秩序づけるための、ムーサたちからの助力として与えられたものである。リズムもまた、我々の内に生じがちな、節度を欠き優美さに乏しい性向のために、同じ目的で与えられたものである。

これまで語られてきたことのうち、わずかな例外を除いて、知性によって作り上げられたことがらは、すでに示された。しかし、必然によって生じることがらについても、この言論に並べて示さなければならない。

必然による生成(宇宙論後半)(48〜69a)

ティマイオス:この宇宙の生成は、必然と知性の組み合わせから生まれた。知性が必然を説得することで支配し、生成の大部分を最善へと導いたのである。これを本当に語ろうとするならば、さまよう原因の働きもまた語らねばならず、ここで改めて始めから始めなければならない。天の生成に先立つ、火・水・空気・土そのものの本性を見なければならない。これまで、誰もこれらの生成を明らかにせず、まるで火が何であるかを知っているかのように、それぞれを万物の始まり、要素だと決めつけて語ってきたが、これは、音節の文字の始まりすら知らずにそれを語るようなものであり、ふさわしいこととは言えない。今、二つの種類(常にある知性的なものと、生成する目に見えるもの)だけでは足りず、第三の種族を明らかにしなければならない。それは、あらゆる生成の受け皿であり、いわば乳母のようなものである。

我々が水と呼んでいるものは、凝固すれば石や土となり、溶ければ水蒸気や空気となり、空気は燃えれば火となり、火が凝縮し消えると再び空気に戻り、空気が集まり濃くなると雲や霧になり、これがさらに圧縮されると水になる。このように互いに、目に見える限り、生成を循環させて伝えている以上、そのどれかを確固としてこれこれのものだと言い張ることはできない。むしろ、我々があちこちで生成しているのを見て取るものについては、それ自身ではなく、そのつど似たものとして巡り歩く「そのようなもの」を、それぞれについても全体についても、そう呼ぶべきである。火については、常に一貫してそのようなものすべてを、そう呼ぶべきなのだ。他方、あらゆるものを受け入れる本性そのものには、常に「同じもの」という呼び名を与えなければならない。それは、あらゆるものの型を写す蝋のように据えられており、入ってくるものによってそのつど異なる姿に見えるだけである。それゆえ、生成するもの、生成がその中で起こるもの、そして生成するものの手本となる源、という三つを考えなければならない。受け入れる方を母に、源を父に、両者の中間を子にたとえるのがふさわしい。あらゆる姿を受け入れるものは、あらゆる形から自由でなければならない。香料の技術者が液体をあらかじめ無臭にしておくのと同じである。

知性と真なる思わくとが別の種類であるならば、感覚されず思考によってのみ捉えられる形が、まったくの意味で存在することになる。この両者は生まれ方も似ていないあり方も異なり、知性は教えを通じて生じ、常に真実の言論を伴い、説得によって動かされないのに対し、思わくは説得によって生じ、理性を欠き、説得によって考えを変えうる。知性には神々とごくわずかな人間だけがあずかるが、思わくにはあらゆる人間があずかる。したがって、常に同一の形を保ち、目に見えず、思考によってのみ観照されるもの(実在)と、感覚され、生まれ、運ばれ続けるもの(生成するもの)に加えて、第三の種族として、常にあり、滅びを受け入れず、生成するものすべてに座を提供する「場」がある。これは感覚されず、ある種の紛い物の推論によってかろうじて信じられるものであり、我々はこれに目を向けて、いわば夢を見ているような状態にある。映像というものは、それが生まれたその当のもの自体でさえなく、常に他の何かの幻を運んでいるにすぎないため、何らかの他のもののうちに生まれるのがふさわしく、そうでなければまったく存在しないことになる。天が生まれる前から、実在と場と生成という三つが、三つの仕方で存在していたのである。

生成の乳母は、火・水・土・空気の痕跡を受け入れながら、釣り合いを欠いたまま不均等に揺れ動き、揺さぶられながら、それ自身も揺さぶり返す。動くものはそれぞれ別の場所へと分離していく。ちょうど穀物の選別に用いられる篩や道具によって振り動かされたものが、密で重いものは一方へ、疎で軽いものは他方へと運ばれて落ち着くのと同じである。それゆえ、宇宙が秩序づけられる前から、4つの種族はそれぞれ異なる場所を占めていたが、理法のない不均衡な状態にあった。神は、これらをまず形と数によって形づくった。

物体はすべて奥行きを持ち、平面によって囲まれ、平面は三角形から成り立つ。すべての三角形は、直角二等辺三角形と、不等辺三角形という、それぞれ一つの直角と鋭角を持つ二つの基本三角形から始まる。二等辺三角形は一つの本性しか持たないが、不等辺三角形は無限にある。この無限にあるもののうち、もっとも美しいものとして、二つ組み合わさることで正三角形を成す、あの不等辺三角形(長い辺の2乗が短い辺の2乗の3倍にあたるもの)が選び出される。この三角形を二つ、対角線に沿って組み合わせ、これを三回繰り返して中心点に突き合わせると、六つの三角形から成る一つの正三角形が生まれる。この正三角形を四つ組み合わせれば四面体(火)、八つ組み合わせれば八面体(空気)、二十組み合わせれば二十面体(水)が生まれ、これらは互いに分解し合い、生成し合うことができる。他方、直角二等辺三角形を四つ組み合わせて生まれる六面体(立方体、土)は、異なる三角形から成るため、他の三つとは互いに転化しない。もう一つ、神が宇宙全体の彩りのために用いた第五の構成(十二面体)が残る。土にはもっとも安定した立方体を、火にはもっとも小さく鋭い四面体を、水にはもっとも大きな二十面体を、空気にはその中間の八面体を割り当てるのが、もっとも尤もらしい。これらの立体は、辺の三角形が分解・再結合することで互いに転化し合う。たとえば水が火や空気によって分割されると、火や空気の粒に組み替えられる、という具合である。

均質な状態には運動が宿らない。宇宙全体の円形の周回運動が、あらゆるものを締め付け、空虚な場所を残さないため、大きさの異なる各要素の粒が、互いの隙間を埋め合いながら絶えず場所を入れ替え、不均質性が絶えず保たれる。これによって、各要素の内部にも、大きさや形の違いによる多くの種類が生まれる。火には炎・光・燠火の別があり、空気にはエーテル・霧・暗闇の別があり、水には液体と鋳造できる種族の別があって、後者からは、金・アダマス(金剛石)・青銅・緑青などが生まれる。土についても、水を通して濾過されたものから、岩・陶器・ナトロン・塩・ガラスなど、さまざまなものが生じる。

これから語る、感覚に関わる経験と、身体・魂に関わることがらは、互いに切り離しては語れないが、両方を同時に語ることもほぼ不可能であるため、まず身体と魂に関わることを先に立てておこう。火が「熱い」と感じられるのは、その辺の細かさと角の鋭さ、部分の小ささと運びの速さによって、我々の身体を鋭く切り分けるからである。「冷たい」は、大きな部分から成るものが身体の中の湿ったものを押し集め、不均質から均質へと固めることで生じる、これとは反対の経験である。硬さ・柔らかさは、肉に対して屈するか屈しないかによって決まる相対的なものである。

重い・軽い、上・下についても、多くの人が思うような、宇宙に固定された絶対的な方向として理解してはならない。天全体は球形であり、中心から等しく離れたところはすべて同じように末端であるはずだから、どこかを絶対的に「上」「下」と定めることはふさわしくない。むしろ、それぞれの要素が自らと同族のものへ向かう傾向こそが、運ばれるものを「重く」し、その行き先を「下」と呼ばせているにすぎない。滑らかさ・粗さは、均質性と密度、あるいは不均質性と硬さの組み合わせから生じる。快と苦については、本性に反して激しく一挙に生じる経験が苦であり、一挙に本性へ戻る経験が快であって、穏やかに少しずつ生じる経験は感覚されない。視覚だけは例外で、その分離と結合には力ずくのところがまったくないため、苦も快も伴わず、ただもっとも大きく明瞭な感覚だけをもたらす。

舌に生じる経験(渋味・苦味・辛味・酸味・塩味・甘味)は、それぞれ粗さと滑らかさ、収縮と洗浄の度合いによって生じる。鼻孔の力には固定した種類がなく、快・不快という二つの区別があるだけで、匂いはすべて、水と空気の中間の状態(霧または煙)において生まれる。聴覚に関わる声とは、耳を通して魂にまで伝えられる打撃であり、その運動の速さが音の高低を、均一さが音の滑らかさ・粗さを、大きさが音量を決める。第四の感覚である色については、視覚を分散させるものが「白」、その反対が「黒」であり、その他の色は、これらと赤・輝きなどとの混合の割合によって、紫・褐色・黄・青緑など多彩に生まれる。これらの割合を正確に知って人間が実際に試すことは、神と人間の本性の違いを知らない振る舞いである。

これらすべては、当時、必然によってそのような本性を持つに至ったものであるが、もっとも美しく完全なる神を生み出そうとした製作者は、これらを、自らが善く仕上げるための奉仕する原因として用いたのである。それゆえ、二種類の原因、すなわち必然と神的なものとを区別しなければならない。神的なものについては、幸福な生を得るために追い求めなければならず、必然については、神的なものを理解し得るために、その手段として追い求めなければならない。

人間の身体と魂の生成(69b〜92c)

ティマイオス:若き神々は、父の言いつけに従い、不死なる魂のまわりに死すべき身体を組み立てた。魂の死すべき部分(快楽・苦痛・大胆さ・恐れ・激情・希望といった、恐るべき経験を伴うもの)を神的なものから切り離すため、頭と胸との間に首を置いて隔てた。さらに胸郭のうちにも横隔膜を置き、勇気と気概にあずかる部分を頭に近い側に、血液の源である心臓とともに住まわせた。これは、理性が不正を告げるとき、身体中がただちにこれを感じ取って従うようにするためである。心臓の高鳴りを鎮めるため、柔らかく空洞のある肺が、その詰め物として植えられた。

食べ物と飲み物への欲望にあずかる部分は、横隔膜と臍の間に、いわば飼い葉桶のそばにつながれた野獣のように住まわせられた。この部分は理性を理解することが決してなく、むしろ映像や幻影によって惑わされやすいため、神々は肝臓を、思考からの映像を映し出す鏡として組み立てた。厳しい思念は肝臓の苦みを用いて苦しみと吐き気をもたらし、穏やかな思念は肝臓の甘さを用いて機嫌よく整える。この部分は理性と思慮にあずかっていないため、夜、眠りのうちに控えめな仕方で占いを用いる。思慮ある者に神懸かりの真実の占いが生じることは決してなく、眠りによって思慮を縛られた者、病や神がかりによって正気を外れた者だけが、これにあずかる。したがって、思慮ある者にふさわしいのは、夢や幻影が何を示しているかを、目覚めてから推論によって考え合わせることであり、狂気にある本人が自ら見たものを判断することは、その仕事ではない。それゆえ、これを判定する預言者の種族が、神懸かりの占いの上に立てられている。世に「占い師」と呼ばれる者たちは、実のところ謎めいた言葉と幻影の解釈者にすぎず、占う者たちの「予言者」と呼ぶ方が正しい。脾臓は、肝臓を清らかに保つための、いわば拭き布として、その隣に置かれた。

食欲の無節制による急激な滅びを避けるため、腸が下腹部に巻きつけられた。骨髄は、魂と身体を結びつける生の絆であり、火・水・空気・土の最良の三角形から作られた。魂の神的な種を宿す部分は丸く形づくられ「脳」と呼ばれ、死すべき魂を保つ部分は「骨髄」と呼ばれた。骨は、清らかな土を骨髄で湿らせ、火と水に交互に浸すことで組み立てられ、頭から背骨、関節に至るまで、身体全体を貫いた。神経は骨と肉の中間の力を持つものとして、肉は暑さ寒さから身を守り転倒の衝撃を和らげるものとして、それぞれ組み立てられた。骨の接合部には、動きを妨げず思考を鈍らせないよう、わずかな肉しか与えられなかった。

状況:この後、皮膚・毛髪・爪の生成、歯や舌の構造、植物の生成、そして呼吸と栄養摂取の仕組み(火による食物の分解と、気息の出入りによる血液循環の説明)が、同様の道筋で語られる。

ティマイオス:血液は、身体を巡って肉と全身を養う。満ちることと失われることは、宇宙全体において同族のものが互いに引き合う、あの運びと同じ仕方で生じる。生き物が新しいうちは、骨髄から生まれた三角形が新しく強く結びついているため、外から入ってくる食物の古い三角形に打ち勝ち、生き物を成長させる。しかし年月を経て三角形の結びつきが緩むと、逆に外から入るものによって切り分けられるようになり、これが「老い」である。最後に骨髄のまわりの絆が解けると、魂も本性に従って快さとともに解き放たれる。それゆえ、病や外傷による死は苦しく力ずくのものだが、老いによる死は、あらゆる死の中でもっとも労苦が少なく、快さを伴うものである。

疾患は、身体を組み立てる4つの元素(土・火・水・空気)の過剰・不足・場所の異変によって、まず生じる。より重篤な病は、これらから生まれる骨髄・骨・肉・神経・血液という第二次の複合体の生成が、逆の順序で進む(肉が溶けて血液へ逆流する)ときに生じ、血液があらゆる種類の胆汁・漿液・粘液を帯びることになる。これらが体内で腐敗し循環すると、その色や性質に応じて、黒胆汁・黄胆汁・酸い粘液・白い粘液などと名づけられた病の材料となり、火・空気・水・土のどの元素が過剰かに応じて、絶え間ない熱、毎日型・隔日型・四日おき型の熱がもたらされる。さらに、気息・粘液・胆汁それぞれの滞りから生じる病(強直痙攣、聖なる病=癲癇、カタル性の病など)が続く。

身体をめぐる病はこのようにして生じるが、魂をめぐる病は、身体の状態に由来する錯乱にほかならない。錯乱には狂気と無学の二種類があり、度を越した快楽と苦痛も魂のもっとも重大な病と見なさねばならない。骨の疎らさゆえに種子が過剰に流れやすくなっている者が性愛に溺れるのも、進んで悪をなす者は誰もおらず、悪しき者が悪しき者となるのは、身体の悪しき状態と教育を欠いた養育によるのであり、これらは望まずして生じるものである。したがって、植えられる側よりも植える側を、養われる側よりも養う側を責めるべきだが、それでもなお、誰もが養育と生活の習わしと学びを通じて悪徳から逃れるよう努めなければならない。

善きものはすべて均整が取れており、魂と身体との間の均整・不均整ほど重要なものはない。強い魂が弱い身体に、あるいはその逆に結びつくとき、生き物全体は美しくならない。魂が身体より優っていれば身体を病で満たし、身体が魂より優っていれば、思考を鈍らせ、もっとも重大な病である無学を生み出す。唯一の救いは、思考の鍛錬をする者には体育を、身体を鍛える者には音楽と哲学を、それぞれ返礼として与え、両者の均整を保つことである。身体についても、宇宙全体の「乳母」を模倣し、静止させたままにせず、絶えず適度に揺り動かすことで健康が保たれる。自分自身の内から生じる運動(体育)がもっとも優れ、他から揺り動かされる運動(乗り物など)がこれに次ぎ、薬剤による浄化は、大きな危険がある場合を除いて用いるべきではない。それぞれの生き物の三角形には、あらかじめ定められた寿命があり、これに逆らって薬剤で損なうと、かえって多くの病を生むことになるからである。

魂の三つの場所には、それぞれ固有の運動があり、これらの釣り合いに注意しなければならない。もっとも支配的な魂の相は、神が各人に与えた守護霊(ダイモーン)であり、我々を天へと引き上げるものである。欲望や勝ち負けへのこだわりに専心する者の思考は死すべきものとなるが、学びを愛し真実の思慮を追い求める者は、不死なるもの、神的なものにあずかることができる。我々のうちの神的なものと同族な運動は、宇宙全体の思考と周回運動である。それゆえ各人は、宇宙の調和と周回運動を学び知ることによって、生成の中で損なわれた頭の周回運動を正しく立て直し、認識するものを認識されるものに似せていかなければならない。これこそが、神々によって人間に定められた、もっとも優れた生の目的である。

臆病で不正に生きた男たちは、二度目の生まれ変わりにおいて女へと生まれ変わる。神々はこのとき、性交への欲情を作り出した。天上のことがらに関心を持ちながらも、視覚による証明だけを信じた単純な者たちは鳥の種族へ、哲学をまったく用いず頭の周回運動を用いなくなった者たちは地を這う獣たちへ、より思慮を欠く者ほどより多くの足を与えられて生まれ変わった。そして、もっとも錯乱し、もっとも無学であった者たちは、もはや清らかな呼吸すらふさわしくないと見なされ、水生のもの、すなわち魚や貝の種族へと生まれ変わった。こうして、生き物たちは、知性と錯乱とを得たり失ったりしながら、互いに姿を変え続けているのである。

用語欄

本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。

『尤もらしい話(エイコース・ロゴス)』

生成の世界についての言論のあり方を指す。安定した実在についての言論が安定していなければならないのに対し、常に生成し変化する事柄についての言論は、それと同族のものとして、あらゆる点で正確ではありえず、尤もらしいものであれば足りるとされる。ティマイオスは、宇宙の生成を語り始める前にこの基準を示し、自らの語り全体がこの意味での「尤もらしい話」であることを繰り返し断りながら論を進める。

『場(コーラ)』

実在と生成という二種類に加えて導入される、第三の種族。あらゆる生成の受け皿であり、生成するものに、そのつどの姿を映し出す場を提供する。それ自体はいかなる形からも自由でなければならず、感覚によっては捉えられず、ある種の紛い物の推論によってかろうじて信じられるものとされる。乳母や母にたとえられる。

『必然(アナンケー)』

知性による説得を受け入れつつ、なお独自に働き続ける原因の種類。宇宙の生成は、知性が必然を説得し、大部分を最善へと導くことによって成り立ったとされる。火・水・空気・土の幾何学的構成や、感覚に伴う身体的経験の多くは、この必然の働きに属するものとして語られる。

『知性(ヌース)』

魂を離れては宿ることができないとされる、思慮の働き。宇宙の製作者は、知性を魂の中に、魂を身体の中に組み立てることで、この宇宙を魂と知性を備えた生き物として作り上げた。人間についても、頭部にある魂の周回運動が知性の座とされ、これを乱れなく保つことが、人間に定められた最善の生の目的とされる。

『魂(プシュケー)』

身体よりも先に、身体を支配するものとして組み立てられたもの。世界霊魂は、実在・同性質・他性質という三つの本性を混ぜ合わせて作られ、比率に従って分割され、同一性と他性の二つの円環運動を与えられた。人間の魂もこれに準じて作られ、不死なる部分と死すべき部分とに分けられる。

第Ⅱ部 物の定義について

第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。

ティマイオスにおいて、物の定義は論の到達点として最初から用意されているわけではない。これまで、手本となる種類と、その模像となる種類という二つで十分だと考えてきたが、今、これだけでは足りないことに気づく。もう一つ、第三の種類を、困難な問いとして、あらためて言論によって明らかにしなければならない。物が何であるかという問いは、この運動の末に、ようやく答えられることになる。

以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。

私が水と呼んでいるものは、凝固すれば石や土となり、溶ければ空気となり、空気は燃えれば火となる。こうして互いに生成を循環させて伝えている以上、そのどれかを、確固としてこれだと言い張ることはできない。むしろ、火や水と呼んでいるのは、そのつど似たものとして巡り歩く『そのようなもの』にすぎず、確固たる「これ」ではないと言うべきである。

金から様々な形を作り、絶えず作り変え続けたとして、そのうちの一つを指して何かと問われたなら、金だと答えるのが真実にもっとも近い。三角形やその他の形が現れても、それが実在するものであるかのように語るべきではない。それらは、名指そうとする間にも移り変わってしまうものだからである。

他方、あらゆる姿を受け入れる本性そのものには、常に『同じもの』という呼び名を与えなければならない。それは、あらゆるものの型を写す蝋のように据えられており、入ってくるものによって、そのつど異なる姿を見せるだけである。

今、生成するもの、生成がその中で起こる『場』、そして生成するものの手本となる源、という三つを考えなければならないことが分かる。受け入れる方を母に、源を父に、両者の中間を子にたとえるのがふさわしい。

『物とは、火・水・空気・土のいずれか一つとして確固として指し示すことができず、そのつど似たものとして巡り歩くそのようなものとして、場と呼ばれる受け皿のうちに、実在に似せて型を取られては消え去っていく、いわゆる実在の似姿である。』

作品名:プラトン『ティマイオス』を知るための本

発行責任者(著者):飯島健二

発行:古典書房

制作協力:Claude(claude-sonnet-5)

参照原典:古典ギリシア語原典『Τίμαιος(ティマイオス)』(Burnet版、Oxford Classical Texts、1902/1905年)

初版発行日:2026年8月26日

本書の本文・解説その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。

注記:本書が参照する原典は、プラトン『ティマイオス』の古典ギリシア語原典である。本書の制作において直接参照した版はBurnet版(Oxford Classical Texts、1902/1905年刊行)に準拠したものである。Burnet版は現代のプラトン研究における標準版であり、現在刊行されている研究・翻訳文献の大部分がこれを底本としている。本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTMLが存在する場合は、術語および論証骨格の照合基準として当該翻訳HTMLを参照して制作している。本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。