ホワイトヘッド『過程と実在』を知るための本

知の地図シリーズ / 古典書房

哲学者について

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)。1861年2月15日、イギリス・ケント州ラムズゲートに生まれる。1947年12月30日没。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで数学を学び、同カレッジのフェローとなった。バートランド・ラッセルとともに『プリンキピア・マテマティカ』(1910年〜1913年)を著した。1924年、63歳のときにハーバード大学哲学科教授に着任した。1927年から1928年にかけてエディンバラ大学でギフォード講義をおこない、これが本書のもととなった。

原典について

原典言語:英語。原典名:Process and Reality: An Essay in Cosmology(1929年、マクミラン社刊)。

本書の構成と考え方

本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。第Ⅰ部は、原典全体を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。

本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ5割程度である。

目次

原典構造一覧

本一覧は、本書が参照する原典において実際に用いられている構造単位を、そのまま示す。

第Ⅰ部 原典について

緒言

本講義は、デカルトに始まりヒュームに終わる、その哲学的思考の局面へと立ち返るところから出発する。目指される哲学的枠組みは「有機体の哲学」と呼ばれる。ここで打ち出される学説はいずれも、この系譜に連なる思想家たちの誰かによる明示的な言明、あるいは西洋思想全体の二人の創始者、プラトンとアリストテレスのいずれかによる言明のうちに、その根拠を見出すことができる。ただし有機体の哲学は、これらの巨匠たちの著作のうち、後続の体系家たちがむしろ脇に置いてきた要素を、とりわけ強調する傾向を持つ。この立場をもっとも十全に先取りしていた著者は、ロックである。とりわけ『人間知性論』後半の諸巻において、その先取りは著しい。

講義は五つの部に分かれる。第一部では方法が説明され、宇宙論を組み立てるための観念の図式が要約的に述べられる。

第二部では、この図式が、文明化された思考の複雑な織物を形づくる観念と問題を解釈するのに十分なものであることを示す試みがなされる。この検討を欠いては、第一部の要約的な記述は事実上理解しがたいままにとどまる。したがって第二部は、図式の術語に、議論における使用を通じて意味を与えると同時に、われわれの経験のさまざまな要素を一貫した関係のうちに置く、その図式の力を示すことになる。哲学的な諸問題との関わりにおいて人間経験のかなり完全な説明を得るために、十七・十八世紀に属する哲学者・科学者の一群――とりわけデカルト、ニュートン、ロック、ヒューム、カント――が検討の対象とされている。これらの著者のいずれもが、経験の基盤の提示という点では一面的である。しかし全体として見れば、彼らは後続の哲学の展開を支配するに至った、一つの一般的な描像を与えている。当初、この一群の各人からの相違点を説き明かすことに終始するものと予期して探究を始めたが、彼らの厳密な言明を注意深く検討したところ、有機体の哲学は主として、カント以前の思考様式への回帰であることが明らかになった。これらの哲学者たちは、自らが受け継いだ表現様式の根底にある、一貫しない諸前提に悩まされていた。彼らが、あるいはその後継者たちが、厳密に体系的であろうと努めた限りにおいて、その努力はむしろ、有機体の哲学がまさに依拠しているはずの、彼らの思考のうちの当の要素を放棄する方向へと傾いた。一致点と不一致点とを正確に指摘する試みがなされている。

第二部において、近代思想の議論は、物理学と生物学のもっとも一般的な観念に限定され、細部への立ち入りは注意深く避けられている。また、完全な宇宙論の動機の一つとして、美的・道徳的・宗教的な関心を、自然科学に起源を持つ世界像の諸概念と関係づける、観念の体系を構築することが挙げられねばならない。

第三部と第四部では、宇宙論的図式が、それ自身の範疇的観念によって、他の思想体系との対照をさほど顧慮することなく展開される。たとえば第二部には「拡がりの連続体」を扱う章があり、そこではおもにデカルトとニュートンの観念が、有機体の哲学がこの世界の特徴を解釈しなければならない仕方と比較されている。だが第四部では、同じ主題が、有機体の哲学がこの問題の理論を打ち立てる、その詳細な方法を展開するという観点から扱われる。ここで十分に理解されておくべきは、本講義の主題が、ある種の伝統的な思考体系のもとで切迫性を帯びるに至った、種々の伝統的哲学問題を切り離して考察することにはない、という点である。本講義が意図するのは、宇宙論的観念の圧縮された図式を述べ、経験のさまざまな主題との対決を通じてその意味を展開し、最終的に、あらゆる個別の主題がそこに相互連関を見出すような、十全な宇宙論を仕上げることである。したがって、取り扱いの統一性は、個別の主題を次々に取り上げていくことのうちにではなく、意味と適切性の両面における図式の漸進的な展開のうちに求められねばならない。たとえば、時間・空間・知覚・因果性についての学説は、宇宙論の展開に応じて繰り返し立ち戻られる。そのたびごとに、これらの主題は図式に新たな光を投げかけるか、あるいは図式から新たな解明を受け取る。もしこの企てが成功しているならば、最後には、時空論も、認識論も、因果性論も、論じ残された問題として残ってはいないはずである。図式は、事物のありうるあらゆる相互連関を表現するのに十分な、あらゆる一般的観念を展開し尽くしているはずである。

同時代の諸学派のなかでは、英米のリアリストたちへの負い目がとりわけ明らかである。この文脈では、ロンドン大学のT・P・ナン教授にとりわけ言及しておきたい。『アリストテレス協会紀要』に発表された彼の先駆的業績は、近年のリアリズムのいくつかの学説を先取りしていながら、十分に知られているとは言いがたい。

さらに、ベルクソン、ウィリアム・ジェイムズ、ジョン・デューイに対して大きな負い目を負っている。当を得ているか否かにかかわらず彼らの思考様式に結びつけられてきた「反知性主義」という非難から、その思考様式を救い出すことが、みずからの関心事の一つであった。最後に、本書の本論を通じてブラッドリーとは鋭く対立するとはいえ、最終的な帰結はそれほど大きくは異ならない。とりわけ、『真理と実在論考』に収められた経験の本性についての彼の章に負うところが大きい。「感受」を彼が重視する点は、みずからの結論とよく調和している。この形而上学的立場全体は、〈空虚な現実性〉という教説に対する、暗黙のうちの拒絶にほかならない。

第五部は、宇宙論的問題が究極において捉えられるべき、その最終的な解釈に関わる。それは、「結局のところそのすべては何に帰着するのか」という問いに答える。この部において、ブラッドリーへの接近がもっとも顕著になる。実際、この宇宙論が成功していると見なされるならば、ここに至って、ここで働いている思考の型が、絶対的観念論のいくつかの主要な学説を、実在論的な基盤のうえへと移し替えたものではないか、と問うことが自然になる。

本講義は、哲学への影響という点に関して否認される、次に挙げる広く行きわたった思考習慣の一覧に注意を払うことによって、もっともよく理解されるだろう。(一)思弁哲学への不信。(二)言語を命題の十全な表現とみなす信頼。(三)機能心理学を含意し、またそれによって含意される、哲学的思考の様式。(四)主語・述語という表現形式。(五)感覚論的な知覚学説。(六)空虚な現実性という教説。(七)純粋に主観的な経験からの理論的構成物として客観的世界を捉える、カント的教説。(八)背理法における恣意的な演繹。(九)論理的不整合が、なんらかの先行する誤り以外の何かを示しうるという信念。これら九つの神話と誤った手続きのうちのいくつか、あるいはすべてを安易に受け入れることによって、十九世紀哲学の多くは、日常生活の頑固な事実との関わりから、みずからを締め出してしまっている。

本講義の積極的な学説は、〈現実的存在〉の生成と存在と関係性にかかわる。〈現実的存在〉とは、デカルト的な意味における「真なる事物」である。それはデカルト的な「実体」であって、アリストテレス的な「第一実体」ではない。しかしデカルトは、その形而上学説のなかに、「関係性」に対する「性質」というカテゴリーの、アリストテレス的な優位をなお保持していた。本講義においては、「性質」に対して「関係性」が優位に置かれる。あらゆる関係性は、諸々の現実的なものどうしの関係性のうちにその基盤を持つ。そしてそのような関係性はことごとく、死せるものが生けるものによって取り込まれること――すなわち〈客体の不滅性〉、みずからの生きた直接性を剥ぎ取られたものが、他の生成しつつある生きた直接性のうちの実在的な構成要素となること――に関わっている。これが、世界の創造的前進とは、〈頑固な事実〉を共同で構成する諸事物の、生成と消滅と客体の不滅性にほかならない、とする学説である。

哲学史は、それぞれ異なる時代にヨーロッパの思考を支配してきた、二つの宇宙論を開示している。プラトンの『ティマイオス』と、ガリレオ・デカルト・ニュートン・ロックを主たる担い手とする十七世紀の宇宙論である。同種の企てに取り組むにあたっては、真の解決がこの二つの先行する図式の融合のうちに、整合性と知識の進歩とが要求する修正を加えたかたちで存すると見る手がかりに従うのが賢明である。本講義で説かれる宇宙論は、哲学的伝統の積極的な価値へのこの信頼に沿って組み立てられている。成功の一つの試金石は、一つの観念の図式の限界内で、経験の多様性を包摂しうるか、その十全さにある。この条件を満たそうとする試みは、第二部の第三章「自然の秩序」・第七章「主観主義の原理」・第十章「プロセス」と、第三部第五章「経験のより高次の諸相」、第四部第五章「測定」、第五部第二章「神と世界」とを、それぞれ比較することによって例証される。これらの章はいずれも、第一部第二章に述べられた、一つの観念の図式から正当に導かれた帰結として認められるはずのものである。

本講義において、長年の省察から得られた素材を圧縮しようと努めてきた。この成果を世に問うにあたって、四つの強い印象が心を占めている。第一に、この二世紀ほどのあいだ概ね支配的であった、個別問題に関する歴史的・哲学的批判の運動は、その仕事を成し遂げており、より持続的な構成的思考の努力によって補われる必要がある、という印象である。第二に、哲学的構築の真の方法とは、できる限り最善の観念の図式を組み立て、その図式のもとで経験を解釈する試みをひるむことなく探求することにある、という印象である。第三に、科学的関心の対象となるさまざまな特殊な主題についての構成的思考はすべて、なんらかのそうした図式――名指しされてはいないが、それでも想像力を導くうえで劣らず影響力を持つ図式――によって支配されている、という印象である。哲学の重要性は、そうした図式を明示化し、それによって批判と改善に開かれたものとする、持続的な努力のうちにある。

最後に残るのは、事物の本性の深みを探ろうとする試みが、いかに浅く、いかに微力で、いかに不完全であるか、という反省である。哲学的な議論において、言明の最終性についての独断的な確実性のかすかな気配ですら、愚かしさの表れである。

これらの講義を現在の書物の規模へと拡張するにあたって、ハーバードでの講義に出席した学生たちが示してくれた批判的な難点に、大いに助けられた。また、妻から受けた絶えざる励ましと助言なしには、本書はけっして書かれなかっただろう。

第一部 思弁的図式

 第一章 思弁哲学(第I節〜第VI節)

この一連の講義は、思弁哲学の試論として構想される。その第一の課題は、「思弁哲学」を定義し、それが重要な知識を生み出す方法であることを弁護することである。思弁哲学とは、われわれの経験のあらゆる要素がそれによって解釈されうるような、一貫した、論理的な、必然的な一般観念の体系を組み立てようとする試みである。ここでの「解釈」とは、享受され、知覚され、意志され、あるいは思考されるものとしてわれわれが意識するすべてが、その一般的体系の特殊な一事例としての性格をもつ、ということを意味する。したがって哲学的体系は、一貫しており、論理的であり、その解釈に関して適用可能かつ適合的でなければならない。「適用可能」とは経験のいくつかの項目がそのように解釈可能であることを、「適合的」とはそのような解釈が不可能な項目が存在しないことを、それぞれ意味する。「一貫性」とは、体系を構成する基本観念がたがいを前提し合っており、孤立していては無意味である、ということである。「論理的」とは、矛盾の欠如、論理的術語による構成物の定義、推論の諸原理等を含む、通常の意味である。この理想には合理的側面(一貫的・論理的)と経験的側面(適用可能・適合的)とがあり、両者は、体系の適合性がたまたま考慮された項目にとどまらず、観察された経験の織り目がすべての関連する経験に及ぶという意味において結びつく。それゆえ哲学的体系は、直接的な事実に通じ合うものへみずからを限定するかぎりにおいて「必然的」でなければならない。この必然性という教説は、宇宙にひとつの本質があり、それがおのれ自身を超えたところでの関連をおのれの合理性への違反として禁じている、ということを意味する。思弁哲学が探求するのは、まさにその本質である。

哲学者たちが形而上学的な第一原理を最終的に定式化することは、決してできない。洞察の弱さと言語の欠陥が、容赦なくその妨げとなる。しかし、それ自体として知りえない第一原理は存在しない。困難の根は哲学の経験的側面にある。われわれの与件は現実世界であり、直接経験の解明こそがあらゆる思考の唯一の正当化根拠であるが、われわれは直接経験について明確に区切られた完全な分析を意識してはいない。われわれは習慣的に「差異の方法」によって観察する――あるときはゾウを見、あるときは見ない。形而上学的な第一原理は決してその例証を欠くことがないから、この差異の方法に頼る厳格な経験論は、形而上学の発見にとっては破綻する。自然科学におけるベーコン的な帰納の方法も、一貫して追求されれば科学をそれが見出した地点にとどめ置いたであろう。発見の真の方法は、飛行機の飛行に似ている。個別的な観察という地面から出発し、想像的一般化という希薄な大気のなかを飛行し、合理的解釈によって鋭さを与えられた新たな観察のために再び着陸する。この想像的構成が成功するための条件は二つある。第一に、この構成は物理学・生理学・心理学・美学・倫理・社会学・言語等、人間の関心の個別的な主題のうちに見出される個別的な諸要因の一般化のうちに、その起源をもたねばならない。想像的実験の成功は、それが由来した限定的な場所を超えて成果が適用可能であるかどうかによって試される。第二の条件は、一貫性と論理的完全性という二つの合理主義的理想を、ひるむことなく追求することである。数学における円錐曲線や確率論の例が示すように、純粋な想像的衝動のもとで発展した観念が、時間を経て重要な適用を受け取ることがある。一貫性という要件は合理主義的な健全さを保つ保存剤だが、その批判は常に公平に認められるわけではない。哲学の体系は決して論駁されることがなく、ただ放棄されるだけだ、と言われる所以である。デカルトの物体的実体と精神的実体という二種類の実体は、非一貫性の例証である。デカルトの定義(実体的個物とは存在するために自分自身以外の何も必要としないもの)に従うかぎり、物体だけの世界、あるいは精神だけの世界が存在しない理由はない。にもかかわらず心身は事実上結びついて働いており、デカルトの体系はこの結びつきを理論の内部から説明できない。スピノザは、原因を自己自身に持つ一つの実体から出発し、個々の事物をその「様態」として位置づけることで、デカルトの立場をより大きな一貫性へと修正した。しかしその体系の間隙は、「様態」の恣意的な導入にある。有機体の哲学はスピノザの思考に密接に結びつくが、主語・述語という思考形式を、事実の窮極的な性格づけの直接的な体現とみなす前提を放棄する点で異なる。「実体・性質」という概念は避けられ、形態学的な記述は動的な過程の記述に置き換えられる。スピノザの「様態」は、いまや純然たる現実態、すなわち〈現実的存在〉そのものとなる。この体系が保持しようとする一貫性とは、いずれの現実的存在の癒合の過程も、その構成要素のうちに他の現実的存在を含む、という発見である。あらゆる哲学理論には、その偶有性のゆえにのみ現実的であるような一つの窮極がある。有機体の哲学ではこの窮極は〈創造性〉と呼ばれ、神はその原初的な非時間的偶有性である。スピノザや絶対的観念論のような一元論的哲学では、この窮極はむしろ神=絶対者そのものとされる。この点で、有機体の哲学は、事実を窮極とする西アジア・ヨーロッパの思想よりも、過程を窮極とするインド・中国の思想のいくつかの潮流に近いように思われる。

あらゆる哲学はいずれ廃位される。だが哲学体系の束は、宇宙についての多様な一般的真理を表現しており、その調整と妥当性の割り当てとを待っている。哲学における主要な誤りは誇張であり、一般化をめざす目的そのものは健全だが、成功の見積もりが誇張されている。誇張には二つの主要な形態がある。一つは〈具体性置き違えの誤謬〉――ある現実的存在を、それが特定の思考のカテゴリーを例証する限りで捉えるとき、そこに含まれている抽象の度合いを見落とし、その抽象的な一断面を具体的な現実そのものと取り違える誤りである。もう一つは、確実性と前提に関する論理的手続きについての誤った見積もりである。哲学は、明晰・判明・確実な前提を独断的に示し、そこから演繹的な体系を築き上げることを自らの方法だと誤解してきた。しかし窮極の一般性についての正確な表現は、議論の目標であって出発点ではない。この関連で、背理法の誤用に注意が要る。矛盾が生じたとき論理的に結論できるのは、推論に含まれる前提の少なくとも一つが偽であるということのみであって、その咎のある前提を軽率に特定してはならない。哲学がその本来の地位を取り戻すのは、進歩の各段階で明確に述べられる範疇的図式の漸進的な精密化こそが本来の目標である、と認められたときである。哲学的な範疇の図式を一つの複合的な主張として捉え、真か偽かの二者択一を適用するなら、その答えは偽とならざるをえない。だがその図式は、未定式化の限定・例外・より一般的な観念による新たな解釈をともなうかぎりで真である。図式とは、そこから具体的な結論を導き出しうる一つの行列であり、その用法は、そこから大胆に、かつ厳密な論理によって議論することにある。この手続きから生じる結果は、(一)結論が観察された事実と一致する、(二)全体としては一致しつつ細部で不一致を示す、(三)結論が事実とまったく一致しない、の三つの形態のいずれかを取る。第一の場合には事実がより適合的に知られ、第二の場合には事実の観察と図式の細部との両方についての批判が求められ、第三の場合には理論の根本的な立て直しが求められる。文明化された言語をともなう合理的な生の基盤が据えられて以降、あらゆる生産的な思考は、芸術家の詩的な洞察によるか、論理的前提として利用されうる思考の図式の想像的な精密化によるか、そのいずれかによって進んできた。合理主義とは、思考の明晰化における、進歩的で決して最終的ではない一つの冒険である。

特殊科学の領域は一つの類に属する事実に限定される。ある一群の事実について一つの科学がおのずと生じてきたという事情そのものが、その種類の事実がたがいのあいだに、あらゆる人類にとって明白な確定した関係をもつことを保証する。物事の共通の明白さは、その明示的な把握が生存あるいは享受の目的にとって直接の重要性をもつときに生じ、そうした要素については言語が豊富かつ精密である。哲学の研究とは、より大きな一般性へと向かう航海である。科学の幼年期には哲学は科学から鋭く区別されていなかったが、後の段階では、たいていの科学はそれが依拠する一般観念を疑問視することなく受け入れ、力点は特殊な言明の調整と直接的検証に置かれる。ニュートンが自らの物理学的原理に満足し形而上学を退けたのはその一例である。だがニュートン物理学がたどった運命が警告するように、科学的第一原理にも発展があり、その当初の形式は、後になって明らかになる意味の解釈と適用範囲の限定によってしか救われない。したがって哲学の一つの目的は、科学的第一原理を構成している半真理に異議を申し立てることである。あらゆる一般的真理はたがいを条件づけ合っており、その適用の限界は、さらに広い一般性による相関を離れては規定できない。数学の第一の方法は演繹であり、哲学の第一の方法は記述的一般化であるが、数学の影響のもとで演繹が哲学の標準的方法として押しつけられてきたことは、哲学的方法についての誤解であった。プラトン、アリストテレス、トマス・アクィナス、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ロック、バークリー、ヒューム、カント、ヘーゲルの廃位は、彼らが導入した観念が、限定・適応・転倒を加えて解釈されなければならない、ということを意味するにすぎない。新しい観念は新しい代替案を導入し、われわれはある思想家が退けた代替案を採用するときでも、その思想家に負うところは少なくならない。哲学は、偉大な哲学者による衝撃のあと、決して古い位置には戻らない。

あらゆる科学はそれ自身の道具を考案しなければならず、哲学に必要な道具は言語である。哲学は物理科学が既存の器具を再設計するのと同じように言語を再設計する。あらゆる命題は、何らかの一般的で体系的な形而上学的性格を示す宇宙を指示しており、この背景を離れては、命題を構成する個別の存在も命題全体も確定した性格をもたない。無に浮かぶ自足した事実というものは存在しない。一つの命題が部分的な真理を体現しうるのは、それがある特定の類型の体系的環境だけを要求するからにすぎず、宇宙をそのあらゆる細部にわたって指示しているわけではない。形而上学の実践的な目的の一つは、形而上学的命題だけでなく、「今日の夕食には牛肉がある」といったごく普通の命題も含めた、命題の正確な分析である。言葉によるフレーズを命題の適合的な言明として受け入れるのは、単なる軽信にすぎない。言語的なフレーズへの過度の信頼は、ギリシア人と、その伝統を受け継いだ中世の思想家たちのあいだで、哲学と自然学の多くを損なってきた原因であった。ジョン・スチュアート・ミルが指摘するように、ギリシア人は語の意味を決定することによって事実に通じることができると考えたが、ミルもヒューウェルも、この言語についての困難をその源にまで遡って追跡してはいない。両者とも、言語が明確に規定された命題をそのまま言い表す、と前提してしまっている。これはまったくの誤りである。「ソクラテス」のような語でさえ、文脈に応じて異なる背景を前提しうる。精密な言語は、完成された形而上学的知識を待たねばならない。哲学の専門用語は、経験の諸事実によって前提されている一般観念を明示的な表現へともたらそうとする、さまざまな学派の試みを表しており、ある形而上学の学派の教説が、別の学派によって受け入れられている事実の言葉による表現から従わないと指摘することは、その学派に対する妥当な批判とはならない。真理そのものとは、世界の有機的な現実態がもつ複合的な諸性質が、神的本性のうちに適合的な表象をどのように得るか、ということにほかならない。そのような表象が神の〈結果的本性〉を構成し、その原初的な概念的本性の永遠の完全性を損なうことなく、進化しつつある世界との関係のうちで進化する。このようにして〈存在論的原理〉――多くの現実的存在の部分的な経験を公平に相関づける確定した真理は、それが関連づけられうる一つの現実的存在を離れては存在しえない、という原理――が維持される。「実践」のうちに見出されるものは何であれ、形而上学的な記述の範囲のうちになければならない。その記述が実践を含めることに失敗するとき、その形而上学は不適合であり修正を要する。いかなる形而上学的体系も、これらの実践的な試金石を完全に満たすことを望むことはできず、よくても求められている一般的真理への一つの近似にとどまる。古くから確立した形而上学的体系は、その語や言い回しが現在の文献に定着しているという事実から、適合的な精密さという見せかけの雰囲気を得る。「草は緑である」「クジラは大きい」といった主語・述語形式の命題は、一見あまりに単純で形而上学的な第一原理へまっすぐ導くように見えるが、そこには複雑で多様な意味が隠れている。

思弁哲学に対しては、それが過度に野心的である、という異論が向けられてきた。この批判の根拠の一つは不首尾――ヨーロッパ思想は放棄され調停されないまま散らばった形而上学的体系で埋め尽くされている、というものだが、同じ基準を科学に当てはめれば科学もまた不首尾だということになる。それでも限界のうちでは両方の体系とも重要な真理を表現している。思想の歴史を見渡せば、一つの観念が次々に試みられ、その限界が規定され、その真理の核が引き出されていくのが見て取れる。適切な試金石は、最終性の試金石ではなく進歩の試金石である。だが主要な異論は、フランシス・ベーコンに由来する、思弁的な思索の無用性という異論である。この異論は、われわれは詳細な事実を記述し、その記述された細部の体系化に厳密に限定された一般性をもつ法則だけを引き出すべきだ、と主張する。しかしこの異論にとって不運なことに、体系のなかの一要素としての解釈を離れて理解されうるような、未加工で自足した事実というものは存在しない。直接経験の事柄を表現しようと試みるたびに、われわれはその理解が、それ自身を超えて、その同時代のもの・その過去・その未来・その普遍へと導いていくことを見出す。したがって直接的で未加工な事実の理解は、それと何らかの体系的な関係をもつ世界のうちの一項目として、その形而上学的な解釈を要求する。思考が現場に登場するとき、それは実践の事柄としての解釈を既にそこに見出す。哲学は解釈を創始するのではなく、われわれがどうしても用いざるをえない解釈について、より適合的な批判と正当化を探求する。哲学とは、意識によるそれ自身の当初の主観性の過剰の、自己修正である。それぞれの現実的機会は、それに固有の個体性を深めていく付加的な形成要素を、その起源となる状況に付け加える。意識とは、こうした要素のうち最後にして最大のものにすぎず、個体の選択的な性格が、それが由来し体現している外的な全体性を見えにくくしてしまう。哲学の課題は、その選択によって見えにくくなった全体性を取り戻すことである。見方の道徳性は見方の一般性と分かちがたく結びついており、全体の善と個体の利害の対立は、個体の利害がそのまま全体の善であるようになったときにのみ解消される。哲学は、宗教と、自然的および社会学的な科学との緊密な関係によって、無力さという汚名から自らを解放する。宗教は、哲学の合理的な一般性を、特定の社会・特定の時代における生存から生じる情緒や目的と結びつけるべきものであり、哲学は宗教を見出してそれを修正し、逆に宗教は哲学がその体系のうちに織り込まねばならない経験の与件のうちに数えられる。宗教は経験する主体の形成を扱い、科学はこの経験における第一次の局面を形づくる客体を扱う。科学は思考をこの第一次の事実と調和させ、宗教は、その過程に含まれる思考を、その同じ過程に含まれる感受的反応と調和させる。この議論の結論は、第一に、思考の広がりが感受的経験の強度と相互作用することが存在の窮極の要求として際立つということ、第二に、自己を正当化する思考の発展は、特殊な主題からの一般化、その想像的な図式化、そして想像された図式と直接経験とのあらためての比較という、複合的な過程によって達成されてきたということである。いかなる特定の段階においても、一般化を停止させる正当な理由はない。事物の作用に関するあらゆる特殊な観念の意味に含まれる、これらの一般的真理こそが、思弁哲学の主題である。哲学は、事象を説明し尽くしてしまう華々しい離れ業にふけるとき、その有用性を破壊する。思弁的な大胆さは、論理の前で、そして事実の前での、全面的な謙虚さによって均衡が取られなければならない。窮極の試金石は、常に広く行き渡った反復可能な経験である。哲学の有用な機能は、文明社会の思考の最も一般的な体系化を促進することにある。哲学は、想像力と常識とを融合させ、専門家たちへの抑制とすると同時に、その想像力の拡張ともする。

 第二章 範疇的図式(第I節〜第IV節)

本章は、有機体の哲学を構成する第一次の観念の、先取り的な素描を含む。以後の議論全体は、この要約を理解可能にし、それがわれわれの反省的経験のうちに不可避に前提されながら、明示的な区別としてはめったに表現されてこなかった、類的な観念を体現していることを示すことを目的とする。この要約から、先行する哲学的思考からの逸脱をともなうがゆえに、四つの観念――〈現実的存在〉、〈抱握〉、〈結合体〉、〈存在論的原理〉――を選び出すことができる。哲学的思考は、単なる気づき、単なる私的感覚、単なる情動、単なる目的、単なる現われといった、きわめて抽象的な観念のみを排他的に扱うことによって、自らに困難を作り出してきた。これらは、心理学からは追放されながら、なお形而上学に取り憑いている、古い「機能」の亡霊である。そのような抽象の「単なる」寄せ集めというものはありえず、その結果、哲学的議論は〈具体性置き違えの誤謬〉に絡め取られる。現実的存在・抱握・結合体という三つの観念において、哲学的思考をわれわれの経験のうちのもっとも具体的な要素のうえに基礎づけようとする試みがなされている。〈現実的存在〉――〈現実的機会〉とも呼ばれる――とは、世界がそこから成り立っている、窮極の実物である。現実的存在の背後に遡って、それより実在的な何かを見出すことはできない。神も現実的存在であり、遠く離れた空虚な空間における最も些細な存在のひと吹きもまた現実的存在である。重要性の段階や機能の多様性はあっても、現実性が例証する原理の点では、すべてが同じ水準にある。窮極の事実は、いずれも等しく現実的存在であり、これらの現実的存在は、複合的で相互依存的な経験の滴である。複数の現実的存在という観念への回帰において、有機体の哲学は徹頭徹尾デカルト的である。〈存在論的原理〉は、ロックが『人間知性論』で「力」がわれわれの実体についての複合観念の大部分をなす、と主張したときの一般原理を、拡張し広げたものである。「実体」の観念は「現実的存在」の観念へと、「力」の観念は、事物の理由が常に確定した現実的存在の複合的な本性のうちに見出される――最高度の絶対性を持つ理由については神の本性のうちに、特定の環境を参照する理由については特定の時間的現実的存在の本性のうちに――という原理へと、それぞれ転換される。存在論的原理は「現実的存在なければ、理由もない」と要約できる。個々の現実的存在は、無限に多くの仕方で分析可能である。ある分析様式は他の様式より抽象的である。現実的存在を〈抱握〉へと分析する様式は、現実的存在の本性のうちのもっとも具体的な要素を示す分析様式であり、この様式は当の現実的存在の「分割」と呼ばれる。一つの抱握は、それ自身のうちに現実的存在の一般的特徴を再現する――それは外部世界を指示するという意味で「ベクトル的性格」をもつと言われ、情動・目的・評価・因果性を含む。抱握は完全な現実性でありえたかもしれないが、ある種の不完全な部分性のゆえに、現実的存在のうちの従属的な要素にとどまる。この主体的形相は、完結した主体の「満足」を得るための、さらなる統合をめざす主体的目的によって規定される。一元実体の宇宙論を得るという目的のもとで、〈抱握〉は、デカルトの精神的「思惟」とロックの「観念」からの一般化であり、あらゆる等級の個体的現実性に適用可能な、もっとも具体的な分析様式を表現する。デカルトとロックはいずれも二実体の存在論を保持していた――デカルトは明示的に、ロックは暗黙のうちに。数理物理学者デカルトは物体的実体の説明を、医師にして社会学者ロックは精神的実体の説明を、それぞれ重視した。有機体の哲学は、一種の現実的存在という図式のなかで、ロックの精神的実体の説明のほうが、デカルトの物体的実体の説明よりも、きわめて特殊な形においてではあれ、より深く哲学的な記述を体現している、という見方を採る。とはいえ、デカルトの説明もまた哲学的図式のうちにその場所を見出さねばならない。ライプニッツの『モナドロジー』から引き出されるべき教訓も、おおむね同様である。彼のモナドは、精神性についての同時代の観念の一般化として捉えるのが最善であり、物体についての同時代の観念は、彼の哲学のなかに従属的かつ派生的な形でしか入り込んでいない。有機体の哲学は、より均等にその均衡を保とうと努めるが、ロックの精神的作用の説明の一般化から出発する点では変わらない。現実的存在は、たがいの抱握という理由によって、たがいを含み合う。したがって、現実的存在のたがいの結びつきという、実在的で個体的な、個別の事実が存在する。そのような結びつきの個別の事実は〈結合体〉と呼ばれる。直接の現実的経験の窮極の事実とは、現実的存在・抱握・結合体である。それ以外はすべて、われわれの経験にとって派生的な抽象である。哲学の説明的な目的はしばしば誤解される。その仕事は、より抽象的なものが、より具体的なものから出現する仕方を説明することにある。具体的な個別の事実が普遍からどのように組み立てられうるか、と問うのはまったくの誤りであり、その答えは「決してそうではない」である。真の哲学的問いは、具体的な事実が、それ自身から抽象されながら、しかもそれ自身の本性によって参与されている、そのような存在をどのように示しうるか、というものである。言い換えれば、哲学は抽象を説明するものであり、具体性を説明するものではない。この窮極の真理を本能的に把握しているからこそ、恣意的な空想や先祖返り的な神秘主義との結びつきにもかかわらず、プラトン哲学の諸類型はその根強い魅力を保っている――それらは事実のうちに諸形相を求める。それぞれの事実はその諸形相以上のものであり、それぞれの形相は事実の世界全体を通じて「参与」する。事実の確定性はその諸形相に由来するが、個々の事実は被造物であり、〈創造性〉こそが、あらゆる形相の背後にある窮極であって、諸形相によっては説明されず、その被造物によって条件づけられる。

本講義の議論の目的は、次に挙げる範疇の意味・適用可能性・適合性を明らかにすることにある。すなわち、(一)〈窮極の範疇〉、(二)〈存在の範疇〉、(三)〈説明の範疇〉、(四)〈範疇的責務〉である。あらゆる存在は存在の範疇の特定の一事例であり、あらゆる説明は説明の範疇の特定の一事例であり、あらゆる責務は範疇的責務の特定の一事例であるべきである。窮極の範疇は、他の三つのより特殊な範疇のうちに前提される一般原理を表現する。〈創造性〉〈多〉〈一〉は、「物」「有」「存在」という同義語の意味に含まれる窮極の観念であり、この三つの観念が窮極の範疇を完成させ、他のすべての特殊な範疇のうちに前提される。「一」とは複合的な特殊観念である「整数の一」を表すのではなく、不定冠詞、定冠詞、指示詞、関係詞のすべての根底にある、一般観念を表す――それは一つの存在の単一性を表す。「多」は「一」を前提し、「一」は「多」を前提する。「多」は〈離接的多様性〉という観念を伝え、この観念は「有」という概念に不可欠な要素である。〈創造性〉は、窮極の事実を特徴づける、普遍のなかの普遍である。それは、離接的に宇宙である多が、連接的に宇宙である一つの現実的機会となる、その窮極の原理である。多が複合的な統一へと入っていくことは、事物の本性のうちにある。〈創造性〉は新奇性の原理であり、一つの現実的機会は、それが統一する「多」のうちのいかなる存在とも異なる、新奇な存在である。〈創造的前進〉とは、この窮極の創造性の原理を、それが生じさせるそれぞれの新奇な状況へと適用することである。「together(共にあること)」は、さまざまな種類の存在が一つの現実的機会のうちで「共にある」種々の特殊な仕方を覆う、類的な語であり、〈創造性〉〈多〉〈一〉〈同一性〉〈多様性〉という諸観念を前提する。窮極の形而上学的原理とは、離接から連接への前進であり、離接のうちに与えられた諸存在とは別の新奇な存在を創造することである。この窮極の範疇は、アリストテレスの「第一実体」という範疇に取って代わる。したがって「新奇な共にあることの産出」が、〈癒合〉という語に体現される窮極の観念である。〈存在の範疇〉は八つある。(一)現実的存在――現実的機会、窮極の実物、真なる事物とも呼ばれる。(二)抱握――関係性の具体的事実。(三)結合体――公共的な事実。(四)主体的形相――私的な事実。(五)永遠的客体――事実の特定の限定のための純粋可能態、限定性の諸形相。(六)命題――潜在的限定における事実、理論とも呼ばれる。(七)多性――多様な存在の純粋な離接。(八)対比――一つの抱握における諸存在の総合の様態。これら八つの範疇のうち、現実的存在と永遠的客体は、ある種の窮極的な最終性をもって際立ち、他の型の存在は中間的な性格をもつ。第八の範疇は、「対比」から「対比の対比」へ、さらにより高次の対比へと、無限に進行する範疇の系列を含む。〈説明の範疇〉は二十七ある。ここではその大要のみを辿る。現実世界は過程であり、その過程とは現実的存在の生成にほかならない(第一)。現実的存在の生成において、多くの存在――現実的なものと非現実的なもの――の潜在的な統一が、その一つの現実的存在の実在的な統一を獲得する(第二)。生成にともなって、新奇な抱握・結合体・主体的形相・命題・多性・対比も生成するが、新奇な永遠的客体は存在しない(第三)。多くの存在が一つの現実性へと実在的に癒合する要素であるという潜勢力こそが、現実的・非現実的を問わずあらゆる存在に付帯する一つの一般的な形而上学的性格であり、宇宙のあらゆる項目はそれぞれの癒合のうちに巻き込まれている(第四)。いかなる二つの現実的存在も同一の宇宙から生じることはなく、それぞれの現実的存在に相関する現実世界を〈現実世界〉と呼ぶ(第五)。ある癒合の宇宙における各存在は、その本性のかぎりでは多くの様態のいずれかにおいてその癒合に巻き込まれうるが、事実上はただ一つの様態においてのみ巻き込まれる。この巻き込まれ方の特定の様態が、まさにその癒合によってのみ完全に確定される――ただしそれは相関する宇宙によって条件づけられている。この、実在的な癒合において確定される非確定性こそが〈可能態〉の意味であり、それは条件づけられた非確定性であるから〈実在的可能態〉と呼ばれる(第六)。永遠的客体は、現実的存在の生成への「進入」の可能態としてのみ記述されうる純粋可能態である(第七)。一つの現実的存在には二つの記述が必要である――他の現実的存在の生成における「客体化」の可能態を分析するものと、それ自身の生成を構成する過程を分析するものと(第八)。現実的存在がいかに生成するかが、その現実的存在が何であるかを構成する――この二つの記述は独立ではない。その「存在」はその「生成」によって構成される。これが〈プロセスの原理〉である(第九)。現実的存在をそのもっとも具体的な要素へと第一次的に分析すると、それは、その生成の過程において生じた抱握たちの癒合であることが明らかになる。それ以上のあらゆる分析は抱握の分析であり、抱握による分析は「分割」と呼ばれる(第十)。あらゆる抱握は三つの要因からなる――抱握する「主体」(その抱握が具体的要素であるところの現実的存在)、抱握される「与件」、そして主体がその与件をどのように抱握するかという「主体的形相」である。現実的存在の抱握は「物理的抱握」、永遠的客体の抱握は「概念的抱握」と呼ばれ、いずれの型の主体的形相にも意識が必然的に含まれるわけではない(第十一)。抱握には二種がある――「感受」と呼ばれる「肯定的抱握」と、「感受からの排除」と言われる「否定的抱握」である。否定的抱握もまた主体的形相をもつ(第十二)。情動・評価・目的・向性・嫌悪・意識等、主体的形相には多くの種がある(第十三)。結合体とは、たがいの抱握――言い換えればたがいのうちでの客体化――によって構成される、関係性の統一における現実的存在の集合である(第十四)。命題とは、一つの複合的な永遠的客体の統一によって部分的に規定された潜在的関連性をもつ、結合体を形成する潜勢力における、特定の現実的存在の統一である。関与する現実的存在は「論理的主語」、複合的永遠的客体は「述語」と呼ばれる(第十五)。多性は多くの存在から成り、その統一は、その構成存在がすべて、他のいかなる存在も満たさない、少なくとも一つの条件を、それぞれ満たすという事実によって構成される(第十六)。感受の与件となるものは、感受されたものとしての統一をもち、複合的な与件の多くの構成要素は「対比」という統一をもつ(第十七)。生成の過程が特定の事例において従うあらゆる条件は、その理由を、その癒合の現実世界のうちにある何らかの現実的存在の性格のうちに、あるいは癒合の過程にある主体自身の性格のうちに、もつ。この説明の範疇が〈存在論的原理〉と呼ばれ、〈作用因と目的因の原理〉とも呼びうる(第十八)。窮極的な二つの型の存在は現実的存在と永遠的客体であり、他の型の存在は、この二つの根本的な型に属するすべての存在が現実世界においてたがいに交わる仕方を表現するにすぎない(第十九)。「機能する」とは、ある現実世界の結合体における現実的存在に対して限定を寄与することを意味し、一つの存在の確定性と自己同一性は、あらゆる存在の多様な機能づけの共同体から切り離しては抽象できない(第二十)。ある存在は、それ自身にとって意義をもつとき現実的である(第二十一)。現実的存在は、自己自身に関して機能することによって、自己同一性を失うことなく自己形成のうちで多様な役割を演じる。それは自己創造的であり、その創造の過程において、役割の多様性を一つの首尾一貫した役割へと変換する。「生成」とは、こうして非一貫性を一貫性へと変換することであり、その達成とともに、それぞれの個別の事例において終わる(第二十二)。この自己機能づけこそが現実的存在の実在的な内的構成であり、現実的存在の「直接性」である。現実的存在は、それ自身の直接性の「主体」と呼ばれる(第二十三)。ある現実的存在が、別の現実的存在の自己創造において機能することは、前者の後者にとっての「客体化」であり、ある永遠的客体が現実的存在の自己創造において機能することは、その永遠的客体のその現実的存在への「進入」である(第二十四)。癒合の過程の最終相は、一つの複合的で完全に確定した感受であり、「満足」と呼ばれる。それはその生成に関しても、超越的な創造性に対するその客体的性格に関しても、その宇宙のあらゆる項目についての抱握――肯定的であれ否定的であれ――に関しても、完全に確定している(第二十五)。現実的存在の発生過程における各要素は、それがいかに複合的であっても、最終的な満足において一つの自己一貫した機能をもつ(第二十六)。癒合の過程には、先行する諸相における抱握の統合によって新しい抱握が生じる、一連の相の継起がある。この統合において、「感受」はその「主体的形相」と「与件」とを新奇な統合的抱握の形成に寄与させるが、「否定的抱握」はその主体的形相のみを寄与させる。この過程は、あらゆる抱握が、一つの確定した統合的満足の構成要素となるまで続く(第二十七)。

〈範疇的責務〉は九つある。(一)〈主体的統一の範疇〉――一つの現実的存在の過程における未完結な相に属する多くの感受は、その相の未完結性のゆえに未統合であっても、それらの主体の統一性のゆえに、統合されうるものとして両立する。(二)〈客体的同一性の範疇〉――一つの現実的存在の「満足」の客体的な与件のうちで、その満足における機能に関するかぎり、いかなる要素の重複もありえない。(三)〈客体的多様性の範疇〉――一つの現実的存在の客体的与件のうちで、その満足における機能に関するかぎり、多様な諸要素の「癒着」はありえない。ここで「癒着」とは、多様な要素が、その多様性に内在する対比を欠いたまま、絶対的な機能の同一性を発揮する、という観念を意味する。(四)〈概念的評価の範疇〉――いかなる物理的感受からも、その与件が、物理的に感受された現実的存在または結合体の限定性を決定する永遠的客体であるような、純粋に概念的な感受が導出される。(五)〈概念的逆転の範疇〉――精神的極の第一相においてデータを形成する永遠的客体と、部分的に同一かつ部分的に多様であるような与件をもつ、概念的感受の副次的な発生がある。この多様性は、主体的目的によって規定される、適切な多様性である。(六)〈変換の範疇〉――抱握する主体が、その現実世界における種々の現実的存在についての、類比的で単純な物理的感受から、(第四、あるいは第四と第五の範疇にしたがって)同一の概念的感受を公平に導出するとき、これらの単純な物理的感受と派生的な概念的感受とを統合する後続の相において、抱握する主体は、この概念的感受の「与件」を、その把握された現実的存在をその成員のうちに含む何らかの「結合体」(あるいはその結合体の一部)の特性へと〈変換〉することがある。この結合体(あるいはその一部)は、こうして特徴づけられた形で、この抱握する主体が抱く感受の客体的与件となる。変換された感受の完全な与件は一つの〈対比〉――すなわち、永遠的客体との対比における一としての結合体――であることが明らかであり、この型の対比が、「物理的実体を性質によって限定すること」という観念の一つの意味である。この範疇は、現実性についての原子論であるところの有機体の哲学が、あらゆる単子論的宇宙論に内在する困惑にどう応じるかを示すものであり、ライプニッツは『モナドロジー』において、同じ困難に「混雑した知覚」の学説によって応じたが、その「混雑」がどのように生じるかを明らかにしそこねている。(七)〈主体的調和の範疇〉――概念的感受の評価は、主体的目的と両立する対比的な諸要素として、それらの感受を適合させることによって、相互に規定される。(八)〈主体的強度の範疇〉――概念的感受の起源をなす主体的目的は、(α)直接の主体における、また(β)関連する未来における、感受の強度をめざす。(九)〈自由と決定の範疇〉――個々の現実的存在の癒合は、内的には決定されており、外的には自由である。この範疇は、それぞれの癒合において決定可能なものはすべて決定されているが、その癒合の超主体の決定に委ねられる残余が常に存在する、という定式に凝縮できる。この超主体は、その統合における宇宙であり、その外部には無以外の何ものもない。この最終的な決定は、内的な決定に対する全体の統一の反応であり、情動・評価・目的の最終的な修正である。しかし全体の決定は、部分の決定から生じ、部分に厳密に関連している。

以後の議論全体は、これら四種の範疇へと導かれるか、それらを説明するものであるか、あるいはこれらの範疇の光のもとでわれわれの世界経験を考察するものであるか、のいずれかである。だが、いくつかの予備的な覚え書きが有用だろう。第四の説明の範疇からは、「完全な抽象」という観念が自己矛盾であることが帰結する。いかなる存在からも――現実的であれ非現実的であれ――宇宙を抽象して、その存在を完全な孤立において考察することはできないからである。何らかの存在を考えるとき、われわれは常に、この存在はここで何のために適しているのか、と問うている。ある意味で、あらゆる存在は世界全体に浸透する。第一の説明の範疇からは、「生成」が新奇性への創造的前進であることが帰結する。それゆえ「現実世界」という句の意味は、その意味に相対的にのみ新奇かつ現実的である、ある確定した現実的存在の生成に相対的であり、それ以外のいかなる意味にも相対的ではない。したがって逆に、それぞれの現実的存在は、それ自身に固有な「現実世界」の一つの意味に対応する。第一・第四・第十八・第二十七の範疇は、一つの同じ一般的な形而上学的真理の異なる側面を述べている。第一の範疇はこの学説を一般的な仕方で述べる――あらゆる窮極的な現実性は、その本質のうちに、アレグザンダーが「不安の原理」と呼んだもの、すなわちその生成を体現する、と。第四の範疇はこの学説を「存在」という観念そのものに適用し、「存在」とは「生成の過程に寄与する一要素」を意味する、と主張する。ここに「相対性」という観念の最大限の一般化がある。第十八の範疇は、いかなる特定の現実的存在の生成に課される責務も、他の現実的存在の構成から生じる、と主張する。第十から第十三までの四つの説明の範疇は、実在論哲学に取り憑いている〈空虚な現実性〉という観念の否認を構成する。「空虚な現実性」とは、主体的直接性を欠いた真なる事物という観念を意味する。この否認は有機体の哲学にとって根本的である。〈空虚な現実性〉という観念は、「実体における性質の内属」という観念と、きわめて密接に結びついている。両者は――窮極の形而上学的範疇としての誤用において――主として「現前的直接性」の真の分析についての誤解のうちに、その主たる支えを見出す。有機体の哲学の形而上学説にとって根本的なのは、現実的存在を変化の不変の主語とみなす観念が、完全に放棄されるという点である。現実的存在は、経験する主体であると同時に、その経験の〈超主体〉でもある。それは主体・超主体であり、この記述のいずれの半分も、片時も見失われてはならない。「主体」という語は、現実的存在がその実在的な内的構成に関して考察されるときに主として用いられるが、それは常に「主体・超主体」の省略として解されるべきである。「同じ川に二度入ることはできない」という古い教説は拡張される。いかなる思考者も二度は思考しない。より一般的に言えば、いかなる主体も二度は経験しない。これこそロックが、時間を「絶えざる消滅」とする学説によって意味すべきであったことである。この否認は、カントの「経験の第一類推」(第一版・第二版いずれの言い回しにおいても)に直接対立する。有機体の哲学において永続するのは「実体」ではなく「形相」である。諸形相は変化する関係を被るが、現実的存在は主体的には「絶えず消滅」しながら、客体的には不滅である。現実性は消滅において客体性を獲得すると同時に、主体的直接性を失う。それはその内的な不安の原理である目的因を失い、創造性を特徴づける責務の根拠となる作用因を獲得する。現実的機会は、その「形式的」構成においては、あらゆる非確定性を欠いている。可能態は実現へと移行し終えている。それらは完全で確定した事実であり、あらゆる未決定を欠いている。それらは責務の根拠を形づくる。しかし永遠的客体、命題、そしてより複合的な種類の対比のいくつかは、それら自身の本性のうちに未決定を含む。それらは、あらゆる存在と同様に、生成の過程にとっての可能態である。それらの進入は、当の現実性の限定性を表現する。しかしそれら自身の本性は、この進入の可能態がいかなる現実的存在において実現されるかを、それ自身のうちには開示しない。したがってそれらは、より完全な意味における非確定性を含む。多性は、その個々の成員を通じてのみ過程に入る。多性についてなされうる言明はすべて、その個々の成員がいかに現実世界の過程に入るかを表現するものである。この仕方で過程に入るいかなる存在も、その多性に属し、それ以外の存在は属さない。多性は、この目的のためにのみ、一として扱われうる。多性は、現実世界に対して、もっぱら離接的な関係のみをもつ。ある現実的存在にとっての絶対的に窮極な与件からなる「宇宙」は、一つの多性である。以後の議論の展開は、主語・述語という命題の形式が、主体的形相への適用を例外として、高度な抽象に関わる、という信念に支配される。この種の抽象は、その例外を除けば、形而上学的記述にはめったに関連しない。古典期末以降のアリストテレス論理学の支配は、形而上学的思考に、その用語法から自然に派生する範疇を押しつけてきた。この論理の支配は、アリストテレス自身の形而上学的思索の特徴ではなかったように思われる。本講義が他の哲学説から逸脱する点は、その多くが、アリストテレスの「実体」観念を明示的な言明において批判しながら、その議論全体を通じて暗黙のうちに、主語・述語という命題の形式が現実世界についての最終的に適合的な言明様式を体現する、と前提してきた、多くの哲学者たちの事実に由来している。アリストテレスの「第一実体」が生み出した害悪とは、まさにこの、命題の「主語・述語」形式への形而上学的な強調という習慣にほかならない。

 第三章 いくつかの派生的観念(第I節〜第IV節)

原初の被造的事実とは、永遠的客体の全体的多性についての、無条件の概念的評価にほかならない。これが神の〈原初的本性〉である。この完全な評価のゆえに、それぞれの派生的な現実的存在における神の客体化は、その派生的機会の癒合の諸相に対する永遠的客体の適切性に、等級づけをもたらす。神を離れれば、現実世界において実現されていない永遠的客体は、当該の癒合にとって相対的に非存在であることになるだろう。有効な適切性は比較の作用主体性を必要とし、その作用主体性はもっぱら現実的機会にのみ属するからである。この神的秩序づけ自体が事実であり、それによって創造性を条件づける。神は原初の被造物であるが、神の本性の記述はこの概念的な側面によって汲み尽くされるわけではない。神の〈結果的本性〉は、派生的な現実的存在についての神の物理的抱握から生じる。〈創造性〉はアリストテレスの「質料」、現代の「中立的な素材」の言い換えであるが、「形相」の、あるいは外的関係の、受動的な受容という観念を剥ぎ取られている。それは、決して二度と同じではないが常に神的秩序づけという安定した要素をともなう現実世界の、客体の不滅性によって条件づけられた、活動という純粋な観念である。創造性はそれ自身に固有の性格をもたない――アリストテレスの「質料」がそれ自身に固有の性格をもたないのとまったく同じ意味において。それは現実性の基底にある、最高度の一般性をもつ窮極の観念であり、性格づけることはできない、なぜならあらゆる性格はそれ自身より特殊だからである。しかし創造性は常に条件のもとに見出され、条件づけられたものとして記述される。すべてを包摂する束縛のない評価という非時間的な行為は、創造性の被造物であると同時に創造性の一条件でもある。それは、あらゆる被造物とこの二重の性格を共有する。それは、常に癒合のうちにあり決して過去にはない被造物としてのその性格ゆえに、世界からの反応を受け取る――この反応が神の結果的本性である。この非時間的な行為はここで「神」と呼ばれる。なぜなら、あらゆる秩序の非時間的な源から派生する実在の感受を享受するものとしてのわれわれの本性を観照することは、宗教が目指す、あの刷新と伴侶性という〈主体的形相〉を獲得するからである。被造物のこの機能――創造性の移り変わる性格を構成するというこの機能――は、ここでは現実的存在の〈客体の不滅性〉と呼ばれる。神は、その原初的本性に関しても結果的本性に関しても、客体の不滅性をもつ。結果的本性の客体の不滅性については後に第五部で扱う。ここでわれわれが関わるのは原初的本性である。神の、その原初的本性に関する世界への内在とは、現在における〈欲求〉を基盤とした、未来へ向けての衝動である。欲求とは、直接的な物理的感受の概念的評価と、概念的に抱握された与件の実現へ向けての衝動とが一つに結びついたものである。たとえば〈渇き〉は、それを癒すことについての概念的抱握と統合された、直接的な物理的感受である。欲求は、不安の原理をそれ自身のうちに含む直接的な事実であり、いま在らぬもの、そしていまだありうるものの実現を含んでいる。あらゆる物理的経験には、その存続に対する、あるいはそれに反する欲求が伴う――自己保存の欲求はその一例である。渇きとは、ある相違へ向かう欲求である。何か適切なもの、大部分は同一でありながら確定した新奇性を伴う何かへ向かう欲求であり、これは自由な想像力の萌芽を示す、低次の水準における一例である。実現されていない抽象的形相が、いかなる意味で適切でありうるのか。〈適切性〉は、諸形相のあいだの共存という何らかの実在的事実を表現しなければならない。存在論的原理は、あらゆる実在的な共存は一つの現実態の形式的構成における共存である、と表現されうる。したがって時間的世界において実現されていないものの適切性が存在するとすれば、その適切性は、非時間的な一つの現実態の形式的構成における共存という事実を表現していなければならない。しかし相対性の原理によれば、非派生的な現実態は、現実世界の抱握によって限界づけられることのない、ただ一つしか存在しえない。そのような創造性の原初的な超主体は、その満足の統一において、あらゆる永遠的客体についての完全な概念的評価を達成する。これが、創造的秩序が依存するところの、永遠的客体の共存についての窮極の基礎的な調整であり、あらゆる欲求を反発と向性という形において概念的に調整することであり、これが適切性の意味を構成する。それが一つの現実的な作用因的事実としてもつ地位は、それを神の〈原初的本性〉と呼ぶことによって認められる。〈欲求〉という語は、専門用語に潜む一つの危険を例証しており、この危険はフロイトに由来する心理学においても例証される。精神性の基本的な作用は〈概念的抱握〉であり、これらが〈純粋な〉精神性の唯一の作用である。それ以外のあらゆる精神的作用は、物理的極の物理的抱握と概念的抱握との統合を含むという意味で〈不純〉である。専門用語〈概念的抱握〉はまったく中立的であり、あらゆる示唆性を欠くがゆえに理解に困難をもたらす。そこでわれわれは身近な事実の示唆性を備えた等価の語として〈欲求〉を選んだが、人間の経験においてさえ、この語はこの基本的な活動のより強度の高い作用に、品位を貶めるような観念を示唆してしまう。われわれが密接に関わっているのは、ベルクソンが〈直観〉と呼ぶもの――ただしいくつかの相違をともなう――である。ベルクソンの〈直観〉は〈不純な〉作用であり、概念的抱握と、そこから導出された物理的抱握との総合から得られる、一つの統合的な感受である。もしこれらの〈純粋な〉精神的作用をその最も強度の高い作用において考察するならば、〈幻視〉という語を選ぶべきだろう。概念的抱握は、善あるいは悪の何らかの可能性についての、直接の幻視である。神の原初的本性を〈欲求〉の完全態と呼べば主体的形相に正当な重みを与えることになるが、代償をともなう。〈直観〉と呼べば〈不純〉な精神性を示唆してしまう。〈幻視〉と呼べば、具体的な事実への憧れを剥ぎ取られた不具の主体的形相を示唆してしまう。神の原初的本性には欠落があり、〈幻視〉という語はそれを覆い隠す。〈幻視〉よりも〈直視〉のほうがおそらくより安全な語である。要約すれば、神の〈原初的本性〉は、その「特殊なものとの交渉」から抽象されたものであり、それゆえ命題を含む不純な知的思惟を欠いている。それは抽象における神、自己のみと共にある神である。そのようなものとして、それは神における単なる一要因であり、現実性において欠けている。

〈社会的秩序〉と〈人格的秩序〉という観念は、この予備的な素描から省くことができない。ここで用いられる意味における〈社会〉とは、社会的秩序をもつ結合体である。〈持続的対象〉あるいは〈持続的被造物〉とは、その社会的秩序が〈人格的秩序〉という特殊な形態を取った社会である。一つの結合体が〈社会的秩序〉を享受するのは、(一)そこに含まれる各々の現実的存在の確定性のうちに例証される、形相の共通要素が存在し、(二)この共通の形相要素が、結合体の他の成員についての抱握によって課される諸条件のゆえに、結合体の各成員のうちに生じ、(三)これらの抱握が、その共通形相の肯定的な感受を含んでいるがゆえに、その再生という条件を課す、という場合である。そのような結合体は〈社会〉と呼ばれ、共通の形相は社会の〈規定的性格〉と呼ばれる。〈規定的性格〉という観念は、アリストテレスの〈実体的形相〉という観念に近い。形相の共通要素は、単に結合体の各成員のうちに例証される一つの複合的な永遠的客体にすぎないが、結合体の社会的秩序とは、この共通の形相がすべての成員によって示されるという単なる事実ではない。共通の形相が結合体全体にわたって再生されるのは、結合体の成員たちのあいだの発生的関係のゆえであり、加えて、発生的関係がその共通形相の感受を含むという事実のゆえである。したがって規定的性格は結合体全体にわたって相続され、各成員は、それに先行する結合体の他の成員から、それを引き継ぐ。一つの結合体が〈人格的秩序〉を享受するのは、(α)それが〈社会〉であり、かつ(β)その成員の発生的な関係性が、それらの成員を〈系列的に〉秩序づけるときである。この発生的関係性から生じる〈系列的秩序〉とは、結合体のいかなる成員も――最初と最後があるとすればそれらを除いて――結合体における一つの〈切断〉を構成し、(a)この成員は切断の一方の側のすべての成員から相続し、他方の側のいかなる成員からも相続せず、(b)AとBが結合体の二つの成員であり、BがAから相続するならば、Bから相続するBの切断の側は、Aから相続するAの切断の側の一部を成し、Aが相続するAの切断の側は、Bが相続するBの切断の側の一部を成す、ということを意味する。このように結合体は、その規定的性格の単一の相続の系列を形づくる。そのような結合体は〈持続的対象〉と呼ばれる。それは法的な意味における「人格」と呼ばれてもよかったが、「人格」という語は意識という観念を示唆してしまうため、誤解を招くだろう。この結合体は「一つの性格を持続させる」のであり、これがラテン語persona(ペルソナ)の意味の一つである。〈持続的対象〉は、「人格」として、単に性格を持続させる以上のことを行う。この持続は、結合体の成員のあいだの特殊な発生的関係から生じるからである。時間的な持続をもつ通常の物理的対象は一つの社会である。理想的に単純な場合には、それは人格的秩序をもち、〈持続的対象〉である。一つの社会は、多くの〈持続的対象〉の連なりへと分析可能な場合とそうでない場合がある。ほとんどの通常の物理的対象については、分析可能である場合にあたる。これらの持続的対象と、持続的対象の連なりへと分析可能な〈社会〉とは、時間と空間を通じて変化の冒険を享受する、永続的な存在であり、たとえば力学という科学の主題を形づくる。現実的存在は消滅するが変化はしない――それらはそれがそれであるところのものである。(一)社会的秩序を享受し、かつ(二)持続的対象の連なりへと分析可能である結合体は、〈粒子的社会〉と呼ばれうる。一つの社会は、その全体としての粒子的結合体の規定的性格に対する、さまざまな持続的対象の規定的性格の相対的な重要性に応じて、多かれ少なかれ粒子的でありうる。

「生成」が新奇性への前進のために唯一の系列性という観念を必要とする、という広く行きわたった誤解がある。これは、哲学が常識から受け継いだ、時間についての古典的な観念である。人類は、持続的対象についての自らの経験から、不幸な一般化をおこなった。近年、物理科学はこの観念を放棄している。したがってわれわれは、それが窮極の形而上学的原理として採用されるべきではなかった観点から、宇宙論を浄化すべきである。本講義において〈創造的前進〉という語は、唯一系列的な前進という意味に解されるべきではない。最後に、物理的宇宙の延長的な連続性は、通常、生成の連続性を意味すると解されてきた。しかし、もし「何かが生成する」ことを認めるならば、ゼノンの方法を用いることによって、生成の連続性はありえないことを容易に証明できる。連続性の生成はあるが、生成の連続性はない。現実的機会とは生成する被造物であり、それらが連続的に延長的な世界を構成する。言い換えれば、延長性は生成するが、〈生成〉それ自体は延長的ではない。したがって窮極の形而上学的真理は原子論である。被造物は原子的である。現在の宇宙時代においては連続性の創造が存在する。おそらくそのような創造は、あらゆる宇宙時代に成り立つ窮極の形而上学的真理でもあるだろうが、それは必然的な結論とは思われない。より妥当な見解は、延長的な連続性は、われわれの直接の時代を構成する被造物の社会から生じる特殊な条件である、というものである。しかし原子論は複雑性や普遍的相対性を排除しない。それぞれの原子は、あらゆるものの一つの体系である。原子論と連続性とのあいだの適切な均衡は、物理科学にとって重要である。たとえば本講義で説かれる学説は、ニュートンの光の粒子説を波動説と調和させる。というのも、粒子も、前進する波面の一要素も、いずれも単に、原子的な被造物から原子的な被造物へと伝播していく、一つの永続的な形相にすぎないからである。粒子とは事実上、一つの〈持続的対象〉である。ただし〈持続的対象〉という観念は、多かれ少なかれ完全な実現が可能である。したがって、その経過の異なる段階において、一条の光の波は、多かれ少なかれ粒子的でありうる。そのような波の系列は、その経過のあらゆる段階において社会的秩序を含むが、より初期の段階では、この社会的秩序は、ゆるやかに関連づけられた人格的秩序の諸筋という、より特殊な形態を取る。この優勢な人格的秩序は、時間が進むにつれて次第に消え去っていく。その規定的性格は、その多様な特徴が徐々に薄れるにつれて、次第に重要でなくなっていく。波はやがて、重要な社会的秩序をもつが人格的秩序の筋をもたない結合体となる。したがって波の系列は、粒子的社会として始まり、粒子的ではない社会として終わる。

最後に、ここで素描された宇宙論的図式において、哲学的伝統の一つの暗黙の前提が否認される。その前提とは、経験の基本要素が、意識・思考・感覚知覚という三つの成分のうち一つないしすべてによって記述されるべきだ、というものである。最後の語は「現前的直接性という様態における意識的な知覚」という意味で用いられ、実際には感覚知覚は視覚的知覚へと狭められがちである。有機体の哲学によれば、この三つの成分は、物理的であれ精神的であれ、経験にとって不可欠な要素ではない。経験のいかなる事例も、それが神であれ世界における一つの現実的機会であれ、両極性をもつ。神の起源は精神的極からであり、一つの現実的機会の起源は物理的極からであるが、いずれの場合においても、意識・思考・感覚知覚という要素は、それらが何らかの有効な意味において癒合に入り込むとしても、癒合の派生的な〈不純〉の諸相に属する。この否認こそが、以後の各部を通じて〈現前的直接性〉の位置づけが繰り返し立ち返られる主題となる理由である。

第二部 議論と適用

 第一章 事実と形相

  第I節

その言明の真理性を拠りどころとするあらゆる人間の言説は、事実に訴えかけなければならない。哲学のいかなる部門も、この規則から免除されることはできない。ただし哲学の場合、事実の記録の一部は文明化された言語や文学のさまざまな言語表現のうちに漠然と散在し、一部は科学と哲学の伝統に広く行きわたる思考の図式の影響のもとで、より精密に表現されている、という困難がある。本講義の第二部では、有機体の哲学の基盤となる観念の図式を、ヨーロッパの伝統――文学的、哲学的、科学的――において広く受け入れられてきた、事実についてのさまざまな解釈と対決させる。ここで採用される解釈の図式が、その主要な立場のそれぞれについて、プラトン、アリストテレス、デカルト、ロック、ヒューム、カントという、思想の巨匠たちのうちの誰かの明示的な権威を主張しうる、ということが重要である。しかし窮極において、何ものも権威のうえには成り立たない。最終の裁判所は本質的な合理性である。ヨーロッパの哲学的伝統についてのもっとも安全な一般的性格づけは、それがプラトンへの一連の脚注から成る、というものである。これは、学者たちが疑わしげにプラトンの著作から抽出してきた体系的な思考図式を意味するのではなく、そこに散在する豊かな一般観念のことである。もしわれわれが、この二千年にわたる社会組織・美的達成・科学・宗教における人類経験によって必要とされる、最小限の変更をもってプラトンの一般的視座を再現しようとするなら、有機体の哲学の構築に着手せざるをえないだろう。そのような哲学において、世界の過程を構成する現実態は、いかなる現実的存在にとっても限定性の潜勢態を構成する、他の事物の進入(あるいは「参与」)を例証するものとして捉えられる。時間的なものは、永遠なものへの参与によって生じる。この両者の集合は、時間的なものの現実性と可能態の非時間性とを結合する一つの事物によって媒介される。この窮極の存在こそが世界における神的要素であり、それによって、実現されていない抽象的可能態の不毛で非有効な離接が、理想的実現の有効な連接を原初的に獲得する。この純粋可能態の原初的な評価における現実性のゆえに、それぞれの永遠的客体は、それぞれの癒合の過程に対して確定的で有効な適切性をもつ。このような秩序づけがなければ、時間的世界において実現されていない永遠的客体の完全な離接があるだけであり、新奇性は無意味かつ考えられないものとなるだろう。この神的要素の承認によって、現実的なもの以外には何もない――事実においても効力においても何もない――という、アリストテレスの一般原理が維持される。この一般原理はデカルトの「われわれが何らかの属性を知覚するとき、われわれはそれゆえに、それが帰属しうる何らかの現存する事物あるいは実体が必然的に存在すると結論する」という言明の根底にもある。この一般原理は〈存在論的原理〉と呼ばれる――あらゆるものは現実性においてどこかに積極的に存在し、可能態においてはあらゆるところに存在する、という原理である。理由の探求とは常に、その理由の担い手である現実的事実の探求である。存在論的原理は、宇宙を多くの現実的存在の連帯として記述することの第一段階を構成する。それぞれの現実的存在は、与件から生じる経験の行為として捉えられ、多くの与件を「感受」し、それらを一つの個体的な「満足」の統一へと吸収する過程である。「感受」とは、与件の客体性から当該の現実的存在の主体性へと移行する、基本的な類的操作を指す語である。感受はさまざまに特殊化された操作であり、主体性への移行を成し遂げる。それらは、ある種のリアリズム哲学者のいう「中立的な素材」に取って代わる。現実的存在は過程であり、「素材」の形態学によっては記述されない。この「感受」という語の用法は、デカルトの「私が光を見、物音を聞き、熱を感じるように思われるということだけは、少なくとも確かである。それは偽ではありえない。厳密に言えば、これこそが私において感受(sentire)と呼ばれるものであり、この精密な意味において、それは思考することにほかならない」という言葉と、とりわけ響き合う。デカルトの言葉で言えば、現実的存在の本質はもっぱら、それが抱握する事物であるという事実のうちにある。「感受」は抱握の肯定的な種に属する。抱握には肯定的種と否定的種の二種がある。現実的存在は、宇宙のあらゆる項目と完全に確定した絆をもつ。この確定した絆こそが、その項目についての抱握である。否定的抱握とは、その項目を、主体自身の真の内的構成への肯定的寄与から確定的に排除することである。肯定的抱握とは、その項目を、主体自身の真の内的構成への肯定的寄与へと確定的に含み入れることであり、この肯定的な含み入れが、その項目についての「感受」と呼ばれる。ある現実的存在にとっての「主体」に相対的な現実世界のあらゆる現実的存在は、その主体によって必然的に「感受」される――一般には漠然とではあるが。感受された現実的存在は、その主体にとって「客体化」されたと言われる。ある主体によって「感受」されるのは、永遠的客体のうちの選ばれた一部のみであり、これらの永遠的客体は、その主体において「進入」をもつと言われる。しかし感受されない永遠的客体も、そのゆえに無視できるわけではない。というのも、いかに些細で微弱であれ、あらゆる否定的抱握はそれ自身の主体的形相をもつからである。それは客体的与件にではなく、情動的複合に付加される。この情動的複合こそが、最終的な「満足」の主体的形相である。否定的抱握の重要性は、(一)現実的存在がたがいの構成に入り込むという意味で一つの体系を形づくること、(二)存在論的原理によりあらゆる存在が何らかの現実的存在によって感受されること、(三)(一)と(二)の帰結として、ある癒合する現実性の現実世界におけるあらゆる存在が、その癒合に対して何らかの段階の実在的な適切性をもつこと、(四)(三)の帰結として、ある存在の否定的抱握が、その情動的な主体的形相をともなう積極的な事実であること、(五)諸抱握の主体的形相のあいだに相互の感応性があり、たがいに無関心ではないこと、(六)癒合が一つの具体的な感受、すなわち満足へと帰結すること、という事実から生じる。

  第II節

経験のうちに、一般理論の実例として示すことが本質的に不可能な要素をまったく見出さない、という望みこそが、合理主義の希望である。この希望は形而上学的な前提ではなく、形而上学を含むあらゆる科学の追求の動機を形づくる信仰である。形而上学がわれわれに事物の合理性を把握させるかぎりにおいて、その主張は正当化される。あらゆる形而上学的体系の不完全性を顧みるとき、われわれはいつでも、自分たちがいままさに立っている、まさにその地点で希望を失う自由をもつ。そのような信仰の保存は、知的な行為の本性についての窮極の道徳的直観――それが希望の冒険を体現すべきである、という直観――に依存せざるをえない。そのような直観こそが、形而上学が、そしてあらゆる科学が、宗教から確信を得て宗教へと移行していく地点を印づける。しかしそれ自体としては、この信仰は理論の出発点となる前提を体現するのではなく、満足を求める一つの理想である。しかしながら、宇宙のあらゆる要素が「理論」によって説明可能だという主張には限界がなければならない。というのも「理論」自体が、理論化のための材料を形づくる「与えられた」要素を要求するからである。プラトン自身がこの限界を認めている。テイラー教授の『ティマイオス』要約によれば、現実の世界には常に、「法則」に加えて、説明されずただ与えられたものとして受け入れられるほかない「単に与えられたもの」あるいは「頑固な事実」という要因が存在する。科学の仕事は、単に与えられたものに満足せず、それをより単純な初期の「与件」の、合理的な法則にもとづく帰結として「説明」しようと試みることにあるが、科学がこの手続きをどれほど推し進めても、事物の説明においては常に、単に与えられたもの、頑固な事実というある要素を保持せざるをえない。合理主義的な思考にとって、「与えられていること」という観念は、当の与件を超えた参照を含んでいる。それは、「与えられている」ものが、その機会にとって「与えられていない」ものから切り離される、一つの〈決定〉を指示する。事物におけるこの「与えられていること」という要素は、限定を確保するある種の活動を含意する。「決定」という語は、ここでは意識的な判断を含意するわけではないが、いくつかの「決定」には意識が一要因として関わることもあるだろう。この語は「切断」という語源的な意味で用いられている。存在論的原理は、あらゆる決定が一つないし複数の現実的存在に帰属可能である、と宣言する。現実的存在から切り離せば、そこには無以外の何もないからである――「あとは沈黙のみ」。存在論的原理は決定の相対性を主張する。あらゆる決定は、決定がそれのためになされる現実的な事物と、決定がそれによってなされる現実的な事物との関係を表現する。しかし「決定」は現実的存在の偶発的な付随物として解されてはならない。それは現実性の意味そのものを構成する。一つの現実的存在は、それのためになされた諸決定から生じ、それ自身の存在によって、それに取って代わる他の現実的存在のための諸決定を与える。したがって存在論的原理は、〈現実的存在〉〈与えられていること〉〈過程〉という諸観念を包摂する理論を構成する第一段階である。「過程への潜勢態」がより一般的な語「存在」あるいは「もの」の意味であるのと同様に、「決定」は、「現実的存在」という句に「現実的」という語が付加する追加の意味である。「現実性」とは、「潜勢態」のただなかにある決定である。それは、回避しえない頑固な事実を表す。一つの現実的存在の真の内的構成は、その現実性を超越する創造性を条件づける決定を、漸進的に構成していく。エディンバラの「城の岩」は、その先行する諸機会という自らの歴史的経路によって成し遂げられた決定という理由によって、瞬間から瞬間へ、そして世紀から世紀へと存在し続ける。もし自然の激変によってそれが粉々に打ち砕かれたとしても、その激変はなお、それが〈まさにあの〉岩の破壊であったという事実によって条件づけられているだろう。強調されるべき点は、経験される事物と経験するという行為との、執拗な個別性である。ブラッドリーの学説――絶対者を性格づける一つの普遍としての「狼が仔羊を食う」――は、証拠の戯画化である。〈あの〉狼が〈あの〉時〈あの〉場所で〈あの〉仔羊を食った――狼はそれを知っており、仔羊はそれを知っており、猛禽たちもそれを知っていた。命題のあらゆる表現は、それを口にする文において明示的に、あるいはそれを抱く主体の理解において暗黙のうちに、指示的な要素を含む。実際、それぞれの語、それぞれの記号的な句は、存在の範疇のいずれかに属する何らかの存在の意識的な抱握を喚起する、そのような要素である。

  第III節

逆に、排除をともなう決定がなければ、与えられていることもない。たとえばプラトン的諸形相の全体的多性は「与えられて」はいない。しかし個々の現実的存在に関しては、そうした諸形相の与えられていることが存在する。それぞれの現実性の確定した限定性は、これらの諸形相からの選択の表現であり、それらを多様な適切性の段階へと格付けする。この適切性の秩序づけは、もっとも十全な意味で例証される諸形相から始まり、現実的事実との対比によってかろうじて近接的に適切であるにすぎない諸形相へと、適切性の諸段階を通じて下降していく。この適切性の全音域が「与えられて」おり、現実性の決定に帰されねばならない。「プラトン的形相」という語は、問題の存在を示すもっとも簡潔な仕方として用いられてきたが、本講義はプラトンの著作の注釈ではなく、問題の存在は必ずしも彼が「形相」として認めるであろうものに限定されない。また「観念」という語は現代哲学において主観的な含意をもち、本講義の目的にとってきわめて誤解を招きやすい。そこで誤解を招く含意をもたない語として、この節前段で「プラトン的形相」と呼んだものに対して〈永遠的客体〉という句を用いる。その概念的な認知が時間的世界のいかなる確定した現実的存在への必然的な指示も含まない存在は、いずれも〈永遠的客体〉と呼ばれる。この定義における「概念的な認知」は、もちろん何らかの現実的存在に属する一つの実在的な感受を構成する操作でなければならない。単に永遠的客体を思念しているにすぎない現実的な主体は、その思念する主体の構成のうちの他のいかなる特異性とも別に、それによって直接、他の何らかの現実的存在との関係のうちに置かれるわけではない、という点が肝心である。この教説は神の原初的本性――永遠的客体についての彼の完全な直視である――にも適用される。神はそれによって、与えられた歴史の経過に直接関係づけられるわけではない。与えられた歴史の経過は神の原初的本性を前提するが、神の原初的本性は歴史の経過を前提しない。永遠的客体は常に現実的存在にとっての潜勢態であるが、それ自体は、概念的に感受されるかぎりにおいて、時間的世界のいかなる特定の現実的存在への物理的な進入という事実に関しても中立である。「潜勢態」は「与えられていること」の相関概念である。「与えられている」の意味は、〈与えられているもの〉は与えられていなかったかもしれず、〈与えられていないもの〉は与えられていたかもしれない、ということである。さらに、ある現実的存在にとっての完全な特定の「与えられていること」には、排他性の要素がある。さまざまな第一次的与件と癒合的な感受は、単なる多性を形づくらない。それらが一つの現実的存在という最終的統一のうちに総合されることも、また「与えられていること」の一つの事実である。現実的存在は、その生成を、宇宙のあらゆる項目との完全に確定した絆――肯定的であれ否定的であれ抱握という絆――を含む一つの複合的な感受において終結させる。この終結が、その現実的存在の「満足」である。したがって別の構成要素の付加は、この総合的な「与えられていること」を変化させる。それゆえいかなる追加的構成要素も、この元の統合的な「与えられていること」に反する。この原理は、絵画の視覚的知覚によって例証できる。色彩のパターンはわれわれにとって「与えられて」いる。しかし余分な一片の赤は、単なる追加を構成するのではなく、全体の均衡を変えてしまう。したがって一つの現実的存在においては、総体の「与えられていること」の均衡のとれた統一が、与えられていないものすべてを排除する。これが〈超主体〉の創発的統一という学説である。現実的存在は、それ自身の生成の直接性を統べる主体としてであると同時に、客体の不滅性という機能を行使する原子的被造物としての超主体として、捉えられねばならない。それは一つの「有」となっており、あらゆる「有」の本性に属するのは、それがあらゆる「生成」にとっての潜勢態である、ということである。この学説――現実的存在の最終的な「満足」はいかなる追加も許さないという学説――が表現するのは、あらゆる現実的存在が、それがそれであるがゆえに、それが省くものについての窮極的な理由を、それ自身のうちにもつ、という事実である。現実的存在の真の内的構成には、常に、省かれた要素に反する何らかの要素がある。ここで「反する」とは、同一の意味における共同の参入の不可能性を意味する。言い換えれば、「満足」からは非確定性が蒸発しており、宇宙のあらゆる要素に関して、「感受」あるいは「感受の否定」の完全な確定が存在する。この非確定性の蒸発は、現実的存在がその与件から生じる過程を、別の観点から捉えたものにほかならない。したがって、また別の意味において、それぞれの現実的存在は、宇宙のあらゆる要素に対するその確定的な態度のゆえに、宇宙を包摂している。かくして生成の過程は両極的である――(一)現実世界の確定性によるその限定と、(二)永遠的客体の非確定性についてのその概念的抱握とによって。この過程は、現実世界を新奇な現実性へと吸収する、感受の新奇な確定性への永遠的客体の流入によって構成される。現実的存在の「形式的」構成は、非確定から終局的な確定へと向かう過程の推移であるが、その非確定は確定した与件を指示している。現実的存在の「客体的」構成は、その終局的な確定であり、その現実的存在が創造的前進にとっての与件であるゆえんの、構成要素の複合として捉えられる。現実的存在は、その物理的側面においては現実世界についてのその確定した感受から成り、その精神的側面においては、その概念的な欲求によって始発される。「与えられていること」と「潜勢態」との相関に立ち戻れば、「与えられていること」は「潜勢態」を、「潜勢態」は「与えられていること」を指示し合っており、ある現実的事実についての「与えられていること」の完成が、その事実にとっての「与えられていないもの」を「不可能なもの」へと転じることが分かる。現実的存在の個体性は排他的な限定を含む。この「排他的限定」という要素こそが、現実的存在の総合的統一にとって本質的な限定性である。この総合的統一は、含まれる諸要素への単なる付加という観念を禁じる。「与えられていること」と「潜勢態」は、潜勢的な諸存在の多性を離れてはいずれも無意味であることが明らかであり、これらの潜勢態こそが〈永遠的客体〉である。「潜勢態」と「与えられていること」を離れては、新奇な現実的事物によって取って代わられつつある現実的事物の結合体は存在しえない。その代替は、実現されていない潜勢態を欠いた、静的な一元論的宇宙であり、そこでは「潜勢態」は無意味な語となってしまうだろう。存在論的原理の射程は、「決定」が一つの現実的存在に帰属しなければならないという系だけに尽きるものではない。あらゆるものはどこかになければならず、ここで「どこか」とは「何らかの現実的存在」を意味する。したがって宇宙の一般的な潜勢態も、どこかになければならない。それは、それが実現されていない現実的存在に対する近接的な適切性を保持し続けるからである。この「近接的な適切性」は、後続の癒合において新奇性の出現を規制する目的因として再現する。この「どこか」こそが、非時間的な現実的存在である。したがって「近接的な適切性」とは「神の原初的な精神における適切性」を意味する。何らかの説明的事実が無からこの現実世界へと漂い込みうる、と想定することは語義矛盾である。無とは無にほかならない。あらゆる説明的事実は、ある現実的な事物の決定と効力とを指示する。「潜存」という観念は、永遠的客体がいかに神の原初的本性の構成要素でありうるかについての、単なる観念にすぎない。しかし神の原初的本性における永遠的客体は、プラトン的な観念の世界を構成する。ただし、あらゆる永遠的客体の単なる〈類〉であるような一つの存在は存在しない。永遠的客体のいかなる類を思念しても、その類を前提しつつもそれに属さない追加的な永遠的客体が存在するからである。この理由により、本節冒頭では「プラトン的諸形相の類」というより自然な句ではなく、「プラトン的諸形相の多性」という句が用いられた。多性とは、その各構成要素にそれぞれ参与する何らかの限定から派生する統一をもつ、複合的な事物の一つの型であるが、多性は、その多様な構成要素のみからは派生する統一をもたない。

  第IV節

いま述べられた学説――あらゆる説明的事実は、ある現実的な事物の決定と効力とを指示する――は、〈範疇的責務〉の第九項に関連して、さらなる検討を要する。この範疇は、「個々の現実的存在の癒合は、内的には決定されており、外的には自由である」と述べる。歴史の経過の特異性は、〈存在論的原理〉とこの範疇的責務との共同の適切性を例証する。歴史の展開は、後継者が先行者によって決定されるという考察によって合理化されうる。しかし他方で、歴史の展開は、参与する諸形相の選び取られた流動を示すという点で、合理化不可能である。なぜまさにその流動が――別の流動ではなく――例証されたのかについて、歴史に内在する理由を与えることはできない。いかなる流動も内的決定という性格を示さねばならないことは事実であり、それは存在論的原理から帰結する。しかし内的決定のあらゆる事例は、その地点までの〈その〉流動を前提している。その内的決定の原理を例証する別の代替的な流動がありえない理由はない。現実の流動は、単に「与えられている」という性格をもって現れる。それは何ら特異な「完全性」の性格を示さない。それどころか、世界の不完全性こそは、逃れる道を提供するあらゆる宗教の主題であり、蔓延する迷信を嘆くあらゆる懐疑論者の主題である。「可能な世界のうちの最善のもの」というライプニッツの学説は、同時代および先行する神学者たちが構築した創造主の面目を保つために作られた、大胆なごまかしである。さらに、われわれにその直接経験がもっとも完全に開かれている現実性――すなわち人間――の場合、主体的目的の窮極的な修正を構成する、直接の主体・超主体の最終的決定こそが、責任・是認あるいは不是認・自己是認あるいは自己叱責・自由・強調についてのわれわれの経験の基盤である。この経験の要素はあまりに大きく、単なる誤解として片づけることはできない。それは人間の生の全体の調子を統べている。それは事実あるいは虚構からの際立った実例によってしか例証できないが、それらの実例は、あらゆる時間・あらゆる瞬間における人間経験の、際立った例証にすぎない。あらゆる決定を超えたところにある事物の窮極の自由は、ガリレオによって囁かれた――「それでも地球は動く」――異端審問官たちが誤って考える自由、ガリレオが正しく考える自由、そして異端審問官たちにもかかわらず世界が動く自由。有機体の哲学の学説によれば、作用因の領域が、癒合を構成する要素――その与件、その情動、その評価、その目的、その主体的目的の諸相――の決定において、どれほど遠くまで押し進められようとも、これらの構成要素の決定を超えて、宇宙の自己創造的統一の最終的な反応が常に残る。この最終的な反応が、作用因の決定のうえに創造的な強調という決定的な刻印を押すことによって、自己創造的な行為を完結させる。それぞれの機会は、その主体的強度の測度に比例して、その創造的強調の測度を示す。そのような強度の絶対的な標準は、神の原初的本性の標準であり、それはいかなる現実世界からも生じないがゆえに、大きくも小さくもない。それはそのうちに比較の標準となる構成要素をもたない。しかし時間的世界における、相対的に軽微な経験強度をもつ諸機会にとっては、その創造的強調の決定は、それらが受け取り伝達する決定された構成要素と比べれば、個々には無視しうるものである。しかしそうしたあらゆる決定の最終的な集積――神の本性の決定とあらゆる機会の決定――が、歴史における諸形相の流動のうちの、あの特別な要素を構成する。それは「与えられて」おり、そのうちで決定可能なあらゆる構成要素が内的に決定されているという事実を超えては、合理化不可能である。この学説はまた、それぞれの癒合は、一つの確定した自由な始発と一つの確定した自由な結論とに帰されねばならない、というものである。始発の事実は、あらゆる機会に等しく適切であるという意味で大宇宙的であり、最終の事実は、その機会に固有であるという意味で小宇宙的である。いずれの事実も、それを決定する先行諸条件を辿るという意味での合理化を許さない。始発の事実は原初的な欲求であり、最終の事実は、最終的に「満足」を創造する強調の決定である。

  第V節

「普遍」と「特殊」という対立語は、ここで〈永遠的客体〉および〈現実的存在〉と呼ばれる存在に、正確にではないがほぼ対応する存在を、それぞれ指すために用いられる、通常の語である。これら「普遍」と「特殊」という語は、その語の示唆性においても現行の哲学的用法においても、いくぶん誤解を招く。本講義の形而上学的な議論が基盤とする存在論的原理と、より広い普遍的相対性の学説は、普遍であるものと特殊であるものとの鋭い区別を曖昧にする。普遍という観念は多くの特殊のうちに記述として入り込みうるものであり、特殊という観念は諸普遍によって記述されるが、それ自身は他のいかなる特殊の記述にも入り込まない、というものである。本講義の形而上学的体系の基盤である相対性の学説によれば、これら両方の観念は誤った理解を含んでいる。現実的存在は、たとえ不十分にであれ、諸普遍によって記述されることはできない。というのも、他の現実的存在が、ある一つの現実的存在の記述に入り込むからである。したがって、いわゆる「普遍」はいずれも、他のあらゆるものと異なる、まさにそれがそれであるものであるという意味において特殊であり、いわゆる「特殊」はいずれも、他の現実的存在の構成に入り込むという意味において普遍である。これに反する見解こそが、デカルトの多くの実体からスピノザの一つの実体への崩壊、ライプニッツの窓をもたないモナドとその予定調和、そしてヒュームの哲学の懐疑論的還元――ヒューム自身によって最初に遂行され、サンタヤナが『懐疑主義と動物的信仰』でこのうえなく美しい叙述とともに再提示した還元――へと至らしめた。現行の普遍と特殊の見解は、必然的にデカルトが述べた認識論的立場へと至る。デカルトは、窓から男たちが通りを歩いているのを見ると言うとき、実際には彼らを見ているのではなく、見ているものが人間であると推論しているにすぎない、帽子と外套しか見えていないのに、それを人間だと判断している、と述べる。この一節では、問題のエゴであるデカルトが、諸普遍によってのみ性格づけられる一つの特殊である、と想定されている。したがって彼の印象――ヒュームの語を用いれば――は、諸普遍による性格づけである。したがって特殊な現実的存在の知覚は存在しない。彼は「判断の能力」によって現実的存在の存在を信じるに至る。しかしこの理論のもとでは、彼はそのような推論をわずかなりとも根拠づける類比を、まったくもたない。ヒュームは、この一節におけるデカルトの知覚の説明――それはロックの『人間知性論』のいくつかの節にも見られる――を受け入れ、容易に懐疑論的な結論を導き出す。有機体の哲学は、デカルトのもう一つの学説である「客観的実在性(レアリタス・オブイェクティーワ)」に立ち戻り、それを一貫した存在論の言葉で解釈しようと試みる。デカルトはこの二つの理論を統合しようとしたが、主語・述語という教義への彼の無批判な受容が、彼を、神の力と善性へのわれわれの確信によって正当化される「判断(ユディキウム)」を含む、代表説的な知覚理論へと押しやった。有機体の哲学は、抱握についてのその説明において、デカルトの「客観的実在性」「検視(インスペクティオ)」「直観(イントゥイティオ)」という語のうえに立つ。後の二つの語は、「肯定的抱握」という観念へ、そして物理的・概念的な発生の諸範疇において記述される諸操作へと、それぞれ変換される。物理的抱握と概念的抱握とを媒介するためには、なお神という観念への回帰が必要とされるが、それは「ユディキウム」に限定された信用状を与えるという粗雑な形においてではない。ヒュームは実質的に、精神とは第一次的与件から生じる癒合の過程である、と同意している。彼の説明では、この与件は「感覚の印象」であり、そうした印象のうちには諸普遍以外のいかなる要素も見出されない。有機体の哲学にとって、第一次的与件は常に現実的存在であり、それは、客体化された現実性と経験する主体との両方に共有される、ある種の諸普遍のゆえに、感受のうちに吸収される。デカルトは中間的な立場を取る。彼はヒューム的な語法で知覚を説明しつつ、精神によって成し遂げられる「検視」と「判断」のゆえに、特殊な現実的存在の把握を付け加える。ここで彼はカントへの道を、そして世界を「単なる現われ」へと格下げする道を、切り開いている。近代哲学のすべては、世界を主語と述語、実体と性質、特殊と普遍という言葉で記述することの困難を軸に回っている。その結果は常に、われわれが行為・希望・共感・目的のうちで表現し、それについての言語的分析の言い回しを欠きながらもなお享受している、あの直接経験に対する暴力となる。われわれは、仲間の被造物たちの民主制のただなかにある、ざわめく世界のうちに自らを見出す。それに対し、正統派の哲学は、何らかの装いのもとで、孤立した実体たち――それぞれが幻想的な経験を享受する――のもとへとわれわれを導くにすぎない。真の分岐点は、「特殊」と「普遍」という語の自然な意味の対照が示唆する、誤った観念にある。「特殊」はこうして、他のいかなる特殊への必然的な適切性ももたない、それ自身の個体的自己にすぎないものとして捉えられる。それはデカルトの実体の定義に応える――「実体を考えるとき、われわれはただ、存在するために自分自身以外の何も必要としない、一つの現存する事物を考えるにすぎない」。この定義は、アリストテレスの定義――第一実体とは「主語について述べられることも、主語のうちに現前することもない」もの――からの真正な派生である。普遍的相対性の原理は、アリストテレスの格言「(実体は)主語のうちに現前しない」に真っ向から反する。それどころか、この原理によれば、一つの現実的存在は他の現実的存在のうちに現前している。実際、適切性の程度と無視しうる適切性とを考慮に入れるならば、あらゆる現実的存在はあらゆる他の現実的存在のうちに現前している、と言わねばならない。

  第VI節

ロックの『人間知性論』を短く検討することは、有機体の哲学がそこから出発する前提に光を当てるだろう。ロックからのこれらの引用は、常識の明白な所見を、その自然な限界とともに明晰に述べたものとして価値がある。それらは、いかなる満足のいく哲学体系によっても受け入れられなければならない事実の提示として、これ以上によくすることはできない。まず注目すべきは、ロックのいくつかの言明が、ここで展開されている型の有機体の哲学の明示的な定式化に、きわめて近づいている、という点である。彼が自らの問題が、彼が実際に行った以上に伝統的な範疇の徹底的な改訂を要求することに気づかなかったことだけが、言明の曖昧さと、非一貫的な要素の侵入とを招いた。このロックの保守的な側面こそが、ヒュームによる彼の懐疑論的な転覆をもたらした。ヒュームもまた、その『人性論』における明示的な否認にもかかわらず、徹底した保守派であり、精神性とその内容の説明において、長い中世を通じたアリストテレス論理学への過度の強調によってヨーロッパの精神に刻み込まれた、主語・述語の思考習慣から離れることは決してなかった。ロックの『人間知性論』の美点は、その適合性にあり、その一貫性にはない。彼は、常識が決して見逃さない経験のさまざまな要素について、もっとも公平な記述を与えている。不幸にも彼は、決して批判することのなかった不適切な形而上学的範疇によって、束縛されている。彼はその書物の題名を『経験論』へと広げるべきであった。彼の真の主題は、一つの現実的存在が享受する経験の諸類型の分析である。しかしこの完全な経験こそが、その現実的存在がそれ自身にとって、それ自体であるところのものにほかならない。われわれは前カント的な言い回しを採用し、ある現実的存在が享受する経験を、その存在をフォルマリテル(形相的に)捉えたものと呼ぶことにしよう。これが意味するのは、その存在が「形相的に」考察されるとき、それがまさにその個体的存在であり、それ自身の絶対的な自己実現の尺度をもつような、その構成の諸形相に関して記述される、ということである。その「事物の観念」とは、他の事物がその存在にとって〈何であるか〉である。本講義の言い回しでは、それらはその存在の「感受」である。現実的存在は複合的で分析可能であり、その「観念」は、他の事物がいかに、どのような意味で、その存在自身の構成における構成要素であるかを表現する。したがってその構成の形相は、ロック的な観念の分析によって見出されうる。ロックは「理解」や「知覚」について語るが、彼は、宇宙の多くの事物が一つの現実的存在になる、その総合的な癒合を表現する、より一般的で中立的な語から出発すべきであった。そこでわれわれは、現実的存在が他の事物のそれ自身への癒合を成し遂げる活動を表現する語として、〈抱握〉という語を採用した。ある現実的存在による他の現実的存在の〈抱握〉とは、完全な取り引きであり、前者の存在の後者にとっての与件の一つとしての客体化と、その与件が主体的満足のうちに吸収される、十分に「装われた」感受とへと分析される――「装われた」とは、その「主体的形相」のさまざまな要素で装われている、という意味である。しかしこの定義は、より一般的に、現実的存在による永遠的客体の抱握の場合をも含むように述べることができる。すなわち、ある現実的存在によるある存在の「肯定的抱握」とは、感受のための与件としてのその存在の進入あるいは客体化と、その与件が主体的満足のうちに吸収される感受とへと分析される、完全な取り引きである。ロックの「観念」という語もここでは放棄される。その代わりに、当該の現実的存在にとっての限定された役割における他の事物は、その事物にとっての「客体」と呼ばれる。客体には四つの主要な型がある――〈永遠的客体〉〈命題〉〈客体化された現実的存在〉〈結合体〉である。これらの〈永遠的客体〉は、ロックが『人間知性論』第一巻第一章第一節で説明した「観念」――「観念とは思考の対象である。誰もが、自分が考えていること、そして考えているあいだ精神が携わっているものが、そこにある観念であることを、自ら意識している」――にほかならない。しかし後に、一般的な語を論じる箇所で(また「実体」を論じる箇所でも暗黙のうちに)、彼は、実質的にわたしが「客体化された現実的存在」および「結合体」と呼ぶものに等しい、別の型の観念を挿入的に加えている。彼はそれらを「特殊な事物の観念」と呼び、そうした観念がなぜ一般に固有の名称をもちえないかを説明する。理由は単純で否定しがたい――現実的存在があまりに多すぎるのである。この、ある現実的存在についての直接の「観念」(あるいは「感受」)という観念は、あらゆる常識の前提であり、サンタヤナはそれを「動物的信仰」に帰する。しかしそれは、ロックの著作の他の部分から導出されうる感覚論的な知識論とは、きわめて相性が悪い。ロックとデカルトはいずれも、まったく同じ困難と格闘している。われわれが採用する原理は、意識が経験を前提するのであって、経験が意識を前提するのではない、というものである。意識は、いくつかの感受の主体的形相における特殊な要素である。したがって現実的存在は、その経験の一部を意識するかもしれないし、しないかもしれない。その経験とは、その意識をも含む、その完全な形相的構成である。この意味でロックの言い回しにおける「特殊な事物の観念」とは、その構成の感受された構成要素としての機能を果たす、他の事物のことである。ロックがそれらを「観念」と呼ぶのは、それらの客体化が、意識によって照らし出された経験の領域に属する場合のみである。ロックとその時代――十七・十八世紀――の哲学者たちは、一つの根本的な誤解によって誤り導かれている。それは、論理的単純性が、経験する機会を構成する過程における優先性と同一視できる、という無意識の、無批判な想定である。ロックの『人間知性論』のもっとも組織された哲学への接近と、その学説の観点からの彼の主要な見落としとは、彼の「実体についてのわれわれの複合観念について」という章の第一節によってもっともよく例証される。この節でのロックの最初の言明――「精神は、感覚によって外部の事物のうちに見出されるままに伝えられる、あるいは自らの働きへの反省によって伝えられる、多数の単純観念を備えており」――は、有機体の哲学の第一次の想定そのものである。ここでの最後の句「それらが外部の事物のうちに見出されるままに」は、後にわたしが第一次的感受の「ベクトル的」性格と呼ぶことになるものを主張している。ここに関わる諸普遍がその地位を得るのは、「それらが外部の事物のうちに見出される」という事実による。これはロックの主張であり、有機体の哲学の主張でもある。それはまた、デカルトの「客観的実在性」の学説の展開として捉えることもできる。諸普遍は、概念によって記述可能な与件のうちの唯一の要素である。なぜなら概念とは、諸普遍の分析的な機能にほかならないからである。しかし「外部の事物」は、その個体的な特殊性に関しては概念によって表現不可能であるとはいえ、感受にとっての与件であることに変わりはない。したがって癒合する現実性は、その個体的な特殊性という地位を感受することから生じ、その特殊性は、感受がそこから起源し、感受が関わる一要素として含まれる。ロックの文はさらに、「これらの単純観念のうちのある一定数が、常に一緒になっている」と続く。これが意味しうるのは、直接の知覚において、これら一定数の単純観念が、一つの外部の事物のうちに一緒に見出される、ということ、そして先行する経験の瞬間の想起が、同じ一組の単純観念について、外部の事物における共在という同じ事実が成り立つことを開示する、ということだけである。有機体の哲学もまた、この記述が直接経験の瞬間について真であることに同意する。しかしロックは、その第二の前提を「常に一緒になっている」という句のもとに覆い隠しているため、継起する諸瞬間の「外部の事物」が同一視されるべきかどうか、という問いを検討し損ねている。有機体の哲学の答えは、ロックがここで語っている意味における継起する諸瞬間の外部の事物は、たがいに同一視されるべきではない、というものである。それぞれの外部の事物は、一つの現実的存在であるか、あるいは(より頻繁には)相互に同時的な直接性をもつ現実的存在の結合体である。単純化のため、ここでは「外部の事物」が問題の瞬間における一つの現実的存在を意味する、より単純な場合のみを扱う。しかしロックが明示的に関わっているのは、何年も、あるいは何秒も、あるいは何世紀も持続する、一つの持続する物理的な身体の自己同一性という観念である。彼が考察しているのは、変化あるいは偶有性のただなかでその実体的形相を保持しつつ変化の冒険を被る、(アリストテレス的な意味における)個体化された特殊な実体という、当時の哲学的観念である。彼は『人間知性論』を通じて、その曖昧さと不明瞭さを正しく指摘しながらも、事実上この観念を保持し続けている。有機体の哲学は、ロックとヒュームに同意して、個体化されていない実体的形相とは、継起する瞬間における「外部の事物」の連続に共通する、諸普遍の集合――より正確には一つの複合的な普遍――にほかならない、とする。言い換えれば、一つの「外部の事物」とは、一つの「現実的存在」であるか、あるいは規定的性格をもつ一つの「社会」である。有機体の哲学にとって、(前者の意味における)これらの「外部の事物」こそが、窮極の具体的な現実性である。ロックの個体化された実体は、最初の「事物」から最後の「事物」へと連なる、何らかの根本的な「外部の事物」の社会によって構成される歴史的経路として、解されなければならない。

  第VII節

ロックにはもう一つの側面がある。それは彼の〈力〉の学説である。この学説は、彼の一貫性よりも、その驚くべき適合性のよりよい例証である。ヒュームが証明したように、そのような学説は純粋に感覚論的な哲学とは両立しない。そのような哲学の確立は、ロックから派生してはいるが、彼の明示的な目的ではなかった。あらゆる哲学の学派は、その歴史の過程で二人の主宰する哲学者を必要とする。一人は、その学派の主要な学説の影響のもとで、経験をある程度の適合性をもって、しかし非一貫的に見渡す者であるべきである。もう一人は、その学派の学説を厳格な一貫性へと還元する者であり、それによって背理法を成し遂げるだろう。いかなる思想の学派も、これら二人の人物が現れるまでは、哲学への完全な奉仕を果たしたことにならない。このようにして、感覚論的経験論の学派は、ロックとヒュームからその重要性を引き出す。ロックは、感覚によって、外部の事物における単純観念の変化について日々知らされる精神が、あるものが終わり別のものが始まることに気づき、また自らの内部で起こることを反省し、観念の恒常的な変化を観察し、同様の変化が将来も同様の主体によって同様の仕方で生じるだろうと結論することによって、あるものにおいてその単純観念のいずれかが変化する可能性と、別のものにおいてその変化を引き起こす可能性とを考察し、こうして「力」と呼ばれる観念に到達する、と説明する。たとえば火は金を溶かす力をもち、金は溶かされる力をもつ、というように。この重要な一節において、ロックは有機体の哲学の主要な学説――相対性の原理、諸現実的存在がたがいにとっての客体化の形相を構成する、永遠的客体の関係的性格、一つの現実的存在(実体)の複合的性格、「力」という観念が現実的存在(実体)の観念における主要な構成要素をなすという観念――を打ち出している。この後者の観念において、ロックは、存在論的原理と、ある現実的存在の他への「力」が単に、前者が後者の構成のうちにいかに客体化されるかにほかならない、という原理との、両方を予兆している。したがって知覚の問題と力の問題は、少なくとも知覚が現実的存在の単なる抱握へと還元されるかぎりにおいて、一つの同じ問題である。そのような抱握の意識としての知覚は、永遠的客体の概念的抱握という追加の要因と、この二つの要因の統合の過程とを要求する。ロックの「力」の学説は、有機体の哲学において、二つの型の客体化の学説――(α)「因果的客体化」と(β)「現前的客体化」――によって再現される。「因果的客体化」においては、客体化される現実的存在によって主体的に感受されるものが、それに取って代わる癒合的な諸現実性へと、客体的に伝達される。ロックの言い回しでは、この場合、客体化される現実的存在は「力」を行使している。この型の客体化においては、客体と主体とのあいだの関係的な永遠的客体が、客体化される現実的存在の形相的構成を表現する。「現前的客体化」においては、関係的な永遠的客体は二つの組に分かれる――一方は知覚者の位置からの、知覚されるものの「延長的」遠近法によって寄与され、他方は知覚者の先行する癒合的諸相によって寄与される。通常「知覚」と呼ばれるものは、現前的客体化についての意識である。しかし有機体の哲学によれば、両方の型の客体化についての意識がありうる。この両方の型についての意識がありうるのは、この哲学によれば、知りうるものが、知る者の完全な本性――少なくとも、その知るという操作に先行する諸相――だからである。ロックは一つの本質的な学説を見落としている。すなわち、内的関係の学説は、いかなる現実的存在にも「変化」を帰属させることを不可能にする、という学説である。あらゆる現実的存在は、それがそれであるところのものであり、他の現実的存在への内的関係によって決定された、宇宙における確定した地位とともにある。「変化」とは、進化しつつある現実的事物の宇宙における、永遠的客体の冒険の記述である。内的関係の学説は、見落とせば誤りとなる、もう一つの考察をもたらす。ロックは事物の「実在的本質」と「名目的本質」を考察する。しかし、現実的な事物のあいだの一般的な相対性と、これらの関係の内在性という理論のもとでは、「実在的本質」という語のもとに、いずれも重要な二つの異なる観念が隠されている。有機体の哲学の根本的な観念は、ロックの句「いくつかの単純観念が共存するその根底には、何らかの実在的な構成がなければならないことは疑いを容れない」のうちに表現されている。有機体の哲学において、ロックの明示的な言明を超え出て、実在的な構成という観念は、永遠的客体が、当該の現実的存在を構成するものとして多くの現実的存在を導き入れることによって機能する、ということを意味すると解される。したがってその構成が「実在的」なのは、それが当該の現実的存在にその実在世界における地位を割り当てるからである。言い換えれば、現実的存在は、それが〈何であるか〉のゆえに、また〈どこにあるか〉でもある。それがどこかにあるのは、それが相関する現実世界をもつ何らかの現実的な事物だからである。これは、デカルトの学説――「存在するために、それ自身以外の何ものも必要としない、一つの現存する事物」――への直接の否定である。それはまたアリストテレスの句――「主語について述べられることも、主語のうちに現前することもない」――とも一致しない。ロックがこうして有機体の哲学のために展開された、彼自身の言葉の含意を明示的に把握していた、と主張しているのではない。しかし不用意な句から洞察の閃きへの距離は短く、ロックが後続の追随者たちの何人かよりも、形而上学的な諸問題をより深く見通していたとしても不思議ではない。しかしロック自身の念頭にあったことの問題は措くとして、「有機体の学説」は、当該の現実的存在を形成する現実的存在の関係と相互関係との完全な分析という意味における「実在的本質」と、特定された現実的存在が、そのような組み合わせにおける非特定の存在という観念に置き換えられる「抽象的本質」とを要求する。これは非特定の現実的存在という観念である。したがって実在的本質は、特定された現実的存在の実在的な客体化を含み、抽象的本質は一つの複合的な永遠的客体である。同一の抽象的本質をもつ多くの現実的存在という思念には、自己矛盾は何もない。しかし同一の実在的本質をもちうる現実的存在は、ただ一つしかありえない。というのも実在的本質は、その存在が〈どこに〉あるか――すなわちその実在世界における地位――を示すのに対し、抽象的本質はその地位の個別性を省いているからである。有機体の哲学は、事実への訴えかけにおいて、こうしてジョン・ロックの洞察への訴えかけによって、自らを支持することができる。ロックはイギリス哲学において、その生涯の時代、その個人的資質、その経験の広さ、そして対立する諸直観についての公平な言明において、プラトンに対応する存在である。有機体のこの学説は、世界を、それぞれがそれ自身の絶対的な自己達成をもつ、個々の現実的存在の生成の過程として記述する試みである。個体のこの具体的な終局性は、それ自身を超えたところを指示する一つの決定にほかならない。個体的な絶対性の「絶えざる消滅」は、こうして初めから運命づけられている。しかし絶対性の「消滅」こそが〈客体の不滅性〉の達成である。この最後の観念は、有機体の学説におけるさらなる要素――生成の過程は現実的存在の言葉で記述されるべきである、という要素――を表現している。

 第二章 拡がりの連続体

  第I節

まず、世界の「拡がり的」関係――空間の拡がりと時間の拡がりの両方を含む――について、明晰かつ判明な意識が成り立つ知覚様態を考察しなければならない。少なくとも空間に関するこの明晰さは、感覚を通じた通常の知覚においてのみ得られる。この知覚様態は、ここでは〈現前的直接性〉と呼ばれる。この様態においては、同時代の世界が、拡がり的関係の連続体として意識的に抱握される。ヨーロッパ思想のいくつかの主要な観念が、前世紀の科学的進歩によって部分的にしか正されなかった、一つの誤解の影響のもとで組み立てられてきたことは、いくら強調してもしすぎることはない。この誤りは、単なる潜勢態と現実性との混同にある。連続性は潜勢的なものに関わり、現実性は治しがたく原子的である。この誤解は、物理的関係に関するかぎり、同時代の出来事はたがいに因果的に独立して生じる、という原理が見過ごされることによって助長される。この原理は、同時代の現実的存在の世界についてのわれわれの知覚の性格において例証される。その同時代世界は、われわれにとって「客観的実在性」として客体化され、色・音・身体感覚・味・匂いといった性質、および拡がり的な関係によって導入される遠近法とともに、感覚与件の相違によって区別される、単なる延長を例証する。これらの性質は、同時代の現実的存在がわれわれの構成の要素であるための関係的な永遠的客体であり、この型の客体化は「現前的客体化」と呼ばれる。こうして同時代の独立性の原理のゆえに、同時代の世界は受動的な潜勢態という相のもとでわれわれに客体化される。その部分を区別する感覚与件そのものが、われわれ自身の身体の先行する諸状態によって供給され、その同時代空間における分布もそうである。したがって同時代世界についてのわれわれの直接知覚は、(一)われわれ自身の幾何学的遠近法、(二)他の同時代の存在たがいの相互遠近法の可能性、(三)分割の可能性、という延長性へと還元される。これらの分割の可能性が、外部世界を一つの連続体たらしめる。連続体とは可分的なものであり、同時代世界が現実的存在によって分割されているかぎり、それは連続体ではなく原子的である。したがって同時代世界は、その現実の原子的な分割においてではなく、その延長的分割の潜勢態とともに知覚される。感覚によって知覚される同時代世界は、同時代の現実性にとっての与件であり、それゆえ連続的――可分的だが分割されていない――である。同時代世界は事実上、確定した現実的存在の多性として、分割され原子的である。これらの同時代の現実的存在はたがいに分割されており、それら自身は他の同時代の現実的存在へとさらに分割可能ではない。同時代の現実的存在が、当該の主体の「形相的」存在に対して適切でありうる、その仕方のこの限定は、客体化が客体化される存在の完全な構成を、無関連へ、あるいは従属的な関連へと追いやる、という一般原理の最初の例である。客体化される存在のうちの何らかの実在的な構成要素が、その特定の存在が主体の経験における与件であることの、その仕方を担う役割を引き受ける。この場合、客体化された同時代者たちは、拡がりの連続体である一つの与件から生じるという、その性格においてのみ、主体に直接適切である。それらは事実この連続体を原子化するが、それらが含み実現する原初の潜勢態こそが、それらの客体化における適切な要因として、それらが寄与するものである。それらはこうして、同時代の現実性たちの共同体を、数学的関係をもつ一つの共通世界として示す――ここで「数学的」という語は、純粋数学の真の定義が近代に発見される以前、プラトン、ユークリッド、デカルトが理解していたであろう意味で用いられている。拡がりの連続体の単なる数学的潜勢態は、主体にとっての実在的な客体としての役割を引き受けるために、追加的な内実を必要とする。この内実は、感覚与件と呼ばれる永遠的客体によって供給される。これらの存在は主体の経験にとって「与えられて」いる。その与えられていることは、こうして客体化される同時代の諸存在の「決定」から生じるのではない。それは主体の先行する物理的身体の機能作用から生じ、この機能作用はさらに、主体とその同時代の現実的存在との両方に共通する、より遠い過去の影響を表現するものとして分析されうる。したがってこれらの感覚与件は、複合的な関係的役割を演じる永遠的客体である――それらは過去の現実的存在と同時代世界の現実的存在とを結びつけ、それによって同時代の事物と過去の事物との客体化を成し遂げる。たとえばわれわれは同時代の椅子を見るが、それをわれわれの目で見る。われわれは同時代の椅子に触れるが、それをわれわれの手で触れる。したがって色は椅子を一つの仕方で、目をまた別の仕方で客体化する――主体の経験における要素として。同様に触覚は椅子を一つの仕方で、手をまた別の仕方で客体化する。しかし目と手は過去(ほとんど直接の過去)にあり、椅子は現在にある。こうして客体化された椅子とは、一つの結合体としての統一における、現実的存在の同時代の結合体の客体化である。この結合体は、その遠近法的関係をともなう空間的領域によって、その構成に関して例証される。この領域は事実、その結合体の成員によって原子化されている。変換の範疇の作用によって、客体化においては、成員の多性から、そしてこの領域の占有を除くその形相的構成のあらゆる構成要素から、抽象がなされる。この抱握は、いま考察されている特定の例では「椅子像」の抱握と呼ばれよう。もし「実在の椅子」が存在するなら、この環境における結合体から結合体への客体化の、もう一つの歴史的経路が存在するだろう。それぞれの結合体の成員はたがいに同時代的であるだろう。この歴史的経路はまた椅子像である結合体へと至るだろう。この歴史的経路と椅子像とから構成される完全な結合体は、一つの「粒子的」社会を形づくる。この社会が「実在の椅子」である。もし椅子と身体との歴史経路のあいだの馴染みの相関が満たされないならば、われわれは自分の知覚は錯覚的であると言いがちである。しかし「錯覚的」という語は、われわれが直接知覚したものを直接知覚しなかったことを意味すると誤解されてはならない。ある確定した幾何学的遠近法における直接の延長的形状についての、感覚を介したわれわれの直接知覚は、窮極の事実であり続ける。誤っているのはわれわれの推論である。錯覚性の程度には段階があり、椅子像を見て実際に椅子がある非錯覚的な場合、鏡を見ていた部分的に錯覚的な場合、薬物によって歴史的な対応物をまったくもたない場合まで、さまざまな段階が存在する。この議論の結論は、感覚与件の永遠的客体としての進入は、日常の言い回しでその感覚与件を性質として帰属させる、単純な現実的存在の客体化として解されてはならない、というものである。この進入は複合的な関係を含んでおり、感覚与件は、過去のいくつかの存在(たとえば目で見られる色や内臓から相続される不機嫌)が客体化される際の「与えられた」永遠的客体として現れ、同時に同時代世界における現実的存在の社会の客体化にも入り込む。動物身体は、先行する既定の世界のうちのもっとも密接に適切な一部分にすぎない。

  第II節

この〈現前的直接性〉の説明は、二つの形而上学的前提を要求する。第一に、既に定まり現実化した存在の共同体であるかぎりにおいて、現実世界はそれ自身を超えた創造性の潜勢態を条件づけ限定する、ということである。この「与えられた」世界は、その現実的存在の性格が供給しうる自己自身の客体化という形で、確定した与件を提供する。これは、単にその本性の一般性に関して考察された永遠的客体によって提供される、一般的潜勢態に課される限定である。したがってあらゆる現実的存在に相対的に、既定の現実的存在からなる「与えられた」世界と、その立脚点を超えた創造性のための与件である「実在的」潜勢態とが存在する。この与件は、現実的存在を構成する過程の第一次相であり、感受される過程にとっての可能性という性格における現実世界そのものにほかならない。これは、あらゆる「有」が「生成」にとっての潜勢態である、という形而上学的原理を例証する。したがってわれわれは常に潜勢態の二つの意味を考察しなければならない――(a)永遠的客体の多性によって提供される、たがいに整合的あるいは択一的な可能性の束である「一般的」潜勢態と、(b)現実世界によって提供される与件によって条件づけられる「実在的」潜勢態である。一般的潜勢態は絶対的であり、実在的潜勢態は、現実世界が定義される立脚点として取られる何らかの現実的存在に相対的である。「現実世界」という句は「昨日」「明日」と同様、立脚点に応じてその意味を変えることを忘れてはならない。現実世界は常に、〈神〉と呼ばれる原初的な現実的存在と時間的な現実的存在とを含む、あらゆる現実的存在の共同体を意味しなければならない。この形而上学的議論のごく初期の段階においてすら、近代物理学の「相対性理論」の影響が重要であることは、注目に値する。古典的な「唯一系列的」な時間観によれば、二つの同時代の現実的存在は同一の現実世界を定義する。近代的見解によれば、いかなる二つの現実的存在も同一の現実世界を定義しない。現実的存在は、いずれもが他方によって定義される「与えられた」現実世界に属さないとき、「同時代的」と呼ばれる。第二の形而上学的前提は、あらゆる立脚点に相対的な実在的潜勢態が、一つの拡がりの連続体の多様な限定として、共に秩序づけられている、ということである。この拡がりの連続体は一つの関係的複合体であり、あらゆる潜勢的な客体化がそこに自らの場所を見出す。それは過去・現在・未来を通じて全世界の根底にある。電子・陽子・分子・星系という現在の宇宙時代にのみ固有の追加的条件を離れて、その完全な一般性において考察するならば、この連続体の性質はごくわずかであり、計量幾何学の諸関係を含まない。拡がりの連続体は「実在的」である。それが現実世界から導出され、同時代の現実世界に関わる事実を表現するからである。あらゆる現実的存在はこの連続体の限定にしたがって関係づけられ、未来のあらゆる可能な現実的存在は、既に現実化した世界との関係において、これらの限定を例証しなければならない。現実的存在はこの拡がりの連続体を原子化する。この連続体はそれ自体としては単に分割の潜勢態にすぎず、現実的存在がこの分割を実行する。この連続体はすべての現実的存在において現前しており、それぞれの現実的存在がこの連続体に浸透している。この結論は次のようにも述べられる。延長とは、その空間化・時間化を離れれば、多くの客体が一つの経験の実在的統一へと溶接されうる能力を提供する、一般的な関係の図式である。したがって、経験の一つの行為は、それ自身の遠近法的立脚点が延長的内実をもち、また他の現実的存在がその延長的関係を保持したまま客体化される、という二重の事実のゆえに、客観的な延長的秩序の図式をもつ。これらの延長的関係は、より特殊な空間的・時間的関係よりも根本的である。延長とは、あらゆる他の有機的関係の背景を提供する、実在的潜勢態のもっとも一般的な図式である。時間に関しては、この原子化は「エポック的な時間理論」という特殊な形態を取る。空間に関しては、時間的世界のあらゆる現実的存在は、その遠近法的立脚点として一つの空間的体積を与えられねばならない、ということを意味する。これらの結論は、現実的存在が経験の一つの行為であるという前提との関連での、ゼノンの論法の考察によって要求される。ウィリアム・ジェイムズの権威を、この結論の支持として引くことができる。ゼノンの「飛ぶ矢」は、「生成」において何か(真なる事物)が生成するということと、あらゆる生成の行為は、それ自体が生成の行為である、より早いものとより遅いものへと分割可能である、という二つの前提から矛盾を引き出す。一秒間にわたる生成の行為を考えてみよう。その行為は二つの行為に分割可能であり、一方はその秒の前半、他方は後半においてである。したがって秒全体を通じて生成するものは、最初の半秒間に生成するものを前提する。同様に最初の半秒間に生成するものは最初の四分の一秒間に生成するものを前提し、これが無限に続く。したがって、問題の秒の始まりまでの生成過程を考察し、そこで何が生成するかと問うならば、答えることはできない。あらゆる被造物は、その秒の始まりの後、その被造物より早く生成した被造物を前提するからである。したがって、問題の秒への移行を成し遂げるような、生成するものは何も存在しない。この困難は、時間の非延長的な瞬間ごとに何かが生成すると想定しても回避されない。ゼノンの「アキレスと亀」は、無限収束数列の理論についての無知に依拠する、妥当でない論法である。最初の半秒間を一つの生成の行為、次の四分の一秒間を別の行為、というように、無限に続けて考えてみよう。ゼノンは、この無限の生成行為の系列が決して汲み尽くされない、と不当に想定する。しかし単純な算術は、いま示した系列が一秒間のうちに汲み尽くされることを保証する。この論法は数学的な誤謬にもとづいている。「矢」のパラドックスの修正は、何かが生成することを認めるならば、あらゆる生成の行為は直接の後継者をもたねばならない、という原理を明らかにする。しかし追加の前提がなければ、あらゆる生成の行為が直接の先行者をもたねばならない、と推論することはできない。結論は、あらゆる生成の行為において、時間的延長をもつ何かの生成があるが、その行為自体は延長的ではない、というものである。真なる事物は、具体的な満足という性格において、その時間的な前半に関わる抱握と後半に関わる抱握とへと可分的である。この可分性がその延長性を構成する。しかしこの時間的・空間的な副領域への関わりは、問題の抱握の与件が、その副領域に応じた遠近法とともに客体化された現実世界である、ということを意味する。しかし抱握は主体的形相を獲得し、この主体的形相は、真なる事物の精神的極に属する概念的抱握との統合によってのみ完全に確定される。癒合は、被造物を最終的な超主体として本質的に関わる主体的目的によって支配される。この主体的目的はこの主体自身が、それ自身の自己創造を一つの被造物として決定するものであり、したがってこの可分性を分有しない。前半に関わる抱握のみに注意を限るならば、その主体的形相は無から生じたことになる。全体に属する主体的目的はここでは除外されているからである。存在論的原理が破られたことになる――何かが無から世界に漂い込んだことになる。この議論の要約は、精神的極が主体的形相を決定し、この極は真なる事物の全体から切り離せない、というものである。

  第III節〜第IV節

前節までの議論は、ヨーロッパ哲学のもっとも古い学説の一つに近代的な形を与えたにすぎない。常識の学説としては、それは意識そのものと同じくらい古い。「空間」と「時間」という語の根底にあるもっとも一般的な観念こそ、これまでの議論が現実世界との真の結びつきにおいて表現しようとしてきたものである。これに代わる学説であるニュートンの宇宙論は、時空の「容器」理論を強調し、潜勢態という要因を軽視した。したがって空間と時間の断片は、他のあらゆるものと同様に現実的なものとして、そして物質の断片という他の現実性によって「占有」されるものとして捉えられた。これがニュートンの時空についての「絶対」理論であり、哲学者たちが受け入れたことはないが、時に黙認されてきたものである。ニュートンは『プリンキピア』冒頭の八つの定義に付した有名な「注解」において、この視座をこのうえなく明晰に述べている。そこでニュートンは、時間・空間・場所・運動をあえて定義しない――それらは万人によく知られているからだ、としつつ、俗人はこれらの量を感覚的な対象との関係からしか捉えないため誤解が生じる、と述べ、これらを絶対的・相対的、真・見かけ、数学的・通俗的に区別する必要を説く。ニュートンは、空間を貫く物質的媒質があるかもしれないという私見をもちつつも、そのような媒質がないかもしれないとも考えていた。彼にとって「空虚な空間」――単なる空間性――という観念は、「無限から無限まで」独立した現実的存在として捉えられ、意味をなした。この点で彼はデカルトと異なる。近代物理学はデカルトの側に立ち、「物理的な場」という観念を導入した。ニュートンは空間についての記述において、「実在的」潜勢態と現実的事実とを混同した。彼はそれによって、「これらの量を、感覚的対象との関係からしか捉えない」俗人の判断から逸脱するに至った。有機体の哲学は、「感覚的対象」という語を「現実的存在」に置き換えることを除いて、まず俗人に同意することから始める。ニュートンの他の記述を有機体の理論に適合させようと考えるとき、驚くべき事実が浮かび上がる。すなわち、現実的存在に相関する拡がりの原子化された量子を、ニュートンの絶対的場所・絶対的持続と同一視しなければならない、ということである。運動が、その本性上不動である絶対的場所には適用されない、というニュートンの証明も同様に成り立つ。したがって現実的存在は決して動かない――それはそれがあるところにあり、それがあるところのものである。この特徴を、「現実的存在」という観念をわれわれの通常の思考習慣により密接に結びつける句によって強調するために、「現実的存在」の代わりに「現実的機会」という語も用いる。「事象」という語は、より一般的な意味で用いられ、一つの延長的量子のうちである確定した仕方で相互に関係づけられた現実的機会の結合体を指す。現実的機会は、成員が一つのみの事象の限界的な型である。「変化」という観念の根本的な意味は、何らかの確定した事象に含まれる現実的機会のあいだの相違である。有機体の哲学における拡がりの連続体の位置づけは、デカルトの物体についての学説との比較によってさらに明らかになる。有機体の理論はニュートンよりもデカルトの見解にはるかに近い。この主題についてスピノザは実質的に、デカルトを非一貫性から浄化した、その論理的体系化にほかならない。しかしこの論理的一貫性の達成は、有機体の哲学がまさに拒否する、デカルトのうちのあの要素を強調することによって得られている。この点でスピノザは、ロックに対するヒュームと同じ役割をデカルトに対して果たしている。有機体の哲学は、デカルトとロックへの回帰として、彼らの哲学のうちの、後継者たちが発展させた要素との非一貫性のゆえに通常は拒否されている、まさにその要素に関して、捉えることができる。デカルトは『省察』第一で「私はここに、暖炉のそばに座り、部屋着をまとい、この紙を手にしている」と述べ、この経験の行為を自らの身体と結びつける――「これらの手とこの身体は私のものである」。デカルトは『省察』第一の引用の末尾で「真なる事物(レス・ウェラ)」という句を、私が「現実的」という語を用いてきたのとまったく同じ意味で用いている。それは、それを超えては他のいかなる存在もない、もっとも十全な意味における「存在」を意味する。デカルトは第三の省察において、あらゆる属性を知覚するとき、われわれはそれが帰属しうる何らかの現存する事物あるいは実体が必然的に存在すると結論する、と述べており、これは、現実的機会が他のあらゆる型の存在がそこから派生し抽象される根拠を形づくる、という本章第III節での存在論的原理の定式の、事実上の等価物を、主語・述語の言い回しにおいて与えている。デカルトにとって「実体」という語は、私の言う「現実的機会」に等しい。私が「実体」という語を避けるのは、一つには、それが主語・述語の観念を示唆するからであり、もう一つには、デカルトとロックが彼らの実体に性質の変化という冒険を被らせ、それによって困難を生み出すからである。

  第V節〜第VI節

「無差異な持続」という根拠のない形而上学的学説は、拡がりの図式の正しい性格についての誤解からの派生物である。〈現前的直接性〉を介した同時代世界についてのわれわれの知覚において、現実的存在の結合体は、その延長的連続性という性格の遠近法のもとで、知覚者にとって客体化される。たとえば同時代の石の知覚においては、その石を構成する結合体のうちの個々の現実的存在の個別性は、延長的な充満の統一へと融合される――デカルトにとっても常識にとっても、それが石である。この完全な客体化は、石の類的な延長的遠近法によって成し遂げられ、それはたとえば何らかの確定した色といった、ある感覚与件の特殊な遠近法へと特殊化される。したがって直接の知覚対象は、色という性質を介して知覚される、物質的な石の静穏で無差異な持続という性格を帯びる。この基本観念は言語を支配し、科学と哲学の両方に取り憑いてきた。さらに、われわれの推測的な説明は常に「真なる原因」の利用によって進められるべきだという優れた格率の不幸な適用によって、科学や哲学が直接知覚の直接の所与の限界を超えて外挿しようと試みるたびに、満足のいく説明は常に、本質的属性の無差異な持続をもつ実体が生み出され、活動はそれらの偶有的な性質や関係の随時の変容として説明される、という条件を満たしてきた。こうして人間の想像力は、位置の関係と色という性質――随時変化する関係と性質――をもつ、静穏な延長的な石によって支配されてきた。こう解釈された石は「真なる原因」を保証し、科学と哲学における推測的な説明はそのモデルに従ってきた。したがって宇宙論的理論を組み立てるにあたって、永続的な属性をもち、無差異に持続し、どれほど短くあるいは長くとも、いかなる時間の広がりを通じてもその自己同一性を保持する、連続的な素材という観念が根本的なものとなってきた。この素材は偶有的な性質や関係に関して変化を被るが、その偶有的な冒険を通じて一つの現実的存在としての性格において数的に自己同一である。この根本的な形而上学的概念の容認は、多元論的リアリズムのさまざまな体系を難破させてきた。この形而上学的概念は科学的唯物論の基盤を形づくってきた。しかし、この全概念の基盤である石の解釈は、まったくの誤りであることが判明している。第一に、十七世紀以降、色が単純に石に内属するという観念は放棄されねばならなくなった。第二に、分子理論は石からその連続性、その統一性、その受動性を奪った。石はいまや、激しく動き回る個別の分子の社会として捉えられる。しかし石についての誤りから生じた形而上学的概念は、いまや個々の分子に適用された。それぞれの原子は、消滅しないかぎり、いかなる時間の部分――どれほど短くあるいは長くとも――においても、その自己同一性と本質的属性を保持する素材であり続けた。しかしこの唯物論的概念は、石にとってと同様、原子にとっても誤りであることが判明している。原子は、確定した周期をもつリズムを含む活動をもつ社会としてしか説明できない。陽子と電子は、その活動が移動の冒険として解釈されうる、唯物論的な電荷として捉えられたが、いまやエネルギーの謎めいた量子が現れ、これらの量子は光の振動へと解消するように見える。恒星の物質もまた、振動の産出のうちに自らを消尽しているように見える。エネルギーの量子は、分子のうちに検出される周期的リズムと単純な法則によって結びついている。したがって、リズム的な周期は陽子的・電子的存在から切り離せない、と信じるあらゆる理由がある。同じ概念は、それがより明白に破綻する他の文脈にも適用されてきた。「人間は理性的である」と言われるが、これは明白に偽である。人間は間欠的にしか理性的ではなく、単に理性への性向をもつにすぎない。「ソクラテスは死すべきものである」という句も、単に「おそらく彼は死ぬだろう」と言っているにすぎない。永続する実体が、本質的にであれ偶有的にであれ、持続的な性質を担うという単純な観念は、生活の多くの目的にとって有用な抽象を表現する。しかしそれを事物の本性についての根本的な言明として用いようとするたびに、それは誤りであることが判明する。それは一つの誤りから生じ、そのいかなる適用においても成功したことはない。しかしそれには一つの成功があった――それは言語のうちに、アリストテレス論理学のうちに、そして形而上学のうちに、自らを塹壕のように根付かせたのである。言語と論理におけるその使用には、健全な実用的弁護がある。しかし形而上学において、この概念は純然たる誤りである。この誤りは「実体」という語の使用にあるのではなく、本質的な性質によって性格づけられ、偶有的な関係と性質の変化のただなかで数的に一なるままであり続けるような、現実的存在という観念の使用にある。これに反する学説は、現実的存在は決して変化せず、それに性質あるいは関係として帰属しうるものすべての帰結である、というものである。哲学にはそこで二つの選択肢が残る――(一)変化の幻想をともなう一元論的宇宙、(二)「変化」が、ある確定した型の一つの社会に属する現実的存在のあいだの多様性を意味する、多元論的宇宙である。ここで、有機体の哲学と、近代の哲学的・科学的伝統の創始者である十七世紀の人物たちとのあいだの、一致と不一致のいくつかを、予備的な仕方で要約しよう。あらゆるリアリズム哲学の基盤は、知覚において、それにとっての与件である直接の経験との共同体をもつものとして知られる、客体化された与件の開示がある、という点にある。この「共同体」は、相互の含意をともなう共同の活動の共同体である。この前提は第一次の事実として主張され、われわれの生の組織のあらゆる細部において暗黙のうちに前提されている。それはロックの「力は、実体についてのわれわれの複合観念の大きな部分である」という言明によって暗黙のうちに主張されている。有機体の哲学は、〈存在論的原理〉を主張し、それを「現実性」の定義として解釈することによって、デカルトの主観主義を拡張する。これは、それぞれの現実的存在が宇宙にとっての一つの座であるという想定に等しい。したがって、あらゆる属性は実体を要求するというデカルトのもう一つの言明は、このより一般的な原理の、単に特殊で限定された一事例にすぎない。ニュートンは、空間の一部は動きえないとする。この真理が、有機体の理論のうちでどのような形を取るかを問わねばならない。空間の一領域の代わりに、われわれは物理的な場の一片を考察すべきである。この一片は、現実世界が新しい創造にとっての潜勢態をどのように含むかの一つの仕方を表現し、一つの現実的存在の統一を獲得する。物理的な場は、こうして確定した分割とともに原子化され、現実性の一つの「結合体」となる。拡がりの連続体のこのような一つの量子(すなわちそれぞれの現実的な分割)が、一つの被造物の第一次相である。この量子はその関係の全体性によって構成され、動くことができない。被造物もまた外的な冒険をもつことはできず、ただ生成という内的な冒険をもつのみである。その誕生がその終わりである。これは一種のモナド論であるが、ライプニッツのモナドが変化するのに対し、有機体の理論ではモナドは単に生成するにすぎない、という点で異なる。それぞれのモナド的被造物は、世界を「感受」する過程の一つの様態であり、世界をあらゆる点で確定した一つの複合的感受の単位のうちに宿す様態である。そのような単位が「現実的機会」であり、創造的過程から派生する窮極の被造物である。実在の直接の知識について、われわれはまずデカルトの『省察』第一の「これらの手とこの身体は私のものである」に立ち返り、またヒュームの「われわれは自分の目で見る」という多くの主張にも立ち返る。両者は――ヒュームのほうがより明示的にではあるが――同時代世界の感覚知覚が、身体の「共在性」の知覚をともなうことに同意している。この共在性こそが、身体をめぐる世界についてのわれわれの知識の出発点たらしめるものである。ここにわれわれは「作用的効力性」の直接の知識を見出す。ヒュームとデカルトは、直接的な知覚的知識の理論において、この身体の共在性を見落とし、それによって知覚を現前的直接性へと限定してしまった。「現在という瞬間の独我論」を避けるためには、直接知覚に現前的直接性以上のものを含めなければならない。有機体の理論にとって、もっとも原初的な知覚は「身体が機能しているという感受」である。これは過去における世界の感受であり、複合的な感受としての世界の相続であり、すなわち派生した諸感受の感受である。より後の、洗練された知覚は「同時代世界を感受すること」である。この現前的直接性でさえ、同時代の身体の感覚的現前から始まる。しかし身体は、世界のうちの特異に親密な一片にすぎない。デカルトが「この身体は私のものである」と言ったように、彼は「この現実世界は私のものである」と言うべきであった。「自分自身であること」というわれわれの過程は、世界の所有からのわれわれの起源である。実体の観念に基礎を置くリアリストたちは、動き変化する現実的存在という観念から逃れられない。有機体の哲学の観点からは、ニュートンの不動の容器には大きな美点がある。しかしニュートンにとってそれらは永遠である。ロックの時間の観念のほうが的を射ている――時間とは「絶えざる消滅」である。有機体の哲学において、一つの現実的存在は、完結したときに「消滅した」のである。この現実的存在の実用的な用途――その静的な生を構成するもの――は未来にある。被造物は消滅し、そして不滅である。それを超える現実的存在は「それは私のものである」と言うことができる。しかしこの所有は服従を課す。流動する世界におけるこの現実的存在の概念は、『ティマイオス』の一文の展開にすぎない――「感覚の助けを借りて意見によって捉えられ、理性を欠くものは、常に生成と消滅の過程にあり、決して真に有るのではない」。ベルクソンが「空間化」に抗議するとき、彼は単にプラトンの「決して真に有るのではない」という句を反響させているにすぎない。

 第三章 自然の秩序

  第I節

本章とこれに続く章では、近代の哲学者のうちとりわけヒュームとカントを、古代の哲学者のうちとりわけプラトンの『ティマイオス』を、主たる対話の相手とする。これらの章は「宇宙における秩序」「帰納」「一般的真理」という、たがいに関連する諸問題を扱う。本章はもっぱら「秩序」という主題を扱う。有機体の学説にとって、秩序の問題は第一次的な重要性をもつ。いかなる現実的存在も、その立脚点からの与件としての現実世界――その現実世界――が許す以上のものにはなりえない。そのような存在はいずれも、いくつかの点で既に定まった客体化の癒合という第一次相から生じる。その経験の基盤は「与えられて」いる。「秩序」の相関概念は「無秩序」である。この対比が成り立たなければ、「秩序」という観念に固有の意味はありえない。それを離れれば「秩序」は「与えられていること」の同義語となってしまう。しかし「秩序」は「与えられていること」以上のものを意味する――それを前提しつつも。「無秩序」もまた「与えられて」いる。あらゆる現実的存在は「与えられていること」の全体性を要求し、その全体性はそれぞれの秩序の程度を達成する。秩序の四つの根拠が直ちに浮かび上がる。(一)現実世界における「秩序」は、一つの目的の達成に向けた適応の導入によって、単なる「与えられていること」から区別される。(二)この目的は、当の結合体(すなわちその成員のうち先行する成員)が客体化される形相的構成をもつ結合体の成員である諸現実的存在の満足における強度の段階に関わる。(三)強度の高揚は、結合体における構成要素の多性が〈対比〉として明示的な感受に入り込みうるような秩序から生じ、〈両立不可能性〉として否定的抱握へと退けられることはない。(四)主体・超主体の形相的構成における「強度」は、超主体としてのその客体的な機能作用において「欲求」を含む。「秩序」は単なる類的な語であり、漠然とした「秩序」ではなく、何らかの確定した特殊な「秩序」のみがありうる。あらゆる現実的存在に共通の一つの理想的な「秩序」があるのではない。それぞれの場合に、その特定の現実的存在に固有で、その「与えられていること」の相における支配的な構成要素から生じる理想がある。この「支配」という観念は、後に「宇宙時代」の体系的性格、および宇宙時代に含まれる「社会」の従属的な体系的性格との関連で論じられる。「秩序」という観念は、それが特定の満足を含む一つの達成である現実的存在という観念と結びついている。この満足は、当の存在に個体的な何ものかの達成である。それはそれ自身の癒合に寄与する構成要素として解されえない。それは、当の存在に個体的な窮極の事実である。「満足」という観念は、「癒合の過程」から抽象された「具体的なものとしての存在」という観念であり、過程から分離された成果であって、それによって過程かつ成果である原子的存在の現実性を失う。「満足」は現実的存在の構成における個体的要素を提供する――実体を「存在するためにそれ自身以外の何も必要としない」と定義することに至った、あの要素である。しかし「満足」は「実体」あるいは「主体」というよりも「超主体」である。それは存在を閉じるが、それでいて、それを取って代わる存在の生成をもたらす創造性へと、その性格を付加する超主体でもある。当の現実性の「形相的」実在性は、その癒合の過程に属し、その「満足」には属さない。これが、有機体の哲学がプラトンの「決して真に有るのではない」という句を解釈する意味である。超主体は、その「客体の不滅性」の言葉によってのみ解釈されうるからである。「満足」は類的な語であり、異なる存在の「満足」のあいだには、強度の段階を含む特殊な相違がある。これらの特殊な相違は、現実的存在がそこから生じる癒合における構成要素の分析によってのみ表現されうる。満足の強度は、癒合がそこから生じ、それを通過する諸相における「秩序」によって促進され、「無秩序」によって弱められる。癒合における構成要素は、こうして「満足」に寄与する「価値」である。癒合はこうして、離散的な構成要素の現実的な共存の完結を構成する、確定した「満足」の構築である。癒合の過程は、完全に確定した「満足」の達成をもって終結し、それによって創造性は、他の現実的存在の癒合のための「与えられた」第一次相へと移行する。この超越は、先行する存在を完結させる確定した「満足」の達成があるときに確立される。完結は直接性の消滅である――「それは決して真に有るのではない」。いかなる現実的存在も、それ自身の満足を意識することはできない。そのような知識は過程における一構成要素となり、それによって満足を変化させてしまうからである。当の存在に関しては、満足は創造的決定としてのみ考察されうる。言い換えれば、一つの存在の「満足」は、その存在の有用性の言葉においてのみ論じられうる。それは創造性の一つの限定である。この満足に体現される感受の調子は、これらの客体化のゆえに、彼方の世界へと移行していく。世界は自己創造的である。自己創造的な被造物としての現実的存在は、超越的な世界の部分的創造者としてのその不滅の機能へと移行する。その自己創造において、現実的存在は、個体的な満足として、また超越的な創造者としての自己自身の理想によって導かれる。この理想の享受が「主体的目的」であり、それによって現実的存在は確定した過程となる。この主体的目的は第一次的には知的なものではなく、感受のための誘因である。この感受のための誘因は精神の萌芽である。「精神」という語は、現実的存在の構成に含まれる精神的操作の複合体を意味するために用いられる。精神的操作は必ずしも意識を含まない。派生的な与件を直接の私性へと吸収する癒合は、与件を、私的な総合を誘発する感受の仕方と結びつけることに存する。これらの主体的な感受の仕方は、単に与件を疎遠な事実として受容するだけではない――それらは乾いた骨に、情動的で目的をもち評価する、実在の存在の肉をまとわせる。創造の奇跡は預言者エゼキエルの幻に描かれている――「わたしは命じられたとおりに預言した。すると息が彼らのうちに入り、彼らは生き返って足で立ち、非常に大きな軍勢となった」。新しい個体的事実を創造する感受の息吹は、単なる与件には完全には遡及できない起源をもつ。それは与件に従う――与件を感受するという意味において。しかし感受のその「どのように」は、与件に関連していても、与件によって完全には決定されない。この関連する感受は、その「主体的形相」の包含あるいは排除に関して、その感受が関わる与件によって定まるのではない。癒合過程とは、これらの主体的形相の非確定性の除去である。感受の質は、感受がその自己限定において自らをまとう永遠的客体に関して確定的でなければならない。それは永遠的客体の現実的機会への進入の一様態である。しかしこの自己限定は二つの相へと分析される。第一に、与件に関連しており、かつ物理的感受にとっての潜勢態であるという二重の役割における、永遠的客体の概念的な進入である。これは、感受のための概念的誘因という役割における永遠的客体の進入である。第二の相は、この誘因を感受の実在性へと受け入れるか、あるいはこの実在性から拒絶するかである。誘因という役割における永遠的客体の適切性は、与件に内在する一つの事実である。この意味で永遠的客体は「客観的誘因」の構成要素である。しかし概念的感受の実在性への受容あるいは拒絶は、現実的機会の始発的な決定である。この意味で、現実的機会は〈自己原因〉である。癒合の一相における諸抱握の主体的形相は、その癒合のより後の諸相における抱握の特定の統合を制御する。感受のための誘因の一例はヒューム自身によって与えられる。『人性論』第一部第一節で彼は「われわれのあらゆる単純観念は、その最初の現われにおいて、それに対応し、それを正確に表象する単純印象から派生する」という命題を打ち立てる。しかしヒュームは(同所)例外を指摘しており、この例外はまさにいま打ち立てられた原理――与件のうちには実現されていないが、与件への近接性によって「客観的誘因」を構成する、関連する潜勢態の原理――を伴っている。ヒュームが挙げるのは、三十年間視力をもち、あらゆる種類の色をよく知っている人物が、ある特定の青の階調だけを一度も見たことがない場合、その階調を除いてすべての階調を濃いものから薄いものへと順に並べて見せると、彼はその欠けている場所に空白を感じ取り、そこに生じさせられた自らの想像力によってその特定の階調の観念を思い描くことができるだろう、という例である。ヒュームはこの事例を「特殊で単独的」として脇に置くが、有機体の哲学が異議を唱えるのは、まさにこの評価である。ここで採用される癒合の分析は、基本的な与件との関連性のゆえに感受にふさわしいものを受容あるいは拒絶する、概念的感受の始発があると捉える。この関連性に関する永遠的客体の等級づけが、感受のための「客観的誘因」であり、癒合過程はこの「客観的誘因」からの選択を主体的な有効性へと受け入れる。これが過程を導く主体的な「それ自身の理想」である。「電位差」という語は物理科学における古い語であり、感受を「ベクトル」たらしめるこの窮極の事実――そこにあるものを感受し、それをここにあるものへと転換する――こそが、この語を示唆する現実的存在の構成における窮極の事実である。ある確定した現実的存在に相対的な、現実世界における現実的存在の「客体化」は、その現実的存在がそこから生じる作用因を構成する。「満足」への「主体的目的」は目的因、すなわち誘因を構成し、それによって確定した癒合がある。達成された「満足」は創造的目的の内実における一要素として残る。このようにして創造性の超越があり、この超越は、その満足した超主体を超えた現実性の癒合における過程の更新のための、確定した客体化を成し遂げる。したがって現実的存在は三重の性格をもつ――(一)過去によってそれに「与えられた」性格、(二)その癒合過程においてめざされる主体的性格、(三)超越的創造性を限定するその特定の満足の実用的価値である超越的性格。神である原初的現実的存在の場合、過去は存在しない。したがって概念的感受の理想的実現が優先する。神は他の現実的存在と、ヒュームの原理(概念的感受の派生的性格)が神には成り立たないという点で異なる。それでも同じ三重の性格は成り立つ。(一)神の「原初的本性」は、あらゆる永遠的客体をその与件のうちに含む、概念的感受の統一の癒合である。(二)神の「結果的本性」は、進化する宇宙の現実性についての神の物理的抱握である。(三)神の「超越的」本性は、さまざまな時間的事例において超越的創造性を限定する、彼の特定の満足の実用的価値の性格である。これが神の観念であり、それによれば神は創造性の帰結として、秩序の基盤として、新奇性への目標として考察される。「秩序」と「新奇性」は、彼の主体的目的――「形相的直接性」の強化――の道具にすぎない。神を含むあらゆる現実的存在は、それ自身のために個体的な何かであり、それによって現実性の残りを超越する。有機体の哲学はカントの哲学の逆転である。『純粋理性批判』は主観的与件が客観的世界の現われへと移行する過程を記述する。有機体の哲学は、客観的与件がいかに主観的満足へと移行し、客観的与件における秩序がいかに主観的満足における強度を提供するかを記述しようとする。カントにとって世界は主体から出現する。有機体の哲学にとって主体は世界から出現する――「主体」というよりも「超主体」である。

  第II節

「秩序」という語のより通常の派生的な意味は、個々の現実的存在にとっての客体化された与件に第一次的に適用される、前節の意味とは別にある。われわれは「自然の秩序」と言うとき、われわれの観察のもとに入った宇宙の限定された部分に君臨する秩序を意味する。また秩序ある生活を送る人、あるいは無秩序な生活を送る人とも言う。これらのいずれの意味においても、「秩序」という語は、たがいのあいだで享受される多くの現実的存在の関係――それによって一つの社会を形づくる関係――に明らかに適用される。「社会」という語は、本節で説明される意味において、たがいのあいだに「秩序」をもつ現実的存在の結合体を常に意味するものとする。ここで用いられる「社会」の要点は、それが自己を維持するということ、すなわちそれがそれ自身の理由であるということである。したがって社会とは、同じ類名が適用される存在の集合以上のものである――それは単に数学的な「秩序」の観念以上のものを含む。一つの社会を構成するには、その類名が、同じ社会の他の成員からの発生的な派生という理由によって、それぞれの成員に適用されなければならない。社会の成員が似ているのは、その共通の性格によって、社会の他の成員に対して、その類似をもたらす条件を課すからである。この類似は、(一)ある種の「形相」の要素が、社会の各成員の個体的な満足への寄与的な構成要素であること、(二)この要素の、社会の他の成員による抱握のための一成員の客体化への寄与が、その類比的な再生を他の成員の満足のうちに促進すること、という事実に存する。したがって存在の集合は、(一)その成員が共有する「規定的性格」のゆえに、そして(二)その規定的性格の存在が、社会自身によって提供される環境に由来するというゆえに、社会となる。人間の生とは、際立った程度でたがいから相続する現実的機会の歴史的経路である。ギリシア語の最初の習得から、その言語についての十分な知識の喪失に至るまでの機会の集合は、ギリシア語の知識に関して一つの社会を構成する。このような知識は、歴史的経路に沿って機会から機会へと相続される共通の性格である。この事例は、秩序のいくぶん些細な要素――ギリシア語の知識――への言及として意図的に選ばれたものであり、より重要な秩序の性格は、人が誕生から死まで同一の持続する人格であるとみなされる、その複合的な性格であろう。この事例では、社会の成員はその発生的関係によって系列的秩序に配置されている。そのような社会は「人格的秩序」をもつと言われる。したがって社会とは、その各成員にとって、その成員間の発生的関係のゆえに持続する、何らかの秩序の要素をもつ環境である。しかし孤立した社会は存在しない。あらゆる社会は、社会の成員が従わねばならない客体化をも提供する、より広い現実的存在の環境という背景とともに考察されねばならない。したがって環境の与えられた寄与は、少なくとも社会の自己維持を許容するものでなければならない。またその重要性に応じて、この背景は、社会のより特殊な性格がその成員にとって前提するところの、より一般的な性格を寄与しなければならない。しかしこれは、環境が、当の社会とともに、われわれが出発した社会を規定するものよりもいっそう一般的な性格に関して、より大きな社会を形づくらねばならない、ということを意味する。したがってわれわれは、あらゆる社会が、それ自身がその一部であるところの、社会的背景を要求する、という原理に到達する。ある与えられた社会に関して、現実的存在の世界は、社会的秩序の諸層からなる背景を形づくるものとして捉えられねばならず、背景を広げるにつれて規定的性格はより広く一般的になっていく。自然の法則における恣意的な、いわば「与えられた」諸要素は、われわれが特殊な宇宙時代のうちにあることを警告する。「宇宙時代」という句は、ここではわれわれ自身への直接の適切性が辿りうる、もっとも広い現実的存在の社会を意味するために用いられる。この時代は電子的・陽子的現実的存在によって、そしてエネルギーの量子のうちにかすかに識別されうる、より窮極的な現実的存在によって特徴づけられる。マクスウェルの電磁場方程式は、電子と陽子の群れのゆえに支配力をもつ。それぞれの電子は電子的機会の社会であり、それぞれの陽子は陽子的機会の社会である。これらの機会が電磁法則の理由であるが、それぞれの電子・陽子が長い生をもち、新しい電子・陽子が生まれてくる、その再生の能力自体が、これらの同じ法則による。しかし法則が完全には遵守されず、再生が失敗の事例と入り混じっているという意味において、無秩序も存在する。したがって現在の自然法則の支配への漸進的な上昇に続く、新しい型の秩序への漸進的な移行がある。しかし自然の秩序における恣意的な要因は電磁法則に限られない。時空連続体の四次元、幾何学の公理、連続体の単なる次元的性格そのもの、そして計量可能性という事実がある。社会はいかなる意味においても、その規定的性格を構成する永遠的客体の複合体を創造しない。それは単に、その成員にとっての重要性へとその複合体を引き出し、その成員の再生を確保するにすぎない。

  第III節

こうして自然の物理的・幾何学的秩序を構成する、物理的関係、計量の幾何学的関係、次元的関係、さまざまな段階の延長的関係は、より特殊な社会がより広い社会に含まれるという、支配範囲を増大させていく一連の社会から派生する。これらの社会を超えたところには無秩序がある――ここで「無秩序」とは、当の社会の規定的性格が、その境界を超えたところで持つ重要性の欠如を表現する、相対的な語である。秩序が社会的産物であるというこの学説は、近代科学において自然法則の統計理論として、また発生的関係への強調として現れる。しかし明らかに、いかなる合致した効果の統一をも確保する支配的な社会が存在しない状態がありうる。これは混沌とした無秩序の状態であり、その語の絶対的な意味への接近である。そのような理想的な状態においては、いかなる現実的存在に「与えられた」ものも、既定の世界からの妨害的で対立する諸決定の帰結である。混沌とした無秩序とは、達成された満足における両立可能な対比の支配的な限定の欠如、そしてそれに続く強度の弱体化を意味する。それはより軽微な現実性への低下を意味する。プラトンの『ティマイオス』と(既に大部分引用された)ニュートンの『注解』は、西洋思想にもっとも大きな影響を与えてきた宇宙論的学説の二つの言明である。近代の読者にとって、科学的な細部の言明として見れば、『ティマイオス』は『注解』と比べて単純に愚かしい。しかし表面的な細部において欠けるものを、その哲学的な深みが補っている。それが寓話として読まれるならば、深遠な真理を伝える。これに対し『注解』は、抽象的で哲学としては不十分ではあるが、その抽象の同じ水準における真理の演繹に関しては、一定の限界内で全面的に信頼できる、細部についてのこのうえなく有能な言明である。その哲学的欠陥の代償は、『注解』がその適用の限界について何ら示唆を与えないということである。実際上の効果は、読者が、そしてほぼ確実にニュートン自身が、その意味を、私が他の場所で〈具体性置き違えの誤謬〉と呼んだものへと陥る仕方で解釈してしまう、ということである。そのような抽象的観念の適用可能性の限界を定めることこそ、形而上学の任務である。『注解』は、自然にきわめて顕著な、自己産出・生成・ピュシス、すなわち〈自ら生成する自然〉という側面について、何の示唆も与えない。『注解』にとって自然は単に、外的に設計され従順な、そこにあるものにすぎない。近代の進化学説の全貌は、『注解』のニュートンを困惑させただろうが、『ティマイオス』のプラトンを啓発しただろう。ニュートンはベントリー宛の手紙で、自らの体系についての論文を書いたとき、思慮ある人々が神性を信じるよう働きかけるような諸原理に目を向けていた、と記している。これは今日一般に無効とされている、宇宙論的論証の形式である。というのもわれわれの因果性の観念は現実世界の内部における事物の状態の関係に関わるものであり、超越的な由来へと不当に拡張されうるにすぎないからである。神の観念は、現実世界に内在しつつも、いかなる有限な宇宙時代をも超越する現実的存在――現実的、永遠的、内在的、超越的であるような存在――である。神の超越性は彼に固有のものではない。あらゆる現実的存在は、その新奇性のゆえに、神を含めて、その宇宙を超越する。『注解』においては、空間と時間が、その現行の数学的性質のすべてとともに物質的質量のために既製であり、物質的質量がその作用と反作用を構成する「力」のために既製であり、空間・時間・物質的質量・力のすべてが、神が宇宙全体に印象づける初発の運動のために既製である。〈具体性置き違えの誤謬〉とともに解釈された『注解』から、事実との比較に耐えうる有神論も無神論も認識論も引き出すことはできない。これがヒュームの『自然宗教をめぐる対話』から引き出されるべき、避けがたい結論である。『ティマイオス』には、『注解』のうちにその最終的な明晰な表現を見出す、多くの句や言明がある。西洋思想を導いてきたこの二つの偉大な宇宙論的文書のこの一致に注目しつつも、その抽象の限界のうちで『注解』が語ることは真である、ということはいくら明確に理解してもしすぎることはない。しかし『ティマイオス』には『注解』に類例のない、もう一つの側面がある。この側面は、事物の〈振る舞い〉を事物の〈形相的本性〉と結びつけようとする試み、その形而上学的性格と呼びうるものである。プラトンは、それぞれが規定的性格をもつ確定した現実的分子的存在の社会という観念を思念する。彼はこの社会の集合を〈自己原因〉として思念しない。しかし彼はそれを、自然のそれらの部門の活動化する原理である、従属的な神々の仕業として思念する。プラトンは、根本的な種類の分子が正多面体の数学的形相に近似するという想定によって、自然の事物の種類のあいだの鋭い相違を説明した。彼はまた、音楽の音の対比のような、生起における一定の質的な対比が、整数のあいだのより単純な比への、これらの生起の参与に依存する、と想定した。こうして彼は、分子の種類のあいだに鋭い相違への近似があるべき理由、そして不協和のただなかに際立つ調和の鋭い関係があるべき理由を得た。したがって〈両立不可能性〉の対極としての〈対比〉は、状況のある種の単純性に依存するが、より高次の対比は、より単純なより高次の型を再び示す、より低次の対比の多性の集積に依存する。『ティマイオス』において、現在の宇宙時代の起源は、われわれの理想からすれば混沌とした、原初の無秩序にまで遡られる。これは有機体の哲学の進化論的学説である。ミルトンは『失楽園』において、奇妙にも『ティマイオス』とセム的教説とのあいだで揺れ動く。サタンが混沌を横断する旅の描写において、サタンは「果てなき、限りなき、深遠なる秘密の海――そこでは長さも幅も高さも、時も場所も失われ、自然の祖先である太古の夜と混沌とが、絶えざる戦いの喧騒のうちに永遠の無政府を保ち、混乱によって立っている」ものを見出す。本節でのプラトンへの訴えは、この数世紀に広まった表現様式に対する、事実への訴えであった。プラトトンとアリストテレスの両者にとって、現実世界の過程は、実在的な潜勢態への諸形相の実在的な到来として捉えられ、それが一つの現実的な事物である実在的な共存へと帰結する。『ティマイオス』にとって、世界の創造とは、一つの宇宙時代を確立する秩序の型の到来である。それは事実の物質の始まりではなく、ある特定の型の社会的秩序の到来である。

  第IV節〜第VI節

本章の残りは、われわれの現在の時代を構成する社会の階層についての、大部分が推測的な議論に充てられる。それによって秩序についてのこれまでの議論が明らかになるだろう。ここでわれわれが形而上学的な一般性を離れつつあることに、注意されたい。物理的世界は、それを拡がりの連続体たらしめる、一般的な型の関係性によって結びつけられている。この連続体の性質を分析すると、それらが二つの類に分かれることが分かる――より特殊な一方が、より一般的な他方を前提する。より一般的な性質は、「延長的連結」「全体と部分」、「延長的抽象」によって導出されうるさまざまな型の「幾何学的要素」という単なる事実を表現するが、直線が定義され、それによって計量可能性が導入される、より特殊な性質は含まない。この延長的連結の一般的性質のうちに、われわれの直接の宇宙時代をはるかに超えて広がる巨大な結合体の規定的性格を識別する。それはそれ自身のうちに、たがいに両立しないより特殊な性格をもつ、他の時代を含んでいる。われわれの現在の時代の立脚点から見れば、われわれ自身の時代を超越するかぎりでの根本的な社会は、その「延長的連結」という規定的性格に含まれる、わずかでかすかな秩序の要素によって和らげられた、巨大な混乱のように見える。われわれはその他の活発な秩序の時代を識別することができず、それをわれわれ自身の時代における秩序の夜明けのかすかな紅(あか)みを宿すものとしてのみ思念する。この窮極の巨大な社会は、われわれの現在の発展段階でわれわれが識別しうる体系的性格に関するかぎり、われわれの時代が置かれる環境の全体を構成する。われわれの論理的分析は、直接の直観(インスペクティオ)とともに、純粋な延長の社会のうちに、より特殊な社会――「幾何学的」社会――を識別することを可能にする。この社会においては、それによって直線が定義される、特殊化された関係が成り立つ。体系的幾何学はそのような幾何学的社会において例証される。計量的関係は、いかなる一つの体系的幾何学の図式のうちの機能の類比によって定義されうる。この「機能の類比」こそが「合同」という観念の意味するところである。この観念は体系的幾何学を離れては無意味である。基本的な範疇的観念のあいだに延長量を含めることは完全な誤りである。この観念は、それぞれの体系的幾何学が幾何学的社会のうちにその適用を見出すという言葉で定義可能である。一つの体系的幾何学は、当の社会に適用される直線の定義によって規定される。この定義は「計量」という観念とは独立に可能である。しかし同一の幾何学的社会において、直線の完全な族としての地位を等しく主張する、競合する軌跡の族が存在しえないとは証明できない。直線の一族が与えられれば、「幾何学的」社会における関係性の体系を表現する「合同」、そしてそこから「計量」という観念が、社会全体を通じて体系的な仕方で決定可能になる。しかしこの場合にもやはり、競合する計量の体系が確かに存在する。われわれの現在の宇宙時代は、幾何学的社会のうちに含まれる、より特殊な社会である「電磁的」社会によって形づくられている。この社会では、いっそう特殊な規定的性格が成り立つ。これらの性格は、「電磁的」社会が含まれる、より広い二つの社会の性格を前提する。しかし「電磁的」社会においては、競合する直線の族の相対的重要性についての曖昧さ、また競合する合同の定義の相対的重要性についての曖昧さは、一つの族と一つの合同定義とに有利なように決定される。この決定は、社会全体を通じた追加的な物理的関係性の組によって成し遂げられる。この電磁的社会は物理科学の主題である電磁場を例証する。物理学者たちの理想は、われわれの時代についてこの体系的法則をその完全な一般性において定式化することである。しかしこの電磁的社会も、それが特殊な社会――そのような秩序の担い手――によって浸透されないかぎり、経験の独特な「強度」を実現する個々の機会の産出にとって、十分な秩序を提供しないだろう。物理的世界は、たがいに有利に働き、たがいに競合する、そのような社会の当惑させるほどの複雑性を示す。そのような社会のもっとも一般的な例は、規則的な波の列、個々の電子、陽子、個々の分子、無機体のような分子の社会、生きた細胞、そして植物・動物の身体のような細胞の社会である。分子は構造化された社会であり、おそらく個々の電子と陽子もそうである。結晶は構造化された社会である。しかし気体は、その語の重要な意味においては構造化された社会ではない――ただしその個々の分子は構造化された社会である。社会の分類「持続的対象」「粒子的社会」「非粒子的社会」(第一部第三章第II節参照)は拡充を要求する。従属的な社会と結合体との、構造的な相互関係の確定したパターンを含む社会という観念が、導入されねばならない。そのような社会は「構造化された」と呼ばれよう。構造化された社会全体は、それ自身のうちに宿す従属的な社会にとって、好都合な環境を提供する。またその社会全体は、その存続を許容する、より広い環境のうちに置かれねばならない。構造化された社会は、その関連する従属的な社会・結合体の多性と、それらの構造的パターンの精妙さとに関して、多かれ少なかれ「複合的」でありうる。高度に複合的な構造化された社会は、その構成成員のある集合にとって、満足の強度に対応して好都合でありうる。この強度は、その社会がこれらの構成成員のために設ける、対比の秩序づけられた複合性のゆえに生じる。したがって自然にとっての問題は、高い「複合性」をもって「構造化」されると同時に「特殊化されていない」社会の産出である。このようにして強度は生存と結びつけられる。

  第VII節〜第VIII節

構造化された社会がこの問題を解決してきた仕方には二通りある。いずれも、経験の強度における一要因である精神的極の強化に依存する。一つは、結合体の多様な成員の詳細な多様性を排除しつつ、結合体の大量の平均的な客体化を引き出す仕方である。この方法は、事実上、歓迎されない細部を締め出す仕掛けを用いる。それは、客体化が抽象であるという根本的な真理に依存する。それは客体化に内在するこの抽象を利用して、結合体の妨害的な要素を否定的抱握へと退ける。同時に構造化された社会における複合的な強度は、多くの環境的な結合体の大量的な客体化――それぞれが多くの現実的機会という多性としてではなく、一つの結合体としての統一において――によって支えられる。この解決様式は、変換の範疇(範疇的責務の第六)にしたがって作用する精神性の介入を要求する。それは、結合体に浸透する何らかの適合的な均一性によって結合体を圧倒することによって、詳細の多様性を無視する。物理的身体はこの方式の発達を特徴とする現実的機会からなり、直線によって定義可能な「現前する局所」との緊密な結びつきが、これを示唆する。これらの物質的物体は、われわれの粗い把握にとって明白な、構造化された社会の最下級に属する――結晶、岩石、惑星、太陽である。そのような物体は、われわれに知られる構造化された社会のうちでもっとも長命であり、その個体的な生活史を通じて辿ることができる。第二の解決様式は、概念的抱握における始発、すなわち欲求における始発による。この始発の目的は、環境の新奇な要素を、構造化された社会の成員にふさわしい複合的な経験と調和させるような主体的形相をもつ、明示的な感受のうちへと受け入れることである。高次の有機体の場合、この概念的始発は多様な経験について「思考すること」に等しい。低次の有機体の場合、この概念的始発は単に、調和の理想に服従する美的強調の思考なき調整に等しい。いずれの場合も、当の機会を超越する創造的決定は、その機会に固有の衝動によって逸らされている。第二の解決様式が重要である構造化された社会は「生きている」と呼ばれる。構造化された社会は多かれ少なかれ「生」をもちうるのであり、「生きている」社会と「生きていない」社会とのあいだに絶対的な断絶はない。この「生」の学説によれば、「生」の第一次的な意味は概念的な新奇性の始発――欲求の新奇性――である。そのような始発は逆転の範疇にしたがってのみ生じうる。したがって社会は派生的な意味においてのみ「生きている」と呼ばれる。「生きている社会」とは、いくつかの「生きている機会」を含む社会である。構造化された社会は、多様な、際立って多様な規定的性格をもつ、さまざまな結合体の織り込まれたパターンから成る。これらのうちいくつかはより低次の型であり、いくつかはより高次の型である。同じ構造化された社会のうちに「従属的な」結合体と「支配的な」結合体とがある。「完全に生きている」結合体とは、その全成員の精神的極が何らかの独創的な反応をもつような結合体である。ある社会が「生きている」と呼ばれるのは、実際にはそのような結合体が支配的であるときに限られる。したがって生きている社会は「無機的な」結合体を含み、無機的な結合体は、変化する外的環境のうちで存続するために生きている社会全体の保護を必要としない。しかし「完全に生きている」結合体は存続のためにそのような保護を必要とする。この推測的な学説によれば、「完全に生きている」結合体は「社会」ではない。これが単細胞の身体を特殊事例として含む、動物身体の学説である。「完全に生きている」結合体の保護のために、複合的な無機的相互作用の体系が構築され、生きている諸要素の始発的な行為は体系全体を保護する。他方で体系全体の反応が、「完全に生きている」結合体が要求する親密な環境を提供する。「物理生理学」は従属的な無機的装置を扱い、「心理生理学」は「完全に生きている」結合体を、部分的には無機的装置から抽象して、部分的には無機的装置への応答に関して、部分的にはたがいへの応答に関して扱おうとする。統合的な生きている社会は、知られているかぎり、従属的な無機的装置を含むだけでなく、少なくとも各「細胞」につき一つの、多くの生きている結合体をも含む。

  第IX節〜第X節

単一の生きた細胞を考えてみよう。そのような細胞は分子や電子のような従属的な無機的社会を含む。したがって細胞は「動物身体」であり、この事例に固有の「物理生理学」を前提しなければならない。しかし個々の生きている機会についてはどうか。まず問うべきは、動物身体の無機的機会から抽象された生きている機会が、粒子的な従属社会を形づくり、それぞれの生きている機会が人格的秩序をもつ持続的実在の成員となるかどうか、そしてこの粒子的社会が、その極端な事例、すなわちその一つの人格的秩序をもつ一つの持続的実在へと還元されるかどうか、である。われわれの前にある証拠はもちろん極めて乏しいが、それが示すかぎりでは、これらの問いの両方に対して否定的な答えを示唆する。細胞は、それ自身の過去からの相続によって導かれる、単一の統一された精神性のいかなる証拠も示さない。解決すべき問題は、外的刺激に対する細胞の応答における、ある種の独創性である。相続された精神性をもつ持続的実在の学説は、なぜこの精神性がそれ自身の過去によって左右されるべきかの理由を与える。われわれはその瞬間における何か独創的なものを求めているのに、独創性を限定する理由を与えられているのである。生とは自由への賭けである――持続的実在は、その機会のいずれをも、その系譜の系列に結びつける。永続する性格をもつ持続的な魂という学説は、生が提示する問題――いかにして独創性がありうるか――に対する、まさに的外れな答えである。多くの持続的実在から成る粒子的社会の学説も、証拠によりよく適合するわけではない。同じ異論が当てはまる。根本的な事実は、「持続」とは、ある機会が単一の物理的系譜の系列によって特異に拘束される仕掛けであり、「生」とは概念的逆転の範疇にしたがって導入される新奇性を意味する、ということである。単一の伝統に対するのと同じ異論が、多くの伝統にも当てはまる。説明されねばならないのは、刺激に対する応答の独創性である。これは、ある有機体が「生きている」のは、その反応がある程度、純粋に物理的な相続のいかなる伝統によっても説明できないときである、という学説に帰着する。「伝統」による説明は、単に「作用因」による説明の別の言い回しにすぎない。われわれが必要とするのは「目的因」による説明である。したがって単一の機会が生きているのは、その癒合過程を決定する主体的目的が、その第一次相の相続された与件のうちには見出されない確定性の新奇性を導入したときである。この新奇性は概念的に導入され、感受の主体的形相の相続された「応答的」調整を撹乱する。それは、芸術家の意味における「価値」を変える。これらの考察から、その動物身体から抽象された「完全に生きている」結合体は、「生」が規定的性格でありえない以上、厳密には社会ではまったくない、ということが帰結する。それは伝統の名ではなく独創性の名である。単なる刺激への応答は、無機的であれ生きているであれ、あらゆる社会に特徴的である。作用と反作用は結びついている。生の特徴は、多様な環境のもとで強度の獲得に適応した反応である。しかしこの反応は過去によってではなく現在によって指図される。それは生き生きとした直接性への把捉である。生きている社会のもう一つの特徴は、それが食物を必要とすることである。博物館では結晶はガラスケースに保管され、動物園では動物は餌を与えられる。環境との反応の普遍性を考慮すれば、この区別は完全に絶対的というわけではない。しかしそれを無視することはできない。結晶は環境から派生した精巧な社会の破壊を要求する主体ではない――生きている社会はそのような主体である。それが破壊する社会はその食物である。この食物は、いくぶん単純な社会的要素へと溶解させることによって破壊される。それは何かを奪われている。したがってあらゆる社会は環境との相互作用を要求し、生きている社会の場合、この相互作用は略奪という形を取る。生きている社会は、それが解体する食物よりも高次の型の有機体でありうるかもしれないし、そうでないかもしれない。しかしそれが全体の善のためであろうとなかろうと、生は略奪である。まさにこの点において、生とともに道徳が切迫したものとなる。略奪者は正当化を必要とする。神の目的を共同で構成する原初的な諸欲求は、保存ではなく強度を求めている。それらは原初的であるから、保存すべきものは何もない。神はその原初的本性において、この特定のもの、あるいはあの特定のものへの愛によって動かされることはない。この創造性の基礎的な過程においては、あらかじめ構成された特殊なものは存在しないからである。その存在の基盤において、神は保存にも新奇性にも等しく無関心である。彼は、直接の機会がその系譜からの派生に関して古いか新しいかを気にかけない。彼のその機会に対する目的は、彼自身の存在の成就への中間段階としての、満足の深さである。彼の慈しみは、生起するそれぞれの現実的機会へと向けられる。したがって創造的前進における神の目的は、強度の喚起である。社会の喚起は、この絶対的な目的にとって純粋に副次的である。生きている社会の特徴は、その成員の強烈な物理的経験によって特徴づけられる非社会的な結合体の産出のために、無機的な社会の複合的な構造が織り合わされる、ということである。しかしそのような経験は、複合的な物質的動物身体の秩序から派生するのであり、類比的な経験をもつ過去の機会の単純な「人格的秩序」から派生するのではない。過去からの反復という足かせなしに、強烈な経験がある。これが概念的反応の自発性の条件である。この議論から引き出されるべき結論は、生は「空虚な空間」の特徴であり、いかなる粒子的社会によって「占有」された空間の特徴でもない、ということである。生きている機会の結合体には、ある種の社会的欠乏がある。生はそれぞれの生きている細胞の間隙に、また脳の間隙に潜んでいる。動物身体からの巨大な多様性の物理的経験を受け取っているどの部分にも、生きている社会のより鮮明な現われは彷徨っていく。この経験は、無機的に扱われるならば、単なる応答的受容の通常の調整によって、両立可能性へと還元されねばならない。これは、両立不可能な要素の否定的抱握への追放を意味する。動物身体の複合性は、その間隙の重要な部分において、物理的経験の多様な与件が複合的であり、単なる無機的処理によって達成されうる以上の両立可能性の際にあるように秩序づけられている。新奇な概念的抱握が、始発的な応答相の主体的形相を撹乱する。こうしていくつかの否定的抱握が避けられ、より高次の対比が経験のうちに導入される。「食物」と「生」との結びつきはいまや明らかである。細胞や他の生きている身体の構造にとって必要とされる、高度に複合的な無機的社会は、環境の多様性のただなかでその安定性を失う。しかし生きている機会の独創性によって生み出される空虚な空間の物理的場において、そうでなければ生じないような化学的な解離と結合が生じる。構造は崩壊しつつ修復されている。食物とは、生の影響のもとで、消耗を修復するために必要な結合へと入り込むだろう、外部からの高度に複合的な社会の供給である。したがって生は触媒作用因であるかのように働く。

  第XI節

自然の複合性は汲み尽くしがたい。ここまで論じてきたのは、生の本性が、その社会の規定的性格のゆえに生きている何らかの機会の社会との同一視によっては求められない、ということである。「完全に生きている」結合体は、その生に関しては社会的ではない。結合体の各成員は、その存在の必要をその複合的な社会的環境の抱握から引き出す。それ自身では、結合体は「社会」に属する発生的な力を欠いている。しかし生きている結合体は、その「生」のゆえに非社会的でありながら、その成員のある歴史的経路に沿って、人格的秩序の一筋を支えうる。そのような持続的実在が「生きている人格」である。生きている人格であることは生の本質には属さない。実際、生きている人格は、その直接の環境が生きている非社会的な結合体であることを要求する。生きている人格の規定的性格は、その存在の機会から機会へと伝達される、ある確定した型の雑種抱握である。「雑種」という語は第三部でより詳しく定義される。ここでは、「雑種」抱握とは、ある主体による、他の主体の精神性に属する概念的抱握あるいは「不純な」抱握の抱握である、と述べれば十分である。この伝達によって、生きている機会の精神的独創性は性格と深みを受け取る。このようにして独創性は、ベルクソンの語を用いれば「水路づけられ」、同時に強められる。その範囲は限界内で拡張される。水路づけがなければ、独創性の深みは動物身体にとって災厄を意味しただろう。それとともに、人格的精神性が進化しうる――その個体的独創性を、それが依存する物質的有機体の安全性と結びつけながら。こうして生は社会へと折り返す――独創性を境界のうちに縛りつけ、反復される性格による大量性を獲得する。単細胞、植物、そして下等な動物の生の場合、生きている人格性を推測する根拠はない。しかし高等動物の場合には中枢的な方向づけが存在し、それぞれの動物身体が生きている人格、あるいは生きている人格たちを宿していることを示唆する。われわれ自身の自己意識は、そのような人格としてのわれわれ自身への直接の気づきである。そのような統一された制御には限界があり、人格の解離、継起する多重人格、さらには共同で所有される多重人格を示す。この最後の事例は宗教の病理学に属し、原始の時代には悪魔憑きとして解釈されてきた。したがって生はその本質において自由による強度の獲得であるが、同時に水路づけに服従し、それによって秩序の大量性を獲得することもできる。最後にわれわれは、伝統的な心身問題を生じさせる型の構造化された社会を考察しなければならない。たとえば人間の精神性は、部分的には人間身体の帰結であり、部分的には身体の単一の指令機関であり、部分的には身体の物理的関係にある程度無関係な思念の体系である。デカルト哲学は、一つの身体と一つの精神という、偶発的な結びつきにある二つの実体という、見かけ上の――明白な――事実に基づいている。有機体の哲学にとって、この問題は変容する。それぞれの現実性は本質的に両極的――物理的かつ精神的――であり、物理的相続には常に、部分的にはそれに従い部分的には関連する新奇な対比を導入する、概念的反応がともなうが、常に強調・評価・目的を導入する。物理的側面と精神的側面との、経験の統一への統合は、それを超越する創造性を、客体の不滅性の原理によって特徴づける、癒合の過程である自己形成である。したがって精神性は非空間的であるが、精神性は常に、空間的である物理的経験からの反応であり、それとの統合である。生きている人格は動物身体の複合的な構造の最終的な結節点あるいは交点である。人体を貫くそのような構造がある。身体の諸部分の調和した関係が、この相続の富を、経験の強度へと帰結する対比の調和へと構成する。対立の抑制は、対立の対比へと調整されてきた。人間の精神はこうして、その身体の相続を意識している。支配的な機会から支配的な機会への相続によって形づくられる、持続的実在も存在する。この精神の持続は、身体が構築される一般原理のもう一つの実例にすぎない。この支配的な機会の経路は、物理的な物質的原子から解離して、おそらく脳の部分から部分へと彷徨う。しかし中枢的な人格的支配は部分的にすぎず、病理的な場合には消え去りやすい。

 第四章 有機体と環境

  第I節〜第II節

これまでの議論は主に、あらゆる現実的存在の構成のうちに萌芽として、あるいは単なる能力として代表されている、機能作用の様態の弁別に集中してきた。現実的存在には唯一の類しかない、という前提は、有機体の哲学が従おうとする宇宙論的理論の理想を構成する。現実的存在の類的性格の記述は、神も、もっとも卑小な現実的機会も、等しく含むべきである――両者の本性のあいだに種的な相違はあるとしても。現実的機会のあいだの相違は、その与件の性格、その感受の狭さと広さ、さまざまな相の相対的重要性から生じ、これらの機会をさまざまな型へと分類することを可能にする。現実的存在の性格は最終的にその与件によって支配される。癒合において生じる感受の自由がいかなるものであれ、与件に内在する能力の限界を踏み越えることはできない。与件は限定すると同時に供給する。この学説から、有機体の性格はその環境の性格に依存する、ということが帰結する。しかし環境の性格は、その環境を共同で構成するさまざまな現実的存在の社会の性格の総和である。環境が存在の社会によって完全に覆われているというのは純粋な想定にすぎない。環境のうちに広がる、いかなる社会にも帰属できない多くの存在がありうる。環境における社会はその秩序ある要素を構成し、非社会的な現実的存在はその混沌の要素を構成する。神の内在は、純粋な混沌が内在的に不可能であるという信念の根拠を与える。他方の極では、世界の広大さは、それを超えて進歩がありえないような秩序の状態が確立されうるという信念を否定する。実際、現実的存在は「満足」に関して分類されねばならず、これは「過程」を構成する操作によって与件から生じる。満足は「凡庸性」「漠然性」「狭さ」「広さ」への言及によって分類されうる。凡庸性と漠然性は、それぞれ与件における対立する性格に起源をもつ、満足における性格である。凡庸性は与件の諸要因における協調の欠如から生じ、ある要因から生じる感受が他の要因から生じる感受によって強化されないことを意味する。両立不可能性が対比に優越しているのである。この場合、過程は、強化された狭さからも、調和した広さから派生するより高次の対比による適切性の増強からも、いかなる協調的な強度化も含みえない。凡庸性は誤った種類の広さに起因する――すなわち、より高次の範疇における強化された狭さをともなわない広さに起因する。調和とはこの広さと狭さとの組み合わせである。深みには、限定された効果の集合への何らかの狭い集中が本質的だが、その相違は関わる対比の範疇の水準において生じる。他方「漠然性」は同一化の過剰に起因する。与件において、さまざまな現実的存在の客体化が、遠近法的対比のかすかな協調をともなう複製となっているのである。この条件のもとでは、さまざまな客体化のあいだの対比はかすかであり、諸客体をたがいから弁別する補足的な感受に欠乏がある。こうして共通の性格のゆえに結合体全体の抱握における強度的な狭さがありながら、結合体の確定した現実的存在のあいだの相違の無関連性という漠然性がともないうる。この仕方で、現実的存在の一群は、一つの延長的全体として満足に寄与する。それは可分的だが、実際の分割とその性格の散発的な相違は、全体とその部分に属する一つの性格のかたわらで、比較的無関連なものへと沈み込んでいる。漠然性のゆえに、多は一として数えられ、そのような多重の統一への分割の非確定的な可能性に服する。強度は狭さの報酬である。少数の社会的集団による環境の支配が、現実的存在間の弁別の漠然性と共通性格の適切性の強度化との両方を生み出す要因である。これらが狭さのための二つの要件である。下等な有機体は低級の型の狭さをもち、高等な有機体はより高次の範疇における強化された対比をもつ。カントやヘーゲルの伝統に基礎を置くいかなる形而上学的図式においても、経験は人間の機能作用の高次の様態のうちにある操作の産物である。有機体の哲学は、カントが『純粋理性批判』を置いた哲学的立場において、純粋な感受の批判を構築しようと志す。有機体の哲学において、カントの「先験的感性論」は、彼の主要な主題であるべきだったものの歪められた断片となる。与件はそれ自身の相互連関を含み、感受の過程の第一段階は、単なる潜勢態である与件が、実現の複合的統一のための個体化された基盤となる、感受の応答的な適合への受容である。この構想は、ロックが『人間知性論』後半で示した思考様式と実質的に同一である。ロックとその後継者たちの現行の学説には根本的な誤解がある――それは原初的な経験の型の記述に関する。ロックは、もっとも原初的なものは感覚知覚のうちに見出されると想定する。十七世紀物理学が第一次性質と第二次性質の複合性とともに示したことは、感覚知覚が複合的な機能様式を含むことを、哲学者たちに警告すべきであった。原初的な感受は、より低次の水準に見出される。より原初的な型の経験は感覚受容に関わるのであり、感覚知覚に関わるのではない。感覚受容は「非空間化」されており、感覚知覚は「空間化」されている、というベルクソンの見事な言い回しがこの筋道を示している。感覚受容において感覚与件は情動の確定性であり、機会から機会へと伝達される情動的形相である。ある十分に複合的な機会において、変換の範疇がそれらに結合体を性格づける新しい機能を与える。

  第III節〜第IV節

「感覚与件」の名のもとに分類される永遠的客体は、永遠的客体のもっとも低い範疇を構成する。そのような永遠的客体は他の永遠的客体のあいだの関係の様態を表現しない。それらは対比でもパターンでもない。感覚与件はいかなる現実的存在の構成要素としても必要であり、より高次の等級の実現に適切であるが、感覚与件はそれ自身の実現のために、より低次の等級のいかなる永遠的客体をも要求しない――ただしパターンの潜勢態を含み、何らかの実現されたパターンにおける地位のある実現から強度への接近を得る。したがって感覚与件は、その零幅の浅薄さからの救済として、それをある構成要素として含む、より広い複合的な永遠的客体の選択的な適切性を要求するが、それが前提する何らかの永遠的客体の適切性は含まない。したがってある意味で感覚与件は単純である――その実現は、その確定した単純な構成要素である何らかの永遠的客体の同時的実現を含まないからである。しかし別の意味では、それぞれの感覚与件は複合的である――それはいかなる現実的存在への進入の潜勢態、そして他の永遠的客体との対比・パターン化された関係の潜勢態からも切り離せないからである。狭さは、もっとも低い範疇において、そのような経験に属する強度を達成するが、広さの欠如のゆえに失敗する。対比は深みを引き出し、パターン化された対比の欠如があるときには浅薄な経験のみが可能である。ヒュームは、単なる感覚与件に関する想像力というより高次の能力の比較的な失敗に気づく。彼はこの比較的失敗を、新奇な感覚与件を想像することの絶対的抑制という教義へと誇張する。しかし彼自身が挙げる例――段階づけられた色調の尺度における欠落を埋める新しい色調の想像――は、与えられた色調のあいだの対比が想像的に拡張されて、欠けている色調の想像を生み出しうることを示している。だがヒュームの例はまた、想像力が永遠的客体のより高次の範疇のなかでこそもっとも自由に働くことをも示している。パターンはある意味で単純である――パターンとは、対比の「素材」を構成する特定の永遠的客体から抽象された、複合的対比の「様式」である。しかしパターンは非選択的に、その「様式」における何らかの対比の「素材」における要素でありうる潜勢態をもつ、いかなる永遠的客体をも指示する。パターンと感覚与件はこうして、いずれもそれ自身の実現において他の特定された永遠的客体を含まないという意味で単純である。しかしパターンは、感覚与件が保持する単純性とは別の意味で単純性を欠く。パターンの実現は必然的に、そのパターンにおいて対比可能な永遠的客体の一群の同時的な実現を含む。感覚与件の理想的な浅薄さにおける実現は、その個体的・関係的本質という固有の装置以外のいかなる永遠的客体も要求しない。この絶対的な狭さをもつ現実的存在は、混沌の理想的なゼロとは異なるが、同様に不可能な、満足の理想的な希薄さをもつ。もっとも単純な等級の現実的機会は、パターン化された対比の最小限をともなう、わずかな感覚与件を経験するものとして捉えられねばならない。感覚与件はそのとき情動的に経験され、その強度が満足の統一へと総和される、特定の感受を構成する。物理学の言葉を一般化すれば、Mの経験は、A、B、Cから方向づけられた特定の感覚与件から生じる強度である。実際にA、B、Cから、特定の感受の形相から生じる量的感受の方向づけられた流入がある。経験はベクトル的性格、強度の共通の尺度、その強度を伝える特定の感受の形相をもつ。量的な情動的強度の概念に「エネルギー」という語を、「感受の特定の形相」の概念に「エネルギーの形態」という語を代入し、物理学において「ベクトル」が他所からの確定した伝達を意味することを想起するならば、現実的存在の構成におけるもっとも単純な要素についてのこの形而上学的記述が、近代物理学の観念が組み立てられる一般原理と完全に一致することが分かる。形而上学における「与件」は物理学におけるベクトル理論の基盤であり、形而上学における量的満足は物理学におけるエネルギーのスカラー的局在の基盤であり、形而上学における「感覚与件」は、エネルギーがそれ自身をまとう特定の形相の多様性の基盤である。この直接知覚――主体の応答性のみによって特徴づけられ、より高次の相における始発を欠く――は、受容性という装いのもとでの現実的存在の構成を示す。因果性の言葉で言えば、それは現実世界において働く作用因を記述する。ロックによって組み立てられた認識論の言葉で言えば、それは特定の実在についての観念が、いかに知覚者の主体性へと吸収され、外部世界についてのその経験のための与件となるかを記述する。科学の言葉で言えば、それは局在化されたエネルギーの量的強度が、それ自身のうちにその起源のベクトル的な印と、その特定の形相の特異性とをいかに担うかを記述し、またエネルギーの量の構築において識別されるべき原子的量子の理由をも与える。このようにして、有機体の哲学は、そうあるべきように、事実に訴えかける。

  第V節〜第VII節

知覚についての現行の説明は、近代の形而上学的困難の牙城である。それらは、実体・性質の範疇という重荷をもたらした、まさに同じ誤解にその起源をもつ。ギリシア人は石を見て、それが灰色であることを知覚した。ギリシア人は近代物理学を知らなかったが、近代の哲学者たちは、ギリシア人に由来する範疇の言葉で知覚を論じている。ギリシア人は、もっとも精巧で洗練された形態の知覚、すなわち視覚知覚から出発した。視覚知覚においては、粗野な知覚は、とりわけ人間経験において際立つ、経験における始発的な諸相によってもっとも完全に作り変えられている。もし知覚のより早い二つの抱握的な相――受容的な相、すなわち与件と主体的応答――を、より進んだ始発的な諸相から解きほぐそうとするなら、始発的な増幅の当惑させるような多様性のただなかで、あらゆる知覚様態に共通するものを考察しなければならない。この主題について、私はヒュームに訴えることで満足する。彼は「しかし私の感覚は、ある仕方で配置された、色のついた点の印象しか私に伝えない。もし〈目〉が何かそれ以上のものを感受するならば、それを私に指し示してほしい」と書いている。またこうも書いている――「光学に関する著述家たちのあいだで普遍的に認められているのは、〈目〉は常に等しい数の物理的な点を見るということ、そして山頂に立つ人が受け取る像は、もっとも狭い中庭や部屋に閉じ込められているときと変わらないということである」。これらの引用のそれぞれにおいて、ヒュームは明示的に〈目〉が見ると主張している。慣例的な注釈は、ヒュームが理解可能性のために通常の言い回しを用いているにすぎず、実際には精神への印象について語っているのであり、いつか学識ある学者が「目」を「自我」へと訂正することで名声を得るだろう、というものである。しかしこれらの一節を引く理由は、この言い回しの形式が文学的であり理解可能であるのは、それが動物知覚の窮極の真理を表現しているからだ、という命題を強調するためである。窮極の瞬間的な「自我」は、その与件として「かくかくの光景を経験している目」をもつ。第二の引用における物理的な点の数への言及は、網膜の興奮領域への言及である。したがって「かくかくの光景を経験している目」は、網膜の細胞から、関連する神経を構成する現実的存在の系列を通じて、脳に至るまで、与件として渡されていく。目と脳との直接の関係は、この間接的伝達の強度によってすっかり影を潜めてしまう。ここで注目すべき点は、「かくかくの光景を経験している目」という文学的な自明性である。これこそまさに、ヒュームが自らの哲学に反してでもこの表現を用いる理由である。有機体の哲学が導き出す結論は、人間経験において知覚の根本的な事実は、かくかくの経験をもつ人体の先行する部分の客体化を、与件のうちに含むことである、というものである。ヒュームはこの結論に、自らの目的に適うときにはそこから論じるほどには同意している――「実体と偶有性の区別に、その推論の多くを基礎づけ、それぞれについて明晰な観念をもつと想像する哲学者たちに、私はぜひ尋ねたい。実体の観念は感覚の印象から派生するのか、反省の印象から派生するのか。もし感覚によって伝えられるのなら、どの感覚によって、どのような仕方でか。もし目によって知覚されるなら、それは色でなければならない。耳によってなら音、口蓋によってなら味、というように」。われわれはヒュームの一覧を延長できる――石の感受は手のうちにあり、食物の感受は胃のうちの疼きであり、聖書記者の言うように哀れみの情は腸のうちにあり、安寧の感受は内臓の随所にあり、不機嫌は乱れた肝臓に由来する情動の調子である。この一覧のうちいくつかの事例――たとえば視覚――では、窮極の主体における補足的な相が、目から相続された与件よりも重要性において勝る。他の事例――たとえば触覚――では、「手のうちの感受」という与件が、その強度あるいは性格の多くが窮極の主体における補足に由来するとしても、その重要性を保持する。疼きの事例では、与件としての胃がおもな重要性をもち、食物はぼんやりとしか感受されない――少なくとも専門医あるいは素人医による状況の知的分析までは。哀れみ・安寧・不機嫌の事例では、窮極の主体における補足的な感受が優勢だが、相続された与件としての身体諸器官へのぼんやりとした言及がある。この検討は、知覚の優勢な基盤は、伝達と増強の経路によってその経験を渡していく、さまざまな身体諸器官の知覚である、という見解を支持する。生きた身体は物理的宇宙の他の部分について知られていることにしたがって解釈されるべきだ、というのが物理科学の受け入れられた学説である。これは健全な公理だが、両刃の剣でもある――それは、宇宙の他の部分もまたわれわれが人体について知ることにしたがって解釈されるべきだ、という逆の推論をともなうからである。人体は、電磁気学の技術用語を用いれば、複合的な「増幅器」として捉えられるべきである。身体を構成するさまざまな現実的存在は、身体のいかなる部分の経験も、一つあるいは複数の中枢的機会へと伝達され、途上で蓄積される増強とともに、あるいは最終的な統合によって最後に加えられる増強とともに、相続されるように調整されている。持続する人格性とは、継起する瞬間ごとに身体においてそれぞれ支配的である、生きている機会の歴史的経路である。「因果的効力性の様態における知覚」――記憶はこの様態における知覚の一例である。「単に視覚が意味するのは、灰色の形の、知覚者と同時代的な、そして知覚者に対して多かれ少なかれ漠然と規定された、ある空間的関係をもつ視覚である。したがって単なる視覚は、灰色によって媒介される例証を通じて、ある同時代の空間的領域の、知覚者に対する幾何学的な遠近法的関係性の例証に限定される。感覚与件「灰色」は、その領域を他の領域との漠然とした混同から救い出す。ある感覚与件を媒介として、同時代の空間的領域を、その空間的形状と知覚者からの空間的遠近法とに関して、漠然性から救い出すにすぎない知覚は、「現前的直接性の様態における知覚」と呼ばれる。この様態と因果的効力性の様態とのあいだの複合的な相互作用の解明が、知覚理論の主要な問題の一つである。この相互作用は「象徴的指示」と呼ばれよう。因果的効力性の純粋な様態の明白な例を見出すには内臓と記憶に頼らねばならず、現前的直接性の純粋な様態の例を見出すには、いわゆる「錯覚的」な知覚に頼らねばならない。たとえば鏡に映った灰色の石の像は鏡の背後の空間を例証し、切断された四肢の感受は実際の身体を超えた空間を例証する。これらはいずれも現前的直接性の純粋な様態の完全に良い例である。この様態に適合する「錯覚的」という形容語は、媒介する永遠的客体が知覚された領域の贈与に帰されるべきでないことの証拠である。それは知覚する機会の始発的な諸相のいずれかから、この様態における進入を獲得したに違いない。この限りにおいて有機体の哲学は、十七世紀の第一次性質・第二次性質の学説に同意する――媒介する永遠的客体は、この進入の様態においては第二次性質である。この、現前的直接性の純粋な様態における知覚の記述は、知覚を前提する彼の議論から判断できるかぎり、デカルトの知覚一般についての学説と完全に一致する。いずれにせよ、こう記述された知覚において知覚されるすべては、客体が延長をもち、知覚者の動物身体との延長的な関連性の複合体に巻き込まれている、ということだけである、という彼の結論が直ちに帰結する。デカルト哲学の困難の一部は、知覚についてのこの記述を完全な記述として受け入れるいかなる哲学の困難の一部でもあるが、われわれの直接知識への唯一の通路がこの貧しい残余に限定されるにもかかわらず、いかにしてこの世界についてこれ以上のことを知りうるかを説明することにある。もしこれがわれわれが物理的世界について知覚するすべてであるなら、媒介する感覚与件の起源を人体のいかなる機能作用にも帰す根拠をもたない。こうしてわれわれは、身体と精神という、デカルトの実体の二元性へと駆り立てられる。知覚は、貧しい延長的な宇宙に関する精神的機能作用に帰されねばならない。われわれはこうして、人体を物語から締め出すことによって、直接の確信にすでに暴力を加えている。ヒューム自身が宣言するように、われわれは目によって見、口蓋によって味わうことを知っているからである。しかしここまで進めば、さらなる一歩を踏み出すことは不可避であり、われわれがそのただなかに自らを見出す現実の事物の世界を知覚しているという、もう一つの確信をも放棄することになる。貧しい延長的世界は、われわれが本当に意味するものではないからである。こうしてわれわれは知覚を、「様式」をともなう感覚与件からなる、精神への印象の意識へと還元する。そしてわれわれはヒュームへ、そしてカントへと至る。カントの哲学は、われわれが順次放棄してきたこの二つの確信に、何らかの意味を回復しようとする試みである。

  第VIII節〜第IX節

現前的直接性は、同時代世界を、原子的な現実性への延長的な細分の潜勢態に関して、そしてそれによって生じる遠近法的関係の図式に関して、例証する。しかしそれは、この同時代の「実在的潜勢態」の実際の原子化については何の情報も与えない。その限界によって、それは既に述べた学説――同時代世界は、それと同時代的な現実的機会から独立して生じる――を例証する。現実的機会AとBが相互に同時代的であるのは、AがBにとっての与件に寄与せず、BがAにとっての与件に寄与しない場合である。ヒュームの因果性についての論争は、事実上、純粋な現前的直接性は、ある現実的存在が知覚する現実的存在を構成するのであれ、知覚されたある現実的存在が知覚された別の現実的存在を構成するのであれ、いかなる因果的な影響も開示しない、という一つの長く説得力のある論証である。結論は、現前的直接性による開示に関するかぎり、同時代の宇宙における現実的存在はたがいに因果的に独立している、ということである。二つの純粋な知覚様態は、知覚する機会Mへの言及によって定義されるさまざまな局所を開示する。たとえば、Mにとっての与件を提供する既定の世界の現実的機会があり、それらはMの因果的過去にある。また、Mがそれらへの寄与の潜勢態を自ら決定する潜勢的な機会があり、それらはMの因果的未来にある。Mの因果的過去にも因果的未来にも属さない現実的機会もあり、それらはMの「同時代者」と呼ばれる。これら三つの局所は、もっぱら因果的効力性の純粋様態への言及によって定義される。現前的直接性の純粋様態に目を向けると、局所を得る先の仕方との大きな相違が現れる。因果的様態を考察する際には、過去と未来は肯定的に定義され、Mの同時代者はMの過去にもMの未来にも属さないものとして否定的に定義された。現前的直接性を扱う際には逆の道を取らねばならない。現前的直接性は、それ自身によって定義される直接の現在についてのみ肯定的な情報を与えるからである。現前的直接性は、感覚与件によって、Mにとってこのように客体化される世界の断面内の潜勢的な細分を例証する。この断面がMの直接の現在である。このように例証されるのは、原子的な現実的機会への細分の潜勢態である。ある領域が「生成の一致」を満たすとき、それは「持続」と呼ばれよう。持続とは宇宙の断面であり、古い「古典的」時間理論によれば、ある時代における世界の直接の現在の条件である――この理論はごく近年まで疑われたことのない理論である。有機体の哲学はこの観念を受け入れ定義することが見て取られるだろう。ある種の受容が形而上学に課される。もしこの観念が完全に拒否されるなら、確信の普遍的な自明性への訴えはいかなる重みももちえない。というのも、この自明性の力よりも強い実例は存在しえないからである。古典的な時間理論は、ある持続がその各成員の直接に知覚された直接の現在を含む、と暗黙のうちに想定していた。ある現実的機会は、その直接に知覚された直接の現在を含む持続と「共に生成する」あるいは「静止している」と言われよう。しかし古典理論はこの言明の逆もまた想定していた――すなわち、いかなる現実的機会もただ一つの持続にのみ属する、というものである。有機体の哲学は近年の物理学と一致して、この逆命題を拒否する――ただしこの拒否は、われわれの宇宙時代についての科学的検討に基づくものであり、より一般的な形而上学的原理に基づくものではない、と主張する。この議論を要約すれば、ある一つの現実的機会Mに関して、三つの異なる機会の結合体を考察しなければならない――(一)Mの同時代者の結合体、(二)Mを含む諸々の持続、(三)現前的直接性の様態で知覚される、Mの現前する局所である。現前する局所は、身体との体系的な幾何学的関係によって定義される局所であり、その体系的な関係性が、感覚知覚を身体の幾何学的なひずみと生理学的な興奮との関数たらしめる。すべての測定は、この現前する局所内の幾何学的関係をもつ感覚与件の観察によって成し遂げられる。事物の不変の性格についてのあらゆる科学的観察は、そのような局所内で直接観察される幾何学的な類比の維持に窮極的に依存している。窮極的にはあらゆる科学は、ある体系内における地位の相同性の直接観察に依存する。持続の局所は身体との体系的関係によって定義されるが、「生成の一致」の局所は特定の現実的存在に依存する。「持続」の語は「生成の一致」の局所に、「現前する局所」と「歪み局所」の語は現前的直接性に含まれる体系的局所に用いられよう。

  第X節

ここで有機体・秩序・社会・結合体についてのこの議論を要約できる。有機体の哲学の目標は、「体系」「過程」「新奇性への創造的前進」「真なる事物(デカルトの意味における)」「頑固な事実」「経験の個体的統一」「感受」「絶えざる消滅としての時間」「再創造としての持続」「目的」「限定性の形相としての普遍」「頑固な事実の窮極の作用主体としての特殊(すなわち真なる事物)」という観念に基づく、一貫した宇宙論を表現することにある。これらの観念はいずれも、デカルトあるいはロックのいずれかによって明示的に定式化されている。またそのいずれも、常識に暴力を加えることなしには放棄できない。しかしデカルトもロックも、これらの観念を一つの首尾一貫した宇宙論の体系へと織り上げてはいない。いずれかの哲学者が体系的であるかぎり、彼は最終的にヒュームの感覚論の極端へと至る、代替の観念に依拠する。有機体の哲学において、「有機体」という観念には二つの、たがいに結びついてはいるが知的には分離可能な意味がある――微視的意味と巨視的意味である。微視的意味は、経験の個体的統一を実現する過程として捉えられる、現実的機会の形相的構成に関わる。巨視的意味は、現実的機会を限定すると同時に機会に機会を与える頑固な事実として捉えられる、現実世界の与えられていることに関わる。社会的結合体の大量的再生において例証される、創造的衝動の水路づけは、常識にとって頑固な事実の力の窮極の例証である。またわれわれの経験において、われわれは本質的に、直接に関連する過去の頑固な事実であるわれわれの身体から生じる。われわれはまた、個人的経験の直接の過去によって運ばれる――われわれが一つの文を終えるのは、それを始めたからである。この文は、これまで語られたことのない新しい思考を体現しているかもしれないし、あるいは言葉の新奇性をもって言い換えられた古い思考かもしれない。より早い語とより後の語の音のあいだに、使い古された連想は必要ない。しかし、われわれが一つの文を終えるのはそれを始めたからだ、ということは容赦なく真実であり続ける。われわれは頑固な事実によって支配されている。近代哲学の理論がもっとも弱いのは、まさにこの「頑固な事実」に関してである。哲学者たちは、遠い帰結と科学の帰納的な定式化について思い悩んできた。彼らは直接の推移の急流に注意を限定すべきである。そうすればその説明は、その生来の不合理さにおいて見て取られるだろう。

 第五章 ロックとヒューム

  第I節〜第II節

デカルト・ロック・ヒュームについてのより詳細な検討は、有機体の哲学が十七世紀の思想にいかに深く基礎を置き、いくつかの決定的な点でその思想からどのように逸脱しているかを明らかにするだろう。ヒュームの哲学が依拠する諸前提から出発するのがよい。これらの前提はヒュームに独自のものではなく、カントによっても大幅に受け入れられ、近代哲学に広く行きわたっている。有機体の哲学は、これらの前提とそこから直接導かれる推論とを除いて、ヒュームとカントの叙述の大部分を受け入れるものとして捉えると、もっともよく理解される。ヒュームは、精神に真に現前するのはその知覚――印象と観念――のみであり、外部の対象はそれらが引き起こす知覚を通じてのみわれわれに知られる、と主張する。憎むこと・愛すること・考えること・感じること・見ること――これらはすべて知覚することにほかならない。あらゆる知覚は「印象」と「観念」という二つの種類に分かれ、両者の相違は、それらが精神を打つ力と生気の程度にある。もっとも強い力と激しさで入り込む知覚が「印象」であり、それには感覚・情念・情動が含まれる。「観念」とは、これらの、思考と推論における淡い像を意味する。ヒュームはロックの「観念」という語の広い用法を捨て、より通常の狭い意味へと戻す。彼は観念と印象をそれぞれ「単純」と「複合」に分ける。そして「あらゆる単純観念は、その最初の現われにおいて、それに対応し、それを正確に表象する単純印象から派生する」という一般命題を打ち立てる。しかしヒュームが複合的な印象と観念に移るとき、彼の見事な明晰さは部分的に彼を見捨てる。彼は、(一)多くの単純が一つの複合的知覚を構成する「様式」(あるいは「秩序」)と、(二)この複合的知覚が生じる有効な事実と、(三)この確定した様式において複合的知覚を構成する単純の単なる多性とを、十分に区別しない。この三つの観念のそれぞれが、彼の論証における本質的な要素である。「延長の観念は、これらの色のついた点と、それらの現われの様式との写しにほかならない」と彼は書く。また「観念がまったく緩く結びついていないならば、変化だけがそれらを結びつけるだろう。単純観念が規則的に複合観念へと落ち着くことができるのは、それらのあいだに何らかの結合の絆――ある観念が自然に別の観念を導入する、何らかの連合的な性質――がなければ不可能である」とも書く。さらに「実体の観念は様態の観念と同様に、想像力によって結合され、特定の名前を与えられた、単純観念の集合にほかならない」とも書く――ただしそれらを構成する特殊な性質は、通常、それらが内属すると想定される未知の何かに帰される、あるいはそのような想定がなくとも、少なくとも近接性と因果性の関係によって密接かつ不可分に結合されると想定される、と。この最後の引用における「結合の原理」という句は、「様式」と「有効な」理由とのあいだで曖昧である。いずれの意味にとっても、それは引用冒頭で「実体」という観念をこれほど単純に片づけた「単なる集合にほかならない」という句とは、一貫していない。この三つの引用の最初のものに立ち返れば、構成のいかなる特殊な「様式」も、それ自身が単純観念あるいは印象でなければならないことに気づく。さもなければ、その原初の様式のための別の「様式」がさらに必要となり、これが無限に続く。したがって悪しき無限か、あるいは最終的な単純観念のいずれかが存在する。しかしヒュームは、複合的印象の写しではない新奇な複合観念があることを認めている。したがって彼はまた、印象の写しではない、新奇な「様式」を伝える新奇な単純観念があることをも認めねばならないはずである。彼自身もまた、段階づけられた色調のなかの欠けている色調に関する、もう一つの例外に注意を向けている。この例外は色に限定されえず、音や匂い、あらゆる感覚の段階づけへと拡張されねばならない。したがって、単純観念はすべて単純印象の写しであるというヒュームの命題は、少なくともヒュームの不用意な仕方で述べられるかぎり、窮極の哲学的原理として受け取ることのできない、相当な限定に服している。想像力の自由についてのこの問いは、明らかにヒュームによって非常に表面的にしか扱われていない。想像力は決してきわめて自由なのではない。それは彼が主張するように複合観念に限定されているわけではないようだが、それが実際にもつ自由は、問題の事例よりも多かれ少なかれ、多様な等級の想像的自由をもつ、多様な現実的存在の可能性という原理を確立しているように思われる。しかしそのような事実としての絶対的自由というものはない。あらゆる現実的存在は、その現実的宇宙への相対性というその立脚点によって「与えられた」第一次相に内在する自由のみをもつ。自由・与えられていること・潜勢態は、たがいを前提したがいを限定する観念である。ヒュームは観念の結合についてのこの一節の末尾で、「自然は、ある仕方で、複合観念へと結合されるのにもっとも適切な単純観念を、各人に指し示している」と述べる。ヒュームの哲学は、二重の探求――多くの単純が一つの複合的印象となる統一の様式の探求、そして観念の産出を批判するための適切性の基準の探求――に携わっている。ヒュームが見出しうる適切性の基準は一つ、すなわち反復のみである。反復には程度がある。印象がより頻繁に反復されるほど、観念がそれを写すことがより適切になる。幸いにも、ヒュームが見出しうる理由はないにもかかわらず、頻繁に反復される複合的印象は、対応する複合的観念によってもまた頻繁に写される。因果性の重要性についての不信をヒュームに帰するのは大きな誤りである。『人性論』を通じて、彼はその根本的な重要性を一貫して肯定しており、最終的にそれを自らの形而上学に収めることができないとき、彼は自らの形而上学を超えて、いかなる合理的な体系化の外にある窮極の正当化――すなわち「実践」――に訴える。ヒュームによれば、われわれの感覚がある一つの事例において、継起と近接のある種の関係における二つの物体・運動・性質をわれわれに示すのに対し、われわれの記憶は、常に似た物体・運動・性質を似た関係において見出す、多数の事例をわれわれに示す。過去の印象の単なる反復からは――たとえ無限に反復されようとも――必然的結合のような新しい原初的観念は決して生じない。しかしヒュームの困難は、因果性が「われわれの記憶と感覚の直接の印象を超えたところ」にある、という点にある。この結合の「様式」はいかなる印象のうちにも与えられていない。したがって観念の全基盤、その適切性は、印象の反復に遡らねばならない。この議論の点で、ヒュームは、「反復」が「印象」に対して、まさに「因果」がそうであるのと同じ立場に立つ、という困難を見落としているように思われる。ヒュームは「印象の反復」と「印象の反復の印象」とを混同している。

  第III節〜第IV節

ヒュームの論証は循環的になっている。『人性論』冒頭で、彼は「あらゆる単純観念は、その最初の現われにおいて、単純印象から派生する」という「一般命題」を打ち立てる。彼はこれを経験的な概観によって証明する。しかしこの命題自体が――言葉としては隠れた形で――「反復」という観念を用いており、この観念自体は「印象」ではない。さらに後に彼は「必然的結合」を見出し、対応する印象を見出せないという理由で、それを退ける。しかし元の命題自体が経験的概観のみに基づいていたのだから、この却下の論証は純然たる循環論法である。さらに、もしヒュームが自らの優れた「存在の観念について、および外的存在について」の節に注意を払っていたなら、われわれが何かを考えるとき、それによってある意味でそれが「存在する」ことを思い出していただろう。したがって「必然的結合」の観念をもつ以上、唯一の問いは、われわれの「印象」の結合性におけるその例証に関するものである。彼は観念の重要性を、その観念をわれわれが抱くという事実と混同している。個別的な事実の独立性という学説は、主語・述語という言明の形式が形而上学的に窮極の真理を伝える、という観念に由来する。この見解によれば、その述語をともなう個体的な実体が現実性の窮極の型を構成する。もし個体が一つならばその哲学は一元論的であり、個体が多数ならば多元論的である。この形而上学的前提のもとでは、個体的実体のあいだの関係は形而上学的な厄介ものとなる――それらの居場所はない。したがって、われわれの直観的な「偏見」のもっとも明白な所見に反して、主語・述語型のあらゆる立派な哲学は一元論的である。実体・性質の形而上学の排他的な支配は、中世の論理的偏向によって大いに促進された。それはデカルトの学説において排他的な支配とともに勝利した。不幸にもデカルトは、自らの「真なる事物」という観念が、アリストテレスの「第一実体」という観念が含意するのと同じ窮極的事実の離接を含意するわけではないことに気づかなかった。ロックはこの支配からの反乱を主導したが、非一貫的にであった。彼にとってもヒュームにとっても、あらゆる説明の背景に暗黙のうちに前提されたまま、その知覚とともにある精神が残った。有機体の哲学において、主語・述語命題は高度の抽象を表現するものと見なされる。ロックのヒュームに対する形而上学的優位は、ロック自身が導入しヒュームが放棄した「観念」という語の広い用法に示される。ロックは「観念」を、精神が思考において携わりうるものすべて――幻影、概念、種、その他何であれ――を表現するために用いる、と説明する。しかし後に、その用法の拡張を明示的に注意することなく、彼は、観念が「一般的」になるのは、それらを何らかの特殊な存在へと「決定する」時間・場所・その他の観念という状況を、それらから切り離すことによる、と書いている。ここでロックにとって、精神の操作は、特殊な存在へと「決定された」観念から始発する。これはロックにとって根本的な原理であり、ヒュームにとっては言語の習慣への偶発的な譲歩であり、有機体の哲学にとっては根本的な原理である。ロックはこの「特殊な存在」についてのある種の知覚の原理の使用において揺れ動く。ヒュームはそれを放棄することによって一貫性を求め、有機体の哲学は、この原理と一貫しない部分を放棄することによってロックを再構築しようとする。しかしその原理自体は、ロックにおいて明白に述べられている。

  第V節

一つの重要な点において、ヒュームの哲学的構想はロックのそれよりも際立った優位を示す。『人間知性論』では「人間知性」の形態学的構造に強調が置かれ、さまざまな種類の「観念」の論理的関係が検討される。物理学であれ生物学であれ他のいかなる分野であれ、論理的関係の分析という意味における形態学は、知識の第一段階を構成する。それはデカルトが導入した新しい「数学的」方法の基盤である。形態学は、カントが分析的命題と呼ぶものを扱う。技術的な言葉で言えば、ロックには発生的な進化の使い道がなかった。他方でヒュームの思考の筋道は、知らず知らずのうちに「過程」を強調する。彼の懐疑論そのものが、分析的命題では表現できない何かが世界にある、という発見にほかならない。実際、ヒュームは、現実的存在が過程であると同時に原子的でもあり、いかなる意味においてもその部分の総和ではない、ということを発見していた。ヒュームは形態学の破産を宣言したのである。ヒュームが「魂」のうちに見出す過程の記述は次のようなものである――まず起源不明の感覚の印象、次にその印象から「派生する」観念、次に先行する観念から「派生する」反省の印象、そして反省の印象の観念。この過程のどこかに印象の反復があり、そこから「習慣」によって――特定の様態の「派生」を意味すると考えられる――相関する観念の反復があり、そこから相関する印象の反復への期待がある。この期待は「反省の印象」であろう。ヒュームがなぜ「習慣」を、「原因」という観念に適用したのと同じ批判から免除するのか、理解しがたい。われわれは「原因」の「印象」をもたないのと同様に、「習慣」の「印象」ももたない。原因、反復、習慣はすべて同じ舟に乗っている。いくぶん非一貫的に、ヒュームは感覚の印象が相関する観念から派生することを決して認めない――両者の相違は「力と生気」のみに存するにもかかわらず、この拒絶の理由は彼の哲学のうちには見出せない。真相は、ヒュームが外部世界への頑固な信念を保持していたが、その原理はこれを彼の哲学的な構築のうちで告白することを禁じていた、ということである。彼はその信念を日常生活のため、そして歴史的・社会学的著作、そして『自然宗教をめぐる対話』のためにとっておいたのである。ヒュームの記述の美点は、そこに記述される過程が「魂」の内部にある、ということである。有機体の哲学において、ヒュームに現れる「魂」、そしてロックとヒュームに現れる「精神」は、「現実的存在」「現実的機会」という句――同義語である――によって置き換えられる。ロックとヒュームの両者に等しく見出される二つの欠陥は、第一に、ロック的な「観念」とそのような観念の意識との混同であり、第二に、感覚の「観念」と反省の「観念」とのあいだに割り当てられた関係である。哲学者たちに広まる過度に知性主義的な偏向をもって、ロックとヒュームは、情動的な感受が必然的に感覚から派生すると想定する。これは著しく事実に反している。そのような感受と感覚とのあいだの相関は、全体として二次的な効果である。情動は際立って感覚を脇に押しやり、ロックの言い回しで言えば、ある種の「観念」がそこへと「決定される」「特殊な」対象を捉える。他の現実的存在についてのわれわれの抱握が、私的な感覚の媒介に限定されるというのは純然たる神話である。逆の学説の方が真理に近い――客体化のより原初的な様態は情動的な調子を介してであり、感覚を介した客体化が有効性をもって現れるのは、例外的な有機体においてのみである。この点についての学説において、ロックとヒュームはおそらく中世の伝統を繰り返していたにすぎず、その伝統を後継者たちに伝えたのである。生理学的に考察すれば、情動の調子は主として、感覚を生み出すことに特異的に無力な内臓の状態に依存する。したがって抱握という観念全体は逆転されねばならない。われわれは他の現実的存在を、情動の調子の直接の媒介によってより原初的に抱握し、感覚の直接の媒介によっては二次的かつ動揺しながらのみ抱握する。この二つの様態は融合し、われわれの知覚的知識に重要な効果をもたらす。ロックのいう「外部の事物」を「抱握される客体」の範疇に認める点で、有機体の哲学はロックに従う。それはまた、二つの同一対象の観念は、それらの異なる「感受」によってのみ異なりうる、というヒュームの最終的な譲歩にも従う。ヒュームがここで「感受」と呼ぶものは、有機体の哲学において「主体的形相」の学説へと拡張される。しかし抱握のあいだにはもう一つの、消し去りがたい相違がある――抱握する主体の多様性である。有機体の哲学のサンタヤナの「動物的信仰」の学説への接近は、この「感受」の媒介による客体化の学説によって成し遂げられる。サンタヤナは「動物的信仰」にいかなる与えられていることの要素もないと否定するだろう。この否定はおそらく、外部世界についてのあらゆる知識が私的な感覚の媒介によって生じるという感覚論的学説への配慮からなされている。もし「動物的信仰」という語を、哲学的伝統によって見過ごされてきた一種の知覚を記述するために用いることを許すなら、サンタヤナの議論の実質的な全体は有機体の哲学と一致する。サンタヤナと有機体の哲学が異なる正確な点は、「直観それ自体」が「直観の与件」――すなわち他の直観の与件――のうちに数えられえない、というサンタヤナの暗黙の想定にある。この可能性こそサンタヤナが否定し、有機体の哲学が肯定するものである。もしサンタヤナの立場が認められるなら、現象のヴェールと、行為と評価に結びついた原初的な軽信と、ヴェールからその背後の実在への神秘的な象徴作用とが存在することになる。有機体の哲学がこの学説を否認するのは、第一にそれが素朴な経験に反するから、第二に「記憶」が、ある経験行為が別の経験行為にとっての直観の与件となる、という事態のきわめて特殊な一例だから、第三にこの拒否される学説が、論理的単純性を癒合過程における優先性と同一視するという、既に指摘したロックの誤解に由来するからである。第四の理由は、それによって窮極の実在が経験の行為と同一視される、宇宙論の合理的図式への道が開かれるからである。

 第六章 デカルトからカントへ

  第I節

デカルトとロックがそれぞれの探究の範囲をどう捉えたかを比較すると、ロックが哲学的思考の伝統に導入した、きわめて重要な転換が直ちに明らかになる。デカルトは根本的な形而上学的問い――現実的存在であるとはどういうことか――を問うた。彼は三種類の現実的存在、すなわち思惟する精神、延長する物体、そして神を見出した。彼にとって現実的存在の語は「実体」であった。現実性の分析を成し遂げるための根本命題は、問題の実体について性質を述定するという形を取った。性質は偶有性か本質的属性かのいずれかである。デカルト哲学には三種類の変化の余地があった――持続する実体の偶有性の変化、個体的実体の始発、そして持続する実体の存在の終結である。最初の二種類の実体のいずれかに属する個体は、存在するために、それらの型に属する他のいかなる個体も必要としない。だが神の協働は必要とした。したがって精神の本質的属性は神への依存とその思惟であり、物体の本質的属性は神への依存とその延長であった。デカルトは「神への依存」に「属性」という語を適用しないが、それは彼の哲学の本質的要素である。多様な個体的実体のあいだの偶有的な関係が、デカルトにとって大きな困難を形づくることは明白である。もしそれらが現実世界の彼の図式に含まれるべきなら、それらは実体の性質でなければならない。したがって一つの関係とは、一方が排他的に一つの個体に、他方が排他的に別の個体に属する、一対の性質の相関である。この相関自体は、神の偶有的な性質の一つとして神に帰されねばならない。これがまさに、表象的観念の学説におけるデカルトの手続きである。この学説において、知覚される個体は一つの性質をもち、知覚する個体はこの性質を表象する「観念」というもう一つの性質をもち、神はこの相関を知っており、知覚者の神についての知識が彼にその観念の真実性を保証する。この、常識が他の現実的存在についてのわれわれの直接知識だと信じているものについての、きわめて人工的な説明を批判する必要はない。しかしそれは、デカルトが提供した形而上学的な素材と、彼の現実的存在の多性という想定とに一致する、唯一の説明である。この現実的存在の多性という想定において、有機体の哲学はデカルトに従う。しかしデカルトの困難からの脱出には二つの道しかないことは明らかである――一つは何らかの型の一元論に頼ることであり、もう一つはデカルトの形而上学的機構を再構築することである。しかしデカルトはあらゆる哲学の基盤である一つの原理を主張する――彼は、知識のピラミッド全体が、直接の現実的存在の構成における本質的な(デカルトにとって)、あるいは寄与的な要素である、知るという直接の操作に基礎を置く、と主張する。これもまた有機体の哲学にとっての第一原理である。しかしデカルトは、主語・述語という命題の形式と、そこから派生する哲学的伝統とに、その後の形而上学的展開を支配させてしまった。彼の哲学にとって「現実性」とは「内属する性質をもつ実体であること」を意味した。有機体の哲学にとって、知覚する機会はそれ自身の現実性の標準である。もしその知識のうちに他の現実的存在が現れるとすれば、それはそれらがその現実性の標準に適合するからにほかならない。現実的存在の世界の証拠がありうるのは、直接の現実的存在がそれらをそれ自身の構成に本質的なものとして開示する場合のみである。外部世界についての本質的でない経験というデカルトの観念は、有機体の哲学にとってまったく異質である。これが分岐の根本点であり、有機体の哲学が実体・性質という現実性の観念へのいかなる接近をも放棄しなければならない理由である。有機体の哲学は経験を、「多のうちの一であることの、そして多の構成から生じる一であることの、自己享受」を意味するものとして解釈する。デカルトは経験を、観念によるその限定の、一個体的実体による自己享受を意味するものとして解釈する。

  第II節

ロックは明示的に形而上学を放棄する。彼の探究は限定された範囲をもつ――「したがってこれが私の目的であるので、人間知識の起源・確実性・範囲、および信念・意見・同意の根拠と程度を探究することにあり、私は現在のところ精神の物理的考察には立ち入らず、その本質が何に存するかを吟味することに煩わされることはしない」。ロックの著作の永続的な重要性は、形而上学理論の偏向に影響されずに証拠を述べた、その率直さ・明晰さ・適合性から生じる。彼は「言い逃れる」というより通常の意味においてではなく、明確に述べるという意味において説明した。思想史における皮肉な展開によって、「経験論者」の称号を自らに僭称したロックの後継者たちは、彼らが軽蔑した中世哲学から相続した感覚論のア・プリオリな教義に服従して、経験の明白な事実を言い逃れることに主として従事してきた。ロックの『人間知性論』は、自らの形而上学的構築を事実への回帰によって照らし合わせようとする者にとって、この上ない貯蔵庫である。ヒュームは、前章の最初の引用で明示的に述べているこのア・プリオリな理論によって、自らの説明を切り詰めた――「精神に真に現前するのはその知覚あるいは印象と観念のみであり、外部の対象はそれが引き起こす知覚を通じてのみわれわれに知られる、ということは哲学者たちに普遍的に認められており、それ自体としてもかなり自明である」。ヒュームは「哲学者たちに普遍的に認められている」ことに一致して、この言明を感覚論的な意味で解釈する。この意味に従えば、印象とは、単純であるか多くの単純な普遍の結合の様式であるかのいずれかである、普遍についての精神の気づきの特定の一事例にほかならない。ヒュームにとって、憎むこと・愛すること・考えること・感じることは、これらの根本的な印象から派生する知覚にほかならない。これがヒュームの経験の領域におけるあらゆる発見を境界づける、ア・プリオリな感覚論の教義である。この教義はロックの『人間知性論』前半部を通じて彼の念頭にあったと考えられる。しかしロックはいかなるア・プリオリな教義との一貫性も求めていなかった。彼はまた経験のうちに、「それらをこれこれの特殊な存在へと決定する」性格をもつ「観念」を見出す。この教義との不一致は、経験論者たちに衝撃を与える――彼らはア・プリオリな無花果の葉なしに、裸で恥じらいのない経験を認めることを拒む。ロックは実践において誰も疑わないことを述べているにすぎない。しかしロックはヒュームと同様に、「感覚の観念」の介入なしに「反省の観念」が直接「ある特殊な存在へと決定される」ことを認めることを拒んだだろう。この点でロックは感覚論者であり、有機体の哲学は感覚論者ではない。しかしロックの形而上学の回避は、彼を、明晰さのために形而上学が本質的である段階の思考にまで導いたにすぎない。「特殊な存在」の地位、そして「特殊な存在へと決定された観念」の地位についての問いは、形而上学的な議論を要求する。ロックは「実体」という観念をけなすことに飽きることはないが、「現実的存在」と「実在」という観念を分析するために彼が用いるであろう代替の範疇について、何の示唆も与えない。しかし彼の『人間知性論』は、形而上学へと発展させうる思考の筋道を含んでいる。第一に、彼は、特殊な存在についての観念――たとえば子供の母親についての観念――が、比較・強調・抽象を含む確定した吸収の過程によって精神の機能作用が一つの統一へと織り上げる、根本的な与件を構成する、と明確に主張する。彼はまた、「力」が特殊な存在に帰属し、それによって他の特殊なものの構成が条件づけられる、と主張する。相関的に彼は、特殊な存在の構成は、他の特殊なもののそのような「力」によって条件づけられる「能力」を示すように記述されねばならない、と主張する。彼はまた、あらゆる性質がある意味で関係的な要素をそれ自身のうちにもつ、と主張する。最後に、ロックの時間の経過についての観念は、何かが「絶えず消滅している」というものである。もし彼が、現実的存在は時間の経過において「消滅」し、いかなる現実的存在も変化しない、という観念を把握していたなら、彼は有機体の哲学の視座に到達していただろう。彼が実際に言うのは「絶えず消滅する、継起の諸部分」ということである。ここでも他の箇所と同様、ロックの窮極の問いへの怠慢が彼に復讐する。彼の『人間知性論』の諸部分を相互に一貫させるものは何もない。彼は『人間知性論』全体を通じて前提されたままの実体・性質の範疇を決して改訂しない。『人間知性論』の最初の二巻で、彼は観念の学説の基盤を据えると称する。これらの巻は、基体としての精神の単なる限定としての観念という観念によって、暗黙のうちに支配されている。第三巻で彼は、確立された観念の学説を、言語の機能という従属的な問題への適用へと、明らかに移行しつつある。しかし彼はそこで暗黙のうちに、先行する巻の感覚論的学説とは調和しがたい、観念についての新しい学説を導入している。ヒュームはロックの前半の巻の学説に集中し、有機体の哲学は『人間知性論』の後半の巻の学説に集中する。もしロックの『人間知性論』が一貫した思考の体系として解釈されるべきなら、疑いなくヒュームが正しい。しかしそのような解釈は、ロックの哲学への貢献に暴力を加えるものである。

  第III節

有機体の哲学において、現実的存在は複合的であると想定される。「現実性」は構成の根本的な例証であり、「構成」の他のあらゆる意味はこの根本的意味へと関連づけられる。しかし「現実性」は一般的な語であり、単にこの窮極の型の複合的統一を指示するにすぎない――この一般的な語が適用される複合的統一は多数ある。個々の機会の複合的構成の言葉で表現できない、構成の一般的事実というものはない。あらゆる命題は、何らかの一つの現実的存在の構成において、あるいは多くの現実的存在の構成のうちに個別に、抱かれる。これは「存在論的原理」の別の言い表し方にすぎない。こう解釈された存在論的原理から、「共通世界」という観念は各々の現実的存在の構成のうちにその例証を見出さねばならない、ということが帰結する。現実的存在が「共通世界」の成員でありうるのは、「共通世界」がそれ自身の構成の一構成要素であるという意味においてのみだからである。したがって、他のあらゆる現実的存在を含む、宇宙のあらゆる項目は、いずれか一つの現実的存在の構成における構成要素である。この結論は既に「相対性の原理」という表題のもとで用いられてきた。この相対性の原理は、存在論的原理が極端な一元論へと帰結することから救い出される、その公理である。ヒュームはこの原理を、その「反復」という観念のうちに予兆している。いまや、現実的存在が、単なる数的な多様性をもつ、たがいの無差別な反復であることから救い出す何らかの原理が必要とされる。この要件は「強度的適切性の原理」によって供給される。強度的適切性という観念は、「代替可能性」「多かれ少なかれ」「重要あるいは無視しうる」といった概念の意味にとって根本的である。この原理は、宇宙のいかなる項目も――抽象的な思考としてどれほど法外であれ、現実的存在としてどれほど遠く隔たっていようと――いずれか一つの現実的存在の構成において抱握される際に、それ自身の適切性の段階をもつ、と主張する。それはより大きな適切性をもちえたし、より小さな適切性――否定的抱握に含まれる適切性のゼロを含む――をもちえたが、事実としては、その現実的存在の構成のうちにその地位を見出す、まさにその適切性をもつ。異なる現実的存在における多様な項目の適切性の程度のあいだには相互連関がある。この相互連関の事実は「両立可能性と反対性の原理」において主張される。ある種の項目は、それぞれの適切性の段階において、たがいに反対であり、それらの項目はそれぞれの適切性の強度とともに、一つの現実的存在の構成のうちに共存できない。もしある項目の集団が、その適切性の多様性とともに、一つの現実的存在のうちに共存できるなら、その集団は、そのように多様に適切なものとして、両立可能な集団である。ある類の多様な特殊本質――それによって現実的存在がいずれかの種に属しうるが複数の種には属しえない――は、二つの項目の集団のあいだの両立不可能性を例証する。「実在的」と「潜勢的」という語は、この叙述において対立する意味において取られる。それらの第一次的な意味において、それらは「永遠的客体」を限定する。これらの永遠的客体は、現実的存在の世界がその感受を通じてその成員のそれぞれの構成にいかに入り込むかを決定する。またそれらは、いずれか一つの現実的存在の構成が、前提すると前提されるという関係にある諸相へと、いかに分析されるかをも表現する。永遠的客体は、先行相が、それ自身を限定することなく、しかし個体的満足という形における現実的統一の決定に必要な付加とともに、後続相へといかに吸収されるかを表現する。現実的存在は、感受の両立不可能性によって課される限定のもとで、たがいの構成に入り込む。そのような両立不可能性は、感受される客体の構成におけるさまざまな要素を、「無関連性」と呼ばれる強度的ゼロへと追いやる。先行する諸相は、非確定性を除去する付加とともに、後続の相へと入り込む。限定の「どのように」と付加の「どのように」は、いずれも、問題の現実的存在の構成における永遠的客体の「実現」である。いずれか一つの特定の現実的存在から抽象された永遠的客体は、現実的存在への進入のための潜勢態である。いずれか一つの現実的存在へのその進入において、適切であれ無関連であれ、それは進入の様態の非限定的な多様性というその潜勢態を保持する――潜勢的な非確定性が、この事例において確定的にされるのである。特定の現実的存在への確定的な進入は、その永遠的客体を「非有」から「有」へと純然たる喚起として捉えられるべきではなく、非確定性からの確定性の喚起として捉えられるべきである。潜勢態は現実性となるが、それでもなお、現実的存在が避けた代替物についての伝言を保持する。現実的存在の構成において――赤いいかなる構成要素も緑でありえたし、愛されるいかなる構成要素も冷淡に評価されえた。「普遍」という語は永遠的客体への適用において不幸な語である。というのもそれは、現実的存在もまた相対性の原理の範囲内にあることを否定するように見え、実際そう否定することを意図されていたからである。「永遠的客体」という語を嫌うなら、「潜勢態」という語が適切だろう。永遠的客体は宇宙の純粋な潜勢態であり、現実的存在は潜勢態の実現においてたがいに異なる。『人間知性論』最初の二巻でのロックの主要な用法における「観念」という語は、問題の現実的存在への永遠的客体の確定的な進入を意味する。しかし彼はまた、ここでは放棄される、意識的な精神性への限定をも導入する。したがって有機体の哲学において、ロックの「観念」という語の第一の用法は永遠的客体の現実的存在への「進入」の学説によって、第二の用法は現実的存在の「客体化」の学説によって、それぞれ覆われる。この二つの学説はたがいに切り離して説明することはできない――それらは二つの根本原理、すなわち存在論的原理と相対性の原理との説明を構成する。現実的存在を構成する四つの段階は、既に第二部第三章第I節で述べられている。それらは与件・過程・満足・決定と名づけられる。両端の二段階は、その落着が定義される新しい現実的存在に相対的な、既定の現実世界からの移行という意味における「生成」に関わる。しかしそのような「定義」は、関わる現実的存在における要素として見出されねばならない。現実的存在が「見出す」落着が、その与件である。それはこの永遠的客体によって提供される「既定の」世界の限定された遠近法として捉えられねばならない。この与件は既定の世界によって「決定」される。それは新しく取って代わる存在によって「抱握」される。与件は経験の客観的な内実である。与件を提供する決定は、自己限定された欲求の転移であり、既定の世界は、その多くの現実性が両立可能に感受されるという「実在的潜勢態」を提供し、新しい癒合はこの与件から始まる。遠近法は両立不可能性の除去によって提供される。最終段階である「決定」は、現実的存在がその個体的な「満足」を達成したのち、それ自身を超えた未来の落着に確定した条件をいかに付加するかである。したがって「与件」は「受け取られた決定」であり、「決定」は「伝達される決定」である。この受け取られる決定と伝達される決定とのあいだに、「過程」と「満足」という二つの段階が横たわる。与件は最終的な満足に関しては非確定的である。「過程」とは、これらの非確定性が、個体的な現実的存在の現実的統一を達成する確定的な連関へと溶解される、感受の諸要素の付加である。現実的存在は、それ自身になる過程で、何であるべきかという問いをも解決する。したがって過程は、創造的な観念が確定した個体性の限定と達成へと向けて働く段階である。過程とは、窮極の目的の成長と達成である。窮極の目的の漸進的な限定こそが、その達成のための有効な条件である。現実的存在の確定した統一は、与件の確定性と非確定性への漸進的な関係によって漸進的に限定される理想への、目的因によって結びつけられる。それ自身感受される理想は、与件からいかなる「自己」が生じるかを限定し、その理想はまた、こうして生じる自己における一要素でもある。この叙述によれば、作用因は現実的存在から現実的存在への移行を表現し、目的因は現実的存在がそれ自身になる内的過程を表現する。世界の過去に見出される与件の生成があり、与件から直接の自己の生成がある。この後者の生成が直接の現実的過程である。現実的存在は、作用的な過去の産物であると同時に、スピノザの言葉で言えば〈自己原因〉でもある。あらゆる哲学は、何らかの形において、それが窮極の現実的事実と見なすもののうちに、この自己原因という要因を認めている。デカルトの論証は、考えるというまさにその事実から、この自由に決定された操作が、それによって現実的存在の持続における一機会を構成することを想定する――「私はある、私は存在する、というのは、私がそれを口にするたび、あるいはそれを精神的に考えるたびに、必然的に真である」。デカルトは自らの哲学において、思考者が偶発的な思考を創造すると捉える。有機体の哲学はこの順序を逆転し、思考を偶発的な思考者の創造における構成的操作として捉える。思考者は、それによって思考があるところの窮極の目的である。この逆転において、実体の哲学と有機体の哲学とのあいだの、最終的な対比が得られる。有機体の操作は、有機体を「超主体」として目指すのであり、有機体から「主体」として発するのではない。操作は先行する有機体から発し、直接の有機体へと向かう。それらは「ベクトル」である――多くのものを単一の超主体の構成へと運び込むからである。創造的過程はリズミカルである――それは多くのものの公共性から個体的な私性へと揺れ動き、そして私的な個体から客体化された個体の公共性へと揺れ戻る。前者の揺れは理想である目的因によって支配され、後者の揺れは現実的である作用因によって支配される。

  第IV節

有機体の哲学の観点からは、ヒュームが精神であるという事実に内在する「過程」を強調した点は、彼の功績とされねばならない。その過程についての彼の分析はその細部において欠陥がある。それは避けられないことであった。というのも彼はロックとともに、自らの問題を精神的操作の分析であると誤解していたからである。彼はそれを、現実的存在を構成する操作の分析として捉えるべきであった。そうすれば彼は、精神的操作をその正しい場所において見出しただろう。カントはこの誤解においてヒュームに従い、それによって世界を思考のうえに――思考の乏しい供給を顧みることなく――均衡させることになった。しかしヒューム、カント、そして有機体の哲学は、批判的理性の任務が構築物の分析であるという点で一致する――そして「構築」とは「過程」である。ヒュームによる、一つの精神的機会を構成する構築物の分析は、感覚の印象、感覚の印象の観念、反省の印象、反省の印象の観念、というものである。この分析はロックのうちにも不明瞭な形で見出されるかもしれない。しかしヒュームはそれを秩序だった過程として示し、そしてそれによって――彼自身も共有する――われわれの通常の信念を表現しようと試み、そして失敗する。後続の経験論者たちにとって、教義の快楽が証拠の形而上学的規則――批判にもかかわらずわれわれが生の統制のために依然として用いる、そうした前提に従わねばならないという規則――を凌駕してしまった。そのような前提は経験において命令的である。合理主義とは、そのような前提の一貫性の探求である。ヒュームは、感覚の印象から派生する観念と印象の系列において、経験の構築が原初の与件への付加の過程であることを暗黙のうちに認めている。この点で有機体の哲学はヒュームに同意する。それは第一次的な与件の適切な性格づけに関してヒュームに同意しない。ヒュームの哲学において、第一次的な印象は普遍の言葉で性格づけられる――たとえば『人性論』第一節で彼は色「赤」を例証として挙げる。これはまたロックの『人間知性論』最初の二巻の学説でもある。しかしロックの第三巻には異なる学説が現れ、第一次的な与件は明示的に「特殊な存在の観念」であると言われる。ロックのこの第二の学説によれば、普遍の観念はこれらの第一次的与件から比較と分析の過程によって導出される。有機体の哲学は原理的にロックのこの第二の学説に同意する。有機体の哲学は、「特殊な存在」が普遍から切り離されて抱握される、とは考えない。それどころか、それらは普遍の媒介によって抱握される、と考える。言い換えれば、あらゆる現実性は、それ自身の確定性の何らかの要素によって抱握される。これが現実的存在の「客体化」の学説である。したがって現実的存在の癒合における第一次の段階は、先行する宇宙が、問題の存在の萌芽的な個体性の基盤を構成するように、その存在の構成へといかに入り込むかという、その仕方である。この真理を見るもう一つの、逆の仕方は、現実世界におけるその存在自身の地位の、他の現実的存在への適切性が、その癒合の過程における始発的な与件である、というものである。この与件の解釈を強調したいときには、「与件」という語と同義に「客観的内実」という句が用いられよう。もちろん厳密に言えば、ヒュームが与件を限定する普遍もまた「客体」である。しかし「客観的内実」という句は、現実的存在の「客体化」という学説を強調することを意図している。もし経験が客観的内実に基づいていなければ、独我論的な主観主義からの脱出はありえない。しかしヒューム、そして主要な学説におけるロックは、経験にいかなる客観的内実をも提供することに失敗している。「過程」を主として思考の過程とするカントは、「与件」に関してヒュームの学説を受け入れ、「見かけの」客観的内実を構築物の終着点へと転じる。ここまでは、カントの「見かけの」客観的内実は、有機体の哲学における「満足」の位置を占めるように見える。この仕方では、独我論の困難から真に脱出することはできない。しかしカントは「実践理性」への訴えにおいて、有機体の哲学におけるものと類比的な意味における「満足」をも認めており、その複合的な性格の分析によって、彼の叙述によれば「単なる現われ」のいかなる分析によっても発見されえない窮極の現実性へと至る。これはきわめて複合的な学説であり、カントに由来するあらゆる哲学において再生産されてきた。この学説は、それぞれの現実的存在に二つの世界を与える――単なる現われの一つの世界と、窮極の実体的事実からなるもう一つの世界である。経験のための与件における「客観的内実」の不在というこの点について、サンタヤナはヒュームとカントに同意しているように見える。しかしもし彼の「動物的信仰」の導入が、ヒュームの学説からの懐疑的な結論の影響のもとでの与件の再検討として取られるなら、彼はその第二の学説として、実質的にロックの第二の学説を再主張していることになる。しかしもし彼が、われわれの情報源の批判的検討を離れて「実践」に訴えているのなら、彼はその手続きのあらゆる細部でヒュームやカントと異なるとはいえ、彼らとともに分類されねばならない。ヒュームの「実践」への満足した訴えの反合理主義を考慮すると、ヒュームと彼の「経験論者」の後継者たちが、ある種の宗教的信仰の反合理主義的基盤に対して抱く強い異議は、反合理主義のもう一つの実例としてでなければ、理解しがたい。ロックとヒュームが哲学に明示的に導入したこの反合理主義の筋は、中世の合理主義に対する反合理主義的な反動の最終的な勝利を印づけている。合理主義とは、説明をその窮極の限界まで押し進めることによってのみ明晰さに到達できる、という信念である。人間知性の分析において形而上学から離れて最終的な明晰さに到達しようと望んだロックは、その限りにおいて反合理主義者であった。しかしヒュームは、われわれの知識の源泉についての批判的検討に基づく一組の信念と、「実践」に含まれる信念についての批判的検討に基づくもう一組の信念という、二つの調整されない信念の組に満足したままだと解されるかぎりにおいて、哲学における反合理主義の最高水位に達する。「説明」とは調整の分析だからである。

  第V節

有機体の哲学が構築しようとするのは、カントが『純粋理性批判』を置いた哲学的立場における、純粋な感受の批判である。これは、カント哲学が要求する残りの諸批判にも取って代わるはずのものである。有機体の哲学において、現実的存在は複合的であると想定される。「実現」とは、事物の主観性と客観性とのあいだの、対蹠的な意味で取られる。今やわれわれはカントに至った――主観性を見かけの客観性へと、あるいは客観性を主観性へと変換する構築的な機能作用として、経験の行為という構想を、初めて完全かつ明示的に哲学に導入した偉大な哲学者である。順序は一般観念に比べれば重要ではない。この観念の最初の萌芽はロックとヒュームに見出される。実際ロックにおいては、少なくとも有機体の哲学の見方からすれば、この過程は正しい順序において捉えられている。しかしこの観念全体は漠然と不十分にしか捉えられていない。この観念の全貌はカントに由来する。哲学的思考の近代の時代の後半は、ヒュームとカントから始まる。そこでは宇宙論の発展が、次の三つの誤解のいずれか、あるいはすべてへの強調によって妨げられてきた。(一)現実性の実体・性質学説。(二)知覚の感覚論的学説。(三)主観的経験からの構築物としての客観的世界というカント的学説。これらの結びついた誤りの結合された影響は、哲学を、現代の思考様式の形成における無視しうる影響力へと縮減してしまった。ヒューム自身、自らの前提への批判としてではなく、自らの結論への補足として、「実践」への不吉な訴えを導入する。ヒュームを否認するブラッドリーは、われわれがそのうちに生き、動き、存在するところの客観的世界を、「実在として取れば非一貫的である」と見なす。いずれの側も、実在世界についての哲学的構想を日常経験の世界と調和させることができていない。

 第七章 主観主義の原理

  第I節

経験の行為における与件に割り当てられるべき性格は、どれほど注意深く精査してもしすぎることはない。哲学体系全体がそれにかかっている。ヒュームの「感覚の印象」についての学説は二重である。その一方を「主観主義の原理」、他方を「感覚論の原理」と呼ぶことにする。この両者を「感覚論的学説」の見出しのもとにまとめることが通例だが、実際には二つの原理が関わっており、たとえばロックのように、多くの哲学者はその両方への固執において等しく一貫的ではない。有機体の哲学は、本章で検討される形式におけるこの両方の学説を否定するが、改訂された主観主義の原理は受け入れる。ロックは感覚論の原理を受け入れ、主観主義の原理に関する言明においては非一貫的であった。いくつかの逸脱を除けば、彼は『人間知性論』の最初の二巻で後者を受け入れ、第三・第四巻では暗黙のうちに、しかし執拗にそれを退けた。カントは『純粋理性批判』において主観主義の原理を受け入れ、感覚論の原理を退けた。感覚論の原理は、主観主義の原理が受け入れられるならば、支配的な重要性を獲得する。カントによるこの重要性の認識が、哲学への彼の貢献の基盤を構成した。近代哲学の歴史とは、明示的あるいは暗黙のうちに受け入れられた主観主義の原理の、揺るぎない帰結を回避しようとする試みの物語である。ヒュームとカントの偉大な功績は、彼らがこの困難に直面した、その明確さにある。主観主義の原理とは、経験の行為における与件が、もっぱら普遍の言葉によって適合的に分析されうる、というものである。感覚論の原理とは、経験の行為における第一次の活動が、いかなる受容の主体的形相をも欠いた、与件の裸の主体的な抱懐である、というものである。これは〈単なる〉感覚という学説である。主観主義の原理は三つの前提から帰結する。(一)「実体・性質」という概念を窮極の存在論的原理を表現するものとして受け入れること。(二)第一実体は常に主語であって決して述語ではない、というアリストテレスの定義を受け入れること。(三)経験する主体が第一実体であるという想定。第一の前提は、窮極の形而上学的事実は常に実体に内属する性質として表現される、と述べる。第二の前提は、性質と第一実体とを相互に排他的な二つの類へと分ける。この二つの前提が合わさって、普遍と特殊とのあいだの伝統的な区別の基盤となっている。有機体の哲学は、この区別が基礎を置く前提を否定する。それは相互に排他的な、二つの窮極の存在の類を認める――一つは「現実的存在」からなる類であり、哲学的伝統においては誤って「特殊」と記述されてきたものであり、もう一つは、ここでは「永遠的客体」と名づけられる限定性の諸形相からなる類であり、現実的存在と比較して誤って「普遍」と記述されてきたものである。デカルトは、「客観的実在性」の使用から生じるいくつかの非一貫性のひらめきをともないつつも、与件についての主観主義の原理を保持した。しかし彼はまた、感覚論の原理のこの緩和が、経験内部の「過程」に、神の存在への健全な論証、そしてそこから、その過程においてどうにか生じるあの外部世界についての想定の一般的な真実性への健全な論証を、含めることを可能にする、とも考えた。有機体の哲学によれば、サンタヤナが「現在という瞬間の独我論」と呼ぶものからの脱出がありうるのは、ここで述べられた主観主義の原理に隠れた非一貫性を導入することによってのみである。したがってデカルトの脱出の様式は、幻想的であるか、あるいはその前提が不完全に述べられているかのいずれかである。この隠れた導入が常に生じるのは、常識が揺るぎなく客観主義的だからである。われわれは、われわれ自身と同じ意味において現実性の世界にある他の事物を知覚する。われわれの情動もまた、当然われわれの身体諸器官を含む、他の事物へと向けられる。これらがわれわれの第一次的な信念であり、哲学者たちはそれを解剖しようとするのである。哲学は常に、その一般化は現実の経験における第一次的な諸要素を出発点として基礎づけられねばならない、という健全な原理にしたがって進んできた。ギリシア哲学は、その一般化を示唆するために言語の共通の形式に頼った。それは「あの石は灰色である」という典型的な言明を見出し、現実世界は普遍的な性質によって限定される第一実体の集合として捉えられうる、という一般化を展開した。知識の理論もまた必要であった。ここでも哲学は、あらゆる知識は知覚に基礎を置く、という健全な原理から出発した。知覚は次いで分析され、それは普遍的な性質が特殊な実体を限定しているという気づきであることが見出された。したがって知覚とは、特殊な実体を限定する行為における普遍的な性質を捉えることである。知覚者はいかに知覚するのか、と問われ、その答えは彼の感覚器官によって、というものであった。したがって知覚される実体を限定する普遍的な性質は、知覚者に関しては、彼自身以外の特殊な実体に帰される、彼の私的な感覚である。ここまで、哲学の伝統は、他の要素とともに、主語・述語という命題の形式が根本的な形而上学的真理を表現するものとして取られる、形而上学における極端な客観主義の要因を含んでいる。デカルトは伝統的な哲学を二つの対立する仕方で修正した。彼は実体・性質という思考形式への形而上学的な強調を増大させた。現実の事物は「存在するために自分自身以外の何も必要としない」ものであり、その性質――あるものは本質的属性、あるものは偶有的様態――の言葉で考えられるべきものであった。彼はまた、意識的経験を享受する主体である実体こそが、哲学にとっての第一次的与件を――すなわちそれ自身をそのような経験の享受にあるものとして――提供する、という原理をも打ち立てた。これがデカルトを通じて近代哲学に入り込んだ、あの有名な主観主義的偏向である。この学説において、デカルトは疑いなく、プラトンとアリストテレスの時代以来もっとも偉大な哲学的発見をなしたのである。というのも彼の学説は、「この石は灰色である」という命題が、そこから形而上学がその一般化を出発させうる、既知の事実の第一次的な形式を表現する、という観念に直接反しているからである。もしわれわれが経験の主観的享受にまで立ち戻るならば、第一次的な出発点の型は「この石を灰色として知覚する私の知覚」である。原始の人間は形而上学者ではなく、具体的経験の表現に関心をもってもいなかった。彼らの言語は単に「石の灰色さ」といった有用な抽象を表現していたにすぎない。しかし、アメリカを訪れなかったコロンブスのように、デカルトは自らの発見の全貌を見逃し、彼とその後継者であるロックとヒュームは、経験の主観的享受の機能作用を、実体・性質の範疇にしたがって解釈し続けた。しかしもし経験の享受が構成的な主観的事実であるなら、これらの範疇は、形而上学におけるいかなる根本的な性格への要求も失っている。この方法の一貫した代弁者へと直ちに進めば、ヒュームは、その知覚的享受の説明のために、精神を限定する機能作用としての普遍的性質を探し求めた。もしわれわれが普遍を見出すために「この石を灰色として知覚する私の知覚」を精査するならば、唯一利用可能な候補は「灰色さ」である。したがってヒュームにとって、精神を限定する感覚として機能する「灰色さ」が、形而上学的一般化のための根本的な型の事実である。その結果がヒュームの単純な感覚の印象であり、それが彼の哲学の出発点を形づくる。しかしこれはまったくの混乱である。知覚する精神は灰色ではないのだから、灰色はいまや新しい役割を演じさせられているのである。「この石を灰色として知覚する私の知覚」という原初の事実から、ヒュームは「灰色さの感覚の気づき」を抽出し、それを経験のこの要素における窮極の与件として提示する。彼は普遍的な性質を探し求めるなかで、石像の客観的な現実性を放棄している――この「客観的な現実性」がデカルトの「客観的実在性」である。ヒュームの探求は、デカルトの発見が受け入れられるならば、その妥当性への一切の要求を失っている形而上学的原理にしたがって行われた。彼はそれから、原初の石像とまったく同じくらい特殊なものである「灰色さの感覚」に満足する。彼は「この灰色さの感覚」を意識している。彼が行ったのは、経験のための与件に適用されるものとして「主観主義」と「感覚論」の諸原理を恣意的に主張することである――「この灰色さの感覚」という観念は、他のいかなる現実的存在への言及ももたない。ヒュームはこうして、経験する主体に、存在するために他のいかなる現実的存在も必要としないという、デカルトの原理を適用しているのである。ヒュームが最終的にデカルトの精神という観念を批判するという事実は、彼の先行する論証がその観念を前提しているというもう一つの事実を変えるものではない。注目すべきは、ヒュームが普遍とそれの抱握する精神における実現の言葉によってしか、感覚を分析できないという点である。たとえば『人性論』で彼がそのような分析の最初の例として挙げるものを取れば、「赤」「緋色」「橙色」「甘い」「苦い」が見出される。したがってヒュームは「感覚の印象」を、有機体の哲学が概念的感受を記述するのとまさに同じ言葉で記述している。それらは普遍の特殊な感受であり、普遍を例証する他の特殊な存在の感受ではない。ヒュームはこの同一視を認め、「力と生気」以外にはいかなる区別も見出せない。これに対し有機体の哲学は「この石を灰色として」を、問題の経験のための与件のうちに保持する。それは事実、癒合の後の相における派生的な型に属する、ある物理的感受の「客観的与件」である。しかしこの学説は、主観的な経験することこそが形而上学に対して分析のために提示される第一次的な形而上学的状況である、というデカルトの発見を完全に受け入れる。この学説が、本章冒頭で述べた「改訂された主観主義の原理」である。したがって「この石を灰色として」という観念は派生的な抽象であり、根本的な経験的感受の記述における一要素としては確かに必要だが、形而上学的な出発点としては錯覚的である。この派生的な抽象は「客体化」と呼ばれる。この手続きの正当化は、第一に常識であり、第二に近代哲学の主観主義と感覚論の諸原理につきまとってきた困難の回避である。主観主義の側でのデカルトの発見は、経験のための与件についての「客観主義」の原理によって均衡が取られる必要がある。またデカルト的主観主義の到来とともに、実体・性質という範疇は形而上学的な第一次性へのあらゆる要求を失っており、この実体・性質の廃位とともに、われわれはそれぞれが性質と感覚の私的な世界をもつ個体的実体という観念を拒絶できる。

  第II節〜第III節

有機体の哲学において、知識は過程の中間相へと格下げされる。認知は、客観的内実を満足の主体性へと吸収する機能へと受け入れられるか受け入れられないかする、主体的形相の類に属する。したがってその「重要性」は、具体的な現実的存在における必然的な要素ではない。そのような存在のいずれか一つの事例において、それは単に、ロックが「能力」と呼ぶものの一事例を構成するにすぎないかもしれない。もしわれわれが、持続的対象の生を形づくる歴史的経路における、継起する現実的機会の社会を考察するなら、より早い現実的機会のいくつかは知識を欠き、より後のいくつかは知識をもつかもしれない。そのような場合、知らなかった人間が知るようになったのである。この結論には驚くべきことは何もない。それはわれわれのほとんどにとって、夜眠り朝目覚めるたびに、日々起こっていることである。あらゆる現実的存在は知識への能力をもち、さまざまな知識の項目の強度には段階があるが、一般に、知識は、ある現実的機会の構成における特異な複合性を離れては無視しうるものであるように思われる。人格的秩序をもつ持続的対象としてのわれわれは、われわれ自身の直接の現在において、われわれ自身の過去の機会を特異な完全さをもって客体化する。われわれは、われわれの現在の立脚点から知られるものとしてのそれらの機会のうちに、われわれの実現された知識の範囲と強度における驚くべき変動を見出す。われわれは眠る。われわれは半ば目覚めている。われわれは自らの知覚を意識しているが、思考における一般性を欠いている。われわれは周囲の世界を忘れて、抽象的思考の小さな領域に鮮明に没頭している。われわれは自らの情動――何らかの情念の奔流――に注意を向けており、それ以外の何にも向けていない。われわれはその注意の広がりにおいて病的なまでに散漫である。そして最後にわれわれは、眠りあるいは失神へと、一時的な忘却のうちに沈み込む。またわれわれは、当時は気づかなかった、直接の過去に経験された諸要因を思い出すこともできる。われわれ自身の知識への能力の千変万化の歴史を見渡すとき、常識は、意識的な把握の言葉での定義を要求する判断の操作が、現実的存在にとっての本質的属性としてであれ、経験の統一が達成される最終的な頂点としてであれ、存在において基礎的な操作であると信じることを、われわれに許すだろうか。意識的知覚の一般的な事例は、否定的な知覚――すなわち「この石を灰色でないものとして知覚すること」――である。「灰色」はそのとき、代替物を例証する概念的な新奇性としての、その十全な性格において進入する。肯定的な事例――「この石を灰色として知覚すること」――では、灰色は可能な新奇性としての性格において進入するが、実際にはその適合によって、盲目的に感受された与えられた灰色を強調する。意識とは否定の感受である。「石を灰色として」の知覚においては、そのような感受はもっとも裸の萌芽のうちにある。「石を灰色でないものとして」の知覚においては、そのような感受は十全に発達している。したがって否定的知覚こそが意識の勝利である。それは最終的に、概念的な新奇性が、それらがそこに与件として例証されていない宇宙を探し求める、自由な想像力の頂点にまで上りつめる。意識とは、誤りうる「理論」と「与えられた」事実とのあいだの対比を感受することに含まれる主体的形相である。したがって意識は、「何であれ」と「まさにそれ」という語によって指示される永遠的客体のあいだの対比の重要性への上昇を含む。したがって意識的知覚は、判断のもっとも原初的な型である。有機体の哲学は、意識は複合的な統合の後期の派生的な相においてのみ生じる、と主張する。もしある現実的機会が、その癒合においてこの種の相が無視しうるようなものであれば、その経験には知識がない――意識が後の諸相に属する主体的形相であり、それが直接照らし出す抱握は「不純な」型のものであるという事実による。意識は、より原初的な型の抱握が、なお統合の産物における構成要素であるかぎりにおいてのみ、それらを照らし出す。したがってわれわれの経験のうち、われわれの意識のうちに明晰かつ判明に際立つ要素は、その基礎的な事実ではなく、過程において生じる派生的な修正なのである。たとえば意識は、因果的効力性の様態における抱握を、それらがわれわれの経験における原初的な要素であるがゆえに、ぼんやりとしか照らし出さない。しかし現前的直接性の様態における抱握は、われわれがもっとも鮮明な意識をもって享受する抱握のうちに数えられる。これらの抱握は、経験する主体の癒合における後期の派生物である。より後の派生的な要素が、原初的な要素よりも意識によってより明晰に照らし出される、というこの法則の看過の帰結は、経験する機会の適切な分析にとって致命的であった。実際、哲学の困難のほとんどはこれによって生み出されている。経験はまったく本末転倒な仕方で、誤った端から説明されてきた。とりわけ、情動的で目的をもつ経験が、ヒュームの感覚の印象のあとに続くものとして仕立てられてきた。要約すれば――(一)意識は癒合の高次の諸相において生じる主体的形相である。(二)意識は第一次的にそれが生じる高次の相を照らし出し、より早い諸相を照らし出すのはそれらが高次の相における構成要素であり続けるかぎりでの派生的なことにすぎない。(三)したがって意識のうちに明晰かつ判明に現れる順序は、形而上学的な優先性の順序ではない、ということが帰結する。

  第IV節

物理的経験の原初的な型は情動的である――盲目の情動であり、別の機会のうちで感受されたものとして受け取られ、主体的な情念として適合的に取り込まれる。より高次の経験段階に適切な言葉で言えば、原初的な要素は共感である――すなわち他者のうちなる感受を感受し、他者とともに適合的に感受することである。われわれは「石が緑である」という高度の抽象を考察することに慣れきっているので、情動の限定的性格としての「緑」という観念を意識のうちに引き出すことに困難を覚える。しかし絵画芸術がそこにある美的感受は、たがいへのそのパターン化された適切性によって可能となる、多様な色彩に潜む対比が情動を限定する、その産物にほかならない。情動的経験を現前的直観から切り離すことは、思考の高度な抽象である。したがって原初的な経験とは、彼方の世界への適切性のうちで感受される情動的感受である。感受は盲目であり、適切性は漠然としている。また感受と外部世界への言及は、欲求へと移行する――欲求とは、これから在るべき世界への確定した適切性の感受である。物理学の言い回しで言えば、この原初的経験は「ベクトル的感受」である――すなわち、確定した彼方から、これから確定されるべき彼方へと向かう感受である。しかし感受は主体的に、直接の機会の直接性のうちに根ざしている――それは、過去から派生し未来へと融け込んでいくものとして、その機会がそれ自身のために感受するものである。この原初的感受のベクトル的伝達において、対比のための広さの原初的な備えは、情動の脈動によって確保され、それは(第四部の)機会の座標的分割において波長と振動として現れる。特定の宇宙時代においては、自然の秩序が、その時代に特徴的な感覚与件をそれぞれ確定した脈動との結びつきへと導くことによって、両立不可能性を避けるための機能の必要な分化を確保してきた。したがって各感覚与件の伝達は、それ自身の波長と結びついている。より高次の経験の諸相は、広さの次元を増大させ、より高次の型の対比を引き出す。より低次の範疇における協調されない情動の衝突は避けられる。抑制と一時的な満足の相は減少する。経験は、永遠なるものにおける一要素として、そして宇宙の永遠なる構成要素をそれ自身のうちに体現するものとして、それ自身を実現する。この獲得は必ずしも意識を含意しない。それはまた高められた主体的強調をも含む。機会は、その主体的経験に関するかぎり、細部としてよりも全体としてのものになっている。この、永続性の高まりをともなう広さの感受は、盲目的な熱情という形を取り、それは主体的強調の過剰によって自己を打ち破りうる。

  第V節

有機体の哲学が採用する改訂された主観主義の原理は、単に相対性の原理(説明の第四範疇)の代替的な言い表し方にすぎない。この原理は、「有」の本性に属するのは、それがあらゆる「生成」にとっての潜勢態であるということだ、と述べる。したがってあらゆる事物は、現実的機会の限定として捉えられねばならない。説明の第九範疇によれば、現実的存在がいかに生成するかが、その現実的存在が何であるかを構成する。この原理は、真なる事物の〈有〉はその〈生成〉によって構成される、と述べる。ある現実的存在が他の現実的存在によって限定される、その仕方が、主体としてその現実的存在が享受する現実世界の「経験」である。主観主義の原理とは、宇宙全体が、主体の経験の分析において開示される諸要素からなる、というものである。過程とは経験の生成である。有機体の哲学が近代哲学の主観主義的偏向を完全に受け入れることが、ここから帰結する。それはまた、主体的経験における一要素として発見可能でないものは、哲学的図式のうちに受け入れられるべきではない、というヒュームの学説をも受け入れる。これが存在論的原理である。したがって因果性が経験における一要素として記述可能であるべきだというヒュームの要求は、これらの原理のもとでは、完全に正当化される。ヒュームの手続きへの批判の要点は、われわれが相続と記憶についての直接の直観をもつ、ということである。したがって唯一の問題は、これらの直観が含まれうるように、経験の一般的性格をいかに記述するかである。ヒュームが失敗するのはまさにこの点においてである。また「因果性」の代わりに「法則」を代入する近代の経験論者たちは、ヒュームよりもさらに悪く失敗する。「法則」は「因果性」以上にヒュームの試金石を満たさないからである。法則の、あるいは合法則性の「印象」というものはない。記憶を認めるとしても、ヒュームの諸原理によれば、経験において起こったことは経験において起こったのであり、それがすべてである。それ以外はすべてはったりであり、「まったくの無知」を要求する結論への「蓋然性」の不正な挿入をともなっている。近代哲学のあらゆる学派の困難は、主観主義の原理を受け入れながら、別の観点に由来する哲学的範疇を使い続けているという事実にある。これらの範疇は誤っているわけではないが、形而上学的な使用には不向きな抽象を扱っている。「拡がりの連続体」と「現前的直接性」という観念が、あらゆる観点からこれほど注意深い検討を要求する理由はここにある。「緑の葉」と「丸い球」という観念は、伝統的な形而上学の基盤にある。それらは二つの誤解を生み出してきた――一つは主体的経験を欠いた〈空虚な現実性〉の概念であり、もう一つは実体に内属する性質の概念である。高度な抽象としてのその固有の性格において、これら両方の観念はこの上なく実用的な有用性をもつ。実際、言語は主としてそのような概念を表現するために形成されてきた。この理由により、言語はその通常の用法において、形而上学の諸原理へとほんのわずかな距離しか浸透しない。最後に、改訂された主観主義の原理を繰り返さねばならない――主体の経験を離れては何もない、何も、何もない、まったくの無であると。緒言で述べたヘーゲル学派の哲学への最終的な類比が偶然ではないことは、いまや明らかである。宇宙は、真なる事物の多性であると同時に真なる事物の連帯性でもある。この連帯性それ自体が、流動を通じて新奇性を獲得する無限定の永続性の原理を体現する、巨視的な真なる事物の有効性である。多性は、有限な流動を通じて「永遠なる」永続性を獲得する原理をそれぞれ体現する、微視的な真なる事物から構成される。一方の側では一が多になり、他方の側では多が一になる。しかし生成するものは常に真なる事物であり、真なる事物の癒合は主体的目的の展開である。この展開は、ヘーゲルの観念の展開にほかならない。人類の宗教的経験の解釈を得るという目的をもった、有機体の哲学のこの側面のさらなる展開は、本講義の第五部で行われる。宇宙論の物語は、あらゆる部・あらゆる章において、静的な幻視と動的な歴史との相互作用を語る。しかし物語全体は、真なる事物の主体的な癒合の記述のうちに包摂される。

 第八章 象徴的指示

  第I節〜第II節

現前的直接性の純粋な様態は、過去や未来についていかなる情報も与えない。それは単に、現前する持続の例証された部分を提示するにすぎない。それによって宇宙の一断面が定義されるが、それ自体としてはどちらの側に過去があり、どちらの側に未来があるかを定義しない。このような問いを解決するために、二つの純粋な様態のあいだの相互作用に至る。この混合した知覚様態は「象徴的指示」と呼ばれる。象徴的指示への正当な強調の欠如は、形而上学的困難の一因であり、「意味」という観念を神秘へと縮減してきた。象徴的指示を説明する第一原理は、そのような指示には「共通の地盤」が要求される、ということである。この「共通の地盤」の必要性が意味するのは、二つの純粋な知覚様態のそれぞれにおいて直接的に同一として認識される、経験のうちの構成要素がなければならない、ということである。経験のより高次の相への移行において、二つの様態における抱握が感受の統一へともたらされる、一つの癒合がある。この癒合的統一は、何らかの共通の構成要素のゆえに、二つの抱握のあいだの同一性関係に由来する、それらの主体的形相の適合性から生じる。したがって象徴的指示は、経験のより後の始発的な諸相の一つに属する。二つの純粋な知覚様態は誤りをもちえないが、象徴的指示はこの可能性を導入する。人間経験が問題であるとき、「知覚」はほとんど常に「象徴的指示という混合様態における知覚」を意味する。二つの純粋な様態が共有する共通の地盤の一つの主要な要素は、現前する局所である。この局所は因果的効力性の知覚様態に従属的に入り込み、実在的潜勢態に含まれる延長的相互連関の一般的図式へのその参与を、漠然と例証する。それはこの知覚様態によっては他のいかなる仕方でも開示されない――少なくとも直接には開示されない。さらなる開示は間接的でなければならない。同時代の出来事とはまさに、知覚する現実的機会を原因ともせず、それによって引き起こされもしない、そのようなものだからである。ここでヒュームの『人性論』から遠く隔たった二つの一節を並べることによって、近代経験論の「見せかけ」の性格がよく示される――「印象は感覚の印象と反省の印象の二種類に分けられる。第一の種類は魂のうちに、未知の原因から、原初的に生じる」。そして「もし目によって知覚されるなら、それは色でなければならない」。前者の一節はヒュームが自らの哲学的原理を考えているときの見せかけであり、彼は視覚的感覚を「魂のうちに」ある「未知の原因」に帰す。しかし後者の一節では、論争の熱のなかで彼の真の確信――誰もの真の確信――が引き出されている。視覚的感覚は目「によって」生じる、という確信である。もしヒュームが視覚的感覚の発生の代替の原因――たとえば視力あるいは過度のアルコール摂取――を調べようと立ち止まっていたなら、彼は自らの無知の告白をためらったかもしれない。もし原因が本当に未知であるなら、視力や酩酊について思い煩うのは不合理である。眼科医や禁酒論者が存在する理由は、さまざまな原因が知られているからである。象徴的指示の第二の「地盤」は、両方の様態に成分として含まれる一つの永遠的客体の同一性によって成し遂げられる、二つの様態間の結びつきである。今度は永遠的客体の多様性ではなく、地域の多様性と永遠的客体の同一性の組み合わせへと移る――たとえば目の領域の効力性によって与えられる視覚的感覚与件と、同じ視覚的感覚の例証のもとで現前的直接性の様態において知覚される、石の領域とである。ここでいまやわれわれは現前的直接性の説明を完成できる。この知覚様態において、感覚与件は知覚者にとって「与えられて」いるが、この贈与は、それによって提示される空間的客体――たとえば石――に帰されるべきではない。「与えられている」ものは既定の過去からの現実的存在の客体化の理由によって与えられる、というのが第一次的な学説である。したがってわれわれは、この贈与が帰されるべき客体化の主である現実的機会を探し求める。常識・物理学理論・生理学理論が一致して、現実的機会から後継の現実的機会への相続の歴史的経路――まず外部環境における物理的な経路、次に、視覚的与件の場合には目を通じ、神経を上って脳に至る生理学的な経路――を指し示す。この連鎖のなかで、目が知覚的な卓越性へと選び出されるのは、そこから別の生理学的相続の歴史的経路が始まり、それによって(先の機会とほぼ同一の)後の機会が、現前的直接性の様態において「目の緊張」という感覚与件によって例証されるからである。知覚者にとっての視覚的与件には、まず、既定の過去の外部世界への幾何学的関係と結びついた色の感覚与件という構成要素があり、次に、この潜勢的図式を同時代世界と未来へと完結させる一般的な幾何学的関係もまた与件のうちにある。応答的な相は、これらの与件を感受の主体的統一のための素材として吸収する。補足的な段階は色の感覚与件の適切性を高め、有効な歴史的経路の同時代の代表として石の同時代の領域を選び出すことによって、過去の幾何学的関係を補足する。こうして現前的直接性の様態において、「灰色」と呼ばれる感覚与件によって例証される領域の知覚が生じる。「石」という語は第一次的には、この一連の状況における有効な要素である、過去のある確定した歴史的経路に適用される。それが「灰色」によって例証される同時代の領域に正しく適用されるのは、この同時代の領域がその歴史的経路の現前する局所への延長である、という想定のもとにおいてのみである。この想定は真かもしれないし偽かもしれない。さらに、「灰色」の同時代の領域の例証は、まったく他の有効な歴史的経路――たとえば劇場演出家が仕組んだ照明効果――に由来するかもしれず、その場合「石」という語は先の例よりもさらに激しい誤りを示唆するかもしれない。確実に、かつ疑いの余地なく直接知覚されるのは、現前する局所の灰色の領域である。それ以上のいかなる解釈も――本能的であれ知的な判断によるものであれ――象徴的指示に帰されねばならない。この叙述は、現前的直接性の知覚様態が、癒合過程のより後の始発的で統合的な諸相において生じることを明らかにする。因果的効力性の知覚様態は、具体的な知覚する存在があるゆえんの与件の構成にまで遡られねばならない。したがってわれわれは因果的効力性の様態を機会の根本的な構成に帰さねばならず、この様態は萌芽としては最下級の有機体にも属する。他方、現前的直接性の様態は、過程のより後の諸相のより洗練された活動を要求し、比較的高等な有機体にのみ属する。

  第III節〜第IV節

因果性と知覚とのあいだの結びつきによって構成される問題についての議論は、ヒュームとカントに由来するさまざまな学派によって、経験の真の構成の逆転によって生み出された誤解のもとで行われてきた。この逆転はヒュームとカントの著作において明示的であった――両者にとって現前的直接性は知覚の第一次的な事実であり、因果性についてのいかなる把握も、何らかの仕方でこの第一次的な事実から引き出されるべきものであった。経験における項目としての因果性と知覚とのこの関係についてのこの見解は、これらの偉大な哲学者たちに独自のものではない。それはロックとデカルトのうちに前提されているのが見出され、彼らはそれを中世の先行者たちから受け継いだ。しかし近代の哲学における批判的運動が生じたのは、ヒュームとカントが、この学説の真理を認めるあらゆる哲学にとってこの学説がもつ、根本的で避けがたい重要性を強調したときであった。有機体の哲学はその真理を認めず、こうして「批判」哲学の新石器時代の武器であるこの試金石を退ける。意識における明晰さは発生過程における原初性の証拠ではないことを、忘れてはならない――むしろその逆の学説のほうがより真実に近い。その長きにわたる支配のゆえに、現前的直接性の優位を自明の事実として想定することが通例となってきた。われわれは目や他の感覚器官を開き、光景・音・味で飾られた同時代世界を見渡し、そしてこの、こうして飾られた同時代世界についての情報のみの助けによって、現実世界についてわれわれが引き出しうるかぎりの結論を引き出す。これが唯一の情報源だと本当に考える哲学者はいない。ヒュームとその後継者たちは、直接の情報を補足するために「記憶」と「実践」に漠然と訴える。カントは『純粋理性批判』を補足するために他の「批判」を書いた。しかし近代哲学の「批判」の一般的な手続きは、対立者を現前的直接性という表玄関にのみ厳密に縛りつけながら、自らの哲学は言語の通常の慣用の陰に隠された裏口から逃げ出す、というものである。もしこの「ヒューム的」学説が真であるなら、「振る舞い」についてのある種の結論が帰結するはずだが、その結論はもっとも顕著な仕方で検証されない。哲学者たちの注意を、哲学的知識の古典的な源泉から離れて、日常生活の些細な取引へと向けるのはほとんど無作法だが、結局のところ、このカエサルへの訴えを始めたのは経験論者たち自身である。ヒュームによれば、因果性を前提するわれわれの振る舞いは、連想された現前的経験の反復に由来する。したがって先行する知覚対象の鮮明な提示は、行為あるいは思考における振る舞いを、連想された帰結へと鮮明に生み出すはずである。一方の明晰・判明で圧倒的な知覚は、他方への主体的移行の圧倒的な理由である。因果性を含意するものとして解釈可能な振る舞いは、この学説によれば、現前的直接性への主体的応答である。ヒュームによれば、この主体的応答が、因果性について語られるべきことのすべての始まりであり終わりである。反射行動にこの説明を適用してみよう――暗闇のなかで電灯が突然つけられ、男の目がまばたきする。この些細な出来事には単純な生理学的説明がある。しかしこの生理学的説明は完全に因果的効力性の言葉で述べられている。それは、興奮の痙攣が神経を伝ってある結節中枢へと旅し、収縮の痙攣がまぶたへと戻る、という推測的な記録である。正しい専門的な言い回しにしても、この説明が、神経に宿る現実的機会にとっても、その男にとっても、現前的直接性への訴えをまったく含まないという事実を変えるものではない。せいぜいのところ、実際にはそこにいなかった生理学者が、もしそこにいて、これらの出来事に影響を与えることなくその男を生体解剖でき、実際には不在であった顕微鏡で観察できたなら、何を見たであろうかという、暗黙の想定があるにすぎない。したがって生理学的説明は、ヒュームの哲学の観点からすれば、無関連なことがらの織物のままである。それは、ヒュームの学説によれば、われわれがまったくの無知にとどまらねばならない宇宙の一側面を前提している。いまや生理学を措いて、まばたきする男の私的な経験に目を向けよう。現前的直接性の様態における知覚対象の系列は、光の閃光、目を閉じる感受、暗闇の瞬間である。この三つは実質的に同時的だが、閃光は他の二つに対する先行性を保ち、この後の二つの知覚対象は先行性に関して区別できない。有機体の哲学によれば、男はまた因果的効力性の様態における別の知覚対象を経験する。彼は、閃光における目の経験がまばたきの原因であることを感受する。男自身はそれを疑わない。実際、閃光の先行性を男に区別させるのはまさにこの因果性の感受であり、「閃光からまばたきへ」という時間的継起が「因果性」の信念のための前提とされる、という論証の逆転こそが、純粋な理論に起源をもつのである。男は「閃光が私をまばたきさせた」と言って自らの経験を説明するだろう。もし彼の言明が疑われるなら、彼は「私はそれを知っている、なぜならそれを感じたからだ」と答えるだろう。有機体の哲学は、閃光が彼をまばたき「させた」という男の言明を受け入れる。しかしヒュームは別の説明をもって介入する。彼はまず、現前的直接性の様態には、閃光が男をまばたき「させる」という知覚対象は存在しないと指摘する。この様態には単に二つの知覚対象――閃光とまばたき――があるにすぎず、三つの知覚対象のうち後の二つを「まばたき」という一つの語のもとに結合している。ヒュームは、まばたきへの強制こそがまさに彼が感じたものだ、という男の抗議を認めることを拒む。この拒絶は、あらゆる知覚対象は現前的直接性の様態にある、という教義に基づいており、この教義は直接経験への単なる訴えによって覆されるべきものではない。さらにヒュームは、男の経験についてもう一つの解釈をもつ。男が実際に感じたのは、閃光の後にまばたきする彼の「習慣」であった、というのである。「連合」という語がすべてを説明する、とヒュームは言う。しかし「原因」が感受されえないのに、「習慣」がいかに感受されうるだろうか。「習慣」の感受にいかなる現前的直接性があるだろうか。ヒュームは手品のように、「閃光の後にまばたきを感じる習慣」と「閃光の後にまばたきを感じる習慣の感受」とを混同している。ここには、ある学説を批判的に退けるために現前的直接性の試金石を適用し、他の学説をその試金石を逃れさせるために裏口からすり抜けさせる、という実践の完璧な実例がある。因果性という観念が生じたのは、人類が因果的効力性の様態における経験のただなかに生きているからである。日常経験への訴えを続け、ヒュームの哲学が説明するには不十分な、もう一つの状況を考察しよう。その学説によれば「因果的感受」は、感覚与件の際立った現前の長期にわたる連合――一方が他方に先行する――から生じる。したがって、現前的直接性において与えられる感覚与件の抑制は、「因果的感受」の対応する不在をともなうはずである。というのも、いかにして「因果的感受」があるかの説明は、現前的直接性における際立ってなじみ深い感覚与件を前提するからである。不幸にもその逆が真である。なじみ深い感覚与件の抑制は、因果的作用の周囲の世界に関する漠然とした恐怖の餌食に、われわれを陥らせやすい。暗闇には、疑わしくも恐れられる漠然とした存在がある。静寂のなかでは、自然の抗いがたい因果的効力性がわれわれに押し寄せる。八月の森の昆虫の低いうなり声の漠然さのなかで、包み込む自然からわれわれ自身への感受の流入がわれわれを圧倒する。半睡状態のぼんやりした意識のなかで、感覚の現前は薄れ去り、われわれは周囲の漠然とした事物からの影響の漠然とした感受とともに取り残される。さまざまな型の影響の感受が、直接の現前における際立った感覚与件のなじみ深さに依存する、というのはまったく真実ではない。感覚与件を省くいかなる仕方も、なお影響の漠然とした感受の餌食にわれわれを陥れる。直接の感覚与件から切り離されたそのような感受は、気分に応じて心地よくも不快でもあるが、それらは常に空間的・時間的な限定に関して漠然としている――もっとも、感覚与件の不在においてその経験における明示的な支配が高まることはあるとしても。さらに、われわれのさまざまな身体部分についてのわれわれの経験は、第一次的には、「投射された」感覚与件の〈理由〉としてのそれらの知覚である――手は投射された触覚与件の理由であり、目は投射された視覚与件の理由である。われわれの身体的経験は第一次的には、現前的直接性の因果的効力性への依存の経験である。ヒュームの学説はこの関係を逆転させ、経験としての因果的効力性を、現前的直接性に依存するものとする。因果的効力性の様態における身体的経験は、その空間的限定の比較的正確さによって特徴づけられる。身体からの因果的影響は、外部世界から流入するそれらの極端な漠然さを失っている。しかし身体についてすら、因果的効力性は現前的直接性と比べれば漠然さにつきまとわれている。これらの結論は、有機的存在の階梯を下っていくならば確証される。下等な生物が欠いているように見えるのは因果的な気づきの感覚というよりは、感覚的現前の多様性、そして現前的直接性の鮮明な判明さである。しかし動物、そして下等な形態の有機体における植物でさえ、自己保存へと方向づけられた振る舞いの様態を示す。外部世界との因果的関係についての、ある強度をもち、質に関して漠然と限定され、局所性に関してもいくぶん漠然と限定された感受があることを示す、あらゆる兆候がある。クラゲは前進し後退し、そうすることによって、それ自身を超えた世界との因果的関係についての何らかの知覚を示す。植物は湿った大地へと下向きに、光へと上向きに成長する。したがって因果的結合の、ぼんやりとした緩慢な感受を帰属させる、直接の理由が存在する――もっとも、現前的直接性の様態における確定した知覚対象を帰属させるいかなる理由もわれわれはもたないとしても。しかし有機体の哲学は、現実世界全体を通じて「感受」を帰属させる。この学説は、われわれがもっともよく観察できるような現実的存在の「形相的」存在を構成する、既知の要素として「感受」が存続する、という直接観察された事実に基づいている。また、感覚的現前との相互作用を欠いた因果的結合を観察するとき、われわれが見出すのは、質的にもベクトル的にも漠然と限定された感受の流入である。ニュートン物理学における慣性というスカラー的物理量の支配は、あらゆる根本的な物理量がスカラー的ではなくベクトル的である、という真理の認識を曇らせてきた。無機的な現実的機会に移ると、「過程」における二つの、より高次の始発的な相――「補足的」相と「精神的」相――を失う。それらは、われわれの観察が及ぶかぎり無視しうるという意味で失われている。感受の組織された乗り物としての世界の現実性の客体化の流入は、その受容された適切性における感受のそうした諸要素の単なる主体的な取り込みによって応答される。無機的な機会は、単に因果的な過去が許すところのものにすぎない。無機的な世界へと移るにつれ、因果性は一瞬たりともその把握を失わないように見える。失われるのは始発性であり、現在への直接の吸収のいかなる証拠である。われわれが見るかぎり、無機的な存在は、受け取り、それを布に包んで保管し、損失も増加もなく返還する乗り物である。現実世界においてわれわれは、たがいから鋭く区別されるわけではない、四つの等級の現実的機会を識別する。第一の、もっとも低い等級は、いわゆる「空虚な空間」における現実的機会であり、第二は、電子や他の原初的な有機体のような、持続する非生命的対象の生活史における瞬間である現実的機会であり、第三は、持続する生きた対象の生活史における瞬間である現実的機会であり、第四は、意識的な知識をもつ持続する対象の生活史における瞬間である現実的機会である。第一の等級は、「現前する持続」がその与件のなかで無視しうる要素である現実的機会と同一視できると想像的に推測できる――現前的直接性が無視しうるという理由による無視しうる要素である。第二の等級は、「現前する持続」がその与件における重要な要素であるような現実的機会と同一視されるが、人間経験のより低次の瞬間においてのみ観察されるような限定がともなう。第三の等級は、現前的直接性がある高められた精密さを帯び、それによって「象徴的転移」が「現前する持続」における精密に弁別された領域を重要性へと高めるような機会と同一視される。第四の等級は、自由な概念的機能作用の水路づけられた重要性と同一視される――それによって盲目の経験は、単なる潜勢態の想像的な実現との比較によって分析される。

  第V節〜第VI節

因果性をめぐる哲学的困難の一つの理由は、ヒューム、そして続いてカントが、因果的結合を、その第一次的な性格において、直接の現前の前提された継起から派生するものとして捉えたことにある。しかし経験に問いただすなら、正確に逆が真である――直接の現前という知覚様態は、より原初的な因果的効力性の様態における知覚対象についての情報を与える。したがって象徴的指示は、複合的な人間経験においては両方向に働くとはいえ、主として、現前的直接性の様態における知覚対象の変動する介入による、因果的効力性の様態における知覚対象の解明として考えられるべきである。前者の様態は漠然としており、制御しがたく、情動に満ちた知覚対象を生み出す。それは直接の過去からの派生の感覚、そして直接の未来への移行の感覚を生み出す。過去における自分自身から現在における自分自身へと移行し、現在における自分自身から未来における自分自身へと移行する、情動的感受の感覚である。それは局所化されながらも局所的限定を逃れる、過去における他のより漠然とした存在からの影響の流入の感覚である。この影響は、われわれが受け取り、統一し、享受し、伝達している感受の流れを、変容させ、高め、抑制し、逸らす。これがわれわれの、有効な現実世界における他の項目のうちの一項目としての存在の、一般的な感覚である。注意の転換によってわれわれはその意識への進入を抑制できるが、精神的に分析されようとされまいと、それはわれわれの性格がそこに織り込まれる、与えられた統制不能な基盤であり続ける。われわれの身体は主として、ある中枢的な現実的機会が、その先行する諸部分のこれらの基礎的な経験を相続しうる仕掛けである。現前的直接性の様態における知覚対象はこれと逆の性格をもつ。比較すれば、それらは判明で、確定的で、制御可能で、直接の享受に適しており、過去や未来への言及を最小限しかもたない。われわれは効力性の様態における知覚対象に服し、直接性の様態における知覚対象を調整する。しかし実際には、統一された経験の達成のためのわれわれの自己構築の過程は、一方の様態の知覚対象と他方の様態の知覚対象とが一つの主体的感受へと総合される、新しい産物を生み出す。たとえばわれわれは、目の前にある灰色の石を知覚しているとする。形容詞的な語は一般に、直接性の様態から派生する情報を表現し、実体詞はわれわれの効力性の様態における漠然とした知覚対象を伝える、ということが見出されるだろう。たとえば「灰色」は、われわれの目の前にある灰色の形を指示する――この知覚対象は確定的で、限定的で、制御可能で、快あるいは不快であり、過去や未来への言及をもたない。この種の知覚対象こそが、実体を「存在するために自分自身以外の何も必要としないもの」とするデカルトの定義、そして「延長」を実体という類の主要な属性とする彼の観念を導いた。それはまたヒュームの、未知の源泉から生じ、識別可能な結合に関するかぎり完全に独立している「感覚の印象」という観念をも導いた。しかし複合的な知覚対象におけるもう一方の要素は、まったく異なる性格をもつ。「石」という語が選ばれるのは、その辞書的な意味が、意図される特定の知覚対象の理解に何らかの助けを与えるからである。しかしこの語は、直接の未来への予期と結びついた、直接の過去における効力性の特定の感受を指すことを意図されている。この感受は漠然と局所化されており、「灰色」という知覚対象のきわめて確定的な局所化と推測的に同一視される。したがって、意識的な判断に関するかぎり、象徴的指示とは、直接性の様態における知覚対象の証拠を、効力性の様態における漠然とした知覚対象の局所化と弁別のための証拠として受け入れることである。身体的な感受に関するかぎり、この手続きにはある種の直接の照合があるが、身体を超えては、訴えは実践的な帰結――照合されうる身体的感受の何らかの未来の状態を含む――に向けられる。しかしこの知覚の議論全体を通じて、経験的過程における精神的相への過度の強調があった。これは避けがたい。われわれが議論できるのは、意識的な分析に入った経験にかぎられるからである。しかし知覚とは、経験的過程のより早い二つの相――すなわち「応答的」相と「補足的」相――にその座をもつ感受である。これらの相における知覚とは、与件を主体的な感受の統一へと変容させるような、主体による与件の取り込みである。効力性の様態は応答的相に属し、そこでは客体化がその与件における適切性にしたがって感受される。直接性の様態は補足的相に属し、そこでは与件における現前する局所の諸領域への関係の、かすかで間接的な適切性が、判明で際立った適切性へと高められる。「灰色」のような与件の他の構成要素への関連づけがこうして際立たせられる、その領域がどれであるかという問いは、相続の経路が通過する身体諸器官の調整に依存する。幸いにも適切に構成された動物身体において、この選択は主として、皮膚や目などの表層器官が外部環境から受け取る相続によって決定され、その外部の相続のベクトル的性格の適切性を保存する。この場合、直接性の知覚様態は外部環境の未来の効力性への確定した適切性をもち、そして間接的に、現前する局所が直接の過去から受け取る相続を例証する。しかしこの例証は、いかなる合理的分析からもその第一次的な重要性を得るのではない。二つの様態は、効力性という強烈だが漠然とした様態から派生する補足的な感受が、直接性の様態において例証される判明な領域のうえに沈殿する、盲目的な象徴的指示によって統一される。補足的な感受における二つの様態の統合は、漠然であったものを判明にし、浅薄であったものを強烈にする。これが、混合した象徴的指示の様態における、灰色の石の知覚である。そのような知覚は誤りうる――感受が、現前する局所における領域を過去からの相続と結びつけるが、実際にはそれらが現在の領域へとそのように伝達されていない、という意味において。混合様態においては、知覚的な決定はもっぱら身体諸器官によるものであり、したがって、いわば知覚的論理における間隙がある。この間隙は窮極の主体の側のいかなる概念的自由にも由来しない。それは意識に由来する誤りではない。それは、感受を総合し高める道具としての身体が、現前する持続の実在の状態への言及をほとんどもたない感受を生み出すという意味で欠陥がある、という事実に由来する。二つの知覚様態のあいだの象徴的指示は、あらゆる象徴作用を支配する諸原理の主要な例を提供する。象徴作用の要件は、二種の知覚対象があること、そしてある種の知覚対象が別の種の知覚対象と何らかの「地盤」を共有し、それによって知覚対象の対のあいだの相関が確立されること、である。ある種の成員に結びつけられた感受・情動・一般的性格は、他の種に結びつけられたものと、いくつかの点で著しく異なる。そして「象徴的指示」があるのは、ある種の一成員の知覚が、他の種におけるその相関物を喚起し、その相関物のうえに、対をなす相関物のいずれかに属する感受・情動・派生的行為の融合を沈殿させ、この相関によって高められるときである。象徴的指示が始まる種は「象徴の種」と呼ばれ、それが終わる種は「意味の種」と呼ばれる。象徴作用は正当化されうるし不当でもありうる。正当化の試金石は常に実用的でなければならない。象徴作用が、知覚する「人格」を形づくる知覚する諸機会に沿って、幸運な進化を構成する相続の経路をもたらしたかぎりにおいて、その象徴作用は正当化される。言語は、象徴作用の用途を考察するためにもっとも自然に提示される象徴作用の実例である。単一の語は一つの確定した音ではない。その発話のあらゆる事例は、他のあらゆる事例と何らかの点で異なる。語は現前的直接性の純粋な知覚様態において聞かれ、第一次的にはその様態における他の知覚対象との対比と同一性を引き出すにすぎない。もし語の意味が一つの出来事であるなら、その出来事は、知覚者の生の早期の機会における記憶された知覚対象として直接知られるか、あるいは直接知られる出来事との日付づけられた時空的結合によって漠然と知られるかのいずれかである。いずれにせよ、知覚する機会にとっての与件のうちに、その発話の機会における語と出来事とのあいだの、かすかに適切な結合がある、そのような象徴的指示の連鎖がある。現前的直接性における語の音は、象徴的指示によって、この結合を重要な適切性へと引き出し、それによって出来事の高められた客体化のうえに感受と思考とを沈殿させる。言語はまた、適切に相関する一対の事物の種において、どちらの種が「象徴」として機能し、どちらが「意味」として機能するかは、知覚する主体の構成に依存する、という学説を例証する。「森」という語は森の記憶を示唆するかもしれないが、同様に森の光景や森の記憶が「森」という語を示唆するかもしれない。象徴作用が本質的なのは生のより高次の等級にとってであり、象徴作用の誤りは決して完全には避けられない。

 第九章 命題

  第I節

生きている機会は、その精神的極の欲求のあいだの新奇性の閃きによって特徴づけられる。そのような「欲求」――すなわち「概念的抱握」――は「純粋」か「不純」かのいずれかである。「不純な」抱握は、「純粋な」概念的抱握が、物理的極に由来する物理的抱握と統合されることから生じる。純粋な概念的抱握の与件は永遠的客体であり、不純な抱握の与件は命題――別名「理論」――である。概念的抱握と物理的抱握との統合は、必ずしも不純な抱握に帰結するとは限らない。単なる潜勢態としての、物理的な実現に関して非確定的な永遠的客体は、物理的抱握の物理的与件における実現された確定性の一要素として、それ自身との統合によってその非確定性――すなわちその普遍性――を失いうる。この場合われわれは、第三部で「物理的目的」と呼ばれるものを得る。物理的目的においては、主体的形相は、その物理的与件における確定性の実現された要素としてのその永遠的客体に関して、特殊な欲求――向性あるいは反発――を獲得する。しかし精神的極における強度の成長とともに――欲求における新奇性の閃きによって証拠づけられる――欲求は「命題的抱握」の形を取る。これらの抱握は第三部でより詳しく研究される。それらは「理論」の抱握である。しかし明らかに、理論の第一次的な機能は感受のための誘因としてであり、それによって享受と目的の直接性を提供することにある。不幸にも理論は、「命題」という名のもとで論理学者たちに引き渡され、彼らはその唯一の機能が真偽について判断されることだという学説を容認してきた。実際ブラッドリーは彼の『論理学』において「命題」に言及せず、もっぱら「判断」について語る。この命題という語のもとに置かれた学説は、命題の実現において「判断」がきわめて稀な構成要素であり、「意識」もまたそうである、というものである。想像文学の存在は、論理学者たちにこの狭い学説が不合理であることを警告すべきであった。すべての論理学者が、ハムレットの独白「生きるべきか死ぬべきか」を読みながら、最初の命題が真か偽かを判断することから始め、三十五行全体を通じて判断という作業を続けている、とは信じがたい。確かに、読みのどこかの時点で、判断は美的な喜びによって覆い隠される。この独白は劇場の観客にとって、純粋に理論的であり、単なる感受のための誘因である。強い宗教的情動を考えてみよう――福音書の言葉を瞑想するキリスト教徒を考えてみよう。彼は「真か偽か」を判断しているのではない。彼はそれらの、感受の要素としての価値を引き出しているのである。実際彼は、真理の判断をその価値の実現のうえに基礎づけているかもしれない。しかしこのような手続きは、命題の第一次的な機能が判断の要素であるとするならば、不可能である。「感受のための誘因」は、感受の癒合を導く目的因である。この癒合によって、第一次相の多様な与件が、感受の最終的な満足の統一へと集められる。「客観的誘因」とは、検討中の癒合の与件を形づくる現実的機会の真の内的構成によって宇宙に導入される、永遠的客体のあいだの弁別である。この弁別はまた、その与件の時間的機会にとって価値から排除された永遠的客体をも含む、そのような機会にとって含まれる永遠的客体に加えて。たとえばワーテルローの戦いを考えてみよう。この戦いはナポレオンの敗北をもたらし、その敗北に基礎を置くわれわれの現実世界の構成をもたらした。しかし彼の勝利に続いたであろう別の歴史の経過の可能性を表現する抽象的観念は、実際に起こった事実に適切である。想像力豊かな歴史家たちがそのような仮説的な代替案に耽ることが実際的な重要性をもつとわれわれは考えないかもしれない。しかしわれわれはそれらについて考えること自体において、それを退けることに至るまで、その適切性を認めている。したがってわれわれの今日の現実世界には、ワーテルローの戦いへの適切性によって構成される、永遠的客体の半影がある。ある人々はこの半影的な複合体からの要素を有効な感受のうちに受け入れ、他の人々はそれらを完全に排除する。こうした半影の要素は概念的抱握ではなく命題的抱握である――ワーテルローの戦いにおいて本質的な要因である特定の結合体を含意するからである。したがってこの半影的な複合体における一要素が「命題」と呼ばれるものである。命題は新しい型の存在である。それは純粋な潜勢態と現実性とのあいだの雑種である。「単称」命題とは、確定した永遠的客体の集合の仮説的な進入を含む、反応の結合体のうちに確定した現実的存在の集合を含む、現実世界の潜勢態である。「一般」命題は、「一つの確定した現実的存在の集合」を「ある種の集合に属するいかなる集合」へと一般化することによってのみ「単称」命題と異なる。もしその種の集合が、その反応の結合体のための潜勢態をもつあらゆる集合を含むなら、その命題は「普遍的」と呼ばれる。単純化のため、単称命題に注意を限定するが、若干の説明の精緻化によってこの議論を一般命題と普遍命題を含むよう容易に拡張できる。関わる確定した現実的存在の集合は「命題の論理的主語」と呼ばれ、関わる確定した永遠的客体の集合は「命題の述語」と呼ばれる。述語は主語のための関係性の潜勢態を定義する。述語は一つの複合的永遠的客体を形づくる――これが「複合述語」である。「単称」命題とは、この複合述語が、論理的主語のための、パターンにおける割り当てられた位置とともに、論理的主語間の反応の結合体のうちに実現を見出す潜勢態である。命題において、関わる多様な論理的主語は公平に関わっている。命題は、ある論理的主語について、別の論理的主語についてよりも多くを語っているわけではない。しかし存在論的原理によれば、あらゆる命題はどこかになければならない。命題の「局所」は、その現実世界が命題の論理的主語を含む、そのような現実的機会からなる。ある現実的存在が命題の局所に属するとき、逆にその命題はその現実的存在の感受のための誘因における一要素である。もし癒合の決定によってその命題が感受のうちに受け入れられたなら、その命題はその感受が感受したものを構成する。論理と過度に知性化した哲学者たちを支配する関心は、事物の本性における命題の主要な機能を曖昧にしてきた。それらは第一次的には信念のためではなく、無意識の物理的水準における感受のためのものである。それらは単なる与件に縛られない感受の始発のための源泉を構成する。命題は、それがその局所の成員によって感受のうちに受け入れられるとき、「実現」される。命題とその局所の成員の現実世界とのあいだには二つの型の関係がある。命題は現実世界に適合的であるか非適合的であるか、真であるか偽であるかのいずれかである。適合的な命題が感受のうちに受け入れられるとき、与件への反応は単に、事実への感受の適合を、疎遠な事実に内在する感受が新しい個体的な評価へと総合される、何らかの情動的な増大あるいは減少とともにもたらすにすぎない。命題の抱握は、事実のうちに例証される一つの確定性の形相を、唐突に強調している。非適合的な命題が感受のうちに受け入れられるとき、与件への反応は、事実と複合述語の代替的な潜勢態との総合をもたらす。新奇性が創造のうちに出現している。この新奇性は秩序を促進するかもしれないし破壊するかもしれない。それは善かもしれないし悪かもしれない。しかしそれは新しい――新しい型の個体であり、単に個体的感受の新しい強度ではない。局所のその成員は、現実世界に新しい形相を導入したのである――あるいは少なくとも、古い形相に新しい機能を与えたのである。命題を単に判断のための素材とする構想は、宇宙におけるその役割の理解にとって致命的である。その純粋に論理的な側面において、非適合的な命題は単に誤りであり、それゆえ無用以下である。しかしその第一次的な役割において、それらは世界が新奇性へと前進する道を切り開く。誤りとは、われわれが進歩のために支払う代償である。「命題」という語は、これらの雑種的な存在に、「判断」と「信念」というより狭い観念の代わりに「感受」という広い観念を代入するならば、ふさわしい。命題は、感受のために提示される客観的誘因における一要素であり、感受のうちに受け入れられたとき、感受されたものを構成する。命題の「想像的」感受はそれを感受する一つの仕方であり、知的信念はその命題を感受するもう一つの仕方であり、想像的感受を前提する仕方である。判断とは、命題を知的信念へと受け入れる決定である。就寝時に一日の出来事を意識的に振り返る者は、無意識のうちにそれらを代替案の半影的な混沌に対して投影している。彼はまた無意識のうちに、自らの第一次的感受を最大化し、その直接の現在の機会を超えたその伝播を確保するように、感受を決定している。持続的な物理的対象の生を形づくる歴史的経路における機会の生活史を考察するとき、個々の機会の内的な癒合を支配する主体的目的に関して、三つの可能性がある。先行する機会の満足がたがいに均一であり、それぞれが内的に不和や新奇性への刺激をもたない場合。この場合、環境によって導入される新奇な不和を除けば、与件に属する感受を直接の主体に属する同一の感受へと単に適合的に変換するのみである。このような純粋な適合は、その近接性と遠隔性のさまざまな段階をもつ誘因に含まれるあらゆる反対物の排除を含む。これは無差異な持続の絶対的な極端であり、われわれはその直接の証拠をもたない。あるいは(二)、与件から受け取られたある支配的な感受の要素の強化への熱意があり、与件における他の要素への概念的感受の非適合を許容する決定によって強化され、新奇な対比と抑制のゆえに支配的な要素の強化を伝達する満足において頂点に達する。そのような生活史は、単一の窮極目的によって支配される成長を含む。これは成長の過程にある物理的対象の主要な性格である。あるいは(三)、与件から受け取られたあらゆる支配的な感受の要素の排除への熱意がある。そのような場合、その経路はまもなくその歴史的個体性を失う。これが衰退の場合である。まず注目すべきは、誘因における選択された要素の、感受された反対物としての受容が、第一次的に目的を生み出す、ということである。それは満足に帰結し、満足が作用因を限定する。しかし感受された「反対物」は萌芽のうちにある意識である。そのような感受の対比と同一性それ自体が感受されるとき、われわれは意識をもつ。それはロックの意味における観念の知識である。意識は理論の単なる抱懐以上のものを要求する。それは、単なる理論としての理論と、単なる事実としての事実との対比の感受である。この対比は理論が正しいか否かにかかわらず成り立つ。

  第II節

個体的経験の構成要素の一方と外部世界の構成要素の他方とのあいだの離接を認めるあらゆる形而上学的理論は、必然的に、命題の真偽をめぐる困難、そして判断の根拠をめぐる困難に陥る。前者の困難は形而上学的であり、後者は認識論的である。しかし第一原理をめぐるあらゆる困難は、偽装された形而上学的困難にすぎない。したがって認識論的困難もまた、存在論への訴えによってのみ解決可能である。第一の困難は真偽の説明についての問いを提起し、第二の困難は真偽の直観的知覚の説明についての問いを提起する。前者は命題に関わり、後者は判断に関わる。個体的経験における構成要素の共存がある。この「共存」は「経験における共存」という特別で固有の意味をもつ。それはそれ自身固有の種類の共存であり、他の何ものへの言及によっても説明されない。この議論の目的にとって、経験の「流れ」について語るか経験の「機会」について語るかは無差別である。前者の代替では流れにおける共存があり、後者の代替では機会における共存がある。いずれの場合も、独自の「経験的共存」がある。経験的共存の考察は、窮極の形而上学的問いを提起する――「共存」に他の意味があるかどうか。他の意味の否定、すなわち経験的意味から抽象されないいかなる意味も否定することが、「主観主義的」学説である。この改訂版の主観主義的学説が、有機体の哲学の学説である。経験的共存に由来しない「共存」があるという反対の学説は、主体的経験の構成要素の、外部世界の共同体からの離接へと至る。この離接が、認識論にとって克服しがたい困難を生み出す。直観的判断は経験における共存に関わり、経験における共存と、経験的でない型の共存とのあいだには橋がないからである。この困難がカントの「超越論的」批判の要点である。彼は主観主義的立場を採用し、時間的世界は単に経験されるものにすぎないとした。しかし『純粋理性批判』における彼の主観主義的学説の形式によれば、時間的世界のいかなる要素もそれ自体が経験する者ではありえなかった。彼の時間的世界は、その本質において死んでおり、幻影的で、現象的であった。カントは数理物理学者であり、彼の宇宙論的解決は、数理物理学が限定される抽象にとって十分であった。主観主義的学説の困難は、経験のうちに共存する構成要素の分析に関する「感覚論的」学説と結びつくときに生じる。その分析によれば、そのような構成要素において、その個体的な「機会」あるいは「流れ」の特殊性の刻印を帯びていない唯一の要素は、「赤さ」や「形」といった普遍である。感覚論的な想定によれば、あるいはその学説のいかなる一般化によっても、問題の要素が普遍であるかぎり、唯一の代替は、ブラッドリーの単一の経験者、絶対者の学説か、ライプニッツの窓をもたない多くのモナドの学説かのいずれかである。カントは最終的な形而上学において、ライプニッツへ後退するか、ブラッドリーへ前進するかのいずれかでなければならない。いずれの代替も経験にある種の幻想性の雰囲気を刻印する。ライプニッツ的解決は、神への敬虔な依存に頼ることによってのみ、この幻想性を緩和できる。この原理はデカルトとライプニッツによって、彼らの認識論を切り抜けるために援用された。それは一貫した合理性にとってきわめて不快な仕掛けである。知識の可能性そのものが神の善性の偶然事であってはならず、事物の織り込まれた本性に依存すべきである。結局のところ、神の知識も等しく説明されねばならない。有機体の哲学は(ここで述べた意味における)主観主義的学説を認めるが、感覚論的学説を退ける。したがってそれは、ある現実的機会の別の現実的機会の経験における客体化の学説をもつ。それぞれの現実的存在は、現実世界をその射程内に含む、経験の一つの拍動である。作用因と知識の問題は、現実的機会の織り目への言及によって共通の説明を受け取る。有機体の哲学における判断の理論は、等しく「対応説」としても「整合説」としても記述されうる。それは対応説である――というのも判断を、命題と客体化された結合体との適合あるいは非適合の、統合的抱握の主体的形相として記述するからである。問題の抱握は、二つの抱握――一つは物理的、もう一つは精神的――の総合から生じる。物理的抱握は客体化された現実的機会の結合体の抱握である。精神的抱握は命題の抱握である。この後者の抱握は必然的に「不純」であり、純粋な概念的抱握がその与件を、何らかの物理的抱握の与件における現実性のための仮説的な関係性の述語として転移させる、先行する総合の歴史から生じる。この判断は、一つの経験内部の二つの構成要素の適合に関わる。したがってそれは「整合」説である。それはまた、その個体的経験に限定されない命題の、それ自身の成員のさまざまな経験から派生する(判断する経験からではなく)関係性をもつ結合体との適合にも関わる。この意味において「対応」説がある。しかしこの議論のこの点で、区別がなされねばならない。命題は真か偽かでありうると、判断は正しいか誤っているか宙吊りかでありうると、われわれは言おう。この区別によって、命題の真偽についての「対応」説、そして判断の正誤・宙吊りについての「整合」説がある、ということが分かる。「有機体的」学説において、判断と命題とのあいだの明確な区別がなされてきた。判断は判断する主体の「過程」における一つの感受であり、その主体に関して正しいか誤っている。それは一つの価値としてその主体の満足に入り込み、未来における現実的存在の判断によってのみ批判されうる。判断は、判断する主体による抱握の過程にある宇宙に関わる。それは第一次的には、客体化された現実的存在と永遠的客体との確定した選択に関わり、それらの永遠的客体の進入によるそれらの現実的存在の物理的客体化を――判断する主体にとって――肯定する。したがって、それらの永遠的客体によって、真に相互連関し限定されていると判断される、それらの現実的存在の一つの客体化された結合体がある。この判断は、判断する主体の構成における実在的事実を、正しくあるいは誤って肯定する。ここには判断の範疇的性格のいかなる限定の余地もない。判断は、判断する主体によって、それ自身について作られるものであり、判断する主体の構成における感受である。判断が明示的に関わる現実的存在は判断の「論理的」主語を構成し、選ばれた永遠的客体は、論理的主語について肯定される「性質」と「関係」を形づくる。判断は感受の主体的形相に関わり、より単純な感受の統合から生じる不純な感受であるという事実を考慮すると、判断は二種類に分けられる。(一)直観的判断と(二)派生的判断である。直観的判断においては、物理的与件と命題との統合が、その物理的与件の複合的な詳細に関する同一性あるいは多様性における命題の完全な複合的な詳細を感受へと引き出す。直観的判断は、同一性と多様性を含むこの複合的で詳細な比較の意識である。そのような判断はその本性上正しい。それは「あるところのもの」の意識だからである。派生的判断においては、物理的与件と命題との統合が、命題の完全な複合的な詳細を感受へと引き出すが、この詳細と物理的事実の複合的な詳細との完全な比較を感受へと引き出さない。詳細の残りに関わる何らかの比較がある。しかし主体的形相は、比較されたものと比較されないものとの構成要素を弁別する複合的なパターンを想定する代わりに、命題の全体性を包含する。派生的判断には誤りがありうる。論理学とは、派生的判断が前提についての判断に既に付随する誤り以外の誤りを導入しない、そうした命題間の関係性の分析である。ほとんどの判断は派生的であり、そのような判断は、感受の主体的形相が現実的機会の全体性によって影響されるという学説を例証する。これは一つの機会における感受の「感応性」と呼ばれてきた。直観的判断においては、同意あるいは不同意の主体的形相が、もっぱら与件における対比からその性格を引き出すように制約されている。この場合でも、目的へと移行する判断の情動的な力は、判断する主体全体から引き出される。

  第III節

いまや、何らかの体系的な相において現実世界がそれぞれの命題にいかに入り込むかという意味を考察することが残っている。この探究はもっぱら命題の論理的主語という観念に関わる。これらの論理的主語は、古い意味における「特殊」である。それらは他の概念と比較しての概念ではなく、潜勢的パターンにおける特殊な事実である。しかし特殊なものは指示されねばならない――命題はまさにそれらの特殊なものに関わり、他のものには関わらないからである。したがって指示は命題に属する。すなわち「かくかくの述定的パターンにおいて、このように指示されたそれらの特殊なもの」が命題を構成する。指示を離れては命題は存在しない。確定した特殊なものが存在しないからである。したがってわれわれは指示の理論を研究しなければならない。いくつかの定義が必要である――諸機会間の「関係」とは、その機会がそれによって一つの結合体を構成する、相互抱握の複合体において例証される永遠的客体である。ある関係が「二項関係」と呼ばれるのは、それが実現される結合体が二つの、そして二つだけの現実的機会からなる場合である。三つの機会があれば「三項関係」であり、以下同様である。一般に、任意の一つの結合体の諸機会の相互抱握のうちに、こうして例証される永遠的客体は無限定な数存在する――すなわち、任意の特定の結合体の諸機会のあいだで実現される関係も無限定な数存在する。「一般原理」とは、それ自身も永遠的客体であるその「事例」を通じてのみ例証される永遠的客体である。したがってある事例の実現は、その永遠的客体がその事例であるところの一般原理の実現でもある。しかし逆は真ではない――一般原理の実現は、いかなる特定の事例の実現も含まないが、何らかの事例の実現を必然化する。ある結合体が、その成員のあいだの二項関係の「指示的体系」を例証するのは、(一)その体系の一つの、そして一つだけの関係が、その各対の成員を関係づけ、(二)これらの関係が一般原理の事例であり、(三)ある成員Aと他の成員Bとのあいだの(体系における)関係が、AとB以外の結合体の成員をも関係づけることはなく、(四)AとBのあいだ、およびAとCのあいだの(体系における)関係が、BとCのあいだの(体系における)関係を定義するのに十分である、という場合である――ここでA、B、Cは結合体の任意の三つの成員である。これによってわれわれはアリストテレスの「位置」の範疇を定義してきたことになる。指示的な関係の体系をもつ結合体においては、経験の主体的側面が、関わる命題から除去されうることに注意されたい。あらゆる命題は、指示的な関係的体系をもつ何らかの一般的な結合体を前提する。この結合体はその判断する主体の局所とその論理的主語の両方を含む。この前提は命題の一部であり、その前提が妥当しないいかなる主体によってもその命題は抱懐されえない。したがって命題においては、判断する主体と論理的主語について、ある種の性格が前提される。この性格の前提は、単なる指示の要件が求める以上に押し進められうる。たとえば「ソクラテスは死すべきものである」において、単なる時空的な指示体系が「ソクラテス」を指示するのに十分かもしれない。しかしこの命題は「人間ソクラテスは死すべきものである」あるいは「哲学者ソクラテスは死すべきものである」を意味するかもしれない。余剰の指示が命題の一部でありうる。いずれにせよ、命題は現実世界が何らかの体系的側面を例証するものとして前提する、という原理はいまや説明された。

  第IV節

「形而上学的」命題とは、(一)それを抱懐する主体としてのいかなる現実的機会にとっても意味をもち、(二)その述語が、述定的パターンのための適切な数の論理的主語を提供する、あらゆる現実的機会の集合を潜勢的に関係づけるという意味において「一般的」であり、(三)その形式と範囲のゆえに、その真理値が、述語の適用を任意の一組の論理的主語に限定することによって得られるそれぞれの単称命題の真理値と同一である、という意味において「一様な」真理値をもつ、命題を意味する。もし形而上学的命題が真であるなら、第三の条件は不要であることは明らかである。一般命題が真でありうるのは、この条件が満たされる場合のみだからである。しかしもし一般命題が偽であるなら、それが形而上学的であるのは、派生的な単称命題のそれぞれもまた偽である場合に限られる。派生的な単称命題のいずれか一つが偽であれば、一般命題は偽であろう。しかし第三の条件は、その命題の真偽の決定にはいかなる依存もなしに、命題のうちに表現されている。形而上学的命題から派生する単称命題が、他のいかなる宇宙時代とも異なる真理値をもつような宇宙時代は存在しえない。われわれは確かに形而上学的命題を抱懐していると考えるが、幾何学の原理をめぐる過去の誤りを顧みれば、この点についてある種の懐疑を保つのが賢明である。もっとも明白に形而上学的であるように見える命題は算術の定理である。したがって、そのような定理のもっとも単純なものの一つ――一足す一は二である――の検討によって、この信念と残存する懐疑との両方への正当化を例証しよう。確かにこの命題は、「一つの存在と別の一つの存在が二つの存在を作る」という意味に解釈すれば、その一般性あるいは真理性にいかなる限定の影もなく、適切に形而上学的であるように見える。しかしここでもわれわれは躊躇せざるをえない。というのも、この命題は通常、その形而上学的真理の一般性について等しい確信をもって、しかし確実に限定され、時に偽である意味において主張される、ということに気づくからである。現実世界へのわれわれの言及において、われわれはめったに個々の現実的存在を考察しない。われわれの思考の対象はほとんど常に社会、あるいはより緩やかな現実的存在の集団である。いま単純化のため、「人格的」型の社会を考えてみよう。そのような社会は、ある規定的性格が各機会によってその先行者から相続される、歴史的経路を形づくる現実的機会の直線的な継起であろう。この種の社会は「持続的対象」である。おそらく単純な持続的対象は、われわれが通常知覚し考えるいかなるものよりも単純である。それは社会のもっとも単純な型であり、その存在のいかなる持続に対しても、その環境が大部分、類比的な単純な持続的対象から構成されることを要求する。われわれが通常考えるのは、多くの持続的対象の筋が見出される、より広い社会――「粒子的社会」である。いま二つの明確に異なる持続的対象を考えてみよう。それらの規定的性格が異なれば、考えやすいだろう。これらの規定的性格をaとbと呼び、二つの持続的対象の名前としてもこの文字を用いよう。いま「一つの存在と別の一つの存在が二つの存在を作る」という命題は通常、二つの持続的対象が与えられたとき、それぞれの二つの歴史的経路から一つの現実的機会を意識的に把握するいかなる注意の行為も、必然的に二つの現実的機会――それぞれ異なる経路からの――を発見するだろう、という意味に解釈される。たとえばカップと受け皿がそのような二つの持続的対象であると仮定しよう(もちろんそうではないが)――われわれは常に、両者が存在し、一目で見えるほど十分に近接しているかぎり、カップを知覚し受け皿を知覚するいかなる注意の行為も、それによってカップの存在の一機会とその受け皿の存在の一機会という、二つの現実的存在の知覚を含むだろう、と想定する。この特定の例におけるこの想定の真理性については、合理的な疑いの余地はない。しかしそれをなすとき、われわれは出発点となった形而上学的命題からきわめて遠く離れている。われわれは実際、われわれの生がそのただなかに置かれている、広い存在の社会に関する真理を述べているのである。それはこの〈宇宙〉に関する真理だが、形而上学的真理ではない。二つの真に単純な持続的対象aとbに立ち返ろう。またそれらの規定的性格aとbが反対物ではなく、両方が同じ現実的機会を限定しうると仮定しよう。そのときaとbの異なる経路が、少なくとも一つの現実的機会において交差してはならない一般的な形而上学的理由はない。実際、単純な持続的対象という観念のきわめて一般的な性格を考慮すれば、規定的性格aとbの適切な選択があれば、aとbの交差する歴史的経路がしばしば生じてきたことはほぼ確実である。そのような偶発事において、aとbという二つの異なる持続的対象を、その異なる規定的性格とその異なる歴史的経路の知識をもつように意識的に区別できる存在は、aとbが一つの現実的存在において例証されているのを見出すかもしれない。それはあたかも、カップと受け皿がある瞬間に同一であり、その後再びそれぞれの異なる存在を再開したかのようである。われわれがわれわれの生きている宇宙時代を支配する社会の性格に、その真理性が依存する想定を付加することなしに、算術をその純粋な形而上学的意味において適用することはほとんどない。

  第V節〜第VIII節

われわれは形而上学的な問いを問う――事物の本性のうちに何があって、帰納的推論あるいは一般的真理の判断が有意味に「正しい」あるいは「誤り」と呼ばれうるのか。たとえばわれわれはいま――一九二七年七月一日――アメリカ合衆国の鉄道時刻表が、直前の五月と六月について、若干の不正確さの限界と若干の個別の故障とを許容しつつ、列車の過去の運行についての事実を表しているものと信じている。またわれわれは、現行の七月の時刻表が同じ限定のもとで例証されるだろうと信じている。われわれの前にある証拠に照らせば、われわれの信念は、われわれが肯定しようとするすべてである高い蓋然性のある種の見積もりをわれわれの判断に導入するかぎりにおいて、正当化される。この考察は「判断」についての根本原理を導入する。それは、あらゆる判断は範疇的である――それは、判断をなす主体である現実的機会への適用において真あるいは偽である命題に関わる、というものである。この学説は、ブラッドリーの判断の学説からそれほど遠くない。ブラッドリーによれば、あらゆる判断の窮極の主語は唯一の窮極の実体、絶対者である。有機体の哲学において、現実的機会は――既に述べたように――特定の満足の達成の過程にある全宇宙である。ブラッドリーの現実性の学説は単純に逆転される。窮極の現実性は、満足の特定の達成をともなう特定の過程である。宇宙の現実性は、それぞれの現実的存在におけるその連帯性から派生するにすぎない。判断は判断する主体の立脚点から客体化された宇宙に関わる、と捉えられねばならない。この学説を念頭に置いて、確率がある現実的存在における積極的な事実でありうる、その意味の議論へと移る。確率の数学的理論は、ある種の統計的想定に基づいている。これらの想定が成り立つとき、確率の意味は単純である。しかし統計理論が、より多かれ少なかれの確率という観念が慣習的に適用されるあらゆる事例に、いかに適用されうるかを理解するのは容易ではない。有機体の哲学は、確率の直観がそこから生じうる、宇宙における二つの異なる要素を提供する。その一つは統計的である。まず、統計理論を正当化する試みがなされる。第一に、確率は常に証拠に対して適切である。したがって統計理論によれば、数的確率は、統計的比較のための「根拠」として選ばれた特定の「事例」の類における、有利な事例と不利な事例との数的比率を意味するだろう。しかし代替的な「根拠」は確かに存在する。したがってわれわれは、なぜ一つの「根拠」が他ではなく選ばれるのかについて、「確率」に基づかない理由を提供しなければならない。もし統計理論が実証されるべきなら、有限個の段階の後に、いかなる確率の理由によっても選ばれない「根拠」に到達しなければならない。それは、われわれのあらゆる推論において前提される「まさにその」根拠であるがゆえに選ばれねばならない。第二に、統計的確率に適した「根拠」の第一次的な要件は、それ自身確率に訴えているように見える。「根拠」と呼ばれる類の成員は、それ自身「等しい確率の事例」でなければならず、いくつかは有利でいくつかは不利であり、すべての成員が有利である、あるいはすべての成員が不利であるという限界の型の「根拠」の可能性をともなう。第三に、「根拠」のもう一つの要件は、それが含む事例の数が有限であることである。統計的確率が依拠する基数の比の全理論は、基数が無限であるときに破綻する。第四に、「標本抽出」の方法は、二つの異論を回避すると称する。要約すれば――標本抽出の方法は、(一)根拠の無限性から生じる困難、(二)問題の事例が新奇であり、実際に検討される根拠に属さないことから生じる困難、の両方を克服すると称する。この議論を通じて、われわれが考察しているのはそれ自身を超えたいかなる確率への訴えも要求しない窮極の根拠である、ということを忘れてはならない。したがって根拠についての統計的事実は「与えられて」いなければならず、単に「蓋然的」であってはならない。要約として、私の『科学と近代世界』第三章からの一節を繰り返すことしかできない――「帰納は、その本質において一般法則の導出であるとは私は考えていないことに注意されたい。それは、既知の特定の過去の性格から、特定の未来のいくつかの性格を導出することである。認知可能なあらゆる機会に成り立つ一般法則というより広い想定は、この限定された知識に付加するにはきわめて安全でない追加であるように思われる。現在の機会に求めうるすべては、それが機会の特定の共同体を規定し、それらがその同じ共同体への包含という理由によっていくつかの点でたがいに限定し合う、ということである」。誘因における確率の非統計的な根拠についてはこうである。永遠的客体の経験の第一次的な物理的与件への、段階づけられた「強度的適切性」の原理は、割り当てられた環境から生じる新奇な機会への、選ばれた永遠的客体の優先的な適応についての、実在的な事実を表現する。この原理は、神の原初的本性を構成する欲求の段階づけられた秩序の、あらゆる被造物による抱握を表現する。したがって前提された状況からのある確定した帰結の内在的な適合性についての直観がありうる。この適合性には統計的なものは何もない。それは、事物の根底にあり、移行のあらゆる非確定性を解決する、欲求の根本的な段階づけに依存する。このようにして、ある新奇性の始発に関する確率の直観がありうる。統計理論がそのような判断のための基盤をまったく提供できないことは明らかである。これらの非統計的判断が何らかの意味で宗教的であると考えられてはならない。それらは宗教的情動よりもはるかに低い水準の経験に位置する。世界における神の機能という概念の世俗化は、経験における他の要素の世俗化と同様に、少なくとも思考の緊急の要件である。

 第十章 プロセス

  第I節

「万物は流転する」というのは、体系化されず、かろうじて分析された人間の直観が生み出した、最初の漠然とした一般化である。それは詩篇のもっとも優れたヘブライ詩のいくつかの主題であり、ヘラクレイトスの言葉としてギリシア哲学の最初の一般化の一つとして現れ、アングロサクソン思想のより後の野蛮のただなかで、ノーサンブリアの王の饗宴の広間を飛び去る雀の物語として再現し、あらゆる文明の段階において、その追憶は詩に哀感を与える。もしわれわれが、理論の詭弁によって歪められていない、あの窮極の統合的な経験――その解明こそが哲学の最終目標である経験――にまで立ち戻るならば、事物の流動は疑いなく、われわれが哲学体系を織り上げねばならない一つの窮極の一般化である。この時点でわれわれは「万物は流転する」という句を、「事物の流動」という代替の句へと変換した。そうすることで「流動」という観念が、さらなる分析のための第一次的な観念としてわれわれの思考の前に据えられている。しかし「万物は流転する」という文には三つの語があり、われわれはその三つの語のうち最後の語を切り離すことから始めた。前の語「事物」へと戻り、どのような種類の事物が流転するのかと問う。最終的にわれわれは最初の語「万物」に到達し、この共通の流動に関与する「多くの」事物とはどういう意味であり、いかなる意味において「万物」という語がこれら多くの事物のうちの確定的に指示された一組を指しうるのか、と問う。「万物は流転する」という句に含まれる意味の解明は、形而上学の主要な任務の一つである。しかし前者に対立する、対抗的な観念がある。私はいまのところ、ヘラクレイトスが先の観念を表現したのと同じ完全さでこの対抗観念を表現する不朽の句を、一つも思い出すことができない。この別の観念は、事物の永続性――堅固な大地、山々、石、エジプトのピラミッド、人間の精神、神――に留まる。無関係な細部を取り除いた、その一般的な形における統合的経験のもっとも優れた表現は、しばしば宗教的な希求の言葉のうちに見出される。今日の多くの形而上学の希薄さの一因は、この窮極の感受の豊かな表現の看過にある。したがってわれわれは、ある有名な賛美歌の最初の二行のうちに、一つの統合的経験における二つの観念の結合の完全な表現を見出す――「われとともに留まりたまえ、夕べは速く落ちゆく」。ここで第一行は永続性――「留まる」「われ」そして呼びかけられる「存在」――を表現し、第二行はこれらの永続性を、逃れがたい流動のただなかに置く。ここに至って、われわれは形而上学の完全な問題の定式化を見出す。第一行から出発する哲学者たちは「実体」の形而上学をわれわれに与え、第二行から出発する哲学者たちは「流動」の形而上学を展開してきた。しかし真実を言えば、この二行はこのように引き裂くことはできず、両者のあいだの揺れ動く均衡が、より多数の哲学者たちの特徴であることが分かる。プラトンは、静的で霊的な天における永続性と、物理世界の流動的な不完全性のただなかにある諸形相の絡み合いにおける流動とを見出した。ここで「不完全性」という語に注意を向けたい。プラトンについてのいかなる主張においても私は訂正を受けるつもりで語るが、流転する事物は、「限定された」という意味、そして「それがありえたのに実際にはそうではない多くのものを確定的に排除する」という意味において不完全である、という学説を、プラトンの権威に帰することができると信じる。引用した賛美歌の詩句は、プラトン哲学の主要な立場が由来する直接の直観の、ほとんど完璧な表現である。アリストテレスは、彼のプラトン主義をいくぶん異なる均衡へと修正した。彼は「実体と属性」の使徒であり、この観念が示唆する分類的論理の使徒であった。しかし他方で彼は「生成」という観念の見事な分析を行っている。アリストテレスは自ら、静的な霊的世界を表層的経験の流動的な世界から分離しようとするプラトン的傾向への、有用な抗議を表明した。後のプラトン学派はこの傾向を強調した――中世のアリストテレス思想が、アリストテレス論理学の静的な観念に、今日まで存続する言葉でいくつかの主要な形而上学的問題を定式化させたのとちょうど同じように。全体として、哲学史はベルクソンの告発――人間知性は「宇宙を空間化する」、すなわちそれは流動性を無視し、静的な範疇の言葉で世界を分析する傾向がある――を支持する。実際ベルクソンはさらに進んで、この傾向を知性に内在する必然性として捉えた。私はこの告発を信じないが、「空間化」が、比較的なじみ深い言語で表現された明快な哲学への最短の道である、とは考える。デカルトはそのような思考体系のほとんど完璧な例を与えた。三つの明快な実体をもち、「持続」と「測定された時間」を背景に押しやったデカルト主義の困難は、流動性の従属の帰結を例証する。この従属は、賛美歌の分析されざる希求のうちに、プラトンの天上的完成の幻視のうちに、アリストテレスの論理的概念のうちに、そしてデカルトの数学的精神性のうちに見出される。思想の世界のナポレオンであるニュートンは、流動性を、「外部のいかなるものにも関わりなく均等に流れる」彼の「絶対的な数学的時間」へと規律づけて、無造作に世界に呼び戻した。彼はまた、彼の流率論という形において、それに数学的な制服を与えた。この時点で十七・十八世紀の哲学者たちの一群は、事実上一つの発見をなした――それは彼らの著作の表面に横たわっているにもかかわらず、彼らはそれを半ばしか実現していなかった。その発見とは、流動性には二種類がある、ということである。一つは、ロックの言葉で言えば「特殊な存在の真の内的構成」である癒合である。もう一つの種類は、特殊な存在から特殊な存在への〈移行〉である。この移行は、再びロックの言葉で言えば、時間という観念の一側面である「絶えざる消滅」であり、もう一つの側面において、この移行は、過去の「力」に適合した現在の始発である。「特殊な存在の真の内的構成」という句、人間知性を与件についての反省の過程として記述すること、「絶えざる消滅」という句、そして「力」という語とその解明は、いずれもロックの『人間知性論』のうちに見出される。しかし彼の探究の限定された範囲のゆえに、ロックは自らの散在する観念を一般化し統合することはなかった。この、二種類の流動という暗黙の観念は、ヒュームにおいてさらに無意識の例証を見出す。それはカントにおいてはほとんど明示的であるが、私の考えでは誤って記述されている。最終的にそれは、ヘーゲルとその派生的な学派の進化論的一元論のうちに失われる。その非一貫性のすべてにもかかわらず、流動する世界の記述に要求される二種類の流動性の発見を明示化しようとするとき、立ち返るのにもっとも有用な哲学者はロックである。一つの種類は、特殊な存在の構成に内在する流動性である。この種類を私は「癒合」と呼んできた。もう一つの種類は、特殊な存在の完結にともなう過程の消滅が、その存在を、過程の反復によって引き出される他の特殊な存在の構成における原初的な要素として構成する、その流動性である。この種類を私は「移行」と呼んできた。癒合はその目的因――その主体的目的――に向かって進み、移行は作用因の乗り物である――それは不滅の過去である。現実的な特殊な機会がいかに新しい創造のための原初的な要素となるかについての議論は、客体化の理論と呼ばれる。客体化された特殊な機会は共に、創造的な癒合のための与件の統一をもつ。しかしこの結合の程度を獲得するにあたって、それらの内在的な相互前提は、それらの構成における一定の要素を除去し、他の要素を適切性へと引き出す。したがって客体化とは、相互に調整された抽象、あるいは除去の操作であり、それによって現実世界の多くの機会が一つの複合的な与件となる。この総合による除去の事実は、時にその癒合の立脚点からの現実世界の遠近法と呼ばれる。それぞれの現実的機会は、それがそこから生じるそれ自身の現実世界を定義する。いかなる二つの機会も同一の現実世界をもつことはできない。

  第II節

「癒合」とは、多くの事物の宇宙が、「多」のそれぞれの項目を新奇な「一」の構成における従属へと確定的に追いやることにおいて、個体的統一を獲得する過程を指す名前である。もっとも一般的な語「事物」――あるいは同義的に「存在」――は、癒合のそれぞれの事例においてその居場所を見出す「多」の一つであること以外の何も意味しない。癒合のそれぞれの事例はそれ自身、問題の新奇な個体的「事物」である。「癒合」と「新奇な事物」とがあるのではない――新奇な事物を分析すれば、われわれは癒合以外の何も見出さない。「現実性」とは、この窮極の具体性への進入以外の何も意味せず、それを離れては単なる非存在があるにすぎない。言い換えれば、「具体性への進入」という観念からの抽象は自己矛盾的な観念である――それはわれわれに、事物を事物でないものとして考えることを求めるからである。癒合の一事例は「現実的存在」――あるいは同義的に「現実的機会」――と呼ばれる。現実的機会であるような、事物の一つの完結した集合というものはない。窮極の逃れがたい事実は創造性であり、その理由によって、具体的統一に従属していない「多くの事物」というものはありえないからである。したがってあらゆる現実的機会の集合は、事物の本性上、それらの多くの現実的機会から具体的な統一を引き出す、別の癒合のための立脚点である。したがってわれわれは、前提された完結を偽りとする直接の癒合の立脚点からでなければ、決して現実世界を見渡すことができない。それによって何らかの相対的に完結した現実世界が、事物の本性上、新しい癒合のための与件であるところの創造性は、「移行」と呼ばれる。したがって移行の理由によって、「現実世界」は常に相対的な語であり、新奇な癒合のための与件である、前提された現実的機会の基盤を指示する。現実的機会は分析可能である。この分析は、個々には疎遠な存在を、具体的に一つである複合体の構成要素へと変換する操作を開示する。「感受」という語がそのような操作の類的な記述として用いられよう。したがってわれわれは、現実的機会とは感受の過程によって成し遂げられる癒合である、と言う。感受は、(一)感受される現実的機会、(二)感受される永遠的客体、(三)感受される諸感受、そして(四)それ自身の強度の主体的形相、に関して考察されうる。癒合の過程において、多様な感受は統合的感受のより広い一般性へと移行する。そのようなより広い一般性は、それらの確定的な同一性と対比の要素を含む、諸感受の複合体の感受である。この感受の統合の過程は、感受の具体的統一が得られるまで進行する。この具体的統一において、可能性の実現に関するあらゆる非確定性は除去されている。癒合それ自身に起源をもつものも含む、宇宙の多くの存在は、この最終的な統一のうちにそれぞれの役割を見出す。この最終的な統一は「満足」と呼ばれる。「満足」は、完全に確定した事実へと癒合が到達する頂点である。その先行するいかなる相においても、癒合はその多くの構成要素間の結合体に関して純然たる非確定性を示す。

  第III節

現実的機会は、癒合の特定の事例に帰属されるべき統一にほかならない。したがってこの癒合は、問題の現実的機会の「真の内的構成」にほかならない。現実的存在の形相的構成の分析は、感受の過程における三つの相――(一)応答的相、(二)補足的段階、(三)満足――を与えてきた。満足は単に、あらゆる非確定性の蒸発を印づける頂点にすぎない。それゆえ、あらゆる感受の様態、宇宙のあらゆる存在に関して、満足した現実的存在は確定した「然り」あるいは「否」の態度を体現する。したがって満足とは、癒合の目的因である私的な理想の達成である。しかし過程それ自体は先の二つの相にある。第一相は、美的総合のための客観的与件という装いにおける現実世界の純粋な受容の相である。この相には、相互前提の結合体に巻き込まれた私的な感受の中枢の多性としての、現実世界の単なる受容がある。感受は外部の中枢に属するものとして感受され、私的な直接性へと吸収されてはいない。第二段階は、その過程自体において漸進的に形づくられる私的な理想によって支配され、それによって疎遠なものとして派生的に感受された多くの感受が、私的なものとして直接感受される美的な鑑賞の統一へと変換される。これが「欲求」の到来であり、その高次の例証において「幻視」と呼ばれる。物理科学の言葉で言えば、「スカラー」形相が原初の「ベクトル」形相を圧倒する――その起源は個体的経験に従属するようになる。ベクトル形相は失われるのではなく、スカラー的な上部構造の基盤として沈み込む。この第二段階において、感受はこの概念的感受の流入のゆえに情動的な性格を帯びる。しかし起源が私的な情動のうちに失われない理由は、宇宙のうちに純粋な私性が可能な要素は存在しないからである。もしわれわれが意味の完全な分析を得ることができたなら、純粋な私性という観念は自己矛盾であることが見て取られるだろう。情動的感受はなお、「何ものかである」とは「他の存在との実在的統一を獲得する潜勢態をもつ」ことである、という第三の形而上学的原理に服している。したがって「現実的存在の実在的構成要素である」とは、何らかの仕方で「この潜勢態を実現する」ことである。したがって「情動」とは「情動的感受」であり、「感受されるもの」とは前提されたベクトル的状況である。物理科学において、この原理は、根本的な思弁において決して見失われるべきではない形――スカラー量はベクトル量から派生する構築物である、という形――を取る。より馴染み深い言葉で言えば、この原理は、「受け渡し」という観念は私的な個体的事実という観念よりも根本的である、という言明によって表現できる。ここで形而上学的言明のために採用される抽象的な言葉では、「受け渡し」は「創造性」となる――ラテン語creare「もたらす、生む、産出する」という辞書的な意味においてである。したがって第三の原理によれば、いかなる存在も創造性という観念から切り離すことはできない。存在とは少なくとも、それ自身の特殊性を創造性へと注ぎ込むことができる、一つの特殊な形相である。現実的存在、あるいは現実的存在の一相は、それ以上のものであるが、少なくともそれではある。

  第IV節

補足という第二相は、それ自身を二つの従属的な相へと分ける。この両方の相は些細でありうる。またそれらは真に分離可能ではない――強化あるいは抑制によってたがいに干渉し合うからである。もし両方の相が些細であれば、第二相全体は単に個体的な始発性の確定的な否定にすぎず、過程は受動的にその満足へと進む。現実的存在はそのとき、感受の相続された構成の移転のための単なる乗り物である。その私的な直接性は物語から消え去る。この二つの従属相のうち、前者――順序があるかぎりでは――は美的補足の相であり、後者は知的補足の相である。美的補足においては、一つの現実的機会の癒合における客観的内実の統一に内在する対比とリズムについての、情動的な鑑賞がある。この相において知覚は、苦痛と快楽、美と嫌悪の想定によって高められる。それは抑制と強化の相である。それは、青がその対比のゆえにより強烈になり、形がその愛らしさのゆえに卓越性を獲得する相である。疎遠なものとして受け取られたものが、私的なものとして再創造されたのである。これが知覚性の相であり、知覚性への情動的反応を含む。この相において、私的な直接性は与件を盲目の感受という新しい事実へと溶接した。純粋な美的補足はその問題を解決した。この相は概念的感受の流入と、それと純粋な物理的感受との統合とを要求する。しかしこれまでのところ、過程の「盲目性」は非確定性を保持している。知的な「視」の確定的な否定か、あるいは知的な「視」の容認かのいずれかがなければならない。知的な視の否定とは、純粋潜勢態という抽象的な地位における永遠的客体を無関連性へと退けることである。「ありうること」は「あること」との適切な対比の能力をもつ。もしこの抽象的な能力における純粋潜勢態が適切性から退けられるなら、第二の従属相は些細である。過程はそのとき盲目の現実的機会を構成する――「盲目」とは、いかなる知的操作も含まれないという意味であり、概念的操作は常に含まれるとしても。したがって「幻視」という形における精神性は常にあるが、意識的な「知性」という形における精神性は常にあるわけではない。しかしもし何らかの永遠的客体が、その抽象的能力において現実の事実に適切なものとして実現されるなら、知的操作をともなう現実的機会がある。そのような知的操作の複合体は時に現実的機会の「精神」と呼ばれ、その現実的機会はまた「意識的」とも呼ばれる。しかし「精神」という語は独立した実体という示唆を伝える。ここではそれは意図されていない。より良い語は、現実的機会に属する「意識」である。確定した論理的主語に関連する純粋潜勢態に関して実現された永遠的客体は、問題の現実的機会の精神性における「命題的感受」と呼ばれる。現実的機会に属する意識とは、その知的補足の従属相であり、その従属相が純粋に些細でないときのそれである。この従属相は、単なる命題的潜勢態と実現された事実とのあいだの完全な対比を、感受へと引き出すことである。

  第V節

要約すれば、過程には二種がある――巨視的過程と微視的過程である。巨視的過程は達成された現実性から達成されつつある現実性への移行であり、微視的過程は単に実在的であるにすぎない条件を確定した現実性へと転換することである。前者の過程は「現実的」なものから「単に実在的」なものへの移行を成し遂げ、後者の過程は実在的なものから現実的なものへの成長を成し遂げる。前者の過程は作用的であり、後者の過程は目的論的である。未来は現実的であることなしに単に実在的であるにすぎず、他方過去は現実性の結合体である。現実性はその実在的な発生的諸相によって構成される。現在とは、実在性が現実性となる目的論的過程の直接性である。前者の過程は達成を真に統べる諸条件を提供し、後者の過程は実際に達成される諸目的を提供する。「有機体」という観念は「過程」という観念と二重の仕方で結びつけられる。現実の事物の共同体は一つの有機体であるが、それは静的な有機体ではない。それは産出の過程にある未完結である。したがって現実の事物に関する宇宙の拡張が「過程」の第一の意味であり、その拡張のいかなる段階における宇宙も「有機体」の第一の意味である。この意味において、有機体とは一つの結合体である。第二に、それぞれの現実的存在はそれ自身、一つの有機的過程としてのみ記述可能である。それは小宇宙において、宇宙が大宇宙において何であるかを反復する。それは相から相へと進む過程であり、それぞれの相は、その後継者が問題の事物の完成に向けて進んでいく、実在的な基盤である。それぞれの現実的存在は、その構成のうちに、その条件がなぜそうであるかの「理由」を担っている。これらの「理由」は、それにとって客体化された他の現実的存在である。「客体」とは、われわれの「経験」が適合しなければならないその〈確定性〉を性格づける、超越的な要素である。この意味において、未来は現在において〈客観的〉な実在性をもつが、〈形相的〉な現実性はもたない。というのも、未来がそれに取って代わるだろうということが、直接の現在の現実性の構成に内在しているからである。またその未来が適合しなければならない諸条件――現在への実在的な諸関係を含む――は、直接の現実性のうちに真に客観的である。したがってそれぞれの現実的存在は、その微視的過程に関しては完結しているが、その巨視的過程の客観的な包含のゆえに、なお未完結である。それは、未来のその完結した現実性は非確定であるにもかかわらず、現実的でなければならない未来を真に経験する。この意味において、それぞれの現実的機会はそれ自身の客体の不滅性を経験する。

第三部 感受の理論

 第一章 感受の理論

  第I節〜第II節

有機体の哲学は現実性の細胞理論である。事実のそれぞれの窮極単位は細胞複合体であり、現実性の等しい完全さをもつ構成要素へと分析できない。細胞は発生的にも形態学的にも考察できる。発生理論は本部で、形態学的理論は第四部で「現実的存在の延長的分析」という表題のもとで考察される。発生理論において、細胞は、それがそこから生じる宇宙のさまざまな要素を、それ自身の存在の基盤として取り込むものとして示される。ある特定の要素を取り込む過程はそれぞれ抱握と呼ばれる。こうして取り込まれる宇宙の窮極の要素は、既に構成された現実的存在と永遠的客体である。あらゆる現実的存在は肯定的に抱握されるが、永遠的客体は選ばれたものだけが抱握される。これらの多様な抱握の統合の過程で、他の範疇的型の存在が適切になり、新奇な命題や類的な対比といった、これらの型の新しい存在が生じてくる。これらの適切な他の型の存在もまた、癒合する細胞の構成のうちに抱握される。現実的存在とは、不完全な主体的統一をもつ多くの操作が、「満足」と呼ばれる完結した操作の統一において終結する過程である。「満足」とは、その範疇的要求の充足による創造的衝動の充足である。過程それ自体が現実的存在の構成であり、ロックの言い回しで言えば現実的存在の「真の内的構成」である。デカルトが用いた古い言い回しでは、過程とは現実的存在がそれ自体において「形相的に」あるところのものである。ここで用いられる「形相」「形相的に」という語はこの意味においてである。ここで「満足」と呼ばれる操作の終端的統一は、現実的存在がそれ自身を超えたところであるものを体現する。ロックの言い回しでは、現実的存在の「力」は満足の分析において発見される。デカルトの言い回しでは、満足とは「客体的に」その存在に関して分析可能なものとして考察される現実的存在である。それは、確定的で決定的な既定の事実としての現実的存在であり、頑固で回避しえない帰結をともなう。その満足の形態学によって記述される現実的存在は、ベルクソンの語を用いれば「空間化された」現実的存在である。こうして空間化された現実的存在は、それ自身の「実体的形相」によって活動づけられた個体的な既定の事実として与えられる。その存在自身の過程――それはその内的存在である――は蒸発し、擦り切れ、満たされている。しかしその効果はすべて、その「満足」の言葉で記述されねばならない。現実的存在の「効果」とは、それ自身とは別の癒合過程へのその介入である。それ自身を超越する過程へとこのように介入する存在はいずれも、「客体」として機能していると言われる。説明の第四範疇によれば、あらゆる種類のあらゆる存在に共通する一つの一般的な形而上学的性格は、それらが客体として機能する、ということである。この形而上学的性格こそが宇宙の連帯性を構成する。現実的存在の特異性は、それが「客体的」にも「形相的」にも考察されうる、という点にある。「客体的」な側面は、その現実的存在に関するかぎり形態学的である――これが意味するのは、関わる過程がそれに対して超越的であり、その満足の「有」は「感受されること」である、ということである。「形相的」な側面は、その現実的存在に関するかぎり機能的である――これが意味するのは、関わる過程がそれに内在的である、ということである。しかし客体的な考察は実用的である。それは、その帰結に関する現実的存在の考察である。本章では現実的存在の形相的考察に強調が置かれる。しかしある現実的存在のこの形相的考察は、他の現実的存在の客体的介入への言及を要求する。他の存在のこの客体的介入が、問題の癒合を条件づける創造的性格を構成する。それぞれの現実的存在の満足は宇宙の与えられていることにおける一要素である――それは限界のない抽象的可能性を、それぞれの新奇な癒合がそこから生じる特定の実在的潜勢態へと限定する。有限な真理の可能性は、現実的存在の満足がさまざまな確定した操作へと可分的であるという事実に依存する。これらの操作は「抱握」である。しかし癒合への寄与からの排除からなる否定的抱握は、肯定的抱握への従属において扱われうる。これらの肯定的抱握は「感受」と呼ばれる。癒合の過程は、多くの感受の始発的な段階と、より単純な先行の感受を統合する、より複合的な感受の続く諸相との系列へと可分的であり、一つの複合的な感受の統一である満足にまで至る。これが満足の「発生的」分析である。その「座標的」分析は後に第四部で与えられる。感受、すなわち肯定的抱握とは、本質的に癒合を成し遂げる移行である。その複合的構成は、その移行が何から成り何を成し遂げるかを表現する五つの要因へと分析可能である。それらの要因とは、(一)感受する「主体」、(二)感受されるべき「始発的与件」、(三)否定的抱握による「除去」、(四)感受される「客観的与件」、(五)その主体がその客観的与件をいかに感受するかという「主体的形相」である。感受は、あらゆる点で確定的であり、確定した主体、確定した始発的与件、確定した否定的抱握、確定した客観的与件、確定した主体的形相をもつ。除去によって成し遂げられる、始発的与件から客観的与件への移行がある。始発的与件は「多性」あるいは単なる一つの「固有」存在を構成し、客観的与件は「結合体」、命題、あるいは何らかの範疇的型の「固有」存在である。除去によって可能となり、主体的形相によって成し遂げられる、始発的与件の客観的与件への癒合がある。客観的与件は始発的与件の遠近法である。主体的形相はその限定を、否定的抱握、客観的与件、そして主体の概念的始発から受け取る。否定的抱握は、感受を統べる範疇的条件、主体的形相、そして始発的与件によって限定される。感受に関わる要素のこの相互限定は、感受の主体が自己原因であるという真理の一つの表現である。完全な満足以外の感受の部分的な本性は、全体の主体に頼らずにはその発生を理解することの不可能性によって明白である。一つの主体のうちには、範疇的条件によって統べられた感受の相互感応性がある。この相互感応性は、あらかじめ確立された調和という装いにおける目的因の観念を表現する。

  第III節〜第V節

感受は、それを抱懐する現実的存在から抽象されえない。この現実的存在は感受の「主体」と呼ばれる。感受が一つのものであるのは、まさにその主体のゆえである。もし感受から主体を抽象するなら、われわれには多くのものが残る。したがって感受は、それぞれの現実的存在が特殊であるのと同じ意味において特殊である。それはそれ自身の主体の一側面である。「主体」という語は、この意味で哲学において馴染み深いがゆえに保持されてきた。しかしそれは誤解を招く。「超主体」という語のほうがよいだろう。主体・超主体とは、感受を始発させる過程の目的である。感受はそれが目指す目的から切り離せない。この目的が感受する者である。感受は感受する者を、その目的因として目指す。感受はそれがそれであるのは、その主体がそれであるところのものであるためである。そのとき超越的に、主体はその感受のゆえにそれであるところのものであるから、主体がそれ自身を超越する創造性を客体的に条件づけるのは、その感受による以外にない。われわれ自身の比較的高等な人間的存在において、感受とその主体についてのこの学説は、道徳的責任というわれわれの観念によってもっともよく例証される。主体は、その感受のゆえにそれであるところのものであることに責任がある。それはまた派生的に、その存在の帰結に対しても責任がある――それらがその感受から流れ出るからである。もし主語・述語という言明の形式が形而上学的に窮極であると取られるなら、感受とその超主体についてのこの学説を表現することは不可能になる。感受がその主体を「目指す」と言うほうが、それが「その主体によって目指される」と言うよりもよい。後者の表現様式は、主体を感受の範囲から取り除き、それを外部の主体性に割り当ててしまうからである。したがって感受は、それ自身の目的因から誤って抽象されることになるだろう。この目的因は感受に内在する要素であり、その感受の統一を構成する。現実的存在は、それがそれであるところの現実的存在であるために、まさにそのように感受する。この仕方で現実的存在は、実体は自己原因であるというスピノザの観念を満たす。創造性は、それ自身の外在的な目的をもつ外部の主体性ではない。あらゆる現実的存在は、この自己原因という性格を神と共有する。この理由により、あらゆる現実的存在はまた、神を含むあらゆる他の現実的存在を超越するという性格をも、神と共有する。宇宙はこうして、新奇性への創造的前進である。この学説への代替は、静的な形態学的宇宙である。事物の窮極の本性から流れる、三つの主要な範疇的条件がある。これら三つの条件とは、(一)主体的統一の範疇、(二)客体的同一性の範疇、(三)客体的多様性の範疇である。第一の範疇は自己実現に関わる。自己実現は事実のうちの窮極の事実である。現実性は自己実現的であり、自己実現的なものはすべて現実性である。現実的存在は、自己実現の主体であると同時に、自己実現される超主体でもある。第二と第三の範疇は客体的な限定に関わる。あらゆる存在は、他の現実的存在すら含めて、当の現実性の確定性の限定者としての能力において、現実性の自己実現に入り込む。存在のこの客体的な機能作用のゆえに、真理と虚偽がある。あらゆる現実性は曖昧さの影を欠いているからである――それは他の存在の手による客体的な限定のゆえに、まさにそれがそれであるところのものである。現実化から抽象すれば、真理と虚偽は無意味である――われわれは無意味の領域、何ものも存在への要求をもたない辺獄にいる。しかし限定は現実性の魂である。特異な確定性の達成は、ある特定の過程を活気づける目的因であり、その達成はその過程を停止させる。それによって超越を通じて、それは、達成可能な確定性の豊かさに、宇宙の「実在的潜勢態」に、新しい客観的条件として加わる、その客体の不滅性へと移行する。ここで一つの区別がなされねばならない。あらゆる創造の課題は、全宇宙を用いる社会的な努力である。それぞれの新奇な現実性は、新しい条件を付加する新しい協働者である。あらゆる新しい条件は、達成の追加的な充実へと吸収されうる。他方、それぞれの条件は排他的であり、多様性を許容しない――それが、その排除を対比へと転じる条件の網のうちに自らを見出すかぎりを除いて。新しい現実性は誤った社会のうちに現れるかもしれず、そのただなかではその有効性への主張は主として抑制として働く。そのとき、その抑制を除去するための新しい創造の時代によって、創造的機能に骨の折れる課題が課される。誤った季節での誕生への固執は悪の策略である。言い換えれば、新奇な事実は押し戻し、抑制し、遅らせるかもしれない。しかし前進は、それが到来するとき、内容においてより豊かで、より完全に条件づけられ、より安定しているだろう。事実の連鎖は防波堤のようなものである。一方の側には難破があり、その向こうには停泊地と安全がある。事物の限定を統べる範疇は、悪があるべき理由であると同時に、世界の前進において特定の悪の事実が最終的に超越される理由でもある。

  第VI節〜第IX節

これらの範疇の重要性は、それぞれの現実世界を、問題の現実的存在の癒合へと導く「媒体」の光のもとで考察することによってのみ理解できる。「現実世界」という句は常に、ある一つの癒合への言及をもつことを想起されたい。Aと呼ぶ現実的存在は、B、C、Dと呼ぶ他の現実的存在を感受する。したがってB、C、DはすべてAの現実世界のうちにある。しかしCとDはBの現実世界のうちにあり、それによって感受されるかもしれない。またDはCの現実世界のうちにあり、それによって感受されるかもしれない。いまBは、Aの感受のための始発的与件として、その媒介を通じてAが感受すべきCとDをも提示する。またCは、Aの感受のための始発的与件として、その媒介を通じてAが感受すべきDをも提示する。したがってこの人為的に単純化された例において、Aは三つの異なる源泉を通じてDを感受のために提示されている――(一)直接に粗野な与件として、(二)Bの媒介によって、(三)Cの媒介によって。この三重の提示が、BとCの媒介に関するかぎりでの、AのDについての感受のための始発的与件としての機能におけるDである。したがってAの癒合の基礎的な相においては、与件Dについての三つの抱握が生じる。第一の範疇によれば、これらの抱握は独立ではない。癒合のこの主体的統一は否定的抱握を導入し、それによって直接の感受におけるDは、その形相的な完全さにおいて感受されるのではなく、Bの媒介を通じたDと、Cの媒介を通じたDとに矛盾するその抱握の除去とともに、客体化される。したがって第一相の三つの構成的感受は、Dの首尾一貫した客体化についてのAの一つの感受がある第二相の統合へと移行しうるように、一貫している。Dは必然的に自己一貫的であるから、非一貫性は、Bによる直接のD、Cによる直接のD、そしてAによる直接のDの抱握の主体的形相から生じねばならない。これらの非一貫性が、Dについてのaの全体的な抱握における除去へと至る。この過程において、除去を成し遂げる否定的抱握は、決して無視しうるものではない。感受がそれ自身を構成する際に通過する過程は、統合的感受の主体的形相のうちにそれ自身を記録する。否定的抱握はそれ自身の主体的形相をもち、それをその過程に寄与する。感受はそれ自身の誕生の傷跡をそれ自身に負っている。それは、その存在のための闘争を主体的な情動として想起する。それは、それがそうでありえたが実際にはそうではないものの刻印を保持する。それゆえ、ある現実的存在が感受のための与件として避けたものが、なおその装備の重要な部分でありうる。現実性は、潜勢態から切り離された単なる事実の問題へと還元されえない。概念的抱握の場合にも、与件が永遠的客体であるという同じ説明原理が成り立つ。この概念的抱握の第一相においては、この永遠的客体が、物理的感受に確定性を与える単なる抽象的能力として感受されるべきものとしてある。しかしまた、無数の現実的存在の客体化の感受もある。これらの物理的感受のいくつかは、この同じ永遠的客体を、それらの確定性を提供する要素として例証する。このようにして同じ永遠的客体の多様な抱握があり、第一の範疇によれば、これらの多様な抱握は一貫していなければならず、それによって、その永遠的客体についての一つの首尾一貫した複合的感受、すなわち概念的感受がある後続の相の統合へと移行しうる。この一貫性への主体的な固執は、最初から、肯定的な感受を否定的抱握に置き換えるかもしれない。前節の説明では、第一の範疇のみが明示的に言及されてきた。いまや他の範疇がいかに暗黙のうちに前提されてきたかを指摘しなければならない。そもそも統合があるという事実は、客体的同一性の範疇によって表現される条件から生じる。現実的存在であれ永遠的客体であれ、同じ存在は、一つの癒合の形相的構成において二度感受されることはできない。ある一つの客体の多くの感受をもつ不完全な諸相は、その一つの客体についての一つの感受をもつ最終的な満足の言葉によってのみ解釈されるべきである。したがって客体的同一性は、一つの客体の多くの感受の、その客体の一つの感受への統合を要求する。第三の範疇は一性への対極、すなわち多様性に関わる。現実的存在は単に一つであるだけでなく、確定的に複合的でもある。しかし確定的に複合的であるとは、確定した多様な要素を確定した仕方で含むことである。客体的多様性の範疇は、複合的統一はその構成要素それぞれに、それ自身に固有で、その構成要素自身の実在性と同じ意味を担う実在性をもつ、地位の実在的な多様性を提供しなければならない、という容赦ない条件を表現する。言い換えれば、実在的な統一は、その多様な構成要素に対して見せかけの地位の多様性を提供することはできない。この地位の多様性は、構成要素の実在的な統一と結びついて、感受の客観的与件における二つの構成要素の実在的な総合が、その関係項それぞれの個体的な特殊性に感染していなければならない、ということを意味する。したがって総合はその完全性において、その一対の関係項の共同の特殊性を表現し、他のいかなるものも関係づけることができない。永遠的客体の確定性から生じる、この個体的な確定性をもつ複合的存在は「対比」と呼ばれよう。対比は対比された関係項から抽象されえない。対比のもっとも明白な例は、永遠的客体にもっぱら注意を限定することによって見出される。青と赤とのあいだの対比は、他のいかなる色の対、いかなる音の対、あるいは色と音とのあいだの対比として反復されることはできない。それはまさに青と赤とのあいだの対比であり、それ以外の何ものでもない。ある一意味で、「結合体」は「対比」という語の意味のもとに入るが、この語のこの適用は避けよう。通常「関係」と呼ばれるものは対比からの抽象である。一つの関係は多くの対比のうちに見出されうる。二つ以上の要素が共同で対比されるとき、そしてその事実に注意を向けたいときには「多重対比」という語が用いられよう。多重対比は構成的な二項対比へと分析可能である。しかし多重対比は単なる二項対比の集合ではない。それはその構成的な対比を超えた、一つの対比である。多重対比が単なる二項対比の離接として考えられえないというこの学説は、創発的進化の学説の基盤である。それは、実在的な統一が構成的要素の単なる集合的な離接以上のものであるという学説である。この学説は、特殊な実体の類理論への異論と同じ根拠をもつ。ブラッドリーの関係についての議論は、関係と対比とを区別することの失敗によって混乱している。関係は対比の一つの類である。彼はそれから、関係が対比の仕事を果たさないことを見出して苦悩する――それは対比することに失敗する。したがってブラッドリーの論証が証明するのは、とりわけ関係が「単なる」ものである――すなわち絶対者の不注意であり、自己一貫性を欠いた実在性の模倣である――ということである。「対比」という語の一つの用法は、永遠的客体の実現された共存から生じる、結合的統一のあの特殊性を意味することである。しかし「特殊性」にはもう一つの、より通常の意味がある。これは「特殊」という語が現実的存在に適用される意味である。一つの現実的存在は、他の現実的存在のあいだで、永遠的客体間の対比の言葉では完全には表現できない地位をもつ。たとえば古代ローマ帝国のヨーロッパ史への複合的な結合は、完全には普遍によって表現できない。それは単に、帝国的でローマ的で古代的なある種の都市と、海に浸食され河川に多様化され、アルプスによって区分され、より大きな大陸塊と大洋の荒野に取り囲まれ、文明化され野蛮化されキリスト教化され商業化され産業化されたある種の大陸のある種の歴史との対比ではない。問題の結合体は確かに普遍のそのような複合的な対比を含む。しかしそれ以上のものを含む。それは〈あの〉ローマの〈あの〉ヨーロッパとの結合体だからである。われわれはこの結合体を、もっぱら概念的感受の助けによって意識することはできない。この結合体は暗黙のうちに、意識下で、われわれの物理的感受のうちにある。部分的にはわれわれはそのような物理的感受を、そして特殊な現実的存在間の結合体のその特殊性を、意識している。この意識は、直接知覚される事物間の特殊な空間的・時間的関係についての、われわれの意識という形を取る。しかしローマとヨーロッパの場合のように、われわれの広範な知識の大部分に関するかぎり、問題の特殊な現実性間の特殊な結合体は、われわれが意識している物理的感受への構成的な言及によってのみ指示される。現実的存在間の結合体のこの特異な特殊性は、別の仕方で述べることができる。とりわけヒュームによる、概念的感受と知覚的感受との破滅的な混同のゆえに、われわれは普遍の言葉でしか〈概念できない〉という自明の理が、われわれは普遍の言葉でしか〈感受できない〉ことを意味するまで引き伸ばされてきた。これは真実ではない。われわれの知覚的感受は特殊な実在を感受する――すなわち、知覚者に属する物理的感受は、他の二つの現実性AとBとのあいだの結合体を感受する。それはBを感受するAの諸感受を感受し、Aを感受するBの諸感受を感受する。それはこれらの感受を統合し、それらの要素の同一性を統一する。これらの同一の要素が、AとBのあいだの結合体を限定する要因を形づくる――その結合力においてAとBの特殊な多様性をも保持する結合体である。知覚者の現実世界における多くの現実的存在間の、より複合的な多重の結合体もまた、その知覚者によって感受される。しかしこう感受される結合体は、その特定の知覚者から抽象されうる。それは、それらの現実的存在を自らの現実世界に含むあらゆる知覚者にとって、同じ結合体である。多重の結合体とは、それらの現実的存在の実在的な相互抱握の客体の不滅性のゆえに、それらの現実的存在が宇宙のあらゆる後続の統一においていかに真に共にあるかということである。こうしてわれわれは、ある現実的存在の現実世界という観念に到達する――それはその客体化が、その現実的存在の物理的感受にとっての客観的与件の完全な統一を構成する、一つの結合体である。この現実的存在が、その結合体の原初の知覚者である。しかし、その原初の知覚者を自らの現実世界に含む他のいかなる現実的存在も、その先行する結合体を自らの現実世界の一部として含む。したがってそれぞれの現実世界は、この意味においてその原初の知覚者から独立した結合体である。それはそれ自身を超えた未来における客体の不滅性を享受する。あらゆる結合体は構成的結合体であり、まずある現実的存在の癒合のより後の相において成し遂げられ、それ以後常に、それ自身のうちに結びつけられた現実的存在のあいだで日付づけられ位置づけられた、不変の事実として現実世界における地位をもつ。もしある結合体において普遍の実現された対比があるなら、この対比は、その統合的感受の一つにおいて最初に始発したものとして、それが属する現実的存在のうちに位置づけられる。したがってあらゆる実現された対比は、現実的存在の特殊性をもつ特殊な位置をもつ。それは実現された、特殊な複合的事実であり、その実在性のゆえに、創造的前進がそこから始発しなければならない、あらゆる後続の現実世界における恒常的な条件である。それぞれの現実性、それぞれの結合体、それぞれの実現された対比のこの完全な個体的特殊性こそが、主体的統一・客体的同一性・客体的多様性という三つの範疇的条件の理由である。

  第X節〜第XII節

感受の主体的形相は、生じうるさまざまな型の感受との関連で論じるのがもっともよい。この型への分類は、始発的与件・客観的与件・主体的形相に関する感受間の相違を考慮する。しかしこれらの相違の源泉は完全には分離できない。感受とは、宇宙のいくつかの要素を、その主体の真の内的構成における構成要素とする取り込みである。要素とは始発的与件であり、それらが感受が感受するものである。しかしそれらは抽象のもとで感受される。感受の過程は除去を成し遂げる否定的抱握を含む。したがって始発的与件は、感受の客観的与件である「遠近法」のもとで感受される。この除去のゆえに、複合的な客観的与件の構成要素は、感受の主体の構成に介入する「客体」となっている。数理物理学の言い回しでは、感受は「ベクトル」的性格をもつ。感受とは、他の事物が、癒合の過程にあるその一つの主体の構成へと組み込まれる作用主体である。感受は、宇宙が新奇な癒合によって常に更新される統一を見出すゆえんの結合体を構成する。宇宙は常に一つである――それを統一する現実的存在からでなければ、それを見渡すことはできないからである。また宇宙は常に新しい――直接の現実的存在は、本質的に新奇性である感受の超主体だからである。感受の本質的な新奇性は、その主体的形相に付着する。始発的与件、そして客観的与件である結合体でさえ、他の主体をもつ他の感受に役立ってきたかもしれない。しかし主体的形相は直接の新奇性である――それは〈その〉主体がその客観的与件をいかに感受しているか、である。この主体的形相を、この癒合の新奇性から引き裂くことはできない。それはその直接の現在の直接性のうちに包まれている。「特殊な実体に内属する性質」という観念の根本的な例は、「感受に内属する主体的形相」によって与えられる。もし感受から形相を抽象するなら、われわれには主体的形相の残余としての永遠的客体が残る。感受はその始発の過程の言葉で、発生的に記述できる――多くの始発的与件が複合的な客観的与件となる、その否定的抱握とともに。この過程において主体的形相が始発し、その感受へと、感受がいかに感受するかへと変容されたそれ自身の歴史を運び込む。感受がいかに感受するかは、その感受がいかに生じたかを表現する。それは、それを前進させた目的、それが遭遇した障害、そして主体の始発的な決定によって解消された非確定性を表現する。感受が統合する始発的与件の複合性に応じて、そしてそれが最終的に感受する客観的与件の複合性に応じて、無限定な数の型の感受がある。しかし、あらゆるより複合的な感受の形成に入り込む、三つの第一次的な型の感受がある。これらの型とは、(一)単純物理的感受、(二)概念的感受、(三)変換された感受である。単純物理的感受においては始発的与件は単一の現実的存在であり、概念的感受においては客観的与件は永遠的客体であり、変換された感受においては客観的与件は現実的存在の結合体である。単純物理的感受と変換された感受は物理的感受の類を形づくる。後の統合からの付加物を欠いた、その原初の純粋さにおいて取られたこれらの感受のいずれにおいても、主体的形相は意識を含まない。命題的感受においては主体的形相が判断を含むかもしれないが、主体的形相のこの要素は必然的に現前するわけではない。この感受の一般的記述に、最後の所見を一つ付け加えねばならない。感受は新奇な現実的存在の癒合における一構成要素である。感受はその与件に関しては常に新奇である――その主体的形相は、常にその与件への再生産的な言及をもたねばならないとしても、それによって完全には決定されないからである。癒合の過程は、その主体的形相によって統制される感受の漸進的な統合である。この総合において、より早い相の感受は、より後の相の何らかのより複合的な感受の構成要素へと沈み込む。したがってそれぞれの相はその新奇性の要素を付加し、最終的に一つの複合的な「満足」に到達する最終相にまで至る。したがって現実的存在は、その「満足」を通じて形態学的に見れば、その構成的な感受のいずれかに関して新奇である。それはそれらの感受を前提する。しかし逆に、いかなる感受もその与件からも主体からも抽象されえない。それは本質的に、その主体を目指し、その目的によって動機づけられた感受である。したがって主体的形相は感受の実用的な側面を体現する――与件はその主体的形相とともに感受される、それによって主体がそれであるところの超主体でありうるように。感受の分析において、それ自身をあらかじめ与えられたものとして提示するものはすべて与件であり、もっぱらそのもの自身のうちに提示するものはすべて主体的形相であり、それ自身のうちにかつそののちに提示するものはすべて「主体・超主体」である。この「感受」の学説は、現実的存在の生成に関する中心的な学説である。感受において、選択的に取り込まれた現実世界は前提された与件であり、無形ではなく、それ自身の実現された形相が選択的に適切な形で、言い換えれば「客体化」された形で存在する。主体的形相は、新しい特殊な事実に固有の新奇な形相の進入であり、客観的与件との固有の融合様式をともなう。感受から抽象された主体的形相は、単に複合的な永遠的客体にすぎない。生成において、それは現実世界から選ばれた「与件」と出会う。言い換えれば、与件は既に「有」のうちにある。ここで「有のうちに」という語は、さしあたり「実現のうちに」という語と等価なものとして用いられる。感受の音の聴取を、この感受の記述の単純な例として考えよう。単純さのため、その音を一つの確定した音符としよう。この音符の聴取は一つの感受である。この感受はまず一人の聴取者をもち、それが感受の主体である。しかし聴取者は、この感受を離れては、いま在るところの聴取者ではないだろう。第二に、他の何らかの現実的存在から構成される複合的で秩序だった環境があり、それはいかに漠然とであれ、この聴取によって感受される。この環境がこの感受の与件である。それは、この感受のうちで体系的に把握された外部世界である。この聴取においてそれは、漠然とした空間的関係の客体化のもとで、そして音楽的性質を例証するものとして感受される。しかしこの感受の与件の分析的な弁別は、意識に関するかぎり部分的に漠然としており推測的である――人体の先行する生理学的機能作用と、現前する局所の現前的直接性とがある。また、より確定的でより分析しやすい、情動的な感覚パターンである主体的形相もある。私的な感覚としてのその性能において、音符は音高・質・強度をもつ。それは基音と、その倍音の選択とへと分析可能である。この分析は、基音の音質とその選ばれた倍音の音質との複合的な関係性からなる、抽象的な質的パターンを明らかにする。この質的パターンは、もしいくつかの倍音が空間的に分離した楽器――たとえば音叉の空間的パターン――から来るならば、空間的な型の関係を含むかもしれないし含まないかもしれない。基音とその倍音は、それぞれそれ自身の強度をもつ。この強度のパターンは、さまざまな音の相対的な強度と、総体的な音量である絶対的強度とへと分析できる。相対的強度の尺度は、その絶対的な音量からいくらか独立して、音符の最終的な質のうちに入り込む。また音叉の空間的パターンと音楽室の共鳴も、この質のうちに入り込む。しかしこれらもまた感受の与件に関わる。またこの感受の統合において、われわれは身体のさまざまな神経経路から派生する質的・量的な聴覚的寄与を含めなければならない。この仕方で動物身体は、外部世界の一部として、感受の与件のパターンにおいて特に卓越した位置を占める。また主体的形相においては、聴取に統合的に付着し、また聴取のさまざまな要素にも差異的に付着する、喜びと嫌悪、向性と反発の性質を数えなければならない。聴取者のより早い相には、そのような喜びと嫌悪を剥ぎ取られた聴取がある。この早い、裸の聴取は、それ自身の本性においてこの追加的な限定を決定しない。それは、聴取がより高次の総合における一要素となるにつれて始発するが、それでも最終的な構成的感受における一要素である。したがって聴取は、他の感受との統合によって主体的形相の複合性を獲得する。また、与件のパターン、情動的な質のパターン、情動的な強度のパターンという三つのパターンを識別できるとしても、われわれは後の二つのパターンのいずれをも、与件のパターンから、あるいはたがいから、完全に切り離して分析することはできない。満足における最終的な具体的構成要素は、その主体、その与件、そして最終的に完結したその情動的パターンをともなう聴取である。それは、その要素のいずれからも引き裂くことのできない特殊な事実である。抱握は原子的ではない。それらは他の抱握へと分割され、他の抱握へと結合されうる。また抱握はたがいに独立していない。それらの主体的形相のあいだの関係は、それらの形成を導く一つの主体的目的によって構成される。この主体的形相の相関は抱握の「相互感応性」と呼ばれる。離接における抱握は抽象である――それぞれは、その抽象的な客体化において見られたその主体である。現実性とは、具体的統一への癒合の過程にある主体的統一をもつ抱握の全体性である。無限定な数の、重なり合い、細分し、たがいに補い合う抱握がある。ある抱握が発見されうる原理は、満足の客観的与件における何らかの構成要素を取ることである。満足の主体的形相の複合的パターンのうちに、与件のこの要素への直接の適切性をもつ構成要素があるだろう。そのとき満足のうちには、客観的与件のこの構成要素の抱握が、総体的な主体的形相のその構成要素をその主体的形相としてもつ形で存在する。この抱握の発生的成長は、現実世界からの与件のさまざまな要素の伝達、そして――永遠的客体の場合には――概念的抱握におけるそれらの始発を考察することによって辿ることができる。そこには、統合・除去・主体的形相の限定をともなう抱握の成長がある。しかし統合がまさにそれがもつ性格をもつゆえんの、主体的形相の継起する相の限定は、抱握に相互感応性を課す主体の統一に依存する。したがって発生的に考察された抱握は、それが属する現実的存在の治しがたい原子性から決して自らを解放できない。上述のように満足から従属的な抱握を選び出すことは、仮説的な、命題的な観点を含む。事実は一としての満足である。与件からの構成要素を主体的形相からの構成要素とともに取り、それらを、適合性の根拠にもとづいて従属的な抱握を形づくるものとして考察することには、ある種の恣意性がある。その正当化は、それによって発生過程が分析されうる、という点にある。もしその従属的な抱握の成長のそのような分析が与えられえないなら、満足の分析には欠陥があったことになる。満足と発生過程とのあいだのこの関係は、説明の第八・第九範疇において表現されている。

 第二章 第一次的感受

  第I節

ある一つの主体において抱懐される「単純物理的感受」とは、その始発的与件が別の単一の現実的存在であり、その客観的与件が後者の現実的存在によって抱懐される別の感受である、そのような感受である。したがって単純物理的感受には二つの現実的存在が関わる。一方はその感受の主体であり、他方は感受の〈始発的〉与件である。もう一つの感受も関わる――すなわち単純物理的感受の〈客観的〉与件である。この第二の感受は、単純物理的感受の主体にとっての、〈その〉主体の「客体化」である。始発的与件は、客観的与件である感受の主体であるものとして客体化される――その客体化が始発的与件の「遠近法」である。単純物理的感受は因果性の行為である。始発的与件である現実的存在が「原因」であり、単純物理的感受が「結果」であり、単純物理的感受を抱懐する主体が結果によって「条件づけられた」現実的存在である。この「条件づけられた」現実的存在もまた「結果」と呼ばれよう。あらゆる複合的な因果的作用は、そのような第一次的な構成要素の複合体へと還元できる。したがって単純物理的感受はまた「因果的」感受とも呼ばれよう。しかし単純物理的感受が、意識を欠いた知覚行為のもっとも原初的な型である、と言うことも等しく真である。始発的与件である現実的存在が知覚される現実的存在であり、客観的与件がその現実的存在が知覚される「遠近法」であり、単純物理的感受の主体が知覚者である。これは意識的知覚の例ではない。単純物理的感受の主体的形相は、後続の統合の諸相において獲得されないかぎり、意識を含まないからである。実践においては、少なくとも人間にとっては、変換された感受のみが意識を獲得し、単純物理的感受は決して意識を獲得しないように思われる。意識は統合のより高次の諸相において始発し、より大きな明晰さと判明さをもってそれらの相を照らし出す。したがって単純物理的感受とは、別の感受を感受する一つの感受である。しかし感受される感受は、それを感受する感受の主体とは異なる主体をもつ。一つの相の命題的統一に入り込む多くの単純物理的感受は、これらすべての感受の共通の主体である現実的存在の癒合における第一相を構成する。感受される現実的存在が、それら自身の感受の一つの遠近法へとそれぞれ還元される、その限定は、それぞれの不完全な相における感受のうちに調和的な適合性を要求する、主体的統一という範疇的条件によって課される。したがって、いずれか一つの感受の産出に関わる否定的抱握は、他の感受から独立ではない。感受の主体的形相は部分的に否定的抱握に依存する。単純物理的感受のこの第一次相は、それによって創造性が既に現実化した世界を超越しながら、なおその新しい化身においてその現実世界によって条件づけられ続ける、その仕掛けを構成する。われわれの複合的な感受についての意識的分析の漠然さのゆえに、われわれはおそらく一つの単純物理的感受を孤立して意識的に弁別することは決してない。しかしわれわれのあらゆる物理的関係は、その原子的な煉瓦として、そのような単純物理的感受から構成されている。その産出の歴史に由来する抑制や付加、弱化や強化を別にすれば、物理的感受の主体的形相は、感受された感受の主体的形相の再演である。したがって原因はその感受を、新しい主体によってそれ自身のものとして再生産されるべく伝えるが、それでいて原因から切り離せないものとしてである。感受の流れがある。しかし再演は完全ではない。癒合の範疇的要求は、情動的強度のパターンの調整を要求する。原因が客体的に結果の構成のうちにあるのは、部分的な主体的形相の等価性をもって結果のうちに再生産される感受の、感受する者であるという理由による。また原因の感受はそれ自身の客観的与件と、それ自身の始発的与件とをもつ。したがってこの先行する始発的与件は、いまや原因の媒介を通じて間接的に、結果の感受の与件のうちに入り込んでいる。原因が客体的に結果のうちにある理由は、原因の感受が、感受としては、それが原因であるその主体から抽象されえないからである。原因のこの結果への通過が、時間の累積的性格である。時間の不可逆性はこの性格に依存する。「満足」においては単純物理的感受の統合があることに注意されたい。いかなる単純物理的感受も意識のうちで弁別される必要はない。物理的感受は、いかなる型の、いかなる複合性の感受とも融合しうる。単純物理的感受は、結果を主体として再演される原因の感受であるという二重の性格をもつ。しかしこの感受の転移は、原因の結果との部分的な同一化を成し遂げるのであり、原因の単なる表象ではない。それは宇宙の累積であり、それについての演劇ではない。単純な感受には、現実世界への言及における二重の特殊性――特殊な原因と特殊な結果――がある。ロックの言葉で言えば、単純な感受とは、ある精神における「これあるいはあの特殊な存在へと決定された」観念である。ロックはここで、形而上学者だけが疑いうることを表現している。単純な感受におけるこの二重性のゆえに、原因を結果へと転移するベクトル的性格がある。それは原因からの感受であり、原因におけるその原初の主体性を失うことなく、新しい結果の主体性を獲得する。単純物理的感受は自然の再生産的性格を、そして過去の客体の不滅性を体現する。これらの感受のゆえに、時間とは直接の現在の過去への適合である。そのような感受は「適合的」感受である。結果である新奇な現実的存在は、過去の多くの現実的存在の再生産である。しかしこの再生産においては、それらのさまざまな感受の全体性からの抽象がある。この抽象は、新奇な統一における両立可能な総合のための範疇的条件によって要求される。この抽象的な「客体化」は、現実的存在の満足の「可分的」性格のゆえに可能となる。この「可分的」性格のゆえに、因果性は一つの感受の転移であり、満足全体の転移ではない。他の感受は、範疇的要求への不適合のゆえに否定的抱握によって退けられる。単純物理的感受は、「再演」「再生産」「適合」とさまざまに記述されてきた性格を享受する。この性格は、関わる永遠的客体の言葉でより正確に説明できる。「原因」である客観的与件の確定性を決定する永遠的客体と、「結果」に属する主体的形相の確定性を決定する永遠的客体とがある。再演があるとき、二方向に機能する一つの永遠的客体がある――すなわち客観的与件の部分的決定者として、そして主体的形相の部分的決定者としてである。この二方向の役割において、永遠的客体は一方の始発的与件と他方の癒合する主体とのあいだで関係的に機能している。それは客体的同一性の範疇にしたがって、一つの自己一貫的な役割を演じている。物理科学とは、単純物理的感受の時空的・量的性格を探究する科学である。現実世界の現実的存在は、これらの感受の結合体のうちに結びつけられている。また創造的前進において、先行する現実世界に固有の結合体は破壊されない。それは、それを超越しそれを含む新奇な現実性との、感受の新しい絆によって再生産され付加される。しかしこれらの絆は常にそのベクトル的性格をもつ。したがって物理科学にとっての窮極の物理的実体は常に、転移を示すベクトルである。世界には静的なものは何もない。しかし再生産がある――それゆえ秩序の結果であり秩序の原因である永続性がある。それでいて常に変化がある――時間は累積的であると同時に再生産的でもあり、多の累積はそれらの多としての再生産ではないからである。単純物理的感受についてのこの節は、有機体の哲学における宇宙論の扱いの基盤を据える。それは、物理的世界――すなわち自然――についてのより完全な哲学的議論がそこから導出されねばならない、窮極の要素の議論を含む。第一に、デカルトによって強調された世界の側面と、近代の量子理論の原子論との両方に、等しく正当な扱いを与える試みがなされてきた。デカルトは自然世界を、時間を通じて持続する、延長的な空間的充満として見た。近代の物理学者はエネルギーが確定した量子で転移されるのを見る。この量子理論はまた近年の神経学にも類比をもつ。疲労は累積の表現であり、それは物理的記憶である。さらに因果性と物理的記憶は同じ根から生じる――その両方が物理的知覚である。宇宙論は、原子論、連続性、因果性、記憶、知覚、エネルギーの質的・量的形相、そして延長に、等しく正当な扱いを与えなければならない。しかしこれまでのところ、有機体の窮極の振動的性格と、自然における「潜勢的」要素への言及はなかった。

  第II節〜第III節

概念的感受と単純な因果的感受は、「第一次的」感受の二つの主要な種を構成する。どれほど複合的であれ、他のあらゆる感受は、これらの第一次的感受の相から始まる統合の過程から生じる。しかし両種のあいだには相違がある。ある主体の現実世界における現実的存在は、どれほど漠然と、些細で沈み込んでいようとも、〈何らかの〉単純な因果的感受によって、その主体の癒合に入り込ま〈なければならない〉。否定的抱握はその際立った重要性を除去するかもしれない。しかし何らかの仕方で、因果的感受の何らかの痕跡によって、遠く隔たった現実的存在は肯定的に抱握される。永遠的客体の場合、そのような必然性はない。いかなる与えられた癒合においても、それは概念的感受の手段によって肯定的に含まれうるが、否定的抱握によって排除されうる。現実性は感受され〈なければならない〉が、純粋潜勢態は退けられ〈うる〉。客体としてのそれらの機能作用に関するかぎり、これが現実的存在と永遠的客体とのあいだの大きな相違である。一方は頑固な事実の問題であり、他方はその潜勢態の「アクセント」を決して失わない。それぞれの癒合には、創造的衝動の二重の側面がある。一方の側面には単純な因果的感受の始発があり、他方の側面には概念的感受の始発がある。これらの対照的な側面は、現実的存在の物理的極と精神的極と呼ばれよう。いかなる現実的存在もいずれの極も欠くことはない――ただしその相対的な重要性は異なる現実的存在において異なるとしても。また概念的感受は必ずしも意識を含意しない――ただし、総合における要素として概念的感受を含まない意識的感受はありえないとしても。したがって現実的存在は本質的に両極的であり、その物理的極と精神的極とをもつ。物理的世界でさえ、精神的操作の複合体であるその他方の側面への言及なしには、適切に理解されえない。第一次的な精神的操作は概念的感受である。概念的感受とは、「客体」であることの第一次的な形而上学的性格において永遠的客体を感受することであり、すなわち過程の実現された限定者であることのその〈能力〉を感受することである。内在と超越が客体の性格である――実現された限定者としてそれは内在的であり、限定のための能力としてそれは超越的である。いずれの役割においても、それはそれ自身ではない何かに適切である。選ばれた永遠的客体によるその排他的な限定を離れては、現実性に属する性格はない。現実性の確定性は、限定者としての機能における永遠的客体の排他性から生じる。もし現実的存在が〈これ〉であるなら、事柄の本性上、それは〈あれ〉や〈あれ〉ではない。両立不可能な代替物というこの事実こそが、確定した性格があるゆえんの窮極の事実である。概念的感受とは、性格の限定者としてのその一般的能力――それによってその排他性の能力をも含む――に関して永遠的客体を感受することである。本講義の専門的な言い回しでは、概念的感受とはその「与件」が永遠的客体であるような感受である。同様に、否定的抱握は、その与件が永遠的客体であるとき「概念的」と呼ばれる。概念的感受においては、「始発的与件」から「客観的与件」への必然的な進行はない。両者は同一でありうる――多様な始発の源泉をもつ概念的感受が統合を獲得するかぎりを除いて。肯定的であれ否定的であれ、概念的抱握は、現実的存在の精神的極に属するもののうちの第一次的な操作を構成する。概念的感受の主体的形相は「評価」という性格をもち、この観念はいまや説明されねばならない。概念的感受は、その主体の何らかの不完全な相において始発し、他の感受との統合を見出す、続く相へと移行する。この続く相において、概念的感受の与件である永遠的客体は、他の構成要素がより早い相における他の感受の客観的与件であるような、何らかの種類の与件における一成分である。この新しい与件は統合された与件であり、何らかの種類の「対比」であろう。第一の範疇的条件によって、より早い相の感受は統合のために両立可能である。したがってより後の相の到来は否定的抱握による除去を含まない――癒合する主体におけるそのような肯定的抱握の除去は、その主体を多くの主体へと分割し、これらの多くの主体を超主体から分割してしまうだろう。しかし、相全体からの除去はありえないとしても、その相の単なる一成分にすぎない何らかの新しい統合的感受からの除去はありうる。しかしこの統合された与件の形成において、この永遠的客体が、他の感受から派生する残りの永遠的客体および現実的存在とともに、この与件へといかに進入するかについての、正確な決定がなければならない。この決定は、構成的な概念的感受の主体的形相によって成し遂げられる。ここでもまた、第一の範疇的条件によって、この主体的形相は、より早い相における他の感受から独立ではなく、したがってこの決定を成し遂げるようなものである。また統合的感受は、その強度のパターンをもつその主体的形相をもつ。このパターン化された強度性は、その感受において感受されるものとしての与件のそれぞれの要素の、際立った相対的重要性を規制する。統合された与件において感受されるものとしてのその永遠的客体の、この強度的な規制は、概念的感受の主体的形相によって決定される。さらにまた、第一および第七の範疇的条件への言及によって、概念的感受のこの強度的形相は、この点においてもより早い相の他の感受に依存する。したがって概念的感受の評価が「上向きの評価」であるか「下向きの評価」であるかに応じて、統合的感受のうちで感受されるものとしての永遠的客体の重要性は、強調されるか希薄化されるかする。したがって評価は、永遠的客体がいかに利用されるべきかを決定するという意味で質的であると同時に、その利用がどのような重要性を帯びるべきかを決定するという意味で強度的でもある。したがって評価には三つの性格がある――(一)主体的統一と主体的調和の範疇にしたがって、評価はその始発の相における他の感受に依存する。(二)評価は、永遠的客体が物理的に感受される統合的結合体へといかなる地位で進入するかを決定する。(三)評価は上向きあるいは下向きに評価し、それによって統合的感受の主体的形相によってその永遠的客体に与えられる強度的重要性を決定する。統合的感受のこの三つの性格は、その概念的構成要素から派生し、「評価」という語のうちに要約される。しかしこの三つの性格が評価に含まれるとしても、それらは単に、それ自身の過程の超主体という性格において、それ自身が全体として何であるべきかを決定する、主体の主体的目的の帰結にすぎない。

  第IV節

意識は感受の主体的形相に関わる。しかしそのような主体的形相は、ある種の客観的与件を要求する。抽象における主体的形相はその実在性を失い、感受をその際立った型の確定性へと限定できる永遠的客体へと沈み込む。しかし永遠的客体が感受に「形を与える」とき、それは、感受の確定性を共同で構成する他の構成要素へのその適合によってのみ作用できる。この小さな議論の教訓は、いまや「意識」という観念に適用されねばならない。意識とは、その主体的形相に属する感受における一要素である。しかしそのような種類の主体的形相があるのは、客観的与件が適切な性格をもつときのみである。さらに、客観的与件がこの性格を帯びうるのは、それが、この客観的総合の相互の可能性をそれら自身のうちに担う始発的与件から派生するときのみである。純粋概念的感受は、その最初の始発の様態において、決して意識を含まない。この点で純粋な精神的感受――概念的であれ命題的であれ――は、純粋物理的感受に類比的である。いずれかの型の第一次的感受、あるいは命題的感受は、その連合の手段によってのみ、その主体的形相を意識をもって豊かにできる。意識があるところには常に、何らかの想起の要素がある。それは無意識のかすかな片隅から、より早い諸相を呼び戻す。この真理はかつて、プラトンの想起の学説において主張された。疑いなくプラトンは、無時間的な純粋形相の天から派生した魂に留まる、永遠の真理のきらめきを直接考えていた。それはそれとして、より広い意味において、意識はそれに先行する経験を照らし出し、単なる与件として考察されるならばそれなしでもありえただろう。ヒュームは、その意味に関して逆の限定をもちながらも、同じ学説を主張する。彼は、われわれが感覚の印象を通じて先行して経験したことのないものを、われわれは決して概念的に抱懐できない、と主張する。有機体の哲学は「感覚の印象」という観念を「純粋物理的感受」の観念へと一般化する。それでもなおヒュームの主張は、ヒューム自身の論証によれば、あまりに無防備である。しかし直接の要点は、プラトンとヒュームの両者にとっての、意識と想起との根深い結びつきである。ここでわれわれは、いかなる意識的感受の始発の分析においても、何らかの構成的な物理的感受が見出されるはずである、という学説を主張する。そして逆に、意識があるところには常に、概念的機能作用の何らかの構成要素がある。具体的事実における抽象的要素こそが、まさにわれわれの意識を喚起するものだからである。意識とは、物理的操作と精神的操作の何らかの総合の過程において生じるものである。この観念の学説において、ロックはヒュームよりも先へ進んでおり、私の考えでは事実をより正確に表現している――ただしヒュームはロックが省いた何かを付け加えているとしても。ロックは「外部の事物」の直接の意識的な把握を支持し、これは「外部の事物」あるいは「これあるいはあの特殊な存在」とも呼ばれ、個々の乳母と個々の母親によって例証される。有機体の哲学において、そのような直接の把握の基盤である結合体は、物理的感受によって提供される。有機体の哲学はここで、デカルトとカントの両者が取った道とは反対の道を取る。この両哲学者は(デカルトはためらいつつ、カントは疑いなく)伝統的な主観主義的感覚論を受け入れ、「外部の事物」の直観を特に知性に割り当てた。ヒュームの付加は、伝統的な感覚論の教義を、この上ない明晰さをもって表現し議論することにある。したがってヒュームにとって、そしてこの学説の言葉で語ることを思い出すときのロックにとって、「印象」とは普遍の意識的な把握である。有機体の哲学によれば、純粋概念は、少なくともわれわれの人間経験においては、意識を含意しない。意識が生じるのは、統合的感受が物理的感受と概念的感受とを統合するときである。意識的知覚についての伝統的哲学の説明は、もっぱらその純粋概念的側面に注意を固定してきた――それによって知識論において自らに困難を生み出してきた。ロックは、その素朴な良識をもって、知覚がこの概念的側面以上のものを含むと想定する――もっとも彼は、この想定が極端な主観主義的感覚論的学説と非一貫的であることを把握しそこねているが。物理的感受は、自然についてのわれわれの気づきにおける非概念的な要素を形づくる。また、概念についての気づきでさえ、あらゆる気づきは、少なくとも物理的感受と概念的感受との総合を要求する。気づきにおいて、事実としての過程である現実性は、それがそれであり、そうでなかったかもしれないもの、あるいはそれがそれではなく、そうであったかもしれないもの、のいずれかを例証する潜勢態と統合される。言い換えれば、確定性・肯定・否定への言及なしには意識はない。また肯定は否定との対比を含み、否定は肯定との対比を含む。さらに肯定と否定は、特殊な現実性の確定性への言及を離れては等しく無意味である。意識とは、われわれが肯定・否定の対比をいかに感受するかである。概念的感受は限定されない否定の感受である――すなわちそれは、いかなる特定の実現の確定的な排除をともなう、確定した永遠的客体の感受である。意識は、客観的与件が(対比の一方の側として)ある確定した状況へと限定された限定的な否定を含むことを要求する。この学説が、命題が客観的与件における一要素として存在しないかぎり意識は存在しない、ということを含意することが、後に(第四章参照)見出されるだろう。

 第三章 感受の伝達

  第I節

存在論的原理によれば、どこからともなく世界に漂い込むものは何もない。現実世界におけるあらゆるものは、何らかの現実的存在に帰せられうる。それは過去の現実的存在から伝達されるか、あるいはそれが属する現実的存在の癒合の主体的目的に属するかのいずれかである。この主体的目的は、存在論的原理の一例であると同時に一限定でもある。それが一例であるのは、この原理がここで癒合する事実の直接性に適用されているからである。主体は、それ自身の不完全な諸相の自己批判によって、癒合の過程において自らを完成させる。別の意味において、主体的目的はそれ自身の自律性によって存在論的原理を限定する。しかしその目的の始発的段階は、神の本性のうちに概念的に実現された、事物の避けがたい秩序づけから主体が相続する賦与である。癒合する主体の直接性は、それ自身の自己構成へのその生きた目的によって構成される。したがって目的の始発的段階は神の本性に根ざしており、その完成は主体・超主体の自己原因に依存する。神のこの機能は、ギリシアおよび仏教思想における事物の容赦ない働きに類比的である。始発的な目的はその窮地にとっての最善である。しかしもしその最善が悪いなら、神の容赦なさは、いたずらの女神アテーとして人格化されうる。籾殻は焼かれる。神において不可避なのは、「秩序」への目的としての評価である。そして「秩序」とは、調整された対比から生じるパターン化された感受の強度を許容する「社会」を意味する。この意味において神は具体化の原理である――すなわち彼は、それぞれの時間的癒合が、その自己原因が始発するその始発的目的を受け取る、その現実的存在である。この目的は、概念的感受のための永遠的客体の適切性の始発的な段階づけを決定し、その始発的な概念的評価とその始発的な物理的目的とをともなう感受の第一次相における、自律的な主体を構成する。したがって、ある現実世界から相関する新奇な癒合への創造性の移行は、その現実世界からの伝達の特定の可能性への神のあまねく包括的な概念的評価の適切性によって、そして始発的感受のために利用可能な始発的主体的形相のさまざまな可能性への、その適切性によって、条件づけられる。この仕方で、その物理的・精神的な、不可分な両極的構成をもつ第一次相における、癒合する主体が構成される。言い換えれば、神と現実世界とが共同で、新奇な癒合の始発相のための創造性の性格を構成する、と言うこともできる。こうして構成された主体は、それ自身の主体・超主体への癒合の自律的な主人である。それは癒合における主体的目的から、客体の不滅性をもつ超主体へと移行する。いかなる段階においても、それは主体・超主体である。この説明によれば、自己決定は常にその起源において想像的である。決定論的な作用因は、それ自身の感受のそれ自身固有の性格における現実世界の流入であり、それ自身の強度的な力とともに、新奇な癒合する主体によって感受され再演される。しかしこの再演は、パターンへの適合という単なる性格をもつにすぎない。主体的評価は新奇な概念的感受の仕事であり、統合と再統合の複合的な過程において獲得されるその重要性に比例して、この自律的な概念的要素は、その癒合における感受の全範囲を通じて主体的形相を修正し、それによって統合を導く。無視しうる自律的エネルギーしかないかぎり、主体は単に物理的感受を受け取り、その時代の「秩序」にしたがってその評価を確認し、それ自身の客体の不滅性の理由によって伝達する。その自律的な個体的経験のひらめきは、最終的な観察者の意識的経験にまで伝達を辿る科学にとって無視しうる。しかし個体的経験が無視しえなくなるやいなや、その始発的な主体的目的の修正における主体の自律性が考慮されねばならない。それぞれの創造的行為は、一として自己を体現する宇宙であり、その上には窮極の条件としての何ものもない。

  第II節

前節の一般的学説は、新しい癒合における新奇な感受のための与件への感受の伝達を規制する原理の検討を要求する。いかなる感受もその主体から抽象されえないから、この伝達は現実的存在の客体化を考察するもう一つの仕方にすぎない。感受は、その与件が他の現実的存在の客体化を含むとき、「物理的」と呼ばれよう。前章では「単純物理的感受」という特殊な場合が論じられた。この特殊な場合に属する感受は、その与件として一つの現実的存在のみをもち、この現実的存在はその感受の一つによって客体化される。より複合的なあらゆる型の物理的感受は、単純物理的感受どうしの、そして概念的感受との統合の理由によって、癒合のより後の諸相において生じる。しかしこれらより複合的な物理的感受に進む前に、単純物理的感受の下位区分を考察しなければならない。そのような感受は「純粋物理的感受」と「雑種物理的感受」とに下位区分される。「純粋物理的感受」においては、与件である現実的存在は、それ自身の物理的感受の一つによって客体化される。したがって、単純物理的感受の主体的形相に特徴的な「再演」を考慮すれば、より単純な現実的存在の場合には、物理的世界におけるエネルギーの転移の一例が得られる。与件が高度に複合的な等級の現実的存在であるとき、それがそれによって与件として客体化される物理的感受は、高度に複合的な性格をもつかもしれず、何らかの形相のエネルギーの新しい主体への転移という単純な観念は、当該の純粋物理的感受の重要な諸側面をまったく汲み尽くせないかもしれない。「雑種物理的感受」においては、与件を形づくる現実的存在は、それ自身の概念的感受の一つによって客体化される。したがって、概念的感受の主体的形相に特徴的な自律性の要素を考慮すれば、より複合的な現実的存在の場合には、物理的世界におけるエネルギーの始発と方向づけの一例が得られる。一般に、雑種物理的感受のこの単純化された側面は、その主体の癒合におけるその役割を汲み尽くさない。デカルト主義から何らかの重要な点で派生した哲学体系に特徴的な、身体と精神との破滅的な分離は、有機体の哲学においては雑種物理的感受と変換された感受の学説によって回避される。これらの仕方で、概念的感受は物理的感受の範疇へと移行する。また逆に、物理的感受は概念的感受を生じさせ、概念的感受は他の概念的感受を生じさせる――本章の続く節で論じられる、概念的評価の範疇(第四範疇)と概念的逆転の範疇(第五範疇)の学説にしたがって。雑種感受の一つの重要な性格は、主体的評価の範疇にしたがって、そこから始発する概念的感受の強度である。次節では、この「概念的評価」という範疇的条件が、純粋であれ雑種であれあらゆる物理的感受との関連で考察される。本節はもっぱら、雑種感受に関するかぎりでその議論を予期するにとどめよう。いま関連する一般範疇の部分は、次のように定式化できる。雑種物理的感受は、その主体のために、先行する主体の概念的感受と同じ与件をもつ概念的感受を始発させる。しかし二つの主体それぞれにおける二つの概念的感受は、異なる主体的形相をもちうる。概念的感受の主体的形相の形成には、範疇的条件Ⅰ・Ⅶ・Ⅷにおいて表現される主体の統一によってのみ条件づけられる、自律性がある。この統一のための諸条件は、雑種感受の共感的な主体的形相を、同じ主体をもつ派生的な概念的感受の自律的な主体的形相と相関づける。雑種感受には明らかに二つの下位種がある――(一)時間的現実的存在の概念的感受を感受するもの、(二)神の概念的感受を感受するものである。時間的主体における神の客体化は、神の概念的感受を与件とする雑種感受によって成し遂げられる。肯定的に抱握される神の感受のうちのそれらは、時間的世界から伝達される物理的感受との、対比あるいは同一性の何らかの両立可能性をもつものである。しかしわれわれが神を考慮に入れるとき、あらゆる概念的感受は物理的感受から派生する、というヒュームの原理を、いかなる限定もなしに主張できる。概念的逆転の範疇の考察によって導入されるヒュームの原理の限定は、神を考慮外に置いた、時間的世界からの伝達にのみ関わるものと解されねばならない。神の介入がなければ、世界には新しいものは何もなく、世界に秩序もないだろう。創造の経過は、非両立性の交差する流れによって均衡と強度とがしだいに排除される、無効力の死せる水準となるだろう。神から派生する新奇な雑種感受と、その派生的な共感的概念評価とが、進歩の基盤である。

  第III節

概念的感受は第一次的には物理的感受から、第二次的にはたがいから派生する。この言明においては神の介入の考察は除外されている。この介入を考慮に入れれば、あらゆる概念的感受は物理的感受から派生していなければならない。スピノザの意味における「無限」の、束縛のない概念的評価は、宇宙において一度しか可能でない――その創造的行為が、創造的行為を性格づける不可避の条件として客体的に不滅だからである。しかし特に断らないかぎり、現実世界の時間的存在のみが考察される。時間的世界に関わる物理的感受からの、そのような概念的感受の派生のための範疇的条件を論じなければならない。主体的統一という範疇的条件――第一範疇――によって、物理的感受の始発相は、現実世界の一つの感受への統合のために両立可能な、感受の命題的統一をもつ。しかしこの最終的な「満足」の主体的形相の完全な決定は、「評価」の要因――すなわち「上向きの評価」あるいは「下向きの評価」――を導入する主体的形相をもつ概念的感受の始発を待つ。したがって始発的な純粋物理的相に続いて補足相が続く。この補足相は、概念的な始発の二つの従属相から始まり、それから統合と再統合の諸相へと移行し、そこで命題的感受と知的感受が現れうる。本章ではもっぱら概念的な始発のみの最初の二相に関わる。これらは概念的分析の相ではなく、概念的評価の相である。続く分析的な相は命題的感受を含み、ある種の状況では意識に帰結する。しかし本章では、盲目的な概念的評価と、そのような評価が、そのような評価が生じる現実的存在を超えた未来に横たわる物理的感受に及ぼす効果とにのみ関わる。第一の問題は、なぜある永遠的客体は肯定的に抱握され、他は否定的に抱握されるのか、その原理を発見することである。あるものは感受され、他は除去される。この問題の解決のためには、既に説明された三つの範疇的条件に加えて、五つの追加的な範疇的条件が付け加えられねばならない。これらの条件は概念的感受の始発と協調に関わる。それらは、物理的経験からのその始発に関するかぎりでの、「概念的想像力」の一般的過程を統べる。第四範疇。概念的評価の範疇。それぞれの物理的感受から、その与件が、物理的に感受される現実的存在あるいは結合体の確定性のうちに例証される永遠的客体である、純粋に概念的な感受が導出される。この範疇は、精神性が感受的経験から始発するという古い原理を維持する。それはあらゆる感受的経験が精神的操作を始発させる、という原理を定める。しかしそれは、これらの第一次的な精神的操作から派生する他の精神的操作の始発がない、ということを意味するのではない。またそれは、これらの精神的操作が、複合的な統合の産物である意識を含む、ということを意味するのでもない。精神的極は、物理的極における操作の概念的対応物として始発する。両極はその始発において分離できない。精神的極は物理的極の概念的登録から始まる。この概念的登録が、感覚論学派によれば経験の唯一の与件を構成する。この学派の著述家たちは、物理的極において始発する物理的感受を完全に無視する。ヒュームの「感覚の印象」とカントの感覚的与件は、もっぱら概念的登録にのみ適用可能な言葉で考察されている。それゆえカントの、そのような窮極の与件の混沌という観念が生じる。またヒュームも――少なくとも『人性論』においては――「力と生気」の相違しか見出せない。概念的感受の主体的形相は評価である。これらの評価は主体的統一の範疇に服する。したがって概念的登録は概念的評価であり、概念的評価は創造的目的を導入する。精神的極は、それ自身の癒合の限定者としての主体を導入する。精神的極とは、それ自身の物理的客観的与件への適用において自律的に修正された、評価の永遠の原理への言及によって、それ自身の理想を決定する主体である。あらゆる現実的存在は、その物理的極に関するかぎり「時間のうちに」あり、その精神的極に関するかぎり「時間の外に」ある。それは二つの世界の統一である――すなわち時間的世界と、自律的評価の世界とである。それぞれの単純物理的感受とその概念的対応物との統合は、続く相において、その再演の主体的形相が、概念的感受における上向きの評価あるいは下向きの評価にしたがって主体的強度を獲得したり失ったりした、物理的感受を産出する。ここまでは、単に主体的形相の主体的な再調整があるにすぎない。これが物理的目的の相である。概念的感受の効果はこうして、これまでのところ、単に、修正された主体的形相が、客体化された現実的存在の再演からのみ派生するのではない、ということを提供するにすぎない。また、複合的な後続の統合において、概念的対応物は、それが始発するもとの物理的感受から離脱した役割をもつことが分かる。第五範疇。概念的逆転の範疇。精神的極の第一次相における与件を形づくる永遠的客体と、部分的に同一でありながら部分的に多様であるような与件をもつ、概念的感受の二次的な始発がある。同一性と多様性の決定は、対比の理由による強度の深さの達成をめざす主体的目的に依存する。したがって精神的極の第一相は概念的な再生であり、第二相は概念的逆転の相である。この第二相において、近接する新奇性が概念的に感受される。これが、質的パターンにおいても、対比を通じた強度においても、主体的形相のその後の豊かさが、関連する代替物の肯定的な概念的把握によって可能となる過程である。物理的に両立不可能なものの概念的対比がある。これは、こう述べられるかぎり、プラトンの想起の原理とヒュームの想起の原理との厳密な適用を限定するように見える範疇である。おそらくそれは、プラトンが自らの原理によって意味したいかなることとも矛盾しない。しかしそれはヒュームの原理の厳密な適用を限定する。実際ヒューム自身が例外を認めていた。それは、新奇性が世界に入り込む範疇である――それによって、安定性のただなかにあってさえ、無差別な持続は決してない。しかしこの範疇が述べるように、逆転は常に、先行する相の感受における要素と同一の要素の必然的な包含によって限定される。主体的統一の範疇によって、そして後に説明される主体的調和という第七範疇によって、感受のあらゆる始発は、最終的な総合への適性の主体的な賦課によって統べられる。また客体的同一性の範疇によって、この適性は常に、自己同一的な要素の二方向の機能作用にその根拠をもつ。したがって総合には常に、〈同一性の根拠〉と対比への目的とがなければならない。対比への目的は、対比によって促進される強度の深さから生じる。この同一性の根拠と対比への目的というこの結合した必然性は、この概念的逆転の範疇において部分的に表現されている。この「対比への目的」は、それぞれの統一化が、その癒合の諸条件に服しつつ、感受の強度のある窮極的な深さを達成すべきである、という窮極の創造的目的の表現である。この窮極の目的は第八範疇において定式化される。ある実現されていない永遠的客体が、実現された進入における永遠的客体に、他のいかなる未感受の永遠的客体と比較しても、いかに、そしていかなる意味で、より近接あるいはより遠隔でありうるかという問いは、この逆転の範疇によっては答えられないままである。存在論的原理に従えば、この問いは何らかの現実的存在への言及によってのみ答えられうる。あらゆる永遠的客体は神の概念的感受のうちに入り込んでいる。したがってより根本的な説明は、時間的主体における逆転された概念的感受を、神の経験のうちに概念的に秩序づけられた適切性の雑種物理的感受から第四範疇にしたがって派生する、その概念的感受に帰さねばならない。この仕方で、創造的行為の神による性格づけの承認によって、より完全な合理的説明が達成される。逆転の範疇はそのとき廃止される。そして概念的経験の物理的経験からの派生というヒュームの原理は、いかなる例外もなしに残る。

  第IV節

前節の二つの範疇は、純粋であれ雑種であれ、それ自身の主体のより後の相における概念的感受の始発のための物理的感受の効力に関わっていた。本節は、結合体の成員全体に「散らばった」多様な主体をもつ、類比的な感受を考察する。それは、その結合体に続く単一の主体が、この多くの散らばった感受を、それ自身の単純物理的感受――一部は純粋で一部は雑種――のこれに対応する多性のための〈与件〉として抱握する場合を考察する。それはついで、この主体において、これらのさまざまな感受のあいだの類比――どれほど複合的であれ、これらの感受のさまざまな類比的な与件に含意された一つの永遠的客体によって構成される――が、統合の続く過程によって、一つの実体としての結合体とその永遠的客体とのあいだの特定の対比を与件とする一つの感受へと変換される、その過程を定式化する。この対比は、その永遠的客体による結合体の限定として、通常知られているものである。この統合の過程における中間段階は、その永遠的客体を与件とする一つの概念的感受の、最終的な主体における形成である。この概念的感受は、上述のさまざまな結合体の成員のさまざまな単純物理的感受に対する公平な適切性をもつ。この概念的感受の公平性こそが、結合体の多くの成員が、それらが形づくる一つの結合体へと集められ、その結合体がそれらの類比から浮かび上がった一つの永遠的客体との対比のうちに置かれる、その統合へと至るのである。こうして、単一の概念的感受へと帰着する純粋物理的感受と雑種物理的感受が、抱握する主体におけるこの変換の予備的な相を構成する。その主体におけるこれらの感受の統合は、単一の概念的感受の与件であるその永遠的客体によって限定された結合体の、変換された物理的感受へと至る。この仕方で世界は、一つの統一として物理的に感受され、また統一である部分――すなわち結合体――へと可分的なものとして感受される。そのような統一のそれぞれは、その結合体の成員である弁別されない現実的存在から生じる、それ自身の性格をもつ。いくつかの場合には、結合体の客体化は、その個々の原子的な現実性の性格への間接的な言及しかもたない。そのような場合、客体化は、幸運であれ不運であれ、世界に新しい要素を導入するかもしれない。通常、客体化は直接の情報を与え、抱握する主体は、抱握された結合体に行きわたる秩序の直接の帰結として、それ自身を形づくる。変換とは、現実世界が一つの共同体として感受される仕方であり、その支配的な秩序のゆえにそのように感受される。というのもそれは、抱握された結合体のさまざまな成員間の類比のゆえに生じ、それらの相違を除去するからである。変換がなければ、われわれの微力な知的操作は、事物の支配的性格へと浸透することに失敗するだろう。われわれは廃棄することによってしか理解できない。変換は範疇的条件に依存する。第六範疇。変換の範疇。(第四範疇、あるいは第四と第五の範疇にしたがって)一つの同じ概念的感受が、抱握する主体によって、さまざまな現実的存在についての類比的な単純物理的感受から公平に導出されるとき、これらの単純物理的感受と派生的な概念的感受との統合の続く相において、抱握する主体は、この概念的感受の与件を、それら抱握された現実的存在の結合体――あるいはその結合体の一部――との対比へと変換することがある。それによってこう限定された結合体(あるいはその一部)が、この抱握する主体が抱懐する感受の客観的与件となる。多くの現実性の単純物理的感受から、一つの結合体としてのそれの一つの物理的感受への、このような変換は「変換された感受」と呼ばれる。そのような感受の始発は、共同で好都合な強度・評価・除去に依存する。この範疇的条件を理解するためには、単純物理的感受の複合的物理的感受への統合が、結合体のさまざまな現実的存在が、たがいを要求する別個の存在として感受されることを提供するにすぎない、ということに注意しなければならない。われわれは、その構成的な現実的存在に代わる、一つの結合体の代置を説明しなければならない。これはライプニッツの『モナドロジー』に生じる問題である。彼はこの問題を、「混雑」という未分析の学説によって解決する。一つの実体としての結合体の、それ自身の範疇的な存在の型をもつ一つの物理的感受を提供する、何らかの範疇が要求される。最終的な主体におけるこの一つの物理的感受は、結合体のさまざまな成員によって抱懐される、さまざまな類比的な物理的感受から、それらの主体としてこれらの成員をもつ、これらの物理的感受から始発する(第四範疇にしたがって直接に、あるいは第五範疇にしたがって間接に)、それらのさまざまな類比的な概念的感受とともに、変換によって派生する。物理的感受の類比は、それらの確定した性格が同じ内含された永遠的客体を例証するという事実にある。概念的感受の類比は、この一つの永遠的客体、あるいはこの永遠的客体からの一つの逆転が、結合体の成員によってそれぞれ抱懐される、さまざまな関連する概念的感受のための与件である、という事実にある。最終的な抱握する主体は、(一)成員がこれらの類比的な物理的感受によってそれぞれ客体化される「純粋」物理的感受によって、(二)成員がこれらの類比的な概念的感受によってそれぞれ客体化される雑種物理的感受によって、結合体の成員を抱握する。この参照の公平性は、それによって全体の結合体への公平な言及が導入される過程の本質的な要素である。さもなければ、多くの成員への特殊な適切性を全体への一般的な適切性へと変換する要素はないだろう。この物理的感受において結合体を性格づける永遠的客体は、結合体の全部あるいは一部の成員に属する、類比的な物理的感受を性格づける永遠的客体でありうる。この場合、全体としての結合体は、その多様な成員に何らかの仕方で属する性格を派生させる。また変換された感受においては、元の結合体の一部のみが客体化され、その永遠的客体はその元の結合体の他の部分の成員から派生したものかもしれない。これは「現前的直接性」という様態における知覚の場合であり、より後の章でさらに論じられる。また永遠的客体は、元の結合体の成員から間接的にのみ派生した、逆転された概念的感受の与件かもしれない。この場合、結合体の変換された感受は新奇性を導入する。不運な場合、この新奇性は「誤り」と呼ばれうる。しかしそれでもなお、その変換の歴史がいかなるものであれ、変換された感受は、最終的な主体がそれによって結合体を抱握する、確定した物理的事実である。たとえば現前的直接性の例を考えると、色盲は「誤り」と呼ばれうるが、それでもなお物理的事実である。変換された感受は物理的感受の定義のもとに入る。世界を意識的に抱握するわれわれの通常の仕方は、これらの変換された物理的感受によってである。われわれが異質な精神性を意識的に気づくときにのみ、われわれは単一の現実的存在の意識的な抱握にほとんど近づく。変換された感受は、その統合の系列において、命題的感受、そして意識的な知覚と判断に、非常に類比的であることが分かるだろう。漠然性はその起源を変換された感受のうちにもつ。ある結合体のあらゆる成員の相互抱握を性格づける一つの性質が、結合体の述語へと転送されるからである。反復の力から生じる強度が、この変換された知覚を、さらなる統合においてその主体的形相の一要素として意識を獲得する感受の卓越した型たらしめる。それは、統合の過程において成し遂げられる、物理的感受の単純化を表す。この範疇によれば、何らかの結合体において抱懐される概念的感受は、客観的与件としてのその結合体の未来の役割を修正する。この範疇は、一つの現実的存在における概念的感受から、それ自身の続く相における、あるいはより後の現実的存在における物理的感受への移行を統べる。より早く概念的であったものが、より後に拡張された役割において物理的に感受される。したがってたとえば、新しい「形相」は逆転によって概念的にその創発的な進入をもち、他の範疇的条件が許すとき、遅延した例証を物理的に受け取る。この第四範疇と第六範疇の結合した作用が、「向性」と「反発」と呼ばれてきたものを産出する。第四範疇にしたがって結合体の現実性のうちに産出される概念的感受は、多くの物理的感受の客観的与件のうちに例証されるパターンと同一の与件をもつからである。もし概念的感受のうちに上向きの評価があるなら、物理的感受はその主体的形相における強化された強度をもって新しい癒合へと変換される。これが「向性」である。しかしもし概念的感受のうちに下向きの評価があるなら、物理的感受は(より後の癒合において)除去されるか、あるいは希薄化された強度をもってそれへと伝達される。これが「反発」である。したがって「向性」と「反発」は「決定」の型である。したがって評価をともなう概念的感受は、第一次的には目的の性格をもつ――それは、それ自身を超えたその客体化における主体の因果的効力性についての決定がなされる作用主体だからである。しかしそれがこの目的の性格を達成するのは、それが始発するもとの物理的感受との統合によってのみである。この統合は「比較的感受」と題する第五章で考察される。向性と反発、そして変換の範疇は、高等な有機体の場合にのみ重要性をもつことは明らかである。それらは知的精神性への第一歩を構成するが、それら自身は意識に相当しない。しかしこれらの操作を含む現実的存在は、単純物理的感受を覆い融合させることのできる概念的感受の重要な強度をもたねばならない。また変換の範疇の検討は、知性への接近が抽象の力の獲得のうちに存することを示す。無関連な詳細の多様性は除去され、現実世界における体系的秩序の要素に強調が置かれる。些細な秩序があるかぎり、些細化された現実的存在があらねばならない。否定的抱握の正しい協調は、精神的進歩の秘密の一つである。しかし環境を何らかの体系的な関係性の図式が性格づけないかぎり、世界の鮮明な抱握を構成するものは何も残らないだろう。低次の有機体は、あらゆる詳細の多様性とともにそれへと流れ込むエネルギーの形相の単なる総和にすぎない。それは受け取り伝達するが、理解可能な体系へと単純化することに失敗する。エネルギーの構造的流動についての物理理論は、個々の現実性から個々の現実性への単純物理的感受の伝達に関わる。したがって、現存する型の宇宙的秩序に関連する、物理学における何らかの型の量子理論が予期される。エネルギーの代替的形相についての、そして一つの形相から別の形相への変換についての物理理論は、窮極的には、変換と逆転の範疇の何らかの例証によって条件づけられた伝達に依存する。

  第V節

第七の範疇的条件は、それ自身の主体の完成においても、続く癒合におけるその主体の客体化においても、概念的感受の効力を統べる。それは「主体的調和」の範疇である。第七範疇。主体的調和の範疇。概念的感受の評価は、主体によって目指される満足における共同の要素であるための、それらの適応によって、相互に規定される。この範疇的条件は、「主体的統一」の範疇と、「概念的逆転」の範疇とに照らして比較されるべきである。前者の範疇においては、「論理的」と呼ばれる本質的な非一貫性が、あらかじめ確立された調和における形成的条件である。この第七範疇と逆転の範疇においては、一つの目的への美的適応が、あらかじめ確立された調和における形成的条件である。これら三つの範疇は感受の窮極の特殊性を表現する。というのも、それらの帰結である超主体は、その産出において作用する主体でもあるからである。それらはそれら自身の被造物の創造である。注目すべき点は、完全には確定していない過程の状態にある現実的存在が、それ自身の窮極的な確定性を決定する、ということである。これが道徳的責任の全体の要点である。そのような責任は、与件の限界によって、そして癒合の範疇的条件によって条件づけられる。しかし自律性は、逆転の範疇にしたがった概念的感受の産出に大きなエネルギーがあるほどの複合性がないかぎり、無視しうる。この逆転の範疇は、美的調和の範疇との関連で考察されねばならない。逆転によって産出される対比は、美的理想の充足のために要求される対比だからである。複合性がないかぎり、理想的な多様性は物理的な不可能性へと、それゆえ貧困化へと至る。多様性を一貫した対比として演出するには複合的な構成が要求される。過程が産物の性格を構成し、逆に産物の分析が過程を開示するのは、主体的統一と主体的調和の範疇の理由によってのみである。しかし、直接の物理的感受に基づく直接知識の確実性には常にこの限定がある――すなわち創造的な出現は、その現実世界における物理的感受にではなく、その現実世界において抱懐された諸概念から生じる擬似的な限定者を、現実世界の物理的感受のうちに持ち込みうる、ということである。この誤りの可能性は、「現前的直接性」という様態に属する物理的感受の特殊な類の場合において、とりわけ顕著である。

 第四章 命題と感受

  第I節

意識の本性はまだ十分に分析されていない。物理的・概念的な始発的な基礎的感受は既に言及され、肯定・否定の対比への最終的な総合もまた言及された。しかし意識への統合の始まりと終わりとのあいだには、「命題的感受」の始発が横たわっている。命題的感受とは、その客観的与件が命題であるような感受である。そのような感受はそれ自体としては意識を含まない。しかしあらゆる形態の意識は、命題的感受が他の感受――物理的感受であれ概念的感受であれ――と統合される仕方から生じる。意識はそのような感受の主体的形相に属する。命題は、物理的感受と概念的感受との統合から派生する複合的感受の与件を形づくる存在として、経験のうちに入り込む。いまや概念的感受は〈その〉現実世界を指示するのではない――〈この〉現実世界の歴史がその与件に何ら特有の適切性をもつという意味においては。この与件は永遠的客体である。そして永遠的客体は、非確定な現実的存在のうちの純粋に一般的な〈いかなる〉ものにのみ言及する。それ自体において永遠的客体は、現実性や時代のあいだのいかなる選択をも回避する。あなたは単に赤さを考えることによって赤とは何かを知ることはできない。あなたは〈この〉現実世界における物理的経験のただなかを冒険することによってのみ、赤いものを見出すことができる。この学説こそが経験論の窮極の根拠である――すなわち、永遠的客体はそれら自身の進入について何の物語も語らない、ということである。しかしいま新しい種類の存在が現れる。そのような存在とは、特定の現実性についておそらく語られうる物語である。そのような存在は、現実的存在でも、永遠的客体でも、感受でもない。それらは命題である。命題は真か偽でなければならない。この点で命題は永遠的客体と異なる。いかなる永遠的客体も真あるいは偽であることはないからである。命題と永遠的客体とのこの相違は、真理と虚偽が常に理由に基づいているという事実から生じる。しかし存在論的原理(第十七の「説明の範疇」)によれば、理由とは常に確定した現実的存在への言及である。いま永遠的客体は、それ自体において、神さえも含む、あらゆる確定した現実的存在から抽象している。それは絶対的に一般的な意味における〈いかなる〉ものへのみ言及する。したがって永遠的客体の真偽を基礎づける理由はありえない。永遠的客体そのものの多様性は、〈この〉現実世界におけるそれらの機能作用の多様性にその理由をもつ。したがって現実世界からの完全な抽象において永遠的客体を理解しようとする試みは、それらを単なる無差別な非存在へと還元することに帰結する。これは、存在であることの一般的な形而上学的性格が「現実性の生成における限定者であること」であるという範疇的原理の一例証である。したがって創造的過程のそれぞれの事例への永遠的客体の弁別された適切性は、神の原初的本性におけるそれらの概念的実現を要求する。彼は永遠的客体を創造するのではない。彼の本性はそれらを、それらが彼を必要とするのと同じ程度に必要とするからである。これは存在の範疇的な型の一貫性の一例証である。永遠的客体のたがいへの一般的な関係性――多様性とパターンの関係性――は、神の概念的実現におけるそれらの関係性である。この実現を離れては、非存在から区別できない単なる孤立があるにすぎない。しかし命題は、永遠的客体の非確定性を保持しつつも、確定した現実的存在からの不完全な抽象をなす。それは、その構成要素のうちに確定した現実的存在を含む、複合的な存在である。これらの確定した現実的存在は、命題の抽象におけるものとしてではなく〈形相的に〉考察されれば、命題の真偽を決定する理由を提供する。しかし命題はそれ自体において、これらの理由への訴えを離れては、それ自身について何の物語も語らない。この点でそれは永遠的客体と同様に非確定である。命題的感受は、既に述べたように、物理的感受を概念的感受と統合する特殊な型の統合から生じる。物理的感受の客観的与件は、その感受が単純であれば一つの現実的存在であり、物理的感受がより複合的であれば現実的存在の確定した結合体である。概念的感受の与件は、〈いかなる〉現実的存在にも言及する永遠的客体であり、ここで〈いかなる〉は絶対的に一般的で選択を欠く。統合された客観的与件において、物理的感受はその現実的存在の確定した組を、感受の主体へのそれらの感受された物理的関係によって示されたものとして提供する。これらの現実的存在が命題の論理的主語である。永遠的客体に内在する〈いかなる〉という観念の絶対的な一般性は、こうしてこの融合において除去される。命題においては、結合体の限定者としてのその可能性に関して、永遠的客体はこれらの論理的主語へと制限される。命題は、論理的主語への制限された言及のある確定した様態における、確定性の限定者としての永遠的客体の潜勢態である。この永遠的客体が命題の「述定的パターン」である。論理的主語の組は、〈この〉述定的パターンにおける〈これらの〉論理的主語として完全に単一化されるか、あるいは〈この〉パターンにおける論理的主語の〈いずれか〉として集合的に単一化されるか、あるいは〈この〉パターンにおけるこれらの論理的主語の〈いくつか〉として単一化される。したがって物理的感受は論理的主語を示し、述定的パターンにおけるそれぞれの仮説的な地位を割り当てるのに必要な、その個体的な限定をそれぞれに与える。概念的感受は述定的パターンを提供する。したがって命題においては、論理的主語は可能性のための食物という地位へと還元される。それらの現実性における真の役割は抽象され、それらの物理的な指示という目的を除いては、もはや事実における要因ではない。それぞれの論理的主語は、現実性のあいだの裸の「それ」となり、述語への仮説的な適切性を割り当てられる。概念的感受の与件が、統合的な命題的感受の与件である命題における述語として再現することは明らかである。この総合において永遠的客体は、その言及の絶対的一般性の除去を被っている。物理的感受の与件もまた除去を被っている。物理的感受において実際に成し遂げられた現実的存在の特異な客体化は、指示の役務のために要求されるかぎりを除いて除去されているからである。客体化は、論理的主語がその述語にとっての仮説的な食物であるために必要とする、その確定性を指示するためにのみ残る。論理的主語のこの必要な指示は、体系的な環境としての現実世界を要求する。純粋な抽象においては確定した地位はありえないからである。命題とは、〈その〉述語が〈それらの〉論理的主語に〈そのように〉割り当てられた仕方で適用されるという可能性である。それ自身を越えて出ることなく、あらゆる命題には、命題的感受におけるそれ自身の実現に関しても、それ自身の真理に関しても、完全な非確定性がある。しかし論理的主語は、それにもかかわらず、事実上、その実現された相互関係性において確定的な現実的存在である。したがって命題は事実上、真であるか偽であるかのいずれかである。しかしその真理あるいはその虚偽は、命題そのものの関知するところではない。その問いはもっぱら、その命題を与件とする命題的感受を抱懐する主体にのみ関わる。そのような現実的存在は、その命題の「抱握する主体」と呼ばれる。抱握する主体でさえ、必ずしもその命題を判断しているわけではない。その特定の場合は既に第二部第九章で論じられた。その章では、より広い語「抱握する主体」の代わりに「判断する主体」という語が用いられた。この命題の一般的本性についての議論を要約すれば――命題は永遠的客体と、非確定性の性格を共有する。両者とも、現実性における非確定な実現をともなう、現実性への確定的な潜勢態だからである。しかし両者は、永遠的客体が絶対的な一般性をもって現実性に言及するのに対し、命題は指示された論理的主語に言及する、という点で異なる。真理と虚偽は常に、まったき与えられていることの何らかの要素を要求する。永遠的客体は、何らかの与えられた事実においてでなければ、それらが何であるかを証示できない。命題の論理的主語は、真理と虚偽にとって必要な与えられていることの要素を供給する。

  第II節〜第III節

命題は感受の特殊性ももたず、結合体の実在性ももたない。それは感受のための与件であり、それを感受する主体を待っている。その論理的主語による現実世界へのその適切性が、それを感受のための誘因たらしめる。実際、多くの主体がそれを多様な感受で、多様な種類の感受で感受しうる。命題がまず論理学との関連で考察されてきたという事実、そして真な命題への道徳主義的な選好とが、現実世界における命題の役割を曖昧にしてきた。論理学者は命題の判断のみを論じる。実際、いくつかの哲学は命題を判断から区別することに失敗しており、ほとんどの論理学者は命題を単に判断への付属物にすぎないと見なす。その結果、偽なる命題はひどい扱いを受け、塵芥の山へと投げ込まれ、看過されてきた。しかし現実の世界においては、命題が真であることよりも、興味深いことのほうが重要である。真理の重要性とは、それが興味を加えるという点にある。ここで維持される学説は、判断-感受は命題的感受の単なる一下位区分をなすにすぎず、命題的感受の他の感受との特殊な種類の統合から生じる、というものである。命題的感受は、その最も単純な例においては意識的な感受ではない。意識は、命題的感受がその構成要素のうちに数えられるある種の統合においてのみ生じる。もう一つ注目すべき点は、複合的な命題的感受の歴史における常に一構成要素である物理的感受が、問題の命題への一意的な関係をもたないということ、そして命題を抱握するもう一つの主体でもあるその感受の主体もまた、そのような関係をもたないということである。その客観的与件のうちに必要な論理的主語を含む、いかなる物理的感受をもついかなる主体も、続く相において、その命題を与件とする命題的感受を抱懐できる。それに必要なのは、必要な述定的パターンを与件とする概念的感受を始発させ、そしてこの二つの感受を要求される命題的感受へと統合することだけである。世界の創造的前進とともに、新しい命題が明らかに生じてくる。あらゆる命題はその論理的主語を含むからであり、それらの論理的主語がそれである現実的存在でないかぎり、それはそれであるところの命題ではありえない。したがって、その現実世界がその命題の論理的主語を含まないかぎり、いかなる現実的存在もその命題を感受できない。「カエサルはルビコン川を渡った」という命題は、ハンニバルの地上での存在のいかなる機会においても、ハンニバルによって感受されえなかっただろう。ハンニバルはこの命題への一定の類比をもつ命題を感受できたが、この命題自体は感受できなかった。さらに、命題が組み立てられる語の形式は、肯定的な判断-感受の始発への誘因をも含む、ということに注意されねばならない。想像文学においては、この誘因は一般的な文脈によって、そして物質的な書物の形式と体裁によってさえ、抑制される。時には「昔々あるところに」のように、判断-感受の形成を抑制するために意図された語の形式さえある。言葉による言明はまた、命題の論理的主語を指示するのに必要な物理的感受の種類を象徴する語や句をも含む。しかし言語は常に省略的であり、その意味はその発話の状況に依存する。たとえば「カエサル」という語は、子犬を意味するかもしれないし、黒人奴隷を意味するかもしれないし、最初のローマ皇帝を意味するかもしれない。ある命題の論理的主語をその現実世界が含む現実的存在は、その命題の「局所」の内に入る、と言われよう。命題はそれらによって抱握可能である。命題の局所の内に入る現実的存在のうち、いくつかのみがそれを肯定的に抱握するだろう。純粋な命題的感受には二つの種類がある――「想像的感受」と「知覚的感受」である。これらの種類は鋭くは区別されないが、その極端な事例はきわめて異なった仕方で機能する。命題的感受は、抱握する主体の過程のより後の相においてのみ生じうる。というのもそれは、より早い相において、(α)その客観的与件が必要な論理的主語を含む物理的感受と、(β)その与件の確定性の限定者のうちに、ある確定した永遠的客体を含む物理的感受と、(γ)範疇的条件Ⅳにしたがって(β)の見出しのもとの物理的感受から必然的に派生する、この永遠的客体の概念的感受と、そして〈おそらく〉(δ)範疇的条件Ⅴにしたがって、別の永遠的客体を与件とする、先の概念的感受からの逆転である何らかの概念的感受とを要求するからである。(α)の見出しのもとの物理的感受は「指示的感受」と呼ばれよう。(β)の見出しのもとの物理的感受は「物理的認知」と呼ばれよう。物理的認知は、述定的パターンを提供する概念的感受の物理的基盤である。「述定的パターン」とは、(γ)の見出しのもとの概念的感受の与件である永遠的客体か、あるいは(δ)の見出しのもとの概念的感受の与件である永遠的客体かのいずれかである。前者の場合、第二の概念的感受、すなわち(δ)の見出しのもとのそれは、命題的感受の考察には無関連である。いずれの場合も、その与件が述定的パターンであるその概念的感受は「述定的感受」と呼ばれる。この述定的感受の起源についてのこの説明において、われわれは概ねロックとヒュームに同意している――両者とも、あらゆる概念的感受は物理的基盤をもつ、と主張する。しかしヒュームは、あらゆる永遠的客体はまず物理的に感受される、という原理を定め、こうして述定的感受の始発を(γ)の見出しのもとにおいてのみ許容するだろう。しかし彼は、その一般原理を台無しにする二つの譲歩をなす。彼は、諸段階の尺度における中間的な「階調」の独立した始発を、そして新しい「様式」のパターンの独立した始発をも許容するからである。この両方の場合は、(δ)の見出しのもとで訴えられる「逆転」の原理によって説明される。命題的感受は、「指示的感受」と「述定的感受」との統合がある、より後の相において生じる。この統合において、二つの与件は、両方の与件を含む二重の除去によって総合される。指示的感受の与件に関わる現実的存在は、その結合体の確定性を真に構成する永遠的客体の除去とともに、それぞれが裸の「それ」である単なる多性へと還元される。しかし統合は、それらをこの単なる多性から、与えられた述語パターンをもつ命題の統一のうちに置くことによって救い出す。したがって、まず純然たる事実として感受された現実性は、ある割り当てられた述定的パターンを実現するための潜勢態をもつ、一組の論理的主語へと変換されている。述定的パターンもまた除去によって限定されてきた。というのも概念的感受の与件としては、それは絶対的に〈いかなる〉現実的存在にも関して実現のためのその可能性を保持していたが、命題においては、その可能性は〈まさにこれらの〉論理的主語へと限定されているからである。命題的感受の主体的形相は、範疇的条件Ⅶにしたがって状況次第である。それは意識を含むかもしれないし含まないかもしれない。それは判断を含むかもしれないし含まないかもしれない。それは反発あるいは向性――すなわち決定――を含むだろう。主体的形相は、「肯定-否定」の対比がそこに入り込んだときにのみ意識を含むだろう。言い換えれば、意識は、それらの感受が、〈ある〉結合体と、その真偽の決定を〈それ自身の本性において否定する〉命題との〈対比〉を与件とする、統合的感受における構成要素であるとき、感受の主体的形相のうちに入り込む。命題の論理的主語は、結合体における現実的存在である。意識とは、その想像的自由との対比における、その特定の実在の結合体を感受する仕方である。意識は、その実在の事物が何であるかに、あるいは想像力が何であるかに、あるいはその両方に、重要性を付与しうる。

  第IV節〜第V節

命題は、それ自体として、その抱握する主体のあいだで公平であり、それ自身の本性においてはそのような抱握の主体的形相を完全には決定しない。しかし同じ命題を与件とする、異なる抱握する主体における異なる命題的感受は、これらの主体におけるその歴史の相違に応じて広く異なる。それらは、それぞれ「知覚的感受」と「想像的感受」と呼ばれる、二つの主要な型へと分けられる。この相違は、論理的主語がそこから派生する「指示的感受」と、述定的パターンがそこから派生する「物理的認知」とのあいだの比較に基づいている。第三に、そして最後に、述定的感受は、前節の見出し(δ)にしたがって、逆転によって抱握する主体のうちに生じたのかもしれない。この場合、述語は結合体の確定性に真に寄与する要素をいくらか含むが、結合体における対応する要素と対比する要素をもいくらか含む。これらの後者の要素は、抱握する主体の癒合において導入されたものである。述語はこうして、抱握する主体の主体性によって真理から歪められている。そのような知覚的感受は「非本来的」と呼ばれよう。これらの物理的感受は同一であるか異なるかのいずれかである。もしそれらが一つの同じ感受であれば、派生した命題的感受はここで「知覚的感受」と呼ばれる。この場合、以下に見るように、命題はその論理的主語について、それらがその抱握する主体によって物理的に感受される仕方から派生した性格を述定するからである。もし物理的感受が異なれば、派生した命題的感受はここで「想像的感受」と呼ばれる。この場合、以下に見るように、命題はその論理的主語について、論理的主語への密接な適切性の保証を欠いた性格を述定するからである。これらの物理的感受は複合的であるから、それらのあいだには相違の段階がある。二つの物理的感受は広く多様でありうるし、ほとんど同一でありうる。したがって命題的感受の二つの型のあいだの区別は、そうでありうるほど鋭くは切り分けられない。この区別はさらに、知覚的感受を三つの種へと分化させる三つの明確な事例が生じ、それらが順にたがいへと移り変わっていく、ということに注意することによって、いっそう曖昧にされる。いまわれわれは知覚的感受を扱っているので、指示的感受の役割と物理的認知の役割の両方を担う、一つの物理的感受のみを手にしている。第一に、述定的パターンが見出し(γ)のもとの物理的認知から直接に派生し、逆転がなく見出し(δ)が無関連であると仮定しよう。この場合、派生した命題的感受は「本来的な知覚的感受」と呼ばれよう。そのような感受は、その始発の様態のゆえに、その与件として、その論理的主語の実在の結合体において何らかの仕方で実現されている述語をもつ命題をもつ。したがって感受された命題は、実在の結合体から派生した述語を提案しており、抱握する主体によって屈折させられていない。しかしそれでもなお、その命題は、それが論理的主語を述語と結びつける仕方に関しては、真である必要はない。というのも、抱握する主体によるその結合体の第一次の物理的感受は、範疇的条件Ⅵにしたがって「変換」を含んでいたかもしれないからである。この場合、命題は、その論理的主語に、その述語の限定をもつ結合体の物理的な享受を帰するが、その述語は、これらの論理的主語によって〈概念的に〉のみ享受されていたかもしれない。したがって、命題が結合体における物理的事実として提案するものは、真実には単に精神的な事実にすぎなかった。それがそれであるところのものとして理解されないかぎり、誤りが生じる。そのような理解は主体的形相に属する。しかしもし第一次の物理的感受がいかなる段階においても逆転を含まないなら、命題の述語は、その結合体の確定性を構成する永遠的客体である。この場合、命題は無限定に真である。本来的な知覚的感受はそのとき「直接的」と呼ばれよう。したがって「逆転」が含まれるときの「間接的」知覚的感受と、「直接的」知覚的感受とがある。そしてこれら両方の種の感受は「本来的」と呼ばれる。これらの「本来的」感受の場合、述語は、抱握する主体へのいかなる言及も離れて、物理的にであれ観念的にであれ、結合体のうちに実現をもつ。非本来的感受は、「拘束された」想像力から派生する感受である――全体の始発のための物理的基盤がただ一つしかない、すなわち「指示的感受」であると同時に「物理的認知」でもある物理的感受しかない、という意味においてである。想像力は一つの窮極の事実に拘束されている。

  第VI節

言語は通例、それが指示する正確な命題に関して常に曖昧である。話される言語は単なる一連の甲高い音にすぎない。その機能は、(α)抱握する主体のうちに、命題の論理的主語を指示する何らかの物理的感受を喚起すること、(β)抱握する主体のうちに、「物理的認知」の役割を演じる何らかの物理的感受を喚起すること、(γ)「物理的認知」を概念的な「述定的感受」へと昇華させることを促進すること、(δ)指示的感受と述定的感受との、要求される命題的感受への統合を促進すること、である。しかしこの複合的な機能には、常に発話の機会の環境への暗黙の言及がある。伝統的な例「ソクラテスは死すべきものである」を考えてみよう。この命題は「〈それ〉は死すべきものである」を意味しうる。この場合、その発話の状況における「ソクラテス」という語は、単に死すべきものである〈それ〉を指示する物理的感受を促進するにすぎない。この命題は「〈それ〉はソクラテス的であり死すべきものである」を意味しうる――ここで「ソクラテス的」は述定的パターンにおける追加的な要素である。

 第五章 経験のより高次の諸相

  第I節〜第III節

「比較的感受」とは、まだ考察されていない統合の結果である――それらの与件は類的対比である。より複合的な感受の無限の多様性は「比較的感受」という見出しのもとに入る。いまやわれわれは、比較的感受の二つの単純な型を検討しなければならない。一つの型は、「命題的感受」と、それが部分的にそこから派生する「指示的感受」との統合から生じる。この型の感受は「知的感受」と呼ばれよう。この型の比較的感受は二つの種へと下位区分される――一方の種は「意識的知覚」からなり、他方の種は「直観的判断」からなる。直観的判断の主体的形相もまた意識を含む。したがって「意識的知覚」と「直観的判断」はいずれも等しく「知的感受」である。もう一方の型の比較的感受は「物理的目的」と呼ばれる。そのような感受は、概念的感受と、それがそこから派生する基礎的な物理的感受との統合から生じる――範疇的条件Ⅳ(概念的評価の範疇)にしたがって直接に、あるいは範疇的条件Ⅴ(概念的逆転の範疇)にしたがって間接的にである。しかしこの統合は、同じ基礎的物理的感受から「知覚的」と呼ばれる命題的感受の種を産出する統合よりも、より原初的な型の統合である。これらの物理的目的の主体的形相は「向性」あるいは「反発」のいずれかである。物理的目的の主体的形相は、これらの感受が意識的知覚あるいは直観的判断との統合を獲得しないかぎり、意識を含まない。知的感受においては、与件は、現実的存在の結合体と、その論理的主語が結合体の成員である命題とのあいだの類的対比である。あらゆる類的対比において、その統一は、対比された両方の要因における構成要素であるある種の存在の二方向の機能作用から生じる。この統一は第二の範疇的条件(客体的同一性の範疇)への適合を表現する。二つの感受を抱懐する共通の「主体」は統合を成し遂げ、それによってこれらの現実的存在のそれぞれが、一つの類的対比における二方向の機能作用の一つの役割を獲得する。主体における一要素として、客体化されたいかなる現実的存在も、二つの断絶した部分を演じることはできない。分析可能な部分は一つしかありえない。したがって始発においては、それぞれ類的対比の二要因における現実的存在の別個の機能作用の一対として記述可能なものが、主体においては、二方向の側面をもつ一つの役割として実現される。この二方向の側面は「対比」として統一される。この一つの分析可能な部分はそれ自身のうちに、問題の客体化された現実的存在が物理的感受において客体化された結合体に寄与するもの、すなわち純然たる事実と、命題が実現される事態における、その述定的パターンにおける割り当てられた部分を演じるための、同じ現実的存在の単なる潜勢態との対比を含む。この対比が「肯定-否定の対比」と呼ばれてきたものである。それは、物理的感受における客体化された事実の肯定と、命題的感受における、そのような肯定の否定である単なる潜勢態との、対比である。それは〈この〉現実世界における特殊な事例に関する、〈事実として〉と〈ありうるかもしれない〉とのあいだの対比である。この対比の感受の主体的形相が意識である。したがって経験において、意識は知的感受の理由によって生じ、そのような感受の多様性と強度に比例して生じる。しかし第七の範疇的条件(主体的調和の範疇)にしたがって、いかなる感受における要因として生じる主体的形相も、最終的には満足においてあらゆる感受の統一のうちに共有され、あらゆる感受はその意識における照明の割り当て分を獲得する。この説明はわれわれの意識的経験の平明な事実と一致する。意識はちらつく。そのもっとも明るいときでさえ、明晰な照明の小さな焦点的領域と、漠然とした把握における強烈な経験を物語る、経験の大きな半影的領域とがある。明晰な意識の単純さは、完全な経験の複合性の尺度ではない。またわれわれの経験のこの性格は、意識が経験の必要な基盤ではなく、時折しか達成されない経験の頂冠である、ということを示唆する。感受は、その与件が命題であり、その主体的形相が、その情動的パターンにおける限定的要素として、ある種の強度の段階と結びついたある種の形相あるいは永遠的客体を含むとき、「信念」と呼ばれるか、あるいは「信念」の要素を含むと言われる。この永遠的客体が「信念性格」である。この性格が情動的パターンに入り込むとき、含まれる強度に応じて、その感受は、他に何であれ、ある程度まで信念である。この信念性格の強度における変動は、ロックが『人間知性論』で強く主張している。彼はこう書いている――「精神がこの種の命題に与える待遇は『信念』『同意』あるいは『意見』と呼ばれ、それはある命題を真として受け入れ承認することであり、それが真であることの確実な知識なしに、それを真として受け入れるよう説得する論拠あるいは証拠にもとづく。そしてここに蓋然性と確実性、信仰と知識との相違がある。すなわち知識のあらゆる部分には直観がある――それぞれの直接の観念、それぞれの段階は、その目に見える確実な結合をもつ。信念においてはそうではない」。確実性と不確実な信念とのロックの区別は見事である。しかしそれは見かけほど重要ではない。というのも、われわれが通常関わっているのは直接の直観ではないからである。われわれはただ、言葉に記録されたその想起をもつにすぎない。ある想起の言葉による記録がわれわれの精神に真な命題を思い出させるかどうかは、常に大きな不確実性の問題であるに違いない。したがってわれわれの直接の直観への態度は、不確実な記録に頼る辺獄へと入っていくにあたって、剣闘士の「モリトゥーリ・テ・サルターム(死にゆく者があなたに敬礼する)」のようなものであるに違いない。ここでわれわれが語っているのは、ある命題の他の命題への関係を表現する客観的な蓋然性ではない、ということが理解されねばならない。信念の比較的な確固さは、客観的証拠によって正当化されるかもしれないしされないかもしれない、心理学的事実である。この信念性格は、さまざまな型の知的感受から派生する意識との融合から、さまざまな形態を取る。

  第IV節

意識的知覚とは、直接の事実に対して適切なものを、その潜勢的な無関連性との対比において感受することである。この一般的記述はいまや詳細に説明されねばならない。「意識的知覚」はきわめて重要であるから、その始発の全系列を辿ってみる価値がある。始発の代替様態が関わっていること、そしてこれらの様態のいくつかは誤った知覚を産出することが分かるだろう。したがって意識的知覚の批判は、直観的推論的な判断の批判と同じ重要性をもつ。まず、問題の「主体」にとって、感受の系列全体がそこから始発する一つの基礎的な物理的感受がある。この物理的感受から、「知覚的」と呼ばれる種類の命題的感受が生じる。意識的知覚とは、この知覚的感受のこの原初の物理的感受との統合から生じる比較的感受である。「知覚的」感受の始発についての説明(第三部第四章第IV節)において、そのような感受のさまざまな種はまず「本来的」感受と「非本来的」感受とに分析され、次に「本来的」感受は「直接的」感受と「間接的」感受とに分析された。無限定に、直接的知覚的感受は、その論理的主語を、物理的感受の始発的与件である結合体の内在的性格を表現する述語を潜勢的にまとうものとして感受する。限定つきで、この言明は間接的感受にも当てはまる。その限定とは、逆転の理由によって結合体のうちに抱懐される二次的な概念的感受が、あたかも結合体における物理的事実であったかのように、(意識的知覚の最終的な主体である)「主体」のうちで感受されるように変換されている、というものである。もちろん、そのような物理的感受の変換は、非両立性が関わらないときにのみ生じる。したがって一般に、変換された物理的感受は、非両立性と抑制の複合的過程の帰結としてのみ生じる。少数の高等な有機体にのみ見出される例外的な状況を別にすれば、変換は無視しうる強度の物理的感受のみを説明する。しかし、本来的な物理的感受でさえ、感受された概念を感受された物理的事実へと変換することによって、感受された結合体の性格を歪めうる、ということに注意するのは重要である。この仕方で本来的な知覚的感受は思考のうちに誤りを導入しうる。そして変換された物理的感受は物理的世界のうちに新奇性を導入しうる。そのような新奇性は幸運かもしれないし破滅的かもしれない。しかし要点は、物理的世界における新奇性と、本来的な知覚的感受における誤りとは、逆転の範疇にしたがった概念的機能作用によって生じる、ということである。これらの変換された知覚的感受が重要性をもつ場合を措いて、直接的知覚的感受をもつ抱握する主体を考えよう。主体は、原初の物理的感受と派生的な知覚的感受という、二つの要因を含む癒合相をもつ。より早い要因において、物理的に感受された結合体は、それ自身固有の物理的絆を通じて客体化される。希薄化を産出するような、事実と逆転された概念とのあいだの非両立性はない。したがって客観的与件は、物理的感受の主体的形相へと伝達される、それ自身固有の強度をもって感受される。統合におけるもう一つの要因は「知覚的」感受である。この感受の与件は、結合体の現実的存在をその論理的主語とし、その述語もまた結合体から派生する命題である。この知覚的感受の始発の全体は、「指示的感受」と「物理的認知」の両方の役割を演じる物理的感受にのみ、その唯一の基盤をもつ。この二つの要因の意識的知覚への統合は、こうして結合体を、それ自身から派生し、それ自身に限定され、それ自身のうちに例証された潜勢態をともなう事実として、対峙させる。この対峙が、統合的感受の客観的与件である類的対比である。したがって主体的形相は、実現された潜勢態のあり方において、結合体が真に〈何であるか〉についての、その鮮明な直接の意識を担う。ヒュームの言い回しで言えば、この上ない「力と生気」の「印象」がある。したがって意識的知覚の正しさについては二つの直接の保証がある――一つはヒュームの「力と生気」の試金石であり、もう一つは、関わる過程のさまざまな感受の意識による照明である。したがって、物理的感受が概念を物理的絆へと変換していないという事実は、検討に開かれたままである。これらの試金石のいずれも誤りなきものではない。未来がこの想定から派生する期待に適合する、という遅延した試金石もある。この後者の試金石は、持続的対象の生における未来の機会――すなわち持続する知覚者――によってのみ実現されうる。疑わしいのは、現実世界の断片である結合体の直接の知覚ではない、ということに注意されたい。疑わしい要素は、観察された述語によるこの結合体の限定である。非本来的な知覚的感受は、主体自身の基礎的物理的感受からのその概念的始発が、述定的感受の役割を演じる逆転された概念的感受を産出する二次的段階へと進んだとき、主体のうちに生じる。物理的感受は、結合体における概念的逆転からの派生の理由による直接の適切性の喪失をも被ったかもしれないし、被らなかったかもしれない。しかしいずれにせよ、主体はそれ自身の逆転の過程によって、論理的主語のために、物理的事実としても結合体における概念的機能作用としても、結合体にいかなる直接の適切性ももたない述語を産出したのである。したがって、物理的感受を非本来的な知覚的感受と統合する比較的感受は、その与件として、結合体と、その論理的主語が結合体における現実性からなり、その述語が結合体のうちに例証される複合的パターンと部分的に一致し部分的に不一致であるような命題との、類的対比をもつ。この場合は実際には、結合体に関わり事実と不一致な、想像的に到達された命題の意識的知覚である。この場合は実際には、知的感受の第二の種、すなわち直観的判断により類比的である。しかし、指示的感受と物理的認知との二重の機能における一つの基礎的物理的感受の使用の理由によって、比較的感受における命題は、本来的知覚の場合に生じる、同じ感受における結合体への鮮明な適切性のいくつかをもつだろう。しかし実際的には、この場合は、命題が誤りとして意識される直観的判断である。

  第V節〜第VI節

「判断」という語は、われわれが関わっている比較的感受のうちの三つの種を指す。これらの感受のそれぞれにおいて、与件は、客体化された結合体と、その論理的主語が結合体を構成する命題とのあいだの類的対比である。三つの種は、(一)「然り形式」における感受、(二)「否形式」における感受、(三)「宙吊り形式」における感受、から成る。これら三つの種の感受された対比すべてにおいて、与件は対比の両側における現実的存在の客体的同一性の理由によってその統一を得る。「然り形式」においては、客体化された結合体のパターンと述語との同一性の理由による、さらなる統一の根拠がある。「否形式」においては、この後者の統一の根拠は、両立不可能な多様性を含む対比によって置き換えられる。「宙吊り形式」においては、述語はパターンと同一でも両立不可能でもない。それは客体化されたものとしての結合体におけるパターンと多様でありながら両立可能である――結合体は、それ自身の「形相的」存在において、パターンと述語の両方を事実として例証するかもしれないししないかもしれない。したがってこの種の比較的感受には、非両立性なしに、パターンと述語とのあいだの対比がある。直観的判断においては、既に述べたように、比較的感受は、結合体の物理的感受と、その論理的主語が結合体における現実的存在である命題的感受との統合である。この一般的記述に関するかぎり、直観的判断と意識的知覚は異ならず、それゆえ「知的」感受として共に分類される。しかし直観的判断の場合には、より複合的な始発の過程がある。二つの異なる物理的感受、すなわち指示的感受と物理的認知とがある。述定的感受は、範疇的条件Ⅳにしたがって直接に、あるいは範疇的条件Ⅴにしたがって間接的に、物理的認知から始発する。述定的感受の指示的感受との統合が「想像的感受」を産出する。これは、その論理的主語が指示的感受から派生し、その述定的パターンが物理的認知から派生する、命題的感受である。これら二つの物理的感受は、その始発において比較的に無関連でありうる。したがって想像的感受はその主体的形相において、信念あるいは不信への偏りをまったくもたないかもしれない。あるいは、そのような偏りがあったとしても、その情動の強度はわずかかもしれない。直観的判断とは、指示的感受に関わる結合体と、想像的感受に関わる命題とのあいだの類的対比によって構成された与件をもつ、比較的感受である。この類的対比において、それぞれの現実的存在は二方向の機能作用の対比をもつ。一方の仕方は、結合体の例証されたパターンにおけるその機能作用であり、他方の仕方は、命題の潜勢的パターンにおけるその機能作用である。もし例証と潜勢態とのあいだの対比に加えて、パターンと述語に関して同一性があるなら、客体的統一の範疇によって、その二方向の機能作用――すなわち例証されたものとしてと潜勢的なものとしてと――における単一の複合的永遠的客体もある。この場合、命題は結合体と一貫しており、この一貫性がその真理である。したがって「真理」とは、結合体のパターンと命題のパターンとの類的対比における、非両立性あるいはいかなる「実質的対比」の不在である。客体的多様性の範疇を含む唯一の対比は、単に例証と潜勢態とのあいだのそれにすぎず、他のあらゆる点で一貫性は客体的同一性の範疇によって統べられる。もし例証と潜勢態とのあいだ以外の何らかの点で対比が生じるなら、二つのパターンは同一ではない。そのとき命題は、重要であれ些細であれ、何らかの意味において真として感受されない。直観的判断はその主体的形相において、その与件のうちに感受すべきものに適合することに注意されたい。したがって誤りは、判断を構成する統合の主体的形相からは生じえない。しかし誤りは、統合される要因の一つである指示的感受が、その起源において逆転を含んでいたかもしれないという理由によって生じうる。したがって誤りは、意識の下に横たわる操作の理由によって生じる――もっともそれらは意識のうちに浮上し、批判に開かれうるとしても。最終的に、直観的判断を意識的知覚から区別するものは、意識的知覚が、こうして意識的に知覚された事実へのできるかぎり最も近い制限をもつ始発的過程の帰結である、という点である。しかし二つの種のあいだの区別は絶対的ではない。意識的知覚のうちには、結合体において抱懐された概念が結合体における物理的感受へと変換される変換や、逆転された述語をもつ命題が生じた非本来的な命題的感受も見出される。これらは、意識的知覚が直観的判断の一般的性格を帯びる事例である。他方、二つの物理的感受のあいだの多様性――それらが多様であるとき――は些細でありうる。一方の与件である結合体は、他方の与件である結合体とほぼ同一でありうる。そのような場合、直観的判断は意識的知覚に近接する。直観的判断の始発の諸段階の凝縮された分析は、(一)「物理的認知」と「指示的感受」、(二)物理的認知から派生する「述定的感受」、(三)「述定的感受」と「指示的感受」との統合によって派生する「想像的感受」、(四)想像的感受と指示的感受との統合によって派生する直観的判断、である。直観的判断の主体的形相が、命題への確定的な信念あるいは不信念を必然的に含むと記述することは、大きな誤りである。三つの場合が生じる。直観的判断の与件である類的対比は、命題の述語を、客体化された結合体において例証されたものとして示すかもしれない。この場合、主体的形相は確定的な信念を含むだろう。第二に、述語は、客体化された結合体において例証される永遠的客体と両立不可能なものとして示されるかもしれない。この場合、主体的形相は確定的な不信念を含むだろう。しかし第三の、実際にはより通常の場合がある――述語は、客体化された結合体において例証される永遠的客体に対して、全面的あるいは部分的に無関連なものとして示されるかもしれない。この場合、主体的形相は信念も不信念も示す必要はない。それはこれらの決定のいずれか一方を含むかもしれないが、含む必要はない。この第三の場合は「判断の宙吊り」の場合と呼ばれよう。したがって直観的判断は、信念であるか、不信念であるか、あるいは宙吊りの判断でありうる。宙吊りの判断を、最終的な満足に関するかぎり、信念あるいは不信念へと転じることが、推論過程の課題であることがある。しかし知的感受の主要な機能は、信念でも不信念でも、判断の宙吊りでさえない。これらの感受の主要な機能は、関わる概念的感受における評価、そしていかなる知的感受よりも原初的なより物理的な目的における評価にともなう情動的強度を高めることである。それらはこの機能を、確定した論理的主語に適切な可能性を表現するように抽象的な評価を限定する、その鋭い仕方によって果たす。これらの論理的主語が、他の抱握の理由によって関心の話題であるかぎり、命題は創造的行為を条件づけるための誘因となる。言い換えれば、その抱握は主体的目的の修正を成し遂げる。知的感受は、その第一次的な機能において、重要性の増大を含む注意の集中である。この注意の集中はまた、真あるいは偽の知的判断である、物理的目的の批判をも導入する。しかし知的感受は、それらがそれら自身よりも原初的な「物理的目的」を既に働いているものとして見出す、ということが想起されないかぎり理解されえない。意識は、関連する普遍の概念的抱握の進入に先行するのではなく後続する。肯定的な直観的判断が意識的知覚にきわめて類比的であることは明らかである。意識的知覚は肯定的直観的判断のきわめて単純化された型であり、直接的な肯定的直観的判断は意識的知覚のきわめて洗練された事例である。両者の相違はその起源にある――一方は知覚的感受を含み、他方は想像的感受を含む。意識の勝利は否定的直観的判断とともに到来する。この場合、ありうるが、そうではないものについての意識的感受がある。この感受は、その主体が享受する確定した否定的抱握に直接関わる。それは不在の感受であり、真に現前するものの確定した排他性によって産出されたものとして、この不在を感受する。したがって、意識に固有の性格である否定の明示性は、ここでその最大値にある。ロックはこの主題について「判断とは、それを知覚することなしに物事をそうであると推定することである」と述べ、知識と判断という真偽に関わる精神の二つの能力を区別する――第一は「知識」であり、それによって精神は確実に知覚し、いかなる観念の一致あるいは不一致についても疑いなく満足する。第二は「判断」であり、それはその確実な一致あるいは不一致が知覚されないが、そうであると推定されるときに、観念を精神のうちで結びつけたり分離したりすることである。宙吊りの判断はこうして、想像された述語が客体化する述語との同一化を見出すことに失敗するが、それと両立可能な対比を見出す場合における、想像的感受と指示的感受との統合から成る。それは、論理的主語が明らかに〈そうである〉ものと、同じ主語が加えてそう〈ありうる〉ものとの、対比の感受である。この宙吊りの判断は、客体化に含まれる限定についてのわれわれの意識である。科学理論におけるわれわれの全進歩は、そして直接観察の精妙さにおいてさえ、宙吊りの判断の使用に依存している。宙吊りの判断は蓋然性の判断ではない、ということに注意されたい。それは両立可能性の判断である。

  第VII節〜第VIII節

「物理的目的」は、知的感受の型よりも原初的な型の比較的感受を構成する。一般に、知的感受は無視しうるものであり、例外的な現実的存在においてのみ重要性を獲得するように思われる。より原初的な型の比較的感受においては、知的感受において非常に際立つ、その進入に関する非確定性という永遠的客体の側面が、背景へと押しやられる。そのような型の物理的目的においては、物理的感受と概念的感受との統合は、物理的感受の客観的与件を裸の論理的主語の多性へと還元することを含まない。客観的与件は、その進入がその確定性を構成する永遠的客体を例証する、結合体のままである。また、その進入に関するその非確定性は、物理的感受の与件である永遠的客体から除去されている。統合的な比較的感受において、与件は、客体化された結合体の実在性との、概念的与件の対比である。物理的感受は実在の事実を感受しており、概念的感受は抽象的な可能性を評価している。新しい与件は、感受におけるような、感受された事実と与件としての永遠的客体との、両立可能性あるいは非両立性である。感受されたような実在の事実と純粋な抽象とのこの総合は、類的対比である。物理的目的に関して、ここで展開されている宇宙論的図式は、あらゆる現実的存在が物理的目的を含む、と主張することをわれわれに要求する。物理的目的の恒常性は、自然の秩序の、とりわけ「持続的対象」の持続を説明する。物理的目的が始発する諸段階の連鎖は、知的感受の場合よりも単純である――(一)一つの物理的感受があり、(二)範疇的条件Ⅳにしたがって、物理的感受の第一次的な概念的対応物が生成され、(三)この物理的感受はその概念的対応物と統合されて物理的目的を形づくる。そのような物理的目的は「第一種の物理的目的」と呼ばれる。そのような物理的目的においては、与件は、物理的感受において感受された結合体と、概念的感受において評価された永遠的客体との類的対比である。この永遠的客体はまた、結合体のパターンとしても例証される。したがって概念的評価はいまや、類的対比のうちに立つ結合体の感受へと迫り、評価された永遠的客体を例証する。物理的感受にしたがったこの評価は、超越的創造性に、向性あるいは反発の性格を付与する。向性の性格は、物理的感受の再生産を、それ自身を超えた主体の客体化における一要素として確保する。そのような再生産は、他の感受から派生する非両立的な客体化によって挫折させられるかもしれない。しかしその評価が向性を産出する物理的感受は、それによって、それ自身の主体を超えた未来への、ある種の持続の力をもつ一要素である。それは持続的対象を形づくる機会の経路を通じて感受され再演される。最終的にこの伝達の連鎖は非両立性に遭遇し、希薄化され、修正され、あるいはさらなる持続から除去される。向性の代わりに反発があるとき、超越的創造性は、その感受という装いにおけるその主体の客体化を、抑制するか希薄化するかする、その性格を帯びる。したがって反発は、主体がそれ自身によってその未来において客体化されうる一つの可能性を除去する傾向がある。したがって向性は安定性を促進し、反発はいかなる種類の変化の指示もなしに変化を促進する。それ自体において反発は、内容の除去と、些末さへの転落とを促進する。第一相における原初の物理的感受を構成する、単なる応答的な再演の裸の性格は、第二相において、概念的相関物との統合から生じる評価によって豊かにされる。この仕方で、癒合する経験の両極的な性格は、物理的極において、外部の現実世界から派生する経験の客体的側面を提供し、精神的極において、物理的感受に相関する主体的な概念的評価から派生する経験の主体的側面を提供する。精神的操作は二重の役目をもつ。それらは直接の主体において、その始発的与件から得られるべき満足に関する、その主体の主体的目的を達成する。この仕方で、作用因である現実世界から派生する決定は、目的因である主体的目的に体現された決定によって完成される。第二に、主体の物理的目的は、その評価によって、それ自身を超えた創造的前進におけるその主体の客体化に入り込む、さまざまな感受の相対的な効力性を決定する。この機能において、精神的操作はその主体を作用因の性格において決定する。したがって精神的極は、それによって創造性が目的因と作用因という二重の性格を付与される、その環である。精神的極は、事実の問題が創造性の性格に入り込むゆえんの、諸決定によって構成される。それは意識との必然的な結びつきをもたない――ただし知的感受の始発があるところでは、意識は事実上主体的形相のうちに入り込むとしても。物理的目的の第二の種は、精神的極における逆転の始発に由来する。振動とリズムが物理的世界において支配的な重要性をもつのは、この第二の種の理由による。逆転は、経験の強度のための条件としての対比の誘因の理由によって生じる観念である。この誘因は範疇的条件として表現できる。第八の範疇的条件。主体的強度の範疇。それによって概念的感受の始発がある主体的目的は、(α)直接の主体における、そして(β)関連する未来における、感受の強度である。まずわれわれは、(一)永遠的客体のいかなる実現された進入による感受の強度も、その永遠的客体が永遠的客体間の実現された対比における一要素であるときに高められること、(二)二つ以上の対比が共同の進入にとって両立不可能でありうるか、あるいは共同でより高次の対比へと入りうること、に注意する。均衡の取れた複合性が、この主体的目的の最終的な範疇の帰結であることが帰結する。ここで「複合性」とは、対比の、対比の対比の、というように、実現を意味し、「均衡」とは、パターンにおけるある要素が導入し他の要素が抑制するような対比の除去による希薄化の不在を意味する。したがって、対比の条件のもとになければならないという制約に服しつつ、永遠的客体の最大数の実現に向けた衝動がある。しかしこの「対比の条件」への限定こそが「均衡」の要求である。というのも「均衡」とはここで、いかなる実現された永遠的客体も、他の実現された永遠的客体のあいだの潜勢的な対比を除去してはならない、ということを意味するからである。そのような除去は、パターンのさまざまな要素の進入から導出可能な感受の強度を希薄化する。したがって、直接の現在の主体に関するかぎり、第四範疇にしたがった概念的評価の始発は、もっとも好都合な均衡から導出可能な統合的強度を最大化するような、強調の配置に捧げられる。主体的目的とは、与えられた素材のただなかでの均衡の選択である。しかし癒合する主体の直接の感受における一要素は、直接の事実へのその関係における、超越的未来の予期的感受からなる。これは、現実性の本性に内在する客体の不滅性の感受である。そのような予期的感受は、神の原初的本性において決定された永遠的客体の適切性の実現を含む。これらの感受が高等な有機体において重要な強度にまで高まるかぎり、より遠隔な代替的可能性の効果的な感受がある。そのような感受は、逆転の範疇(第五範疇)にしたがって生じる概念的感受である。しかし「均衡」がなければならず、「均衡」とは、非両立性による抑制を回避しつつ、対比の導入のための同一性と多様性の調整である。したがって未来を含むこの二次相は逆転を導入し、この最終範疇に服する。それぞれの逆転された概念的感受は、その与件を、同じ極の相関する第一次感受の与件と大部分同一にもっていた。この仕方で、総合への準備が促進される。しかし対比の導入は、複合的与件のいくつかの要素における相違、あるいは逆転によって獲得される。この範疇は、何が同一で何が逆転されるかが、好都合な均衡への目的によって決定される、という規則を表現する。逆転は、強度のための一条件としての複合性への目的による。この逆転された概念的感受が、その主体的形相において比較的高い強度の上向きの評価を獲得するとき、物理的感受、第一次的概念的感受、そして第二次的概念的感受の結果としての統合は、逆転された概念的感受が無視しうるものであった先の場合よりも、より複合的な物理的目的を産出する。いまや、第一次的概念的感受との統合によって評価された物理的感受があり、対比された第二次的概念的感受との統合があり、概念的対比の導入による主体的強度の尺度の高揚があり、そして対比を導入する新奇な要因であることの理由による、この高められた強度の逆転された感受への集中がある。物理的目的はこうして、(一)それによって二次的概念的感受が生じる概念的逆転の範疇によって、(二)それによって概念的感受が物理的感受として伝達されうる変換の範疇によって、(三)それによって二つの概念的感受の主体的形相が主体的目的を獲得するために調整される主体的調和の範疇によって、(四)それによって目的が、近接する同一性の理由によって統合され逆転の理由によって対比された感受から、均衡の取れた強度の達成へと決定される主体的強度の範疇によって、統べられる複合的性格を、創造性に提供する。

  補遺

持続的対象がこの複合的な物理的目的によって相続を統べられるその継起する諸機会において、逆転された概念的感受は物理的感受として次の機会へと伝達され、元の物理的感受のパターンがいまや逆転された概念的感受における与件として再現する。したがって生活史の経路に沿って、継起する諸機会の物理的感受における対比の連鎖がある。この連鎖は物理的感受の鮮やかな対比として相続され、それぞれの機会において、その第一次的な評価をもつ物理的感受が、逆転された概念的感受との対比のうちにある。したがって持続的対象は、相続と新奇な効果との対比から生じる高められた強度を獲得し、またその生活史全体を通じたその安定したリズム的性格の結合された相続から生じる高められた強度をも獲得する。それは反復の重み、対比の強度、そして対比の二要因のあいだの均衡をもつ。この仕方で、持続とリズムおよび物理的振動との連合が説明される。それらは強度と安定性のための諸条件から生じる。主体的目的は、一般的な設計の統一のうちで、その対比とともに広さを求めている。強烈な経験は美的事実であり、その範疇的条件は個別の諸芸術における美的法則から一般化されるべきものである。物理的目的と、知的感受によって導入される意識的目的とのあいだには、知的感受との連合によってその主体的形相に意識を獲得していない命題的感受が横たわっている。そのような命題的感受は、純粋に物理的な段階と意識的な知的操作の段階との中間にある、存在の一段階を印づける。命題は感受のための誘因であり、感受に、物理的感受から物理的目的への空白の評価には欠けている、享受と目的の確定性を与える。この空白の評価においては、われわれはもっぱら、現実的存在の構成的感受の比較的な創造的効力の決定をもつにすぎない。命題的感受においては、述定的パターンの評価の「保留」――あるいはその原初の意味において「エポケー」――があり、それはさもなければ経験における確定的要素として感受される確定した論理的主語への、その適切性に関するものである。この純然たる事実をめぐる情動的パターンの停止が、可能性として、その未来への適切性における対応する判明さの獲得とともにある。超越的創造性のための特殊な可能性――主体から主体への前進という意味における――このような特殊な可能性が選び出され、保留され、情動をまとわされたのである。命題的感受が知的感受を離れて重要である存在の段階は、ベルクソンの純粋で本能的な直観の段階と同一視できるかもしれない。したがって三つの段階がある――純粋な物理的目的の段階、純粋な本能的直観の段階、そして知的感受の段階である。しかしこれらの段階は鋭くは区別されない。命題的感受が重要性のあらゆる段階をもつ段階があり、知的感受が重要性のあらゆる段階をもつ段階がある。またより高次の段階においてさえ、最終的な満足において、それ自身固有の段階――物理的あるいは命題的――の性格のみを獲得する、感受の全区域がある。

第四部 拡がりの理論

 第一章 座標的分割

  第I節

現実的存在の満足を構成的感受へと「分割」する仕方には、発生的と座標的という二つの異なる仕方がある。発生的分割は癒合の分割であり、座標的分割は具体のものの分割である。「発生的」様態においては、抱握はたがいへのその発生的関係において示される。現実的存在は過程として見られる――相から相への成長があり、統合と再統合の過程がある。最終的に、対応する複合的な主体的形相をもって感受される、現実的存在・永遠的客体・命題の対比という装いにおける、客観的与件の複合的統一が得られる。この相から相への発生的推移は物理的時間のうちにはない――まさにその逆の観点が、癒合の物理的時間への関係を表現する。それは短く、物理的時間は成長のいくつかの特徴を表現するが、特徴の成長を表現しない、と言うことで述べられる。最終の完全な感受が「満足」である。物理的時間は「満足」の「座標的」分析において姿を現す。現実的存在とは、ある確定した量の物理的時間の享受である。しかし発生的過程は時間的継起ではない――そのような見解こそが、時間のエポック的理論によって否定されているものである。発生的過程における各相は、その全体の量子を前提しており、それぞれの相における各感受もそうである。過程を支配する主体的統一は、主体的目的の第一次相とともに始発する、その延長的な量子の分割を禁じる。癒合を支配する問題は、その量子を〈全体として〉現実化することである。この量子とは、神からのその原初的な派生において、主体的目的と調和する、延長的連続体におけるその立脚点である。ここで「神」とは、その理由によって物理的「法則」がある、世界におけるあの現実性である。量子には時間的要素と同様に空間的要素もある。したがって量子は一つの延長的な領域である。この領域は、癒合が前提する確定的な基盤である。この基盤は、新奇な癒合にとって可能な、現実世界の客体化を統べる。満足の座標的可分性とは、この領域の可分性へのその関係において考察された「満足」である。癒合はその基礎的な領域を前提するのであり、その領域が癒合を前提するのではない。したがって癒合の主体的統一は、その領域の可分性には無関連である。領域を分割するとき、われわれはそのような分割と矛盾する主体的統一を無視している。しかしその領域は、結局のところ、発生的成長においては未分割であるとしても、可分的である。したがってこの未分割な領域の可分的性格は、満足の性格のうちに反映される。満足を座標的に分割するとき、われわれは〈ある〉感受を見出すのではなく、〈ありうるかもしれない〉感受を見出す。同様に、領域の分割は〈ある〉分割ではなく、〈ありうるかもしれない〉分割である。延長的領域のこのような分割の様式それぞれが「延長的量子」を生む――また「延長的量子」は「立脚点」とも呼ばれてきた。この「立脚点」という観念はいまや簡潔に説明されねばならない。この観念は三つの結びついた学説への言及をもつ。第一に、問題の直接の癒合する現実性からその限定を受け取るものとしての「現実世界」の学説がある。それぞれの現実的存在は、それ自身に固有の現実世界から生じる。第二に、それぞれの現実世界を一つの「媒体」とする学説がある。この学説によれば、もしSが問題の癒合する主体であり、AとBがその現実世界における二つの現実的存在であるなら、AはBの現実世界のうちにあるか、BがAの現実世界のうちにあるか、あるいはAとBが同時代者であるかのいずれかである。もしたとえばAがBの現実世界のうちにあるなら、直接の主体Sにとって、(一)SにおけるAの直接の客体化と、(二)BにおけるAとSにおけるBという客体化の連鎖の理由による間接の客体化とがある。そのような連鎖は、AとSのあいだの多くの中間的な現実性を含めることによって、いかなる長さにも延長できる。第三に、「決定された」諸条件は決して自由を締め出すようなものではない、ということに注意されねばならない。それらはただそれを限定するにすぎない。直接の決定のために常に開かれたままの偶発性がある。この考察は、直接に新奇な癒合のための諸条件を決定すべき「〈その〉現実世界」に関する非確定性によって例証される。その限定に関しては、直接の決定のために残された代替案がある。いくつかの現実的存在は、直接の決定にしたがって、決着した過去にあるか、同時代の結合体にあるか、あるいは未決定の未来にすら委ねられるか、のいずれかでありうる。また継起する客体化の間接的な連鎖も、そのような選択にしたがって修正されるだろう。これらの代替案は、新奇な癒合の基盤として選ばれるべき、拡がりの特定の量子に関する非決定によって表される。

  第II節

満足の座標的分割が「分離しているかもしれない感受」であるという意味が、いまや論じられねばならない。そのような座標的分割はそれぞれ、基礎的領域の確定した副領域に対応する。それは、その副領域の立脚点から見た現実世界の統一化された感受という性格をもつ、満足の構成要素を表現する。この限定された立脚点からの現実世界の客体化に関するかぎり、この座標的分割を現実的存在から区別するものは何もない。しかしこのように可分的であるのは、現実的存在の物理的極のみである。精神的極は治しがたく一である。したがってこの座標的分割の主体的形相は、完全な領域に関わり、問題の副領域には限定されない概念的感受の始発から派生する。言い換えれば、概念的感受は現実的存在全体に関わるのであり、問題の座標的分割には関わらない。したがって座標的分割の発生的派生の全経過は、限定された客観的与件の単なる物理的感受から生じる、感受の癒合を統べる範疇的条件への言及によっては説明できない。精神的極の始発的なエネルギーは、その概念的抱握が主体的形相を調整し再調整し、それによって「満足」に終わる統合の特定の様態を決定する、その衝動を構成する。精神的極が独創性に関して些細であるかぎり、(実際に分離しているものとして取られた)座標的分割において説明できないものは、それによって些細になる、ということは明らかである。したがって低い等級の現実的存在に関する多くの抽象にとって、座標的分割は、それが派生するもとの現実的存在と同じ水準にある現実的存在であるという性格に近づく。したがって、座標的分割と真の現実的存在との区別が関連するか否かは、特殊な主題に関して決定されるべき経験的な問いである。それが関連しないかぎり、われわれは無限定に細分可能な延長的宇宙を扱っている。座標的分割はこうして類的対比として分類されるべきである。この対比の二つの構成要素は、(一)親の現実的存在、(二)限定された副領域の物理的立脚点から生じたものとしてのその超主体の潜勢態である命題、である。したがって命題とは、限定なしの言明においては、親の存在の物理的極から、その立脚点から導出可能な要素を除くあらゆる客体化された現実世界を除去しつつ、なお主体的形相の関連する要素を保持する、その潜勢態である。限定なしの命題は偽である。というのも、事実上働いている精神的極は、その命題の仮説のもとでの精神的極ではないだろうからである。しかし多くの目的にとって、命題の虚偽性は無関連である。命題は非常に複合的であり、問題の主題に応じた関連する限定とともに、真理を表現する。言い換えれば、限定なしの偽なる命題は、無限定な数の真なる限定された命題がそこから導出されうる行列である。要求される限定は問題の特殊な主題に依存し、その主題に関連して、限定なしの命題の適用の限界を表現する。限定なしの命題は現実世界の無限定な可分性を表現し、限定はこの原理の無防備な使用によって見失われる世界の特徴を表現する。現実世界は原子的である。しかしある意味では無限定に可分的である。

  第III節

原子的な現実的存在は個別に宇宙の発生的統一を表現する。世界は、それ自身の反復的な統一化を通じて拡張し、それぞれが、それ自身の付加によって、多性を自動的に新たに再創造する。それぞれの原子的な現実性の無限定な座標的可分性によって導入される、もう一つの型の無限定な多性は、少なくともある目的にとって、現実世界が単なる無限定な多性として捉えられるべきである、ということを示すように見える。しかしこの結論は、割って入る「延長的秩序」の原理によって限定される。多くの原子によって表現される世界の原子的統一は、いまや延長的連続体の連帯性によって置き換えられる。この連帯性は、それぞれの原子的現実性内部の座標的分割だけでなく、あらゆる原子的現実性のたがいからの座標的分割をも、一つの関係の図式のうちに示す。前章(第二部第八章第Ⅳ節〜第Ⅸ節)において、世界が影響の伝達のための一つの媒体として捉えられうる、その意味が論じられた。先行する現実性Aの代替的な客体化が、後続の現実性Bの構成のうちに間接的に受け取られうる、そのような伝達の多様な経路のこの秩序だった配置が、多様な現実的存在間の延長的関係性の基盤である。しかしこの〈外的〉な延長的関係性の図式は、それぞれの現実的存在に〈内的〉な内的分割の図式と結びつく。この仕方で、(一)原子的現実性を一つの結合体へと統合する絆が従う一般的諸条件と、(二)いかなる現実的存在の満足の無限個の座標的細分を統合する絆が従う一般的諸条件とを、一つの均一な計画のうえで表現する、延長的結合の一つの基礎的図式がある。(二)の例として、Pが現実的機会Aの座標的分割であると仮定しよう。そのときPは、その発生的始発の第一相における始発的与件を形成する、それ自身の現実世界をもつ一つの現実的機会として思念できる。実際、Pは、この立脚点をもつ癒合の仮説的過程の仮説的満足である。Aの他の座標的分割は、Pにとっての「現実世界」のうちにあるか、Pと同時代的であるか、Pの座標的分割であるか、あるいは、それらのそれぞれが上述の三つの関係のいずれか一つをPに対してもつような抱握Q1、Q2……へと座標的に可分的であるという性質によって表現される、Pへの複合的な関係をもつかのいずれかである。さらに、満足の座標的感受への単に潜勢的な細分に加えて、現実的存在の一つの超現実性への単に潜勢的な集約があり、それに関して真の現実性が座標的細分の役割を演じる。言い換えれば、ある目的にとって、一つの原子的現実性がまるで多くの座標的現実性であるかのように扱われうるのとちょうど同じように、他の目的にとって、多くの現実性の結合体が、まるでそれが一つの現実性であるかのように扱われうる。これは、われわれが分子の生の広がり、あるいは一片の岩、あるいは人間の身体の場合において、習慣的に行っていることである。この延長性は、世界の有機体の形態学的構造が従う、行きわたった類的な形式である。これらの有機体には二つの型がある――一つの型は個々の現実的存在から成り、もう一つの型は現実的存在の結合体から成る。両方の型は、その共通の延長性によって相関づけられる。もしわれわれが現実的存在の座標的部分への細分に注意を限定するなら、われわれは延長性を、「全体と部分」――すなわち「延長的全体と延長的部分」――という観念からもっぱら導出されたものとして思念するだろう。これが、この主題についての私の以前の二つの研究において取られた見解であった。この出発点の欠陥は、それらの著作において展開された「延長的抽象の方法」が、「持続」の理論の介入なしには一つの「点」を定義できなかった、という事実において報復した。この仕方で、「持続」の〈性質〉であるべきだったものが、点の定義となった。このアプローチの様式によって、たがいに外的な現実的存在の延長的関係は背景へと押しやられた――それらが等しく根本的であるにもかかわらず。その日付以降、ド・ラグーナ教授は、「延長的結合」というやや一般的な観念が延長の探究の出発点として採用されうること、そしてより限定された「全体と部分」という観念がその言葉で定義されうることを示した。この仕方で、ド・ラグーナ教授が示したように、他の考察に頼ることなく、点の定義における私の困難は克服されうる。この全体の問いは本部の続く章で探究される。またそこでわたしは、測定や持続への言及なしに、純粋に延長的な原理の言葉で、直線の定義、そして一般に「平坦な」場所の定義を与える。

  第IV節

物理的機会であるというその性格における現実的存在は、現実世界の他の物理的機会についての盲目的な知覚性の行為である。そのような機会を、与えられた存在として形態学的に考察するとき、その知覚的絆は、それ自身の立脚点の延長的可分性の理由によって、そして他の現実的機会の延長的可分性の理由によって、可分的である。したがってわれわれは、知覚者の基礎的領域の一つの副領域と、知覚される者の基礎的領域の一つの細分とを含む、知覚的絆に到達する。これらの副領域のあいだの関係は、伝達の過程における作用主体として機能する中間の領域の地位を含む。言い換えれば、一方の副領域から他方の遠近法は、延長的関係が、媒体としてのその機能作用における現実世界に課された諸条件を表現する、という事実に依存する。これらの延長的関係は、〈何が〉伝達されるかを確定的にするのではない。しかしそれらは、あらゆる伝達が従わねばならない条件を確定する。それらは、あらゆる現実的機会がそこから〈生じる〉実在的潜勢態に含まれる、体系的図式を表す。この図式はまた、あらゆる現実的機会が〈である〉ところの達成された事実のうちにも含まれる。「延長的」図式とは、現実的機会を一つの結合体へと結びつける内的関係の類的形態学、そしていかなる一つの現実的機会の抱握をも座標的に可分的な一つの統一へと結びつける、内的関係の類的形態学にほかならない。デカルトにとって物理的物体の第一次的な〈属性〉は〈延長〉であるが、有機体の哲学にとって物理的機会の第一次的な〈関係性〉は〈延長的結合〉である。この窮極の関係性はそれ自身に固有のものであり、定義することも説明することもできない。しかしその形相的な性質は述べることができる。またこれらの形相的性質に鑑みて、形態学的構造の表現において重要な、定義可能な派生的観念がある。座標的可分性のある一般的性格は、おそらく窮極の形而上学的性格であり、物理的機会のあらゆる宇宙時代において持続する。したがってここで述べられた延長的結合のより単純な性格のいくつかは、おそらくそのような窮極の形而上学的必然性である。しかし次章で考察される性格を検討するとき、われわれがいかなる代替案も思念できないほど一般的な性格と、単にわれわれの宇宙時代にのみ属すると想像する、あまりに特殊な性格とを区別する線を引くことは難しい。そのような時代は、われわれの能力に対して、時間的にも空間的にも計り知れない広がりをもつかもしれない。しかし事物の窮極の本性への言及においては、それは限定された結合体である。その結合体を超えて、われわれの経験のうちで実現されず、われわれの想像力によって予見されない、新しい関係性をもつ存在が姿を現し、宇宙に新しい型の秩序を導入するだろう。しかしわれわれの時代にとっては、そのさまざまな性格をもつ延長的結合が、物理的世界が適切に一つの共同体として記述されるゆえんの、根本的な有機的関係性である。延長的図式の外側には重要な物理的関係性はない。物理的世界における一つの現実的機会であるとは、問題の存在がこの延長的結合の図式における一つの関係項であることを意味する。この時代においては、この図式が物理的に現実的なものを定義する。この図式のより窮極的な側面――おそらく形而上学的に必然的な側面――は、延長的な全体と延長的な部分との相互含意の考察によって、直ちに明らかになる。もしあなたが全体を廃棄すれば、あなたはその部分を廃棄する。もしあなたが何らかの部分を廃棄すれば、〈その〉全体は廃棄される。拡がりのこの状態の一般的記述において、物理的時間や物理的空間について、あるいはより一般的な創造的前進という観念について、何も述べられてこなかった。これらは、より一般的な拡がりの関係性を前提する観念である。それらは現実的機会についての追加的な事実を表現する。空間の延長性とは実は拡がりの空間化であり、時間の延長性とは実は拡がりの時間化である。物理的時間は、発生的可分性の座標的可分性への反映を表現する。単なる拡がりに関するかぎり、空間は、われわれの現在の時代の慎ましい三次元の代わりに、三百三十三次元をもってもよいだろう。空間の三次元は、物理的機会についての追加的な事実を形づくる。実際、次元の正確な数を離れた、空間の純然たる次元性そのものが、単なる拡がりの観念には含まれない、そのような追加的な事実である。また時間の系列性――単一であれ多重であれ――も、拡がりという単一の観念からのみでは導出できない。有機的な延長的共同体としての自然という観念は、自然が決して完結しない、という等しく本質的な観点を見落としている。それは常にそれ自身を超えて過ぎ去りつつある。これが自然の創造的前進である。ここでわれわれは時間の問題に至る。ここで注意すべき直接に関連する点は、時間と空間が拡がりの図式を前提する自然の性格である、ということである。しかし拡がりはそれ自体としては、物理的時間と物理的空間に関して真であるような特殊な事実を決定しない。

  第V節

座標と発生の考察は、本章でこれまで論じられたよりも広い問いを提起する。「抱握」の理論は、自然の「二分」に対する抗議を体現する。それはそれ以上のものさえ体現する――その抗議は現実性の二分に対するものである。現実性の分析において、公共性と私秘性とのあいだの対立は、あらゆる段階において自らを押し出してくる。問題の事実を超えたものへの言及によってのみ理解されうる要素があり、問題の事実の直接の、私的な、個人的な、個体性を表現する要素がある。前者の要素は世界の公共性を表現し、後者の要素は個体の私秘性を表現する。事物の公共性に関して考察された現実的存在は「超主体」である――すなわちそれは、それが見出す公共性から生じ、それが伝達する公共性へとそれ自身を付け加える。それは、決着した公共の事実から新奇な公共の事実への、通過の一瞬間である。公共の事実は、その本性上、座標的である。事物の私秘性に関して考察された現実的存在は「主体」である――すなわちそれは、自己享受の発生の一瞬間である。それは、その公共性の理由によって手元にある素材からの、目的をもった自己創造から成る。永遠的客体も同じ二重の言及をもつ。事物の公共性に関して考察された永遠的客体は「普遍」である――すなわちそれ自身の本性において、それはそれ自身がそれらに含意されているその経験的な詳細のいかなる開示もなしに、世界の一般的な公共の事実に言及する。それ自身の存在としての本性は、あらゆる詳細な現実性における進入――肯定的であれ否定的であれ――を要求する。しかしその本性は、いかなる現実性の私的な詳細をも開示しない。事物の私秘性に関して考察された永遠的客体は「性質」あるいは「特性」である――すなわちそれ自身の本性において、いかなる現実性においても例証されるものとして、それはその現実性の私的な確定性における一要素を構成する。それはそれ自身を公共的に指示するが、私的に享受される。抱握の理論は、単に公共的であるにすぎない、あるいは単に私的であるにすぎない、具体的な事実というものはない、という学説に基づいている。公共性と私秘性とのあいだの区別は理性の区別であり、相互排他的な具体的事実のあいだの区別ではない。現実性がそれによって分析されうる唯一の具体的事実は抱握である。そしてあらゆる抱握はその公共的な側面とその私的な側面とをもつ。その公共的な側面は抱握された複合的な与件によって構成され、その私的な側面は、それを通じて私的な質が公共の与件に課される主体的形相によって構成される。知覚的事実の情動的事実からの分離、そして因果的事実の情動的事実からの、また知覚的事実からの分離、そして知覚的事実、情動的事実、因果的事実の、目的的事実からの分離は、満足のいく宇宙論にとって致命的な、二分の複合体を構成してきた。自然の事実は現実性であり、現実性がそこへと可分的である事実は、その公共の起源・その私的な形相・その私的な目的とともに、それらの抱握である。しかし現実性は公共性の新奇な段階への通過の瞬間であり、抱握の座標化は、それが私的な発生から抽象されて考察されうるかぎりにおいて、世界の公共性を表現する。抱握は公共のキャリアをもつが、私的に生まれる。

  第VI節

公共性と私秘性とのあいだの対立は、現実的存在への進入の第一次的な様態にしたがった永遠的客体の分類のうちに反映される。永遠的客体は、現実的存在の癒合において三つの仕方のうちの一つでのみ機能できる――(一)それは、感受の与件である何らかの客体化された結合体、あるいは何らかの単一の現実的存在の確定性における一要素でありうる。(二)それは、何らかの感受の主体的形相の確定性における一要素でありうる。あるいは(三)それは、概念的あるいは命題的感受の与件における一要素でありうる。他のあらゆる進入の様態は、これらの様態を前提する統合から生じる。いまや第三の様態は、単に、他の二つの様態のいずれかにおける潜勢的な進入の概念的評価にすぎない。それは現実性への実在の進入であるが、限定を付与するというその機能の直接の実現を差し控える単なる潜勢態をもつ、限定された進入である。前の二つの進入の様態はこうして、永遠的客体の機能作用が無限定に実現される仕方を構成する。しかしいまやわれわれは、いずれの様態も、それぞれの永遠的客体に無差別に開かれているかどうかを問う。答えは、永遠的客体の二つの種――「客観的」種と「主観的」種――への分類である。客観的種の永遠的客体は、第一の様態においてのみ進入を得ることができ、決して第二の様態においては得られない。それは、その無限定な実現において常に、問題の主体に属する感受の与件である現実的存在あるいは結合体の確定性における一要素である。したがってこの種の一員は、関係的にのみ機能できる――その本性の必然性によって、それはある現実的存在あるいは結合体を、別の現実的存在の真の内的構成のうちに導入している。その唯一の職務は客体化における作用主体であることである。それは決して主体的形相の確定性における一要素ではありえない。世界の連帯性は、この種の永遠的客体の治しがたい客体性に基づいている。この種の一員は不可避的に、直接の主体のうちに他の現実性を導入する。それが外部世界に投資する確定性は、客体化された現実性の真の内的構成に適合するかもしれないししないかもしれない。しかし適合的であれ非適合的であれ、それがその現実的存在にとってのその結合体の性格である。これは実在の物理的事実であり、その物理的帰結をともなう。客観的種の永遠的客体は数学的なプラトン的形相である。それらは媒体としての世界に関わる。しかし上で(第二部第八章第III節)与えられた感覚与件の記述は、主観的種のいくつかの成員を含むだろう。主観的種の一員は、その第一次的な性格において、感受の主体的形相の確定性における一要素である。それは感受が感受しうる確定した仕方である。それは情動であり、強度であり、向性であり、反発であり、快であり、苦である。それは一つの現実的存在の感受の主体的形相を限定する。A1は、AがBに対して客体化される、Aの構成のその構成要素かもしれない。したがってBがA1を感受するとき、それは「その感受をもったA」を感受する。この仕方で、Aの感受の確定性に寄与する永遠的客体は、AについてのBの抱握における客観的与件としてのAの確定性に寄与する永遠的客体となる。永遠的客体はそのとき、主体的にも相対的にも機能できる。それは主体的形相における私的な要素でありうると同時に、客体化における作用主体でもありうる。この後者の性格において、それは変換の範疇の作用のもとに入り、知覚者にとって客体化された結合体の特性となりうる。Bの物理的感受の第一相において、Bの感受の主体的形相はAの感受の主体的形相に適合する。したがってBの経験におけるこの永遠的客体は、二方向の機能様態をもつだろう。それはBにとってのAの限定者のうちに数えられ、またAへのBの共感の仕方の限定者のうちにも数えられるだろう。物理的エネルギーの強度は永遠的客体の主観的種に属するが、エネルギーの流れの特異な形相は客観的種に属する。たとえば「赤さ」は、まずAの経験における主体的形相である情動の確定性でありうる。それからそれは、AがBに対して客体化される作用主体となり、それによってAはこの情動をともなうその抱握に関して客体化される。しかしAは一つの結合体のただ一つの機会にすぎないかもしれず、その各成員が、類比的な主体的形相をもつ抱握によってBに対して客体化される。そのとき変換の範疇の作用によって、結合体は「赤さ」という特性によって例証されるものとしてBに対して客体化される。結合体はまた、客観的種の永遠的客体である、その数学的形相によっても例証されるだろう。

  第VII節

現実的存在の座標的分割によって導入される感受――あるいはより正確には、擬似感受――は、その感受を抱懐する主体の適切な地位を除去する。感受の主体的形相は、主体の統一から生じる範疇的要求によってのみ説明可能だからである。したがって現実的存在の座標的分割は、その主体的形相が部分的に除去され部分的に説明不可能であるような感受を産出する。しかしこの分割の様式は、客観的種の永遠的客体によって導入される確定性の要素を歪めることなく保存する。したがって、これらの感受の関係性がその説明のために主体的形相への訴えを要求するかぎり、その間隙は、強度の関係を規制する自然の恣意的な法則の導入によって埋められねばならない。あるいは代替的に、主体的形相は、物理的自然においては無効でありながら、有効な重要性を主張する、恣意的な随伴現象的な事実となる。

 第二章 延長的結合

  第I節〜第II節

本章では「延長的結合」と呼ばれる物理的関係性の主要な性格を列挙する。またわれわれの物理的経験にとって重要な派生的観念をも列挙する。この重要性は、列挙される性格にその起源をもつ。派生的観念の定義は、単なる定義としては、その性格がいかなるものであれ、いかなる関係性の図式にも等しく適用可能である。しかしそれらが重要性をもつのは、問題の関係性が、ここで延長的結合について列挙される性格をもつときにのみである。ここでは、これらの列挙された性格を、残りが厳密な演繹によって導出されうる論理的極小へと還元する試みはなされない。残りがそこから導出されうる、唯一の論理的極小の組というものは存在しない。そのような組は多数ある。簡潔のため「結合」「結合された」という語が「延長的結合」「延長的に結合された」の代わりに用いられる。「延長的結合」の図式に関わる関係項に対しては「領域」という語が用いられる。二つの領域が「媒介的に」結合されるのは、両者が第三の領域と結合されているときである。結合と媒介的結合はいずれも対称的な関係である。ある領域が他の領域を「包含する」と言われるのは、後者と結合されたあらゆる領域が前者とも結合されているときであり、この場合、後者は前者の「部分」であると言われる。この「包含」の定義はド・ラグーナ教授によるものであり、拡がりの理論への重要な付加を構成する。包含する二つの領域は結合されており、包含の関係は推移的であり、いかなる領域もそれ自身を包含しない。包含は非対称的である――AがBを包含するなら、BはAを包含しない。あらゆる領域は他の領域を包含し、そのように一つの領域に包含された一対の領域は必ずしもたがいに結合されているとはかぎらない。二つの領域が「重なり合う」と言われるのは、両者が共に包含する第三の領域があるときである。重なり合いの関係は対称的であり、一方が他方を包含するならその二領域は重なり合い、重なり合う二領域は結合されている。ある与えられた領域の「切断」とは、その領域に含まれる領域の集合であって、いかなる二つの成員も重なり合わず、その領域に含まれながらその集合の成員でない領域は、その集合のいずれか一つの成員に含まれるか、あるいは複数の成員と重なり合うかのいずれかであるようなものである。任意の与えられた領域には多くの切断があり、ある領域の切断は他のいかなる領域の切断でもない。重なり合う二つの領域AとBの「交叉」とは、AとBの両方に含まれるか、あるいは両者の一方でありながら他方に含まれるかのいずれかであり、かつ、AとBの両方に含まれる他のいかなる領域も、それに含まれることなしにそれと重なり合うことができないような領域である。二つの領域の交叉がただ一つであるとき、それらは「唯一の交叉」をもって重なり合うと言われ、複数あるとき「多重の交叉」をもって重なり合うと言われる。二つの領域が「外的に」結合されるのは、両者が結合されており、かつ重なり合わないときである。この定義の可能性は、私が最初の出発点とした「延長的な全体と延長的な部分」よりも、ド・ラグーナ教授の出発点である「延長的結合」を採用することから得られる、もう一つの利点である。外的結合の観念は、まだ触れられていない「表面」という観念の精緻化への大きな一歩である。ある領域Bが領域Aに「接触的に」含まれるのは、BがAに含まれ、かつAとBの両方に外的に結合された領域があるときであり、「非接触的に」含まれるのは、BがAに含まれ、かつAとBの両方に外的に結合された第三の領域がないときである。これら三つの定義がこの段階で可能であることこそが、ド・ラグーナ教授の「延長的結合」という観念から出発することによって得られる利点を構成する。

  第III節

領域の集合が「抽象的集合」と呼ばれるのは、その集合の任意の二成員が、一方が他方を非接触的に包含するようなものであり、かつ、その集合のあらゆる成員に含まれる領域がないときである。あらゆる領域は他の領域を包含し、包含の関係は推移的であるから、あらゆる抽象的集合が無限個の成員から構成されねばならないことは明らかである。三次元空間という特殊な事例への言及によって、抽象的集合が異なる型の収束をもちうることが分かる。この場合、抽象的集合は点へ、あるいは線へ、あるいは面へと収束しうる。しかしわれわれはまだ点も線も面も定義していないこと、そしてわれわれはそれらを抽象的集合の言葉で定義しようとしていることに注意されたい。したがってわれわれは、点・線・面という観念への言及なしに、抽象的集合のさまざまな型を定義しなければならない。抽象的集合αが抽象的集合βを「覆う」と言われるのは、αのあらゆる成員がβのいくつかの成員を含むときである。それぞれの抽象的集合は、包含の関係によって決定される系列的な順序をもつ成員とともに思念されるべきである、ということに注意されたい。その系列は任意の大きさの領域から始まり、いかなる極限領域もなしに、ますます小さな領域へと限りなく収束していく。二つの抽象的集合が「等価」であると言われるのは、それぞれの集合が他方を覆うときである。抽象的集合の「幾何学的要素」とは、その集合と等価であるすべての抽象的集合から成る、完全な集合である。ある抽象的集合を覆う抽象的集合はいずれも、その要素のあらゆる成員をも覆い、ある幾何学的要素のいずれかの成員によって覆われる抽象的集合は、その要素のあらゆる成員によっても覆われる。幾何学的要素aが幾何学的要素bに「内在する」と言われるのは、bのあらゆる成員がaのあらゆる成員を覆い、かつaとbが同一でないときである。いかなる幾何学的要素もそれ自身には内在しない。幾何学的要素aが幾何学的要素bに内在するとき、aの成員はbの成員よりも「鋭い収束」をもつと言われよう。幾何学的要素が「点」と呼ばれるのは、それに内在するいかなる幾何学的要素もないときである。この「点」の定義は、ユークリッドの定義――「点とは部分をもたないものである」――と比較されるべきである。点であるような抽象的集合の成員は「点的」と呼ばれる。幾何学的要素が二点PとQのあいだの「線分」と呼ばれるのは、その成員が、点PとQがそれに内在するという条件に関して「第一次的」であるときである。そのような点はその線分の「端点」と呼ばれる。線分の成員である抽象的集合は「線分的」と呼ばれる。同じ端点をもつ多様な異なる線分があるが、一つの線分はただ一組の端点しかもたない。幾何学全体の理論は、ただ一つの第一次的幾何学的要素に対応する条件の発見に依存する。ギリシア人は、その通常の幸運な直観によって、直線と平面という観念のうちに、そのような条件をたまたま見出した。しかし他の時代においては、この性質をもつ広く異なる型の条件が重要でありうると信じるあらゆる理由がある――おそらくこの時代においてさえも。それらの発見は明らかに第一の重要性をもつ。近代のアインシュタイン的な物理学の再構築は、自然のうちでこの種の異なる型の条件が織り合わされていることの発見として捉えるのが最善であるかもしれない。

  第IV節

ある点がある領域に「位置づけられる」と言われるのは、その領域が、その点を構成する点的抽象集合のうちの一つの成員であるときである。もし点がある領域に位置づけられるなら、その点を構成するさまざまな抽象的集合の収束する末端に十分に下った領域は、その領域に非接触的に含まれる。ある点が領域の「表面」に位置づけられると言われるのは、それが位置づけられるあらゆる領域が、その領域と重なり合うが、それに含まれないときである。「完全な場所」とは、(一)ある領域に位置づけられるすべての点、あるいは(二)ある領域の表面に位置づけられるすべての点、あるいは(三)ある幾何学的要素に内在するすべての点、のいずれかから構成される点の集合である。「場所」とは常に「点の場所」を意味する。完全な場所がある領域に位置づけられるすべての点から成るとき、それはその領域の「体積」と呼ばれる。完全な場所がある領域の表面にあるすべての点から成るとき、その場所自体はその領域の「表面」と呼ばれる。完全な場所が端点のあいだの線分に内在するすべての点から成るとき、その場所はそれらの端点のあいだの「線状の広がり」と呼ばれる。体積と領域とのあいだ、表面と領域とのあいだ、そして線状の広がりと線分とのあいだ、そしていかなる幾何学的要素とそれに内在する点の場所とのあいだにも、一対一の対応がある。もし二点がある与えられた体積のうちにあるなら、それらの点をつなぐ線状の広がりがあり、その点はすべてその体積のうちにある。もし二点がある与えられた表面のうちにあるなら、それらの点をつなぐ線状の広がりがあり、その点はすべてその表面のうちにある。もし二点がある与えられた線状の広がりのうちにあるなら、それらの点を端点とし、その点が完全にその与えられた線状の広がりのうちにある線状の広がりが、ただ一つだけある。「体積」と「表面」という語は、体積が三次元であることや表面が二次元であることを意味することを意図していない、ということに注意すべきである。われわれの時代の現存する物理的世界へのこの拡がりの理論の適用においては、体積は四次元であり、表面は三次元である。しかし線状の広がりは一次元である。

 第三章 平坦な場所

  第I節

数学の厳密な観念への依存とともにある近代の物理科学は、ギリシア幾何学の基礎から始まった。ユークリッド『原論』の最初の定義は「点とは部分をもたないものである」というものであり、第二の定義は「線とは幅のない長さである」というものであり、第四の定義は「直線とは、それ自身のうちにある点とともに均等に横たわる、いかなる線でもある」というものである。ヒースはこの第二の定義を「プラトン学派に、あるいはプラトン自身にさえ」帰している。ユークリッドの第一の「公準」は「任意の点から任意の点へ直線を引くことができるように要請せよ」というものであり、ヒースはこの公準が「存在」と「一意性」の両方を含意することを意図していたと指摘する。これらの言明がギリシア科学のうちに現れるとき、「形相」と具体的な物理的事物とのあいだに混乱が生じる。幾何学は物理的事物のある種の形相を探究する目的から始まる。しかしその「点」と「線」の始発的な定義において、それはただちに、きわめて特異な性格をもつある種の窮極の物理的事物を要請しているように見える。プラトン自身、この混乱についてある種の疑いをもっていたように見える――彼が「点を独立した一類の事物として認めることに反対した」ときである。彼はさらに進んで、点・線・面という幾何学的存在すべてに対して同じ反対をなすべきだったろう。彼は「形相」を欲したが、新しい物理的存在を手に入れたのである。前章によれば、「延長」は「延長的結合」の言葉で解されるべきである――すなわち延長とは、結合体の現実性のあいだの関係性の一形相である。点は、ある種の「形相」をもつ現実的存在の結合体であり、「線分」もそうである。したがって幾何学とは、結合体の形態学の探究である。

  第II節〜第III節

直線についてのユークリッドの定義の弱点は、そこから何も演繹されなかった、という点にある。「均等に」あるいは「均等に置かれて」という句によって表現される観念は定義を要求する。その定義は、二点のあいだの直線分の一意性がそこから演繹されうるようなものであるべきである。これらの要求のいずれも満たされたことはなく、その結果、近代においては「直線性」という観念は測定のそれに基づかされてきた。直線は近代においては、二点間の最短距離として定義されてきた。古典幾何学においては逆の手続きが取られ、測定は直線を前提していた。しかし近代の定義においては、「最短距離」という観念自体が説明を要求する。この観念は実質的に、ある種の物理的出来事の経路である線を意味するものとして定義される。ここで、旧来の古典理論における間隙が修復されうることが示されるだろう。直線は前章で展開された延長的観念の言葉で定義され、二点を結ぶ直線の一意性は、その定義の言葉から従うことが証明されるだろう。まず「卵形」領域の一類が定義されねばならない。この定義のためにわれわれがもつ唯一の武器は、唯一の交叉をもって重なり合う領域という観念である。卵形の対がただ唯一の交叉をもって重なり合いうることは明らかに一つの性質である。しかし卵形でないいくつかの領域もまた唯一の交叉をもって重なり合うことは、等しく明らかである。しかし卵形の〈類〉は、その成員でないいかなる領域も、いくつかの卵形と多重の交叉をもって重なり合う、という性質をもつ。そこでわれわれは、卵形の類に属する領域が、たがいに対して、また他の領域に対してもつ関係を列挙することによって、そのような類を定義する――これは「卵形的」類と呼ばれよう。この列挙の過程で、卵形的類を所有する延長的連続体は、その類に関して次元的であることが分かるだろう。したがって延長的連続体における直線の存在は、連続体の次元的性格と結びついており、両方の性格は連続体における特定の卵形的な領域の類に相対的である。卵形的類は非抽象的条件の群と抽象的条件の群という二つの群に分けられる。これらの定義の後者の群の理由によって、問題の延長的連続体は「四次元」と呼ばれる。同様に、いかなる数の次元をもつ延長的連続体も定義できる。この宇宙時代においてわれわれが関わる物理的延長的連続体は四次元である。「次元的」であるという性質は、延長的連続体における特定の卵形的類に相対的である、ということに注意されたい。連続性を前提する型の物理法則は、二つ以上の異なる卵形的類の織り合わされた性質に依存するかもしれない。この卵形的類への言及によって定義された単一の幾何学的要素は、二点のあいだの「直」線分と呼ばれる。もしその点の集合が二点より多くを含むなら、その幾何学的要素は「平坦」と呼ばれる。「直」線分はまた「平坦な幾何学的要素」という呼称のもとにも含まれる。「直線分」に内在する点の場所は、その線分の端点のあいだの「直線」と呼ばれる。平坦な幾何学的要素に内在する点の場所は、その要素の「内容」と呼ばれ、また「平坦な場所」とも呼ばれる。三角形とは、共線でない三点によって定義される平坦な場所であり、平面とは、共線でない点の場所であって、その場所の任意の三つの共線でない成員によって定義される三角形が完全にその場所のうちに横たわり、その場所における任意の有限個の点が、その場所に完全に含まれる何らかの三角形のうちに横たわり、その特徴を失うことなしにいかなる点の集合もその場所に付加できないようなものである。四面体とは、共平面でない四点によって定義される平坦な場所であり、三次元の平坦な空間も類比的に定義される。定義と命題のさらなる展開は、われわれの直接の目的には無関連な数学的細部へと導くだろう。直線・平面・三次元の平坦な空間の特徴的な性質が、測定にいっさい頼ることなく延長的連続体のうちに発見可能である、ということが証明されれば十分である。連続体の体系的性格は、それが一つ以上の卵形的類を所有することに依存する。ここでは「次元的」卵形的類という特殊な場合が考察された。

  第IV節

「外的結合」という観念の重要性は、さらなる議論を要求する。第一に、純粋に幾何学的な問いに注意されねばならない。卵形領域の外的結合の理論は、ユークリッドの「均等性」という概念に光を投げかける。一対の卵形は、一つの「完全な場所」において、あるいは単一の点においてのみ外的に結合されうる。いまわれわれは、外的に結合された一対の卵形の表面に共通する点でありうる、そのような型の「完全な場所」を考察する。一点接触の場合は除外する。この種は、ギリシア人が「均等」という語によって意味していたものに一致するように見える。そのような場所の両側には、一方の卵形の内部と他方の卵形の外部があり、それによってその場所は「凹」と「凸」という対比的な観念に関して「均等」である。あらゆる「均等」な場所は「平坦」であり、あらゆる「平坦」な場所は「均等」である、というのは追加の「仮定」である。議論すべき第二の問いは、「外的結合」の物理的重要性に関わる。現実的存在の原子的性格が認識されないかぎり、ゼノンの論法の方法の適用は、物理科学に君臨する連続的伝達という観念を理解しがたくする。しかし有機体の哲学において採用される「現実的機会」という概念は、物理的伝達についての次のような説明を可能にする。二つの現実的機会が、その「立脚点」を構成する領域が外的に結合されているとき「隣接的」と呼ばれよう。すると、中間の現実的機会の不在の理由によって、先行する機会の後の機会における客体化は特異に完全である。ある与えられた機会において客体化される、先行する隣接的機会の組があるだろう。そしてあらゆる客体化に付随する抽象は、単にこれらの客体化の必要な調和の理由にすぎないだろう。より遠い過去の客体化は「媒介的」と呼ばれよう。隣接的な機会は「直接的」客体化をもつだろう。媒介的な客体化は、継起する直接的客体化のさまざまな経路を通じて伝達されるだろう。したがって科学における連続的伝達という観念は、拡がりの継起する量子の経路を通じた直接的伝達という観念によって置き換えられねばならない。これらの拡がりの量子は、継起する隣接的機会の基礎的な領域である。有機体の哲学は、それに隣接しないより後の機会における、ある機会の直接の客体化がある、ということを完全に否定する必要はない。実際、この学説にとってはむしろ逆の見解のほうが自然であるように見える。物理科学が「遠隔作用」の否定を維持するかぎり、より安全な推測は、直接の客体化は隣接する機会を除いては実際上無視しうる、というものだが、この実際上の無視しうることは、いかなる形而上学的な一般性もなしに、現在の宇宙時代の性格である。また、さらなる区別が導入されるべきである。物理的抱握は純粋物理的抱握と雑種物理的抱握という二つの種に分かれる。純粋物理的抱握とは、その与件が、それ自身の物理的抱握の一つに関して客体化された先行機会であるような抱握である。雑種抱握は、概念的抱握に関して客体化された先行機会をその与件とする。したがって純粋物理的抱握は物理的感受の伝達であり、雑種抱握は精神的感受の伝達である。雑種抱握のための諸条件を純粋物理的抱握のためのそれらに同化させる理由はない。実際、逆の仮説のほうがより自然である。というのも概念的極は物理的極の座標的可分性を共有せず、延長的連続体はこの座標的可分性から派生するからである。したがって精神的極にとっての直接的客体化と物理的極にとっての媒介的客体化という学説が、現在の宇宙時代への適用における有機体の哲学にもっとも調和するように見える。この結論には、テレパシーの特異な事例の証拠から、そして通常の社会的交流における感受の調子の本能的な把握から、ある種の経験的な支持がある。

  第V節

いまやわれわれは、物理的機会の第一相がそこから生じる実在的潜勢態の主要な性格を辿ってきた。これらの性格は、自己形成の冒険を通じて主体の構成のうちに織り込まれたままである。現実的存在は、物理的極と精神的極との相互作用の産物である。この仕方で、潜勢態は現実性へと移行し、延長的関係は、質的な内容と他の特殊なものの客体化とを、一貫した有限な経験へと形づくる。一般に意識は無視しうるものであり、鮮やかな命題的感受におけるその接近でさえ重要性を獲得することに失敗している。盲目の物理的目的が君臨する。盲目の抱握――物理的であれ精神的であれ――が物理的宇宙の窮極の煉瓦であることはいまや明らかである。それらはそれぞれの現実性のうちで、その連帯した発生とその最終的な癒合とを統べる主体的目的の統一によって、たがいに結びつけられている。それらはまた、一つの主体における抱握が、より後の主体における抱握のための客観的与件となり、それによって早い主体を後の主体にとって客体化する、その仕方によって、それら固有の主体の限界を超えて結びつけられている。抱握の相互連関のこの二つの型はそれ自体、一つの共通の図式――拡がりの関係性――のうちに結びつけられている。「拡がり」の手段によって、抱握のあいだの絆は、内的関係でありながらある意味で外的関係でもある、その二重の側面を帯びる。もし物理的世界の連帯性がその個々の現実性の記述に関連すべきならば、それは問題の関係性の根本的な内在性の理由によってのみでありうることは明らかである。他方、現実性の個体的な離散性がその重みをもつべきならば、それらの関係性のうちには、それらが外的なもの――すなわち分割された事物のあいだの絆――として思念されうる側面がなければならない。延長的図式はこの二重の目的に奉仕する。物理科学への適用におけるデカルト的主観主義は、単に外的な関係性しかもたない、個々に存在する物理的物体というニュートンの想定となった。われわれは、彼が物理的物体の第一次的〈属性〉として記述したものが、実は現実的機会の〈あいだの〉、そして現実的機会の〈うちの〉内的関係性の形相である、と主張する点で、デカルトから逸脱する。このような思考の変化は、物理科学の基本観念としての、唯物論から有機体への移行である。物理科学の言葉で言えば、唯物論から「有機的実在論」――この新しい見方はそう呼ばれてもよいだろう――への変化は、静的な素材という観念の、流動的なエネルギーという観念による置き換えである。そのようなエネルギーは作用と流れの構造をもち、そのような構造なしには考えられない。それはまた「量子」の要件によっても条件づけられている。これらは、個々の抱握、そしてこれらの抱握が属する個々の現実的存在の、物理科学への反映である。数理物理学は、ヘラクレイトスの言葉「万物は流転する」を、それ自身の言葉へと翻訳する。それは「万物はベクトルである」となる。数理物理学はまた、デモクリトスの原子論的学説をも受け入れる。それは「あらゆるエネルギーの流れは『量子』の条件に服する」という句へとそれを翻訳する。しかし窮極の科学的観念の領域から消え去ったのは、受動的な持続をもち、第一次的な個体的属性をもち、偶発的な冒険をもつ、空虚な物質的存在という観念である。物理的世界のいくつかの特徴はそのように表現できる。しかしこの概念は、科学と宇宙論における窮極の観念としては無用である。

 第四章 歪み

  第I節

現実の世界には、単に不活性な事実にすぎないものは何もない。あらゆる実在性はそこに感受のためにある――それは感受を促進し、それは感受される。またある個体的現実性の感受の私秘性に単に属するにすぎないものも何もない。あらゆる始発は私的である。しかしこうして始発したものは、公共的に世界に浸透する。したがって直と平坦な場所に関する幾何学的事実は、現実的存在の感受を性格づける公共的事実である。宇宙のこの時代においては、たまたまそれらを含む感受が支配的な重要性をもつ。与件のうちに例証される形相が幾何学的な、直な、平坦な場所に関わる感受は「歪み」と呼ばれよう。歪みにおいて、幾何学的形相以外の質的要素は、それらの形相に含意された質として自らを表現する。また形相は、問題の物理的感受の客観的与件を形づくる特定の結合体に内含される形相でもある。二点が完全な直線を決定し、三つの非共線の点が完全な平面を決定し、四つの非共平面の点が完全な三次元の平坦な場所を決定する、ということが想起されねばならない。したがって歪みは幾何学的重要性の複合的な分布をもつ。そこには、点のある種の集合である限定された場所の集合から構成される、幾何学的「座」がある。これらの点は、経験する主体の立脚点を定める体積に属する。歪みは、より単純な感受の複合的な統合であり、関わる質がとりわけこの座と結びついている、より単純な感受を、その複合的な性格のうちに含む。しかし歪みの成長を支配する幾何学的関心は、その座によって定義される完全な直線・平面・三次元の平坦なものを、重要性へと引き上げる。統合の過程において、これらのより広い幾何学的要素は、より単純な諸段階において始発した質との含意を獲得する。この過程は変換の範疇の一例であり、中間の概念的感受の介入によって説明される。したがって、関わる幾何学的要素によって貫かれた延長的領域は、より単純な感受から派生する質と幾何学的関係とを通じて客体化を獲得する。この型の客体化は、質と確定した幾何学的関係との緊密な結びつきによって性格づけられる。それはいわゆる感覚与件の「投影」の基盤である。歪みにおけるこの感覚与件の投影は、さまざまな歪みのあいだの相違にしたがって多くの形態を取る。時には「座」がその個体的な重要性を保持し、時には最終的な総合においてそれはほとんど排除されている。時には、より広い幾何学的要素によって示された延長的領域の全体が、漠然としか幾何学化されない。この場合には微弱な幾何学的示唆があり、歪みはそのとき、漠然と外的なある種の質を感受するという漠然とした形式を取る。時には延長的領域が幾何学化されながらも、座からの重要性の対応する除去がともなわない。この場合には、ここにある座と、そこにある何らかの客体化された領域との、二重の言及がある。「ここ」は通常動物身体のある部分であり、幾何学化された領域はその関わる動物身体の内あるいは外でありうる。歪みの重要な感受が複合的な癒合過程を含むことは明らかである。したがってそれらは比較的高等な現実的存在においてのみ見出される。それらはいかなる意味においても意識を必然的に含むわけではなく、われわれが生と結びつける、意識への接近さえも必然的に含むわけではない。しかしわれわれは、持続する物理的対象の振る舞いが、その歪みの特異性への言及によってのみ説明可能である、ということを見出すだろう。他方、空虚な空間における出来事は、歪みのいかなる特異な秩序づけへの強調もあまり要求しない。しかし秩序だった物理的複合性の成長は、歪みのあいだの秩序だった関係性の成長に依存する。マクスウェルの電磁方程式のような数理物理学における根本方程式は、物理的宇宙全体を通じた歪みの秩序づけの表現である。

  第II節

現前的直接性とは、感覚の手段によるわれわれの同時代世界の知覚である。それは物理的感受である。しかしそれは、統合の過程のただなかで、概念的感受・より原初的な物理的感受・変換がそれぞれの役割を演じてきた、複合的な型の物理的感受である。その客観的与件は、ある確定した質と関係とのもとで例証された、同時代の出来事の結合体である――これらの質と関係とは、より原初的な物理的感受から派生する主体的形相とともに抱握され、こうしてわれわれの「私的な」感覚となる。素朴な常識はまず、この感受を抱懐する「主体」を主張し、次に次の順序における分析的な構成要素を主張する――(一)与件としての同時代世界における領域、(二)この与件から派生しそれを例証する感覚、(三)これらの要素を含む統合的感受、(四)鑑賞的な主体的形相、(五)解釈的な主体的形相、(六)目的的な主体的形相。しかしこの現前的直接性の分析は、感受の内実を汲み尽くしてはいない。というのもわれわれは〈身体とともに〉感受するからである。感覚の特定の器官へのさらなる特殊化があるかもしれないが、いずれにせよ身体の「共在性」は、われわれの現前的直接性の知覚における、常に現前しながらも捉えがたい要素である。この「共在性」は、その主体的形相とその客観的与件とにおいてその感受によって蔵われた、問題の感受の始発の痕跡である。しかしそれ自体において、この「身体の共在性」は、最終的な「満足」における構成的感受として孤立させることができる。この観点からは、身体、あるいはその感覚器官が、構成的感受の客観的与件となる。この感受はそれ自身の主体的形相をもつ。またこの感受は物理的であるから、客観的与件としての身体の確定性の限定者となる永遠的客体を求めなければならない。この構成的感受は「身体的効力性の感受」と呼ばれよう。それは、そこから生じる現前的直接性の感受よりも原初的である。常識においても生理学理論においても、この身体的効力性は、現前的直接性によって前提され、それへと至る一構成要素である。したがって直接の主体において、現前的直接性は、身体的効力性の感受が他の感受と統合されることによって、より後の相において始発するものとして思念されねばならない。この複合的な永遠的客体は、感覚与件と幾何学的パターンとへと分析可能である。物理学において、幾何学的パターンは、感受の主体である身体のうちのその現実的機会の歪みの状態として現れる。しかし最終的な知覚者におけるこの身体的効力性の感受は、身体における先行する現実的存在による先行する感受の再演である。したがってこの先行する存在においては、同じ感覚与件と高度に類比的な歪みの状態とに関わる感受がある。この感受は前節で定義された意味における「歪み」でなければならない。いまやこの歪みは幾何学化された領域を含み、この場合それはまたそれ自身の一部として〈焦点〉領域をも含む。この「焦点」領域は、「座」によって定義される直線の密な集中の領域である。それはいわゆる「投影」がそこへとなされる領域である。これらの直線は、パターンの「座」にとりわけ関わる、さらに単純な感受の統合の過程を通じて感受のうちに入り込む。これらの直線は感受の限定者として二重の機能をもつ。それらは感受する者の「歪み」を定義し、それらはそれによって感受する者へと関係づけられる焦点領域を定義する。この歪みは、身体的効力性の感受における他の多くの糸によって相続される。しかし現前的直接性の一つの確定した感受を考察するとき、身体的効力性の伝達のこれらの多くの糸は、最終的な知覚者へのその最終的な伝達において、多くの身体的「歪み」によって選び出された同じ焦点領域に収斂する。これらの感受の統合において、二重の変換の行為が成し遂げられる。ここでいくつかの場合が生じる――感覚与件と先行する感受者の座との連合のみが排他的に強調される場合、感覚与件と最終的な知覚者の焦点領域との連合のみが排他的に強調される場合、そして両方が強調される場合である。第一の場合には純粋に身体的な感覚があり、第二の場合には身体を超えた同時代空間の領域を含む「投影された」感覚があり、第三の場合には身体的感受と外的に投影された感覚の両方がある。したがってあらゆる感覚的感受の場合において、概念的強調の始発的な私秘性が物理的感受の公共性へと移行していく。感覚与件に関して、それらの機能作用には、相続の経路に沿って機会から機会へと、最終的な高等な経験者にまで至る、漸進的な変容がある。その機能作用のもっとも原初的な形態において、感覚与件はその純然たる個体的本質の情動的な享受とともに物理的に感受される。たとえば赤は、その純然たる赤さの情動的な享受とともに感受される。この原初的な抱握において、われわれは、主体がそれ自身を赤さを享受するものとして感受する、原初的な物理的感受をもつ。これはヒュームの「感覚の印象」であり、他のそのような印象とのあらゆる空間的関係を剥ぎ取られたものである。それがこの原初的な、原初的な仕方で生じるかぎり、それらは――ヒュームの言葉で言えば――「未知の原因から魂のうちに生じる」。しかし実際には、われわれはそのような窮極の非合理性を決して孤立させることはできない。われわれの経験において、判然とした分析においてと同様、物理的感受は常に何らかの先行する経験者から派生する。機会Bは、情動的な強度をもって感覚与件を経験している先行する主体として、機会Aを抱握する。またBの情動の主体的形相はAの主体的形相に適合する。したがってAからBへの、感覚与件の情動的感受のベクトル的伝達がある。この仕方でBは、Aから派生したものとして、そしてやはりAから派生した情動的形相とともに、感覚与件を感受する。これが因果的効力性の感受のもっとも原初的な形態である。物理学においてそれはあるエネルギー形相の伝達である。高等な動物身体の機会から機会への身体的伝達において、感覚与件のこれらの機能作用の漸進的な修正がある。動物身体内部の始発的な機会にとってのもっとも原初的な機能作用においては、それらは情動の限定であり、物理学の言葉で言えばエネルギーの型である。経路の末端にある高等な経験する機会にとっての最終的な機能作用においては、それらは提示された同時代の結合体に「内属する」質である。最終的な知覚者においては、感覚与件の原初的な情動的機能作用のいかなる意識的感受も、しばしば完全に不在である。しかし常にそうであるわけではない――たとえば赤いマントの知覚は、しばしば赤い苛立ちの感受と結びついているかもしれない。「感覚の印象」の未知の原因からの始発というヒュームの学説に立ち返れば、まず論理的優先性を物理的優先性から区別する必要がある。疑いなく感覚の印象は、論理的には物理的抱握のうちでもっとも単純なものである。それは、感覚与件をそれ自身の癒合に参与するものとして感受する、知覚する機会である。これは私的な感覚の享受である。そのような感覚には論理的単純性があり、それがそれを物理的感受の原初的で始原的な型たらしめている。しかしヒュームの学説――それらに物理的優先性を割り当てる学説――には二つの異論がある。第一に経験的異論がある。そのような印象の複合体を、共通の物理的世界という想定へと精緻化する、というヒュームの理論は、素朴な経験にまったく反する。われわれは共同の世界における作用主体かつ受動者という二重の役割のうちに自らを見出し、感覚の印象の意識的な認識は、洗練された精緻化の作業である。これはまたロックの『人間知性論』第三巻・第四巻の学説でもある。子供はまず、確定性の形相の乱雑さを示す特殊な事物の複合的な外部性を漠然と解明し、それからこれらの形相の印象を孤立において解きほぐす。若者は感覚の印象とともに踊り始め、それから相手を推測するようなことはしない。彼の経験は逆の経路をたどる。ヒュームに由来する哲学学派の非経験的な性格は、いくら強調してもしすぎることはない。真の経験的学説は、物理的感受はその起源においてベクトルであり、癒合の発生的過程が私秘性を強調する要素を導入する、というものである。第二に、ヒュームの学説は必然的に非合理的である。もし感覚の印象が未知の原因から生じるなら、合理的な宇宙論への合理主義的探求は行き止まりとなる。そのような宇宙論は、形而上学が、形相とそれが参与するいかなる機会とのあいだの適切性の学説を提供することを要求する。もしそのような学説がなければ、世界についての合理的な見解への接近の希望はすべて消え去る。ヒュームの学説には、その支持者に与える快楽以外にいかなる推奨すべき点もない。有機体の哲学は、(一)欲求の基礎的な完全性を体現する神の学説、(二)神を含む宇宙の癒合を成し遂げるそれぞれの機会の学説、という二つの学説によって、この適切性を提供する。そして概念的再生の範疇によって、神の欲求と他の機会とのベクトル的抱握は精神的極における概念的抱握のうちに帰結し、この極と純粋物理的抱握との統合によって、感覚与件の原初的な物理的感受が、情動的で目的的な主体的形相とともに生じる。これらの感受は、その原初的な単純さとともに、概念的欲求とのベクトル的抱握の統合によって成し遂げられる除去の理由によって、判明さへと生じる。そのような原初的な感受は、その主体的形相から切り離すことはできない。主体は、受容者・受動者・作用主体という三重の性格を決して失わない。これらの原初的な感受は既に「物理的目的」の名のもとで(第三部第五章で)考察された。それらはヒュームの「感覚の印象」に対応する。しかしそれらは経験の過程を始発させるのではない。われわれは、現前的直接性の感受が、身体的効力性から引き出された概念的感受と、身体的効力性の複合的感受における一構成要素でもある単なる領域的感受との統合の理由によって生じることを見る。またこの単なる領域的感受は、同時代世界のわれわれの〈直接の〉物理的感受の全体である一般的な領域的感受によって強化され、概念的感受は物理的目的の産出によって強化される。この統合は、身体的効力性に含意された複合的永遠的客体を、歪みの感受において感受されたある同時代の焦点領域へと創造的に帰属させる、という形を取る。また主体的形相は、概念的評価と派生的な「物理的目的」から伝達される。しかしこの主体的形相は、それがそこから生じた身体的効力性に適したものである。したがって、その帰属された永遠的客体をもつ単なる領域は、あたかもその効力性の感受があったかのように感受される。しかし同時代の領域には相互の効力性はない。この主体的形相の転移は「象徴的転移」と呼ばれる。この物理的な現前的直接性の感受から、その評価とともに、追加的な概念的感受が生じる。それは〈このように〉性格づけられたある領域の概念的感受である。これは現前的直接性の単なる客観的与件に固有の美的評価である。しかしこの評価は、象徴的転移による概念的抱握から得られるそれよりも原初的でない。原初的な主体的形相は、あたかも同時代の領域が、それ自身固有の構成によって、知覚する主体に対して因果的に有効であったかのような評価を含む。第二次的な評価は、単なる事実の美的鑑賞である――この単なる事実とは、単に〈その〉領域が〈このように〉限定されている、ということにすぎない。したがって感覚を通じて感受される同時代世界は、より後の概念的感受の手段によって、それ自身のために評価される。しかしそれはまた、派生的な「物理的目的」と結びついた、より早い概念的感受からの変換の手段によって、先行する効力性からのその派生のためにも評価される。しかしこれらの操作のいずれも、自然から精神の主体的な私秘性へと分離されえない。精神的操作と物理的操作は治しがたく織り合わされており、両者とも公共性へと出て行き、公共性から派生する。抱握のベクトル的性格は根本的である。

  第III節

高等な有機体の特徴は、否定的抱握によって環境における無関連な偶有性を除去し、あらゆる種類の体系的秩序への大規模な注意を引き出すことにある。この目的のために、変換の範疇が支配的な原理である。その作用によって、それぞれの結合体は、それ自身の成員間の類比の言葉で、あるいは他の結合体の成員間の、それでもそれに関連する類比の言葉で、抱握されうる。この仕方で、問題の有機体は事物の単なる多性を抑制し、それ自身の対比を設計する。芸術の規範は、単に経験の深みのための要件が特殊化された形態において表現されたものにすぎない。道徳の原理は、それらもまた別の関連において同じ要件を表現するという点で、芸術の規範に近い。同時代の現実的存在が相対的な独立性において生じるという原理の理由によって、同時代の現実的存在の結合体は、他の結合体から自分自身への体系的な質のこの転移にとって、特異に好都合である。というのも、一つの結合体の個々の存在のあいだで行きわたる特性が、一つの統一として扱われる別の結合体へと転移されるとき、変換の範疇の作用に困難が生じるからである。困難は、受容する結合体の個々の現実性もまた、等しくそれら自身の結合体への転移を要求する体系的な特性によって、知覚する主体において客体化されている、という点にある――しかしこれこそが、他の転移の受容者であるべき結合体なのである。したがって、同じ結合体の客体化を成し遂げようと競合する質がある。結果は希薄化と除去である。受容する結合体が、知覚する主体と同時代的な存在から構成されるとき、この困難は消え去る。というのも、同時代の存在は、それら自身のいかなる感受を通じた客体化によっても、知覚する主体の構成に入り込まないからである。したがってそれらの主体との唯一の直接の結びつきは、同じ延長的図式へのその含意である。したがって、知覚する主体と同時代的な現実的存在の結合体は、先行する結合体からのその特性の転移を抑制する、いかなる代替的な特性をも立てない。高等な知覚者は必然的に、持続する対象の歴史的経路における一機会である。もしこの経路が未来へと自らを首尾よく伝播すべきであるなら、その直接の機会における決定が、同時代の機会のあいだの並行する出来事に対してもっとも密接な関連性をもつことが、何よりも必要である。というのもこれらの同時代の存在は、近い未来において、持続する対象の未来の体現にとっての「直接の過去」を形づくるだろうからである。この「直接の過去」は圧倒的な影響力をもつ――というのも、より遠い過去からの伝達のあらゆる経路は、それを通過しなければならないからである。したがって同時代の機会は何も語らない――それでいて持続する対象の生存にとって至高の重要性をもつ。知覚する主体の経験におけるこの間隙は、現前的直接性によって橋渡しされる。この型の経験は、現在へと反映された過去の教訓である。より重要な同時代の機会は、近隣にあるものである。それらの現実世界は、知覚する主体のそれとほぼ同一である。知覚者は、それ自身の過去から相続する永遠的客体の媒介によって、同時代の機会の結合体を抱握する。またそれは、その焦点領域がそれらの結合体の過去における重要な要素である歪みの効力によって、こうして抱握された同時代の結合体を選択する。したがって、成功する有機体にとって、現前的直接性は――それが同時代世界についての直接の経験を何も生み出さないとしても、そして不運な場合にはそれが生み出す経験が無関連でありうるとしても――同時代世界がその過去からいかに実際に出現してきたかを表現する経験を、実際に生み出す。現前的直接性は、たとえ時折誤解を招くとしても、同時代世界についての情報を得るほうがよい、という原理にしたがって働く。

  第IV節〜第V節

経験の深みは、環境における体系的な構造的体系への強調を集中し、個体的な変異を捨て去ることによって獲得される。この原理の追求において、そのような有機体における多様な歪みによって幾何学化された領域は、単に同時代世界のうちに横たわるだけでなく、同時代世界における一つの統一された場所を強調するように合体する。この選ばれた場所は、歪みに結びついた直線・平面・三次元の平坦な場所によって貫かれている。これが、持続する対象の歴史における一機会に属する「歪み場所」である。この機会が、考察対象である直接の知覚する主体である。そのような機会はそれぞれ、そのあらゆる歪みに役立つ、それ自身の一つの歪み場所をもつ。さまざまな歪みの焦点領域はすべてこの歪み場所のうちに横たわり、一般には別個である。しかし全体としての歪み場所は、あらゆる歪みに共通である。「静止」という語の意味は、機会のその歪み場所への関係――もしあれば――である。統一された歪み場所をもたない機会は、それとの「静止」の関係をもちうる支配的な場所をもたない。機会はその歪み場所において「静止する」。これが、空虚な空間における機会について、それが何らかの場所に関して「静止して」いるかどうかを問うことが無意味である理由である。というのも、そのような機会は歪み場所をもたないから、「静止」の関係はそれらには適用されないからである。歪み場所は、知覚する機会の歪み感受によって徹底的に幾何学化された場所である。それはあらゆる次元の直線と平坦な場所とを内包するという性質をもたねばならない。したがってその境界は、交わらない三次元の平坦な場所となるだろう。歪み場所は三次元の平坦な場所に近似するが、実際には時間的な厚みをもつ四次元である。ある一つの現実的機会Mへの言及において、七つの――ただし第六節参照――異なる考察が、他の現実的機会から構成される場所を定義する。まず因果的効力性によって定義される三つの場所――Mの「因果的過去」、Mの「因果的未来」、Mの「同時代者」――がある。Mの因果的過去に属する現実的機会Pは、それ自身の感受の質と感受の強度との遠近法的表現によってMにとって客体化される。PからMへの、感受の量的かつ質的なベクトル的流れがある。それによって、Pが主観的に〈である〉ところのものが、Mに客観的に属する。Mの因果的未来に属する現実的機会Qは、Pの関係と比較して、Mへの逆の関係にある。というのも因果的未来は、それぞれの因果的部分にMをもつことになる現実的機会から構成されるからである。Mと「同時代的」な現実的機会RとSは、Mの因果的過去にもMの因果的未来にも属さない現実的機会である。Mの同時代者の場所の特異性は、RやSのようなその成員のいずれの対も、たがいに同時代的である必要はない、という点にある。それらはたがいに同時代的であるかもしれないが、必ずしもそうではない。「持続」とは、(α)その場所の任意の二成員が同時代的であり、(β)その持続に属さないいかなる現実的機会も、その持続のいくつかの成員の因果的過去あるいは因果的未来にある、そのような現実的機会の場所である。持続とは、「生成の一致」における、あるいは「癒合的一致」における、現実的機会の完全な場所である。それは旧来の「世界の現在状態」である。ある与えられた持続Dへの言及において、現実世界は三つの相互排他的な場所へと分割される――一つはD自身であり、もう一つはDのいくつかの成員の過去にある現実的機会から構成される「持続Dの過去」であり、残りはDのいくつかの成員の未来にある現実的機会から構成される「持続Dの未来」である。近代の相対性理論によって導入されたパラドックスは二重である。第一に、現実的機会Mは、あらゆる現実的機会の一般的性格として、一意の持続を定義しない。第二に、そのような一意の持続は、定義されたとしても、Mのあらゆる同時代者を含まない。しかし持続の集合のうちには、Mと一意の連合をもつものがあるかもしれない。というのも現前的直接性の様態は、Mにとって、ある特定の持続内の現実的機会を客体化するからである。これが「提示された持続」である。そのような提示された持続は「持続する物理的対象」の性格における内在的要因である。それは実質的に歪み場所と同一である。この場所こそが、静止・速度・加速度という観念にある種の絶対性がある理由である。というのもこの提示された持続は、物理的対象がその機会Mにとって少なくとも瞬間的に〈静止している〉、空間化された世界だからである。この空間化された世界は、問題の現実的機会、すなわちMの因果的過去から相続された、Mそれ自身の条件づけられた感受の調子の範囲によって、Mにとって客体化される。したがって提示された持続は、特異な鮮やかさをもって現実的機会の性格の一部である。それぞれがその提示された持続をもつ現実的機会の歴史的経路が、物理的対象を構成する。提示された持続の客体化についてのわれわれの部分的な意識が、感覚から派生するかぎりでの、現在世界についてのわれわれの知識を構成する。客体化が、現実的機会Mがその継起する感受の相をそこから始発する客観的諸条件を構成することを想起すれば、もっとも一般的な意味において、客体化が、外部世界が問題の現実的機会を形づくる因果性を表現する、と認めなければならない。したがって提示された持続の客体化は、その同時代者による、Mの決定における非常に実在的な効力性の回復を表す。この客体化を成し遂げる永遠的客体が、Mが過去から派生させる感受の調子に属することは真である。しかしそれは、Mと提示された持続とに大部分共通する過去である。したがって過去の媒介によって、提示された持続はMの産出における効力性をもつ。この効力性は、同時代の機会の独立性の原理を損なわない。というのも提示された持続における同時代の機会は、それら自身の直接の感受の調子を通じてではなく、それらの源泉の感受の調子を通じてのみ効力的だからである。したがってベルクソンが世界の「空間化」を知性が導入する歪曲に帰するかぎりにおいて、彼は誤っている。この空間化は、持続する物理的対象の生活史に属するあらゆる現実的機会の物理的構成における、実在の要因である。いわゆる「空虚な空間」における現実的機会については、いかなる持続も空間化のために選び出されてきたと信じる理由はない――すなわち、現前的直接性の様態における物理的知覚は、そのような機会にとって無視しうる、ということである。持続する物理的対象の静止と運動の実在性は、その歴史的経路における機会にとってのこの空間化に依存する。提示された持続とは、それに関して持続する対象が瞬間的に静止している、その持続である。それは、持続する対象の生活史におけるその機会の歪み場所である、その持続である。

 第五章 測定

  第I節〜第II節

歪み場所と持続との同一視は、経験的証拠にもとづく近似にすぎない。両者の定義はまったく異なる。持続とは、そのすべての成員がたがいに同時代的であるような、現実的機会の完全な集合である。この性質は、その成員たちが「直接性の一致」を享受する、という言明によって表現される。完全性とは、この直接性の一致を失うことなしにはいかなる他の現実的機会もその集合に付加できない、という事実に存する。集合の外にあるあらゆる機会は、その集合のいくつかの成員の過去あるいは未来にあり、集合の他の成員とは同時代的である。ある機会が持続の過去にあるか未来にあるかは、それがその持続のいくつかの成員の過去にあるか未来にあるかにしたがって決まる。いかなる機会も、ある持続の過去と未来の両方にあることはできない。したがって持続は、世界のうちで、その過去とその未来とのあいだの障壁を形づくる。歪み場所の定義は、問題の経験する機会を含む結合体の客体化における幾何学的形相の要素である幾何学的要素に、まったく依存する。これらの要素とは、(一)経験する機会の領域的立脚点の体積内にある点の集合、(二)これらの点のすべての対によって定義される直線の集合、である。点の集合が歪みの「座」であり、直線の集合が「投影子」の集合である。「投影子」によって貫かれた完全な領域が歪み場所である。歪み場所は二つの「平坦な」三次元の表面によって境界づけられる。座のいくつかの成員が歪みの感受において特殊な機能をもつとき、これらの点の対を結ぶ投影子は、歪み場所における従属的な領域を定義するかもしれない――この従属的な領域は「焦点領域」と呼ばれる。現在の時代における歪み場所は、その経験する機会の同時代者に限定されているように見える。実際「歪み場所」は、現前的直接性の様態における知覚にとって本質的な構成要素として生じる。この知覚様態においては、そのような経験者それぞれに一意の歪み場所がある。静止と運動は、実在の歪み場所と潜勢的な歪み場所への言及によって定義可能である。この持続と歪み場所の理論の要約は、それらの定義の完全な切断を明らかにする。これらの定義から導出可能な、経験する機会の歪み場所と、その機会をその成員のうちに含むいかなる持続とのあいだに、密接な連合があるべき理由は何もない。人類が常に、提示された世界をそのような持続から成るものとして思念する、というのは経験的事実である。これが感覚によって直接に知覚される同時代世界である。しかし密接な連合は必ずしも無限定な同一視を含意しない。科学理論に一致する宇宙論を組み立てるにあたって、連合した対――歪み場所と提示された持続――が一つの同じ延長的領域を含意しない、と想定することが許容される。「投影された」感覚与件を「第二次性質」として性格づける言い回しに導いてきた諸観念は、「歪み場所」とそれに連合した「提示された持続」とのあいだの根本的な相違から生じる。歪み場所は完全に問題の経験者によって決定される。それは、経験者の立脚点である延長的領域内にすっかりある幾何学的要素によって定義されながらも、その経験者を超えて無限定に広がる。現前的直接性は、歪みの感受と「物理的目的」との統合から生じ、それによって変換の範疇によって、「物理的目的」に含まれる感覚与件が、投影子によって定義される何らかの外的な焦点領域へと投影される。この現前的直接性と歪み場所の学説が、単なる延長性の言葉での直線の定義に完全に依存する、ということに注意されたい。感覚与件の投影は、脳の状態と、脳を性格づける体系的な幾何学的関係とに完全に依存する。脳がどのように興奮させられるか――目を通じた視覚的刺激によるか、耳を通じた聴覚的刺激によるか、過度のアルコール摂取によるか、あるいはヒステリー的な情動によるか――は完全に無差別である。脳の適切な興奮が与えられれば、経験者は投影された感覚与件によって例証される、ある確定した同時代の領域を知覚するだろう。現前的直接性の環境における同時代の現実性への無差別性は、いくら誇張してもしすぎることはない。経験者とこれらの同時代の現実性とが共通の過去に幸運にも依存しているという理由によってのみ、現前的直接性は不毛な美的展示以上のものである。それは何かを――すなわち同時代世界の実在の延長性を――展示する。それは同時代の現実性を含むが、延長的関係によって条件づけられたものとしてのみそれらを客体化する。それは世界に行きわたる一つの体系を、経験者を含みそれを超越する世界を、展示する。それは、経験者を含みそれを超えて到達する、体系的な実在潜勢態の鮮やかな展示である。もし直線が測定――その遂行のために特定の現実的機会を要求する――の言葉によってのみ定義されうるなら、幾何学の理論は特定の物理的事実からの必要な離脱を欠くことになる。しかし上で説明された「投影」の理論は、完全な直線の定義が延長的環境における特定の現実性に論理的に先行することを要求する。この要件は前章の直線の理論によって供給されてきた。投影子は確かに一つの経験する機会に依存する。しかしこの依存でさえ、その機会の構成的感受が、ある種の幾何学的要素――すなわち点の集合とそれによって定義される直線――をその与件のうちに参与させることを要求するにすぎない。したがってこの説明によれば、現前的直接性とは、ある種の「焦点」領域にとりわけ強調を置いた、同時代の幾何学的関係の鮮やかな感受が経験のうちに入り込む様態である。この学説は常識が常に想定していることである。われわれが色のついた形を見るとき、それは実在の人物かもしれないし、幽霊かもしれないし、鏡の背後の像かもしれないし、幻覚かもしれない。しかしそれが何であれ、〈そこにそれがある〉――外部空間のある確定した領域をわれわれに示しながら。もしわれわれが千光年離れた星雲を見つめているなら、われわれは千年を遡って見ているのではない。そのような言い回しは、同時代の天の一角の照明を観察するという、直接経験の第一次的な事実から注意をそらす、解釈的な句である。哲学においては、言語の解釈的な気まぐれに用心することがこの上なく重要である。われわれが人を見たと言うとき、われわれはそれが人だと信じる斑点を見た、ということを意味しているのかもしれない。デカルトの言い回しで言えば、外部世界についてのわれわれの経験は、問題の抱握における「客観的実在性」の「検視」だけでなく、これらの抱握を超えたわれわれの経験の全体性を働かせる「判断」をも含む。

  第III節

現前的直接性に付随する「客観的実在性」というデカルトの学説は、私的な心理的場という近代の学説によって完全に否定される。ロックの「第二次性質」の学説は近代的立場への中間地点であり、実にデカルト自身の立場も全体として考察すればそうである。有機体の哲学によれば、物理的操作と精神的操作は解きほぐしがたく織り合わされている。またわれわれは感覚与件が、ある機会による別の機会のベクトル的抱握に参与する形相として機能しているのを見出す。私的な心理的場という近代の学説は、ヒュームの学説の論理的帰結である――もっともそれは、ヒュームが「作用主体として」は受け入れることを拒んだ帰結だが。この近代の学説は近代科学の解釈において大きな困難を引き起こす。あらゆる厳密な観察はこれらの私的な心理的場においてなされるからである。この理論によれば、この完全に私的な経験を集合的に形づくる感覚の印象は「未知の原因から魂のうちに生じる」。分光器は神話であり、放射エネルギーは神話であり、観察者の目は神話であり、観察者の脳は神話であり、観察者が実験を紙に記録することも神話である。数か月後、彼が学会でその記録を読み上げるとき、彼は新しい私的心理的場における白い背景の黒い印という新しい視覚的経験をもつ。そしてこれらの経験もまた「未知の原因から」彼の魂のうちに生じる。彼の早い経験と後の経験とを結びつけるのは単なる「習慣」にすぎない。しかしこの議論から重要な一つの事実が浮かび上がる――あらゆる厳密な測定は現前的直接性の様態における知覚に関わり、そのような観察は、歪みの「座」からの投影子によって定義され、環境を構成する現実性とは無関係な、環境の体系的な幾何学的形相にもっぱら関わる、ということである。世界の同時代の現実性はこれらの観察には無関連である。あらゆる科学的測定は、これらの現実性がそこから生じる体系的な実在潜勢態にもっぱら関わる。これが、物理科学はもっぱら世界の数学的関係にのみ関わる、という学説の意味である。これらの数学的関係は、われわれが生きる宇宙時代を性格づける延長性の体系的秩序に属する。持続的対象の社会――電子・陽子・分子・物質的物体――は、その秩序を維持すると同時にそこから生じる。現前的直接性に含まれる数学的関係はこうして、知覚される世界と知覚者の本性との両方に等しく属する。それらは同時に公共の事実であり私的な経験である。現前的直接性の知覚様態はある意味で不毛である。象徴的転移を別にすれば、それが同時代世界を開示するかぎり、こうして客体化された世界は、主体的形相を構成するあらゆる要素――情動的・鑑賞的・目的的な要素――を欠いている。客体化された結合体の絆は、数学的関係の確定性しか示さない。しかし別の意味において、この知覚様態は圧倒的な重要性をもつ。それは、われわれの宇宙時代のあらゆる結合体に――その語のもっとも広い意味において――参与する、体系的な数学的関係の複合体を提示する。これらの関係が時代を性格づけるのは、その時代を支配する機会の社会の直接の経験におけるその基盤の理由によるにすぎない。窮極の体系のこの開示の理由によって、物理的宇宙の知的理解が可能となる。あらゆる関連する事実に行きわたる体系的な枠組みがある。この枠組みへの言及によって、豊かな世界の変異的で多様で漂泊的で消えゆく詳細が、普遍的な体系の共通項へのその相関によって、それらの相互関係を示されうる。音はたがいに質的に異なり、音は色から質的に異なり、色は情動と苦痛のリズミカルな脈動から質的に異なる。それでいてすべてが等しく周期的であり、その空間的関係と波長とをもつ。現前的直接性のうちに開示される数学的関係の真の適切性の発見が、自然の知的征服における第一歩であった。厳密な科学がそこで誕生した。自然における事実としてのこれらの関係を離れれば、そのような科学は無意味であり、白痴の語る物語であり、愚者によって信じられるものである。

  第IV節〜第VI節

測定は計数と永続性に依存する。問いは、何が計数され、何が永続的か、である。計数されるのは、まっすぐな金属の棒――ヤード尺――上のインチである。また永続的なものは、その内的関係に関しても、世界の幾何学へのその延長的関係のいくつかに関しても、このヤード尺自身である。まず第一に、棒はまっすぐである。したがって測定は直線性に依存するのであり、直線性が測定に依存するのではない。この言明への近代の答えは、測定は無限小の、あるいは無限小への近似の比較である、というものである。この答えへの答えは、無限小というものは存在せず、したがってそれへの近似もありえない、というものである。数学において、無限小についてのあらゆる言い回しは、単に有限の類についての偽装された言明にすぎない。この学説は十九世紀半ばのワイエルシュトラス以来、決定的な数学理論である。もちろんあらゆる測定において、ヤード尺についてのわれわれの想定には近似がある。しかしそれは直線性への近似である。またインチが計数されるのは、それらが合同でありまっすぐな棒に沿って端から端まで並んでいるからである。誰も一致するインチを計数しない。計数は本質的に、一致しない直線分に関わる。長さの数的測定とは、ヤード尺が三十六の合同なインチの長さの線分へと可分的な、まっすぐな棒である、という事実の指標である。「合同」とは一致の可能性を〈意味する〉という近代の学説がある。もしそうであるなら、合同の重要性はその可能性が実現されたときに生じることになるだろう。あるいは代替的に、その可能性は主体的目的へと入り込む誘因としての重要性をもちうるだろう。ヤード尺に沿った三十六インチの重要性は、それらが一致〈しない〉という事実、そして棒が破壊されるまでは決して一致しないだろうという事実に依存する。棒が三十六インチの長さであるという、実現された性質がある。したがって「一致」は合同の〈試金石〉として用いられるが、それは合同の〈意味〉ではない。あらゆる検査は、直接的な永続性の直観への最終的な依存をもつ。この「現われ」は常に、現前的直接性の様態における一つの知覚である。もしそのような知覚が、「公共的」という語の相関的な意味とは対照的に、何らかの意味で「私的」であるなら、科学的測定が依拠する知覚は、単に特定の観察者の私的心理学に光を当てるにすぎず、いかなる「公共的」な意味ももたない。そのような結論は、公共の世界における実在の現実性の相互交流についてのわれわれの信念と、あまりに明白に矛盾しているため、あらゆる科学と哲学の最終的な試金石である共通経験の基盤に鑑みて、背理法として退けられうる。最後に、歪み場所における二つの幾何学的要素のあいだの関係としての「合同」の意味が考察されねばならない。関連するのは直線の二つの線分に関するこの意味のみを考察し、他のあらゆる意味をこれから派生したものとして扱うだけで十分だろう。直線の唯一の関連する性質は、(一)それらの完全性、(二)それらの点の包含、(三)含まれる任意の点の対によるその一意の定義、(四)単一の点における相互交叉の可能性である。体系的な幾何学理論を表現する追加的な公理は、長さや合同への言及をもってはならない。これらの観念はその理論から導出されるべきものだからである。そのような公理の組は数学者にはよく知られている。数学者たちに楕円幾何学・ユークリッド幾何学・双曲幾何学として知られる三つの幾何学理論の非計量的性質を、それぞれ与える三つの組がある。ある点P、Pを通らない直線l、そしてPとlの両方が内在する平面πという三つ組の助けによって、三つの幾何学理論のあいだの区別を説明できる。平面π内でPを通るすべての直線を考えよう。楕円幾何学理論においては、これらの直線はすべて直線lと交わる。ユークリッド幾何学理論においては、これらの直線はすべて直線lと交わるが、ただ一つの例外――Pを通るlへの一意の平行線――を除く。双曲幾何学理論においては、平面内でPを通る直線は二つの類へと可分的である――一方の類はlと交わる直線から成り、他方の類はlと交わらない直線から成り、それぞれの類は無限個の成員をもつ。ケイリーとフォン・シュタウトの仕事から、線分の合同と関わる距離の数的測度が定義可能であることが示されている。もっとも単純な場合はユークリッド幾何学の場合である。その場合、基礎的な事実は平行四辺形の対辺が等しいということである。平行でない線分間の合同を定義するにはさらなる複雑化が要求される。しかし平行四辺形の対辺の合同という特殊な場合が与える例証は、合同という観念の根底にある一般原理を説明することを可能にする。二つの線分が合同であるのは、それらの両方を含む直線の体系的パターンにおける、その機能作用のあいだのある種の類比があるときである。この類比の定義が、非計量幾何学の言葉での合同の定義である。測定はいまや延長的連続体全体を通じて可能である。この測定は宇宙時代の支配的な社会に依存する体系的な手続きである。物理的測定はいまや可能である。アインシュタインによって導入された近代の手続きは、「最小作用」の方法の一般化である。それは、時空連続体における任意の二点のあいだの任意の連続的な線を考察し、その線に沿った積分として場の物理的性質を表現しようとすることから成る。この積分の「無限小」要素は、通常「距離」の要素と呼ばれる。しかしこの呼称は、技術的な言い回しとしては満足のいくものであるとしても、まったく誤解を招く。経路のさまざまな要素の合同についての理論はありえない。一致という観念は適用されない。いわゆる「無限小」の距離は環境全体にわたる現実的存在に依存するから、いかなる体系的理論も不可能である。そのような誤りが生じるのは、物理学者たちの精神が、アリストテレスからカントを経て降りてくる前提に、無意識のうちに感染しているからである。アリストテレスは「量」を彼の範疇のうちに置き、延長的量と強度的量とを区別しなかった。カントはこの区別をなしたが、両方を範疇的観念と見なした。ケイリーとフォン・シュタウトの仕事から、延長的量は構築物であることが帰結する。現行の物理理論は、線分間のいわゆる長さの比較を、その比較がなされる基盤についていかなる理論もなしに前提しており、あらゆる厳密な観察が現前的直接性の様態に属するという事実を無視している。このため、説明に関するかぎり、この積分に対して「距離」という語を放棄し、その物理的含意を示唆する「勢い」といった何らかの名前でそれを呼ぶほうがよいだろう。しかしこの議論の結論は、窮極の物理法則の近代の扱いを微分幾何学における問題の装いにおいて扱うことに、いかなる異論も含まない、ということに注意されねばならない。積分としての勢いは実在の延長量――一つの「長さ」――である。勢いの微分要素は、その関連する環境の個体的な特異性によって重みづけられた、体系的な長さの微分要素である。物理的場の全理論は、体系的幾何学という背景のうえでの、現実的機会の個体的な特異性の織り込みである。この体系的幾何学は、癒合を条件づける第一次的な実在潜勢態を構成する、広大な宇宙的社会全体を通じて相続される、もっとも一般的な「実体的形相」を表現する。この学説において、有機体の哲学はデカルトの哲学にきわめて近い。議論全体は次のように要約できる――(一)現実的機会は動かないので、一致の学説はナンセンスである。(二)延長的量は論理的構築物であり、重なり合わずかつ問題の結合体を汲み尽くす合同な単位の数を表現する。(三)合同とは、両方の合同な要素を包摂する体系的複合体における、機能作用のある確定した類比としてのみ定義可能である。(四)あらゆる実験的測定は、用いられる器具の早い状態と後の状態とのあいだの合同についての窮極の直観を含む。(五)あらゆる〈厳密な〉観察は現前的直接性の様態における知覚によってなされる。(六)もしそのような知覚が単に私的な心理的場に関わるにすぎないなら、科学は公共的な含意を欠いた個人の白昼夢である。(七)現前的直接性の様態における知覚は、もっぱら身体の「共在性」に依存し、外部の同時代世界を、身体へのその体系的な幾何学的関係性に関してのみ示す。

第五部 最終的解釈

 第一章 理想的な対立項

  第I節

哲学にとっての主要な危険は、証拠の選択における狭さである。この狭さは、特定の著者たち、特定の社会集団、特定の思想学派、文明史における特定の時代の特異性と臆病さから生じる。頼りにされる証拠は、個人の気質によって、集団の偏狭さによって、思考図式の限界によって、恣意的に偏っている。この証拠の歪曲から生じる害悪は、この探究の最終部の主題――窮極の諸理想――の考察においてもっとも顕著になる。われわれはこの主題を、さまざまな季節と場所で行きわたってきた偉大な理想の一般的な型を、公平に述べようとする試みから始めなければならない。公平であるべき選択における試金石は実際的でなければならない――選ばれた例証の段階は、それ自身の内在的な興味によって、あるいはそこから流れる帰結の内在的な興味によって、注意を強いるようなものでなければならない。たとえば、共和政初期のローマの農民たちの厳しい自制は、ローマ帝国の偉大な時代へと帰結し、ニューイングランドの初期ピューリタンたちの厳しい自制は、ニューイングランド文化の開花へと帰結した。契約派の時代は、近代文明がスコットランドに負う深い印象をその帰結としてもってきた。ローマの農民たちも、アメリカのピューリタンたちも、契約派たちも、完全な共感を命じることはできない。またそれらはたがいに異なる。しかしいずれの場合にも、そこには偉大さがある――偉大に例証された偉大さが。この例と対照的に、われわれは古代ギリシアの美的文化の開花期、ローマのアウグストゥス時代、イタリア・ルネサンス、イングランドのエリザベス朝時代、イングランドの王政復古期、近代世界の諸世紀を通じたフランスとゲルマンの文明、近代のパリ、近代のニューヨークを見出す。道徳家たちはこれらの社会のいくつかについて多くを語るべきことをもっている。それでも、人間の生に何らかの批判的判断がある限り、そのような達成は決して忘れられえない。これら対比的な例のいずれの型の評価においても、純然たる軽蔑は盲目を示す。これらの事例のそれぞれには、称賛を強いる要素がある。宗教体系を築き上げる人々の生には偉大さがあり、行為における、観念における、自己従属における偉大さが、成長の諸世紀を通じて事例の後に事例において体現されている。そのような体系を破壊する反逆者たちにも偉大さがある――彼らは情熱的な誠実さで武装し、天を強襲するティタンたちである。おそらくその反乱は、単に、若者が自らの本来の輝きへの権利を、直接の喜びというあの窮極の善への権利を、主張しているにすぎないのかもしれない。哲学は世界の多面性を看過してはならない――妖精たちは踊り、キリストは十字架に釘打たれる。

  第II節

さまざまな時代の精神性の形成を統べる、対比的な気質の性質がある。前章(第二部第十章)において、すでに「われとともに留まりたまえ」という呼びかけを支配する永続性の感覚と、それに続く「夕べは速く落ちゆく」を支配する流動の感覚とに注意が向けられた。理想は、永続性と流動というこの二つの観念のまわりに自らを形づくる。逃れがたい流動のうちに、留まる何かがある。圧倒的な永続性のうちに、流動へと逃れ去る要素がある。永続性は流動からしか奪い取ることができず、過ぎゆく瞬間は永続性への服従によってのみ、その適合的な強度を見出すことができる。この二つの要素を切り離そうとする者は、明白な事実のいかなる解釈も見出せないだろう。フィレンツェのメディチ礼拝堂における四つの象徴的人物像――ミケランジェロの彫像の傑作である昼と夜、夕べと曙――は、事実の推移における永遠の要素を示している。それらの像はそこに留まり、その繰り返す連続のうちに横たわり、永遠に事物の本性における本質を示している。完全な実現は、単に抽象において無時間的であるものの例証であるにすぎない。それはそれ以上のことをなす――それは、その本質において過ぎ去りゆくものに無時間性を移植する。完全な瞬間は時の経過のうちで色あせない。時はそのとき、その「絶えざる消滅」という性格を失う。それは「永遠の動く似姿」となる。

  第III節

もう一つの対比が理想の理解にとって等しく本質的である――卓越性のための条件としての秩序と、生の新鮮さを窒息させる秩序との対比である。この対比は教育の理論において出会われる。卓越性のための条件は技術の徹底的な訓練である。純然たる技能は意識的な行使の領域を離れて、無意識の習慣という性格を帯びていなければならない。高度な達成のための第一・第二・第三の条件は、行為を統制する知識と獲得された本能とを含む、拡張された意味における学識である。多くの有望な教育理論を難破させるパラドックスは、技能を産出する訓練が、想像的な熱情を窒息させるのにきわめて適している、という点にある。技能は反復を要求し、想像的な熱情は衝動に染められている。ある点までは、技能におけるそれぞれの獲得は想像力のための新しい道を開く。しかしそれぞれの個人において、形式的な訓練にはその有用性の限界がある。その限界を超えれば退化がある――「野の百合は労せず、紡がない」。人類の社会史は、進歩のための諸条件としての機能と、人間性を萎縮させる仕掛けとしての機能とを交互に示す、偉大な組織を示す。地中海地方と西ヨーロッパの歴史は、政治的組織、宗教的組織、思考の図式、大きな目的のための社会的機関の、祝福と呪いの歴史である。もっとも高貴な精神をもつ世代によって祈られ、働きかけられ、犠牲を払われてきた支配の瞬間は、祝福が呪いへと移行する転換点を印づける。何らかの新しい刷新の原理が要求される。進歩の技法とは、変化のただなかで秩序を保存し、秩序のただなかで変化を保存することである。生は生きながら防腐処理されることを拒む。ある緩和されない秩序の体系における停滞が長引けば長引くほど、死せる社会の崩壊はより大きくなる。同じ原理は、芸術における流行の緩和されない支配から生じる倦怠によって示される。ゴシック建築の宝でみずからを覆い尽くしたヨーロッパは、飽満の諸世代へと入っていった。これらの疲弊した時代は、その特定の形の美しさへのあらゆる感覚を失ってしまったように見える。感受性の最後の繊細さは、過ぎ去った体系からの大量の相続を和らげるために、何らかの新奇性の要素を要求するように見える。秩序だけでは十分ではない。要求されるのは、はるかに複合的な何かである。それは新奇性へと入っていく秩序である――それによって秩序の大量性が単なる反復へと退化せず、新奇性が常に体系という背景のうえに反映されるような。しかしこの二つの要素は実際には切り離されてはならない。その確立された秩序が、別の時代の夜明けのかすかな不協和な光を優しく扱うべきであることは、世界の善さに属する。また秩序は、新しい諸条件の前で背景へと沈み込むにつれて、その要件をもつ。古い支配は、体系と新鮮さとのあいだの対比の繊細さからその強度を引き出す、新しい感受がそこから生じる、堅固な基盤へと変容されるべきである。過去が失われるにせよ支配的であるにせよ、いずれの過剰の代替においても、現在は弱められる。これはアリストテレスの「黄金の中庸」の学説の一適用にすぎない。因果的効力性の現前的直接性への変換の教訓は、偉大な目的が現在における生によって達成される、ということである――新奇で直接的でありながら、正しく組織された動物身体からのその豊かな相続によってその豊かさを引き出す生によって。その秩序の奇跡をもつ身体の理由によって、過去の環境の宝が生きている機会へと注ぎ込まれる。最終的な知覚する機会の経路は、おそらく脳の間隙のただなかの「空虚な」空間を彷徨う、出来事の何らかの糸である。それは労せず、紡がない。それは過去から受け取り、現在に生きる。それはその私的な感受の強度――向性あるいは反発――によって揺り動かされる。この身体的生の頂点は、今度は、身体の通路全体を通じて新奇性の一要素としてそれ自身を伝達する。それの身体にとっての唯一の用途は、その鮮やかな独創性である――それは新奇性の器官である。

  第IV節

世界はこうして、少なくともその高次の現実性においては、新奇性を渇望しながらも、過去の喪失――その馴染み深いものと愛する者たちとともに――への恐怖に取り憑かれている、というパラドックスに直面する。それは「絶えず消滅する」という性格における時間からの逃避を求める。新年の喜びの一部は、友情・愛・古い結びつきという安定した事実をもつ、季節の古い巡りへの希望である。それでいてこの恐怖とともに、過去の単なる緩和されない保存としての現在は、過去への恐怖・その拒絶・反逆という性格を帯びる――「死ぬことが与えられるか、あるいは達成されるか、それを再びなすことは激しい仕事であろう」。それぞれの新しい時代は、直前の先行者たちの美的な神々に対する容赦ない戦争を仕掛けることによって、自らの経歴に着手する。それでも意識的で合理的な生の窮極的な事実は、それ自身を一過性の享受、一過性に有用なものとして思念することを拒む。物理的世界の秩序において、その役割は新奇性の導入によって定義される。しかし物理的感受が因果性の漠然とした執拗さに取り憑かれているのとちょうど同じように、より高次の知的感受は、不安もなく、旅もなく、難破もない別の秩序の漠然とした執拗さに取り憑かれている――「もはや海はないであろう」。これが、文明化された共同体において宗教がより高次の局面に達するにつれて、漸進的に形づくられていく問題である。宗教的問題のもっとも一般的な定式化は、時間的世界の過程が、新奇性が喪失を意味しないような秩序において結びつけられた、他の現実性の形成へと移行するかどうか、という問いである。時間的世界における窮極の悪は、いかなる特定の悪よりも深い。それは、過去が色あせるという事実、時間が「絶えざる消滅」であるという事実に存する。客体化は除去を含む。現在の事実は、完全な直接性においては過去の事実をともなわない。時間の過程は、際立った感受の下に過去を覆い隠す。現在における事物のあいだには生成の一致がある。事物のあいだのこの直接性の直接の一致を失うことなしに、新奇性があってはならない理由があるだろうか。時間的世界においては、過程は喪失を含むというのが経験的事実である――過去は一つの抽象のもとに現在する。しかしこれが全体の物語であるべきだという、いかなる窮極の形而上学的一般性の理由もない。悪の本性とは、事物の性格が相互に妨害的である、ということである。したがって生の深みは選択の過程を要求する。しかし選択は、妨害的な様態を最小化しようとするもう一つの時間的秩序への第一歩としての除去である。選択はとりもなおさず悪の尺度であり、その回避の過程である。それは事実における妨害性の要素を捨て去ることを意味する。事実におけるいかなる要素も無効ではない――したがって悪との闘いは、調和の複合的な構造を導入する中間的な要素の供給による、利用の様態を築き上げる過程である。秩序のある始発的な再構築における些末さは、それ自身の直接の「目的」という固有の性格において些末でありながら、明晰であると同時に本質的に直接の価値をもつ世界の出現のための適切な「手段」である現実性が、産出されつつあるという事実を表現する。世界の悪とは、伝達に関して透明であるかぎりの要素それ自身がわずかな重みしかもたないこと、そして個体的な重みをもつ要素が、その不協和によって、鮮やかな直接性に夜へと消え去るべきという義務を課すこと、である。「彼は愛する者に眠りを与える」。したがってわれわれの宇宙論的構築において、われわれは最終的な対立項――喜びと悲しみ、善と悪、離接と連接すなわち多のうちの一、流動と永続、偉大さと些末さ、自由と必然、神と世界――とともに残される。この一覧において、対立項の対は、最後の対を除いて、ある種の窮極的な直接性をもつ直観のうちに経験される。神と世界は解釈の音色を導入する。それらは、創造的始発の質についての根本的な形而上学的学説――すなわち概念的欲求と物理的実現――の言葉での、宇宙論的問題の解釈を体現する。この主題が宇宙論の最終章を構成する。

 第二章 神と世界

  第I節

時間的世界が、卓越して実在的であると同時に不動の動者でもある窮極の原理からの派生によって説明可能な、創造的行為の自足した完結として思念されるかぎり、この結論からの逃げ道はない――その騒乱についてわれわれが言いうる最善のことは「それゆえ彼は愛する者に眠りを与える」ということである。これが仏教型の宗教のメッセージであり、ある意味でそれは真である。この最終の議論において、われわれは、形而上学的原理がそれを全体の真理であると信じることを課しているかどうかを問わなければならない。世界の複合性は答えのうちに反映されなければならない。「世界は何からできているのか」という単純な問いをもって思考に入るのは幼稚である。理性の課題は、事物の多面性のより深い深みを探ることである。われわれは遠大な問いに単純な答えを期待してはならない。われわれの視線がどれほど遠くまで貫こうとも、常にわれわれの視界を遮る高みがある。「不動の動者」としての神という観念は、少なくとも西洋思想に関するかぎり、アリストテレスに由来する。「卓越して実在的」としての神という観念は、キリスト教神学の好んだ学説である。その布告によって世界が存在するようになり、その課された意志にそれが従うところの、原初的で卓越して実在的な超越的創造主という学説へとこの両者を結合したことが、キリスト教とイスラム教の歴史に悲劇を注入してきた誤謬である。西洋世界がキリスト教を受け入れたとき、カエサルが勝利した。西洋神学の受容されたテキストは、彼の法律家たちによって編集された。ユスティニアヌスの法典とユスティニアヌスの神学は、人間精神の一つの運動を表現する二つの巻物である。謙遜のガリラヤ的な短い幻視は、時代を通じて不確かに揺らめいた。宗教の公式な定式化において、それはユダヤ人がその救世主についての誤解を抱いていたという単なる帰属という、些末な形を取ってきた。しかし神をエジプト・ペルシア・ローマの帝国的支配者たちの像において形づくるという、より深い偶像崇拝は保持された。教会は神に、もっぱらカエサルに属していた属性を与えたのである。イスラム教の興隆とともに終わった、有神論的哲学の偉大な形成期において――文明と同じだけ長く続いた後――、三つの思考の系統が現れる。それらは細部における多くの変異のなかで、それぞれ帝国的支配者の像における神、道徳的エネルギーの人格化の像における神、窮極の哲学的原理の像における神を形づくる。ヒュームの『対話』は、世界の体系を説明するこれらの様式を反駁の余地なく批判している。三つの思想学派は、それぞれ神格化されたカエサルたち、ヘブライの預言者たち、アリストテレスと結びつけられうる。しかしアリストテレスはインドおよび仏教の思想に先立たれており、ヘブライの預言者たちはより早い思考の痕跡のうちに並行するものを見出しうる。イスラム教と神格化されたカエサルたちは、あらゆる時代と場所において、単にもっとも自然で明白な有神論的偶像崇拝的象徴主義を表しているにすぎない。有神論的哲学の歴史は、この問題を考えるこれら三つの異なる仕方の、さまざまな段階の結合を示す。しかしキリスト教のガリラヤ的起源には、三つの主要な思想の筋のいずれともあまりうまく適合しない、もう一つの示唆がある。それは支配するカエサルも、容赦ない道徳家も、不動の動者も強調しない。それは、静かにゆっくりと愛によって働く、世界の優しい要素に留まる。そしてそれは、この世のものではない王国の現在の直接性のうちに目的を見出す。愛は支配もしなければ、不動でもない。またそれは道徳についていくぶん無頓着である。それは未来を見ない――というのもそれは直接の現在のうちにそれ自身の報酬を見出すからである。

  第II節

現存する宗教が実際にどうであるか、あるいはどうあるべきかへのいかなる言及も離れて、われわれは、ここで展開された形而上学的原理が、神の本性に関するこれらの点について何を要求するかを、公平に探究しなければならない。ここには証明という性質のものは何もない。ただ理論的体系と事実のある種の解釈との対峙があるにすぎない。しかし事実についての体系化されていない報告それ自体、大いに議論の余地があり、体系は明らかに不十分である。この特定の思考領域におけるそこからの演繹は、その体系の光のもとで問題がいかに変容するかについての示唆以上のものとは見なされえない。以下は単に、ヒュームの傑作『自然宗教をめぐる対話』に、もう一人の話者を加えようとする試みにすぎない。議論のいかなる説得力も、われわれの意識的経験における、いくぶん例外的な要素――大まかに宗教的・道徳的直観としてまとめられうる要素――の解明に完全に依存する。まず第一に、神はあらゆる形而上学的原理への例外として、その崩壊を救うために呼び出されるものとして扱われるべきではない。彼はそれらの主要な例証である。原初的なものとして見れば、彼は潜勢態の絶対的な富の無限定な概念的実現である。この側面において、彼はあらゆる創造に〈先立つ〉のではなく、あらゆる創造と〈ともに〉ある。しかし原初的なものとして、彼は「卓越した実在性」からほど遠く、この抽象において「現実性を欠く」――そしてこれは二つの仕方においてである。彼の感受はもっぱら概念的であり、それゆえ現実性の充満を欠く。第二に、概念的感受は、物理的感受との複合的な統合を離れては、その主体的形相において意識を欠いている。したがってわれわれが理性の区別をなし、神を原初的現実性という抽象において考察するとき、われわれは彼に、感受の充満も意識も帰してはならない。彼は事物の基底における概念的感受の無条件の現実性である――それによって、この原初的現実性の理由によって、創造の過程への永遠的客体の適切性における秩序がある。彼の概念的操作の統一は、事物のいかなる特定の経過への言及にも束縛されない、自由な創造的行為である。それは、実際に生じることへの愛によっても憎しみによっても逸らされない。現実世界の〈個別性〉はそれを前提するが、〈それ〉は単に、それがその原初的な例証であるところの、創造的前進という〈一般的な〉形而上学的性格を前提するにすぎない。神の原初的本性とは、創造性による原初的性格の獲得である。彼の概念的現実性は範疇的条件を例証すると同時に確立する。彼の原初的本性を構成する概念的感受は、その主体的形相において、その相互感応性と、主体的目的の主体的統一とを例証する。これらの主体的形相は、現実性のそれぞれの機会にとっての永遠的客体の相対的な適切性を決定する評価である。彼は感受のための誘因であり、欲求の永遠の衝動である。世界におけるそれ自身の限定された立脚点から生じるそれぞれの創造的行為への彼の特定の適切性が、それぞれの主体的目的の始発的な相を確立する、始発的な「欲求の対象」として彼を構成する。アリストテレス『形而上学』からの一節が、この思考の筋への類比と相違とをいくつか表現している――「動かされるものと動かすものとは中間的であるから、動かされることなく動かすもの、すなわち永遠であり実体であり現実態であるものがある。そして欲求の対象と思考の対象とは同じである。というのも、見かけの善は欲望の対象であり、真の善は合理的な欲求の第一次の対象だからである。しかし欲求は意見に伴うのであって、意見が欲求に伴うのではない。というのも思考が出発点だからである。そして思考は思考の対象によって動かされ、対立の一覧の一方の側はそれ自体思考の対象である……」。アリストテレスは、概念的感受と、意識のみを含む知的感受とのあいだの区別をなしていなかった。しかし上の引用における「思考」「思考すること」「意見」を、評価という主体的形相をもつ「概念的感受」に置き換えるなら、その一致は正確である。

  第III節

看過できない、神の本性のもう一つの側面がある。有機体の哲学のこの叙述全体を通じて、われわれは世界への神の第一次的な作用を考察してきた。この観点から見れば、彼は具体化の原理――さもなければ曖昧さに満ちた状況から確定した結末が始発される、その原理――である。したがってここまでは、神の本性の原初的側面のみが関連してきた。しかし神は、原初的であると同時に、結果的でもある。彼は始まりであり終わりである。彼はあらゆる成員の過去にあるという意味における始まりではない。彼は、あらゆる他の創造的行為との生成の一致における、概念的操作の前提された現実性である。したがってあらゆる事物の相対性の理由によって、世界の神への反作用がある。神の本性の、物理的感受の充満への完成は、神における世界の客体化から派生する。彼はあらゆる新しい創造とその現実世界を共有し、癒合する被造物は、その現実世界の神による客体化における新奇な要素として、神のうちで客体化される。神へのそれぞれの被造物のこの抱握は、彼のあまねく包括的な原初的評価から完全に派生する主体的目的とともに導かれ、主体的形相をまとわされる。神の概念的本性はその最終的な完全性の理由によって不変である。しかし彼の派生的本性は世界の創造的前進に結果として従う。したがって、あらゆる現実的存在と類比的に、神の本性は両極的である。彼は原初的本性と結果的本性とをもつ。神の結果的本性は意識的である。それは、彼の本性の統一における現実世界の実現であり、彼の知恵の変容を通じてのそれである。原初的本性は概念的であり、結果的本性は神の原初的概念のうえでの神の物理的感受の織り込みである。神の本性の一方の側面は彼の概念的経験によって構成される。この経験は世界における原初的事実であり、それが前提するいかなる現実性によっても限定されない。したがってそれは無限であり、あらゆる否定的抱握を欠く。彼の本性のこの側面は自由で、完全で、原初的で、永遠で、現実には欠如しており、無意識である。もう一方の側面は、時間的世界から派生する物理的経験から始発し、それから原初的側面との統合を獲得する。それは決定され、不完全で、結果的で、「永久的」で、完全に現実的で、意識的である。彼の必然的な善性は彼の結果的本性の決定を表現する。概念的経験は無限でありうるが、物理的経験の本性に属するのはそれが有限であるということである。時間的世界における現実的存在は、神から始発的に派生する結果的で概念的な経験によって動機づけられた完成の過程をもつ、物理的経験によって始発されるものとして思念されるべきである。神は、時間的世界から始発的に派生する結果的で物理的な経験によって動機づけられた完成の過程をもつ、概念的経験によって始発されるものとして思念されるべきである。

  第IV節

神の原初的本性の完全性から派生する神の主体的目的の完全性は、彼の結果的本性の性格へと帰結する。そこには喪失も妨害もない。世界は直接性の一致において感受される。創造的前進を相互の直接性の保持と結合するこの性質が、前節で「永久的」という語によって意味されたものである。主体的目的の知恵は、あらゆる現実性を、そのような完成された体系においてそれがありうるものとして抱握する――その苦しみ、その悲しみ、その失敗、その勝利、その喜びの直接性が、感受の正しさによって、常に直接的で、常に多であり、常に一であり、常に新奇な前進をともない、前進し続け決して消滅しない、普遍的感受の調和へと織り込まれる。純粋に自己本位的な、破壊的な悪の反乱は、単に個体的な事実の些末さへと退けられる。それでいて、それらが個体的な喜びにおいて、個体的な悲しみにおいて、必要な対比の導入において達成した善は、完成された全体へのその関係によってなお救われる。この神の本性の操作的な成長がもっともよく思念される、その像――それは単なる像にすぎないが――は、何も失われないようにという優しい配慮の像である。神の結果的本性は世界への彼の判断である。彼は、それが彼自身の生の直接性へと移行するにつれて、世界を救う。それは、救われうるものを何一つ失わない優しさの判断である。それはまた、時間的世界において単なる残骸にすぎないものを利用する知恵の判断でもある。彼の結果的本性を理解するために要求されるもう一つの像は、彼の無限の忍耐の像である。宇宙は、(一)一つの無限の概念的実現、(二)時間的世界における自由な物理的実現の多重の連帯、(三)現実的事実の多性と原初的概念的事実との窮極の統一、という三重の創造的行為を含む。もしわれわれが第一の項と最後の項をその統一において、時間的世界における物理的実現の中間的な多重の自由に対して思念するなら、われわれは、彼自身の本性の完成によって中間世界の騒乱を優しく救う、神の忍耐を思念することになる。事物の純然たる力は中間的な物理的過程のうちにある――これが物理的産出のエネルギーである。神の役割は、産出力と産出力との、破壊力と破壊力との戦闘ではない。それは、彼の概念的調和という圧倒的な合理性の忍耐強い操作のうちにある。彼は世界を創造するのではなく、それを救う。あるいはより正確には、彼は世界の詩人であり、真理・美・善への彼の幻視によって、優しい忍耐をもってそれを導く。

  第V節〜第VI節

流動と永続性との悪しき分離は、卓越した実在性をもつまったく静的な神という概念を、欠如した実在性をもつまったく流動的な世界との関係において、導く。しかし静的なものと流動的なものという対立項が、いったんこのように、別個の現実性を性格づけるものとして説明されてしまえば、静的なものと流動的なものとのあいだの相互作用は、その説明のあらゆる段階で矛盾を含むことになる。そのような哲学は「幻影」という観念を窮極の原理として――すなわち「単なる」現われという観念として――含まねばならない。これが最終的なプラトン的問題である。疑いなく、ギリシア、ヘブライ、キリスト教の思想の直観は、いずれも世界へと恵み深く降りてくる静的な神という観念と、完全に流動的であるか、あるいは偶然に静的だが最終的には流動的である世界という観念とを――「天と地は過ぎ去るであろう」――体現してきた。いくつかの思想学派においては、世界の流動性は、世界における選ばれた構成要素がこの最終的な流動性から免除され、静的な存続を達成する、という想定によって緩和される。そのような構成要素は、その想定がなされない類比的な構成要素から、いかなる決定的な線によっても分離されない。さらに、その存続は最終的な一対の対立項――ある者には幸福を、他の者には苦悶を――の言葉で解釈される。そのような体系は、われわれが表現しようと意図している根本的な直観から出発しながら、流動における永続性と永続性における流動という始発の直観と齟齬をきたす帰結をもたらす、言語的表現へと自らを絡めとってしまう、という共通の性格をもつ。しかし文明化された直観は、それが漠然としてはいても、常にこの問題を単一ではなく二重のものとして把握してきた。単なる流動〈と〉永続性の問題があるのではない。二重の問題がある――その完成として流動性を要求する、永続性をもつ現実性と、その完成として永続性を要求する、流動性をもつ現実性とである。問題の前半は、時間的世界からの結果的本性の派生による、神の原初的本性の完成に関わる。問題の後半は、「絶えざる消滅」を欠いた客体の不滅性というその機能による、それぞれの流動的な現実的機会の完成――すなわち「永久性」――に関わる。この二重の問題は二つの別個の問題へと分離できない。いずれの側も、他方の言葉によってのみ説明できる。神の結果的本性とは、神における客体の不滅性によって「永久的」となった流動的世界である。また現実的機会の客体の不滅性は、神の原初的な永続性を要求する――それによって創造的前進は、進化しつつある世界への神の適切性から派生する始発的な主体的目的を与えられて、常に自らを再確立する。しかし時間的世界内部の客体の不滅性は、より繊細な宗教的直観の浸透によって提起された問題を解決しない。「永久性」は失われている。そして「永久性」こそが、より繊細な宗教がその上に築かれるあの幻視の内容である――「多」が最終的な統一のうちに永久に吸収される、というその幻視である。神の流動性の問題と、過ぎゆく経験の永久性の問題とは、宇宙における同じ要因によって解決される。この要因とは、あらゆる秩序の基盤である原初的欲求の充足として、その受容とその改革とによって完成された時間的世界である。この仕方で、神は有限な事実の個体的で流動的な満足によって完成され、時間的な機会は、最終的な絶対的な「知恵」である永遠の秩序への適合へと浄化された、それらの変容された自己との永久の結合によって完成される。この最終的な要約は、その見かけ上の自己矛盾が存在の多様な範疇の看過に依存する、一組の対立命題の言葉によってのみ表現できる。それぞれの対立において、対立を対比へと転じる、意味の推移がある。神が永続的で世界が流動的であると言うのは、世界が永続的で神が流動的であると言うのと等しく真である。神が一であり世界が多であると言うのは、世界が一であり神が多であると言うのと等しく真である。世界と比較して神が卓越して現実的であると言うのは、神と比較して世界が卓越して現実的であると言うのと等しく真である。世界が神に内在すると言うのは、神が世界に内在すると言うのと等しく真である。神が世界を超越すると言うのは、世界が神を超越すると言うのと等しく真である。神が世界を創造すると言うのは、世界が神を創造すると言うのと等しく真である。神と世界とは、創造性がその離接した多性――その対立における多様性をともなう――を、その対比における多様性をともなう癒合的統一へと変容するという至高の課題を達成する、その言葉における対比的な対立項である。あらゆる現実性において、これらは実現の二つの癒合的極――「享受」と「欲求」、すなわち「物理的」と「概念的」――である。神にとっては概念的なものが物理的なものに先立ち、世界にとっては物理的な極が概念的な極に先立つ。物理的極はそれ自身の本性において排他的であり、矛盾によって境界づけられる。概念的極はそれ自身の本性においてあまねく包括的であり、矛盾によって境界づけられない。前者はその無限の分け前を欲求の無限性から引き出し、後者はその限界の分け前を享受の排他性から引き出す。したがって、その欲求の優先性の理由によって、神にとってはただ一つの原初的本性しかありえない。そして、その享受の優先性の理由によって、物理的世界における多くの現実性の一つの歴史がなければならない。神と世界とは、欲求的な幻視と物理的な享受とが創造における優先性への等しい主張をもつという、窮極の形而上学的真理を表現しながら、たがいに対立して立つ。しかしいかなる二つの現実性も引き裂くことはできない――それぞれがすべてにおいてすべてである。したがってそれぞれの時間的機会は神を体現し、神のうちに体現される。神の本性において、永続性は原初的であり流動は世界から派生する。世界の本性において、流動は原初的であり永続性は神から派生する。また世界の本性は神にとっての原初的与件であり、神の本性は世界にとっての原初的与件である。創造は、それが最終的な項――すなわち永久性、世界の神格化――に到達したとき、永続性と流動との和解を達成する。対立する要素はたがいに対して相互的な要求のうちに立つ。その統一において、それらは抑制し合うか対比し合うかする。神と世界とは、たがいに対してこの対立的な要求のうちに立つ。神はあらゆる精神性の無限の根拠であり、物理的多性を求める幻視の統一である。世界は有限なものの多性であり、完成された統一を求める現実性である。神も世界も静的な完結には到達しない。両者とも、新奇性への創造的前進という窮極の形而上学的根拠の掌中にある。神と世界とのいずれもが、他方にとっての新奇性の道具である。あらゆる点において、神と世界は、その過程に関してたがいに逆に動く。神は原初的には一である――すなわち彼は、多くの潜勢的形相の適切性の原初的な統一である。過程において彼は結果的な多性を獲得し、それを原初的な性格がそれ自身の統一へと吸収する。世界は原初的には多である――すなわちその物理的有限性をもつ多くの現実的機会である。過程においてそれは結果的な統一を獲得し、それは新奇な機会であり、原初的な性格の多性へと吸収される。したがって神は、世界が多として、また一として思念されるべき逆の意味において、一として、また多として思念されるべきである。あらゆる宗教の基盤である宇宙論の主題は、永久の統一へと移行していく世界の動的な努力の物語と、世界の努力の多性の吸収による完成という彼の目的を成し遂げる、神の幻視の静的な威厳の物語である。

  第VII節

神の結果的本性は、個体的な自己実現をもつ多性の充足である。それは統一であるのとちょうど同じ程度に多性である。それはそれ自身を超えた不休の前進であるのとちょうど同じ程度に、一つの直接の事実である。したがって神の現実性もまた、創造の過程にある現実的な構成要素の多性として理解されねばならない。これが、天の王国という機能における神である。時間的世界におけるそれぞれの現実性は、神の本性のうちにその受容をもつ。神の本性における対応する要素は時間的現実性ではなく、その時間的現実性の、生きた、常に現前する事実への変換である。時間的世界における持続する人格性は、後継者たちがある特異な完全さをもってその先行者たちを総括する、機会の経路である。神の本性における相関する事実は、継起が直接の一致の喪失を意味しない要素の連鎖における、さらにいっそう完全な生の統一である。神の本性におけるこの要素は、時間的世界において未来が過去から相続するのと同じ原理にしたがって、その時間的な対応物から相続する。したがって直接の機会が〈いま〉の人格でありながら、それでいてそれ自身の過去をもつのと同じ意味において、神におけるその対応物は神におけるその人格である。しかし普遍的相対性の原理は、神の結果的本性で止まるべきではない。この本性自体が、さまざまな癒合する機会へのその適切性の段階づけにしたがって、時間的世界へと移行する。したがって宇宙がその現実性を成し遂げる、四つの創造的な相がある。まず、現実性においては欠如しているが、その評価の調整においては無限である、概念的始発の相がある。第二に、その多性の現実性をともなう、物理的始発の時間的相がある。この相において完全な現実性が達成される。しかし個体たちのたがいとの連帯性においては欠如がある。この相はその確定した諸条件を第一相から引き出す。第三に、完成された現実性の相がある――そこでは多が、個体的同一性の喪失も統一の完全性の喪失も限定なしに、永久に一である。永久性において、直接性は客体の不滅性と和解する。この相は、その存在の諸条件を先行する二つの相から引き出す。第四相において、創造的行為はそれ自身を完成する。完成された現実性は時間的世界へと戻り、この世界を限定するからである――それによってそれぞれの時間的現実性は、関連する経験の直接の事実としてそれを含む。というのも天の王国は今日われわれとともにあるからである。第四相の作用は、世界に対する神の愛である。それは特定の機会への特定の摂理である。世界においてなされることは天における実在性へと変容され、天における実在性は世界へと戻る。この相互的な関係の理由によって、世界における愛は天における愛へと移行し、そして再び世界へと溢れ戻る。この意味において、神は偉大な伴侶――理解する、ともに苦しむ者――である。ここにわれわれは、客体の不滅性の学説の最終的な適用を見出す。それぞれの時間的被造物の生における消滅する機会を通じて、不満あるいは刷新の内なる源泉、事物の本性そのものから生じる審判者、贖い主あるいはいたずらの女神は、神の存在における永久のそれ自身の変容である。この仕方で、あの執拗な渇望が正当化される――存在への熱情が、消滅しながらもなお永久に生き続ける、われわれの直接の行為の常に現前する色あせない重要性によって刷新されるべきだという、あの執拗な渇望である。

用語欄

本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。

『現実的存在』(現実的機会)

世界がそこから成り立っている窮極の実物。神も、遠く離れた空虚な空間における最も些細な存在のひと吹きも、等しく現実的存在である。それは経験の一つの拍動であり、多くのものを一つの新奇な統一へと癒合させる過程として捉えられる。時間的な現実的存在は「現実的機会」とも呼ばれる。

『抱握』

現実的存在が他の現実的存在や永遠的客体を、自らの構成の一部として取り込む働き。肯定的抱握(感受)と否定的抱握とに分かれ、肯定的抱握は主体・始発的与件・除去・客観的与件・主体的形相という五つの要因へと分析される。

『結合体』

現実的存在どうしが、たがいの抱握――言い換えればたがいのうちでの客体化――によって構成する、関係性の統一における現実的存在の集合。規定的性格を共有する結合体は「社会」と呼ばれる。

『永遠的客体』

その概念的な認知が時間的世界のいかなる確定した現実的存在への必然的な指示も含まない存在。プラトン的形相に相当するが、哲学的伝統においては誤って「普遍」と呼ばれてきた。現実的存在への進入によってのみ、現実性のうちにその居場所を得る。

『存在論的原理』

「現実的存在なければ、理由もない」という原理。あらゆるものは現実性においてどこかに積極的に存在し、可能態においてはあらゆるところに存在する。理由の探求とは常に、その理由の担い手である現実的事実の探求である。

『満足』

現実的存在の癒合過程が到達する、完全に確定した一つの複合的感受としての頂点。それは創造的衝動が範疇的要求の充足によって得る充足であり、達成された後は現実的存在の「客体的」側面として、超越的な創造性を条件づける。

『客体化』

ある現実的存在が、別の現実的存在の自己創造の構成要素として機能すること。客体化は必然的に抽象を含み、当の存在の全体性ではなく、その確定性のある要素のみが、後続の現実的存在の与件として選択的に伝えられる。

『客体の不滅性』

現実的存在は主体的には「絶えず消滅」しながらも、客体的には不滅であるという学説。死せるものが生けるものによって取り込まれ、他の生成しつつある現実性のうちの実在的な構成要素となること。世界の創造的前進とは、この客体の不滅性にほかならない。

『創造性』

窮極の範疇における窮極の観念であり、普遍のなかの普遍。離接的な多が、連接的な一つの新奇な現実的機会となる、その窮極の原理。それ自身に固有の性格をもたず、常に条件づけられたものとしてのみ記述される。

『命題』

純粋な潜勢態と現実性とのあいだの雑種的な存在。確定した現実的存在(論理的主語)と永遠的客体(述語)とから成り、真か偽かでありうる。その第一次的な機能は判断のための素材としてではなく、感受のための誘因としてある。

『対比』

永遠的客体の確定性から生じる、個体的な確定性をもつ複合的存在。対比された関係項から抽象されえない。両立不可能性の対極として、感受の強度を高める。多重対比は構成的な二項対比の単なる集合ではなく、それ自身一つの対比である。

『主体的形相』

感受がその与件を「どのように」感受するかを規定する要因。情動・目的・評価・嫌悪など多様な種がある。主体的形相は感受される客体化された与件と切り離せず、それによって現実的存在は自己原因(causa sui)となる。

『主体・超主体』

現実的存在は、それ自身の生成の直接性を統べる「主体」であると同時に、客体の不滅性という機能を行使する「超主体」でもある、という学説。この二つの側面のいずれも片時も見失われてはならない。

『現前的直接性』

感覚を通じて同時代世界を知覚する様態。明晰で判明だが、過去や未来についての情報を直接には与えない。因果的効力性の様態と統合されることで「象徴的指示」による知覚が成り立つ。

『因果的効力性』

身体諸器官からの相続を通じて、漠然としながらも強烈に感受される、過去からの作用の様態。現前的直接性よりも原初的な知覚様態であり、あらゆる現実的存在にとって不可避のものである。

『遠近法』

現実的存在や結合体が、他の現実的存在の構成へと客体化される際に被る、選択的な抽象の様態。客体化とは常に、ある立脚点からの遠近法的な限定を通じてなされる。

『神の原初的本性/結果的本性』

神の両極的な本性。原初的本性はあらゆる永遠的客体の無条件の概念的評価であり、自由で無時間的。結果的本性は時間的世界からの物理的感受の受容であり、意識的で、世界のあらゆる現実性を優しく救い上げる。

第Ⅱ部 物の定義について

第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。

ホワイトヘッドにおいて、物を定義することは容易ではない。物を、性質を担う静止した基体として語ること――実体・性質という思考の型に頼ること――こそが、第Ⅰ部を通じて繰り返し退けられてきたからである。窮極の事実は、留まる基体ではなく、生成の過程そのものである。しかもその生成は、みずからの力だけで始まるのでもない。物が物になろうとする、その最初の一歩は、神から相続されるのでなければ始発しえない。したがって物の定義は、物をひとまず生成する現実性として捉え直し、なおかつその生成が何に由来して始まるかを含めてはじめて、成り立つ。

以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。

『物とは、神の原初的本性から始発の主体的目的を相続して生成する現実的存在として、抱握によって世界を自己の構成へと取り込みながら満足に至り、消滅とともに客体の不滅性を得て後続の生成へと引き継がれる、自己原因的な一単位である。』

物を問うとき、まず問われなければならないのは、その生成がどこから始まるか、である。物はみずからの力だけで生成を始めることはできない。生成の始発点において、物はまだ何もめざしていないからである。この始発の目的を、物はよそから相続する。あらゆる時間的な生成に先立って、あらゆる永遠的客体をあまねく評価し尽くしている、非時間的な評価の秩序がある。これを『神の原初的本性』と呼ぶ。物のそれぞれは、この原初的本性から、それぞれの立脚点に適切な仕方で、始発の目的を相続する。この相続された目的を『主体的目的』と呼ぶ。物は、この主体的目的を与えられてはじめて、生成に向けて動き出すことができる。

この始発を得た物を、『現実的存在』と呼ぶ。現実的存在とは、世界がそこから成り立っている窮極の実物である。神も、空虚な空間における最も些細な存在のひと吹きも、等しくこの意味における物である。

物は、しかし単に在るのではない。物は、それ自身になる。世界のあらゆる項目――過去の現実的存在、選ばれた永遠的客体――を、みずからの構成へと取り込む働きがなければ、物は物になりえない。この取り込みの働きを『抱握』と呼ぶ。物は、みずからの現実世界を抱握することによって、はじめてそれ自身の物になる。

抱握は、始発の相からしだいに統合され、ついに一つの確定した複合的感受へと至る。この到達点、この完結を『満足』と呼ぶ。物が満足に達するとき、その生成の過程は終わる。物はもはや非確定性を残さない、確定した個体的事実となる。

だが満足に達したことは、物が消え去ることを意味しない。満足した物は、それ自身の直接性を失いながらも、後続の物の構成へと取り込まれる資格を得る。死せるものが生けるものによって取り込まれ、実在的な構成要素として働き続ける、この仕方を『客体の不滅性』と呼ぶ。物は消滅することによってのみ、不滅になる。

そして物は、それ自身がそれであるところのものであるために、まさにそのように生成する。相続された主体的目的は始発の条件にすぎず、それをいかに満足へと運ぶかは、物それ自身の決定による。物をそのように生成させる、外部の作用主体は存在しない。物はそれ自身の生成の目的でもある。この意味において、物は『自己原因』である。

作品名:ホワイトヘッド『過程と実在』を知るための本

発行責任者(著者):飯島健二

発行:古典書房

制作協力:Claude(claude-sonnet-4-6)

参照原典:英語原典『Process and Reality: An Essay in Cosmology』(1929年、マクミラン社刊、初版)

初版発行日:2026年8月21日

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注記:本書が参照する原典は、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド『過程と実在』(Process and Reality)の英語原典である。本書の制作において直接参照した版は、1929年マクミラン社刊の初版(Internet Archive識別子:processrealityes0000unse)に準拠したものである。本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTML(whitehead-katei-to-jitsuzai-hon.html、全五部完結)が存在するため、術語および論証骨格の照合基準として当該翻訳HTMLを参照して制作している。本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。

なお、第Ⅱ部の定義文はホワイトヘッド独自の術語(現実的存在・抱握・満足・客体の不滅性・自己原因等)によって組み立てられている。他の哲学書に沿った物の定義と比較しやすいように、同じ内容を一般的な言葉づかいで言い換えたものを、公式ホームページのタイムライン頁にあわせて示す。「物は固定した実体ではなく、宇宙のあらゆる過去を把握しながら自己を形成し、一つのまとまりへと至って消えてゆく『出来事』である。しかしその消滅は消え去ることではなく、後に続く出来事のなかへ材料として生き続けることでもある。この出来事はみずからの力だけで動き出すのではなく、あらゆる可能性をあらかじめ見渡す宇宙内在の働き――ホワイトヘッドが『神』と呼ぶもの――から、最初の目的を受け取ってはじめて動き出す。」この言い換えは比較のための要約であり、第Ⅱ部の定義文に代わるものではない。