ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を知るための本

知の地図シリーズ / 古典書房

哲学者について

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)は、1889年4月26日、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに生まれ、1951年4月29日、イギリスのケンブリッジで没した。実業家の家庭に生まれ、はじめベルリンの高等工業学校で機械工学を学び、続いてイギリスのマンチェスター大学で航空工学の研究に携わるなかで、数学の基礎にかかわる問題に関心を向けるようになった。1911年、ゴットロープ・フレーゲの助言を受けて、ケンブリッジ大学のバートランド・ラッセルのもとを訪れ、論理学の研究に進んだ。

原典について

原典言語はドイツ語である。原典名はLogisch-Philosophische Abhandlung(ラテン語の題はTractatus Logico-Philosophicus)。本書の制作において直接参照した版は、Ludwig Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus, With an Introduction by Bertrand Russell (London: Kegan Paul, Trench, Trubner & Co., Ltd. / New York: Harcourt, Brace & Company, Inc., 1922)に収められたドイツ語本文である。この版はドイツ語原文と英訳とを見開きで対照させたものであり、ドイツ語本文は偶数頁に組まれている。

本書の構成と考え方

本書は、原典における思考の進展を辿る形で提示する本である。第Ⅱ部は、第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が「物」を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。第Ⅰ部は、原典全体を対象とし、原典の記載順および論の進行に沿って構成する。

本書は、対応する翻訳HTMLと構成・論の進行を同じくするが、分量は翻訳HTMLのおよそ9割程度である。

原典の命題には、1、1.1、1.11のように、小数点で区切られた番号が振られている。この番号づけは原典の著者自身の注によるもので、末尾の桁が一つ増えるごとに、一段深い注釈であることを示している。たとえばn.1、n.2は命題nへの注釈であり、n.m1、n.m2は命題n.mへの、さらに一段先の注釈にあたる。具体的には、2.01は命題2への注釈、2.011はその2.01への注釈である。この結果、本書全体は、1から7までの七つの主命題を幹として枝分かれしていく、木に似た構造をなしている。原典構造一覧では、この段差によって構造を示している。なお番号そのものは本文の並び順にしたがっているため、たとえば2.0121のあと2.0122、2.0123と続いてから2.013に戻るというように、読み進める際には、枝の先まで進んでからまた幹へ戻る、という動きを繰り返すことになる。

目次

原典構造一覧

本一覧は、本書が参照する原典において実際に用いられている構造単位を、そのまま示す。全526命題を、番号の桁による注釈の関係(命題1の著者注。本書の構成と考え方を参照)にしたがって段差で示す。主命題の行を開くと、その注釈の命題が表示される。

1(7命題)
2(79命題)
3(74命題)
4(109命題)
5(151命題)
6(105命題)
7(1命題)

第Ⅰ部 原典について

序文

ここに述べた思考、あるいはそれに近い思考を、すでに自分自身で考えたことのある人でなければ、この本を理解することはおそらくできない。この本は教科書ではない。読んで理解した人に、何がしかの楽しみをもたらすことができれば、それで十分である。

この本が扱うのは哲学の諸問題であり、それらの問題がそもそも誤って立てられているのは、言語の論理が誤解されているからだ、というのが私の考えである。この本全体の意味は、次の一言に集約できるだろう。語られうることは、明晰に語られうる。そして、語りえないことについては、沈黙するほかない。

したがって、この本が引こうとする限界は、思考にではなく、思考の表現に対してである。思考そのものに限界を引くには、その限界の両側を、つまり考えられないことまでも考えられなければならないが、それはできない。

限界を引くことができるのは、言語の側からだけである。そして、その限界の外側にあるものは、端的にナンセンスとなる。

私のこの試みが、他の哲学者たちの試みとどこまで重なるか、私にはそれを判定するつもりはない。ここに書いたことのどれも、個々の点で新しいということを主張しはしない。だから典拠も挙げない。私の考えたことを、私より先に誰かが考えていたとしても、それは私にはどうでもよいことである。

ただ、フレーゲの大きな仕事と、友人バートランド・ラッセルの仕事とに、私が多くを負っていることだけは述べておきたい。

この仕事に価値があるとすれば、それは二つの点においてである。一つは、ここに思考が表現されているという点であり、その価値は、思考がよりよく表現されているほど大きい。この点で、私はなしうることに遠く及ばなかったと自覚している。ただ、この課題に見合うだけの力が私になかったからにほかならない。私よりうまくやる者が、いつか現れるとよいと思う。

これに対して、ここに示した思考の真理そのものは、揺るぎなく、決定的であるように私には思われる。私は、これらの問題を本質のところで最終的に解決したと考えている。もし私が誤っていないなら、この仕事のもう一つの価値は、これらの問題が解決されたとしても、それによってなされたことがいかにわずかであるかを示す点にある。

L・W
ウィーン、1918年

1

成り立っていることの全体、これが世界にほかならない。

1.1

世界を成り立たせているのは、事実の総体であって、物の総体ではない。

1.11

世界を規定するのは事実であり、しかも、それがすべての事実であるということが、世界を規定している。

1.12

事実の総体は、何が成り立っているかだけでなく、何が成り立っていないかをも、余すところなく規定するからである。

1.13

論理空間のうちにある事実、それが世界である。

1.2

世界は事実へと分かれてゆく。

1.21

あることは、成り立っていることもあれば、成り立っていないこともありうる。そして、そのときほかのすべては、そのままでありうる。

2

事態が存立していること、これが事実であり、成り立っていることにほかならない。

2.01

対象、すなわち物と物との結合、それが事態である。

2.011

物にとって本質的なのは、事態を構成する要素になりうるということである。

2.012

論理のうちに、偶然なものは一つもない。ある物が、ある事態のうちに現れることができるのなら、その事態の可能性は、すでにその物のうちに定められていなければならない。

2.0121

単独でも存立しうる物に、状況があとから偶然合わさるように見えるとすれば、それは見かけにすぎない。物が事態のうちに現れうるということは、あらかじめその物のうちになければならないことがらである。(論理的であるものが、単に可能であるにとどまるということはありえない。論理が扱うのはあらゆる可能性であり、可能性のすべてが論理にとっての事実である。)空間的な対象を空間の外に、時間的な対象を時間の外に考えることができないのと同様に、いかなる対象も、他の対象との結合の可能性の外に考えることはできない。事態の結びつきのうちにある対象として考えうるなら、その結びつきの可能性の外で、その対象を考えることはできない。

2.0122

物が自立しているのは、あらゆる可能な状況のうちに現れうるという点においてである。だが、この自立性の形式は、同時に事態との連関の形式でもあり、非自立性の形式でもある。(語が、単独で現れる仕方と、命題のうちで現れる仕方という、二通りの現れ方をすることはありえない。)

2.0123

ある対象を知るとき、私はその対象が事態のうちに現れうるすべての可能性をも、同時に知っている。(そのような可能性はいずれも、対象の本性のうちにあらかじめ属していなければならない。)新しい可能性があとから見出されるということはない。

2.01231

対象を知るのに、その外的な性質まで知る必要はない。だが、内的な性質については、そのすべてを知らなければならない。

2.0124

すべての対象が与えられていれば、それとともに、あらゆる可能な事態もすでに与えられている。

2.013

どの物も、いわば可能な事態の空間の中にある。この空間だけを、物なしに考えることはできても、物をこの空間なしに考えることはできない。

2.0131

空間的な対象は、無限に広がる空間のうちになければならない。(空間の一点とは、議論の項が占める位置である。)視野の中の染みは、赤くある必要はないが、何らかの色をもっていなければならず、いわば色の空間をそれ自身の周りにまとっている。音は何らかの高さをもたなければならず、触覚に与えられる対象は何らかの硬さをもたなければならない。他も同様である。

2.014

対象は、それが関わりうるあらゆる状況の可能性を、あらかじめ含んでいる。

2.0141

事態のうちに現れることができるというその可能性こそが、対象の形式にほかならない。

2.02

対象は単純なものである。

2.0201

複合体について語るどのような言明も、その構成要素についての言明と、その複合体を余すところなく記述する命題とへ、分解することができる。

2.021

世界の実体をなすのは対象である。したがって対象は、それ自体がさらに合成されたものであることはできない。

2.0211

もし世界に実体がないとすれば、一つの命題が意味をもつかどうかは、別の命題が真であるかどうかにかかってしまうことになる。

2.0212

その場合、世界の像を、真であるにせよ偽であるにせよ、描くことそのものが不可能になってしまうだろう。

2.022

現実の世界からどれほどかけ離れたものとして思い描かれた世界であっても、何か一つの形式だけは現実の世界と共有していなければならない。これは明らかなことである。

2.023

この固定した形式を成り立たせているのは、まさに対象にほかならない。

2.0231

世界の実体によって規定されうるのは形式だけであり、物質的な性質までは規定されえない。物質的な性質は、命題によってはじめて描写され、対象の配列によってはじめて形づくられるものだからである。

2.0232

付け加えて言えば、対象それ自体には色というものがない。

2.0233

同じ論理形式をもつ二つの対象があるとすれば、両者を分けるのは、外的な性質を除けば、それらがそれぞれ別のものであるという、その一点のみである。

2.02331

ここには二つの場合しかない。一つは、他のいかなる物ももたない性質を、ある物がもっている場合であり、この場合には、記述によってその物を他から際立たせ、指し示すことができる。もう一つは、複数の物がすべての性質を共有している場合であり、この場合、そのうちの一つを指し示すことはまったくできない。物が何によっても際立たされていないなら、私にそれを際立たせることはできないからである。もし際立たせることができるとすれば、その物はすでに際立たされていることになってしまう。

2.024

何が成り立っているかにかかわりなく存立するもの、それが実体である。

2.025

実体は形式であり、同時に内容でもある。

2.0251

空間、時間、色をもつということ、これらは対象の形式である。

2.026

対象があってはじめて、世界に固定した形式がありうる。

2.027

固定しているもの、存立しているもの、そして対象、この三つは一つのものである。

2.0271

対象は固定し存立するものであり、これに対して配列は移ろい、不安定なものである。

2.0272

対象がどう配列されるかによって、事態が形づくられる。

2.03

事態のうちでは、対象どうしが、あたかも鎖の環のようにつながり合っている。

2.031

事態のうちで対象は、それぞれ定まった仕方で互いに関係している。

2.032

対象が事態のうちでつながり合うその仕方こそが、事態の構造である。

2.033

形式とは、構造がとりうる可能性のことである。

2.034

事実の構造は、それを構成する事態の構造から成り立っている。

2.04

存立しているすべての事態、その総体が世界である。

2.05

存立している事態の総体は、それによって同時に、存立していない事態がどれであるかをも定めている。

2.06

事態が存立していること、そして存立していないこと、この両方が現実である。(事態の存立を肯定的事実、非存立を否定的事実と呼ぶこともできる。)

2.061

事態と事態とは、互いに独立している。

2.062

ある事態が存立しているか否かから、別の事態が存立しているか否かを推論することはできない。

2.063

現実のすべてを合わせたもの、それが世界である。

2.1

私たちは事実の像をつくる。

2.11

像が表しているのは、論理空間のうちにある一つの状況、すなわち事態の存立と非存立である。

2.12

像とは、現実の模型である。

2.13

像のうちでは、それぞれの要素が対象に対応している。

2.131

像の要素は、像のうちにあって対象の代わりを務めている。

2.14

像であるとは、その要素どうしが定まった仕方で互いに関係し合っている、ということにほかならない。

2.141

像とは一つの事実である。

2.15

像の要素どうしが定まった仕方でつながり合っていること、それは、物どうしが同じ仕方でつながり合っていることを表している。像の要素のこのつながりを像の構造と呼び、この構造がとりうる可能性を像の写像形式と呼ぶことにする。

2.151

写像形式とは、物どうしが、像の要素どうしと同じ仕方で関係し合いうる、というその可能性である。

2.1511

こうして像は現実と結びつけられている。像は現実にまで届いているのである。

2.1512

像は、物差しをあてがうようにして現実にあてがわれる。

2.15121

その物差しの目盛りのうち、両端の点だけが、測られる対象に実際に触れている。

2.1513

したがって、この見方に立てば、像を像たらしめている写像関係そのものも、像に属していることになる。

2.1514

写像関係を成り立たせているのは、像の要素と物とのあいだの対応づけである。

2.1515

この対応づけは、いわば像の要素にとっての触角であり、像はこの触角によって現実に触れている。

2.16

ある事実が像であるためには、それが写像するものと何かを共有していなければならない。

2.161

一方が他方の像でありうるためには、像と写像されるもののあいだに、何か同一のものがなければならない。

2.17

像がそれなりの仕方で現実を写像しうるために――正しく写すにせよ誤って写すにせよ――現実と共有していなければならないもの、それが像の写像形式である。

2.171

像は、自分と同じ形式をもつ現実であれば、どのような現実でも写像することができる。空間的な像は空間的なものをすべて、色をもつ像は色をもつものをすべて写像できる。他も同様である。

2.172

しかし像は、自分自身の写像形式だけは写像することができない。像はその形式を提示するのである。

2.173

像は、自分の対象を外側から描写する(像がどこに立つかが、その描写形式である)。それゆえ像は、その対象を正しく描写することも、誤って描写することもある。

2.174

だが像は、自分自身の描写形式の外に立つことはできない。

2.18

どのような形式の像であっても、現実を正しくであれ誤ってであれ写像しうるために共有していなければならないもの、それが論理形式、すなわち現実そのものの形式である。

2.181

写像形式がそのまま論理形式であるとき、その像は論理像と呼ばれる。

2.182

すべての像は、同時に論理像でもある。(これに対して、すべての像が空間的な像であるわけではない。)

2.19

論理像は、世界そのものを写像することができる。

2.2

像が写像されるものと共有しているのは、写像の論理形式である。

2.201

像は、事態が存立するか存立しないかについての一つの可能性を描写することによって、現実を写像する。

2.202

像が描写するのは、論理空間のうちにある一つの可能な状況である。

2.203

像は、自分が描写している状況が成り立つという可能性を、それ自身のうちに含んでいる。

2.21

像は、現実と一致するか、一致しないかのいずれかである。すなわち、正しいか正しくないか、真か偽か、そのどちらかである。

2.22

像が描写するものは、それが真であるか偽であるかにかかわらず、写像形式によって描写されている。

2.221

像が描写しているもの、それが像の意味である。

2.222

像の意味が現実と一致するか一致しないか、そこに像の真偽がかかっている。

2.223

像が真であるか偽であるかを知るには、その像を現実と照らし合わせるほかない。

2.224

像だけを見ても、それが真であるか偽であるかは分からない。

2.225

アプリオリに真である像というものは、存在しない。

3

事実の論理像、それが思考である。

3.001

ある事態を考えることができるとは、その事態の像をつくることができる、ということにほかならない。

3.01

真である思考をすべて集めたもの、それが世界の像である。

3.02

思考は、自分が考えている状況が成り立ちうるという可能性を、それ自身のうちに含んでいる。考えられることは、そのまま可能でもある。

3.03

非論理的なことは、何一つ考えることができない。もしできるとすれば、非論理的に考えるということができなければならなくなってしまう。

3.031

神は何でも創造できるが、論理の法則にだけは反することができない、とかつて言われたことがある。実のところ、「非論理的な」世界がどのようなものであるかを、語ることはできないだろう。

3.032

論理に矛盾するものを言語のうちに描き出すことは、空間の法則に矛盾する図形を座標によって描くことや、存在しない点の座標を挙げることが幾何学においてできないのと、同じようにできない。

3.0321

物理学の法則に反する事態であれば、空間的に描くことができる。だが、幾何学の法則に反する事態を、空間的に描くことはできない。

3.04

アプリオリに正しい思考があるとすれば、それは、その思考が可能であるということが、そのままその真理をも条件づけているような思考であろう。

3.05

何かと比べることなく、思考そのものから、その真理が分かるのであれば、そのときにかぎって、思考が真であることをアプリオリに知ることができるだろう。

3.1

命題において、思考は感覚に知覚されうる形で表現される。

3.11

命題の、感覚に知覚されうる記号(音声記号や文字記号など)を、私たちは可能な状況の射影として用いる。その射影の方法にあたるのが、命題の意味を考えることである。

3.12

思考の表現に用いられる記号を、命題記号と呼ぶことにする。命題とは、世界への射影関係のうちに置かれた命題記号である。

3.13

射影に属するものはすべて命題にも属する。だが、射影されるものそのものは命題に属さない。射影されるものの可能性が命題に属するのであって、それ自体は属さないのである。したがって命題は、その意味をまだ含んではいないが、意味を表現する可能性は含んでいる。(「命題の内容」というのは、意味をもつ命題の内容のことである。)命題は、意味の形式を含むが、意味の内容そのものは含まない。

3.14

命題記号であるとは、その要素である語どうしが、定まった仕方で互いに関係し合っている、ということである。命題記号は一つの事実である。

3.141

命題は語の寄せ集めではない。(音楽の主題が音の寄せ集めでないのと同じである。)命題は分節をもっている。

3.142

意味を表現しうるのは事実だけであり、名を集めたものにはそれができない。

3.143

命題記号が一つの事実であるということは、文字や印刷という通常の表現の形式によって、見えにくくなっている。印刷された命題を見るかぎり、命題記号は語と本質的に違うものには見えないからである。(フレーゲが命題を合成された名と呼びえたのは、そのためである。)

3.1431

命題記号を、文字記号からではなく、机や椅子、本のような空間的な対象から組み立てられたものとして考えてみると、命題記号の本質がきわめてよく見えてくる。この場合には、それらの物どうしの空間的な位置関係が、命題の意味を表現することになる。

3.1432

複合的な記号「aRb」が、aがbに対して関係Rにあることを語る、というのではない。そうではなく、「a」が「b」に対して特定の関係にあるということ自体が、aRbということを語っているのである。

3.144

状況は記述することができるが、名指すことはできない。(名は点に似ており、命題は矢に似ている。命題は意味をもつ。)

3.2

命題において思考は、思考の対象に命題記号の要素が対応するという仕方で、表現されることができる。

3.201

この要素を単純記号と呼び、そのように要素へと行き着いた命題を、完全に分析された命題と呼ぶことにする。

3.202

命題のうちで用いられる単純記号のことを、名という。

3.203

名が指示するのは対象であり、その対象が名の指示対象である。(「A」は「A」と同じ記号である。)

3.21

命題記号のうちで単純記号がどう配列されているかに、状況のうちで対象がどう配列されているかが対応する。

3.22

命題において名は、対象の代わりを務めている。

3.221

対象については、名指すことしかできない。対象の代わりを務めるのは記号である。対象について語ることはできても、対象そのものを言い表すことはできない。命題も同様に、物がどのようにあるかを語ることしかできず、物が何であるかを語ることはできない。

3.23

単純記号が可能でなければならないという要請は、意味が確定していなければならないという要請にほかならない。

3.24

複合体について述べる命題は、その構成要素について述べる命題と、内的な関係にある。複合体が与えられうるのは、その記述によってのみであり、この記述は当たっていることもあれば、当たっていないこともあるだろう。複合体を話題にする命題は、その複合体が存在しないとき、ナンセンスになるのではなく、ただ偽になるにとどまる。命題の要素が複合体を表示していることは、その要素を含む命題のうちに残る不確定さから見てとることができる。この命題によっては、まだすべてが確定されていないことを、私たちは知っているのである。(一般性の表示は、まさに一つの原像を含んでいる。)複合体のシンボルを一つの単純なシンボルへとまとめ上げることは、定義によって表現できる。

3.25

命題の完全な分析というものは、ただ一通りしか存在しない。

3.251

命題は、自分が表現することがらを、定まった、明確に言い表せる仕方で表現する。命題は分節をもっている。

3.26

名は、どのような定義によっても、これ以上分解することができない。名は原始記号である。

3.261

定義された記号はいずれも、それを定義するのに用いられた記号を経由して表示しており、その道筋を定義が示している。原始記号と、それによって定義された記号とが、同じ仕方で表示するということはありえない。名を定義によって分解することはできない。(単独で自立して指示対象をもつ記号は、いずれも定義によって分解することができない。)

3.262

記号のうちに表現されていないものを、記号の使用が示している。記号が内に呑み込んでいるものを、記号の使用が言い表す。

3.263

原始記号の指示対象は、解明によって説明することができる。解明とは、その原始記号を含む命題にほかならない。したがって解明は、その記号の指示対象がすでに知られている場合にかぎって、理解されうる。

3.3

意味をもつのは命題だけである。名が指示対象をもつのも、命題の脈絡のうちにおいてのみである。

3.31

命題の意味を特徴づける、命題のそれぞれの部分を、表現、すなわちシンボルと呼ぶことにする。(命題そのものも一つの表現である。)表現とは、命題の意味にとって本質的であり、複数の命題どうしが互いに共有しうるもののすべてである。表現は形式と内容とを特徴づける。

3.311

表現は、自分が現れうるすべての命題の形式を、あらかじめ前提している。表現とは、命題のクラスに共通する、特徴的な標識である。

3.312

したがって表現は、自分が特徴づける命題の一般形式によって描写される。しかもその形式のうちでは、表現だけが定項であり、他のすべては変項である。

3.313

したがって表現は、その表現を含む命題を値とする変項によって描写される。(極限の場合には、変項は定項となり、表現は命題そのものとなる。)この変項を、命題変項と呼ぶことにする。

3.314

表現が指示対象をもつのは、命題のうちにおいてのみである。どのような変項も、命題変項として捉えることができる。(変項とされた名も同様である。)

3.315

命題を構成する要素の一つを変項に変えれば、その変項命題の値となりうる命題からなる、一つのクラスが得られる。このクラスは一般に、命題のその部分によって何を言おうとしているかという、恣意的な取り決めにまだ依存している。だが、指示対象が恣意的に定められているすべての記号を変項に変えたときにも、なおこのようなクラスは得られ、この場合にはもはやどんな取り決めにも依存せず、ただ命題の本性だけに依存することになる。このクラスは一つの論理形式に、すなわち一つの論理的な原像に対応している。

3.316

命題変項がとってよい値は、取り決めによって定められる。とりうる値を定めること、それが変項である。

3.317

命題変項の値を定めることは、その変項を共通の標識とする命題を指定することであり、この定めは、それらの命題についての記述である。したがってこの定めが扱うのはシンボルだけであって、シンボルの指示対象は扱わない。この定めにとって本質的なのは、それがシンボルの記述にすぎず、表示されるものについては何も言明していないという、その一点だけである。命題の記述がどのようになされるかは、本質的なことではない。

3.318

命題は、フレーゲやラッセルと同じく、そのうちに含まれる表現の関数として捉えられる。

3.32

記号とは、シンボルのうち、感覚によって知覚できる部分のことである。

3.321

したがって、二つの異なるシンボルが、同じ記号(文字記号や音声記号など)を共有することもありうる。その場合、両者は異なる仕方で表示していることになる。

3.322

二つの対象を、同じ記号によって、しかし異なる二通りの表示の仕方で表示したとしても、それによって両者に共通の標識が示されることは決してない。記号はもともと恣意的なものだからである。二つの異なる記号を選ぶこともできたはずであり、その場合、表示のうちに共通なものがどこに残るというのか。

3.323

日常言語では、同じ語が異なる仕方で表示すること、つまり異なるシンボルに属してしまうこと、また逆に、異なる仕方で表示する二つの語が、外見上は同じように命題のうちで用いられることが、きわめて頻繁に起こる。たとえば「ある」という語は、繋辞として、等号として、また存在を表す語として現れる。「存在する」は「行く」のような自動詞として現れ、「同一の」は形容詞として現れる。私たちは、何かについて話すこともあれば、何かが起こる、と話すこともある。(「緑は緑である」という命題では、最初の語は人の名前であり、最後の語は形容詞である。ここでこの二つの語は、単に異なる指示対象をもつというだけでなく、そもそも異なるシンボルなのである。)

3.324

こうしたところから、きわめて根本的な混同がたやすく生じる(哲学全体がこの種の混同に満ちている)。

3.325

この種の誤りを避けるには、それを排除するような記号言語、すなわち、同じ記号を異なるシンボルのうちで用いず、異なる仕方で表示する記号を外見上同じように用いることもない記号言語、つまり論理的文法、論理的構文論に従う記号言語を用いなければならない。(フレーゲとラッセルの概念記法は、そのような言語である。ただし、それもすべての誤りを排除しきってはいない。)

3.326

記号のうちにシンボルを見てとるには、その記号が意味をもって使われているそのあり方に、注意を向けなければならない。

3.327

記号は、その論理的・構文論的な使用とあわせてはじめて、一つの論理形式を定めることになる。

3.328

使われることのない記号に、指示対象はない。これが、オッカムの格言の意味するところである。(ある記号が指示対象をもつかのようにすべてがふるまっているなら、その記号は実際に指示対象をもっている。)

3.33

論理的構文論において、記号の指示対象が何らかの役割を演じることは、決してあってはならない。論理的構文論は、記号の指示対象を話題にすることなしに、打ち立てられるものでなければならない。論理的構文論が前提してよいのは、表現の記述だけである。

3.331

この注意から、ラッセルの「タイプ理論」の内実が見通せる。ラッセルの誤りは、記号の規則を立てるのに、記号の指示対象について語らざるをえなかった、その点に現れている。

3.332

いかなる命題も、自分自身について何かを言明することはできない。命題記号が、自分自身のうちに含まれることはできないからである。(「タイプ理論」の内実は、これに尽きる。)

3.333

関数が自分自身の項になりえないのは、関数記号がすでにその項の原像を含んでおり、それ自身を含むことはできないからである。試みに、関数F(fx)が自分自身の項になりうると仮定してみよう。そうすると「F(F(fx))」という命題が成り立つことになるが、この命題における外側のFと内側のFとは、異なる指示対象をもたなければならない。内側の関数はφ(fx)という形式をもち、外側の関数はψ(φ(fx))という形式をもつからである。両者に共通するのは「F」という文字だけであり、この文字は単独では何も表示していない。「F(F(u))」の代わりに「(∃φ):F(φu).φu=Fu」と書けば、このことはただちに明らかになる。これによって、ラッセルのパラドクスは解消される。

3.334

論理的構文論の規則は、それぞれの記号がどのように表示しているかさえ知っていれば、おのずと理解できるものでなければならない。

3.34

命題には本質的な特徴と偶然的な特徴とがある。命題記号がどのように生み出されたかというその特定の仕方に由来する特徴は偶然的であり、それだけで命題がその意味を表現することを可能にしている特徴が、本質的である。

3.341

したがって、命題において本質的なものとは、同じ意味を表現しうるすべての命題に共通するものである。同様に、シンボル一般において本質的なものとは、同じ目的を果たしうるすべてのシンボルに共有されているものである。

3.3411

したがって、こうも言えるだろう。本来の名とは、ある対象を表示するすべてのシンボルに共有されているものである。この道筋をたどっていけば、いかなる合成も名にとって本質的ではないことが、明らかになってくる。

3.342

私たちの表記法には、たしかに恣意的なところがある。しかし、恣意的でないこともある。それは、何かを恣意的に定めたなら、そのときには別の何かが成り立っていなければならない、ということである。(これは表記法の本質にかかわることである。)

3.3421

ある特定の表示の仕方そのものは、重要でないかもしれない。だが、それが一つの可能な表示の仕方であるということは、つねに重要である。哲学において一般に見られるのも、これと同じ事情である。個々のものは、繰り返しそれ自体としては重要でないことが明らかになる。しかし、個々のもののそれぞれがもつ可能性は、世界の本質について、私たちに手がかりを与えてくれる。

3.343

定義とは、ある言語から別の言語への翻訳の規則である。正しい記号言語であれば、そのような規則にしたがって、他のどの記号言語にも翻訳できなければならない。すべての正しい記号言語に共有されているのは、この点である。

3.344

シンボルにおいて表示しているものとは、論理的構文論の規則にしたがって、そのシンボルと置き換えることのできるすべてのシンボルに、共通するものである。

3.3441

たとえば、真理関数を表すすべての表記法に共通するものは、こう表現できる。それらはいずれも、「∼p」(「pでない」)と「p v q」(「pまたはq」)という表記法によって置き換えることができる、という点で共通している。(これによって、ある一つの可能な表記法が、どのようにして一般的な手がかりを与えうるのか、その仕方が特徴づけられている。)

3.3442

複合体の記号は、分析によってもなお、恣意的に分解されるわけではない。命題の組み立てのたびに違った仕方で分解される、というようなことはないのである。

3.4

命題は、論理空間のうちに一つの場所を定める。この論理的な場所が存在することは、その構成要素が存在すること、すなわち意味をもつ命題が存在することだけによって、保証されている。

3.41

命題記号と、その論理的な座標、この二つを合わせたものが論理的な場所である。

3.411

幾何学的な場所と論理的な場所とは、いずれも存在の可能性であるという点において一致している。

3.42

命題が定めてよいのは論理空間の一つの場所だけであるが、それにもかかわらず、その命題によって、論理空間の全体がすでに与えられていなければならない。(そうでなければ、否定や論理和、論理積などのたびに、つねに新しい要素が、しかも同格のものとして持ち込まれてしまうことになる。)(像のまわりに組まれた論理的な足場が、論理空間を定める。命題は、論理空間の全体に行きわたっている。)

3.5

実際に使用され、考えられた命題記号、それが思考である。

4

意味をもつ命題、これが思考にほかならない。

4.001

命題をすべて集めたもの、それが言語である。

4.002

人間には、それぞれの語がどのように、また何を指示しているのかをまったく知らないままに、どのような意味でも表現できる言語をつくり上げる力が備わっている。個々の音がどう発せられるかを知らずに話すことができるのと、これは同じ事情である。日常言語は人間という有機体の一部であって、その有機体に劣らず複雑である。日常言語から言語の論理を直接に読み取ることは、人間にはできない。言語は思考を変装させる。しかも、その衣服の外形から、内にまとわれている思考の形を推し量ることができないような仕方で変装させるのである。衣服の外形は、身体の形を見てとらせるためではなく、まったく別の目的にしたがってつくられているからである。日常言語を理解するための暗黙の取り決めは、途方もなく複雑である。

4.003

哲学的な事柄について書かれてきた命題や問いの大部分は、偽であるのではなく、ナンセンスなのである。したがって、この種の問いに答えることはそもそもできず、ただそれがナンセンスであることを確かめられるだけである。哲学者たちの問いや命題の大半は、自分たちの用いる言語の論理を理解していないところから生じている。(それは、善は美よりも多く同一的であるか少なく同一的であるか、という問いと同じ種類のものである。)最も深い問題が実はまったく問題ではなかった、ということも、驚くには値しない。

4.0031

哲学とはすべて「言語批判」である。(もっとも、マウトナーの意味における言語批判ではない。)命題の見かけ上の論理形式が、その命題の本当の論理形式であるとはかぎらないことを示したのは、ラッセルの功績である。

4.01

命題は現実の像である。命題は、私たちが思い描くとおりの現実の模型なのである。

4.011

命題は、たとえば紙に印刷された姿を見るかぎり、一見すると、それが扱う現実の像ではないように見える。だが、楽譜も一見しただけでは音楽の像に見えないし、表音文字による書き言葉も、音声言語の像には見えない。それでも、これらの記号言語が、ごく普通の意味においてもなお、自分の描写するものの像であることは分かる。

4.012

「aRb」という形式の命題を、私たちが一つの像として感じとることは明らかである。ここでは、記号が表示するものの似姿になっていることが、はっきりと見てとれる。

4.013

この像としての性格の本質にまで踏み込んでみれば、それが見かけ上の不規則性、たとえば楽譜における♯や♭の使用によって、乱されることはないと分かる。こうした不規則性もまた、表現すべきものを写しとっている点では変わりなく、ただ別のやり方で写しとっているにすぎないからである。

4.014

レコード盤、音楽的な思考、楽譜、音波は、そのどれもが互いに、言語と世界のあいだに成り立つあの写像的な内的関係のうちにある。そのすべてに、論理的な造りが共通しているのである。(童話に出てくる二人の若者と、二頭の馬と、一輪の百合のように。それらはすべて、ある意味では一つのものである。)

4.0141

音楽家が総譜から交響曲を取り出すことを可能にする、一般的な規則がある。また、レコード盤の溝から交響曲を導き出し、さらに先の規則によって、そこから再び総譜を導き出すことを可能にする規則もある。これら一見まったく異なる形成物の内的な類似は、まさにここにある。その規則とは、交響曲を楽譜の言語へと射影する、射影の法則なのである。それは楽譜の言語をレコード盤の言語へと翻訳するための規則にほかならない。

4.015

あらゆる比喩が可能であること、すなわち、私たちの表現方法が全体として像としての性格をもちうるということは、写像の論理にもとづいている。

4.016

命題の本質を理解するために、象形文字を考えてみるとよい。象形文字は、自分が記述する事実を写しとっている。そして表音文字は、この写像の本質的なものを失うことなく、象形文字から生まれたのである。

4.02

このことは、命題記号の意味をあらためて説明されなくても、私たちがその命題を理解できるという事実から、見てとることができる。

4.021

命題は現実の像である。命題を理解するとき、その命題によって描写されている状況を、私はすでに知っているからである。しかも私は、その意味をあらためて説明されなくても、命題を理解するのである。

4.022

命題は自分の意味を示す。自分が真であるとすれば事情はどうなっているかを、命題は示す。そして命題は、事情が実際にそうなっているということを語るのである。

4.023

現実は、命題によって然りか否かに確定されるのでなければならない。そのためには、現実が命題によって完全に記述されている必要がある。命題とは、事態の記述にほかならない。記述が対象をその外的な性質に即して記述するように、命題は現実をその内的な性質に即して記述する。命題は、論理的な足場を用いて一つの世界を組み立てる。したがって、その命題が真であるならば論理的なことがらがすべてどうなっているかも、その命題に即して見てとることができる。偽である命題からさえ、推論を引き出すことができるのは、そのためである。

4.024

命題を理解するとは、その命題が真であるならば何が成り立っているかを、知ることである。(したがって、その命題が真であるかどうかを知らなくても、命題を理解することはできる。)命題の構成要素を理解していれば、その命題を理解していることになる。

4.025

ある言語を別の言語へ翻訳するとき、一方の言語の命題の一つひとつを他方の言語の命題へ翻訳しているのではない。翻訳されるのは、命題の構成要素だけである。(辞書が翻訳するのは名詞だけではない。動詞、形容詞、接続詞なども翻訳し、しかもそれらすべてを同じように扱っている。)

4.026

単純記号、つまり語の指示対象は、それを理解するために説明されなければならない。だが、命題によって、私たちは互いに意思を通じ合うのである。

4.027

命題が新しい意味を伝えることができるということ、これは命題の本質に属している。

4.03

命題は、すでにある古い表現によって、新しい意味を伝えなければならない。命題は私たちに状況を伝える。したがって命題は、本質的にその状況と結びついていなければならない。そしてこの結びつきこそ、命題がその状況の論理像であるということにほかならない。命題が何かを言明するのは、それが像であるかぎりにおいてのみである。

4.031

命題のうちでは、いわば一つの状況が試みに組み立てられている。「この命題はしかじかの意味をもつ」と言う代わりに、端的に「この命題はしかじかの状況を描写する」と言うことができる。

4.0311

ある名がある物の代わりとなり、また別の名が別の物の代わりとなって、それらが互いに結びつけられる。そうすることで全体は、活人画のように、一つの事態を表すのである。

4.0312

命題が可能であることは、記号が対象の代わりを務めるという原理にもとづいている。私の根本思想は、「論理定項」は何の代わりも務めない、というものである。事実の論理には、代わりを務めうるものがそもそもありえない、ということである。

4.032

命題が状況の像であるのは、それが論理的に分節をもっているかぎりにおいてである。(「ambulo」という一語の命題ですら合成されている。その語幹は別の語尾と結びつけば別の意味を生み、その語尾もまた別の語幹と結びつけば別の意味を生むからである。)

4.04

命題のうちには、その命題が描写する状況のうちにあるのと、ちょうど同じだけの、区別されるものがなければならない。両者は同じ論理的な、いわば数学的な多様性をもっていなければならないのである。(ヘルツの力学における、動力学的模型についての箇所を参照されたい。)

4.041

この数学的な多様性そのものを、さらに別のものへ写しとることはできない。写しとる際には、この多様性の外に出ることができないからである。

4.0411

たとえば、私たちが「(x)fx」によって表現していることを、「fx」の前に指標を置いて「Alg. fx」のように表そうとしても、それでは足りない。何が一般化されているのかが分からなくなるからである。指標「a」を用いて「f(xa)」のように示そうとしても、やはり足りない。一般性がどこまで及んでいるのかが分からなくなるからである。項の位置に目印を導入して「(A, A).F(A, A)」のように試みても、なお足りない。変項どうしの同一性を確かめられなくなるからである。以下も同様である。これらの表示の仕方は、いずれも必要な数学的多様性をもっておらず、そのために足りないのである。

4.0412

同じ理由から、空間的な関係の知覚を「空間の眼鏡」によって説明しようとする観念論的な説明も、足りない。それでは空間的な関係の多様性を説明することができないからである。

4.05

現実は、命題と比べ合わされる。

4.06

命題が真でありうるのも偽でありうるのも、ただ命題が現実の像であることによってのみである。

4.061

命題が事実から独立した意味をもつということに注意を払わないでいると、真と偽とは、記号と表示されるものとのあいだの、対等な二つの関係にすぎない、と思い込んでしまいやすい。そう考えるなら、「p」は「∼p」が偽の仕方で表示するものを、真の仕方で表示している、というようなことすら言えることになってしまうだろう。

4.062

これまで真である命題によって意思を通じ合ってきたのと同じように、偽である命題によって意思を通じ合うことはできないだろうか。その命題が偽のつもりで言われていることさえ分かっていれば、できるのではないか。だが、それはできない。命題が真であるのは、その命題が語るとおりに事情がなっているときだからである。もし私たちが「p」によって∼pを言おうとしていて、事情が実際にその言おうとするとおりになっているのなら、「p」はこの新しい捉え方のもとでは、偽ではなくむしろ真なのである。

4.0621

しかし、記号「p」と「∼p」とが同じことを語りうるということには、重要な意味がある。これは、記号「∼」に現実のうちの何ものも対応していないことを示しているからである。命題に否定が現れることは、その命題の意味を示す標識にはまだならない(∼∼p=p)。命題「p」と「∼p」は反対の意味をもつが、それらに対応しているのは、ただ一つの同じ現実である。

4.063

真理という概念を説明するために、一つの像を挙げてみよう。白い紙の上に黒い染みがあるとする。この染みの形は、面のそれぞれの点について、それが白いか黒いかを言うことによって記述できる。ある点が黒いという事実には肯定的な事実が対応し、ある点が白い、すなわち黒くないという事実には否定的な事実が対応する。面の一つの点、すなわちフレーゲの言う真理値をこうして表示するとすれば、それは判定を受けるために立てられた一つの想定に対応することになる。以下も同様である。しかし、ある点が黒いとか白いとか言うためには、あらかじめ、どういうときに点を黒いと呼び、どういうときに白いと呼ぶのかを、知っていなければならない。「p」が真である、あるいは偽であると言うためにも同様に、どのような場合に「p」を真と呼ぶのかを定めておかなければならず、そう定めることによってはじめて、その命題の意味が定まるのである。ところで、この比喩が破綻するのは次の点においてである。何が白で何が黒であるかを知らなくても、紙の上の一点を指し示すことはできる。だが、意味をもたない命題には、何ひとつ対応するものがない。そうした命題は、「真」や「偽」という名の性質をもつ物、すなわち真理値を表示しているわけではないからである。命題の動詞は、フレーゲが考えたような「真である」「偽である」ではない。そうではなく、「真である」ものの側が、すでにその動詞を含んでいなければならないのである。

4.064

どの命題も、あらかじめ意味をもっていなければならない。肯定によって命題に意味が与えられるのではない。肯定は、すでにある意味を肯定するだけだからである。否定などについても、同じことが言える。

4.0641

こうも言えるだろう。否定は、否定される側の命題が定める論理的な場所に、すでに関わっている。否定する命題は、否定される命題とは別の論理的な場所を定める。すなわち否定する命題は、否定される命題の論理的な場所を用いながら、その場所の外にあるものとしてある論理的な場所を記述するのである。否定された命題がさらに否定されうるということ、これがすでに示している。否定されるものはすでに一つの命題であって、命題のための下ごしらえにすぎないものではない、ということを。

4.1

命題は、事態が成り立っていることと成り立っていないこととを、描写する。

4.11

真である命題をすべて集めたもの、それが自然科学の全体、すなわち諸自然科学の総体である。

4.111

哲学は、自然科学のうちの一つではない。(「哲学」という語が指すものは、自然科学より上か、あるいは下になければならず、自然科学と並ぶものであってはならない。)

4.112

哲学の目的は、思考を論理的に明晰にすることにある。哲学は教説ではなく、一つの活動である。哲学の仕事は、本質的には解明することからなる。哲学がもたらす成果は、「哲学的命題」ではなく、命題が明晰になることそのものである。放っておけば濁りぼやけてしまう思考を、哲学は明晰にし、はっきりと境界づけるべきものなのである。

4.1121

心理学は、他のどの自然科学と比べても、哲学に近い親戚というわけではない。認識論は心理学の哲学である。私が行っている記号言語の研究は、哲学者たちが論理の哲学にとってきわめて本質的だとみなしてきた、あの思考過程の研究にあたるのではないだろうか。ただ、哲学者たちの多くは、本質的でない心理学的な研究に巻き込まれてしまった。そして私の方法にも、それと似た危険がある。

4.1122

ダーウィンの理論も、自然科学の他のどの仮説と比べて、哲学と特別多くの関わりをもつわけではない。

4.113

哲学は、自然科学のうち議論の余地がある領域に、限界を引く。

4.114

哲学は、考えうるものに境界を引くことによって、考えられないものにも境界を引くべきである。すなわち哲学は、考えられないものを、その内側から、考えうるものによって限界づけるべきなのである。

4.115

哲学は、語りうるものを明晰に描写することを通じて、語りえないものを指し示すことになるだろう。

4.116

考えられうることであれば、そのすべてが明晰に考えられうる。言い表されうることであれば、そのすべてが明晰に言い表されうる。

4.12

命題は現実の全体を描写することができる。しかし、現実を描写しうるために命題が現実と共有していなければならないもの、すなわち論理形式そのものを、命題は描写できない。論理形式を描写しようとすれば、私たちは命題とともに論理の外側、つまり世界の外側に、身を置けなければならないだろう。

4.121

命題は論理形式を描写することができない。論理形式は、命題のうちにすでに映し出されているのである。言語のうちに映し出されているものを、言語自身によって描写することはできない。言語のうちにおのずと表現されているものを、私たちがあらためて言語によって表現することはできないのである。命題は現実の論理形式を示す。命題はそれを提示する。

4.1211

たとえば、命題「fa」は、その意味のうちに対象aが現れていることを示している。二つの命題「fa」と「ga」は、両方で同じ対象が話題にされていることを示す。二つの命題が互いに矛盾するときには、その構造そのものがそのことを示し、一方が他方から帰結するときも同様である。以下も同じことである。

4.1212

示されうるものは、語られることができない。

4.1213

いまや、次のような感覚も理解できるようになる。私たちの記号言語のうちですべてがうまく符合してさえいれば、そこには正しい論理的な捉え方がすでにある、という感覚である。

4.122

ある意味で私たちは、対象や事態がもつ形式的な性質について、あるいは事実の構造がもつ性質について話すことができ、同じ意味で、形式的な関係や構造の関係についても話すことができる。(構造の性質のことを、私は「内的な性質」とも呼び、構造の関係のことを「内的な関係」とも呼ぶ。こうした表現を導入するのは、内的な関係と本来の、つまり外的な関係とを混同するという、哲学者たちのあいだにきわめて広まった誤りの根拠を、明らかにするためである。)しかし、そうした内的な性質や関係が成り立っているということは、命題によって主張することはできない。それは、それらの事態を描写し、それらの対象について述べる命題のうちに、おのずと示されるのである。

4.1221

事実がもつ内的な性質のことを、その事実の相貌と呼ぶこともできる。(顔立ちと言うときと、同じ意味においてである。)

4.123

ある性質が内的であるとは、その対象がその性質をもたないということが考えられない場合を言う。(この青い色とあの青い色とは、それだけで、一方がより明るく他方がより暗いという内的な関係にある。この二つの対象がそうした関係にないということは、考えられない。)(ここで「性質」や「関係」という語の使い方が揺れ動くのに対応して、「対象」という語の使い方もまた揺れ動いている。)

4.124

可能な状況が内的な性質をもっているということは、命題によって表現されるのではない。それは、その状況を描写する命題のうちに、その命題自身の内的な性質によって、おのずと表現されるのである。命題に形式的な性質があると認めることも、それを否認することも、同じようにナンセンスであろう。

4.1241

形式どうしを、一方はこの性質をもち、他方はあの性質をもつ、と言って区別することはできない。そう言うこと自体が、両方の性質を両方の形式について言明することに意味がある、ということを前提してしまっているからである。

4.125

可能な状況どうしのあいだに内的な関係が成り立っているということは、言語においては、それらの状況を描写する命題どうしのあいだの内的な関係によって、おのずと表現される。

4.1251

これによって、「すべての関係は内的であるか外的であるか」という論争になっていた問題は、片づくことになる。

4.1252

内的な関係によって順序づけられている系列のことを、形式系列と呼ぶことにする。数の系列は、外的な関係によってではなく、内的な関係によって順序づけられている。命題「aRb」、「(∃x):aRx.xRb」、「(∃x,y):aRx.xRy.yRb」等々の系列も同様である。(bがこれらの関係のいずれかによってaに対しているとき、bをaの後続者と呼ぶことにする。)

4.126

形式的な性質について話すのと同じ意味において、いまや形式的な概念についても話すことができる。(この表現を導入するのは、形式的な概念と本来の概念との混同という、古い論理学の全体を貫いている誤りの根拠を、明らかにするためである。)あるものがある形式的な概念のもとに、その対象として属するということは、命題によって表現することができない。それは、その対象の記号そのものに即して示されるのである。(名はそれが対象を表示することを示し、数字はそれが数を表示することを示す。以下も同様である。)実際、形式的な概念は、本来の概念のように関数によって描写することはできない。形式的な概念の標識である形式的な性質は、関数によって表現されるものではないからである。形式的な性質の表現は、ある種のシンボルがもつ一つの相貌なのである。したがって、形式的な概念の標識となる記号は、その指示対象がその概念のもとに属するすべてのシンボルに共通する、特徴的な相貌である。それゆえ、形式的な概念の表現とは、この特徴的な相貌だけを定項とするような命題変項にほかならない。

4.127

命題変項が表示するのは形式的な概念であり、その値が表示するのは、この概念のもとに属する対象である。

4.1271

どの変項も、形式的な概念の記号である。どの変項も、そのすべての値に共通し、それらの値の形式的な性質として捉えられる、一定の形式を描写しているからである。

4.1272

たとえば、変項としての名「x」は、対象という擬似概念の本来の記号である。「対象」(「物」「もの」等)という語が正しく使われているところでは、どこであれ、その語は概念記法においては変項としての名によって表現される。たとえば「……であるような二つの対象がある」という命題は、「(∃x, y)……」によって表現される。この語が別の仕方で、すなわち本来の概念語として使われているところでは、どこであれ、ナンセンスな擬似命題が生じてしまう。たとえば「本がある」と言うのと同じ意味で「対象がある」と言うことはできない。同じく「100個の対象がある」とか「ℵ0個の対象がある」と言うこともできない。すべての対象の数について語ることは、ナンセンスなのである。「複合体」「事実」「関数」「数」といった語についても同じことが言える。これらはいずれも形式的な概念を表示しており、概念記法においては、関数やクラスによってではなく、変項によって描写される。(フレーゲとラッセルは、これらが関数やクラスによって描写されると信じていた。)「1は数である」「ゼロはただ一つしかない」といった表現や、それに類するすべての表現は、ナンセンスである。(「1はただ一つしかない」と言うことは、2+2は3時には4に等しい、と言うのと同じくらいナンセンスであろう。)

4.12721

形式的な概念は、その概念のもとに属する対象が一つ与えられれば、それとともにすでに与えられてしまっている。したがって、ある形式的な概念の対象と、その形式的な概念そのものとを、ともに基本概念として導入することはできない。それゆえ、たとえば関数の概念と特定の関数とを、ラッセルのようにともに基本概念として導入することはできない。数の概念と特定の数についても同様である。

4.1273

「bはaの後続者である」という一般的な命題を概念記法で表現しようとすれば、形式系列aRb、(∃x):aRx.xRb、(∃x,y):aRx.xRy.yRb、……の一般項を表す表現が必要になる。この形式系列の一般項は、変項によってしか表現できない。この形式系列の項、という概念そのものが、形式的な概念だからである。(フレーゲとラッセルはこのことを見落としていた。それゆえ、彼らが上のような一般的な命題を表現しようとしたやり方は誤っており、悪循環を含んでいる。)形式系列の一般項は、その最初の項と、先行する命題から次の項を生み出す操作の一般形式とを指定することによって、定めることができる。

4.1274

形式的な概念が存在するかどうかを問うこと自体が、ナンセンスである。どんな命題も、そのような問いに答えることができないからである。(したがって、たとえば「分析できない主語・述語命題はあるか」と問うこともできない。)

4.128

論理形式には数というものがない。したがって論理には特別な数などなく、それゆえ哲学的な一元論や二元論といったものも存在しない。

4.2

命題の意味とは、事態が成り立つ可能性と成り立たない可能性とに対する、その命題の一致と不一致にほかならない。

4.21

最も単純な命題、すなわち要素命題は、一つの事態が成り立っていることを主張する。

4.211

ある命題が要素命題であることの一つのしるしは、どんな要素命題も、それと矛盾することがありえない、という点にある。

4.22

要素命題は名から成り立っている。要素命題とは、名のつながり、名の連鎖にほかならない。

4.221

命題を分析していけば、直接に結合した名から成る要素命題に、どうしても行き着かなければならない。ここで、この結びつきがどのようにして生じるのか、という問いが立ち上がってくる。

4.2211

たとえ世界が無限に複合的であり、どの事実も無限に多くの事態から成り、どの事態も無限に多くの対象から組み立てられているとしても、それでもなお、対象と事態はなければならないだろう。

4.23

名が命題のうちに現れるのは、要素命題という脈絡のうちにおいてのみである。

4.24

名は単純なシンボルであり、これを個々の文字「x」「y」「z」で書き表すことにする。要素命題は、名の関数として「fx」「φ(x,y)」等の形式で書き、あるいは要素命題を文字p、q、rで書き表すこともある。

4.241

二つの記号をまったく同じ指示対象のもとで用いるとき、そのことを、両者のあいだに記号「=」を置くことによって表す。したがって「a=b」とは、記号「a」を記号「b」によって置き換えられる、ということである。(すでに知られている記号「a」に置き換わるものとして、等式によって新しい記号「b」を導入するときには、その等式、すなわち定義を、ラッセルにならって「a=b Def.」という形式で書く。定義とは記号の規則である。)

4.242

したがって「a=b」という形式の表現は、描写のための便法にすぎない。それらは、記号「a」「b」の指示対象について、何も言明していないのである。

4.243

二つの名について、それらが同じ物を表示しているのか、それとも異なる二つの物を表示しているのかを知らないまま、それらを理解することができるだろうか。二つの名が現れる命題について、同じものを指示しているのか異なるものを指示しているのかを知らないまま、それを理解することができるだろうか。たとえば、ある英語の語と、それと同じ指示対象をもつドイツ語の語の指示対象を、私がそれぞれ知っているとすれば、その二つが同じ指示対象をもつことを知らないということはありえない。両者を互いに翻訳できないということもありえない。「a=a」のような表現や、そこから導かれる表現は、要素命題でもなければ、それ以外の意味をもつ記号でもない。(このことは後になって明らかになるだろう。)

4.25

要素命題が真であれば、その事態は成り立っている。要素命題が偽であれば、その事態は成り立っていない。

4.26

真であるすべての要素命題を挙げれば、それによって世界は完全に記述される。すべての要素命題を挙げたうえで、そのどれが真でどれが偽であるかまで挙げれば、世界はそれで完全に記述されたことになる。

4.27
n個の事態が成り立つことと成り立たないことについては、Kn = nΣν = 0(nν) 通りの可能性がある。事態のどの組み合わせもが成り立つことができ、そのとき残りは成り立たない。
4.28

これらの組み合わせには、n個の要素命題が真であったり偽であったりする、同じ数だけの可能性が対応している。

4.3

要素命題の真理可能性は、事態が成り立つ可能性と成り立たない可能性とを指し示している。

4.31
真理可能性は、次のような図式によって描写することができる(「W」は「真」を、「F」は「偽」を指示する。要素命題の列の下にある「W」と「F」の列は、分かりやすい記号法によって、それらの要素命題の真理可能性を指し示している)。
pqr
WWW
FWW
WFW
WWF
FFW
FWF
WFF
FFF
pq
WW
FW
WF
FF
p
W
F
4.4

命題とは、要素命題の真理可能性に対する一致と不一致の表現にほかならない。

4.41

要素命題の真理可能性は、命題が真であり偽であるための条件である。

4.411

要素命題を導入することが、他のあらゆる種類の命題を理解するための基礎になるということは、はじめから確からしいことである。実際、一般的な命題の理解は、要素命題の理解にはっきりと感じとれるほど依存しているのである。

4.42
n個の要素命題の真理可能性に対する、命題の一致と不一致については、KnΣκ = 0(Knκ) = Ln 通りの可能性がある。
4.43

真理可能性との一致は、図式のなかで、たとえば真理可能性に「W」(真)という目印を対応づけることによって、表現することができる。この目印がないことは、不一致を指し示す。

4.431

要素命題の真理可能性に対する一致と不一致の表現が、命題の真理条件の表現である。命題とは、この真理条件の表現にほかならない。(それゆえフレーゲが、自分の概念記法の記号を説明するにあたって、真理条件を最初に掲げたのは、まったく正しかった。ただし、フレーゲにおける真理概念そのものの説明は誤っている。「真なるもの」と「偽なるもの」が本当に対象であって、∼pなどにおける項であるとすれば、フレーゲの規定にしたがうかぎり、「∼p」の意味はまったく確定されないことになってしまうだろう。)

4.44

あの「W」という目印を真理可能性に対応づけることによって生じる記号、それが命題記号である。

4.441

記号「F」と「W」の複合体に、どんな対象、あるいは対象の複合体も対応しないことは明らかである。横線や縦線や括弧に何も対応しないのと、これは同じことである。「論理的対象」なるものは、存在しない。もちろん、「W」と「F」の図式と同じことを表現する、すべての記号についても同様である。

4.442
たとえば、„
pq
WWW
FWW
WF
FFW
“
は命題記号である。(フレーゲの「判断線」「⊢」は、論理的にはまったく指示対象をもたない。それはフレーゲとラッセルにおいて、彼らがそのように表示した命題を真とみなしている、ということを示しているにすぎない。したがって「⊢」は、たとえば命題の番号と同じように、命題の構成そのものには属さない。命題が自分自身について、自分は真であると言明することは不可能なのである。)図式における真理可能性の順序が、組み合わせの規則によって一度きり最終的に定められているのであれば、最後の列だけで、すでに真理条件の表現になっている。この列を一行に書けば、命題記号は次のようになる。「(WW‐W)(p, q)」、より分かりやすく書けば「(WWFW)(p, q)」。(左側の括弧のなかの位置の数は、右側の括弧のなかの項の数によって決まる。)
4.45
n個の要素命題に対しては、Ln通りの真理条件の可能な組がある。ある要素命題の集まりの真理可能性に属する真理条件の組は、一つの系列へと順序づけることができる。
4.46

真理条件の可能な組のうちには、二つの極端な場合がある。一方の場合、命題は要素命題のすべての真理可能性に対して真であり、このとき真理条件はトートロジー的である、と言われる。もう一方の場合、命題はすべての真理可能性に対して偽であり、このとき真理条件は矛盾的である。前者の場合その命題はトートロジーと呼ばれ、後者の場合は矛盾と呼ばれる。

4.461

命題は、自分が語ることがらを示す。トートロジーと矛盾は、自分が何も語っていないことを示している。トートロジーに真理条件はない。無条件に真だからである。そして矛盾は、どんな条件のもとでも真ではない。トートロジーと矛盾は無意味である。(二本の矢が反対の方向へ分かれていく、その出発点のようなものである。)(たとえば、雨が降っているか降っていないかのどちらかであると知ったところで、天気について何も知ったことにはならない。)

4.4611

しかし、トートロジーと矛盾は、ナンセンスではない。それらは記号体系に属しており、しかも「0」が算術の記号体系に属しているのと似た仕方で、そこに属しているのである。

4.462

トートロジーと矛盾は、現実の像ではない。それらはどんな可能な状況も描写していない。前者はあらゆる可能な状況を許し、後者はどの可能な状況も許さないからである。トートロジーにおいては、世界と一致するための条件、すなわち描写関係どうしが互いに打ち消し合っている。それゆえトートロジーは、現実に対してどんな描写関係にも立っていないのである。

4.463

真理条件は、その命題によって事実に残される余地を定める。(命題や像や模型は、否定的な意味では、他のものの運動の自由を制限する固い物体のようなものであり、肯定的な意味では、ある物体がそのうちに場所を占める、固い実体によって区切られた空間のようなものである。)トートロジーは、現実に対して、論理空間の全体を、無限の論理空間の全体を残しておく。矛盾は、論理空間の全体を埋め尽くし、現実には一点も残さない。それゆえ、そのどちらも、現実を何らかの仕方で規定することはできないのである。

4.464

トートロジーの真は確実であり、命題の真は可能であり、矛盾の真は不可能である。(確実、可能、不可能。ここには、確率論において必要となる段階づけの兆しが、すでに現れている。)

4.465

トートロジーと命題との論理積は、その命題と同じことを語る。したがって、その論理積はその命題と同一である。シンボルの本質的なものを変えれば、意味も変わらずにはいないからである。

4.466

記号の特定の論理的な結合には、その指示対象の特定の論理的な結合が対応する。任意の結合には、結合されていない記号だけが対応する。つまり、どんな状況に対しても真であるような命題は、そもそも記号の結合ではありえない。もしそうであるとすれば、そのような命題には、対象の特定の結合だけが対応してしまうことになるからである。(論理的な結合のないところには、対象の結合もない。)トートロジーと矛盾とは、記号の結合の極限の場合であり、つまりは記号の結合の解体にほかならない。

4.4661

もちろん、トートロジーや矛盾においても、記号は互いに結合されており、互いに関係のうちにはある。だが、その関係は指示対象をもたず、シンボルにとって本質的なものではない。

4.5

さて、最も一般的な命題形式を挙げることができるように思われる。すなわち、何らかの記号言語における命題の記述を与え、あらゆる可能な意味が、その記述に当てはまるシンボルによって表現されうるようにし、しかも名の指示対象を適切に選びさえすれば、その記述に当てはまるどのシンボルもが意味を表現しうるようにする、ということである。最も一般的な命題形式を記述するにあたっては、その本質的なものだけを記述してよいことは明らかである。そうでなければ、それはもはや最も一般的なものではなくなってしまうだろうからである。一般的な命題形式があるということは、あらかじめその形式を見通す、すなわち構成することができなかったような命題は存在しない、ということによって証明される。命題の一般形式とは、事情はしかじかである、というものである。

4.51

すべての要素命題がすでに与えられていると仮定してみよう。そのときには、単純に、それらからどのような命題をつくることができるか、と問うことができる。それがすべての命題であり、命題はそのようにして限界づけられているのである。

4.52

命題とは、すべての要素命題の総体から帰結するすべてのものである(もちろん、それがすべての要素命題の総体であるということ自体からも帰結するものを含めて)。(そのためある意味では、すべての命題は要素命題の一般化である、と言うこともできるだろう。)

4.53

一般的な命題形式は、一つの変項にほかならない。

5

あらゆる命題は、要素命題の真理関数として成り立っている。(要素命題自身も、みずからの真理関数である。)

5.01

命題の真理項をなすのは、要素命題である。

5.02
関数の項と名の指標とを取り違えやすいのは、無理もないことである。項に即しても指標に即しても、それを含む記号の指示対象を見てとることができてしまうからである。たとえば、ラッセルの「+c」では、「c」は指標であり、記号全体が基数の加法の記号であることを示している。しかも、この表示は恣意的な取り決めにもとづいているので、「+c」の代わりに単純な記号を選ぶこともできるだろう。これに対して、「∼p」における「p」は指標ではなく項である。「∼p」の意味は、あらかじめ「p」の意味が理解されていなければ理解されることができない。(ユリウス・カエサルという名では、「ユリウス」は指標である。指標とはつねに、その名に付け加えられる当の対象についての記述の一部である。たとえば、ユリウス氏族のそのカエサル、というように。)この項と指標の取り違えが、命題と関数の指示対象についてのフレーゲの理論の根底にあるように思われる。フレーゲにとって、論理学の命題は名であり、その項はこれらの名の指標であった。
5.1

真理関数は系列へと順序づけることができる。これが確率論の基礎である。

5.101
任意の数の要素命題の真理関数は、次のような図式に書き表すことができる。
(W W W W)(p, q)トートロジー(pならばp。そしてqならばq。)(p ⊃ p . q ⊃ q)
(F W W W)(p, q)言葉で言えば:pとqの両方ではない。(∼(p . q))
(W F W W)(p, q)〃qならばp。(q ⊃ p)
(W W F W)(p, q)〃pならばq。(p ⊃ q)
(W W W F)(p, q)〃pまたはq。(p v q)
(F F W W)(p, q)〃qでない。(∼q)
(F W F W)(p, q)〃pでない。(∼p)
(F W W F)(p, q)〃pまたはq、ただし両方ではない。(p . ∼q : v : q . ∼p)
(W F F W)(p, q)〃pならばq。そしてqならばp。(p ≡ q)
(W F W F)(p, q)〃p
(W W F F)(p, q)〃q
(F F F W)(p, q)〃pでもなくqでもない。(∼p . ∼q)または(p | q)
(F F W F)(p, q)〃pであってqでない。(p . ∼q)
(F W F F)(p, q)〃qであってpでない。(q . ∼p)
(W F F F)(p, q)〃qであってpである。(q . p)
(F F F F)(p, q)矛盾(pであってpでない。そしてqであってqでない。)(p . ∼p . q . ∼q)
命題の真理項の真理可能性のうち、その命題を真とするものを、その命題の真理根拠と呼ぶことにする。
5.11

いくつかの命題に共通する真理根拠がすべて、ある特定の命題の真理根拠でもあるとき、その命題の真はそれらの命題の真から帰結する、と言うことにする。

5.12

とりわけ、ある命題「p」の真は、別の命題「q」の真から帰結する。後者の真理根拠のすべてが前者の真理根拠でもあるときである。

5.121

一方の真理根拠が他方の真理根拠のうちに含まれている。すなわちpはqから帰結する。

5.122

「p」の意味が「q」の意味のうちに含まれているのは、pがqから帰結する場合である。

5.123

ある神が、ある命題が真であるような世界を創造するなら、神はそれによって、それらの命題から帰結するすべての命題が当てはまる世界をも、すでに創造していることになる。同様に、命題「p」が真であるような世界を、その命題の対象をすべて創造することなしに神が創造することは、できないだろう。

5.124

命題は、自分から帰結するどの命題をも肯定している。

5.1241

「p . q」は、「p」を肯定する命題の一つであると同時に、「q」を肯定する命題の一つでもある。二つの命題が互いに対立するのは、その両方を肯定するような意味をもつ命題が存在しないときである。他の命題と矛盾する命題は、そのどれもが、その命題を否定している。

5.13

ある命題の真が他の命題の真から帰結することは、それらの命題の構造から見てとることができる。

5.131

ある命題の真が他の命題の真から帰結するとき、このことは、それらの命題の形式が互いに立っている関係によって、おのずと表現される。しかも、それらの命題を一つの命題のうちで結びつけることによって、はじめてその関係に置く必要はない。これらの関係はむしろ内的なものであり、それらの命題が存立するやいなや、また存立することそのものによって、成り立っているのである。

5.1311

p v q と ∼p から q を推論するとき、ここでは「p v q」と「∼p」の命題形式の関係が、表示の仕方によって覆い隠されてしまっている。しかし、たとえば「p v q」の代わりに「p | q . | . p | q」と書き、「∼p」の代わりに「p | p」と書けば(p | q = pでもなくqでもない)、その内的な連関は明らかになる。((x) . fxからfaを推論できるということは、一般性がシンボル「(x) . fx」のうちにもすでに存在していることを示している。)

5.132

pがqから帰結するなら、qからpへと推論することができる。すなわちqからpを導き出すことができる。推論の仕方は、二つの命題だけから読み取られるべきものであり、それらの命題だけが、その推論を正当化することができる。フレーゲやラッセルにおけるような、推論を正当化するはずの「推論法則」は、無意味であり、余計なものであろう。

5.133

あらゆる導出は、アプリオリに行われる。

5.134

ある要素命題から、別の要素命題を導出することはできない。

5.135

何らかの状況が成り立っていることから、それとはまったく異なる状況が成り立っていることを推論することは、どのようにしてもできない。

5.136

そうした推論を裏づける因果の連鎖など、どこにも存在しない。

5.1361

未来の出来事を、現在の出来事から推論することはできない。因果連鎖を信じることこそが、迷信なのである。

5.1362

意志の自由とは、未来の行為がいまだ知られることはありえない、ということである。因果性が論理的推論の必然性のような内的な必然性であるときにのみ、私たちは未来の行為を知ることができるだろう。知ることと知られることのつながりは、論理的必然性のつながりである。(pがトートロジーであるとき、「Aはpが成り立っていることを知っている」は無意味である。)

5.1363

ある命題が私たちにとって明白であるということから、その命題が真であることが帰結しないのであれば、明白であるということは、その命題の真を信じることの正当化にはならない。

5.14

ある命題が別の命題から帰結するとき、後者は前者よりも多くを語り、前者は後者よりも少なく語っている。

5.141

pがqから帰結し、かつqがpから帰結するなら、両者はただ一つの同じ命題である。

5.142

トートロジーは、いかなる命題からも帰結する。そして、トートロジーは何一つ語っていない。

5.143

矛盾とは、命題に共通するもののうち、どの命題も他の命題と共有していないものである。トートロジーとは、互いに何も共有していないすべての命題に共通するものである。矛盾はいわばすべての命題の外側で消え去り、トートロジーは内側で消え去る。矛盾は命題の外側の限界であり、トートロジーは命題の実体のない中心点である。

5.15
Wrを命題「r」の真理根拠の数とし、Wrsを命題「s」の真理根拠のうち同時に「r」の真理根拠でもあるものの数とする。このとき、比Wrs : Wrを、命題「r」が命題「s」に与える確率の度合いと呼ぶことにする。
5.151
上の5.101のような図式において、Wrを命題rにおける「W」の数とし、Wrsを命題sにおける「W」のうち、命題rの「W」と同じ列にあるものの数としよう。そのとき、命題rは命題sに確率Wrs : Wrを与えることになる。
5.1511

確率命題に固有の特別な対象というものは、存在しない。

5.152
真理項を互いに共有していない命題を、互いに独立であると呼ぶことにする。互いに独立な命題、たとえば任意の二つの要素命題は、互いに確率1/2を与え合う。pがqから帰結するなら、命題「q」は命題「p」に確率1を与える。論理的推論の確実性は、確率の極限の場合にほかならない。(トートロジーと矛盾への適用である。)
5.153

命題はそれ自体としては、確からしくもなければ確からしくないのでもない。出来事は起こるか起こらないかのどちらかであり、その中間というものはない。

5.154
壺のなかに、白い球と黒い球が同じ数だけ入っているとしよう(それ以外の球は入っていない)。球を一つずつ取り出しては、また壺に戻す。そうすると、取り出しを続けるにつれて、取り出された黒い球と白い球の数が互いに近づいていくことを、実験によって確かめることができる。したがって、このことは数学的な事実ではない。さて、白い球を取り出すことと黒い球を取り出すことは同じ程度に確からしい、と言うとき、それが意味しているのは次のことである。知られているすべての事情(仮説として想定された自然法則も含む)は、一方の出来事が起こることに、他方の出来事が起こることより多くの確率を与えることはない、ということである。つまり、上の説明から容易に読み取れるように、それらの事情はどちらの出来事にも確率1/2を与えている。実験によって確かめられるのは、二つの出来事が起こることが、それ以上詳しくは知られていない事情から独立である、ということである。
5.155

確率命題の単位は、次のようなものである。ある事情が、それについてそれ以上は何も知られていないとしても、ある特定の出来事が起こることに、しかじかの度合いの確率を与えている。

5.156

このように、確率は一つの一般化である。確率は、命題形式の一般的な記述を含んでいる。私たちが確率を用いるのは、確実性が欠けているときにかぎられる。すなわち、ある事実を完全には知らないが、その形式については何かを知っている場合である。(命題は、ある状況の不完全な像でありうる。しかし、命題はつねに一つの完全な像である。)確率命題は、いわば他の命題の抜粋なのである。

5.2

命題の構造どうしは、互いに内的な関係にある。

5.21

これらの内的な関係は、命題を、他の命題(操作の基底)からその命題を生み出す操作の結果として描写することによって、私たちの表現方法のうちで際立たせることができる。

5.22

操作とは、基底となる構造と、そこから生じる結果の構造との関係を、そのまま表したものである。

5.23

操作とは、一方の命題から他方の命題をつくるために、前者に対してなされなければならないことである。

5.231

そしてそれはもちろん、それらの命題の形式的な性質に、すなわちそれらの形式の内的な類似に依存することになるだろう。

5.232

ある系列に順序を与える内的な関係は、一つの項から次の項を生み出す操作と、同じものである。

5.233

操作が現れうるのは、ある命題が別の命題から論理的に意義のある仕方で生じるところ、つまり命題の論理的な構成が始まるところにおいてである。

5.234

要素命題の真理関数は、要素命題を基底とする操作の結果である。(これらの操作を真理操作と呼ぶことにする。)

5.2341

pの真理関数の意味は、pの意味の関数である。否定、論理的な加法、論理的な乗法などは、いずれも操作である。(否定は命題の意味を逆転させる。)

5.24

操作は変項のうちにおのずと示される。操作は、命題のある形式から別の形式へどのようにして移ることができるかを示している。操作は、形式の違いを表現にもたらす。(そして、操作の基底と結果とのあいだに共通するもの、それがまさに基底である。)

5.241

操作は形式を特徴づけるのではなく、形式の違いだけを特徴づける。

5.242

「p」から「q」をつくる操作と同じ操作が、「q」から「r」をつくる。以下も同様である。このことは、「p」「q」「r」等が、ある形式的な関係を一般的に表現にもたらす変項である、ということのうちにしか表現されえない。

5.25

操作が現れることは、命題の意味を特徴づけない。実際、操作は何も言明しない。言明するのはその結果だけであり、その結果は操作の基底に依存している。(操作と関数とを取り違えてはならない。)

5.251

関数は自分自身の項になることはできない。しかし操作の結果は、その操作自身の基底となることができる。

5.252

このようにしてのみ、形式系列における項から項への進行、すなわちラッセルとホワイトヘッドの階層におけるタイプからタイプへの進行が可能になる。(ラッセルとホワイトヘッドはこの進行の可能性を認めなかったが、それでも繰り返しこれを用いてきた。)

5.2521

操作をその操作自身の結果に続けて適用することを、その操作の逐次適用と呼ぶことにする(「O′O′O′a」は、「O′ξ」を「a」に三回逐次適用した結果である)。同じ意味で、複数の操作をいくつかの命題に逐次適用することについても語ることができる。

5.2522

それゆえ、形式系列a、O′a、O′O′a、……の一般項は、「[a, x, O′x]」と書くことにする。この括弧の表現は変項である。括弧の表現の第一項は形式系列の始まりであり、第二項は系列の任意の項xの形式であり、第三項は系列のうちでxの直後に続く項の形式である。

5.2523

操作の逐次適用という概念は、「以下同様」という概念と同値である。

5.253

ある操作が、別の操作の働きを打ち消し、元に戻すことがある。操作どうしは、互いに相殺し合いうる。

5.254

操作が消えてしまうことがある。たとえば「∼∼p」における否定がそれにあたる(∼∼p=p)。

5.3

すべての命題は、要素命題に対する真理操作の結果である。真理操作とは、要素命題から真理関数が生じる、その仕方にほかならない。真理操作の本質からして、要素命題からその真理関数が生じるのと同じ仕方で、真理関数から新しい真理関数が生じる。どの真理操作も、要素命題の真理関数から、ふたたび要素命題の真理関数、すなわち一つの命題を生み出す。要素命題に対する真理操作の結果に、さらに真理操作を施した結果も、いずれもまた、要素命題に対するただ一つの真理操作の結果である。どの命題も、要素命題に対する真理操作の結果である。

5.31

4.31の図式は、「p」「q」「r」等が要素命題でない場合にも指示対象をもつ。そして、「p」と「q」が要素命題の真理関数である場合にも、4.442の命題記号が要素命題の一つの真理関数を表現していることは、容易に見てとれる。

5.32

あらゆる真理関数は、要素命題に対して、有限個の真理操作を順に適用していった結果として得られる。

5.4

ここで、フレーゲとラッセルの意味での「論理的対象」や「論理定項」が存在しないことが示される。

5.41

真理関数に対する真理操作の結果のうち、要素命題のただ一つの同じ真理関数であるものは、すべて同一だからである。

5.42

v、⊃などが、右と左のような意味での関係ではないことは、明白である。フレーゲとラッセルの論理的な「原始記号」を互いに交差させて定義できるという可能性そのものが、それらが原始記号ではないこと、まして関係を表示するものではないことを示している。「∼」と「v」によって定義される「⊃」が、「v」を「∼」と組み合わせて定義するのに用いられるものと同一であり、この「v」がはじめの「v」と同一であることは明らかである。以下も同様である。

5.43

一つの事実pから無限に多くの別の事実、すなわち∼∼p、∼∼∼∼p等が帰結するとされることは、そもそもはじめから、ほとんど信じがたいことである。論理学、すなわち数学の無限に多くの命題が、半ダースの「基本法則」から帰結するというのも、それに劣らず奇妙である。しかし、論理学の命題はすべて同じことを語っている。すなわち、何も語らない、ということである。

5.44

真理関数は実質的な関数ではない。たとえば二重否定によって肯定を生み出すことができるとすれば、否定は何らかの意味で肯定のうちにすでに含まれているのだろうか。「∼∼p」は∼pを否定しているのか、それともpを肯定しているのか、あるいはその両方なのか。命題「∼∼p」は、否定を対象のように扱っているのではない。だが、否定の可能性は、肯定のうちにあらかじめ定められている。もし「∼」という名の対象があるとすれば、「∼∼p」は「p」とは別のことを語らなければならないだろう。そのときには、一方の命題はまさに∼を扱い、他方の命題は扱わないということになってしまうからである。

5.441

見かけ上の論理定項がこのように消えることは、「∼(∃x) . ∼fx」が「(x) . fx」と同じことを語り、「(∃x) . fx . x = a」が「fa」と同じことを語る場合にも起こっている。

5.442

一つの命題が与えられるとき、それを基底として行われるすべての真理操作の結果も、その命題とともに、すでに与えられていることになる。

5.45

論理的な原始記号があるとすれば、正しい論理学は、それらが互いにどのような位置にあるかを明らかにし、その存在を正当化しなければならない。論理学がその原始記号からどのように組み立てられるのかが、明らかにされなければならない。

5.451

論理学に基本概念があるとすれば、それらは互いに独立でなければならない。ある基本概念が導入されたなら、それは、それが現れうるあらゆる結合のうちで導入されていなければならない。したがって、まず一つの結合のために導入し、次に別の結合のためにあらためて導入する、ということはできない。たとえば否定が導入されたなら、「∼p」という形式の命題のうちでも、「∼(p v q)」、「(∃x) . ∼fx」のような命題のうちでも、同じように理解しなければならない。否定を、ある種類の場合のためにまず導入し、次に別の種類の場合のために導入する、ということをしてはならない。そうすると、両方の場合でその指示対象が同じかどうかが疑わしいままになり、両方の場合で同じ種類の記号の結合を用いる理由もなくなってしまうだろうからである。(要するに、原始記号の導入については、必要な変更を加えれば、フレーゲが『算術の基本法則』において、定義による記号の導入について述べたのと同じことが言える。)

5.452

論理学の記号体系に新しい手段を導入することは、つねに重大な結果をともなう出来事でなければならない。どんな新しい手段も、まったく無邪気な顔をして、括弧のなかや脚注のなかで論理学に導入されてはならない。(たとえば、ラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』には、定義や基本法則が言葉で述べられている箇所がある。なぜここで急に言葉が用いられるのか。これには正当化が必要だろう。しかし正当化は欠けており、欠けざるをえない。そのやり方は、実際には許されないものだからである。)ある箇所で新しい手段の導入が必要であることが明らかになったなら、ただちに次のように問わなければならない。この手段はいまや、つねにどこで用いられなければならないのか。論理学におけるその位置が、いまや説明されなければならないのである。

5.453

論理学のすべての数は、正当化されうるものでなければならない。あるいはむしろ、論理学には数というものが存在しないことが明らかにされなければならない。特別な数というものは、存在しないのである。

5.454

論理学には並列というものがなく、分類というものもありえない。論理学には、より一般的なものとより特殊なものとがある、ということもありえない。

5.4541

論理学の問題の解決は、単純でなければならない。それが単純さの基準そのものを定めるからである。人間はつねに、答えがアプリオリに対称的で、一つの閉じた規則的な形成物へと合一しているような問いの領域が、どこかになければならない、と予感してきた。simplex sigillum veri(単純さは真理のしるし)という命題が当てはまる領域である。

5.46

論理記号を正しく導入したなら、それによって、それらのあらゆる組み合わせの意味もすでに導入したことになるだろう。すなわち、「p v q」だけでなく「∼(p v ∼q)」等も、すでに導入したことになるだろう。それによって、括弧のありとあらゆる組み合わせの働きも、すでに導入したことになるだろう。そうすれば、本来の一般的な原始記号は、「p v q」や「(∃x) . fx」等ではなく、それらの組み合わせの最も一般的な形式であることが、明らかになっていたはずである。

5.461

vや⊃のような論理的な見かけ上の関係は、実際の関係とは違って括弧を必要とする。この一見重要でない事実は、実は意味深いものである。あの見かけ上の原始記号に括弧が用いられること自体が、それらが本当の原始記号ではないことを、すでに示唆している。そして、括弧そのものが独立した指示対象をもつと信じる者は、まずいないだろう。

5.4611

論理的な操作を表す記号は、いわば句読点にすぎない。

5.47

すべての命題の形式について、あらかじめ語られうることはすべて、一挙に語られうるのでなければならない。これは明らかなことである。実際、要素命題のうちに、すでにすべての論理的な操作が含まれている。「fa」は「(∃x) . fx . x = a」と同じことを語るからである。合成されたものがあるところには、項と関数がある。そして項と関数があるところには、すでにすべての論理定項がある。こうも言えるだろう。ただ一つの論理定項とは、すべての命題がその本性からして互いに共有しているものである、と。しかし、それこそが一般的な命題形式なのである。

5.471

命題の本質をなすのは、一般的な命題形式である。

5.4711

命題の本質を述べることは、あらゆる記述の本質を述べることであり、したがって世界の本質を述べることでもある。

5.472

最も一般的な命題形式を記述することは、とりもなおさず、論理学がもつただ一つの一般的な原始記号を記述することにほかならない。

5.473

論理は自分自身の面倒を見なければならない。可能な記号は、表示することもできるのでなければならない。論理において可能なものはすべて、許されてもいる。(それゆえ「ソクラテスは同一的である」は何も意味しない。「同一的」という名の性質がないからである。この命題がナンセンスであるのは、私たちがある恣意的な取り決めをしていないからであって、そのシンボルがそれ自体として許されないものだからではない。)論理において、私たちはある意味で誤ることがありえない。

5.4731

ラッセルがあれほど多く語った自明性が論理において不要になりうるのは、言語そのものがあらゆる論理的な誤りを防いでいるからにほかならない。論理がアプリオリであるということは、非論理的に考えることができないということのうちにある。

5.4732

記号に誤った意味を与えることは、私たちにはできない。

5.47321

オッカムの格言はもちろん、恣意的な規則でもなければ、その実際上の成功によって正当化される規則でもない。それが言っているのは、不要な記号単位は何も指示していない、ということである。一つの目的を果たす記号は、論理的に同値である。どの目的も果たさない記号は、論理的に指示対象をもたない。

5.4733

フレーゲは、正しく形成された命題はどれも意味をもたなければならない、と言う。これに対して私は言う。可能な命題はどれも正しく形成されており、それが意味をもたないとすれば、それはただ、私たちがその構成要素のいくつかに指示対象を与えていないことにしかよらない、と。(与えたつもりでいるとしても、である。)たとえば「ソクラテスは同一的である」が何も語らないのは、「同一的」という語に、形容詞としての指示対象を私たちが何も与えていないからである。というのも、その語が等号として現れる場合には、それはまったく別の仕方でシンボルとして働くからである。表示する関係そのものが別のものであり、したがって二つの場合でシンボルもまったく異なっている。両者は、たまたま記号を共有しているにすぎない。

5.474

必要となる基本操作の数は、私たちがどのような表記法を選ぶかにのみ左右される。

5.475

問題はただ、特定の数の次元、すなわち特定の数学的多様性をもつ記号体系をつくることだけである。

5.476

ここで問題となっているのは、表示されなければならない基本概念の数ではなく、一つの規則の表現であることは明らかである。

5.5

どの真理関数も、操作(– – – – –W)(ξ, ....)を要素命題に逐次適用した結果である。この操作は、右側の括弧のなかのすべての命題を否定する。この操作を、それらの命題の否定と呼ぶことにする。

5.501
項が命題であるような括弧の表現は、括弧のなかの項の順序がどうでもよい場合には、「(ξ)」という形式の記号で書き表すことにする。「ξ」は、その値が括弧の表現の項であるような変項である。そして変項の上の線は、その変項が括弧のなかでそのすべての値の代わりを務めていることのしるしである。(したがって、たとえばξがP、Q、Rという三つの値をもつなら、(ξ) = (P, Q, R)である。)変項の値は、取り決めによって定められる。この定めは、その変項が代わりを務める命題の記述である。括弧の表現の項の記述がどのように行われるかは、本質的ではない。記述の仕方は、次の三種類に区別することができる。一つは、直接に数え上げることである。この場合、変項の代わりに、単にその一定の値を置けばよい。二つは、関数fxを指定することである。その関数のxのすべての値に対する値が、記述されるべき命題である。三つは、それらの命題がそれにしたがって形成される、形式的な法則を指定することである。この場合、括弧の表現の項は、一つの形式系列のすべての項である。
5.502
したがって、「(– – – – –W)(ξ, ....)」の代わりに「N(ξ)」と書くことにする。N(ξ)は、命題変項ξのすべての値の否定である。
5.503

この操作によってどのように命題が形成されうるか、また、この操作によっては命題がどのように形成されえないかは、明らかに容易に表現できる。したがって、このこともまた厳密な表現を見いだすことができるのでなければならない。

5.51
ξが一つの値しかもたないなら、N(ξ) = ∼p(pでない)であり、二つの値をもつなら、N(ξ) = ∼p . ∼q(pでもなくqでもない)である。
5.511

すべてを包括し、世界を映し出す論理が、どうしてこのような特殊な鉤や細工を用いることができるのだろうか。それは、これらすべてが無限に細かい網の目へと、一つの大きな鏡へと、互いに結びつくことによってのみ可能になる。

5.512

「∼p」は、「p」が偽であるときに真である。したがって、真である命題「∼p」のうちでは、「p」は偽である命題である。では、線「∼」は、どのようにしてこの命題を現実と一致させることができるのだろうか。しかし、「∼p」において否定しているのは「∼」ではなく、この表記法においてpを否定するすべての記号に共通するもの、すなわち「∼p」、「∼∼∼p」、「∼p v ∼p」、「∼p . ∼p」等(無限に)がそれにしたがって形成される、共通の規則である。この共通のものこそが、否定を映し出しているのである。

5.513

こうも言えるだろう。pとqの両方を肯定するすべてのシンボルに共通するものは、命題「p . q」である。pかqのどちらかを肯定するすべてのシンボルに共通するものは、命題「p v q」である。そして、こう言うこともできる。二つの命題が互いに対立するのは、それらが互いに何も共有していないときである、と。そして、どの命題も否定をただ一つしかもたない。その命題の完全に外側にある命題は、ただ一つしかないからである。こうして、ラッセルの表記法においても、「q : p v ∼p」が「q」と同じことを語り、「p v ∼p」が何も語らないことが示される。

5.514

表記法が定められれば、そのなかには、pを否定するすべての命題がそれにしたがって形成される規則、pを肯定するすべての命題がそれにしたがって形成される規則、pまたはqを肯定するすべての命題がそれにしたがって形成される規則等々がある。これらの規則はシンボルと同値であり、これらの規則のうちにシンボルの意味が映し出されている。

5.515

「v」「.」等によって互いに結合されているものが命題でなければならないことは、私たちのシンボルに即しておのずと示されなければならない。そして実際、そうなっている。シンボル「p」と「q」は、それ自体がすでに「v」「∼」等を前提しているからである。「p v q」における記号「p」が複合的な記号の代わりをしていないのであれば、それは単独では意味をもつことができない。だが、そうなると、「p」と同じ意味をもつ記号「p v p」、「p . p」等も、意味をもつことができなくなる。そして、「p v p」が意味をもたないなら、「p v q」も意味をもつことができない。

5.5151

否定命題の記号は、肯定命題の記号を用いてつくられなければならないのだろうか。なぜ否定命題を否定的な事実によって表現することができないのだろうか。(たとえば、「a」が「b」に対して特定の関係にないことが、aRbが成り立っていないことを表現しうる、というように。)しかし、ここでもやはり、否定命題は間接的に肯定命題によってつくられている。肯定命題は否定命題の存在を前提しなければならず、その逆もまた同様である。

5.52
ξの値が、xのすべての値に対する関数fxのすべての値であるなら、N(ξ) = ∼(∃x) . fxとなる。
5.521

私はすべてという概念を、真理関数から切り離す。フレーゲとラッセルは、一般性を論理積や論理和と結びつけて導入した。そのため、両方の考えが含まれている命題「(∃x) . fx」と「(x) . fx」を理解することが、かえって難しくなってしまった。

5.522

一般性の表示には、二つの固有の働きがある。一つは、一つの論理的な原像を指し示すこと、もう一つは、定項を際立たせることである。

5.523

一般性の表示は、一つの項というかたちをとって現れる。

5.524

対象が与えられていれば、それによってすべての対象もまたすでに与えられている。要素命題が与えられていれば、それによってすべての要素命題もまた与えられている。

5.525

ラッセルがしているように、命題「(∃x) . fx」を言葉で「fxは可能である」と言い換えるのは、正しくない。ある状況の確実性や可能性、あるいは不可能性は、命題によって表現されるのではなく、ある表現がトートロジーであるか、意味をもつ命題であるか、矛盾であるかによって表現される。人がつねに引き合いに出したくなるあの先例は、すでにシンボルそのもののうちになければならないのである。

5.526

世界は、完全に一般化された命題によって完全に記述することができる。すなわち、どんな名もあらかじめ特定の対象に対応づけることなしに、記述することができる。そのうえで通常の表現の仕方にたどり着くには、「……であるようなxがただ一つだけある」という表現のあとに、単に、そしてこのxはaである、と言えばよい。

5.5261

完全に一般化された命題も、他のどの命題とも同じく、合成されている。(このことは、「(∃x, φ) . φx」において、「φ」と「x」を別々に挙げなければならないことに示されている。両者はどちらも、一般化されていない命題の場合と同じく、独立に世界に対する表示の関係に立っているのである。)合成されたシンボルのしるしとは、他のシンボルと何かを共有している、ということである。

5.5262

実のところ、どの命題の真偽も、世界の一般的な造りの何かを変える。そして、要素命題の総体によって世界の造りに残される余地とは、まさに、まったく一般的な命題が限界づける余地にほかならない。(ある要素命題が真であれば、いずれにせよ、それによって、真である要素命題が一つ増えることになるからである。)

5.53

対象が同じであることは、記号が同じであることによって表現し、等号を用いることによっては表現しない。対象が異なることは、記号が異なることによって表現する。

5.5301

同一性が対象のあいだの関係ではないことは、明白である。このことは、たとえば命題「(x) : fx . ⊃ . x = a」を考えてみれば、きわめて明らかになる。この命題が語っているのは、単にaだけが関数fを満たす、ということであって、aに対してある関係をもつような物だけが関数fを満たす、ということではない。もちろん、まさにaだけがaに対してこの関係をもつ、と言うこともできるだろう。しかし、それを表現するためには、等号そのものが必要になってしまうだろう。

5.5302

ラッセルの「=」の定義では十分とはいえない。二つの対象があらゆる性質を共有していると言い表すことが、その定義のもとではできないからである。(たとえこの命題が決して正しくなかったとしても、それは意味をもつ。)

5.5303

ついでに言えば、二つの物について、それらは同一である、と言うことはナンセンスであり、一つの物について、それは自分自身と同一である、と言うことは、まったく何も語っていない。

5.531

したがって、「f(a,b) . a = b」と書くのではなく、「f(a,a)」(あるいは「f(b,b)」)と書くことにする。そして、「f(a,b) . ∼a = b」と書くのではなく、「f(a,b)」と書くことにする。

5.532

同様に、「(∃x,y) . f(x,y) . x = y」ではなく「(∃x) . f(x,x)」と書き、「(∃x,y) . f(x,y) . ∼x = y」ではなく「(∃x,y) . f(x,y)」と書く。(したがって、ラッセルの「(∃x,y) . f(x,y)」の代わりに、「(∃x,y) . f(x,y) . v . (∃x) . f(x,x)」と書くことになる。)

5.5321

したがって、たとえば「(x) : fx ⊃ x = a」の代わりに、「(∃x) . fx . ⊃ . fa : ∼(∃x,y) . fx . fy」と書く。そして、「ただ一つのxがf()を満たす」という命題は、「(∃x) . fx : ∼(∃x,y) . fx . fy」となる。

5.533

そのため、等号は、概念記法にとって本質的な構成要素とはいえない。

5.534

そしていまや、「a = a」、「a = b . b = c . ⊃ a = c」、「(x) . x = x」、「(∃x) . x = a」等のような擬似命題は、正しい概念記法においてはそもそも書き表すことができないことが分かる。

5.535

これによって、そうした擬似命題に結びついていたすべての問題も片づくことになる。ラッセルの「無限公理」がもたらすすべての問題は、すでにここで解決されるべきものである。無限公理が語ろうとしていることは、言語においては、異なる指示対象をもつ無限に多くの名が存在することによって表現されるだろう。

5.5351

「a = a」や「p ⊃ p」などの形式の表現を用いたくなる、ある種の場合がある。それが起こるのは、原像について、すなわち命題や物などについて話したい場合である。たとえばラッセルは、『数学の原理』において、「pは命題である」というナンセンスを、記号で「p ⊃ p」と言い換え、それを仮説としてある命題の前に置いた。その命題の項の位置が、命題によってしか占められないようにするためである。(ある命題に正しい形式の項を確保するために、その命題の前に仮説p ⊃ pを置くことは、すでに次の理由からナンセンスである。その仮説は、命題でないものを項とする場合には、偽になるのではなくナンセンスになる。そして、その命題自体も、誤った種類の項によってナンセンスになる。したがってその命題は、この目的のために付け加えられた無意味な仮説と、同じ程度にうまく、あるいは同じ程度にまずく、誤った項から自分自身を守っているにすぎない。)

5.5352

同様に、「物は存在しない」ということを「∼(∃x) . x = x」によって表現しようとした人もいた。しかし、たとえこれが命題であるとしても、「物が存在する」けれども、それらの物が自分自身と同一ではない、という場合にも、この命題は真になってしまうのではないだろうか。

5.54

一般的な命題形式において、ある命題が別の命題のうちに現れるとすれば、それは真理操作の基底としてでしかない。

5.541

一見したところ、ある命題が別の命題のうちに、別の仕方でも現れうるかのように思われる。とりわけ「Aはpが成り立っていると信じている」や「Aはpと考える」等のような、心理学のある種の命題形式においてである。ここでは表面上、命題pが対象Aに対して一種の関係にあるかのように見えるからである。(現代の認識論、たとえばラッセルやムーアにおいても、これらの命題はそのように捉えられてきた。)

5.542

しかし、「Aはpと信じている」、「Aはpと考える」、「Aはpと言う」は、「『p』はpを語る」という形式のものであることは明らかである。ここで問題となっているのは、事実と対象との対応づけではなく、事実の対象どうしを対応づけることによる、事実どうしの対応づけである。

5.5421

このことはまた、今日の表面的な心理学が思い描くような魂、すなわち主体といったものが成り立たないことをも示している。合成されてしまった魂は、もはや魂とは呼べないはずだからである。

5.5422

「Aはpと判断する」という命題の形式についての正しい説明は、ナンセンスを判断することが不可能であることを示すものでなければならない。(ラッセルの理論はこの条件を満たしていない。)

5.5423

複合体を知覚するとは、その構成要素がしかじかの仕方で互いに関係し合っていることを知覚することである。このことはおそらく、次のような図形を二通りの仕方で立方体として見ることができるということ、そしてそれに類するすべての現象も説明する。私たちは実際に、二つの異なる事実を見ているのである。(角aをまず見て、bはちらりと見るだけであれば、aが手前に見える。その逆もまた同様である。)

5.55

私たちはいまや、要素命題のあらゆる可能な形式についての問いに、アプリオリに答えなければならない。要素命題は名からなる。しかし、異なる指示対象をもつ名の数を特定することはできないのだから、要素命題がどのように合成されるかも、特定することはできない。

5.551

私たちの原則は、論理によって決着がつけられうる問いは、どれもそのままただちに決着がつけられるのでなければならない、というものである。(そして、そうした問題に世界を眺めることによって答えなければならないような立場に私たちが立たされるとすれば、それは、私たちがまったく誤った道をたどっていることを示している。)

5.552

論理を理解するために必要な「経験」とは、何かがしかじかであるということではなく、何かがあるということである。しかし、それはおよそどんな経験でもない。論理は、何かがそのようにある、というあらゆる経験の前にある。論理は、いかにあるかの前にはあるが、何であるかの前にはない。

5.5521

もしそうでないとしたら、私たちはどうして論理を適用することができるだろうか。こうも言えるだろう。世界がなくても論理があるのだとしたら、世界があるのにどうして論理がありえないことがあろうか、と。

5.553

ラッセルは、物(Individuals)の異なる数のあいだに単純な関係がある、と言った。しかし、どのような数のあいだにあるのだろうか。そして、それはどのようにして決められるべきなのだろうか。経験によってなのだろうか。(特別な数というものは存在しない。)

5.554

どのような特定の形式を指定するにせよ、それはまったく恣意的であろう。

5.5541

たとえば、27項の関係の記号によって何かを表示しなければならない立場に立たされうるかどうかは、アプリオリに決められうるはずである。

5.5542

しかし、そもそも私たちは、そのように問うてよいのだろうか。記号の形式を立てておきながら、それに何かが対応しうるかどうかを知らない、ということがありうるだろうか。何かが成り立っていることができるためには、何がなければならないのか。この問いは意味をもつだろうか。

5.555

私たちが、要素命題の特定の論理形式とは別に、要素命題について一つの概念をもっていることは明らかである。しかし、シンボルをある体系にしたがって形成できるところでは、論理的に重要なのはその体系であって、個々のシンボルではない。そして、論理において私たちが関わっているのが、自分で発明できるような形式であるということが、どうしてありえようか。そうではなく、私たちが関わらなければならないのは、それらの形式を発明することを可能にしているものそのものなのである。

5.556

要素命題の形式に、階層といったものは存在しえない。私たちに見通せるのは、私たち自身が作り上げたものだけだからである。

5.5561

経験的な実在は、対象の総体によって限界づけられている。その限界は、ふたたび要素命題の総体のうちに示される。階層は実在から独立であり、また独立でなければならない。

5.5562

要素命題がなければならないことを、私たちが純粋に論理的な根拠から知っているのなら、分析されていない形のままの命題を理解している人は誰であれ、そのことを知っているのでなければならない。

5.5563

私たちの日常言語のすべての命題は、実際にあるがままで、論理的に完全に秩序づけられている。ここで挙げるべきあの最も単純なものは、真理の比喩ではなく、完全な真理そのものである。(私たちの問題は抽象的なものではなく、おそらく存在するもののうちで最も具体的な問題である。)

5.557

論理の適用が、どのような要素命題があるのかを決める。適用のうちにあるものを、論理が先取りすることはできない。次のことは明らかである。論理はその適用と衝突してはならないが、その適用と接していなければならない。したがって、論理とその適用は、互いに相手の領分に踏み込んではならないのである。

5.5571

要素命題をアプリオリに挙げることが私たちにできないのなら、それを挙げようとすることは、明らかなナンセンスに行き着かざるをえない。

5.6

私にとって、言語が及ぶ限界こそが、そのまま世界の限界にほかならない。

5.61

論理は世界を満たしている。世界の限界は、論理の限界でもある。したがって、私たちは論理において、世界にはこれとこれがあるが、あれはない、と語ることはできない。そう語ることは、一見すると、ある可能性をあらかじめ排除することを前提しているように見えるからである。だが、そのようなことは成り立ちえない。もし成り立つとすれば、論理は世界の限界を越えて出なければならないことになる。すなわち、論理がこの限界を向こう側からも眺めることができる、ということになってしまうからである。私たちは、考えることのできないことを考えることができない。したがって、考えることのできないことを、語ることもできないのである。

5.62

この注意が、独我論がどこまで一つの真理であるかという問いに決着をつけるための鍵を与えてくれる。すなわち、独我論が言おうとしていることは、まったく正しい。ただ、それは語られえず、おのずと示されるのである。世界が私の世界であるということは、この言語(私だけが理解する言語)の限界が私の世界の限界を意味する、ということのうちに示されている。

5.621

世界と生とは、別々の二つではなく、一つのものである。

5.63

私とは、私の世界そのものにほかならない。(一個の小宇宙である。)

5.631

考え、表象する主体というものは、存在しない。もし私が『私が見いだした世界』という本を書くとすれば、そこでは私の身体についても報告し、どの手足が私の意志に従い、どれが従わないか等も語らなければならないだろう。これは実のところ、主体を切り離す一つの方法である。いや、むしろ、ある重要な意味では主体は存在しない、ということを示す方法である。この本のなかで話題にできないのは、ただ主体だけであろうからである。

5.632

主体は、世界のうちに属するものではない。むしろ主体とは、世界の一つの限界なのである。

5.633

世界のうちのどこに、形而上学的な主体が認められるというのだろうか。ここでは事情が目と視野の場合とまったく同じだ、とあなたは言う。しかし、目そのものを、あなたは実際には見ていない。そして、視野のうちの何ものも、その視野が目によって見られていることを推論させはしない。

5.6331

すなわち、視野は、たとえば次のような形をしているわけではないのである。

5.634

このことは、私たちの経験のどの部分もアプリオリではない、ということと結びついている。私たちが見るものはすべて、別様でもありえただろう。私たちが記述できるものはすべて、別様でもありえただろう。物のアプリオリな秩序というものは、存在しない。

5.64

ここで、独我論は厳密に貫かれると、純粋な実在論と一致することが見てとれる。独我論の自我は、広がりをもたない点へと縮んでいき、残るのは、その自我に対応づけられた実在である。

5.641

したがって、哲学において、心理学的でない仕方で自我を話題にしうるような意味が、実際に存在する。自我は、「世界が私の世界である」ということによって、哲学のうちに入ってくる。哲学的な自我とは、人間ではなく、人間の身体でもなければ、心理学が扱う人間の魂でもない。そうではなく、形而上学的な主体、すなわち限界であって、世界の一部ではないのである。

6
真理関数の一般形式は、[p, ξ, N(ξ)]である。これが命題の一般形式にほかならない。
6.001
これが語っているのは、どの命題も、操作N'(ξ)を要素命題に逐次適用した結果である、ということにほかならない。
6.002

命題がどのように組み立てられているかについての一般形式が与えられれば、それによって、ある命題から操作によって別の命題がどのように生み出されうるかの一般形式も、すでに与えられていることになる。

6.01
したがって、操作Ω'(η)の一般形式は、[ξ, N(ξ)]'(η)(=[η, ξ, N(ξ)])である。これが、ある命題から別の命題への移行の、最も一般的な形式にほかならない。
6.02
そして、このようにして数に至ることができる。次のように定義する。
x = Ω0' x Def. そして
Ω'Ων'x = Ων+1'x Def.
したがって、これらの記号の規則にしたがって、系列x, Ω'x, Ω'Ω'x, Ω'Ω'Ω'x, .....は、次のように書くことができる。
Ω0'x, Ω0+1'x, Ω0+1+1'x, Ω0+1+1+1'x, .....
したがって、「[x, ξ, Ω'ξ]」の代わりに、
「[Ω0'x, Ων'x, Ων+1'x]」と書くことにする。
そして、次のように定める。
0 + 1 = 1 Def.
0 + 1 + 1 = 2 Def.
0 + 1 + 1 + 1 = 3 Def.
(以下同様)
6.021

数とは、操作が何回適用されたかを示す指数にほかならない。

6.022

数の概念とは、すべての数に共通するもの、すなわち数の一般形式にほかならない。数の概念とは、いわば変項としての数である。そして、数の相等という概念は、すべての特殊な数の相等の一般形式である。

6.03
整数の一般形式は、[0, ξ, ξ+1]である。
6.031

クラスの理論は、数学においてはまったく余計なものである。このことは、数学において必要とされる一般性が、偶然的な一般性ではない、ということと結びついている。

6.1

論理学の命題は、どれもトートロジーである。

6.11

それゆえ、論理学の命題は、何も語ってはいない。(それらはいずれも分析的な命題である。)

6.111

論理学の命題を内容のあるものに見せる理論は、つねに誤っている。たとえば、「真」と「偽」という語は、他の性質のなかの二つの性質を表示している、と信じることもできるだろう。そうなると、どの命題もこれらの性質のどちらかをもつということが、奇妙な事実のように見えてしまうだろう。それは、まったく自明なことには思われない。ちょうど「すべてのバラは黄色か赤である」という命題が、たとえ真であるとしても、自明には聞こえないのと同じである。実際、この命題はいまや、まったく自然科学の命題のような性格を帯びてしまう。そして、これこそ、その命題が誤って捉えられていたことの確かなしるしなのである。

6.112

論理学の命題を正しく説明しようとするなら、それらの命題に、あらゆる命題のなかでも比類のない、特別な位置を与えないわけにはいかない。

6.113

論理学の命題の特別な標識は、それが真であることをシンボルだけから見てとることができる、という点にある。そして、この事実のうちに、論理学の哲学の全体が含まれている。同様に、論理学に属さない命題の真偽が、その命題だけからは見てとれないということも、最も重要な事実の一つである。

6.12

論理学の命題がトートロジーであるということは、言語の、すなわち世界の、形式的な性質、すなわち論理的な性質を示している。論理学の命題の構成要素がこのように結びつけられるとトートロジーになる、ということが、その構成要素の論理を特徴づける。命題が特定の仕方で結びつけられてトートロジーになるためには、その命題は構造の特定の性質をもっていなければならない。したがって、それらの命題がこのように結合されてトートロジーになるということは、それらが構造のこれらの性質をもっていることを示しているのである。

6.1201

たとえば、命題「p」と「∼p」が「∼(p . ∼p)」という結合のうちでトートロジーになることは、両者が互いに矛盾していることを示す。命題「p ⊃ q」、「p」、「q」が「(p ⊃ q) . (p) : ⊃ : (q)」という形式で結びつけられてトートロジーになることは、qがpとp ⊃ qから帰結することを示す。「(x) . fx : ⊃ : fa」がトートロジーであることは、faが(x) . fxから帰結することを示す。以下も同様である。

6.1202

同じ目的のためであれば、トートロジーではなく矛盾を用いてもかまわないことは、明らかである。

6.1203

トートロジーをトートロジーとして見分けるためには、そこに一般性の表示が現れない場合には、次のような直観的な方法を用いることができる。「p」「q」「r」等の代わりに「WpF」「WqF」「WrF」等と書き、真理の組み合わせを括弧によって表現し、命題全体の真偽と真理項の真理の組み合わせとの対応づけを線によって表現する。この記号法によって、たとえば命題p ⊃ qを描写することができる。この方法を、たとえば命題∼(p . ∼p)(矛盾律)に用いてそれがトートロジーであるかどうかを調べると、命題全体の真は、その項の真理の組み合わせのすべてに対応づけられ、その偽はどの組み合わせにも対応づけられていないことが見てとれる。こうして、その命題がトートロジーであることが、記号だけから確かめられるのである。

6.121

論理学の命題は、命題を結びつけて何も語らない命題にすることによって、命題の論理的な性質を論証する。この方法は、ゼロ方法と呼ぶこともできるだろう。論理的な命題のうちでは、命題が互いに釣り合わされており、その釣り合いの状態こそが、それらの命題が論理的にどのような性質のものでなければならないかを示している。

6.122

このことから、論理学の命題なしでも済ませることができる、ということが帰結する。適切な表記法においては、命題の形式的な性質を、それらの命題を眺めるだけで見てとることができるからである。

6.1221

たとえば、二つの命題「p」と「q」が「p ⊃ q」という結合のうちでトートロジーになるなら、qがpから帰結することは明らかである。たとえば「q」が「p ⊃ q . p」から帰結することは、この二つの命題そのものから見てとれる。しかし、それらを「p ⊃ q . p : ⊃ : q」へと結びつけ、これがトートロジーであることを示すことによっても、同じように示すことができる。

6.1222

このことは、なぜ論理学の命題が経験によって確証されえないのか、経験によって反駁されえないのと同じ理由で確証されえないのか、という問いに光を投げかける。論理学の命題は、どのような可能な経験によっても反駁されえないだけでなく、そのような経験によって確証されうるものであってもならないのである。

6.1223

いまや、なぜしばしば「論理的真理」が私たちによって「要求」されうるもののように感じられてきたのかが、明らかになる。実のところ、十分な表記法を要求できるかぎりで、私たちは論理的真理を要求することができるのである。

6.1224

いまや、なぜ論理学が形式と推論の学説と呼ばれてきたのかも、明らかになる。

6.123

次のことは明らかである。論理法則それ自体が、さらに別の論理法則に従うということがあってはならない。(ラッセルが考えたのとは違って、それぞれの「タイプ」ごとに固有の矛盾律があるのではなく、ただ一つで足りる。矛盾律が自分自身に適用されることはないからである。)

6.1231

論理学の命題のしるしは、普遍妥当性ではない。一般的であるということは、たまたまあらゆる物に当てはまる、ということにすぎない。一般化されていない命題も、一般化された命題とまったく同じように、トートロジーでありうるのである。

6.1232

論理的な普遍妥当性は、たとえば「すべての人間は死すべきものである」という命題のような、あの偶然的な普遍妥当性とは対照的に、本質的なものと呼ぶことができるだろう。ラッセルの「還元公理」のような命題は、論理学の命題ではない。このことが、それらの命題はたとえ真であるとしても幸運な偶然によってしか真でありえないだろう、という私たちの感覚を説明している。

6.1233

還元公理が妥当しない世界を考えることはできる。しかし、論理学が、私たちの世界が実際にそうなっているかどうかという問いと何の関わりもないことは、明らかである。

6.124

論理学の命題は、世界の足場を記述する。あるいはむしろ、それを描写する。論理学の命題は何も「扱って」はいない。論理学の命題は、名が指示対象をもち、要素命題が意味をもつことを前提しており、これが論理学の命題と世界との結びつきである。本質的に特定の性格をもつシンボルのある種の結合がトートロジーであるということは、世界について何かを示しているのでなければならない。ここに決定的な点がある。私たちが用いるシンボルには恣意的なところもあれば、そうでないところもある。論理学においては、この恣意的でないところだけが表現する。しかしこのことは、論理学においては、私たちが記号の助けを借りて自分の望むことを表現しているのではなく、自然必然的な記号の本性そのものが言明している、ということを意味する。何らかの記号言語の論理的構文論を知っていれば、それによって、論理学のすべての命題はすでに与えられているのである。

6.125

すべての「真である」論理学の命題の記述をあらかじめ与えることは可能である。しかも、論理学についての古い捉え方に従っても、それは可能である。

6.1251

したがって、論理学のうちに、人を驚かせるような事柄が入り込む余地は、まったくない。

6.126

ある命題が論理学に属するかどうかは、そのシンボルの論理的な性質を計算することによって計算できる。論理学の命題を「証明する」とき、私たちは実際にそれをしている。意味や指示対象を気にかけることなく、単なる記号の規則にしたがって、論理学の命題を他の命題から形成しているのである。論理学の命題の証明とは、最初の命題からつねに再びトートロジーを生み出すようなある種の操作を逐次適用することによって、それらの命題を他の論理学の命題から生じさせることにほかならない。(そして、トートロジーからはトートロジーだけが帰結する。)もちろん、論理学の命題がトートロジーであることをこのように示すやり方は、論理学にとってまったく本質的なものではない。証明の出発点となる命題自体が、証明なしに、自分がトートロジーであることを示していなければならないからである。

6.1261

論理学における過程とその結果とは、同じ一つのものである。(だからこそ、そこに驚きが生じることはない。)

6.1262

論理学における証明とは、複雑になったトートロジーを見分けやすくするための、機械的な補助手段にすぎない。

6.1263

実際、意味をもつ命題を他の命題から論理的に証明することができ、論理学の命題も同じように証明できるとしたら、あまりにも奇妙なことであろう。意味をもつ命題の論理的な証明と、論理学のうちでの証明とが、まったく異なる二つのものでなければならないことは、はじめから明らかである。

6.1264

意味をもつ命題は何かを言明し、その証明は、それが実際にそうであることを示す。論理学においては、どの命題も証明の形式である。論理学のどの命題も、記号によって描写された前件肯定式である。(そして、この前件肯定式そのものを命題によって表現することはできない。)

6.1265

論理学は、どの命題も自分自身の証明である、というふうに捉えることが、つねにできる。

6.127

論理学のすべての命題は同等の権利をもつ。それらのあいだに、本質的に、基本法則と導出された命題という区別があるわけではない。どのトートロジーも、自分がトートロジーであることを自分自身で示している。

6.1271

「論理学の基本法則」の数が恣意的であることは明らかである。たとえばフレーゲの基本法則から単に論理積をつくることによって、論理学をただ一つの基本法則から導き出すこともできるだろうからである。(フレーゲならおそらく、この基本法則はもはや直接には明白ではない、と言うだろう。しかし、フレーゲのような厳密な思想家が、論理学の命題の規準として明白さの度合いを引き合いに出したのは、奇妙なことである。)

6.13

論理学は、一つの教説ではない。それは世界を映し出す鏡像である。そして、論理はつねに超越論的なものである。

6.2

数学とは、一つの論理的な方法にほかならない。数学の命題はすべて等式であり、その意味で擬似命題である。

6.21

数学の命題は、どんな思考も表現していない。

6.211

生活のなかで必要とされるのは、決して数学の命題そのものではない。私たちは数学の命題を、数学に属さない命題から、同じく数学に属さない別の命題を推論するためにのみ用いる。(哲学においては、「私たちはそもそも何のためにこの語、この命題を使うのか」という問いが、繰り返し価値ある洞察へと導いてくれる。)

6.22

論理学の命題がトートロジーというかたちで示している世界の論理を、数学は等式というかたちで示している。

6.23

二つの表現が等号によって結ばれるなら、それは、それらが互いに置き換えられる、ということを意味する。しかし、それが実際に成り立っているかどうかは、二つの表現そのものに即して示されなければならない。二つの表現が互いに置き換えられるということは、それらの論理形式を特徴づけている。

6.231

肯定というものを二重否定として捉え直せること、これは肯定そのものがもつ一つの性質である。ちょうど「1 + 1 + 1 + 1」を「(1 + 1) + (1 + 1)」として捉え直せることが、この表現自体の一つの性質であるのと同じように。

6.232

フレーゲは、二つの表現は同じ指示対象をもつが異なる意味をもつ、と言う。しかし、等式において本質的なのは、等号が結ぶ二つの表現が同じ指示対象をもつことを示すために、等式そのものは必要ない、という点である。それは、二つの表現そのものから見てとることができるからである。

6.2321

そして、数学の命題が証明されうるということは、その正しさを見てとるために、その命題が表現していることそれ自体を事実と比べて正しいかどうかを確かめる必要はない、ということにほかならない。

6.2322

二つの表現の指示対象が同一であることを、主張することはできない。それらの指示対象について何かを主張できるためには、あらかじめそれらの指示対象を知っていなければならないからである。そして、それらの指示対象を知っているなら、すでに、両者が同じものを指示しているのか異なるものを指示しているのかも知っていることになる。

6.2323

等式が特徴づけるのは、二つの表現をそこから眺める観点だけである。すなわち、それらの指示対象が等しいという観点にほかならない。

6.233

数学の問題を解くのに直観が必要かどうかという問いには、まさに言語がここで必要な直観を与える、と答えなければならない。

6.2331

計算するという過程そのものが、まさにこの直観を媒介する。計算は実験ではない。

6.234

数学とは、論理学がとる一つの方法である。

6.2341

数学的な方法の本質は、等式を用いて作業することにある。実際、数学のどの命題もおのずと理解されなければならない、ということは、この方法にもとづいている。

6.24

数学がその等式に至る方法は、代入の方法である。等式は二つの表現の置き換え可能性を表現しており、私たちは、等式にしたがって表現を別の表現に置き換えることによって、いくつかの等式から新しい等式へと進むからである。

6.241
こうして、命題2×2=4の証明は次のようになる。
(Ων)μ'x = Ων×μ'x Def.
Ω2×2'x = (Ω2)2'x = (Ω2)1+1'x = Ω2'Ω2'x = Ω1+1'Ω1+1'x
= (Ω'Ω)'(Ω'Ω)'x = Ω'Ω'Ω'Ω'x = Ω1+1+1+1'x = Ω4'x.
6.3

論理を探究するとは、つまるところ、あらゆる法則性を探究することにほかならない。そして、論理の外側では、すべてが偶然にすぎない。

6.31

いわゆる帰納法則は、いずれにせよ論理法則ではありえない。それは明らかに意味をもつ命題だからである。したがって、それはアプリオリな法則でもありえない。

6.32

因果法則とは、一つの法則そのものではなく、法則がとる一つの形式である。

6.321

「因果法則」、これは類の名である。力学に、たとえば最小作用の法則のようないわば最小法則があるように、物理学には因果法則、すなわち因果性の形式をもつ法則がある。

6.3211

人々は実際、「最小作用の法則」がどのようなものであるかを正確に知る前から、そのような法則があるはずだと予感していた。(ここでもいつものように、アプリオリに確実なものは、純粋に論理的なものであることが明らかになる。)

6.33

保存法則をアプリオリに信じているのではない。私たちが知っているのは、論理形式の可能性をアプリオリに知っている、ということなのである。

6.34

根拠律、自然における連続性の原理、自然における最小消費の原理等々のような命題は、いずれも、科学の命題に与えられうる形についての、アプリオリな洞察である。

6.341

たとえば、ニュートン力学は、世界の記述を一つの統一的な形式へともたらす。不規則な黒い染みのある白い面を考えてみよう。どんな像が生じようとも、面を適切に細かい正方形の網目で覆い、そのそれぞれの正方形について白か黒かを言うことによって、その像の記述に好きなだけ近づくことができる。こうして、面の記述を一つの統一的な形式にもたらしたことになる。この形式は任意である。三角形や六角形の網目からなる網を用いても、同じ成果を得ることができただろうからである。三角形の網を用いたほうが、記述がより単純になったかもしれない。すなわち、より細かい正方形の網よりも、より粗い三角形の網によって、面をより正確に記述できたかもしれない(あるいはその逆かもしれない)。以下も同様である。異なる網には、世界の記述の異なる体系が対応している。力学は、世界の記述のすべての命題は、いくつかの与えられた命題、すなわち力学の公理から、与えられた仕方で得られなければならない、と述べることによって、世界の記述の一つの形式を定める。力学はこれによって科学の建物を建てるための石材を提供し、こう言う。どんな建物を建てようとするにせよ、どれも何らかの仕方で、これらの、そしてこれらだけの石材を組み合わせてつくらなければならない、と。(数の体系によって任意の数を書き表せなければならないように、力学の体系によって物理学の任意の命題を書き表せなければならない。)

6.342

そしていまや、論理学と力学との相互の位置が見てとれる。(網を、たとえば三角形と六角形のような異なる種類の図形から組み立てることもできるだろう。)先ほど述べたような像が、与えられた形式の網によって記述されうるということは、その像について何も言明していない。(このことは、この種のどの像にも当てはまるからである。)しかし、その像が特定の細かさの特定の網によって完全に記述されうるということ、これはその像を特徴づけている。同様に、世界がニュートン力学によって記述されうるということは、世界について何も言明していない。しかし、世界が実際にそうであるようにこのようにニュートン力学によって記述されうるということは、世界について何かを言明する。ある力学によるほうが別の力学によるよりも世界をより単純に記述できるということも、世界について何かを語っているのである。

6.343

力学とは、世界の記述に必要なすべての真である命題を、ただ一つの計画にしたがって構成しようとする試みである。

6.3431

論理的な装置の全体を通して、物理学の法則は、それでもやはり世界の対象について語っている。

6.3432

力学による世界の記述が、つねにまったく一般的なものであることを、忘れてはならない。力学においては、たとえば特定の質点が話題になることは決してなく、つねに何らかの質点だけが話題になるのである。

6.35

私たちの像のなかの染みは幾何学的な図形であるが、それでも、幾何学がその染みの実際の形や位置について何も語ることができないのは、言うまでもない。しかし、網は純粋に幾何学的であり、そのすべての性質はアプリオリに挙げることができる。根拠律などのような法則は、網について述べているのであり、網が記述するものについて述べているのではない。

6.36

もし因果法則というものがあるとすれば、それは「自然法則というものが存在する」という形をとるほかないだろう。だが、当然ながら、それを語ることはできない。ただ、おのずと示されるのみである。

6.361

ヘルツにならって言うなら、考えることができるのは、法則にかなった連関だけである、ということになるだろう。

6.3611

私たちは、どんな過程も「時間の経過」と比べることはできない。そのようなものは存在しないからである。私たちにできるのは、過程を別の過程、たとえばクロノメーターの動きと比べることだけである。それゆえ、時間的な経過の記述は、別の過程を拠りどころにすることによってのみ可能になる。まったく同様のことが空間についても言える。たとえば、互いに排除し合う二つの出来事のうち、他方ではなく一方が起こるべき原因がないので、どちらの出来事も起こりえない、と言われる場合、実際に問題になっているのは、何らかの非対称性がないかぎり、二つの出来事のどちらか一方を記述することがまったくできない、ということである。そして、そのような非対称性があるならば、それを、一方の出来事が起こり他方が起こらないことの原因として捉えることができる。

6.36111
重ね合わせることのできない右手と左手というカントの問題は、すでに平面においても、いやそれどころか一次元の空間においても生じている。そこでは、二つの合同な図形aとbも、この空間から外へ動かさないかぎり、重ね合わせることができない。右手と左手は、実際には完全に合同である。そして、それらを重ね合わせることができないということは、合同であることとは何の関係もない。
Figur (space)
右手の手袋を、四次元の空間で裏返すことができるなら、それを左手にはめることができるだろう。
6.362

記述しうることは、実際に起こりうることでもある。そして、因果法則によって排除されるはずのことは、そもそも記述することさえできない。

6.363

帰納の過程とは、私たちの経験と調和させることのできる最も単純な法則を、私たちが受け入れる、ということにほかならない。

6.3631

ただし、この手続きに論理的な裏づけはなく、あるのは心理学的な裏づけだけである。もっとも単純な場合が実際に起こると信じるべき根拠など、どこにもないことは明らかである。

6.36311

太陽が明日昇るだろうということは、一つの仮説である。そしてそれは、太陽が昇るかどうかを私たちが知らない、ということを意味している。

6.37

何か別のことが起こったからあることが起こらなければならない、というような強制は存在しない。存在するのは、論理的な必然性だけである。

6.371

近代的な世界観のすべての底には、いわゆる自然法則こそが自然現象を説明している、という一つの錯覚が横たわっている。

6.372

こうして人々は、昔の人々が神と運命のもとで立ち止まったように、自然法則を何か侵しがたいもののように見なして、そのもとで立ち止まる。そして、どちらも正しく、また正しくない。ただ、昔の人々のほうが、はっきりとした終点を認めていたかぎりで、より明晰である。これに対して、新しい体系では、すべてが説明されたかのように見えることになっている。

6.373

世界というものは、私の意志とは無関係に成り立っている。

6.374

たとえ私たちの望むことがすべて起こったとしても、それはやはり、いわば運命の恵みにすぎないだろう。それを保証するような論理的な連関は意志と世界とのあいだにはなく、想定された物理的な連関のほうを、私たち自身が再び意志することもできないからである。

6.375

必然性に論理的な必然性しかありえないのと同様に、不可能性にもまた、論理的な不可能性しかありえない。

6.3751

たとえば、二つの色が同時に視野の一つの場所にあることは不可能であり、しかも論理的に不可能である。色の論理的な構造が、それを排除しているからである。この矛盾が物理学においてどのように現れるかを考えてみよう。おおよそ次のようになる。一つの粒子は、同時に二つの速度をもつことはできない。すなわち、同時に二つの場所にあることはできない。つまり、同時に異なる場所にある粒子は、同一ではありえない。(二つの要素命題の論理積が、トートロジーでも矛盾でもありえないことは明らかである。視野の一つの点が同時に二つの異なる色をもつという言明は、矛盾なのである。)

6.4

あらゆる命題は、価値において等しい。

6.41

世界の意味は、世界の外になければならない。世界のうちでは、すべてはあるがままにあり、すべては起こるがままに起こる。世界のうちには価値は存在しない。そして、たとえ存在したとしても、その価値は価値をもたないだろう。価値をもつ価値が存在するなら、それは起こることとそうであることのすべての外になければならない。起こることとそうであることは、すべて偶然的だからである。それを偶然的でないものにしているものは、世界のうちにあることはできない。そうでなければ、それもまた偶然的なものになってしまうだろうからである。それは世界の外になければならないのである。

6.42

それゆえ、倫理学の命題というものも、存在しえない。命題は、より高いものを何一つ表現することができない。

6.421

倫理というものが言葉で言い表せないことは、明らかである。倫理は超越論的なものである。(倫理と美学は、一つのものにほかならない。)

6.422

「汝……すべし」という形式の倫理的な法則を立てるとき、まず浮かぶ考えは、では、もし私がそうしなかったらどうなるのか、というものである。しかし、倫理が、通常の意味での罰や報酬とは何の関わりもないことは明らかである。したがって、行為の結果についてのこの問いは、重要でないものでなければならない。少なくとも、その結果は出来事であってはならない。あの問いの立て方にも、やはり何か正しいところがあるにちがいないからである。たしかに、ある種の倫理的な報酬と倫理的な罰とがなければならない。しかし、それらは行為そのもののうちになければならない。(そして、報酬が何か快いものであり、罰が何か不快なものでなければならないことも、明らかである。)

6.423

倫理的なものの担い手としての意志について、語ることはできない。そして、現象としての意志は、心理学の関心を引くだけである。

6.43

善い意志や悪い意志が世界を変えるとすれば、それが変えることができるのは世界の限界だけであって、事実ではない。すなわち、言語によって表現されうるものではない。要するに、そのとき世界はそれによってまったく別の世界にならなければならない。世界は、いわば全体として縮むか、膨らむかしなければならない。幸福な人の世界は、不幸な人の世界とは別の世界なのである。

6.431

死を迎えるとき、世界は姿を変えるのではない。ちょうどそれと同じように、世界はそこで終わるのである。

6.4311

死は、生のなかで起こる一つの出来事ではない。人は自分の死を体験することがない。永遠ということを、無限に続く時間ではなく、時間を超えたあり方として理解するなら、いま現在を生きる人は、すでに永遠に生きていることになる。私たちの視野にふちがないのとちょうど同じように、私たちの生にも終わりというものはない。

6.4312

人間の魂の時間的な不死、すなわち死後も魂が永遠に生き続けることは、どのような仕方でも保証されていないだけではない。何よりも、この想定は、人々がそれによってつねに達成しようとしてきたことを、まったく果たしていない。永遠に生き続けることによって、いったい何かの謎が解けるというのだろうか。そのときには、この永遠の生もまた、現在の生と同じように謎めいたものではないだろうか。空間と時間のうちにある生の謎の解決は、空間と時間の外にある。(実際、解かれるべきなのは、自然科学の問題ではない。)

6.432

世界がどのようにあるかということは、より高次のものにとっては、まったくどうでもよいことである。神は、世界のなかに姿を現すことがない。

6.4321

あらゆる事実は、課題の側に属するのであって、解決の側に属することはない。

6.44

世界がいかにあるかが神秘的なのではなく、世界があるということが神秘的なのである。

6.45

永遠の相のもとで世界を観照することとは、世界を、限界づけられた全体として観照することである。限界づけられた全体としての世界を感じること、それが神秘的なものにほかならない。

6.5

言い表すことのできない答えに対しては、問いを言い表すこともできない。謎は存在しない。そもそも問いを立てることができるのであれば、その問いに答えることもできる。

6.51

懐疑論は、反駁しえないものではなく、問うことのできないところで疑おうとするなら、明らかにナンセンスである。疑いは問いのあるところにしか存在しえず、問いは答えのあるところにしか存在しえず、答えは何かが語られうるところにしか存在しえないからである。

6.52

たとえ、あり得るかぎりの科学的な問いのすべてに答えが与えられたとしても、私たちの生の問題には、まだ何一つ触れられていない、と私たちは感じるはずである。もっとも、そのときにはもう、問い自体が何も残っていないだろう。そして、そのこと自体が、答えなのである。

6.521

生の問題の解決は、この問題が消えることによって気づかれる。(長いあいだ疑った末に生の意味が明らかになった人々が、その意味がどこにあるのかを語ることができなかった理由は、ここにあるのではないだろうか。)

6.522

とはいえ、言葉では言い表せないものが、たしかに存在する。それは、みずから示されるほかない。それこそが、神秘的なものである。

6.53

哲学の方法として正しいのは、おそらく次のような姿だろう。語ることの許されているもの――自然科学の諸命題、つまり哲学そのものとは無関係な事柄――以外には、何も語らない。そのうえで、誰かが形而上学的な発言をしようとするたびに、その命題に含まれるある記号に、指示対象がまだ与えられていないことを、そのつど指摘する。もっとも、この進め方に相手が満足することはまずないだろうし、哲学を教わっているという実感も、相手にはおそらく持てない。それでも、厳密に正しい哲学の方法は、これをおいてほかにない。

6.54

私の命題は、次のようにして解明を行う。私を理解する人は、私の命題を通り抜け、その上に立ち、それを越えて上りきったとき、最後にそれらがナンセンスであることに気づく。(その人は、いわば、はしごを上りきったあとで、そのはしごを投げ捨てなければならない。)その人は、これらの命題を乗り越えなければならない。そのとき、その人は世界を正しく見るのである。

7

話すことのできないものについては、ただ沈黙するよりほかにない。

用語欄

本欄に掲げる用語は、原典において繰り返し用いられ、論の進行において、問いや区別の支点として機能している語である。各用語については、原典中における定義が示されている場合にはそれに沿って記し、定義が示されていない場合には、文脈を事実として記す。

『世界』

成り立っていることの全体。物の総体ではなく、事実の総体としてある(1〜1.13)。

『事実』

成り立っていること。事態が存立していることが、事実である(2)。世界は事実へと分かれる。

『成り立っている』

あることが、実際にそうなっていること。本書の最初の命題で、世界を規定する語として用いられる。

『事態』

対象どうしの結合(2.01)。事態は互いに独立しており、ある事態の存立・非存立から、他の事態の存立・非存立を推論することはできない。

『状況』

事態の存立と非存立から見た、ものごとのありさま。像や命題が描写するのは、論理空間のうちの一つの状況である(2.11、2.202)。

『存立する・存立』

事態が現にあること。事態の存立と非存立とが、現実である(2.06)。

『対象』

事態を構成する単純なもの(2.02)。対象は世界の実体をなし、名によって指示される。

『物』

対象とほぼ同じものを指して用いられる語(2.01)。世界は物の総体ではない、とされる(1.1)。

『実体』

世界の実体は対象からなる(2.021)。実体は、何が成り立っているかにかかわりなく存立する。

『形式・構造』

対象が事態のうちで結合するその一定の仕方が構造であり、その構造がとりうる可能性が形式である(2.032〜2.033)。

『論理空間』

事態の存立と非存立のあらゆる可能性がなす全体。事実は論理空間のうちにある(1.13)。

『像』

現実の模型。像の要素どうしの関係によって、物どうしの関係を描写する(2.12〜2.15)。思考も命題も、事実の像である。

『写像する・写像形式』

像が現実を写し取ること。像と、写像される現実とが共有していなければならない形式が、写像形式である(2.17)。

『描写する』

像や命題が、状況をそれとして示すこと。像が描写するものが、その像の意味である(2.221)。

『論理像』

写像形式が論理形式であるような像。すべての像は同時に論理像でもある(2.181〜2.182)。

『思考』

事実の論理像(3)。意味をもつ命題として表現される(4)。

『命題・命題記号』

思考を、感覚によって知覚できる形にしたもの。命題記号自体が、語どうしが一定の仕方で関係し合う一つの事実である(3.14)。命題の総体が言語である(4.001)。

『要素命題』

それ以上分析できない、最も単純な命題。一つの事態の存立を主張し、名の結合からなる(4.21〜4.22)。要素命題どうしは互いに独立である。

『名』

命題の要素である単純な記号(3.202)。名は対象を指示し、その対象が名の指示対象である(3.203)。

『記号・シンボル』

記号は、シンボルのうち感覚によって知覚できる部分である(3.32)。同じ記号が、異なるシンボルとして用いられることもある。

『意味』

命題が描写する状況。意味をもつのは命題だけである(3.3)。命題の意味は、事態の存立・非存立の可能性との一致・不一致にある(4.2)。

『指示対象』

名が指示する対象。名は、命題の脈絡のうちでのみ指示対象をもつ(3.3)。

『無意味』

意味をもたないこと。トートロジーと矛盾は無意味であるが、ナンセンスではない(4.461〜4.4611)。

『ナンセンス』

意味をもたないだけでなく、そもそも命題として成り立っていないもの。哲学の問いや命題の多くは、ナンセンスであるとされる(4.003)。

『語る・示す』

命題は事実について何かを語る。論理形式は語られることなく、命題のうちに示される。示されうることは語られえない(4.1212)。

『解明』

哲学の仕事のありよう。哲学の仕事は、本質的に解明からなる(4.112)。原始記号の指示対象も、解明によって明らかにされる(3.263)。

『真理可能性』

要素命題が真であるか偽であるかの、可能な組み合わせ(4.3〜4.31)。

『真理関数』

その真偽が、要素命題の真偽だけによって決まる命題。命題は要素命題の真理関数である(5)。

『トートロジー・矛盾』

要素命題のすべての真理可能性について真となる命題がトートロジーであり、すべてについて偽となる命題が矛盾である(4.46)。論理学の命題はトートロジーである(6.1)。

『操作』

ある命題から別の命題をつくり出すはたらき(5.21〜5.23)。操作は関数ではない。

『変項』

ある形式をもつ表現の全体を代表する記号。命題の一般形式は一つの変項として示される(4.53)。

『内的・外的』

対象がそれをもたないとは考えられない性質・関係が、内的な性質・関係である(4.123)。内的な関係は語られず、示される。

『主体』

思考し表象する主体は存在しない。主体は世界に属するのではなく、世界の限界である(5.631〜5.632)。

『神秘的なもの』

語り出すことができず、みずからを示すもの(6.522)。世界がどのようにあるかではなく、世界があるということ自体が、神秘的なものである(6.44)。

第Ⅱ部 物の定義について

第Ⅰ部で整理した思考の展開を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば、どのように定義するかを検討する。

物を定義しようとするとき、この哲学者の議論そのものが、その定義の成立を許さない構えを取っている。物にあたる語は、後に見るように、一つの概念としてではなく、名という原始的な記号のあり方そのものによって示されるべきものとされていく。したがって、以下に示す定義文は、物という語に新たな内容を与える言明ではなく、物を語ろうとする思考が第Ⅰ部の展開に沿ってどこへ行き着くかを辿った末に置かれる、一つの到達点にすぎない。

以下の定義文は、第Ⅰ部の議論を踏まえた一つの表現例である。

世界とは、成り立っていることの全体であり、物の総体ではなく、事実の総体である。だが、この事実とは何か。事実とは、『事態』が成り立っている、ということである。そして事態とは、物と物とが結びついている、その結びつきにほかならない。世界を語ろうとするなら、私はまずここに行き着く。物の結びつきとしての事態、事態の成立としての事実。

物とは何か。物は単純でなければならない。物こそが世界の『実体』をなすからである。もし世界に実体がなければ、ある命題が意味をもつかどうかは、別の命題が真であるかどうかに懸かってしまうだろう。しかし、意味をもつということは、そのような依存によって決まってはならない。したがって、世界には、何が成り立っているかとは無関係に存在する何かがなければならない。それが物である。物は、不変のもの、存在するものであり、これに対して、物がどのように配列されているかは、変転する、不安定なものである。

物どうしの配列が事態をつくる。しかし、物それ自体について、私はその存在以外に何も語ることができない。物については、名指すことしかできない。記号が、物の代わりをつとめる。私は物について話すことはできても、物を言い表すことはできない。

この物の代わりをつとめる単純記号を、『名』と呼ぶ。名は、どのような定義によっても、それ以上分解することができない。名は原始記号である。物を定義しようとする試みは、ここで一つの壁に突き当たる。定義とは、ある記号を他の記号の結合へと分解し、言い換えることである。だが名は、結合ではなく、単純である。分解すべき部分をもたない。

物、すなわち『対象』という語そのものについても、事情は変わらない。「対象」「物」「もの」といった語が正しく用いられるところでは、この語は、変項としての名によって表現される。「……であるような対象がある」と言うことはできても、「対象がある」と、あたかも物を数えるかのように言うことはできない。「百個の対象がある」という言い方は、ナンセンスである。対象という概念は、他の概念と並ぶ一つの概念ではなく、すべての名に共通する、一つの形式、いわば『擬似概念』にすぎない。

こうして、物を定義しようとする思考は、定義という形式そのものを超え出てしまう。物は、語られることによってではなく、名がそこに置かれるという事実によって、示される。

『物とは、事態の可能な結合項として世界の実体をなす単純なものであり、名によって指示されることを通じてのみ命題のうちに現れ、それ自体は語られることなく、ただ示されるものである。』

作品名:ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を知るための本

発行責任者(著者):飯島健二

発行:古典書房

制作協力:Claude(Claude Sonnet 5)

参照原典:ドイツ語原典『Logisch-Philosophische Abhandlung(Tractatus Logico-Philosophicus)』(Kegan Paul, Trench, Trubner & Co., Ltd. / Harcourt, Brace & Company, Inc., 1922年刊)

初版発行日:2026年09月27日

本書の本文・解説その他の創作部分について、著作権は発行責任者に帰属します。私的使用のための複製を除き、著作権者の許諾なく複製・転載・再配布することを禁じます。

注記:本書が参照する原典は、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(Logisch-Philosophische Abhandlung)のドイツ語原典である。本書の制作において直接参照した版は、1922年刊行のケーガン・ポール版(ドイツ語・英語対訳、ドイツ語本文は偶数頁)に準拠したものである。同版は、著者自身が校閲した最初の単行本であり、現在刊行されている研究・翻訳文献の多くがこれを底本としている。

本書第Ⅰ部本文は、原典の翻訳ではない。原典の記載順および論の進行に沿って、著者が定めた制作ルールにもとづきClaudeが構成したものである。著者による加筆・修正は行っていない。対応する日本語翻訳HTMLが存在するため、術語および論証骨格の照合基準として当該翻訳HTMLを参照して制作している。

本書第Ⅱ部に示す定義文は、原典にそのまま記されているものではない。第Ⅰ部で整理した議論を踏まえ、この哲学者が物を定義するとすれば取らざるを得ない形として示した表現例である。

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