獲物を殺さずに、動けなくして卵のそばに置く。ある種のハチは、生まれてくる幼虫に新鮮な食物を与えるために、そんな手術を行う。ベルクソンは『創造的進化』第二章で、この麻痺させる膜翅類(ハチの仲間)の本能を、知性とは別の知のあり方を示す例として取り上げる。なお、第二章の題にある「麻痺」は、植物に典型的な、意識が眠り込むような生の方向を指す語で、ここでハチが獲物にほどこす麻痺とは別のものである。

学ばずに知っているかのような行動

ベルクソンはまず、本能が、学ぶことなく知っているかのような行動であることを、いくつかの例で示す。ウマバエは、馬の脚や肩に卵を産みつけるとき、幼虫が馬の胃のなかで発達しなければならないこと、馬が自分を舐めることで幼虫を消化管に運ぶことを、知っているかのように行動する。麻酔をかける膜翅類が、獲物を殺さずに動けなくするために、神経中枢のある正確な点を刺しに行くとき、「それは、巧みな外科医を兼ねた博識な昆虫学者のように進む」。

ただし、ベルクソンは、そこに知識があるとしても、それは「暗黙のもの」だと言う。「それは意識として内に向かうのではなく、正確な行動として外に現れる。」それでも、昆虫が、空間と時間の正確な点に存在する定まった事物の表象を描いており、それを学ぶことなく知っているのは、まぎれもないというのである。

獲物ごとに、刺し方が変わる

ベルクソンは、膜翅類のさまざまな種を比べる。ハナムグリの幼虫を襲うツチバチは、一点しか刺さない。その点に運動神経節が集中しており、それらの神経節だけがあるからである。他の神経節を刺せば、避けなければならない死と腐敗をもたらしかねない。コオロギを獲物に選んだキバネアナバチは、コオロギが三対の肢を動かす三つの神経中枢をもつことを、「少なくとも、知っているかのようにふるまう」。昆虫をまず首の下で、次に前胸の後ろで、最後に腹部の付け根のあたりで刺すのである。ケブカジガバチは、イモムシの九つの神経中枢に、九回続けて針を刺す。

ベルクソンは、ここに共通の主題と、その変奏を見る。一般的な主題は「殺さずに麻痺させる必要」であり、変奏は、手術する対象の構造に従う。いわば、一つの音楽の主題が、さまざまな調に移され、あるものはきわめて単純に、あるものは限りなく巧みに演奏されているようなものだ、と彼は言う。

もちろん、手術はいつも完全とは限らない。ジガバチがイモムシを麻痺させずに殺してしまうことも、半分しか麻痺させないこともあると、近年示された。しかし、本能が誤りうるからといって、それが知的な手探りで獲得されたことにはならない、とベルクソンは言う。刺すべき点を一つずつ手探りで見つけたと仮定しても、これほど正確で特殊な認識が、遺伝によって規則的に一つずつ伝わったと、どうして想定できるのか。

知性の言葉に訳すと、どうなるか

ベルクソンは、困難のすべてが、膜翅類の知識を知性の言葉に訳そうとすることから来ると見る。そのとき、ジガバチを昆虫学者に見立てざるをえない。昆虫学者は、イモムシを他のすべての事物を知るのと同じように、外から、特別な生命的な関心なしに知っている。ジガバチも、そうして神経中枢の位置を一つずつ学ばなければならないことになる。

これに対して、ベルクソンは別の可能性を示す。ジガバチとその獲物のあいだに、いわば内側から、イモムシの傷つきやすさを教える、語源的な意味での共感があると仮定する場合である。この感じは、外的な知覚に何も負わず、両者が「二つの有機体としてではなく、二つの活動として」向き合わされたことだけから生じる。科学の理論は、行為を組織化の前に、共感を知覚の前に置いてはならない。しかし、科学の役割が終わるところで、哲学の役割が始まる、と彼は言う。

本能は共感である

科学は、本能を「複合反射」や、知的に身につけられた習慣、小さな偶然の利点の総和として説明しようとする。いずれも、本能を知性の言葉に完全に解消しようとする点で同じである。しかし、生物学の最も明らかな成果の一つは、進化が分かれた線に沿って行われたことを示した点にある。知性と本能がほぼ純粋な形で見いだされるのは、その主要な二つの線の端においてである。ならば、なぜ本能を知的な要素に解消しなければならないのか。ベルクソンは、そうする必要はないと考える。

知性は、何よりも、空間の一点を別の点に、物質的な対象を物質的な対象に関係づける能力である。知性は、イモムシの神経系を、神経と神経中枢の並置としてしか捉えない。ジガバチはそのごくわずかな部分しかつかまないが、少なくとも内側からそれをつかむ。「表象されたというよりむしろ生きられた直観によって」である。ベルクソンは、これをわれわれのもとで、ものごとを見通す共感と呼ばれるものに似ている、と述べる。

そこから出る言明は、短い。「本能は共感である。」そして、「知性と本能は反対の二つの向きを向いている。前者は不活性な物質に、後者は生命に向かう。」ただし、この二つは対立するだけではない。「進化は、もとは互いに浸透し合っていた要素を、最後まで発達させるために、互いに引き離したにすぎない。」本能も知性も、同じ生命の二つの発達した形なのである。次の記事では、この二つの向きの違いから、人間の知性は生命をどう捉え損ね、それを補う直観とは何かを見る。