なぜ何もないのではなく、何かがあるのか。哲学の入口で、多くの人が一度は立ち止まる問いである。ベルクソンは『創造的進化』第四章で、この問いに答えを出す代わりに、問いを成り立たせている「無」の観念そのものを調べる。結論は、無の観念は擬似観念であり、この問いは擬似問題だ、というものである。

無の観念は、哲学の隠れたばねである

ベルクソンによれば、哲学者たちは無の観念をほとんど取り上げなかったが、この観念は、「哲学的思考の隠れたばねであり、見えない原動力であることが多い」。私は哲学し始めるやいなや、なぜ自分が存在するのかを問う。宇宙との連帯に気づけば、なぜ宇宙が存在するのかを問う。宇宙を支える原理を立てても、問いは今度は原理に向かう。なぜこの原理は、何もないよりも存在するのか。

この問いの背後には、ある像がある。存在は、無に対する征服のように見える。実在は、無の上に絨毯のように広げられ、無が存在に、事実としてではないにせよ権利上は先立っている。ベルクソンは、「充実が空虚の画布に施された刺繍であり」、「何もない」の表象には「何かある」の表象より少ないものしかない、という考えから、われわれは逃れにくいと言う。

この問いが、形而上学を動かしてきた

ベルクソンは、この神秘が明らかにされなければならない理由を、形而上学の傾向に見る。持続する存在は、非存在に打ち勝って自らを立てるには、十分に強くないように見える。そこで形而上学は、真の存在に、心理的でも物理的でもなく、論理的な存在を与える方向に傾く。A = A のような論理的原理や、円の定義は、永遠のなかで、無に打ち勝って自らを立てるように思えるからである。すべてのものの原理をそうした存在と見るなら、存在の神秘は消えるが、その代償として、作用因としての因果性や、自由な選択の場所は失われる。ベルクソンは、これがスピノザやライプニッツのような学説の結論であったと述べる。

そこで彼は考える。もし無の観念が、存在の観念に対置されるときの意味で、擬似観念であると示せたなら、それが引き起こす問題は擬似問題になる。自由に行為し、持続する絶対者という仮説も、もはや衝撃的ではなくなるだろう、と。

無を思い描いてみる

では、無を思い描くとは、どういうことか。ベルクソンは、まず像から調べる。目を閉じ、耳をふさぎ、外から届く感覚を一つずつ消していこう。それでも私は残る。身体の内部の感覚があり、記憶があり、自分のまわりにつくった空虚の、積極的な印象さえある。それらを退けて、意識そのものを消してみよう。しかし、意識が消える、まさにその瞬間に、別の意識が灯る。消えていく自我を外から見る、別の自我があるからである。

結局、想像力は、外的知覚の無と内的知覚の無のあいだを、かわるがわる往復するだけである。両方を同時に想像することはできない。ベルクソンは、そうして形づくられる無の像について、こう述べる。「こう定義された無の像は、物に満ちた像であり」、存在に対置したり、存在の前や下に置いたりできるものではない。

「すべての廃止」は、四角い円に似ている

像でなく観念としてなら、無を考えられるのではないか。千の辺をもつ多角形は、想像できなくても理解できる。同じように、あらゆるものを順に廃止していった極限として、無を考えればよい、という反論である。

ベルクソンはこれに、精神が観念をつくる条件で答える。観念は、部品が共存できるときにのみ観念である。円は、黒くても鉄でも思い描けるが、四角い円は思い描けない。では、物を廃止するとは何をすることか。物を取り除くとき、そこには別の物が占める場所ができるだけで、本当の空虚はない。不在は、記憶し、期待する存在にとってしか、ない。それは、後悔や期待の失望の感情と、ある物が別の物に置き換わったという観念の、組み合わせである。意識の側でも同様に、空虚の表象はつねに充実した表象である。

したがって、物を取り除くことが別の物で置き換えることであるなら、絶対にすべてを取り除くことは、語そのもののなかに矛盾を含む。この操作は、自らの実行を可能にする条件を破壊するだろうからである。「すべての廃止」の観念は、四角い円の観念と同じく、観念ではなく語にすぎない、とベルクソンは言う。

否定は、判断についての判断である

それでも、なぜ「無」を考えた気になるのか。ベルクソンは、否定の働きを調べる。「この机は黒い」と言うとき、私は机について語っている。しかし、「この机は白くない」と言うとき、私が見たのは黒であって、白の不在ではない。私が語っているのは、机を白いと宣言するはずの判断についてである。そこから彼は言う。「肯定命題は、対象について下された判断を表す。否定命題は、判断について下された判断を表す。」

否定は、誤っている現実のあるいは可能な対話者を相手にして、別のことを肯定するよう注意を促す。その意味で、否定は純粋な知的操作ではなく、本質的に教育的で社会的である、とベルクソンは見る。否定の客観性は、その根底にある隠れた肯定から借りられている。

錯覚は、行為の習慣から生まれる

では、物より前に無がある、という確信は、どこから来るのか。ベルクソンは、そこに「情動的で、社会的で、要するに実践的な要素」を見る。人間のあらゆる行為は、不満足から、すなわち不在の感情から出発する。われわれの行為は、「何もない」から「何か」へ進む。家具を入れていない部屋に訪問者を案内して「何もありません」と言うとき、部屋は空気で満ちているが、人が座れるものが何もないのである。ここでの「何もない」は、物の不在というより、効用の不在である。

行為の習慣が表象の習慣に染み出し、思索が、この相対的な意味を絶対的な意味に移し替える。こうして、実在が空虚を満たすのだという考えが、われわれのうちに根づく。ベルクソンは、「何もない」の観念が本当に観念であるなら、そこには「すべて」の観念と同じだけの内容がある、と述べる。すると「なぜ何かが存在するのか」という問いは、充実を充実に対立させるもので、意味を欠く。

この分析の目的は、自らで足りる実在が、必ずしも持続と無縁の実在ではないことを示すことにあった、とベルクソンは言う。存在を、無の幽霊に向かうことなく直接に考える習慣をつけるとき、絶対者は、われわれのすぐ近くに、ある程度はわれわれのうちに現れる。この議論に納得するかどうかは、読者それぞれの判断に委ねられるが、問いの立て方そのものを疑う、という道筋は一読に値する。次の記事では、同じ第四章から、時間と運動をめぐるもう一つの錯覚、「映画的な仕組み」を見る。