コップの水に砂糖を入れ、溶けるのを待つ。誰もが経験する、数十秒のありふれた時間である。ベルクソンは『創造的進化』第一章で、この小さな待ち時間から、時間とは何かという大きな問いを引き出す。生命の進化を論じるこの本が、なぜ砂糖水から始まるのか。その道筋を、順に追ってみる。
自分の存在を確かめるところから
第一章は、進化の話ではなく、自分自身の存在の確かめから始まる。「われわれが最も確信し、最もよく知っている存在は、疑いなくわれわれ自身の存在である。」ほかの対象については外的で表面的な概念しかもたないが、自分自身は内的に、深く知覚するからである。そこでベルクソンは問う。この特権的な場合において、「存在する」という語の正確な意味は何か。以前の著作の結論を手短に思い出しておこう、と彼は述べて、議論に入る。
状態を並べても、変化にはならない
私はまず、自分が状態から状態へ移ってゆくことを確かめる。暑かったり寒かったり、陽気だったり悲しかったりする。感覚、感情、意志作用、表象が、私の存在に代わるがわる色を付ける。ここまでなら、誰にも異論はない。ところがベルクソンは、「変化は、最初に思われるよりも、はるかに根本的である」と言う。
われわれは自分の状態の一つ一つを、まるで一つの塊であるかのように語る。しかし、動かない外的対象の視覚のような、最も安定した状態でさえ、いまこの瞬間の視覚は、持ったばかりの視覚と同じではない。そこには記憶があって、過去の何ものかを現在のなかに押し込んでいるからである。心の状態は、時間の道を進みながら拾い集める持続によってふくれあがる。ベルクソンは、これを「いわば、自分自身で雪だるまをつくるのである」と言い表し、こう結論する。「真実は、われわれは絶えず変わっているということ、そして状態そのものがすでに変化だということである。」
では、なぜ心の生活は、不連続な状態の並びに見えるのか。ベルクソンによれば、われわれの注意が、変化のなかの目立つ点に固着するからである。それらは、交響曲のなかで、ところどころで鳴り響くティンパニーの打音のようなもので、連続した背景の上に浮かび上がっている。注意はさらに、切り離した状態を結びつけるために、動かない「自我」を想像する。しかし、そうして状態を支えの上にいくら並べても、「固体に固体を通したこれらのものから、流れる持続が生まれることは決してない」。
持続とは、過去が現在に食い込むことである
そこで示されるのが、持続の考えである。「持続とは、未来を蝕み、進むにつれてふくらむ、過去の連続的な進行である。」記憶は、思い出を引き出しに分類する能力ではない。過去はひとりでに保存され、全体があらゆる瞬間にわれわれについてくる。われわれの性格とは、誕生以来、いや誕生以前からわれわれが生きてきた歴史の凝縮にほかならない、とベルクソンは言う。
ここから二つの帰結が出る。第一に、持続は不可逆である。状況がいくら同じでも、それが働きかけるのは、もはや同じ人格ではない。第二に、各瞬間は新しいだけでなく、予見できない。ベルクソンは肖像画の例を挙げる。完成した肖像は、モデルの顔つきや画家の本性、絵具によって説明される。それでも、誰も、画家自身でさえ、仕上がりを正確には予見できなかった。予言するとは、生み出される前に生み出すことだからである。こうして彼は、意識をもつ存在にとって、「存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは際限なく自分自身を創造することだ」と述べる。そして問いを広げる。存在一般についても、同じことが言えるだろうか。
物質は、時間を必要としないように見える
任意に取った物質的対象は、逆の性格を示す、とベルクソンは続ける。われわれは物質の変化を、それ自体は変化しない部分の移動として表象し、部分が変化しようとすれば、それをさらに細分して、分子、原子へと降りてゆく。部分の移動は、望むだけ何度でも元に戻せるので、集まりは老いず、歴史がない。そこでは何も創造されない。人間を超えた知性なら、時間のどの瞬間についても、系のどの点の位置も計算でき、系の将来の形は、その現在の配置のなかに、理論上は見えている。
科学が物質に帰する時間tも、同じ性格をもつ。それは同時性、もっと一般的には対応を数えたものにすぎず、時間の流れが無限の速さをとって、物質の過去、現在、未来のすべてが一挙に空間に広げられたとしても、学者の公式は変わらない。
砂糖水を一杯つくろうとすれば
ここでベルクソンは言う。「それでも、継起は、物質界においてさえ、否定できない事実である。」そして、あの例が登場する。「砂糖水を一杯つくろうとすれば、どうしても、砂糖が溶けるのを待たなければならない。この小さな事実は、教えに満ちている。」
私が待たなければならない時間は、物質界の全歴史が一挙に空間に広げられたとしても同じように当てはまる、あの数学的時間ではない。それは私の焦燥と一致する。すなわち、私自身の持続の一定の部分と一致し、意のままに延ばしたり縮めたりできない。ベルクソンはこれを、「それはもはや思考されたものではなく、生きられたものである」と言う。そして、コップの水も、砂糖も、砂糖が溶けていく過程も、おそらくは抽象であり、それらが私の感覚と悟性によって切り出された元の全体が、おそらくは「意識のように進行している」のではないか、と問いかける。
宇宙は持続する
もちろん、科学が系を孤立させるのは、まったく人為的な操作ではない。物質には、孤立可能な系をつくる傾向がある。しかし、それは傾向にすぎず、孤立は決して完全ではない。最も孤立した太陽系でさえ、熱と光を放射し、動いている。この細い糸に沿って、宇宙の全体に内在する持続が伝わる。こうしてベルクソンは、「宇宙は持続する」と言い切る。時間の本性を掘り下げるほど、「持続とは発明であり、形の創造であり、絶対に新しいものの連続的な練り上げである」ことが理解されるだろう、と彼は述べる。
この見方は、事物の輪郭にも及ぶ。われわれが対象に与える明確な輪郭は、われわれが起こしうる行動の素描にすぎない。事物の面と稜を認めるとき、われわれの目に送り返されるのは、起こりうる行動の設計図である。時間は何もしない容れ物ではなく、新しいものを生み出す。この考えを手に、ベルクソンは生命の進化に踏み込んでゆく。次の記事では、その最初の関門として、進化論と目的論がともに説明に苦しむ「眼」の例を見る。