「それはただの概念にすぎない」――私たちは、頭の中だけの考えや、現実の裏づけのない理屈を退けるときに、よくこう言う。概念とは、手でつかめる現実のものから、いくつかの特徴だけを抜き出してつくった、色の薄い写しのようなものだ、というわけである。
ヘーゲルは『大論理学』の第三の書、概念論の冒頭に置かれた「概念一般について」で、この常識をひっくり返す。概念は現実の薄い写しではない。それどころか、自由な実存にまで至った概念は、ほかならぬ「私」のことなのだ、と言うのである。
実体から概念へ
この主張に至るまでに、『大論理学』は長い道のりをたどってきた。有と無から始まり、定有、無限、そして本質、反省、矛盾、物と現象を経て、最後に実体と、原因と結果、相互作用にたどり着く。ヘーゲルによれば、この道のりそのものが、概念がどのように生まれてくるかの叙述であった。
相互作用において、原因は結果のうちに自分自身を見いだし、受け身であった実体もまた原因となる。互いに相手の中で自分と同じものであり続けるこの関係が完成したとき、それはもはや実体ではなく、より高いもの、すなわち概念であり主体である、とヘーゲルは言う。因果関係のうちで実体どうしが互いにもっていた暗さは消え、自己自身にとって透明な明るさとなる。こうして、概念においては「自由」の国が開かれ、自由が必然性の真理であることが示される。
では、この概念とはどのようなものか。ヘーゲルは、概念は自己自身と同等であることで「普遍的なもの」であり、同時に自己に関係する否定として「個別的なもの」である、と規定する。普遍と個別とは、一見、まったく対立するように見える。しかし、一方をとらえれば、そこで他方も直接にとらえられている。この、にわかには呑み込みにくい規定に近づくための手がかりとして、ヘーゲルが持ち出すのが「私」である。
「私」は普遍であり、同時に個別である
ヘーゲルは言う。「概念は、それ自身自由であるような実存にまで至ったかぎりでは、自我、あるいは純粋な自己意識にほかならない。」翻訳では「自我」となっているが、ドイツ語では Ich、指しているのは、私たち一人ひとりが「私」と言うときの、その私である。
まず、私は、あらゆる規定と内容とを捨て去ることができる。たとえば、自分の名前も、職業も、いま考えている事柄もすべて脇に置いてみよう。それでも「私」はある。捨て去るというはたらきそのものとして、何ものにも限られない、自分自身との同等性のうちに帰ることのできるこの私は、そのかぎりで「普遍性」である。ところが同時に、私は、他のものに向かい合って立ち、他のものを排除する、ただ一人のこの私でもある。ヘーゲルはこれを「個別性」、「個人的な人格性」と呼ぶ。
もっとも普遍的でありながら、同時にもっとも個別的であるもの。この二重性こそが、自我の本性であり、そのまま概念の本性でもある。ヘーゲルは念を押す。「この二つの契機が、その抽象においてと同時にその完全な統一においてとらえられないならば、自我についても概念についても何も把握できない。」
カントの統覚――「私」と概念をつなぐ洞察
ふつう私たちは、私が概念を「もつ」と考える。悟性は私の一つの能力であり、概念は私の持ち物だ、というわけである。ヘーゲルはこの見方を皮肉る。それによれば、自我は「上着や色やその他の外的な性質をもつのと同じように、諸概念や概念をもつことになる」。私と概念とは、物とその性質のように、外から結びついているだけになってしまう。
この外的な関係を越え出たのがカントだった、とヘーゲルは評価する。カントは『純粋理性批判』で、概念の本質をなす統一を、「我思う」の統一、すなわち統覚の根源的に総合的な統一として認識した。ヘーゲルは、これを『理性批判』のうちで最も深く最も正しい洞察の一つと呼ぶ。カントによれば、与えられた直観の多様なものが、その概念のうちで合一されたとき、はじめてそれは客観となる。そして、この合一を支えているのが、意識の統一、つまり「私」の統一である。
ヘーゲルはここから一歩進める。対象を把握するとは、私が対象を自分のものとし、それに浸透し、それを私自身の形式へともたらすことにほかならない。直観や表象のうちでは、対象はなお外的な、疎遠なものである。思考のうちにあるときにはじめて、対象はその真の姿、その客観性を得る。だから、対象の客観性、すなわち概念そのものは、自己意識の本性にほかならない、というのである。
概念と「私」、そしてカントの統覚をめぐるこの議論を、ヘーゲル自身がどのような言葉で展開しているのか気になった方へ。
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カントが立ち止まったところ
しかし、ヘーゲルは、同じ箇所で続けて、カントがこの洞察を活かしきらなかったと批判する。カントは、概念は直観なしには空虚であり、直観によって与えられた多様なものを結びつけるかぎりでしか妥当しない、と主張した。理性の理念は統整的なものにとどまり、私たちは物自体を認識することはできない、とされた。せっかく見いだした「私」の統一を、カントは、外から与えられる素材を結びつけるための空っぽの形式にしてしまった、とヘーゲルは見る。その理由を、ヘーゲルはこう述べる。「感覚的な素材、すなわち直観の多様なものが、カントにとってはあまりにも強力であったため」、カントは概念そのものの考察へと進むことができなかったのだ、と。
ヘーゲルも、概念がそれだけでまだ完全だとは言わない。概念は、概念と実在性との統一である理念へと高まらなければならない。ただし、その不完全さは、感覚や直観に与えられる素材が欠けていることにあるのではない。概念が、自分自身から生み出した固有の実在性を、まだ自らに与えていないことにある。冒頭の「ただの概念にすぎない」という言い方は、この点で、ちょうど逆さまなのである。
有と無が同じものであるという奇妙な出発点から、終わりのない「その先」の吟味、あらゆる物のうちにひそむ矛盾、みずから解体する物を経て、ここで私たちは概念に、つまり自由な実存としての「私」に行き着いた。『大論理学』の長い道のりは、外の世界をたどる旅であると同時に、それを把握する「私」とは何かを、根本から問い直す旅でもあった。そう読むこともできるのである。