机の上に、りんごが一つ置いてある。赤く、甘酸っぱく、かすかに香る。私たちはふつう、まず「りんご」という一つの物があって、それが赤さや甘さや香りといった性質を「もっている」のだと考える。物が主で、性質はそれに付き従うもの――この順序を疑う人は、あまりいないだろう。
ところがヘーゲルは、『大論理学』本質論の第二部門「現象」の第一章「実存」で、この当たり前の物の見方を順にたどり、その見方が、物そのものを内側から解体へと導いてしまうことを示していく。物は、外から壊されるのではない。物であることの仕組みそのものが、物を解消させるのである。
根拠が消えて、物が現れる
ヘーゲルの道筋では、物はいきなり登場するのではない。その手前に、根拠と条件をめぐる長い議論がある。或る事柄のすべての条件がそろったとき、事柄は実存のうちへ歩み出る。このとき、事柄を支えていた根拠は、事柄の下に土台として残り続けるのではない。根拠は没落し、消え去る。媒介がすっかり消えることによってだけ媒介された直接性、それが「実存」である。
だからヘーゲルは、実存を本質の述語として扱うことを退ける。「本質は実存する」、あるいは「実存をもつ」と言うのではなく、本質は実存のうちへと移行したのであり、実存の向こう側に本質が隠れ残っているのではない。そしてこの実存が、自らを「実存するもの」、すなわち「物」として規定する。ここから、物の分析が始まる。
目と鼻のための物自体
最初に現れるのは、「物自体」と外的な実存との区別である。物自体は、動かない無規定な統一であり、それ自身のうちには多様な規定をもたないとされる。多様さは、物自体の外にある反省の側に属する。ヘーゲルはこれを、「たとえば物自体は、目にもたらされてはじめて色をもち、鼻にもたらされてはじめて匂いをもつ、などである。」と言い表す。
しかし、物自体にとって外的なはずのこの反省は、それだけで立っていることができず、自分のうちで崩れ落ちて、それ自身が物自体になってしまう。こうして多くの物自体が並び立つが、それらは互いの違いを相手のうちにしかもたないので、結局は一つに崩れ落ちる。残るのは、他のものとしての自己に関わる、物自体自身の規定性である。それが物の「性質」である。
注解でヘーゲルは、超越論的観念論(カントに連なる立場)に触れている。木の葉が緑に見えることや砂糖が甘く味わわれることを、すべて主観の側に移すこの立場は、無規定な「抽象的な物自体」を最後の規定として固持している点で不十分だ、と言う。物自体は、本当は外的反省をそれ自身のうちにもち、性質を備えたものとして自らを規定するのである。
性質が自立し、物は「もまた」になる
物は性質によって他の物から区別され、性質によって他の物と関わる。性質がなければ、物どうしの区別はたんに量的なものになってしまう。一冊の本は一つの物だが、そのどの頁も、頁のどの小片も一つの物であり、こうして限りなく続く――これは原典の例である。
すると、価値が逆転する。本当に自立しているのは性質の方であり、物はむしろ非本質的な外延にすぎない、ということになる。性質は、物の存立をなす自立的な「質料」、すなわち「素材」となる。化学が、色や匂いや味を、色素・臭素・酸味の素材などとして示そうとするのは、この移行をそのまま行っているのだ、とヘーゲルは言う。
こうなると、物は素材の寄せ集めにすぎない。ヘーゲルの言い方では、物は素材の「もまた」である。「物は、ある素材の何らかの定量から成り、もまた別の素材の定量から、もまたさらに別の素材の定量から成る。」りんごに当てはめてみれば、水分の定量から成り、もまた糖の定量から、もまた香りの素材の定量から成る、ということになるだろう。素材はこの物に縛られず、物を越えて他の物へと続いていく。だから物は端的に変わりうるものであり、素材はたえずこの物から出てゆき、また入ってくる。物は、固有の度量も形式ももたない、まったくの多孔性なのである。
温かい一点の矛盾
しかし物は、たんなる寄せ集めであるだけではない。物はまた「この」物、すなわち否定的な統一でもある。ヘーゲルは、物がある場所に色を、別の場所に臭素を、第三の場所に熱素をもつのではない、と指摘する。物が温かいその点において、物は色をもち、酸っぱく、電気を帯びてもいる。たとえばりんごなら、どの一点を取っても、色も味も香りも、場所を分け合わずにそこにある。
そこで表象は、素材はどれも多孔的で、一方は他方の孔のなかにある、と考える。けれども、孔のなかにあるものもまた多孔的であり、その孔には他のすべての素材がある。それぞれの素材は、他の素材が存立しないところに存立し、その存立はそのまま他の素材の存立でもある。表象は、部分や孔が「小さい」ことを持ち出して、この矛盾を見えにくくしようとする。ヘーゲルは、気体が互いを真空であるかのように通り抜けて拡散するという物理学の叙述にも触れたうえで、こう言い切る。「これは矛盾している。しかし、物はこの矛盾そのもの以外の何ものでもない。それゆえ、物は現象なのである。」
物がみずから解体するのは、このためである。物は、自分の存立を自分のうちにではなく、他のもののうちにもつ。自らの空しさを自らの基礎としてもつ実存、それが「現象」である。
注解の最後でヘーゲルは、魂を「魂の諸力」から成り立つ一つの物のように思い描く見方にも触れ、精神はそのような物の矛盾ではなく、すでに自らの統一、すなわち概念へと帰っていった矛盾だ、と述べている。次の記事では、その「概念」とは何かを、カントの統覚と重ねて語る、概念論の冒頭を読んでいく。