「話が矛盾している」と言われれば、それは議論の負けを意味する。矛盾とは、どこかで考え違いをした印であり、見つけしだい取り除くべき誤りだ――私たちはふつう、そう考えている。

ところがヘーゲルは、『大論理学』の本質論で、これとは正反対のことを言う。矛盾は誤りではない。むしろ物の真理と本質を表すものであり、あらゆる運動と生命の源である、と。この大胆な主張は、どのような道筋から出てくるのだろうか。

東へ一時間、西へ一時間

話は「対立」から始まる。ヘーゲルは、数学のプラスとマイナスや、日常の例を挙げている。+y−y=0である。東へ一時間の道を行き、同じだけ西へ戻れば、最初に行った道は打ち消される。負債がそれだけあれば、財産はそれだけ少なくなる。対立したものは、結びつくと互いを止揚しあう。

けれども、よく見ると奇妙なことがある。東へ向かう道は、それ自体で肯定的な道なのではなく、西へ向かう道もそれ自体で否定的なのではない。どちらを肯定的とし、どちらを否定的とするかは、道の外にある第三の観点が決めているにすぎない。負債も同じで、債務者にとっては否定的なものだが、債権者にとっては肯定的な財産である。しかも、往復した道のりは、打ち消しあってゼロになるだけでなく、二重の骨折り、二つの時間の総和でもある。対立したものは、一つのものでありながら、二つのものとしても立っている。

相手を含み、相手を締め出す

ここから、「C. 矛盾」の節の核心に入る。肯定的なものと否定的なものは、どちらも相手との関係によってはじめて意味をもつ。肯定的なものは、否定的なものに対して肯定的なのであり、相手をいわば自分のうちに含んでいる。ところが同時に、どちらも相手を自分から締め出すことで、自分だけで立つものであろうとする。

ヘーゲルによれば、相手を含むのと、相手を排除するのとは、同じ一つの観点においてである。だから、相手を締め出すことは、自分の自立性を成り立たせているものを締め出すことになる。自立しようとするまさにそのことによって、自分自身の自立性を自分から排除してしまう。これが、自立的な反省規定が「矛盾」である、ということの意味である。

そのため、両者は休みなく自らの反対へと移ってゆく。その結果は、まずはゼロ、すなわち消え去りである。しかしヘーゲルは、矛盾の結果はたんにゼロではない、と続ける。両者はたしかに没落(zu Grunde gehen)するが、それは同時に、自らの根拠(Grund)のうちへ帰ってゆくことでもある。ドイツ語の言葉の遊びを生かして、ヘーゲルは、解消された矛盾こそが「根拠」であると論じる。

注解では、光と闇、徳と悪徳の例も出てくる。光はただ肯定的なもの、闇はただ否定的なものと見なされやすい。だが、光は闇によって灰色に曇らされ、色へと規定される。徳もまた、闘いなしにはありえない。肯定と否定を固く分けておく見方は、ものごとの実際の姿をとらえ損ねている、というのである。

運動とは、定有する矛盾である

こうした考察を受けて、第三の注解でヘーゲルは一つの命題を掲げる。「あらゆる物はそれ自体において矛盾している」。同一性や排中律が命題として立てられてきたのなら、それらの真理である矛盾こそ、命題としてとらえられるべきだ、というのである。

これまでの論理学は、矛盾は同一性ほど本質的な規定ではない、と考えてきた。序列を言うなら、むしろ矛盾のほうが深くて本質的だ、とヘーゲルは言う。同一性は、矛盾に比べれば、死んだ有の規定にすぎない。そして、こう言う。「矛盾はあらゆる運動と生命性の根である。或るものは、自己自身のうちに矛盾をもつかぎりにおいてのみ、運動し、衝動と活動をもつのである。」

いちばんわかりやすい例が、目に見える運動である。ヘーゲル自身の例ではないが、飛んでいる矢を思い浮かべてみよう。ヘーゲルによれば、「或るものが運動するのは、この今にはここにあり、別の今にはそこにあることによってではなく、一つの同じ今においてここにあり、かつここにないことによってのみである。」古代の弁証論者(エレア派のゼノンらを指すと考えられる)は、運動のうちに矛盾を見つけ、だから運動はないと結論した。ヘーゲルは、矛盾があることは認める。しかし結論は逆である。運動とは、定有する矛盾そのものなのだ。

生き物の衝動も同じである。或るものが自己のうちにありながら、同時に自分自身の欠如でもあるからこそ、それは自分の外へ出て、変化へと身を置く。「或るものが生きているのは、自らのうちに矛盾を含み、しかも矛盾を自らのうちにとらえ、それに耐えるこの力であるかぎりにおいてのみである。」矛盾をもちこたえられない実存するものは、矛盾のうちで没落する、ともヘーゲルは続ける。上と下、右と左、父と子といった、ごくありふれた関係の言葉にも、矛盾はむき出しで現れている。上とは下でないものであり、下があるかぎりでのみ上である。私たちは至るところで矛盾を手にしているのに、それに気づかないだけなのである。

矛盾は、欠陥ではない

ここから引き出される結論は明快である。ある事柄に矛盾が示されたとしても、それだけではまだ、その事柄の欠陥や誤りではない。あらゆる具体的なもの、あらゆる概念は、区別された契機の統一であり、それらの契機は矛盾へと移ってゆく。物とは、それ自身において矛盾するものであると同時に、その矛盾を解消し、自らの規定を担う根拠なのである。

ヘーゲルはさらに、有限な物は「自己のうちで破れていて」、自らの根拠のうちへ帰ってゆくのだ、と言う。有限なものから絶対者へ推論するとき、有限なものがあるから絶対者がある、のではない、と彼は言う。有限なものが自己自身に矛盾し、ないものであるからこそ、絶対者がある。矛盾は、思考がつまずく石ではなく、物の自己運動と生命を動かしている拍動なのである。

では、ここで言われる「物」とは、具体的にどのようなものなのか。次の記事では、本質論の第二部門に進み、性質をもつ「物」が、なぜみずから解体してゆくのかを見ていきたい。