「ある」と「ない」ほど、はっきり分かれているものはないように思える。財布にお金があるか、ないか。約束の相手が来たか、来ないか。私たちの毎日は、この二つの区別の上に成り立っている。
ところがヘーゲルは、『大論理学』の本論の冒頭で、この区別を揺るがす結論に行き着く。有と無は、同じものである。常識を逆なでするようなこの主張は、思いつきの逆説ではない。何の規定もない「有」から出発して、思考がたどらざるをえない道筋として示されるのである。
何もない「有」
ヘーゲルが最初に置くのは、「有」、それも純粋な有である。それは、これは机である、これは赤い、といった規定を何ひとつもたない。規定や内容によってほかのものから区別されてしまえば、もう純粋な有ではなくなるからである。
では、そのような有のうちに、何が見いだされるか。ヘーゲルによれば、そこには直観されるものも、思考されるものも何もない。有は純粋な無規定性であり、空虚である。だから、この無規定な直接的なものは、実際には「無」であり、無以上でも無以下でもない、とヘーゲルは言う。
逆に「無」の側から見ても、同じことが起こる。何かを直観するのか、何も直観しないのか、という違いは一つの区別と見なされる。だから無を直観し思考することにも意味があり、無は私たちの直観や思考のなかに「ある」。そのとき無は、純粋有としての空虚な直観や思考と同じものになる。有を突きつめると無になり、無を突きつめると有になるのである。
区別を言い表してみよ
それでも、有と無が違うことは明らかではないか、と反論したくなる。ヘーゲルはこれに、短く挑むように答える。「有と無の区別に固執しようとする人々は、その区別が何にあるのかを、挙げてみるがよい。」
有と無に、両者を分ける何らかの規定性があるなら、それはもう規定された有と規定された無であって、純粋有と純粋無ではない。したがって両者の区別は完全に空虚であり、区別はただ「思い込み」のなかにだけある、とヘーゲルは言う。思い込みは、ここでの叙述に属さない主観的な形である。有と無が区別されたものとしてあるのは、両者が移ってゆく第三のもの、すなわち「成」のなかである。有を純粋な光に、無を純粋な夜にたとえて区別しようとしても、絶対的な明るさのなかでも、絶対的な暗闇のなかでも、何も見えないことに変わりはない。何かが見分けられるのは、曇った光、明るくされた暗闇のなかで初めてである。
だからといって、ヘーゲルは有と無をただ一緒くたにするのではない。両者は絶対に区別されていながら、切り離せず、それぞれが直ちに自分の反対のなかに消える。ヘーゲルは言う。「真理であるものは、有でも無でもなく、有が無へ、無が有へ――移行する、のではなく――移行してしまっている、ということである。」この、一方が他方のうちに消えていく運動こそが「成」である。ヘーゲルは注解で、有のみがあり、無はまったくない、と言ったエレア派のパルメニデスと、無、空虚を絶対的な原理とする仏教に触れたうえで、パルメニデスの一面的な抽象に対して、すべては流れる、すべては成である、と語ったヘラクレイトスを、成というより高い全体的な概念を打ち出した人として挙げている。
百ターラーは、あってもなくても同じか
この主張には、すぐに意地の悪い反論が向けられる。ヘーゲル自身が、その反論を書き出している。「有と非有は同じである。したがって、私が存在するか否か、この家が存在するか否か、この百ターラーが私の財産状態にあるか否かは、同じことである。」
ターラーは当時の銀貨である。百ターラーが手元にあるかないかは、誰にとっても同じことではない。ここでヘーゲルが持ち出すのは、カントが神の存在論的証明を批判したときの有名な例である。カントは、百の現実のターラーは、百の可能なターラーより少しも多くを含まない、と言った。ただし、私の財産状態にとっては、現実の百ターラーのほうが多くのものがある、とも付け加えた。
ヘーゲルの答えはこうである。反論は、命題の意味を変えてしまっている。命題が語っているのは、有と無という純粋な抽象である。ところが百ターラーの例では、それが規定された有と規定された無にすり替わっている。百ターラーがあるかないかが無関心でないのは、それが財産状態という他のものと関係しているからであり、そのとき百ターラーは、もう定有の領域に移されているのだ、と。さらにヘーゲルは、人間はその心構えにおいて、百ターラーがあろうがなかろうが無関心になるような、抽象的な一般性にまで高まるべきだ、とも述べている。
成は、静かな定有へ
成には、二つの向きがある。無から有へ移行する「生成」と、有から無へ移行する「消滅」である。ヘーゲルによれば、両者は互いに外から打ち消し合うのではなく、それぞれが自分自身において自分の反対である。
しかし成も、いつまでも揺れ続けているわけではない。有と無が消えれば、両者の区別によってのみある成もまた消える。成は、よりどころのない不安定であり、静かな結果のなかへと沈み込む。その結果は無ではなく、有と無の統一が静かな単純性となったもの、すなわち「定有」である。ここでヘーゲルは、「止揚する」という語が、終わらせるという意味と、保存するという意味を同時にもつことに注意を促している。有と無は、定有のなかで消えながら、契機として保たれているのである。
こうして、何の規定もない有から、「何かがある」という定有が生まれた。定有はやがて或るものと他のものとに分かれ、或るものは限界をもつ有限なものとなる。次の記事では、その有限なものを越えて、どこまでも「その先」へ進んでいく無限が、本当の無限と言えるのかを見ていく。