庭に、花咲くリンゴの木がある。この木は、燃え尽きるかもしれない。では、いま知覚されているこの木「そのもの」は、燃えるのだろうか。『イデーン 第一巻』の第三篇第三章(§88〜§90)には、これに通じる対比が出てくる。自然のなかの端的な木は燃え尽きることがあるが、知覚の意味は燃え尽きない、というのである。

括弧に入れても、元のまま残るもの

私が快い気持ちで、庭の花咲くリンゴの木や、芝生の若々しい緑を眺めているとしよう。自然的態度では、木は超越的な空間的現実のうちに存在するものであり、知覚と快は、私に属する心的状態である。両者のあいだには実在的な関係が成り立つ。知覚が「単なる幻覚」であれば、この木は現実には存在せず、知覚だけが残る。

ここで現象学的態度に移る。超越的世界は「括弧」を受け、私はその現実の存在に関してエポケーを行う。知覚と知覚されたもののあいだの実在的な関係が成り立つことも、遮断される。それでも、知覚と知覚されたもの(同様に、気に入ることと気に入るもの)のあいだには、一つの関係が残っている、とフッサールは言う。現象学的に還元された知覚体験も、「庭にあるこの花咲くリンゴの木など」の知覚であり、還元された快も、同じこのものへの快である。木は、この知覚で現れるものとして、この気に入ることで「美しい」「魅力的」なものとしてなどであったときの、あらゆる契機、性質、性格のうち、ごくわずかな差異も失っていない。

端的な木は燃え、知覚された木は燃えない

この、還元された知覚に属する「知覚されたものそのもの」が、知覚のノエマ的な意味である。ノエマは、知覚のノエシス的な内実に対応する、相関的な内実で、最下層には知覚の意味、すなわち知覚されたものそのものがある。知覚だけでなく、想起は想起されたものそのものを、判断作用は判断されたものそのものをもつ。

ここで、言葉の用法が変わる。還元された知覚のうちに、われわれは「物質的な物」「植物」「木」「花咲く」と表現されるものを見いだす。その引用符は、語の意義の根本的な変様を表している、とフッサールは言う。端的な木、自然のなかの物は、燃え尽きることがあり、化学元素に分解することなどがある。だが、この知覚の意味は、その本質に必然的に属するものであり、燃え尽きることはなく、化学元素も、力も、実在的な特性ももたない。

体験に純粋に内在するこの意味は、あらゆる自然と物理学から、またそれに劣らず、あらゆる心理学からも、深淵によって隔てられている。しかも、「知覚されたもの」は、意味としては、知覚的に現れるもののうち、場合によっては「実際に現れる」ものだけを、知覚において意識されているまさにその様態で含むにすぎない。「間接的な知識」に基づいて、何かをこの意味に押しつけてはならない。

木の「内的な像」はあるのか

知覚と同様に、あらゆる志向的体験は「志向的対象」を、すなわち対象的な意味をもつ。これが志向性の根本であり、意味をもつことが、あらゆる意識の根本性格だ、とフッサールは述べる。表象された対象が存在しなくても、その表象から、表象されたものそのものを奪うことはできない。

そこで、「内在的」な対象と「現実の」対象を分け、前者を知覚に実的に埋め込む、という説明が思いつく。フッサールはこれを退ける。この説明では、二つの実在が向かい合うはずなのに、見いだされるのは一つだけだからである。私が知覚するのは、あそこの庭の木であり、第二の内在的な木も、現実の木の「内的な像」も、決して与えられていない。

像を想定すると、困難はさらに続く。その像が像として機能するには、模写の意識が要る。しかしその意識も、すでに内在的対象と現実の対象の区別を要求しており、解決するはずだった問題を自らのうちに含む。知覚に模写機能を求めると、避けがたく無限後退を招く、とフッサールは言う。

こうした迷妄に対して、フッサールは、純粋な体験に与えられたものに踏みとどまり、それが自らを与えるとおりにそのまま捉えるよう求める。「現実の」対象は括弧に入れる。ただし、それらの措定を捨て去るわけではない。措定は現象に本質的に属しており、われわれはそれらにともに加わるのではなく、それらを対象にして、知覚の定立を知覚の成分として受け取る。

その結果、知覚は、その「知覚されたものそのもの」を、すなわち引用符をつけて理解された「あそこの空間の中の、花盛りのこの木」を、もっていることになる。これが、現象学的に還元された知覚の本質に属する相関者である。世界を括弧に入れても、知覚は、その「知覚されたものそのもの」を、ノエマ的な意味として自らのうちにもっている。第三篇ではこのあと、ノエシスとノエマの構造が、さらに細かく分析されていく。