この卓をつねに見ながら、その周りを歩き、空間のなかの自分の位置を変えていく。フッサールは『イデーン 第一巻』の第二篇第二章(§41〜§44)で、この場面を例に、物の知覚の構造を調べる。

変わっていくのは知覚、変わらないのは卓

歩きつづける私は、連続的に、この一つの同じ卓の有体的な定在の意識をもっている。しかも、それ自体としてはまったく変わらないままの卓の意識である。ところが、卓の知覚は絶えず変化しており、移り変わる知覚の連続である。目を閉じれば知覚はなくなり、目を開ければ再び知覚をもつが、その知覚は、個体として同じものではない。同じなのは卓だけであり、卓は、新しい知覚と想起を結びつける総合的意識において、同一のものとして意識される。

色や形も同じである。見られた物の色は、色の意識の実的な契機ではない。同じ色が、色の「射映」の連続的な多様「において」現出する。同一のものとして有体的に与えられた一つの同じ形態が、連続的につねに「別の仕方で」、つねに別の形態の射映において現出する。

射映は体験であり、射映されるものは空間物である

ここで注意が要る。色の射映や形態の射映は体験であって、空間的なものではない。射映されるもの、すなわち色や形態そのものは、原理的に空間的なものとしてだけ可能で、体験としては可能でない。だから、三角形の射映を空間のなかで可能なものと見なすのは不合理であり、射映を、射映された形態、すなわち現出する形態と取り違えている、とフッサールは言う。

物は、一面的にしか与えられない

空間的存在は、知覚において原理的に射映によってしか与えられない。しかもフッサールによれば、これは「われわれ人間の構成」の偶然ではなく、空間的物性の本質から読み取れることである。

物が「一面的」にしか与えられないとは、単に不完備だとか、何らかの意味で不完全だとかいうことではない。射映による呈示が定めているとおりのことを指す。実際に呈示されたものの核は、非本来的な「共所与」の地平と、漠然とした未規定性に取り囲まれている。この未規定性は、可能な知覚の多様を予示する。経験をどれほど先へ進め、同じ物についての知覚の連続体をどれほど通過しても、規定可能な未規定性の地平は、原理的につねに残る。

体験の場合は違う。感情体験は射映しない。私がそれに目を向けるなら、私は絶対的なものをもつのであり、あるときはこう、あるときはああと呈示される側面がない。これに対して、ヴァイオリンの音は、私が近づくか遠ざかるか、コンサートホールのなかにいるか閉ざされた扉越しに聞くかなどに応じて、現出の仕方を変える。

神なら現出による媒介なしに物そのものを知覚できるという考えは背理である

では、絶対に完全な認識の主観である神なら、現出による媒介なしに、物そのものを知覚できるのではないか。フッサールはこの見解を背理と退ける。そう考えると、空間物が、神的な意識の流れに実的に属する体験になってしまい、超越的なものと内在的なものの本質的な区別がなくなるからである。

物の超越を、像や記号の超越と考える見方も、誤りであるばかりでなく背理だとされる。われわれが見る空間物は、そのすべての超越にもかかわらず、知覚されたものであり、その有体性において意識的に与えられたものである。その代わりに像や記号が与えられているのではない。知覚に、記号意識や像意識をすり替えてはならない。フッサールは、経験をどれほど進めても残る未規定性の地平を、いかなる神も変えられない、と述べる。1 + 2 = 3 であることを神が変えられないのと同じだというのである。

物は、一面ずつしか与えられず、それでもそのつど、同じ一つの物として意識される。この構造は、物が意識に対してどのような存在なのかという問いにつながる。次の記事では、世界がすべて消えたとしても、意識は残るのか、というフッサールの大胆な主張を読んでいこう。