机の前に座っているとき、その机が「ある」ことを、私たちはわざわざ確かめない。確かめるより前から、机はある。フッサールは『イデーン 第一巻』の第二篇第一章の前半(§27〜§30)で、この当たり前の構えを「自然的態度」と呼び、先入見を交えない純粋な記述として取り出す。
世界は、私にとって「目の前にある」
自然的生活を送る人間として、私は、空間のなかに果てしなく広がり、時間のなかで果てしなく生成してきた世界を意識している。見る、触れる、聞くといった知覚によって、物体的な物は、私にとって端的にそこにある。注意を向けているかどうかは問わない。
しかも、いま知覚しているものだけがあるのではない。注意を、いま見ている机から、見えていない部屋の背後の部分を通って、ベランダへ、庭へ、あずまやの子どもたちへと動かしていける。私が「知っている」ものは、周囲のあちこちに存在するものとして、直接に共に意識されている。この知は概念的思考とは関係がなく、注意を向けてはじめて、しかも部分的にしか、明晰な直観に変わらない。
世界は、いま知覚されているものだけでは汲み尽くされない。知覚されたものの周りには、未規定な現実の暗い地平が広がっている。それは霧のようで、決して完全には規定されえない。時間についても同じで、いまのこの世界は、両側に無限な時間的地平をもつ。
机は、価値や使い道とともに現れる
この世界は、単なる事象の世界ではない。同じ直接性において、価値の世界、財の世界、実践的な世界でもある。物は、美しい、醜い、好ましい、快いといった価値性格をそなえて現れる。「机」とその上の「本」、「コップ」、「花瓶」、「ピアノ」のように、直接に使用対象としてそこに立っている。周囲の人間も、私の「友」や「敵」、「召使い」や「上司」として、そこにいる。
数の世界と、自然の世界
私は、物に向かうだけではない。理論的に考え、好き嫌いを感じ、望み、行為する。これらの作用すべてを、フッサールはデカルトの表現を借りて「コギト」と呼ぶ。
コギトは、いつも周囲の物に向かうとはかぎらない。たとえば私が純粋な数とその法則に取り組むとき、数の世界は、算術的な態度をとっているあいだだけ、私にとって存在する。これに対して、自然的世界は、私が自然的に生き続けるかぎり、絶えず私にとって存在している。算術的世界に没頭しても、自然的世界は「存在するもの」であり続け、私の作用意識にとっての背景にとどまる。
他の人々も、同じ世界のなかにいる
私は、周囲の他の人間も、私と同じ自我主体として、それぞれの自然的周囲世界に関係していると理解する。しかも、彼らの周囲世界と私の周囲世界を、客観的には一つの同じ世界として捉える。各人は異なる場所から物を見て、異なる現出をもち、知覚の領野も異なる。それでもわれわれは隣人と了解し合い、共同で客観的な空間的・時間的現実を、われわれ自身も属している、すべての存在する周囲世界として措定する。
疑っても変わらない「一般定立」
では、こうした態度に共通するものは何か。私は絶えず、自分の向かい側に、一つの空間的・時間的な現実が存在しているのを見いだす。その「現実」を、私は定在するものとして見いだし、与えられるとおりに、定在するものとして受け入れる。これが、フッサールの言う自然的態度の「一般定立」である。
この定立は、自然的世界の所与性をどれほど疑い、退けても、少しも変わらない。せいぜい、あちこちで私が思念していたのとは「別様」であるにすぎず、あれやこれやが「仮象」や「幻覚」などの名目のもとに、いわばそこから抹消されるだけである。その世界は、一般定立の意味では、つねに定在する世界である。自然的態度の諸学問の目標は、この世界を、素朴な経験知がなしうるよりも包括的に、確実に、あらゆる点でより完全に認識することにある。
ここまでは、先入見を遠ざけた純粋な記述だった。フッサールは次に、この態度にとどまるのをやめ、それを根本的に変更しようとする。それが何を意味するのかは、次の記事で見ていこう。