初めての町で、道をたずねたとします。教えてくれた人は、その道を実際に歩いたことがありません。それでも、教えられたとおりに進むと、目的地に着きました。この案内は、実際に歩いたことのある人の案内に、劣っていたと言えるでしょうか。
思慮だけが導く、という合意の見直し
対話のここまでで、徳は思慮であり、善い人は有益であり、有益であるのは事柄を正しく導くときだ、という点が、ソクラテスとメノンのあいだで合意されていました。ところがソクラテスは、そのなかの一点を取り上げます。「だが、思慮ある者でなければ正しく導けない、というこの点は、私たちは正しくなく合意した者に似ている。」
その例が、道案内です。ラリサへの道、あるいはどこかほかの場所への道を知っている人が、そこへ歩いて行き、ほかの人々を導くなら、その人は正しく、うまく導くでしょう。では、「道がどれかを正しく思ってはいるが、行ったこともなく、知識を持ってもいない人は、どうか。」メノンは、この人もまた正しく導くと認めます。そこでソクラテスは言います。「すると、真の思わくは、行いの正しさにとって、思慮に劣らない導き手だ。」思慮だけが導くと言ったとき、私たちはこのことを見落としていた、というのです。さらにソクラテスは、正しい思わくは知識に劣らず有益だ、と続けます。道案内の例で言えば、実際に歩いた人の案内も、正しく思っているだけの人の案内も、正しく導く点では変わりがない、ということです。
それでも、なぜ知識は尊ばれるのか
メノンは、ここで異を唱えます。「知識を持つ者はつねに的中するだろうが、正しい思わくを持つ者は、ときには的中し、ときにはしないだろう。」これに対してソクラテスは、いつも正しい思わくを持つ者は、正しく思っているかぎり、いつも的中するのではないか、とたずねます。メノンは、そうならざるをえない、と認めます。そのうえで、メノンは、新しい疑問を口にします。「なぜ知識のほうが、正しい思わくよりはるかに尊ばれるのか。」
正しい思わくが、行いにとって有益さで知識に劣らないのなら、知識を特別に重んじる理由は何か。この問いは、メノンが出す疑問であると同時に、読む側の疑問でもあります。ここで、対話は、知識と思わくの違いそのものを問うところへ進みます。ソクラテスは、その理由を、すぐには言いません。まず、メノンがなぜ不思議に思うのかを、たずねます。
ダイダロスの像と、縛り
ソクラテスは、メノンが不思議に思う理由を、ダイダロスの像で説明します。この像は、「縛られていなければ、逃げ出して走り去るが、縛られていれば、とどまる」。縛られていないものを持っていても、値打ちは大きくありません。逃げ出す奴隷のようなものだからです。縛られていれば、作品がたいへん美しいので、大きな値打ちがあります。
真の思わくも、これと同じだと言われます。とどまっている間は、よいものであり、あらゆる善いことをなします。しかし、長い間はとどまろうとせず、人間の魂から逃げ出します。そのため、「原因の推論によって縛るまでは、あまり値打ちがない」とソクラテスは言います。縛られると、まず知識となり、次にとどまるものとなる。これが、知識が正しい思わくより尊ばれ、縛りによって両者が異なる、という説明です。ソクラテスは、この縛りを、さきに語られた想起と結びつけています。
推測と、確かだと言えること
ただし、ソクラテスは、この説明を断定しません。「知っている者として言っているのではなく、推測して言っているのだ。」ダイダロスの像のたとえも、縛りの話も、確かな知識として語られているわけではありません。そのうえで、正しい思わくと知識が別のものだということは、推測しているとは少しも思えない、と言い、ほかのことで自分が知っていると言えるものはわずかだが、これもその一つに数える、と述べます。
ここまで辿った道筋は、翻訳HTMLの本文で、メノンの反応とともに読むことができます。