教育は才能で決まるのか、それとも教えれば身につくのか。こうした議論は、身近なところでもよく起こります。ただ、話が進むうちに、ふと気づくことがあります。いま話題にしている才能とは、そもそも何を指しているのか。双方は、同じものを思い描いているのだろうか、と。プラトンの『メノン』の冒頭には、これとよく似た場面があります。
徳が何であるかを知らない、と言う理由
対話は、テッサリア出身の若者メノンの問いで始まります。メノンは、徳は教えられるものなのか、それとも鍛えて身につけるものなのか、あるいは人間には生まれつき備わるのか、と、考えられる答えを並べて一息にたずねます。
ソクラテスは、これに直接は答えません。かつてテッサリアの人々は馬術と富で感嘆されていたが、いまはゴルギアスのおかげで知恵でも感嘆されている、と話を向けたうえで、この点では自分も貧しい、と言います。徳が教えられるものかどうかを知るどころか、徳とは何であるかさえ知らない。しかも、知っている人には、これまで誰にも出会ったことがない、とまで言います。
その理由は、次の問いに示されています。「それが何であるかを知らないものについて、どうして、それがどのようなものかを知りえようか。」ソクラテスは、メノンその人を例にします。メノンが何者であるかをまったく知らない人が、その人は美しいのか、金持ちなのか、生まれがよいのか、それとも反対なのか、ということを知りうるだろうか。メノンは、そうは思わない、と答えます。徳についても事情は同じだ、というのが、ここでの筋道です。
数え上げる答えでは足りない
求められて、メノンは答えます。男の徳とは、国の事柄を行うのに十分な力があること。女の徳とは、家をよく治め、夫に従順であること。そのほか、子どもの徳も、年長の男の徳も、自由人の徳も、奴隷の徳もあり、徳はきわめて多い。だから、徳とは何かを言うのに行き詰まることはない、とメノンは考えています。
ソクラテスの応じ方は、次のとおりです。「一つの徳を探していて、君のもとに置かれている徳の群れを見つけたのだから。」そして、蜂を例にとります。蜂とは何かとたずねて、蜂は多くの、さまざまなものだ、と答えが返ったとします。そこでさらに、蜂が互いに異なるのは、蜂であるという点でか、それともほかの点でか、とたずねたらどうか。メノンの答えは、「蜂であるという点では、一方の蜂が他方の蜂と少しも違わない」というものでした。
ここから、ソクラテスは徳に戻ります。「たとえ徳が多くの、さまざまなものであっても、すべての徳は、それによって徳であるところの、同じ一つの型を持っている。」答える人は、その型に目を向けて、徳であるところのそのものを明らかにするのがよい、というのです。求められているのは、種類の数え上げではなく、すべての徳に共通する一つのもの、ということになります。
この場面の対話を、実際の訳文で読んでみたい方へ。
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男の徳と女の徳は、同じなのか
メノンは、言われることはわかる気がするが、まだ望むようにはつかめていない、と答えます。そこでソクラテスは、メノン自身の答えを使って確かめていきます。男の徳は国をよく治めること、女の徳は家をよく治めること、とメノンは言いました。では、節制をもって、また正しく治めることなしに、国であれ家であれ、よく治めることはできるでしょうか。メノンは答えます。「できるはずがない。」
そうであれば、人々が正しく節制をもって治めるとき、治めているのは正義と節制によってです。ソクラテスは続けます。「女も男も、善い者であろうとするなら、同じもの、すなわち正義と節制を必要とする。」子どもと老人についても、放埒で不正であれば善い者になることはなく、節制があり正しければそうなる、とメノンは認めます。こうして、ソクラテスはまとめます。「すべての人は、同じ仕方で善い者なのだ。」
男の徳と女の徳は別のものだ、というメノンの見立ては、メノン自身が認めた点を辿るだけで、ゆらいでいきます。ここは筆者の読みですが、ソクラテスの問い返しは、答えを避けるためのものではありません。最初に示された理由、つまり、何であるかを知らないものについては、どのようなものかも知りえない、という考えにそって、徳が何であるかを先に確かめようとしているのです。
次の記事では、メノンの家の少年に幾何学の問いを与える場面を見ます。