「赤い」「重い」「丸い」。私たちは、ふつう、物にまず性質があって、そのあとで、他の物との関係が生じる、と考える。ホワイトヘッドは、緒言で、性質に対して関係性が優位に立つ、と述べる。
現実的存在は、デカルト的な実体である
緒言は、まず、この講義の積極的な教説が何にかかわるのかを述べる。「これらの講義の積極的教説がかかわるのは、〈現実的存在〉の生成・有・関係性である。」そして続ける。「〈現実的存在〉とは、その語のデカルト的意味における res vera(真なる物)である。」さらに、「それは、デカルト的な「実体」であって、アリストテレス的な「第一実体」ではない。」
翻訳HTMLの解説によれば、デカルトの「実体」は、自分自身以外の何ものにも依存せず、それ自体として自立して真に実在するものである。一方、アリストテレスの「第一実体」は、「この人」「この馬」のような個物で、性質が変化しても同一のまま時間を通じて持続する、あらゆる述語づけの究極の主語である。現実的存在は、前者の性格を受け継ぎ、後者の性格を退ける。生成し、満足に達し、消滅するだけの一回限りの出来事であり、決して変化しない、というのである。
緒言でホワイトヘッドが何を述べ、本文がどのように始まるのか気になった方へ。
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性質に対して、関係性が優位に立つ
緒言は、デカルトについて、一つの指摘をする。「しかしデカルトは、その形而上学説において、「関係性」に対する「性質」というカテゴリーのアリストテレス的優位を保持していた。」実体を立てながら、性質を関係より先に置く見方を、デカルトはなお引きずっていた、というのである。
これに対して、ホワイトヘッドは言う。「これらの講義においては、「性質」に対して「関係性」が優位に立つ。あらゆる関係性は、諸々の現実態の関係性にその基礎をもつ。」関係は、現実的存在どうしの関わりに基礎をもつものとして、性質よりも優位に置かれている。
死せるものが、生けるものに専有される
その関係性は、何にかかわるのか。緒言は答える。「そうした関係性は、死せるものが生けるものによって専有されることに――すなわち、〈客体の不滅性〉に、全面的にかかわっている。」そして〈客体の不滅性〉を、こう定義する。「客体の不滅性とは、それ自身の生き生きとした直接性を剥奪されたものが、生成しつつある他の生き生きとした直接性のうちで、実在的な構成要素となることをいう。」
生成し終えたものは、それ自身の生き生きとした直接性を失う。しかし、そこで消えてしまうのではなく、次に生成する現実的存在の、実在的な構成要素になる。こうして、緒言は、世界の創造的前進を、次のように特徴づける。「世界の創造的前進とは、頑固な事実を共同で構成するそれらのものの、生成であり、消滅であり、客体の不滅性である、という教説である。」
一つの物が時間のなかで変化するように見える現象は、翻訳HTMLの解説によれば、性格を共有する現実的存在が時間的に連なる〈結合体〉、とりわけ〈持続的対象〉にすぎない、と理解される。性質をもつ物から出発するのではなく、現実的存在どうしの関係に基礎を置いて考えるのである。
緒言は、こうした教説の全体を、どのような哲学の営みとして位置づけるのか。次の記事では、第一部第一章の、思弁哲学の定義を読む。