人は、自分の死を体験することができません。死んでしまえば、もうそれを体験する自分がいないからです。当たり前のようで、見過ごされがちなこの事実から、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の終盤で、死と永遠について踏み込んでいきます。
死において、世界はどうなるのか
命題6の終盤、善い意志・悪い意志が「世界の限界」を変えるという議論に続けて、世界が終わるという、最も大きな限界の変化――死――が問われます。ウィトゲンシュタインは、「死においても、世界は変わるのではなく、終わるのと同様である。」(6.431)と言います。死とは、世界という書物の一ページが書き換わることではなく、その書物そのものが閉じることだ、というわけです。
死を、私たちは体験することができるのか
続けて、こう述べます。「死は生の出来事ではない。死を人は体験しない。」(6.4311)出来事とは、生きているあいだに起こることです。死は、生きているあいだのどの一点にも位置しません。だからこそ、それは生の「出来事」とは呼べない、というのです。
そのうえで、永遠についてこう続けます。「永遠ということを、無限の時間の持続ではなく、無時間性と解するなら、現在のうちに生きる人は、永遠に生きている。私たちの視野に境界がないのと同じように、私たちの生には終わりがない。」(6.4311)永遠を「ずっと続く時間」としてではなく、「時間の枠の外にあるあり方」として捉え直す、という発想です。視野に、これより先が見えないという境界の線が引かれていないのと同じように、生きているという経験そのものにも、内側から見たかぎりでは終わりの線が引かれていない、というのです。
魂が死後も生き続けるとしたら、それで何かの謎が解けるのか
多くの宗教や思想は、魂が死後も生き続けるという考え方によって、死の不安に応えようとしてきました。しかしウィトゲンシュタインは、この発想そのものに疑問を向けます。「人間の魂の時間的な不死、すなわち死後も魂が永遠に生き続けることは、どのような仕方でも保証されていないだけではない。何よりも、この想定は、人々がそれによってつねに達成しようとしてきたことを、まったく果たさない。私が永遠に生き続けることによって、いったい何かの謎が解けるというのだろうか。」(6.4312)
死後も生きるとしても、その「生」がやはり時間のうちにあるものなら、それは今の生と同じように、謎めいたままではないか――ウィトゲンシュタインはそう問い返します。「そのときには、この永遠の生もまた、現在の生と同じように謎めいたものではないだろうか。」(6.4312)
生の謎は、時間と空間の「外」にある
では、生の謎は、いったいどこにあるのでしょうか。ウィトゲンシュタインはこう結びます。「空間と時間のうちにある生の謎の解決は、空間と時間の外にある。」(6.4312)謎を解く鍵は、生きている時間をどれだけ延ばしても見つからず、時間や空間という枠組みそのものの外にしかない、というのです。
ウィトゲンシュタインは、この「外」にあるものについて、もう一つ手がかりを残しています。「事実はすべて、課題に属するだけであって、解決には属さない。」(6.4321)死や生の謎についてどれだけ多くの事実――医学的な事実も、歴史上の事実も――を積み上げても、それらはすべて「課題」の側にとどまり、「解決」そのものには届かない、というのです。謎を解く鍵は、事実をいくら集めても見つかる場所にはない、という先ほどの主張と、ここでもう一度重なります。
この「外」ということが何を指すのかは、この本の最後、命題6の終盤でさらに掘り下げられます。「世界がいかにあるかが神秘的なものなのではなく、世界があるということが神秘的なものなのである。」(6.44)世界がどんな姿をしているかは、自然科学が語りうることです。しかし、そもそも世界が「ある」ということそのものは、どの自然科学の命題によっても語りつくすことができません。死の謎も、同じ場所に属しています。
次の記事では、この本の最後の一文「話すことのできないことについては、沈黙しなければならない。」が、いったい何を締めくくっているのかを読んでいきます。