人間とは何か、と問われたとき、魂こそが人間の本体だと答える人もいれば、身体を含めて人間だと答える人もいるだろう。『存在するものと本質について』の第二章は、この問いを、複合的な事物の本質として扱う。答えは、魂だけでも身体だけでもない、というものである。トマスは、それを順に確かめていく。

まず、知りやすいものから始める

トマスは、まず実体に単純なものと複合的なものとがあることを述べる。そのうえで、単純な実体の本質は「私たちにとってより隠されている」ので、「複合的な実体の本質から始めるべきである」と言う。理由は、「より容易なものから始めることで、学びがより適切なものになるからである」。

複合実体においては、形相と質料が知られている。「たとえば人間においては、魂と身体がそれである。」では、そのどちらが本質なのか。

質料だけでも、形相だけでもない

質料だけが本質ではないことは、本質の働きから明らかになる。事物は本質によって認識可能であり、種や類のうちに位置づけられる。ところが質料は、「認識の原理ではなく」、質料に即して何かが種や類へと規定されるのでもない。

形相だけが本質だと言うこともできない。本質は、事物の定義によって意味されるものであった。ところが、自然的実体の定義は、形相だけでなく質料も含んでいる。トマスは、その理由をこう述べる。「そうでなければ、自然学の定義と数学の定義とが異ならないことになってしまう。」自然的実体を扱う学問の定義が質料を含むからこそ、それは数学の定義と区別される。

では、質料が本質への付加物として置かれる、という見方はどうか。トマスは、これも退ける。この在り方は、本質を完全には持たない付帯性に固有のものだからである。付帯性は、自らの定義のうちに、自分の類の外にある実体ないし基体を受け入れなければならない。

さらに、本質が質料と形相のあいだの関係を意味する、という見方もありえない。それは事物の外にある付帯性になってしまうからである。本質に属するのは、「事物に対して外的でないこと、それによって事物が認識されること」の二つである。

本質は、質料と形相の両方を包含する

以上から、トマスは結論する。「本質は質料と形相の両方を包含する。」複合実体において本質という名が意味するのは、「質料と形相から成る複合体」である。その理由は、こうである。「複合実体の存在は、形相だけのものでも質料だけのものでもなく、複合体そのものの存在だからである。」本質とは、それに即して事物が存在すると言われるところのものである。だから、事物が存在するものと呼ばれるもとになる本質は、形相だけでも質料だけでもなく、その両方でなければならない。

トマスは、味の例を挙げる。湿ったものを消化する熱の作用から、甘みが生じる。その意味で熱は甘みの原因である。けれども物体は、熱によってではなく、熱いものと湿ったものを包み込む味によって、甘いと呼ばれる。「事物は、それらの原理のうち一方だけによって名づけられるのではなく、両方を包み込むものによって名づけられる。」複合実体の本質も、これと同じように、一方の原理だけでなく、両方を包み込むものである。

質料が入ると、本質は個別的になってしまわないか

ここで、一つの疑問が生じる。個体化の原理は質料である。そうなると、質料と形相の両方を包み込む本質は、個別的なものにすぎず、普遍的なものではない、という帰結が出てくるように見える。もしそうなら、普遍的なものは定義を持てなくなる。

トマスの答えは、質料の捉え方を絞り込むことである。「個体化の原理であるのは、無限定に捉えられた質料ではなく、指定された質料だけである。」指定された質料とは、「一定の量的な広がりのもとで考えられる質料のことである」。そして、この質料は、「人間であるかぎりでの人間の定義のうちには置かれない」。人間の定義には質料が含まれるが、一定の量的な広がりのもとにある、この質料は含まれない、という意味である。

こうして、本質は質料を含みながら、なお普遍的な定義を持つことができる。では、本質は類・種・種差という捉え方とどう関わるのか。次の記事では、第三章を読む。