映画のフィルムは、静止した写真を一枚ずつ連ねたものである。それなのに、映写すれば、人が歩き、連隊が行進して見える。ベルクソンは『創造的進化』第四章で、このしくみを、われわれの知覚や言語、知的理解が変化をとらえる仕方になぞらえる。そこから、運動を静止した状態の並びで考えることの限界を論じる。
知性は、行為の休止点だけを見る
議論の出発点は、知性の役割である。知性の役割は、行為を取り仕切ることである。行為においてわれわれの関心を引くのは結果であり、活動が休む終点だけが精神に明示的に表象され、行為そのものを構成する運動は、意識から逃れるか、ぼんやりとしか届かない。腕を上げるというごく単純な行為でも、そこに含まれる収縮と緊張のすべてを一つずつ想像してから動く人はいない。ベルクソンは言う。「達成された目的から別の達成された目的へ、休止から休止へ、われわれの活動は一連の跳躍によって移る。」
この性格は、世界の見方にも及ぶ。ベルクソンは、感覚的な性質も、物体の形も、行為も、同じ仕方で取り出されると見る。色や音の性質は、分析すれば、おびただしい数の要素的な運動である。それを一つの性質としてつかむのが知覚の働きで、「物質の性質は、その不安定さについてわれわれが取る、安定した見方にほかならない」。物体の形についても同じで、「形は、移行のなかで撮った瞬間写真にすぎない」。実在するのは、形の絶え間ない変化である。
連隊の行進を映すには
ベルクソンは、スクリーンに連隊の行進を再現するという例を挙げる。一つのやり方は、兵士を表す関節のある図形を切り抜き、一つ一つに行進の運動を与えることだが、これは途方もない労力を要し、結果は貧弱である。もう一つは、通り過ぎる連隊の瞬間写真を一連に撮り、それをごく速く入れ替えて映すやり方で、はるかに容易で効果的である。シネマトグラフがそうしている。
ただし、写真だけを相手にして、いくら眺めても、それが動き出すのは見えない。「不動のものは、いくら並べても、運動をつくらない。」像が動き出すには、どこかに運動がなければならない。それは装置のなかの、フィルムの目に見えない運動である。ベルクソンは言う。手続きは、すべての図形に固有の運動から、非人格的で抽象的な、いわば運動一般を取り出して装置に入れ、それを個人的な姿勢と組み合わせることにある。
われわれの認識の工夫も同じだ、と彼は続ける。事物の内的な生成に即する代わりに、われわれは事物の外に身を置いて、通り過ぎる実在のほとんど瞬間的な見方を取り、それを、認識の装置の奥にある抽象的で一様な生成に通して、生成を人為的に組み立て直す。知覚、知的理解、言語は、一般にこのように進む。そして、ベルクソンはこう要約する。「われわれの通常の認識の機構は、映画的な性質のものであると言えよう。」
それは、実践のためにできている
ベルクソンは、この操作がまったく実践的な性格のものだと言う。われわれの行為は、それぞれ、意志を実在に挿入することをめざす。それは、身体とほかの物体のあいだの配置を変えることであり、万華鏡のガラスの破片の配置を変えるのに似ている。活動は、一つの配置から再配置へ進み、そのたびの揺れには関心がなく、新しい図形しか見ない。したがって、事物についての認識が映画的な性格をもつのは、事物へのわれわれの適応が万華鏡的な性格をもつことによる、と彼は言う。
行為は、すべての生命の鼓動と同じく不連続である。だから、認識も、行為の歩調に合わせて不連続になる。この意味で、映画的な方法だけが実践的である、とベルクソンは述べる。
思索に持ち込むと、何が起こるか
問題は、この実践のための仕組みを、そのまま思索に使うときに生じる。ベルクソンは試す。生成の連続のなかで、私は一連の見方を取り、それらを「生成」一般によって結びつけた。しかし、その「生成一般」は、言葉の上の認識でしかなく、移行そのものについては何も教えない。そこで二つの瞬間写真のあいだで何が起こるかを探すと、同じ方法を適用するので、三つ目の見方が二つのあいだに挿入されるだけである。際限なくやり直しても、見方に見方を並べるだけで、ほかのものは得られない。
ベルクソンは、そのむなしさをこう描く。状態をいくら近づけても、間にある運動を前にして、つねに、「両方の開いた手を近づけて煙をつぶそうとする子どもの失望」を味わうだろう。「運動は間隙をすり抜ける。」状態によって変化を再構成しようとするどんな試みも、「運動は不動でできているという不条理な命題」を含むからである。動く実在とともに進むには、その実在のなかに身を置き直さなければならない、と彼は言う。
ゼノンの議論は、別のことを言っていない
この点に、哲学は目を開くやいなや気づいた、とベルクソンは述べる。「エレアのゼノンの議論は、まったく別の意図で定式化されたとはいえ、ほかのことを言っていない。」第四章は、そこから、古代ギリシアの形相(イデア)の哲学や、近代の科学が、この映画的な仕組みにどう従っているかを検討し、それが生んだ形而上学の歴史を読み直してゆく。
ここまでの六本の記事で、砂糖水の持続から、眼の例、本能と直観、無の観念、そして映画的な仕組みへと、『創造的進化』の主な論点を順に見てきた。要約では省いた論証の細部や、ここに登場しない第三章の議論は、翻訳HTMLで原文に沿って確かめてほしい。