眼は、進化を論じるときに必ず持ち出される器官である。これほど精巧な装置が、偶然だけでできるはずがない。そう考える人は、そこに目的や設計を見る。他方、進化論の側は、単純な光の感受から少しずつ複雑になったと答える。ベルクソンは『創造的進化』第一章で、この眼の例を取り上げ、どちらの陣営にも与しない道を探る。
目的性の擁護者が挙げる眼
ベルクソンはまず、目的性の擁護者がつねに強調してきた例として、人間の眼を挙げる。彼らは、この複雑きわまる装置のなかで、すべての要素が驚くほど互いに調整されていることを示してきた。視覚が成り立つためには、透明な開口が必要で、その背後に収束する媒質が必要で、暗室の端に網膜が必要で、といった具合に、条件が重なってゆく。
これに対する進化論の答えは、機能をその起源で取り上げよ、というものである。滴虫類では、機能は、ほとんど純粋に化学的な、色素斑の光に対する単純な感受性にすぎない。それが生きものにもたらす利点と自然選択によって、器官は少しずつ複雑になり、機械的なものを超えた原因を介入させずに、われわれの眼の漸進的な形成が説明されるというのである。
機能と器官でなく、器官と器官を比べる
ベルクソンは、この論争を、機能と器官のあいだに立てるかぎり、決しがたいと見る。器官と機能は互いに異質な二つの項で、互いを条件づけ合うので、どちらから始めるべきかを、経験に先立って言うことはできないからである。そこで彼は、同じ性質の二つの項、すなわち器官と器官を比較することを提案する。
比べる相手に選ばれるのは、ホタテガイのような軟体動物の眼である。脊椎動物の眼と並べると、どちらにも網膜、角膜、細胞構造をもつ水晶体があり、網膜の要素の特殊な反転さえ共通している。ところが、軟体動物と脊椎動物は、ホタテガイの眼ほど複雑な眼が現れるずっと前に、共通の幹から分かれたことが認められる。ベルクソンは問う。「それでは、構造の類似はどこから来るのか。」
偶然の小さな変異では
最初に検討されるのは、純粋に偶然の変異の仮説である。まず、ダーウィンの、感知できない変異の蓄積を取り上げる。ベルクソンは、有機体のすべての部分が互いに調整されていることを指摘する。器官は機能するときにのみ役に立ち、選択に取っかかりを与える。網膜の微細な構造だけが発達しても、視覚中枢などが同時に発達しなければ、その進歩は視覚を助けるどころか、おそらく妨げる。
感知できない変異は眼の働きを妨げないが、補完的な変異が生じるまでは、働きを助けもしない。それなら、なぜ選択によって保存されるのか。保存されるなら、小さな変異が、のちの建築のために取っておかれた「待ち石」であるかのように推論することになる。しかも、同じ数えきれない小さな変異が、独立した二つの進化の線の上で、同じ順序で生じたと、どうして想定できようか。
急な変異でも
では、新しい種が一挙にできるという、急な変異の仮説ならどうか。ベルクソンは、この仮説が困難をある点で和らげ、他方で悪化させると言う。類似の数が減るので、二つの眼の類似は理解しやすくなる。しかし、視覚装置のすべての部分が突然変化しながら、眼がその機能を果たし続けるほど互いに調整されたままでいるのは、どうしてか。
相関の法則を持ち出す人もいるだろう、とベルクソンは先回りする。しかし、毛のない犬の歯並びが不完全であるような、連帯した変化と、器官の働きを維持し、さらに完全にするように互いに調整された、補完的な変化の体系とは、別のものである。この二つの意味を取り違えれば、「真の誤謬推理」を犯すことになる。結局、偶然の変異が感知できないものでも急なものでも、収束を保証するには、「善き守護霊」に訴えるほかない、とベルクソンは言う。
光が眼をつくったのか
もう一つの仮説は、変異が偶然の内的な原因ではなく、外的条件の直接の影響による、というものである。軟体動物も脊椎動物も光にさらされてきた。光が組織化された物質に直接作用して、眼を光自身の形に適応させたのなら、二つの眼の類似は、原因の同一性で説明できる。
これに対してベルクソンは、「適応」という語の二つの意味を区別する。外的条件の鋳型にますますよく収まってゆく受動的な適応と、そこから利益を引き出す道具を築く能動的な適応とは、別のものである。眼の最初の原型が色素斑にあることは疑いなく、中間の段階も多く観察される。しかし、段階を追って移れるからといって、二つが同じ性質のものにはならない。ベルクソンはこう言う。「二つのあいだには、写真と写真機とのあいだと同じ隔たりがある。」
どの説も、部分的には真である
ベルクソンは、新ラマルク主義まで同様に検討したのち、進化論の現行のどの形も等しく退ける意図はないと断る。そのそれぞれは、膨大な数の事実に支えられ、進化の過程についてのある観点に対応しているはずだからである。ただ、それらの理論が部分的にしか見ていない実在を、全体として捉え直す必要がある、というのが彼の立場である。
そうして彼が行き着くのは、「長い迂回を経て、出発した考え」、すなわち「生命の原初の躍動の考え」である。それは、胚の一世代から次の世代へ、発達した有機体を介して渡ってゆく衝動であり、分かれた進化の線の上で、変異の深い原因となる。共通の躍動を受け入れるなら、分かれた線の上でも、同一の仕方で進化しうるし、進化さえしなければならない、と彼は言う。軟体動物と脊椎動物における眼の形成は、まさにそのことをより正確に示すべき例として、ここで差し出されている。次の記事では、この躍動が動物の線で分かれた先、すなわち本能の側から、生命を見る。