三角形を一つ、頭に浮かべてみてほしい。それは直角三角形だろうか。正三角形だろうか。いずれにせよ、何かしら特定の形をしているはずである。では、斜めでも直角でもなく、等辺でも二等辺でも不等辺でもない三角形を、思い浮かべることはできるだろうか。
バークリーは『人知原理論』の序論で、それはできない、と言う。そして、この「できない」ことを突き止めるのが、序論の中心である。本論で繰り広げられる議論のほとんどは、ここで取り除かれた考えの上に成り立っている。
抽象観念とは何か
バークリーが標的にするのは、心は事物の抽象観念、すなわち概念を作り出す力をもつ、という意見である。哲学者たちの著作と論争のかなりの部分は、この抽象観念をめぐって費やされてきた、と彼は言う。論理学や形而上学のほとんどの問題が、抽象観念が心のうちに存在することを前提して扱われているというのである。
その作り方は、こう説明される。視覚によって、延長をもち、色をもち、動いている対象が知覚される。心はこの複合した観念を、単純な部分に分解し、それぞれを残りから切り離して眺める。そうして、延長だけの観念、色だけの観念、運動だけの観念が作られる。色が延長なしに存在できる、というのではない。ただ心は、延長を除いた色の観念を作ることができる、というのである。
同じ仕方で、個々の色から互いを区別するものを取り除き、すべてに共通するものだけを保持すれば、赤でも青でも白でもない、色そのものの観念ができる。人間についても同様である。ペテロ、ヤコブ、ヨハネに共通するものだけを残すと、人間の抽象観念が得られる。それは色を含むが、白でも黒でも、いかなる特定の色でもない。身長も含むが、高くも低くも中背でもない。
バークリーは、それを思い描けない
他の人々がそのような観念を抽象する驚くべき能力をもつかどうかは、彼ら自身が最もよく言えることだ、とバークリーは述べる。彼自身は、自分が知覚した個別の事物の観念を想像し、組み合わせたり分割したりする能力はあると感じる。二つの頭をもつ人間や、人間の上半身を馬の体につないだものも想像できる。手や目や鼻を、体のほかの部分から切り離して考えることもできる。
しかし、そこには限界がある。「そのとき私が想像する手や目は、いずれも何らかの個別の形と色をもたなければならない。」人間の観念も同じで、白い人間か黒い人間か、背の高い人間か低い人間か中背の人間か、そのどれかでなければならない。運動についても、速くも遅くもなく、曲線的でも直線的でもない運動の観念を形づくることは、どれだけ努力しても不可能だという。なお、現実に切り離して存在しうる部分を別々に考えること、たとえば手や目を体から切り離して考えることまでは、バークリーも認めている。彼が否定するのは、そのように切り離せないものまで抽象して作られるという、抽象的な一般観念のほうである。
ロックの三角形
バークリーは、この学説の代表的な擁護者として、ロックの『人間知性論』を引く。ロックは、一般的な三角形の観念を形づくるには労苦と技量がいる、と書いていた。それは斜角でも直角でもなく、等辺でも二等辺でも不等辺でもなく、そのすべてでありそのどれでもないものでなければならないからだ。ロックはそれについてこう述べている。「実のところ、それは存在しえない不完全なもの、異なる両立しないいくつもの観念の部分が寄せ集められた観念である。」
バークリーはこの困難さに目を留める。これほど骨の折れる観念が、日常の会話に必要だとは考えにくい。二人の子供が砂糖菓子やがらがらについておしゃべりするのに、まず数えきれない不整合をつなぎ合わせ、抽象的な一般観念を心のなかに作り、使うすべての名に結びつけておかなければならない、などと想像するのは難しいではないか、と彼は言う。
抽象観念をめぐるバークリーの議論を、バークリー自身がどのような言葉で展開しているのか気になった方へ。
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では、「一般」はどう成り立つのか
ここで誤解してはならない。バークリーが否定するのは、「抽象的な」一般観念であって、一般観念そのものではない。彼は例を挙げる。ある幾何学者が、線を二つの等しい部分に切る方法を証明するとして、長さ一インチの黒い線を引く。この線は、それ自体では個別の線である。しかし、そこで用いられるとき、個別のあらゆる線を代表する。だから、それについて証明されたことは、線一般について証明されたことになる。
つまり、観念は、それ自体は個別のままで、同じ種類のほかの個別の観念すべての代わりに立つことによって、一般的になる。普遍性は、何か絶対的で積極的な本性にあるのではなく、それが代表する個別のものに対してもつ関係にある。三角形についての証明も、私が考察する個別の三角形が、あれこれの種類を問わずあらゆる直線三角形を代表するという意味で、普遍的なのである。
言葉の幕
それでは、なぜ人々は抽象観念を信じるようになったのか。バークリーは、その源を言語に求める。あらゆる名は、ただ一つの厳密で確定した意味をもつ、あるいはもつべきだと考えられている。そのため、一般名の背後には、その意味を構成する抽象的で確定した観念があるのだろうと、人々は思い込むのだ、と。
バークリーは、読者に一つの実践を勧める。考察する観念から、長い使用によって固く結びついた名を、できるかぎり思考から締め出し、観念を裸の姿で目の前にとらえるのである。言葉の幕を引きさえすれば、最も美しい知識の木を見ることができる、と彼は言う。そして序論の終わりで、読者に願う。本論を読むときは、自分の言葉を、読者自身の思考の機会としてほしい、と。
抽象観念が成り立たないのなら、どんな色にも結びつかない延長や運動を、心の外にある物として思い描くことも、できなくなるのではないか。次の記事では、本論に進み、バークリーが心の外の物質をどのように退けるのかを見よう。