物とは観念であり、観念は知覚されて存在する。そうだとすれば、目の前の世界は、夢や幻と何が違うのか。バークリーの考えは、世界を空想の体系に変えてしまうのではないか。
バークリーは、この反論を第34節で自ら取り上げる。太陽や月や星はどうなるのか。家や川や山はどうなるのか。すべては純粋に概念的なものになるのではないか、と。第34節の答えは、先の原理によって、私たちは自然のうちのいかなるものも奪われない、というものである。私たちが見、触れ、聞くものは、以前と同じく確実で、同じく実在的であり、実在と空想の区別も、その全力を保っている。続く第35節は、否定するのは物質あるいは物体的実体だけだ、と明言する。そして第34節が頼りにしているのが、第28節から第33節の区別である。順に見ておこう。
呼び出せる観念と、呼び出せない観念
第28節は、自分の経験から始まる。私は、心のなかに観念を好きなように呼び起こし、場面を思うままに変えることができる。意志することだけで、ある観念が想像のなかに生じ、同じ力によって消え、別の観念に道を譲る。観念をこのように作ったり消したりすることは、心が能動的であると呼ぶにふさわしい。これは確実であり、経験に基づいている、とバークリーは言う。
ところが、第29節。感覚によって現実に知覚される観念は、私の意志にそのような依存をもたない。昼の明るい光のなかで目を開けるとき、私は、見るか見ないかを選ぶことも、どの対象が目の前に現れるかを決めることもできない。聴覚やほかの感覚についても同じで、それらに刻み込まれた観念は、私の意志の被造物ではない。したがって、それらを生み出す別の意志あるいは精神がある、とバークリーは結論する。
強く、秩序のある観念
第30節は、違いをさらに詳しく述べる。感覚の観念は、想像の観念より、強く、生き生きとして、判明である。また、安定と秩序と一貫性をもち、人間の意志の結果であるものがしばしばそうであるように無秩序に呼び起こされるのではなく、規則的な連なり、すなわち系列において呼び起こされる。
そして、私たちが依存する心が、感覚の観念を私たちのうちに呼び起こす、決まった規則あるいは確立された方法を、バークリーは「自然法則」と呼ぶ。私たちはこれを経験によって学ぶ。経験は、物事の通常の経過において、これこれの観念にこれこれの別の観念が伴うことを教えてくれる。
第31節によれば、この自然法則のおかげで、私たちは生活の利益のために行為を律することができる。食物が養い、睡眠が元気を回復させ、火が温めること。種まきの時期に蒔くことが収穫の時期に刈り取る道であること。私たちがこれを知るのは、観念のあいだの必然的な連関を発見することによってではなく、確立された自然法則を観察することによってのみである。もし自然法則がなければ、大人も、生活上の事柄で自分をどう処すべきかを、生まれたばかりの幼児以上には知らないだろう、とバークリーは言う。
観念は、何かの原因にはならない
ここで、バークリーの議論の別の側面が見えてくる。第25節で、彼は、私たちの観念や感覚は明らかに不活発であり、そこには力も作用も含まれていない、と述べていた。観念は、別の観念を生み出したり、変化させたりすることはできない。自分の観念を観察すれば、そのうちに力も活動性も知覚できないことがわかる。観念の存在そのものが、受動性と不活性を含意しているのである。
そこで第32節は、私たちの習慣的な考え方を批判する。私たちは、丸い光る形(太陽)を視覚で知覚するとき、同時に、触覚で熱という観念を知覚する。そこから、太陽が熱の原因だと結論する。物体の運動と衝突に音が伴うのを知覚して、前者を後者の原因と考えがちである。しかしバークリーによれば、これは、観念そのものに力と作用を帰すことであり、これほど不合理で理解しがたいことはない。しかもバークリーは、この一貫した一様な働きこそが、その意志が自然法則を構成している、統治する精神の善良さと知恵を示している、と見る。観念のあいだに原因と結果の関係があるのではない。観念を呼び起こす精神のほうへ、思考は向かうべきだ、というのである。
「実在する物」の意味
こうして第33節は、実在と空想の区別を述べる。「自然の作者によって感覚に刻み込まれた観念は、実在する物と呼ばれる。」想像のなかに呼び起こされた観念は、規則性も鮮明さも恒常性も劣るので、それらが写し表象する物の像と呼ぶほうが適切である。
ただし、バークリーは、強く秩序のある感覚の観念も、やはり観念であることを手放さない。それらは、心自身が形づくる観念と同じくらいまことに、心のうちに存在し、心によって知覚される。感覚の観念が、心の被造物よりも多くの実在性をもつとしても、それは、心の外に存在することの論拠にはならない。それらは、より強力な別の精神の意志によって呼び起こされる点で、それらを知覚する精神への依存が小さい、というだけである。
第36節は、要約としてこう述べる。「実在性」という語が意味するのは、それらがより強く心を動かし、より秩序があり、より判明であり、それらを知覚する心の虚構ではないということである。この意味で、昼に私が見る太陽は実在する太陽であり、夜に私が想像する太陽は、その観念である。そしてこの意味において、すべての植物、星、鉱物、宇宙体系の各部分は、他のいかなる原理によるのと同じだけ、バークリーの原理によっても、実在する存在である。
ここまで来ると、一つの問いが残る。観念を呼び起こす精神とは、いったい何なのか。私たちは自分の精神を、どのように知っているのか。バークリーは、第27節で一度触れ、第一部の終わり近くで丁寧に論じ直している。次の記事では、そこを読もう。