事故や病気で手足を失った人が、もう存在しないはずのその手足に、痛みを感じることがあります。「幻肢痛」と呼ばれる、よく知られた現象です。現代では脳神経科学の重要なテーマの一つとして、盛んに研究されています。

驚くことに、デカルトは17世紀の時点で、すでにこの現象に気づき、しかもかなり具体的なメカニズムまで説明しようとしていました。今回は、第六省察の終盤に出てくる、この先駆的な洞察を追ってみます。

感覚は、時々おかしなことを教えてくる

第六省察の後半で、デカルトは「感覚はどこまで信頼できるのか」という問題に取り組んでいます。その中で、感覚が私たちを欺いているように見える例として、二つの事例を並べて挙げています。

一つは、以前の記事でも触れた「遠くから見ると丸く見える塔が、近くで見ると四角く見える」という例。そしてもう一つが、「腕や脚を切断された人が、失った部分にまだ痛みを感じる」という例です。

デカルトはこの二つ目の例から、ある結論を引き出します。痛みを感じたからといって、その部分に本当に何か問題があるとは限らない、と。これは単なる観察の記録ではなく、感覚の仕組みそのものを問い直すための、重要な手がかりとして扱われています。

痛みは、足ではなく脳で「感じられる」

この謎を解くために、デカルトは、痛みという感覚がどうやって生じるのかを、当時の生理学の知識に基づいて説明していきます。

足の痛みを感じるとき、足から脳まで伸びている神経が、その感覚を伝えている。神経は、足の側で引っ張られると、脳の内部まで、その動きを伝える。そして脳の中でその運動が起きると、心はそこで初めて「痛み」という感覚を持つように、あらかじめ定められている――これがデカルトの説明です。

ここで重要なのは、痛みそのものは、足で「感じられている」のではなく、脳で「感じられている」ということです。足は、その感覚を引き起こすきっかけの場所にすぎません。痛みという主観的な経験が実際に生じる場所は、脳の中なのです。

綱を引く比喩

この仕組みを、デカルトは分かりやすい比喩で説明しています。A・B・C・Dという四つの部分からなる、一本の綱を思い浮かべてください。

一番端のDを引くと、反対側の端にあるAが動きます。ところが、Dを引かなくても、途中にあるBやCを引いても、Aは同じように動くのです。綱がぴんと張っていれば、どこを引いても、その動きは全体に伝わります。

神経も、これと同じ構造を持っている、とデカルトは言います。足の先から脳まで、一本の道のようにつながっている神経は、途中のどこかが刺激されても、脳まで同じ信号を伝えてしまいます。神経の終着点である脳の側は、「その信号がどこから来たか」を、律儀に足の先まで遡って確認しているわけではありません。「この経路の信号が来た以上、足が痛いのだろう」と、いわば機械的に処理しているのです。

だから、失われた足でも「痛い」と感じる

ここまで理解すると、幻肢痛の謎が解けます。

手足を切断された人の場合、神経の末端――本来なら足がある場所――は、もう存在しません。しかし、途中まで残っている神経の経路は、まだ体の中に残っています。その途中の部分が、傷跡の炎症や、何らかの刺激によって動かされると、その信号は、いつもと同じ経路を通って脳まで伝わります。脳は、その信号を受け取ると、いつも通りに「足が痛い」という感覚を作り出してしまう。実際には、足はもうそこにないにもかかわらず、です。

これは、綱の途中(BやC)を引っ張ると、実際には引かれていない反対側の端(A)が動いて見えるのと、まったく同じ構造です。デカルト自身の言葉で言えば、「神経は途中のどこかで引かれることもある。その場合も足に痛みがある場合と同じ運動が脳に伝わり、心は足に痛みを感じる」ということになります。

なぜ、この「誤り」は起きるのか

ここでデカルトは、もう一歩踏み込みます。こうした誤りが起きるのは、感覚の仕組みが欠陥品だからではない、という点です。

心に直接影響を与える脳の部分での運動は、それぞれ、ただ一つの感覚しか生み出しません。神は、その運動が生み出しうる感覚の中から、健康な人の身体を守るために、もっとも役立つものを選んで割り当てている、とデカルトは考えます。足の神経が刺激されたときに「足の痛み」を感じるようにしておけば、たいていの場合、それは実際に足に何か問題が起きているということであり、すぐに対処できる。これは、生き延びるための仕組みとして、非常に理にかなっています。

ただし、この仕組みは「もっとも典型的な場合にもっともうまく機能する」ように設計されているのであって、あらゆる例外的な状況を完璧にカバーできるわけではありません。手足を切断されるというのは、まさにその設計が想定していなかった例外的な状況です。そこで、いつも通りの信号処理が、実情に合わない結果を生んでしまう――これが、デカルトの考える幻肢痛のからくりです。

神経科学が、300年以上かけて追いついてきた話

この説明は、17世紀の知識にしては、驚くほど的を射ています。現代の神経科学でも、幻肢痛の基本的な理解は、デカルトが示した枠組み――失われた手足からの信号ではなく、途中の神経経路や脳内の再構成された神経回路が、痛みの信号を生み出している――から、それほど離れていません。

現代の医学では、この現象に対して、鏡を使って「失われた手足がまだそこにあるかのように」脳を錯覚させる「ミラーセラピー」のような治療法も開発されています。これは、脳が受け取る信号のつじつまを再び合わせてやることで、痛みを和らげようとする発想であり、「痛みは末端ではなく脳の中で作られる」というデカルト的な理解が土台になっていると言えます。

デカルトは、神経の仕組みを顕微鏡で見たわけではありません。あくまで、当時知られていた解剖学的な知識と、論理的な推論だけを頼りに、この結論に至っています。哲学的な考察の中に、ふと現れるこうした先駆的な科学的洞察は、『省察』という書物が、単なる形而上学の書ではなく、当時の自然学の最先端とも密接に結びついた、幅広い知的営みの記録であったことを感じさせてくれます。