自分が完璧ではないことは、誰もが知っています。知らないことは多いし、判断を誤ることもある。当たり前の話です。
しかしデカルトは、第三省察で、この当たり前の事実から出発して、驚くような問いを立てます。「自分が不完全だ」と分かるためには、比較の基準として「完全なもの」を、あらかじめ知っていなければならないのではないか、と。そして、その「完全なもの」の観念は、いったいどこから来たのか――これが、今回見ていく「因果論的証明」と呼ばれる、神の存在証明の出発点です。
前回の証明とは、まったく別のルート
前回の記事で扱った「存在論的証明」は、神という概念の中身を分析するだけで、神の存在を導き出そうとするものでした。今回の因果論的証明は、それとはまったく異なる道筋をたどります。手がかりになるのは、「原因と結果」という、ごく日常的な発想です。
観念にも「実在性」の大小がある
デカルトはまず、少し変わった区別を導入します。観念には二種類の実在性がある、というのです。
一つは「形相的実在性」。これは、その観念が表しているもの自体が、現実にどれだけの実在性を持っているか、という話です。石そのものの実在性、太陽そのものの実在性、というイメージです。
もう一つが「客観的実在性」。これは、観念の中身として表されているものが持つ実在性です。たとえば「石の観念」と「神の観念」を比べたとき、神の観念の方が、より完全なもの、より大きなものを表しているという意味で、より高い客観的実在性を持っている、とデカルトは言います。単純な性質を表す観念より、実体を表す観念の方が実在性が高く、有限な実体より無限な実体を表す観念の方が、さらに高い実在性を持つ。
原因は、結果と同じだけの実在性を持たねばならない
ここでデカルトは、一つの原理を導入します。「原因は、結果と少なくとも同じだけの実在性を持たなければならない」という原理です。
これは、直感的にも納得しやすい原理です。何もないところから何かが生まれることはない。より完全なものが、より不完全なものから生まれることもない。たとえば石は、石になりうる何かを含んだ原因から生まれるのであって、まったく無関係な何かから、いきなり石が生まれたりはしません。
デカルトは、この原理を分かりやすくするために、一つの比喩を使います。職人の心の中に、非常に精巧な機械の観念があるとしましょう。この観念の技術的な中身は、どこかに原因を持たなければなりません。その職人自身の知識か、あるいは、その職人が誰か別の人から学んだ知識です。観念の中身がどれほど精巧であっても、それはどこかから来ているはずで、無から湧いて出るわけではない、ということです。
そして、この原理は、実際に存在する物についてだけでなく、観念の「客観的実在性」についても、同じように当てはまる、とデカルトは主張します。
だから、神の観念の原因は、神自身しかありえない
ここまでの準備を踏まえて、デカルトは核心に迫ります。
私の中には、「神」の観念がある。無限で、独立していて、最高度に知性的で、最高度に力があり、私を含むすべてのものを創造した存在者――そういう観念です。この観念は、これまで見てきたどの観念よりも、圧倒的に高い客観的実在性を持っています。
では、この観念の原因は何でしょうか。私自身であるはずがありません。なぜなら、私は有限で、不完全な存在だからです。「原因は結果と同じだけの実在性を持たねばならない」という原理に従えば、無限の客観的実在性を持つ観念は、無限の実在性を実際に持つ何かからしか、生まれえません。有限な私が、その原因にはなれない。
したがって、私の外に、無限の実在性を実際に持つ何か――つまり神――が存在していなければならない。これが、因果論的証明の骨格です。
「私はどこから来たのか」という、もう一つの問い
デカルトはさらに、念には念を入れて、別の角度からも同じ結論を確かめようとします。「私はどこから来たのか」という問いです。
私自身から来たのだろうか。もしそうなら、と、デカルトは言います。もし私が、自分自身を作り出すほどの力を持っていたなら、疑いも、欠けているものも、何一つない、完全な存在として、自分を作っていたはずだ、と。神に帰属するすべての完全性を、自分自身にも与えていただろう、と。しかし実際には、私には疑いがあり、欠けているものがある。ということは、私は自分自身の原因ではありえません。
では両親だろうか。しかし両親は、単に、心が宿るとデカルトが考えていたある種の物質的な配置を用意しただけであって、「考えるものとしての私」そのものを作り出したわけではありません。
こうして、可能性を一つずつ消していくと、残る答えは一つしかありません。神です。
職人が作品に刻む印のように
では、その神の観念は、どうやって私の中に入ってきたのでしょうか。デカルトの答えは、それが感覚から得られたものでも、私が自分で作り出したものでもなく、「生まれつき備わっているもの」だということです。
デカルトはここで、印象的な比喩を使います。神が私を創るとき、ちょうど職人が自分の作品に、自分の刻印を押すように、神の観念を私の中に植えつけた、というのです。私が神に似せて作られている以上、その類似性の中に、神の観念が含まれているのは、不思議なことではない、と。
因果関係という土台そのものへの疑問
さて、この因果論的証明は、当時の哲学の中では非常に説得力のあるものとして受け止められました。しかし後の時代、この証明が拠って立つ土台そのものが、根本から揺さぶられることになります。
18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームは、そもそも「原因が結果を生む」という因果関係そのものが、私たちが繰り返し経験することで身についた、単なる心の習慣にすぎないのではないか、と問いました。もしヒュームが正しいなら、「原因は結果と同じだけの実在性を持たねばならない」というデカルトの前提そのものが、確固たる論理的真理というより、私たちの思考の癖にすぎない、ということになってしまいます。
前回見た存在論的証明がカントによって、そして今回の因果論的証明がヒュームによって、それぞれ別の角度から根本的な疑問を突きつけられた――このことは、デカルトが神の存在を証明しようとして繰り出した二つの異なる論法が、それぞれ独立に、後の哲学における重要な問いの出発点になったことを示しています。一つの結論に、複数の道筋からたどり着こうとしたデカルトの慎重さが、皮肉にも、複数の弱点を露わにする結果になった、とも言えるかもしれません。