三角形の内角の和は180度である。これは、三角形というものの定義そのものに含まれている性質です。「内角の和が180度でない三角形」を考えることは、矛盾しています。
デカルトは第五省察で、これとまったく同じ論法を使って、神の存在を証明しようとします。「存在しない神」を考えることは、「内角の和が180度でない三角形」を考えることと同じくらい矛盾している、と言うのです。今日は、この「存在論的証明」と呼ばれる、哲学史上もっとも有名な議論の一つを追ってみます。
神の本性には、存在が含まれている
デカルトの論法は、次のようなものです。
神とは何か。デカルトはこれを、「最高に完全な存在者」と定義します。あらゆる完全性を、余すところなく備えている存在。
ここで一つ、前提を置きます。「存在すること」もまた、一つの完全性である、と。存在するものは、存在しないものより、完全である。この前提を認めるなら、話は簡単です。神は「あらゆる完全性を備えた存在者」なのだから、神の本性には、当然「存在」という完全性も含まれているはずです。
三角形の本性に、内角の和が180度であるという性質が含まれているのとまったく同じように、神の本性には、存在するという性質が含まれている。したがって、神は存在する――これが、存在論的証明と呼ばれる論法の骨格です。
デカルト自身が予想した反論
デカルトは、この議論に対して、すぐに反論が来るだろうと予想していました。実際、この反論は今でもよく聞かれるものです。
「神を存在するものとして考えるからといって、実際に神が存在することにはならないのではないか。翼をもつ馬を想像することはできるが、だからといって実際の馬に翼が生えるわけではない」
これは、もっともな指摘です。頭の中で何かを「存在する」と考えることと、それが実際に存在することは、まったく別の話のはずです。
デカルトの反論への応答
これに対してデカルトは、少し込み入った反論を返します。鍵になるのは、「山」と「谷」の関係です。
私は、谷のない山を考えることができません。しかしそれは、どこかに実際に山と谷が存在することを意味しません。山と谷は、存在するにせよしないにせよ、互いに切り離せない、というだけの話です。ここまでは、翼をもつ馬の反論と同じ結論に思えます。
しかし、とデカルトは言います。神の場合だけは事情が違う、と。山と谷は、単に「一方を考えれば他方も考えざるをえない」という相互依存の関係にすぎません。ところが神については、私は神を「存在するものとしてしか」考えられません。だからこそ、山と谷の場合とは違って、神については、存在が神から切り離せないこと、つまり神が実際に存在することまでが帰結する、というのです。
デカルトはさらに、別の例でこの違いを補強します。すべての四角形が円に内接すると考えることは、決して必然的ではありません。しかし、いったんそう考えたと仮定すれば、ひし形も円に内接すると認めざるをえなくなります。ところが、これは明らかに偽です。つまり、ある物事について何かを考えたとき、そこから必然的に導かれることと、そうでないことがある、というわけです。
三角形の場合は、これとは逆になります。三角形を思い描くこと自体は必然的ではありませんが、いったん「三つの角しかもたない図形」として三角形を考えようとするなら、その三つの角の和が二直角より大きくないという性質を、必ず帰属させなければなりません。神についても同じです。「最高に完全な存在者」として神を考えようとする以上、そこにあらゆる完全性――存在も含めて――を帰属させることは必然的だ、とデカルトは主張するのです。
カントによる、決定的な一撃
この議論は、その後の哲学者たちを大いに悩ませ続けました。そして18世紀、イマヌエル・カントが、この議論に対する、もっとも有名な批判を放ちます。
カントの批判は、一言で言うと「存在は述語ではない」というものです。
これは、少し分かりにくい言い方かもしれません。噛み砕くと、こういうことです。「この犬は茶色い」と言うとき、「茶色い」は犬という主語に、新しい性質(述語)を付け加えています。犬という概念に、「茶色」という情報が追加されているわけです。
しかし、「この犬は存在する」と言うとき、何が起きているでしょうか。カントによれば、ここでは犬という概念に、何も新しい情報は付け加えられていません。「存在する犬」という概念は、「犬」という概念そのものと、内容としてはまったく同じです。ただ、その概念が、頭の中だけでなく、現実の世界にも当てはまるかどうかを述べているにすぎない。つまり「存在」は、他の性質(茶色い、大きい、賢いなど)と同じ種類の「述語」ではなく、まったく別の種類の言明だ、というのがカントの主張です。
この区別に立つと、デカルトの議論は成り立たなくなります。「神」という概念の中身をどれだけ丹念に調べても――そこに「完全性」やら何やらをどれだけ詰め込んでも――その概念が実際に現実の世界に当てはまるかどうかは、別問題として、外から確かめるしかない。概念の分析だけから、存在を取り出すことはできない、というわけです。
三角形についても、同じことが言えます。「内角の和が180度である三角形」が存在すると言えるのは、あくまで「もし三角形というものが存在するなら」という条件つきの話であって、三角形の定義そのものから、現実にそのようなものが存在することまでは、導けません。カントは、この構造をデカルトよりも厳密に取り出して見せた、ということになります。
それでも、この議論には意味があった
では、この存在論的証明は、単なる失敗した議論だったのでしょうか。哲学史を振り返ると、必ずしもそうとは言えません。
証明として成功しているかどうかとは別に、この議論は「存在するとはどういうことか」「概念の中身と、現実に何かがあることは、どう違うのか」という、それ自体としてきわめて重要な問いを、後の哲学者たちに正面から突きつけました。カントが「存在は述語ではない」という洞察にたどり着いたのも、デカルトのこの議論と徹底的に向き合ったからこそです。
実は、この論法自体はデカルトの独創ではありません。11世紀の神学者アンセルムスが、すでによく似た議論を提示していました。デカルトの証明は、それを引き継ぎながら、独自の形に組み替えたものです。哲学史では、証明の正しさそのものよりも、こうして議論が受け継がれ、磨かれ、批判され、また新しい形で問われ直していくこと自体に、大きな意味があります。
一つの短い論証――三角形の内角の和という、誰もが知っている図形の性質を手がかりにした、わずか数段落の議論――が、17世紀から18世紀にかけて、哲学の中心的な問いの一つを形作っていった。そう考えると、この短い一節の重みが、また違って見えてくるのではないでしょうか。