『省察』の中でも、とりわけ印象に残る場面を挙げるとすれば、多くの人が「悪しき霊(genius malignus)」の一節を選ぶのではないかと思います。全知全能で、狡猾で、私を欺くことだけを目的にした霊。空も大地も、色も形も、自分の身体さえも、その霊が見せている幻影かもしれない――。
この一節、実はよく読むと不思議な点があります。デカルトは直前まで「神が私を欺いているとしたら」という仮定を検討していたのに、なぜかここで唐突に、神ではなく「悪しき霊」という、聞き慣れない存在に話をすり替えているのです。今日は、この「すり替え」がなぜ必要だったのかを追ってみます。
疑いの旅は、すでにここまで来ていた
前回までに見てきた通り、デカルトの懐疑はすでにかなりのところまで進んでいます。感覚は時々私たちを欺くから疑わしい。目覚めと夢を確実に区別する方法がないから、今この瞬間が夢でないとも言い切れない。ここまでで、外の世界についての知識は、ほぼ疑いの対象になりました。
ただ一つ、最後の砦のように残っていたのが、算数や幾何学でした。夢を見ていようと目覚めていようと、二たす三は五であることに変わりはない。これだけは疑いようがないように見えます。
神による欺き、という仮定
ここでデカルトは、思い切った一歩を踏み出します。もし全知全能の神が実在するとして、その神が「二たす三は五でないのに、五だと私に思い込ませている」としたら、どうなるだろうか、と。
神ほどの力があれば、そんなことも可能なのではないか。これは、信仰への攻撃ではありません。あくまで「そういう可能性も、論理的には排除できない」という、思考を徹底させるための仮定です。デカルト自身、神を信じない立場を取ったとしても結論は変わらないとまで言っています。むしろ神という完全な存在がいないなら、自分がこれほど間違えやすい、不完全な存在として生まれた可能性は、むしろ高くなるだろう、と。
しかし、ここでデカルトは踏みとどまる
さて、ここが今日の本題です。この「神による欺き」という仮定を、デカルトはそのまま押し進めることをしません。代わりに、まったく別の存在を持ち出します。
最高善の源である神の代わりに、同じくらい力強く、狡猾な「悪しき霊」が、あらゆる手を尽くして私を欺こうとしてきた、と仮定しよう――。
なぜ、わざわざ言い換える必要があったのでしょうか。理由は、17世紀ヨーロッパという時代背景にあります。「神が人を欺く」という想定を、たとえ思考実験としてであっても正面から立てることは、信仰にとって非常に危うい、下手をすれば異端の疑いをかけられかねない主張でした。神の完全性(欺かないという善性)を疑うこと自体が、当時の知的環境では大きなリスクだったのです。
そこでデカルトは、神という位格そのものには手をつけず、「悪しき霊」という、神とは別の、いわば仮想の存在を新たに立てることで、同じ思考実験を、信仰上のリスクを回避しながら続けられるようにしました。これは単なる言葉のすり替えではなく、極めて慎重な、知的な戦略だったと言えます。
どこまで疑うか――その徹底ぶり
「悪しき霊」を仮定した後、デカルトの疑いはさらに徹底していきます。
天も、空気も、大地も、色も、形も、音も、その他すべての外的なものは、この霊が仕掛けた夢の幻影にすぎないかもしれない。自分自身についても、手をもたず、目をもたず、肉をもたず、血をもたず、いかなる感覚ももたないのに、これらすべてをもっていると偽って思い込まされているだけかもしれない――。
ここまで来ると、疑いの範囲は、外の世界だけでなく、自分自身の身体にまで及びます。手も目も、血肉さえも、確実なものとしては残っていません。デカルトは、この極端な仮定に「頑固に留まり続けよう」と、意図的に自分自身に言い聞かせています。
ここまで徹底した懐疑を、デカルト自身がどう書いているのか気になった方へ。
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というのも、こうした習慣的な思い込みは、放っておくとすぐに舞い戻ってきてしまうからです。デカルト自身、この後の省察の中で、「長年の意見の習慣を速やかに捨てることはできない」と正直に認めています。だからこそ、これほど極端な仮定を、意識して、繰り返し自分に課す必要があったのです。
この装置は、信じるためのものではない
ここで一つ、誤解しやすい点を確認しておきます。「悪しき霊」の仮定は、デカルトが本気でそう信じていた、という話ではありません。
たとえ何か真実を認識することが自分の力の及ばないことだとしても、少なくとも「偽のものに同意しない」ということだけは自分の力の及ぶことだ、とデカルトは言います。この一節から分かるのは、悪しき霊という仮定が、あくまで思考の「装置」――もしこの極端な状況を想定しても、なお疑えないものが一つでもあるかを確かめるための道具――として導入されている、ということです。信じるためではなく、疑いの限界を試すために使われているのです。
そして、この装置が実際に効果を発揮する場面が、次に訪れます。悪しき霊がどれほど巧妙に私を欺こうとしていたとしても、欺かれている「私」自身がそこに存在していなければ、そもそも欺くことができない――ここから、あの有名な一言、「我思う、ゆえに我あり」が導かれることになります(詳しくは1本目の記事で扱いました)。
400年後も、姿を変えて生き続ける仮定
「悪しき霊」という思考実験は、17世紀の遺物ではありません。むしろ、驚くほど現代的な形で生き続けています。
現代の哲学では、「水槽の中の脳」という思考実験がよく知られています。もし自分の脳が、実は水槽の中に取り出され、コンピュータに繋がれて、現実そっくりの電気信号を送り込まれているだけだとしたら、今見ている世界が本物かどうか、どうやって確かめられるだろうか、という問いです。これは、悪しき霊を「万能のコンピュータ」に置き換えただけの、構造的にはまったく同じ思考実験です。
また、私たちが生きているこの世界そのものが、実は高度な文明によるコンピュータ・シミュレーションなのではないか、という「シミュレーション仮説」も、近年、物理学者や哲学者の間で真剣に議論されるようになっています。全知の存在が、私たちの経験のすべてを作り出しているかもしれない――これはまさに、デカルトが「悪しき霊」という装置で問おうとしたことと、同じ種類の問いです。
17世紀の一人の哲学者が、信仰への配慮から慎重に言葉を選びながら組み立てた思考実験が、400年の時を超えて、コンピュータとシミュレーションという、まったく違う語彙で語り直されている。これは、デカルトの問いがいかに根源的だったかを物語っていると思います。